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2011年05月23日(月) 絶対に見落とせないラ・ロハ・ニュース(3/5) 『Informe Robinson Gerard Pique1』


#La Roja
#Piqué
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#Cesc
#Puyol
 絶対に見落とせないラ・ロハ・ニュース(3/5) 『Informe Robinson Gerard Pique1』
   19:44:28, 月曜日 23, 5月 2011


イニたんのインタビューや優勝パレード特集をしていたためにすっかり遅くなってしまいました。遅まきながら、忙しくてスルーしてしまったmust seeなネタを蔵出しする自己満足なこの企画、今回はセスク&ピケファン必見の『Informe Robinson Gerard Pique』篇です。
英語の字幕版↓を貼りました。ご覧の通り、ネイティブではない方がなんちゃって英語をつけてくださっていますので、若干解釈困難な場面もあります(とはいえアップしてくれたことには感謝)。実は訳出し切れていない部分も多々です。日本語字幕をつけようかと思ったのですが、そういう理由で断念。補足を入れつつニュアンス取りで紹介します。






ロビンソン(以下、R)「彼はハンサムで、お金持ちで勝者。多くのブランドがそのイメージを欲しがります」
ピケが24歳の若さでどれほど多くを獲得してきたかを説明。ロビンソンは部屋でセスクに電話を掛けます。

R「やあセスク、マイケルだ」
セスク(以下、C)「どのマイケル?」
R「マイケル・ロビンソン」
C「ああ、デブのね
R「……そう、そう、デブの。今きみの友人のジェラル・ピケのドキュメンタリーを撮影してるんだ。助けを借りられないかな? きみたちは長い付き合いだし、いい友達だろ?」
C「後で掛け直してくれないか? 今はやることがあってね。いいかい?」

セスク、メールを打つ。その相手は……
爛廛襯后複圍峩鼻砲離泪ぅ吋襦Ε蹈咼鵐愁鵑ら電話をもらったよ。おまえを陥れる気だぞ。Ooooohhh!!! Moc Moc

メールを確認中のピケの前に現れるロビンソン。
R「Moc Mocってなんだい?」
ピケ(以下、P)「いや、こっちの話」
R「練習に行かなくていいのかい?」
P「よし、行こう」












ピケの車でシウダ・エスポルティバ(練習施設)へ向かうピケとロビンソン。
R「バーに繰り出すことは、きみにとって難しいことかい?」
P「多少ね。皆、おれに気がつく。特に190センチもある場合は、見つからないことはない」
R「パパラッチがきみをつけ回す。きみたちの関係のために」
P「ああ、最初はストレスでいっぱいだった。家の前で大勢待っていたからね。どこでも写真さ。だが今は落ちついた。リラックスして暮らしてる」
R「それで、チームの皆はなんて? ジョークが飛び交った?」
P「ああ、ジョークばかり、チャビや、ダニ・アウベス……みんなジョークが好きなんだよ」
R「どんなタイプの音楽が好きなんだ?……言葉に注意して(笑)」
P「なんでもちょっとずつ……イングリッシュ・ジョークだね、イングリッシュ・ジョーク(笑)」

R「私に言わせれば、フットボールの最高の点はチームと共に生きるってところだ。若い男たちが一緒に、みんな一つの舟に乗っている」
P「ああ、そして、そこにはいくらかの秘話も。だが最後に覚えているのは、王者になったことだ
R「簡単なことだと考えていたり?」
P「……おれは、おれが勝ち取ったものを勝ち取るための強運を持っていたと言わざるをえないな……到着だ。駐車するよ」
R「ずいぶんたくさん車があるな。我々は遅れたんじゃないかい?」
P「まあ、おれたちが最初じゃないってことだな。そう言っておこう(笑)」
R「では、練習を楽しんで。ありがとう」

