月の輪通信 日々の想い
目次|過去|未来
朝、登園の途中、アプコの足が止まった。
「オカアチャン、ちょっと待ってね。」
パタパタと道ばたの何かに駆け寄るアプコ。
小さな蝶々の死骸だ。
涼しくなって力尽きたか、運悪く車にひかれたか・・・。
薄汚れて、羽根も砕けた蝶々をアプコはためらうことなく、つまんで水路の水に落とした。
「ちょうちょ、死んじゃったねぇ。かわいそうね。」
手をつないで再び歩き始める。スキップで私の早足に絡まるようについてくるアプコ。
私を見上げて得意げに言った。
「大丈夫よ。お水につけてあげたから、すぐに元気になるよ。」
「え?元気になるの?」
「そうよ。死んだ蝶々はね、水につけておくと元気になってまた飛んでいくねん。」
「あ、そうなの・・・」
去年の春には、激突死のスズメの「死」の意味がいまいち理解出来ていなかったアプコ。
一年分お姉さんになっても、まだ、よく分かっていないのかな。
「ホントに死んだ蝶々って生き返るの?セミとか、カブトムシは生き返らなかったよ?」
「ううん、ちょうちょは違うのよ。お水に一ヶ月くらいつけてるとね、元気になって飛んでいくの よ。」
「あ、そうなの・・・(???)」
「だってね、お花はクタってしおれてても、お水に入れると元気になるでしょ。」
「ふ〜ん、お花ねぇ・・・」
どこから思いついたんだろう。
自信満々で説明してくれるアプコ。
何を根拠に「一ヶ月」?
なんだかとっても楽しくなって、調子を会わせて、アプコの死生観を拝聴する。
「そういえばちょうちょとお花は似てるよね、とってもきれいな色だしね。」
「うん、ちょうちょはお花から生まれるんだよ。」
「あ、そうなの、青虫さんじゃないの?」
「うん、青虫さんから生まれるのもいるし、お花から生まれるのもいるの。お花のひらひらっとし たところがちょうちょの羽根になるのよ。」
「ふ〜ん。」
道ばたには、とりどりのピンクのコスモスの列。
その愛らしい花びらのふるえる様は、ひらひらと繊細なちょうちょの羽ばたきにも似ている。
薄紅色の蝶々の群が、ぱぁっと飛び立ち乱舞する様が目に浮かぶようで、秋晴れの青空をぐ いと見上げる。
「ほんとだねぇ、このコスモスがみんな蝶々になって飛んでいったら、きれいだろうねぇ」
「うん、夢みたいねぇ・・・。」
「夢みたい」
アプコの口からこぼれた大人びた言葉。
ああ、アプコには「現実」と「ファンタジー」との違いがちゃんとわかってるんだな。
死んだ蝶々が生き返らないことも、コスモスが蝶々にはならないことも・・・。
分かっているのに、自信たっぷりに自分のファンタジーの世界に遊ぶことの出来るアプコ。
幼児の心の中にある「ファンタジーの王国」の恐るべき広大さ。
すごいなぁと思う。
「死んだ蝶々は、生き返らないよ。」と、大人の理屈で論破してしまわなくてよかった。
おかげで、年喰ったオカアチャンもアプコの美しい王国の片隅にほんの少し、足を踏み入れさ せてもらえた。
秋の空に乱舞するコスモス色の蝶々の群。
すっと胸の晴れるような爽やかな光景が、一日中、私の瞼の裏に張り付いている。
玄関の脇に植えてある石蕗が黄色いつぼみをぐいっと持ち上げて、開花の日を待っているのに気がついた。
毎日の出入りで必ず目につく場所なのに、そして、例年なら、小さなつぼみが株元に少し顔を出したばかりの頃から、毎日のようにチェックして開花を待つ石蕗なのに、今年はここまで大きくなるまでちっとも気付かなかった。 振り向けば、金木犀の時期も終わり、不如帰や秋明菊が、知らぬ間に秋の風に揺れている。
アプコの運動会、村の秋祭り、剣道の試合、オニイの中間試験、そして二件連続の展示会の準備・・・。 怒濤のように押し寄せる仕事や子ども達の行事。 毎日毎日、分刻みに走り回っていた。 パタパタと主婦不在の日々が続き、子ども達と父さんの奮闘で、かろうじて最小限の家事だけで切り抜けた我が家は、気がつけばすっかり秋の彩りを身に着けていたのだった。
アプコの運動会。 ニコニコと楽しそうに演技に参加しているアプコは、うちでの甘えん坊ぶりとはうって替わって、幼稚園児らしいしっかりした顔つきになった。
秋祭り。 長い間、一生懸命練習してきた御神楽や南中ソーラン、お囃子など、次々に披露して大忙しのアユコ。 ゲンは二日連続で、子ども御輿に参加した。
