堀井On-Line



6630,閑話小題 〜正面衝突の可能性もあった

2019年05月11日(土)


    * 他人事でない事故
 幼稚園児の列に右折と直進してきたオバサン2人の車が衝突、幼児の二人
が死亡した。やはり起こったかが感想。時どき、この判断で迷うことが多々ある。
2ヶ月ほど前にスポーツジムに行く途中の大通りで、右折しようとしたところ、
右折点滅をして直進してきた車があった。右折発進をしようとアクセルを踏む
瞬間だったが、何か嫌な予感がして留まったところ、その車はそのまま直進を
して通り過ぎていった。アワヤの大事故になるところ。私も右折サインを出した
まま、走っていることがある。ところで、こういううっかりミスに対する判断を
「自動運転車」は、どのように判断する?のだろう。
  〜ネット記事から〜
≪ 大津市の交差点で車同士が衝突し、弾みで1台が散歩中の保育園児の列に
 突っ込み、2歳の2人が死亡し1人が重体、園児と保育士の計13人が重軽傷を
負った事故で、大津署が事故車両に積載されたドライブレコーダーを解析
していることが9日、同署への取材で分かった。 自動車運転処罰法違反
(過失傷害)の疑いで逮捕された大津市の新立文子容疑者(52)の乗用車が
右折しようとした際、前方の安全確認が不十分で、直進してきた同市の
下山真子さん(62)の軽乗用車にぶつかったとみられる。≫
 ―
▼ 今回の事故で2人が逮捕されたが、状況をみるとドチラか一方が悪いはず?
と思ったが、案の定、一人が直に釈放された。直進する運転手の判断ミスの
ようだ。あの時の一瞬の勘は、何だろう? その判断で自らを助けたことに
なったが、思いだすたびに震える。私の車には車載カメラがついてないため、
事故っていたら、私の判断ミスと決めつけられる可能性もあった。
 40年近く前、通称『ありがとう事故』でオートバイを撥ねたことがある。
右折をしようと停車をしたところ、前の車が、停車をしてくれ、行けという
点滅をした。そこで右折をするとオートバイが、その車の左側から直進して
きて衝突して転倒。人身事故ではなかったのが、不幸中の幸い。保険内で
済んだが… 運転免許の取得の期間に、平均すると重傷事故を一回起こすと
いうデータがあるというが。 男女間の諍いを事故に類推すると面白い?
特に結婚生活。北欧では7割、アメリカで5割、日本は3割5分が離婚に至る。
問題は、子供に対する影響。世の中の大方の不幸は、両親の不和から起因する
性格形成で生じる歪みが多い。暴走車が人の列に突っ込むのを犯罪に例えると
何やら恐ろしくもなる。そう例える私の心象風景も問題ありますか。

・・・・・・
6267,閑話小題 〜「これ以上はいけない」と宣告する境界線 −3
2018年05月11日(金)
   * 「わかる人はわかる」というのは本当!
 過去を振り返ってみて、何度も、何故か「何か」に助けられたことがあった。
それが不思議である。母親も何時も危機になると不思議の力で助けられてきたが
口癖であった。それが幼児の頃に亡くなった父親だという。私のそれは何?
ユングの集合的無意識の家族バージョン、先祖バージョンか、原子脳の働き?
確かに霊感は、その人によって、時節によって強弱がある。両親の良し悪しで
人生の大方は決まってしまう。これも運。宿命は変えられなくても運命は変え
られるというが、そのためには、膨大なエネルギーの集中を要する。欧米では、
心の奥の院にアッラーの神が存在する。日本では多神教としても、その中核に、
仏教がある。太平洋戦争敗戦後、70年以上経過して、平和ボケしてしまった。
そこに情報機器の進化で、ネット社会が現実社会を覆ってしまった。神も仏も
ありはしない世界が日常になった。韓国や北朝鮮を「合せ鏡」にすれば解るが、
それ以上に危ないのが日本。
           《『街場の読書論』ー歩哨的資質についてーより》   
≪ …髑髏島の原住民たちがコングの人間界への侵襲を防ぐために建設した、
 あの巨大な「門」を想像してもらえればよろしいかと思う。 「かんぬきと
戸がしっかり機能している場所だと、私たちは「高ぶる波」のすぐ近くまで行く
ことができる。 聖人とは、「境を定め、かんぬきと戸をもって高ぶる波をおし
とどめる」人のこと。 私たち全員がそのような仕事をしなければならないという
わけではない。けれども、時どき、聖人が登場して、「かんぬきと戸」の点検を
することは私たちが人間的秩序のうちで生きてゆくためには必須のことなのである。
 私はかつてそのような仕事のことを「歩哨」(sentinelle)と呼んだことがある。
私たちの社会制度のさまざまな箇所で「ほころび」が生じている理由を私は端的に
「歩哨」の絶対数が減ったことだと思っている。 福島の原発事故は「恐るべき力」
を制御するための「かんぬきと戸」の整備と点検の仕事がほとんど配慮されて
いなかったことを示した。そこには会社の収益や、マニュアル通りの業務や、
自身の組織内の立場を優先的に配慮する人間たちはいたが、「あなたの高ぶる
波はここでとどまれ」と告げる「歩哨」仕事を自分に託された召命だと思って
いる人間はいなかった。
「境を守る」ことを本務とする人間を「戸」の近くに配備しなければならない
という人類学的な「常識」を私たちはだいぶ前に忘れてしまった。
戦争もテロも飢餓も恐慌もない、豊かで安全な生活が半世紀続いただけで、
日本人はその常識を忘れてしまった。 私たちの生きているこの狭く、脆い世界は
「境を守るもの」たちの無言の、日常的な、献身的な努力によってかろうじて
支えられているのだということを忘れてしまった。
崩れかけたこの社会の再構築のための急務は、「歩哨」の備給である。「境」に
おける歩哨のふるまいには定型的なマニュアルもガイドラインもない。もちろん、
一般的な「傾向」はあるが(それは神話や恐怖譚として繰り返し語られている)、
「存在しないもの」の侵襲はどのようなかたちをとるのかを私たちは正確には予測
できない。だから、歩哨たちには「どうふるまってよいかわからないときに、
どうふるまえばよいかがわかる」能力が必要なのである。
その「センサー」を研ぎ澄ますために経験的に効果的な方法が存在する。
宗教的な修業や武道の稽古は本来そのためのものである。
たしかに、そういうセンサーがきちんと機能している人がいる。
WTCへのテロのとき、「なんとなく外に出た方がいいような気がして」
ビルを出て難を避けた人がいた。その日に限って、「ふだんと違う行動をとって
生き延びた人」がどれくらいの数いたのか、誰かが統計を取り、その人たちに共通
する「生き方の傾向」を吟味するというのは興味深い研究主題だと私は思うが、
たぶん「非科学的」と一蹴されることだろう。でも、「わかる人はわかる」
というのはほんとうである。≫
―
▼ <「存在しないもの」の侵襲はどのようなかたちをとるのか>
 ・朝鮮戦争を勃発とする三次世界大戦なのか、
・数千、数億単位の犠牲者が出る、パンデミックか、
・首都直下型大地震か、富士山の大爆発か、三陸沖大地震による大津波?
などなど考えれば限がない。とはいえ、如何にもならないことが娑婆にはある。
「人生のデザイン」を自ら描き、それに近づく生き方をそれぞれしていけばよい。
難しいが、面白い時代でもある。 鼻歌を歌いながらスキップ? そりゃ無理?
顔が強ばり、泣き声になり、よろけながらも、人間は生抜いてきたんだから!
間違いないのは、「運の良い人は、何があってもプラスに出来る人。」
「運の悪い人は、何があっても運がない」ということ。楽天的に生き、幸運を
引寄せる生き方を心かけることですか。 周りは迷惑千万を承知の上で?

<わかからない人は、所詮はわかからない>のである。ならば…
で、以下の <「いい人」やめて、「ろくでない」になれや> に…
――
熊: せっかく、真面目に読んで来たのに… 今さら何を?
寅: 落ち落ちだよ。「わかる人はわかる」だがね、念のために。
大家: ろくでもない奴に、ろくになれと言ってもね。何だろうね。

・・・・・・
5170,人生相談という気晴らし! 〜��
2015年05月11日(月)
              『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
   * 「いい人」やめて、「ろくでない」になれや
 母親の痴呆症と5年半の間、付合ったこともあり、相談者の切実な気持ちが
手にとるように分かる。兄弟の微妙な関係もあって、そう簡単に事は進まない。
ただ「いい人」を止めてしまうことには大賛成だが、「いい人」は簡単に止め
ようがないもの。介護は、それなりの強さと覚悟が必要になる。「ろくでなし」
にも、覚悟が必要。 正常と非正常の間を彷徨う肉親との同居は重く疲れる。
≪ Q: 〜母親の介護で、自分自身が壊れてしまいそうです!〜
 私は四十五歳で、現在母親の介護をしております。母の介護をするために
仕事を辞め、現在無職です。私には、父、兄、弟がいるのですが、まったく
母の面倒をみようとしないので、男一人で母の介護をしております。
 その母も痴呆が進み、モノの判断ができなくなり、外でゴミを拾ったり、
真夜中に叫んだり、私もその対応に、やり場のない疲れが溜まっております。
もういっそのこと、私も介護を放棄し、母親に早く死んでほしい気さえします。
同時に私まで気がおかしくなりそうなのです。しかし、これまで母親に世話に
なったことを考えると、それも出来ません。このように思う私はやはり
「できていない」人間なのでしょうか?
A: 〜「いい人」をやめて、「ろくでなし」になりなさい!〜
 これも失礼ながら、いらいらする相談ですね。あなたは、私の嫌いな
「いい人」なんですね。これまた細かい事情はわからないのですが、真剣に
考えれば社会的にはいろいろ道は開けると思います。お母さんには息子が三人も
いるのですから、三人でお金を出し合って、介護士を雇う、老人ホームに預ける
等々。(お父さんはともかく)ご兄弟がそれに協力しないのなら、あなたが介護を
続ける代わりに、彼らにあなたの心的・肉体的負担相応のお金を請求してもいい
でしょう。お二人がそれさえ拒否するなら、その原因は二つ考えられます。
一つは、あなたのご兄弟が「ろくでなし」だということ、もう一つは、あなたが
「いい人」という名の「困った人」だということ。「ろくでなし」と「いい人」
が共存すると、だいたいいまのあなたのような状況に陥ります。「ろくでなし」
は、「いい人」を骨の髄まで利用し続け、「いい人」は全身不満の塊になって
恨み続けるというわけです。一般に、人がある限度を超えて耐えるとき、碌な
結果を呼ばない。だから、なるべく避けたほうがいいのです。・・(略)
 あなたがお母さんを(間接的にでも)殺さないうちに、あるいはあなた自身が
「気がおかしく」ならないうちに、あなたは大変身する必要がある。つまり、
「いい人」をやめて、ご兄弟と同じように「ろくでなし」になることです。
そこで、私の提言はただ一つ。一度みんなを集めて、「俺だけおふくろの面倒を
見るのはおかしい!」と大声で叫んでみてはどうでしょう。「もう介護はやめる!」
ときっぱり宣言してはどうでしょう。つべこべ理由を言う必要はない。ことの
おかしさは、どんな「ろくでなし」にもわかるはずですから。一度、そういう
修羅場を経由しなければ、そしてみんなが全身ひりひりするほどの痛みを覚え
なくては、何も変わらない。もっとも、あなたがどうしてもそうしたくない、
そういう勇気がないというのなら、仕方ないですね。お母さんが死ぬまで、
あなたは介護を続けるしかないでしょう。お母さんを恨み、ご兄弟を憎み、
そして自分を責めて生きるしかないでしょう。≫
▼ 介護には、周囲の無理解がついて回る。「まだらボケ」が、その一つ。
 第三者が居るときには、緊張が入った正常状態に近いため、痴呆症の人との
同居経験がないと、「聞くと見ると大違い」と、勘違いをしてしまう。
で、「ろくでなし」と決め付けられる。 当人は今さら何をか!
私自身を振り返ると、見えてくるのが、「ろくでない」「いやなやつ」の影。
・・・・・・・
4064, 思想とは
2012年05月11日(金)                   
  * その人の思想とは一つの行為である    
           ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
 ≪ ――自分に実感がなければ、ひとを掴めるはずがない。
   心の底からほとばしって、聞いているみんなの心を
   ひたむきな感動で引っ張ってゆくのでなけりゃだめだ。
   今日も明日も机にへばりついて、膠で接ぎ合わせたり、
   他人の賞味したお余りでこった点をこしらえたり、
   掻き集めた灰のなかから 貧弱な火を吹き起したりするのでは、
   子どもや猿どもには感心してもらえるかも知れん――
   それがきみらのお望みならばだ。しかし、真実、良心から出たもの
   でなければ、けっして心に達するものではない。(ゲーテ「ファウスト」)
  そういう声を聞くと、心を打たれると同時に、なるほどこの人はそういう
  人かと、そこにたしかな一個の存在を認めるだろう。この人物には思想が
  ある、と。すなわち思想とは、つまりその人が断乎としてそのように考え、
  そのように生きる、その生き方の言葉や行動にあらわれたもの、という
  ことになる。自分の生き方の全部を賭けた言動だけが、思想の名に値する。
  そこから小林秀雄の、次のようなはげしい断定も出てくる。≫
 ≪ ――精神の状態に関していかに精しくても、それは思想とは言へぬ、
  思想とは一つの行為である。 (小林秀雄『私の人生観』より)
  口で言うのならどうにでもなる、とよく人はいい、これはとくにわが国では
  支配的で、政治家の言口葉などはその標本のようなものだが、そんなふうに
  言葉=意見を弄んでいる者は、ついに真の自己に達することはできないだろう、
  というのである。なぜなら、ひとは自分がしんから正しいと考えたこと
  (それはその人の生き方から出た必然の思想である)を口にする時、己れの
  全存在を賭けてそれを言うのであり、それが周囲に認められ、あるいは
  否認されることで、己というものを知るのだから。≫
▼ 11年間、ここで書き続けてきた効用は、この実感がないことは逆に、
 書けないということ。だから出来事に直面したときの実感を、その場で文章化
して頭に残して置いて、記憶に残す習慣が出来てしまった。写真家は、シャッター
チャンスを待つが、その間、頭の中で、その場の光景の実感を文章化している。
写真に添えられている文章は、だから写真を引き立てる薬味になる。思想とは、
真実、良心から出たものでなければ、心に達しないのである。心にとどくのは、
自分だけの頭で考え、経験し、感じた実感である。読書日記より、書くネタが
なく仕方なく捻り出した「閑話小題」、「つれづれに」のテーマの方が面白いと
言われるゆえんである。



6629,閑話小題 〜TV映画、感想記

2019年05月10日(金)

   * 『友罪』 〜TV映画、感想記
<ジャーナリストの夢を諦めて町工場で働き始めた益田は、同じ時期に入社した
鈴木と出会う。無口で影のある鈴木は周囲との交流を避けている様子だったが、
同じ年の益田とは少しずつ打ち解けていく。しかしある出来事をきっかけに、
益田は鈴木が17年前の連続児童殺傷事件の犯人なのではないかと疑いを抱く
ようになり……。>
 そこには、他にも幾つかの深い心の傷を負った過去を持つ男たちが次々と
同時進行で現われてくる重い内容。そのどれもこれもが、そこまで深くないと
しても似た経験を誰もが持っている? 少年の頃、親友への虐めを助けてやれず
死なせてしまったとか…  死に至らなくとも、何故、あの時、助けてやれな
かったとかの傷を心に誰も持つ? 何だったのだろう我ながら情けない私は?…
【タクシーの運転手(佐藤浩市)は息子が交通事故で三人を殺し、家族を解体して
償いの日々を送っていた。その子供が、結婚をするのが許せない。そして、孫が
生れて幸せになることも、父親として許せない。】 等の葛藤が、次々と。
重すぎて中断を入れ、分けることでやっと見終えることが出来たが、見終えた
後は、加害者側の、苦悩と、理不尽な怒りが、透けて見えるようでなかなかの
出来栄え。10年ほど前に、突如、『少年A』がマスコミに再登場したが、それを
再現したような内容。
   * 『あゝ、荒野』 〜TV映画、感想記
 これと同時進行で、『あゝ、荒野 前篇・後篇』作品二本を見た。
寺山修司が 遺した唯一の兆編小説を映画化したもの。これも底辺に生きる若者
の生き様を描写したものだが、深い心の傷から血がしたたり落ちてくるような
様は鬼気迫るもの。人生、特に若者が生き場をみつけることの難しさは… 
寺山はあとがきで
「この小説をモダン・ジャズの手法によって書いてみようと思っていた。」とし、
「大雑把なストーリーをコードネームとしてきめておいて、あとは全くの即興
描写で埋めていくというやり方」で書いたと記している。
有り余る時間とエネルギーが無いと、前後編通して5時間の大作は見れない。
『友罪』と同時進行で見るには、うってつけの内容だ。
 〜で、これも偶然、去年の同月同日の内容の文脈に丁度、つながる。
熊、寅のタッチじゃ軽すぎるが… 犯人の家族にも過酷な人生が待っている。

・・・・・・
6266,閑話小題 〜つれづれに ー新潟・少女殺人事件
2018年05月10日(木)
    * 新潟・少女殺人事件
熊: 県知事の買春事件で大騒ぎの後に、父子五頭山遭難騒ぎにつづいて全国区
  ニュースが続くね。何でわざわざ、死体を線路に置いたのだろうね。
寅: バラバラにして死因を隠すためだろうか? それを目撃する快楽を味わう
  快楽犯も考えられるけど、それは考えすぎ?。 白い車で、黒服の男という
  から、2〜3割?は、該当するからね。女児が朝、しつこく声をかけられたと
  いうから、何処かの監視カメラに録画されている可能性が高いし… 
  解決は早いだろうよ。昨年9月には、同じ小学校の女子児童が男に声を掛け
  られたり体を触られたりする不審者情報が3件あったというしね。
熊: 死んで何時間すると轢かれても出血しないことを、この事件で知ったけど、
  犯人も知らなかったみたいだね。ということは、死因を隠したかった?と
  しても、殺した上に… 
寅: 俺さ、北欧の刑事モノ連続ドラマに、この数年嵌っているので、こういう
  異常な事件になると、色いろ思い浮ぶんだ。俺なら、阿賀野川の河口に
  捨てるとか…。イギリス、北欧モノには、少年少女への暴行殺人が、結構、
  多いし。としても、異常過ぎる事件だね、これは。 何も知らない子供の頃
  から、異常ドラマを見て育ったら、映画と現実の境目がつかなくなっても
  不思議でないさ。
大家: 情報化がもたらした、マイナスの一面ですか。全国版で、リアルタイム
  の犯人探しとして扱われるのだろうが… 私も、興味本位では、その一人。
  マスコミにとって、犯人逮捕が遅れれば遅れるほど、視聴者の興味が膨らむ
  ため、有難いのだろうがね。
寅:<9月に、逮捕していれば>のそもそも論が、当然てるため、警察は必死に
  なるから。 9月、5月からみて、学生が考えれるね。
熊: 昨日さ、たまたま寅さんに勧められて録画していた北欧の刑事モノを見た
  けど、酷い内容。 その内容を思わせる事件で、何か、背筋がゾッとしたよ。

――
   * 身近な野生動物は
 庭に来た「雉」を考えているうちに、野生動物といえば、近所を縄張りにする
カラスと早朝の川辺や、庭に飛来する野鳥か、時どき居間に侵入してくる蝙蝠と、
虫を改めて認識した。雉、鴨、鶯など渡り鳥が多いのは地方の盆地なればこそ。
野鳥は、誰の助けも借りず、仲間同士で営々と生延びている。その中で、カラス
について、ここで何度かテーマにしてきた。TVでカードをかすめ取り、券売機
にさし込もうと試みる錦糸町駅のカラスのレポートを放映していた。元もとペット
で飼われていたようで、肩や腕に平気で乗っかる。 私の家のペットは代々、
小鳥派で、インコ。 7代、小桜インコだったが、メキシコ黄金インコに、そして
今では、世界最小のルリハインコで、歴代で一番の7年生存で、唯一の芸、
「枝回転」を披露している。

