魔窟へ買い物

中野のタコシェに買い物に行く。
ここは、私はよく知らないのだが、サブカルでは
けっこうに有名なお店らしい。
たしかに、中野の魔窟に長いこと店を構えているのだから
そういうところはあるのかもしれない。
サブカルな古本、同人誌、CDなどといった品々が
決して広くはないお店の中で詰まっている楽しいところだ。
お目当ての品を買うことができて満足。
この筆者にいいかげんに献本しなくてはと思う。

そう、先月出版された本。
都内でネットで確認できる限りでは唯一置いていた
ジュンク堂の在庫(一冊)がお買い上げされた様子。
というわけで、在庫がなくなった。
紀伊国屋書店の店頭にはたぶん置いていない。
全国の大学図書館では五ヶ所で所蔵。
(webcat plusで検索した結果)
これは先生のお力によって今後もう少し増えるのではないだろうか。
都内の公共図書館ではまさかの一館所蔵。
どうやら意外と人目に触れるところにあるらしい。
2008年12月02日(火)

片付け

レジュメが一応の形を見せたので部屋の片付けを開始。
文章を書いていると、あっちこっちに文献を散らすのは悪い癖である。
しかも、普段使いのパソコンが家族共用のものでリビングにあるから
そのせいで文献は私の部屋だけでなく家中に広がるからタチが悪い。
岩野抱鳴やら坪内逍遥やら島村抱月やらの全集たちの分厚さに
母さまも「邪魔だわー」とどうやら嫌気がさしている様子。
そんな母さまも昨日から長靴の国(大阪ではない)に旅立ったので
片づけを始めてから家の中は随分とすっきりしてきている。
私の気分もすっきりというのは本音である。

部屋の片付けがてら捨てる本再読をしている。
これは真面目にやりだすと時間がかかってしまうので
文章をさらう程度にしているけれど北村薫『スキップ』は
ついつい読み込んでしまい、最終的には捨てないことにした。
『枯木灘』は名作と言われるけれど処分決定。
学部一年の時に読んだけれど好みじゃないんだな。
あと、マルクスとデューイも読むつもり。
これは見た目がひどく痛んでいるからたぶん捨てる。

そうだ、物を捨てようと思って片付けに挑んだら
本、CD、レジュメ類、日用品しかなく
これ以上どうにもできないことに気がついた。
要するに、部屋が汚いのは物が多いからではなく、
単に整理整頓ができていないということらしい。
2008年11月16日(日)

寒い

急激な冷えがやってきている。
秋になっても暑かったのが嘘のように
東京の冷え込みは激しい。
どうしようもなくなって、コート解禁。
自分にしては早めの冬服である。
まあ、ここから服に動きがないのが持ち味だけども。
寒さに耐えたいなあ。
2008年11月11日(火)

泥沼へようこそ

論文を書いている。
いや、論文というのはおこがましいか。
文章を書いている。

つい最近になって問題意識を持ち始めた分野ゆえ
いかんせん手探り状態が続いている。
そして、文献を漁っていくのに伴って気づいたのは
結局は坪内逍遥とか岩野抱明とか島村抱月とか、
ずぶずぶの明治文学が研究の主となる予感。
文学泥沼のような気がする。
手を引くなら今のうちだとは思うのだが
もう面白味を感じてしまっているのできっと引き返せない。

修士論文はこれになるんだろうと思いつつ、
いやはや、いつ現代に戻れるだろうか。

現実的なひきこもりなので休みの日は家にいる。

現実的なひきこもりとは何かといえば、
生活の糧を得るために渋々外に出ていくが
本当は家の中にいたいということ。
「それはひきこもりじゃない!」というのは承知のうえ。

というわけで、今日は一歩たりとも外に出なかった。
こういう日もたまには必要だ。
2008年11月10日(月)

責任のこと

カップヌードルのCMを見るたびに
こんなことまで言わなくてはいけない時代なのか、と
なんとなく不安になってしまう。

―不安―
この言葉が自分の気持ちを表すのに本当に適しているかは
わからないがなんとなく気持ち悪い気がするのは確かだ。

起こりうる可能性を前もって提示しておかなければ
全ての責任を負わなければならない。
それは今は企業中心に為されていることだが
そんなものは個人にもたぶん適用されるようになるだろう。

責任を押し付け合い、被害者になりたがる時代。

そうしていれば楽だからね。
きっと気持ちよく生きていられるからね。

でも、それは能動的なようで極めて受動的な状態。

自分の意志で生きようとするには
(自分で何かを生み出そうとするには)
何らかの責任を引き受ける必要があって
そうしたことなしに生きていけないのではないだろうか。

責任のバトンリレーは怖い。
2008年11月09日(日)

そらいろのねこ / コギト