てらさき雄介の日記
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2005年09月19日(月) 藤井裕久先生と その五

細川連立政権が組閣される前日、秘書から電話がありました。当日は少し早めに出勤してほしいとのこと。

早く事務所に行くと、皆さんお揃いでそわそわしています。今日が組閣であることは知っていたので、その関連と察知はできました。

しばらくすると官邸から呼び出しがあり、藤井先生を乗せて私が運転することになりました。

607の議員室から駐車場がある地下二階まで、車を出すべくエレベーターで降りる時、重大(?)なことに気づきました。

選挙中に車をぶつけていたのです。場所は相模女子大正門前。鉄製のポールです。車の後部をぶつけ、テールランプとバンパーが破損状態です。運行に支障がないのでそのままにしていたのですが、首相官邸の車寄せに行くとなると困ったものです。

じたばたしても始まりません。知らん顔して運転し、議員会館を出発しました。走行距離数十メートル、官邸はすぐ隣です。首相官邸に入ったのはこれが初めてです。正門を入ると、前方によくテレビで見る車寄せが見えますが、記者で一杯になっています。

寺崎「どうしましょうか。」
先生「堂々と着けなさい。」

記者を割って、車を停めました。いささか藤井先生も、緊張していたように見えました。

藤井先生が任命されたのは、大蔵大臣でした。衆議院当選2回ですから大抜擢です。

さて運転の役割はここまでです。この官邸から出るときは、SP付きの公用車になります。

その後も政局は動き続け、自民党から日々離党者が出ていました。これで自民党も終わりだと、本気で言っている方々もいました。事実自民党本部への来客者も、みるみるうちに減っていました。

現在公明党すらも抱えながら必死に政権を維持しているのは、この時の侘びしさを、当時の執行部だった面々が記憶しているからでしょう。

時を同じくして藤井事務所の体制も変わりましたが、小間使い生活は続きます。せっかくの見聞を広める機会ですので、大蔵省などへの用事を進んで引き受けました。

大蔵省は建物がとても古く、大臣室もそんなに広くはありません。相模原市長の部屋を初めて見たとき、その広さに驚きましたが、同じ位の大きさです。

あくまで印象ですが、藤井先生自身が大蔵省出身ということもあり、役所内の統制はうまくいっていたようです。当時の事務次官が確か親しい後輩で、二人だけのときには呼び捨てにしていました。

大臣であっても、土日は公用車がつきません。公私の区別をしているわけですが、日本国大蔵大臣に対してせこい話だと思いました。

公用車がつかない時は、助手席にSP後ろに藤井先生を乗せて、私が運転します。前との車間を大きくとらないと、SPから注意されたりします。運転をもう少し丁寧にと、何度も言われました。