子供会の仕事で連日家を空ける母に替わって、子ども達が食事の支度や洗濯などをオニイが先頭に立って分担してやってくれた。
そして今日、不眠不休の準備をおえ、父さんが東京での展示会の搬入に出発した。
家族がそれぞれに自分が必要とされている場所で、自分に期待されている事を果たす。 自分に出来ること、誰かにしてあげたいことを、自分で考えて行動する。 そんなことが、ようやく子ども達の中にも根付いて、多忙な父や母の助けになってくれるようになった。
「4人の子持ちは大変だろうけど、子ども達が大きくなったらきっと楽させてもらえるよ。」 おんぶに抱っこの幼児を引き連れてずるずると手こずっていた頃、よく言われたものだけれど、そろそろその時期が来たのだろうか。
昨夜、久しぶりに落ち着いて台所に立ち、肉じゃがを煮た。 「皮、むこうか。」 と申し出てくれたアユコを断って、ゆっくりとジャガイモの皮をむく。 ふんわりと広がるお醤油の匂いに、 「いいにおい!」 とお腹をすかせたアプコが寄ってくる。 「ゲン、宿題すんだの?」 「オニイ、、テストどうだった?」 夕餉の前のあわただしい主婦の時間。 かわるがわるに、子ども達が寄ってきてはなんだかんだとしゃべっていく。 毎日毎日当たり前に繰り返していた家事の一コマが、再び、家族の暖かな時間を運んでくる。 ほんの数日台所を離れていただけなのに、いつもの家事が新鮮で愛おしい。
「おかあさん、もう無人島についた?」 お祭りの大役を終え、母より一足先に「無人島」にたどり着いたアユコが、気遣ってくれた。 「うん、そろそろね・・・」 夜になると、急に冷え込んで、暖かな子ども達の肌をぎゅっと抱きしめたくなる。 どんなに忙しくても、イライラしても、母の行きたい所は無人島じゃないよ。 父さんがいて、子ども達がいて、暖かい肉じゃがの匂いのするお台所。 やっぱりここが私の居場所なのだ。
怒濤の果てにたどり着いたのは、やっぱりここなのだった。
近鉄(上本町)での展示会の搬入準備で、朝から荷造りに追われる。
義兄の作った作品リストに従って、在庫の中から、出品作品を揃え、番号シールを貼り替えて 二重三重の梱包を掛ける。
新作の仕上がりをチェックし、底面の「めあと」の処理や金箔張りを終え、寸法を採る。
段ボール箱に梱包を終えた作品は配送業者には頼まず、自家用のバンや業者さんの車で、 直接会場まで持ち込む事になる。
各地で行われる展示会の折には、義兄や主人が作品を満載したバンを夜通し運転して、搬入 日に間に合うように運んでいくのだ。
「○日搬入」の予定が決まると、義兄の出品リストが出るのを待ちかねるようにして、教室に山 のような作品を拡げて荷造りを始める。
梱包材の散乱した教室で、荷造りが大詰めを迎える頃、階下の窯場では出品予定の大作が まだ窯の炎の中と言うこともある。搬入日の自動車便に間に合わなかった作品は、当日、手持 ちで会場に運ぶ事もある。
搬入前の慌ただしさは、どこか台風に備える準備やら、夏休み最終日の宿題騒ぎにも似て、 心躍るイベントの匂いがする。
梱包材で包まれた作品をしっかりと詰めこんだ段ボール箱には、最後にビニールの紐を掛け る。大きな箱なので、持ちやすいように、しっかり引き絞って十字に紐を掛けるのだが、私がや ると、どうもどこかで要らぬゆるみが出て、ぐずぐず不格好に仕上がる。
運搬の手がかり用の紐かけなので、別に見た目の美しさを求められるわけでもないし、私の 「ぐずぐず結び」でも一向に構わないのだけれど、なんとなく苦心の梱包の最後に気の抜けた 「ぐずぐず結び」でしめるのは気が引ける。
近頃では、なんとなく紐かけ作業は母や従業員の人たちに譲って別の作業に逃げこむことにし ている。
今日、「鶴食籠」と「亀食籠」の入った段ボール箱を開けた。
この二つの作品はいつもうちの展示会ではメインの場所に鎮座する「格別」の2点。
梱包や運搬にもことさらに気を使う。
前回の展示会のあと、おそらくは会場側のスタッフの方が梱包して下さったのだろう、「鶴亀注 意!」と注意書きしたいつもの段ボール箱に実に丁寧な紐かけがしてあった。
「井」に字型に2重に紐を回して、その交差する部分ごとにきっちりと結び目がこしらえてある。
その紐を切らずに長いままで梱包を解こうとして、ひとしきりイライラと格闘する羽目になった。
