月の輪通信 日々の想い
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| 2005年08月04日(木) |
夏の子どもたち 2題 |
起き抜けのアプコがすりすりと寄って来て、おはようもいわずに何を言うかと思ったら、 「おかあさん!ティッシュってすごいねん!一枚取っても、ぜったいすぐにまた次のが出てくる!」 それって、いま目覚めて、はじめて発見した事ですか? はぁはぁ、すごいねといい加減なあいづちを打っていたら、 「ねぇねぇ、知ってる?ティッシュってみんな、2枚重なってるねんで。」 とご丁寧に、引き出したティッシュを丁寧に裏表、2枚にほぐして広げて見せた。 ほー、それはすごいねと言ってやったら、ようやく得心してティッシュをひらひらさせながら、どこかへいってしまった。 お嬢さん、ティッシュはあなたが生まれる前から、ずーっと2枚がさねですよ。 それにしても、あなたの朝は初めての驚きに満ちているんですね。
ことし受験生のオニイ、部活の日程も消化して、いよいよ夏休みの後半戦に入る。 暑い自宅でのダラダラ生活を打破しようと遠くの図書館へ学習室の偵察に出かけていった。意気込みだけは買うが、この炎天下に図書館への道のりは自転車で30分。行きかえりの暑さだけで既にくたくた。 すずしい図書館で涼をとって、再びサイクリング30分。なんだかとっても効率が悪い気がするんですが・・・。 おまけにオニイ、問題集を入れていった紙袋にはちきれんばかりのたくさん本を借りてきた。 はぁ、受験勉強をしにいって、その推理小説の山はなんですか。 それをいつ読むつもりですか。 なんだかとっても効率が悪い気がするんですが・・・。 「ほっといてくれ、久しぶりに大きな図書館へ行ったら読みたいと思ってた本がいっぱいあったから、はしゃいでしもたんじゃ。」 母の皮肉に決まり悪そうにへしゃげるオニイ。 フンフンそれもよし。気持ちは分かる。 受験生とはいえ、「やりたい事がな〜んにもない、退屈じゃー」ととぐろを巻くよりも、「読みたい本がありすぎて困ってしまう!」と凹むオニイの方が好ましい。 ま、勉強もしっかりな。
アプコ、連日のプール通い。 オニイ、オネエの小さい頃から、我が家の夏休みの前半は意地のように皆勤に、村の小さな低学年用のプールへ通う。 若宮のプールは村の運営で毎年小さい子ども達に無料で開放されており、毎日お母さんたちが交代でプール当番や掃除に携わる。幼児から3年生までの小さい子達のためプールだ。 本来ならアプコはもう一年生なので一人でいってもよいのだけれど、行きかえりの道中の心配もあって、相変わらず母の付き添いつきだ。大きな浮き輪とプールバッグを車に積み込み、ブルルンとプールへ向かう。 青いプールで嬉しげにはしゃぐ子ども達を見ながら、母は木陰で2時間、「暑い暑い」と愚痴りながら無為の2時間を過ごす。 こんな夏がもう、9年も続いている。
一年生になった今年、初めて学校でバタ足や伏し浮きなど水泳らしきものを教えていただいてきたアプコ。 去年まで大事に抱えていた浮き輪を手放し、何度も何度もプールの端から端へと往復して、自己流の泳ぎの練習に余念がない。 「おかあさん、みてみて!」 と大きく腕を廻し、バタバタと派手な水しぶきを上げてバタ足をして、そろそろと進む。どうやらクロールのつもりらしい。そのフォームは自己流なので腰は曲がってくねくねと半分沈んでいるし、腕も終いには犬掻きのようになって、傍から見ていると「溺れたか?!」と見紛うような動きだが、アプコははじめてのクロールの感覚が嬉しくてたまらない。 近頃では、幼児の頃からスイミングスクールに通う子が多くなった。一年生でも驚くほど綺麗なフォームのクロールですいすいと泳ぐ姿を見ることも多い。学校の水泳指導でも、既に上手に泳げる子が多くなって、昔ほど「水に慣れる」「水に顔をつける」等と言う初歩的な段階で躓く子は少なくなっているのだろう。全体として、その年齢で期待される泳力の到達基準と言うのは上がってきているようだなと感じる。 アプコのように真っ白な頭で、バシャバシャ水遊びの状態から学校の授業ではじめて泳ぎを習う子は少ないのかもしれない。