バルサの練習を見学するロビンソン

R「聞いて欲しいんだ、きみの友人の一人……名前は言うつもりはないが……彼が前に私に言った:爛札譽屐farandula=showbiz)瓩砲け」

チャビ「もう何度となく彼に言ってるんだ。おまえはセレブだって。だけど今に限ったことじゃない。最初の年からさ」

P「その友人ってのはチャビだろうな。彼のことは知ってるから。いつも爛札譽岫瓩世辰謄献隋璽を言って回るんだ。おれはいつもマスコミを賑わせてるから」

チャビ「彼はすごくいいやつだ。ナチュラルなんだ[解釈不能]。問題はないよ。彼は繊細な男だ。時にはそうは見えなくても。繊細な男で、とてもスマートなんだ」

R「セスクはバルサに来ると思うかい?」
P「おれは、人は望みさえすればそれを手に入れると考える人間だ。だからセスクがバルサに来たがるなら、彼はバルサのシャツを着るだろうね」人生こういうメンタリティじゃないとW杯で優勝したりはできませんね

R「モデルの仕事だけど、どんな調子だい、ジェラル?」
P「うまくやってる。通りやバス停でで自分(の写真)を見ると、ヘンな感じがするのは事実だな。おれがここでやっていることはフットボールじゃないが、生きていかなきゃならないから。楽しいし、違う世界だからね」

MANGOの撮影を行うピケ。
アルトゥーロ・カナレス(ピケの代理人)「彼が楽しめるような類のことがあり、彼はそれをするんだ。そして彼には才能がある。また彼がメディアによる巨大なプレッシャーを負っていることは事実だ。だけど彼は、フットボール選手だよ」

R「ジェラル」
P「やあマイケル。(プレスに)おれたちは一緒に仕事してるんだ。悪く取らないで(笑)」
R「きみは成功したフットボール選手であり、一流ブランドのモデル。これらを踏まえて、きみの両親はなんと言うんだい?」
P「二人にきいてくれ。父はここにいるし、母は働いてる。もしききたければ、そうしなよ」

ピケの両親に話を聞くロビンソン。

R「プロのフットボール選手として、人々は彼を象徴として持ち上げたがる。あなた方の心にあるのは?」 字幕をよく理解できませんでした。

父「ジェラルが14か15の時、大勢の代理人が我々に接触してきて、電話を掛けてきた。そしてミーティングの最中、妻は『私の息子に何を見てるってのよ?』と質問を」
母「!」
父「……オーケイ、文字通りそう言ったわけでは。妻は――」
母「信じられない、そんなふうに言ってないわ(笑)!」
父「私の息子に何を見ているのか、と。というのも彼女はジェラルを信頼していなかったからね。これは事実だ
母「いいえ、違う、事実じゃないわ」
R「疑いを持っていた?」
母「いいえ、いいえ。事実、到達するのは難しいのよ」

ここで、ピケママが何を言ってるのか正確にはわからないのですが、ピケは若いうちにプレーを始め、他の子どもたちが途中で挫折するのを目の当たりにする中で、生徒として、息子は非常に優秀だったので。彼の将来のためになるかわからないプロフェッショナルになるために勉強を止めることには抵抗があった、ということだと思います。

R「フットボール選手として、彼は有り余る幸運に恵まれている。マンチェスターで3度優勝、今、バルサでは一シーズンで6つのタイトルを。そしてW杯は素晴らしかった」
父「彼はラッキーなんだ、私のように。友人たちには、私はいつも勝つと言われるよ。パドレ(スカッシュに似たスポーツ)においても。そう、ジェラルは私のようだ。彼はすべてにおいて勝つ」
R「そして彼は突然、たくさんの雑誌に登場した。どう思います? 怖いと思いませんか?」
母「そう思うわ。(以前とは)違う環境だから。だけどこれが彼の人生。彼の人生はこれ」
父「嫌なのは、誰もが同じことを頼むことだな。悪い言葉は使えない。だが、いつも同じだ」

素敵な両親ですが、この二人に育てられたら逞しく育ちそうです


ピケの家にて。誰かがドアのチャイムを鳴らす……

R「ご両親はとてもいい方たちだ」
P「本当に? 何て言ってた?」
R「後で話すよ。ところで、きみの友達に私を助けてくれるよう話しておいたんだ。だが私は何も知らない……彼?」

セスク登場

C「Ooooooh!」
P「Ooooh! やあ調子どうだい」
R「私を見捨てたのかと思ってたよ」
C「まさか」
R「ムービーを見るつもりなんだ」
P「オーケイ、行こう」





