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| 2007年09月24日(月) |
文化フォーラム「なごや歴史漫歩」(大須周辺散策) |
今日は文化フォーラム 第二回なごや歴史漫歩(大須散策)の会が開催され曇り空の下参加してきた。
総勢27名の参加。
名古屋は日本の三英傑(信長、秀吉、家康)を輩出した土地であり、日本の歴史を飾った様々な建造物、史跡がある歴史の街である。
今回の大須の地は名古屋のど真ん中。 今名古屋で最も活気に満ちた土地でも或る。
先ず散策開始の場所は「大須観音」

大須観音はもともとは長岡庄大須郷(現岐阜県羽島市)にあった。
しかし、戦乱や木曽川の氾濫などのため1612年に家康は成瀬正成(なるせまさなり)に命じて洪水の恐れのない現在地に移した。 以後、尾張藩の保護のもと、城下町の繁栄で境内には芝居、物まね、相撲などが盛んになり客足をよびにぎわったのである。

 これは真福寺(真言宗)で、創建の地名を取って『大須観音』と俗称で呼ばれ親しまれている。

この大須文庫にはすごい宝物があり仰天!
開山の能信上人によって収集されたもので、蔵書は仏書、史籍など一万五千点に及び京都の醍醐寺、和歌山の根来寺とともに古くから天下の三教蔵の一つに数えられているという。
その蔵書の内訳を聞いてびっくり! 『古事記』(賢諭筆)をはじめとして国宝、4点と40点近くの国の重要文化財がある。 前もって予約しておいたので特別にそれらを見せていただいた。 もっとも、本物はただいま名古屋博物館で公開中。写本をみせてもらった。
次にやってきたのが大須観音から南東に100mのところにある『七寺(ななつでら)』

735年行基により開創。787年、河内権守紀是広(きのこれひろ)がわがこの菩提のため、七区の仏閣と12の僧坊を建てたことから「七寺」とよばれるようになったもの。 繊細により焼けてしまったが、木造観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像(国重文)の2像は戦災をまぬがれた。 玉眼が入っているめずらしい菩薩様。他に平安時代末期の唐櫃入一切経(国重文)もあった。
日本でも貴重な重要文化財がここにはあって驚いた。 こんな名古屋のど真ん中にある小さな寺に世界でも珍しい経文が残っている重文があるなんてと驚いた。
次に来たのが那古野山古墳。



那古野山古墳は前方後円墳と推定されるもの。 現在は高さ6m、径17mの後円墳のみが残されている
こんなににぎやかな場所に古墳がのこっているなんて珍しいなあと驚いた。

冨士浅間神社




仏足跡


最後にやってきたのが『万松寺』(ばんしょうじ) 『万松寺』(ばんしょうじ)(曹洞宗)は天文9年(1540年)開基は織田信秀信長のお父さんである。

織田信秀のお墓である。

織田信秀の墓。
織田信秀は織田信長の父である。 信長の陰に隠れてしまっているが優れた武将であった。 信長が生まれたとたんに名古屋城を信長に譲り城主とした。 戦国武将のように子どもに教義を押し付けることはせず、信長が興味を持った好きなことだけをさせるようなことをしたのだった。それで信長が「おおうつけ」など呼ばれるようになっても一貫して信長を支持しつづけたのであるから、父信秀の器量は大きく、先見の明があったともいえよう。
さて信秀が死に葬儀はこの万松寺で行われたのである。 弟信行をはじめとして、近親、重臣が居並ぶ中、700名の家臣が参列。喪主の信長の姿はない。
焼香のとき、信長が現れ腰にあら縄を巻き、太刀と脇差をさし、袴もつけずの姿。 信長はつかつかと前に出たかとおもうと、いきなり抹香をわしずかみにし、位牌に向かって投げつけた。 これは小説の中のお話。
その信秀のお墓がこれである。
こんな繁華街のど真ん中、若者でにぎわう大須の真ん中にありながら、万松寺の裏手に回ると信長塀に囲まれたひっそり静かなところにこの廟所があった。 不思議な空間であった。 こんな歴史の逸話が残っている廟所は静かにひっそりと眠っているようであった。
今日の文化フォーラムは歴史的なお寺をめぐった。世界でも貴重な経典が収められていたり、あの「古事記」があったり、信長が位牌めがけて灰をかけたといわれた父信秀のお墓があったりと今一番名古屋でにぎわっている場所にそれらが存在するという史蹟の妙を見る思いであった。
日本の歴史の中でも欠かすことができない三英傑(信長、秀吉、家康)を輩出した名古屋の地は今、日本でもっと熱いばしょと言われている。 ファッション、文化が今熱い。
そんな熱い「現代」のど真ん中にひっそりと佇む「歴史の場所」を巡った文化フォーラムであった。
みなさんも、名古屋へお越しの節は、ひつまぶしや、みそかつに舌鼓を打つ一方、こうした「歴史」の宝庫でも或る場所をめぐってみては如何でしょうか?
| 2007年09月21日(金) |
奈良県橿原市(かしはらし)今井町への旅 |
今日はかねてから行って見たいと思っていた奈良県橿原市今井町へ小さな旅をしてきた。
朝はやく電車に飛び乗り、名古屋からは近鉄特急で大和八木で降車。
奈良県橿原市(かしはらし)今井町は天文年間(1532〜1554)に今井兵部が称年寺を開いたのが始まりで各地から商人を集め行政機能を整備し商業地として隆盛を極めた地である。
この今井町をご存知の方はどれぐらいいるだろうか? 大方の人は今井を通り過ぎ、飛鳥へ行ってしまう。 ところがどっこい! この今井町は穴場中の穴場。 町全体が江戸時代のままそっくり残っている貴重な土地なのである。
城壁都市ならぬ掘割都市として繁栄した地であり、「大和の金は今井に七分」といわれるぐらい大和の冨はほとんどこの今井に集まったのである。 400年もの期間、火災にあわなかったっため、室町時代からの町割りや江戸時代の豪商による贅の限りの建物がそっくり残っている貴重な町。
行ってみてびっくり! 本当に江戸時代がそのままの街並みで、その規模も広くて驚いた。
ではその様子を写真で紹介しよう。
 町の広さは東西に600m。南北に310m。


