|
堀井On-Line
|
2018年05月13日(日)
* 「情報貴族と情報難民」から見える社会 17年前から個人HPを、10年前からは炎上・喪失に備えて、ブログを始めた。 これに日常のチョイメモ的に、三カメ的なブログも同時進行的に維持している。 これらのブログの作成、そして維持を通してネット社会に、何とか後れを とらないで済んだ?。 私の弱点は文書管理。会社のそれは、得意分野の人に 丸投げをすれば、事足りるが、個人のそれは最も不得意の分野。 振りかえ見ると、「大学ノート」に情報、コンテンツを時系列に日記帳的に、 まとめて残しておけばよかったと… そのネット版が、これともいえる。 情報社会の到来で、現実社会をネット社会がスッポリと覆ってしまった。 10年で100倍、20年で1万倍の情報進化の結果、世界の多くの人の掌に、小型 PCが行き渡ってしまった。これにタブレットPCが加わり、TVは大型化、かつ 格段に鮮明になり、人間の視覚を遥かに超えてしまい、更にネットに繋がり、 スマートフォンと連動を始めた。そこに出てくるのは、情報格差の問題。 格差の結果、一番、個々人に影響するのは「『情報格差』。二桁上に、 下にも、ただ黙るしかない。で、これを書き続けているが… 肌で感じるのが、これは深刻な問題になる。インドの貧民街の少女の方が、 アメリカ大統領より遥かに済んだ目線で、世界の行く末を看破している 可能性が大ともなれば… ―― 《『街場の読書論』内田樹著ー歩哨的資質についてーより》 ≪ 情報格差が拡大している。 一方に良質の情報を選択的に豊かに享受している「情報貴族」階層がおり、 他方に良質な情報とジャンクな情報が区別できない「情報難民」階層がいる。 その格差は急速に拡大しつつあり、悪くするとある種の「情報の無政府状態」 が出現しかねないという予感がする。 このような事態が出来した理由について考えたい。 少し前まで、朝日、読売、毎日などの全国紙が総計数千万人の読者を誇っていた 時代、情報資源の分配は「一億総中流」的であった。市民たちは右から左まで のいずれかの全国紙の社説に自分の意見に近い言説を見いだすことができた。 国民の過半が「なんとか折り合いのつく範囲」のオピニオンのうちに収まって いたのである。これは世界史的に見ても、かなり希有な事例ではないかと思う。 欧米には「クオリティ・ペーパー」と呼ばれる知識階級の日刊紙が存在する。 それはせいぜい数十万の「選ばれた」読者しか対象にしていない(『ル・モンド』 は35万部、『ガーディアン』は25万部)。日本には「クオリティ・ペーパー」 が存在しないことに非を鳴らす人がいるが、「クオリティ・ペーパー」は階層 社会に固有のものであり、権力と財貨と文化資本がある社会集団に集中している 場合にしか成立しない。日本にそれがなかったというのは、「一億総中流」の 日本社会が欧米ほど排他的に階層化されていなかったためだと私は理解している。 日本のマスメディアの欠点とされる「個体識別しがたさ」「横並びの凡庸さ」で さえ、情報資源が全国民に均質的に分配される「情報平等主義」を達成したこと の代償と言えないことはない。 その「情報平等主義」がいま崩れようとしている。 理由の一つはインターネットの出現による「情報のビッグバン」であり、 一つは新聞情報の相対的な劣化。人々はもう「情報のプラットホーム」を共有 していない。私はそれを危険なことだと思っている。 私が小学生の頃、親は 朝日新聞と週刊朝日と文藝春秋を定期購読していた。私は(暇だったので) 寝転んでそれらを熟読した。それだけの情報摂取で、世の中で起きていること について(政治経済からファッションや芸能まで)小学生でさえ「市民として 知っておくべきこと」はカバーできた。思えば牧歌的な情報環境であった。 全国民が同じような事実しか知らず、同じようなことに興味を持ち、同じような 意見を口にしていた時代(紅白歌合戦の視聴率が80%を超えていた時代)が かつて存在し、今消え去ろうとしている。 だが、そのことのリスクについては誰も語らない。 インターネット・ユーザーとして実感することは、 「クオリティの高い情報の発信者」や「情報価値を適切に判定できる人」の ところに良質な情報が排他的に集積する傾向があるということである。 そのようなユーザーは情報の「ハブ」になる。そこに良質の情報を求める人々が リンクを張る。逆に、情報の良否を判断できないユーザーのところには、 ジャンク情報が排他的に蓄積される傾向がある。 〜つづく ≫ ― ▼ 一昨年の晩秋の頃、東京下町に住む、カメラマニアの15歳、年上の従兄が、 地元の従兄のお斎の席で、《 末期ガンで余命幾ばくもないが、あと10年は 生きたい。この映像社会、とりわけ、4k8kでドローンを飛ばし、写真と映像 を思い残すことなく写したい。、大型4kTVを購入し。4kカメラを3台を持って、 映像の画面を、TVからすくいとる。その一台の撮影機が、これ! …と。 で、早速、8年近い既存のTV(200万画素)を、1200万画素のTVに入替えたが、 それはスマートTVで、YouTubeなど音声入力で様々な映像を気楽に見ることが 出来るシロモノ。劣化した画面は100万画素レベルまで下回っているためか、 0・3の視力が、3・0の変わったという感覚。それと一年間かけて300本の録り溜 の映像と、世界が一変してしまった。情報格差は、TVだけでも計り知れない。 で、大相撲が今日より始まるが、4k、有機TVが、この人気の背景にある。 TV、一つの使い方、機種でも、大きな差が出来る。これにシネマ館の活用も。 そういう私は、かなり情報野蛮人ですか。 〜つづく ・・・・・・ 5785,閑話小題 〜アンドロイドTV 三週間後 2017年01月16日(月) * アンドロイドTV 三週間後 昨年暮れに寝室のTVを入替えたが、これがアンドロイドTV。 グーグルとソニーの共同開発のソフトのアンドロイドが組み込まれたTVで、 コントローラに声認識が付いて、キーワードの声認識で、YouTubeなどの番組、 映像を呼び込んでくる。今までは20インチのパソコン画面だったが、今度は 大型TV。それが見たことがないようなクリアーの画面となれば、オーバーに いえば、毎日が異次元の日々に様変っている。 タブレットと同じ位に驚かされたPC。特に、秘境の大自然の光景に惹れたが、 過去の蓄積がさせているため。 「ゴッフのヒマワリ」と声認識で入力すると、 美術館で、現物をみるより繊細に加工された、より綺麗な絵画が現れたとした ら… それが大自然の光景なら、更に素晴らしい。白川義員のヒマラヤ上空を 見たことがあるが、これも人間の裸眼で見るよりも遥かに美しい光景を映し 出していた。 数年後には4k、8k画質の画像が、配信されるというが、これでは映像世界 が様変るだろう。世界各地の名所で自撮棒で撮った4k映像を編集し投稿した 映像が幾つか投稿されているが、どれもこれも息を呑む異次元の世界。 私の数十回の秘異境ツアーそのままを撮影し編集したとしたら、これらに決して 劣らないと思う。が、当時は、デジカメさえない時代。 当初、アンドロイドTVはPC機能が入っているものと勘違いしたが、これは オプション。パソコン機能の端末を購入すればよい。 6年半前のTVとは、 機能性能からみて一桁違うアップしている。 〜AndroidTVをネット検索より… 【 AndroidTVでできることは ※「テレビ画面で、インターネット配信映像を見られる」 ※「スマートフォンやタブレットをリモコンにして、配信動画をテレビで表示できる Chromecast互換機能『Google Cast』が使える」 ※「Android TV向けのアプリが実行できる。ゲームやさまざまなアプリを実行できる」 という3つが挙げられます。 ・1つ目は、スマートテレビとしては当たり前の機能ですが、YouTubeだけでなく、 Google PlayムービーやHuluといったビデオオンデマンド配信サイトの映像も購入し、 テレビでそのまま鑑賞することができます。ちなみにGoogle Playムービーなど Google Play関連からコンテンツをダウンロード・購入する場合、Googleアカウント が必要となりますが、既にAndroidスマートフォンで使っていたGoogleアカウントを AndroidTVでも共有できます。GoogleアカウントのAndroidTVへの登録は、Android スマートフォンで指定にURLにアクセスし、画面に表示されるパスコードを、 AndroidTVに入力するという簡単なオペレーションで行うことができます。 ・「Google Cast」は、「Chromecast」互換とも言える機能です。 Androidスマートフォン・タブレット、およびiPhone、iPadといったiOS搭載機器 から映像をキャストできます。キャストとは、Androidスマートフォンなどの端末 からURLを指定し、そのURLの動画を写すという機能のことです。 ・そして「アプリ実行」は、AndroidTV搭載のテレビであれば、テレビ単体でAndroid 向けのアプリを実行することが可能という機能を指します。 Androidスマート フォン・タブレット用には多くのアプリケーションがGoogle Play から提供されて いますが、Android TVでも同様にGoogle Playからアプリをインストールし、実行 することが可能です。テレビのGoogle Play画面からインストールすることも 可能ですし、PCのGooglePlayからリモートでインストールさせることも可能です。 ・ちなみに、Android TV用のアプリケーションは、Androidスマートフォン・タブレット 用に開発されたアプリケーションに、多少の改修(Android TV用ライブラリのリンク、 Android TV向けUIに対応した操作の追加)が必要となりますが、ほぼ共通のソースを 使うことが可能で、モジュールもAndroid TV・スマートフォン両方対応のものと なります。 ―― ▼ 去年の秋口に地元の従兄の葬式に、東京下町に住むカメラマニアの従兄が来た時、 「84歳で進行ガン。あと10年遅れて生まれたかった!4kテレビと、4kカメラを 4台持っているが、これが素晴らしい。ドローンにカメラをつけた空中写真を撮るのが 夢だったが!」と語っていた。彼の年齢は85歳だが、このテレビに切替える切っ掛け になった。そこで、考えたのが、これまで行った秘異境と、遺跡、美術館などを、 アンドロイドTVで映像を通して訪ねること。白黒TVとカラーTVでシネマを見るのと、 違うように。情報、音量、迫力はシネマに及ばないが、画面は、この方が良い? パナソニックとソニーのTVは、これに絞った付随した機器グループの戦になるとか。 ・・・・・・ 5765,閑話小題 〜ウィングスーツ 2016年12月27日(火) * ムササビスーツの飛降り映像がリアルに TVやYouTubeの映像で最も興奮してみたのが、ムササビスーツを着て崖から 飛び降りる映像。小型ビデオカメラを頭に付け飛降りる映像は見る者にも、 臨場感を与える。時々TVでも放映されるが、これが迫力満点。着陸失敗の激突 映像が今でも目に焼き付いている。最のシネマに、これを使ったシーンがあった。 それにしてもムササビからよくぞ思いついたものである。 〜ウィングスーツで検索すると ≪・ウイングスーツは、1990年代中頃にフランス人スカイダイバーのガヤルドン によって考案された、手と足の間に布を張った滑空用特殊ジャンプスーツである。 ムササビスーツと呼ばれることもある。 1999年にはフィンランドのBIRDMAN社から世界初の市販ウイングスーツが発売。 また飛行機の翼のようなタイプは「ウイングパック」と呼ばれ、カーボン ファイバーなどで出来た硬い翼を身に着けて滑空する。 ウイングスーツで飛ぶことを、“スカイフライング” と呼び、 ウイングスーツで飛ぶ人のことを、“ウイングスーツ・パイロット”、 “ウイングスーター”“スカイフライヤー” と呼ぶ。 ・スカイダイビングのように飛行機やヘリコプターにより上空からや、高い崖 からの “BASEジャンピング” により飛び降り滑空する。空気抵抗を増やす だけでなく、揚力も発生するようになっている。 翼タイプの「ウイングパック」ではジェットエンジンなどの推進器を付けるなど して速度、飛行時間を増大させている。また軍事目的としても開発されている。 最高時速は200km以上に達し、着陸の際は、事前にパラシュートを開いて減速し 着地する。 ・2011年5月28日、米国カリフォルニア州にて、伊藤慎一がウイングスーツ世界 最長飛行の自己記録を更新。高度32,000ft (9,754m) から降下し、23.1kmを時間 5分22秒で飛行した。同時に、ウイングスーツでの最高水平速度世界記録363km/h も達成する。 2012年5月26日には、ウイングスーツ水平飛行距離26.9km。 総合飛行距離28.7kmを飛行し自己記録を更新、通算5回の世界記録を達成する。≫ ▼ ミスがそのまま死につながるから恐ろしい。バンジージャンプでも、 あれだけ恐ろしかったのに。そこで思い立つのが「メガネ型動画プレイヤー」 。 これで見たら気絶するのでは? 最近では有機画面の生々しいのもある。 「生きているうちに、こんな経験するとはおもってもみなかった!」と、体験 直後の中年女性がインタビューに答えていたが。 さもありなん…… ・・・・・・ 5726,閑話小題 〜グーグルアースと、スマートTV 2016年11月18日(金) * グーグルアースと、スマートTV ・最近、家電の店先をぶらぶらすることが多い。そこで感じたことといえば、 パソコンの主流がノートパソコンからスマ―トフォンとタブレットに移動して いること。これを取り上げること自体が一線を離れた故の時代感覚のずれか。 iPadを買って5年余りになるが、非常に重宝して使いこなしている。 居間に置いているが、家内が8割方は使ってネットサーフィン、とりわけネット 上のウィンドウショッピングを楽しみ、私は書斎コーナーのパソコンが主流。 去年春、購入したソニーの卓上型『バイオ』を、最近、メインにしたばかり。 携帯電話は家内共々ガラケイ。リタイアの身に電話が来るのは、家内の外出 からの帰るコールと、同級会と友人の飲み会の誘いぐらい。家の中では、Wifi 環境を利用したiPadを使用しているため、スマートフォンは必要としない。 で、久々に家電店頭のタブレットPCのグーグルアースの画面にビックリ。 5年前のiPadとの機能と画質の差も加えてか、映像が立体的、かつ鮮明に なっていた。いずこも進化が続いているのを現物で知ることになる。 ・6年前のTVの買いかえで、思いきって最先端のものにしたが、これでTV生活 が一変。内臓のビデオ機能が思いのほか便利。地上波TVの全局は自動録画機能。 録画は見たいジャンルごとに編集される。しかし、店頭で見たスマートテレビ に驚いた。家電メーカーが、TV局の圧力か、気を配ってか、このコマーシャル を控えていると聞いていたが。「何だろう、これは?」と思わせる機能。 一言でいえば、TVの見れる大型パソコン」。たとえば、YouTube、Ýahoo!、 蔦屋のHPから簡単に映像画面につながる。これではマスメディアを代表するTV局 の否定につながる。 情報化社会の時代の豊かさとは、『金持ち』より『暇持ち』と いうこと。お金だけでなく娯楽情報も、上位数%に面白いのが集まるのか。 一点豪華主義?でスマートTVを購入すれば、社会の窓は広く開かれる? いや、タブレットPCかスマートフォンで、既に開かれている。
・・・・・・ 2003年11月27日(木) 967, PDPテレビをいれて一年、の感想
一年前の随想日記を振り返って読んでみて、PDPテレビをいれて一年経った ことに気づいた。丁度その頃、会社の近くにDVDのレンタルショップが 開店したため毎週のように借りて見ていた。 オーバーにいえば、そこの見たい映画を殆ど見てしまった、といってよい。
普通のTVがハイビジョン並みの画面である。 それと画面の大きさが一番のポイントである。 映画館にいっているようで、綺麗で迫力がある。 その為、劇場中継や音楽番組や自然紀行などの番組がすばらしい。
次の世代は「実際見るよりより綺麗な画像」になる可能性があるという。 人間の眼よりも世界を鮮明にとらえてしまうのだ。 プロの使うカメラの世界は、ずっと前にその段階まで入ってしまっている。 これからは映像の世界がそうなるというから、想像を超えた世界になるだろう。
PDPの値下がり幅がもっと進むと思っていたが、それほど下がってない。 しかし「カタ落ち」では1インチ一万円(50インチー50万)に近づいている。 価値はあるかと問われれば、「充分ある」というのが答えである。 「36インチのブラウン管のハイビジョンと変わらないのでは?」といえば、 そうではない、それなりの価値はある。 来年から爆発的に売れ出すであろう。 3年後、1インチ5千円あたりが落ち着きどころだろう。
それよりも一緒に買ったDVDがよい。 ハードに録画を貯めておくのが非常に便利である。 DVDに録るということは皆無である。 どんどん録って、見て面白くないのは消去できるからだ。 あのビデオの物理的な煩わしさから開放されたのが良い。
ー以前、PDPTVについて書いた内容をコピーしておきます。
―――― 581, PDPTV - 2002年11月15日(金)
PDPーTVを先週に居間に入れて6日が経つ。 設置に3人で5時間以上もかかった。
パイオニア製で50インチだ。それにソニーの音響システムと ラックを組み合わせて税込みで76万円だった。あと半年で3割 は下がるだろう。半額はローンにした。
さすがに迫力が違う。 相撲などは音響も含めて会場にいる気分になる。 まだじっくりと見る時間はないが、今週末から見るつもりである。 コンサートや歌謡番組を夜電気を消して見ていると、 その価値を充分感じ取ることができる。
あと15万を出すとソニー製の新型を買えたが、値崩れを起こし始めた パイオニアにした。ますますお宅になりそうだ。 何か凄く豊かになったような気分だ。
あと数年がたつと、PDPや液晶から有機TVが出てくるそうだ。 ソニーはそれに絞って商品開発をしているという。
こういう時代に、遠出をしないでカウチポテト族になって いるのに丁度よい代物だ。それとこのパソコンが。 つまらないスナックで飲んでいるより居間の方が刺激的だ。
ただ集中度が高まるので疲れるのも事実だ。 お勧めはあと半年経つと1インチ1万円に下がった時だろう。 それも部屋によっては42インチあたりでよいのでは。
車を小型や軽にしてTVやパソコンにシフトしていく時代だ。
|
|
|
| 6268,閑話小題 〜「これ以上はいけない」と宣告する境界線 −4 |
|
|
2018年05月12日(土)