ムービーを見る3人。ピケのアシストでゴールを決めるセスクの映像。
R「いつから彼を?」
P「8歳か9歳の時にセスクと出会った。10歳かな
C「あるいはそれより前に。というのはおれが試合をしに行ったら、彼はそこにいた。だけど彼は覚えていないんだ
P「気にすんなって
C「おれはフォワードでプレーしてたんだ……」
P「聞いたかい、フォワードだってさ!」

P「おれたちが行った多くのことは話せないよ」
C「80%は話せない」
R「でも20%は話せるんだね?」
P「じゃ、ちょっと考えてみようか(笑)」
C「オーケイ、じゃあね……おれはビーチにいた。[意味不明]そこは子どもたちが物を盗む場所で……車には……
P「まいったな、こりゃ。おれは覚えてないぞ!
C「日曜の午後でさ、人でいっぱいのレストランで……おれたちはちょっとしたものを盗んだんだ。そうしたら男がやってきて、『こんちくしょ〜!!』おれたちは走って逃げたよ
P「話しちゃ駄目だろ、法的な問題が」
C「でもあの時代を知ってるだろ。皆も知っておかないと
P「知る必要なんかないだろ





子どもの頃の、マドリーとの試合を見る3人
R「きみのお母さんが話してくれたよ。この試合で負けたことが最悪の思い出だったと」

母「あれは息子が慰められることがなかった、ただ一度の出来事よ。泣きやむことがなくて、私たちは彼を慰めることができなかった」

R「何歳だった?」
C&P「おれたちは10歳だった」
P「負けることに慣れていなかった。5年間、おれたちは毎試合勝ち続けたのを覚えてる」

R「二人とも、私の街へ行ったね。ロンドンやマンチェスターで会ってたのかい?」
C「おれたちは絶交してたんだ
P「6ヵ月、話しもしなかった
C「いや、もっとだよ
P「おれが電話しても、彼は出なかった

R「女性問題?
C「少しは
P「違う違う、悪く取らないで。別のこと。ロマンティックな友情の問題があって

R「そして、ジェラルはマンチェスター・ユナイテッドへ行き、このゴール。そう、CLで」
P「うまくいった。おれはあまりプレーしなかったけど」
C(?)「これはまた別のゴール」
P「おれはあそこに座ってた」

R「そして、きみはバルセロナへ」
P「プレゼンテーションの日だ。ちゃんとした服装をしなくてはいけないね」
C「インスペクターの格好」
P「インスペクター(笑)……幸せな日だった」

可哀そうなセスク

C「信じられないよ、彼は(バルサと)契約し、ラポルタと握手を」
P「ペップを得て、おれは別のジェラルに。彼はおれがここに来た初日から信頼してくれた」
R「そしてすべてはうまくいった」
P「不満を言うことなんてできないよ」

ベルナベウでゴールを決めるピケ。

R「セスク、これを」
C「おれは人生で何度も(彼が決めるのを)見たことがあるよ。彼は暴走し、監督は『何やってんだ〜!』で、毎試合2ゴールずつ」



コメントもこちらから。私が旅の途中で撮っただいたいが欧米の風景写真が表示されます(地味に交換してます)



2011年05月21日(土) 『イニエスタEPSインタビューPart.2』


#La Roja
#Iniesta
 イニエスタ「ぼくは自分がどこから来たかわかっている」@EPSインタビューPart.2
   22:50:09, 水曜日 18, 5月 2011



イニエスタの記事の続編です。私が参考にした英語訳(二種類)と原文を比較すると若干ニュアンスが違う(イニエスタの台詞のはずが三人称の文章になっていたり…)のですが、そのへんは大目に見てやってください。