 内部にある台所では「まがたまかまど」と呼ばれるまがたまの形をした「おくどさん」があった。 たった一人でこれら多くのかまどを全部管理できるというすぐれもの。
 電柱も電線もないので町人姿の番頭さんでも出てきたら江戸時代にタイムスリップしたような風情である。
さて、次に揚げる写真を見て「あれ?どこかで見たことがある」と思う人が多いのでは?


そう大和ハウスのコマーシャルにでてくる御宅である。
江戸時代の豪商の御宅で、お醤油屋さん。
土間を通しておくまで吹き通しがきく素晴らしい設計とその風情。 コマーシャルに使われたのもうなずける。
江戸時代には年貢を納める蔵もあったというからここら一帯を治める豪商であったのだろう。 この辺一帯の土地を多く所有していた当主も時代の風は厳しく全てとられてしまったとか。 しかし、この建物は江戸時代のまま。 瓦は江戸時代のままで「まる瓦」。屋根には「屋根神様」が鎮座していた。 ご当主がでてこられてお話を聞くことができた。



この辺の家の間取りは だいたいが似ているそうで、細かい格子や「六間取り」の座敷が特徴。 つまりたたみの部屋が三間、二列になっている間取り。 ふすまをはずすと四部屋が一つの大部屋になる。

当主の部屋は敷居が一段高くなっている。 つまり当主がいるへやは格式高くなって段差がつけられているのである。 後に「敷居が高い」という言葉はここから来たのだろう。
さて、次に揚げる写真はいったい何だろうか?分かる人?
 これは何と保育園。
表に回ってみるとさらにびっくり!

こ〜んなに立派な門まであった。

豪商の家には駕籠まであった。

今井まちなみセンター
この近くでお昼を食べた。 お昼はこのブログにいつもコメントを書いてくださっている酒徒善人さんのお奨めの「横田すし」へ。
おいしゅうございました。
お昼を食べて満腹のお腹をかかえながら、次は飛鳥へ。
飛鳥ではレンタルサイクルをかりて飛鳥古墳などをみてまわったけれど、時間切れとなって途中で引き返して帰途につくことにした。 また別の機会に飛鳥へ行くことにする。
今日は残暑が厳しくて汗をかきかき、歩いて歩いての旅。
ずっと行きたいと思っていた今井町。 江戸時代がそくりそのまま残っている貴重な街並みを見て感激した旅だった。
観光客があまりたちよらない穴場中の穴場の土地。
400年もの間、火災にもあわず、営々と町の人たちがここ今井町を大切にしてきたのはすごい心意気である。
さらに驚くのはその江戸時代のままの家屋が空き家でなく今現在もその子孫の方々が住んでいることである。
何でもかんでも欧米化して日本家屋がすたれている昨今、不便なことものあるだろうけれど、こうして大切に「日本」を残している町の人全体に敬意を表したい。
奈良は日本人の心の、歴史のふるさとである。
街並み保存というスローガンをかかげるというそんな大仰なことでなく、心底先祖の心をその風情のまま遺すその心意気が「町全体からただよってくるのを感じて感動した旅だった。
皆様も一度この江戸時代がそっくりそのまま残っている今井町へ旅してみませんか?
| 2007年09月01日(土) |
「青春18きっぷ」の夏バージョン京都篇 |
夏休み最後の土曜日。
「青春18きっぷ」の最後の一枚を使って京都へ行ってきました。
朝6時15分に家を出発し、電車に。 早朝なのにすごい混みようでびっくり!
みんなリュックを背負ったり、ザックをかついだり。 みんな「青春18きっぷ」を利用している様子。
名古屋から東海道線に乗り米原まで。 米原から東海道本線に乗り換えて「姫路行き」に乗る。 やはりすごい混みようでびっくり。 席をやっととって座った。 東海道本線の車窓はさながら日本の歴史をふりかえるような旅で楽しい。
米原へ行く途中、金華山の頂きには斉藤道三の城(岐阜城)が見えた。 岐阜(ぎふ)城は、斉藤道三、織田信長の居城として有名。
そして米原から姫路行きの東海道本線に乗り換えると関が原があり、安土城があったあたりの山が車窓からながめられる。
京都駅に着いたのが9時15分ぐらい。
そこからローカル線に乗りかえて嵯峨嵐山で下車。
嵯峨野の竹林を通ると涼しい風が通り抜けていった。

