月の輪通信 日々の想い
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師走。 年末仕事に追われる父さん。 クリスマスプレゼントの皮算用をはじめた子どもたち。 お歳暮や年賀状の手配に忙しい私。 なんとなく気ぜわしい。
ご近所のNさんのおうちが今年もクリスマスのイルミネーションを始められた。 2階の窓から道沿いのフェンスにかけて色とりどりの電飾が取り付けられ、明かりがつく前からなんだか楽しい。特別な趣向や仕掛けがあるわけではないけれど、カラフルな色彩が冬枯れの道には華やかでよく似合う。 暗くなってから外出する機会の少ないアプコは、昼間まだ明かりのついていない電飾を目にするだけでもう「きれいねぇ」と夢見る瞳。 我が家の前の道は、ハイキングコースにつながるどん詰まりの道。 夜になると帰宅する住人のほかには、ほとんど人通りも途絶え、せっかくイルミネーションを施しても見てくれる人もないので、わが家も含めてご近所でも簡単なリース以外の飾りつけをするおうちは少ない。 だから、Nさんのお宅のイルミネーションが始まると、アプコは勝手に自分ちのイルミネーションのように決め込んで、手をたたいて喜ぶのだ。 日が短かくなって、街灯を頼りに暗い道を自転車で突っ走って帰ってくるアユコにとっても、坂道をぐんぐん登ってきた先に明るく輝くNさんちのイルミネーションの明かりは、なんとなく心温まる嬉しいものらしい。ありがたいなぁと思う。
Nさん宅はNさんご夫婦と高齢のおばあちゃまの3人家族。 休日には、ご夫婦で庭木の剪定をしたり、山の斜面沿いにブロックを組んだり、仲良く作業をしていらっしゃる姿をお見かけする。ちょうど数年前まで曾ばあちゃんと3人家族だった頃の実家の父母の姿が重なって見え、普段通りがかりに挨拶をするとおおらかな笑顔で声をかけてくださるNさんのお人柄にどこか懐かしいものを感じたりする。 冬枯れの山道にNさん宅のイルミネーションが灯ると格段に嬉しい気持ちになるのは、遠くに住む父母の暖かい見守りにも似たぬくもりを感じることが出来るからかもしれない。
「おかあさん、見てみて!きれいきれい!」 習字の稽古の帰り道、夕日の残る風の中、Nさんのイルミネーションが早々と点灯されていた。夜の闇に浮かぶイルミネーションもきれいだけれど、黄昏時の電飾もほのぼのと暖かくうれしくて、車のスピードをうんと落として通り過ぎる。 「今年もありがとう」と、手を合わせる気持ちで・・・。
ここ4,5日で急に寒くなった。 我が家の物干しは川べりの吹きさらしの2階のベランダ。洗濯籠いっぱいの洗濯物をエイコラサッと持ってあがり、大急ぎでハンガーにかけて干す。洗濯機から引っ張り出したまま、きつく絡み合った分厚いジーンズやフード付のトレーナーをほぐし、飛ばされないようにバチンバチンとピンでとめる。 昨日今日は、川からの風が格段に冷たくて、干したばかりの洗濯物があっという間にしんと冷える。指先が凍えて、よく動かなくなってくる。とりあえずさっさと干して暖かい室内に入りたいので、ついつい干し方は雑になる。しわくちゃのシャツはしわくちゃのまま、裏返しの衣類は裏返しのまま。我ながらぞんざいな干し方だなぁと笑ってしまう。
休日の朝には、たいていアユコが家族全員の洗濯物を干してくれる。几帳面なアユコは、ずぼらな母よりはよほどきちんと仕事をこなす。タオルは一枚ずつ広げて二つのピンチでとめ、シャツは肩の線をきちんとハンガーに沿わせて広げる。 「う〜っ、つめたい〜!」 細身のアユコには川風が一段と冷たく感じるのだろう。 「もうっ!ズボンとパンツ、一緒に脱いだまま洗濯しないでよ。ぬれると重くてはずせないよ」 とぶうぶう、文句を言う。 確かに、難儀なのは、ポケットに入れっぱなしのティッシュについで、お風呂の前に重ねて脱ぎ捨てたまま洗濯機に投げ込んだ2両連結のジーンズやトレーナー。そのまま洗濯機を回してしまう母も母だが、長年の習慣でいまさら改善の意欲はない。
