てらさき雄介の日記
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2016年04月19日(火) マナウスは大きく3つに分かれている

昨日と一昨日。先輩にかき氷屋を店を休んで頂いた。申し訳ないことをした。今日は一人で市内を散策。ここ数日間で把握したところ、マナウスの街は大きく3つに分かれているらしい。街全体の位置関係を把握することは、一人旅ではとても重要なことだ。

一つは旧市街。ポルトガルの植民統治が行われた場所だ。二つは新市街。官庁がある。宿泊したホテルと先輩のかき氷屋もここに。今後もショッピングセンター等が出来るらしい。三つは工業地域。ホンダを始め世界の工場が進出している。車とアマゾン川の船で製品を搬出している。

夜は先輩の友人と食事。川魚のフライと食べた。この方もマナウスに定住した日本人。日系企業に現地採用でつとめている。余り日本には帰らないという。前はサンパウロで暮らしていたとのこと。ビールを飲みながらじっくりと、その人生の一端を聞かせて頂いた。

●今日一日

終日マナウス滞在


皿盛り料理が多いです


2016年04月18日(月) ポルトガルらしい広場の雰囲気だ

今日はマナウス市内の観光である。メインはアマゾネス劇場。前に大きな広場がある。どこかで見たことがある。マカオの街並みだ。ブラジルは南米で唯一ポルトガルの統治を受けた。それで似ているのだろう。

さて言語。ポルトガル語だ。不思議である。自国伝統の共通語がない。植民地を経験した国でも通常は、旧宗主国のものと並列に自国の言語を使っている。しかしここはない。完全ポルトガル語だ。

独立のカタチも珍しい。ブラジルを現地で統治していたポルトガル王家の分派が、本国からの独立を宣言している。ポルトガルの社会制度が引き続き維持されたのだ。その基盤の上に現在の社会経済が成り立っている。

またサンパウロの地下鉄を除くと、ブラジルには鉄道がない。大きな国土は飛行機かバス、そして昨日も書いた水上交通で結ばれている。イギリスや日本は植民地経営で鉄道を好んだが、ポルトガルは違うらしい。

元々私の旅は一箇所に数日しかいない。それでその国を理解できるはずはない。しかし一度でも自分で見た国と街は、その後長きにわたって関心を持ち続けられる。ふとしたニュースが気になるのだ。

●今日一日

終日マナウス滞在


どこかで見た街並み


2016年04月17日(日) アマゾン河の水上集落

マナウスはアマゾン河に向かう拠点の街である。朝ホテルに先輩が迎えに来てくれた。そのまま河の近くへ。大きな船が並んでいる。観光用ではない。水上交通だ。アマゾン河沿いの街を行き来する人が、生活で使っている船である。その行程は3日間から1週間と長い。

その合間をぬって歩くと、小さなボートがある。ヤマハの発動機付きだ。先輩の知人らしく貸し切り予約をしてくれていた。早速乗り込み河の流れに沿って進む。二つの河が合流している。双方の流れと水質が違うため、水が混じり合わない。二つの色のまま数キロ流れていく。

大河からジャングル、小さな支流。すいすいと進んでいく。ピラニア釣り、水上バンガローの昼食、大きな蓮の葉、等々見たことのないものがある。一番興味深かったのは水上集落だ。河の上に高床で建物が立っている。家、食堂、学校や教会。水上建築の専門家もいるらしい。

思えば遠くに来たものだ。自分の目でアマゾン河を見る日が来るとは思わなかった。出発から到着まで約7時間。仕事や生活から完全に解き放たれていた。日常とは全く違う時間と空間だ。一日付き合ってくれた先輩に感謝。

●今日一日

終日マナウス滞在


河の色が手前と向こうで違います


2016年04月16日(土) マナウスに移住している先輩を訪ねる

思えば2週間の旅は社会人になってから初。‘マナウスに移住している先輩のかき氷屋を訪ねる’という主目的を達成するためには、遠い分一定の期間が必要だった。そしていよいよ時が来た。

マナウスへの国際線は唯一マイアミからのみ。夕方の便に備えて早めに空港へ行く。搭乗便は空港の一番端から出発。飛行は5時間程。興奮もあり早く過ぎだ。席には狭かったがすいていたので快適だ。

初めてのブラジルに到着だ。外交方針として相互主義を採っているため、日本人の入国にはビザが必要。事前に取得していたので難なく入国。バッグもすぐに出てきた。途上国特有の雰囲気が空港に漂う。

空港には先輩が自家用車で迎えに来てくれた。ボディには経営するかき氷屋の図柄が大きく入っている。走ること30分。その店に到着した。思えば日本からの行程は長かった。地球の裏側はやはり遠い。

