| 大隈さんに行ったこと、「春琴」を観たこと |
早稲田大学に行ってきました。 いつもは東西線の早稲田駅から向かうのですが (いつもと言っても片手で数えるほどしか行ったことない) 今日に限って列車が事故で止まっていたので 致し方なく高田馬場駅から行くことにしました。
初の試み。 道なりにまっすぐに行けば着くということは知っていた。 なんとかなるだろう。 よし! と思ったがやはりわからない。 駅前の宝くじ売り場のおじさんに道を聞いてみた。 少し恥ずかしい。
「大隈さんならこの道をまっすぐ。30分くらいだよ」
30分!? そんなに遠いとは知らなかった。 昨日見た地図には20分と書いてあったのに。
いずれにしても駅から遠いことは確かだ。 しかし、すでにして約束の時間に遅刻しそうな私は 今思えば頭がすっかりおかしくなっていた。 冷静な判断能力を失っていた。 駅前から早稲田正門行きのバスに乗ればいいものを なぜだか、歩く、という暴挙に出てしまったのだ。
もちろん、遅刻した。
ゆとりある行動だったはずなのに 突然の事故で何もかもがパーになった。
私、まだまだ修行が足らないみたいです。
その後、三軒茶屋で「春琴」を観た。 劇場は大好きな世田谷パブリックシアター。 主演は深津絵里(なのかな?)で本日が千秋楽。 前売券なんてとっくに売り切れていたので まさかの当日券に並ぶことに。 (18時当日券販売開始のところ、16時過ぎに劇場へ) 無理を承知で行ったもののとすんなりとチケットは手に入り 立ち見の苦行はあったものの舞台から近いところで 観ることができ、まあまあ満足。
村上春樹を題材にした時とはまた違う演出に驚いた。 もちろん立体的な芝居の見せ方は健在なのだが、 前回がデジタルなものを取り扱っていたのに対し、 今回は日本の伝統美が前面に出ており マクバーニーの表現の多彩さに魅せられた。
さて、今回気になったのは 「多層的とも言える物語の枠組み」と「肉体」についてである。
物語の初めに老人が呟く。 佐助は谷崎潤一郎なのではないか。 だとすれば、語り手は誰なのか。 では、谷崎潤一郎はどこにいるのか、と。 完全な再現ではないが、だいたいこんなことを言っていたと思う。
まずここで物語の構造について疑問が生じる。 それはテクストと作者の問題と言い換えることもできよう。 作者の呪縛から解き放つことで読みを広げるテクスト論の観点からすれば テクストの中に作者を封じ込める行為というのは「古い」ことだ。 (よかったらバルトの「作者の死」でも読んでもらえたらと思う) だが、「春琴」はあえて谷崎をテクストに封じ込めようとする。 単なる問題提起かもしれないが、 私には封じ込めの行為であるように感じた。
このことを頭の片隅に置きながら芝居を観る。 ふと、物語内世界の層が多層であることに気づく。 ざっくりと考えてみると以下の通り。
ナレーターのおばさん ・ 語り(小説でいうところの「私」) ・ 佐助(老人) ・ 佐助(若者)、春琴
語りを終えたおばさんは抽象のドアを開け光射す方向へ進む。 しかし、佐助や春琴らは暗い舞台に佇んでいる。 その瞬間に世界の裂け目が垣間見えたような気がした。 物語外の「現実」に出て行くおばさんと物語内に佇む人間。 それはもう少し視野を広げてみると 観客と芝居の関係にも同じことが言えることに気がつく。
芝居を観終えて戻る観客の「現実」は確かなものだろうか。 実は現実と虚構は無限地獄のような関係でもって結ばれていて 「リアル」なんてものは存在しないのではないだろうか。 そう考えると、当たり前が怖くなる。 私たちは「現実」を生きている、と どうして力強く言うことができようか。
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2008年03月05日(水)
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