以前ほど、ユングの集合的意識(普遍的無意識)について語られなくなったが、 それでも心理学の主流を占めていることは違いない。ユングは何気なく描いた 自分の絵が曼荼羅に似ていたのに気づき調べてみると、世界中に似た模様がある ことに気づき、それは神話にも共通点が多いと知る。それまでフロイトが見出し た無意識のもっと奥底に、人類に蓄積された集合的無意識があるのではと考えた。 共通したイメージ、原型である。これも知らざる世界の門戸である。 以下では、刑事の能力の中に、「知らざる能力」の柵の向う側の世界を垣間見て いる。 《『街場の読書論』ー歩哨的資質についてーより》 ≪ 先日、こんな記事を読んだ。 大阪京都両府警の捜査官が広域事件について打ち合わせしたとき、京都府警の 刑事が「こういう事件もあるんです」と、ある空き巣事件の容疑者の写真を大阪 の刑事に示した。打ち合わせが終わって外へ出て10分後に大阪府警の刑事は 近くの競艇場外発売所近くでその容疑者を発見した。この捜査員は雑踏の中から 指名手配犯などをみつける「見当たり捜査」の専門家だったそうである。 「そういうものだ」と思う。 彼らは警察官の視野から逃れようとする人々が発する微細なオーラを感知する 能力を備えている。 「職務質問」というのは組織的にやるものではなく、 「挙動不審」な人間をピンポイントして行うものである。 「挙動不審」という のは、チェックリストがあって、そのスコアが高い場合にそう判断するという ものではない。 遠くにいる人間の、わずかな眼の動きや呼吸や心拍数の変化の ようなものが「際だって感知される」場合にそう言われるのである。 そういう能力を持っている人が警察官になるべきであり、これまではなってきた。 警察という制度はそのような能力を勘定に入れて制度設計されている。 私たちは刑事ドラマを見ているときに、刑事たちが街中であまりにも容易に挙動 不審な容疑者と偶然遭遇するのを「ご都合主義」だと嗤うことがあるけれども、 警察の捜査というのは、もともと「そういうもの」なのである。 だが、挙動不審な人間を感知する能力や嘘をついている人間とほんとうのことを 言っている人間を直感的に見分ける能力などは、その有無や良否をエビデンスに よって示すことができない。本来は捜査員の採用のときには、「そのような エビデンスをもって示すことのできない能力」の有無を基準に採否を決すべき なのである。でも、エビデンスをもっては示すことのできない能力の有無の判定 にはエビデンスがないので(当たり前だが)、現在の公務員採用規定ではこれを 適用できない。そのせいで、わが国の司法システムは劣化したのだと私は思っている。 冤罪事件が多発するのは、司法システムが「嘘をついている人間と真実を述べて いる人間を直感的に識別できる能力」を備えた司法官が一定数存在することを 前提に制度設計されているからである。 司法官の少なくとも一定数は物証がなく とも、自供がなくとも、証言の真偽を直感する力を備えていると想定されている。 「裁判官の心証形成」という不思議な法律用語があるが、これは裁判官が 「複数の解釈可能性のうち、ある解釈を優先的に採択したくなる気分」のことである。 「気分」に法律的な力が認められているのは、司法官(の少なくとも一部)には、 「証言の真偽を直感的に判定する力が備わっている」ということが司法界では 広く信じられていたからである。そのような能力を備えた人間が一定数存在する ことを前提にしてつくられた制度が、まったくそのような能力を持たない人間に よって運用されるから冤罪事件が起きるのである。 シャーロック・ホームズのモデルのエジンバラ大学医学部教授ジョーゼフ・ベル は患者を一瞥しただけで、出身地や職業や疾病歴を「言い当てる」ことができた。 医師(の少なくとも一部は)そのような能力を有しているということを勘定に 入れて医療制度は設計されている。 司法や医療や教育はひろく社会的共通資本の中の「制度資本」にカテゴライズ されるけれど、これらはいずれも「わからないはずのことが、わかる」という 人間の潜在能力を勘定に入れて設計された制度である。これらはいずれも 「存在しないもの」とのフロントラインに位置する「歩哨的制度」である。 人間の世界の内部では「存在することが明証的であるものだけが存在する」 「存在することのエビデンスの示されないものは、存在しない」というルール が適用されている。 「内部」はそれでよい。 でも、「存在しないものとのフロントライン」では、そのルールは通用しない。 そこはまさに「存在しないはずのもの」が「存在するもの」にかたちを変える、 生成の場だからである。そのような場にどのようにして「歩哨的資質」を持った 人々を配することができるか。 子どもたちのうちから、そのような「歩哨的資質」 を備えたものをどうやって見出し、その能力を選択的に育成してゆくのか。 これは原理問題ではなく、純粋に技術的な問題である。≫ ―― ▼ 世界の平和の先行きが、裁判長レベルだけでなく、世界の重大事項の決定権を 持つトランプ、プーチン大統領、習主席、金主席が、あってはならない世界大戦 の世界への歩哨とすると、これは重大問題にある。殆ど世界政治の経験のない、 彼ら、とりわけトランプに核弾頭のカバンが渡ってしまった。さすがの、何も 恐れをなして… として、誰の眼にも、これで済むわけがない。怒れた歩哨が、 門戸に立ち、今まさに開けんとする重大危機に立っていることを忘れるべきで ないと著者は言いたかったのでは… 。 「気違いに刃物」とは、このことと? <気違いに刃物、大衆にポピリズム!> ポピリズムを検索すると… 【一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに 既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想、 または政治姿勢のことである。日本語では大衆主義や人民主義などという。】 歩哨に立つ、あの方がた。大衆を「下衆」、いや虫けらぐらいでしか見てない。 門戸の向う側の何かしらが、彼らを選んだ可能性も考えられる。その狙いは? 狂った猿の自滅ですか? 若い人は面白いが辛い時代を生きねばならない。 ・・・・・・ 4439, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー9 2013年05月12日(日) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 ーこれまでの7つの登山道を更に簡略すると、次になる(後書きより)ー ・ ルート1は、心は幻想だと理解する道。 脳神経科学の知見から考えると、意識される今は幻想だ。 今とは、未来や過去が調整されて今だと思わされているに過ぎない。 自分が主体的に行っているとリアルに感じる意思決定も、そうしていると 思い込んでいるだけだ。 僕たちは「生きていると錯覚しているだけだ」と考えざるを得ない。 ・ ルート2は、すぐ死ぬことと、あとで死ぬことの違いを考える道 所詮はいつか死んでしまう、ということから人生を考えると、今死んでも あとで死んでも同じよなものだ。人生は死刑のようなもの。だが、それは、 悲観的なものではない。生まれてきた奇跡を、この宇宙的ラッキーを、 ポジティブに捉えようではないか。死ぬことが悲劇なのではなく、 生きていること自体がすばらしい奇跡なのだ、と。、 ・ ルート3は、宇宙サイズの視点に立って、自分の小ささを客観視する道。 138億年前にできて、直径276億光年のサイズを持つ巨大な宇宙。この宇宙 スケールから見ると、何て人間は小さいことか。しかも、地球上に70億人も うごめいている人間。あなたはその中のたったの一人に過ぎない。全体から 見ると、あなたが自分の死にこだわることは、極めて部分的些細なこと。 ・ ルート4は、主観時間は幻想だと理解する道。 客観的な時間は、138億年にわたって、一秒ずつ確実に時を刻んできた かもしれないが、主観的な時間は、それとは異なる。過去と未来は圧縮され、 生死のところで長さがゼロになる。しかも、それは幻想だ。あなたの過去は 記憶にしかないし、あなたの未来は想像上の産物。あなたには今しかない。 あなたは、今しか感じられないのだ。時間などない。だから、あなたの主観 時間に、死の入り込む余地はない。 ・ ルート5は、自己とは定義の結果だと理解する道。 自分がいて、生きていて、考え、行動し、いずれは死んでいく。 そう考えるのは、近代西洋流に、自と他、生と死、主体と客体、能動と受動 といった二項対立図式でものごとを捉えているからに過ぎない。それが正解 ではなく、ものごとを考えやすいように、そのように定義しているだけだ。 「自分」を定義するから自分があるかのような認知が行われ、「死」を定義する から死を恐れている気がするに過ぎない。もともと、世界は単に全体として 世界であるだけであって、自分も死もないのだ。 ・ ルート6は、幸福学研究からのアプローチ。 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の 目を気にしない傾向。これらを満たすのは、自己を捨て、無我・無私を実践 できる達人の生きかた。・・ここに到達した人は、持続的な至福を感じる ことができる。逆に、持続的な至福を感じられる人は、達人の域に 到着することができる。・ ・ ルート7は、リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ。 そこには、リラクゼーションからでも座禅からでも、念仏からでも達する ことができる。いや、ルート6のいずれからでも到達することができると言う べきだ。 何しろ、もともと同じ山を登っていたのだ。 登頂した先は、 同じところ。死を恐れない境地。それはそのまま、生を満喫出来るところ。 昔の人は、科学技術の知見がなかったから、仏教哲学によってしかそこに 到達できなかったのかもしれない。しかし、現代人には科学技術がある。 脳科学の知見は意識が幻想だという事実を僕たちに突きつける。 ▼ <私たちの心は幻想でしかない。137億年の時空の自分は小さな存在、 そこでの主観時間は幻想。それを感じている己も定義でしかない。そこでは、 他の人との比較に目を奪われることなく、深くリラックスをしていれば良い> が活きるコツ。ひたすら今を活き活き、楽しめばよい。背中に羽をつけた 天使のようになるに、まだ重い。せっかくサバンナに出てきたのに。
・・・・・・ 4065, お金と神 ー1 2012年05月12日(土) * 「お金=信用」と「神=信仰」は似ている 〜� ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より 金とは何だろう?と長年考え続けてきたが、金と神との同定の視点が面白い。 両者ともバーチャルの信頼で成り立っている。一部の支配者が神の信託に、 紙幣の信託の類似性をみて発明したのが金で、両者とも共同幻想の最たるもの。 ーまずは、抜粋から。 ≪ 金と神は似ている。一般に、金とは汚いもの、神とは聖なるものと言われる。 いずれ実体のないバーチャルなものなのに、人びとの行動に大きな影響を与える。 適度に使えぱ人々に安心と幸せをもたらすが、行きすぎれば人生を狂わせる。 宗教が狂信者を生んで世界を恐怖に陥れるように、現代における金への強い執着 は、人々に購入を控えさせ、不況を生み自分たち自身を失業に追い込んでいる。 ◎ 宗教とは、リアルな物欲が生む煩悩から逃れるために、人間が頭の中に 作ったバーチャルな世界である。それはときとしてリアルな物より人間行動に 強い影響を与える。純粋にバーチャルな神という概念をそこまで高めるのに、 人間は多くの過程を経てきた。はじめ神は嵐や雷、山や川など、自然物や自然 現象と結びつき、それらのリアルな脅威や恵みが、直接の畏敬の対象だった。 その後、徐々に抽象化されていく過程では、多くの装置を必要とした。装置とは、 大伽藍であり、宗教画や彫刻であり、神話や経典である。それらを使って 人びとに極楽浄土や天国を信じさせ、信仰に導いた。この段階ではまだ、 宝石や黄金、美しい花や天女など、極めて世俗的な妄想を抱かせている。 しかし、宗教の抽象化はこれに留まらい。禅宗に至っては、脳内での世俗的な 快楽や美しさへの想像さえ否定する。すべては無であるという禅宗の経典、 般若心経では、直接的な物欲だけでなく物への妄想さえ捨て去ることにより、 心の平安を得ようとする。これによって宗教は完全にリアルから切り離され、 バーチャルな観念へと昇華きれる。 ◎一方、お金はどうか。ーつづく ≫ ▼ お金の亡者は、金を神のように崇める人をいう。世の中の9割方の問題が 金で解決出来る代物なら神様より頼れる紙切れである。神が共同幻想なら、 それを信じている世界では通用するが、通用しない世界では、紙切れの存在で しかない。信じばこそ、そこに価値が出るもの。その価値を生み出すための装置 の重積で、妄想から信仰に昇華させていく。資本主義における神こそ、金である。 アメリカのドルと国債こそ、神に近い存在であった。それも今や、そのカラクリ (欧米の資本主義)が崩壊しつつある。
・・・・・・ 5171,閑話小題 〜ボ〜ッとしたデカルトの時間 2015年05月12日(火) * ボ〜ッとしたデカルトの時間 御隠居の生活に入って、早朝からスケジュールとおりに時間を過ごしている。 その時間の中で一番大事なのがボ〜ッとした時間。だが、それが過ごせてない。 ひとつ終わると直ぐ、次のスケジュールに移行するため。 以前もふれた事が あるが、宗教学者の山折哲雄が、早朝30年続けてきた座禅で、無念無想を諦め、 この時間帯は、デカルトの「ものを考えている」と思いつき、全身が解放された、 という話にハッと何かを感じとった。 最近、パソコンや読書の合間に、何を するでなし、意識的に弛緩した状態でボ〜ッとしている。考えてみたら、現役 時代は何時もしていたことだが、問題は意識してボ〜ッとすることだった。 〜その辺りの記述を抜粋〜 ≪ 朝3時か4時に起きて、毎朝一時間ぐらい座る。毎日香っている線香一本 燃えるのにだいたい50分前後。その一本を闇の中でつける。その明りを 見ながら座る。道元が言っている「無念無想」なんてのになれるものならなって みるか、なんてやっていたけど、ぜんぜん無の境地にはならなかったですね。 雑念、妄想とズ〜ッと戯れている。30年近くこれをやって、「俺はもうダメだ」 と思ったのが50代の終わりぐらい。でも、もう癖になっているからとにかく 朝は座るんです。で、あるときハッと思った。「無念無想になろう」と思うから いけないのであって、「ものを考えている」と思えばいいじゃないかと。 あっという間に全身が解放されたような気分になってね。「俺は今デカルトを やっているんだ」と。道元の時間と思っていたからできないのであって、 デカルトの時間と思えばいいと。すると、何を考えてもいいわけです、金、 女性、喧嘩したこと…。「我考える、ゆえに我あり」。道元だって大部分 の時間は無念無想じゃなくて妄想と戯れていたんじゃないかと思ったのね。 それで瞬間的にパッと無の瞬間が訪れる。逆にデカルトだって、考えづめに 考えていて、ときには無念無想の時間に恵まれたことがあるんじゃないかと。 そうすると、道元とデカルトはぜんぜん違う世界の人間じゃなくて、彼らは 同じ時間を共有していたのかもしれない、そう思ったときはうれしかったね。 座禅が終わって五時ぐらい。それから本を読んだりものを書いたり。以前は 夜型だったんだけど、朝一時間は夜の3〜4時間に匹敵する、それがわかって から夜は仕事をしないことにした。朝2〜3時間仕事をすることが、だいたい 自分のノルマになったかな。 ・・・。 ≫ ▼ 数ヶ月前から、ブログを書上げネットにアップした後、それまでは、 次のプログラムを直ぐに移行するが、その時、ただボ〜ッと全身を弛緩し、 ただ座ることにした。これが意外と難しい。要するに雑念が次々と思い浮ぶが、 その中に思いもよらぬ砂金が含まれていることがある。「我考える」とはいえ、 どうせ、碌なことしか考えてない。それなら、この随想日記のように、まず 禄でもないことから、考えればよい。元もと『禄でない』だから! 早朝の散歩も、ポタリングも、ある瞬間、『無念無想』の瞬間がある。 『エッ!俺、何時もボ〜ッとしている』って? それってバカじゃないか。 それってバカじゃない。
・・・・・・ 5901,閑話小題 〜病は覚醒装置である 〜3 2017年05月12日(金) * 自己を失うことと、存在を失うこととは違う <自己を失うことと、存在を失うこととは違う>とは、意味深長の言葉。 挫折を例にすると、「挫折で自己を失った時期があったが、その中でも、 自己の存在が、その状況を冷たく、優しく見つめていた」という存在である。 印税が多く入ってくるのだろうが、浪費癖のため、蓄積は多くない? ≪ 入院した半年後に退院したが、仕事が皆無になっていた。いきなりバッタ 扉を閉められたのだ。世界は私を拒否をした。私は何もかもを失ってゼロに なった。ゼロに、そうゼロである。仕事もなければ、身体を支える足も萎え、 私は私の知っているではない。見慣れない老いさらばえた女が鏡に映っている。 …(略) 仕事を失ったと同時に、私は社会から閉め出され、私を規定する 他者を失った。他者を失うことは、すなわち自己を失うことである。ここで あえて「ゼロ」を「無」とは表現しない。世間が中村うさぎを消し去っても、 私の存在自体がこの世から消えるわけではない。 「自分を失うことと、存在を失うことと同義ではない」。 自分がゼロになった感覚は恐ろしいものだが、しばらくすると何だかどうでも よいいいことのように思えるようになった。ゼロになったということは、単に リセットされたということではないか。 たとえば、ゲームをやっていて、いきなり何かのエラーで強制終了になって 今までやってきたことが、全部リセットされるなんてことは、昔は日常茶飯事 だった。同じようなことが人生でも起きたと思えばいい。また一からやり直せば いい。そんな強制終了も人生でも起こりえるのだと、と学べただけでも儲けもの ではないのか? …(略) 結局のところ、人間は自分で自分を救わなくては、 どこにも行けない。≫ ー ▼ 深く考えることも、大きく挫折したことのないサラリーマンが、定年を むかえた時に、上記のような初老性欝病に陥るケースが多い。「私の人生、 何だった?」の根本的疑問である。20歳代から30歳半ばまで多くの変転を重ね、 リセットの最中で、著者の「自分で自分を救わないと、どこにも行けない。 何者にもなれない!」と独り言を脳裏で呟くしかなかった。それが、6年前の リタイアの節目から、現在に至るまで、他者の存在に気にすることなく、 現在に至っている。元もと自分も、他者も、幻想でしかない。そこまで、 精神を覚醒していれば、何のことはない。どうでもよい事である。
|
|
|
| 6267,閑話小題 〜「これ以上はいけない」と宣告する境界線 −3 |
|
|
2018年05月11日(金)
* 「わかる人はわかる」というのは本当! 過去を振り返ってみて、何度も、何故か「何か」に助けられたことがあった。 それが不思議である。母親も何時も危機になると不思議の力で助けられてきたが 口癖であった。それが幼児の頃に亡くなった父親だという。私のそれは何? ユングの集合的無意識の家族バージョン、先祖バージョンか、原子脳の働き? 確かに霊感は、その人によって、時節によって強弱がある。両親の良し悪しで 人生の大方は決まってしまう。これも運。宿命は変えられなくても運命は変え られるというが、そのためには、膨大なエネルギーの集中を要する。欧米では、 心の奥の院にアッラーの神が存在する。日本では多神教としても、その中核に、 仏教がある。太平洋戦争敗戦後、70年以上経過して、平和ボケしてしまった。 そこに情報機器の進化で、ネット社会が現実社会を覆ってしまった。神も仏も ありはしない世界が日常になった。韓国や北朝鮮を「合せ鏡」にすれば解るが、 それ以上に危ないのが日本。 《『街場の読書論』ー歩哨的資質についてーより》 ≪ …髑髏島の原住民たちがコングの人間界への侵襲を防ぐために建設した、 あの巨大な「門」を想像してもらえればよろしいかと思う。 「かんぬきと 戸がしっかり機能している場所だと、私たちは「高ぶる波」のすぐ近くまで行く ことができる。 聖人とは、「境を定め、かんぬきと戸をもって高ぶる波をおし とどめる」人のこと。 私たち全員がそのような仕事をしなければならないという わけではない。けれども、時どき、聖人が登場して、「かんぬきと戸」の点検を することは私たちが人間的秩序のうちで生きてゆくためには必須のことなのである。 私はかつてそのような仕事のことを「歩哨」(sentinelle)と呼んだことがある。 私たちの社会制度のさまざまな箇所で「ほころび」が生じている理由を私は端的に 「歩哨」の絶対数が減ったことだと思っている。 福島の原発事故は「恐るべき力」 を制御するための「かんぬきと戸」の整備と点検の仕事がほとんど配慮されて いなかったことを示した。そこには会社の収益や、マニュアル通りの業務や、 自身の組織内の立場を優先的に配慮する人間たちはいたが、「あなたの高ぶる 波はここでとどまれ」と告げる「歩哨」仕事を自分に託された召命だと思って いる人間はいなかった。 「境を守る」ことを本務とする人間を「戸」の近くに配備しなければならない という人類学的な「常識」を私たちはだいぶ前に忘れてしまった。 戦争もテロも飢餓も恐慌もない、豊かで安全な生活が半世紀続いただけで、 日本人はその常識を忘れてしまった。 私たちの生きているこの狭く、脆い世界は 「境を守るもの」たちの無言の、日常的な、献身的な努力によってかろうじて 支えられているのだということを忘れてしまった。 崩れかけたこの社会の再構築のための急務は、「歩哨」の備給である。「境」に おける歩哨のふるまいには定型的なマニュアルもガイドラインもない。もちろん、 一般的な「傾向」はあるが(それは神話や恐怖譚として繰り返し語られている)、 「存在しないもの」の侵襲はどのようなかたちをとるのかを私たちは正確には予測 できない。だから、歩哨たちには「どうふるまってよいかわからないときに、 どうふるまえばよいかがわかる」能力が必要なのである。 その「センサー」を研ぎ澄ますために経験的に効果的な方法が存在する。 宗教的な修業や武道の稽古は本来そのためのものである。 たしかに、そういうセンサーがきちんと機能している人がいる。 WTCへのテロのとき、「なんとなく外に出た方がいいような気がして」 ビルを出て難を避けた人がいた。その日に限って、「ふだんと違う行動をとって 生き延びた人」がどれくらいの数いたのか、誰かが統計を取り、その人たちに共通 する「生き方の傾向」を吟味するというのは興味深い研究主題だと私は思うが、 たぶん「非科学的」と一蹴されることだろう。でも、「わかる人はわかる」 というのはほんとうである。≫ ― ▼ <「存在しないもの」の侵襲はどのようなかたちをとるのか> ・朝鮮戦争を勃発とする三次世界大戦なのか、 ・数千、数億単位の犠牲者が出る、パンデミックか、 ・首都直下型大地震か、富士山の大爆発か、三陸沖大地震による大津波? などなど考えれば限がない。とはいえ、如何にもならないことが娑婆にはある。 「人生のデザイン」を自ら描き、それに近づく生き方をそれぞれしていけばよい。 難しいが、面白い時代でもある。 鼻歌を歌いながらスキップ? そりゃ無理? 顔が強ばり、泣き声になり、よろけながらも、人間は生抜いてきたんだから! 間違いないのは、「運の良い人は、何があってもプラスに出来る人。」 「運の悪い人は、何があっても運がない」ということ。楽天的に生き、幸運を 引寄せる生き方を心かけることですか。 周りは迷惑千万を承知の上で?