***


バルセロナへの旅は地獄だった。ダークブルーのフォード・オリオン――彼が自分の人生を変える決断を下す旅でも乗っていたのと同じ車――の中で、彼はこの道が自分をこんなにも遠くまで連れていくとは想像もしていなかった。ダークブルーのオリオンの中で、バルセロナへの旅の間、両親と、母方の祖父と、フットボール選手になることを夢みる少年が泣きやむことはなかった。
「ぼくたちは食事のためにトルトサで休憩した。誰も食べなかった。母は泣いていて、父は食欲がなかった。祖父はぼくを励まそうとしてくれたけど、ぼくも食べられなかった。食べ物を見ることさえできなかった。ぼくの記憶にある、ラ・マシアの最初のイメージは責任者のジョアン・ファレスだ。彼は190センチもある下部組織のGK、ホセを紹介してくれて、施設を案内してくれたよ。彼を見上げて、ぼくはmadre mia!瓩隼廚辰討い拭それから夕食を食べ始めて、ぼくは相変わらず泣いていた。翌朝学校へ行く時、両親はぼくを学校へ連れていき、こう言った。『おまえが出てくるまで、ここで待っているから』ぼくが出てきた時、両親はもう去っていた。それが、悲嘆を長引かせない最善のの方法だったんだ。それからもぼくは泣き続けたが、もし彼らがそこに残っていたら、もっと酷かっただろうね」

このような、さよならを伴わない別れは二週間おきに繰り返された。彼の両親は土曜日に子どもに会いにやって来て、日曜の夜にラ・マシアを去った。彼には『明日、学校に送るために戻ってくるから』と言ったが、翌朝は一人で学校へ行くことになるだろう、とアンドレスにはわかっていた。両親が訪れなかった週末は、ベナイゲスが彼を自分の家へ連れていき、日曜の夜まで、映画やフットボールの試合を見せて元気を与えようとした。そして、アンドレスはまた泣き始めた。なぜなら、すでに友人関係にあるティーンネイジャーたち――この中にはヴィクトル・ヴァルデスもいた――に囲まれ、ひとりぼっちだと感じている子どもだったから。

「最近のラ・マシアにはとても小さな子どもたちが大勢いるが、あの頃は、本当に子どもだったのはぼくとトロイテイロだけだった。ヴィクトルはぼくたちの面倒をよく見てくれたよ。彼は素晴らしく振舞ってくれた。トロテイロはとてもいい子だったけど、自分たちではどうにもできない状況がたくさんあったんだ。皆それぞれの歴史を持っていて、それぞれの事情を抱えていた。彼はバルセロナでプレーするという夢を追うことはなかったけど、いまもまだフットボール界の住人だ(現在、ブルゴスに在籍)」
「イニエスタの精神力は強かった」とベナイゲスは言う。「私は大勢の非常に才能ある選手たちと出会ってきたが、ラ・マシアで2週間と堪え切れなかった19歳の少年を始め、誰もが家をとても恋しがる。アンドレスは彼のテクニックとインテリジェンスゆえに、バルサにとって完璧だった――今日、彼は子どもの頃の彼と同じようにプレーしている。だが、私なら耐えらえたかわからない。彼は自分の頭脳(精神力)によって耐え切れたんだ。適応し、成功した」

そう遠くない昔、クラブにはこの選手に対する疑念があった。サポーターたちの間にも。彼は、セスク、メッシ、ピケら黄金世代の一員でもなければ、タイトルを数々獲得したロレンソ・セラ・フェレールやファン・ハールのような影響力のある監督に恵まれたわけでも、またライカールトがしばしば彼をベンチに座らせていた間、ファンの愛情に恵まれていたわけでもない。度重なる怪我や少ない出場機会にもかかわらず、彼は生き延びた。それは彼がなんとか夢を見続けたからであり、またフィジオたち、ラウル・マルティネスやエミリ・リカルトのような、彼のキャリアに多大な影響を与えた人々のおかげでもある。

彼がこれまで、決定的瞬間に恵まれていたことは特筆すべきことだ。しかしグアルディオラいわく、バルセロナをローマでのCL決勝に連れていくことになったスタンフォード・ブリッジでのゴールを彼が決めたのは、その右足に全世界のバルセロニスモが託されたからだという。
「おそらく誰もが、素晴らしいことは起こり得るんだ、と感じるためにあのような特別な瞬間を必要としているんだ」