一昔前、荷物を発送することを「小包を送る」と称していた頃には、こんなきっちりした紐掛けが いろんな所で見られたものだった。
いま、「宅配便で送る」ことが多くなった荷物には、ガムテープや固いビニル製の結策テープが 使われるようになり、「紐を掛ける」作業はあまり見られなくなった。
そういえば、古ストッキングや紙紐で十字にぎゅっと縛り上げていた廃品回収の古新聞も、近 頃ではナイロンの袋や紙の袋に詰め込んで出すことが増えた。
「結ぶ」
私たちの日常生活の中で、「簡単便利」の名の下に、遠ざかってしまった当たり前の所作。
私自身は、普段の生活の中で、まだまだ「紐を掛ける」という作業にも親しんでいる方だとは思 うが、それでも「鶴亀注意」の段ボールに掛けられた荷造り紐の手慣れた結ぶ目には、はっと 驚かされるものがあった。
長い間、商品の梱包や発送のお仕事に従事してこられた方の年季の入った手が、丁寧にこし らえた結び目の一つ一つ。
展示会の主役の場所に飾られていた二つの食籠を、格別の注意を払って梱包して下さった 「結び手」の美しい想いが知らされるような梱包の技でもあった。
搬入前の慌ただしさの中で、ついつい事務的に、包み、詰め込み、梱包する。
その一つ一つの作業にも、窯から生まれ出た作品を、大事に安全に送り届けたいという、基本 的な真摯な想いが必要なのだと、「仕事人」の基本を改めて教えられたような気がした。
アユコが古カレンダーの裏に線を引いて、家族6人分の予定表をこしらえてくれた。
夏休み、押し寄せる過密スケジュールに、いつも使っている書き込み式カレンダーにみんなの 予定が書ききれなくなり、一人分づつの欄を区切ったアユコ手製のカレンダーを導入した。秋 になり、そろそろ、カレンダーにも余裕が出来るかと思っていたが、秋祭りだの3カ所での展示 会だの遠足だの、まだまだ怒濤の日々が続きそうだ。
同じ日に家族の予定が二つも三つも重なったり、朝から晩まで主婦不在の日が続いたり・・・。
うわぁー、なんとかしてくれーと叫びそうになる。
久しぶりに、アユコが「学校、なんか行きたくないなぁ・・・」ともらした。
運動会まで、応援団やら「御神楽」の稽古やらで、あっぷあっぷの多忙な生活を乗り切ったア ユコ。
運動会が終わって少しお荷物が軽くなったかと思っていたが、まだまだ、秋祭りの踊りやお囃 子の稽古などのプレッシャーは残っているらしい。おまけにクラスの新聞委員だとか体育委員 だとか、あらたな役職も抱え込んで、大忙しなのだそうだ。
「クラスの新聞、編集長になった男の子が全然やってこないから、私、自分でやることにした。」 と、自宅のパソコンに向かっていたりする。
誰もやりたがらない仕事とか、誰かがやり残した仕事など、「もう!しょうがないなぁ。」と拾って きては文句タラタラ言いながら片づけてしまう。
ああ、可哀想な長女気質。
だれかさんにそっくりだぁ。
「あたし、一人でやったのに、できあがったら編集長はケロッとした顔してた。」
アユコがぶつぶつ文句を言う。
「はあはあ、そういう子はきっと一生けろっとして生きていけるんだよ。そんでもって、アユコは きっと一生、ぶうぶう文句言いながら、誰かのやり残したことを着々と片づけていく人生を送る んだから。
いちいち引っかかってたら、くたびれるよ。
アユコはなんだってうまくやれるんだから、へこまない、へこまない。」
アユコの愚痴を慰めながら、そうだな、ホントにそうだなと、我が身を振り返る。
あれもやらなきゃ、これも私がやらなけりゃと、いっぱい荷物を抱え込んで溺れそうになってい る漂流者。
それは、アユコだけじゃないんだよ。
がんばってるね、私。
「あー、2日でいいから、無人島に行きたい!」
アユコと二人、どちらからともなく、ため息が漏れた。
やらなければならないこととか、任されている仕事とか、ぜーんぶ忘れて、ぼーっと一日を過ご してみたい。
そういえば、最近、一日中庭仕事をしたり、近所の植物園でピクニックをしたり、だらだら寝そ べって読書三昧したりしてないなぁ。
「あー、いいなぁ。無人島なぁ・・・。」
「・・・・でも、帰ってきたら、留守中の二日分の仕事がどどっと残ってるのはやだな。」
「うう、それはつらい。」
やっぱり、今日も一日、こつこつ頑張るしかないか・・・。
「アユコ、忙しいのが片付いたら、無人島、いこうな。」