それにしても、アプコの嬉しそうな泳ぎっぷりはどうだろう。 日に焼けた小さい体を十二分に動かして、水にもぐり、水に浮かび、ことさらに水しぶきを上げて歓声をあげる。水の中で新しい動きを一つ、また一つと経験していく事が楽しくてたまらないのだ。 そんな楽しい遊びの中で「あ、いま、浮いた!」という発見や「アタシって今、いるかみたい!」という感覚や、水の中ででんぐり返って天地が混乱してしまう楽しさを一つ一つ獲得していく。 こういう泳ぎの学び方も、それはそれでなんだかいいよなぁと思ったりする。
水のなかで、しばし魚に戻るアプコ。 速く泳ごうとか、もっと遠くまで泳ごうとか、そんな目当てもなしにただただ水に親しむその楽しみだけのために泳ぐ幼いアプコの無心がなんともいとおしい。 いるかになったアプコの歓声を聞く。 そのためだけに、母は連日の猛暑をおして、プール番に出かけていくのだ。 親バカと笑うしかない。
ガスコンロが壊れた。 少し前から予兆はあった。 着火しにくかったり、過熱センサーがでたらめに働いて勝手に消火していたり。電池切れかと思って新しい電池に入れ替えたり、バーナーの掃除をしたりしてみたがなんとも頼りない。 一昨日の夕方、剣道の稽古のために、大急ぎで早めの夕食の準備に取り掛かろうとしたとき、ついにコンロは点火プラグのカチカチという音さえしなくなってしまった。仕方なく、ライターを探してきて手動で点火を試みる。 昔はよく、コンロを点火するために大きな箱のマッチを擦ったものだが、最近ではうちの中にマッチというものがない、ありきたりの百円ライターでは指先が炎に近すぎて火傷をしそうなので、ライターの火を使い古しの割り箸の先に移して、点火つまみを開く。なんとも面倒な作業だ。 おまけにてんぷら用の加熱センサーのついたほうのバーナーの火は、手動で点火してもつまみを放すとすぐに火は消えてしまうらしく、使い物にならない。 お急ぎご飯の準備の時間にとんだ番狂わせ。 ひどい目にあった。
翌朝、いち早く修理にやってきたのは、メーカー派遣の若いお兄さん。 「いやぁ、道に迷いました。」 と、汗を拭き拭きやってきた。 「修理に来ていただくんで昨日、久しぶりにコンロの大掃除をしましたよ。」と言う私に、「ははぁ、どこのお宅もそうおっしゃいますね。コンロ周りの掃除は面倒ですから・・・」と床にゴムのシートを引き、コンロ台の蓋を開けて修理に取り掛かる。 外側はきれいに掃除したつもりでも、コンロの内側には長年の油汚れやこぼれ食品のかけらがびっしりとこびりついていて、恥ずかしい。 自分ちの油汚れでもいやになっちゃうものだから、あちこち知らない家の油汚れや食べ物かすにまみれたコンロを修理に回る仕事って大変だよなぁと思う。 「奥さん、大変申し訳ないんですけど・・・」 長い事かかって、あちこち調べていたお兄さんが口を開いた。点火装置の部分に入っているコンピューターのようなものがこわれているという。部品を取り替えればいいのだが、他の部分も直すと部品代だけで2万円くらいかかりそうだ。ついでに新品の値段を訊くと、同じタイプのものが5,6万円。使用年数7,8年なら、買い替えも考えてもいいかも知れない。 どちらにしても、部品の在庫がないので、取り寄せには日数もかかる。 「ま、よくお考えになって、修理の場合はもう一度お電話下さい。どちらにしても部品はご準備しておきますから・・・」 と、いかにも申し訳なさそうに頭を下げる。 「今日の修理代は?」と訊くと、 「直りませんでしたから・・・。」とやはりまた頭を下げる。 あらら、申し訳ない。汗を拭き拭き苦心してくれたのに・・・。 代わりにと帰り際に冷たい缶コーヒーを渡したら、これまた「すみません、すみません」と何度も頭を下げる。 本当に腰の低いお兄さん。
