月の輪通信 日々の想い
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アプコは、大きな声を出してワァワァと泣いた。 アユコは、アプコの肩を抱いてしゃくりあげていた。 その後ろでゲンは唇をへの字に結び、宙空を見上げていた。 部活から全速力で自転車を飛ばして帰ってきたオニイは、人のいないところで眼鏡をはずし、拳で頬をぬぐっていた。 ひいばあちゃんが逝ってしまった。
子ども達にとってひいばあちゃんは、居間のドアを開けるといつもTVの前に座っていて、顔を見ると「やぁ、きたきた!」と喜んで到来物のお菓子を勧めてくれる優しい存在だった。 そして窯元という仕事を意識し始めているオニイにとっては、偉大なる先代夫人、生涯変わらず職人仕事を極めた尊敬すべき先人だった。 ただ眠っているかのように横たわっている穏やかなひいばあちゃんが、もう物言わぬ、遠い存在になってしまったということを、このとき子ども達は本当に実感として理解していたのだろうか。
通夜、告別式があわただしく過ぎていった。 ひいばあちゃんのお線香番を代わる代わる務め、おじいちゃんおばあちゃんのそばに付き添い、子ども達はそれぞれに自分達の役割をよく果たしくれた。知らぬ間に怒涛のように進んでいく葬儀の流れの中で、ひいばあちゃんとの別れの悲しさとは別に、何となく新しいイベントに臨む様な独特の高揚感が漏れていた気がする。 棺にちんまりと収まったひいばあちゃんを見て、弔問の人たちは「きれいなお顔をなさって・・・」と口々におっしゃってくださったけれど、ひいばあちゃんはまるでついさっきふいと居眠ってしまわれたばかりのようで、子ども達は誰もドライアイスで冷たくなったお顔に手を触れようとはしなかった。
告別式を終え、火葬場へゆく。 読経のあと、エレベーターの扉のような火葬炉の中へひいばあちゃんの棺は消えた。 「ねぇ、おかあさん、ひいばあちゃんはどこへいくの?」 葬儀場へいったん帰るマイクロバスの中で、アプコが小声で私に聞いた。 天国?極楽?あの世?黄泉の国?そんな答えがあれこれグルグル私の頭をよぎったけれど、アプコが求めていた答えはそういう類のものではなかった。 火葬に立ち会ったことのないアプコは、ひいばあちゃんの棺を扉の向こうにすでに埋葬してきたものかと思ったらしい。いつもお墓参りに行くお墓に入れるはずなのに、何故ひいばあちゃんの棺を置いてみんなが帰ってきてしまうのかがよく判らなかったのだろう。 言葉を選び選び、埋葬までの流れを説明してやった。 そういえばアプコ以外のほかの子たちも、何度かお葬式には出たことがあるものの、お骨上げの場には立ち会ったことがなかったかもしれない。
扉の向こうから引き出された台の上には、もうひいばあちゃんは居なかった。 「ここが手。ここが足。そしてここがお顔です。この部分が喉仏ですね。」 真っ白な紙細工のように燃え尽きたひいばあちゃんのお骨。 はじめて見る火葬後の姿に心を衝かれたか、子ども達は何となく後ずさって、お骨に集まる大人たちに席を譲った。 アプコは、お骨を拾うお箸をなかなか持ちたがらなかった。 アユコがアプコと一緒に手を添えて、ひいばあちゃんの手指のお骨を拾った。 オニイも口数が少なくなり、宙を見上げていた。 一人ゲンだけが私の側に寄って来て 「こんなこと、言っちゃいけないかも知れないけど、人間も『モノ』だったんだよね。」といった。
そだね。 確かに、「ヒト」も「モノ」なんだよね。 父さんも母さんも、君も兄弟達も、最後はこんな風に真っ白な「モノ」になるんだ。 でも、その「モノ」が、笑ったり悲しかったり苦しんだりするって言うのが不思議だね。 人間のモノじゃない部分は、いったいどこに行くんだろうね。 そんなことを話していたら、アプコがぎゅっと私の手を握った。 「おかあさん」 潤んだ目で見上げたきり、後の言葉が続かない。 暖かいアプコの手。 「モノ」だけど「モノ」じゃない、生きているアプコの手。
