月の輪通信 日々の想い
目次|過去|未来
アプコと買い物の帰り、スーパーの前の出店で食器や箸を売っていた。 ちょうどオニイの箸が薄汚れてきたので、買い換えてやろうと思い立つ。 一番小さいアプコサイズのお箸から、お菜箸用の長い箸まできれいに並べられたのを見ていると、普段オニイが使っていたお箸の長さは、はて?どのくらいだったっけと分からなくなる。 今使っているお箸はちょっと小さくなったようだからと、少し長めの箸を手にとって見ると、なんだか父さんの箸のようで納まりが悪い。 だからと言って、もっと短い箸になると、この間ゲンに買ったお箸と同じ長さになってしまう。 私自身が使っているお箸より長いのを買うのもなんだかなぁ・・・・。 いろいろ悩んだ末、ま、この辺で少し長めのお箸を選んで、買って帰った。
かえって比べてみると案の定、選んだ箸は父さんのよりは少し短め、そして私の赤い箸よりはほんの少し長めだった。背丈や腕力だけでなく、お箸の長さも息子に負けちゃう年齢になったのだなぁ。 「オニイ、ちょっと、手、見せて。」 と、自分の手のひらをオニイの手のひらに合わせてみる。 子どもの手のように短い私の指と、少年らしい節の立つ大きくなったオニイの手。 確かにオニイの方が一節分ずつ指も長い。 母より長い箸でご飯を食べるのもあたりまえなんだよなぁ。
久しぶりに、あわせたオニイの手のひらは意外にごつくて大きかった。 そういえば、この子にも小さな赤いもみじのような手の時代もあったのに・・・。 こうして男の手になっていくのだなぁ。 この手がこれから生み出していくものはなんだろう。 この手がこれから掴みとってくるものはなんだろう。 そして、この手は、どんな人とつながれるのだろう。 なんだか嬉しい、ちょっとさびしい。
インターホンが壊れたらしい。 2,3日前から、誰も押していないのに2,3分おきに「ポーン・・・・ポーン」と音がする。 送話器をガチャガチャやってみたり、外のスイッチを何度も押しなおしてみたりもするが音は止まらない。 仕方がないので音量を一番小さくしてみたのだけれど、一定の間を置いて静かに「ポーン・・・ポーン」と繰り返す音は、なんとなくやけに耳に付いて離れない。 別に不快な音でもないので、家事や用事に熱中しているときには気にも留めないのだけれど、気が付くと台所の隅で「ポーン・・・ポーン」はひそかに続いている。
なんとなく四六時中、ストップウォッチをもって日々の動作を計られているようでそこはかとなく気にかかる。 「あ、三つもポーンとなる間、アタシってばボーっとしていたな」とか、「アプコの面倒な質問攻めに、まともに答えてやったのはたったの5つ分」とか、自分の時間の無駄な部分や足りない部分を知らず知らずのうちに「ポーン」で計っている自分に気付く。 「あと5つ鳴ったら、ぐうたらやめて晩御飯の支度にかかろう」とか、「もう3つ分くらいしっかり火を通して置こう」とか、目覚ましやキッチンタイマーの替りにしてたりする。 修理やさんが来てくれるまで、しょうがないから気にしないで無視して過ごそうと思うのに、ふと気が付くとまた耳が勝手に「ポーン」の音を数えている。
気になっているのは実はアタシだけではなくて、父さんやオニイも次第に「ポーン」の音が耳障りになってきているのだと言う事がわかった。 「かあさん、あの音、気にしたってしょうがないんだけど、なんか腹立ってくるよな。」とオニイが愚痴る。 「なんだか急かされてるような気がするのはなんでだろ。年末仕事も溜まってきたから、余計気が急くんだよね。」と父さん。 会話がふっと途切れたときにお互いの耳が「ポーン」の音を確認しているのに気付いて、顔を見合わせて苦笑したりする。 そっか、イライラするのはアタシだけじゃなかったのねと妙な連帯感が沸いたりする。
よく死の淵を逃れて生還した人が、「生きている時間の一瞬一瞬を無駄にしないように、その大切さを意識して生きて行きたい」というようなことを言われるのを聞く。 一日の大半を無為なおしゃべりやらぐうたらやら、とても有意義とは言いがたい時間で費やしやしてしまう凡人にとって、「一瞬一瞬を大切に生きる」と言う言葉は輝かしく重い。 けれどもどうだろう。たかが無意味なインターホンの「ポーン」の繰り返しに、自分の時間がさらさらと無駄に流れていってしまうような、勝手に誰かに自分の人生を『刻まれてる』いるかのような、言葉に出来ない苛立ちを覚えるのはなぜなんだろう。 とどまることなく流れ去っていく時間を、常に意識して生活していくと言う事は、思っている以上に精神的な苦痛をも伴う困難な営みなのかもしれない。