<わかからない人は、所詮はわかからない>のである。ならば… で、以下の <「いい人」やめて、「ろくでない」になれや> に… ―― 熊: せっかく、真面目に読んで来たのに… 今さら何を? 寅: 落ち落ちだよ。「わかる人はわかる」だがね、念のために。 大家: ろくでもない奴に、ろくになれと言ってもね。何だろうね。
・・・・・・ 5170,人生相談という気晴らし! 〜�� 2015年05月11日(月) 『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 「いい人」やめて、「ろくでない」になれや 母親の痴呆症と5年半の間、付合ったこともあり、相談者の切実な気持ちが 手にとるように分かる。兄弟の微妙な関係もあって、そう簡単に事は進まない。 ただ「いい人」を止めてしまうことには大賛成だが、「いい人」は簡単に止め ようがないもの。介護は、それなりの強さと覚悟が必要になる。「ろくでなし」 にも、覚悟が必要。 正常と非正常の間を彷徨う肉親との同居は重く疲れる。 ≪ Q: 〜母親の介護で、自分自身が壊れてしまいそうです!〜 私は四十五歳で、現在母親の介護をしております。母の介護をするために 仕事を辞め、現在無職です。私には、父、兄、弟がいるのですが、まったく 母の面倒をみようとしないので、男一人で母の介護をしております。 その母も痴呆が進み、モノの判断ができなくなり、外でゴミを拾ったり、 真夜中に叫んだり、私もその対応に、やり場のない疲れが溜まっております。 もういっそのこと、私も介護を放棄し、母親に早く死んでほしい気さえします。 同時に私まで気がおかしくなりそうなのです。しかし、これまで母親に世話に なったことを考えると、それも出来ません。このように思う私はやはり 「できていない」人間なのでしょうか? A: 〜「いい人」をやめて、「ろくでなし」になりなさい!〜 これも失礼ながら、いらいらする相談ですね。あなたは、私の嫌いな 「いい人」なんですね。これまた細かい事情はわからないのですが、真剣に 考えれば社会的にはいろいろ道は開けると思います。お母さんには息子が三人も いるのですから、三人でお金を出し合って、介護士を雇う、老人ホームに預ける 等々。(お父さんはともかく)ご兄弟がそれに協力しないのなら、あなたが介護を 続ける代わりに、彼らにあなたの心的・肉体的負担相応のお金を請求してもいい でしょう。お二人がそれさえ拒否するなら、その原因は二つ考えられます。 一つは、あなたのご兄弟が「ろくでなし」だということ、もう一つは、あなたが 「いい人」という名の「困った人」だということ。「ろくでなし」と「いい人」 が共存すると、だいたいいまのあなたのような状況に陥ります。「ろくでなし」 は、「いい人」を骨の髄まで利用し続け、「いい人」は全身不満の塊になって 恨み続けるというわけです。一般に、人がある限度を超えて耐えるとき、碌な 結果を呼ばない。だから、なるべく避けたほうがいいのです。・・(略) あなたがお母さんを(間接的にでも)殺さないうちに、あるいはあなた自身が 「気がおかしく」ならないうちに、あなたは大変身する必要がある。つまり、 「いい人」をやめて、ご兄弟と同じように「ろくでなし」になることです。 そこで、私の提言はただ一つ。一度みんなを集めて、「俺だけおふくろの面倒を 見るのはおかしい!」と大声で叫んでみてはどうでしょう。「もう介護はやめる!」 ときっぱり宣言してはどうでしょう。つべこべ理由を言う必要はない。ことの おかしさは、どんな「ろくでなし」にもわかるはずですから。一度、そういう 修羅場を経由しなければ、そしてみんなが全身ひりひりするほどの痛みを覚え なくては、何も変わらない。もっとも、あなたがどうしてもそうしたくない、 そういう勇気がないというのなら、仕方ないですね。お母さんが死ぬまで、 あなたは介護を続けるしかないでしょう。お母さんを恨み、ご兄弟を憎み、 そして自分を責めて生きるしかないでしょう。≫ ▼ 介護には、周囲の無理解がついて回る。「まだらボケ」が、その一つ。 第三者が居るときには、緊張が入った正常状態に近いため、痴呆症の人との 同居経験がないと、「聞くと見ると大違い」と、勘違いをしてしまう。 で、「ろくでなし」と決め付けられる。 当人は今さら何をか! 私自身を振り返ると、見えてくるのが、「ろくでない」「いやなやつ」の影。 ・・・・・・・ 4064, 思想とは 2012年05月11日(金) * その人の思想とは一つの行為である ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より ≪ ――自分に実感がなければ、ひとを掴めるはずがない。 心の底からほとばしって、聞いているみんなの心を ひたむきな感動で引っ張ってゆくのでなけりゃだめだ。 今日も明日も机にへばりついて、膠で接ぎ合わせたり、 他人の賞味したお余りでこった点をこしらえたり、 掻き集めた灰のなかから 貧弱な火を吹き起したりするのでは、 子どもや猿どもには感心してもらえるかも知れん―― それがきみらのお望みならばだ。しかし、真実、良心から出たもの でなければ、けっして心に達するものではない。(ゲーテ「ファウスト」) そういう声を聞くと、心を打たれると同時に、なるほどこの人はそういう 人かと、そこにたしかな一個の存在を認めるだろう。この人物には思想が ある、と。すなわち思想とは、つまりその人が断乎としてそのように考え、 そのように生きる、その生き方の言葉や行動にあらわれたもの、という ことになる。自分の生き方の全部を賭けた言動だけが、思想の名に値する。 そこから小林秀雄の、次のようなはげしい断定も出てくる。≫ ≪ ――精神の状態に関していかに精しくても、それは思想とは言へぬ、 思想とは一つの行為である。 (小林秀雄『私の人生観』より) 口で言うのならどうにでもなる、とよく人はいい、これはとくにわが国では 支配的で、政治家の言口葉などはその標本のようなものだが、そんなふうに 言葉=意見を弄んでいる者は、ついに真の自己に達することはできないだろう、 というのである。なぜなら、ひとは自分がしんから正しいと考えたこと (それはその人の生き方から出た必然の思想である)を口にする時、己れの 全存在を賭けてそれを言うのであり、それが周囲に認められ、あるいは 否認されることで、己というものを知るのだから。≫ ▼ 11年間、ここで書き続けてきた効用は、この実感がないことは逆に、 書けないということ。だから出来事に直面したときの実感を、その場で文章化 して頭に残して置いて、記憶に残す習慣が出来てしまった。写真家は、シャッター チャンスを待つが、その間、頭の中で、その場の光景の実感を文章化している。 写真に添えられている文章は、だから写真を引き立てる薬味になる。思想とは、 真実、良心から出たものでなければ、心に達しないのである。心にとどくのは、 自分だけの頭で考え、経験し、感じた実感である。読書日記より、書くネタが なく仕方なく捻り出した「閑話小題」、「つれづれに」のテーマの方が面白いと 言われるゆえんである。 ・・・・・ 4438, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー8 2013年05月11日(土) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 * ルート7 リラクゼーションと東洋的思想からのアプローチ(思想の道) 「いい湯だな」と「悟り」は同じこと。両者とも「リラックスの極致=悟り ということ。 笑いは緊張とリラックス(弛緩)の間に生まれ出る。喜劇や お笑い番組の束の間に悟りがあるのか? お笑い芸人が果たして悟りをひらいて いるのか? という疑問が出てくる。しかし「深いリラックス」が、悟りと 笑いにある。早朝のミニサイクリングで信濃川の土手を音楽を聴きながら、 深呼吸をしている時の気持ちは悟りの心境。深くリラックスをしてないと、 自分が壊れてしまう恐れもある。逆に悟りに近い心境は自ずから リラックスの状況を求める。 −その辺りを抜粋ー ≪ 先ほどの達人の境地や禅僧の姿はこれに通じるものがある。自分を磨く ことによって至ることのできる境地。 これに対し、リラックスの境地は、 「世界を貫く原理原則を知った」状態とは異なるように思えるかもしれない。 しかし、そうだろうか。リラックスの境地は、我欲や悩みやその根源である 身体の不自由さから解放された境地だ。心が無であること、あるいは、幻想で あることを、体で理解した境地だ。「ああ、世界での幸福なあり方とはこう いうものか」と体で理解した境地だ。そう考えれば、リラックスの境地は、 「世界を貫く原理原則を知った」ことと等価ではないだろうか。「体で理解」 する点が、禅宗の「不立文字」とも関係している。先ほど述べたように、 禅宗では、悟りの境地は言葉では言い表せないものだと考える。右で述べた、 体で理解した境地とは、まさにこのことだ。 頭で理解したのではない。 体で理解したのだ。体で、世界を貫く原理原則がわかった、と実感したのだ。 よって、リラックスの境地は禅宗の悟りの境地と同じものだ、と体で理解 しさえすれば、同じものなのだ。ただ、古代仏教では、禅宗とは違って、 悟りの境地を論理として理解しようと考える。これはどう捉えるべきなのか。 僕はここにも矛盾はないと考える。矛盾か矛盾でないか、自己か他者か、 実在か幻想か、論理か感性か、頭か体か、という対立図式を超えるのが 仏教哲学の論理だ。・・・ 〜(略)湯船につかって「あ〜あ、きもちいい〜」 と思う瞬間。これは大金持ちでも、貧乏人でも同じ。育ちも実績も関係ない。 欲も悩みもない。何も考えない。ただ、「あ〜あ、きもちいい〜」に集中 している。実は、あっけないことに、これが「リラックスの極限」=「悟り」。 あらゆる欲を超越し、過去も未来も超越し、静かで満ち足りていて、心の 安らぎと平和を享受している。悟りや涅槃の定義にぴったり一致する。 そうはいっても、リラックスの境地と悟りが同じとは ーしかも、 よりによって、風呂の「あ〜あ、きもちいい〜」と悟りを同一視するとはー あまりに突飛で不謹慎な考えだ。そう思われる方も少なくないかもしれない。 が、そんなことはない。期せずして、あるチベット仏教のアメリカ人僧侶は、 悟りとは深いリラックスだと述べていた。≫ ▼ 起業を決意してから45年間。三つのブラックスワンで、この結末。 オセロで、白石が全て黒に変わったようなもの。しかし、人生にとって ベストと数ヵ月後に気づいた。50歳の節目時に、「還暦までに、それまでの 人生を圧縮して生きる」と決意して、その通り実行してきた。しかし、 まだ何かが足りなかった。そこで気づいたのが、悟りが全く足りなったこと! ・・・・・・ 5535,魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思 2016年05月11日(水) * 魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思 魂とは何かについて、様ざまな諸説を学んできたが、 <魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思>の説の切口は新鮮。 そこで思い出したのが、中村天風の言葉。 ソクラテスは、2500年前に、 魂の進化こそ人間の目的という。 〜天風の哲学から〜 ≪ カリアッパ師は遠くの空の彼方を見つめ、誰に言うともなく、つぶやいた。 【お前には人生観らしいものが何もない。その場、その場を生きているだけだと 言われても返す言葉もない。アメリカで医学とやらを勉強したらしいが、逆に その知識が災いして、ちょっと咳をしても恐れ、不衛生だといっては神経をすり 減らし、オドオドばかりしてる。枝葉末節の学問ばかりして、一番肝心の、 『私は何をするために、この世に生まれてきたのか!』ということを考えてない。 本末転倒もいいところだ!それだったら、死でも仕方がないな。そこから立て 直さなければダメだな!】 カリアッパ師は言った。 【何をするためにお前は遣わされてきた!そのことを考えたことは あるのか!】 これは、<私たちが生きている意味は宇宙の進化に 同調すること>であると。 教義の最終目的はアートマン(自分)がブラフマン(宇宙)に合 一すること。≫ ▼ マルクス・アウレリウス、<人間の心で行う思考が、人生の一切を創る。>と、 中村天風は、<私たち は自分が考えた通りのものになる。 そのすべてが、 この宇宙を動かしているのと同じエネルギーの力を得ている。> と、いう。 この宇宙の意思が魂ということ。善なる方向に向かおうとする意思こそ、 最も大切なことである。毎朝、仏前で、「この世の全ての人が、善くあります ように!」と、祈ってはいるが、世人の例外があまりに多すぎて・・ 〜これもまた、以下の内容に丁度よくつづく!「良い人」を止めると楽になる。 ハイデッガーのいう、「世人」相手でなく、己の良心に従えば、「ろくでなし、 結構」になる。「世人」の無知はよくない。善い方向(知識)を知らなくては。
|
|
|
| 6266,閑話小題 〜つれづれに ー新潟・少女殺人事件 |
|
|
2018年05月10日(木)
* 新潟・少女殺人事件 熊: 県知事の買春事件で大騒ぎの後に、父子五頭山遭難騒ぎにつづいて全国区 ニュースが続くね。何でわざわざ、死体を線路に置いたのだろうね。 寅: バラバラにして死因を隠すためだろうか? それを目撃する快楽を味わう 快楽犯も考えられるけど、それは考えすぎ?。 白い車で、黒服の男という から、2〜3割?は、該当するからね。女児が朝、しつこく声をかけられたと いうから、何処かの監視カメラに録画されている可能性が高いし… 解決は早いだろうよ。昨年9月には、同じ小学校の女子児童が男に声を掛け られたり体を触られたりする不審者情報が3件あったというしね。 熊: 死んで何時間すると轢かれても出血しないことを、この事件で知ったけど、 犯人も知らなかったみたいだね。ということは、死因を隠したかった?と しても、殺した上に… 寅: 俺さ、北欧の刑事モノ連続ドラマに、この数年嵌っているので、こういう 異常な事件になると、色いろ思い浮ぶんだ。俺なら、阿賀野川の河口に 捨てるとか…。イギリス、北欧モノには、少年少女への暴行殺人が、結構、 多いし。としても、異常過ぎる事件だね、これは。 何も知らない子供の頃 から、異常ドラマを見て育ったら、映画と現実の境目がつかなくなっても 不思議でないさ。 大家: 情報化がもたらした、マイナスの一面ですか。全国版で、リアルタイム の犯人探しとして扱われるのだろうが… 私も、興味本位では、その一人。 マスコミにとって、犯人逮捕が遅れれば遅れるほど、視聴者の興味が膨らむ ため、有難いのだろうがね。 寅:<9月に、逮捕していれば>のそもそも論が、当然てるため、警察は必死に なるから。 9月、5月からみて、学生が考えれるね。 熊: 昨日さ、たまたま寅さんに勧められて録画していた北欧の刑事モノを見た けど、酷い内容。 その内容を思わせる事件で、何か、背筋がゾッとしたよ。
―― * 身近な野生動物は 庭に来た「雉」を考えているうちに、野生動物といえば、近所を縄張りにする カラスと早朝の川辺や、庭に飛来する野鳥か、時どき居間に侵入してくる蝙蝠と、 虫を改めて認識した。雉、鴨、鶯など渡り鳥が多いのは地方の盆地なればこそ。 野鳥は、誰の助けも借りず、仲間同士で営々と生延びている。その中で、カラス について、ここで何度かテーマにしてきた。TVでカードをかすめ取り、券売機 にさし込もうと試みる錦糸町駅のカラスのレポートを放映していた。元もとペット で飼われていたようで、肩や腕に平気で乗っかる。 私の家のペットは代々、 小鳥派で、インコ。 7代、小桜インコだったが、メキシコ黄金インコに、そして 今では、世界最小のルリハインコで、歴代で一番の7年生存で、唯一の芸、 「枝回転」を披露している。