さてさて、2万円の部品代と6万円の新品のコンロを天秤にかける。 どちらにしても、この時期、予想外の出費は痛い。ちょっと前に家電の買い替えラッシュがひと段落したかと思っていただけに、ガスコンロとは予想外だった。父さんに相談すると、「もう買い替え時じゃない?」と即答してくれる。 いつもプロパンガスを入れてくれている業者さんに電話すると、その日のうちに製品のカタログを持ってきてくれるという。 夕方、これまた汗を拭き拭きやってきたガス屋のおじさん、カタログの一番安い標準型のコンロに赤丸がついたのを開いて見せた。 「どうせ買い換えるのなら、今度は両面焼グリルのもいいなぁ。だいぶ高くなるのかなぁ。」と呟いていると、横から父さんが「ちょっとぐらいなら高くてもいいよ。」と勧めてくれる。 訊いてみると、それだと2万円くらい高くなる。差額に躊躇していると、ガス屋のおじさんが口を挟む。 「ま、両面焼けるといっても、実際使ってみると途中でひっくり返したりせな、うまいこと焼けんという方もおられますなぁ。」 それもそうだと、「いいです、片面焼のほうで・・・」というと、今度は父さんが「せっかく欲しがってたんだから、両面のほうにしたら」と、押し問答になる。 それを見ていたガス屋のおじさん、 「奥さん、普通は逆でっせ。奥さんがグレードの高いのを欲しがって、だんなさんの方が大抵、安いのでええやないかとおっしゃいますわ。」と笑う。 あら、そう。 でも、おじさん、あなたも商売なんだから、値段の高い両面グリルを勧めたほうがいいんじゃないの?最初ッから一番安い標準型しか売るつもりなかったでしょ。 主婦のけちん坊とガス屋のおじさんの商売っ気のなさにかこつけて、結局片面焼ホーロートップのコンロを注文する事になった。
製品の取り寄せを待つ数日。 手動点火の不便さをやり過ごしつつ、お払い箱決定のコンロを磨く。 昔のステンレス製のコンロとは違って、ビルトイン式のホーロートップのコンロの汚れはちょっと念を入れて磨くと思いがけず綺麗になる。もう一段、掃除がラクという流行のガラストップコンロだと、どんなに綺麗になるんだろう。 けれども、本来の煮炊きの機能がだめになっても、表面の汚れが新品のように綺麗に落ちるコンロというのもなんだか悲しい。 昔のステンレスのコンロなら、お払い箱になる頃にはその外見も、こびりついた油やこぼれかすで相応にみすぼらしくなって、買い換えても惜しくない 気持ちになったものなのだけれど・・・。
夏場、窯に火が入っている時の工房は暑い。 埃っぽい扇風機の風も熱を含んで生暖かい。 乾燥室の扉の前のひいばあちゃんの釉薬掛けスペースは、窯にも一番近く、風の通り道からも外れているので、座っているとじわじわと熱気が溜まってくる。窯をあけたり、乾燥室の扉を開けたりすると、ぐわっと厚みのある熱風が押しよせて、さながらサウナ室の熱さだ。 そのくせ、隣接する玄関のスペースは、来客者を迎えるため、いつもかなりきつめの冷房が入っていて、出入りのたびにその強烈な温度差に頭がくらくらしそうになる。 製陶業の夏の暑さは厳しい。 傍らに置いたペットボトルの水分を何度も口に運びながら、父さんはもう何十回もこの仕事場で夏を過ごす。 目に見えない細かな埃状の土と釉薬がいつも空気中に舞っていて、汗で湿った肌や衣服にまとわりつくように積もっていく。 夜、帰宅した父さんが脱ぎ捨てる作業用のジーンズやエプロンは、汗と埃を吸ってどっしりと重い。