落柿舎(らくししゃ)

江戸期の俳人向井去来の閑居跡。[落柿舎(らくししゃ)]

嵯峨天皇皇女・有智子 (うちこ)内親王のお墓

向井去来のお墓
 西行の井戸跡
さて、今日のお目当ての場所『祇王寺』へやってきた。

京都でも最も美しくわびしいまでに静寂な場所『祇王寺』 何度きても美しく心が落ち着いて日本の美を感じる場所。

 こけむした庭。
 紅葉のこだちごしに見える庵の詫びた風情は絶景。
このこけに秋になると真っ赤な紅葉がおちてじゅうたんをしきつけたようになる。
 「控えの間の吉野窓」
祇王もこの円窓から庭をながめたであろうと思うと趣がいっそうます。
 祇王、清盛、祇女の像
平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれるもの久しからず、唯、春の夜の夢のごとし」とあるが、その続きに祇王祇女のことが出てくる。
これは平清盛と二人の女性の哀れな物語。 平清盛は白拍子の祇王を寵愛する。 そこに別の白拍子仏御前が現れ寵愛はそちらに変わってしまう。 昨日までの寵愛はどこへやら、館を追い出された祇王。
せめてもの形見にと
・萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いずれか秋にあわではつべき
と障子に書き残して去っていく。 後に追い出した仏御前もあとをおってこの祇王寺にやってきて一緒に尼になる。
一人の横暴な権力者に翻弄された女3人。 この嵯峨野のわびしい庵で読経三昧の生涯を送ったかと思うと感慨深い。
喧騒の現実とはかけ離れたようなこの庵は訪れる人も少なく残暑が厳しい今日でも涼しい風が吹き、苔むした庭はほのぐらく心が落ち着く。
もうここへ来ただけで、他は見なくても良いぐらいの場所。
京都へ来たらここへ是非足をのばしてみることをお奨めしたい。
さて、この静寂の世界をすぎてみれば現実に戻って時はまさに正午。
またローカル線に揺られて東山へ。
ここ京都で洋食を?とびっくりされるかもしれないけれど、絶品の店があるというので来てみたのが「みしな」 こじんまりした店にシェフとママさん、お母さんの三人がやっている店。 ここはリピーター客が多い絶品の洋食屋さん。
エビフライとかにクリームコロッケ、ビーフシチューが美味。