かちゃかちゃとお茶碗を洗っているときも、友達と長電話でおしゃべりを楽しんでいるときも、そして今、しんと静まった深夜、一人でPCに向かっているときも、勝手口の方からは「ポーン・・・ポーン」と音がする。 「今のその一瞬は、有意義だったの?無駄な一瞬だったの?」と問うているのは実は「ポーン」の音ではなく、自分自身の内の声なのだ。 そして、本当に意味があるのは、ごしごしおなべの底をこすったり、われを忘れておしゃべりに熱中している、「ポーン」を意識しないで過ごす時間なのかも知れない。
「ポーン」の音は次第に家族のいつもの生活の中に埋もれ始めている。 家族の皆に聞いてみたら、おもしろいことに「ポーン」と言う音にイライラしているのは父さんとアタシとオニイまで。 アユコはさほど気にならないというし、ゲンは「ポーン」の感覚をストップウォッチで計ってみたりして遊んでいる。アプコにいたっては、インターフォンの異常自体を言われて初めて気付いた様子。 そうか。 毎日、目覚めて食べて遊んで眠る。 いちいち自分の過ごした時間の意味を問い返す事もなくシンプルな日常を生きる子ども達にとっては、もしかしたら誰かが勝手にカウントしている人生の時間なんて、大して気にするまでもないたわいないことなのか。
小学校、マラソン大会。 いつも寝起きのいいゲンがなかなか起きてこない。 先に起きてきたアプコが「ゲンにいちゃん、起こしてくる。」と飛んでいってしばし。どよ〜んと鬱陶しい顔をしたゲンがコンコン咳をしながらのろのろと降りてきた。 「どした〜? どよ〜んとした顔してるなぁ。マラソン大会なのに元気出せよ!」 走るのが苦手な我が家の子ども達。先に起きてきたアユコもなんとな〜く「いやだなぁ」の顔をしているのがよくわかる。マラソン大会って、ヤだよね、うんうん分かる分かる。
ゲンの咳がしつこく続く。 うそ臭いほど、しつこく続く。 「おかあさん、今日のマラソンはちょっと・・・」 ほら、やっぱり。 「え〜、走らないの〜?せっかく応援にいくのに。」 「う〜ん、ちょっと・・・・」 ことさらにコンコンと咳をして、でもやっぱり「休みたい」と言う言葉はあやふやに濁す。 はは〜ん、と思う。 オニイや父さんも「さては?」という顔で、目配せを送っている。 すったもんだの末、マラソンカードには「参加」にしっかり印を押して、「頑張っていって来い」と追い立てる。
「あれはきっとズルだよね。」 子ども達が登校した後、父さんと話をしていたら、保健の先生からの電話。 「マラソンカードでは『参加』になってますけど、ずいぶん咳がひどいようです。どうしましょう。」 電話口の後ろでゲンの激しい咳の音が聞こえる。 「う〜ん、やっぱり行きましたか。微妙なトコなんですよね。確かに風邪は引いてるんですが・・・。」 と朝の顛末を説明する。保健の先生も「そういわれてみると確かにちょっとね。」とことさら大げさなゲンのコンコンに首を傾げていらっしゃる様子。 「いいです、先生。スタートぎりぎりになって、本人に決断させてください。周りからは『休んどいた方がいいね』なんていわないでくださいね、自分で『休む』と言わせてください。」 と念を押して電話を切る。 「あはは、やっぱりな。」 横で聞いていた父さんが笑っている。
スタート時間に間に合うように小学校へ駆けつけると、果たしてゲンは日当たりのいい校庭の花壇のふちに友達と二人で座っていた。足をぶらぶらさせて、なんだか楽しそうにスタートラインの級友達を指差して話をしている。 「あ、やっぱり、さぼったな。」 物陰からそっと見ていると、朝にはあんなに体をよじ曲げて咳をしていたのに、ぜんぜん咳き込む様子もなくて、穏やかなひなたぼっこを楽しんでいるみたい。 そ〜っと近づいていって、「アレレ、やっぱり走らなかったの? 咳してないじゃん。」と意地悪くゲンにささやいてみた。 ビクンと飛び上がったゲン、思い出したようにまたゴホンゴホンと咳をする。 怪しい、怪しい。
「おばちゃん、そんな事言わん方がいいで。」 隣で一緒に座っていた仲良しのUくんが、妙に大人びた口調で私に言ったので面喰った。。 う〜ん、どういう意味なのかなぁ。 「ほんとにしんどくて休んでる子に、『さぼったな』というのはよくないよ」ということなのか。 「せっかく一生懸命仮病を使っているんだから、武士の情けで見逃してやれよ」ということなのか。 「僕は喘息なんだけどね。」 と、言葉を継いだUくんの口調に真意を量りかねて、あやふやに答える。 「いやぁ、ゲンの咳はちょっと怪しいんだよ。マラソン嫌いだからね。」としなくてもいい言い訳をしてみる。 傍らでゲンは再び、大げさな咳をはじめた。