時に、彼は何かを感じる。それはピッチの中でも外でも起こる。彼はW杯決勝のゴールも予感した。このW杯がスペインのためのものになるだろうと、彼は知っていた。確信していたのだ。それは監督にとって、選手たちにとって、犧か、さもなくば永遠にであり、今度こそ自分たちの番だと、彼にはわかっていた。シーズン中は、自分のフォームを再び取り戻し、さらにステップアップすることはもうできないのではと感じる、辛い時期を過ごした。「だけど最後には、再びフットボール選手に戻ったように感じた。再び幸せになった。W杯は、個人レベルではひどかった年から、ぼくを解放してくれた。栄光の数分間を手に入れるためにとても苦しんだよ」
彼は、あのゴールを決めた最後の栄光の数分間を手に入れるために多くの苦しみを味わった。あのゴールが、さらに良い選手になるため、自信を得るため、そして続けていくための変化を彼にもたらす助けとなった。



アンドレス・イニエスタは現在、国民的英雄であり、バルセロナの永久的な財産であり、スタンフォード・ブリッジとヨハネスブルグのゴールを携えたセレブリティであり、世界における最高のスペイン大使だ。「何よりも優遇されていると感じるのは、世界中のファンから喝采を受ける時だ。たいていは、相手チームが負けている中で交代する時にね。つまりフットボールやその試合結果を飛び越えて、もっと価値ある物事というものが存在するということだ」

あなたはグローバル・プレーヤーのように感じているか?
「ぼくはフエンテアルビジャ出身だ。アルバセーテで生まれた。でも他の誰よりもカタラン人のように感じている。ここでは、アルバセーテよりも長く過ごしたし、ぼくのアイデンティティは二つの場所にある。ここで育ち、ぼくはとても幸運な人間だ――バルセロナとカタルーニャはぼくと家族にすべてを与えてくれた。ぼくたちは皆カタルーニャ出身のように感じている。ぼくは自分がどこにいて、どこから来たかわかっている」

スペインはあなたの国であり代表チームか?
「複雑なんだ。誰しも、話すのも感情を表現するのも自由だが、いつも他者へのリスペクトを持ってそうしなくてはならない。スペイン人、カタラン人、アンダルシア人と感じる前に、そこにはリスペクトが存在する。人は何かを考え、また別の人は違うことを考えるんだから、そこに衝突があるべきじゃない。ぼくたちは可能な限り最良の生き方をしようとしている」

バルセロナへの夢を追いかけた子どもは、フエンテアルビジャに彼の名にちなんだ通りを持ち、大勢の人々に仕事を与え、彼の家族に誇りを抱かせる140ヘクタールのぶどう農園を持っている。9月の最初の週、イニエスタ家は彼らにとって初めての収穫を迎え、そしてぶどうが多くの忍耐を要することを考えれば、イニエスタ以上に忍耐強い人物はいないので、それは良質なぶどうになるはずだ。
「父と兄たちは農場で働いている。以前は農園を持つことは難しかったけど、今はその余裕がある。ぼくたちは『イニエスタの道』(Carril de Iniesta)という農地を買った。というのも、フエンテアルビジャからクエンカにある村、イニエスタへ続く道が、農地の中を通ってるんだ。これは偶然だよ。でも、ぼくの土地に他にいい名前があるかい? 気に入ってる。学んでいるところだ。ぼくにとって、新しい世界さ」

彼はフットボールの世界を情熱を持って生きているシンプルな人間だ。いつも試合を、その試合が行われた夜に見ている。彼はテレビの前に、『Estopa』の二人の兄弟をはじめとする友人たちと一緒に座る。彼は“Como Camarón”を聴くのが好きだ。落ちついていて、インスピレーションを与えてくれるから。彼はフットボール・キャリアの傍ら、体育学と英語の個人レッスンに時間を費やす。いずれ、記者会見をカタラン語で行うだろう。だが目下のところ、彼の最大の関心はヴァレリア――彼とアンナの愛情から生まれた最初の子どもだ――にある。
「運命」彼は主張する。「ぼくはまたしても幸運だった……アンナが人生を与えてくれた。07年はタフな一年だった。悪い時期を過ごしていたが、彼女がぼくを奮い立たせてくれた。人として、彼女は百点満点なんだよ」


イニエスタは、歴史的にバルセロナのワーキング・クラスの地区であるサン・フストのシャレーで暮らしている。ご近所は『Estopa』のダヴィとマニュエルのムニョス兄弟だ。彼は市でも最も高級なペドラルベスの海岸沿いのマンション(豪邸)に住むことができる。だが2000年、初めてバルセロナと契約を交わした時、父親が財産の管理を一任し、息子には他の場所に家を買わせなかった。ヴァレリアと名付けた娘の父親になった今、彼は引っ越そうとしている。しかし、そう遠くへは行かない。