忙しさに負けそうになってるアユコと私に、「無人島」が合い言葉になった。
あり得ない妄想なのに、ふっと肩の力が抜けて楽になれる。アタシ一人が頑張らなくても、世界 はきっと回っていくよ。
うふふと笑って、切り抜けていこう。
親と子ではなくて、「無人島」を共有する同志としての会話が出来るようになったアユコ。
まだまだ幼い泣き虫の女の子だけれど、私のすぐそばに心強い愚痴友達が育ちつつあること に気がついた。
娘を授かってて良かった。
今日も頑張ろう。
いつも来てくれる生協のお兄さんが、「再来週から米が値上がりします。」と教えてくれた。だからって、そうそう買い置きができるものではない。天候不順で不作だと言うことだし、農家の人たちとの痛み分けと言うことで少々の出費は仕方がないか・・・
あちこちで「米泥棒」のニュースを聞く。 サクランボや梨、椎茸など他の農作物の盗難被害も続いていたけれど、その対象が収穫したばかりの米ときくと、余計に心が騒ぐ。
ニュースを見ていて思ったのだが、被害に遭ってインタビューに答えている生産者の方は驚くほど高齢の方が多い。 80歳過ぎのおじいさんが「どないもこないも、しゃあないですわ。」とへたりこんでいらっしゃるのをみて、アユコが怒る。 「許されへんなぁ、一年間、苦労して育てた米やのに・・・」
アユコは今年、授業の一環で米作りを体験させてもらっている。 広い校庭に小さな田圃を作ろうと、整地して、近所で分 家のベランダでも、余った苗をもらってきてペットボトルで育てている。 ひ弱なペットボトル苗は、近所の田圃の稲の半分ほどの背丈。それでも稲穂がみのり、少しづつ頭を垂れ始めると、収穫の日が楽しみだ。
こんなに大事に育てた稲でも、その一本の稲穂から取れる米粒の量はごくわずか。 いつもぱくぱく食べるおにぎり一個分の米を収穫するには、どのくらいの稲穂がいるのだろう。
そんなことを、ダイレクトに目と手で確認する経験は、小学生にとって貴重な宝となるだろう。
そんなアユコだから、米泥棒のニュースはことさらに幼い胸に刺さるのだろう。 「何でそんなことする人がいるんだろう。」 正義感あふれる小学生に説明できない、大人達の犯罪の愚かさ。 盗まれた米は、価格に換算すれば数十万円。 一年間の農作業の成果がわずか数十何円ということにも心が痛むが、たったそれだけの利益のために、収穫したばかりの米を盗みの対象に選ぶのも腹立たしい。 他に盗むものはないんかい!と怒りは妙な方へ向かってしまう。
実家から、大粒のブドウの荷物が3箱も届いた。ブドウを栽培している親類からの発送だ。 宝石の様に輝くみずみずしいブドウの粒は、生産者の人たちの一年間の汗の結晶だ。 ブドウ畑でたわわに実る果実とそれを収穫する農家の人の汗を思うとき、その果実の甘さはまさに「甘露」となる。
目の前のある物の裏側に、作物を育てる人、物をつくる人の労苦や想いを感じることの出来る力。 そんな「思いやる心」は、「経験すること」「知ること」から生まれてくる。
今日はアプコの幼稚園がお休み。
お兄ちゃんお姉ちゃん達が出ていったあとで、お寝坊したアプコが久しぶりに教育テレビの子 供番組を熱心に見ている。
こどもたちが幼くて一日中うちにいたときには、午前中ずっと、教育テレビがつきっぱなしの事 も多くて、幼児向けの番組や低学年向けの国語や理科の学校放送番組をはしごして、子ども 達と一緒に見たものだった。
アプコが熱心に見ていたのは1年生の国語の教材となる学校放送番組。
パペットを交えた寸劇が演じられる。
・・・・新しく手に入れたお気に入りの絵本。
「さあ、読もうかな。」と思ったところで、「あ、その本いいな。貸して!」と友達がやってくる。
「僕もまだ読んでないのにな。」と思いながらも「いいよ」と貸してしまう男の子。
絵本が戻ってきて、「今度こそ」とワクワク読み始めると「あ、それ、いいな。貸してよ!」とま た、違う友達がやってくる。
何度も何度も、誰かに新しい絵本を貸す羽目になり、イライラが募る主人公。
「イヤだよ。」の一言がいえなくて・・・。
国語の教材と言いながら、字の読み書きや読解だけではなく、こんな日常のコミニュケーション のコツまでも、近頃は国語の授業で扱うようになったのだなと興味深かった。
そのあと寸劇は、主人公が「イヤだよ!」と絶叫し、「あ、(「いやだよ」と)言えた!!
