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2010年03月03日(水) イタリ美の奇跡と世界遺産アマルフィの旅(その6)

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 イタリアの旅6日目はローマ歴史地区の観光からはじまり、そして終了する。


朝早くおきてホテルのそばを散歩。先ずは地下鉄とバス乗り放題の一日券をテルミニ駅で購入(4ユーロ)。

観客用の馬車が駅前目指してご出勤。


コンスタンティヌス帝の凱旋門
コンスタンティヌス帝のミルヴォ橋での戦勝を祝い、315年に建造されたもの。3連アーチがあり、高さは28m。
古代から現代までの歴史を見守るローマ最大規模の凱旋門。



コロッセオ
古代人が熱狂た闘技場跡。猛獣と剣闘士がここで戦ったのかと思うと歓声まできこえてきそうだ。奴隷と猛獣がどちらか死ぬまで戦った場所。人間は娯楽の為に残虐なことをしたものだ。



サンタンジェロ城
ヴァチカン市国にあるサンタンジェロ城
ヴァチカンは世界最小の独立国家である。ここにある建造物と美術品は世界最高峰とも言われている。サンタンジェロはかつてはハドリアヌス帝の廟であったが、5世紀要塞に改築された。この城はオペラ『トスカ』の舞台となったところで、「歌に生き愛に生きた」歌姫トスカがこの城の屋上から身を投げた。


テヴェレ川左岸に見えるのはカトリックの最高聖域サン・ピエトロ大聖堂がみえる。


コンスタンティヌス帝はローマで壮絶な殉教を遂げた聖ペトロが没した場所に寺院を建てることを命令。4世紀半ばにサン・ピエトロ大聖堂が創建された。



小学生の遠足。みんなよい子にしていました。




観光客が一度は訪れるトレビの泉。
映画『ローマの休日』でオードリー・ヘップバーンが買ったジェラートをこのそばの店で買って食べた。おいちかった!

世界中からやってきた観光客でごったがえす通り。スリも稼ぎ時とばかりに横行しています。


地下鉄とバスの一日券を買って先ずはヴァチカン美術館へ行く。



















この美しい螺旋階段をみてNYのグッゲンハイム美術館の螺旋階段をふと思い出した。


ヴァチカン美術館の無数の美はもう写真に写しきれないほど絢爛。まさに至宝。
ヴァチカン宮殿のほぼ全体が展示室となっていて総長距離は7kmにも及ぶ。16世紀のユリウス2世の時代の美術館としての母体からはじまり、18世紀に一般公開されるようになった。所蔵品のほとんどは歴代法王の美術コレクションである。

続いてヴァチカン美術館の最高峰システィーナ礼拝堂へと向かう。そこにはミケランジェロの最高傑作『最後の審判』と天井画が埋め尽くされている。静粛に、撮影厳禁と守衛が数人みはっていて厳重。世界最高の美術品とミケランジェロ最高傑作を堪能して外へ出た。
そとは激しい雨。
イタリア最後の日にとうとう激しい雨に降られた。雨の中バスに乗りミケランジェロの設計した広場へと向かう。今回の旅の目的の一つ。カンピドーリオの丘へ向かう。


ミケランジェロの設計した階段と広場。


2,500年栄光の歴史が今も残ることに感動する。ミケランジェロ偉大なり。



雨の中フォロ・ローマノの遺跡群をみに。









土砂降りの雨の中、バスに乗りバルベリーニ広場へと向かう。
「トリトーネの噴水」
1642年ウスバヌス8世の命によりベルニーニが完成した噴水である。台座にイルカ像と巨大な貝が配され、その上をトリトーネ像がほら貝から水を噴き上げている。


ローマにはお洒落なカフェがある。ここは映画にも良く出てくるし、マルチェロマストロヤンニがよくお茶しにきたところとか。





こうして私の「ローマの休日」は」春雨にけぶるなか静かに幕を下ろしたのだった。



2009年12月27日(日) バルセロナ建築の旅(その1)

 12月15日(火)〜12月20日(日)まで飛行機代とホテル代込みでわずか9万円のチケットが入手できたので夫と私の二人旅を決行。
 (名古屋)中部国際空港を11時55分発ヘルシンキ経由でスペインはバルセロナ着20時20分着までの長旅。

 今回の旅の目的はスペインカタルニア地方の偉大な建築家アントニオ・ガウディの建築物を見てまわるのが目的。その間、ガウディのライバルと称されていたリュイス・ドメネク・イ・モンタネールの設計したカタルーニャ音楽堂、サン・パウ病院、そして近代建築の三大巨匠と呼ばれるミースが1929年のバルセロナ万国博覧会で建設されたドイツ館、バルセロナ・パヴィリオンを見に行くのが主な目的だ。

スペインに来てピカソ美術館へいかないてはないのでピカソ美術館も見るという見るものいっぱいのバルセロナの旅。

先ずは乗り継ぎのフィンランド上空を写す。





フィンランドの作家トーベ・ヤンソンのムーミン・シリーズでおなじみのムーミンが飛行場内にいた。


飛行場内にいた子供たちが急に走り出した方向をみたら何とサンタクロースがいるではないか!今のサンタクロースはトナカイともども飛行機に乗るのかな?