「お兄ちゃん、ちょっとちょっと。」 アユコが通りかかったオニイを呼んで、はいっとぬれた洗濯物を渡す。 「これが一番嫌いなんよ。お兄ちゃん、自分でやって。」 それは、片足が表、片足が裏返しで脱ぎ捨てたまま、洗濯された重いジーンズ。 「片方だけ裏返しなのは一番嫌い。冷たいし重いしイライラするのよ。」 わかる、わかる。 お母さんもそれ、一番イライラするのよね。 脱ぐときにちょっと気配りしてくれたら、しなくても済む面倒だけに腹も立つのだろう。それにしても、脱いだ本人を呼びつけて自分で裏返しをさせる徹底振りはさすがに生真面目優等生のアユコならでは。 妹に叱られてシオシオとぬれたジーンズを裏返すオニイも、なかなかに人が良い。
「さすが、アユコ、やることが厳しいねぇ。」 とからかったら、「だって、毎回毎回、イライラしちゃうんだもん。ああやって自分で裏返しさせないと、干す人の苦労がわからないんよ。」とどこかで聞いたことのある理屈をこねるアユコ。 ああ、それって、バリバリベテラン主婦のぼやきだよ。 脱いだ洗濯物はきれいに洗われて畳んで戻ってきて当たり前。 途中の手間には気がついてもらえない。主婦の仕事にはいつでもそんな不満が付きまとう。 寒い朝の洗濯物干しで、アユコもそんな主婦のやりきれなさを感じるようになったのだろう。
「ねぇねえアユコ。あの片方だけ裏返しのジーンズ、本人が近くにいなかったら、どうするの?」と聞いてみる。 「当然両方とも裏返してそのまま干しちゃう。」 といたずらっぽくアユコが言った。 「実はねぇ、お母さんも絶対裏返しにするんだな。癪に障るから、絶対表には返さないな。」 裏返しのまま乾いたジーンズは裏返しのまま、持ち主に返す。自分で裏返して着て頂戴というわけだ。 自分だけかと思っていた密かな憂さ晴らしが、娘のアユコにきっちり受け継がれていることの可笑しさ。 「これって、ちょっといじわる?」 「う〜ん、意地悪かなぁ。」 もしかしたら、相手はちっとも気がついていないかもしれない些細ないじわる。 母と娘の密かな共犯者意識が、ちょっと楽しい。
広島に続いて栃木。 どちらもアプコと同じ小学校一年生。こんな小さな生き物を何故「殺したい」と思うことが出来るのかと、殺人者の心の闇の深さを怖れる。 引き続いて長野で、ゲンと同じ5年生の少年の行方不明。母親や妹との散歩中、兄弟げんかで叱られたあとのことだという。子どものいる家庭なら、どこにでもありそうな日常の一コマ。 子どもたちが自分の手の中に戻ってくると思っている母にとって、突然わが子が帰ってこなくなる、そのことの恐怖や悲しみはどれほどのものだろう。 TVのニュースやワイドショーでエンドレスで流れる子どもたちの悲報に、鬱々とした怒りや晴れることのない不安、胸が苦しくなるような恐怖が、心の中に静かにたまっていくのが判る。 堪らない。
昼過ぎ、いつものようにアプコを迎えに出る。 アプコの通学路は、学校を出てすぐに友達と別れて一人で歩く一本道。 一キロちょっとの道のりのほとんどが雑木の中のハイキングコース。シーズン中にはある程度ハイカーが通るが、今日のような寒い日には人通りも少なく寂しい道だ。栃木の女の子の通学路と条件はよく似ている。 オニイやオネエたちの時には、一年生になってしばらくするとこの道を一人で下校して来ていたものだが、アプコは1年生の2学期が終わりに近づく頃になってもなかなかお迎えの習慣がやめられない。最近の時勢では、たとえ街中でも幼い子どもの一人歩きは不安で仕方がない。 欧米では、小学生の登下校には親の送迎が義務付けられている国もあると聞く。日本もそういう国になってきたということか。いやな世の中だなぁと思う。
校区では地域のボランティアの方が、子どもたちの下校に合わせて立ち番やパトロールをしてくださったり、防犯ベルの配布が行われたりして、子どもたちの安全を守る対策もとられている。けれども、一人一人の子を校門から玄関まで送り届けるわけには行かないし、立ち番に割ける人数も限られている。 ここ数日、子どもの下校時間を見計らってわが子を迎えに来る保護者の数がずいぶん増えた。どなたも皆、報道される事件の詳細をわが子に重ねて、いたたまれぬ思いで「お迎え」に出てこられるのだろう。 先日、某先生とお話をしていたら、「今以上の対策はもう学校単位では限界ですよ。」という言葉が漏れた。 何か事件が起こるたび、学校や行政の対策の不備や危機管理の甘さが問われるけれど、結局のところ「自分の子どもは、自分で守る」ということにつきるのかもしれない。 親も、学校や地域社会に対策を期待するばかりではなく、家事や仕事の時間を犠牲にしてでもわが子を守る覚悟がいるのだろう。