これにお茶漬けがついている。

これがまたおいしい。 それから祇園へ。

四十七士の大石蔵之助がいつづけをした、あの「一力茶屋」

 格子が美しい御茶屋さんが軒をつらねている。
 お茶屋さんからでてきた日本髪のお姐さん。

 べんがら格子などの格子が美しく粋なお茶屋さんが軒を連ねる京都の街並み。
 一時週刊誌をにぎわせた佳つ乃さんのお店
こうして京都の町をあちこち歩いているうちにもう帰る時間がせまってきた。 日差しは暑いのに風が爽やかになってきた。 もう秋がそこまでやってきているのね。
帰りの電車も超満員。 夏休み最後の土曜日を小旅行に遊びにと繰り出した人が大勢。
「青春18きっぷ」の夏バージョンはもうこれでおしまい。
9月の半ばごろ、今度は近鉄で奈良の今井へ行く予定。
京都は何度行っても日本を再発見する場所。
みんな、いい旅しようね。
| 2007年07月26日(木) |
「青春18きっぷ」神戸篇 |
今日は「青春18きっぷ」を利用して神戸へ行って来ました。
青春18きっぷとは:
日本全国のJRの普通列車に乗り放題の切符です。 1枚で1日有効×5回分 11500円〜 こども用はありません。おとなと同じで1人1日で1回となります。 年齢制限 なし。 乗り降り自由 。 使い方次第で格安に旅行することができます。
何度も乗り継ぎが発生しますので鉄道で遠出した経験のない方は まず近距離で経験してからでないと大変です。
発売期間と利用期間について 春(JR発足20周年・青春18きっぷ) 発売期間 2007年2月20日から2007年3月31日 利用期間 2007年3月1日から2007年4月10日
夏(青春18きっぷ) 発売期間 2007年7月1日から2007年8月31日 利用期間 2007年7月20日から2007年9月10日
冬(青春18きっぷ) 発売期間 2007年12月1日から2008年1月10日 利用期間 2007年12月10日から2008年1月20日
毎年2月下旬に春、夏、冬の発売が正式決定になります。 発売期間、利用期間は毎年同じ傾向です。
使い方 当日、1日ずつ改札で日付を入れてもらいます。 夜行など利用で日付が変わってから使いたい場合は日付の変わる駅まできっぷを買って乗り、 車内か下車する駅で日付を入れてもらいます。 利用日が連続しなくても大丈夫です。 複数人で使う場合は同一行程で人数分の日付を入れれば1枚で使うことができます。
というわけで、朝6時半の電車に乗り出発。 金山(名古屋)から米原まで東海道線で、米原で乗り換えて姫路行きに乗り神戸三宮で下車。
神戸JR三宮(さんのみや)駅に着いたのが11時半。
うす曇の今日、むっとする暑さ。
三の宮は、旧生田区、太平洋戦争後における神戸市の中心的市街地(繁華街)。 多くの鉄道路線が集中する三宮駅(JRは三ノ宮駅)を中心に商業施設が集まり、神戸市役所にも近い。
神戸は1995年(平成7年)、阪神・淡路大震災により甚大な被害をこうむった。
随分前に一度車で来たことがあったけれど、その後大震災で神戸も様子が変わったようだった。 そこで今回復興した三宮界隈を見ようときたわけだ。
先ずはお昼ご飯を食べに中華街へ。

ウイークデーなのに中華街は人で一杯。

この中華街でも有名な店「民生」でお昼を食べた。
えびのチリソース、空心のいためもの、麻婆豆腐の冷製、焼き豚のチャーハンを頼んだ。 評判よりも塩っ辛く、以前来てたべたときより味が落ちていてがっかり。
気を取り直して食後の口直しに西村珈琲でおいしいコーヒーとケーキをたべることに。



インテリアがアールヌーボー様式で素敵。

ファブリックは英国のリバテイの生地だったのでパチリと写してみた。

おいしいコーヒーを飲んで機嫌を直して元町へ。 元町の高架下は長いアーケード街になっている。
 元町高架下をぬけでて生田神社へ。
生田神社は先日 藤原紀香と陣内智則が結婚式をあげたところ。

以前ブログでとりあげた神戸のパン屋さん「フロインどリーブ」の以前あった場所。 淡路阪神大地震で被害があったもとの店。

異人館がある北野地域に出てきた。
 お洒落な建築物があったので。レンガと打ちっぱなしの組み合わせが洗練されている。
この辺は安藤忠雄設計の家がたくさんあった。

ここで異人館周辺を巡るバスに乗って観光することに。
一周し終わった頃雨がふってきたので予定を変更して帰ることにした。
家についたのが7時。
青春18きっぷはまだ残っているので次は8月に奈良へ行く予定にしている。
蒸し暑い神戸だったけれど地震後の復興の姿を見ることができてよかった。
※実は先日(六月九日付け日記)で書いた旧神戸ユニオン教会(兵庫県神戸市中央区にある歴史的建造物。国登録有形文化財。)を見に行くのが目的だった。
雨がふってきたのと時間的余裕がなくなってしまったので断念。
| 2007年05月26日(土) |
富山(小矢部市)・金沢(長町・武家屋敷・茶屋町)の旅 |
昨日の雨が嘘のように出張先の富山は快晴。
気温は29度にまであがる見込みとの朝の天気予報どおり。
車に乗って出張先の富山県は砺波をでて帰路へ着くことに。
帰りも行きと同じようにのんびり休み休み、金沢や近県を見物しながら帰ることにした。
先ずは砺波から小矢部市へと移動。
小矢部市(おやべし)は、富山県の市。国内外の代表的な洋風建築物をモデルにしたメルヘン建築物が数多く建てられていることで有名。
故 松本 前市長が「これから育つ子らに夢を」と保育所や小学校、中学校などを中心に公共の建物をヨーロッパの有名建造物に似せて作るなど、次々とメルヘンチックな建物に建て替えた。
当初は、「こんな田舎に不似合いな建物を」と反対の声もありましたが、その数が増えるに連れて市民自慢の「メルヘンの街」が出来上がり、訪れる人が年々増えている。
 東蟹谷保育所 本体は、金沢旧制第四高等学校、玄関、塔屋は、東大安田講堂、塔上部はドイツのハイデンベルグの古城の塔を模して造られたもの。
 蟹谷小学校
校舎と時計台は、東大教養学部、体育館は 一橋大学の兼松講堂を模して造られている。
こんな風に「子どもたちに夢を」と言う言葉だけでなく実践してしまった前市長はたいした人だ。 そして今や名物になって観光にもしてしまったのだからすごい。 夢がある人だったのだなあと感心。
 小矢部は田んぼの風景が美しいところだ。