この間から、父さんが工房の天井を見上げてしきりに首をひねっていた。 築後30年近い工房の窯場部分の天井は、鉄骨むき出しの工場仕様。 長年の埃が積もった天井は煤だかなんだかで黒く汚れている。 「やっぱりこれもアレかなぁ・・・。」 TVや新聞で話題のアスベスト。 表面だけ見ていると、いかにもそれっぽい感じの繊維質のでこぼこが見えているし、それもかなり老朽化している。 これがホントにソレだったら、ここで毎日朝から晩まで仕事をしている父さんやひいばあちゃん達は、有害物質を長年にわたって吸引しまくっているなぁと空恐ろしくなる。 幸い義兄が工房建築当時の業者さんに改めて問い合わせてくれて、工房の天井材は石綿ではなくて、「ロックウール(岩綿)」と言われる比較的粒子の大きい建材が使われていることが分かり、ホッとする。こちらのほうは吸塵の危険性は当然あるものの、アスベストのような強い発がん性は認められていないのだそうだ。 それでも、見た感じはニュース映像で見るアスベスト建材とそっくりだし、工房においでになるお客様や見学者の心証もよくないというので、むき出し部分を新たな化粧板で覆う工事が近々入る事になったという。 この忙しい時期に、工房の動きを止めての改装工事も気の重い話ではあるけれど、とりあえず毎日工房で働く人に深刻な健康被害はなかったということで一安心。
一日の仕事を終えて、夫が持ち帰ってくる汚れた作業着。 その汚れの具合から「ああ、今日もたくさん仕事をしたのだな。」と思いながら、ザブザブと洗濯機を廻す。ズボンのヘリやエプロンのポケットからは思いがけなく細かい粘土の粉や釉薬の粒子がざらざらとこぼれ出てくることもあって、まるで砂遊びを楽しんだ後の子どもの遊び着のようだ。 洗濯機の中にザラリと粒子の感触が残る事もあって、「うちの洗濯機の寿命はこのせいで短くなるのかもしれない。」と思ったりする。 そのくせ、膝までべったりとベンガラの赤が染み付いたジーンズやこぼれた釉薬でコーティング加工されてしまったエプロンを洗うたび、今日の日のとうさんの仕事が滞りなく終わり、充実した制作の時間が費やされた事を嬉しく感じたりもする。
アスベスト被害者の中には、直接アスベストを製造したりそれを使って仕事をしたりしていた人ばかりでなく、そういう仕事に携わる夫の作業着を毎日洗濯していたであろう主婦も複数含まれていると言う。 夫の一日の労働の成果を思いやり、ホッとする思いで洗濯機を廻し、パンパンと叩いて日なたに干し物をする。 そういうささやかな日常の一こまが、知らぬ間にヒタヒタと主婦の健康をも蝕み続けていたと言うことの悲劇を改めて思う。 なんだかとても他人事とは思えない。
午後からゲンとアプコを地域の集会所に送っていく。 子ども会で来週の市の夏祭りに出品する子どもみこしをこしらえるのだという。 昨年は、「えーっ、いくのぉーっ?」という感じで参加を敬遠していたゲンが珍しく自分から参加したいというのでアプコ番を兼ねて参加させる。 実際に行ってみると、集まってきているのは女の子たちが多くて、数少ない男の子たちも低学年の子たち。同学年の友達も居ないようなのでちょっとかわいそうかなと思ったけれど、本人はいたって平気らしい。子供会の役員さんたちの間に混じって、結構楽しく工作を楽しんできているようだ。 こういうゲンのこだわりのないマイペースぶりはなかなかいい。
今年のゲンは昨年に比べていろいろなことにかなり積極的だ。 これまで、苦手だな、面倒だなと思っていたこと、ちょっとだけ気後れして避けて通っていたことにも、「ちょっとやってみようかな。」と思い切って飛び込んでみる、そういう心意気というか、積極的な勢いが感じられる。 周りから自分が評価され、認められていると感じられることが、自信を持って新しいことに挑戦していく推進力になっているようだ。 そのてらいの無いまっすぐな一所懸命振りが気持ちいい。 この男、今が旬、輝いている盛りなのだなぁと思ったりする。