「おかあさん!あたし、もう一年生だから、お迎え来なくても一人で帰れるのに!」 降り積もった落ち葉をザックザックと蹴散らしながら、アプコが屈託のない笑顔で振り返る。あっという間に先に立って走り出すアプコの背中を、今日は「ちょっと待って!」とあわてて追いかける。 一年生の自立心を笑って見守っていることの出来ない苦さを思う。
恒例の焼き芋大会。 工房の庭に降り積もった木の葉のかき集めた焚き火で芋を焼く。 今年は子どもたちがそれぞれに友達やその家族を誘ってきて総勢35人の大盛況。(大人10人、中学生9人、小学生以下16人) オニイの友人たちは、集まるなりわいわいと裏の物干し場に上がって山盛りの落ち葉を瞬く間に運んでくれた。 アユコの友達の女の子たちは、アプコの友達の女の子たちを集めてお芋を洗い、ぬれた新聞紙とホイルで包んでくれる。 ゲンの仲間たちは遠くの道路からもせっせと木の葉を運んできて山積みにする。 大人たちは、子どもたちの歓声を聞きながら、焚き火をつついて火の番をする。 年齢の違う子どもたちや、普段つながりのないお父さんお母さんたちが集まって同じ一つの火を囲む。年齢差8歳の4人兄弟のおかげで、いろんな年齢の子どもたちが一緒に集まって楽しむことが出来る。 ありがたいなぁと思う。
小学校の男の子たちが、焚き火とは別に大きな木の葉の山を作り、頭から滑り込むようにダイビングして遊び始めた。これも毎年恒例の遊び。 今年初参加の子どもたちも、始めはちょっと躊躇していたようだけれど、やがて仲間の歓声につられて思い切って落ち葉の山に飛び込んでいく。 小さい女の子たちは二人ずつ手をつないで飛び込み、周りからいっぱい落ち葉のシャワーをかけてもらって首をすくめて笑う。 洋服の汚れも気にせず落ち葉の中に埋まり、心地よい乾いた落ち葉の擦れる音を聴く。 普段の生活の中ではなかなか経験できない楽しさに、どの子も興奮気味。声のトーンも一段と上がった。笑っちゃうほど豊富な落ち葉の量がどの子も楽しくてたまらないのだ。何度も何度も落ち葉の山に飛び込んで、化けそこなった狸のように木の葉をいっぱい髪に絡ませて、うれしそうに笑う。 周りで見ている大人たちも、子どもたちの弾けぶりが楽しくて、もっともっととけしかけて笑う。 いい笑顔だなぁと思う。
焚き火の最中にも、はらはらと休むことなく散り落ちてくる木の葉。 みんなで掃き清めた地面にも、また新しい枯葉が敷き詰め始めている。 普段の庭掃除ではうんざりしてしまうような落ち葉の豊富さが、子どもたちをやさしく包んで、たくさんの笑顔を運んでくれた。 自然の営みの豊かな恵みに感謝。 灰の中から引っ張り出した焼きいもは、ほっこり上手に焼きあがって暖かい。 同じ火で焼いたお芋をみんなで仲良く分け合って食べる。 これもまた幸せ。
アプコを連れて習字に行く。 アプコが習字を習い始めてから3ヶ月。ようやく毛筆にもなれ、半紙いっぱいの大きさでひらがなを書く。こだわりの無いおおらかな線が出てきて、子どもらしくていい字だなと思う。 「この字は、習い初めの小さい子にしか書けんね。」と先生のTさんも目を細める。アプコは自分が書いた黒々とした墨の色が楽しくてたまらないのだ。褒め上手のTさんに毎回、有頂天になるほど褒めていただいて、嬉々して筆を握っている。
稽古の合間にTさんが、一通の葉書を見せてくれた。 学生時代の友人から来たという喪中欠礼の葉書。 24歳の長男が急逝されたのだという。名門のK大学で国際政治を学び、スポーツも万能、心優しい優秀な息子さんだったようだ。お母様が亡き息子さんを想って詠まれた歌が何首か添えられており、親御さんたちがどれほど大切に自慢の息子さんの成長を見守っておられたかが偲ばれて、胸の詰まる文面だった。 「これ、読んだらホントにこちらまで辛くなっちゃって、しばらく落ち込んでしまったのよ」とTさんが言う。 ほんとにねぇ。若い人が志半ばで突然いなくなってしまう、その儚さには他人事でもいたたまれなくなる現実の酷さがある。それが血肉を分けた肉親、我が子であれば、尚の事。ご両親の落胆はどれほどのものだろうと想う。 昨日も、今日も当たり前に自分のそばにいる子ども達。明日もきっと身近にいてくれて当たり前と思うからこそ、イライラしたり、叱ったり、喧嘩したり出来るのだ。本当はどの子にも、明日どこかで事故にあうとか急な病気に見舞われるとかそういう危険が全く無いとは言い切れない、そういう危うさがあるものなのに・・・。