・・・・・・
5534,若者よ、外に出よ! ー�� 19世紀の芸術に触れろ 〜B
2016年05月10日(火)
               『人生の教科書』なかにし礼著
 ここで、若者に、<海外に出て、自然と、芸術作品に触れ、読書などで
教養を積み、恋愛をしろ>と勧める。これは若者だけでなく、壮年、老年に
も言えること。情報化社会の中で、クラシックをジックリと聴く余裕は少ない。
しかし、今ではアイフォンがあり、何千、何万の音楽を入れておくことが可能。
更に今では、定額のネット配信で好きな音楽を好きな時間に聴くことができる。
そのベースとなる19世紀クラシック音楽鑑賞を趣味にすることを勧める。
  * なぜクラシックを聴くべきなのか
≪ 芸術を学ぶ際、音楽なら、黙ってクラシックを聴くこと。いまだに
クラシックは不滅の音楽なのだから、それを聴くことが趣味になれば最高だ。
たとえ趣味となり得なくても聴くべきである。
 特に、やはり19世紀の音楽。18世紀にはモーツァルトがいるけど、彼の死後、
すぐベートーヴェンへ、19世紀の音楽へと繋がっていく。ベートーヴェンから
始まって、シューベルト・ショパン、ブラームス、ワーグナー、マーラー、
ブルックナー、ベルリオーズ……とにかく19世紀だ。
 ロマン派の時代である19世紀は、前世紀の革命時代が終わり、
「人間は進化する」ことを人類が知った時代である。愛によって人間は死ぬ
こともできるし、愛によって罪を犯すこともできる。そして「人間は進化して
神にもなれる」という思想を、芸術家たちが作品の中に叩き込んだ。
19世紀は人間の可能性のすべてを歌いきった時代なのである。
 文学の世界でも、トルストイ、ドストエフスキー、バルザック・ユーゴ、
アレクサンドル・デュマ、スタンダール、ゲーテ、バイロン、シラー、ボード
レール・ベルレーヌ、ランボー、オスカー・ワイルドなど、大作家が生きた
時代はすべて19世紀である。
 19世紀という時代を常に自分の心の中に持っていようとするには、音楽を聴く
ことを日常の習慣にしてしまうことだ。この頃の作品は、今や不滅の作品群だ。
20世紀になるとそれらはすべて別の音楽になっていってしまうし、言うなれば
19世紀の残骸のようなものだ。19世紀の音楽を楽しめなかったら、その人間の
精神生活はすごく貧弱なものになると思う。 ≫
▼ それでは、絵画はどうだった調べてみると、
【19世紀はもっとも絵画が進化した時代と言っても過言ではない。現代絵画の
巨匠ピカソやマティス、ムンク、シャガールなど全員がその影響を受けている。
16世紀まではイタリアが、18世紀はフランスが芸術の最先端。ゴッホは19世紀
終わりの画家である。・・】とある。その背景には、国力の成熟もあるようだ。
学生時代に、安いステレオを買って、世界の民謡、ジャズ、アメリカン
ポップス、クラシックを独りコーヒーを飲みながら聴くのが楽しみだった。
 大都会の中の孤独は、音楽と読書でまぎらわすのが一番だったが、後から
考えてみると、大都会の中の孤独こそ、一番の環境だったことになる。
早稲田大学近くの寮、今でいう「シェアハウス」の25人の地方出の共同生活
から垣間見た人間観察と、クラブ、ゼミ、世界旅行と、恵まれた経験だった。

・・・・・・
4437, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー7 
2013年05月10日(金)
     ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
  * ルート6 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
《 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人
の目を気にしない生き方。それを満たすのは、自己を捨て、無我、無私を実現
する達人の生き方。欲にも、生死にも、他人との争いごとに拘らず、達観して
静かに生きる姿勢。ここに達成した人は、持続的至福に達することが出来る》 
これが、幸福学の結論。 現在の状況を冷静にみると、
「これが人生、で、もう一度同じ人生を歩みたい」という現在の心境と同じ。
  ー他人と比較しないことによる幸せこそ、人生の要諦。 その辺りよりー
≪ 幸福学とは、要するに、幸せに効く主観的な要因は何かを明らかにする研究。
 その結果、僕たちの行ったアンケートの範囲では、幸福の要因は大きく
 四つの因子に分けられることがわかった。
・一つ目は、自己実現や自己能力に関する因子。目標を持っているか、直近の目標
  と将来の目標に一貫性があるか、自己統制感が高いか、自尊心が高いか、など。
・二つ目は、つながりに関する因子。他人に対して親切か、様々な出来事に
  感謝しているか、多様な知人がいるか、など。
・三つ目は、楽観因子。楽観的か、ポジティブか。
・四つ目は、他人と自分を比べない因子。他人と自分を比較しない傾向が高いか。
 ここでは、四つ目の因子に注目しよう。 すなわち、「他人と自分を比べない
  ことによる幸福」について。 自分を他人と比較しない人には、長続きする
 幸福が訪れると考えられる。千五百人への調査結果も、それを表している。
つまり、千五百人の回答者のうち、他人と自分を比較しない傾向が強い人は
幸福である比率が高く、他人と自分を比較する
傾向が強い人は不幸である比率が高かったのだ。
 自分と他人を比較しない人々には二つのタイプがあると考えられる。
他人を見ないタイプと、自分を見ないタイプだ。前者は、自分だけを見て他人
を見ないタイプ。周りのことを気にしないマイペースタイプだ。 我が道を
行くから、周りなど関係ない。場合によっては、独りよがりだったり、わがまま
だったりするかもしれない。自分は幸せでも、他人には迷惑をかけている
「自分勝手」タイプかもしれない。後者の自分を見ないタイプは、逆に、
世界は見るが自分を見ないタイプ。何が欲しい、こうなりたい、などの自我の
欲求があまり強くないから、他人と自分を比べることにそもそも興味がない。
悪くいえば向上心や競争心がない。なすがまま、自然のまま、だ。
 たとえば、武道の達人をイメージしてみていただきたい。茶道、華道、座禅
などでもいい。 凛として、姿勢がよい。何かあっても、動じない。静を以て
動を制す。普段は静かだが、実は相手を倒す力を秘めている。無駄に力んだり
せず、相手の力をすっと利用して、自分の思いどおりに世界を動かす。しかし、
私利私欲はない。判断は大局的。全体が見えている緊張感のある空気を醸し
出すが、自分のためには怒らない。思考の対象は常に世界だ。世界のために
行動する包容力。名声を得ていたり、人望が厚かったりするが、決して自慢など
しない。 もちろん、他人と自分の比較などしない。≫
▼ どうも世の中、嫉妬と苛めの糸で哀れなほど。私住む城下町は長年の柵
 で、雁字搦めの蛸壺社会。8割以上が地元出身者で占められ、それが全社会。
学校関係者以外は殆ど付き合いがないが、垣間見えてくる世界は箱庭のようで
面白い。知識を持たない人の無意識の科学は、身近の人との比較しかない。
不幸になって当然。それも私の主観による思い込み。「横を見ないで、縦
(今、ここ、自分)を見て生きる」と割切ってしまえば、良いが。
・・・・・・
4063, 本当は怖い抗うつ剤 ー2
2012年05月10日(木)
  * うつ病になったら、どうしたらいいのか。      
              { 浜松医科大名誉教授 高田明和 }
 倒産の惨劇を身近で見ていたので、二年間は落ち込むのは避けられないと判断。 
最小にするためスポーツジム通いと、打ち込める対象を加えることを考えた。
一つ間違えると欝に伴う暴発か、破滅になっていく。それがiPadとシネマと
 蔵書の再読と、世界の潮流の鳥瞰などを、逆に徹底的に楽しむことであった。
それと、中村天風の「積極一貫」の思想書を、身近に置いて何度も読み返した。
二年にまだ一年あるが、一息ついた後半の方が危ないのかもしれない。
 その私が予防策でとった方法がそのまま、治療法として研究されていた。
運動と、考え方、受け止め方をプラスにすることだ。
≪ うつ病の治療法として確立しているのが「運動」である。体を動かすことが
精神によい影響を与えることは様々な研究で示されている。第二は「ものの考え方」
である。私たちは競争社会に生きている。競争とは相手に勝つことを目的とする。
もし負ければ落伍者になる。一度敗北すると、将来がないように思うのだ。
さらに大事なことは、どのような分野でも自分より勝れた人がいるという事実。
 例えば野球にイチローがいて、ゴルフには石川遼がいるのと同じようなものだ。
努力は大事だが、自分が及ぼないからといって自分を責めていたら人は決して
心の幸せは得られない。・・・堀口大學は自身の『座右の銘』という詩で
「暮らしは分が大事です。気楽が何より薬です そねむ心は自分より 以外の
ものは傷つけぬ」と詠んでいる。自分以外とは社会的ランクのことである。
今の自分のランクを受け入れ、それでよいのだとする以外に心は楽にならない。
禅では「不思善 不思悪」といって、思い出さないことをもって最も尊いとする。
といって、無理のことなら、思い浮かんだら、しばらく放っておいて手を出すな、
必ずその思いは消えると、禅では教えている。 実際に、どのような思いも
5秒で消える。・・・ ≫
▼ 「どんな思いも5秒で消える」は、言いえて妙である。出るのは仕方が
 ないが、なるべく、そこで切るように心がければよい。全ては二年で落着くし、
目先は五秒のフラッシュで出てきた思いの延長を考えないこと。特に寝付けない
布団の中での苦悩の嵐は、訓練で最小にすることが可能。 そのためにiPod
を枕元に置いている。最近は、ほとんど夜半、使うことはないが、音楽は効く。



6628,読書日記 〜『無知の科学』だってさ! −4

2019年05月09日(木)



      <『知ってるつもり――無知の科学』
        スティーブン スローマン,フィリップ ファーンバック(著)>
   
    * 知識の錯覚 「私たちは嘘をいきている」
 読むほどに、実は思いの外、私たちは無知であることに気づかされる。
それを学生時代に知り得たため、読書習慣を自らに課してきた。で、この程度。
しかし、情報機器の進化は、人間の脳の能力を遥かに凌ぐようになった現在、
逆に自らの「知っているつもり」を認めて、謙虚にへり下る態度も必要か!

  〜 以下は要約した個所である。
≪ 私たちは驚くほど無知であること、自分で思うより無知であることを
 見てきた。また世界が複雑であること、私たちがみるより、遥かに複雑である
ことを見てきた。ならばなぜ、これほど無知な私たちが世界に圧倒されないか?
知るべきことのほんの一端しか理解してないのに、まっとうな生活を送り、
分ったような口をきき、自らを信じることができるのか。
 それは私たちが「嘘」を生きているからだ。物事の仕組に対する自らの知識を
過大評価をし、本当は知らないくせに、ものごとを理解していると思い込んで、
生活をしていることで、世界の複雑さを無視しているのである。実際にそうで
ないにもかかわらず、自分には何が起きているかわかっている、自分の意見は
知識に裏付けられた正当なものであり、行動は正当な信念に依拠したものである
と自らに言い聞かせる。複雑さを認識できないがゆえに、それに耐えることが
できるのだ。これが知識の錯覚である。 大人になるにつれて、探求を止めて
しまったことが、物事が複雑であることを忘れてしまったことに起因している
のかもしれない。「その先は、実は知っているが…」と、空白をつくるが、
実は、その中には何も入ってない。まず自らを誤魔化すことが、人間の甘さ。≫
―
▼ そこでスマートフォンなるものが普及してきた。これを活用すると、凡人が
 天才の能力に近い人種にスケールアップすることができる。 世界中の脳が
ネットで繋がり現実社会を覆ってしまった。このお陰で、逆に何も知らなくても、
超小型pcに音声入力で検索すると、世界中の脳に繋がり、ベスト・アンサーの
情報が入手可能になったのである。 それが逆に、『知っているつもり』の
無知人間に陥ってしまう危険性が大きくなった。自分の縁る基地の軟弱化である。
 このブログを例にとると、外部脳と、自分脳とが、何時の間にかシースルー化
している。過去に書いた、文章を現在の私が読むと、その内容自体が、外部脳
と自分の脳の混合でしかないことに気づく。それをまた外部脳が読んでいる。
フワフワした脳を公衆に晒すことを継続することで、自らを変えているつもり
だが、そう甘くはない。私たちは「共同幻想」の世界に生きている。幻想という
嘘の世界に生きているが、誰も、そのことに気づいていない。その事実を話すと
変人扱いされるため、知っている風をして黙っているしかない。しかし、誰もが、
スマートフォンを手に入れ、情報基地を持ってしまい、知ったつもりの人間が、
互いに繋がってしまった。無知同士が互いに繋がると如何なる? この世界的
動乱が、この結果である。
 ランドアーという科学者は、1980年代に、コンピュータサイズを測るのと
同じ尺度で人間の記憶量を評価することを思いたった。現時点で評価すると、
ノートパソコン一台には長期保存用として250〜500ギガバイトのメモリーが
ついているが、0・5ギガバイトだと。 人生70年の間に、一定速度で、学習を
続けるとしても1ギガバイトである。これが10倍としても、大して変わりはしない
微々たる量でしかない。これは、あくまで記憶量の問題で、脳は複雑で、PCの
記憶媒体の質量とは比較できないが… それでも、昨今の情報機器の進化をみる
につけて、人間の脳は、進化する情報機器を前に、その限界がみえてくる。
 …としても、この情報機器の進化と、情報革命の諸現象は、あまりに面白い!
知ったかぶりね、知ったかぶりですか。情報化とは、浅くも深くにもなる、
その人の程度によって… 猿でないのに何でまた、掴んだまま手を離さない?

 追:偶然だが、一年前の内容が丁度良く、文脈でつながる… 
・・・・・・
6265,閑話小題 〜「これ以上はいけない」と宣告する境界線 −2
2018年05月09日(水)
             《『街場の読書論』ー歩哨的資質についてーより》
   * 歩哨的資質ですか!
 聖地や秘境との邂逅の場で、何やしらかが、「これ以上、立入るな!」と
無言の得体のしれない何かを感じたこと屡々。その時々に私の知っていること
など、ほんの僅かで、圧倒的未知の世界の一部から得る啓示に慄然とする。
<「存在しないもの」と「存在するもの」のフロントラインにおけるふるまい>
とは、分かりやすい表現である。人間は未知とのフロントを守護する歩哨ですか。
 考えさせられる内容のため、全文を数回に分け紹介しながら考えていく。
――

≪毎日新聞社が高野山金剛峯寺で開いているセミナーで一席おうかがいしてきた。
「公共性の再構築」という演題だったのだが、それは3・11以前に出した
ものなので、もう少し踏み込んで「社会制度の作りなおし」というテーマで
70分お話しする。
このところ繰り返し述べている「存在しないもの」と「存在するもの」の
フロントラインにおけるふるまいということをまた申し上げる。

私たちの世界は「存在しないもの」に囲繞されている。
宇宙の起源を私たちは知らないし、宇宙の果てに何があるか
(というより「何がないか」)も知らない。
時の始まりを知らず、時の終わりを知らない。
『ヨブ記』で主はヨブにこう問う。

「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
あなたは知っているか。
だれがその大きさを定め、
だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめこまれたか。
その隅の石はだれが据えたか。
 (・・・)
あなたは海の源まで行ったことがあるのか。
深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。
死の門があなたの前に現れたことがあるのか。
あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。
あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。
そのすべてを知っているなら、告げてみよ。」(『ヨブ記』38:3−18)
ヨブはこの問いの前に絶句する。

私たちは私たちの生きているこの世界の「外部」についてほとんど何も知らない。
私たちは私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの、手持ちの言語では
記述できないものに囲繞されている。
私たちが理解できる世界と、理解を超えた世界のあいだには目に見えない境界線
がある。 「存在するもの」と「存在しないもの」のあいだには目に見えない、
手で触れることもできない境界線がある。けれども、その境界線を守護するのは、
私たちが「人間の世界」で生きてゆくために必須の仕事なのである。
誰かが境界線を守護しなければならない。
『ヨブ記』においては主がその仕事を担っている。
主はこう言う。

「海がふき出て、胎内から流れ出たとき、
だれが戸でこれを閉じ込めたか。
(・・・)わたしはこれをくぎって境を定め、
かんぬきと戸を設けて、言った。
『ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。
あなたの高ぶる波はここでとどまれ』と。」   (『ヨブ記』38:8−11)

「存在しないもの」に向けて「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上は
いけない」と宣告する境界線がある。 高野山の奥の院に足を踏み入れたときにも
「フロントライン」に近づいた感覚がした。
弘法大師がそこでとどめた「高ぶる波」の微かな波動が感知された。
聖域というのは、そこで完結している場所ではなく、何かとの「境」なのだ。
機能的には「かんぬきと戸」なのだ。  
                      〜つづく  ≫
―
▼ カナダに初めて行って、ロッキーの景観に圧倒され自失茫然とした。
 その時の内なる声、「もしかして、これを見ずして死ぬところだった!
とんでもない! 
 夜半8時過ぎの薄暮のなか、バンフのレイクルイーズの周辺を家内と散策した
時のこと。家内が疲れ果て帰った後、更に独りで湖畔を歩いていると、何やしら
リスやカワウソ、ビーバー、鹿?などが威嚇する鳴き声。それでも女性一人が、
次々と帰ってくるのに励まされ歩いていると、今度は雷音が、「もう帰れ!と
言わんとばかりに聞こえてきたため、Uターンをして帰った。
世界的カーレーサーの明言、『限界までは誰でも行ける。問題は、その先、
どの位行けるか!』。 イスラエル、ケニア・タンザニア、シリア・ヨルダン
など秘境、異郷ツアーで味わうのは、その歩哨の感動体験の感覚。
<これらを見ずして、誰が死ねようか。見なければ、体験しなければ、それは
存在しないことと同じ。聖域とは、聖地とは、大自然の懐とは、そういうところ!>

追:【そんなことこそ大変だろうが、拘ることもないさ。中心を穴が空くほど
 凝視して、捨身になれば、一瞬でも解放されるよ、自分という柵から! 
折角、宇宙の彼方から観光旅行で、『光』を見に来たのだから。
 縛ってるのは自分以外、誰も居ないよ。 分かってはいないのは私自身。】

・・・・・・
「読書日記・映画鑑賞日記」のコーナー
2007/05/11
2229, 人生張っています −2
                (σ・з・)σオハYO!!
            『人生張ってます』−読書日記
 対談を終えてのインタビューの感想がまた面白い!
ーー
 さすがの中村うさぎも、毒気を抜かれて「まだまだ、うさぎは青かった」と。
「私はそれなりに地雷を踏んできたなと思っていたが、世の中には私の
踏んでない地雷がいっぱいあるものだと、勉強になりました」と脱帽。

 30歳前後位で、女はみんな迷ったり模索するじゃないですか。
その時に暴走しちゃったらするんだと思うんですね。
私の買い物もそうかもしれない。
5人の場合も折り合いがついてないのかもしれないが、
「私はこっちの道を行くと決めた」というのがあって。
こんな人にはなってはいけない。

「あなたはあなたなりの道が用意されているわけで、それはあなた自身が決め
ないといけないんだ」ってこと。誰かから決めてもらって押し上げてもらって
押し上げられた人は誰もいない。ある程度のところで決断して、捨てるものは捨て、
受け入れるところは受け入れて、自分の売りとか生きていくキャラの方向性を
決めないと。「これが私なんだ、こんな私はどうよ?」という腹のすわり方は、
読者も見習ってほしい。

 私のそういう瞬間は、第一次、第二次があるとして、第一次は離婚でしょうね。
あの旦那をわたしの人生から簀巻きにして放り出したところで、これでいいや
と思ったんです。それから浪費癖ですね。開き直ったんです。
「浪費作家・中村うさぎ」という名が売れるとは、想像もしてなかった。
ドン底にはまった時に、そのドン底がネタになるんですね。
ネタにしようとやっているわけではない。
    
 ーー
解)以上であるが、冷静かつ真面目に彼女等と自分を見据えている。
それよりも、すざましいウンコ話をパソコンに打っている自分が面白い?
秘境旅行は、一度の旅行に一通りの人生のトラブルが圧縮して立ちふさがる。
その一つが『デモノ・ハレモノところきらわず』である。

食事と飲み物と、時差の関係で、何時何処で、もようしてくるかわからない。
今まで、一度も失敗が無かった方が奇跡である位、何度も危機一髪の事態に陥る。
そんなことを恐れていたら、秘境旅行などできやしない。何とかなるものである?
だから、このエゲツナイ話が身に沁みるのである。
書き写すかどうか迷ったが、今さらである。
読まない方が良いですよ!と 言いながら・・・

こういう話は、タブーなのだろうが、この本は誰もが嬉々として
話しているところが怖い!ところだ。
  ー内容は、明日のお楽しみ?に!
  三人分の対談者の内容を書き写してある!
                ☆^(*≧ω≦)ノ~~~βyё βyё♪


6627,読書日記 〜『無知の科学』だって! −3

2019年05月08日(水)

    <『知ってるつもり――無知の科学』
       スティーブン スローマン, フィリップ ファーンバック(著)>
   * 恐ろしいかな無知
・人生を長く生きてきて振返り思うことは、『無知』の恐ろしさ。それでも、
 何とか切抜けることがことが出来たのは、?? 著者が言いたいことは、
<人類は無知である、ということでなく、人間は自分で思っているより無知で
ある、ということ。私たちは多かれ少なかれ、「知識の錯覚」、実際には僅かな
理解しかしてないのに、物事の仕組を理解しているという錯覚を抱くこと。>
 会社の清算の決断と手順に入った時、幼児の頃から、両親から見聞きしてきた
ことと、そのプロセスから見えてきた差異から見えてきた生々しい現実。

・8年前になるが、新潟駅前の5つの物件が、一年以内で売却先が決まり清算が
 終了したが、これは奇跡中の奇跡。先日のモーニングショーで鬼怒川温泉の
倒産、放置されたままの3棟の廃墟ホテルの実態をレポートしていた。経営者は
夜逃げ、その後の処分が出来ないまま放置。私の最悪の事態の想定が、これ?