なんだかなぁ。ま、ちょっと間は抜けているけど、先生方に首を傾げさせる程度の演技力と知恵がついた分だけ成長したと言う事なんだかなぁ。 最後尾を走りながらもへらへらとわらって手を振ったオニイ、「いやだなぁ」と言いながら渋々全力を尽くすアユコ、我が家のマラソン大会はいつも苦渋に満ちている。 ゲンも数日前から「僕、マラソンは遅いんや。」と気にしていたようだったからきっととっても嫌だったんだろう。 「サボりたいなぁ、風邪ひきたいなぁ」と念じて空咳をしていたら、いつの間にか自分でも仮病なんだか、ホントの病気なんだかわかんなくなっちゃう ことだって確かにある。 何とか「いやだなぁ」に負けないで頑張る我が子も見たいけれど、周囲の疑惑の目を押し切ってちょっとズルの気分を経験する事もきっとゲンにはいるのだろう。
先頭を切って、晴れ晴れとゴールしていくクラスメートの姿を見て、Uくんがぼそぼそとつぶやいた。 「あんなに速く走れるんだったら、ぼくだって、マラソン大会は楽しみなんだろうけどな。」 「そだね。でも、それが君の人生だ。頑張って生きていけ。大人になったらマラソンなんてしなくていいんだからね。」 と、U君にはちょっとふざけて答えたけれど、彼の気持ちはよくわかる。 マラソンをしなくてもいい年になった今だって、 「一生に一回くらい、我が子が一番でゴールテープを切るシーンをみてみたいよね。」 なんて、思ってしまう事がある。 でもね、かけっこの遅い僕も、仮病でする休みしちゃった僕も、それからいつも最後尾でみんなから遅れてゴールする僕も、み〜んな大事な「僕」なんだ。 そのことをちゃんと分かって、見ててくれてる人がいるよ。 二人ともそのこと、気付いてね。
アユコとゲンが珍しく二人そろって帰ってきた。 ちょうど習字に出かけようと車を出したところで、フロントガラスのむこうにゲンの丸っこい笑顔と大人びたアユコのひょろりとした姿が仲良く絡まりながら坂を上ってくるのが見えた。 二人は車を見つけるとニコニコ笑いながら、駆け寄ってくる。 その手には立派な葉付きの大根と丸大根が一本ずつ。 「学級園の野菜、もらってきたよー!」 ゆっさゆっさと手にした野菜を振り回してゲンが笑う。 いい顔してるなぁ。 二人の通う小学校には立派な農園があって、時々こんなふうにびっくりするほど立派なお野菜のおすそ分けを頂いてくる事がある。 自分達が育てた野菜を持ち帰ってくる子ども達の笑顔はとても得意げで、幼いながらも「収穫の喜び」というものを十分に味わわせていただいているのだなぁと、ありがたく思う。 無農薬で育った大根は今にもパチンとはちきれそうなみずみずしさで、ずっしりと重い。 アユコとゲンが頂いた野菜を袋にもいれずにむき出しで抱えて帰ってくるのは、収穫物の立派な作柄が嬉しくてたまらないからかもしれない。
頂いた野菜のみずみずしさを余すことなく味わいたくて、ひとまず大根と丸大根の葉をきれいに洗って、とんとんと刻む。ボールいっぱいの刻んだ青菜をフライパンで炒め、甘辛く煮詰めてゴマを振る。 大根は葉に近いほうを細かく千切りにして塩でもみ、葉っぱも加え重石を乗せて浅漬けにする。 どちらも私が幼い頃、同居していた祖母がよく拵えてくれたお惣菜。 台所でとんとんと青菜を刻んでいた祖母の丸い背中を思い出す。
とんとんと青菜を刻みながら、なぜだか急に祖母の「おくもじ」という言葉を思い出した。 細かく刻んだお漬物の事を祖母は時々「おくもじ」と呼んだ。 漬け物好きの父はそれを「鳥のえさみたい」と笑ったけれど、祖母はいつも刻んだお漬物を白いご飯にぱらぱらまぶして食べるようにと私達に勧めた。 パリッと新鮮な旬の野菜の滋養を残さず孫達に味わわせたいと、細かく刻んでおいてくれたのだろう。 子どもの頃にはさほどありがたいと思うことのなかった「おくもじ」の心遣いを、母となった今、鮮やかに思い出す。 子ども達の持ち帰った大根を、無駄なく美味しく食べさせてやりたいと思うとき、迷わず葉っぱをトントンと刻み始めるのはあの日の祖母の丸い背中の記憶が確かに私の中に根付いているからなのだなぁと思う。
今日、夕食に予定していたのはドライカレー。 外出先から帰って、手早く出来るお急ぎメニュー。 ありゃりゃ、なんだかちぐはぐだねと言いながら、大根葉の炒め物も鉢に移して食卓に上げてみた。 たまねぎにんじん合挽きミンチの甘口ドライカレーに、ためしに大根葉を添えてみる。 ・・・意外に合うかも。 とっても邪道な味わい方だけれども・・・。
