久し振りに何の締切にも追い立てられず夜を過ごせるので、ここは一発In the heart of the seaのレビューを書こうと思います。Imaxで二回立て続けに見てきました。Mad Maxの時のようにあまりにもハマって衝動を抑えられなかったからではなく、確認したいことが色々あったためです。 以下、ネタバレを含みます。映画のレビューは久し振り。 In the heart of the sea トレイラーを見た方はヒューマン・ドラマより冒険映画を想像したかと思いますが、どちらでもないというよりは、どちらの意味でも成功していません。失敗作ではないにせよ傑作と呼べる仕上がりにもなっていません。ただし、そこは腐女子に愛されるロン・ハワード監督作品、しっかりと萌えられます! まずこの映画は、アメリカの小説家・ハーマン・メルヴィルの長編小説『白鯨』が原作ではなく、メルヴィルが『白鯨』を書くにあたり参考にした実話を詳らかにした同名のベストセラー小説(nathaniel philbrick著)を元にして作られています。 物語は、1820年に起きた捕鯨船エセックス号の沈没事件に興味を持った売れない作家ハーマン・メルヴィル(ベン・ウィショー)が、エセックス号の数少ない生存者である乗組員トーマス・ニッカーソンの自宅を訪れ、30年前の事件についてインタビューを行うところから始まります。事件後トラウマを引き摺って余生を過ごしたトーマスは、最初こそ頑なにメルヴィルを拒否しますが、妻(GoTでケイトリン・スタークを演じているミシェル・フェアリー)に説得され、これまで誰にも話したことがなかった"秘密"を語るため、重たい口を開く……と、ここでトーマスは「二人の男がいた。ジョージ・ポラード船長と、彼の一等航海士オーウェン・チェイスだ……」と主役たちを紹介し、二人の男とその関係を軸に展開するドラマの始まりを予感させるんですが、この点はドラマ的には相当肩透かしに終わります。 チェイス(クリス・ヘムズワース)は経験豊富なたたき上げの捕鯨船員で、船会社からの信頼も厚い。これまでの実績から、今度こそ捕鯨船エセックス号の船長を任される約束だったのに、船乗りの名門一族の坊ちゃんに、政治的理由でその座を奪われ、さらに屈辱的なことには、今回が船長デビューとなるこの坊ちゃんことジョージ・ポラード(ベンジャミン・ウォーカー)の一等航海士に任命されます。それでも、妊娠中の妻(シャーロット・オライリー)のためプライドを捨てて出航することを決意。後々雑巾みたくボロボロになるだけに、この冒頭シーンのヘムの美しさはぜひ目に焼き付けておきたいところです。 腐女子目線で見ると、船会社のお偉いさんと、約束を反故にされ激怒するチェイスのやりとりを、ドアの向こうで全部聞いてポラードが表情を強張らせているあたりから、すでに肉汁たっぷり、シズル感ハンパないです。このポラード、出発前には父親に「ポラードの家名に恥じない手柄を立ててこい」と言って送り出されるんですが、明らかに自分より経験豊富で人望も厚いボス猿のチェイスを脅威に感じています。出航時に帆を張りますが、ポラードが見ている前で、機転を利かせてするするとマストに攀じ登っていくチェイス。負けた……という顔をするポラード。たぶんこれが全体を通して一番いいシーンです。甲板では、チェイスは子供の頃から兄弟のように親しい二等航海士のマシュー・ジョイ(キリアン・マーフィ)と気心の知れた会話を交わすんですが、これまで女日照りが続く長い航海中に二人が船内の暗がりでお互いの欲望を解消してきたことは想像に難くありません。 ともかくヘム演じるチェイスはアルファメイルの典型、ザ・お山の大将、エセックス号の男たちは彼に要求されたら二つ返事で抱かれるはずですが、中でも14歳のトーマス(語り手)の、チェイスに向ける憧れの眼差しは初々しいったらないです。ちなみに、少年トーマスを演じてるのは今度スパイダーマンをやるトム・ホランドです。 