「誰もがそれぞれの幸せを、人々と共に生きるための生き方を探している。そしてぼくの幸せはこれだ。ぼくはこの自分で、これより良くも悪くもない自分で幸せだ。ぼくは自分の世界が好きだ。物事を静かに、最大限の楽しみを持って行うことが。時々、TVを見たり映画を見るのが好きだ」好きな俳優は?「デンゼル・ワシントンとラッセル・クロウ。自分のことは言いふらすよりぼくだけの秘密にしておく。それがぼくの幸せであり、生き方だ。人々が抱いているぼくのイメージこそ、ぼくそのものだ。注目の的になるのは好きじゃない。時にはそうならざるをえないけど。自分の世界を楽しむのが好きだ。幸せではいられないようなことはたくさんある。個人として幸せを感じることはどんな勝利にも勝る。フィールドでどうプレーするかは、きみの人生がどんなものかを反映している」

彼は会話好きな人々の一員だ。「とても教養高い友人がいる。時には、なぜ多くの物事が起こっているかぼくにはわからない。オーストラリアの洪水や日本の地震のような自然災害……哀しい思いをさせられる。そうした恐ろしい出来事が引き続き起こっていることが哀しいよ。だけどその他のことも起こっている……エジプトで起こったことや、ガダフィに起こっていること……哀しい気持ちになるよ。子どもたちや女性が虐待されている時……非正義は好きじゃない」

時として彼は哀しむ。だが、怒りは稀だ。バロン・ドールを受賞しなかった時、あなたは怒ったか?「自分がバロン・ドールの最有力候補だなんてまったく考えていなかった」メッシが最高か?「ぼくたちにとっては、彼がベストだ。チームはメッシを必要としているが、メッシもまたチームを必要としている。ぼくたちはペップ・グアルディオラのような監督を持てて恵まれている。彼はすべてを知っている。バルサの下部組織の全段階を踏んでおり、他の誰とも違うようにフットボールを見ていて、ぼくたち皆を知っている。彼は、これほど多くのタイトルを獲得し、まだ勝ち続けることができるこのチームの重要な鍵だ。それにぼくはかつて彼のプレースタイルが好きだった。彼は今、シウダ・デポルティバでのトレーニングとコンセントレーションを最小限にするという判断によって、チームを本当に助けてくれている。というのも、そうすることでストレス・レベルを軽減させ、ぼくたちにより多くの平穏と良質な生活を与えてくれているから。監督は、ぼくたちの光だよ

アンドレス・イニエスタは、父親が3ヶ月間節約して彼に買い与えたブーツをまだ持っている。家に帰るとそれを見て、『ラ・ピスタ』や、アルバセーテを往復した旅のことを、ブルネーテ・トーナメントのことを、トルトサでの人生で一番哀しかった食事のことを、あるいはヴァルデスが与えてくれた猗鯑饅雖瓩里海箸鮖廚そ个垢里澄
「あのブーツを見ると、ぼくがどこからやって来たのかを思い出すんだ」彼は物静かに言った。これが、バルサのほとんどのスター選手たちの歴史はカッコ良すぎて鼻につく、などと主張する人々への返答だ。

少し運が良ければ、今度両親のもとを訪ねた時は、彼はチキンのポテト添えを食べるだろう。彼の妹も、彼の人生を変えた女性であるアンナも、その腕の中に彼らの娘――小さなヴァレリア――を抱いて夫と共にそこにいるだろう。そして、アンドレス・イニエスタは幸せな気分で、またしても夢が現実になったことに気がつくのだ。いつも息子のことを心配していた母親もまた、幸せだ。


***


この話は十代の子どもたちに読んでもらいたいですね。こうした困難を乗り越えて一端の選手になったというだけでもオチとして十分ですが、彼がW杯の決勝でゴールを決めたことを思うと、感極まるものがあります。両親との離別やハルケとの死別など、数々の困難を乗り越えて成功を手にしたイニエスタだからこそ、「運命を信じている」と言い切れるんでしょうね。

