てらさき雄介の日記
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2004年06月15日(火) とにかく高い投票率を

24日に参議院選挙が告示され、いよいよ選挙期間となります。有権者の関心は率直に言って薄いですが、できるだけ争点を明確にし、高い投票率を実現したいと思います。

相模原の浅尾慶一郎の選対幹事長として、党支部としてすべきことの最終確認と、地元の浅尾支援の労組の方との最終打ちあわせをいたしました。

政策を訴えるビラを配るのも、演説会をするのも、全て人手がいるのは事実です。

自分の選挙の時は多くの支援者の皆さんがやってくださっていることを、今回のような他の選挙をお手伝いすることによって、自分自身で体験できることは勉強になります。

投票率が低い方が有利になる政党の一部では、有権者が高い関心を示すことを警戒する風潮もありますが、言語道断です。

とにかく、神奈川県内で相模原市が一番高い投票率となることが大切です。民主党と浅尾慶一郎の勝利を目指すことは無論ですが、それ以上に民主主義そのものが問われる選挙だと思います。

皆さん投票に行ってください!


2004年06月14日(月) 愛する相模原だからこそ、こんな雰囲気は嫌いです

私は今浪人中です。正直言って、相模原市政についても神奈川県政についても、あるいは民主党の運営についても何の発言権もありません。現職優先の政治の世界ではやむを得ないことと思い、悔しさを次期の糧にしています。

しかしそんな非力な私に対して、多くのパッシングがあります。最近は特にひどいです。市議時代よりも多いくらいです。もともとこういったことには鈍感である私ですが、最近は少し頭にきています。

私はあらゆる議論を拒みません。政治家である以上批判もお受けいたします。ひとつひとつに冷静に、真摯に応えていくつもりです。

何か言いたいことがある方は、直接私に言いましょう!

しかし、そんな私を心配くださっている皆さまには、本当に感謝しております。とてもありがたいです。一日もはやく県議としてご恩返し(=政治の変革=そのような相模原の風土の変革)できるよう頑張ってまいります。お見捨てなく引き続きよろしくお願い申し上げます。

自分のスタイルを変えるときは政治を辞める時と決めていますので、基本線の変更はありえませんが、理想実現のためにより注意深くあることも学ばなくてはと最近考えはじめています。


2004年06月13日(日) 市行政の隠蔽体質は残念

昨日の新聞に、ある市政に関する問題が掲載されました。以前から多くの場所で囁かれていたことですが、改めて残念です。

行政のミスで税法上の不利益を被った方への、補填(賠償)を助役以下役所幹部が自費で行ったことです。

問題その1、
行政を人間が運営する以上、ミスはいつでもどんなときでもありえます。その補填を個人の自費でする必要がありません。

問題その2、
百歩譲って自費が認められるなら、何故最高責任者である市長は払ってないのでしょうか。公職選挙法上の寄付行為にあたる云々は言い訳にも聞こえません。

問題その3、→これが最大の問題です。
今回の事件は、明らかに賠償問題です。市が受ける賠償は議会に報告し、審議し、費用については議会の議決により市費から支出されるルールです。小泉総理の答弁でも感じますが、地方自治も少し乱暴になっている証です。もっと丁寧に議会にかけるべきでした。

上にも書きましたが、ミスはあり得ます。個人の責任のみに転嫁するのは、組織として問題です。

「血税を使えなかった」ということを言っていますが、これは第二の理由です。第一の理由は「事件を明らかにしたくなかった」ことです。この隠蔽体質を変えられるのは、行政自身ではなく政治だという認識を改めて持つべきです。


2004年06月12日(土) 今日はたくさん会に出ました

今日はたくさん会に出て、それぞれ印象的だったので全て書きます。

最初はNPO法人「相模原市民会議」のバーベキューです。市民活動サポートセンターの運営を受注している団体です。すっかり準備ができた後に参加して申し訳ない限りですが、うち何人かの皆さんは、午前中に隣で田植えをしたようです。相模原市政のなかで、あまり脚光を浴びてこなかったこういった層の皆さんこそ、次の市政を切り開く原動力であると改めて思いました。