小矢部を後にして一路車は金沢へ


尾山神社(おやまじんじゃ)は、石川県金沢市に所在する神社。 主祭神は、加賀藩の藩祖前田利家で、創建は1873年。
 神門(国の重要文化財) 最上部の窓はステンドグラス 津田吉之助によって建てられたもので、重要文化財に指定されている。
ここを出てから車は金沢市内にある長町へ。 金沢の中心商店街香林坊から裏道へ入っていくとタイムスリップした空間に迷い込んでしまったように思える長町の武家屋敷へ出た。

 近代的なビルの並んでいる目と鼻の先に江戸時代の武家屋敷の様子が残る長町武家屋敷がありま時代劇の劇中にいるような錯覚が。
長町は前田八家の1つ長氏の屋敷があったことから名付けられた。廃藩置県により、金沢県ができ、その県庁が長氏の屋敷に置かれた。現在の長町武家屋敷一体は長氏、村井氏をはじめ上級武士から中級、下級武士などが住んでいた。 現在では、当時の武家屋敷は殆ど残っていないけれど、中級武士だった野村家邸は当時の武士の邸宅の様子を伺うことができる。

この武家屋敷とはがらりとかわって今度はお茶屋町へと移動。

東山ひがし(ひがしやまひがし)は、石川県金沢市にある伝統的建造物群保存地区の名称で、 南北約130m、東西約180m、約1.8haの地区のこと。 保存地区内の建築物140のうち約3分の2が伝統的建造物であり、茶屋町創設時から明治初期に建築された茶屋様式の町家が多く残る。
 美しい格子戸がはまっている茶屋様式の町屋は日本家屋の粋で洗練されていて独特の美しさがある。

 金沢の名菓「森八」の店。
この「森八」の裏手に泉鏡花の生家があったとのこと。

粋な風情のお風呂屋さん
 裏手の路地に入るとこんな風景も


美容院などと野暮なことはいいっこなしよ! 言うなら「髪結いどころ」
よく使いこなされあめ色になったつげ櫛が飾ってあった。

これがお米屋さんだというのだからなんと粋ですてきなんざんしょねえ!
| 2007年05月25日(金) |
富山・五箇山・世界遺産菅沼合掌集落 |
大雨の中、いよいよ出張先の富山へ車は進むことができた。
先ずは小さな世界遺産の村、五箇山へ

国指定の重要文化財で、最も大きな合掌造り家屋として有名なのが「岩瀬家」。
岩瀬家は「塩硝役宅」とされ、五箇山で作った塩硝を上納する役目を果たしていました。加賀の役人の宿舎にもなっていたので、居間は書院造りとなっており、材質にはけやきを使用することを許されていました。囲炉裏では合掌造りについてのお話が聞け、天井裏へ登ることもできます。
 普通の合掌造りの家は三階建て。 この岩瀬家は五階建て。
三階以上の部屋はお蚕を飼っていた。 これはお蚕の部屋
さて車はさらに北上し、世界遺産菅沼合掌集落へ


ここから先は出張先であり会議があるホテルへと急ぐことにした。 4時から会議があり、以後懇親会、そして就寝と長い一日は終了したのだった。
| 2007年05月24日(木) |
世界遺産岐阜県白川郷 |
雨の中さらに車を北上させ、世界遺産白川郷へ。
 合掌造りの民家がみえてきた。

 合掌造りの民家はみやげものやに。藤の花が軒先を伝っていて美しい。
 茅葺きの古い合掌家屋が113棟並んだ姿は、昔の日本の風景そのまま。

いよいよ出張先の富山へと車を急がせることにした。 (続く)
| 2007年05月23日(水) |
岐阜県郡上八幡・ひるがの高原 |
朝4時起床。
富山へ出張のため早起きする。 自宅から富山まで車で出かけることにした。
朝4時ごろから雨が降り出して五時半に家をでるころには土砂降りとなった。
富山では夕方の会議と懇親会に間に合うように行けばよいのでのんびりと郡上八幡、白川の合掌村、五箇山の平家の落人の集落などを見ながら行く予定にしていた。
車で名古屋から富山までというのはかなりの距離だけれど、のんびり行こうと思ったので気持ちは楽だったけれど、いかんせん雨が土砂降りでは興ざめだ。
先ずは大雨の中岐阜県郡上八幡に。
郡上八幡は長良川の上流に位置し、奥美濃の山々から流れ出た吉田川、小駄良川など三つの川が合流するところにある。
この恵まれた地形と、長い歴史の中で郡上びとによってはぐくまれた清流の文化は郡上八幡の貴重な遺産。
環境省が選定した「日本名水百選」の第1号に指定されたことで有名になった湧水が「宗祇水」 
 文明3年(1471)連歌の宗匠・飯尾宗祇が郡上の領主である東常縁から古今伝授を受けて京へ戻るとき、当時の2大歌人であるふたりが、この泉のほとりで歌を詠み交わしました。
「もみじ葉の 流るるたつた白雲の 花のみよし野思ひ忘るな 常縁」
「三年ごし 心をつくす思ひ川 春立つ沢に湧き出づるかな 宗祇」
惜しむ別れを清泉に託した2首の和歌が残されている。
雨がどんどんふりしきるので先を急ぐことにした。 車のワイパーがせわしなく左右に首を振るなかひるがの高原へ。