「ひいばあちゃんはどこへいくの?」 ごめん、アプコ。 お母さんにはわからない。
父さんは一日個展会場へ。 義兄は、京都のお茶会へ。 義父母とともに、ひいばあちゃんに付き添う。
朝早く、点滴のためにやってきた訪問看護の人が、 「血圧が非常に低い。手首では脈が取れない」と言われた。 呼びかけにも反応しないし、ずっと眠っておられるよう。点滴もなかなか入らなくて、長い時間かかった。 今日明日あたりが山場かもと言われた。
義兄や父さん、主治医の先生や訪問看護センターなど、あちこちに連絡を取りながら、交替でひいばあちゃんのそばにつく。 義父母も危急の事態に何となくそわそわとうろたえ始めた。 看護士さんから直接伝え聞いたこともよく理解しておられなかったり、何度も聞き返したりなさることが増えた。 私がしっかりして、ひいばあちゃんの最後を看取らなければと思うと、急に薄ら寒く怖くなってきた。
昼、訪問看護センターから電話。 「もし、呼吸が止まったら、救急車は呼ばないでセンターか主治医に電話してください。 呼吸の止まった時間を、見ておいてください。」 とシビアなお話。
小さく口を開けてただ眠っているひいばあちゃんの傍らで、お義母さんと静かに思い出話をしていた。 「あ、とまった?」と、二人同時に気がついて、ひいばあちゃんの口元に手を当てたら、もう呼吸をしておられなかった。 午後1時40分。 ご臨終だった。
「電話しなくちゃ」と部屋を出たとたん、電話がなった。 主治医の先生だった。 容態が気になってかけてきてくださったようだが、「たった今、呼吸が止まりました」と告げるとすぐに駆けつけてきてくださった。 先生が臨終を確認してくださり、死亡診断書の手配をしてくださった。 訪問看護の看護士さんに電話して、ひいばあちゃんの清拭をお願いする。
先生の車を見送ったら、わっと涙が溢れた。 でも、もう少し、泣いていられない。 玄関の外で涙をゴシゴシ拭いて、義兄や父さんに連絡を取った。
夕方、義兄が帰ってきて、義姉や義妹もやってきた。 臨終のショックも落ち着いて、義父が最後の瞬間のことを何度も話していた。気持ちが高ぶって、喋り続けずに居られないのだろう。 義母も少し落ち着くと、いつもよりハイテンションでパタパタと走り回っている。 葬儀屋がやってきて、にわかに家の中があわただしくなった。 ひいばあちゃんが、私の手の中からふわっと消えていなくなってしまわれた。
ひいばあちゃんの病状、相変わらずよくない。 ほとんど召し上がらない。 お茶も一口二口しか召し上がらない。 数日前から、訪問看護の看護士さんが毎日来てくださることになって、血圧や脈拍を診て、着替えをさせ、点滴をして行ってくれる。 何も召し上がっておられないのにひいばあちゃんは、着替えを嫌がって手を払ったり、点滴の腕をもどかしそうに振り上げたりするだけの力が残っているらしい。 「いややぁ」とか、「しんどい」とか、子どものように訴えたりなさることもある。
今日、看護士さんと義母がお下の着替えをさせていたら、ひいばあちゃんが突然大きな声ではっきりとおっしゃった。 「こんなこと、したかて、もう、なんもならへん!痛いだけや。」 そのはっきりした言葉の意味に、看護士さんと義母の手が一瞬はたと止まった。 胸を衝かれる言葉だった。
「そうかなぁ、なんもならへんのかなぁ。」 看護士さんは、ひいばあちゃんの言葉を優しく受け流して手早く着替えを終えられた。 100歳を超えたひいばあちゃんに、もうそれほど命のエネルギーが残っていないことは、家族にも看護士さんにもよく判っている。 それだけに、「一日でも長く」とひいばあちゃんの細い腕に毎朝点滴の針を刺す心境は複雑だ。 このまま何もせず、静かに命の火を消していかれるのを見守って差し上げるべきなのではないかという疑問が付きまとう。 でも、家族は皆、一日でも、一時間でも、一分でも、お別れの刻は先送りにしたいのだ。 そう思う気持ちは、遺されるもののエゴなんだろうか。 「こんなことしたかて、なんもならへん」ことなのだろうか。