「こういう事を思うと、我が子がとりあえず生きていてくれることだけでもありがたい事だなぁと思うのよ。なんだかこれ読んだら、子どもをガミガミしかることが出来なくなっちゃって・・・。」 としんみりするTさんに、後から話に加わったOさんがいみじくも言い放った。 「でも、とりあえずうちの子は今生きてるんだから、ビシビシ叱ったり、褒めたりしてなきゃ、しょうがないのよ。『明日、死んでしまうかも』なんて考えてたら、子育てなんて出来ないわ。」 そうそう。それも真実。 ずーっと先に訪れる別れのことなんか考えていたら、今を大事に愛することが出来なくなる。 Oさんの物言いはちょっと乱暴だったけれど、ちょっと落ち込み気味だったTさんの気持ちをやわらげるにはちょうどいい荒っぽさだった。
「ねぇねぇお母さん」 稽古を終え、大人しく宿題プリントをやっつけていたアプコが袖を引く。大人たちの会話の切れ目を彼女なりに推し量っていたのだろう。 「今日、かえりにお買い物、行く?アタシ、おなか空いちゃったぁ。」 はいはい、長話をして悪かったね、何か美味しいものでも買って帰ろうかね。
確かに今、私の子どもはここに元気に生きている。 それはとてもありがたいこと。
5年生陶芸教室2日目。 昨日作ったお茶わんの高台つけ。 その前にデモンストレーションとして父さんが水引きロクロの実演を行う。工房から重たいロクロを運び出し、教室の床に防水のシートを張って設置し、重い粘土を運び込んでの実演はなかなか骨が折れるけれど、子ども達の反応も楽しいし、何よりもプロの仕事の凄さを見せるのには恰好の教材。 父さんがロクロの前に腰を下ろし、土塊をビシャビシャと濡らしながら作業を始めると、子ども達の中からうわぁ!と歓声があがる。 父さんの手の中で自在に姿を変える粘土を見ているのは、いつ見ても楽しい。子どもばかりでなく、私も先生方も子どもと同じレベルで真剣に見入ってしまう。熟練したプロの職人の仕事というのは本当に何度見ても見飽きる事のない面白さがある。
ひととおりの実演が終わると、子ども達の体験コーナー。ジャンケンで勝った5人ばかりの子どもが代わる代わるにロクロの前に座る。 初めての濡れた土の感覚に、「気持ちいい!」と笑う子。「意外と硬いんだなぁ」「ざらざらして手が痛い」としり込みする子。周りの友だちに散々茶々を入れられながら、思うようにならない粘土と格闘する。大概はちゃんとした形にはならなくて、ぐちゃぐちゃに潰れて皆で大爆笑して終わるのだけれど、実際に土に触れていた子は、大勢に笑われてもニコニコと楽しそうな顔をしているのがいい。熟練したプロにしか出来ない難しい作業だという事が分かっているから、大勢の友だちの中で大失敗をして笑われても一緒になって自分もワハハと笑ってしまえる気楽さが気持ちいいのだ。
今年は、体験コーナーの最後に担任の先生方にもロクロの前に座っていただいた。普段教壇に立って教える立場の先生が自分達とおんなじ、初めての体験の挑戦する姿を子ども達はことのほか喜ぶ。周りから茶々を入れたり、ダメだしをしたり、わぁわぁ騒いで大いに盛り上がる。 大の大人が初めての経験にワクワクして、真剣になって、失敗をして、困り果てる姿が面白くて仕方がない。先生方のほうも、ロクロの前に座るとすぐに素の自分に返って、授業そっちのけで作業に没頭してしまわれたりする。それが子ども達には、珍しく、面白いと感じるのだろう。こんなふうに大人が周りのことも気にせず何かに集中している姿を見るという経験が今の子ども達には少ないのかも知れない。 先生方の格闘の成果が、思いがけなくきれいな形に仕上がっても、見るも無残に大失敗しても、子ども達はどちらもそれなりに嬉しそうだ。「僕らの先生」をぐっと身近に感じる楽しさがあったからだろう。