そしてしばらくするとフィンランドから乗り継いでいよいよバルセロナ行きの飛行機に乗り換え着席したとたん、機長から「不幸なお知らせがあります。メカニックの故障がみつかり修理しますので1時間お待ちください」とのこと。
メカの修理が1時間で済むような飛行機じゃあ落ちてしまいそうで怖い。
と思っていたら案の定、飛行機を乗りかえてくださいという。
マイナス19度の外気に触れながら送迎用のバスに乗り込んでかえの飛行機に乗り込む。
バルセロナに着くと1時間も到着が遅れて夜の9時半になっていた。それから予約しておいたホテルを探すのは大変だが、運が良いことに9万円の飛行機代の中には行きだけホテルへの送迎がついていた。
飛行場で名前を書いたカードを持った運転手にあってホテルまで送ってもらえて本当に良かった。帰りは地下鉄とバスを乗り継いで飛行場まで行く予定。

これでひとまず一日目は終了。

(続く)


2009年12月26日(土) バルセロナ建築の旅(その2)

 今回の旅はガウディの建築物を見て回るのが主な目的である。
 夫は大学時代よりガウディが好きだった。大学時代から付き合っていた私も彼の影響を受けていて一度はバルセロナに行きたいと思っていた。夫は好きなガウディの作品を見るためにバルセロナに行ったことがあったが、私はバルセロナは今回が始めて。今回はわずか9万円という格安のチケットを入手できたので夫を案内人にしてあちこち詳しい解説を聞きながら旅ができると楽しみにしていた。
 
さて、そのガウディについて概要を説明しよう。
 アントニオ・ガウディ(1852〜1926)はカタルーニャ南部のレウス郊外で銅版機具職人の家庭に生まれた。幼少の頃よりリウマチに悩まされ、内気で病弱な少年だった。自然を相手に一人で遊ぶ「ことが多かったが、自然を観察する力を養うことができた。ガウディ家は裕福ではなかったため、建築家を目指してバルセロナに移り住み、生活費を稼ぐためアルバイトに明け暮れた。建築現場でのアルバイトはガウディの血となり肉となった。サグラダ・ファミリアの2代目建築家に推挙されたのは1883年。31歳のとき。それから1926年路面電車にひかれて亡くなるまで43年間この教会に生涯を捧げたのだった。サグラダ・ファミリアはまさにガウディそのものであるといってよいだろう。
(『world guide』(jtb publishingから)

 バルセロナについて二日目は先ずホテルの近くにあるグエル公園へ歩いていくことにした。
 ここでグエルについて説明しよう。
 ガウディの作品には「グエル」という名前がついたものが多い。 
 それはエウセビオ・グエル(1846〜1918)がガウディ建築のよき理解者であり、多くの作品を依頼したからである。かれは繊維工場やタイル工場を経営し、当時のバルセロナを代表とするブルジョアだった。彼は1878年パリ万博に出品された皮手袋店のショーケースのデザインに魅了された。その設計者を探し見つけたのがガウディだったのである。当時のガウディは才能はあってもスポンサーに恵まれなかった。しかし、グエルという最高の理解者を得たことで次々に世間の注目を集める大きな仕事を手がけるようになった。ガウディの才能を引き出したのはグエルだといってよいだろう。

さて、説明はこのへんにしてそのグエル公園へ行くことにする。



 朝日がさすグエル公園内
粉砕タイルで装飾された波打つベンチが美しい。
画家ミロがこのベンチのタイル装飾に創作のヒントを得たという話は有名だ。









自然を友としてきたガウデイはこのような爬虫類を模したものが多く見られる。


門扉のデザインもすばらしい。このへんシュロの木が多いのでシュロのデザインだろうか。さすが銅版機具職人の息子だった片鱗がみられる。

グエル公園を後にして次はバルセロ市内をツアーするブス・ツリステイックの二日券を買い、バスに乗り込み街をみてまわり、途中でおり、カサ・ミラと呼ばれる集合住宅へと急ぐ。



カサ・ミラは独特の形状からラ・ペドレラ(石切り場)とも呼ばれる。
中に入るとこのようにまるで海中に迷い込んだかのような幻想的な光景に魅せられる。




このやわらかい曲線の椅子もガウデイの設計。


カサ・ミラの模型。


屋根裏の放物線のアーチが美しい。


屋上に上がってみたらびっくり!!!!突如中世の騎士が面をかぶったような奇妙な煙突が出現。
右はるか遠方にあこがれのサグラダ・ファミリアが見える。
ああ!何と印象的な光景だろうか!




アーチの中に見えるサグラダ・ファミリア!!!!!!


1階部分

(続く)


2009年12月25日(金) バルセロナ建築の旅(その3)

 ガウデイの建築を見ると驚きの連続だ。想像を超える造形美と発想。
 この曲線や複雑な構造を図面に表すだけでも大変なことであり、またそれを作る大工の腕にも驚く。そしてこれら今まで誰も見たことも想像もしたこともないような建築造形を受け入れた建築主にも感動する。
 さてカサ・ミラの次はカサ・バトリョと呼ばれる建物を見に行くことにする。
カサ・バトリョとは建築主の名前である。グエル同様、バトリョは大きな繊維会社を営むブルジョアだった。隣の美しい建物が建つとバトリョは今まであった建物をもっと美しくしたいとガウデイに依頼した。しかし、ガウデイは改築を選び1フロア追加し隣の建物よりも高いものを作った。
ガウデイ円熟期を代表する最高に美しい建物だ。





粉砕ガラスと壁面タイルの屋根が美しい。ライトアップされる夜の顔は妖しいばかりとなる。
波打つような壁面には緑、青、茶の色ガラスがちりばめられている。うろこのような屋根。人骨のような柱や仮面のようなバルコニーが妖しいばかりだ。この誰も今まで見たことがないような独創的なデザインは当時も今もこれを越えることはできないほど幻想的で美しい。