朝、珍しくいつもお寝坊のアプコが一番に起きてきて台所のストーブの前に座った。 「あのね、おかあさん、出来たよ!」 なんだか嬉しそうなのでよく聞いてみると、ここ2,3日続いていたおねしょ、今朝はしてなかったんだそうだ。 「そう、よかったね。」と忙しく朝食の準備に戻る。 「あのね、おねしょしない方法、秘密の方法がわかってん。」 はぁ、秘密の方法ですか。 「あのな、あのな、寝るときにな、こうやってこうやって、おしりを押さえて寝るねん。」 とアプコ、体をよじらせ、手で前と後ろをしっかり押さえて、あられもない格好をやって見せてくれた。 「うふふ、それって、ホントに効くの?」 爆笑を噛み潰して、まじめに訊いて見る。 「うん、絶対! だって、今日はおねしょ、しなかったもん!」
幼稚園から帰ってきたアプコ、体操服の洗濯物と一緒に、ナイロン袋に入ったぬれたパンツと体操ズボンを出してきた。 「ありゃりゃ、今日はお土産つきかぁ、おしっこ漏れちゃったの?」 「うん、ピアニカの練習してるときに、しゃーって出ちゃったの。だからほら、幼稚園のキティちゃんパンツ借りた。」 なんだか、アプコは借りてきた可愛いイラストつきのパンツがうれしそう。 まだまだ、お漏らししても屈託がない。 「そうか、しゃーっと出ちゃったのか。じゃ、しょうがないね。」 といっては見たけれど、ちょっと意地悪ついでに訊いてみた。 「あれれ、アプコ、今朝、おもらししない秘密の方法、見つけたんじゃなかったんだっけ?あれ、やってなかったの?」
アプコ、平然と答えました。 「だって、ピアニカやってたんだもん。両方とも、手、使ってたからできなかったよ。」 はぁ、なるほど。 ・・・・じゃなくて!!
休日なので、アユコ、先だってから念願の神戸行き。 加古川のおばあちゃんのお誘いで、北野の異人館街やらショッピングやら一日楽しませてもらった。 時節柄、一人で電車で行かせるのも気持ちが悪いので、こちらからはJRで中間地点の尼崎駅まで送り迎え。加古川からもわざわざ尼崎まで母が迎えに来てくれて、アユコの「おばあちゃん独り占め旅」に出かけていった。
小さい頃から比較的「無欲の人」だったアユコも、最近ようやくお年頃になったか、洋服やアクセサリー、可愛い雑貨など、女の子らしいショッピングの楽しみを覚えはじめたらしい。 ご近所のショッピングセンターの雑貨屋さんだとか、用事で出かけたときの通りすがりの文房具屋さんとか、本当にささやかなウィンドショッピングのチャンスをうきうきと楽しむようになった。 普段アユコと母が出かけるときには、もれなくアプコが付いてくるので、なかなかアユコが満足するまで街歩きを楽しむチャンスは少なく、「これ、買って」のおねだりも憚られる。 そんなアユコにとって、気前のいいおばあちゃんを独り占めにして、たっぷり都会を堪能できるチャンスは本当に嬉しいものだったに違いない。
「いいなぁ、アユコ。おばあちゃんはお母さんのお母さんなんだから、ホントだったらお母さんが一人で神戸へ行っておばあちゃんと遊んでくるのに・・・」 行きの電車の中で、何度もアユコにささやいてみる。 ホントは母だって、たまには懐かしい神戸で一日楽しく遊びたいんだい! 「えーっ、じゃ、お母さんも一緒に神戸行っちゃう?」 困った顔で何度も答えるアユコ。 ダメだよね、家族とはなれて、おばあちゃんと二人だけってのがいいんだよね。 きっとおばあちゃんだって、おばさんになって欲の深くなった娘ではなくて、買い物の楽しみや甘えんぼの喜びに目覚め始めたばかりの若い孫娘とのデートを楽しみにしてくれているに違いない。 いいよいいよ、一人で十分楽しんでおいで。
夕方、再び迎えに行った尼が崎の駅。 アユコはお土産の紙袋を大事に抱えて上気した顔で笑っていた。 ちょっと緊張していた朝とは違って、おばあちゃんのすぐ横に親しげに寄り添っているアユコ、いっぱい甘えさせてもらってきっととても楽しかったに違いない。 帰りの電車の中、「ねぇねぇ、どんなトコ行ったの?お昼、何食べた?いいもの買ってもらった?」と矢継ぎ早に質問する私に、「う〜ん。ひみつ。」とたくさん内緒ごとを作るのも、アユコは面白くてたまらないようだ。 往復一時間半のJR、2往復の送迎で一日をつぶした母としては、ちっとも面白い事はないのだけれど、アユコがキラキラといつもよりハイテンションで笑うので、これはこれでよしとする。 一日アユコに付き合って歩き回り、ずいぶん散財してくれたであろうおばあちゃんにただただ、感謝感謝。
ところで、帰宅したアユコ。 おばあちゃんに買ってもらったというチェックのブラウスを見せてくれるまえにささっと値札を取って小さくちぎって隠した。 「うちでは買ってもらったことのない値段かも・・・」 と微妙な表情。 そりゃそうでしょう、最近我が家の服飾費はぎりぎりいっぱい。一枚500円のTシャツ、1000円のジーンズが定番なんだから。 「それにしてもね、ちょっとすごいのよ。4倍ぐらいするかも・・・」 4倍?何の4倍? ・・・・やっぱりアタシもアユコに付いていけばよかったかも・・・。 お母さんだってまだまだ、お母さんん甘えんぼしたいんだよう。