ロクロを体験してくださった3人の先生方のなかで、一番豪快に大失敗をしてくださったのは今年赴任してこられたばかりの若いO先生だった。 初めの手つきはなかなかお上手で、途中で結構上手に形を作っておられたので、以前にどこかでロクロをやってみた事がおありなのかなと思っていたら、最後の最後でフラフラとバランスを崩して出来上がりかけていたお茶わんがあっという間にぐちゃぐちゃに壊れてしまった。 その前にやった子ども達よりもダントツに派手な壊れ方だったので、子ども達は大いに盛り上がり、みんなで大笑いして楽しかった。
あれは、本当に「失敗」だったのだろうか。 先にやって失敗した子達への気遣いや、クラスの盛り上がりを考えてのうえでの「失敗」だったのではないだろうか。だとしたら、O先生の教師としての力量はたいしたものだ。 借りに本当に「失敗」だったとしても、自分の生徒達の前でも恥じずに派手に失敗し、一緒に大笑いできるおおらかさは頼もしい。変に上手を装ったり、失敗を言い訳して取り繕ったりしない素直さがいいのだ。 ロクロを離れ、バケツの水で手を洗うO先生に子ども達が寄り添って、何かしきりに声をかけている。きっと子ども達に慕われる楽しいお姉さん先生なのだろうなぁと思う。
ところで、今日の体験コーナー。 陶器屋の息子であるゲンは、最初から体験希望者に手を挙げなかった。ホントはやりたくて仕方がないはずなのに、やはり遠慮したのだろうか。それとも、昨日の手づくねが不本意な出来だったのでみんなの前でやる事に躊躇していたのかも知れない。 放課後、子ども達が帰ったあとの図工室で後片付けをしていたら、担任のT先生とゲンが手伝いに来てくれた。 きっと来るだろうと思って残しておいた粘土で、父さんがゲンのためにロクロをまわす。案の定ゲンは嬉しそうにロクロの前に座り、ぐちゃぐちゃとこねくり回しては粘土の感触を楽しみ、一人で水引きロクロの楽しさを堪能していた。 ゲンが遊んでいる分だけ片づけの時間が遅くなるので「すみませんねぇ。」とT先生にお詫びをしたら、「いえいえ、こういう場面に立ち会えて、嬉しいです。」と快く言っていただいた。ゲンの嬉しさを一緒に共有してくださるT先生のお気持ちがありがたかった。
「父さんって、結構頼もしいって感じするよなぁ。」 あとで、ゲンがそっと私にささやいた。2日間の授業でゲンにはいろいろと思うところがあったのだろう。 「あったりまえじゃん、プロだもん。」 答える私もちょっと嬉しい。
小学校での5年生の陶芸教室。 今日と明日の二日間、父さんの助手を務める。年に一度の陶芸教室もはや、7,8年目になるだろうか。今年はちょうどゲンの在籍する学年での講座になる。 講師役の父さんだけではなく、友達と一緒に父親の授業を受けるゲンのほうもなんだかそわそわと落ち着かない。 「ほんまに、お父さん来るの?お母さんもくるの?」とわかっているくせに何度も聞きにくる。 まだまだ父さん母さんが参観に顔を出しても「かっこ悪いなぁ」とは言わないゲンだけれど、「両親が先生」という微妙な立場が居心地悪く感じるのだろう。
5年生の3クラス84人が挑戦するのは手づくねによる抹茶茶わん作り。 今日明日に二日間で原型を作り、来年の1月末に一週間かけて、素焼き、施釉、本焼きを行う。 初心者にも失敗がないように、作業の工程を細かくレクチャーしてから制作に入るのだが、大人数の小学生の教室では、クラス全体が最初の説明をちゃんと理解しながら聞くことができる雰囲気が出来上がっているかどうかで、作品の出来に大きな差が出るようだ。毎年のことながら、面白いなぁと思う。 500グラムの土塊をたたくようにして丸くまとめ、その中心部分から少しずつ伸ばし広げて茶盌の形を作る。薄くなりすぎないように指先に感覚を集中させて作業を進めていくのだが、ちょっと油断をすると底の部分が薄くなりすぎたり、茶盌の口がどんどん広がって鉢やお皿になったりしてしまう。 「失敗しそうになったら、早めに救急車を呼んでね!」といっておいたら、それこそあっという間にあちこちで「救急車、お願い!」の声。 机から机を跳び回って、修正したりアドバイスをしたりして、父さんと私、2台の救急車は大忙し。何とか全員の作業を終えた。