辛い看取りの時間が今日もゆっくりと過ぎた。
ひいばあちゃんの具合が悪い。 寝間から起きてこられなくなり、食事も取られない。 吸い口で少しづつお茶を飲ませる。 プリンを一口二口召し上がる。 あとは、「しんどい」といって、うつらうつらしておられる。
老衰なのだ。
点滴や注射も、年寄りには負担になるのだそうだ。 主治医の先生も、「このままゆっくりさせてあげなさい。」といわれる。
義父はそれでも、一日でも命を永らえて欲しいと、無理をしてでも何か食べさせたいと、躍起になっている。 イライラして、自分をおさえられなくなっている。
たまたま義兄が東京へ出張。 いつもひいばあちゃんの介護や通院の決断を下している義兄が居ないので、その役割が個展前の父さんに負いかぶさる。 出来るだけ仕事に専念させてあげたいのだけれど。
人が枯れ落ちていく瞬間に立ち会っているのだろうと思う。 辛い。
寒い朝。 デイサービスに出かけるひいばあちゃんの身支度を手伝うために出動。 食事を終えたひいばあちゃんのお下の着替えを済ませ、髪を結う。
昨年末、100歳の誕生日を迎えたひいばあちゃん。 お正月のお膳もご機嫌よく召し上がって、新しい年を迎えたのだけれど、ここ数日何となく調子が落ちた。 最初は、「寒い寒い」といってお着替えを嫌がることからはじまり、だんだんにちょっとした移動も大儀そうになさるようになった。 寝床まで行き着く前に床にごろんと転がって眠ってしまわれることもある。大きな声で呼びかけても、かろうじて首を振って返事をなさるばかりで、お声を聞く事が少なくなった。 テレビの前に座っていてもうつらうつらと居眠りしていることが多くなり、食事もほんの一口二口しか召し上がらないことも増えた。 心配した義父が、口当たりのよいプリンやお茶を勧めて、かろうじて食事を終える。 今日、かかりつけのお医者様の口から、「老衰」という言葉がはじめて漏れたという。
あちらの扉、こちらの小窓と一つ一つを閉じていくように、静かに生の営みを閉じていかれるように見えるひいばあちゃん。 それでも目覚めれば、部屋から食事の席までは自分の足で歩いておいでになるし、介助もなしに自分でお箸を持ってご飯を召し上がることもできる。 「もう、ごはん、おわり?」と書いた筆談の文字を目で追って、黙ってうんと頷いたりなさる。 食べて眠って排泄をするという最低限の機能を最後まで残しながら、このまま少しずつ家族や外界と繋がる間口を狭めて、老いの終幕へと進んでいかれるのだろう。 「待って、もう少し」と引き止めておきたい気持ちと、 穏やかに歩んでいかれる道の先をじっと見守っていて差し上げたい気持ちと。 複雑な思いで日々を送っている。
ひいばあちゃんの手先、足先は冷たい。 100年生きたひいばあちゃんの心臓は、もう体の隅々まで温かい血液を配るだけの力を持っていないのだろう。 それでも、今取り替えたばかりのパンツ型紙おむつはぼってりと重く暖かい。 それはひいばあちゃんが、100年と三十何日めかの今日という朝を、確かに生きて迎えられたということの確かな証。 奇蹟のような重みと暖かさを、いつまでもこの手に記憶させておきたいと思う。
最近になって遅ればせながら、某動画配信サイトの使い方を覚えた。 嬉しくなって、名簿入力などのPC仕事の傍ら、昔好きだったロックバンドの古い映像などをあれこれ拾ってきては、BGM代わりに流し続けていた。 少女コミックのヒーローのような異形のステージ衣装。 脳天に突き抜けるような激しいシャウト。 何度も何度も繰り返す怒りのメッセージ。 もはや40過ぎのおばさんの私には、ボーカリストの煽りに応えてこぶしを振り上げるエネルギーはないが、若き日の胸の疼くような熱い憧れの思いのかけらを思い出し、懐かしい気持ちになる。
