思い出に変わるまで
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2006年04月28日(金) 葬儀

昨日の通夜の席でも不備は所々目立った。
仕出屋の弁当が大量に余る。
一般参列者に対してお饅頭とお茶が振舞われるのだが、誰もお茶だしする人がいない。
長男が近隣の方が手伝うと申し出てくれたのに断わったからだ。
見かねて私や弟の嫁がお茶を出したのですが、とにかく手際が悪い。

明方に一時帰宅した両親が仮眠を取り、たまたまタメに早く起こされて台所に立った私とハチあわせした。
そこで初めて父が声を上げて泣く姿を見た。

情けない
あんなやり方でしか祖母を見送ってあげられないのが情けない
女手一つで苦労しながら育て上げてくれたかぁちゃんを目標にオレも今まで頑張ってきた。
恩を考えると豪華じゃなくても心のこもった式をしてあげたかった。
長男を差し置いてでも自分が指揮をとりたかった。
長男をぶんなぐってやりたかったけどみんなが居る場では出来なかった。
悔しくて悔しくてたまらない。

母が傍らで父の肩を抱きながら慰めてた。
泊まってた父の妹も起きてきて一緒に泣いてた。

ここに心から祖母を悼んでる子供が居る。
父の姿を見て、まともな考えを持つ父で良かった。

昨日見た祖母の顔はキレイでした。
安らかな顔でした。
だけど、こんなにドロドロと今まで溜まってた膿を出し切った位感情が交差し、イチバン可愛がってた長男に自分の葬式をこんな風に取り仕切られるとは祖母も想像しなかったでしょう。
長男は今まで祖母の貯金もギャンブルに使いこんでいたのですから。

極めつけのパンチはこれでした。
火葬場での出来事。
骨を拾うまでの一時間半
私達は家が近い為帰りました。
祖母のイトコ、縁者は待合室で待つのですが、その時長男はこう言ったそうです。
正確には喉頭がんで声帯を失ったので筆談だったのですが

今まで看病で大変だった。
これからは婆さんを見送ったら自由な時間が出来る。
旅行も行けるし、遊びも出来る。
好きな競艇、競輪・・・。
でもお金が無いから質素な生活をしなくては・・・。

最低ですね。
人間的に最低です。
血も涙もありませんね。

まだ祖母はすぐそこで焼かれているんですよ?
こんな言葉出ますか?

父はこの筆談を黙って見てたそうです。
殴りかかる直前だったそうです。
でも、場所が場所だった為にガマンする事が辛かったと。

家に帰ってきてからダムが決壊するがごとく再び声をあげて泣いていました。
こんな葬式ってありますか?
切れる事なら兄弟の縁を切りたい。
でも、母親の仏壇がある家だから・・・
何度も縁を切ってでもいいから殴りたいと思いながら留まった父が不憫でした。

母は全て祖母が残した悪因縁。
そんな風に長男を育てた祖母も悪い。
祖母が生きてきた人生そのもの、非礼、無礼をそのまま式にまで染み出て来た。
そう言っていました。
私の知らない祖母の人生は色んな人を裏切り、縁を切り、好きな様に生きてきたと昔聞いた事があります。
母も病気で寝たきりになった際、まだ小さかった弟と私ら子供の世話を祖母に頼んだそうだ。
その時、母の枕元で
「どうしてワシがお前の面倒を見なければいけない。お前がワシの面倒をみるんだ」と言い放ち翌日には帰った過去がある。
母は長野県に住む自分の母を呼び面倒をみてもらった。
ひどい祖母の言葉は母の心に大きな傷を残した。
だからこそ、家族全員で力を合わせて苦しい時代を乗り切ったから私の家族は絆が深いのかもしれない。
今でこそ母は祖母のひどい言葉があったからこそ絆が深い家族になれた。
だから感謝できる。と祖母の亡骸に語ったらしい。
祖母自身そんな人生で幸せだったのか疑問ですが、最期の最期がこんな幕の閉じ方なんて・・・。
幸せとは言えない。
祖母の姿を見て、こんな人生を送りたくない。
強く、強く思った。


2006年04月27日(木) 通夜

三時に実家に着いた。
既に両親と叔母は長男の家に行ってた。
弟の嫁が実家で留守を守ってたので昨日からの話を色々してた。
相当モメてるそうだ。
父は三人兄弟の次男。
喪主は長男
あと、末に長女。
昨日の夜に既に兄弟が揃い、病院から一旦帰って来た祖母を迎え、葬儀の段取りを話し合ったそうだ。
事前に聞いた話とこれからの段取りがあまりにも常識とかけ離れ、礼儀を欠けてたので大いにモメたみたい。