手づくねによる茶盌つくりは、途中の過程で土に空気の層が混じることが少なく子どもたちにも比較的失敗の少ない作り方だ。仮に底が抜けそうになっても、平たいお皿の状態になっても、早めに修復すれば何とかかんとか、作品は出来上がる。反対に、途中でやりかけの作品をつぶしてしまうと、土の中に空気が入ってしまい、その土は練り直さないと使えなくなる。 去年の陶芸教室では、せっかく出来上がりかけた作品を突然自分で壊してしまう子どもが数人出た。やりかけのゲームをあっさりリセットして新しいゲームを始めるように、一時間掛けて拵えた作品を気に入らないからといってあっさりぐしゃっとつぶしてしまう、そのこだわりの無さが何となく不安な感じがしたのだった。 「気に入らないからといって、ぐしゃっとつぶしてはダメですよ。何とか助けてあげるからつぶす前に呼んでね。」と念を押しておいたおかげで、昨年ほどは「新しい土でやり直し」という子は出なかった。
その代わりに気になったのは、「壊せない子」。 丸い塊りから少し縁を広げていくと、途中で小さなお碗型になる。 その段階ではまだまだ生地も厚く、大きさも足りないので、そこから更に縁を立ち上げる作業がいるのだが、中にはそこまで出来たところで「もうこれで完成!」と言って作業をやめてしまう子がいる。 「もう少し大きくしたら?」「もっと薄くしても大丈夫だよ」と何度も言うのだが、「これでいい」と早々に切り上げてしまう。それも自分の作った形に満足してというよりは、出来上がった形にそれ以上手を加えてゆがんだり失敗したりするのを怖がっているような感じなのだ。 もともと、女の子達はこじんまりきれいに作って大きな失敗なく仕上げようとする傾向にあるようだけれど、今回は男の子の中にもそれが目だった。 確かに出来上がった形はこじんまりまとまって小奇麗なのだけれど、抹茶茶盌としての大きさもたりないし、面白みがない。門をくぐる前にピョコリと頭を下げてそのまま帰ってきてしまうような、中途半端なお行儀のよさが歯がゆく物足りなく感じてしまうのだ。
私自身は、子どもの作品としてはニッチもサッチも行かないくらい壊れる寸前の作品の方が元気があって好き。 幸か不幸か、本日の我が家の息子の作品はまさにそれ。 今までに何度もお茶わんは作ったことがあって、本当ならもっとまとまったきれいな作品が作れるはずなのに、今日はクラスメートの横槍と父母が講師というプレッシャーのせいか、出来は散々。 「なんか、うまくいかへんかったわぁ」と少々落ち込み気味のゲンだったが、それはそれで良し。今日の日のゲンの高ぶる気持ちがそのまま作品に表れていったのだろう。
「物を作る」という事は、ある意味では今あるものの形を「壊す」という事につながっている。 失敗を恐れて手を加えるのをやめれば、作品はそこにある形より先へ進む事は無い。ある程度のリスクは承知で更に手を加える勇気、もう一度壊して作り上げる決断が必要となる。 失敗する前にブレーキを掛けて、無難なところで手を打っておく。そういう器用さはもっと大きくなって、何度も失敗を経験したあとで覚えればいい事。 そんな事を思う。
個展前のプレッシャーと新作のアイディアに行き詰ると、父さんは決まって外へ出かけたがる。 年末仕事のストレスと年明け早々に開かれる作品展の制作に追われて夜なべ仕事の続くこのごろ。「そろそろ来るかな」と思っていたら案の定、もぞもぞと「お出かけモード」になってきたらしい。朝からなんとなくそわそわして落ち着かなくて、しきりに何か考え込んでいる様子だったが、子どもたちが登校していなくなると、「今日、ひま?」とデートとのお誘い。 近所のハイキングコースまで出かけていって、陶額のデザインのために紅葉の写真を撮ってきたいのだという。紅葉なら自宅の周りでもいくらでも見られそうなものなのにと苦笑しつつ、お付き合いで出かけることにする。
目的地は「ほしだ園地」の星のブランコ。7,8年前に作られた大吊橋だ。 車で行けばほんの5,6分でいけるのに、最近ではなかなか訪れることのなかった場所。この前来たときには確かおんぶ紐でアプコを背負っていたような気がする。あのころは小さい子どもの手を引いたり、おんぶ紐やベビーカーでよく山に登った。若かったんだなぁ。 今では子どもというお荷物は少し軽くなったが、かわりに加齢というお荷物が少しづつ重くなってくる。かなわんなぁ。