くす玉がわれ、おめでとう!と幕になる。
一年生に「イヤだよ。」と拒絶することを教える。
少し前なら、「お友達とは仲良くね。」「貸してと言われたら、気持ちよく貸してあげましょうね。」 と教えていたところじゃないかしらん。
そうそう、日常生活の中でも「いやだよ」ってホントに言いにくい言葉。
ちゃんと言えたらきっとすっきりするのに・・・と思えることが大人にだってしょっちゅうある。
「手伝ってて言われたけど、今、自分の事で一杯一杯。できないよ。」
「『おいしいからお裾分け』ともらったお菓子。私、それ、嫌いなんだよ。」
「『週末のお当番、都合が悪くなったから、かわってよ。』・・・アタシも予定があるんだけど な・・・」
「いやだよ。」と一言言えれば済むことなのに、なんとなく言いそびれて、もやもやした気分が残 る。「嫁姑」だとか、「ご近所づきあい」だとか、おとなの社会には「いやだよ」が言えないイライ ラがあちこちに落ちている。
「ブランコ、替わってよ。」
「いやだよ、僕も今乗ったばかりなんだ。」
「いやだよ」と拒絶した時、何故「いや」なのかを説明するといいよ、と番組は続ける。
なるほどなぁ、それもおつきあいのコツではある。でもそれが出来ないから、大人はツライんだ よね。
相手に悪く思われたくないとか、自分の弱みを見せたくないとか、大人の心中は複雑だ。「いや だよ」の一言を発するには、また違った種類のモヤモヤがついてくる。
子ども達に上手な人づきあいのコツを授業で教える。
ふ〜ん、なるほどなと思いつつ、いやいや、待てよと食い下がる。
「ブランコ、替わってよ。」
「いやだよ、僕も今乗ったばかりなんだ。」
こんな場面は、ホントは子ども達の生活の中で、何度も何度も経験して身について行くべきも のじゃなかっただろうか。
おもちゃの取り合いっこをしたり、小さな約束をめぐって口げんかをしたり・・・。
そんな日常の小さな諍いをいくつも経験して、子ども達は人付き合いのコツを学んでいく。
そんな日常の知恵を大仰に授業の題材にして、反復練習をさせなくてはならないほど、小学生 のコミニュケーション能力は衰えてきているのだろうか。
親子でも友達同士でも、衝突する事を嫌い、当たり障りのないソフトな関係を保とうとする。近 頃では「友達親子」という言葉もある。
現代の子ども達のコミニュケーション能力に衰えが見られるとしたら、痛みや衝突をさけて「口 当たりの良い人付き合い」のお手本を見せている大人達のありようにも原因があるのかも知 れない。
「ダメなことはダメ」と子どもを叱ること。
「それは出来ないよ」と子どもの希望する事を断念させること。
「しんどいよ、助けてよ。」と自分の弱い部分を子どもに見せること。
それは、親と子の間ではひとときの痛みを伴う、しんどい事だ。
でもそれを避けていては、子ども達に上手なコミニュケーションの技術を伝えることは出来な い。
「アプコー!テレビ終わったら、お掃除てつだってー!」
「いやだよ。」
・・・・え?
「アプコー!パジャマは洗濯機に入れといてね!」
「いやだよ。」
・・・なにそれ?
「何でよー。おてつだいしてよー!」
「だって、テレビみたいんだもん。」
しっかり学習してるじゃん。
アプコ、アンタは「いやだよ」は言えなくてよし。
今日はアプコの幼稚園がお休み。
お兄ちゃんお姉ちゃん達が出ていったあとで、お寝坊したアプコが久しぶりに教育テレビの子 供番組を熱心に見ている。
こどもたちが幼くて一日中うちにいたときには、午前中ずっと、教育テレビがつきっぱなしの事 も多くて、幼児向けの番組や低学年向けの国語や理科の学校放送番組をはしごして、子ども 達と一緒に見たものだった。
アプコが熱心に見ていたのは1年生の国語の教材となる学校放送番組。
パペットを交えた寸劇が演じられる。
・・・・新しく手に入れたお気に入りの絵本。
「さあ、読もうかな。」と思ったところで、「あ、その本いいな。貸して!」と友達がやってくる。
「僕もまだ読んでないのにな。」と思いながらも「いいよ」と貸してしまう男の子。
絵本が戻ってきて、「今度こそ」とワクワク読み始めると「あ、それ、いいな。貸してよ!」とま た、違う友達がやってくる。
何度も何度も、誰かに新しい絵本を貸す羽目になり、イライラが募る主人公。
「イヤだよ。」の一言がいえなくて・・・。
国語の教材と言いながら、字の読み書きや読解だけではなく、こんな日常のコミニュケーション のコツまでも、近頃は国語の授業で扱うようになったのだなと興味深かった。
そのあと寸劇は、主人公が「イヤだよ!」と絶叫し、「あ、(「いやだよ」と)言えた!!
