てらさき雄介の日記
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2005年09月29日(木) 関西弁「さかいひがし」

堺5日目です。顔見知りの地方議員も全国から応援に来るなか、Tシャツ姿で運動しています。

朝立ちは、南海鉄道「堺東駅」です。「堺東駅ご利用の皆様!」というフレーズの「さかいひがし」の発音が、どうもご当地と私では違うようです。

「発音違うやん!」と突っ込みを受けてしまいました。

早速候補者をまねて練習した結果、何とか周りに理解頂ける発音になりました。

関東の「さかいひがし」について説明する必要もありませんが、関西の「さかい」は関東で言うところの「境」と同じ発音です。

「さかいひがし」も「境東」と読む感じです。

もうひとつ発見です。応援に来ている関西の地方議員などの演説を聞くと、マイクを通すと関西弁でなくなる方が多いです。

逆に関西弁の演説は、キツく聞こえます。今回はチャレンジャーなので、その方がしっくりもきます。

今日34歳になりました。相模原で政治活動を始めて9年になります。初心を忘れず、これからも頑張ります。


2005年09月28日(水) 仁徳天皇陵の横で街宣

堺市4日目です。朝立ちは始発から行っています。今朝は南海鉄道「三国ヶ丘駅」でした。駅前に広がる“森”は、なんと仁徳天皇陵です。

航空写真は見たことがありますが、実物は初めてです。

世界最大の墳墓であり、堺市では他の古墳群とあわせて、世界遺産への申請を考えている人もいます。

日中再びこの近辺に戻り、街宣車で近隣を流しました。近くには少し小さい(と言っても大きい)天皇陵が2つあります。すべて前方後円墳です。

いくらお金を出しても買えない財産があることは、羨ましい限りです。

世界遺産と選挙運動・・・、少しギャップを感じました。しかしそれは、異邦人である私の感傷ですね。






2005年09月27日(火) 堺市の現状

堺市3日目ですが、改めて堺市の現状を確認してみます。

人口83万5千人、面積150平方kmです。ちなみに相模原は人口63万人、面積90平方kmです。

二十数年前から政令指定都市を目指し、総務省から突きつけられた最後の条件「合併」も、隣の美原町と完了しております。

そして来年4月に、ついに政令指定都市となることが決まっています。今回選ばれた市長は、政令市初代の市長となります。

行政区は7つできる予定で、既に数年前から機能の移管は進んでいたようです。

私が市議をしていた時代、少なくとも3つのテーマについて、堺市に来て担当者の話を聞きました。

ひとつが、保健所設置について。ふたつが、中核市の指定について。みっつめが、政令指定都市を目指していることについてです。

都市化の進行をはじめとした、自治体を取り巻く状況は、相模原と似通っていると言えます。

相模原と明らかに違うのは、過去市長が常に「天下り」であったことです。前の市長は旧自治省から、今の市長は大阪府から、オール与党で引っ張ってきたそうです。

どこもそうですが、この街も新旧入り乱れているようです。





2005年09月26日(月) 堺は広い

堺市長選挙2日目です。堺はとても広いです。日本で一番人口が多い一般市だけに、面積も相模原市のだいたい1.5倍くらいあります。

選挙事務所は市の真ん中にありますが、宿泊している候補者宅まで深夜でも30分以上かかります。

前回の投票率が34%ということもあり、市長選挙についての関心は正直低いと感じました。まあ1月の相模原市長選挙も33%なので、他市のことは言えませんが。

オール与党対共産党という、ありがちの構図と対決しているので、関心ある方々の注目は伝わってきます。

しかし低投票率であっても、10万票を争う選挙。浮動層に支持を頂かなくては当選できません。

とにかく例え薄く広くでも、できるだけ多くの方に接触するのが目標です。

与えられた役割は、候補者街宣車(他に団体車というのもまわせます)のカラス兼弁士です。駅立ちも始発から候補者と一緒にやってます。

