てらさき雄介の日記
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2004年09月05日(日) “広域”行政こそ県の役割

相模原市が毎年神奈川県に要望書を出します。相模原市内のまちづくりで、県の担当になっていることについてです。

その中身を見ると、本来県が担うべきなのか疑問なものが含まれています。現職県議の話を聞くと、それは市議の仕事では?と思うものばかりです。

県の役割はあくまで“広域”行政です。それができる体制をつくることが、まず県政に必要な改革です。

松沢知事の首都圏連合も、国の一部で言われている道州制も、なかなか具体的になりません。

そもそも上から地方分権の議論をするのが間違いなのです。地方自治とは、住民自治であります。足元からの議論で県政と国政を動かしていかなくてはなりません。





2004年09月04日(土) 街頭何でも相談会

既にお馴染み?の町田・相模原若手議員の街頭何でも相談会を開催しました。場所は町田駅です。

参加者は相模原市:長友克洋市議、小池義和市議 町田市:友井和彦市議、新井克尚市議、若林章喜市議です。

遅れて参加したため二度しかマイクを持ちませんでしたが、相模原市外で街頭演説する機会は貴重です。

以前聞いた話しですが、町田のある市議は行政視察で他都市に行くと、その近くの駅で街頭演説をするとか。狭い縄張り根性が旺盛なこの世界では、とても大胆なことです。

日中の街頭演説はどこか穏やかな雰囲気です。いわゆる朝立ちは通る市民の方も急いでいるため、こちらも何か焦ってしまいますが。

この町田市議との勉強会は、互いの日々の交流も含めて、とても有意義です。今後も混ぜていただける限り参加していきたいと思います。


2004年09月03日(金) 吉田松陰のことば

ある政治家の得意カラオケは「吉田松陰」です。唄う資格があるかは別にして、歌詞に聞き入っていました。

松下村塾の門下生は吉田松陰をも超えて、結果既存の価値観では計り知れない社会をつくっていきます。

その松蔭を書いた本は幾多ありますが、彼の残した「時代を変えるのは狂気である」ということばは胸に響きます。

松蔭の教えを一番実践したと言われる高杉晋作は、長州を取り囲む十万の兵と時の長州体制派を相手にして、わずか数十人で決起しました。功山寺挙兵です。ここを転機に明治維新ははじまります。

歴史を動かした人には、常に冷徹な計算があると言いますが、この件は資料を見ても“狂気”の沙汰です。

私は狂える性格ではありません。(あくまで自評です)

しかしその役割を担う人間がなければ時代は回転しません。改革ではなく、もはや革命をしなければなりません。



2004年09月02日(木) テロでも色々あります

テロは等しく憎むものでしょうが、その内容でやはり違いはあります。

政治家や社会の中での責任者を狙うテロと、一般市民を対象としたテロは区別されるべきです。理屈だけでなく、心情としてもそうです。

不詳寺崎のような末端の人間でも、政治をやっている以上は刺される覚悟は常に持っています。何故なら政治は戦いだからです。人の命を奪っていく当事者だからです。

さて、今回のロシア連邦北オセチア共和国での、学校占拠のテロは許されません。

深く考え追い詰められた結果でしょうが、この種の行動は人類そのものの嫌悪をよぶという認識をもつべきです。

腹立たしい限りです。テロについてはどの政府も厳しい態度で臨むべきでしょうが、子どもが人質ならば妥協しても文句は言えません。

こんな意見は政治家失格でしょうか。




2004年09月01日(水) 中田宏横浜市長の講演

よく比較をされる松沢県知事と中田横浜市長ですが、私はつきあいがあるかどうかだけではなく、今でも松沢知事を評価しています。

しかし今日連合神奈川議員団セミナーで中田市長の講演を聞き、その手腕については見事というしかありません。

この会の主催者であった労働組合と自分との関係、市長選挙のこと、横浜市の行政改革、日産自動車のみなとみらいへの誘致などについて、自分の考え方とはっきり言いながら説得力がありました。

また中田氏の市長選挙の出陣式の演説は感動しました。比較的斜めに見がちな私でも、心底感動したのは「民主主義と横浜の最大の敵は惰性である」のフレーズです。

否定されるかもしれませんが、私は環境に慣れやすいところがあります。これを律することが必要と改めて思いました。


2004年08月31日(火) 岡田代表の再選について〜思い出そのニ〜

昨日のつづきです。

二つめの思い出は大学卒業後に政治の世界にプロとして入り、伊藤達也代議士(現内閣府副大臣)の秘書をしていた時のことです。伊藤代議士と岡田氏は、ともに新進党の若手であり当選回数も近いことから親しくしていました。