くす玉がわれ、おめでとう!と幕になる。
一年生に「イヤだよ。」と拒絶することを教える。
少し前なら、「お友達とは仲良くね。」「貸してと言われたら、気持ちよく貸してあげましょうね。」 と教えていたところじゃないかしらん。
そうそう、日常生活の中でも「いやだよ」ってホントに言いにくい言葉。
ちゃんと言えたらきっとすっきりするのに・・・と思えることが大人にだってしょっちゅうある。
「手伝ってて言われたけど、今、自分の事で一杯一杯。できないよ。」
「『おいしいからお裾分け』ともらったお菓子。私、それ、嫌いなんだよ。」
「『週末のお当番、都合が悪くなったから、かわってよ。』・・・アタシも予定があるんだけど な・・・」
「いやだよ。」と一言言えれば済むことなのに、なんとなく言いそびれて、もやもやした気分が残 る。「嫁姑」だとか、「ご近所づきあい」だとか、おとなの社会には「いやだよ」が言えないイライ ラがあちこちに落ちている。
「ブランコ、替わってよ。」
「いやだよ、僕も今乗ったばかりなんだ。」
「いやだよ」と拒絶した時、何故「いや」なのかを説明するといいよ、と番組は続ける。
なるほどなぁ、それもおつきあいのコツではある。でもそれが出来ないから、大人はツライんだ よね。
相手に悪く思われたくないとか、自分の弱みを見せたくないとか、大人の心中は複雑だ。「いや だよ」の一言を発するには、また違った種類のモヤモヤがついてくる。
子ども達に上手な人づきあいのコツを授業で教える。
ふ〜ん、なるほどなと思いつつ、いやいや、待てよと食い下がる。
「ブランコ、替わってよ。」
「いやだよ、僕も今乗ったばかりなんだ。」
こんな場面は、ホントは子ども達の生活の中で、何度も何度も経験して身について行くべきも のじゃなかっただろうか。
おもちゃの取り合いっこをしたり、小さな約束をめぐって口げんかをしたり・・・。
そんな日常の小さな諍いをいくつも経験して、子ども達は人付き合いのコツを学んでいく。
そんな日常の知恵を大仰に授業の題材にして、反復練習をさせなくてはならないほど、小学生 のコミニュケーション能力は衰えてきているのだろうか。
親子でも友達同士でも、衝突する事を嫌い、当たり障りのないソフトな関係を保とうとする。近 頃では「友達親子」という言葉もある。
現代の子ども達のコミニュケーション能力に衰えが見られるとしたら、痛みや衝突をさけて「口 当たりの良い人付き合い」のお手本を見せている大人達のありようにも原因があるのかも知 れない。
「ダメなことはダメ」と子どもを叱ること。
「それは出来ないよ」と子どもの希望する事を断念させること。
「しんどいよ、助けてよ。」と自分の弱い部分を子どもに見せること。
それは、親と子の間ではひとときの痛みを伴う、しんどい事だ。
でもそれを避けていては、子ども達に上手なコミニュケーションの技術を伝えることは出来な い。
「アプコー!テレビ終わったら、お掃除てつだってー!」
「いやだよ。」
・・・・え?
「アプコー!パジャマは洗濯機に入れといてね!」
「いやだよ。」
・・・なにそれ?
「何でよー。おてつだいしてよー!」
「だって、テレビみたいんだもん。」
しっかり学習してるじゃん。
アプコ、アンタは「いやだよ」は言えなくてよし。
秋晴れのさわやかな一日。
いつも日陰を求めて坂道を下っていくアプコが、今日は「さむい!」と、日なたをめがけて急ぎ 足。
明日からは10月。
近いうちに子ども達と山のふとっちょどんぐりを探しにいかなくては・・・。
久しぶりに工房での仕事。
10月に立て続けに3つの展示会。
その案内状のダイレクトメールの荷物が、印刷を終えて届けられた。
1000通を越える案内状にPCのプリンターで宛名を印刷し、案内状をいれて封をし、切手を貼 って発送する。
毎度毎度の事だけれど、けっこうな仕事量。宛名印刷がおわると、あとの作業はおばあちゃん やひいばあちゃんの内職仕事。発送の期日もあるので、一家総出のお仕事になる。
今朝届いたのは渋谷東急のダイレクトメール。
さっそく封筒に宛名印刷を・・・と思ったら、ご丁寧に封筒一枚づつに案内状がすでに挿入済み だった。
こちらの手間を省いてやろうという先方さんの心遣いだろうが、申し訳ない、封筒を空にしてお かないとPCのプリンターにかからない。
「げ、これ、全部出すのか・・・」
1500通のダイレクトメールの内容物を出して封筒と別々にするだけで、半日かかった。
「陶芸の窯元にお嫁に行く」と決めたとき、私は陶芸の世界の事は何も知らなかった。
土のこと、釉薬のことはもちろん、窯元の生活がどんなものか、どんな風に作品を売るのかも 知らず、TVのドラマや小説の世界で見る「陶芸家」のイメージすら曖昧な物だった。
だから、窯元の仕事の中に、包装紙や梱包材を手配したり、採寸して桐箱を注文したり、作品 の金箔張りをしたり、ダイレクトメールの手配をしたりという、いわば周辺のお仕事が山ほどあ るということも知らなかった。
今でも、「陶芸家の妻です。」というと、知らない人は必ず「あなたも作陶なさるの?」と言われる けれど、窯元のお仕事にも「土を触らない」お仕事がたくさんあるのだという事が意外と知られ ていないのかもしれない。
真新しい封筒から内容物を抜き出す。
それだけの単純作業を半日。
寝ていても出来そうな作業が続くと、脳細胞が勝手に休憩状態に入ってしまい、単純作業用の 機械になったみたい。