ため息が出る。




開口部のドアが波打つように開かれたかと思うと目の前には幻想の海の只中にはいったかのよう。






暖炉。暖炉の中にチェアが両脇にある。



天井のこの柔らかな造形はどうだろうか!水がしたたっている様にも、女性の胸のふくらみにもにている。


屋上に出てみるとカサ・ミラで見たような奇妙な煙突が。





もうこのカサ・バトリョをみただけでも、バルセロナに来た甲斐があったと思った。幻想的で独創的な美しさ、曲線の美、匠のわざの極地を見る思いで感動で涙が出そうになった。夫が長年ガウディを愛し続けてきたわけが分かったように思う。
夫は置かれてあったノートに記念に名前とコメントを書いてきた。


ライト・アップされたカサ・バトリョ
(続く)


2009年12月24日(木) バルセロナ建築の旅(その4)

 バルセロナの街の中はクリスマス前で活気にあふれている。



 いつも海外旅行をするとその国の市場へ行くのが常だ。そこででかけたのが大きな市場。










 乳製品を売っていたので覗いていると隣で買っていたおばさんがここの店「ムイ・ビエンよ」というので私もチーズをハーフキロ買うことにした。この店の人は気が利いていて真空パックにしてあげようかというのでしてもらった。飛行機の気圧や温度でせっかくのチーズが溶けてしまう事があるので助かる。やっぱり「ムイ・ビエン」な店だった。


ランブラス通り
ここを「世界で最も美しい通り」と言ったのはイギリスのサマーセット・モームだ。中央の遊歩道にはプラタナスがあり、一年中観光客や市民で賑わう通りだ。
 ランブラス通りから少し行くと今度はレイアール広場へとでた。
 1878年ガウデイが建築家の資格を得た年に請け負ったバルセロナの公共施設、外灯がある。


レイアール広場の街灯
ガウデイ初めての作品。天辺に鉄兜がある。この鉄兜はガウデイが学生時代に興味を持った鉄細工の一つだったという。
 夜この外灯に明かりがともる所を見たいと持ったが、ここは治安が悪いところなので近づいてはいけないところ。昼間も危険。

次はグエル邸へと行くがあいにく改修工事のため中に入れずまったく残念無念。



グエル邸

ガウデイが活躍した時代はバルセロナ発展期にあたり、ガウデイ以外にも優れた作品を残す建築家たちがあらわれた。19世紀末から20世紀初頭にかけてバルセロナで流行したモデルニスモ建築と呼ばれる華麗な建築・芸術様式の建物である。
その中でもガウデイのライバルと呼ばれたリュイス・ドメネク・イ・モンタネールもすばらしい作品を残している。

カタルーニャ音楽堂






中を撮影できなかったは残念であるが、優美で繊細な美しさは天才ガウデイとはまったくことなるものである。ためいきがでるぐらい美しかった。この美しい音楽堂は今でも365日音楽会がジャズからヒップホップ、クラッシックまで開かれているという。
冷たい雨の中、次は1962年に完成した建築士会会館の壁にピカソのデッサン画が描かれているのを見に。


建築士会会館のピカソのデッサン画

ピカソは民族舞踊のサルダナや、巨人人形ギガンデスなど、少年時代にみたカタルーニャ地方の祭事を躍動感あふれるタッチで表現。
 ピカソの壁画を見たからにはピカソ美術館へ行くべし!


ピカソ美術館
(続く)


2009年12月23日(水) バルセロナ建築の旅(その5)

今回の旅は奇才ガウデイとモデルニスモ建築を見るだけでなく20世紀モダニズム建築の三大巨匠のひとり、ミース・ファン・デル・ローエが1929年のバルセロナ万国博覧会で建設されたドイツ館、バルセロナ・パヴィリオンを見に行くのが主な目的だ。


バルセロナ・パビリオン
(ミース・ファン・デル・ローエ記念館/Fundacion Mies Van der Rohe)




有名なバルセロナチェアがあった。
このシンプルで美しい佇まいはどうだろう!

ここを訪れる人はきっと建築家かそれを目指す人、あるいはミースの作品が好きな人だけだろう。
 
この美しい佇まいを眼の裏に焼き付けて次へと移動。

次はグエル別邸


グエル別邸はグエルが週末だけ過ごす別邸だったところ。かつては広大な庭園に囲まれていたが、その邸は現存しない。
タイルとレンガを組み合わせた外壁はガウデイ初期の作品にしばしばみられるムデハル様式と呼ばれるものだ。


幅約5メートルの正面の「ドラゴンの門」は錬鉄製。ギリシア神話に登場するドラゴン「黄金の林檎の番人」をモチーフにしたもの。この仕事でグエルの信頼を勝ち得たガウデイは次々と重要な仕事を任されるようになった。曲がった面に細かく砕いたタイルを利用したのはこの作品が最初。


ものすごい迫力でドラゴンが迫って大きく開いた口に飲み込まれそうだ。
すごい!