・当然のことだが、多くは、自分が実際には何も知らないということを知らない。
我々が話す殆どは、抽象的知識に頼って、それを、勝手に繋ぎ合わせているに
すぎない。社会の大部分は、錯覚した知識の中で生きているのが現実である。
性欲過剰?の恋愛感情をみれば、知識と情感に置換えてみると解りやすい。
刷り込まれた思い込みを互いに重ねて熱でブレてしまうが、熱から覚めれば、
「誤解から理解」になり、ハイ、さようなら! 殆どのことは、わかっている
という感覚に過ぎない。
 ―
   * 思考の目的は何か?
 思考の目的は、「行動」であると… 特定の状況に応じた行動を選ぶための
最適なツールは、情報処理をする知的能力である。そこで記憶が過去の最適な
因果関係を直感し、因果関係を察知する思考が出てくる。この能力がありながら
何ゆえに、世界の仕組の察知に疎いのか。それは…誰かが、情報を発すると、
それ以外のことが本質以外のことは忘れる。無意識が除去するためである。
我々の知性は、個別のモノや上京について詳細な情報を得るように出来てない。
新たなモノや状況に対応すれば、個別具体的な詳細情報より、大元にある規則性
だけを理解していればよい。その一例は映画の観劇で理解できる。大筋は記憶
出来ても、具体的な映像の殆どは、消え去っている。だから二回目、三回目の
方が遥かに面白く感じるのは当然である。
 ―
   * 知識の集合知
 自分の頭のなかにある限られた知識と、因果関係の推論のみに頼っていたら、
それほど優れた思考は生み出せないはず。人類が成功を収めてきたカギは、
知識に囲まれた世界に生きていることにある。今やネット社会。そこで、
「検索」で、地球上のあらゆる蓄積されてきた情報が気軽に入手可能になった。
そこで問題になるのは、自分と、以外の頭のシームレス。これで、何でも
「知っているつもり」になってしまう。毎日、拙い頭の中を公開している。
シームレスなればこその+−が、そこにある。

 ―
▼ としても、万人がスマフォを携帯している時代。クイズ王などで東大、
 京大の若者が、思いもよらいな難しい問題をすらすらと解いている。
そこに凡人がスマートフォンを持って、自由に使わせたら、同等か、それ以上の
脳力を発揮できる。そうこう考えると、この情報革命は生命誕生以来の大変革期
にあるというのも決してオーバーでない。そして、互いの脳の間が、シームレス化
していくのも実感する。知ったつもりを凝視し、まず量を熟し、質を高めること。
〈 ある人が、アメリカに行ったいいが、営業をしようにも英会話すらままなら
ないまま途方に暮れて涙をしていた時、近づいてきた老人が、その訳を聞き、
翌日から、そこで英会話のレッスンをしてくれた時の約束が…
「わかったふりをするな!」である。 『何にも知らないくせに!』 何をまた。

・・・・・・
6264,閑話小題 〜世間話のでき方 −2
2018年05月08日(火)
   * 世間教のおバカは自分のこと
 前に、「世間話のでき方」のテーマを思い立ち書いた。また「世間様」の
批判だが、前回の文脈からして如何に、風評が言い伝わるうちに、歪められるか、
物語として書換えられるかの恰好の事例になった。
・まず自分の話からして、都合よく脚色をつける。
 <修理後に、カツ屋に行こうと信号を渡って店に入いろうとしたらパトカーの
サイレンが聞こえてきた。まさか違うだろうと思いつつ、カツ丼を注文したが、
何か気になるため、帰り道は、万一と考え、大通りを避けて帰ってきた。帰りの
道すがら、万引きをして追われる男の気持ちとは、こんなものか?」が修正がある。
少し難しい話になるが、カントの「もの自体」の説明になる。主観が入るため、
描写そのものが無理。主観という歪みが入るのである。世間話なら、ほぼ嘘が
拡大する。この文章も私の歪んだ主観で折角の情報を面白おかしく歪んでいる。
その歪みを上から、下から目線で楽しんでこそ、面白みが倍増する。
・家内の一時停止違反の話を聞いて、脚色して話を面白くしたのを、家内が
間抜けな亭主がパトカーに追われてカツ屋に逃げ込んだ話に脚色。それが伝わる
うちに、警察に捕まり、連行されミッチリ絞られ…に発展していく。世間様とは、
そういう世界の人達をいう。これが世間教徒の姿と私の歪みを白状する。
・幼児の頃から、両親の会話の中に、その正体「全部、嘘かデマカシ」を知って
いたが、黙るしかなかった。(実はこれも脚色)。18歳から30歳近くまで地元を
離れ、34歳から新潟駅前で事業を始めて31年、職住を分けて、可能な限り同級生
以外に近づかないことを旨にしていた。これも歪み。先年に亡くなった親戚に、
半径500m、直径1kの人(世界各地のほぼ大部分になるが)、小さな小池の現実
に嵌って?生涯独身だった(これも私の歪み)。それぞれの歪みが自分になる。
カントではないが、それぞれが分厚い色付きの歪んだサングラスをかけて、身近
な人の風評をなぞって一生を終えるのが人生。 その歪みを少しでも自覚する
ため人は旅をし、読書をし、自然に接し続けなければ生きている甲斐がない。

――――
5532,若者よ、外に出よ! ー�� 天空のショー
2016年05月08日(日)
                『人生の教科書』なかにし礼著
   * 天空のショー
 人間わざ、大自然、そして宇宙へと、対象が一つずつ、ランクアップする。
自然現象、宇宙のテーマは、『人生の教科書』にはない、私の経験の話題になる。
 オーロラは太陽系の天空のショーで、地球上の自然現象ではない。だから、
その神秘な輝きに何か得体の知れない現象が感動を呼ぶ。テーマが、
「地球は」から、「宇宙は」に変る。 〜ネット検索によると〜
《 天体の無数の星星の間に輝くオーロラは、太陽から大気圏内へ、光や熱
 だけでなく、太陽風を降り注いでいる現象。この太陽風は、太陽の表面の
爆発によって放出されるプラズマ状の電気を帯びた小さな粒でできている。
この太陽風の粒は、地球の磁場を横切ることができない特性を持っていて、
地球の側面からは入ってくることはできない。それに対し、地球の北極や南極
の辺りの磁力線は地球に対して垂直になっているため、太陽風の粒は、地球に
入ることができる。こうして地球に入ってきた太陽風の粒が、オーロラを発生
させることになる。この極地方から入ってきた太陽風の粒が、地球から100〜
400Kmのところで、酸素原子や窒素分子などと衝突すると、光を出す。
これがオーロラの正体である。》 
 北極近くの天空をキャンパスにした神秘的な光のウネリは、気ままに姿を
現したり、消えたりする。その魅力は、映像では知ることは出来ない。
外に出続けた結果、出会えたのが、これである。〜10数年前の文章をコピー
――――
2003/10/14
923, アイスランド旅行記ー3
   2003年10月14日(火)
ーオーロラハントー
 数年前に、ノルウエーのトロムソにオーロラハントに行ったことがあった。
その時は「何だこんなものか」という程度で、期待とは全く違うものであった。
薄い雲がスジ状に光っているだけであった。だだ行きの飛行機から見たオーロラ
がカーテン状に広く光っていたが。今回も5日間で一日しか見えるチャンスが
無かった。夜になると寒くなる為か曇ってしまうのだ。
感動するような大きなオーロラのはそうそう見ることができないのだ。

 そしてたった一回だけの私にとって一生もののオーロラが出たのだ。
天空に展開した時の感激は、想像をしていたより遙かに神秘的かつ荘厳であった。
写真など撮っている余裕など無く、ただ呆然と見とれるだけであった。
これをどう言葉で表現したらよいのだろうかと考えていた。
 天空の黒をキャンパスに、滝が降るように頭上の両側に壁になり揺らぐ青白光の
波がこの世のものと思えない、神秘的なものであった。。
あとは「 ・・・・・  」である。

 取材できていた共同通信社のカメラマンが、
「このオーロラをどう東京の友人に説明したらよいか解らない」話しかけてきた。
「これは実際、この目で見るしか理解はできないでしょうね」と答えるしかなかった。
その時、涙が出そうになっていた。
 以前ツアー仲間から、この体験談を聞いたことが何回もあったが。
「もういつ死んでもよいと思った!」
「聞くと見ると大違い、実際見なくては!言葉で表現できない」
――――
H1201自然の神秘
−オーロラ−
旅行に行く度にツアー仲間よりオーロラのすばらしさを聞いて、機会を待って
いた。「この冬が十一年に一回のあたり年で五泊六日・三食付、十四万九千円」
の新聞広告に引きつけられ、ノルウェーのトロムソのオーロラ・ツアーに参加。
スカンジナビア半島の北極圏に位置した、北海道を思わせる質素だが、
豊かな上品な街というのが第一印象であった。丁度クリスマスのシーズンに入り、
それぞれの家が電飾で飾られておりお伽噺に出てくるような街並みであった。
トナカイにソリとサンタクロースがぴったりマッチするような絵画的景色であった。
帰りに一泊二日でデンマークのコペンハーゲンに立ち寄ったが、街中がネオンで
飾りたてられており、ディズニーランドを思わせるこの世とは思われない
“夢の国”という印象であった。特にチボリ公園の電飾が印象的であった。

トロムソに近づいた機中より見た、天空を背景にしたカーテン状の白いオーロラが
一番初めに見たそれであった。最終日の夜半三時よりみたオーロラも青色、ミカン色
と自然がおりなす天空色彩ショーであった。オーロラも必ず見れるという訳にいかず、
3〜4回来ても見れない人もいるという。一生に一回は見ておくべき自然のパノラマ
であった。             (H11.12.10〜12.15)
・・・・・・
写真
https://retrip.jp/articles/10962/
http://keiki-porori.com/archives/7892
http://4travel.jp/travelogue/10633722

録画
https://www.youtube.com/watch?v=lBiB6a9ERa0

・・・・・・
4435, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −5
2013年05月08日(水)
 * ルート4:主観的時間は幻想だと理解する道    
      ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
   ーまずは、この概要を主観的にまとめてみる。ー
≪ 客観的な「今」と主観的な「今」の違いからみると、客観的時間は、時間が
 一定速度で進むという前提に基づいている。 時間を秒、分、時間、日、月、
年、10年、世紀といった絶対尺度で捉えるから、そのような結論になる。
客観時間は、一定速度で進む。それは、人がそのように定義したからに過ぎない。
しかし、主観時間は、そのように捉えるべきものでない。主観的時間を考えるに、
「今」を考えてみよう。「今」は、客観的には時間軸のある一点である。
客観的な今は時間の幅を持たない。どんなに短くても、時間が幅を持ってたら、
それは今でなく、過去と未来になってしまう。今とは、それが千分の一秒前と、
千分の一秒後の間が、今になってしまう。 千分の一などどうでもよいと思い
がちだが、数学や物理の世界ではそれを認めない。ということは客観的今とは
時間幅を持たない。 では、主観的な今とは何か。「クオリアとして知情意を
感じている、この今とは何か?」と問う以上、主観的な今は時間の幅を持って
いると考えるべきだ。ここに、時間的幅を持たない客観的な今と、時間幅を持つ
主観的今。両者の定義は異なる・・ 私たちの心は、「今」しか考えられない。
過去を思い出したり、未来を想像できるが、それらを行うのも「今」だ。
私たち人間には、過去も未来もない。実は現在もない。過去を思い出せるが、
エピソード記憶に残っていることを思い出しているに過ぎない。過去はクオリア
ではない。単なる記憶だ。その過去の体験のクオリアに戻ることは出来ない。
人間には「今」しかないのだ。・・・ 僕たちは「今しか感じられない機械」。
今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、あなたにとってのすべての
時間なのだ。それだけだ。 主観的時間には、「死」なんてない。死ぬ瞬間は、
もはや主観的な「今」はない。死の直前には「今」を感じられるが、それは
死の瞬間ではない。主観的には死はないのだ。生まれる前は主観的には生まれて
いなかったのだから当然、時間は流れていなかったのだ。主観的な過去の時間は
過去にさかのぼるほど圧縮され、ついには物心ついたとき以前の時間は完全に
つぶれゼロになると考えるべきだ。未来も、先に行くほど圧縮される。
物心ついたときより前の時間がぺしゃんこにつぶれてゼロだったように、いつか
死んだ後の時間もぺしゃんこのゼロだ。・・ つまり自分が死んだ後の無限の
時間、という想定も、過去と同様、見直すべきだ。そんなのは無いのである。≫
▼ 当たり前のことを論じているが、これが自覚できないのが人間。
 過去も未来もゼロ、現在も幻想。ただクオリアがあるだけ。「自分が死んだ
後も世界は無限に続く」ということが、間違いである。死ぬと同時に今も、過去
も未来も、ゼロに潰れる。「今」しかないのに、過去や未来にこだわる人間は
奇妙な生きもの。過去は記憶に過ぎなく、未来は予測に過ぎない。ならば可能な
限り、嫌なことを忘れ、良いことを繰り返して思い出すよう努め、今だけを
考えること。所詮、未来も、過去もない。それで良いのだと。亡くなった両親を
考えてみると、その道理が理解できる。死んだ後の時間はペチャンコに潰れている。
クオリヤを感じている今こそ、生きているのである。だったら、私たちも、
この「今」を生きるべきである。主観的時間が幻想としてもである。今しか
活き活き生きることが出来ないのである。ケセラセラと今を活き切るしかない。
・・・・・・
4061, 我事に於て後悔せず
2012年05月08日(火)
 * 我事に於て後悔せず。  宮本武蔵「五輪書』より   
         ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
この本で著者は、五輪書の武蔵の「我事に於いて後悔せず」を取り上げている。
一流のプロなら、引退後の後悔などせぬはず。 後悔するのは腐った?
のような人物がするもの。 ー以下の部分は、その辺りを微妙に書いてある。
≪ これをふつうは「われ事に於て後悔せず」と読む。 小林秀雄は「わが事に
於て」と読むほうがよかろうと言っていて、その意は、「その日その日が自己
批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。
別な道が吃度あるのだ、自分といふ本体に出会ふ道があるのだ。後悔などといふ
お目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は
語ってゐるのである」(小林秀雄『私の人生観』)と説明している。自分の過去の
行動についてあとから、あれは間違っていた、などとそのたびに後悔するよう
では、後悔というものを受け入れるようでは、ひとは本当の自己に出会うことは
できぬ、というのだ。 小林秀雄は武蔵の言葉をかりてつまりはそれが言いた
かったのだが、このことは今ぼくらの考えている「自己への忠誠」にあてはまる。
◎『自己に対する何という無礼だ、その決心をした時より今の自分の方が利ロ
だと、どうして思うのか。』スタンダール「パルムの僧院」これぞ言葉の中の
言葉だ、これほどにひとを励まし、自己への忠誠を元気づける言葉を、ぼくは
ほかに知らない。武蔵の箴言はいささか道学者くさいが、ここには自己であること
の純粋なよろこびがある。・・これはスタンダールの全作品に鳴りわたる言葉。
◎ ースタンダールはそのすぐ前で公爵夫人の性格についてもこう言っている。
 公爵夫人の性格には二つの特徴があった。彼女は一度欲したことは
 あくまでも欲した。また一度きめたことはけっして論議しなかった。
◎ ー彼女は偶然にまかせ、そのときどきの快楽のために行動してきた。
 しかしどんな行動に身を委ねる場合でも、断乎として行なった。あとで冷静に
 返っても、けっして自分を非難しなかった。まして後悔しなかった。自己に
 たいする忠誠とはかくのごときものであるかと若い日に讃嘆させられて以来、
 これらの言葉はそのときどきにつねにある内耳器官のごときものとなって、
 ぼくを導いてきた小説の主人公ではないか、とバカにしてはいけない。 ≫ 
▼ 小林秀雄に「無私の精神」という文章がある。実践家は、自我を押し通す人
 と思いがちだが、実は無私の人である。彼は無私に徹しなければ物事は成就
しないことを知っている。極限に立ってきた人は後悔などしない。そこで自分を
押し殺し、己を抑えるほど物事は大きく成就してきたことを知っているからだ。  
後悔は、実践の中では後々、害になることもである。


6626,読書日記 〜『無知の科学』だって! −2

2019年05月07日(火)

    < 『知ってるつもり――無知の科学』
        スティーブン スローマン, フィリップ ファーンバック(著)>

    * そもそも、このテーマ日記からして…
 このテーマ日記こそ、内容を理解したかどうか怪しいもの。書上げた同時に
気持ちは翌日のテーマと、過去の10数年分の文章に気持ちが移動する。それでも、
翌日、当て字間違い字がないかチェックを入れるが、そこまで。
 <人間の行為の中で、交尾以上に素晴らしいことはない> という言葉が
あったが、これ、「知っていたつもりが、実は知らなかった?」のでは?
それなら、若い時分に、もっともっと?多様に交尾していたらというと、責任と、
体裁が邪魔をして、制御をしてきたのは、後悔、先に立たず? そうでもないか?  
などが頭をよぎる。「後悔には、してしまった後悔と、しなかった後悔がある」
というが、「一線?を、爪先で踏みとどまった我慢」があればこそ、大いなる
失敗をしなかった事が大半だろう。人生とは、情念の我慢と、後悔と、逆に
達成の織りなす糸で成り立っている。数時間の読書と、人生体験を通して、
膨大な?経験から、多くを知っていたつもりだった。 が、総括すると、
「知ってたつもりが、実は何も知らなかったのでは?」の疑念が湧いてくる。
   
   〜以下は、Amazonの一言コメント〜
【スティーブン・ピンカー(ハーバード大学心理学教授。『暴力の人類史』)
「人間は自分で思っているより物事を理解していない。
 自分がどれほどわかっていないかをわかっていないのだ。
 それを治す薬はないが、対処法ならある――この本のことだ」】
 ―
【エリザベス・コルバート(ピュリッツァー賞作家。『六度目の大絶滅』)
「本書は教えてくれる――自分に都合の悪い情報を拒絶すれば、われわれは
 トランプ政権と同じになってしまう、と。ニューヨーカー誌】
 ―
【キャス・サンスティーン(ハーバード大学教授。『実践 行動経済学』)
「この本が大好きだ。私たち個々人がどれほどものを知らず、人類全体としては
 どれほど多くを知っているかを明らかにしてくれた。」】