かれこれ時は過ぎていき、学生生活も残り僅かとなりました。最後の春休みは旅に行きたかったこともあり、12月末日、年内一杯で学生秘書にピリオドを打ちました。

大学卒業後も、藤井事務所での勤務を希望しましたが、諸般の事情でそれは適いませんでした。

私と藤井先生の関わりはここで一区切りを迎えることになりました。

平成6年(1994年)3月、大学卒業です。

続く


2005年09月18日(日) 閑話休題

連載は今日だけお休みです。

本日は支援者の方々に、ポスター貼りをして頂きました。暑い中、本当にありがとうございました。

顔と名前を覚えて頂くことが、政策を伝える第一歩であることは、十年弱の政治活動のなかで身に染みています。

さて前原誠司氏が、民主党新代表になりました。43歳の若い党首です。大いに期待したいと思います。

掲示板にも書きましたが、思い切った改革をするためにこそ選ばれたのですから、党内グループになど気を遣う必要はありません。

さて、藤井先生が引退された後の総支部についても、立て直しが急務です。

人事に関心はありませんが、政策面ではどんどんと意見を言ってまいります。

今までの人間関係中心のあり方を、政策中心の組織に変えていくことが、ひいては自民党との差別化を図ることにもつながります。

引き続き精力的に頑張ってまいります。皆様のご意見もお寄せください。


2005年09月17日(土) 藤井裕久先生と その四

かくして総選挙の火ぶたが切って落とされました。

藤井先生は新生党から立候補しました。他にも日本新党や新党さきがけなどが多くの候補者を擁立し、「新党ブーム」の選挙とも言われました。

しかし藤井先生はじめ、今まで自民党にいた候補者が、そこを飛び出したことによってどういう影響があるのか、推測することもまた困難でした

この選挙で私に課せられた任務は、藤井先生の運転手です。

当時はまだ中選挙区制度です。藤井先生が立候補した神奈川3区は、相模原・津久井・座間・大和・綾瀬・海老名・寒川・藤沢・茅ヶ崎で構成されてました。

それぞれの地区に事務所が設営され、それぞれに出陣式や事務所開きを行います。相模原市よりも選挙区が狭い現在と比較すると、かなり大変な作業でした。

この広大なエリア内を、毎日行き来するのです。そもそも車の運転が苦手なこともあり、とても大変でした。

ましてやスケジュールは分刻みです。遅れるものなら、現地に先回りしている秘書から「まだか、まだか。」の催促です。

さすがの藤井先生も、時として車で寝られたりもします。すると私にも睡魔が襲ってきて、あまり好きでない‘ユンケル系'を結構飲んだりしました。

当時藤井先生が演説などで主張していたのは、「ブームで新党をつくったのではない。長期政権は必ず腐敗する。自民党に変わる政党が必要なのだ。」

以来今日に至るまで、一貫して藤井先生が言い続けたことです。ポスターには「政権交代」の4文字が、既に入っていました。

今では少し陳腐に聞こえるときもある「政権交代」は、当時はまだ過激な表現でした。ポスター打ち合わせを端で聞きながら、私も少し衝撃を感じたものです。

思えば支援者や秘書の中には、自民党と敵対する選挙になったことについて、多くのとまどいがあったはずです。

一般の有権者の中にも、自民党を離党したからといって急に自民党を攻撃するのは不可思議だ、といった反応がなかった訳ではありません。

しかし先般の小泉旋風ではありませんが、大きな流れの前では、全てが些細なことになってしまいます。

この時は、藤井先生と多くの「新党」にとって風が有利に吹きました。

藤沢駅で街頭演説会をした時のことです。羽田孜新生党党首が応援演説に来ました。駅は数十分前から超満員です。しかも観客のなかにも熱気が溢れています。これほどの街頭演説会は、先にも後にも経験したことがありません。

一日の選挙運動が終わると、ご自宅に帰るまで運転をしますが、藤井先生は大概ワンカップを一本、車の中で飲まれます。帰り際に酒屋があると、候補者本人が行くわけにもいかないので、私が代わりに買いました。

最近藤井先生は焼酎ですが、当時は日本酒だったようです。

相模原市中央5丁目の一角に、プレハブを建てて選挙事務所にしていました。現在は大きなマンションが建っています。

この一度前の衆議院選挙では、藤井先生は定数4のうち最下位当選でしたが、「新党」に対する支持の多さもあり、定数5に増えた中のトップ当選を果たすことができました。

生まれて初めて選挙運動を経験し、大規模かつ大人数で行われることに圧倒され、将来自分に出来るのだろうか、とても不安になったものです。

選挙の結果、非自民勢力が過半数を占めました。共産党を除く各党各会派は、細川護煕を首班とする連立政権をつくったのです。

選挙が終わったら、藤井先生のお手伝いを少しの間休止するつもりでした。大学卒業に向けての単位獲得が厳しい状態だったことと、ゆっくり卒業後のことを考えたかったからです。

しかし藤井先生が大蔵大臣に任命されたことにより、再び面白くて止められない状態になったのです。

平成5年(1993年)7月。いまだ大学4年生です。

続く


2005年09月16日(金) 藤井裕久先生と その三

佐川急便事件により、改めて政治と金の問題がクローズアップされました。金丸信元自民党副総裁の金庫から金塊が出るに及び、国民の政治不信は頂点に達しました。

政治と金の問題がきっかけではありましたが、冷戦崩壊や経済成長の終焉など、社会背景の変化も要因であったのでしょう。

さて昨日も書いた、私の政治スタンスを決定付けた政変のきっかけは、自民党内の派閥抗争でした。

藤井先生が所属した竹下派が、会長金丸信氏の起訴・議員辞職を経て分裂したのです。自民党最大派閥である竹下派の分裂抗争は、後に多く語られたように凄まじいものだったそうです。