短い旅ゆえ、先を急ぐことにしよう。
次はカサ・ビセンスという建物。



カサ・ビセンスはガウデイが手がけた住宅建築の処女作といわれる。ムデハル様式(優雅な曲線を多用した装飾的な様式であることから、しばしばスペイン版アール・ヌーヴォーなどといわれているもの)の影響が顕著。

建築主のビセンスがタイル業者だったため、化粧タイルが多用されている。建築費がかさんで倒産の危機に陥ったが、建物が出来上がるとその宣伝効果で再び財を成したという。現在は個人住宅なので中に入ることはできない。



敷地内には大きなシュロの木が茂っていたことからガウデイは鉄柵にシュロの葉のパターンを用いている。
 中は個人住宅ゆえ見ることはできないので外から残念そうに写真を写していると中からオートバイに乗って門扉をあけて外出しようとしている男性が見えた。私は思わず、「すごい歴史的建造物にお住まいでうらやましいです」と声をかけると、何とこの男性は門を開けて、「私はもし、仕事に行かないなら中へ案内してあげるんだけど今から出かけるんでごめんなさい」と丁寧な美しい英語で答えてくれた。
「いやいや、結構ですよ、ガウデイが大好きで日本からはるばるとこの建物を見にきたんです」というと、ヘルメットをとって、じゃあ、中庭だけ見せてあげよう。こっちへいらっしゃいといってくれた。誰も今まで入ったことがない中庭へ入れると聞いて夫と私は体が震えてしまった。中庭の門扉を開けると赤い車で出かけようとしている金髪の若い美女がいた。男性は「これは私の妻です」と紹介してくださった。「若くてチャーミングな方ね」と言うとにっこり。私たちは夢中でいまだかつて誰も中に入れなかった中庭の写真を写すので忙しかった。金髪の美女が車で出かけたので私たちも門を出ることにして門扉を閉めようとすると男性が「いやいや、それは自分がするから」と言って閉めてくださった。
丁寧にお礼を言って私たちはそこを去ることにしたが、こんな思いもよらない親切に胸がいっぱいになってしまった。

たくさんとったが本来なら見るのも写すのもいけない建築世界遺産であり、個人宅の庭ゆえ、ここでは一枚だけ載せることにしよう。


この中庭にある大きなシュロの木を見たガウデイが門扉をデザインしたのかと思うと時空を越えてガウデイのそばにいるような気がして涙ぐんでしまった。

私と夫はこんなに外国人の私たちに親切にしてくれたことを思うと日本に来た外国人にも親切にしなければねと心から思うのだった。
 それにしてもヘルメットをわざわざ脱いで丁寧な美しく正しい英語をお話になった中年の男性はいかにもインテリのジェントルマンと言う感じの人だった。スペイン人は意外と英語をしゃべれる人が少ないので驚いた。それも大学生がしゃべれない。そう思うとこの男性はかなりのインテリ階級のひとなのだろう。もっとも世界建築遺産に住んでいるのだから相当の人であることは想像できる。
バルセロナの世界建築遺産に住む心優しき紳士に感謝。

建築をめぐる旅はまだ続く。
 次はバルセロナ郊外にカタルーニャ鉄道に乗って出かけることにした。
 ガウデイの強力なスポンサーで理解者であるグエルが工場をバルセロナ郊外に移転させ、田園工業都市を作り上げるために計画したのがコロニアル・グエル。ガウデイはここに教会を作った。
 電車を降りるとそこは何もない田舎の風景が広がっていた。そこにいまだにグエルの工場が稼動していて村の人が働いている。のどかな田園地帯だ。
そこにあらわれたのがこの田舎の風景に何の違和感もなくひっそりとたたずんでいたのがコロニアル・グエル教会だった。
これを見たくて日本からはるばる来ました!






切り出したばかりの柱が支える半地下の教会堂の空間にステンドグラスから差すあかりが床に緑や赤や青の光を映して神秘的であった。




このステンドグラスのシンプルで温かみのあるデザインはどうだろう!愛らしく美しく素朴で心を温めてくれる。
このステンドグラスに見ほれていたら、この教会を守る人だろうか男性が突如ステンドグラスの下の鎖を引き出した。
すると何と!ステンドグラスの下の部分が蝶々の羽のようにあいて外の空気と明かりが入ってくるしかけになっていた。鎖で開け閉めするとまるで蝶々が羽をばたばたと言わせているようだ。そのたびに教会堂の中の明かりが変化していった。
これを私たちたった二人だけの見学者のために開け閉めしてくれた男性に「グラシャス!」と感謝の言葉が自然に出た。ガウデイは本当に天才である。
閉め切りのステンドグラスでなく、蝶々がはばたくようにステンドグラスの羽が開いたり閉じたりする。教会は呼吸している。自然と共にある。


ただただ美しくひっそりと素朴で温かい空気が流れていった。






木々に囲まれた田園地帯にひっそりとたたずむコロニアル・グエル教会は自然の中で育ったガウデイの心がぎゅっと詰まっているようでいつまでも心に残るものであった。
(続く) 


2009年12月22日(火) バルセロナ建築の旅(その6)最終偏

 いよいよ旅の最後はハイライト、サグラダ・ファミリアを見にいくことになった。

サグラダ・ファミリアは貧しい宗教団体サン・ホセ協会のための教会として1882年に着工された。初代建築家ビリャールは翌年辞任。その後を引き継いだのがまだ無名だったガウデイだった。ビリャールの案はどこにでもあるありふれたものだったが、キリスト教に対する理解を深めるにしたがって、プランが練り直され独創的な教会堂になったのだった。ガウデイの構想によればラテン十字形のバシリカ式の教会で「生誕の門」「受難の門」「栄光の門」という3つの正面を持ち、そこには聖書のシーンを描いた彫刻が施される。教会そのものが石に刻んだ聖書なのだとするものだった。
しかし、ガウデイの生前に誕生したのはわずかに「生誕の門」の塔だけ。ガウデイの死後もスペイン内戦時を除き、工事が続けられている。完成は200年後とも言われている。