昨日も書きましたが、出来るだけ多くのことを経験し、相模原に持ち帰れるよう頑張ります。


2005年09月25日(日) 一路堺へ

午後友人の結婚披露宴に出席した後、大阪の堺へ向かい、先ほど到着いたしました。目的は堺市長選挙に立候補している友人の支援です。

衆議院選挙もそうでしたが、ネット上での選挙運動は基本的に禁止されています。

既に期間中なので、候補者名などが記載できませんが、せっかくの機会なので日記で報告をしたいと思います。

候補者は明大雄弁部の後輩で、堺市議・大阪府議をつとめた後、今日から始まった市長選挙に挑戦しました。

今回の堺行きは、友人の支援とともに、もうひとつ別の目的があります。

それは来年4月に政令指定都市になることが内定している大都市で、果たしてどういう市長選挙が行われるのか見てみたかったのです。

「堺・熊本・岡山・相模原」とは日本の一般市で大きい順番です。私も相模原の説明をするときに、何度となく堺市の名前を使いました。

また相模原市行政も議会も、中核市指定や保健所設置などで堺市に研究に来ており、非常に身近な自治体といえます。

現職市長との対決、しかも政党相乗り状態です。日本の地方自治を歪めてきた“オール与党”体質への挑戦でもあります。

しかし変わってると思うのは、これだけ歴史のある街で、市長が過去旧自治省や大阪府の天下りだったことです。今の市長も同様です。

この部分は相模原市民としても、理解しがたい部分です。

とにかく多くの体験をし、相模原に持ち帰りたいと思います。


2005年09月24日(土) 忍と室井慎次と四月の雪

最近見た映画3本です。

」はイマイチでした。SFXもびっくりするほどではないし、主役2人のラブストーリーも深くありません。

仲間由紀恵とオダギリジョーの対決も、すんなり刺され過ぎた分、悲しさが伝わってきませんでした。

良かったところは、日本の風景と、最後に仲間由紀恵がある決断をするシーンです。

日本映画のひとつの限界に、2時間枠をなかなか越えられないことがあります。こういう大きな物語は、どうしても中身が希薄か、最後が中途半端になってしまいます。

大企業のみが制作費を負担するのではなく、一般視聴者が投資できるようになって欲しいものです。

容疑者室井慎次」は面白かったです。真下正義も見ましたが、こちらの方が上ですね。

‘踊る系’らしくないストーリーと、トーンの低さが良かったです。暗い映画が好きな私にピッタリでした。

ひとつ気になったのは、室井慎次が辞表を出したことです。真実を知るためとは言え、釈然としませんでした。結果元の木阿弥になりましたが、少し安易だった気がします。執念で組織にへばりついて欲しかったです。

四月の雪」は、進んで見たわけではありません。しかしはやっているには、それなりの理由があると思い、興味本位で足を運びました。

相変わらず映画館内はすいてましたが、客層がいつもと違います。ヨン様の中心的支持層である、中高年の女性が多かったです。やはりそうなのかと、感心しました。

元々ラブストーリーは余り見ません。感情移入がしにくいからです。(もちろん面白かった作品もありますが)

この作品も、正直人に勧める程ではありませんでした。

ただタイトルにもなった「雪」景色と、韓国の風習が垣間見れた点は、良かったと思います。

韓国の戦争映画などは、血を血と表現するとことが良い点です。しかしラブストーリーだからといって、必ずしも裸を出す必要はないと思いました。

亡国のイージスを越える、次の作品は何でしょうか。期待しています。


2005年09月23日(金) 構造改革特区の意義と欺瞞

ソレイユ橋本で行われた「構造改革特区」に関する勉強会に参加しました。主催はJC(青年会議所)です。経済産業省の若手官僚による講演で、とても勉強になりました。

閉塞した地域自治のあり方に風穴を空けるという意味において、非常に意義深い制度です。また逆説的ですが、この制度導入によって自治体の創意工夫を促したことも、地方自治の発展に役立っています。