   〜Amazon読者感想より〜
本書の内容は、序章と訳者あとがきによく要約されているので、まずそれを読み、
「もっと詳しく知りたい」「なぜそう言えるのか」と考えたら全体を読むといい
だろう。 序章をさらに短縮すると、こんな感じだろうか。
《・我々が素朴に個人のモノと考えてきた「知識」は、実は「私たちが作るモノ、
 身体や労働環境、そして他の人々のなかにある(p.21)」。つまり人間は
「知識のコミュニティ」のなかで「認知的分業」の元に行動しているのである
(そうすることで進化的に生き延びてきた)。人間は様々な知識を「自らの脳の
内側にあろうが外側にあろうが、シームレスに活用するようにできている(p.24)」
のだが、そのことに普段は気づかない。それゆえ「知識の錯覚」が生じる。
・1人1人の「人間は自分が思っているより無知(p.16)」なのだ。個人としては賢く
 ないが、集団としては賢い。それゆえ「人間の思考がこれほど浅はかであると
同時にすばらしいものとなりえる(p.13)」。このことは教育のあり方についても
見直しを迫る。「私たちは共同してモノを考える」のであって、そのためには
「知能指数より他者と協力する能力(p.27)」が重要になる。
・「科学への理解を促進すれば、国民の科学に対する好意的な態度が醸成され、
 科学技術のもたらす恩恵を積極的に活用するようになるのではないか(p.172)」
という「欠乏モデル」が間違っているようだとか、「政治について考える」の章
での、人々は「自分が間違っていたことがわかると、新たな情報を求めることに
消極的になった」「人は自分の錯覚が打ち砕かれるのを好まない(p.210)」とか、
言っていることは結構、暗い。文章はわかりやすい。
・「交尾以上に重要な行動はない、というのが進化のことわりである」という
文章の後に「(人間にも同じ見解を持つ人はいるが)」と注をつけたりもするが
(p.56)、この種のジョークは類書の中では多くない方だろう。1か所、よくわから
なかったのは「直観と熟慮の区別は、西洋思想だけに見られるものではない(p.94)」
として、ヒンドゥとヨガの「チャクラ」について触れている個所。必要な言及か?
・カバーに「ビジネスパーソンの必読教養書」とあるけれど、教師・教育関係者
 にもおススメ。「教育の目的は子供たちに一人で考えるための知識と能力を付与
することであるという誤った認識は排除すべきだ(p.237)」なんて、多くの教師・
教育関係者にとっては驚天動地の主張ではないか。
――
一説によると、人間の脳は1GB程度。文字情報ならともかく、映像や動画が記憶に
含まれていることを考慮すると、全然足りません。無知なのは当然でしょう、と
いう論理が面白ろかったですね。その少ない情報量を、実に器用に利用するのが
大脳だそうだ。
―
▼ バカの壁とは、「知ってるつもり」の思い込みの壁。人生80年で知りうること、
 など僅かだが、それでも、可能な限り、知り、経験し、味わってこそ、人生。
カントは、
1、私は何を知りうるか
2、私は何をなすべきか
3、私は何を希望してよいか
 など人間とは何かの「人間学」が根本であるとして基本的命題の答えを探った。
結局は、そのどれも、「知っていたつもり」で、実は何も知らないで生涯を終わる
が、別に知ったところで、それが、如何した? でも、それはそれで… 滞りなく
人生を全うできる。 人間は群れの動物。孤立することなく、群れの中で、孤独を
人知れず守り、「集合知」に頼る生き方も、大衆には必要? かも。 
「人間は、個人としては賢くないが、集団としては賢い。それゆえ人間の思考が
これほど浅はかであると同時にすばらしいものとなりえる」というが、群れるしか
生きられない人には、それも道理になる。 で「知ってるつもり」で、集合知に
頼って生きるしかない!という世間バカの話の「オチ」にオチツク。

 〜 で、去年の次の内容が文脈として、あい通じてくる
――――
6262,閑話小題 〜世間話のでき方
2018年05月06日(日)
   * 世間話のでき方
 家内が少し興奮気味に、「今日ね、ヨーカ堂裏で、自転車の一時停車を怠り、
警察官二人に呼び止められて、調書にサインさせらた。こんなことは初めて。
警察もよっぽど暇ね」と…。 新人教育の現場教育だろうが、私など年に
8ヶ月間は、雨以外は毎日一時間は乗り回しているため、常に違反運転の際どい
日々を送ってきた。微妙な交差点では、歩道から車道に車線を変えるテクニック
だけはベテラン。そこで昨年の秋口に、ブレーキと車軸の故障修理で、郊外の
自転車修理店に行った際の逸話を話した。
【郊外にある自転車店の反対側のカツの専門店に行こうと信号を渡ったところ、
黄点滅。微妙だったが、辛うじてセーフ。 ところが、遠くから急にパトカー
のサイレン。私じゃないだろうと思いつつ、カツ屋に入ったが、もしかしたら
と思いつつ、カツ丼をたのんだ。何かしら泥棒がパトカーに追われた感じ?で… 
帰り道は大通りでなく、裏通りを目立たないようにして帰ったよ。】
「要するに、信号無視でパトカーに追われてカツ屋に逃げ込んで、帰り道を
こそこそ帰ってきたのね」と大笑いされた。自分の一時停止違反の話では面白く
ないが、私の話を加えて面白くする枕(落語の前フリ)に、この話は有効に
なり、立派な世間話にあいなる。「世人の世間話とは、かくありなん」の典型。 
 世間話作成の現場中継の記録でした。何は主役、連れは端役の間抜けですか!

追記: 熊さん: これ警察に読まれて、呼出されて怒鳴されないかい。
  寅さん: 大丈夫だよ、八つぁんなら喜ぶさ。続編として克明に書けば、
   面白じゃないか。 見せしめでも無理無理。だって、創作だろう?
 熊: 自宅の忘れ物をして、取りに帰った話題から一時停車の疑いで呼出す
  ようなものだよな。俺って、やはり頭が足りないんだな。でも、情報化
  って、これが、まかり通ってしまうんだよな。本当に怖ろしいよ!

・・・・・・
6263,閑話小題 〜一日だけのスポット
2018年05月07日(月)
   * つれづれに 〜アクセスが4000近くに
 やはり、ブログのアクセス数は気になるもの。去年の初めが大よそ350だった
のが、春口から400、夏に450、470とじわじわ増えて、今はこの辺りで落ち着いた。
昨年で2度ほど、1300、1600が1週間ほど増加した後に、元に戻っていった。
二度ともは何故か力の入った内容だったため、何処かの「ブログの推奨サイト」
でもあるのだろうと思っていた。しかし、先日の10倍に近い4000のアクセスに
驚いた。時どきテーマが思い浮ばないスランプに陥るが、その時ほど地頭が働く
ためか私としては面白い内容になることが多い。
―
 500のアクセス数は、17年の成果で妥当だが… 4000はあくまでスポットで、
続くわけがない。一昨日は500に、今朝は400になっていた。ここにアクセスして
くる人は中高年が中心だろう。社会経験が少ない若い人なら、せいぜい2〜3度、
覗くといやになるはず。アクセスを増やそうと積極的に売込めば、1000はいき
そうだが… 無理すると <熊、寅、八、大家の掛合い漫談>も気楽に書けなく
なる。
―
 シリアスに、上から目線と下から目線を別々に意識して書いてるが、人に
よれば尊大に思える内容だろう。学生時代の最終年のゼミで、「企業内トラブル
の人間関係や、社会現象の現状分析」を週2回、2時間、集団で議論をしていた
学生時代の気分の延長が今でも続いている。それと、日々の記憶の道標として、
ネットにアップをして公開することで、内容の維持を目的にしてきた結果、
生前の墓参にもなる。死んだ後の墓参りより、ズ〜っと有難い。
数万、数十万のアクセスより…? 負け惜しみですか! それとも…
 真面目過ぎだよ、オットツァンですか!
―
 家内の知人の娘婿のアクセスが、4万とか聞くと何をか言わんだが。
「娘と戦う受験日記」だと思い出し、検索をしても見当たらなかった。
そこで、「面白いブログの探し方」で検索すると、<「お金」「社長」で、
検索すると、シリアスなサイトに当ります>よ とあった。 成るほど!

・・・・・・
4434, サードマン現象とは
2013年05月07日(火)
 母親が晩年になってから、たびたび「私には守護霊がいる。それは子供の頃
に亡くなった父親。何時も私を見守ってくれ、いざ何かあると、私を良い方向
に導いてくれる」といっていたが、気持ちの問題だろうと聞き流していた。
また先日亡くなった将棋の米長邦雄が講演で、「何時も父親の位牌を布団に
持ち込み、父に話かけていた」というのを聞いたことがある。 
 先日のNHK教育(PM7:00〜7:40地球ドラマチック)で、サードマン現象を
再放映していた 。これはジョン・ガイガー著「奇跡の生還へ導く人ー極限状況
のサードマン現象)をインタビューなどで編集したもの。で、その概要とは・・
◎ 9・11の世界同時多発テロで、ニューヨークのワールドトレードセンター
ビルに旅客機が二機衝突した事故で、最後に脱出した1人は、煙が立ちこめ
瓦礫に阻まれた階段を下りられず、もうダメだと諦めかけた時、どこからとも
なく聞こえた声に従い、突き進んで命を救われたとか。
◎ 多くの登山者を飲み込んできたヒマラヤのナンガパルバットに初めて
 登頂したヘルマン・ブールを危機の中、励ました声。
◎ アメリカ大陸からヨーロッパ大陸へ、人類初めての単独飛行をした
 リンドバーグを支えた声。
◎ アメリカの宇宙士が極度の緊張の合間の休みに神のような何かの存在
 を感じたとか。生命の危険にさらされた苛烈な環境の時、自分を奮い立たせる
 声を聞く能力が備わっているというのが「サードマン現象」といわれ、その
「第三の人物」は、その極限状況を克服するために精神的な助けをしてくれる。 
 この現象は、かつて神や守護天使とか守護霊として受け止められることも
 多かったが、現在、それを人間の生理的・心理的機構が生み出した幻だとも
 いわれる。過酷な極限状態において発動する右脳の原始的?スイッチの感じ。
 知らない誰かや父親、自分自身、守護天使、などがそこに存在する感覚という。
 脳は危機的な状態や生命の危機が起きたり、体験すると「潜在的脳力」が働く。
 私たち人類の先祖は過酷な自然の中で、獲物を狩ったり果実を採取してきた。
 20万年前の人類の先祖は「サバイバル」の極限の中で、恒に「サードマン現象」
 が起きていて、これらの遺伝子が先祖代々受け繋がられ、現代人にも存在して
 いると、考えられる。以前は450年前の先祖の堀井宗親という仮身を、現在は
「地球の中心点」を擬人化した「球芯様」と、両親の霊を話し相手にしている。
 それは自分の魂の仮身である。 この「球芯様」、最近は、ヨガの最中とか、
 夜半のベッドで囁きかけてくる。それが、思いもよらない問いかけをするから、
 面白い。 また、幾つかの創業の時など、極限の状態に自分を置くと、何故か
 異常な力が湧き出てくる。火事場の馬鹿力というか、底知れない力が自分の
 中心から立ち現れくる。原始的、動物的知恵と力で身体も心も浮いたように
 勝手に動き出す。誰にも経験があるはずだ。 以前、家内が世田谷と同じ面積
 のある、ポンペイの遺跡で、迷子になってしまった。それも日が暮れる直前。
 警察は来るは、遺跡のスタッフが総出で捜索に当たるは、現地ガイドと添乗員
 は、青くなって駈けずりまわった中、色々あって本人は一時間先にあるホテル
 に何とか帰りついていた。何かの折に書くが、いざとなると、異常な力が
 湧き出るということ。 サードマンを創って話相手も面白い、是非お勧め!
――――
5166,閑話小題 〜心は科学者か弁護士か 〜��
2015年05月07日(木)
   * 心は科学者か弁護士か
 心理学者いわく、《 真理にたどり着く方法は二つある。科学者の方法と、
弁護士の方法だ。科学者は証拠を集め、規則性を探し観察結果を説明できる理論
をつくって、それを検証する。弁護士は、ほかの人たちに納得させたい結論から
スタートし、それを裏づける証拠を探すとともに、それに反する証拠を斥けよう
とする。人間の心は、科学者と弁護士の両方で協力するようにつくられている。
つまり、客観的真理を意識的に探し求める存在であるとともに、信じたい事柄を
無意識に熱を込めて主張する存在でもある。これらの二つの方法論が競い合う
ことで、わたしたちの世界観は形づくられている。》
▼ 科学者が帰納法、弁護士が演繹法、と解りやすい事例で説明したもの。
これから引出されるキーワードが、判事。正・反・合の合である。居酒屋など
での誹謗中傷は、ヤリ玉の対象を酒の肴に、内なる科学者、弁護士、判事が、
掛けあいで肴に談義すること。心の中では、自分を正当化する弁護士が有利だが、
誹謗中傷では、判事が絶対優位に立つ。他愛のないものだが、それが、その連中
のレベルの内容で、そこの子狐の役回りが仕入れたネタに尾ひれはひれをつける。
それらをヘドロという。その意味では、城下町はドブ沼そのもので、そのガスは、
強力な破壊力を持つ。だから、近寄らないで、ここまできた。実は、そのガスで、
自分自身が殺されていることさえ分からないため、断絶の時代の中で、烏合の衆
として生きるしかない。その老いた醜悪が増長し、周囲を悩ます材料になる。
 そういう人たちの初老性鬱病(良い人仮面病)ほど哀れなことはない。何せ、
一生をかけて偽善の仮面を被り生きてきたのだから! 露悪でいくか、偽善か?

・・・・・・
5896,『しあわせ仮説』 −4 〜愛は恐れを克服する
2017年05月07日(日)
           『しあわせ仮説』ジョナサン・ハイト著 
   * 愛は恐れを克服する
 シリアスな話になるが、義務教育の終わる中学校のメンバーを思い浮かべると、
成績上位の2〜3割と、下位の2〜3割を比較すると、上位は両親が揃っていて、
比較的裕福あるのに対し、下位の人たちは、両親か片親を戦災で亡くなったか、
家が貧しい生活環境にあった。これは当人の責任ではなく、運命の問題になる。
ある程度、安全であればこそ、勉強や、遊びにも注意が向く。 逆に幼児の頃、
両親に愛情過剰な位に与えられた人を何人か知っているが、これは性格が強い。
絶対的愛情を親から注がれ育った人は、生涯を通じて、恐れを克服して勇敢に、
遊べる上に、何事にもチャレンジする傾向になる。愛着理論を、ここで紹介して
いるが、ネット検索をすると、以下のとおり。
≪ 乳幼児が、不安や不快などストレスを感じている状況で、自分の親など周囲
 の養育者に対して泣いて訴える、あるいは接触を求めて甘えるなどして、親密な
きずなを形成しようとする愛着行動に関する理論。英国の児童精神分析学者
ボウルビーが提唱したもので、動物に生来備わっている自分の生命の安全を確保
しようとする本能に基づく生得的行動により、自分の訴えや要求に答えてくれる
限られた養育者との間で愛着(アタッチメント)が形成されることがたいせつと
考える。愛着は1歳ころまでに形成されるが、訴えや要求に対する応答が密なほど
安定した愛着(安定型愛着)が形成され、小児期以降に安定した対人関係をつくり
あげる礎(いしずえ)となる。しかし、安定した愛着が形成されない不安定型愛着
では愛着形成障害を生じ、その後の心身の不安定や行動障害をもたらす。 
 ボウルビーは「愛着」の形成過程を次の四つの段階に分けている。
・まず生後3か月ころまでの第1段階では愛着はまだ形成されず、周囲の注意を
ひこうとだれに向かっても同じように泣いたりほほえんだりする。
・しだいに養育者とほかの人物を区別するようになる生後6か月ころまでの
第2段階では、養育者に対してとくに強く反応し、笑ったり凝視したりする、
あるいはあとを追うような行動もみられる。
・生後6か月〜2歳ころまでの第3段階では愛着が確実に形成され、養育者を安全
基地とし、そこからある一定の範囲で行動したり探索行動をおこして、ふたたび
基地に戻る。また、成長するにつれて自分の要求を主張し、実現に向けて執拗な
行動をとるようにもなる。
・3歳以上の第4段階ともなると、養育者との身体的接触を求めることは少なく
なり、養育者の意図や感情を理解し、協力して行動するようにもなる。≫
ー
▼ 中高校生の頃、同居していた甥っ子が、毛布に愛着を持つ依存症だった。
 今ではそれも、様々なキャラクターの人形があり多様化しているようだ。
職住一緒の商家だったこともあってか、幼稚園の頃、若い色白の女店員が、
対象だった?ような。なぜか魅かれるのが愛情豊かな長女系。で、生涯、支配
される我が身のような人生になる。人気番組の『家についていっていいですか』
で、都会の単身住まいの若い男の部屋に大きな人形があったのは驚いた。
都会の孤独地獄を癒してくれるそうだ。 私は、座卓の上に鏡を置いて、自分
自身と話していたが。それでも、様ざま寮生が1〜2時間は、部屋に来て談笑
していた。 考えてみれば、このブログも、そのようなものですか…


6625,読書日記 〜『無知の科学』だって! −1

2019年05月06日(月)

    <『知ってるつもり――無知の科学』
       スティーブン スローマン(著),フィリップ ファーンバック(著)>
   

* 無知の科学と真正面から言われても
「無知」を科学するとは… 「何だ何だ」である。ソクラテスが「無知の知」で、
もの知りの仮面を削ぎ落し、それ故に死刑に処せられた。この18年間にかけ、
毎日、記憶しておきたい情報をテーマとして物語風にして書き続けてきた。
その都度、思うことは、これで残さないと、永遠に消え去ってしまうこと。
この作業の最中に…「理解したつもりが、実は大して解ってなかった」事実。
デジカメで文章を写真に撮ったのを文字変換したのをコピぺしていたが、途中
から可能な限り手打ちのキーボードでに変えた。亀のようにノロノロと打込む
プロセスが考えることになることに気づいたため。バカならバカの方策がある。
 過ってみた映画を再びみても、その大筋以外は、ほぼ理解してなかったことを
思い知る。映画の舞台設定には膨大な情報が入っている。それを見るには、数回、
見ないと解らない。 
 この随想日記は、ネットによる記憶の外在化で、何とか理解を深めている。
会社清算をしてから現在に至る8年で、娑婆の脳が透けて見えるような錯覚に
何度も陥ってきた。 知能レベルの人?が、世間話で知り得た噂を、勝手に
創作し、決めつけている彼らの脳内をスキャンしたように見える面白さがある。
殆どの理解が、「知っているつもり、何も知らない思い込みでしかないこと…。
これを現実の事象で経験する味わいと、己の無知と重ねて見る愉しみ。
そういうこれも、思い込みでしかない。
< 余命半年、3ヶ月を宣言されて死ぬまでの間に、それまで生きてきた人生を
 経験するらしい。残された時間の中で、それまでの人生を思いやるとき、
実は何も知らない事実に思いあたる。 秒読みに入ってこそ、見えてくる思い
あたる自分の壁。我たちは、曖昧でキチンと整理されてない抽象的知識の中で
生きてきたことに… 一部の身のまわりのことしか知らなかったことに驚愕する。 
その知っている内容さえもオボロな知識でしかないことに思い知る。
法事、同級会なでの「黙るしかない集まり」の傍で聴いていると自分そのもの。

    〜Amazon、商品内容より〜
≪ ●インターネット検索しただけで、わかった気になりがち。
 ●極端な政治思想の持ち主ほど、政策の中身を理解していない。
●多くの学生は文章を正しく読めていないが、そのことに気づいていない。
 人はなぜ、自らの理解度を過大評価してしまうのか?
それにもかかわらず、私たちが高度な文明社会を営めるのはなぜか?
気鋭の認知科学者コンビが行動経済学から人工知能まで各分野の研究成果
を総動員して、人間の「知ってるつもり」の正体と、知性の本質に挑む。
思考停止したくないすべての人必読のノンフィクション。 ≫
―
▼ 「無知学」を読んでいて、まず気づいたことは、ライフワークの
 <秘・異郷ツアーでまわる地球観光>である。 その先で想うことは、
・何も地球上の一部しかを知りえてないこと。
・日常の現実世界は、分厚いサングラスを通して見ているに過ぎないこと。
・知らぬ間に共同幻想の一員でしかない自分を、確認するため、わざわざ、
 ここまで、合せ鏡で、その一端を垣間見ていること。
この切口が新鮮なことは、自分が65年間、右上がり思考の末に、アッサリと
倒産の憂き目にあったこと。しかし、底から見えてきた己の無知への認識。
それ故に、そこから見えてきた世界への無知の先の広がりの見識。
変態女(別に中村うさぎ、西原理恵子じゃないが… それも正面に受止めて、
その世界を垣間見て楽しむ。それも世界には多彩さが地球にはある。