伊藤代議士が予算委員会で質問することになり、私も聴きに委員会室に行きました。当時新進党の同僚であった岡田克也代議士も委員で部屋にいましたが、何と委員会中に新聞を読んでいます。

委員会終了後にそのことを伊藤代議士に話すと、「あの人は達観しているからな」とのこと。

昨日も書きましたが、以後も岡田代表のことは気になっていました。ある日伊藤代議士と無礼講で酒を飲んでいるときに、岡田氏の話になりました。

当時の新進党は二大政党を目指して発足したわけですが、なかなか党内がまとまらず、結果よくわからない理由で解散しました。聞くところによると、岡田氏も当時の新進党には嫌気がさし、何のために自民党を離党したのかと不満を多く口にしていたそうです。

だからこそ本当の二大政党を模索していけると思います。

今回の党首選挙で藤井裕久幹事長をはじめ、いわゆる小沢グループが推薦人になっていないことは残念でした。

それも含めて、今は一致結束すべきです。


2004年08月30日(月) 岡田代表の再選について〜思い出その一〜

二年に一度の民主党代表選挙が告示され、岡田克也氏のみの立候補で当選が決まりました。

選挙で負ければ辞任だし、勝てれば続投。これは当然のことであり、今回の結果についても良かったと思います。

岡田克也氏の思い出はふたつあります。先に言っておきますが、ともに大した話しではありませんが。

学生時代に、藤井裕久代議士の議員会館事務所を手伝っているときのことです。宮沢内閣不信任案が採決される日のこと。

その日不信任案に賛成することを決めていた、当時の羽田派と呼ばれる面々は離党を決めていたため、自民党控室を使えませんでした。

結果待機所になったのが、藤井裕久代議士が就任していた大蔵委員長室でした。議員の皆さんが場所がわからないと困るということで、委員長室の前で「こちらです」と案内をしていたのが私です。

当時衆議院一期生だった岡田氏は、丁寧な物腰で「この部屋ですか?」と一言。これが思い出です。

当時は今と違い若手の代議士は少なかったので、ある意味の異彩を感じました。

そんなこともあり親近感も感じますし、何よりもあの真摯な姿勢は好きです。今だから言うわけではありませんが、以前からあの人が代表になって欲しいとも思っていました。

長くなったので、もうひとつの思い出は明日に。


2004年08月29日(日) 青年会議所例会を城山で開催しました

青年会議所の例会を城山で開催しました。今後の津久井郡との連携を考えてのことです。

川尻小学校が会場でしたが、体育館にはってる校歌は、相模原のものとは違う風景や地名が歌詞のなかにありました。

猛スピードで行政同士の事業の一本化作業が行われているなかで、住民同士のゆっくりとした交流も進めていくべきです。

当日参加した相模原市民のなかには、初めて城山町に来たという家族がいたことも忘れてはなりません。


2004年08月28日(土) 選挙の意味も変わってます

行政が市民の意見を聞くことをもって、ある議員が「自分たちが市民の代表なのだから、地域をまわって市民の意見を聞くのは議会軽視だ」と堂々を言ったのを聞いたことがあります。よくわからない理屈ですが、以外と市民の代表(?)である議員には、この発想が多くあります。

市長もそうです。市民の意見をしっかり聞いているのかと問うと、最終的には「選挙で当選してるから」ときます。

一面では真実ですが、時代の趨勢をみていないともいえます。かつての十年一昔は、いまや一年一昔です。しかも市長や議員の任期の四年間という長さは、過去と未来とも言うべき長い期間です。

選挙をすれば民主主義だと言い切れる時代は終わりました。選挙と選挙の合間にこそ、いかに民意を反映していけるのかが問われます。




2004年08月27日(金) 参議院選挙打ち上げ

参議院選挙の報告会を市民会館で行いました。藤井幹事長立会いのもとで、飲食をしながらの和やかな会です。

民主党が目指すべきは、あくまで「改革」です。既存の政治とは違う姿を目指すことです。

無責任かもしれませんが、それが具体的に何であるのか、私も全て考えがあるわけではありません。

しかし少なくとも「改革」を志向する以上、現実に妥協しない精神は持つべきです。その精神が失われたら、民主党など存在価値はありません。


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