・・・・・・ 4437, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー7 2013年05月10日(金) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 * ルート6 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道) 《 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人 の目を気にしない生き方。それを満たすのは、自己を捨て、無我、無私を実現 する達人の生き方。欲にも、生死にも、他人との争いごとに拘らず、達観して 静かに生きる姿勢。ここに達成した人は、持続的至福に達することが出来る》 これが、幸福学の結論。 現在の状況を冷静にみると、 「これが人生、で、もう一度同じ人生を歩みたい」という現在の心境と同じ。 ー他人と比較しないことによる幸せこそ、人生の要諦。 その辺りよりー ≪ 幸福学とは、要するに、幸せに効く主観的な要因は何かを明らかにする研究。 その結果、僕たちの行ったアンケートの範囲では、幸福の要因は大きく 四つの因子に分けられることがわかった。 ・一つ目は、自己実現や自己能力に関する因子。目標を持っているか、直近の目標 と将来の目標に一貫性があるか、自己統制感が高いか、自尊心が高いか、など。 ・二つ目は、つながりに関する因子。他人に対して親切か、様々な出来事に 感謝しているか、多様な知人がいるか、など。 ・三つ目は、楽観因子。楽観的か、ポジティブか。 ・四つ目は、他人と自分を比べない因子。他人と自分を比較しない傾向が高いか。 ここでは、四つ目の因子に注目しよう。 すなわち、「他人と自分を比べない ことによる幸福」について。 自分を他人と比較しない人には、長続きする 幸福が訪れると考えられる。千五百人への調査結果も、それを表している。 つまり、千五百人の回答者のうち、他人と自分を比較しない傾向が強い人は 幸福である比率が高く、他人と自分を比較する 傾向が強い人は不幸である比率が高かったのだ。 自分と他人を比較しない人々には二つのタイプがあると考えられる。 他人を見ないタイプと、自分を見ないタイプだ。前者は、自分だけを見て他人 を見ないタイプ。周りのことを気にしないマイペースタイプだ。 我が道を 行くから、周りなど関係ない。場合によっては、独りよがりだったり、わがまま だったりするかもしれない。自分は幸せでも、他人には迷惑をかけている 「自分勝手」タイプかもしれない。後者の自分を見ないタイプは、逆に、 世界は見るが自分を見ないタイプ。何が欲しい、こうなりたい、などの自我の 欲求があまり強くないから、他人と自分を比べることにそもそも興味がない。 悪くいえば向上心や競争心がない。なすがまま、自然のまま、だ。 たとえば、武道の達人をイメージしてみていただきたい。茶道、華道、座禅 などでもいい。 凛として、姿勢がよい。何かあっても、動じない。静を以て 動を制す。普段は静かだが、実は相手を倒す力を秘めている。無駄に力んだり せず、相手の力をすっと利用して、自分の思いどおりに世界を動かす。しかし、 私利私欲はない。判断は大局的。全体が見えている緊張感のある空気を醸し 出すが、自分のためには怒らない。思考の対象は常に世界だ。世界のために 行動する包容力。名声を得ていたり、人望が厚かったりするが、決して自慢など しない。 もちろん、他人と自分の比較などしない。≫ ▼ どうも世の中、嫉妬と苛めの糸で哀れなほど。私住む城下町は長年の柵 で、雁字搦めの蛸壺社会。8割以上が地元出身者で占められ、それが全社会。 学校関係者以外は殆ど付き合いがないが、垣間見えてくる世界は箱庭のようで 面白い。知識を持たない人の無意識の科学は、身近の人との比較しかない。 不幸になって当然。それも私の主観による思い込み。「横を見ないで、縦 (今、ここ、自分)を見て生きる」と割切ってしまえば、良いが。 ・・・・・・ 4063, 本当は怖い抗うつ剤 ー2 2012年05月10日(木) * うつ病になったら、どうしたらいいのか。 { 浜松医科大名誉教授 高田明和 } 倒産の惨劇を身近で見ていたので、二年間は落ち込むのは避けられないと判断。 最小にするためスポーツジム通いと、打ち込める対象を加えることを考えた。 一つ間違えると欝に伴う暴発か、破滅になっていく。それがiPadとシネマと 蔵書の再読と、世界の潮流の鳥瞰などを、逆に徹底的に楽しむことであった。 それと、中村天風の「積極一貫」の思想書を、身近に置いて何度も読み返した。 二年にまだ一年あるが、一息ついた後半の方が危ないのかもしれない。 その私が予防策でとった方法がそのまま、治療法として研究されていた。 運動と、考え方、受け止め方をプラスにすることだ。 ≪ うつ病の治療法として確立しているのが「運動」である。体を動かすことが 精神によい影響を与えることは様々な研究で示されている。第二は「ものの考え方」 である。私たちは競争社会に生きている。競争とは相手に勝つことを目的とする。 もし負ければ落伍者になる。一度敗北すると、将来がないように思うのだ。 さらに大事なことは、どのような分野でも自分より勝れた人がいるという事実。 例えば野球にイチローがいて、ゴルフには石川遼がいるのと同じようなものだ。 努力は大事だが、自分が及ぼないからといって自分を責めていたら人は決して 心の幸せは得られない。・・・堀口大學は自身の『座右の銘』という詩で 「暮らしは分が大事です。気楽が何より薬です そねむ心は自分より 以外の ものは傷つけぬ」と詠んでいる。自分以外とは社会的ランクのことである。 今の自分のランクを受け入れ、それでよいのだとする以外に心は楽にならない。 禅では「不思善 不思悪」といって、思い出さないことをもって最も尊いとする。 といって、無理のことなら、思い浮かんだら、しばらく放っておいて手を出すな、 必ずその思いは消えると、禅では教えている。 実際に、どのような思いも 5秒で消える。・・・ ≫ ▼ 「どんな思いも5秒で消える」は、言いえて妙である。出るのは仕方が ないが、なるべく、そこで切るように心がければよい。全ては二年で落着くし、 目先は五秒のフラッシュで出てきた思いの延長を考えないこと。特に寝付けない 布団の中での苦悩の嵐は、訓練で最小にすることが可能。 そのためにiPod を枕元に置いている。最近は、ほとんど夜半、使うことはないが、音楽は効く。
・・・・・・ 5169,閑話小題 〜どっちに失礼? 2015年05月10日(日) * どっちに失礼? 猿の赤ちゃんの「シャーロット」の名問題で、家内が『私も失礼だと思う!』 と言った時、思わず出たジョークが、『どっちが?』だが、反応はゼロ。 そのジョークを即座に理解出来る玉?ではないらしい。直ぐにブログに取上げ ようとしたが、その辺の世間びとに配慮して自重した。 獣を軽くみるのは、 人間のエゴの思い上がりである。 朝日の天声人語が、上手い解説である。 ≪ イギリス人はユーモアが好きだ。苦しいときほど必要だと考えるらしい。 第2次大戦中、ロンドンはドイツ軍の空襲を受けた。動物園に爆弾が落ちた ときは、タイムズ紙が「しかし、猿たちの士気はいささかも衰えていない」 と書いたそうだ ●考えてみると、これは「猿たち」が利いている。 猿山を眺めれば、彼らがわれわれに最も近い動物であるとよく分かる。 ゾウやキリンではあまり面白くない●古びた話を、大分市の高崎山自然動物園の 赤ちゃん猿の命名騒動に思い出した。英王室に誕生した王女と同じシャーロット と名づけたら、「失礼だ」という批判が山と届いた。これも猿ゆえだろう ●ウサギやカピバラなら、騒動にはならなかったと思われる。ではカバはどうか と問われると困るけれど、ユーモラスではある。英王室の広報は鷹揚に 「赤ちゃん猿の命名は動物園の自由」と語る。結局、名前はそのままと決まった。 「失礼」を案じた人たちも、先方の対応に少し気が楽になっただろうか ●ロンドン空襲に話を戻せば、半壊したある百貨店は「本日より入り口を 拡張しました」という看板を出したそうだ。やせ我慢で繰り出した泣き笑いの ユーモアに、お国柄を見る思いがする。そういえばきのうは、英国にとって 対独戦の勝利から70年の日だった●健やかなプリンセスの誕生から世界注視の 総選挙と、英国発のニュースが続く。日本の皇室ともゆかりの深い王室である。 美しい5月の慶事を、遠くより祝福申し上げる。≫ ▲ 今回の騒動について、文化人類学者は「人々の深層にある獣に対する 差別意識が表れた」という。 また「一部の人たちが英王室の王女の名前に 日本の皇室を重ね、敏感に反応したのだろう」と。「(失礼なのは)どっちが?」 のジョークも、我ながら人類への皮肉である。 同じ島国でも歴史が違うと・・ * 連休での渋滞原因とは 連休での観光地の車の渋滞原因は、意外なところにある。高速道のトンネルを 抜けたときの陽光に、直ぐに眼が馴染めずスピードを落とす。その小さな積み かさねが、数百、数千台が積み重なって渋滞になってしまう。その上、登り坂で、 少しスピードが落ちてしまうが、それに気づかないことの積重ねも渋滞原因に なっている。要は、それぞれの小さな減速の重なりが、原因とか。 それと、普段、遠出をしたことがないドライバーの不慣れが重なるため。 ・・・・・・ 5899,『しあわせ仮説』 −5 2017年05月10日(水) 『しあわせ仮説』ジョナサン・ハイト著 * 危機にぶち当たった時の対処 ≪ 人は危機に当たった時の対処に主に3つの方法で対処する。 ・能動的対処:(問題解決のための直接行動) ・回避的対処:(その出来事を否定したり、薬物などで気を紛らわせたり) ・再評価:(思考を正したり、希望の兆しを探したり、心の内部を変える) 楽観主義者は、能動的対処と再評価の間で揺れて、対処の中で能動的 物語の粗筋をつくっていき、悲観主義者は回避的対処と再評価の間で消極的 物語、意味づけをしていく。楽観主義そのものに意味(価値)があるのでは なく、楽観主義者がたやすく見出す「意味づけ」にある。〜P/217 ≫ ー ▼ 態度価値といえば、フランクルである。 彼によれば、 【人間が実現できる価値は創造価値、体験価値、 態度価値の3つに分類される。 ・創造価値とは、人間が行動したり何かを作ったりすることで実現される価値で。 仕事をしたり、芸術作品を創作したりすることがこれに当たる。 ・体験価値とは、人間が何かを体験することで実現される価値である。 芸術を鑑賞したり、自然の美しさを体験したり、あるいは人を愛したりする ことでこの価値は実現される。 ・態度価値とは、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値である。 病や貧困やその他様々な苦痛の前で活動の自由(創造価値)を奪われ、楽しみ (体験価値)が奪われたとしても、その運命を受け止める態度を決める自由が 人間に残されている。】 これから危機の対処方法をみると、人間としての生きる意味そのままが現れ 出てくる。再評価が態度価値になる。「受け止め方」を変えることになる。 価値実現のために、「意味づけ」「物語化」が必要で、態度価値を冷静な視線 で捉えておかなければならない。6年前の節目で、まず整理したのが、態度価値。 危機はチャンスでもある。チャンスは、節目を全身で叩きつける切れ目を凝視 する機会にすること。新たな支点で世界をみるための既成概念を叩き壊すこと。 危機があればこそ物語が生まれる。世界が広がっていくのである。
・・・・・・ 5534,若者よ、外に出よ! ー�� 19世紀の芸術に触れろ 〜B 2016年05月10日(火) 『人生の教科書』なかにし礼著 ここで、若者に、<海外に出て、自然と、芸術作品に触れ、読書などで 教養を積み、恋愛をしろ>と勧める。これは若者だけでなく、壮年、老年に も言えること。情報化社会の中で、クラシックをジックリと聴く余裕は少ない。 しかし、今ではアイフォンがあり、何千、何万の音楽を入れておくことが可能。 更に今では、定額のネット配信で好きな音楽を好きな時間に聴くことができる。 そのベースとなる19世紀クラシック音楽鑑賞を趣味にすることを勧める。 * なぜクラシックを聴くべきなのか ≪ 芸術を学ぶ際、音楽なら、黙ってクラシックを聴くこと。いまだに クラシックは不滅の音楽なのだから、それを聴くことが趣味になれば最高だ。 たとえ趣味となり得なくても聴くべきである。 特に、やはり19世紀の音楽。18世紀にはモーツァルトがいるけど、彼の死後、 すぐベートーヴェンへ、19世紀の音楽へと繋がっていく。ベートーヴェンから 始まって、シューベルト・ショパン、ブラームス、ワーグナー、マーラー、 ブルックナー、ベルリオーズ……とにかく19世紀だ。 ロマン派の時代である19世紀は、前世紀の革命時代が終わり、 「人間は進化する」ことを人類が知った時代である。愛によって人間は死ぬ こともできるし、愛によって罪を犯すこともできる。そして「人間は進化して 神にもなれる」という思想を、芸術家たちが作品の中に叩き込んだ。 19世紀は人間の可能性のすべてを歌いきった時代なのである。 文学の世界でも、トルストイ、ドストエフスキー、バルザック・ユーゴ、 アレクサンドル・デュマ、スタンダール、ゲーテ、バイロン、シラー、ボード レール・ベルレーヌ、ランボー、オスカー・ワイルドなど、大作家が生きた 時代はすべて19世紀である。 19世紀という時代を常に自分の心の中に持っていようとするには、音楽を聴く ことを日常の習慣にしてしまうことだ。この頃の作品は、今や不滅の作品群だ。 20世紀になるとそれらはすべて別の音楽になっていってしまうし、言うなれば 19世紀の残骸のようなものだ。19世紀の音楽を楽しめなかったら、その人間の 精神生活はすごく貧弱なものになると思う。 ≫ ▼ それでは、絵画はどうだった調べてみると、 【19世紀はもっとも絵画が進化した時代と言っても過言ではない。現代絵画の 巨匠ピカソやマティス、ムンク、シャガールなど全員がその影響を受けている。 16世紀まではイタリアが、18世紀はフランスが芸術の最先端。ゴッホは19世紀 終わりの画家である。・・】とある。その背景には、国力の成熟もあるようだ。 学生時代に、安いステレオを買って、世界の民謡、ジャズ、アメリカン ポップス、クラシックを独りコーヒーを飲みながら聴くのが楽しみだった。 大都会の中の孤独は、音楽と読書でまぎらわすのが一番だったが、後から 考えてみると、大都会の中の孤独こそ、一番の環境だったことになる。 早稲田大学近くの寮、今でいう「シェアハウス」の25人の地方出の共同生活 から垣間見た人間観察と、クラブ、ゼミ、世界旅行と、恵まれた経験だった。
|
|
|
| 6265,閑話小題 〜「これ以上はいけない」と宣告する境界線 −2 |
|
|
2018年05月09日(水)
《『街場の読書論』ー歩哨的資質についてーより》 * 歩哨的資質ですか! 聖地や秘境との邂逅の場で、何やしらかが、「これ以上、立入るな!」と 無言の得体のしれない何かを感じたこと屡々。その時々に私の知っていること など、ほんの僅かで、圧倒的未知の世界の一部から得る啓示に慄然とする。 <「存在しないもの」と「存在するもの」のフロントラインにおけるふるまい> とは、分かりやすい表現である。人間は未知とのフロントを守護する歩哨ですか。 考えさせられる内容のため、全文を数回に分け紹介しながら考えていく。 ――
≪毎日新聞社が高野山金剛峯寺で開いているセミナーで一席おうかがいしてきた。 「公共性の再構築」という演題だったのだが、それは3・11以前に出した ものなので、もう少し踏み込んで「社会制度の作りなおし」というテーマで 70分お話しする。 このところ繰り返し述べている「存在しないもの」と「存在するもの」の フロントラインにおけるふるまいということをまた申し上げる。
私たちの世界は「存在しないもの」に囲繞されている。 宇宙の起源を私たちは知らないし、宇宙の果てに何があるか (というより「何がないか」)も知らない。 時の始まりを知らず、時の終わりを知らない。 『ヨブ記』で主はヨブにこう問う。
「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。 あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。 あなたは知っているか。 だれがその大きさを定め、 だれが測りなわをその上に張ったかを。 その台座は何の上にはめこまれたか。 その隅の石はだれが据えたか。 (・・・) あなたは海の源まで行ったことがあるのか。 深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。 死の門があなたの前に現れたことがあるのか。 あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。 あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。 そのすべてを知っているなら、告げてみよ。」(『ヨブ記』38:3−18) ヨブはこの問いの前に絶句する。 私たちは私たちの生きているこの世界の「外部」についてほとんど何も知らない。 私たちは私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの、手持ちの言語では 記述できないものに囲繞されている。 私たちが理解できる世界と、理解を超えた世界のあいだには目に見えない境界線 がある。 「存在するもの」と「存在しないもの」のあいだには目に見えない、 手で触れることもできない境界線がある。けれども、その境界線を守護するのは、 私たちが「人間の世界」で生きてゆくために必須の仕事なのである。 誰かが境界線を守護しなければならない。 『ヨブ記』においては主がその仕事を担っている。 主はこう言う。 「海がふき出て、胎内から流れ出たとき、 だれが戸でこれを閉じ込めたか。 (・・・)わたしはこれをくぎって境を定め、 かんぬきと戸を設けて、言った。 『ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。 あなたの高ぶる波はここでとどまれ』と。」 (『ヨブ記』38:8−11)
「存在しないもの」に向けて「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上は いけない」と宣告する境界線がある。 高野山の奥の院に足を踏み入れたときにも 「フロントライン」に近づいた感覚がした。 弘法大師がそこでとどめた「高ぶる波」の微かな波動が感知された。 聖域というのは、そこで完結している場所ではなく、何かとの「境」なのだ。 機能的には「かんぬきと戸」なのだ。 〜つづく ≫ ― ▼ カナダに初めて行って、ロッキーの景観に圧倒され自失茫然とした。 その時の内なる声、「もしかして、これを見ずして死ぬところだった! とんでもない! 夜半8時過ぎの薄暮のなか、バンフのレイクルイーズの周辺を家内と散策した 時のこと。家内が疲れ果て帰った後、更に独りで湖畔を歩いていると、何やしら リスやカワウソ、ビーバー、鹿?などが威嚇する鳴き声。それでも女性一人が、 次々と帰ってくるのに励まされ歩いていると、今度は雷音が、「もう帰れ!と 言わんとばかりに聞こえてきたため、Uターンをして帰った。 世界的カーレーサーの明言、『限界までは誰でも行ける。問題は、その先、 どの位行けるか!』。 イスラエル、ケニア・タンザニア、シリア・ヨルダン など秘境、異郷ツアーで味わうのは、その歩哨の感動体験の感覚。 <これらを見ずして、誰が死ねようか。見なければ、体験しなければ、それは 存在しないことと同じ。聖域とは、聖地とは、大自然の懐とは、そういうところ!>
追:【そんなことこそ大変だろうが、拘ることもないさ。中心を穴が空くほど 凝視して、捨身になれば、一瞬でも解放されるよ、自分という柵から! 折角、宇宙の彼方から観光旅行で、『光』を見に来たのだから。 縛ってるのは自分以外、誰も居ないよ。 分かってはいないのは私自身。】
・・・・・・ 「読書日記・映画鑑賞日記」のコーナー 2007/05/11 2229, 人生張っています −2 (σ・з・)σオハYO!! 『人生張ってます』−読書日記 対談を終えてのインタビューの感想がまた面白い! ーー さすがの中村うさぎも、毒気を抜かれて「まだまだ、うさぎは青かった」と。 「私はそれなりに地雷を踏んできたなと思っていたが、世の中には私の 踏んでない地雷がいっぱいあるものだと、勉強になりました」と脱帽。
30歳前後位で、女はみんな迷ったり模索するじゃないですか。 その時に暴走しちゃったらするんだと思うんですね。 私の買い物もそうかもしれない。 5人の場合も折り合いがついてないのかもしれないが、 「私はこっちの道を行くと決めた」というのがあって。 こんな人にはなってはいけない。
「あなたはあなたなりの道が用意されているわけで、それはあなた自身が決めないと いけないんだ」ってこと。誰かから決めてもらって押し上げてもらって 押し上げられた人は誰もいない。ある程度のところで決断して、捨てるものは捨て、 受け入れるところは受け入れて、自分の売りとか生きていくキャラの方向性を決めないと。 「これが私なんだ、こんな私はどうよ?」という腹のすわり方は、読者も見習ってほしい。