新しく作られているものはガウデイの時代のものとはどこか違うようで古いものと新しいものを無理やりくっつけているようでなじめない。味わいがまるで異なる。




とうもろこしの部分をエレベーターに乗って上がっていった。そして帰りは歩いて降りるのだが狭いなかをくろうして降りただけで何の感想も感動もなかった。
がっかり。

汗をたっぷりかいてサグラダ・ファミリアを降りて、次に向かったのはガウデイのライバルといわれたモンタネールが設計したサン・パウ病院へと急ぐ。
モンタネールは前のところで写真を載せたカタルーニャ音楽堂を設計した人である。
さて、サン・パウ病院は銀行家パウ・ジルの遺言によりその遺産をもとに建てられた。


美しく繊細なデザインはガウデイとはまったく異なる趣である。中に入って写真をとろうとしたら病院だけに時間が決められていて入ることができなかった。もう明日には帰国しなければならないと残念がっていると一人の女性が声をかけてきた。「ねえ、あなたたち、中に入りたいの?」「はい。でも時間が決められていて今日はもう入れないのです」というと女性は「こっちへいらっしゃい。教会ならいつでもあいているわよ」と手を引いて案内してくれた。教会のほうへいきがてら、女性はバルセロナの主だった建築物について説明してくれて、その詳しさに驚いた。それも流暢な英語を話すなかなかのインテリ。年は60歳は越えていそうだが美しい人。夫とその女性が建築について話している間に教会についたが、閉まっていた。その横にはまだモンタネールの設計した建物があるのでそちらのほうへ回ることにして女性にお礼を言うと彼女はイタリア人でマリアと言う名だと自己紹介してくれた。
旅で出会った二人目の親切な人だった。
見ず知らずの日本人の手を引いて案内してくれようとするその心意気が嬉しい。


マリアさん、ご親切をありがとう!グラツイエ、タント!アリヴェデルチ!


ガウデイのライヴァルといわれたモンタネールのサン・パウ病院を背にくるりと振り返ると反対側にライバルのガウデイのサグラダ・ファミリアが見えた。

旅の最後の日も、とうとう日が暮れてきた。
街はクリスマス前の週末と言うことで賑わっていた。





蚤の市


旅の最後の夜は思いっきり楽しもうとタブラオへフラメンコを見にでかけた。









こうして短くも楽しいバルセロナ建築の旅はフィナーレである。

この旅の間アクシデントが二度あった。

一つは地下鉄の中で若い女性グループのスリにあったことだ。
地下鉄に飛び乗ろうとして夫が先に乗り、後ろを私が乗ろうとすると若い女性が夫と私の間に入ってきて地下鉄に乗ったが前になかなか行こうとしない。ドアはもう閉まる寸前。私の後ろにもう一人の若い女性がぴたりとくっついてきた。右わき腹がもぞもぞするので「きゃーなにするの」と声をあげると夫が「どうしたんだ!」とふりかえり、車内の男性もみんな私のほうを見た瞬間前の女性と後ろの女性が閉まる寸前の地下鉄から飛び降りた。
乗ったと思ったら降りるのはおかしい。
ハンドバッグをたしかめるが盗られた物はない。
「スリだった」と思った。
大声を上げたので飛び降りたのだろう。危ういところだった。
そしてもう一つのアクシデントは帰る日の三日前にレストランで肉料理をたらふく食べ、食後に濃いエスプレッソを飲んだら胃をやられてしまったらしく、胃痛に七転八倒。帰りの飛行機の機内食はとうとう一回も食べずに帰ってきた。
帰宅してしばらくしたら治ってしまったが、医者に行って薬をもらったというしだいだ。食べすぎは禁物ということらしい。

今回の旅は見るものがいっぱいあってまだまだ足りないぐらいだった。
今までシンプルなコルビエジェの建築物がが好きだったが、この旅ですっかりガウディの信奉者になってしまった。
当時も現代になってもガウデイのあの独創的なデザインを越えることはできない。ガウデイは奇抜でいてコロニアル・グエル教会堂の建設では10年もの歳月をかけて構造的実験を重ねている所を見ると念入りに構造計算を積み重ね、実験をし模型を作って研究する建築家であることがうかがえる。。この実験はサグラダ・ファミリアの設計に生かされている。銅版機具職人の息子に生まれただけに鋳鉄のデザインや扱いは卓越したものがありグエル別邸でみたあの「ドラゴンの門」の大きな口をあけたドラゴンの迫力は強烈な印象として残っている。コロニアル・グエル教会堂のひなびた味わいとステンドグラスのあたたかみは心にしみる。
カサ・バトリョの一階部分は海中深く沈んでそこに住んだらこんな風だろうとかおもうほど幻想的なものであり、二階部分の広間の曲線の美しさ、家具、暖炉、取っ手にいたるまでガウデイが設計した最高傑作。涙があふれてきそうで困ったほど感動した。

ガウデイの素晴らしさを堪能した旅だった。そして世界建築遺産にお住まいの男性からはおもいがけなく親切にしてもらい、中には住人以外は誰も入れないのに、ご好意でいれてもらい、感動。イタリア人女性は手を引いて案内してもらったりと見知らぬ旅人への親切とやさしさに本当に深く感謝する。
 夫が好きなガウデイの作品群を見て周り、また、ライバルといわれたモンタネールの優美な作品もみることができ、一方、近代建築の巨匠といわれるミースのバルセロナ・パヴィリオンも見ることができて目が拓かれた。
 写真は700枚ぐらい撮っただろうか。ブログにはどれを載せようか迷いながらの作業だった。