その後ホテルにチェックイン。そして先輩に連れられ街場のバーへ。ビールをごちそうになった。既に深夜である。市内をめぐるのは明日以降だ。異国での過労は危険。幸い部屋は広かった。じっくり休むことにする。

●今日一日

マイアミ滞在
マイアミからマナウスへ
マナウス滞在


マナウスではかなり目立ちます


2016年04月15日(金) ロスからマイアミへ4時間の国内線

ロスからマイアミへ。飛行は国内線で4時間と少し。アメリカは広い。高度1万メートルからでも下がよく見える。ひたすらに長い真っすぐな道路が通っている。草原、高原、その合間に集落がぽつぽつと。

マイアミは雨だった。その暖かさと勢いはスコールのよう。ここは亜熱帯なのだ。ホテル到着が夜遅くなった。今日は中のレストランで済ませることにする。ビール美味し。出てきた肉サンドはやはり巨大である。

●今日一日

ロスアンゼルス滞在
ロスアンゼルスからマイアミへ
マイアミ滞在


写真で見るよりも実物は大きいです


2016年04月14日(木) 全米日系人博物館で感じた「民族」

ロスアンゼルス3日目。全米日系人博物館を訪問。リトルトーキョーの一番端にある。リニューアルした新しい建物。参観者もたくさん。やはり日系らしき人が多い。展示物も豊富だった。

初期にアメリカへ渡った方、その2世・3世、あるいは現在の4世以降。それぞれに苦労がある。日本は移民が少ないが、それでも神奈川は多くの外国人が暮らしている。その気持ちと対処は大いに参考になる。

戦時中の強制収容所については資料が豊富である。住まいのバラックも保存されていた。二度とあってはならないことだ。厳しい状況の中でこそ、国の文化度とレベルは明らかになる。日本はどうだろうか。

さて移住した日本人たちはは、決して日本を捨てた訳ではない。ここにあるノートや教科書、子どもの遊び道具、等々。結果として帰れなかったに過ぎない。日本は長く祖国であり続けたのだ。

今やアメリカ社会の指導的地位には、多くの日系人がいる。移民とその子孫たちは、日本にとっても大きな財産である。博物館の随所から感じる「民族」というものに、改めて気付かされた。

●今日一日

終日ロスアンゼルス滞在


日系人収容所の絵


2016年04月13日(水) アメリカ大陸初はロスアンゼルス

ロスアンゼルスにいる。昨日は夕刻の到着だった。若干暗かったので慎重に行動。しかし限られた日数。積極的に行動しなければならない。いくつも書けないので、一番印象に残ったことを今日以降は書いていきたい。

街がはっきりと分かれている。「白人が多いエリートの場所」「現地の人もいかない危ない地域」「足を踏み入れられない高級住宅街」等々。収入による生活環境の差が歴然としている。

またゴミの収集車・ガードマン・道路工事の人たち、じっくり観察すると白人は非常に少ない。ほとんどが黒人かヒスパニックである。一方でスーツでネクタイをしめているのは白人が多い。

さてリュック一つで歩いていると、誰も私を旅行者だとは気付かない。10人いれば肌の色も10色。黄色人種もたくさんいる。言葉が詰まっても相手は大らかだ。慣れているのだろう。含めてこれも社会の大きさか。

●今日一日

終日ロスアンゼルス滞在


ロス市庁舎の会見場


2016年04月12日(火) 民主党と私〜その8〜

前日、その7から続く

一番大切な今後である。私に出来ることを積み重ねるしかない。これを達成できるかどうか。ここに民進党の将来がかかっていると信じている。

かながわ民進党県議団筆頭副団長として、党所属県議が一致結束して県行政に対峙していく、その体制をぬかりなく構築しなければならない。民主党政権がガバナンス不足を反面教師にしよう。

民進党神奈川地方議員フォーラム代表として、党全体の運営に地方議員の声が反映されるよう、大きく声をあげていく。また県内各地方の議会と連携を深める。国会は浮き沈みが激しい議会。地方議員の責任は大きい。

相模原市選出の民進党所属議員として、地域のなかで「民進党」の旗を大きく掲げていく。地元から理解を得られずに、その先はない。私自身の政治家としての将来もまた。時間がかかるだろう。

最後に民主党に感謝したい。私のような3バンのない人間が、県議会議員として仕事をしている。そのチャンスを民主党はくれた。「何もないのがいい」と言ってくれた。その精神は民進党に受け継いでいきたい。



●今日一日

【午前】
地域まわり/横浜市内

【午後】
事務作業/事務所
羽田からロスアンゼルスへ(日付け戻り本日夕に着)