「ゲン、アプコを頼んだよ。なんかあったら、階下の公衆電話で電話かけといで。」 と、十円玉を数枚渡して帰る。 炎天下の山道を子供たちだけで歩かせたくないので、帰りのむかえを約束して帰ったのだけれど、なんだか思いがけなく早く終わったらしくて、ゲンとアプコが二人そろって、歩いて帰ってきた。 「電話、かければよかったのに・・・」 というと、 「あそこの公衆電話、こわれてたんだよ。」とか、「迎えに来るのも大変かなと思って・・・」とか、どうも歯切れの悪い答えが返ってくる。 ふぅん、そっか・・・と聞いていたんだけれど、忘れた頃になって、ゲンがポツリと呟いた。 「ねぇ、廻す電話ってどうやって掛けるの・・・」
廻す電話・・・。 あああっ!そうか。 会館の電話、旧式のダイヤルの電話なんだ! へ?もしかして、ゲン、ダイヤルの電話、掛けられないの? うん、だって、ほかで見たことないし・・・ そりゃそうだ。 ゲンが生まれた頃には、もう、世間の電話はほとんどがプッシュ式。 幼児が喜ぶ電話のおもちゃでさえ、電子音がピ、ポ、パとなるプッシュ式の電話ばかりだったじゃないか。
ダイヤルの廻したい数字の所に指を入れて、ゆっくりと廻す。 銀色のツメの所まで廻したら、指を離す。 ジーッとダイヤルが勝手にもとの位置に戻るのを待つ。 次の番号を廻す。 私たちが子どもの頃には、いたって当たり前だったダイヤル式電話の掛け方の手順をレクチャーしながら、ジーコ、ジーコとのんびり間延びしたダイヤルの戻る音を懐かしく思い出した。 ふーん、アレはもうゲンの世代の子ども達にとっては過去の遺物に成り果ててしまったのか。
それで、ゲンは電話が掛けられなかったのだ。 たかが公衆電話。 周りの大人に、「この電話、どうやって使うの?」とも言い出せなかったのだろう。 故障していたとかなんとか、電話が掛けられなかったことをあれこれ言い繕っておきながら、ちょっと時間が経つと、やっぱり「廻す電話」の使い方を母に問わずにいられなかったゲンのあふれる探究心。 これもまた、ちょっと可笑しくて、ちょっと可愛い。 いいよいいよ。 そのままで行け。
最近、父さんが朝食前に出かけていく。 いつもの工房での朝駆けの仕事ではなくて、ペットボトルのお茶を持ち、古いジョギングシューズを履いて、1,2時間。 どうやら近所の山を歩いているらしい。 先日、父さんは家に送られてきた旅行会社のパンフレットを眺めていて、突然、「来月、富士山に登ってくる。」と言い出した。 富士山は、これまでも父さんの作品製作のテーマの一つになっていて、遠景としては何度か取材に出かけて写真もたくさん撮っているのだが、実際に自分の足では登ったことがないということが、昔から気になっていたらしい。パンフレットには初心者向けの登山ツアーが載せられていて、これなら行けそうと判断したようだ。その日のうちに忙しい仕事の予定をやりくりして、お盆あとの2泊3日のコースを申し込み、ガイドブックまで買い込んで来た。 朝の登山はどうやら、その富士山登山に向けてのトレーニングで、日ごろの運動不足と筋力低下を促成栽培で解消しようと言う目論見らしい。 恐るべき行動力。 新しいことを始めるのが億劫で、つい始める前に躊躇してチャンスを逃してしまいがちな私には、まぶしいばかりの決断力だ。 見る前にとりあえず跳んでみる。 実現するために、一つ一つ小さなことから取り組んでいく。 その堅実な行動力が父さんの作品や生き方を支える一番太い柱なのだと私は思う。
「自分がやりたいこと、自分が欲しいものを手に入れるためには、ああいう決断力や行動力って大事だよね。」 私と同様、「逡巡派」のオニイに自戒を交えたお説教。 進路のこと、将来の仕事のことなど、物思う事の多いオニイには、未明からの一仕事を済ませて靴を履き替え、せかせかと山歩きに出かけていく父さんの後姿はどんな風に映っているのだろう。 思い立ったが吉日とばかり、ふいと新しい目標を見つけて歩き出す父さんを「あらまぁ、なにやってんだか・・・」と見送る私。 クワガタやカブトムシに熱中し、勝手に次々と飼育ケースを増やし、いつの間にか周りを巻き込んでいくゲンを、「ある意味、うらやましい奴だな。」といいながら見守っているオニイ。 私とオニイは、多分同じようなまぶしい目をして、誰かの「無鉄砲」を見上げている。 「私もいつか跳んでやる。」 「僕もいつか見つけてやる」 胸の中の深いところで、ふつふつと燃える小さい青い炎を抱きながら・・・。