藤井先生をはじめ小沢一郎氏のまわりに集まったメンバーは、領袖に羽田孜氏を据えたことにより、‘改革’を冠する派閥「改革フォーラム21」を結成しました。

最終的に竹下派内の抗争に、藤井先生たちは負けたのですが、仮に勝利していたら、私は藤井先生とは違った道を歩んでいたのかもしれません。

自民党本流であった竹下派が、果たして‘改革’を名乗る資格があったのか議論はわかれます。しかし時代の要請も受けて、その行動は世論注視の的になったのです。

さて藤井先生ですが、折りに触れ、小沢一郎氏を支持していると話は伺っていました。この時藤井先生の序列は決して高くなく、政局の中であまり目立つ存在ではありませんでした。

しかし一面でこんなこともありました。「改革フォーラム21」結成準備の段階で、大分出身のH代議士を藤井先生の車で、私が運転して宿舎まで送ったことがありました。

H代議士「一体どうなるんでしょうかね。」

藤井先生「わかりませんが、ただ行くところまで行くしかないかもしれませんね。」

派閥抗争がはじまった初期であり、政治改革法案はいまだ審議中、自民党からの離党などは、いまだ語れていない段階です。

H代議士は藤井先生よりも当選回数の多い議員でしたが、藤井先生に聞いたのは、恐らく当時より小沢氏側近として様々な相談を、藤井先生は受けていたのでしょう。

政治改革法案の審議が暗唱に乗り上げるに連れ、世論は法案に賛成する「改革フォーラム21」に、自民党からの離党を求めるようになります。

今思えば、メンバーは最後まで離党には慎重でありました。藤井先生をはじめとする一部を除いては、まさか本当に小沢氏などが離党に踏み切るとは思っていなかったようです。

法案否決後、宮沢内閣不信任案の採決が行われることになり、「改革フォーラム21」のメンバーは賛成する意向を固めました。

藤井先生は自分の行動を、余り人に語りません。時々随行した地元の会でも、政局絡みの話はしませんでした。地元支援者の皆さまは、ある意味物足りなかったかもしれません。

議員は本会議前に待機所を使います。通常は政党毎に割り振られる控室ですが、反逆することを決めた面々が、自民党控室を使えるわけもありません。結果藤井先生が就任していた大蔵委員長の、委員長室を使うことになりました。

議員会館の地下1階にあるこの部屋は、議員でも行く機会が少なく、案内係が必要ということで、私が部屋の前に立ちました。

しかしそれぞれ議員室もあったことから、あまり人数は来ずに、岡田克也氏をはじめ4〜5人をご案内し、事務員と一緒にお茶を出したの覚えています。

議員が本会議場に入った後、藤井先生の607号室に戻り、皆んなでテレビを見ました。

予想されていたよりも多くの議員が不信任案に賛成し、その中にはいわゆる‘守旧派'らしき人も含まれてました。山口敏夫氏が賛成票を入れるのを見たとき、「ああこの人もか。崩れる時はこんなものか。」そうはっきり思ったものです。

その後の対応としては、会長である羽田氏に離党届けを預け、一任となりました。しかしこの時点でもまだ、自民党離党の決断を全体でしていた訳ではありません。

私は自民党政治からの決別を、藤井先生に求めたかったですが、口を出せるはずもなく、強く心のなかで祈っていました。

そしてついに藤井先生はじめ、衆議院36名・参議院8名は、自民党を離党し「新生党」を結成したのです。

権力の側にいた者が、それを捨てて行動したのです。過去においても余り例のない、政治家の大いなる決断を目の当たりにし感動しました。

気がつけば、この歴史的瞬間に立ち会えることが嬉しく、ほぼ毎日議員会館に通うようになっていました。

自民党離党が決まった日、藤井先生が地元後援会長にする電話を取り次ぎました。

藤井先生「いやあ、ご覧の通りの状況になりました。引き続きよろしくお願いします。」

非自民党という選択肢があり得ることを、初めて実感しました。二大政党にいまだ考えは至っていませんでしたが、新しい政治勢力の一端に身をおけることが嬉しくてなりませんでした。

不信任案が可決されたことにより、宮沢総理は衆議院を解散しました。そして総選挙です。

これが私にとって初めての選挙運動です。学校も前期試験中でしたが、そんなことは気にもしませんでした。

平成5年(1993年)6月。いまだ大学4年生です。

続く


2005年09月15日(木) 藤井裕久先生と その二

学生ながら藤井先生の議員会館事務所に、週2〜3日出入りすることになりました。

不定期な出勤ながら、いくばくかの賃金(小遣い)と交通費を出して頂きました。

さて仕事ですが、もちろん大したことはできません。主にしたのが、自民党本部で毎朝開催される「部会」への代理出席です。

もちろん学生の私が代理で行ったところで役に立ちませんが、藤井先生の名刺を置いて資料をもらってくるのが仕事です。多いときはいくつも同時開催で、まわって資料のみ回収してきました。