数週間前、祖母を見舞い、その足で長男の家に行った際には一ヶ月生きられないと知った上で葬式の事を話し合ってた。
私もその席にいた。

年も年だし豪勢な葬儀もせず、祖母が残したお金で通夜・葬儀が出来るので身内葬にしたい。
香典はナシ、孫は7人で花代を割って出して欲しい。

そんな感じだった。
その場では父も一応了承したが、三重に住む妹にも相談した上で取り決めよう。

当日ふたを開けてみたらこうだった。
式場は町のコミュニティセンター。
長男は病院から直接火葬場に祖母の亡骸を持って行き、骨になった状態で通夜・葬儀をしようとしてた。
これには長男の嫁が祖母を家に入れたくない、と言う意思の表れ。
たまたま日柄のせいで火葬場で焼けなくて、家に入れる事になったのだが、先に焼こうとしてた事に父と妹は誰も祖母の顔を見れずに葬儀をするのか!!と怒りまくり!!
そしてお経を読みに来た坊さんは四人。

どこが質素なんですか??

亡くなった知らせも祖母のイトコには連絡をしなくてよいと言う長男。
これにも父と叔母は猛攻撃。
来る、来ないに関わらずゆかりのある人には全員教えなくてはいけない。
それでも一部の人には長男は首を縦にふらなかった。

香典はもらわない。
これは身内にだけだと思ってた。
そしたら一般の参列者もでした。
これには「花代」「お供え代」でも一切拒否。
頑なに拒否する姿には縁の濃い人や一部の親戚には縁を切るとまで言い立腹された方もみえたそうです。
祖母に対して、せめてものお線香代です
なぜそこまで拒否するのでしょう?
後に聞いたのですが、香典返しなどの処理が面倒くさいと言い放ったらしいです。

こんな葬儀ってありますか?
故人を偲ぶ気持ちなんてこれっぽっちも感じない。
あまりにも非常識だ、祖母が可哀そう。

そんな情報を事前に聞いたうえで参列した通夜は白々しく感じた。
もちろん、本気で祖母を偲ぶ人はいただろう。
長男も実母を亡くしたんだもん。
多少は気持ちがあるのでは??と信じたかった。
だけど、長男の嫁のすがすがしそうな顔を私は忘れる事が出来ない。


2006年04月26日(水) 祖母の死

午前中に小用で実家に電話した際、祖母が危篤状態だと知らされた。
89歳の父の母である。
数年前から痴呆が進み、養老施設に入っており、癌が発見されてからは入退院の繰り返しだった。
1週間前から危ないとは聞いてたので大阪行きも少し危ぶまれた。
大阪から帰り、実家に寄った際にはさとしクンとタメを連れて病院にお見舞いに行った。
痴呆の為誰が誰なのかはもう認識できない状態で元々細かった体が一段と細くなりチューブに繋がれた体が痛々しかった。

私の中の祖母は80歳近くまで働いており、しっかりとして女で一つで三人の子供を育てただけあって芯があった。
我が強いと言うか、わがままと言うか正確がキツいだけあって周りからの風当たりも強く、お世辞にも周りから好かれるタイプではない。
当然、嫁、姑関係もメチャ悪くて家庭内別居、いや、無視に近い状態だった。
中学生の正月は忘れられない。
お年玉の袋を犬のエサを与えるようにポィッと投げた時には子供ながらに
「こんなお年玉いらない」
って言った覚えがある。

お金ですよ?
お金を投げてはいけないって小さい時教わらなかった??

平気でやってのけた婆さんです。
それでも周りから嫌われる婆さんが逆に哀れに思ったもんです。

姉は性格がストレートな分衝突も多かった。
姉と同じ年のいとこ(父の妹の娘)と一緒に婆さんと対立してたから姉は10年以上会ってないコトになる。

痴呆が進んで来た3、4年前。
一時的に祖母を実家で預かる事になり、一人暮らししてた私は祖母の姿を見る事は出来なかったけど母から様子は聞いてた。
平常な状態と痴呆の状態が交差してた時期でプライドの高い婆さんは
母に何かと世話になる事が嫌だったらしいが、自分ではどうする事も出来ない事を面倒見る母の姿に平常に戻った婆さんは何度も礼を言い、涙を流したそうだ。
対立してた長男の嫁は当然世話も嫌がりデイサービスに任せっきりだそうで
我が屋の家族の団欒、人との触れあい、孫、ひ孫との生活は嬉しかったそうだ。

意地とわがままだけで通した人生。
孫からも寄り付かれ無いお婆さん。
初めて「大ばあちゃん」と呼ばれ、ひ孫から遊ぼうと言われ
ささやかな幸せを味わう。
哀れだと思った。
寂しい人生だと思った。
80歳を過ぎて自分の生き方を後悔しちゃいけない。
老いては子に従う
かわいいお婆ちゃんになりたい。

子供の頃から祖母の発言、態度を見てて
こうあってはいけない
こうしちゃいけない
大人になりきれてなかった私でも実感した。

祖母の最期は祖母自身どうおもったのだろうか?
悔いは無かったのかな?