 それを知るには、自分を可能な限り旅をさせないと!
――
5615,かわいい自分に旅させよ ー��
2016年07月30日(土)
             <『かわいい自分には旅させよ』浅田次郎著>
   * かわいい自分に旅させた 〜A
 40〜50歳代にかけて40回、合計51回。家内と遇わせて?90回、海外旅行に
出かけたが、その殆ど格安パックツアー。 夫婦で月あたり10万の贅沢。
10万×360回。一点豪華主義?で 何とか可能にしてきた。凡そ家屋敷一軒分。
あと5回で家内と合計で、100回になるが、年、二回なら可能だが、無理? 
肉体的には、厳しいだろうが、問題は気力と、体力と、?。
 10億円の現金と、どちらを選ぶかといえば、間違いなく旅行を選ぶ。
では100億なら、どうする? さあ、どうだろう? 旅行可能が5年とみて、
半分の50億、年に10億を使ってみたいが、私には無理か。そうこう考えると、
10億の価値は充分あった実感がする。「かわいい自分に旅させよ」のフレーズ
は、さすが作家。 別腹の人生が、そこにもう一つあるような。
≪ 私は感動を求めて旅に出る。いや、あえて求めずとも旅は必ず感動を
 もたらしてくれる。感動に出会ったとき、日ごろ金や時間や手間を惜しんで
旅せぬ自分を愚かしく思う。誰のためでなく、かわいい自分のために旅する
のである。 先人たちは不便な旅をしていた。しかしその一方で、悠長で
あるがゆえ深い旅の味わいを知っていたはずである。
 今やその気になりさえすれぽ、日本中どこであろうとあらかた日帰りが
できるのだが、その手軽さ気軽さのおかげで私たちは、まるで漫然と映像でも
眺めるような旅をするようになった。
 非日常の世界を訪れ、感動する。本物に触れ、五感をふるわせる。
先人たちの不便で悠長な旅、あるいは知らぬことぱかりの子供のころに体験した
旅とは、そうしたものであった。もし今日の旅の便利さはそのままに、本来の
そうした感動を得ることのできる旅があるとしたら、どんなにすばらしいだろう。
より深い日本を求めて旅に出たい。いにしえの旅人と刻を同じくし、溜息を
分かち合えるような、深く美しい日本にめぐりあいたい。 私たちは生まれ
育ったふるさとについて、知らないことが多すぎるのだから。≫
 ――
▼ 旅は、非日常の世界であり、日常と違った世界が別次元で流れている。
 そして、自分の世界も、その一つでしかないことを教えてくれる。
それと、感動である。「ここ、いま、じぶん」を、感動は焼き付けてくれる。
「この感動を、ほぼ大部分の人は、知らないで死んでいくのだ。もしかして、
自分も、その一人だったかもしれない!」という激しい感情と、その世界との
同化である。この「かわいい自分には旅させよ」のフレーズのとおり、この
感動を、自分に与えてくれのは自分だけである。 〜つづく

――――
5617,かわいい自分に旅させよ ー��
2016年08月01日(月)
           <『かわいい自分には旅させよ』浅田次郎著>
   * かわいい自分に旅させよ 〜B
 40歳代に入って直ぐの頃、『年一回の海外に出ること』を決めた。
そして、半ばも過ぎた頃、それを年二回に切り替えた。20歳から20数年間、
ストレスの多い「創業」の為の転進を繰り返してきた。何事も現実に直面
すると、火事場のバカ力が生じてくる。その奇跡に近い偶然を拾い上げて、
その場を切り抜ける。しかしストレスは並大抵ではない。その沈殿がピーク
になっていった頃である。その解消剤にツアーのストレスと感動が、合理的で
あることに気づいた。早朝の読書習慣と、散歩、そして、海外ツアーが、
何とか、自分を支えてくれた。 半年単位、一年単位で、そのストレスを、
払い落とすしかない。そこで、「秘境・異郷ツアー」のストレスで、それを
削ぎとるしかなかった。それが、結果として、心の、いや魂の財産になった。
 〜以下の部分は、「苦労でなくなった旅を、自分に与えよ」と勧める。
 ≪ 「かわいい子には旅をさせよ」という格言は、今や死語であろう。
 かつては苦労の代名詞であった旅行も、世の中がすっかり便利になった今日
では娯楽の王者となってしまった。もしかしたら今の若者たちは、この言葉の
意味を「かわいい子には娯楽を与えよ」と曲解しているかもしれぬ。
 たしかに旅は苦労ではなくなった。ただし、経験としての価値が損われた
わけではない。人間は経験によってたゆまぬ成長をとげるものであるから、
苦労を伴わずに経験を得ることのできる今日の旅は、子供よりもむしろ大人に
とっても好ましいかたちになったと言える。この福音に甘んじぬ手はあるまい。
「かわいい自分には旅をさせよ」である。金だの時間だの手間だのと、旅に
出かけぬ理由を思いつくのは簡単だが、よく考えてみれぽ金は貯めるものでは
なく使うものであり、時間はあるなしではなく作るものであり、手間を惜しむ
は怠惰の異名に過ぎない。つまり旅に出てはならぬ合理的な理由は、実は何も
ないのである。 ≫
▼ 秘境への旅の決断と実行は、非常に抵抗が生じる。まず、家内が、激しく
 抵抗する。そこで一人参加を決意すると、家内も渋々、決意するパターンの
繰り返し。で、抵抗感が強いほど、その内容は、濃厚で味わい深い物語になる。
しかし、極限を超えた経験のオンパレード、可愛い自分へのプレゼントになる。

――――
5637, かわいい自分に旅させよ ー��
2016年08月21日(日)
            <『かわいい自分には旅させよ』浅田次郎著>
   * 芸術とは
 ここで著者は、芸術について簡潔に述べている。ツアーの行き帰りの
主要都市(ロンドン、パリ、フィレンチェ、マドリッド)にある、美術館、
博物館で、世界的名画や美術品を見て周って、感動の蓄積が多く残っている。
それが自分を大きく変えていた。大自然の絶景の感動とは別に、美がその
まま表現された芸術作品に同化しているうち、美への感動が、魂そのものを
高めてくれることを実感した。 芸術とは、本来、そういうものである。
≪ 美しいものを美しいままに表現することが芸術。
 それを「言葉」でなそうというのが文学。
さらに、それを「物語」という形式で表そうというものこそ、小説です。
理屈も何もいらない。そこに理屈を持ち込もうとしたから、芸術は退行した。
これは芸術の都に住むパリジャンの罪です。
 医学が肉体の病を癒すように、芸術は心の憂いを除くためのものであると、
僕は信じています。だからこそ芸術は尊い。
 芸術家がそうした本来の使命を忘れて芸術なるものを衒い始めたときから、
アニアックな、アカデミズムの一部に成り下がった。たとえば神が作り給う
た天然のように、誰がどう見ても理屈抜きに美しいものの存在を、僕らは
見失おうとしているのではないでしょうか。
 自然は美しい。もちろん、その自然の中の人間の営みも、僕はそれらを
小説として表現するにあたり最も直截的な感情表現である「ユーモア」と
「ペーソス」を用います。それが小説家としての僕の方法だと思うから。
 僕には夢があります。
バチカンで、ルーブルで、フィレンチェで、僕は奇跡を見ました。
ミケランジェロは明らかに、古代芸術家を超えた。文明の進化とともに
衰弱する芸術家の宿命の中の、これは奇跡です。
 彼が一本の鑿で、一個の大理石の塊にうがち出した奇跡を、僕は一本の
筆で、一枚の紙に書き表したい。限りない感動を、かけがえのない美を。≫
 ▼ 美の中で、20歳前半の一瞬咲きほこった女性の美しさもナマモノ
  だからこその美しさがある。ただ、あまり話さない方が良いのが多いが。
 女性だけでない、動物の美しさもある。花の美しさもある。誰が、設計
したのだろうか。美はバランスというが、美そのものを感じ取る感覚が
見る側に必要になる。これは質量を多くコナスことで磨かれ、高めることが
可能である。「人間は何のために生まれてきた?」の答えとは、
「大自然と、人間がつくり出した創造物に触れ、感動するため、生まれて
きた!」である。心の憂いで覆われ濁った、「今、ここ、私」の目の汚れを
取り除くため芸術がある。セッカク貰った命、もっともっと、味わなくては!

――――
2016/08/22
かわいい自分に旅させよ ー��
           <『かわいい自分には旅させよ』浅田次郎著>
   * オヤジのためのラスベガス
 直木賞作家の浅田次郎がラスベガスに嵌り、その内実を書いた内容。
一度、行ってみたかった都市。 数年前に、グランドキャニオン、ヨセミテ、
イエローストーンなど大自然を 楽しむ『アメリカ西海岸国立公園の旅』。
大自然のほかに、ラスベガス・サンフランシスコ などのコース。
 ところが出発前日、公務員ストで、急遽、中止のため断念したことがあった。 
映画でラスベガスを舞台に多くの場面を見てきたが・・ 
 ≪ ラスベガスのカジノはデカい。「無限」と表現してもいいくらいである。
 たとえば今回の取材で協力して下さった「MGMグランド」一つを例にとっても、
総面積4777坪、ゲームテーブル150台、ゲームマシン3073台、だそうであるから、
「見渡す限りの鉄火場」と言ってよかろう。 この種のメガホテルが、
ブルヴァードを挟んでみっしりと建ち並んでいる。この規模はまさに「無限」。
 日本人の視野でこれを小さくしてはいけない。常々思うのだが、日本人
ギャンブラーはたいはてい狭い場所に嵌まっている。毎日を旅打ちの気分で、
カジノからカジノへとさすらうのがラスベガスの醍醐味である。
 ゲームの種類はあまたあるが、最もラスベガス的といえぱ、やはりマシン
であろう。ルーレットやブラックジャックは世界中どこのカジノに行っても
同様に遊べるが、スロットやポーカーマシンを打ち倒すとなれば、規模のある
ラスベガスでなければならない。そうした意味から、私は同行者にはたいてい
マシンを勧めることにしている。レーティングさえ守っていれば、あんがい
怪我が少いのもこれだからである。
 日本人的なレーティングといえば、25セント台、もしくは1ドル台であろうか。
ただし上限は一勝負3000ドルという怪物まであって、こうなると一時間で億の
金が動く。神域のごときハイリミット・エリアでは、このスーパーマシンの前に
座って淡々とゲームを続けるハイローラーの姿を拝むことができる。見ている
だけで有難い。
 ヨーロッパのカジノではテーブルに根を生やしている私も、ラスベガスでは
ほとんどマシン・ギャンブラーである。十年前はおそるおそる1ドルマシンから
デビューしたのだが、このごろではハイリミット・エリアの常連になって、
めでたく宿泊代も飲み食いもタダになり、空港までは送迎のリムジンが付く
ようになった。 常宿はかつて「ベラッジォ」だったのだが、数年前に
「ヴェネッィアン」に鞍替えした。日本人ギャンブラーが比較的少く、
使い勝手もサービスもよいホテルである。≫
▼ 賭け事に向いてない私にとって、異次元の世界の話。だからこそ面白い。
 日本では、コンビニの売上高より多いと言われているパチンコ店が、郊外に
ある。韓国も日本から上陸したパチンコ店も、その熱狂ぶりに、禁止された。
ラスベガスといえば、『ハスラー』など、多くの映画の舞台になっている。


6624,読書日記 〜『怒りを活かす人…』 〜2 

2019年05月05日(日)


          <「怒り」を活かす人、「怒り」に振り回される人
                          ―和田秀樹(著) >
    * 精神科医からみた「怒り」について
 感情の中でも「怒り」、とりわけ二人称のそれは日常生活を左右する難題。
一神教の色濃い欧米世界の建前、<自由、平等、博愛>を理想とすれと、真逆
の現実には腹が立つことばかり。それも情報社会んも隠されていた矛盾部分が
クローズアップされ現前に突きつけられる。情報化の進化は、知識の質量を際限
なく進化させるが、二輪の片方の感情面が、取残される。
とりわけ「怒り」の蓄積が病を引き起こす。時代の大きな変化は、適応でき
ない人たちには過酷である。社会構造は「3,30,67%」で成立している。
それが隠されている分には問題がないが、それが表立つと、怒りが湧き出てくる。
それぞれの立場で、それぞれの方法で感情管理が求められる。TVの笑い番組で
怒りを笑い飛ばしたり、ハリウッド映画で、ヒーローが観客の代行として対象
を徹底的に破壊することで怒りを吹っ飛ばす。怒りが蓄積すると恨みになる。
ここでは、怒りの対処を主に語られている。 まず時間薬と、次に対自した時の
「自己洞察」である。リタイアが事業清算なればこそ、3月に1度の割で、何処
からともなく怒り心頭の言葉や、嫌がらせに近いことがある。 慣れたもの…
数日内に、イメージで、そっ首を全身全霊で殺ぎ落とす。100回ともなれば、
怒りの大部分が消え去っている。むしろ、老化の不快感を同時に解消するため、
有難くさえ思えるようになる。時間薬の効くまでの速攻剤の役割になる。
そしてダメ押し、3年後に必ず、一身上の問題が当人に持ちあがると確信を持つ。
起こるべき(怒るべき)なればこそ。検事様きどりで、八つ当たりをしている
だけのこと… 3年経っても1割程度は何もない。ならば、加算すれば、それだけ、
重くなると思えばよい。最期は誰も死が待っている。チャクラごと、叩き落とす
のだから…それはスッキリする。それと毎日、大手大橋をヒキチャリをしながら、
毒素が深呼吸と同時に吐き出すイメージを持つ。とにかく、楽しみきった
行蔵の在庫が充分、持っている。 人を怨ばま、穴二つ。喧嘩の作法の基本は、
相討ち。別に我慢などすることもなし。西原理恵子の「まんこ縫うぞ」の漫画絵。
怒り心頭でなればこその発語。品はこの上なくないが、怒りが直に伝わってくる。 
 としても、激しい言葉! 私なら… < 一度、書いたが消却をした… >
最近のイギリス・北欧系の刑事ドラマのサイコパスは、生々しいのを放送してる。
『目には目を』の聖書の諫めは、「復讐も、目までに止めておけ」。
 人間の、怒りと恨み、妬みは、際限なく広がる。特に弱者には。

≪ 内容紹介
 昨今、TVのワイドショーなどで、著名人の怒り方が話題になりました。
大人げない怒り方をする人・余計なことを言って反感を買う人等々、
怒りの出し方が下手な人が急増中なのです。
「なぜ人は怒るのか……」
「そもそも怒りとは何なのか……」
「怒りの賢い活かし方とは……」
「怒りはどのように出せば健康的なのか……」
「湧き上がった怒りをそのままぶつけずに、うまく逃がすには
  どうしたらいいのか……」
自分が怒りに振り回される人にならないために、また、怒り下手な人が身の回り
にきたときに、うまく回避するために、 精神科医の著者が「怒り」を解剖します。
仕事・家族・社会に対して「カチン」とくる前に「怒りの正体」を知れば、
「いい怒り方」がわかる!   ≫

・・・・・・
6261,閑話小題 〜「これ以上はいけない」と宣告する境界線 −1
2018年05月05日(土)

地域とは、何かとの「堺」
 ある会で、私の旅行経験に興味をもって、しっかりと情報収集する女性がいる。
40〜50回、海外旅行経験のある同級生が言うに、「旅行話」はTPOを考えて上で
話さないので難しいと宣っていたが… 要するに旅行自慢になってしまう。
ところが、興味のある人にとって、行ったことがない先の話は旅先でしか、話せ
ないため、ツアー仲間の情報交換は面白い上に、次の行先の選定の重要な場になる。
 彼女の質問の一つずつが鋭い。
・独りで参加するとしたら、何処がよいですか?
・息子と参加するとしたら…
・主人と参加するとしたら…
・息子を独りで参加させるなら… などなど。

息子と二人旅は、「ベネゼイラのテーブル・マウンテンとイグアスの滝」
次男と私たち夫婦と現に行ったので、間違いない。数億年の手つかずの
テーブルマウンティンの間を数人ノリボートで遡っていく醍醐味は…

夫婦二人ならば「北スペインの巡礼道路の旅」
これはパンプローナの牛追い祭りが組みこまれたのがよい。

息子の独り参加の返答に自然と出た行先は「イスラエル」と「インド」。
 だったと記憶している。 さすがに母親の目線で…
何で、「イスラエル」と「インド」ですかと食下がった質問。
「医師ともなれば、生涯のうちに人知れず?死なせることになる職業。
まだ学生のうちに、行っておかないと、一歩踏み出せと、10日、2週間の
時間がつくれない。まだ余裕のある学生時代に生きべきところです」と。

中国に10年近く赴任した経験を持つ隣席の「会の主催者」の突っ込みの質問。
「あと、一度だけの旅行先は、何処したらよいでしょうか?」に… 
即座に出た答えは「ケニア・タンザニア」。

そこで私自身といえは、旅行に参加するにギリギリの腰痛持ち。
それより、気力が、衰えて。

先日、借りた『街場の読書論』内容が、この対話を補足する内容である。
秘境、異郷先の光景は、まさに「聖域」に一線を踏越え立入る世界である。
                          〜つづく
・・・・・・
4432,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −4
2013年05月05日(日)
       ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 * ルート3:自分の小ささを客観視する道ー「1億7125分の1と、70億分の1」
今度は、時間――宇宙と生命の歴史1についてである。世界の人口からみれば、
私は70億分に1。宇宙年齢からすると、人の一生は1億7125分の1の存在。そう
考えれば、深刻に自分の生き様など考えることはない。その自分の枠組も
勝手な定義でしかない。自分など何ということはない。 やっと、それが
理解できるのが最期の最期とくる。そのことが分からないから、
「死ぬのが怖い」のである。 ー まずは、その辺りを抜粋してみるー
≪ すざまじく荒れ狂うひずんだ宇宙の中の、オァシスのような地球。
 光速で拡大することこそが普通である宇宙の中で、あたかも静かに見える
特殊で局所的な世界。そこに偶然生まれた人の命。なんとはかなく小さく特殊
な現象であることか。生命の誕生は、今から40億年前といわれている。 
地球誕生から6億年経った頃。霊長類が誕生したのは、6千5百年前。
現生人類であるホモ・サピエンスが出現七たのは25万年前。中国その他で
文明が誕生たのが今から6千年前(から9千年前)。そういわれても、どれも
大きな数字すぎて実感がわかない。そこで試しに、137億年前のビヅグバン
を、1月1日の午前零時、現在を一年後の12月31日の24時にたとえると。
つまり、宇宙の歴史を137億分の1に短縮してみると―― 
・ビッグバンは、1月1日午前零時 ・地球誕生は、8月30日 
・生命の誕生は、9月15日 ・霊長類が誕生したのは12月30日午前
 6時26六分(新年まであと1日と約18時簡) 
・原生人類のホモ.サピエンスが出現したのは12月31日午後11時50分 
・中国などで文明が生じたのが新年まで14秒前 
・人間の命は、80歳まで生きるとして、0・18秒。宇宙の年齢の、1億
 7125分の1。ちなみに、宇宙の直径が274億光年、人間の身長が
 170センチだとすると、人間の大きさは、宇宙の大きさの1・44×10
 の25乗分の一というとてつもない小ささだ。それに比べ人間の一生は、
 宇宙が経た時の1億7125分の1。時間の差は、空間の差よりもはるかに
 小さい。これは意外な気もする。1億7125分の1とは途方もなく小さい
 とお思いかもしれないが、地球の人口は70億人。あなたの心は、地球上に
 ある人間の心の70億分の1に過ぎない。一億7125分の1はそれよりも
 約四十倍も大きい。意外と宇宙の中での人間の一生も長いという気がしないでも
 ない。とはいえ、宇宙の年齢を一年にたどえると、人間の一生は0・18秒。≫
▼ 前にも書いたが、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している
 可能性があると知って世界観が変わった。上記のことすら、問題にならない。
ケセラセラだが、当面、死ぬまでの生活もある。一日一回、このような壮大な
宇宙と、その中の自分を考えればよい。象を世界に、その皮膚の間に住む寄生虫、
70億分の1の自分。その象も、この宇宙からみれば、10の500乗の宇宙
からみれば、チリですらない微細の存在。だからこそ、生きているうち!