キャンプから一時帰宅して、小学校の和太鼓の練習に行くゲン。 小学校の御神楽の踊りの練習に、OBとして先輩風を吹かせに行くアユコ。 初めてのキャンプの楽しい寝不足分を一気に爆睡するアプコ。 新しく紹介していただいたデッサンの先生に初対面のご挨拶に行くオニイと父さん。 相変わらず今日も、みな思い思いに散っていったり、「暑い、暑い」ともどってきたり、なんとなくあわただしい。
そんなバタバタの合間を縫って、短時間、父さんの仕事場に入る。 焼きあがった作品の「目あと」取りやシリコン塗り、白絵の釉薬掛けや透明の釉薬の下塗りなど、こまごました用事を二つ三つ片付ける。 これまで、ひいばあちゃんが仕事の合間にちょこちょこ片付けてくれていた簡単な雑用のうちのいくつかを、最近私も少しづつ習い覚えるようになった。 今日の作業は、数物の食籠の透明釉がけ。 いつもひいばあちゃん手際よく釉薬掛けをしている作業場に、なんとなく居心地悪く腰を下ろして、大きな刷毛で釉薬を塗る。 「こうやって、手のひらで少しづつ回しながら、塗りムラや荒い刷毛目が見えないように、まんべんなく・・・」と父さんが、鮮やかな手つきでお手本を見せてくれるのだけれど、なかなかそううまくはいかない。 器の中に手のひら全体をすっぽりと入れ、そのまま左手だけで器を滑らせるように回転させながら、まんべんなく塗る。 刷毛を操る右手よりも、手の中でリズミカルに器を回転させながら支える左手の動きの方が難しくて、いつも一旦、刷毛を置き、あいた右手を添えて器を回す私の作業はやたらとモタモタして、みっともない。
「ねぇねぇ、父さん、器を回すとき、器の中で父さんの手は一体どうなってるの?」と聞いてみる。いつも、お手本を見せてくれる父さんの手。 ただ見ているだけでは器の中の左手が、どんな風に動いているのかがよくわからない。 「どうなってるのって言われても・・・」 といいつつ、改めてもう一度お手本。 よく見てみると、べったりと手のひらを器の底につけて支える私と違って、父さんは指を立て、5本の指と親指の付け根のところで器全体を支えている事が判明。なるほど、指先をたてて使ったほうが、手際よくスムーズに回転させる事ができそうだ。 「ああ、なるほどね。」 理屈が分かると、すぐに私にもできそうな気がして、さっそく器を手に取る。 フンフン、プロのコツって、言われてみれば結構単純なものなんだ。 ・・・と素人はすぐに調子に乗る。
・・・で、ものの数分で思い知ったこと。 指先だけで器を支えるためには、私のお子様仕様のずんぐり短い指では、いまいち安定感がないということ。 そして重い食籠を片手で支えて、しかもくるくると回転させるためには、ぐわっと大きな手とともに、その重さに耐える強靭な指の力が必要なのだ。 残念ながら今の私には、そのどちらをも持ち合わせていない。 私の職人修行もなかなか前途多難だなぁとため息をつく。 いつも、さほど疲れた様子も見せず、子どもが戯れるような軽い手つきでなれた作業を次々にこなすひいばあちゃんの節くれだった手を思う。 決して大柄ではないひいばあちゃんの手指は、思いがけなく大きくぱっと開く。あの指なら、きっと重たい器も左手だけで軽々と支える事が出来るのだろう。 仕事の年輪が、そのまま、作業に適した職人の手を作る。 「年季」という古めかしい言葉の重みを感じる。 にわかパート職人の私には、なかなかたどり着けない道のりでもある。
ところで、過酷な農作業や連日の水仕事の苦労も経験しない、マメもささくれもひび割れも知らない甘やかされた専業主婦の手。 ふわふわと頼りない、指輪もマニキュアも似合わない、ずんぐりと短い指の私の手は、いったい何に適した手なのだろう。 ざくざくと米を研ぎ、洗濯物をたたみ、時には子どもたちの頭をわしゃわしゃと撫で回す、そういうことの得意な手であればいいと思ったりする。