実は、私はこういう物を考えなくていい単純作業が結構好き。
どうでもいいことを、考えるでもなく考えて、手だけが勝手に作業を続ける。
そういえば、今私が解体しているダイレクトメール、一通づつ封入する作業をして下さったのは どんな人なのだろう。
いつも我が家の郵便受けにも、よそからの案内状やダイレクトメール。
もちろん、今時のことだから、宛名書きや内容物の封入の多くは機械で行われているのだろう けれど、それでもどこかの誰かの単純作業や内職仕事を経て、発送されているものもまだま だ、あるはずなのだ。
配達されたダイレクトメールの封を切るとき、その内容には心が動くけれど、それを封入した人 の手のことには、誰も気付かない。
そんな誰の目にも留まらない、地味な単純作業の成果がわたしたちの身の回りには山ほどあ る。
「やりがいのある仕事」とか「自分らしさが表現できる仕事」とか、誰かにその成果がきちんと評 価される仕事が重んじられている。
確かに、封筒の内容物を抜き出すと言う作業に費やされた半日は、誰にも評価されない。毎 日毎日、何年も続けてやれる仕事とは言えないかもしれない。
けれども、作業を終えた封筒を束にして、とんとんとそろえて箱詰めを終えたとき、ふーっと沸 いてくるほのかな充実感。
誰かに評価される仕事ではないけれど、こういう地味な、一見無意味な作業の中にも「労働」と いう輝きは必ずあるのだ。
毎日毎日、子ども達の洗濯物を取り込む。
やかんいっぱいにお茶をわかして、冷やしておく。
すぐに綿埃のたまる階段の拭き掃除。
できてて当たり前。忘れてるとすぐにどこかからブーイングが出る主婦の仕事は、どこかダイレ クトメールの単純作業にも似ている。
秋晴れの太陽を吸ったお布団は、ふんわりと暖かい。
作業の終わった封筒をとんとんと揃える時の充実感にも、そんな暖かさがある。
オニイ、中学での初めての運動会。
小学校とは違い、親子でお弁当と言うこともないのでちょっと気を抜いて観戦。
小学校の時はだんとつちびっ子の男の子を捜せばオニイが見つかったが、今日はオニイの出 番をついつい見失いがち。少し背が伸びて、「普通サイズ」にまぎれこんだ為らしい。そういえ ば徒競走も、ダントツびりではなく、2位と競り合う、3位だった(4人中)。
ところで、お赤飯を炊いた。
先日、レギュラー入りした一升炊きの炊飯器で思いの外うまく炊けたので、蒸し器を使うおこわ より手軽で良いかもしれない。
玄関の南天を切ってきて、折り箱に添えておばあちゃんちへお裾分け。
「難を転ずる」の意味をアユコに教えながら・・・。
昨日、アユコが女の子になった。
「おかあさん、ちょっと話があるんだけど・・・」
まだまだ、胸もぺったんこ。小枝のようにやせっぽちのアユコにこんなに早くその日が来るとは 思っていなかったので、「え?」と間抜けな返事をしてしまった母であった。
前もって準備はしてあったので、処理の仕方やら体調の事やら、男の子たちに聞こえないよう にひそひそと教える。
「めんどくさいけど、大事なことだからね。これからおばあさんになるまで、上手におつきあいし ていこうね。」
男の子達にも、さらりと性教育はしてあるので、オニイもゲンも女の子の体の変化については 知っているはず。
だからひそひそ話す必要はないのだけれど、ついつい人払いをしてから話をする私。
「性の知識は男の子にもオープンに・・・」と言いながら、この秘やかさは何だろう。
女の生理を「恥ずかしいこと」「穢れたこと」と思う気持ちはかけらもないが、なんとなく「生理」と いう言葉そのものを口にすることにすら、憚りを感じて「アレ」とか、「お客さん」とか隠語を使っ てしまう。
おそらく私は男性の上司に「生理休暇を下さい」とは面と向かって言えないタイプだろう。
「おかあさんも5年生で始まったよ。学生の時は生理痛がひどくて、大変だった。子どもを何人 も産んだら、嘘みたいに治っちゃったけどね。」
お台所で、アユコと秘やかな会話を交わしているとき、ほのかに沸いてくるこの暖かい感情は 何だろう。
新しく「女」という領域に踏み込んで来た後輩への親愛だろうか。
「親と子」ではなく、「女同士」の会話が出来るようになった娘の成長の喜びだろうか。
ためらいながらも自分の体の変化を受け入れていこうとしているアユコへのエールだろうか。
どちらにしても、人払いして話をするのは、「オンナ」と言う秘密を共有する同志愛であって、タ ブーとか恥じらいとかネガティブな動機によるものではない気がする。
気になって、今日、オニイにアユコのことをちょっと耳打ちしておいた。
「君はもう知識としては知っていると思うけど、実は昨日アユコが女の子になった。まだアユコ は幼いから慣れるまで、具合が悪かったり失敗したりするかもしれない。でも兄として君は気付 かない振りをしながら、見守ってやって欲しい。」
「うん、わかったよ。」
力強く頷くオニイは、すっかり頼もしいオトコの顔。
「気分的にもうっとうしいものだから、気をつけてやってね。」
さっき、アユコとささやかな事で口げんかしかかっていたオニイ。
「あ、そっか。イライラしてるのもそのせいか。」
・・・・ちょっとまて。
その言い方は一つ間違えたらセクハラものだ。もちろん今のオニイには全く悪意はないのだけ れど。
その辺のところは、これから男の子達にもゆっくり教えていかなければ・・・と思いつつ、今日の ところは、