・・・・・・
5529,若者よ、外に出よ! ー�� 会話は、プチ礼賛から
2016年05月05日(木)
               『人生の教科書』なかにし礼著
  * 対話ならいいが、どうも会話が苦手で
 リタイア後、、新しい出会いの場が極く稀になった。スポーツジムとか、
数少ない飲み会の場で、話したことがない人との会話が出来ない。
学生時代に、カーネギーの『人を動かす』の <人を動かす三原則>や、
<人に好かれる六原則>などを読み、実践してみたことがあったが、
効果は抜群だった(後でコピー)。年齢とともに、これらを忘れていた。
 その一つが「プチ礼賛」の勧め。これに「ありがとう」の口癖を
加えれば会話導入は効果抜群のはずだが、何時の間にか脱落していた。
 早速、兄弟の49日法要で、久々に会った親戚との会話に「プチ礼賛」を、
応用したところ、会話が捗っていた。要するにリタイア後に、何もかも
メンテをすべきだったのである。 <会話は「プチ礼賛」でうまくいく>を、
ほぼ全文、コピペし、考える。会話は真実より礼賛に重きをおくべし。
対話は真実の交換、掘り下げということ。男は対話、女は会話が似合うが。
≪ 日常会話で必要な会話術とは、自己紹介に始まる。自分のことを、嘘を
 交えてもいいから、面白く話せるかどうか。自己紹介イコール自己表現だし、
相手に自分を理解してもらうのは一番大事なことだと思う。そうすると相手も
自己表現するから、お互いが理解し合える。そしてプチ礼賛をすること。
 パッと会ったときに必ず相手を褒める。これは、日本ではなく、外国の流儀。
外国では当たり前の常識になっている。周りがゴマをすっていると思ったと
しても、そんなことはかまう必要はない。たとえば、服を褒めるとその服を
選んだその人を褒めていることになるわけだから、「素敵ね、これ、いくら?」、
「1900円」、うわ1最高」と褒める。しかし、うわべだけの礼賛だと底が割れて
しまう。真実そう思うように自ら努力することだ。そうすれば顔に嘘は出ない。
なぜかというと、相手を喜ばせなければ話は始まらないから。
中には「服を褒めないで私自身を褒めて」って言う人がいるけど、よっぽど
ヘソ曲がりなんだ、そういう人は。さて、人を褒めるときにほかに何を褒めれば
いいのか。実はなんでも褒められる。背が低ければ低いことを褒めればいいし、
背が高ければ高いことを褒めればいい。出身地を聞いたら、「あそこは大好き
なんですよ」と言えばいい。最初は嘘が混じっていてもいいが、次第にその
気持ちが本当になっていくものだ。だから人に会ったら、なんとなく褒め、
逆に褒められたら褒め返す。これはゴマすりではなくて、会話の糸口なのだ。
会話の小ネタといってもいい。そこから本題に入っていくときに、お互いに
気持ちのいいスタートを切るための潤滑剤だと思えばいい。≫
▼ 褒めるだけでは、ありきたり。そこで、「プチ礼賛」まで、心から褒め
 ないと相手の心は開かない。礼賛すると、みるみる、顔つきが変わっていく。
そうは礼賛されないため、心の奥から褒めると、それが礼賛になっていく。
好かれる前に、まずは人好きにならないと! それにしても、オバちゃんの、
あのフレンドリーは見上げたもの。 まずは褒める、その手際の良さ。
 ――――
  =人に好かれる六原則=
1.誠実な関心を寄せる
2.笑顔を忘れない
3.名前を覚える(名前は、当人にとって、最も快い、
 最も大切な響きを持つ言葉であることを忘れない。)
4.聞き手にまわる
5.関心のありかを見抜く(相手の関心を見抜いて話題にする。)
6.心からほめる(重要感を与える――誠意を込めて。)

・・・・・・
5164,パレーシア 〜真実を語ること
2015年05月05日(火)
  * ソクラテスのパレーシア 
            〜『哲学で自分を創る』瀧本往人著より
 危険を冒しながら真実をかたること。これがパレーシアだが、とはいえ、
社会において、その実行となると難しい。このブログを書き続けていると、
己の程度を曝け出し、多くの人を揶揄し傷つけてきた。気遣っていてもである。
想定の対話の相手を、数年先の自分にしているが、後で読み返し、第三者の
目を想うと冷や汗が出ることしばし。しかし、飾っていたら、長続きをしない
ことを自分が一番知っている。 〜以下の箇所は、哲学の本質を述べている。
≪ ソクラテスにとって最も大事なのは、相手をやりこめることではなく、
 自分の魂を磨くことであった。そのために命懸けで対話を行った。
この営みは「パレーシア」(真実を語ること)と呼ばれている。パレーシアとは、
危険を冒しながら真理を語るという実践を意味するギリシア語。ソグラテスが
裁判の際に立ち向かったやり方が、まさしくこのパレーシアである。
 たとえ心の中で真理が発見されたとしても、「私が思う」だけでは、それは
パレーシアとは無縁なのだ。パレーシアを通じた魂の鍛錬こそ、命のあるかぎり
やめてはならず、見返りを求めることなく、純粋な熱意に発した無償の責務で
あり、かつ、個人の内面的な人生訓にとどまるものではなく、結果的には他者や
共同体にとっても有益なものである、と考えられた。それゆえ、政治家になり、
ポリスを統治し他者の魂を気遣いたい者は、まず自分の魂を気遣うべきである、
とソクラテスは強調する。自分を気遣わない者は統治者としては不適格なのである。
ここには、身の魂の鍛錬に専心することが、他者や共同体を気導つことよりも
優先されるいという揺ぎのない確信が表明されている。 ・・(略)
ソクラテスの対話術は、自らの主張を他者に受け入れてもらうための(もしくは
認めさせるための)技術ではなく、相手に「問いかけること」、相手の主張を
「聞くこと」に主眼があった。そもそもこの「無知の知」の重要性は、この
「聞くこと」のための手法という点にあったのである。何かを「知っている」
から語るのではなく、何も知らないか、もしくは何ごともよく分かっていない
からこそ相手から何かを引きだそうとする。パレーシアの原点はここにある。
それゆえパレーシアとは「実直に語ること」ではあっても、単に一方的に
「包み隠さず語る」ということではない。ソクラテスのパレーシアは、政治家の
ように多数者に向かって語るものではなく、密接な一対一の関係が必要である。
またこの対話は、自分が主役としてふるまうのではなく、相手の話を引きだす
ようなやり方で行われる。それゆえ相手はソクラテスに導かれながら自分自身に
ついて語ることになる。 ここで、注意しなければならないことがある。
率直に語ること、もしくは相手の言葉に耳を傾けることは、後にキリスト教文化
ならびに精神分析においては、「告白」という形態をとって展開され、あたかも
地続きのもののように理解されることがある。だが、この両者は異なる。
パレーシアにとつて重要なのは、自分が語ることができる「ロゴス」(つまり
論法と言葉)が、自分の生き方と確固たるつながりがあることなのである。≫
▼ 成るほど、飽きもせず、連日、書き続けているのは、いまここの私が、
 数年先の、いまここの私に向け話している実感があるため。そして、近未来
の自分の感想を想定することで、私自身を見つめることになる。これを公開
するのは、あまりに危険だが。また、公開しないと続かない弱さもある。

・・・・・・
5894,本物の教養 −4
2017年05月05日(金)
         <人生を面白くする 本物の教養 〜出口治明 (著) > 
   * 日本のリーダー層は勉強が足りない
 平和ボケをした日本は、リーダー層だけでなく、国民全体の教養度が大きく
低下したようだ。島国のため同質が求められ、それが、思考能力を削いでいる。
「和して同じず」の諺があるが、現実には、それぞれの意見を持つことが、
不協和音とされ、全会一致こそ最善とされる。島国もあるのだろうが。
 ここも、目次そのままを繋げると、要約になる。
  ――
    ―目次ー
 謙虚でなければ教養は身につかない 
 「この人は面白そうだ」と思ってもらえるか 
 面白さの源は「ボキャブラリー」 
 「広く浅く」でなく「広く、ある程度深い」素養が必要 
 決定的に重要なのは「自分の意見」を持っていること 
 欧米の若者とはすでに大学の段階で差がついている 
 学生が勉強しないのは会社がそれを求めないから 
 「考える力」をつけさせる連合王国の教育 
 「学生には自国の没落をリアルに認識してほしい」 
 自分の頭で考えないほうが都合がいい社会 
 「終身雇用、年功序列、定年」の特異な労働慣行 
 世界標準では日本の企業幹部は圧倒的に低学歴 
 これまでと同じ戦略ではもうやっていけない 
 日本にはまだかなり伸びしろがある 
  〜要点を抜粋する〜
【 ライフネット生命を創業する前、連続して合計六年間ほど、主として
 外国人相手の仕事をしたことになります。そのときの経験で痛感したの

    〜字数制限のためカット


6623,つれづれに哲学 〜属事思考と、属人思考と、属場思考

2019年05月04日(土)

   * 想いだすのは可愛い… 
 それぞれの是非を正しく判断するには、
・「この人の言うことだから」というだけで是非を判断してしまう思考法を、
 社会心理学の世界では「属人思考」といい、
・もう一つは、「人」に対する怨念や敬意を脇に置いて、意見そのものを
 吟味しなければいけない思考法を「属事思考」という。「人」とは関係なく、
 1 つ1つの「事柄」を見て判断を下す考え方だ。
この2つがあるなら、『属場思考』があって然るべきだが…
「以前、勤めていた会社で…」が、これ。
その会社の何々さんとなると、属人思考になる。
そこで、こんなエピソードが…「属事思考」になる。
 
現場の一線からリタイアをして8年になるが、想いだすのは属人思考が多い。
金沢であった何々… 仕事の云々は、ほぼ忘却の彼方。心に残っているのは、
属人思考の場合、相性の良かった女性を想いだすことが多いのは仕方がない。
人の心は、これまでの、この3つ、属事、属人、属場思考が大きく占めている。
様々な職業の属事で、それぞれの属場があり、属人との邂逅が、その人生になる。
「若い自分に旅をさせろ!」は、全く、そのとおり。質量を重ねたのがキャリア。
それぞれの地域で、気ごころが知れた美人が、花を添えていたような。
地産地消ではないが、その時々の、属人の中で… 浅く、広くが、正解?

この3つの思考から、属物思考たる言葉が思い立つ。学生時代のステレオとか、
着ていたカジュアル着とか、当時、乗っていた車とか。愛用していた腕時計
など、モノから着想する方法がある。私のライフワークに、「秘・異様ツアー」
で、地球上の文化・文明、大自然の光景の、みて歩きがある。そこで、自ずから、
その場で、それぞれの感動と感激から、様ざまの違った思考から世界と自然を
垣間見ることになる。私にとって、直接触れることが出来た、世界への窓。

・・・・・・
6260,閑話小題 〜17年書き続けると
2018年05月04日(金)
   * 5月4日は、このブログ開始記念日
 このブログは、私の人生を根底から変えてくれた。
まる17年間、6260回も続けてきた。学生時代に、基礎教養不足に気づき、
読書習慣と本屋通いを習慣に取入れた。読みっぱなしのためか、
読んだ割に知識が身に付いてなかったことに焦りがあった。55歳時に、
何とかパソコンを我が生活の中心に取り入れたいと近所に出来たての
PC教室の通うことにした。当時は、ブログは出始めた頃。
「個人HPの作成の過程でネット社会に近づくこと」を目的にした。
以来、現在に至っているが、2007年12月から、「はてな」のブログを
始めて10年あまり、今では、来訪者は、ほぼ「はてな」に移動した。
 しかし個人HPの「内部検索」が、私にとって非常に効果的になっている。
以下にコピーした過去のテーマは、これによる。例えば、「イスラエル」と
検索すると、数秒もしない内に、時系列で現れ出てくる。脳のクラウド化の
感覚が何とも奇妙。写真も、然り。 下記の中に書いてあるように、学生時代
のカード日記作成の下地」がある。下記も「カード日記」で検索したもの。
 ある意味、潜在意識化された記憶をキーワードで引張り上げが可能に…。
ささやかだが、私には、非常に効果的システムである。TVで「タンザニア」
の放映があれば、タブレットで検索すれば、たちまち当時の記憶が鮮明に
現われ出てくる。若者、子供が、こんなことより遥かに情報機器を使い
こんでいるのだから… 情報化社会の一端を連日、目の当たりにして、
その面白さ、楽しさを充分に満喫できる日々が信じられない感がする。
 何事も一万時間か、10年続けることですか。
――――
2016/12/08
なぜ本を読むといいか? 〜7
        <本を読む人だけが手にするもの>藤原和博著
  * 確実によい本に出合う方法はあるのか?
 本の選択能力を磨くには、どうしたらいいか。
“どのよんなジャンルでもいいから、数にあたることが大切”と著者はいう。
あたり前のことだが、その中で、著名人の読書指導書を、何処かで読んでおく
べきである。ツボを心得ているかどうかで選択肢が変わってくる。
それ以前に、あらゆるジャンルの絶対量の読書が必要になる。
 〜その辺りを、第5章に具体的に述べてある。
≪・“こうしたよい本に出合う機会は、当然のことながら、読書の量を
 重ねれば重ねるほど多くなる。「これだ!」という本を数えたことがない
から確かなことはいえないが、私の場合、おそらく300冊ぐらいだろうか。
300冊という数字だけを見れば多いかもしれないが、それでも3千冊読んで
の300冊だ。9割の本は、私の感性には引っかからなかったということ。
でも、それで損をしたとは思わない。無駄な本に出合わずに効率的に本を選ぶ
ことなど、どだい無理だと思っているからだ。
・また、他人の脳のかけらをつなげて新しい視点を獲得したいと思うならば、
自分には相場観のないジャンルや著者の本を手に取ることも大切だ。相場観を
持たない世界では、だれだって効率もクソもない。全く外れになる可能性も、
おおいに歓迎しよう。そのリスクを取ることで、リターンが得られるのだから。
・大事なので、結論を繰り返す。
本当に自分に必要な本と出合いたいと思う人には、「乱読」の習慣化をすすめる。
予想もしなかった考え方に出合ったり、本を介して未知の人物との遭遇が将来
起こる可能性もある。その化学反応は、読む前にはわからないことが多い。
本に即効性を期待する人もいるが、私は違うと思う。
本1冊の値段は文庫本で500円前後、新書で700円〜900円、単行本で
1300円〜2000円程度である。買ったうちの9割がダメでも我慢できる。
外れる確率は高くても、偶然の出合いがあるほうが、よほど面白い物語に
なると思う。それは人生における人間との出会いと変わらない。 人生における
偶然の素晴らしい出会いを、効率的に設定することなどできはしない。
本との出合いも、同じなのである。数をこなそう。≫
――
▼ 現実の体験や読書評を連日書いてきたが、一つのテーマに対して、
 その選定から、起承転結をマトメルに膨大のエネルギーを入れている。
文字の認識度が低いためである。子供の頃から漫画が好きで、絵からの
認識度があるが、読書脳は希弱のベース。 まして、文章化など・・ 
 それに気づいたのが学生時代。それを取り戻す為、毎日2時間以上の読書量
の確保と、日記と、メモを小まめにとることにした。 で、辿りついたのが、
ブログ、この雑記帳的随想日記である。 大学を卒業直後、何か足りないと
気づき、一年間、独学に近い状態で、産能大学で遊学。フィールド(現場)の
情報を効率よく残すには、如何すべきか? そこで得たのが、記録方法。
この随想日記の原型の方法、カード日記である。それも、大型カードに、
記録を残し、日付を入れて、毎日、得た知識のカード化。新聞切抜きは、
それを二枚重ねホチキスでファイル状にして、カードに挟んで茶封筒に入れる。
 ところが、これに問題が生じてきた。そうすると、最少単位のテーマを
二度と見ることがなくなる。その弊害が、その習慣の自然消滅の原因になって
しまう。 現在のブログに、毎日、同月同日の文章をコピペをしているのは、
かって書いた内容を、一年に一度、目を通す為である。また、ブログ内検索で、
思い出すキーワードで過去文を瞬時に引出している。実際、この随想日記は
私には非常に有効なシステムになっている。「私は無能で、遊び好きで、怠け者」
と自覚しているため、習慣化という第二の天性を多く重ねるしかないことを、
人生で学んできた。 他者の冷たい蔑視に、殆ど気にしないでいられるのは、
<少し離れてみれば、所詮、石の形、大小が違えども、砂利、砂でしかない> 
 を自覚しているため。 良質の量の増加は、質の自然変化を促す。それも、
 砂利の中の比較世界の話、アフォと、パーの違い。
トランプとクリントン女史の討論を見れば、自明? 韓国の女子たちも然り。
すると、安倍・麻生コンビも如何だろう?と 自然考えてしまう。・∀・)ニ 

・・・・・・
2005年11月03日(木)
1675, 「自薦エッセイ集 魂の光景」−1
                      −読書日記
「創造する心 日野啓三対談集」につづいて、図書館から
日野啓三著「自薦エッセイ集 魂の光景」を借りてきた。
読めば読むほど、日野啓三の深い洞察に驚きざるを得ない。
数年前に亡くなったが、1990年代、60歳代に入ってから大きな
手術をし、死と向き合うことによって、一段と深い所に達したようだ。
心の奥底に、先祖たちの、生物のあらゆる記憶の存在を感じている。
神秘思想に非常に近いところにいる。 しかし同時に心の奥底に、
神秘思想のところがありながら、「意識は脳の働きである」という
意識を明確に持ったまま、心の奥深い世界を描写している。
 印象に深い章から抜粋しながら考えてみる。

ー「書くことの秘儀」ー
”小説を書くってことは、なにひとつ実在しないところから、
リアリティを生み出すことだ、”
”だが死は恐怖であると同時に、生をより自覚的に劇的に物語的に、
悲壮の輝かしく喜ばしいものと痛感させる条件ではなかっただろうか。
死者を弔い。祖霊、神霊への祈り、祭り。
それに伴う様々な建築物、道具、装備品の洗練。 歌と壁画。
食って寝て性交をして子供を育てる以上の膨大な事柄が、
われわれの生を満たすようになったのだ、意識と言葉の進化によって。
一口に言語といっても、他人とのコミュニケーションのための話し言葉と、
ひとり物思い思考しその過程と結論を刻みつける書き言葉とは、
ほとんど異質なものである。 新人を、その抽象的・象徴的能力を
特徴づけるのは、書き言葉とその洗練である。

”「書くことは、話し言葉の領域とは違う領域からやってくる」
「当人は口をきかない、別の人格の言葉なのだ」
本当に、このことはとても微妙で重要だ。
<「別の人格」とは何のことか>ユングは「神話的元型」といった。
インディアンの祈祷師マツゥスは「沈黙の知」といった。”

”自分自身の言葉で自分自身の想念、思考、予感、物語を書く人は、
よく知っているはずだ―文章を書き進んで自然にふしぎな加速度がついて、
自分の内部がどんどんめくれ上がって、何者かに乗り移られたような状態に
なる瞬間があることを。 以後、自分はいわば巫女のように、自動筆記機械
のように、その正体不明の何者かの、言葉以前の暗い想念のエネルギーの
ゆらぎを言葉に翻訳するような具合になることを。”

”少し落ち着いて考えてみれば、”自分の言葉”などないのだ。何万何十
万年の間に数え切れぬ人々の体験と感情と思考が折り重なり、まといつき、
溶けてはまた固まってでき上がってきた言葉の連なりのシステムがある。
ただしとても曖昧で重層的なシステムだ。”

”より自分に近く言葉を使う人の方が、もの言わぬ「別の人格」あるいは
「沈黙の知」に、つまり自分を超える何者かに近づき触れることができる。
心ならずも近き触れて、その無言者の代弁ないし通訳になってしまう。”

