夜のピクニック

少し前に『夜のピクニック』を読んだ。
せっかくなので映画も観た。

この作品の根幹をなすテーマは「友情と秘密」であろう。
恋愛というのは一見すると主題のように思えようが、
実は友情を再確認するための一手段でしかない。
言い換えれば、恋愛と言う手段を用いて秘密を共有し、
その結果として友情をさらに強固なものにしたいととれるからだ。
だから、この物語は女同士、男同士の絆を再確認するものとも言える。

さて、二つの『夜のピクニック』を読んだ/観た結果、
感じたことは、小説と映像の物語の進行速度の違いである。
この物語の舞台は「歩行祭」というイベントで、
登場人物は基本的には淡々と歩いているだけである。
だから、読者の楽しみは個々人の行動ではなく、
ひとりひとりの思いを感じ取り、ひとつの物語を紡ぐことにある。
つまり、この物語の見せ場は具体的な「場所」ではなく「思考」にある。
それゆえ、映像化した時の見せ場は難しい。
なぜなら、小説と同じように見せ場を「思考」をにすると、
それはモノローグにしかならず(たぶん)面白味に欠けるだろう。
映画において淡々を薄れさせるために用いられるのは音楽だ。
音楽によって、かなり多くの部分を装飾している。
それは良さでもあると同時に、バタ臭さともなる。

小説においては、メロドラマに収斂されることを拒むように思えるが、
映画においては、逆に到達点を青春にもってきているようだった。
この点に青春映画にしたいという作り手の意思を感じ、
結果としてステレオタイプな青春映画になってしまった感じがする。

ところで、「賭け」のあとにもうひとつあるもの。
これが映画では削られていたのはどういうことなのだろう。
家に行く・来るという行為がきわめて現実的で
ラストに持ってきにくかったのだろうか。
気になるところである。

最後に…、キャストはみんな私好みでした。
男の子は格好良いし、女の子はかわいい。
想定される観客対象は登場人物と同世代でしょう。
(私はその対象から微妙に外れている)
音楽の使い方がねえ。
あと、アフォリズム的に挿入される台詞も苦手。

昔観た『ラヴァーズ・キス』という映画と手口が似ている。
その手口とは、音楽とアフォリズム的台詞で雰囲気を作るということ。
イメージをいかに喚起させるかということかな。
そういうのは好きなんだけれど、あまりにもベタ。

以前に舞台『猫と針』を観た時にも思ったのだが、
恩田陸の言葉力がとても強くて、人間がかすんでしまう。
これはまあどういうことかと言えば、俳優頑張れということ。

以上、私的週末のDVDの感想でしたー。
2009年04月19日(日)


晩御飯のことを考えることが楽しいのだけれど
その実、とても面倒にも思えて
時には空腹などなくなってしまえばいいのにと思ったりする。
そういえば、魚を食べていないことに気がついて
今日の夜は刺身を買って食べてみた。
魚が好きじゃないから積極的には食べたくないんだよね。
ただ、栄養のこともそろそろ考えたいのでどうにかしなきゃ。

イライラの原因がよくわからない。
春から置かれた状況に不服なんだろうか。
一人であることを持て余しているのだろうか。
それは、単なるわがままだ。

同年代の人と話すことが極めて少ない。
親ほどの年齢である同僚と日がな過ごすことは
やはりどこかしら「歪み」があるような気がしてならない。
仕事の上では平等、と言う人もいるけれど
こちらからしてみればやはり建前にしか過ぎず、
私にとってはやはり面倒な立場に置かれていると言えよう。
このアンバランスな年齢構成の中で働いていることが
将来に変な影響を及ぼすことが無いか非常に不安である。

2009年04月16日(木)

確定申告…(いまさら)

実は確定申告をしなければならなかったことを
その時期をはるかに過ぎて知らされたので
休みを利用して税務署に行ってきた。
うちの職場は年末調整をしてくれていないらしいのだ。
まあ、控除の関係もあったから、結局は良い結果。
税務署の人も流れ作業的ではあったけれど優しかったし、
初めてのことで楽しかったというのもちょっとある。

昨日の雨が嘘みたいに晴れ上がっていた、今日。
自転車に乗って遠出をしたかったな。
(夕方から学校だったので断念した)

税務署ついてでに二つ向こうの駅で有名なパン屋に行ってみた。
ガラスケースに並んでいて店員さんが取ってくれるの。
セルフじゃないのって久しぶりかも。
かといって、おしゃれぶって小ぶりなわけでもなく
しっかりとした存在感を持つパンばかり。
歯ざわりもよくて大好きな感じだった。
今度また行くつもり。