「初めてのことでデリケートになってるからね。」
とお茶を濁しておいた。
「・・・で、ゲンに説明するのは面倒なので、今日のお赤飯は、オニイの運動会祝いということ で・・・。」
とオニイに深く追求しないように釘を差しておく。
乳歯が抜ける子。
生えてきた子。
始まった子。
上下の年齢差8才の4人兄弟は、日々、成長中。
本当は毎日がお赤飯。
明日はどんなビックリがころがりこんでくるのだろう。
・・・と、近頃では体重以外はちっとも成長しなくなった母は、また赤飯をつまむ。
パラパラとウィルスメールらしきものが入る。
送信者名や件名に思い当たらないもの、不審な添付ファイルのついた物は速攻で削除する。
削除済みファイルも空にする。
「support」とか「info」とかもっともらしい送信者名のものもある。
「How are you」とか、「Hi!」とか親しげな件名のものもある。
怪しいと判っていながら、どなたかHPを見て下さった初めての方からのメールかも・・・とか、何 か貴重なインフォメーションかも・・・とか、気になってしばし削除する手が止まることがある。
セキュリティーソフトはまめに更新してある。
だから、仮に好奇心に負けて私がそんな怪しいメールを開いたところで、セキュリティーソフト のおどろおどろしい警告画面がでて肝を冷やすだけで、ウィルスの方は勝手に処理されて、P Cに害を及ぼすことはないだろうとは思っている。
「あ、またきた。」とクリップ付きの怪メールは「悪さをするメール」と即座に判断するくせに、「で も、開けてみたら何がかいてあるんだろ・・・」とパンドラの箱の誘惑にしばし揺れる。
「あほやなぁ。」と削除したものの、やはり気になるので、削除済みファイルも空にする。
私は怖いもの見たさの誘惑には弱いのだ。
少し前、いつも読みにいっている日記書きさんのサイトのトップに、見慣れぬバナーが張ってあ った。
「肝試し」
(何が起こっても知りませんよ、ドキドキしたい人だけクリックして下さい。なにがおこっても責任 は持てませんよ。)
そんな脅し文句がついている。
ふだん、その人のサイトに立ち寄っていて、悪意のある人とは思えなかったので、しばし迷った 後、クリックしてみた。
(ホントにいいんですね、何があっても知りませんよ)
また脅し文句。
「注文の多い料理店」のように、幾枚かの扉を開けたら、突然、
「このボタンをクリックするとPC内の全てのファイルが消滅します。」とウィンドウズの見慣れた エラーメッセージの青いダイアログボックス。
「え!やられた!」
ブラウザのいろいろな所をクリックして後戻りを試みたが、動けない。冷や汗のでる思いで、意 を決して、ぶちっと電源を落としてしまった。
しばらくして、こわごわ起動してみたら、何のことはない、いつものデスクトップが何事もなく開い た。
悪いいたずらに引っかかったものである。
PCに詳しい人なら、「おしゃれないたずら」でふんふんと笑って済ませる肝試しなのだろうが、 プログラミングもセキュリティも理解しない万年初心者ユーザーにとっては文字通り肝を冷やす いたずらであった。
いやぁな思いだけが残り、私はそのサイトを「お気に入り」や「マイ日記」から外してしまった。
抗議のメッセージを送ろうかとも思ったが大人げないので無視することにした。
しばらくして、肝試しの正体が気になってそのサイトを尋ねてみると「肝試し」のバナーは取り外 され、管理人さんのコメントが載せてあった。
実は「肝試し」はどこかのサイトへの手の込んだリンクバナーだったようだ。
「面白いサイトだから紹介したいと思って載せたのだが、クレームが多かったので、削除した。 趣旨はちゃんとのせておいたし、ちゃんと読めば悪意がないことは判ったはず。不本意だ」
というようなコメントだった。
はぁはぁ、確かにね。
怖い思いをしたくないなら、近寄らなければよかったのよね。
その通りだけれど、やっぱり後味は悪い。
もっと言えば、品の悪いいたずらであった。
私はそのサイトを訪れることをやめた。
「出会い系サイト」というやつがある。
「お金のない子、○○円でどう?」
というようなメッセージをどこやらに掲示する。それを見た女の子が、応答して「出会い」が成立 する。
よく言われる何かの調査では、中高生のかなりの割合の女の子達が、興味本位で、そういっ たものとコンタクトを取ったことがあるという。
これだけ、イヤな事件が報道されている昨今だ。女の子達だってそうしたメッセージに関わるこ とがどんな危険をはらんでいるかを知らない訳でもあるまい。
それでも、遊びのノリで、ついつい引っかかってしまう子たちがいるのは、「怖いもの見たさ」と いうパンドラ以来の人間の困った性によるものかもしれない。
近頃では、そうした売春行為を依頼するようなメッセージを掲げた者は、それだけで(交渉が成 立しなくても)罪を問われることになったという。
「イヤなら見なけりゃ、いいじゃないか」
「危ないと知ってて、手を出すヤツは、危険な目に遭っても当然。」
その通り。
君子危うきに近寄らず。
されど、君子にあらざる愚かな我が身。
怖いもの見たさの誘惑に負けて、ウィルスメールの一つも開けてしまいたくなるではないか。
そんな弱みにつけ込んだいたずらは、たとえ無害なものであっても、いつまでも不快なままであ る。
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