”自覚的に書く人―書く前からわかっていることを他人に伝えるためにではなく、
書くことによって自分の奥の、あるいは夜の果ての何かを呼び出して、自分を、
世界を少しでも意識化しようとして書く人、すなわち職業的にではなく運命的に
”書く人”である人=作家にとって、書くという事態はそういうことである。
神秘的とまで言わないにしても、逆説的、背理的な異様なことである。
彼あるいは彼女を駆立て支えるものは、そのように<自分のために書くことが
(特定の読者層に向かって書く作家より)、より普遍的な声に至るであろう>
という信念というより信仰に近いものだ。”

”少なくとも結果の保証のない賭け。
賭け金は自分でもよく分からない自分の生涯の体験の闇の奥行と自己判定
不能の才能。確実に失われるのは、保証された人生の幾つもの現実、
その安定と安心。”
ー
読んでいるといつの間にか、深い心の底に導かれてしまっている。
[深いことを書くこと]は、読者を深いところに導くことになる。
・・・・・・
2017/08/25
閑話小題 〜 随想日記、6000回超え、

   * 随想日記も、6千回超え
 千回単位を超えた度に、その時々の実感を書いてきた。この16年と数ヶ月の間、
‘テーマ探し’が、遊びの柱になっている。 凡庸な者が書上げるには、膨大の
時間とエネルギーを使うしかないのが最大の利点になるが、時おり何も浮かばず、
茫然とする。 この下地が20歳半ばにあった。卒業の直後に感じたことは、
「長い人生で、多くの経験をするのだろうが、それを高めるため、現場体験や、
情報をコンパクトに纏める能力( =経験を言葉に変換し、起承転結に完結する
物語化する技能)こそが重要と… そこで会社を辞め、産能大に籍を置き、KJ
法や、創造工学の書を独学で学んで、辿りついたのが、ハガキ大のカード二枚を
ホチキスでとめファイルにし、カードに感想文などを書き、その間に新聞やメモ
を挟み、カードボックスに分類して放りこむ、システムである。それそのままが、
個人HPであり、ブログになっている 16年前に、ネット上のブログとして公開、
外部脳として、活用している。 情報収集に検索と、ネットサーフィンが非常に
有効に働いている。まだ、ブログが出揃う前後で、パソコン教室で「個人のHP」
の共同制作を通して、ネットに別世界をつくり始めていた。現在でも、細菌対策
のバックアップの役割として続いている。これは、ブログ閲覧の10分の1以下
だが、当初からの閲覧者が根強く存在している。6千回も続くのは、それなりの
軌跡があってのこと。批判・批評なら誰も出来るが… 好きにならなきゃ無理。
 2つの合計、350人前後の閲覧者が、今年に入って500人近くに増えた。
少しでも力を抜くと、即、減るため… 抜くに抜けないのが実情。結果、馬鹿
丸出しになる。自覚をしているため、平気だが… 
 要するに、「ライフワークになってしまった」ということ。
――
2014/11/22
閑話小題 ー今日で5000回!
   * この随想日記も5千回
 気持ちを入れた文章は足跡として残る上に、過去の同月同日に、再び、
その時の自分と出会える。5千回は、以前より大きな目安としていたので、
やはり感慨が深い。とにかく続けることだが・・
 この随想日記と、50回の海外ツアー(来年達成)と、新潟駅前事業が、
この30年の大きな行蔵だが、これ、何の価値(意味)があるの?と、改めて
問いなおせば、何もない。ただ、ひたすら生きてきた中で、これがあっただけ。
面白く、厳しい場面が多くあったが、悔いは無い。いや、そう思うしかない。
 読み返すと千回までが大変だったのが見てとれる。 5分遅れでアップできな
かったことが一回あったが、我ながら五千回もよく続いたもの! 
 学生時代に日記と、卒論を書いた以外は、社内報に二月に一度、書く以外は、
殆ど書くことはなかった。それまで本を読みっぱなしで、ダイアリーにメモ書き
で残す以外、感想も、要約も書き残すこともなく、一番大切なことをしてなかった
ことに気づいていた。そこでHPの存在を知り、記憶の雑記帳としてネット上に
公開すればと、思い立った。そこに、通勤途中に開業したばかりのパソコン教室
を見つけて本格的にのめりこんで行った。当時は、まだブログの出だしの頃で、
手作りのHPだった。それが、今でも、エンピツの「随想日記」と、「分類」
として続いている。 そして7年前に、この二つのフォロー用に始めた「はてな」
のブログに、読み手の殆どが移動してしまった。そのことに気づいたのが一月前。 
13年の日時もあって、「ヤフー」のブログを加えると、300人の閲覧。
もっとも、最大のファンは、同月・同日の自分と、未来の自分だが。
アップをした瞬間、その全てを忘れるため、読み返すと奇妙な気持ちになる。
なるほど、言葉は言霊! 「その瞬間の自分は、集中すればしただけ残るんだ!」
を、読み返すと分かる。ーまずは初回からー
――
4000, 4000回の随想日記
2012年03月08日(木)
 千、二千、三千回目に、それぞれの感想を書いてきた。旅行中も「書きだめ」
をしたのを知人に頼んでアップをしていたのでほぼ休まず書いてきた。自分でも
11年近く四千も連続して書いたと驚いている。次は五千が目標になるが、四千回
を契機に、時どき休むことにする。 また五千回に到達した時点で半年位は休む
つもりである。この程度の文章は誰でも書けるが、一応自分で納得した内容を
書き続けるのは大変である。充実感があり、習慣化したから可能だった。
「チョット聞いてよ。こんなことがあったよ!」という長屋のハッツァンが、
クマサンに自慢気に話している感じである。もちろん、自分のために整理し知識と
して残すのが目的だが、せっかくの獲物?を共有することで、学び続ける動機づけ
にしている。気楽に、面白可笑しく、バカ丸出しで、地頭で、書いたため、その
まま伝わっていたはず。それも四千ともなると、自分の脳内そのものでもある。 
自分の貯めた文章を毎朝、同月同日分を読む楽しみは格別。今では、その日書いた
分を含めると11年分の同日の自分に出会っている。書いたことも、その内容も、
ほぼ忘れた文章が、早朝に読み返すのは不思議で奇妙な感覚になる。だから倒産
とか、それに関わる嫌な日々も、この御陰で毎朝、心が洗われる。文章を起承転結
でまとめるのはプロならいざしらず、気力が無いと無理。 但し、一度、その習慣
をつければしめたもの。 しかしブログに字数制限があるため、当日分の書いた分
だけ、過去に書いた文章をカットする。それが、身を切る思いになる。
しかし、それが好い加減な文章を書くと数年もしないうちに、自分の手で削除する
ことになるので、内容の質を落とせなくなる効用がある。 文は、一度書き、
アップすると、あとに戻せない。何気なく書いたために明らかに傷をつけた人が
何人かいる。 注意はしているが、厳重な注意が必要だが、それが見えなくなって
しまう。時系列に書き続けていると、ある意味で、メモ帳、雑記帳にもなるが、
毎日、書き連ね、別ボックスに分類すると、違った意味で、価値が出来てくる。
また分類ボックスの一番下に、過去に書いた文章の検索が可能になっている。 
時々、検索をすると、キーワードの入った文章が出てくる。もし、秘境旅行、と
入れれば、過去に書いた文章が時系列に出てくる。これは記憶の検索になる。
――
3000、3000回か〜
2009年06月22日(月)
 この随想日記が3000回になった。1000回、2000回の時ほどの感慨がない。
書き続けることに慣れてきたのだろう。 誰に頼まれたわけじゃなし、ただ習慣
だから続けているだけ。確かに、続けているとプラスにはなる。考えざるを得ない
からである。それと、常に何か書く材料がないか注意を周囲に向けるようになった。 
その現場で、キーワード探しと、その組み合わせをするようになっている。書く
ことを職業にしている人は、考えることを職にしていることになるが、紺屋の
白袴で…? ところで、千回、二千回の時に何を書いていたか、調べてみた。 
なるほど、今回も同じような気持ちである。ふと、気づいたが、自分とは時間の
経過と同時に広がっているということ。それと、心の底の変わらない‘X’が
魂ということになる。


6622,閑話小題 〜AIについて

2019年05月03日(金)

    <「AIが人間を殺す日〜車、医療、兵器に組み込まれる人工知能」
                        小林雅一(著) >
 最近の情報機器の進化には目をみなることが多々ある。数年前に、居間
から寝室に移住空間の主体を移動してきたことは、何度もテーマにしてきた。 
廊下を挟んで対角にある仏間の書斎コーナーのパソコン前の空間を加えると、
一日の三分二に近い15時間は「奥の院」に在住している。そこでネットTVと、
録画した映画・ドラマと、旅紀行、各種の講演や、YouTubeで動画サーフィン
などに没頭する。そこは現実社会とデジタル映像の世界が交差する不思議な
空間でもある。AIが人間をコントロールする可能性がある「2045年問題」
奥の院では睡眠以外の時間は情報端末で、コントロールされている。
  
  〜Amazonの内容紹介より〜
≪   ◉ 誰も言わない「一番の脅威」 ◉
 飛躍的な進化を遂げる人工知能(AI)。明るい未来が語られる一方で、
「AIに雇用が奪われる」という見方や、超越的な進化を遂げたAIが人類を支配する
「二〇四五年問題」などのAI脅威論も少なくない。しかし著者はむしろ、目前に
迫る危機として、車、医療、兵器の三つを挙げる。共通するのは、私達の命に直結
する分野であること。ここに今、最先端のAIが導入されようとしているが、中身の
見えないブラックボックスであるうえに、ときに暴走の危険性をはらむ。
世界の制御権が人間からAIへと移譲されたとき、その先に見えるのは自ら判断
する機械・システムが人の命を奪う衝撃の未来。AIの真の脅威が明らかに! ≫
   〜読者、感想より〜
・本書でキーワードとなるのは、「Human in the Loop」「Human out of the Loop」。
すなわち制御の輪の中に人間を含めるか、それとも人間を除外するかということで、
自動運転車でいうと、Googleなどが目指しているような完全自動運転車は
「Human out of the Loop」の思想に基づくものになる。今やAIの主流となる
ディープラーニングではビッグデータに基づきAI自身がある法則性の下でアウト
プット(判断や命令など)を出すが、その過程はブラックボックスでAIの開発者
でさえなぜそういう判断になったのかを理解することができない。AIの判断が
統計・確率に基づくものである限り、現実世界との微妙な誤差により誤った判断
をする危険性があることを著者は指摘しており、自動車や医療分野など判断が
人の生死に関わる分野では「Human out of the Loop」は危険であると論じている。
一方、半自動運転車のように人間の関与も含める形の場合は、どこまで人間が
運転に注意を払わなければならないか曖昧な点が問題、実際に実用化されている
半自動運転車の死傷事故の分析では「ドライバーの混乱」が事故の主な原因と
されている。ということで、AIの判断にどこまで人間が関与するかは難しい問題
であるが、急速な勢いでAIの開発と応用が進んでいる今こそ社会全体で考えて
いかなくてはならないことは間違いないであろう。
・本書では、主にAIの技術的な面に焦点を当てて論じているが、基本的にAIの
判断過程がブラックボックスでしかもIoTで様々なAI搭載機器がネットにつながる
時代では、悪意を持った個人やテロリスト、国などによる脅威もどんどん高まって
いるだろう。自動運転車搭載のAIに外部からの操作で誤作動をさせて事故を起こす、
医療分野で治療を支援するAIのプログラムを操作して誤った治療方針を提示させ
結果患者を死亡させるといったケースがまったくあり得ないことではない時代に
なりつつある。AI搭載の兵器がテロリストなどの手に渡った際の脅威は言うまでない。
こういったケースも想定した上で、AIの信頼性を更に高め、悪用を防ぐ方策を
考えていくことが特に人間の生死に直結する分野への応用においては重要であろう。
―
▼ AIといえば、最近、コマーリャル等で、見かける『ポケトーク』。
 翻訳は、端末ではなくクラウド上のエンジンを用いている。そのため、言語
ごとに最適な翻訳エンジンが活用できる。 従来のオフラインの翻訳機ではなし
えない高度な処理を実現している。これで海外旅行での会話の心配が少なくなる。 
 これをみて、直ぐに考えついたのが『ポケフレンド』。何かを思いついたとき、
話しかけると、即座に、自分では考えつかないレベルの面白い考えを自動的に
伝えてくる機能の端末…。そう遠くない内に、こんなのが出てきたら、如何なる? 
これは思考AI、いや思考サイボーグである。協働ロボットならぬ「協考AI」。
もっとも、グーグルの検索機能も、その類。 自宅の2台のTVはソニーだが、
パナソニックのTVは、音声で直接呼びかける機能と言うが…

・・・・・・
6260,閑話小題 〜17年書き続けると
2018年05月04日(金)
   * 5月4日は、このブログ開始記念日
 このブログは、私の人生を根底から変えてくれた。
まる17年間、6260回も続けてきた。学生時代に、基礎教養不足に気づき、
読書習慣と本屋通いを習慣に取入れた。読みっぱなしのためか、
読んだ割に知識が身に付いてなかったことに焦りがあった。55歳時に、
何とかパソコンを我が生活の中心に取り入れたいと近所に出来たての
PC教室の通うことにした。当時は、ブログは出始めた頃。
「個人HPの作成の過程でネット社会に近づくこと」を目的にした。
以来、現在に至っているが、2007年12月から、「はてな」のブログを
始めて10年あまり、今では、来訪者は、ほぼ「はてな」に移動した。
 しかし個人HPの「内部検索」が、私にとって非常に効果的になっている。
以下にコピーした過去のテーマは、これによる。例えば、「イスラエル」と
検索すると、数秒もしない内に、時系列で現れ出てくる。脳のクラウド化の
感覚が何とも奇妙。写真も、然り。 下記の中に書いてあるように、学生時代
のカード日記作成の下地」がある。下記も「カード日記」で検索したもの。
 ある意味、潜在意識化された記憶をキーワードで引張り上げが可能に…。
ささやかだが、私には、非常に効果的システムである。TVで「タンザニア」
の放映があれば、タブレットで検索すれば、たちまち当時の記憶が鮮明に
現われ出てくる。若者、子供が、こんなことより遥かに情報機器を使い
こんでいるのだから… 情報化社会の一端を連日、目の当たりにして、
その面白さ、楽しさを充分に満喫できる日々が信じられない感がする。
 何事も一万時間か、10年続けることですか。

――――
2016/12/08
なぜ本を読むといいか? 〜7
        <本を読む人だけが手にするもの>藤原和博著
  * 確実によい本に出合う方法はあるのか?
 本の選択能力を磨くには、どうしたらいいか。
“どのよんなジャンルでもいいから、数にあたることが大切”と著者はいう。
あたり前のことだが、その中で、著名人の読書指導書を、何処かで読んでおく
べきである。ツボを心得ているかどうかで選択肢が変わってくる。
それ以前に、あらゆるジャンルの絶対量の読書が必要になる。
 〜その辺りを、第5章に具体的に述べてある。
≪・“こうしたよい本に出合う機会は、当然のことながら、読書の量を
 重ねれば重ねるほど多くなる。「これだ!」という本を数えたことがない
から確かなことはいえないが、私の場合、おそらく300冊ぐらいだろうか。
300冊という数字だけを見れば多いかもしれないが、それでも3千冊読んで
の300冊だ。9割の本は、私の感性には引っかからなかったということ。
でも、それで損をしたとは思わない。無駄な本に出合わずに効率的に本を選ぶ
ことなど、どだい無理だと思っているからだ。
・また、他人の脳のかけらをつなげて新しい視点を獲得したいと思うならば、
自分には相場観のないジャンルや著者の本を手に取ることも大切だ。相場観を
持たない世界では、だれだって効率もクソもない。全く外れになる可能性も、
おおいに歓迎しよう。そのリスクを取ることで、リターンが得られるのだから。
・大事なので、結論を繰り返す。
本当に自分に必要な本と出合いたいと思う人には、「乱読」の習慣化をすすめる。
予想もしなかった考え方に出合ったり、本を介して未知の人物との遭遇が将来
起こる可能性もある。その化学反応は、読む前にはわからないことが多い。
本に即効性を期待する人もいるが、私は違うと思う。
本1冊の値段は文庫本で500円前後、新書で700円〜900円、単行本で
1300円〜2000円程度である。買ったうちの9割がダメでも我慢できる。
外れる確率は高くても、偶然の出合いがあるほうが、よほど面白い物語に
なると思う。それは人生における人間との出会いと変わらない。 人生における
偶然の素晴らしい出会いを、効率的に設定することなどできはしない。
本との出合いも、同じなのである。数をこなそう。≫
――
▼ 現実の体験や読書評を連日書いてきたが、一つのテーマに対して、
 その選定から、起承転結をマトメルに膨大のエネルギーを入れている。
文字の認識度が低いためである。子供の頃から漫画が好きで、絵からの
認識度があるが、読書脳は希弱のベース。 まして、文章化など・・ 
 それに気づいたのが学生時代。それを取り戻す為、毎日2時間以上の読書量
の確保と、日記と、メモを小まめにとることにした。 で、辿りついたのが、
ブログ、この雑記帳的随想日記である。 大学を卒業直後、何か足りないと
気づき、一年間、独学に近い状態で、産能大学で遊学。フィールド(現場)の
情報を効率よく残すには、如何すべきか? そこで得たのが、記録方法。
この随想日記の原型の方法、カード日記である。それも、大型カードに、
記録を残し、日付を入れて、毎日、得た知識のカード化。新聞切抜きは、
それを二枚重ねホチキスでファイル状にして、カードに挟んで茶封筒に入れる。
 ところが、これに問題が生じてきた。そうすると、最少単位のテーマを
二度と見ることがなくなる。その弊害が、その習慣の自然消滅の原因になって
しまう。 現在のブログに、毎日、同月同日の文章をコピペをしているのは、
かって書いた内容を、一年に一度、目を通す為である。また、ブログ内検索で、
思い出すキーワードで過去文を瞬時に引出している。実際、この随想日記は
私には非常に有効なシステムになっている。「私は無能で、遊び好きで、怠け者」
と自覚しているため、習慣化という第二の天性を多く重ねるしかないことを、
人生で学んできた。 他者の冷たい蔑視に、殆ど気にしないでいられるのは、
<少し離れてみれば、所詮、石の形、大小が違えども、砂利、砂でしかない> 
 を自覚しているため。 良質の量の増加は、質の自然変化を促す。それも、
 砂利の中の比較世界の話、アフォと、パーの違い。
トランプとクリントン女史の討論を見れば、自明? 韓国の女子たちも然り。
すると、安倍・麻生コンビも如何だろう?と 自然考えてしまう。・∀・)ニ 

・・・・・・
2005年11月03日(木)
1675, 「自薦エッセイ集 魂の光景」−1
                      −読書日記
「創造する心 日野啓三対談集」につづいて、図書館から
日野啓三著「自薦エッセイ集 魂の光景」を借りてきた。
読めば読むほど、日野啓三の深い洞察に驚きざるを得ない。
数年前に亡くなったが、1990年代、60歳代に入ってから大きな
手術をし、死と向き合うことによって、一段と深い所に達したようだ。
心の奥底に、先祖たちの、生物のあらゆる記憶の存在を感じている。
神秘思想に非常に近いところにいる。 しかし同時に心の奥底に、
神秘思想のところがありながら、「意識は脳の働きである」という
意識を明確に持ったまま、心の奥深い世界を描写している。
 印象に深い章から抜粋しながら考えてみる。

ー「書くことの秘儀」ー
”小説を書くってことは、なにひとつ実在しないところから、
リアリティを生み出すことだ、”
”だが死は恐怖であると同時に、生をより自覚的に劇的に物語的に、
悲壮の輝かしく喜ばしいものと痛感させる条件ではなかっただろうか。
死者を弔い。祖霊、神霊への祈り、祭り。
それに伴う様々な建築物、道具、装備品の洗練。 歌と壁画。
食って寝て性交をして子供を育てる以上の膨大な事柄が、
われわれの生を満たすようになったのだ、意識と言葉の進化によって。
一口に言語といっても、他人とのコミュニケーションのための話し言葉と、
ひとり物思い思考しその過程と結論を刻みつける書き言葉とは、
ほとんど異質なものである。 新人を、その抽象的・象徴的能力を
特徴づけるのは、書き言葉とその洗練である。