夏休みに突入して、どっと増えたこと。 洗濯機でざぶざぶ洗うタオルの枚数。 三度の食事のたびに炊くお米の消費量。 「かたづけなさい!」「ごろごろしない!」「パソコン中止!」と繰り返す小言の数。 そして、日に何度も沸かしては冷ます冷茶用のお湯の量。 昨日はついに一日に5回、お茶を沸かした。 「ただいま!」と帰ってきては、冷蔵庫に直行、がぶがぶと流し込む冷たいお茶。炎天の元、外出する子どもたちには水筒のお茶も必需品だ。
「そろそろ、なくなる頃じゃないの?」と実家の母から電話が掛かってきたのはつい数日前のこと。 そして今朝一番に、実家からの待望の小包が届いた。 子ども達の喜ぶ小さなお菓子をよけると、包みの奥から出てくるのは大きな枕のようなビニルの包み。 神戸南京街のプーアル茶の茶葉の包みだ。 我が家の冷茶は昔からずっとこのプーアル茶。実家の母がわざわざ南京町で買って送ってくれる。決して上等のお茶ではなくて、1kgの大袋が1000円ちょっとの徳用品だ。このお茶っぱは、ほんの一つまみでやかん一杯分のお茶が取れるので、たくさん使っても大袋ひと袋で数ヶ月の使い出がある。 近所でも、よく探せばティーバッグになったプーアル茶を店頭でみかけることもあるけれど、やっぱりたっぷり入った大袋からざっくりと大雑把にすくって使う気軽さがいい。 だから小出し用の茶筒の残りが少なくなると、「お母さん、そろそろお願い!」とおねだりの電話をする。母のほうも心得たもので、買い物のついでにいつも同じ店の同じ包みの買い置きしておいてくれたりする。 毎日毎日子ども達ががぶ飲みするお茶のほぼ全てを、母が送ってくれるこのプーアル茶でまかなう。
「アプコのプールは今年も皆勤だ!」 「オニイは学校、アユコは習字に出かけてる・・・」 「ゲンはまた虫取りに行っちゃったよ。」 あちこち飛び回って忙しい夏をすごす子ども達も成長を、遠くからそっと見守って、「そろそろ、なくなる頃でしょう?」と定番のお茶の心配をしてくれる。そんな母の心遣いが嬉しい。 新しいお茶っぱの封を開ける。 香ばしいお茶の香りと共に、実家の両親と我が家の子ども達を結ぶ穏やかな暖かい絆を想う。 有難いと思う。
近頃、オニイが妙な言葉を発する。 「オニイ、まだいかなくていいの?遅刻するよ!」と声をかけた返事が「むう。」 「オニイ、洗濯物だしといてね。」と階下から呼んだ返事も「むう。」 「馬鹿だな、何やってんの。しっかりしなさいよ。」と説教をした返事も「むう。」 「お兄ちゃん、アンパン食べよ」と機嫌よく擦り寄ってきたアプコへの返事も「むう。」 「うん」とか「はい」という意味の「むう。」だったり、「わかってるよ、うるさいなぁ」という不服そうな気配のする「むう。」だったり、「わかったわかった、ありがとね。」という意味のやさしい「むう。」だったり。
「変なの。そんな返事の仕方、流行ってんの?」 と聞いても、あいまいに笑うばかり。 別に友達間で流行しているのでもなく、愛読する劇画の主人公が使う言葉というわけでもないらしい。 はっきりした肯定や拒絶の意味でもなく、かといって無言で無視するのでもなく、あいまいに意味を濁してオニイの口から漏れる「むう。」という言葉。 「変なの」といいながら、なんとなく気の抜けたユーモラスな響きを持っ「むう。」という言葉がいつの間に家族の生活の中にひたひたと入り込み、気がつくと、私までオニイの口癖が感染して、「おかあさん!おかあさん!」と呼ぶゲンに「むう。」と緊張感のない返事をしていたりする。 「やだなぁ、感染っちゃったよ、オニイの『むう。』が。」 ぐちぐち文句を言う私に、オニイが相変わらずの無表情で「むう。」と答える。 「そんなこといわれたって、知らねぇよ。」の「むう。」