さて、ポラードはまるで四面楚歌に思われますが、実は彼にも一人だけ味方がいます。やっぱり育ちの良さがプンプン匂う従弟のヘンリー、こいつがまた無駄に美青(少)年。唯一のポラード派として一手にヒール役を担っており、いけすかないことこの上ないですが、ポラードを従兄として&船長として ポラードは嵐が近づいている、というチェイスの忠告を無視して、帆を全部張ります(なんという専門的な表現。M&Cで身に着けたはずの知識や語彙、すっかり忘れました)。この判断は、さも船長然として船乗りたちに命令を下すチェイスへのやっかみと怖れから生じているんですが、これがまあ大失敗で、嵐の中、船は難破寸前になります。船長室で日誌ばかりつけやがって自分の非を認めないポラード、忠告するチェイスに「うっせー! 私の名はポラードだぞ! あのポラード家だ! おまえは所詮農夫の息子だろ!」と爆発するポラードのbitchっぷりったら。「抱いてやればいんだよ、チェイス! そうすりゃ全部丸くおさまっから!」と思わず叫びたくなります。この時点ですでに、私の脳内ではポラード役はトムトムに挿げ替えられています(すいません、ベンジャミン・ウォーカーと彼のファンの方)。 ここまで蛇足的な内容ばかり書いてきましたが、早速核心に迫ります。遂に鯨が現れハント開始。19世紀の捕鯨の野蛮さと命知らずな捕鯨船員たちの勇猛果敢さには少なくとも数ドル払う価値がありました。そもそも、19世紀における捕鯨とは生活必需品である鯨油の獲得を目的にしたものでした。もちろん、これはまだ石油が西洋で見つかっていなかった時代の話です。死闘の末に捕獲した鯨を解体し、鯨油を採取する工程はけっこうグロいですが、20世紀以降に広まった動物愛護の観点から糾弾すべき野蛮行為ではなく、人間にとって必要な営みの一部であるという印象を受けます。 さて、『白鯨』が巨大鯨に片足を食いちぎられたエイハブ船長の復讐の物語であるように、エセックス号も巨大な白鯨によって攻撃されるという筋書きです。彼らはエクアドルの寄港地で、鯨が大量に目撃された遥か彼方の海域の噂を知り、乗組員の反対を押し切りふたたび大海原へ。そこで、巨大な白鯨と遭遇、この白鯨は怒り狂っていて、エセックス号は船底にでっかい穴を開けられて憐れ、沈没してしまうわけです。鯨油に引火して炎に包まれる船から、三艘の舟で脱出する20人余りの乗組員たち。 ここで、自暴自棄になったカワイ子ちゃんのヘンリーが、チェイスに銃を向けて「怖いって認めろ!」と叫びます。「愛する船長より男前で立派で人望が厚いチェイスが憎い」という歪んだ発想、なかなか萌えます。するとマシュー・ジョイのマスケット銃の銃口は、ヘンリーに向けられ(当然だ、愛しいチェイスが狙われてるんだから)、ポラード船長は、なんとかヘンリーをなだめようとする。ポラードが優しい、いたわるような口調で「ヘンリー、やめるんだ」と言葉をかけて、事なきを得るのですが、かなり妄想を盛ってるのであまり期待しないでください。 辛い漂流生活が始まるわけですが、実はこの映画、白鯨にエセックス号がカマを掘られたことで(今思うと、船底の船尾をやられてるから、本当にカマ掘られてる)、こうした人間関係は一気に瓦解します。ここへ至るまでに築いてきた人間関係は無効化し、ただただサバイバルすることに視点がシフトしていくのです。 いくつか読んだレビューでは『バウンティ号の叛乱』が引き合いに出されていましたが、私はどちらかというとウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』を連想しました。とはいえ、乗組員が新米船長に対し叛乱を起こし、後に首謀者が絞首刑になった『バウンティ号の叛乱』や、無人島に漂流した少年たちが、互いに殺し合いをはじめる小説『蠅の王』から透かし見えるのは人間性の残酷さでしたが、ハワード監督が焦点を当てたのはエセックス号の乗組員たちの尊厳や兄弟愛などです。