昔、このバンドのライブツアー前のメンバー達の日常を描いたドキュメンタリー番組を見たことがある。 ボーカリストが新しい曲作りに苦心し不眠不休で悶々とのたうつ姿や、演奏のスタイルをめぐってのメンバー同士の激しい言葉の応酬。衣装合わせやリハーサルの様子など、華やかなステージの裏側で見せるメンバー達の素顔が描かれていた。 音楽を楽しむというよりは、頑固な職人達のモノづくりの現場を思わせる地味で着実な作業の積み重ね。憧れのボーカリストの憔悴した素顔を見ながら、できることならお傍によって熱いコーヒーの一杯でも入れて差し上げたいと、夢見る少女は一人妄想を膨らませたものだった。
工房では今、父さんが今月末から始まる大きな展示会に向けて、不休の制作の日々を送っている。 制作のアイディアが浮かぶまでの鬱々としたジレンマの時期をようやく乗り越え、あとは時間と疲労との戦いあるのみ。 その鬼気迫る緊迫感に、工房へ足を踏み入れることすら怖くなるときもある。下手に声をかけると、集中力が途切れると噛み付かれそうな空気がピリピリと痛い。出来るだけ刺激しないように足音をしのばせ、使い終わった刷毛を洗い、新しい釉薬を溶き、土屑を片付ける。 制作意欲の波に乗りかかった父さんは、一人別世界に迷い込んでしまったかのように振り向きもしない。背中を丸め、一心に土を削り、繊細な釉薬掛けに瞳を凝らし、黙々と窯詰めを行う。
何も言わずに放っておけばこの人は、食べることも、眠ることも、しばし横になることすらも忘れてしまうのではないだろうか。 仕事の切れ目を見計らって、ストーブのお湯でコーヒーを入れる。 釉薬の容器や道具類で散らかったテーブルに父さんの大きなマグを置いて、「置いとくよ」とだけ声をかけて、静かに工房から退散する。 「少し、休んだほうがいいよ。」と言う言葉を、なるたけこぼさぬ様に唇を固くつぐんで。
もしかしたら今、私は少女の頃強く憧れた「誰かのためにコーヒーを入れる私」という淡く幼い夢を現実のものとして味わっているのかもしれない。 その「誰か」は、ステージの上で野獣の如くシャウトするボーカリストでもなければ、華やかなスポットライトを受ける美形のギタリストでもない。 けれど、その人の手は、なんでもない土塊の中から美しい形を生み出し、鮮やかな色彩を紡ぎだすことのできる魔法の手だ。 明るい展覧会場にずらりと並ぶ色鮮やかな作品の陰には、ただただ自分の身を削るように一心に土と向き合う作家の厳しい日常がある。 そのことを間近に見守り、おろおろと遠慮しいしい世話を焼き、作品の完成を一緒に喜ぶことの出来る今の私は幸せだ。 そんなことを思う。
お正月の里帰りから戻って、数日振りに我が家での台所仕事。 ピリピリと刺す様に冷たい水を洗い桶に張り、野菜を洗う。
濃い緑の葉っぱつきの大根は、実家の家庭菜園での収穫物。 都会育ちの幼い孫娘たちに収穫の楽しさを味わわせてやろうと父が丹精した大根だ。小学校の学級園で農作業はたっぷり経験済のアプコも、お姉さんぶってお相伴でぬかせてもらった。 土のついたままの立派な大根を新聞紙でくるみ、紐で縛って持ち帰ってきた。
たわしで泥を落とし、葉っぱを切り落として、まな板に載せる。 包丁を入れるとピリピリと亀裂の走りそうな張り詰めた大根を、薄く刻んで千六本にする。柔らかそうな大根葉も細かく刻んで、一緒に塩もみにする。 軽い重石を載せてしばらく置けば、簡単お漬物の出来上がり。 冬の大根が美味しい時期になると、実家のおばあちゃんがよく作ってくれた懐かしい味。確かおばあちゃんはこのお漬物を「もみぬき」と呼んでいた。 生の大根の適度なからみとシャリシャリと心地よい歯ごたえが大好きだった。気がつけば、「新鮮で立派な大根に行き当たったら、まずは刻んでもみぬきに。」というのが我が家の冬の台所の定番となっている気がする。