そういえば、子どもたち抜きで二人で山に入るのも本当にひさしぶり。もしかしたら新婚の頃以来か。 紅葉した落ち葉に散り敷く小道をざくざくと踏みしめて父さんと歩く。平日のおかげで他のハイカーも少なくて、ちょっと木立の中へはいるだけでしんとした冷たい森の気配を感じることができて気持ちがいい。 晴天の吊橋は眺めもよく、眼下に見る紅葉が美しかった。木々の梢を真上から見下ろす意外さが楽しくて、何度も橋上に立ち止まって指差す。父さんも何度も一眼レフのシャッターを押した。
ところで、いつも街中での買い物や雑踏では、あちこちに立ち止まったり寄り道したりする父さんを後ろに、ともすると私のほうが先にたってさっさか歩いていることも多い。 それがたまの山歩きとなると、いつの間にか父さんのほうが先にたって歩くことが多くなるのは何故なんだろう。 新婚の頃、二人でよく近所の山歩きを楽しんだものだが、そのときも必ず父さんは私のすぐ前に立ち、時々後ろを振り返って私の歩調を確かめながらずんずん先を歩いていったものだった。その頃の名残だろうか。 今でこそ、いっぱしの母、いっぱしの妻の顔をしてのっしのっしと胸を張って先を急ぐ私だけれど、あの頃、十歳違いの夫の背中はいつもいつも必死の思いで追いかけていく先行者の後姿だった。 そんなことを思い出すと、昔のように父さんの背中を追って歩く山道がいつになく新鮮で、うれしくなる。 年齢を重ねると、夫婦は向かい合って生きるより、二人して同じ方向を見ながら並んで生きていくのがいいと聞いた。 我が家では再び、私が父さんの背中を見ながら追って歩く、そういう老いの日を歩いていくのもいいのかもしれないと思ったりする。
先週、義兄のところから、アプコのおもちゃのおさがりをいただいた。 シルバニアファミリーのおもちゃのセット。動物のお人形用のドールハウスやミニチュアサイズの家具や什器類だ。 いつもお友達のKちゃんとこのシリーズのおもちゃで遊んでいるアプコは大喜び。早速大きな箱を開いて店開きを始める。
アプコはすでに、アユコからのお下がりも含めて2軒のドールハウスを持っているが、今回もらったのはそれよりもさらに部屋数の多い豪邸とパン屋さんのお店。それに、たくさんの家具とお人形が数体。あとは家具と食器や小物。パン屋さんの店先にはつめの先ほどのサイズのクロワッサンやケーキ、レジスターやトレーやトングまでそろっている。手のひらサイズの動物のお人形は着せ替え可能なカントリー調のかわいい衣装を着ていて、ご丁寧に小さなパンツまではいている。そのかわいらしいミニチュア感はこの年齢の女の子たちにとってはたまらない魅力があるらしく、「うわぁ、かわいい!見てみて!」と大騒ぎだ。 但し、このおもちゃ、結構嵩張る。 大きなドールハウスは、分解して箱に収められるようになっているが何しろ場所をとる。小さなパーツ類は、本当に数限りなくあって部屋中に散らばるし、何かの折に掃除機で吸い込みそうになったり、素足で踏んづけたりして痛い思いをする。片付け係の親にとっては少々厄介なおもちゃだったりする。
ということで、今回もらった大量なおもちゃ、仲良しのKちゃんと半分こすることを提案してみた。 「Kちゃんちにはおうちが一軒しかないんでしょ。これをどちらか一つ、分けてあげたら、アプコがKちゃんちで遊ぶとき、一軒づつ分けて使えるよ。」というと、しばらく考えていたようだったが、意外にあっさり「いいよ」と言う。前もって根回しして置いたKちゃん母も、気持ちよくお下がりをもらってくれるというので、さっそく親子で来てもらって、お宝の分配を始めることにした。 2軒のドールハウスにそれぞれの家具や調度を振り分け、細かなパーツも大まかに2等分して、「さぁ、どっちが欲しい?」と二人に聞いたら、さぁ、それからがたいへん。 二人とも、一人で両方はもらえないのはわかっているけど、どちらも欲しい。「こっちに決めた!」と思ってみても、あっちのあの家具にも未練がある。「あっちに決めた!」と思ってみても、あっちのおうちのほうが大きくて立派に見える。「文句なし」のジャンケンをして、ようやく決まったと思っても、やっぱり相手の持っているものが欲しくなってしまうのだ。