先日の個人懇談の内容もあまり思わしくなくて、志望校のこと、将来の仕事のこと、兄弟や父母との関係のことなど、近頃とみに思い煩うことが増えているらしいオニイ。 虫取りに興じ我を忘れて遊びまわるゲンや、クラブのほかに生徒会活動にも積極的に取り組み、そのくせ学業のほうもそこそこの点数を取ってくる出来のよい妹を横目に眺め、毎日バリバリと仕事をこなす偉大な父の背中を見上げて、オニイの中にざわざわと心騒ぐ複雑な思いがあふれそうになっているのがよくわかる。 だからといって、親に向かって反抗的な言葉を吐くわけでもなく、弟妹たちに威圧的な態度を示すわけでもない。意味なく周りにあたったり言い争ったりすることを嫌う心優しいオニイは、「ああ、ああ。判りました!僕が悪かった!ごめんなさい。」と先に謝って些細ないさかいを丸めて飲み込んでしまおうとする。ちっとも自分のほうが悪かったなんて思っても居ないくせに。 これもまた、思春期の男の子たちが経験する無愛想や反抗や激しい感情の爆発のオニイなりの形なのだろうか。
「うるさい!」 「駄目!駄目!」 「ばかやろう!」 「そうじゃないんだ、ほんとはね・・・」 「判ってよ、僕のこと」 気の抜けた、おどけた響きを持つ「むう。」という言葉の中に、オニイが親や兄弟に向かってはっきりと投げつけることのできない激しい感情や訴えの気持ちのかけらがポロリポロリとまぎれて光る。 友達も兄弟も、TVのタレントも劇画の登場人物も使うことのない「むう。」というオニイだけの言葉の中に、彼自身のオリジナルな自分を主張するささやかな自負の気持ちが、混じっているようにも思われる。
「今日は調子いいね。」 珍しくご機嫌よく、弟たちと遊び興じた後のオニイに声をかける。 「むう。」 それはちょっと照れくさそうな、上機嫌の「むう。」 にやっと笑うオニイの、思いがけない幼さの名残が見える笑顔に、母は少しほっとしたりする。
7月17日、アユコの誕生日。 誕生祝いとしてアユコが選んだのは、隣市の新しいショッピングモールでのお買い物。 安い洋服を何枚か選び、かわいい雑貨の店を時間をかけてみて回り、お昼のスパゲティーのあとに甘いクレープを頬張って、うれしそうに笑っている。 最後に、いつもよりちょいと上等の洋菓子屋さんで自分のバースディケーキを選ぶ。 ごくごくささやかなウィンドウショッピングの一日。 ついこの間まで、「格別欲しいものもないし・・・」といっていたアユコも、娘らしいショッピングの楽しみがわかり始めたようで、「楽しかった。」「ありがとう、またつれて来てね。」と何度も繰り返す。 普段は、ご近所のスーパーにアプコ連れで出かけたり、父さんの車で家族そろって出かけたりする買い物が多く、こういう女の子の当てもないぶらぶらショッピングの楽しみがアユコには新鮮なのだ。 ようやく娘とこういう時間を一緒に楽しめるようになった母も楽しい。
自分の楽しみのための買い物のさなかにも、 「これ、オニイに似合いそう・・・。」とか「きっとアプコが欲しがるよ」と家族の顔を思い浮かべるアユコはやさしい。 「でも今日はアユコの誕生祝なんだし。」と、お互いに首を振って、アユコのための買い物に専念しようとするのだけれど、ついついまたゲンの半ズボンを選んでいたりする。これもまた、兄弟が多いことのいいところだったりもする。
アユコが今日買った服は、インド綿の半そでシャツ1枚。白地にイラスト入りのTシャツ1枚。カットソー1枚。白地に花柄のスカート一枚。 どれもアユコ好みのブルーやグリーンの淡い色合いのボーイッシュな感じのものばかり。 冒険はしない、人目を引く華やかさは求めない、それでも自分の好みの線は堅く曲げない。そういうアユコの気真面目さそのままのチョイスだった。 服のサイズも、子供サイズの150と大人の婦人サイズのSが入り混じる。 大人以下、子ども以上の微妙なお年頃なんだなぁと思う。
アユコ13歳。 おめでとう。
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