長良川源流に位置するひるがの高原は日本海側と太平洋側の嶺 にあたる分水嶺がある。小さなせせらぎが流れる分水嶺から、左 が太平洋、右が日本海へと分かれる。  ここではほんの小さな流れだがやがて長良川と庄川の大きな流れ となり、また海で1つになる。そんな小さなドラマがここにある。
雨はやむ様子もなく、次は世界遺産に認定された岐阜県白川郷へと車を進めることにした。
| 2006年02月26日(日) |
モロッコとサハラ砂漠の旅 |
2月25日〜3月4日までの「サハラ砂漠とモロッコ幻想紀行」の旅日記です。
中部国際空港からパリ乗り継ぎ便にてモロッコのカサブランカへの第一日目の旅がはじまりです。
※北西アフリカの三国、モロッコ、アルジェリア、チュニジアを総称してマグレブと呼びます。 マグレブとはアラビア語で「日の没する大地」。 モロッコは有史以来、ヨーロッパ、アフリカ、アラブをつなぐ交易の十字路として重要な役割を果たしてきた。その結果、ベルベル&アラブ文化をベースとし各国のエッセンスがまじった多彩なカルチャーが生まれた魅惑的な国です。 気候も風土も表情豊か。 国土は日本の1.9倍の広さ。緑豊かな地域もあれば、砂漠地帯、アトラス山脈の高地には雪がありと表情豊かな国です。
<モロッコの旅の第二日目> ●カサブランカ観光 カサブランカは人口257万人。最大の経済都市。国の経済を支えるリン鉱石(世界の75%を埋蔵)や、農産物の輸出港としても大切な役割を果たしている都市。 カサブランカはハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンの映画「カサブランカ」で有名です。 着いたのは夜。 土砂降りの雨にがっかり。 なんときいてみれば、今は雨季だというじゃありませんか! なぬ!雨季?だまされた〜! 一週間ずっと雨なんだろうか?砂漠にも雨がふるの?とがっかり。 しかし、しかし、日ごろの行いがよい私。翌日から帰国するまでずっと晴天になりました。
 ハッサン2世モスク
1986年から1993年まで8年がかりで完成したモロッコ最大のモスク。 昨夜の雨で足元の大理石がぬれて光っている。 ● マラケシュ観光 マラケシュの街は新市街と旧市街、史跡地区と大きく3つにわけられている。
 クトウビアの塔
メデイナ(旧市街)の西にそびえ建つマラケシュのシンボル、クトウビアは高さ65mの美しい塔。4面それぞれ異なる装飾を持つムーア様式建築の傑作。
 アグノウ門
スルタンが宮殿に行くために使われた門だが、死刑に処される罪人の首をさらす場所でもあった。 門の上にはコウノトリの巣があった。写真右側の上にコウノトリが見える。
 バイア宮殿
アルハンブラ宮殿にも負けない宮殿。4人の妃と24人の側室たちの部屋がある。 ここは時々国王が宿泊するというだけあって輝く宮殿で豪華。
 ジャマ・エル・フナ広場
死者の広場と呼ばれ、ムラ・ビト朝時代の公開処刑場。 大道芸人が集まり、多くの人があつまりにぎやか。

 スーク
モロッコのスークでは値札がないのが普通。商品の値段は店主との交渉で決める。 荷車やろば、馬車が通る。
 ねずみの男ような服装をした人がパンのようなナンをくれた。
 タジン(三角形のふたが特徴の土鍋で煮た煮物料理)
炭火で煮炊きをしていてちょっとびっくり。
 ケバブ(串焼き肉) <モロッコ紀行三日目> テイシュカ峠2260mを越え、アトラス山脈を越え、ワルザザードへ。1987年世界遺産になった要塞化された土の村アイト・ベン・ハッドウ観光。カスバ(要塞)と街並みを散策。
 アトラス山脈
アトラス山脈はモロッコを大きく分ける二つの顔を持っている。 北側のマラケシュ、フェズ、メクネスといった「城壁とメデイナの世界」とすれば、南側はサハラ砂漠へと続く「カスバとオアシスの世界」。 「アトラス山脈を越える」ということは4000m級の山々の壁を越えていくことを意味するのでそれは大変なこと。 風景のあまりの変化に驚愕しないものはいないだろう。