私のそういう瞬間は、第一次、第二次があるとして、第一次は離婚でしょうね。 あの旦那をわたしの人生から簀巻きにして放り出したところで、これでいいや と思ったんです。それから浪費癖ですね。開き直ったんです。 「浪費作家・中村うさぎ」という名が売れるとは、想像もしてなかった。 ドン底にはまった時に、そのドン底がネタになるんですね。 ネタにしようとやっているわけではない。 ーー 解)以上であるが、冷静かつ真面目に彼女等と自分を見据えている。 それよりも、すざましいウンコ話をパソコンに打っている自分が面白い? 秘境旅行は、一度の旅行に一通りの人生のトラブルが圧縮して立ちふさがる。 その一つが『デモノ・ハレモノところきらわず』である。
食事と飲み物と、時差の関係で、何時何処で、もようしてくるかわからない。 今まで、一度も失敗が無かった方が奇跡である位、何度も危機一髪の事態に陥る。 そんなことを恐れていたら、秘境旅行などできやしない。何とかなるものである? だから、このエゲツナイ話が身に沁みるのである。 書き写すかどうか迷ったが、今さらである。 読まない方が良いですよ!と 言いながら・・・
こういう話は、タブーなのだろうが、この本は誰もが嬉々として 話しているところが怖い!ところだ。 ー内容は、明日のお楽しみ?に! 三人分の対談者の内容を書き写してある! ☆^(*≧ω≦)ノ~~~βyё βyё♪ ・・・・・・ 5898,閑話小題 〜病は覚醒装置である 2017年05月09日(火) * 病は覚醒装置である 二年前に、中村うさぎの手記の感想文を10回にわたって、いや、その前にも 幾つか書評を書いていた。女流無頼漢を地でいく内容が面白い。私のような半端 なアウトサイダーではない。だから心は傷だらけ。その血を文字に替えて書くから 内容はシリアス。一昨年の内容をブログ内検索をかけると、 <「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと!ー��2015/08/26 ーその時、言葉は私の「神」となる(新潮45/6月号)中村うさぎ著>である。 その直後にTVに出ていたが、最近は殆ど見かけることが無かった。 ところが先日、図書館で、新潮45。2月号に、彼女の手記があったが、現在、 死にかけた病を抱えたまま車椅子生活を過ごしているという。 知人に事故で車椅子生活を余儀なくされた人がいるが、心の内は如何ばかりと 思っていたが、それそのままを中村うさぎ女子が、代弁しているような内容。 社会といえば、経済社会が、その位置を大きく占める。倒産といえば、経済 社会では落伍者として葬りさられる。著者が語る言葉そのままが、現在の私の 奇妙な立場の気持ちそのままを表している。〜その一節より 【 私がもっとも苦手とするのは私の悪口を言う人々ではなく、私に一方的な 幻想を抱いてそれを押し付けてくる人々だ。私の幻想を必要とする他者に、 私は一切の責任を負う気がない。だって、それは私が作った幻想でないからね。 あなたが自分で作り上げた虚像なのよ。そんなものを振りかざして私に勝手に 期待を抱かれても、困る。あなたに私を規定される筋合いはこれっぽちもない。 ……(略) 病と、それに伴う喪失は、何だかんだ言いながらも社会の中に ポジショニングされる自分を捨て切れなかった私にとって、痛烈にして効果的 な平手打ちだったのだと今では思う。いきなり身ぐるみを剥がされた時は、 まるで追剥に遭った気分だったけど、結果的には、裸にされたことで、私は 自分を取り戻せたのである。病は、私の覚醒装置だったのだ。】 ー ▼ 6年前から現在に至る間に、小躍りをした様ざまの人が病や事故で倒れた。 それからして、「私のエネルギーは? 彼らを排除する脳力を持つ?」 「私の覚醒装置が他者に働いた場合、彼らは「まさか」に遭遇する」という 物語を作り上げて怪奇現象?としてを眺めている。 同世代の倒れた人は、 遥かに深刻な内なるブラックスワンがいずれ自分に舞い降りるとは思わない。 己の死や重大事故が身近にあることに気づいていない。病も倒産も、確かに 覚醒をさせてくれている。数日前に書いた「素朴な実在主義者」の「純粋悪」 の汚水が年齢を重ねるにつれ満ちてくる。 生・老・病・死は、一体である。 〜その幾つかより〜 (読み返してみて、「これじゃ病気なるわ!」)
―――― 2007/06/02 2251, ビョーキな人々探訪記 −1 才ノヽ∋―_φ(≧ω≦*)♪ ー読書日記ー 「変? ビョーキな人々探訪記」 著者・中村うさぎ またまた「中村うさぎ」である。 買い物依存症の中村が、他の依存症の人と語る、際どい話である。 この変な人が、それに劣らないほどの変な人の病巣を浮き上がらせる。 やはり両親、特に父親との愛情不足の問題がある。 色いろ反省することが多い。 両親から愛情をたっぷり注がれたわりに子供には?等々・・・ ーまずは、その目次からー
* 私たちって「変」ですか?うさぎと語る12人 ー目次 和田秀樹―「買い物依存症」になって考えた。人間はなぜ、心の病に罹るのか? 原田宗典―躁鬱病VS依存症。どっちがバカで、どっちが辛いか?ま、いい勝負だが。 本橋信宏―覚醒剤やめますか、人間やめますか?それとも人間やめたくて 覚醒剤をやるんですか? 島村洋子―お互いのすべてを肯定する快感! だから恋愛って、素晴らしいと思う 横森理香―お人形さん願望と自己実現願望。エステサロンは女の業の吹き溜まり。 団鬼六 ―鬼畜のブランド買いVS鬼六のサディズム!さて両者の接点は? 尾崎弥生―やめられない、止まらない。餓鬼のごとく貪る、過食の恐怖…! 宮台真司―少年犯罪と依存症。他者への攻撃行動と自分への破壊行動は、 正反対の存在か? 月乃光司―引きこもりからアルコール依存症へ。 自意識の病は人を限りなく転落させる。 松本侑子―男であること、女であること。それって、そんなに大事なことなのか? 沢村拓也―ホストにハマった中村うさぎをベテランホストは救ってくれるか!? 苫米地英人ーなぜ、やめられない。なぜ、破滅したがる。 依存症の不思議に、脳機能学が答える! ーーーー この本の書評をいざ書くとなる難しい? どこから書いてよいのやら、とまずは深呼吸をしないと、 それで上記の上から、気の向いたまま面白いところを抜粋してみよう。 下手な精神病理の話より、ずっと話の奥行きが深い。
* 買い物依存タワーハッカー説 まずは和田秀樹の「買い物依存タワーハッカー説」より。 後楽園のタワーハッカーに乗るたび、とてつもなく恐怖と後悔を味わう中村。 だが猛スピードで落ちた後に押し寄せてくるのは、これまたとてつもない陶酔感と 異様な達成感で、全身が鳥肌立つほど興奮してしまうのだ。 これは「死の恐怖」に直面した脳が、恐怖をやわらげるための脳内麻薬を ドッバーと分泌するからではないか。 そして、中村が浪費するたびに味わう恐怖と快感は、このタワーハッカーと 同じ現象が起きているせいではないか、と。
和田:「アルコール依存症」と「大酒飲み」の一番の違いは、 ひとりで飲むか、誰かと飲むかの、ということなんです。 いつも誰かと一緒に飲んでいる人は、依存症にまずならない。 中村:わかります。その気持ち。私は誰かと一緒に行く買い物はダメなんです。 ひとりじゃないと絶対にヤダ。 和田:依存症状態になった人は、自分の内面に深く入り込みますから、 ひとりではまっていくのです。
和田:何より、自己洞察の世界に入っていますから。これだけ自己分析が できるというのは、重症ではないと思います。普通なら、自分が見えなくなって しまうのが依存症の基本ですから。直そうと思っている時点で、充分治る可能性は あると思います。 ーーーー 「秘境旅行依存症」というのがあるなら、少し「買い物依存症」に似ている。 この浪費で味わう事前の恐怖と達成感の快感は、タワーハッカーの現象に似ている。 いやまだあった、ニュージーランドと南アフリカでのバンジージャンプは、 この数百倍?の恐怖と達成感である。 それと「アルコール依存症」は一歩手前までいったと思ったが全く関係ない。 一人、黙々と飲むのが、特徴のようだ。 私が経験したのは、単なる大酒のみである。 ただ、守ったのは一人酒のハシゴ、この味を覚えたらアル中になる予感がしたからだ。 see you again!(*ゝェ・)/~☆Bye-Bye♪ ・・・・・・ 「読書日記・映画鑑賞日記」のコーナー 2007/05/09 2227, 人生張っています −1 (*´・ω・)ノおはよー (((。・-・)从(・-・。)・*: ー 読書日記 「中村うさぎ」については、もういい加減にしろ!と思いながら、 図書館で見つけると、ついつい借りてしまう。 エゲツナイ!の一言である。「人生張っています」は露悪という言葉など、 はるかに超えている。 「無頼の女たち」5人と語った対談は、互いの最悪を引き出したエログロものである。 こういう話は、世間様の枠から遥かに出ていて中途半端なお笑いより面白い!
花井愛子、岩井志麻子、マツコ・デラックス、西原理恵子、斎藤綾子とくれば 「たしなみ」など、ありえるわけがない。 「はみだし者」の世間の価値観におさまらないオバケのような妖怪女が 普通人の「常識」と違う「異世界」の話を展開している。 個性的な女同士のバトル的、際物的な、ぶっ飛びの話題ばかり。 中村うさぎが普通の人に思えてくるから不思議である。 女のシモネタの羅列も、ここまで明け透けの話すと、なるほど納得する。
西原が「私から悪いところ取ったら私がなくなっちゃうじゃない」 という言葉がよい。自分自身を丸ごと引き受けて生きている言葉である。 まずは冒頭の ー無頼な女たち宣言ー 「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には まくらする所がない」 (マタイによる福音書第八章20節) 諸君、我々には、あらかじめ用意された居場所などない。それ故、 人はさまようのである。自分の居場所を求めて・・・・ 無頼な女たちとは、ねぐらを持たない行き方を選択した女たちだ。 その道は自由で、孤独で、そして果てしない。 人は彼女たちを笑い、彼女たちを恐れ、彼女たちに憧れるだろう。 多くの物を背負いながら、何も持たないかのように歩いていく、 その軽がるした足取りに。 ーー 人生とは何じゃらかんじゃら?などクソクラエである。 世間?そんなもの何処にあるの? 生きたいように生きて何が悪いの? 変態? それじゃあんたはどうなのよ? 新幹線の中で薄気味悪い笑いを浮かべながら読んでいるが、 誰かが見たら不気味だろう! ーつづく ☆^(*≧ω≦)ノ~~~βyё βyё♪
|
|
|
|
2018年05月08日(火)
* 世間教のおバカは自分のこと 前に、「世間話のでき方」のテーマを思い立ち書いた。また「世間様」の 批判だが、前回の文脈からして如何に、風評が言い伝わるうちに、歪められるか、 物語として書換えられるかの恰好の事例になった。 ・まず自分の話からして、都合よく脚色をつける。 <修理後に、カツ屋に行こうと信号を渡って店に入いろうとしたらパトカーの サイレンが聞こえてきた。まさか違うだろうと思いつつ、カツ丼を注文したが、 何か気になるため、帰り道は、万一と考え、大通りを避けて帰ってきた。帰りの 道すがら、万引きをして追われる男の気持ちとは、こんなものか?」が修正がある。 少し難しい話になるが、カントの「もの自体」の説明になる。主観が入るため、 描写そのものが無理。主観という歪みが入るのである。世間話なら、ほぼ嘘が 拡大する。この文章も私の歪んだ主観で折角の情報を面白おかしく歪んでいる。 その歪みを上から、下から目線で楽しんでこそ、面白みが倍増する。 ・家内の一時停止違反の話を聞いて、脚色して話を面白くしたのを、家内が 間抜けな亭主がパトカーに追われてカツ屋に逃げ込んだ話に脚色。それが伝わる うちに、警察に捕まり、連行されミッチリ絞られ…に発展していく。世間様とは、 そういう世界の人達をいう。これが世間教徒の姿と私の歪みを白状する。 ・幼児の頃から、両親の会話の中に、その正体「全部、嘘かデマカシ」を知って いたが、黙るしかなかった。(実はこれも脚色)。18歳から30歳近くまで地元を 離れ、34歳から新潟駅前で事業を始めて31年、職住を分けて、可能な限り同級生 以外に近づかないことを旨にしていた。これも歪み。先年に亡くなった親戚に、 半径500m、直径1kの人(世界各地のほぼ大部分になるが)、小さな小池の現実 に嵌って?生涯独身だった(これも私の歪み)。それぞれの歪みが自分になる。 カントではないが、それぞれが分厚い色付きの歪んだサングラスをかけて、身近 な人の風評をなぞって一生を終えるのが人生。 その歪みを少しでも自覚する ため人は旅をし、読書をし、自然に接し続けなければ生きている甲斐がない。
―――― 5532,若者よ、外に出よ! ー�� 天空のショー 2016年05月08日(日) 『人生の教科書』なかにし礼著 * 天空のショー 人間わざ、大自然、そして宇宙へと、対象が一つずつ、ランクアップする。 自然現象、宇宙のテーマは、『人生の教科書』にはない、私の経験の話題になる。 オーロラは太陽系の天空のショーで、地球上の自然現象ではない。だから、 その神秘な輝きに何か得体の知れない現象が感動を呼ぶ。テーマが、 「地球は」から、「宇宙は」に変る。 〜ネット検索によると〜 《 天体の無数の星星の間に輝くオーロラは、太陽から大気圏内へ、光や熱 だけでなく、太陽風を降り注いでいる現象。この太陽風は、太陽の表面の 爆発によって放出されるプラズマ状の電気を帯びた小さな粒でできている。 この太陽風の粒は、地球の磁場を横切ることができない特性を持っていて、 地球の側面からは入ってくることはできない。それに対し、地球の北極や南極 の辺りの磁力線は地球に対して垂直になっているため、太陽風の粒は、地球に 入ることができる。こうして地球に入ってきた太陽風の粒が、オーロラを発生 させることになる。この極地方から入ってきた太陽風の粒が、地球から100〜 400Kmのところで、酸素原子や窒素分子などと衝突すると、光を出す。 これがオーロラの正体である。》 北極近くの天空をキャンパスにした神秘的な光のウネリは、気ままに姿を 現したり、消えたりする。その魅力は、映像では知ることは出来ない。 外に出続けた結果、出会えたのが、これである。〜10数年前の文章をコピー ―――― 2003/10/14 923, アイスランド旅行記ー3 2003年10月14日(火) ーオーロラハントー 数年前に、ノルウエーのトロムソにオーロラハントに行ったことがあった。 その時は「何だこんなものか」という程度で、期待とは全く違うものであった。 薄い雲がスジ状に光っているだけであった。だだ行きの飛行機から見たオーロラ がカーテン状に広く光っていたが。今回も5日間で一日しか見えるチャンスが 無かった。夜になると寒くなる為か曇ってしまうのだ。 感動するような大きなオーロラのはそうそう見ることができないのだ。
そしてたった一回だけの私にとって一生もののオーロラが出たのだ。 天空に展開した時の感激は、想像をしていたより遙かに神秘的かつ荘厳であった。 写真など撮っている余裕など無く、ただ呆然と見とれるだけであった。 これをどう言葉で表現したらよいのだろうかと考えていた。 天空の黒をキャンパスに、滝が降るように頭上の両側に壁になり揺らぐ青白光の 波がこの世のものと思えない、神秘的なものであった。。 あとは「 ・・・・・ 」である。
取材できていた共同通信社のカメラマンが、 「このオーロラをどう東京の友人に説明したらよいか解らない」話しかけてきた。 「これは実際、この目で見るしか理解はできないでしょうね」と答えるしかなかった。 その時、涙が出そうになっていた。 以前ツアー仲間から、この体験談を聞いたことが何回もあったが。 「もういつ死んでもよいと思った!」 「聞くと見ると大違い、実際見なくては!言葉で表現できない」 ―――― H1201自然の神秘 −オーロラ− 旅行に行く度にツアー仲間よりオーロラのすばらしさを聞いて、機会を待って いた。「この冬が十一年に一回のあたり年で五泊六日・三食付、十四万九千円」 の新聞広告に引きつけられ、ノルウェーのトロムソのオーロラ・ツアーに参加。 スカンジナビア半島の北極圏に位置した、北海道を思わせる質素だが、 豊かな上品な街というのが第一印象であった。丁度クリスマスのシーズンに入り、 それぞれの家が電飾で飾られておりお伽噺に出てくるような街並みであった。 トナカイにソリとサンタクロースがぴったりマッチするような絵画的景色であった。 帰りに一泊二日でデンマークのコペンハーゲンに立ち寄ったが、街中がネオンで 飾りたてられており、ディズニーランドを思わせるこの世とは思われない “夢の国”という印象であった。特にチボリ公園の電飾が印象的であった。
トロムソに近づいた機中より見た、天空を背景にしたカーテン状の白いオーロラが 一番初めに見たそれであった。最終日の夜半三時よりみたオーロラも青色、ミカン色 と自然がおりなす天空色彩ショーであった。オーロラも必ず見れるという訳にいかず、 3〜4回来ても見れない人もいるという。一生に一回は見ておくべき自然のパノラマ であった。 (H11.12.10〜12.15) ・・・・・・ 写真 https://retrip.jp/articles/10962/ http://keiki-porori.com/archives/7892 http://4travel.jp/travelogue/10633722
録画 https://www.youtube.com/watch?v=lBiB6a9ERa0