2016年04月11日(月) 民主党と私〜その7〜

前日、その6から続く。

政権転落は予想していた。しかしここまで負けるとは思わなかった。特に地元神奈川14区で本村賢太郎氏が落選するとは信じられなかった。しかも大差である。小選挙区選挙の恐ろしさと、無党派層の強さを改めて痛感した。その後今に至る民主党冬の時代となる。

次の衆議院選挙で本村氏は比例当選したが、世の民主党に対する評価は低迷を続けた。何がいけなかったのか。今後どうするのか。明確なメッセージが国会や党本部から聞こえてこなかった。私に届かないのだから、市民に至るはずがない。不祥事など残念な話ばかりが報道で流れた。

それでも神奈川県議会は踏ん張った。昨年の県議選も25名の当選。全国でもトップクラスの規模だ。各地域で同志諸君が踏ん張った結果だろう。この人員さえいればやっていける。そしていつの日か国政でも政権交代を担える。あと10年堪え続ける覚悟があるかどうかだ。

そしてどこからか維新との合流話が出た。維新がほとんど見えない相模原では、「何故?」以前の問題として、誰と一緒になるのかわからなかった。党内で反対の声を上げた。信頼は時間と共に培われる。結党から20年経った。あと30年踏ん張れば、自民党のように地域に根付ける。

結果は周知の事実。民主党は党名を変更し、解散した維新から国会議員が入党した。私たち地方議員の党籍はそのままだが、街頭で何万回と使った「民主党」の名は無くなった。「民進党」を同じ回数述べるのに、どれくらいの時間がかかるのだろうか。イチからのスタートである。

私も割り切りは早い。民進党名刺も作成した。これから「私こそが民進党」と言えるよう、県議会議員として全力を尽くしていく。県議会での発言もそう。私たちが訴えることが民進党神奈川の政策になっていくのだ。大切なものは今後も変わらない。変えてはいけない。

翌日、最終回。

●今日一日

【午前】
会派業務/県庁
民進党県議団正副団長打合せ/同
民進党県議団役員会/同

【午後】
民進党県議団全体会議/県庁
行政相談対応(警察)/同

【夜】
会合(議会)/横浜市中区


2016年04月10日(日) 民主党と私〜その6〜

前日、その5から続く。

政権交代選挙は、まさに熱狂だった。街頭でビラを配る必要がない。「マニフェストが欲しいんです」と、市民が電話をして選挙事務所まで取りに来てくれる。私も冷静でいたいと思ったが、民主党員なので素直に嬉しかった。

上溝ダイエーで本村候補が街頭演説をすることに。党幹部の玄葉光一郎氏が応援に来た。今や外務大臣もつとめた多少の有名人だが、当時はほとんど誰も知らない。選対で「寺崎さん、送り迎えを頼む」と言われた。こういう役目も支援議員にはある。

私の車で玄葉氏が語ったことが忘れられない。「政権交代はしたい。しかし新聞にあるような300議席は行き過ぎだ。その後持ちこたえられるか心配(要約)」国会で民主党の采配をしていたからこそ、この現実と限界を認識していたのだろう。

政権交代が実現した。私は鳩山由紀夫氏の軽さが総理として心配だったが、多くの市民は彼が代表である民主党と支援してくれた。しかしそれが事実であっても、私たちはより謙虚であるべきだった。自民党にお灸を据えよう。その意識で消極的に投票した人が多かったのだ。

政権運営の稚拙さは目に余った。加えて私は‘公約違反’の影響が大きかったと思う。野党と与党は違う。そこは開き直っていい。「すいません。これは出来ません」とお詫びする勇気も必要なのだ。しかし何の約束を守って、何を違えるか、その選択すら政権は出来なかった。

子ども手当、八ッ場ダム建設の中止、普天間基地の県外移設、等など。世の注目を集める課題ほど、党内の議論が迷走して、その間隙を霞ヶ関と自民党に突かれてしまった。自民党の部会や総務会のシステムは良く出来ている。そこは学べば良かったのだ。政治で最も重要な政策決定のシステムが、結果最後まで定まらなかった。

加えて党内抗争。党内に派閥をつくってしまう。自党の大臣や議員のスキャンダルに毅然とした態度が示せない。業界団体の候補者を選挙で擁立する。では自民党とどこが違うのか。同じならば経験ある自民党の方がよいのではないか。そういう声が市民から出てきたのは自然なことだ。

そして再び衆議院選挙がやってきた。

翌日、その7へ続く。

●今日一日

【午前】
お休み

【午後】
有料老人ホーム新設内覧会/座間市
神奈川土建ボウリング大会表彰式/中央


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