アトラス山脈を越えると別世界が広がる。 4000m級の山の壁が地中海の温暖な空気を遮断し、南にはサハラ砂漠迫る。山と砂漠の狭間、この地域は北側とはまるで違う気候風土。乾燥大地には数本の川が流れ、そのほとりにオアシスが点在する。そこには日干しレンガつくりの村がある。 かつては要塞だった村。

 アイト・ベン・ハッドウ村
ワルザザートの西33km。アイト・ベン・ハッドウ村は日干しレンガ造りの古い「要塞化された村」の一つである。 村の道が迷路となっていて難攻不落の要塞を思わせる。
 幸運のおまじないの字
なんだか「おでん」を思い出してしまいました。
 くずれかけた壁の穴から見える要塞
 アーモンドの花 桜の花に良く似たアーモンドの花が綺麗だった。
 チキンクスクス
<モロッコの旅四日目> トドラ渓谷を経てエルフードへ。
 トドラ渓谷
トドラ渓谷はモロッコのグランドキャニオンといわれる峡谷。 ヨーロッパのロッククライマーたちがこの岸壁に張り付いてロッククライミングを楽しむ。 ここでフランス人の女性がころんで救急車が呼ばれた。 救急車は真っ赤な色だった。病院設備が整わないこの地で骨折してどうやって帰るのだろうか? 気の毒に。
 渓谷を流れる川でろばに水をのませる現地人。
 やぎ
 トドラ渓谷の絶壁
 ターバンの巻き方を教えてもらってにわかベルベル族。
 ケアラムグナの村で取れた三葉虫の化石
 アンモナイトの化石
 キヨクテ(肉団子)のタジン(煮込み料理)
<モロッコとサハラ砂漠の旅(5日目)> 朝4時に四輪駆動車に乗って一路サハラ砂漠へ
がたがたと道なき道を四輪駆動車にのって頭を天井にぶつけながらサハラ砂漠へ向かう。 やっと着いたサハラ砂漠は暗闇の中で明かりもなくらくだの群れがあるだけ。
 私はらくだに乗らず、歩いてサハラ砂漠の砂を踏みしめてみたかった。
砂丘はどこまでも続いていて方向感覚が分からなくなる。 ガイドの導きで歩くのだけれど、さらさらした砂漠の砂に足を取られ、歩きづらい。 休んでいると取り残されるので怖くて休めない。
砂丘は果てしなく続いて息が苦しくて登りながらハーハーと息の音がサハラ砂漠の闇のなか響く。
やっと暗闇の中、朝日を眺めるのに絶好の砂丘に到着。 もう苦しくてぜーぜー、ハーハー。 はるか砂丘の向こうにベルベル族(ベドウイン族)のテントが見える。 そこかららくだの隊を組んで砂丘をゆうゆうと歩いていくのが見えた。
 これがサハラ砂漠を行くらくだの隊列
 砂漠の真ん中にUFOのような雲がポッカリと浮かんでいた。
残念ながらサハラ砂漠から昇る朝日を拝むことはできなかった。
がっかりしてまた四輪駆動車にがたがたと揺られながらホテルへ帰って朝食。
朝食後、アトラス山脈を越えてザット峠(2178km)を越えることに。 ザット峠(2178km)は昨日まで深い雪のため、道が封鎖されているという。 今日も通れなかったら、迂回して別の道をバスでいかなければならない。 幸運なことに封鎖解除。
モロッコと云う国は驚く。 砂漠があるかと思うと緑濃きオアシスが突如現れ、峠を越える頃には雪が降っているという風で気候がまるで変わる。 風景もがらりと変わる。ザット峠(2178km)にはこんなに雪。ここには写真にあるように 世界遺産に指定されたアトラス杉の村がある。

<モロッコの旅(6日目)>
フェズ観光、旧市街の迷路のような道をぐるぐるとまわる。皮のなめし工場見学。
 メデイナ(旧市街の狭い迷路のような通り) ろばで荷物を運んでいる。狭いのでロバにぶつかりそうになりながら歩く。 左側には肉やが肉をぶる下げて売っている。