一方で、この制度に隠された欺瞞を、今日も強く感じてしまいました。

「地域の自主性を阻害する規制を外す制度である。」これが政府のひとつの見解です。

全国数百箇所の特区を、是非皆さんもHPなどで見てみてください。今日の講演でも「どぶろく特区」や「自家用タクシー特区」が例に挙げられました。

しかし、これらの規制は、その地域だから問題なのでしょうか。逆に言えば果たして相模原市では、『どぶろく規制』や『自家用タクシー規制』が必要なのでしょうか。

否です。

元々そんな規制があること自体が問題なのです。

現場の官僚が苦肉の策として生み出した制度であるならば、その勇気と努力に敬意を表します。

しかし「構造改革特区」は小泉総理の目玉政策であります。それぞれの地域に法の不備を見つけさせるのではなく、まず政府自身が規制緩和に向けた点検を行うべきなのです。

ただ高度な政治的判断として、将来の規制緩和に向けての実態調査をしているのなら理解もできますが。

講演をされた私より若い官僚は、意欲的で素晴らしかったです。上に対してもガンガン意見して、地域の実態を政府の政策に反映してくれることを期待します。


2005年09月22日(木) 藤井裕久先生と 最終回

少し話が戻ります。自自公連立の瓦解と同じくして、小渕恵三総理が亡くなりました。後任の森喜郎内閣は様々な理由により支持率が低下し、あわせて自民党の信頼も失われていきました。

相変わらず民主党の支持率は一ケタでしたが、一方で自民党もついにここまでかと、新しい政治の流れが起こることに期待しました。

しかし森内閣が総辞職後、自民党は切り札として小泉純一郎氏を総理にしたのです。そのブームの‘凄さ’や、内閣支持率の高さは、まさに異常でした。

「このままでは二大政党は潰える。自民党の中身が何も変わっていない中、今民主党を潰すわけにはいかない。」

大上段に構えた決心ですが、一方で自分がやらなくてはいけないという使命感でもあったのです。

また、「政党に入らず無所属でいる人間が、果たして自民党の批判ができるのか。」という長年感じてきた思いも重なりました。

決断後、残念ながら地元で色々あり、結局松沢成文代議士(当時)にアポを取り、議員会館の事務所で決意を伝えました。松沢氏は入党の紹介者になることを了承し、その場で党神奈川県連に電話をしてくれました。

さて行動が先に立つのが悪い癖でもあります。民主党入りをするにあたって、藤井先生のまわりの方々に理解を求めることを怠りました。これは反省です。決して少なくない方々が、私の決断で迷惑を被ったと後で聞きました。

藤井先生に対しても、割り切れない申し訳なさが残りました。無所属なら可能だったことが、正式に他党の党員になれば出来なくなるからです。藤井事務所の信頼している地元秘書の方から、藤井先生に趣旨を伝えてもらいました。

藤井先生「そうか。まあしょうがないな。」と言われたそうです。(伝聞)

その後です。入党した民主党地元支部内において、藤井系だった私に対し冷たい言動もなかったわけではありません。しかし信念で入党したわけですから、雑音など気にもなりませんでした。

年が明け、民主党公認候補として県議選に立候補することを決めた私は、改めて藤井先生とお会いしました。これも信頼していた秘書の方が、段取りをして下さったのです。場所は相模大野のある喫茶店です。

寺崎「県議に立候補します。」
藤井先生「政党からかい?」
寺崎「そうです。民主党に公認申請したいと思います。」
藤井先生「無所属なら、色々やりやすいんだがな。」
寺崎「いえ、やはり民主党でやります。」

そして藤井先生は、はっきりと言いました。

藤井先生「まあ一緒にやる日もくるから、お互いそれまで頑張ろう。」
寺崎「二大政党は夢ですが、遠い話でしょうか。」
藤井先生「いや、ここ2、3年のうちだな。」

最後の部分については、正直その様になるとは考えませんでした。もちろん期待はしていましたが。

その後正式に民主党公認候補として県議選に挑戦し、平成15年4月に敗れるまで、藤井先生と藤井事務所そして後援会の一部の方々は、様々なカタチでアドバイスをして下さいました。