というわけで、バルセロナの旅はこれにて完。

※参考資料からの引用は『world guide』(JTB パブリッシング)より)

主たる建築作品:

グエル公園(世界遺産)、カサ・ミラ(世界遺産)、カサ・バトリョ(世界遺産)、レイアール広場の外灯、グエル邸(世界遺産)、カタルーニャ音楽堂(世界遺産)(モンタネール作、)、建築士会会館(ピカソのデザイン画壁画)、ピカソ美術館、ミース・ファン・デル・ローエ記念館(バルセロナ・パヴィリオン)、グエル別邸(「ドラゴンの門」)、カサ・ビセンス(世界遺産)、コロニアル・グエル教会堂(世界遺産)、サグラダ・ファミリア(世界遺産)、サン・パウ病院(世界遺産)

利用した交通機関:
地下鉄、カタルーニャ鉄道、ブス・ツリステイック

(完)


2009年04月30日(木) ベトナム・カンボジアの旅(3日目)

ベトナム・カンボジア(アンコールワット)6日間の旅 三日目は:

早朝ホテルの周辺を歩いて朝のベトナム風景をスナップすることにした。

ホテルの窓から前の家の様子を写したのがこれ↑
地震がないのでレンガを積み上げた建物にモルタルを塗った建物が多い。カビがはえて黒くなっている。
あとはトタンばり。


写真手前の後姿の女性は天秤棒で売り物を運んでいる。
アオザイを着ている人は少なく、ホテルの従業員などばかりだった。
日本人が着物を着ている人が少ないのと似ている。

道端にこうして天秤棒でかついできた荷物(たべもの)を広げて商売している。

パジャマ姿の女性が品物をのぞいている。野菜は豊富。ゴーヤ料理が苦味があっておいしかった。とうがらしがどの料理にも入っていてぴりっとからい。


ちまきを売っている。画面右端の女性は朝ごはんを売っている。こうした露天で売られているごはんを食べている人がおおくびっくり。

この人は魚を売っている。
見ているとドラマが展開された。
とおりを一台の車が通りかかったときそれはおきた。
しゃこやえびを売っていたこのおばさんは車を見た瞬間、ざるを三つ一気に抱えて逃げようとした。魚の料金をもらったまま。料金を払っている客は少しも騒ぐ様子がない。
逃げようとしたおばさんは車が警察の取り締まりでないとわかったとたん、何事もなかったように、また、ざるをひろげて魚を売り始めた。
これを車が来るたびに繰り返されてみていた私も今度の車は警察じゃなさそうよなどとおばさんにおしえてあげたりした。
いつでも逃げられるようにして売っているおばさんたちと庶民のたくましさはここベトナムの朝の風景の中に当たり前のようにとけこんでいた。

日本のキャノンの看板の下で繰り広げられる天秤棒姿のベトナム風景。

ベトナムは間口の広さで税金をとられるので上へ上へと伸びていく建物。

見たこともない筒状のきせる(?)で煙草を吸う人。珍しそうに見ていたら、すうか?とキセルを差し出された。すってみようかと「思ったけれどやめておいた。

朝ごはんを売る女性。綺麗な人だったけれど恥ずかしがって横を向いてしまった。
右の天秤棒のなかに蒸したご飯がはいっていて、左側におかずがはいっている。
この朝ごはんを庶民は喜んで道端で食べていた。

道端で売られる朝食を食べる庶民。


はすの葉を広げてそこに蒸したご飯(黄色い)を広げ、そこにトッピングのおかず少々とココナッツを削ったものをたべていた。これを包んでお弁当にもっていくひともいた。


ベトナムへきて一番驚いたものはこれ!↑蛇のとぐろのような電線。
何十とある電線が上空に垂れていて、もう落ちそうになった電線はこうして無造作に束ねられてむきだしのままくくりつけられている。
感電する人はいないのだろうか?台風のときはさすがにこの電線でしぬひともいるとか。デンキをひいていない家もあり、敷設された電線を勝手に失敬して自宅に引いているひとがいたり、お金持ちがひいたデンキに料金を払って自宅にひいているひともいるという。戦後の日本もこんなだったのだろうか?


ベトナムで黄色の建物は国の建物だとか。
この美しい建物はフランス統治時代に建てられたものだろうか?美しいアールヌーボーの建物だったので思わずみとれた。

早朝からジルバを踊っているひたち。

パジャマ姿で露天で朝食を食べているところをぱちり。

ここまではベトナムハノイでの朝の風景だ。
昨夜の水上人形劇場まで歩きながらの朝のスナップ。
ここまで約40分あるいた。
朝の集合時間に間に合うように、ここから輪タクを拾ってホテルまで帰ろうとチャレンジ。年配の輪タクおじさんを見つけてホテルまでの地図を見せると、地図の見方がわからないらしい。英語も分からない。
そこへ英語が分かるらしい別のりんタクがきて、ホテルの道なら分かるから自分の輪タクに乗れという。いくら?と聴くと一人5ドルだとふっかけてきた。バカ言っちゃいけないよ。この「ろこ姐さん」をしらねーな?と言ってすたすた歩くと、後ろから追いかけてきて4ドルにするという。「あんたね。味噌汁で顔洗ってでなおしておいで!」と「ろこ姐さん」は言ってまた歩き出すとまた追いかけてくる。
そこで「ろこ姐さん」はおもむろに着物の裾をまくって(?)こういった。
「1ドルなら乗ってやらないことはないよ!」と。
すると剣幕に負けた輪タクの兄ちゃん、じゃあしようがない。1ドルにするから乗ってくれと云う。
そこでまた「ろこ姐さん」は言う。「あんたじゃなくてあの年寄りの輪タクじいさんのに乗るならいいよ」と。
するとさすがにベトナム。年寄りを尊重する国。
先の地理の分からないじいさまに道を譲った兄ちゃん。「あんたいいところあるじゃないか!」とほめて年寄りの爺さんの輪タクに乗った。
爺さんはホテルまでの道が分からないので日本人の私が、ベトナムの現地人に道を教えながらホテルまで輪タクに乗って無事帰った。