”「書くことは、話し言葉の領域とは違う領域からやってくる」
「当人は口をきかない、別の人格の言葉なのだ」
本当に、このことはとても微妙で重要だ。
<「別の人格」とは何のことか>ユングは「神話的元型」といった。
インディアンの祈祷師マツゥスは「沈黙の知」といった。”

”自分自身の言葉で自分自身の想念、思考、予感、物語を書く人は、
よく知っているはずだ―文章を書き進んで自然にふしぎな加速度がついて、
自分の内部がどんどんめくれ上がって、何者かに乗り移られたような状態に
なる瞬間があることを。 以後、自分はいわば巫女のように、自動筆記機械
のように、その正体不明の何者かの、言葉以前の暗い想念のエネルギーの
ゆらぎを言葉に翻訳するような具合になることを。”

”少し落ち着いて考えてみれば、”自分の言葉”などないのだ。何万何十
万年の間に数え切れぬ人々の体験と感情と思考が折り重なり、まといつき、
溶けてはまた固まってでき上がってきた言葉の連なりのシステムがある。
ただしとても曖昧で重層的なシステムだ。”

”より自分に近く言葉を使う人の方が、もの言わぬ「別の人格」あるいは
「沈黙の知」に、つまり自分を超える何者かに近づき触れることができる。
心ならずも近き触れて、その無言者の代弁ないし通訳になってしまう。”

”自覚的に書く人―書く前からわかっていることを他人に伝えるためにではなく、
書くことによって自分の奥の、あるいは夜の果ての何かを呼び出して、自分を、
世界を少しでも意識化しようとして書く人、すなわち職業的にではなく運命的に
”書く人”である人=作家にとって、書くという事態はそういうことである。
神秘的とまで言わないにしても、逆説的、背理的な異様なことである。
彼あるいは彼女を駆立て支えるものは、そのように<自分のために書くことが
(特定の読者層に向かって書く作家より)、より普遍的な声に至るであろう>
という信念というより信仰に近いものだ。”

”少なくとも結果の保証のない賭け。
賭け金は自分でもよく分からない自分の生涯の体験の闇の奥行と自己判定
不能の才能。確実に失われるのは、保証された人生の幾つもの現実、
その安定と安心。”
ー
読んでいるといつの間にか、深い心の底に導かれてしまっている。
[深いことを書くこと]は、読者を深いところに導くことになる。
・・・・・・
2017/08/25
閑話小題 〜 随想日記、6000回超え、

   * 随想日記も、6千回超え
 千回単位を超えた度に、その時々の実感を書いてきた。この16年と数ヶ月の間、
‘テーマ探し’が、遊びの柱になっている。 凡庸な者が書上げるには、膨大の
時間とエネルギーを使うしかないのが最大の利点になるが、時おり何も浮かばず、
茫然とする。 この下地が20歳半ばにあった。卒業の直後に感じたことは、
「長い人生で、多くの経験をするのだろうが、それを高めるため、現場体験や、
情報をコンパクトに纏める能力( =経験を言葉に変換し、起承転結に完結する
物語化する技能)こそが重要と… そこで会社を辞め、産能大に籍を置き、KJ
法や、創造工学の書を独学で学んで、辿りついたのが、ハガキ大のカード二枚を
ホチキスでとめファイルにし、カードに感想文などを書き、その間に新聞やメモ
を挟み、カードボックスに分類して放りこむ、システムである。それそのままが、
個人HPであり、ブログになっている 16年前に、ネット上のブログとして公開、
外部脳として、活用している。 情報収集に検索と、ネットサーフィンが非常に
有効に働いている。まだ、ブログが出揃う前後で、パソコン教室で「個人のHP」
の共同制作を通して、ネットに別世界をつくり始めていた。現在でも、細菌対策
のバックアップの役割として続いている。これは、ブログ閲覧の10分の1以下
だが、当初からの閲覧者が根強く存在している。6千回も続くのは、それなりの
軌跡があってのこと。批判・批評なら誰も出来るが… 好きにならなきゃ無理。
 2つの合計、350人前後の閲覧者が、今年に入って500人近くに増えた。
少しでも力を抜くと、即、減るため… 抜くに抜けないのが実情。結果、馬鹿
丸出しになる。自覚をしているため、平気だが… 
 要するに、「ライフワークになってしまった」ということ。


6621,閑話小題 〜女漫画家の『最後の授業』

2019年05月02日(木)

            最後の講義 「漫画家 西原理恵子」
「エンピツ」の読者の皆様、 今回だけでも面白い漫画写真が載っている
  https://horii888888.hatenablog.com/を覗いてください!

   * 赤裸々に生きる
 去年の8月に放映されたのを録って、保存用のブルーレイの盤に移行していた
のを、数日前に再びみた。面白いのは何度見ても面白い。この5月5日に再放送
するそうだ。 画家を目指したが、直ぐに断念。その技術を活かして生きるため、
歌舞伎町でホステス稼業をしながらエロ本を描いて生きつなぐ。 ところは
東京女子大で、100人の受講者を前に、「女の子の人生で覚えて欲しいこと」を
テーマに登壇、言いたい放題。西原について、これまで何回も取上げてきた。
シリアスで自分に正直であるところが好きだが、傍に絶対居たくない女性。

「もし今日が人生最後だったら、どんなメッセージを残すのか?」。
アメリカの有名大学で行われている「最後の講義」が日本でも始まる。
 西原理恵子のテーマは「女の子の人生で覚えて欲しいこと」。
貧困と隣り合わせの少女時代、エロ本イラストからスタートした漫画家生活、
アル中の元夫との壮絶な日々… でも全ては笑い飛ばせる!すさまじいパワー
はどこから? 「オトコを見る目」「仕事と母親」「新たな彼氏も?」

・“男”捨離!?
・「家族は助け合わなくていい」? 
・「うちは本当に楽しい家庭なのよっていう真っ赤な嘘を、13年つき続けました」
 没夫、鴨志田穣が、アル中になった時に、過ごした日々は、惨め、壮絶だった。
 これをめげる事なく乗り切った精神力には、畏敬の念すらおぼえる。。
 
・「ハタチまで貞淑でいなさい」って言っておきながらハタチになったらクソ
 みたいな男がウヨウヨ泳いでいる大海原に放りだして、「いいの見つけな」
 って言ってもさ、3人ハズレに当たってみ? 10年経ってるよ。キツイよね。
 男にはわかんないんだから二股、三股かけとけよって!
 
・「女の一途って、いけないことだと思うんです」
 「女の一途」は相手の悪いところが見えなくなる病気なんで。ちょっと
 “マイルドなヤリマン”でいいから、って言っているんですけれどね。

・「世の中は腐れちんぽばかりですから、うっかりくわえても決して恥では
 ないんですが、くわえているうちにどうにかなると思ってクチャクチャいつ
 までもくわえているのが一番いけません。ダメだと思ったらすぐに吐き出して
 ください」って
 
・失敗してほしい。元気でやってくれればいい。でも男に依存しないでねって。
 自分だけの人生を歩んでほしい。人生の舵取りを人に任せないこと。うまくいか
 ない自分の人生を、あの人のせいでこうなったって言い続ける人にならないで。
 
・この歳になって、私もいい受け身を取れるようになったんです。背中にいい
 感じの背脂もついて。50歳くらいになると失敗しても笑って起き上がれる。
 ヤワラちゃんみたいないい受け身が取れるようになった。
 
・娘もね、早くたくさん転んで受け身の練習をして早く笑ってほしい。
 失敗しない人はいないんで。人間はみんな転ぶので。笑ってればどうにか
 なるから。動きのいい転び上手なおばさんになってねって。
 ―
▼ <若い女は大よそ2億円ぐらい。それが20年かけてゼロになっていくの…>
 がよい。肉体に包まれた精神と欲求は、制限なく膨張しバランスが崩れていく。
肉体は生野菜と同じように日々、しおれ腐っていくシロモノ。そのギャップが
長年かけて露出する。それをそのまま笑い飛ばすため、それはそれは… 
作家の中村うさぎ、岩井志麻子、とくれば、「たしなみ」など「はみだし者」
の世間の価値観におさまらないオバケのような妖怪女たちだが、それ故に
面白さが格別。 改元の儀式を流し目でみながら、このような妖怪女たちは、
『何じゃありゃ!馬鹿か?』と思っているのだろうが… それにアヤカル…
いや、時が時だけに、ここでストップ! 令和の初頭から何で彼女になるの!
 
 〜以下は、過ってテーマにしたもの
――――
2017/07/06
洗って使える 泥名言 〜1     
        <『洗えば使える 泥名言』西原理恵子 (著) >
   * マンコ一回は数には入らん
 図書館の返却コーナーで見つけた、「サイバラ」の下ネタ、B級シリアス本。
この御堅いブログには相応しくない?が、第3章の『男と女の名言』が…何とも。
「中村うさぎ」ちゃんも、無理がタタって、介護生活。その穴を、岩下志麻子
と、二人が埋めている。 スナックで、酔い客と、ママやホステスと日ごとの
会話は、こんなもの? 聞いたこともない?下ネタが、息をつかないほど続く。
・「無理マン」=私らの頃の高知の田舎の女子の初体験は、和姦と強姦の間の
「無理マン」というのが普通でした。二人きりになって、もう抵抗しても無駄
 だし、殴られるのも嫌だし、まあしょうがないかな、みたいな…
・「マンコ一回は数には入らん」=ヤンキー文化の女子高だったので、みんな
 結構やっている回数が多いです。何回以上やると付き合ったことになるかと
 いう話題になった結果が、これ。
  ー内容紹介ー
≪実父はアルコール依存症。継父はギャンブル依存症で自殺。元夫もアルコール
 依存症。自身も地元高知の高校を退学となり、大検を経て武蔵野美術大学に
進学するも、生活費稼ぎのために、在学中からミニスカパブでホステス、成人誌
で漫画を描く日を過ごした。そしていま“整形手術の帝王”高須克弥氏と熱愛中…
そんな波瀾万丈の半生のなかで、サイバラの人格を形作る土台となった身近な人
の「金言」集です。 その一部を紹介すると――。
・「前科とお金、どっちが大事?」…バイトしていた白夜書房の編集長の言葉。
 猥褻図画を載せて何度も警察に捕まった氏は、「前科なんていくら増えても
 いいじゃない。お金が儲かるんですよ」と繰り返した。
・「半分も払ったのに」 …雀士・小島武夫の言葉。麻雀の負け分をめったに
 払わない氏は、「半分も払えば返したも同じ」という考え方だった。でも、
 誰からも愛されたという。
・「病気は作んなきゃ」……高須氏の言葉。氏が「包茎は悪いこと」という
 認識を世に広めることに成功し、「包茎手術の第一人者」となった経験から。
歴史上の偉人とかビジネスの成功者の名言みたいに輝かしいものではありません。
どっちかというとゲスだったり、身もフタもなかったり、ワケわかんなかったり
するような言葉ばっかり。でも、サイバラの人生の糧となった“言葉の劇薬”≫
―
▼ 御堅い明治生れの両親の元で生れ育ったため、親元から離れても、すり込み、
 呪縛から離れることが暫く出来なかった。女性中心の職場だったこともあり、
B級グルメ的魅力の女性が多くを占めていたが、地域の魅力を持った愛らしく
美しいの人が、それぞれいた。ヤンキー上がりはゼロに近かったが、それでも
面白く、際どいのが4〜5人に1人の割合だったような。驚いたのが、2人、
3人目の相手の物色をする実態。 違った相手に気持ちが移るのは自然のならい。
西原は「えげつない、下ネタの漫画家でもあるが、これがマタ、面白い。
ここまで明け透けになると、「いやらしい!」の気持ちが吹っ飛ぶ。
 ところで、「洗えば使える」は、あれのこと? 「洗って返してもらえば…」
両親に、生々しい具体的下ネタは控えるように教えられて育ったが、一般家庭
なら至極当然だが。下のことは、「暗黒の大陸」より、「暗黒の密林」ですか。
――――
2017/07/07
洗って使える 泥名言 〜2
              <『洗えば使える 泥名言』西原理恵子 (著) >
   * 鉄マン ―性のアスリート 
  何のことやら?の、深く、かつ面白い下ネタが次々とつづく。  
★ <金ちゃんね、夜5回、朝2回なの。これは恋だと思うの> 
 まあ、驚きというか。その下りが… 
《 猛者といえば岩下志麻子ちゃん。彼氏と夜5回。朝2回ぐらいやらないと
 恋じゃないという。普通の日本人のやり方じゃあ単なる御あいさつなんです。
本当に‘鉄マン’だなと思う。もはやアスリート。
 志麻子ちゃんが常々言っているのが、
「私が悪いのではなくてマンコが悪いの」
「私にマンコが付いているのではなく、マンコに私がついているの」
すごいのは、租チンには当たったことがないっていう。… で、巨根の人
だけアソコが赤く光るとかね。そういう人だけを食べているの。だから、
志麻子ちゃんに素通りされたら、男として残念なことになります。まあ、
逆にロックオンされたら困りますけど。》
★ <歴代の女が泣いてわめいて角取ってくれた中古の男がちょうどええ。>
★ <一人3ちんぽ>
 「チンポマエストロ」と呼ばれている知り合いの不倫道の先生の教えで、
「不倫するなら一人3チンポぐらい持っておけ」と。一本に固執するから、
 さまざまなトラブルや事故が起きる。「あの人と連絡がとれない」とキーッ
 とならないために「じゃあ、こっち」「そっちがダメならこっち」と。
 いきなり日曜日に相手の家に「来ちゃった」とかならないように。
 3本を上手くまわしましょう。
 「そもそも向こうが奥さんと二股をかけているんだから、こっちも二股を」
 という「チンポフェアトレード論」を前から主張しているですけど。だから、
 不倫道としては3本まで。あまり多いと、色いろ支障が出てくる。毛利元就
 の3本の矢じゃないけど、3本のチンポの教えとして心に刻んでおいて下さい。
★ <こんな気持ちのいいことでもお金をもられるなんて夢みたい>
 以前、タイで会った若い買春婦の子の言っていたから、色んな人がいる。
―
▼ 鉄マンから見えてくる人生がある。男と女では、あまりに格差がある。
 男社会は、下スキャンダルに厳し過ぎる感がある。 で、晩年?、
「やっときゃよかった話」になる。
――――
2017/07/08
洗って使える 泥名言 〜3
            <『洗えば使える 泥名言』西原理恵子 (著) >
   * ライオンは弱い奴を狩りに行く
  〜 他の章の面白い泥名言が… 〜
<すべての男は3等賞や。それを一等にするも、三等にするのも自分や。> 
 と、知り合いのママが言っていたというが… 凄いことをいう。更に、
<三等を三等のままにしておくのも立派なことで「それで充分やんか」>
 だと。 それもこれも、泡沫の夢幻の話。死んでしまえば皆、同じ。

<ライオンは弱い奴を借りに行く。>
 暴力と貧困は、高いところから低いところに行く。世間とかいうゴミダメは、
 こういう弱者探しを生業に成立ち、日常会話で「にわか裁判」をしている。
 まず検事がいて、裁判長、そして傍聴人までいる。多くが、人生不燃焼組で、
 その燃え残りに火をつげ、自己満足する輩。対象は「大変な人」。

<よく離婚とか、彼女と別れる段になって、きれいに別れようとするバカが
 いるじゃないですか。あれ、一番ダメなんですよ。何やっても嫌われるの
 なら、「どうして、こんな奴と」思われるぐらい嫌われた方がいい。>
 キレイに事業撤退とか転職をしようとするから、ダメ。嫌われ罵声を浴び、
「これも有りか」と、独り打ち震えるのを逆に楽しむ位でないと。 
「最期は、キレイに撤退したい〉の私の要請に対する弁護士の答え
〈借金を踏み倒すのに、キレイも汚いもない。70点が最高点と思って下さい!
〈それでは、70点に近づけるように、お願いします。〉と方針決定。
 甘かったかもしれないが、過去の経験からして、やはり、後味の悪いのは、
 傷口に悪い。
―
▼ 大変な家庭環境の中で、下ネタ経験充分の人生もあり、とう泥名言の数々。
 緑の原野(娑婆)には、花も実もあるが、捕食動物も、被捕食動物もいる。
狩るか、狩られるかの弱肉強食のドラマが日ごと繰り返されている。ところで、
『今、何になっているの?』『何を狩ってんの?』『何を楽しんでるの?』
『人間をしているの!』『好きな遊びを探してるの』『趣味を楽しんでるの』…
… など、様ざま。問題は、時間が限られていること。キーワードは、『よく』
が、それぞれの生きざまの頭についているかどうか。その為には考えること。

――――
2015/05/27
修羅場の極意
               『修羅場の極意』佐藤優著
  * カネがないのが最大の修羅場
 月末の運転資金が足りないなどの資金繰りの修羅場を経験をしないで事業を
終えることができたのは不幸中の幸いであった。現在、中小・零細の三分一が、
資金繰りに追われる修羅場状態という。身近で、倒産時の修羅場をみてきたが、
正に阿修羅、いや獣のごとく!であった。そのため先年、知人が自殺に至った。
『修羅場の極意』の巻末の西原理恵子と、著者との対談がリアル! 
≪ 西原: 夫が病気になって思ったことですが、人間は必ず病気になる。
 病気にならない夫も、潰れない会社に勤めている夫も、浮気しない夫も、
 この世の中には存在しません。そのとき、専業主婦だったら家の中は
 滅茶苦茶になる。夫が倒れて、自分に子どもを養う力がなければ、
 家庭は修羅場になります。専業主婦は極めて危険な仕事です。
 夫を治すために莫大なおカネがかかり、半年後にちゃんと死なせるため
 にも莫大なお金がかかりました。 最大の修羅場はおカネがないこと。
 おカネがないと、たいていの人は獣になってしまいます。おカネがないと
 男の子は泥棒に、女の子は売春婦になる危険性が高くなる。
 自分の娘と息子がそんなことになったら、人生最大の修羅場と考えている。
 それさえ避けられれば、ほとんどのことはどうでもいい。
佐藤: 西原さんの修羅場の対処法を整理すると、まず、最悪の状況を
 シュミレーションをしておく。それで、原因を理性的に分析して、
 危険な芽をつぶしておこうということですね。
西原: 子どもを東大に行かせようなど高望みしない。いい子に育てようと
 いった漠然とした理想も描かない。最悪の危馨理から逆算するのであって、
 上は想定していません。
佐藤: いいじゃないですか。東大を出て超有名企業に勤め上司の顔色ばかり
 うかがって、人間としての誠実さを失っていくようなエリートはいっぱい
 いますが、そんなふうになっても仕方ないのですから。
西原: そうですね。人に好かれる、何か言われてもはね返せる強さが身に
 つけばいいなと思っています。人に好かれるって一番の財産ですよね。
 それと、女の子は他人の中傷とかにすぐへこんだりしがちですが、
 それさえ気にしないで生きていける強度があればいいと思っています。≫
▼ 普通の子女が金に困り売春する金額は世界共通で、その地域の一週間分の
 給料分で、日本では4〜5万円が相場とか。対談相手の漫画家の西原真理子
は、夫の酒乱に悩まされ、末期ガンの夫を見送った手記は、日常生活の修羅場
そのものだったという。私も、事業をしている時、『起こってしまった難題に、
更に最悪を想定し、そこから対策を構築』していた。その積み重ねが、喩えば、
シェルターとか、避難ボートの準備だった。また、事業計画の段階で、最悪を
想定して、逃げ口を念入りに想定した。でも、こんな大津波(情報化社会)が
やってくるとは、思いもよらなかったのが本音である。事業で、お金は、
空気と同じで、きれた瞬間が死(倒産)である。そこから逆算しての
安楽死が事業にはある。安楽死は、自分でしか決断出来ないため、悲喜劇が
繰返される。その三分の一の経験だけは、したくはなかった。父の口癖、
『金がないのは、首がないのと同じ! 万一を想定し、備えを整えるべし』
の実践が最後には救ってくれた。準備があれば、最悪を冷笑する視線が生じる。
『こんな面白いことはない!』という、自虐的な、地底からの視線である。
鼻声で、他人の不幸は蜜の味という何への、侮蔑・汚蔑の視線が面白い。
ところで事業生活45年の、どの部分を切りとっても、修羅場と天国。
商売、事業とは、本来、そういうもの。両方とも楽しむのがコツである。

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