落選した後、次回を目指し活動を始めました。しかし4年という月日は、とても遠くに見えました。

夏になり、テレビを通じて民主党と自由党の合併を知りました。程なく以前お世話になった藤井事務所の方や、後援者の方からご連絡を頂きました。選挙の支援要請です。

浪人中ではありましたが、要請されるまでもなく自分の選挙のつもりで活動しました。結果藤井先生は5回目の当選を果たし、民主党も躍進しました。

そして有権者は口々に言いました。「二大政党の一翼を担う民主党」と。

この言葉をテレビや新聞で聞くたびに、自分のひとつの想いがかなったことに感動しました。そして次のステップは「政権交代」だと確信しました。この時期に現職でないことが、悔しくてなりませんでした。

今日現在、私は次期県議選の民主党公認候補予定者です。一年半後の選挙に向けて、この時期に公認候補を決定することは前例がありません。

党神奈川県連の方針もありましたが、藤井先生の多大なる後押しがなければ、私の公認はあり得なかったでしょう。

藤井先生が引退の直前に下さった、この公認を大切にし、一日も早く現役議員として発言の場を得ることが、ご期待に応えることに繋がると考えます。

長々と書いてまいりました。藤井先生も政界を引退されたとは言え、第三の人生を違ったカタチで歩まれて行かれるはずです。

何年前からでしょうか。藤井先生の演説や話は、若い人間に対して何かを教える教師のようでした。

「かつての戦争は政治の失敗だ。これを繰り返してはならない。」

この言葉を、私の政治信条の中心に据えて、これからも頑張ってまいります。

そして将来は、藤井先生からお世辞ではなく「良い政治家だ」と言われるようになってみせます。

平成17年(2005年)9月22日。藤井先生と出会ってから15年の月日が流れました。

もうすぐ34歳になります。


2005年09月21日(水) 藤井裕久先生と その七

大分長くなりました。今しばらくお付き合い下さい。

長友義樹氏が市長選挙に立候補することにより、市議会に欠員が出ました。その穴を埋める市議会補欠選挙が行われることになったのです。

同じく市長選には県議2名も立候補したので、県議会の補欠選挙も行われ、3つの選挙が同時に行われたのです。

私に市議補選の話がきたのは、市議会会派“市政クラブ”の有志からお誘いを受けてのことです。何故私だったのか聞くと、他にアテにしていた人から全て断られ、正直誰もいなかったからとのこと。

欠員の原因をつくった長友義樹氏の側にいたため、たまたま目にとまったようです。

告示まで一週間ばかりです。大規模な補欠選挙で当選できるかどうか推測すらできませんが、何もない私にとってチャンスであったことから即断しました。

選挙戦がはじまり、藤井先生も何度か応援に来て頂きました。しかし市長選挙がメインであり、県議補選には新進党推薦候補も出ていたため、主眼はあくまでそちらです。

藤井先生が新進党県連会長だったこともあり、私のところにも県内新進党議員が応援に来てくれました。私のことなど知らなかったのでしょうが、以前藤井先生の事務所にいた人間が、無所属ながら立候補しているらしいとの話を聞いたのでしょう。

大概の皆さんはお顔出しを頂くだけでしたが、以前から親交のあった松沢成文代議士(当時)は、秘書を派遣下さるなど本気で支援頂きました。私と松沢成文現知事との関係は、また別の機会に書いてみます。

平成9年1月26日。当選し、25歳4ヶ月で市議となりました。もちろん嬉しかったですが、実感をもてる程の運動も出来なかったですし、市長選挙に長友氏が敗れたことの悔しさの方が大きかったです。

その後は藤井先生を支援する市議のひとりとして、以前とは違ったおつきあいが始まったのです。

新進党籍は持っていたのですが、市議になって数ヶ月で新進党は解党し、いくつかの政党に分裂しました。藤井先生は自由党を選び、その幹事長に就任しましたが、私は無所属になる道を選びました。