約3週間前、
両親、甥、タメを連れて病院を訪れた時
枕元で
「婆ちゃん、みんながきたよ、タメだよ」
みんなが枕元で色々語りかけた。
痴呆で分からないかもしれないけど、分かった上で数十分話し続けた。
眠ってた祖母は目を覚まし、うつろな目でしっかりと私達の方へ視線を移し、じっと見つめられた。

分かってるのかな?
分かるのかな?
耳はきちんと聞こえているよね?

色々語りかけたら祖母の右目から一粒の涙がつたったのが忘れられない。
単なる目の乾きから出た涙なのかもしれないけど
もし、何か感じるものがあって出た涙なのか・・・
それは今も分からないけど
89年の人生を終えた祖母に
お疲れさまと伝えたくて、明日、実家に向かい通夜、葬儀に参列したいと思う。

葬式には行かないと言ってた姉も母と私と話し、両日来るそうだ。
久しぶりに姉にも会う。



2006年04月25日(火) ブレーキって大切

ついに出来ました!!

ひとり駐車!!

やはりポイントはブレーキでした。
右手を握り前輪ブレーキ、右足で後輪ブレーキをかけながらエンジンを止め、右手を緩める事なく左足を地面にしっかりつけ、体重移動。
右足をよいこらせっ!と持ち上げてようやく両足揃えて地面に着く事が出来るのです。
いつもこの時右手でブレーキを緩めるものだからバイクがバランス崩してコケてしまうんだ。
納得、納得。
やってみてカラダで実感。

たったコレだけでもめちゃ嬉しかったっす!!

今までの実施、4、5回?
全て最後の最後の駐車でコカしてたからね。

クランク加えたコースを一通り走ったけどクラッチを握る左手がバカになってる(汗)
痛い・・・。
タメを抱っこしようとすると「カクッ」ってヘンな音がするよ。
やばいなぁ〜。
明日はシュミレーターだから少しは手を休める事が出来るだろう。



最近タメはますます活発。
ホフク前進、ズリバイ状態でどこまでもどこまでも冒険に行く。
眠たくなったり甘えたくなった時には私の膝元まで来るのですが
これがまた笑えるんです。
いつもテーブルに地べた座りなんですが、必ずと言ってテーブルの下をはって膝元までやってくるの。
テーブルはおコタにもなるテーブルなので当然ヒーター部に頭をこすったりぶつけたりするんだけど、そんな事おかまい無し。
ひたすら私の膝元に向かってやってきます。
そしてモモあたりから顔を出し
「あー、あー」

プッ!かわえぇ♪

無視すると手でトントンと叩く

まだまだ・・・

声高らかに再び
「あぁぁー、あぁぁー」

溜めて溜めて視線を向けるとニカッ!!

この瞬間がもーたまらんっ!!


最近気付いたんですがタメはさとしクンも同じ事やってた。
さとしクンに反応は私とほぼ一緒(驚)
・・・やっぱ似た者夫婦なんでしょうか??

あと、離乳食を与える直前
「タメ、マンマよ、マンマ」
とホッペに手を当てて教える様にしてるのですが
明らかに認識してる様に
「マーンマ、マンマンマ」
とつぶやきます。

さすが食い意地の張った娘、アッパレです。
かぁちゃんに似て食べ物に対する執着は見事。
餓死という文字はこの子には無縁だね!


2006年04月24日(月) 駐車の道は険しい

今日は頑張って二時間教習を取りました。
午後の部最後と午前の最初。
託児所でゴハンを食べて少し休憩も出来るのでちょうど良いし。

午前は急制動とスラローム。
時速30キロを保ち急ブレーキをかけるのですが
これが・・・・。
最初からオーバーラン。
二回目は早すぎ。
何度もトライをしてようやく4、5回目でマスター。
昔、専門学校時代に足として原付を運転してたにも関わらず30キロが早く感じたのは年のせいかな・・・???

スラロームはスムーズにOK。

午後からはS字と一本橋。
一本橋はさとしクン、以前からくどい位ポイントを伝授してたので
ある程度難関だとは意識してた。
とにかく膝でタンクをはさみ目線は前。
分かってはいても、しょっぱなから落ち、教官から
「オレいい忘れたけど、走るトコはこの鉄板だからな?」
なんて突っ込まれた・・・・。
分かっちゃいるけどなかなかコツが掴めない。
成功率は50%
まだタイムを気にするまで余裕がないから取りあえずは落ちない努力。

二時間連続の教習は辛いと思ってたけど案外耐えられた。
あとは明日の筋肉痛がどう出るか。
随分慣れてきたから、しょっぱなみたいに全身筋肉痛は避けられたけど
まだまだ筋肉疲労は続く。
特に腕と肩ですな。
まだまだ力が入ってるし。

それに・・・
教習が終ってバイクを駐車するのにまともに停めれた事が無い。
必ずコカしてしまって倒れたバイクを起して教習終了。
なんとかならないのかな・・・。
ブレーキが甘いからと教官からアドバイスをもらったので明日には
シッカリ駐車したい。


うーん。
復習しなきゃ。


mamirin |MAIL

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