恒例になった小学校での五年生の陶芸教室。 朝からバタバタと電動ロクロや材料の粘土などを車に積み込み、始業時間ぎりぎりに滑り込む。 三十数名を二クラス。 焼き物の種類や陶芸の歴史について短いレクチャーをして、水引きロクロでの制作を実演、そのあと手びねりによる抹茶茶碗の制作を指導する。 水引きロクロでするすると土塊が茶碗や壷に変わっていくのを見て息を呑み、冷たい粘土の感触をワイワイと楽しむ子ども達の笑顔は、毎年変わらない。 制作が始まると、父さんはテーブルを回って手伝ったり指導をしたり。にわか講師助手の私も「おばちゃ〜ん!」とあちこちから呼ばれて走り回る。 ものを作るということが、子ども達の柔らかな心にさわさわと新しい風を送り込む瞬間を見るようで楽しい。
毎年、この小学校の5年生に陶芸教室を行うようになって5,6年になる。 我が子の参観で一年ごとに成長していく子ども達の授業を見るのとは違って、毎年同じ時期の新しい5年生たちにほぼ同じ内容の講座を持たせてもらうと、クラスや学年によるカラーや子ども達の気質の変化が感じられ、なかなか面白い。 とても生真面目で教えやすいクラス。子ども達のノリがよくて、やたらハイテンションなクラス。なんとなくまとまりがなくて盛り上がりに欠けるクラス。 それは担任の先生のタイプや子ども達の質にもよるのだろうけれど、同じ年齢の子ども達にほぼ同じ内容の教材を与えても、そのクラスの持つ雰囲気や学習態度によって子ども達が習得する度合いに大きな違いが出るものだなぁと改めて実感する。 出来上がった作品の出来不出来を見ていると、個人の陶芸の技術以前にクラス全体の人の話を聞く能力、新しい事を学ぼうとする意欲、向上心のあるなしが、成功失敗の比率を大きく左右しているという事が感じられる。 教材研究や授業技術の向上のほかに、クラスの中に基本的な学習態度や学ぶ事を楽しむ雰囲気を導いていかなければならない学校の先生方の職責は重い。 大変なお仕事だなぁと思う。
それとは別に、ここ2,3年の子ども達を見ていて思うこと。 制作の途中で失敗したり、思うようにいかなくなったりしたときに、ぐしゃっとあっけなく自分の作品を壊してしまう子どもの数が増えている。 毎回子ども達に教えているのは「手びねり」という方法で拵える抹茶茶碗。あらかじめよく練り合わせた塊の土から少しづつお茶碗の形をひねり出して作り上げる方法だ。 新たに粘土を足して接いで行く方法と違って、「手びねり」だとある程度決まった大きさの作品が作りやすく、途中で粘土の中に空気の層が入ることがないので初心者にも比較的失敗が少ない。 ところが、形作りに失敗した時に、ぐしゃっとつぶしてしまうとその土は新たによく捏ね上げないとどうしても空気の層が入ってしまい、すぐに再生して使うことが出来なくなる。 「失敗したと思っても、絶対ぐちゃっとしないで救急車を呼んでね。」 と子ども達には何度も声をかけ、できるだけ手直しして最初の形を生かそうとするのだが、どうしてもクラスに一人や二人、ぐしゃっとやってしまう子が出てくる。
最初に「ぐしゃっ」の子が出たのは2年前だ。 苦心三嘆してもなかなか自分の思う形が出来ず、残り時間もあとわずかというところでイライラして「ぐしゃっ」とやってしまった。もう修正の余地もなくて、新しい粘土を渡して作り直してもらったら、ものの数分でお茶碗を作り上げ、時間内に完成させてしまった。 「きっと最初の作品は、彼の思うものではなかったのでイライラしたんでしょうね。」と当時の教頭先生が解説してくださったけれど、それまでの熱中振りといきなり「ぐしゃっ」のギャップに驚いて、なんだか解せない気持ちになった事を思い出す。 去年の5年生でも「ぐしゃっ」が数名。 どうにもこうにもうまくいかなくてというような行き詰った感じではなくて、「なんだか気に入らない」とか「いやんなっちゃった」というようなノリで、壊してしまう子も現れだした。 そして今年は、ついに一クラスでまとめて3人の「ぐしゃっ」が出た。 しかもその中には同じ子が2,3度「ぐしゃっ」を繰り返すケースも見られた。
苦心して作り上げている途中の作品を「ぐしゃっ」とやるのは、リセットに似ている。 それまでの制作過程すら恥じるように容赦なく「ぐしゃっ」とつぶして、急いで新しい土塊に戻そうとする。 「その土は空気が入っちゃったから、駄目なんだよ。」といわれて唖然とする。 しょうがないなぁと新しい粘土を貰うと、悪びれるでもなく面倒がるでもなく、さっさと新しい作品に取り掛かる。 そうして出来上がった新しい作品にすら、さほど強い思い入れや愛着を持っているようにも見られない。 そのこだわりのなさは、現代の子ども達のさらっと要領のいい生き方の志向にも似て、はぁ、こんなものかとため息をつく。