今日は指導教授の授業。
単位は取りきっているから別に出る必要ないんだけどね。
発表が入ってしまうから自分で自分の首をしめるようなもの。
それくらいのプレッシャがないとダメかと思って。
今年で学校は出るつもりだし。
2009年04月15日(水)


唐突に雨。
最近はからりと晴れが続いていただけに
突然の雨降りに少し驚いてしまう。
雨のせいか少し寒くなった。

東京は四月になってから急激に暖かくなって
まるで初夏のような陽気さだったので
ようやく送られてきたカーボンヒーターを使う機会がなく
なんとも悔しい思いをしてきたわけだが
もしかすると今晩は使えるのかもしれない。

仕事は落ち着いてはいないものの
否応無く12時間労働になることは少なくなった。
ただ、日々の中でフェアじゃないと思うのは
なぜ私だけ前任者不在で新しい仕事に就くのかということ。
引継ぎもほとんどなしだ(マニュアルが師匠)。
あと、中間だということ。
これは自分が中間管理職的ポジションにありながら
管理職ではないので単なる中間だという意。
これ、ものすっごい気疲れするんですけどー。

行きの憂鬱さ、帰りのくたくたさ。

誰かと会いたいと思っても
急な誘いに応じてくれる人もおらず
こういう時に人望と運の無さを思い知らされる。

それにしても、頭が随分とおかしくなってきた。
思考は自分自身を追い詰める方へと働き
強気と弱気のせめぎあい。
心の中に天使と悪魔がいるというのはよく言われるが
まあ、天使ほどでないにしても、私の中にも
やさしい自分ときつい自分がいるが
その二つが同時に表出しているようなおかしな気分。
まさに、混沌、である。

通勤経路の約半分は徒歩なのだが、
雑踏の中を歩いていると色々なことを考える。
昨日の朝、考えたことは学ぶことについてである。
勉強などしなくていい、と親に言われながらも
進学してしまった私だが、なんのために勉強するかとなると
自身を持っていうことができない。
社会に対して生産性を持った学問でないということが
その「うしろめたさ」の主な理由であろう。

朝、ラジオで福岡伸一が出ていて
アメリカでは研究とはすなわちビジネスであると言っていた。
生産性が重要なのである。
確かに、福岡氏のような理系の学問は生産性がわかりやすい。
しかし、文系の学問において生産性はいかなるところに現れるのか。
源氏物語を深く読み解いたところで何が生まれるのか。

心が豊かになる、といったような理由では
社会の求める生産性に値しないだろう。
現に、法学部出身のサークルの先輩は悪気なく
「文学を勉強してどうするんだ?」と言っていた。

そして、今日考え付いた結論は、学ぶことによって
自分自身を発見することができるということだ。
このことをもう少し遠ざかって考えて見ると、
文系学問は、自分を知ること、言い換えれば
人間を知ること、を目的としているのかもしれない。
ただ、即効性がないだけに、生産性に乏しいと思われざるをえない。
難しいと思う。

眠くなってきた。

誰かにそばにいてほしいような気がする。
でも、誰とも話したくないような気もする。
どうしたいのか自分でもわからなくて困っている。
とりあえず、気分は良好ではない。

明日は休み。
学校に行くつもりだ。
2009年04月14日(火)

最近読んだもの

『アンチ・オイディプス』(ドゥルーズ)
『身体なき器官』(ジジュク)
『大衆の反逆』(オルテガ・イ・ガゼット)
よしもとばななの全集、平田オリザの本などを読んだ。

よしもとばななの小説は今の私には甘ったるい。
最初はおいしいけれど、そのうちに嫌になるまるで砂糖菓子みたいだ。

平田オリザは戯曲というよりも彼自身の理論を中心に読んだ。
「静かな演劇」とは何か。
好き嫌いはさておき、(どちらかといえば好きだけど)
これを無視して演劇を語ることはやはりできないだろう。

極めて暴力的に単純化してまとめてしまうと、
新劇、アングラ演劇、静かな演劇ときて現在は何なのか。
なんとなく「セカイ」ではまとめてしまいたくない。
この答えが論文になるといいんだけど…。

いわゆる名著と呼ばれるものを読んでいる。
哲学はよくわからないけど、わからないからといって
読まないよりはそれなりに挑戦はしておこうと思う。
無知は怖い。

金曜から学校の授業が始まっている。
授業は2つ。
他にドイツ語を取るかどうか悩んでいる。
2009年04月13日(月)

そらいろのねこ / コギト