次は母校である、明大中野八王子高校の卒業生の会「戸富貴会」の総会です。八王子市のサマーランドのそばにある校舎で、年に一度開催されます。改めて会長に選出されましたが、今までは学校と私の独断でやっていた運営も、幹事の選出などでようやく新しい展望が開けてきたことは嬉しい限りです。学校の制服が今年から変わったそうですが。懐かしい時間でした。

夕刻よりは、民主党14支部政策調査会(委員長長友克洋市議)主催のふじい裕久国政報告会です。質疑応答などもあり良い会でした。イラクや年金問題など藤井代議士の話を聞くたびに、私の考えるあるべき民主党の政策と同じで、非常に嬉しく思います。「改革」という言葉が風化した現在だからこそ、その中身を具体的に議論する時期です。現職の地方議員の皆さんとも積極的に話し合いをしていかなくてはと思います。

その後は異業種交流会「八社会」の例会です。お仲間に加えていただいてはや5年が過ぎましたが、欠席したのは数回のみでほとんど出席しています。市内の中小企業の経営者の皆さんの会です。ざっくばらんに多くのお話しや指摘をいただき、いつも楽しく参加しております。現職でないため、生の県政の情報をお伝えできないことが残念でなりませんが、いずれご恩返しできればと思います。

更にその後は、市民団体「相模原地域大学」理事の皆さんとの会食です。先ほどの藤井裕久国政報告会にも、多くご参加いただいた流れです。この会は2ヶ月に一度市内の有志により、様々なテーマでの勉強会をしている団体です。何度か参加いたしましたが、中高年の方が熱心に講師の話を聞いている姿を見るたびに、若い人間ももっと頑張らなくてはと思います。

以上です。

私は会のかけもちが余り好きではありません。市議時代も同時刻に複数重なった時は、両方中途半端になるよりはと、一方を断ったことも多々ありました。これはポリシーと言うほどのものでなく時と場合によりますが、基本的にはこの行動様式は今でも変わっていません。


2004年06月11日(金) 神奈川16区と14区

民主党神奈川16区代表の長田英知氏と、久しぶりに会いました。

前回総選挙では亀井農水大臣に惜敗いたしましたが、次期衆議院を目指して活動中です。

相模原市も一部が16区であります。また今日も話題になりましたが、津久井との合併が実現すれば、そちらも16区です。16区に挟まれた14区という、変なカタチになります。

ひとつの自治体が衆議院の選挙区で分割されていることを問題とする意見もありますが、衆議院議員は地域代表ではないので、基本的には人口割りで良いと思います。むしろ一票の格差こそ問題にすべきです。

現在は国会議員でも、私より若い方が多数います。長田英知氏の今後に期待するとともに、同じ若手として頑張ってまいります。




2004年06月10日(木) 藤井裕久民主党幹事長就任祝い

藤井裕久民主党幹事長就任祝いに出席しました。地元の後援者の有志で開催されたものです。

政治家が役職に就くことが、果たしてお祝いをすべきことなのかどうか。自分自身市議選に当選した際に「おめでとう」と言われて感じた違和感が、今回も頭をよぎりました。

しかし一方で、藤井裕久代議士が幹事長に就任したときは本当に嬉しかったです。支援者としての率直な思いです。

かつて私に同じことを言ってくださった方の気持ちが、ある面で理解できました。そして次期こそはと改めて決意いたしました。


2004年06月09日(水) 小田急線にハングル

駅のホームには、その駅名を書いた看板が出ています。次の駅と前の駅が書いてある、あれです。

小田急線のその看板に、ハングルの表示があることに気付きました。英語は前から入っていました。中国語はないのかと一瞬思いましたが、そういえば日本語表記がそもそも漢字でした。