・・・・・・ 4435, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −5 2013年05月08日(水) * ルート4:主観的時間は幻想だと理解する道 ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 ーまずは、この概要を主観的にまとめてみる。ー ≪ 客観的な「今」と主観的な「今」の違いからみると、客観的時間は、時間が 一定速度で進むという前提に基づいている。 時間を秒、分、時間、日、月、 年、10年、世紀といった絶対尺度で捉えるから、そのような結論になる。 客観時間は、一定速度で進む。それは、人がそのように定義したからに過ぎない。 しかし、主観時間は、そのように捉えるべきものでない。主観的時間を考えるに、 「今」を考えてみよう。「今」は、客観的には時間軸のある一点である。 客観的な今は時間の幅を持たない。どんなに短くても、時間が幅を持ってたら、 それは今でなく、過去と未来になってしまう。今とは、それが千分の一秒前と、 千分の一秒後の間が、今になってしまう。 千分の一などどうでもよいと思い がちだが、数学や物理の世界ではそれを認めない。ということは客観的今とは 時間幅を持たない。 では、主観的な今とは何か。「クオリアとして知情意を 感じている、この今とは何か?」と問う以上、主観的な今は時間の幅を持って いると考えるべきだ。ここに、時間的幅を持たない客観的な今と、時間幅を持つ 主観的今。両者の定義は異なる・・ 私たちの心は、「今」しか考えられない。 過去を思い出したり、未来を想像できるが、それらを行うのも「今」だ。 私たち人間には、過去も未来もない。実は現在もない。過去を思い出せるが、 エピソード記憶に残っていることを思い出しているに過ぎない。過去はクオリア ではない。単なる記憶だ。その過去の体験のクオリアに戻ることは出来ない。 人間には「今」しかないのだ。・・・ 僕たちは「今しか感じられない機械」。 今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、あなたにとってのすべての 時間なのだ。それだけだ。 主観的時間には、「死」なんてない。死ぬ瞬間は、 もはや主観的な「今」はない。死の直前には「今」を感じられるが、それは 死の瞬間ではない。主観的には死はないのだ。生まれる前は主観的には生まれて いなかったのだから当然、時間は流れていなかったのだ。主観的な過去の時間は 過去にさかのぼるほど圧縮され、ついには物心ついたとき以前の時間は完全に つぶれゼロになると考えるべきだ。未来も、先に行くほど圧縮される。 物心ついたときより前の時間がぺしゃんこにつぶれてゼロだったように、いつか 死んだ後の時間もぺしゃんこのゼロだ。・・ つまり自分が死んだ後の無限の 時間、という想定も、過去と同様、見直すべきだ。そんなのは無いのである。≫ ▼ 当たり前のことを論じているが、これが自覚できないのが人間。 過去も未来もゼロ、現在も幻想。ただクオリアがあるだけ。「自分が死んだ 後も世界は無限に続く」ということが、間違いである。死ぬと同時に今も、過去 も未来も、ゼロに潰れる。「今」しかないのに、過去や未来にこだわる人間は 奇妙な生きもの。過去は記憶に過ぎなく、未来は予測に過ぎない。ならば可能な 限り、嫌なことを忘れ、良いことを繰り返して思い出すよう努め、今だけを 考えること。所詮、未来も、過去もない。それで良いのだと。亡くなった両親を 考えてみると、その道理が理解できる。死んだ後の時間はペチャンコに潰れている。 クオリヤを感じている今こそ、生きているのである。だったら、私たちも、 この「今」を生きるべきである。主観的時間が幻想としてもである。今しか 活き活き生きることが出来ないのである。ケセラセラと今を活き切るしかない。 ・・・・・・ 4061, 我事に於て後悔せず 2012年05月08日(火) * 我事に於て後悔せず。 宮本武蔵「五輪書』より ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より この本で著者は、五輪書の武蔵の「我事に於いて後悔せず」を取り上げている。 一流のプロなら、引退後の後悔などせぬはず。 後悔するのは腐った? のような人物がするもの。 ー以下の部分は、その辺りを微妙に書いてある。 ≪ これをふつうは「われ事に於て後悔せず」と読む。 小林秀雄は「わが事に 於て」と読むほうがよかろうと言っていて、その意は、「その日その日が自己 批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。 別な道が吃度あるのだ、自分といふ本体に出会ふ道があるのだ。後悔などといふ お目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は 語ってゐるのである」(小林秀雄『私の人生観』)と説明している。自分の過去の 行動についてあとから、あれは間違っていた、などとそのたびに後悔するよう では、後悔というものを受け入れるようでは、ひとは本当の自己に出会うことは できぬ、というのだ。 小林秀雄は武蔵の言葉をかりてつまりはそれが言いた かったのだが、このことは今ぼくらの考えている「自己への忠誠」にあてはまる。 ◎『自己に対する何という無礼だ、その決心をした時より今の自分の方が利ロ だと、どうして思うのか。』スタンダール「パルムの僧院」これぞ言葉の中の 言葉だ、これほどにひとを励まし、自己への忠誠を元気づける言葉を、ぼくは ほかに知らない。武蔵の箴言はいささか道学者くさいが、ここには自己であること の純粋なよろこびがある。・・これはスタンダールの全作品に鳴りわたる言葉。 ◎ ースタンダールはそのすぐ前で公爵夫人の性格についてもこう言っている。 公爵夫人の性格には二つの特徴があった。彼女は一度欲したことは あくまでも欲した。また一度きめたことはけっして論議しなかった。 ◎ ー彼女は偶然にまかせ、そのときどきの快楽のために行動してきた。 しかしどんな行動に身を委ねる場合でも、断乎として行なった。あとで冷静に 返っても、けっして自分を非難しなかった。まして後悔しなかった。自己に たいする忠誠とはかくのごときものであるかと若い日に讃嘆させられて以来、 これらの言葉はそのときどきにつねにある内耳器官のごときものとなって、 ぼくを導いてきた小説の主人公ではないか、とバカにしてはいけない。 ≫ ▼ 小林秀雄に「無私の精神」という文章がある。実践家は、自我を押し通す人 と思いがちだが、実は無私の人である。彼は無私に徹しなければ物事は成就 しないことを知っている。極限に立ってきた人は後悔などしない。そこで自分を 押し殺し、己を抑えるほど物事は大きく成就してきたことを知っているからだ。 後悔は、実践の中では後々、害になることもである。 ・・・・・・ 5167,閑話小題 〜心は科学者か弁護士か 〜� 2015年05月08日(金) * 私たちの心は「判事」や「科学者」ではなく「弁護士」を雇っている ネット検索で、「科学者」「弁護士」と入力したら、以下の内容が出てきた。 心の内なる弁護士は、時にご主人様のため、盲目になってしまい暴走、歯止め がきかなくなる。そこで、科学者や判事も同じ力量を置かないと、極端の個人 主義者になってしまう。 〜まずは、その辺りを抜粋〜 ≪ この世に産れ落ちるあなたに、神様から 「二つの人生のどちらかを選択しなさい」と言われる。どちらを選ぶ? �生涯究極の正直者を貫き通すが、ならず者だと思われる。 �常習的な嘘つきなのに、模範的な人物と見なされる。 「徳が高く見えるか?」「実際そうであるか?」は、このように大きな違いだ。 現実として、皆、どちらを選んで生まれただろう? 哲学者グラウコンのように、 大抵「人々は現実よりも見かけや評判に、より大きな注意を払う」 これは長い 歴史の中で、私たち先祖が生存競争に勝利するにあたり、真実と名声のどちら が重要だったと考えたかを表している。人は人の見えないところでは、正直 とは言えない。少数の腐ったリンゴが倫理社会をダメにしているわけではなく、 人々の大多数がほんの少しずつズルをするからこそ、この世界は危いと言える。 おまけに、始末が悪いというか、ほとんどの人が自分の誠実さを疑わない。 つまり、自分がした行為の正当化に恐ろしく長けているのだ。 私たちは心に「判事」や「科学者」を雇っているのではない。 私たちは心に「弁護士」を雇っているというのが、本当のところだ。 だからこそ、グラウゴンは言う。倫理的な社会を築くためには何が重要か? 「あらゆる人々の評判がつねに皆の目に入るようにし、不正な行為がつねに 悪い結果を生むようにすることだ」と。心の「弁護士」とは「思考」のこと。 思考の中心的な役割は、他人に対して説得的な理由や、いい訳を提示するための 準備を整え、振る舞えるようにすることだ。事実自分がした選択を正当化しよう とするプロセスはきわめて強力なので、意思決定者は、何かを決めるに際して、 他人の説得のみならず、正しい選択をしたと自分を納得させるためにも有力な 理由を探そうとする。つまり私たちの中の優秀な弁護士は「自分自身をも説得 しようとする」のだ。道徳的な思考は科学者のような真理の探究より、政治家 の票集めにはるかに近いと言える。たとえば、人は論争になると、ほとんど 考えを変えようとしなくなる。心は論争相手から遠ざかろうとし、挑戦を むきになって論駁しとうとするのだ。とは言え、心は絶対的な独裁者でもない。 もし相手に愛情や敬意を抱いていれば、心はその相手に歩み寄るし、理性は 相手の主張に真理を見いだそうと務めるだろう。・・ ≫ ▼ ここで、弁護士とは「思考」というが、判事、科学者、弁護士との 裁判のやり取りが「思考」だろう。それと、傍聴席の視線の想定も重要。 日本では、�の人を極端に嫌う。尻尾を出していても、�の人を好む。 一神教なら、規範が明示されているが、訳の分からない世間教徒の日本人は、 あいまいな�になるしかない。で、殆どは? 人生の最終晩年に我にかえる。 人生の節目に常習的嘘が暴発し、「まさか、あの人が!」と、正体を現す。 ・・・・・・ 5897,閑話小題〜30年以上、毎日使ったコーヒーカップが 2017年05月08日(月)[ * フランスと韓国の、大統領選挙 昨日、フランス大統領選挙が行われ、明後日には韓国大統領選挙が行われる。 いずれも重要な選挙だが、フランスは、アメリカと違って歴史も、教養もある 文化国家、極右の大統領を選択する間違いはしなかった。 〜今朝方のネットニュースによると、 【 仏紙ルモンドの出口調査結果では、得票率はマクロン氏が約65%で、 約35%のルペン氏を上回り、当選を確実にした。7日午後7時15分現在の 暫定投票率は74.7%で、第1回投票を下回る見通し。】と、波乱は無かった。 問題は韓国大統領選挙。結果によって北への服従政権の可能性が非常に強い。 瀕すれば貪するを地でいっている韓国。火の海になるなら、少しの妥協も厭わ ないと考えても、不思議ではないが… それだけ深刻な事態ということか? ―― * 30年以上、毎日使ったコーヒーカップが 先日、注いだばかりのコーヒーが、カップの受皿に漏れていた。それを 家内がみつけ、『また〜あ』と、嫌味を言われたが、溢した覚えがない。 よく見ると、手もと部分にヒビが入っていた。30年以上も毎日使い続ければ、 当然だが、飽きもせず、よくぞ使い続けたもの。私を馬鹿にするに絶好な小話。 どうぞ御使い下さいませ。 旅行先で、コーヒーカップを幾つも買って、飾り だなに並んでいるが、たまに使うと、下々の者が贅沢なという嫌な顔をする。 『コーヒーカップは眺めるものでなく、時どき使って楽しむもの。地震で破損 すれば、ただのゴミ。』と、いっても納得しない。で、二回の地元の大地震で、 三分の一は破損しても、その後も、同じスタンス。その結果、一つのコーヒー カップを30年も使うことに相成った。 気に入っていたカップだったので、 30年も使っていたのだろうが。 〜20年以上前になるが、もっと面白い逸話… 私としては少し値がはったが、気に入ったウォーキング・シューズ。 早朝の散歩や、海外旅行などに年中使って10数年。結果的は如何なることに。 靴底が磨り減って亀裂をし、水漏れのため使用不可能。 この手の話は尽きない。決して自慢できる話ではないが…
|
|
|
|
2018年05月07日(月)
* つれづれに 〜アクセスが4000近くに やはり、ブログのアクセス数は気になるもの。去年の初めが大よそ350だった のが、春口から400、夏に450、470とじわじわ増えて、今はこの辺りで落ち着いた。 昨年で2度ほど、1300、1600が1週間ほど増加した後に、元に戻っていった。 二度ともは何故か力の入った内容だったため、何処かの「ブログの推奨サイト」 でもあるのだろうと思っていた。しかし、先日の10倍に近い4000のアクセスに 驚いた。時どきテーマが思い浮ばないスランプに陥るが、その時ほど地頭が働く ためか私としては面白い内容になることが多い。 ― 500のアクセス数は、17年の成果で妥当だが… 4000はあくまでスポットで、 続くわけがない。一昨日は500に、今朝は400になっていた。ここにアクセスして くる人は中高年が中心だろう。社会経験が少ない若い人なら、せいぜい2〜3度、 覗くといやになるはず。アクセスを増やそうと積極的に売込めば、1000はいき そうだが… 無理すると <熊、寅、八、大家の掛合い漫談>も気楽に書けなく なる。 ― シリアスに、上から目線と下から目線を別々に意識して書いてるが、人に よれば尊大に思える内容だろう。学生時代の最終年のゼミで、「企業内トラブル の人間関係や、社会現象の現状分析」を週2回、2時間、集団で議論をしていた 学生時代の気分の延長が今でも続いている。それと、日々の記憶の道標として、 ネットにアップをして公開することで、内容の維持を目的にしてきた結果、 生前の墓参にもなる。死んだ後の墓参りより、ズ〜っと有難い。 数万、数十万のアクセスより…? 負け惜しみですか! それとも… 真面目過ぎだよ、オットツァンですか! ― 家内の知人の娘婿のアクセスが、4万とか聞くと何をか言わんだが。 「娘と戦う受験日記」だと思い出し、検索をしても見当たらなかった。 そこで、「面白いブログの探し方」で検索すると、<「お金」「社長」で、 検索すると、シリアスなサイトに当ります>よ とあった。 成るほど!
・・・・・・ 4434, サードマン現象とは 2013年05月07日(火) 母親が晩年になってから、たびたび「私には守護霊がいる。それは子供の頃 に亡くなった父親。何時も私を見守ってくれ、いざ何かあると、私を良い方向 に導いてくれる」といっていたが、気持ちの問題だろうと聞き流していた。 また先日亡くなった将棋の米長邦雄が講演で、「何時も父親の位牌を布団に 持ち込み、父に話かけていた」というのを聞いたことがある。 先日のNHK教育(PM7:00〜7:40地球ドラマチック)で、サードマン現象を 再放映していた 。これはジョン・ガイガー著「奇跡の生還へ導く人ー極限状況 のサードマン現象)をインタビューなどで編集したもの。で、その概要とは・・ ◎ 9・11の世界同時多発テロで、ニューヨークのワールドトレードセンター ビルに旅客機が二機衝突した事故で、最後に脱出した1人は、煙が立ちこめ 瓦礫に阻まれた階段を下りられず、もうダメだと諦めかけた時、どこからとも なく聞こえた声に従い、突き進んで命を救われたとか。 ◎ 多くの登山者を飲み込んできたヒマラヤのナンガパルバットに初めて 登頂したヘルマン・ブールを危機の中、励ました声。 ◎ アメリカ大陸からヨーロッパ大陸へ、人類初めての単独飛行をした リンドバーグを支えた声。 ◎ アメリカの宇宙士が極度の緊張の合間の休みに神のような何かの存在 を感じたとか。生命の危険にさらされた苛烈な環境の時、自分を奮い立たせる 声を聞く能力が備わっているというのが「サードマン現象」といわれ、その 「第三の人物」は、その極限状況を克服するために精神的な助けをしてくれる。 この現象は、かつて神や守護天使とか守護霊として受け止められることも 多かったが、現在、それを人間の生理的・心理的機構が生み出した幻だとも いわれる。過酷な極限状態において発動する右脳の原始的?スイッチの感じ。 知らない誰かや父親、自分自身、守護天使、などがそこに存在する感覚という。 脳は危機的な状態や生命の危機が起きたり、体験すると「潜在的脳力」が働く。 私たち人類の先祖は過酷な自然の中で、獲物を狩ったり果実を採取してきた。 20万年前の人類の先祖は「サバイバル」の極限の中で、恒に「サードマン現象」 が起きていて、これらの遺伝子が先祖代々受け繋がられ、現代人にも存在して いると、考えられる。以前は450年前の先祖の堀井宗親という仮身を、現在は 「地球の中心点」を擬人化した「球芯様」と、両親の霊を話し相手にしている。 それは自分の魂の仮身である。 この「球芯様」、最近は、ヨガの最中とか、 夜半のベッドで囁きかけてくる。それが、思いもよらない問いかけをするから、 面白い。 また、幾つかの創業の時など、極限の状態に自分を置くと、何故か 異常な力が湧き出てくる。火事場の馬鹿力というか、底知れない力が自分の 中心から立ち現れくる。原始的、動物的知恵と力で身体も心も浮いたように 勝手に動き出す。誰にも経験があるはずだ。 以前、家内が世田谷と同じ面積 のある、ポンペイの遺跡で、迷子になってしまった。それも日が暮れる直前。 警察は来るは、遺跡のスタッフが総出で捜索に当たるは、現地ガイドと添乗員 は、青くなって駈けずりまわった中、色々あって本人は一時間先にあるホテル に何とか帰りついていた。何かの折に書くが、いざとなると、異常な力が 湧き出るということ。 サードマンを創って話相手も面白い、是非お勧め! ―――― 5166,閑話小題 〜心は科学者か弁護士か 〜�� 2015年05月07日(木) * 心は科学者か弁護士か 心理学者いわく、《 真理にたどり着く方法は二つある。科学者の方法と、 弁護士の方法だ。科学者は証拠を集め、規則性を探し観察結果を説明できる理論 をつくって、それを検証する。弁護士は、ほかの人たちに納得させたい結論から スタートし、それを裏づける証拠を探すとともに、それに反する証拠を斥けよう とする。人間の心は、科学者と弁護士の両方で協力するようにつくられている。 つまり、客観的真理を意識的に探し求める存在であるとともに、信じたい事柄を 無意識に熱を込めて主張する存在でもある。これらの二つの方法論が競い合う ことで、わたしたちの世界観は形づくられている。》 ▼ 科学者が帰納法、弁護士が演繹法、と解りやすい事例で説明したもの。 これから引出されるキーワードが、判事。正・反・合の合である。居酒屋など での誹謗中傷は、ヤリ玉の対象を酒の肴に、内なる科学者、弁護士、判事が、 掛けあいで肴に談義すること。心の中では、自分を正当化する弁護士が有利だが、 誹謗中傷では、判事が絶対優位に立つ。他愛のないものだが、それが、その連中 のレベルの内容で、そこの子狐の役回りが仕入れたネタに尾ひれはひれをつける。 それらをヘドロという。その意味では、城下町はドブ沼そのもので、そのガスは、 強力な破壊力を持つ。だから、近寄らないで、ここまできた。実は、そのガスで、 自分自身が殺されていることさえ分からないため、断絶の時代の中で、烏合の衆 として生きるしかない。その老いた醜悪が増長し、周囲を悩ます材料になる。 そういう人たちの初老性鬱病(良い人仮面病)ほど哀れなことはない。何せ、 一生をかけて偽善の仮面を被り生きてきたのだから! 露悪でいくか、偽善か?