子ども達の気質の変化を、何でもかんでもゲームやネットの仕業とするのはよくないとは思うが、失敗はさっさとリセットしてしまえばまたすぐに新しいゲームが始められるという思い込みが、少なからず子ども達の思考回路に組み込まれつつある事にある種の焦りを感じる。 苦心して苦心して、やっぱりうまく纏め上げる事の出来なかった作品を「ぐしゃっ」とすればその形はなくなってしまうけれど、苦労した制作の過程は決してゼロになるわけではない。 リセットボタンを押せばゲームの画面は振り出しに戻るけれど、「ぐしゃっ」とやってしまった土は元のまっさらな土に戻るわけではない。 簡単にリセットしてゼロに出来るものと、一度ぐしゃっとやってしまうと二度と元通りにはならないものがあるということに対する気構えが希薄な子どもがじわじわと増えているのではないだろうか。
ものを作るということを通して、子ども達はたくさんの事を学ぶ。 一つのことをやり通すことの楽しみ。 苦心して一つ一つ作られたものへの愛着。 ものを作り、誰かが作ってくれたものに助けられて生きているという人間の営み。 そうした事がはっきりと子ども達の胸に刻まれるためには、 普段の生活の中で子ども達の中に、それを受け入れるだけの豊かな感情や感性の素地をしっかり構築しておかなければならないのだという事を強く感じる。
クリーングリーン作戦。 市内のあちこちのあるハイキングコースで、毎年この時期にいっせいに行われるゴミ拾いハイキング。各地区ごとに町役さんたちの先導で、ぞろぞろとゴミ袋を手に一時間あまり山道を歩き、ゴール地点で熱々のレトルトおでんを頂く。 我が家は子ども達が小さい頃からほぼ皆勤で参加している。 一番オチビのアプコは抱っこ紐の1歳児の頃から一緒に連れて行き、ベビーカーやアユコのおんぶの助けを経て、去年あたりから自力で歩いて踏破できるようになった。 毎年同じ時期に同じコースを歩くので、子ども達のそれぞれの成長振りが分かる。ついでに育ち行く子どものスピードを追うように老化していくわが身の体力の衰えも痛感したりする。
例年子ども達は全員参加で臨んできたクリーングリーン。 今年ははじめてオニイが当日ぎりぎりまで、参加を迷っていた。うっかり午後から学校の友達と遊ぶ約束を入れてしまったのだという。 今年は父さんも出張中で参加できないと聞いて、長男坊としては母と弟妹達のために参加してやらなくてはとも思うらしい。 「オニイももう中2なんだから、そろそろ自分の予定や友達を優先してもいいんだよ。『家族みんなで一緒に』ってのもそろそろ卒業かもね。」とは言ってやるのだが、心優しいオニイは家族と友情のハザマでいつまでも右往左往していたようだった。 結局、オニイは、午前中弟妹達と共にクリーングリーンに参加し、昼食を急いで食べて一人で下山、午後から自転車で友達の家に駆けつけるという強行スケジュールをとる事にした。 午前中のハイキングだけでも結構お疲れのはずなのに、タフなヤツ。 あっちにもこっちにも不義理が出来なくて忙しく立ち回る人の良さは、まるっきり父さん譲りだなぁ。
オニイの友達の一人が2学期になってほとんど登校してこない。病気なんだか家庭の事情なんだか不登校なんだか、いまいちはっきりしないのだけれど、もう一人の友達と一緒に様子を見に行くことにしたのだという。 ちょうど、彼が学校に来なくなった時期がオニイ自身の過敏性腸炎騒ぎの時期とも重なっていたので、何とか普通に学校へ行けるようになったオニイとしてはどこか放って置けない想いもあるらしい。 そのくせ「今日もKは、来なかったよ。」とたびたび言うものだから、「気になるんなら、電話でもしてみたら・・・」とけしかけてみても、結局オニイはなんだかんだと理由をつけて電話の一本すら長いこと躊躇してかけられなかったりする。 今朝も「今日Kにあったら、この間から貸しっぱなしになってるカセットテープをやっと返してもらえるよ」と言ったりするので、なんだ、Kくんに会うことにこだわるのはそのテープのためだったか・・・と、思ったりしていた。 友達が不登校になったからといって、青春ドラマのように説得に駆けつけたり、毎朝友達を迎えにいったりというような熱い友情のシーンは見られない。いまどきの少年達の友情って意外に淡白なんだなぁなんてちょっとしらけた思いでみていた。