とうに会社を定年退職した父。 自作の立派な大根を前に 「もう、お前たちのために稼いでくる物と言ったら、こんなものくらいやな」 と笑う。 そうか。 「サラリーマンの定年退職後の生活」というのはそういうものなのかと改めて思う。 定年のない自営業の我が家では、高齢の義父母やひいばあちゃんも「ここから先は無職」というポイントがない。だから、何歳になっても窯元の仕事の一端を担っているような感覚が自他共に抜けない。 実際、年齢相応の衰えにしたがって仕事の量や質は落ちてはくるものの、健康の続く限りこまごまとした雑用や簡単な軽作業の「手」として何らかの役割が用意される。 それは、有難い事なんだろうか、それとも苦しいことなんだろうか。 くだらないことを考えてみたりする。
新年の挨拶にと、今年も父さんが干支の置物やお茶碗、香合などを実家に贈ってくれた。 毎年、あちこちにお配りしたり販売したりするために、年末ギリギリまで窯も乾燥機もフル回転で何十個も焼き上げる干支作品。家族従業員が総動員でようやく年内にすべてが納まった。 実家へ持ち込んだのは昨年最後の窯から出た、最終の作品。やっとのことで年が明けてから包装したものだ。
「一年の仕事の成果を、こんな風に作品という形にして持ってこられるというのはええ仕事やなぁ。」 と父が言う。 同じく帰省してきている弟達も働き盛り。それぞれの職場で責任ある仕事を任されて、精力的に働いている。 でも、その仕事の成果を直接的な物という形で故郷の父母の手の上に広げて見せることは出来ない。 「ものつくり」の仕事は、そういう意味でも幸せな仕事なのかもしれないなぁと思う。 父母は毎年、新年に私達が持ってくる干支作品をその場で開け、玄関の一番良く見える下駄箱の上や、和室の棚に飾ってくれる。 父さんや私の1年間の仕事の成果をこうしてみてもらえることを嬉しく思う。
怒涛のような年末仕事を終え、ゆるゆると穏やかなお正月をすごして、さぁ、今年も一年が始まる。 短い里帰りから戻った父さんは、さっそく工房で遣り残した仕事を始めた。工房の初出は来週からだけれど、父さんの仕事はもう元旦の翌日から始まっている。今月末の個展に向けて、新作の制作にも火がついてきたようだ。 また忙しくなる。 暖かい汁物の鍋をストーブにかけ、煮物や青菜を鉢に盛る。 夕食前の茶の間から子どもらの賑やかな声。 これも私達の仕事の成果。
朝、子どもたちを送り出して、工房へ。 父さんの夜なべ仕事で使った釉薬の刷毛や筆をまとめて洗い、義母の洗濯機のスイッチを押して2階へあがる。
今日は週に2回のひいばあちゃんのデイサービスの日。 朝食を終えたひいばあちゃんの着換えを手伝い、髪を結い直して、着換え用の荷物をそろえる。 「おばあちゃん、着替えようか」 耳の遠いひいばあちゃんの耳元で声をかけ、カーディガンのボタンを解く。暖房をガンガン焚いた部屋なのに、上着を取ると 「さっぶい(寒い)、さっぶい」とひいばあちゃんがキュッと背を丸める。 「寒いねぇ。ちょっと待ってね」 大急ぎで代わりの上着を着せ掛ける。
カーディガンと一緒に巻き上がってしまったブラウスをの袖を直そうと、ひいばあちゃんの袖口に手を入れようとしたら、 「ひゃあ、つっべたい(冷たい)手!」 と思いがけない大きな声が出た。 ついさっき、階下で水仕事をしてきた私の手。よく拭いて暖めてきたつもりだけれど、暖かい部屋で過ごしておられたひいばあちゃんにはとても冷たく感じられたのだろう。 「わぁ、御免御免。そんなに冷たかった?さっき、洗い物してきたからね。」 と思わず手を引っ込める。
いつも半目を閉じ、うつらうつらと居眠っておられることの増えたひいばあちゃん。 私たちのこと、どのくらい、判っておられるのかなぁ。 もう、お耳はほとんど聞こえていないのではないかしら。 普段は、老いと言う小さな殻の中にどんどん閉じこもっていってしまわれそうに見えるひいばあちゃんだけれど、それでも今日のように、なんでもないちょっとしたきっかけではっきりした声を出したり、昔の思い出話を始めたりなさることがある。 ああ、今日はご機嫌がいいのだな。 ちゃんと判ってらっしゃるんだな。 そのお声にこもる力強さに、うれしい気持ちがわいてくる。
