注意

代々木上原駅で青いワンピース風の制服を着た小学生
たぶん低学年と思われる女の子が4人乗り込んできて
それはそれは騒がしかった。
悪ふざけをしている風の口調が勘にさわり、
周りの乗客たちもイライラとし始める。

そして、歌いだした。

私の降りる駅まであと一駅だ。

注意をすることにした。
悪態をつかれたら嫌だなあと思いながら、注意をした。

そして、やってくる静寂。
気まずい間。

早く駅に着けーと思っていたら、
ちょっとして女の子がこっちにやってきた。

悪態だ!
と思って身構えると、次々と「ごめんなさい」と言い始めた。
驚いた。
そういう素直さは持っているのね。

外で注意をするって初めてだよー。
そんなキャラじゃないでしょ、自分は。

はぁ、ドキドキした。

今日は夜から勉強会。
作ったばかりの名刺を配るぞー。
2010年06月16日(水)

天命反転の地へ

養老天命反転地に行ってきました。
http://www.yoro-park.com/j/rev/

養老天命反転地は、先日亡くなった美術家の荒川修作と、
そのパートナーで詩人のマドリン・ギンズのプロジェクトを実現したテーマパーク。

どこにあるのかって言うと、岐阜です、岐阜。
東京から遠いです。行きにくいです。
でも、空さんが車でぶっ飛ばしてくれました。

かなり褪せているし、朽ち果ててる感が醸し出されているのだが、
たぶん、その本質はしっかり生きていて、
養老天命反転地のいかれた世界がわくわくさせてくれるし、
大人が子どもみたいな気持ちで風景に接することができる場所だと思った。
なかなかないよ、そんなところ。

未知の世界の中で、見知らぬ者同士が思わず話をしてしまうという
日頃なかなかないことが起きているのも面白い。
関西のおばちゃんがわけのわからなさに文句を言っていて
たぶん、そこが面白いのになあなどと近くで思ったりした。

そのおばちゃんとは対照的に、わくわくを楽しむ父、母、男児の一家がいて、
わけのわからなさを楽しめるその家族は素敵だった。

地下道がある、と言って探し回る。
そんな私たちに先の一家の父さんが、あったよ、と教えてくれた。

地下道の先の反転した日本地図。
おお、感動。

あとは、もう少し晴れていればなあ。
また行きたいけれど、遠いからしばらく無理だろうな。
いつか行く時まで、つぶれないで存在しているといいな。
2010年06月15日(火)

重みある身体

疲れが、単なるもしかしたら怠け心かもしれないけれど、
とりあえず疲れと称しておくべき何かが体の中に蓄積されていて、
寝ても食べても飲んでもぼんやりしても日に日に重々しくなっている。
重石のある身体は生きているという感じがするが
私はできるだけシンプルに軽く生きていたいのである。

母に家で酒は飲むのか、と問われ、
飲まない、と嘘をついた。

実家ではほとんど飲んでいないのに、飲みたい素振りも見せていないのに
私のどこからアルコールを感じ取ったのかと思えば、
母は、実家に帰った時は一人でビールを飲むのだ、と言う。
普段、アルコールを摂取しない彼女は、
決して実家ではないホームという終の住処にいる実母を見舞うと、
空っぽになった実家でビールを飲むのだ、と言う。
そこにあるのは悲しみなのか疲れなのか怒りなのか。
底知れぬ感情と折り合いをつけるために彼女はアルコールを摂取するのだろうか。

私はといえば、家で飲む、のである。

怒りも悲しみも寂しさも混乱も不安も全てをなくしたいと願って飲む。
けれども、しかしながらも、
一瞬底に沈んでいく感情たちは明日には浮かび上がってくる。

感性は理性ではおさえきれない。
感性が理性を上回る。

たぶん、いや絶対か、
私は社会に適合できない人間なのだ。
わずかばかりの理性が普通たらんと活動するばかりに
どっちつかずの状態、そして今。

際にある。
どちらかに場所を定めれば楽になるのだろうか。
それは二項対立の中にしかないものなのか。
正気と狂気、安心と不安、感性と理性、幸福と不幸。
人間はそう簡単に割り切れやしない。

三十までにどうにもならなければ死ぬ。

その決意とともに、
私は毎日死に近づいている。
その決意がなくとも、
人は毎日死に近づいていく。
2010年06月10日(木)

おちる

ある春の日、真山くんは「人が恋におちる瞬間」を目撃する。
そういうハッとする瞬間に私は立ち会ったことはないけれど、
今日、人が恋におちられる瞬間に出会ってしまった。

私の知らない向こう側ではドキドキしているんだろうな、
今の本人にとっては一世一代の大勝負なんだろうなと思うと
関係ない私もその先行きが気になってしまう。

恋っていいね。
私もおちられてみたい。


夕方まで降下気味の気分だったのだけど、人と会って気分を持ち直した。
自分が単純構造で助かる。
2010年05月30日(日)

iPadに思うこと

世間のiPadへのはしゃぎぶりにうまく乗れないのはなんでだろう。
新聞を読んだりやツイッターをしたりしながら、
騒動に乗れないどころか苛立ちを感じる自分がいることに気が付いた。

これは、iPadで何かが変わるという楽観的かつ無責任な風潮のせいだと思う。
確かに、何か変わるかもしれない。
たぶん、変わっていくだろうと思う。

でも、今はまだ何も変わっていないし、
iPadを持つだけで変わるわけではない。

朝日新聞(2010年5月29日朝刊38面)を読みながら、その思いを強くした。
営業や授業でiPadを用いても機械のインパクトにもたれかかっているだけで
iPadによって何ができるか、新しくできるのかを考えていないように思えた。

アップル様はすごい!と崇めるだけでなく、
それをどう活用していくのかが大事なんじゃないだろうか。

ところで、今の私に関係するのは電子書籍の話題。
大手出版社が挙って動き出していて気持ち悪い。
過去には国産のシグマブックやリブリエがありながら結局ダメになっていて
あの時どうしようもできなかったのに、今さらというのが苛立つ。
ようやく機が熟したという考えもあるだろうが、
できるはずだったことをしてこなかった出版界の動き方は面白くない。

電子書籍化する世界において図書館が何をするか。

本を所蔵し、貸出を行うという自明かつ既存のスタイルは無くなっていく可能性がある。
先のことはわからないけど、今のままのスタイルを図書館が同規模でいつまでも
続けていくことができるかは難しそうな気がするし、
現状が破綻する前に次のステップを考えておく必要がある。
これは図書館員が積極的に考えていかなければならない問題。

今だって、コンピュータの発達により既存のスタイルは脅かされている。
利用者は自宅から欲しい本を探すことができるし、
貸出だって自動貸出機でできる時代なのだ。

現在、そして、未来における図書館員の役割とは何か。

今は、(できているとは思えない節もあるが)人と情報の結節点として作用する。
これはもっとやっていきたい部分。
でも、もっと先。
日々生み出され過多とも言える情報をアーカイブする必要性は増すように思える。
その部分に図書館員の可能性があるのだろうか。
(図書から情報の専門家へ →文化のゼネラリストみたいな?)

メディアが多種変革する時代に生きて、
その変化が怖いけど、同時に面白いような気もしている。
2010年05月29日(土)

そらいろのねこ / コギト