・・・・・・ 5896,『しあわせ仮説』 −4 〜愛は恐れを克服する 2017年05月07日(日) 『しあわせ仮説』ジョナサン・ハイト著 * 愛は恐れを克服する シリアスな話になるが、義務教育の終わる中学校のメンバーを思い浮かべると、 成績上位の2〜3割と、下位の2〜3割を比較すると、上位は両親が揃っていて、 比較的裕福あるのに対し、下位の人たちは、両親か片親を戦災で亡くなったか、 家が貧しい生活環境にあった。これは当人の責任ではなく、運命の問題になる。 ある程度、安全であればこそ、勉強や、遊びにも注意が向く。 逆に幼児の頃、 両親に愛情過剰な位に与えられた人を何人か知っているが、これは性格が強い。 絶対的愛情を親から注がれ育った人は、生涯を通じて、恐れを克服して勇敢に、 遊べる上に、何事にもチャレンジする傾向になる。愛着理論を、ここで紹介して いるが、ネット検索をすると、以下のとおり。 ≪ 乳幼児が、不安や不快などストレスを感じている状況で、自分の親など周囲 の養育者に対して泣いて訴える、あるいは接触を求めて甘えるなどして、親密な きずなを形成しようとする愛着行動に関する理論。英国の児童精神分析学者 ボウルビーが提唱したもので、動物に生来備わっている自分の生命の安全を確保 しようとする本能に基づく生得的行動により、自分の訴えや要求に答えてくれる 限られた養育者との間で愛着(アタッチメント)が形成されることがたいせつと 考える。愛着は1歳ころまでに形成されるが、訴えや要求に対する応答が密なほど 安定した愛着(安定型愛着)が形成され、小児期以降に安定した対人関係をつくり あげる礎(いしずえ)となる。しかし、安定した愛着が形成されない不安定型愛着 では愛着形成障害を生じ、その後の心身の不安定や行動障害をもたらす。 ボウルビーは「愛着」の形成過程を次の四つの段階に分けている。 ・まず生後3か月ころまでの第1段階では愛着はまだ形成されず、周囲の注意を ひこうとだれに向かっても同じように泣いたりほほえんだりする。 ・しだいに養育者とほかの人物を区別するようになる生後6か月ころまでの 第2段階では、養育者に対してとくに強く反応し、笑ったり凝視したりする、 あるいはあとを追うような行動もみられる。 ・生後6か月〜2歳ころまでの第3段階では愛着が確実に形成され、養育者を安全 基地とし、そこからある一定の範囲で行動したり探索行動をおこして、ふたたび 基地に戻る。また、成長するにつれて自分の要求を主張し、実現に向けて執拗な 行動をとるようにもなる。 ・3歳以上の第4段階ともなると、養育者との身体的接触を求めることは少なく なり、養育者の意図や感情を理解し、協力して行動するようにもなる。≫ ー ▼ 中高校生の頃、同居していた甥っ子が、毛布に愛着を持つ依存症だった。 今ではそれも、様々なキャラクターの人形があり多様化しているようだ。 職住一緒の商家だったこともあってか、幼稚園の頃、若い色白の女店員が、 対象だった?ような。なぜか魅かれるのが愛情豊かな長女系。で、生涯、支配 される我が身のような人生になる。人気番組の『家についていっていいですか』 で、都会の単身住まいの若い男の部屋に大きな人形があったのは驚いた。 都会の孤独地獄を癒してくれるそうだ。 私は、座卓の上に鏡を置いて、自分 自身と話していたが。それでも、様ざま寮生が1〜2時間は、部屋に来て談笑 していた。 考えてみれば、このブログも、そのようなものですか… ・・・・・・・ 4060, 要は、受け止め方である! 2012年05月07日(月) 人生、色いろ経験を積み重ねた後に過去を俯瞰すると、その行蔵はどうにでも 解釈できる。 ついてなかった人生としても、視点を変えれば、ついていた人生と 脚色出来る。受止め方次第で過去も現在も、そして未来も変わってくる。 中村天風は「全ての受け止め方を『積極一貫』にし、肯定的であれ!」と説く。 人生は問題の山、その中心点が何か考えつくし無心に立ち向かうしかない。 これからは、自分の人生を、どのように受け止めるかが人生の問題になってくる。 受け止め方を変えることは、行蔵の中の要素を仕分け直すことになる。それで、 これからの人生の方向を変えることになる。そのために記憶さえ変えるのが 人間の業。 それは行蔵の要素をどのように解釈するかになる。そこでも知識の 絶対量が必要になる。分別ない人間の身勝手な解釈では、ますます歪になろう というもの。「運」があるか、ないかは、「運は自ら運ぶこと」と解釈すれば、 運そのものが意志の問題になる。運がない人は意志が弱いと解釈出来るというもの。 「人生に起こったことは無駄のものなし」と、信じていれば、最悪のことも結果 としてプラス材料になる。 そうこう考えると無知は、それだけで罪の原因になる。 知らなかっただけで、どれほど多くの失敗を重ねてきたことか。人類も私もである。 初めから自分のミッションを明文化しておけば、それが信念になり、途中経過の 失敗も成功も、受け止め方がハッキリしているので、ブレが小さく済む。 おい方一つで、荷物も軽くなると、同じ。これからの日本は坂を転げ落ちる ように衰退する。そこで何が必要か? 教育制度の再構築と、憲法改正。無理? ・・・・・・ 5531,閑話小題 〜たかがプライド、されどプライド 2016年05月07日(土) * たかがプライド、されどプライド 誰も心の奥底にプライドを持っている。それも中途半端な誇り。 それは中途半端に傷ついた経験しかないため。しかし何度も傷つき、立上がる 中で、中途半端な誇りの底が抜けて、虚無に通じていく中で、本物の誇りに 鍛えられる。若い時の誇りは、まだ柔でしかない。 〜まず、「プライドとは何か?」を格言から考えてみる。 ――― ☆ 「プライド」と「お金」だけは、何があっても守り抜くのよ ー朱子(ベニス)『君が主で執事が俺で』 ☆ プライドだとか恥ずかしいとか、そんなつまらないことにこだわらないで、 仕事も恋愛も、自分からどんどん扉を叩くの。そうすれば、もっともっと 新しい扉が、開いてくるわよ ー加賀まりこ ☆ 親はなぜ学校に行け、というかと言うと、行かないと子供の将来に かかわると思うから。しかしそういう親には、子供は学校でいじめられて 死ぬほどつらい気持ちを正直に言えない。子供には、かわいそうなくらい プライドがあるから、土壇場になるまで言わない。子供が恥ずかしさを 忍んで訴えたときは、ほんとうに追い詰められたときです。 場合によっては、休学、転校してもいいんですよ ー里中満智 ☆ 女の想像をこえて、男はプライドに命をかけるものなの。 むしろプライドに命をかけられない男は、男じゃないわ ービアンキ『REBORN!(リボーン)』 ☆ 些細なことであっても、オーバーに感動してあげましょう。たった、 それだけのことでも、相手のプライドや自尊心にかかわる一番の欲求を 満たすことになるのです ージョセフ・マーフィー ☆ 自信のない人ほど中途半端なプライドにしがみついて、謝ることができない。 ここで謝ったら、自分の人格が全部否定されると思込んでいるのですー中谷彰宏 ☆ 仕事へのプライドほど貴重な財産はない ーメアリー・パーカー・フォレット ☆ 僕は人の質を決定するのは、その人が自分にプライドを持っているかどうか だと考えている。他人に見せるプライドではない。自分自身への誇りである ー連城三紀彦 ☆ プライドを捨てるプライドを持て ー作者不明(格言) ☆ 人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ 事があります、と言い切れる自覚ではないか ー太宰治 ☆ 女の喜びは、男のプライドを傷つけることである ーバーナード・ショー ☆ 物事は万事「必死に打ち込んだ」経験が必要なんだよ。 それが人間の誇りを支えてくれるんだ ーいしぜきひでゆき ☆ 失敗は誇り。それだけリスクを冒したということだから ーベンジャミン・ローゼン ☆ 人生は決して後戻りできません。進めるのは前だけです。 人生は一方通行なのですよ ーアガサ・クリスティ ―― ▼ 5年前の会社整理で深く実感したことは、リスクを冒さない人ほど、他者の 失敗に辛辣になる。特に組織人ほど、それが強い。思いの外、平気だったのは その大きさに比例した必死な打ち込みをしてきた実感があるため。 だから、 目先の心が折れても?魂までは折れなかったようだ。プラモデルと同じ。 創りあげ、軌道に乗せただけで、元がとれた実感がある。批判者のそれは、 その経験がないから、上っ面の批判になる。成るほど、「失敗は誇り」である。 挫折を重るほど、芯のプライドが強くなるのは、リスクへの恐怖を乗越えたため。 ところで、軟弱なプライドも、最後の砦の中の拠りどころで必要ではないか! で、偶然だが、以下につづく。 成るほど・・ ・・・・・・ 4801,閑話小題 ー朝日新聞デジタル 2014年05月07日(水) * 朝日新聞デジタル版 以前から、迷っていた朝日新聞のデジタルに加入。 現在のキャンペーン中に、申し込めば新聞代プラス500円の追加料金で済む (平常は、千円)。別にパソコンで見る必要もないと思ったが気になっていた。 最低期間が半年で、月初めなら、その月が無料で7ヶ月間なら、試してみる 価値があると判断した。で、三日経ったが、これが正解。記事の一つを クリックすると、そこだけがクローズアップする。更にテキスト記事に転換 可能で、スクラップも出来る。間違いなく、新聞紙を手にとって見るより便利。 これがプラス500円ならお勧め。朝食前後に、一度、全体のページに目を通し、 昼飯か、夕食時に、印象に残ったところを、いま一度、目を通していたが、 スクラップは、ほぼすることはなかったが、これからはする!また、一日単位 でタブレットなどにダウンロード出来るので、ネット環境が無くても、持ち 運び見ることが出来る。 また家庭内の他のパソコンからも、手軽に記事に 目を通すことが可能である。現在の私は、書斎と寝室にいる時間が多いため、 何度も、気楽に、記事に目が通せるところが良い。実感で、読む時間が 今のところ、二倍になっているが、数ヶ月後には3〜4倍にはなるのでは? ページ一覧も可能で、一面、社会、政治、経済・マネー、国際、スポーツ、 カルチャー、オピニオン、などから、記事を拾うことが出来る。紙面が、 そのまま、ビジュアル化して見ることも出来る。 その文字の大小も選択 できるところも良い。紙の新聞を見た後に気楽に読むのに最適ということ。 これまで30分読むか読まないかだった、iPadか卓上なら、プラス30分ぐらいは、 読むのでは! 日中、居間と書斎と寝室のTVとパソコンの間を流離う身に とって、紙聞紙の持ち運びから解放されるのは、大きい。加入を家内に告げると 、まず大きく拒否反応を示したが、これは何時ものコース。一番、これを 読むのは間違いなく、本人になるが、それが分かってない、何時ものコース。 今まで読まなかった、連載小説や、読者の声の、コーナーを早速、読み始めて いる。新聞社も、紙面+デジタル版のカタチで生き延びようとするのでは。 月刊誌も、店売りの他に、宅配にして、デジタル版を100円+すればよい。 それなら「新潮45」か、「文藝春秋」を購入するだろう。 それにしても デジタル版は良い! 他に、雑誌の幾つかが読み放題の「ビューン」に 入っているが、これも良い!
|
|
|
|
2018年05月06日(日)
* 世間話のでき方 家内が少し興奮気味に、「今日ね、ヨーカ堂裏で、自転車の一時停車を怠り、 警察官二人に呼び止められて、調書にサインさせらた。こんなことは初めて。 警察もよっぽど暇ね」と…。 新人教育の現場教育だろうが、私など年に 8ヶ月間は、雨以外は毎日一時間は乗り回しているため、常に違反運転の際どい 日々を送ってきた。微妙な交差点では、歩道から車道に車線を変えるテクニック だけはベテラン。そこで昨年の秋口に、ブレーキと車軸の故障修理で、郊外の 自転車修理店に行った際の逸話を話した。 【郊外にある自転車店の反対側のカツの専門店に行こうと信号を渡ったところ、 黄点滅。微妙だったが、辛うじてセーフ。 ところが、遠くから急にパトカー のサイレン。私じゃないだろうと思いつつ、カツ屋に入ったが、もしかしたら と思いつつ、カツ丼をたのんだ。何かしら泥棒がパトカーに追われた感じ?で… 帰り道は大通りでなく、裏通りを目立たないようにして帰ったよ。】 「要するに、信号無視でパトカーに追われてカツ屋に逃げ込んで、帰り道を こそこそ帰ってきたのね」と大笑いされた。自分の一時停止違反の話では面白く ないが、私の話を加えて面白くする枕(落語の前フリ)に、この話は有効に なり、立派な世間話にあいなる。「世人の世間話とは、かくありなん」の典型。 世間話作成の現場中継の記録でした。何は主役、連れは端役の間抜けですか!
追記: 熊さん: これ警察に読まれて、呼出されて怒鳴されないかい。 寅さん: 大丈夫だよ、八つぁんなら喜ぶさ。続編として克明に書けば、 面白じゃないか。 見せしめでも無理無理。だって、創作だろう? 熊: 自宅の忘れ物をして、取りに帰った話題から一時停車の疑いで呼出す ようなものだよな。俺って、やはり頭が足りないんだな。でも、情報化 って、これが、まかり通ってしまうんだよな。本当に怖ろしいよ!