秘書をしていた伊藤達也代議士や、お世話になっていた松沢成文代議士が別の政党を選択したこともありますが、私は新進党を安易な理由で解党した小沢一郎氏を支持できなかったのです。ましてやその路線に純化していくのは、二大政党制の実現とは違う方向だと考えました。

ただ藤井先生の支援は、当然のように続けました。このことに矛盾は感じませんでした。

平成11年4月、統一地方選挙がありました。私にとっては2年半で2度目の選挙がやってきたのです。

藤井事務所からは、自由党の推薦なり公認なりが必要ならば、相談するとのお話を頂きました。しかし上に書いた理由で丁重にお断りしました。しかし藤井先生と事務所の皆さんは、色々な場面で選挙を支援して下さいました。

再選後は藤井裕久後援会副幹事長の職も頂き、藤井グループの執行メンバーのひとりになりました。

この次期、小沢一郎氏は自民党との連立を模索し、自自公連立政権が誕生しました。自民党と連立するという“元も子もない”行動に腹が立ち、藤井先生に対しても、これは誤りだという話をさせて頂きました。思えば藤井先生に対して、ここまではっきり意見を言ったのは初めてでした。

藤井先生からは「過渡期だ。」「それでも信念はまげない。」「いつでも連立政権を離脱する。」とのお話でした。

そして衆議院選挙が近くなってきたのです。もし仮にこのまま自自公連立政権で総選挙になった場合、私がどういう行動をとったのかわかりません。

私は既に参議院選挙をはじめとする、各種選挙で民主党の支援を行っており、むしろ藤井先生の支援が例外という状況になっていました。

非自民であるならば、それが何党であろうと、私のなかに矛盾はありません。しかし自民党と連立を組んでいる以上、自分の信条に対するどんな言い訳も通用しません。

しかし私の都合で言えば、運がよかったのでしょう。衆議院定数の削減問題で、自由党は連立を離脱したのです。だからこそ全力で、藤井先生を当選させなければと決意しました。

この連立からの離脱は凄いことです。小選挙区制のなかで少数政党として戦うことは非常に困難であり、ここでも改めて藤井先生の信念に感じ入りました。

事実自由党議員はこの時数十名いましたが、小選挙区で当選したのは小沢王国岩手県の3人と、他藤井先生のみだったのです。

この選挙も基本的には、与党自民党と野党民主党の対決でした。埋没しがちな状況のなかで、市内での個人人気を強調した選挙を行いました。また自由党という政党が得ていた、世間での一定の評価も支援に繋がりました。

僅差でしたが、藤井先生は4選を果たしました。私の支援者には、この選挙で知り合った方が多数います。それぞれが役割を果たし得た、内容の良い選挙でした。

さて今日まで7回にわたり、藤井先生との大切な思い出を書いてきました。その多くは、親しい方にも余り話したことはありません。何故話さなかったのでしょうか。改めて考えてみました。

ひとつは、そもそも過去の話をするのが好きでないことがあります。若い(?)のに思い出話はどうかと思います。

ふたつには、政治家同士に親分子分関係はあってはならない、という私の考えにあります。過去の関係を見れば、一般的に子分ではないかと思われることに抵抗もありました。

みっつめは、これから書いていくことです。藤井先生が自由党、私が民主党という時期が少なからずあったことです。このことによって少なからず周辺の誤解を招いたこともありましたが、同時に言い訳する必要もないと考えていたのです。