下着を替えて靴下を履かせ、薄くなった白髪を小さなお団子に結う。 「ええきもち・・・」 ブラシで髪を梳くと、またひいばあちゃんの声が出た。 若い頃から一度も変わらずキュッと固く結いあげていた白髪をくるりと巻いた小さなお団子を留めるには、一番小さなUピンでも大きすぎて、刺しても刺しても頼りない。 それでも櫛をいれ新しく結いなおすと、明治の女の気概がよみがえるのか、一瞬しゃんと背がのびて、うなじの辺りの後れ毛を気にするように自然と手がのびて来る。 「はい、できました。べっぴんさん。」
デイサービスの迎えの時間が迫る。 ひいばあちゃんを階下の玄関のソファーに導いて、一緒に座って待つ。 外は木枯らし。 山の木の葉が雪のように降り注ぐ。 ガラス戸の向こうの風を眺めながら、「寒うなったなぁ」とひいばあちゃんがつぶやく。 ふと気がつくと、ひいばあちゃんの手をさすって暖めていた私の手が、いつの間にか反対にひいばあちゃんの両手に包まれていた。幼い子や孫の手をぬくめるかのように、無意識のうちに私の手をさすって温めてくださっていたのだった。
年寄りの介護といえば、老いて衰えていく人、だんだん判らなくなっていく人のお世話をする仕事だと思っていた。 日々の成長の発見が嬉しい子育ての仕事に比べれば、親しく暮らしてきた人の老いや衰えを日々確認していく介護の仕事は、切なく、先の喜びの見出し難い仕事だと思っていた。 けれども、老いの人との生活にも、確かにこんな驚きや嬉しさはある。 こちらはお世話しているつもりでも、知らぬ間にいろんなことを学ばせてもらったり、そっと励まされ暖めていただいているときもある。 そんなことを思う。
来週、ひいばあちゃんは満100歳のお誕生日を迎える。 お誕生祝いには、寒がりのひいばあちゃんのため、新しい肌着と電気敷毛布を用意した。 少しでも暖かい冬をすごしていただけますように。
地元の小学校での陶芸教室の日。 5年生2クラスの子どもたちと一緒に抹茶茶碗を作る。 私も父さんの助手のおばちゃん先生として朝から出動。 毎年この時期の恒例になったこの教室、オニイが5年生だった年の数年前から始まったのでもう10年近くになるのだろうか。 今日とあさっての二日間で成型し、年が明けてから近くのレクレーション施設にある陶芸窯で素焼きと本焼きを行う。
父さんが見せる水引きロクロのデモンストレーションに、わぁっと歓声を上げる子どもたちの中に、見覚えのある苗字のゼッケンをつけた体操服の男の子を見つけた。一読では読めない変わった読みの苗字は、アユコの同級生Aさんとおんなじだった。 うちへ帰って、アユコに 「Aさんの下の子って、もう、5年生になったんだね。もっとちっちゃい子だと思ってたのに・・・。」 と言ったら、 「そだよ。だって、Aさんの弟はなるちゃんとおんなじ歳だもん。」 と答えが返ってきた。
アユコの口から、「なるちゃん」という名前がふっとこぼれて、一瞬ふっと不意打ちを喰らったように胸を衝かれた。 なるちゃんは、生まれて3ヶ月足らずで逝った私の次女の名。 10月半ばに生まれて、翌年のお正月明けには天に戻った。 生まれつき心臓に障害があり産院から専門の病院に転院し、ほかの兄弟たちとはほとんど手を触れ合うこともなく逝った、縁の薄い赤ちゃんだった。 あの子が亡くなった時、アユコは4歳。 小さな遺影にお花や水をあげる時ぐらいにしか家族の話題に上ることも少なくなった亡き妹の名を、アユコは友達の弟の年齢を数えるときに当たり前のように使った。 そのことが、毎日あわただしく走り回る私の胸に、ぐいと痛く突き刺さった。