 小学校。 この国は一家族に子どもが5〜7人という子だくさん。子どもは労働力になるのでたくさんいる。
 左側の紫色の服を着ている夫人は目だけだして全身を覆っている。
 皮のなめし工場。
殺したばかりの動物の皮をなめしたり、染めたりする工場。 右側の黄色いものは動物を裂いて干してある。 左側には染料の入った壷が数十も。 監督のような人が見張っていて、染める雇い人は染料の壷にすっぽり入って足で染めている。 染料が全身に染まって凄惨。女工哀史のような感じ。
石灰を鳩のふんで洗うので臭気は嘔吐しそう。 見学者にはミントの葉が配られ、それを鼻にあてがいながら見学しないとものすごい臭気で吐きそうになる。
 きんぽげの花がじゅうたんを敷き詰めたよう
 イカにご飯をつめたイカのタジン(煮物料理) 旅行中で一番口にあった食べ物。
<モロッコの旅をおえて> モロッコとサハラ砂漠幻想の旅はこうして8日間があっという間に過ぎていきました。
モロッコと云う国は北西アフリカに位置し、西に大西洋、東にアルジェリア、南に西サハラを挟んでモーリタニアと接している。一方、北側はジブラルタル海峡を挟んでヨーロッパ大陸とせっしているという地形。 スペインのアルヘシラスから高速船で1時間、わずか14kmという距離。 まさにヨーロッパからアフリカへのゲートウエイといえる。
大西洋岸や地中海岸にかけては肥沃な平野が広がり穀倉地帯となっている。 一方アトラス山脈のから東は砂漠とオアシスの世界。南下するにしたがって砂と岩のサハラ砂漠が広がってところどころにオアシスが点在する。
気候は地域によっては昼夜寒暑の差が20度Cもある。
治安は比較的良いけれど夜で歩くのはやはり危険。 民族は国民の6割がアラブ人、3割がベルベル人。民族の対立はほとんどない。
モロッコをざっと一周して日本の約2倍の広さには砂漠あり、平野あり、山岳地帯あり、日干しレンガつまり、泥だけで造られた家の要塞と言った異様な景観に圧倒された。
迷路のような要塞の村、狭い旧市街をいまだにロバで荷物を運搬し、その生活ぶりは日本のはるか昔、60〜70年前のような暮らしぶりであった。 またフェズの旧市街では9世紀初めモロッコ最初のイスラム王朝の都ができ、1000年を越えたいまなお市民の生活の場としていき続けている様子は壮観である。
無数にめぐらした網の目のような城壁の内側では壮麗なモスクがあり、スークとよばれる商店街がひしめいていて「カオス」の世界に迷い込む。
子どもは労働力になるのでみな子沢山。
ヨーロッパなどの西側諸国とはまったく異とする景観と異文化はまさに砂漠の迷宮といった面持ちの国の印象が濃い。 泥を乾かしてレンガにした要塞の村はそまつなのに修復しながらも100年は持ちこたえた。 いったい誰がどのようにしてこうした要塞を造ったのだろう。 休憩に立ち寄ったトイレの脇には小さな部屋があり、そこはお祈りの部屋だった。 一日5回メッカの方角に向かってお祈りするイスラム教徒。 これだけ多くのイスラム教徒を内包するアラブ、アフリカ諸国を敵にまわしてイラクを攻撃したアメリカは安々と統合統治できるものではないと実感。
今まで見たこともないような景観を有する異文化と砂漠とオアシスの国、モロッコは欧米の価値観からは計り知れないものを持つ国という印象だった。 アラブ、イスラム圏の国々を芯から理解するのは長い期間をゆうするのだろう。
異文化に触れて「カオス」の迷宮にさまよった一週間であった。
 モロッコみやげです。
らくだの人形とスリッパ
 ラクダの皮のスリッパ なめし皮屋で買ったもの。ラクダの皮は丈夫で品物は良質です。
 ホテルのみやげ物やで買ったスリッパ。
ビーズ刺繍がしてあっておしゃれ
 ラクダの人形と愛犬クッキー
らくだと愛犬は同じ大きさ。ちょっといじけている愛犬は人形より小さく見える。 ラクダのお目目が愛犬と似ていたので思わず買ってしまったものです。
私はついにサハラ砂漠でラクダを一頭買ってしまったというわけ!
| 2005年06月12日(日) |
オランダ・ベルギーの旅(はじめの一歩) |
アムステルダム・スキポール空港へは5月30日夜18:55分に到着。 肌寒く気温14℃。冬のコート姿がほとんど。空港から列車でアムステルダム中央駅へ。
 アムステルダム中央駅(東京駅のモデルになったレンガ造りの立派な建物) ホテルは駅から徒歩5分。まずは旅装をとくことにした。9時ちかくなのに昼のような明るさ。夜10時ごろまで明るい。
今回の旅はベネルックス3国共通の鉄道パスを買ったので列車は乗り放題。他にトラム(路面電車)、バスの回数券を買う。これで交通機関は一々切符買う手間が省け乗り放題なので気の向くまま乗れる。市内地図と路面電車の地図を片手にオランダ、ベルギーを縦横無尽に乗り、歩き、尋ね、食べ、美術館めぐりを堪能したのだった。
5月31日、トラムに乗って行こうとすると電車が火災で出ていない。旅行者にとってこうした予想外の出来事は面食らう。急遽電車に乗ることにして路線図と首っ引き。外国旅行すると一日に何人もの人に道を尋ねることになる。みな親切。英語がかなりできる人が多く、さすがヨーロッパ。
※ここでオランダの概要を: オランダは九州よりやや小さい国土面積で北海に注ぐ3大河、ライン河、マース河、スヘルデ川のデルタ地帯を中心に低地が広がっている。国土の20%以上は13世紀以降の干拓工事によって造られた。日本との交流も深い。
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