ホテルへ着いて現地ガイドさんにそのいきさつを言うと「1ドル」とまけさせたなんて聞いたことがない。すごいなあとほめられた。
なにしろ週末の市場のおばさんとのやりとりで鍛えられた腕。

楽しい朝のベトナム取材(?)を終えて一行と共にホーチミン廟へ見学に。
4月30日はベトナム解放の記念日。
ベトナムは休日。
ホーチミン廟は1969年亡くなったホー・チミン氏の遺体が安置されている。
なんとホー・チミン氏の遺体は冷凍保存されていて、4月30日の独立記念日にはその遺体に実際お参りできるというのでベトナム各地からたくさんの人が参拝に来る。
ちょうどその日にあたって、ものすごい行列を目撃。私たちは参拝せず外観だけを見学。

参拝客の行列。赤い旗は鎌と鍬でロシア共産党の旗印。

こちらの赤い旗。星のある旗がベトナム国旗。

ベトナムのお坊さん。

一柱寺
一柱寺は11世紀、李朝時代に建立された仏教寺院。はすの花を模してつくられており、その名のとおり、本道が一本の柱で支えられている。

バスに揺られて森のようなレストランへ行き昼食。



美しい南国の花が咲き乱れる森のようなレストラン。



レストラン内部と男性従業員

お腹がくちくなったあとは、ベトナムともお別れ。
ベトナム航空にのり、一路カンボジアへ。

カンボジア・シェムリアップ空港到着。


2009年04月29日(水) ベトナム・カンボジアの旅(2日目)

2日目はホテルを9時に出発して雨の中、ハノイ近郊にあるハロン湾クルーズに。
ホテルの朝食は豪華。

「フォー」という麺類がものすごくおいしかった!!!
熱々を一人一人、目の前で作ってくれる。

湯葉のようにお湯の中に浮き上がってくるものすくいあげてその湯葉に野菜類を包んで食べる。


ホテルの前庭になっていたバナナの木。
いたるところバナナの木があって、食後のデザートもバナナ。青くても熟していてねばりけのある赤みのある黄色いバナナはおいしかった。


ハロン湾クルーズに。
ハロン湾は青い海面から大小幾千もの奇岩がそそり立つ世界遺産の湾。
ハロンとは「龍が降りる地」と云う意味。
風光明媚さは素晴らしくかすんで見える大小の奇岩は”海の桂林”と呼ばれる。
ハロン湾クルーズの醍醐味はその奇岩の間をぬうようにめぐるところにある。




漁船。
へさきに網をはって魚を捕る漁。



忠犬ハチ公に似た岩



ハロン湾にある大きな島に上陸して鍾乳洞を見る。
日本の鍾乳洞と違って山の上を登って444階の階段を昇リ降りをしてついたところが鍾乳洞。日本のように寒い風穴などなく、蒸し暑い洞のなかは石の塊がカーテンのようになっている。

ライトアップされた鍾乳洞。


鍾乳洞をでたところで店を開いている人がいた。

ここで危なさそう(不潔)だったけれど、(きたないなたで椰子の実を切っていたので)椰子の実を買って飲んでみることにした。二つで3ドル。
甘くて飲みやすかった。


また船に乗ってハロン湾をクルーズしていると、突然海賊船が近づいてきた。
あれ〜!自衛隊の船はどこ?などと言っている場合ではない。
小船にのった海賊船!海賊は勝手に我々の船の船べりの窓を開けてものを売ろうとする。
海賊と云うほどでもない。ただの物売りだ。ほっ!!




しばらくして水上生活者が営むいけすの船に寄ってみることにした。
赤いシャツの男性はベトナムのガイドさん、TIENさん、日本名を進さん。私は彼をしんちゃんと呼ぶことに。

かぶとがにとシャコ。
ここの生簀で魚を買って船で料理してもらうことが出来るが、なにしろ生簀の水が汚くてとても買う気がしなかったが、韓国や中国の人はじゃんじゃんここで買っていた。

生簀を離れてまた船にのり、船の中で海鮮料理の昼食を食べることにした。


二つの奇岩はハロン湾のシンボル。雄鶏と雌鳥の形をしている。
小雨が降る中をハロン湾クルーズは終了。


今度はベトナムが誇るバッチャン焼きの陶磁器村を訪問。
秀吉の頃、このベトナムの陶器は「安南焼き」と珍重された美しいブルーが好まれた。
絵付けをしている人。

バッチャン焼きの陶磁器店が並ぶ道。



バスにのり、またハノイへ。

ハノイ市内はものすごい数のバイクがひしめいていて、信号はあってもなくても同じ。青でも赤でも突っ走るバイクや人で危険!危険!
事故は20万円の罰金。人を轢いても20万円。轢かれ損。気をつけないと。