果てはカニバリズムという非人間的行為にまで及ぶにもかかわらず、この映画、悪人は一人も登場しない。ハワード監督の過去の作品からも一貫して感じられたこの人間性に対する信頼は、しかしこの生死の境をさまよう男たち映画では、とっても生ぬるく感じられます。 ほうほうの体で辿り着いた無人島にて、人間が何をしようとすべては神の思し召しだと思い上がっているポラードに、チェイスは「本当にそうですかね? こんな体験をしてもまだ? 私たちは何者でもなく、ちっぽけな存在として死んでいくんでは?」と言います。 そもそも彼らは、乗組員が「クレイジーだ」と不満を言うほど遠くの禁断の海域までやってきて鯨を殺した。執念深い白鯨の攻撃は神(自然界)が下した天罰であり、ちっぽけな人間なんかでは立ち向かえない相手に打ちのめされ、チェイスは謙虚さを学ぶ。白鯨と対峙した時、チェイスは「あいつは死ぬまで、おれのものだ」とつぶやきますが、ふたたび漂流し、弱り果てた彼らの前に白鯨が姿を現した時、チャンスがあったにもかかわらず、彼は畏怖の念に打たれたように鯨を仕留められない。これはなんだか宮崎アニメの残酷バージョンみたいです。バベルの塔の逸話が語るように、人類の強欲さに対する神の戒めといったメッセージに取れなくもない。 この映画がいまいち成功していない理由は、白鯨の描き方にあります。執念深く追って来る鯨。でも一体、何が目的なんだろう? ただ復讐したいのか? 観客も疑問に思ったんだからチェイスも思ったはず。ところが、この疑問に対する問答シーンもないし白鯨からもたいして神秘性は感じられない。「あれは本当にただの鯨なんだろうか?」と疑いを抱くチェイスに対し、とにかく鯨を倒すことに執念を燃やすエイハブ船長のようなポラードという描き分けがあってこそ、得体のしれないものに対する恐怖が、ラストでチェイスの視点を借りて畏怖に変わる……それと同時に、メルヴィルが後に書いた『白鯨』という小説のルーツが浮き彫りになったはずです。 でもこんな哲学的なテーマに挑戦するのではなく、思い切ってM&Cのように人生の機微を織り交ぜた冒険モノにすべきだったのかもしれません。ヒューマンドラマとしてもアドベンチャーものとしても成功していない、と書いたのはそういう理由です。 萌え話に戻ると、漂流中にマシュー・ジョイは頭を負傷し、その傷がもとで死を待つ身となります。ヒゲもじゃで痩せ衰え、傷口が化膿し顔面が腫れている特殊メイクを施したキリアンの姿は見るも憐れでした。チェイスが別れの場面でジョイに見せる表情、眼に浮かんだ涙、友人として「マシュー」と名前で呼びかけるところは、悲劇的ではありましたがこの二人はちゃんとオチがつきました。 一方、ポラードとヘンリーの側にも悲しい別れが。銃を握らせ「これは命令だ」というポラード。二人の別れの場面も従兄弟というよりは恋人同士という感じでした。 チェイス/トムに関しては、30年経った今も、トムは チェイス/ポラードについては、ここでは書かないでおきます。 どの人間関係も消化不足の感が否めません。なぜかといえば、チェイスに抱かれたくて男たちは列を作ってたのに、白鯨が現れてエセックス号の尻を掘ってしまったからです。飢えと渇きに耐えてついに無人島を発見し、歓喜するエセックス号の乗組員たちの前に現れる白鯨たん、二隻の船を木端微塵にします。何十日も漂流した末にやっと陸を見つけた途端、放置プレイを終了して襲って来るなんて、この鯨そうとう根性が悪いです。チェイスも全然敵いません。 腐女子的には十分Ahooy!と叫びたくなるものの、白鯨がいなかったらな…というのが正直な感想です。くじらイラネ… まだ海賊に襲われる方が萌えるや。くじら萌えないなあ…。
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