会議の印象は、国会議員のみ朝食をガツガツ食べていたこと。政治家同士の議論はなく、官僚の説明に対する質疑のみであったことです。

議員会館の事務所は、国会議員のオフィスとしては狭く、3人の秘書と事務員1人、そして私がいると窮屈でした。と言っても一番邪魔だったのは私ですが。

学生時代は、夏春休みの度に海外へ旅に行きました。その都度事務所から餞別(表現?)を頂き、貧乏な私には貴重な資金でした。

その他F秘書は、将来政治を目指す私に気を遣って、多くのためになる機会をあえて与えてくださいました。今でも役にたつ経験ができたと感謝しております。

自民党竹下派に所属していた藤井先生の部屋には、竹下登氏の写真が飾ってあり、当時はどの派閥もこうした習慣があったようです。

各議員の支援者向けの研修会や、秘書会などの宿泊を伴う会にも参加ができました。正直馴染めませんでしたが、色々な方々と接する機会を頂きました。

さて、学校に行きながら一年・二年とたっていき、藤井先生の運転をすることが多くなってきました。当時車はセドリックです。運転の下手な私が、よく都内をウロウロできたと、今思えば空恐ろしいです。

最近でも都内に車で行くと、意外に道を知っているのは、ほとんどこの時の経験によります。

藤井先生はとても忙しく行動され、待機している車が発見できないと、自分で電車に乗って行ってしまいます。その都度ブルーになりながら、それでも何回か同じミスをしてしまいました。

そのうち車で待つのではなく、会場出口で待って先生を発見するようにしたものです。

さて冒頭にも書いたとおり、永田町での経験の日々は、あくまで週に2〜3日です。いわゆる‘書生’的な姿ではなく、都合の良い部分だけつまみ食いしていたのです。まあ学生だから、それも致し方ないと自分で割り切りながら。

大学三年生も半ばを過ぎる頃には、政治家を目指すという将来について具体的に考えるようになりました。

藤井先生と事務所の皆さんに大変お世話になりながらも、大きな意味での自民党政治に疑問を強く持つようになりました。特定のきっかけがあったわけではありませんが、段々と不満と疑問が積もってきたのです。

現実この間あった各種選挙では、自民党の公認・推薦候補に投票したことはありません。(もちろん藤井先生の選挙があれば投票するつもりでした。しかし結局自民党で藤井先生が選挙を迎えることはありませんでした。)

しかし55年体制の当時は、自民党以外の政党をイメージする状況でもなかったのです。

大学四年生になり、友人たちが就職活動を始めました。事務所の先輩方も、一度民間に就職した方が良いのではと、本気で心配してくれました。

今後どうしたものか考えている内に、今に至る私の政治スタンスを決める、政変がやってきたのです。

時に平成5年(1993年)3月、21歳の時です。

続く


2005年09月14日(水) 藤井裕久先生と その一

過去この日記では、「藤井先生」という呼び方はしませんでした。議員を先生と呼ぶことへの違和感が、私にも「藤井先生」本人にもあったからです。

しかし昨日の引退表明を受けて、今後は文字通り敬意を込めて「藤井先生」と言います。

今日選対解散式がありました。その中で藤井先生から、議員生活に終止符を打つ旨のお気持ちが述べられました。

政治家を辞めるわけではなく、あくまで国会議員生活からの引退であります。

今月一杯で、相模原事務所も閉めるとのこと。寂しい気持ちで一杯です。改めて過去における藤井先生との思い出を邂逅してみます。

その多くは、今まで余り人に話したことがありません。しかし私自身の新たな出発のため、あえて記していきます。


【藤井裕久先生と〜引退表明を受けて】

明治大学に入った私は政治をより研究すべく、直接政治家の事務所と知り合いになりたいと考えました。

相談したのは、当時自民党代議士の学生秘書をされていた、現秋田県議会議員の大関衛先輩です。雄弁部の二学年先輩でした。

すると縁があったのでしょうか。丁度私と入れ替わりで大学を卒業し、社会人になったH先輩が、相模原市から新しく衆議院議員になられた藤井先生の選挙を手伝っていたとのこと。