ハノイ市内、ホアン木エム湖に近いレストランで夕食。

あたたかい蟹のスープ






デザート。

レストランをでてから「水上人形劇」を鑑賞。
「水上人形劇」は水面をステージにして農村の生活や伝承などを操り人形で演じる伝統芸能。
水が張った舞台のすだれの後ろ人間がいてそこから長い棒の先につけられた人形を水に浮かべてあやつりながら人形劇が演じられる。

桃太郎のようなストーリー。

フィナーレはすだれの後ろの人間が出てきて拍手喝采をあびて終わり。
人形劇にかかせない音楽は生演奏でベトナム独特の胡弓のようなものや独自の楽器と笛が東南アジアの音曲を奏でていて素晴らしかった。西洋の音階とは異なった音が体の中を心地よく流れ同じアジア人として懐かしい音だった。

水上人形劇が終了してホテルで就寝。ホテルは窓がなく国営のみじめな宿だった。
部屋に入るとすぐ蚊に刺された。
ここの蚊はデング熱をおこす元といわれていて慌てて薬を塗った。


2009年04月28日(火) ベトナム・カンボジアの旅(1日目)

今までの旅といえば、欧米を中心に40回以上、20カ国をめぐってきた。
しかし、アジアを知らないで過ぎるわけには行かない。
そこで憧れのベトナム、カンボジア(アンコールワット)の旅を決行。
いつもはひとり旅、二人旅を楽しんできたが、ツアー旅行を楽しむことにした。
ツアー客20名(名古屋、静岡の客)の旅。

中部国際空港を午前11時半にベトナム航空にのり出発。ハノイ到着14時20分ちゃく。時差は2時間。運航時間5時間半。

ベトナム・カンボジアは雨季に入ったばかり。思ったほど暑くなく気温27度
。長袖シャツを着て充分。
豚インフルエンザの為、空港で健康カードを提出させられた。

空港からバスに乗って約3時間揺られてハロン湾へと向かう。

空港からの景色は50年〜60年前の(?)日本の風景と言った感じのひなびた光景が広がっていた。



田んぼと牛と人。田んぼには牛が鍬を背中にくくりつけられて引き、田んぼは機械はいっさいなく、人手で耕され、苗を植えるという農業。
ベトナム戦争による戦死者が多かったベトナムは9000万人の人口の60パーセントが35歳以下だという
93パーセント農業国だったベトナムも今は60パーセントに減少。
3ちゃん農業に変化。かあちゃん、ばあちゃん、ジイチャン。父ちゃんは出稼ぎに。
18歳から28歳まで徴兵制。
猫や犬を食べると聞いてぎょっとなった。
たがめや昆虫もから揚げにしてたべるという。
よその国の食文化について自国を基準にどうとかこうとか判断したり批判することは出来ない。
日本も戦後は犬を食べていたのだから。

人件費は安く中国が一人3万円のところ、ベトナムはその半額だという。

空港を出ると直ぐに道端に牛があるいていた。

ベトナム戦争で枯葉剤による奇形として生まれた「ベトちゃんドクちゃん」についてはベトナムではあまり話題にならないという。なぜかというと彼らはベトナムではほんのわずかの存在でそれ以上に枯葉剤による被害者が多いということだった。
それをきいて胸が痛んだ。
傷痍軍人も国は何の保障もしていない現実。
一番悲しいことは、彼らのような傷痍軍人は国の為に働いたのに、障害者になった今、疎まれて働く場がないということだった。
そこでベトナム楽器を習って観光客相手に施しを得ることでしか生きる糧がないことだった。
戦争って何だ?!


バスに揺られて3時間。レストランに着き夕食。
早速ベトナムビールを頼む。ハノイビール3ドル


料理は海鮮鍋。


牛肉をテーブル中央の丸いおせんべいのようなものに「包んで食べる。



しゃこのからあげ。
シャコの味がせず、からが口の中でごそごそしておいしくなかった。


海鮮鍋は魚介類(いか、魚、はまぐり、香草、キャベツ、白菜)をいれ、残ったスープにメンをいれ、さらに残ったスープにご飯を入れておじやに。


まあまあの味に全員ほっとする。
水はホテルの水でもどこでも決して飲んではいけないとくれぐれも言われて全員注意。歯を磨くのもミネラルウオーターで磨いた。


いよいよハロン湾に着き、ホテルの前は墨絵のようなハロン湾が広がり、彼方には巨岩がかすんで見えた。ホテルの部屋は全部屋オーシャンビュー。
素晴らしく豪華なホテル。

ホテル。



ホテルの前には公園があり、入場は有料だが、4月30日はベトナム解放の記念日のため、お祭りが開かれる。綺麗なテントが広げられて色々な店がでて、ショーの準備があった。ここで夜、マンゴーをネギって買った。1ドルでおいしいマンゴーが4つ。



テントの中で繰り広げられているショー


ベトナム少数民族の民族衣装を着た老婦人。まだ着ていなかったのに、カメラを向けた私の為に衣装を着てくれてポーズをとってくれた。ありがとう!(カムオン)

夜疲れたのでマッサージを頼むことにした。
マッサージ専門店で70分2千円(送迎つき)。全身マッサージをしてもらった。
名古屋の女性親子連れの方とつれだってでかけた。
大きな部屋にはソファーが並んでいて、熱い湯ににおいの良い花が浮かべられて足湯に入り。足のマッサージから。顔はきゅうりパックをしてくれ、念入りに全身まサージ。最高に気持ちよかった。
若い男性の力強いマッサージで全身揉み解してもらって3人とも快適な時間をすごした。
ホテルにもどって入浴してばたんきゅー!
ベトナム一日目は終わり。


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