私、いつかタトゥを入れることになるなら、その言葉はnow or never瓠esta vez o nunca)だな! と思いました。何か決断を迫られた時にそれを見て勇気を絞り出します

コメントもこちらから。私が旅の途中で撮っただいたいが欧米の風景写真が表示されます(地味に交換してます)



2011年05月18日(水) 『イニエスタ「もう戻れないことはわかっていた」@EPSインタビュー Part.1』


#La Roja
#Iniesta
 イニエスタ「もう戻れないことはわかっていた」@EPSインタビュー Part.1   
  22:50:09, 水曜日 18, 5月 2011



ラ・ロハの中でも、チャビとイニエスタのインタビューに限っては毎度ハズレなし。今回もまたその好例です。El Paisの週末版にイニエスタのロング・インタビューが掲載されました。前後篇に分けてご紹介します。

***


バルセロナ市議会の統計課が出生地を元にはじき出した移民の流入に関するデータによれば、1996年には、11,028人が市に定住し、そのうちの99人がカスティージャ・ラ・マンチャ出身だった。その中に、フットボール選手になることを夢見る12歳の少年、アンドレス・イニエスタ・ルハンがいた。イニエスタは彼の夢を実現した。彼は、建設作業員だった父親を40歳でリタイアさせ、初めてプロ契約した時、母親には家を買ってあげた。今日、27歳にして、彼は世界王者であり、ちょうど父親になって間もないが、好きな食事はまだチキンのポテト添えで、ピッチを離れると、ウェイターと間違われるほどに目立たない(こんなことが起きたのはそう遠くない昔である)。彼にはまだ果たすべき約束がある――サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路(El Camino de Santiago)を歩くこと。そして、タージ・マハルを見にインドへ行くという夢もある。

「ぼくは運命を信じている。なぜなら物事というのは起こるべくして起こっているから。神のことも信じている。だけどほどほどに。(宗教)儀式は行わない」アンドレス・イニエスタは父方の祖父の名を取ってアンドレスと呼ばれる。フエンテアルビジャ(アルバセーテ)には3人のアンドレス・イニエスタがいる。フットボール選手である彼と、彼の二人の従兄弟――父親ホセ・アントニオの兄の息子たち。偶然にも、彼の母方の父親の名前もまたアンドレスだった。アンドレス・ルハン(母方の父)は故郷に、娘と経営していたバルを持っていたが、10年前に店じまいしている。
我々はこのバルサの選手と練習施設シウダ・デポルティバで、トレーニング前に話をした。アンドレスはナイキのシャツを着ていた。今日、彼はアメリカのブランドのシンボルの一人だ。アンドレスが子どもだった頃は、彼の父親は息子にアディダス・プレデターのブーツを買ってあげるために3ヶ月間、生活費を節約したものだった。





小さかった頃、アンドレス・イニエスタ・ルハンは『ラ・ピスタ』と呼ばれる、セメントの床の、一組のフットサルゴールとバスケットゴールがある故郷のスポーツ・センターでフットボールをプレーしていた。彼はそこで、8歳――家から80km離れたアルバセーテの下部組織の入団テストをパスした年――になるまでプレーした。
「ぼくはアルバセーテをサポートしている。多くのことがこれまで言われてきたけど、これが実際のところ。父はアスレティック(・ビルバオ)のサポーターで、ぼくはアルバセーテとバルサ……ぼくの第二のチームを応援していた。週末になると、アルビン・チームでプレーしていたために年間パスを持っていたから、一部のチームを見に行ったよ。ジョシコ、サラサル、カタリ、バルサからローンできていたウーゴ・オスカル、ベリカ、ノリーナ……あれはいい年だった。彼らが昇格した年。ぼくは町と共に祝ったよ。ある日のこと、バルサが彼ら相手に7ゴールを叩きこんだもんだから動揺してしまった」

彼は、ジャーナリストたちによって企画されたブルネーテ・トーナメントで最優秀選手に選ばれるまで、アルバセーテで無名の選手としてプレーした。この少年を無視することは不可能だった。試合中、彼はあまりに爛ラフル瓩世辰拭宗祝紊畔貎討忙て色白ではあったけれど。現場にはレアル・マドリーやバルサといった有名クラブのスカウトたちがいた。バルサのユース世代の責任者であるアルベルト・ベナイゲスが、いくつかの名前が書かれたリストを持ってカンプ・ノウに現れたが、その手の中にはイニエスタの名前もあった。