早速紹介を頼むと、数日のうちに藤井先生と会える段取りをして下さいました。

衆議院議員会館という所に生まれて初めて行き、第一秘書のFさんに会うと、学校に行きながらでも事務所を手伝ってみないかとのお話です。

正直そこまでの気持ちはなかったのですが、即答で「よろしくお願いします。」と答えたのが、今思えば私らしいです。

数分後に議員室でF秘書から、藤井先生を紹介して頂きました。確かF秘書が藤井先生に私を紹介した口上は、「今後事務所に出入りする学生の寺崎君です。政治志望です。」

すると「そうかい。それはいいことだ。いいことだ。頑張りなさい。いい顔をしてるね。」

初めての藤井先生からの言葉です。後段の“いい顔”はお世辞だったかもしれませんが、若い人が政治を考えていることに率直に賛意を示して頂けたのが印象的でした。

その後F秘書と地下二階の喫茶室に行き、だいたいの業務内容を聞きました。余り意味はわかりませんでしたが、とてもワクワクしたのを覚えています。

数日後に初出勤すると、「衆議院議員藤井裕久事務所 寺崎雄介」の名刺が出来上がっていました。こんな大層なものを、果たして一学生が持っていいのかと思いましたが、ありがたく頂きました。

平成2年(1990年)四月。当時大学一年生。今から十五年前のことです。

続く


2005年09月13日(火) 第2回福祉コミュニティ委員会

正式には「福祉コミュニティ形成モデル地区事業推進委員会」です。所属するNPO法人さがみはら市民会議から出向しています。

相模原市社会福祉協議会が設置した委員会で、目的はその名のとおり‘福祉コミュニティ’形成を推進するためにモデル地区を設定することです。

他の委員は福祉の専門家ばかり。なぜ市民会議に依頼が来たのかは不明ですが、自分の勉強も兼ねての参加です。

冒頭、社協事務局より、18公民館区別の施設数や事業内容などの説明がありました。

政治家根性でどうしても発言したくなり、早速挙手し発言しました。

「それぞれの数値は理解したが、それぞれ地区毎のコミュニティの形成度合いがどの段階であるか評価しているのか。あるいはその評価を含めて、この委員会で考えるのか。」

「いきなり集まった委員会で、それぞれの全体としての評価などできるはずはない。ある視点に絞って、その点でのみの段階評価をすべき。」

次回に向けて、より詳細な資料が出されることになりました。


2005年09月12日(月) 戦いは休むわけにはいかない

この選挙区での敗退について、いまだ事実を受け止めきれていません。しかし私に多くの支援者がいて下さる以上、自分自身の歩みを止めることは一時も出来ません。

今日は後援会役員会を開催していただき、総選挙でのお詫びと、今度の活動について再確認を致しました。

この劣勢を跳ね返すのは、強固な意志と信念しかありません。

健全な議会制民主主義は、政権の基軸となる政党が二つ以上なくては成り立ちません。これが私の信念です。

そしてそのために、人生をかけて、次期県政に邁進することが意思であります。

大切な方の落選に、大いなる動揺を抱いていますが、冒頭でも書いたとおり一瞬たりとも立ち止まることは許されないのです。

相模原市民の皆様、そして日本国民の皆様の、引き続きのご支援を心よりお願い申し上げます。


2005年09月11日(日) この現実に朦朧としてます

投票箱が閉まったら、色々な書こうと思ってました。

しかし今開票状況を見ながら、この厳しい現実の前に朦朧としています。

県議選で落選した当日も、頭は醒めていながら夢を見ているような感覚でした。

明日になれば、この現実を直視することができるのでしょうか。

藤井裕久党代表代行を落としてしまったことについて、相模原市民と日本国民に対して、本当に申し訳なく思います。涙も出ないくらい悲しい思いで一杯です。

二大政党への試みは、これで潰えるのでしょうか。

いや志ある限り、挑戦は継続すると信じます。今はこれが精一杯です。


2005年09月10日(土) 投票率の向上を

明日に投票日を控えて、今はただ支援した候補の当選と、あわせて高い投票率が実現することを願っています。

少なくとも過去数回の選挙は、投票率が下がり続け、このままではどうなってしまうのか不安に感じています。

小泉劇場と、総理の公約の立て方に、多くの有権者の関心が集まっていると言われています。

投票率の向上は、民主主義社会の政治家にとっては、共通の願いです。


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