ハングルが入ったのはいつからだろうと考えました。ワールドカップからだろうか。それとも最近か。あるいはずっと前からか。

もちろん文句があるわけではありません。大歓迎です。SMAP草薙君のチョナンカンもそうですが、最近朝鮮半島(といってもほとんど韓国ですが)と身近になる試みがされていることは、嬉しい限りです。

国家同士では、解決しなければならない課題が多くあります。しかし国民の意思と行動が、全て国家に準する必要もありません。

「隣同士の国で仲の良い国はない」と言われる悲しい世界の現実ですが、それを変えていきたいです。


2004年06月08日(火) 参議院選挙の会議で横浜に行きました

今日は月に一度の党支部幹事会の日ですが、浅尾慶一郎の参議院選挙会議があったため、中途で横浜へ行きました。

もらった地図ではわからずに、迷ったり、車を停められなかったりしているうちに遅刻をしてしまいました。

会議は、いよいよ本番という雰囲気で、相模原では正直感じられない緊迫感の溢れるものでした。

しかし横浜は遠いですね。いつかこの日記で、県庁より都庁へ行く方が感覚的に近いと書きましたが、横浜へ行くたびに実感いたします。

生活圏と都道府県の境界がずれている証拠だと思います。神奈川が本当の広域行政ができるようにするためには、抜本的な枠組みの変更が必要です。それは結果的に、神奈川「県」を失わせることかもしれませんが。


2004年06月07日(月) 日本人は宣言文が苦手

日本人はスローガンや宣言文などが苦手だと思います。元々そういう文化が少なかった面もあります。

そんな中で、私はふたつ名宣言文を知っています。

ひとつは水平社宣言です。これについては非常に深いので機会を改めます。

そしてもうひとつは、私が所属している日本青年会議所の宣言文です。今のものではなく、1990年代に使われていたものです。

変革の能動者たらんとする青年として、
個人の真に豊かな生活の実現を通じて、
自立した活力ある地域を創造し、
自由と公正を保証する国家を基盤として、
世界の平和と繁栄に貢献し、
地球上の全ての人とともに生きることを誓う。

この文が画期的であるのは、最初の段落で「青年」とは何かの定義があることです。「変革の能動者たらんとする」者こそ青年であるし、青年はそうなければならないというものです。

何故こんなことを書いたかというと、私の新しいキャッチフレーズを色々考えたのですが、なかなか思いつきませんでした。ひとことで思いを表現することは難しいものです。そこでこの文を思い出しました。

結果新しいキャッチは「変革の能動者」にいたしました。これが記載されたものが出回り、皆さまの目に入った時は、こういう経緯があるのだと思い出していただければ幸いです。


2004年06月06日(日) レーガン大統領の思い出

レーガン元アメリカ大統領が亡くなりました。心より哀悼の意を表します。

レーガン氏との思い出といっても、当然会ったことがあるわけではありません。テレビを通じての「思い出」です。

私が政治を志した時のアメリカ大統領は、レーガン氏でした。当時世界の注目が(かくいう私も)ソ連のゴルバチョフ氏に向かうなかで、いくつかのことをはっきり記憶しています。

レーガン氏は共和党の中でも「強いアメリカ」を標榜し、対外干渉を辞さない強硬な外交政策をとっていました。そのレーガン氏でさえ、中距離核ミサイルの全廃をはじめとする、大規模な核軍縮を行いました。当時の世界の潮流を見て、近い将来は核のない世の中が本当に来るのかもしれないと思ったものです。残念ながらそれは夢でしたが。

冷戦時代と現在を比較して、以前の方が良かったという意見もありますが、そうは思いません。新たな秩序がつくられるとき、必ずおこる混乱が今であります。その中で、大国のみが主導するのではない新たな国際秩序をつくっていかなくてはなりません。


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