だが、問題があった。ラ・マシアに入寮できる最低年齢は14歳。アンドレスはたったの12歳だった。クラブは両親に、ご子息には特別な注意を払い、向こう3年は彼の居場所を保証する、と話し聞かせた。
「あの時代の典型例だ。今はすべてがもっと素早い」と、元ラ・マシア監督、現リヴァプールの下部組織監督ロドルフォ・ボレールは言う。イニエスタは一人ではなかった。ホルヘ・トロイテイロという同年齢の少年の名もまた、ベナイゲスのリストに含まれていた。ブルネーテ・トーナメントの二週間後、トロイテイロの父親は息子とともにラ・マシアへやってきて「あんたらが決めろ。この子はここに残るか、さもなくば我々はマドリーへ行く。なぜなら私の息子はフットボール選手にならなければならんからだ」と言った。下部組織のコーディネーターとして知られるトルト氏は、最良の解決策を手にやってきた――クラブは彼らの申し出を受け入れ、フエンテアルビジャのイニエスタに電話を入れた。「少なくとも二人いれば、お互いの面倒を見るだろう」ロドルフォ・ボレールは回想する。

アンドレスの母親は、息子をバルセロナへ送り出すことを許すことなど考えもしなかったが、彼女の夫は、バルサからのオファーは自分たちの息子のキャリアにとって最高の出来事だ、と妻を説き伏せた。
アンドレスは覚えている。「父はぼくに言った。『時として電車は、人生に一度しかやって来ないんだ』でもぼくは父に言った。『行きたくないよ』」その返事は頑固なものだったけれど、ベッドに入ってからも、頭上に貼られたラウドルップやグアルディオラのポスターを見上げながら、彼は父親にアドバイスされたことをまだ考えていた。ある日、アンドレスは父親に言った。「パパ、バルセロナに電話して」そして彼の父親は電話をかけた。

ブルネーテ・トーナメントの最優秀選手賞にはタラゴナのポルト・アヴェンチュラ(テーマパーク)への訪問も含まれていた。そこで、ホセ・アントニオ・イニエスタはラ・マシアの訪問をその旅に組み込んで、トルトとベナイゲスと話し合いを持った。
「ぼくたちは設備と練習場を見た。父と話したオリオル・トルト、アルベルト・ベナイゲス、ジョアン・マルティネス・ビラセカはとても親切で、ぼくたちにいい意味で刺激を与えてくれた。だからノーと言うのはとても難しいことだったんだ。だけど、ぼくはとても若かった。彼らはぼくたちに、家族と別れることは劇的なことだろうから、来年来くることもできる、と言った。ラ・マシアへのドアが開かれている中、ぼくたちは家へ帰った」





少なくとも、その年のうちは戻らない考えだった。だが、あの響き――狹甜屬録誉犬飽貪戮靴やって来ない瓠宗修魯▲鵐疋譽垢凌瓦飽っ掛かっていた。数週間後、学校が始まる少し前に、アンドレスはラ・マンチャからカタルーニャへ向かう99人の一員になることを決断した。1996年、夢を叶えるために。
ずいぶん考えた後、ぼくは両親と話し合った。『行きたい』と言った。そう言った時、どんな犠牲を払ってでも自分はそうするだろう、と確信した。それがぼくだから。ぼくに兼ね備わったものだから。自分にとって良い決断を下した時は、たとえそのために大きな犠牲を支払わされると気づいていたとしても、もう後には引かないことは自分でわかっていた。人生においても、スポーツにおいてもとてもよく似ている。トップチーム入りを果たした時、あまり多くプレーできなかったけど、ぼくはここで成功して夢を叶えるんだと覚悟していた。移籍の噂はあったけど、ぼくはここで5分でいいからプレーしたかった。ハードワークと熱意があれば夢は叶えられると確信していた。だから父に『行こう』と話した時は、もう戻れないことはわかっていた」

≪続≫   

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