平成13年(2001年)春、小泉純一郎総理が誕生したとき、私は民主党に入党することを決意したのです。当時29歳です。

続く。次回最終回。


2005年09月20日(火) 藤井裕久先生と その六

大学卒業後、4月と5月はふらふらしていました。これからどうするかを、遅まきながら考えていたのです。

将来政治家を目指すことは、当然決めていました。地盤も看板もない私が、今とるべき選択肢は何かを考えていたのです。

やはり直接政治の現場に入ろうと思い至ったのは、5月も最後に近づいた頃です。

早速、秘書を探している議員はいないか、知人を辿りました。

過日書いたF秘書は、この時別の代議士の秘書をされてましたが、かの小沢一郎氏を紹介して下さいました。

何と、内諾は既に得ているとのこと。しかし小沢氏の秘書は慣例として、世田谷私邸での書生業と地元岩手での業務が必須とのことでした。

もう一方別のA氏は、藤井事務所でやはり仕事ができないか最後まであたって下さいました。これもうまくはいきませんでしたが、今でも感謝しております。

さて、私が国会議員を選ぶ条件を決めなくては、紹介も頼めません。

1,非自民であること
2,自宅から通えること(我が儘に聞こえるかもしれませんが、自分が立候補するのは相模原と決めていたので、地元に何も無い分、相模原に住み続けていたかったのです。)

結果として、当時日本新党の一年生議員である伊藤達也氏と出会い、以後2年半にわたるプロとしての秘書生活が始まったのです。

私の考え方や選挙のやり方、演説の仕方などについては、この間伊藤達也氏から大きく影響を受けることになります。この部分は、この文章の本題ではないので省きますが。

その後藤井先生の所属する新生党や、民社党・日本新党・公明党などが合併して、「新進党」が誕生しました。二大政党に向けた初めての試みです。

藤井先生は、新進党神奈川県連会長として引き続き活躍をされ、その姿は東京に通っていた私も映っていました。

小選挙区制度が正式に施行されました。旧神奈川3区は5つの選挙区に分割されましたが、藤井先生は相模原市一市で構成される新神奈川14区を選ばれました。

藤井先生が選挙に強かったのは、湘南方面だった記憶があったので、嬉しい反面不思議でもありました。何故相模原市だったのか、いつかそんな話を聞ける時もあるのでしょうか。

時は過ぎ、平成8年です。総選挙が行われました。初めての小選挙区選挙です。藤井先生の対立候補は、最近相模原にやってきた自民党若手とのこと。心配はしましたが、難なく当選されました。

伊藤達也代議士も二度目の当選を果たしました。開票日の夜、調布の選挙事務所から相模原の藤井事務所に電話をしました。相手は、学生時代から一緒に藤井事務所で学生秘書をしていた長友克洋現市議です。

彼の親族である、これも現市議の長友義樹氏が、来年一月の相模原市長選挙に立候補することが決まっていました。総選挙の結果を受けて、その見通しについて話をしたのです。

秘書の雇用は選挙が区切りです。伊藤代議士からは公設秘書のお話も頂きましたが、ここで区切ならないと次期総選挙まで勤めなくてはなりません。

年齢も25歳になり、相模原に対する思いが日々強くなっていた頃です。住んではいたが、言わばそれだけ。相模原のことを余り知らない自分に、焦りも感じていました。

同じく長友候補の市長選挙を手伝っていた友人から誘いを受けたこともあり、この市長選挙をきっかけに「相模原デビュー」をしようと決めました。早速長友義樹候補予定者に会うと、お手伝いする余地はあるとのこと。伊藤代議士とも話し、11月一杯で退職することになりました。

長友候補の必勝を信じてましたが、その後の身の振りを具体的に考えていたわけではありません。他からは安易との指摘もありましたが、こういう時は‘惹かれる’というのでしょうか。何の不安もありませんでした。

さて12月1日から、相模原市長選挙の手伝いが始まりました。長友候補は新進党総支部の幹事長だったので、当然藤井先生とは接触があります。

大変ご無沙していたので、この時期藤井先生が、私のことをどれだけ認識していたかは定かではありません。

しかし想定外のことが起こり、私と藤井先生は一蓮托生、同じ道を歩むことになるのです。

市長選挙と同時に行われる相模原市議会補欠選挙に、市議会会派“市政クラブ”の有志議員の推薦を頂き、立候補することになったのです。

時に平成9年1月、告示まで1週間の時でした。年齢は25歳4ヶ月です。

続く


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