「オニイ、その貸してるテープだけどね。 そのテープを貸してるって事で君の気持ちがK君につながっているんなら、Kくんにとってもそのテープを返さなきゃって思うことで友達や学校に気持ちがつながってるって事もあるんじゃないかなぁ。 そういうつながり方って、学校へ行けなくなってる子にとっては大事なんじゃないの?」 テープを返してもらったら、オニイとKくんのつながりの糸が切れてしまうのではないかという懸念をオニイに問うてみた。 貸したテープの回収が目的のように言われて、憤慨するかと思いきや、意外とオニイの答えは穏やかだった。 「うん、僕もそう思うねん。だから、今日また別のテープを貸してこようと思って・・・。」
やられたなと思った。 オニイがK君に会いたがるのは、貸したテープの回収のためではない。 Kくんとの糸がまだちゃんとつながっている事を確認して、更に強く結わえなおすためだったんだな。 それまで、Kくんに電話する事すらためらっていたのも、もしかしたら、学校へ来ないKくんの気持ちを想い量って、タイミングを逸していただけなのかもしれない。 熱血青春物語のようなドラマティックな展開はないけれど、彼らには彼らのささやかな友情の心遣いというのは確かにちゃんと芽吹いている。 現代の子ども達の、深く傷つけあう事を避ける淡白な友達関係のなかにも、彼らなりの心優しい思いやりはそだっていたのだなぁと心温まる思いがした。
午前中、オニイはしょっちゅう集団から外れて歩きたがるゲンを気遣い、アプコの駄々っ子を適当に聞き流しながら、弟妹をリードする長男のお役目を淡々とこなし、「じゃ、悪いけど、先、帰るわ。」と颯爽と一人で山を下っていた。 散々寄り道して後から帰宅すると、玄関にオニイの自転車はなくて、K君のうちへあわてて駆けつけていったのが分かる。 気配りの人もなかなかいそがしいねぇ。 夕方暗くなってから帰ってきたオニイの顔は、くたびれてはいるけど妙にさわやかだった。 「Kな、ちょっと見ない間に髪型が「ふかわりょう」みたいになってたわ。」と笑うオニイ。 なんで学校へ来ないのかと問うでもなく、元気出せよと励ますでもなく、ただただ普通に遊んで喋って帰ってきたらしい。 こういう淡々とした形の友情もあるのだな。 「かあさん、先に帰って悪かったね」と付け加える事が出来るようになったオニイが、今日はちょっと男に見えた。
また、幼い子どもの悲惨な事件のニュース。 私達の住むところから山一つ隔てた向こうの町。 車なら同じ国道を車で数十分の距離の場所。 被害にあった女の子はちょうどアプコと同じ年頃。 おまけにその子の名前はアプコの一番の仲良しさんと同じ名だ。 事件の新しい詳細が流れるたび、心が震える、胸が詰まる、いたたまれなくなる。
私にはアプコがいるから、 あのくらいの年頃の子が大人の言う事をどんなにあっさり信じてしまうかを知っている。 知らない大人と二人っきりにされたら、どんなに不安そうな顔をするかを知っている。 ちょっと転んですりむいただけでもどんなに痛がって泣くかを知っている。 毎朝、幼い子の髪を結い、「行ってらっしゃい、気をつけて」と当たり前に送り出す母親の気持ちも知っている。 子どもが怪我をしないように、寒い思いをしないように、怖い思いをしないようにと細心の注意で子ども達を見守っているのだという事も知っている。 ほんの数時間子どもが手元を離れただけで、ふっと不安になったり、物足りない想いがするかを知っている。 我が子が他人から理不尽に傷つけられたり嫌な思いをさせられたら、それがどんな些細な事でもどれほど腹が立つかを知っている。 そして、自分がおなかを痛めて生んだ子どもが、自分より先に思いがけなく逝ってしまうことの深い深い喪失感も知っている。
親がこれほど心を砕いて育て上げた子ども達を、使い捨てのおもちゃのようにいたぶって捨てる事の出来る人間が、今、この私と同じ空気を吸って生きているという事たまらなく腹立たしい。 怒りの気持ちがあまりに強くて、そしてもしも我が子だったらという恐怖の気持ちがあまりに強くて、呆然として一日を過ごす。
アプコの頬は柔らかくて、甘いにおいがする。 髪は細くてもつれやすく、さらさらと指にこぼれる。 抱き上げると意外にどっしりと重くて、まとわり付く手指や足の力が心地よい。 くだらない駄洒落で何度もケラケラ笑い、眠くなると甘えてふくれっつらをする。 走ると短いスカートの下のハム太郎パンツが丸見えで、いつまでもパタパタと幼児のような足音がする。 こんなにいとおしい大事な宝を、誰が理不尽に壊すのだ。 何の権利があって、こんな愛らしい生き物を犯すのだ。 この子らの夢に満ちた明日を、私達はどうやって鬼畜のような人間から守ってやればいいのだ。