思えば、Kちゃんもアプコも家族の中ではぐ〜んと年の離れた末っ子姫。 兄弟のなかで同じ一つのものを分け合ったとしても、ちょっと駄々をこねたら、「もう!しょうがないなぁ」とオニイ、オネエが分け前を譲ってくれたり、お目こぼしをしてくれたりして、厳密な○等分にはならないことが常である。今日のように、あくまで対等な立場で厳正な半分こをするのは、あまり経験のないことなのかもしれない。それだけに、二人とも自分の取り分の確保にピシピシと頭を使う。 「もう一回、ジャンケンをやり直そう」と言い出したり、「あれとこれをとりかえっこしたい」と言い出したり・・・。6,7歳児の「半分こ」は、大人の思う平等とは明らかにものさしが違う。 ああでもない、こうでもないと散々説得したり、なだめたり。 帰りの時間ぎりぎりまで交渉は続いて、私もKちゃん母もすっかりくたびれはててしまった。
「Kちゃんちへ行ったときには、これ貸してね。」 「二つとも一緒に使いたいときには、これ、持って行くね。」 ようやく納得の行く分配を終えて、Kちゃん親子が帰っていく。 「Kちゃん、喜んでくれてよかったね。」 とお姉さんぶって笑うアプコ。 半分になったお宝を再び箱に収めて、アプコはそれでもうれしそうだ。 大好きなものを仲良しさんと分け合う楽しさもちゃんとわかっているらしい。 やれやれ、ご苦労様。
昨日、中学校での3年生の懇談のこと。
体育の授業が終わって、男子が着替えている教室の前で、女子生徒が大勢座り込んで教室が空くのを待っている。 「ふぅ〜ん、女の子の方が着替えるのがずいぶん早いんだねぇ。」と近くにいたお母さんに話しかけたら、 「違うのよ、この子達はみんな廊下で着替えをしているらしいの。」という。 聞けば、女の子たちのためには別の場所に更衣室が用意されていて、本当はそちらで着替えることになっているのだけれど、そこまで移動するのが面倒なのか、いつのころからか女の子たちは教室の廊下で着替えているのだという。 「下着や肌が見えないように、うまく着替える方法があるとは言うんだけど、なんだか年頃の女の子たちが廊下で着替えてるってイヤなんだけどね。」と女子生徒のお母さん。 「男の子たちのほうが教室を締め切って着替えをしてるのに、なんか変な感じよねぇ。」 と相槌を打つ。 着替えの終わった女生徒たちは、教室の廊下の床にぺったりと座り込んで、ぺちゃくちゃと楽しいおしゃべりに余念がない。 「あ〜あ、制服のまんまで地べたにすわり込んじゃって、あの子達は平気なんやね、決してきれいな床でもないのに・・・。」 お母さんたちの嘆きは続く。 電車の中でお化粧をする若い女性や、電車の床とかコンビニの前とかに座り込んでる学生も目立つ昨今、どちらも現代の若者の風潮と言えばいえないこともないけれど、なんだかヤダなと思うのはおばさんになった証拠か。
3年生の懇談では、目前に迫った進路決定についてのお話。 ひとしきりハッパをかけられて、なんだか大変そうだなぁとため息をつく。どの家も「うちは全然・・・」といいながら、結構子ども達の受験にお金も手間も掛け、心を砕いているのだなぁとつくづく思う。 「とりあえず、近場の公立へ」「受験勉強は自力で頑張れ・・・」と子どもの自主性と運に任せて放任している我が家では、そうそう高望みしてはバチが当たるなぁと思ったりする。 ただ、懇談の最後に先生方から、近頃は給食当番や掃除当番などがちゃんとできる子が少なくなったというお話があった。そういう決められた役目がちゃんと果たせるかどうかは、学業の成績とは必ずしも比例しないという。 中には箒の使い方も知らないような子もいて、家庭での経験不足が推察される。「うちでは『勉強だけしてたらいい』といわれてるねん。」とあっけらかんとしている生徒もいるのだそうだ。 学校の成績表や内申書に「掃除」とか「給食当番」とかの評価欄ができたら、子ども達はきちんとするようになるのかもしれないねぇと先生方は笑っておられた。
今のところ、学業の成績のほうは伸び悩みのオニイだけれど、掃除や給食当番はサボることはないという。 それはそれで、親がいつも心に掛け、「こう育って欲しい」と思っていることに忠実に実践してくれているという事かとも思う。 やはり子どもというのは、親が育てたように育っていくもののようだ。
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