たった3ヶ月しか生きられなかったあの子には、秋の終わりから冬、クリスマス大晦日、そしてお正月のたった10日あまりの日々の思い出しか残っていない。春の日差しの中のあの子、夏のきらめきの中のあの子の姿を私は思い描くことができない。 それどころか、何本もの点滴のチューブや最新の医療機器に傅かれ、お姫様のように病院の白い新生児用のコッドにちんまり横たわっていたあの子の顔立ちすら、記憶の中でおぼろげになって立ち消えそうになっている。 「わが子の顔を忘れるなんて」と母としての自分の記憶の儚さを責める気持ちが、「なるちゃん」という名を久々に耳にしたときの鋭い胸の痛みとしてかろうじてまだ残っているのだろう。
もしあの子が生きていたなら、もう5年生。 どんな女の子に成長していたのだろうか。 そんな夢想すらすることが無くなった今の私。 私の手の中には、元気に成長するオニイ、アユコ、ゲンがいて、あの子の生まれ変わりのように生まれてきたアプコがいる。 一年のうち、秋から冬へのたった3ヶ月の間だけ、あの子は今日のような鋭い胸の痛みとともに、私のところに戻ってくる。
ああ、今年も、帰ってきたのだな。 今年は、やさしいアユ姉ちゃんの言葉を借りて「わたしを思い出して」と降りてきたらしい。 さあ、今年もそろそろあの子の為のクリスマスプレゼントを探しに行こう。 脆く儚いガラス細工の天使やツリー。 暖かくも鋭い痛みを抱いて・・・。
アユコとアプコを車にのせて地域の文化祭へ。 アプコは小学校の合同制作の作品を、アユコはクラブの華道の先生の作品を見に。
華展の一角で、子どもたちにいけばな体験をさせてくれるコーナーがあって、アプコは毎年それを楽しみに出かけている。近所のいろんな流派の華道教室の先生方(ほとんどがかなり高齢)が、一人ずつついてフラワーアレンジの真似事をさせてくださる。
今日、最初にアプコについてくださった先生は、たまたまその中では一番偉い先生だったらしい。途中からそばにいた別のおばあさん先生を呼びつけて、「この子はあなたが見てあげなさい」と交代を命じられた。 おばあさん先生は恐縮して「私なんかより先生が見て差し上げたほうが・・・」と言われたのだけれど、偉い先生は「私は顧問ですから、やりません」と言い放って、どこかへ行ってしまわれた。 そのくせ、おばあさん先生がアプコに教え始めると戻ってきて、「茎は斜めに切っておいてあげなさい」とか、「あなたが活けるんじゃなくて、子どもさんにやらせてあげなければ」とか、横からいちいち茶々を入れる。 そのたび、おばあさん先生が縮み上がって謝っておられるのが痛々しかった。
横で見ていたアユコ。 「あの先生、こわ。」とそっと耳打ち。 デモね、お茶やお花のお教室では、ああいう物言いをする人も結構居るよ。長幼の序とか、師弟関係の上下とか、そういうことをとても重要視する世界だからね。 」 「お茶やお花は好きだけど、そういうのは嫌だな」 というアユコ。
その後、ゲンを迎えに剣道の道場へ ちょうど稽古が終わって、ゲンは先生方に順番に挨拶に回っているところだった。 アユコはゲンの道場での稽古姿を見るのは久しぶり。 体格のいい大人の剣士たちに混じって、くるくると独楽鼠のように走り回っているゲンの姿を目で追う。
「見てごらん。剣道にも、段位の高い先生とか年長の先生とか、暗黙の序列があって、ご挨拶するにも手合わせを願い出るにも、ちゃんと決まりごとがあるんだよ。 ゲンは大人稽古では、入りたてのペーペーだから、あちこち雑用に走り回って、たくさんお辞儀をして大変だけど、でもある意味そういう上下関係を重んじることで道場内の秩序は守られていくんだろうねぇ。」 アユコにそんなことを話した。 「ふうん」と頷くアユコ。 あちこちにぺこぺこ頭を下げて回る剣道着姿のゲンを見て、何か思うところがあったようだ。
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