心がざわざわと騒いで、まともに物を考えられなくなる。 ただただ、意味もなくアプコを抱き上げ、我が子らが今確かにこの手の中にいるということを何度も確認して胸をなでおろす。 犯人はまだ捕まっていない。 けれども明日もまた、子ども達はそれぞれに自転車で遊びに出かけ、どこかでそれぞれの世界を育んでいく。 いつもいつも親が付いて回って、四六時中危険や犯罪から守り続けてやることは不可能だ。 私は母として、我が子が不運な籤を引かぬように祈りながら子ども達を送り出すより仕方がないのか。 ただただ、震える。 ただただ、祈る。
運動会や作品展が終わって、じっくり部屋遊びが楽しめる季節になると、幼稚園の女の子達の間にお手紙のやり取りが急に流行りだす。 毎年毎年、ふしぎなぐらい同じ時期だ。 綺麗な千代紙の裏側とか、可愛いイラストの付いたレターセットの便箋とか、シールをペタペタ貼り付けた色画用紙とか、それぞれ工夫を凝らした小さなお手紙を仲良しさんにあげたり、大好きな先生に手渡したりして、お返事を待つ。 年少組の時には、いたずら描きのような絵ばかりのお手紙だったのに、年中、年長と年齢が上がるごとに、だんだん文字のお手紙になってくる。 文字の配列も不明、「てにをは」はめちゃくちゃ、鏡文字もいっぱい、そのくせハートマークや音符マークがあちこちにくっついた暗号文のようなお手紙。 さすがに貰ったほうもなかなか判読できなくて、「おかあさん、読んで!」と持ってくるのだけれど、こればっかりは母にもよく読めない。
アプコ、ひらがなは全部読めるようになった。 書くほうもぼちぼちうまくなってきた。 まだまだ、鏡文字や書き順違いも多くて読みにくいけど、幼児用のワークブックにたくさん文字を書いたり、しりとりの要領でノートに言葉を書き連ねたりするのは大好きだ。 そのくせ、つい最近までお友達への手紙にはなかなか文字を書こうとしなかった。 「だって、言いたい事は字で書かなくても、おはなしすればいいでしょ。」 確かに相手に直接手渡しする幼稚園児のお手紙には、読みにくい文字で苦労して文字を書くよりも、かわいいお絵かきお手紙で十分用は足りる。でもなぁ、それなら、わざわざお手紙にすることないじゃん。 ・・・と幼児のお遊びに要らぬツッコミを入れたりする。
「おかあさん、ちょっとこれ見てよ。」 アユコが小さな紙切れを持ってきた。アプコのお気に入りのレターセットの一枚に、アプコのたどたどしい文字が並んでいる。 「いちごのけえきおたべたいときはけえきやさんでかいまほう さあなんのけえきがすきですか」(青字は鏡文字。) アユコと二人、くすくす笑いながら苦心して判読する。 「イチゴのケーキを食べたいときはケーキ屋さんで買いましょう。さあ、何のケーキが好きですか?」 誰に宛てたお手紙なんだかしらないけれど、もしかしたらこれがアプコの初めての作文かもしれない。それにしてはどこかの英会話のテキストの例文のような作り物っぽい文章で、笑ってしまう。
ところで、せっかく苦心して書き上げたアプコのお手紙だけれど、結局翌日園に持っていくのを忘れたり、相手のお友達がお休みだったりして、出さずじまいでほったらかしになるものがとても多い。 ちゃんと相手に渡るのはほんの3割くらいではないだろうか。 うちの中で小さくたたんだ紙切れをあちこちで見かけて、「アプコ〜、これ、お手紙でしょ。持っていかないの〜?」と訊くと、「あ、それはもう要らない」とあっさりした答えが返ってくる。 鼻歌を歌いながら可愛い女の子の絵を描き、苦心しながら文字を並べ、お気に入りの封筒を選んで封をする。 相手がその文字を読もうが読むまいが、誰かのために一生懸命思いを伝える文字をつづるそのこと事自体が文字に親しみ始めたアプコにとっては快楽なのだ。 だから渡しそびれた手紙にはアプコはちっとも執着しない。 それはもうアプコにとって、「書きたい」思いの抜け殻に過ぎなかったりする。
アプコの「出さない手紙」を拾い集めて、判読してみる。 たどたどしい文章も少しづつ長くなり、あちこちに踊っていた文字の羅列が次第に上手に整列し始めている。 知らず知らずの間に、自然と上達しているんだなぁ。 書くこと自体を楽しんで続けている、遊びから学ぶ子どもの能力というのはすばらしい。
ところで。 苦心して一文字一文字書き綴り、書き終わったらもうその内容にあんまり執着しない。そして書いている最中こそが、自分にとっては一番充実している瞬間である。これって、私にとってのweb上の日記にどこか似ている。 日記を公開し始めてはや、3年近く。日々のつれづれに感じた事を独り言のようにぼそぼそと書き綴ってwebにあげる。 それは誰かに宛てた「出さない手紙」を書き溜める遊びに通じる楽しみでもある。 成長盛りのアプコにはとてもかなわないけれど、母の戯れも少しは上達しただろうか。 拾い集めて判読してみる。
|