・・・・・・ 4059, つれづれに ーネット社会の現在 2012年05月06日(日) * 飲食店の漫画の棚 ーデジタル本の世界 喫茶店や中華料理店のランチの楽しみの一つに、本棚の週刊誌か月刊誌を 読むことがある。 最近、店内に入ると、iPhoneかiPadで、その店が 契約したネット上の本棚にアクセスして色いろの雑誌を読むことが出来るという。 店は一月7000円を業者に支払えば店内のネットで雑誌が見放題になるとか。 よく考えるものである。前回、70冊の蔵書をデジタル化にするため業者に 依頼したが、先日、久々に、そのHPを見たところ、デジタル化した本を 月980円で見放題のサービスを始めていた。 漫画が中心とあったので、 契約はしなかったが、これも面白い企画である。現在、私が契約しているのは、 朝日新聞のデジタル版と、朝日、毎日の週刊誌など数十冊が読めるビューン。 朝日のデジタル版は月1000円の加算。ビューンは月480円。 もちろん 有料でアクセス出来るブログがあるが、写真集のデジタル本に有料でアクセス 出来るのがある。幾つか買ってあるが、次々に更新されているのが良い。 * スマートフォンと、タブレット 現在、スマートフォンが爆発的に売れているという。iPhoneが初めて 売り出された時に買ったが、画面が小さすぎて、インプットに戸惑って使いこなす ことが出来なかった。そこで学んだことは、二代目以降の機種変更になってから 購入すること。それもあってiPadは、二代目のiPad2になってから買う ことにした。スマートフォンが爆発的普及は、携帯電話が世の中を変えたように、 世の中を更に大きく変えるだろう。 それはゲームや、ブログ、ツイッターなど 書き込みや閲覧の端末にも使える。小ささが逆に便利な場面で有効になる。 電車や、車の移動とか、昼休みに何処にでも持ち歩けるからだ。何ども書いて いるが、現在、普通の携帯電話とiPadを使い分けている。PCは居間の TVの前と、仏間の書斎コーナーにiMac一台ずつ、とiPad、合計三台 を使っているが、その使い分けのバランスは非常によい。これに読書とTVと、 ペットのインコとくれば、お宅そのもの。図書館と、スポーツジムと、早朝の ポタリングと、週二日の近くの店のランチで息抜きをしているのが日課。 これまでのスリルとサスペンスのストレスが少ないのが、逆にストレスである。 ・・・・・・ 4800,年金破綻報道の罠 ー� 2014年05月06日(火) <世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> ー細野真紘 (2014年の論点100) * 基礎年金と、厚生年金と、老後の預金 あくまで年金は老後生活の資金補助の位置づけ、とは知らなかった。 まず、老後の預金に、基礎(国民)年金が加わり、最後に厚生年金が加わる。 これを40年にわたって、かけてきたかどうかで、既に老後格差が、ついて しまっている。父親の代から、連れ合いに別立てで給与を与え、健康保険と 厚生年金をかけるのが当然のようにいっていた。それは私の知識・知恵ではない。 ー以下の部分は、年金を分かりやすく要約してあるー 《 ◎ まず国の年金は、大きく2種類があるのです。 1つ目が「自営業者」の 「国民年金」です。中小業者は定年がないため、60歳以降も収入を得ることが できます。そのため、年金をもらうための保険料は(会社員などと比べると) 安くなっていて、給料を預貯金に回せる割合が多くなっています。その老後 にもらえる「国民年金」は満額で月6万6千円程度。つまり「自営業者」の ための「国民年金」は、「弁当」でいうと保険料を安くして、老後は最低限の 「お米」だけもらえる位置づけで、「おかず」については60歳以降に働いた お金で買ったり、それまでの貯蓄で買ったりできる。 ◎ その一方、「会社員」の場合は定年退職のため、定年以降は、収入を得る ことが難しくなってしまいます。そのため、会社員の場合は、現役時に(自営 業者よりは多めに保険料を払うことで、国から「厚生年金」を死亡するまで 受けとれることになっているわけです。これは「弁当」でいうと、会社員は 定年があるので、現役時に(自営業者より)多めに保険料を払い、引退後に 死亡するまで、国から「おかず付の弁当」をもらえるようにするものなのです。 その「厚生年金」は月16万円程度となっています。合計で22〜3万になる。 ちなみに、公務員の場合も会社員と同じ定年制になっているため、「共済年金」 は「厚生年金」と同様に「おかず付の弁当」となっています(厚生年金と共済 年金は分ける必要性が乏しいため、一元化する方向に向かっています)。 ◎ 今では日本は「世界一の高齢化率」で、世界で最も65歳以上の割合が多い国 となっています。そして、国の年金制度は仕送り方式なので、「将来は年金が もらえなくなる」という声がよく聞かれます。そこで、「現在の少子高齢化で、 年金は破綻する」という論を考えてみましょう。まず、日本も含めて世界の 先進国では、基本的に国の年金は、個人が自分のため蓄える「積立方式」 ではなく、現役世代が高齢世代を支える「仕送り方式」です。そのため、 テレビなどでは図表を使い、もっともらしく"年金破綻論"が展開されている。 「今の年金制度は仕送り方式で、2010年現在では現役世代2・6人で高齢者1人を 支えている騎馬戦型が、高齢化のピークの40年後には現役世代1・2人で 高齢者1人を支える肩車型になる。こんな仕組は破綻する!」 これは一見、 もっともらしく思えますが、実は単純な「ひっかけ問題」にひっかかってしまう。 まず、国の年金制度は「仕送り方武」ではあるのですが、この「仕送り方式」 にも「ひっかけ問題」が潜んでいて、多くの人は「これまでの保険料が、 すべて高齢者の年金に支払われている」と錯覚している。ただ、現実に、 そんなことになってなく、かっての現役世代が多かった時の保険料については、 きちんと今後の年金の支払いに備えて国が「年金積立金」として保有してある わけです。そして、なぜ日本ではこのように極端な人ロ構成になっているのか、 というと、「団塊の世代」の存在などの特殊要因があるためで、そのため 「年金積立金」も世界一の水準にまでなっているのです。さらに年金の財源は、 保険料だけではなく、あくまで「国の保険の仕組み」なので、財源として 「税金」も入っているのです。 》 ▼ ネットで積立残高を調べてみると120兆円あったが、問題は多くが日本国債に ばけていること。また、年金支払に税金も含まれていることは全く知らなかった。 だから、さほど心配する必要がない? 私の場合、家内も厚生年金に40年近く 入れていたので、合計で税込で350万(税抜きで300万余り)。持出しが 家内の預金から年間で??万になるが、地方もあって生活には不自由はない。 欲しいものや、旅行も、外食も、現役時代に十分、楽しんだため、TV番組で 追体験をしながら見ていれば充分。 中小企業者や個人営業の場合は、別立て 預金は当然のことで、敢えて言うことでもはない!でも、周辺で、してない人が 多い? また、保険屋と証券屋に騙されていたことすら気付いていない? 他人事ではないが。今さら年金の話題に熱中するようじゃ、B層もいいところ? まあ、面白いが! ・・・・・・ 5895、閑話小題 〜ゲントの祭壇画 2017年05月06日(土) * ゲント聖バーフ大聖堂祭壇画「神秘の子羊」 去年春にベルギーの空港でテロがあった。その二週間前に到着、観光後の、 一週間前に出発したが、一つ間違えれば被害者になっていたかもしれなかった。 全日空がベルギーの直接便の就航を始めた直後のパリのテロのため、乗客が 激減し、ベルギー・オランダ、ドイツ、の何れの観光地も観光客は疎らであった。 その上にベルギーの空港のテロである。このツアーはパリのテロの直後で、 その数ヶ月前にもパリの美術館めぐりをしていた。そのため消極的だったが、 家内に引っ張られ鞄持ちのようについていった旅行だったが、内容は大当たり。 このコースは、欧州主要美術館巡りのゴールデンコースの一つ。 これまでは日本からベルギーへの直接便はなかった。 特に美術館が、どれも これも非常に良かった。 その一つが、『ゲントの祭壇画』。 〜ネット検索より〜 《 ゲントの聖バーフ大聖堂にあるファン・アイク兄弟作の祭壇画「神秘の子羊」 は、初期フランドル絵画の最高傑作と言われる作品。 15世紀に描かれたとは 思えない。兄ヒューベルトの死後、エイクが制作を引継ぎ兄弟で完成した傑作。 ・主題は開扉時下段中央に描かれている≪子羊の礼拝≫だが、上段部分、閉扉時 部分に見られる細心綿密な写実描写など本作には特筆すべき点が多い。 ・本祭壇画の開扉時下段中央に描かれている主題≪子羊の礼拝≫。 ・ヨハネの黙示録に記される『諸聖徒日(天上諸聖徒と殉教者を祭る11月1日)』 の場面を描いたとされる(拡大表示)。 ・真紅の衣を纏い装飾的な玉座に座る、信仰・崇拝・儀礼・神話・教義などの 中心となる位格・存在、キリスト教においての超越的絶対者の父なる神や、 典型衣装とも云うべき濃紺の衣をまとう聖なる神の教典を読む聖母マリア、 神の審判が迫ることを説き、人々に悔い改めの証として洗礼を施した、洗礼者 聖ヨハネの描写は現実性を強く感じさせる、写実的描写を用いて描かれている。 これらの表現に画家の完成された(絵画技法的)技術と優れた才能を感じさせる。 なお開扉時の左下段翼部分≪正義の審判者≫は1934年盗難にあい行方不明のまま、 現在は複製画が入る。》 ― ▼ 現地で初めて知ったことだが、この絵を見るためだけに、世界中から見学客 が訪れている。特にスペイン文化圏で有名で、観光客のための直通の特急列車 が毎日出ているという。立花隆がガンになった時に、「死ぬ前にあの絵だけは 見ておきたい」と、わざわざゲントまで出かけていった逸話があるほど。 ツアーに出るたびに、世界主要都市の美術館でシャワーのように、人類の遺産 美術品を浴びせられるように見続ければ、感動の質量の幅が拡大していく。 これに地球自らが創り上げた大自然の美しさ。 神は、自分自身が創り上げた 姿を自ら見るために、人間をつくったというが、正にそのとおり。 ゲント祭壇画も、それを感じさせる絵画の一つ。
〜で、何時ものような偶然で、以下の脈絡として繋がっていく。 ・・・・・・ 5530,若者よ、外に出よ! ー� 日本には限界がある 2016年05月06日(金) 『人生の教科書』なかにし礼著 * 日本だけでは限界がある 40歳前半までは、自宅に中・高の二人の息子がいた。そこで、行くところ といえば国内の自動車旅行が中心だった。その二人が学園生活のため、上京 していったのを機会に、海外ツアー切替わっていた。その非日常の面白さに 惹かれたのが家内もである。一人では躊躇する秘境・異郷でも、家内と一緒だと 何とか行ける。また、非日常の中に家庭の日常を持ち込むのも慣れてしまえば 悪くはない。 夫婦してのホテルのレストランの朝食が何とも豊かな気持ちになる。 学生時代の昭和42年に、大学の「海外旅行研究会」というクラブが企画した 『世界・30日の旅』の存在を知り、行ってはや、49年になる。当時の海外旅行者 は20万人。信じられない数だが、これがツアー観光の愛好者になる切欠となる。 何もかもが新鮮で、ただただ面白い経験だった。人生観が一変した経験である。 なかにし礼の、以下の内容には大いに賛同するが、自分では書けない。 書けば上から目線が、露出する。 しかし、事実は事実である。 ≪ 旅に出るならば1日でも早いほうがいい。自分の感受性が全部そこで 晒されて、カメラにたとえるならいろんな映像を受け止めていることになる。 そのインプットは大きいものだ。そのインプットは日本にいてもできない類 のものなのだ。これは賭けてもいい。日本という国には限界がある。 刺激の限界だ。食べものだけ見ても、なんの刺激もない。それが日本の料理 だといえば、それは確かにそうだ。だが世の中の料理はそれだけではない。 「肉じゃがを作れる女性がいい」、とか言う男がいる。こういう人も旅行を していない男と思う。世界の味を知らないからこうした面白くない発言になる。 北アイルランドのジャイアンツ・コーズウェイにも肉じゃがはある。 それはスープという形で出てくる。肉じゃがの原型はビーフシチューだが、 これはさらにその原型だと言える。牛肉と芋が入ったこの肉じゃがの原型を、 現地の黒いビールを飲みながら食べる。これがうまい。明らかに元祖の味。 日本の肉じゃがよりも断然おいしい。だから日本は食事にしても、もっと研究 しなければいけないと思う。日本の文化は確かに素晴らしいものがあるが、 そこに踏みとどまって進化をストップしていい理由にはならない。・・(略) 日本人のいいところはいっぱいある。創意工夫とか、細かいことに関する こだわりとか・・ しかし、一方では何かにつけて「疑いを持つ」ことが 非常に罪悪視される環境になっている。それで画一的な価値観を植付け られて、「肉じゃがを作れる女性がいい」などという頭になってしまう。 これではもったいない。 だから若者よ、疑いを持つために旅をしなさい。 そしていろんなものを自分にインプットする。 インプットしたらさらに視野を広げて守備範囲を広げる。 そうしないとインプットする内容も尽きてしまう。 だから何度も言うように、限りない欲望と探究心、好奇心を持ち続けないと いけない。それは、夢という非日常の世界を見続けるためである。 寝たときにだけ夢を見るのでは寂しい。目醒めて、そこで夢を見るべきだ。≫ ▼ 何度か書いたが、成田へのスカイライナーに乗って暫くすると、 「あ〜帰ってきた!」という妙な感覚になる。そこから非日常の刺激の強い 時空になるため、その蓄積が、磁石となって、旅を誘い、その非日常の世界が、 真なる時空、真実の自己であるような錯覚をもたらす。だから、別腹の 世界を自分の中に持っていて、暇な時間にトリップすることが出来る。 この現実世界に、世間の常識に対し、疑問を持ち続けることが出来る。 <目醒めて、夢をみることができる>
・・・・・・ 5165,閑話小題 〜一昨日で、まる14年になる 2015年05月06日(水) * 一昨日で、まる14年になる この随想日記を書きはじめて満14年目になる。その頃、通勤途中の長岡駅裏 近くにパソコン教室がオープン、渡りに舟で通うことにした。予め、「私の希望 は個人のHPを開設し、続けることと、ネットサーフィンを楽しみたいこと」 と、ハッキリしていた。丁度、ブログなるものが普及を始めた頃でもあった。 満14年となると、2001年5月で、9・11テロの4ヶ月前である。この頃から、 ブログが普及を始め、携帯電話の高度化も含めて世界が一変を始めた。 毎日毎日、傍からすれば、どうでもよいことを、飽きもせず、書き続けた ものだが、あれだけ文章化が苦手だったのが、日を追うごとに面白くなって いった。人間は、誰もが自分の話を聞いてほしいもの。書き始めると、周辺の 人が、毎日のように見てくれるようになった。そのため、力が抜けなくなる、 それが最大の効果と気づいた。それならと、読書日記などを中心としたHPと、 何気ない思いを書連ねるブログに、分けることにした。書き続けていると、 その積み重ねの効果が実感できるのが良い。それと習慣の力を実感する。 月に1〜2度、この数日もそうだが、書くテーマが思い浮かばなくなる。 しかし、習慣の力で、14年も続けていると、その乗り越えかたが、身に ついていて、馬鹿力が湧き出てきて、普段より面白い文章が書ける。 次の目標は、あと6年の、まる20年間になるが、生きているかどうか? とすると、まず来年のゴールデンウィークが目標になる。 毎年、この時期には同じような文章を書いてあるのだろうが!
|
|
|
| 6261,閑話小題 〜「これ以上はいけない」と宣告する境界線 −1 |
|
|
2018年05月05日(土)
* 聖域とは、何かとの「堺」 ある会で、私の旅行経験に興味をもって、しっかりと情報収集する女性がいる。 40〜50回、海外旅行経験のある同級生が言うに、「旅行話」はTPOを考えて上で 話さないので難しいと宣っていたが… 要するに旅行自慢になってしまう。 ところが、興味のある人にとって、行ったことがない先の話は旅先でしか、話せ ないため、ツアー仲間の情報交換は面白い上に、次の行先の選定の重要な場になる。 彼女の質問の一つずつが鋭い。 ・独りで参加するとしたら、何処がよいですか? ・息子と参加するとしたら… ・主人と参加するとしたら… ・息子を独りで参加させるなら… などなど。
息子と二人旅は、「ベネゼイラのテーブル・マウンテンとイグアスの滝」 次男と私たち夫婦と現に行ったので、間違いない。数億年の手つかずの テーブルマウンティンの間を数人ノリボートで遡っていく醍醐味は…
夫婦二人ならば「北スペインの巡礼道路の旅」 これはパンプローナの牛追い祭りが組みこまれたのがよい。
息子の独り参加の返答に自然と出た行先は「イスラエル」と「インド」。 だったと記憶している。 さすがに母親の目線で… 何で、「イスラエル」と「インド」ですかと食下がった質問。 「医師ともなれば、生涯のうちに人知れず?死なせることになる職業。 まだ学生のうちに、行っておかないと、一歩踏み出せと、10日、2週間の 時間がつくれない。まだ余裕のある学生時代に生きべきところです」と。
中国に10年近く赴任した経験を持つ隣席の「会の主催者」の突っ込みの質問。 「あと、一度だけの旅行先は、何処したらよいでしょうか?」に… 即座に出た答えは「ケニア・タンザニア」。
そこで私自身といえは、旅行に参加するにギリギリの腰痛持ち。 それより、気力が、衰えて。
先日、借りた『街場の読書論』内容が、この対話を補足する内容である。 秘境、異郷先の光景は、まさに「聖域」に一線を踏越え立入る世界である。 〜つづく ・・・・・・ 4432,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −4 2013年05月05日(日) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 * ルート3:自分の小ささを客観視する道ー「1億7125分の1と、70億分の1」 今度は、時間――宇宙と生命の歴史1についてである。世界の人口からみれば、 私は70億分に1。宇宙年齢からすると、人の一生は1億7125分の1の存在。そう 考えれば、深刻に自分の生き様など考えることはない。その自分の枠組も 勝手な定義でしかない。自分など何ということはない。 やっと、それが 理解できるのが最期の最期とくる。そのことが分からないから、 「死ぬのが怖い」のである。 ー まずは、その辺りを抜粋してみるー ≪ すざまじく荒れ狂うひずんだ宇宙の中の、オァシスのような地球。 光速で拡大することこそが普通である宇宙の中で、あたかも静かに見える 特殊で局所的な世界。そこに偶然生まれた人の命。なんとはかなく小さく特殊 な現象であることか。生命の誕生は、今から40億年前といわれている。 地球誕生から6億年経った頃。霊長類が誕生したのは、6千5百年前。 現生人類であるホモ・サピエンスが出現七たのは25万年前。中国その他で 文明が誕生たのが今から6千年前(から9千年前)。そういわれても、どれも 大きな数字すぎて実感がわかない。そこで試しに、137億年前のビヅグバン を、1月1日の午前零時、現在を一年後の12月31日の24時にたとえると。 つまり、宇宙の歴史を137億分の1に短縮してみると―― ・ビッグバンは、1月1日午前零時 ・地球誕生は、8月30日 ・生命の誕生は、9月15日 ・霊長類が誕生したのは12月30日午前 6時26六分(新年まであと1日と約18時簡) ・原生人類のホモ.サピエンスが出現したのは12月31日午後11時50分 ・中国などで文明が生じたのが新年まで14秒前 ・人間の命は、80歳まで生きるとして、0・18秒。宇宙の年齢の、1億 7125分の1。ちなみに、宇宙の直径が274億光年、人間の身長が 170センチだとすると、人間の大きさは、宇宙の大きさの1・44×10 の25乗分の一というとてつもない小ささだ。それに比べ人間の一生は、 宇宙が経た時の1億7125分の1。時間の差は、空間の差よりもはるかに 小さい。これは意外な気もする。1億7125分の1とは途方もなく小さい とお思いかもしれないが、地球の人口は70億人。あなたの心は、地球上に ある人間の心の70億分の1に過ぎない。一億7125分の1はそれよりも 約四十倍も大きい。意外と宇宙の中での人間の一生も長いという気がしないでも ない。とはいえ、宇宙の年齢を一年にたどえると、人間の一生は0・18秒。≫ ▼ 前にも書いたが、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している 可能性があると知って世界観が変わった。上記のことすら、問題にならない。 ケセラセラだが、当面、死ぬまでの生活もある。一日一回、このような壮大な 宇宙と、その中の自分を考えればよい。象を世界に、その皮膚の間に住む寄生虫、 70億分の1の自分。その象も、この宇宙からみれば、10の500乗の宇宙 からみれば、チリですらない微細の存在。だからこそ、生きているうち!
・・・・・・ 5529,若者よ、外に出よ! ー�� 会話は、プチ礼賛から 2016年05月05日(木) 『人生の教科書』なかにし礼著 * 対話ならいいが、どうも会話が苦手で リタイア後、、新しい出会いの場が極く稀になった。スポーツジムとか、 数少ない飲み会の場で、話したことがない人との会話が出来ない。 学生時代に、カーネギーの『人を動かす』の <人を動かす三原則>や、 <人に好かれる六原則>などを読み、実践してみたことがあったが、 効果は抜群だった(後でコピー)。年齢とともに、これらを忘れていた。 その一つが「プチ礼賛」の勧め。これに「ありがとう」の口癖を 加えれば会話導入は効果抜群のはずだが、何時の間にか脱落していた。 早速、兄弟の49日法要で、久々に会った親戚との会話に「プチ礼賛」を、 応用したところ、会話が捗っていた。要するにリタイア後に、何もかも メンテをすべきだったのである。 <会話は「プチ礼賛」でうまくいく>を、 ほぼ全文、コピペし、考える。会話は真実より礼賛に重きをおくべし。 対話は真実の交換、掘り下げということ。男は対話、女は会話が似合うが。 ≪ 日常会話で必要な会話術とは、自己紹介に始まる。自分のことを、嘘を 交えてもいいから、面白く話せるかどうか。自己紹介イコール自己表現だし、 相手に自分を理解してもらうのは一番大事なことだと思う。そうすると相手も 自己表現するから、お互いが理解し合える。そしてプチ礼賛をすること。 パッと会ったときに必ず相手を褒める。これは、日本ではなく、外国の流儀。 外国では当たり前の常識になっている。周りがゴマをすっていると思ったと しても、そんなことはかまう必要はない。たとえば、服を褒めるとその服を 選んだその人を褒めていることになるわけだから、「素敵ね、これ、いくら?」、 「1900円」、うわ1最高」と褒める。しかし、うわべだけの礼賛だと底が割れて しまう。真実そう思うように自ら努力することだ。そうすれば顔に嘘は出ない。 なぜかというと、相手を喜ばせなければ話は始まらないから。 中には「服を褒めないで私自身を褒めて」って言う人がいるけど、よっぽど ヘソ曲がりなんだ、そういう人は。さて、人を褒めるときにほかに何を褒めれば いいのか。実はなんでも褒められる。背が低ければ低いことを褒めればいいし、 背が高ければ高いことを褒めればいい。出身地を聞いたら、「あそこは大好き なんですよ」と言えばいい。最初は嘘が混じっていてもいいが、次第にその 気持ちが本当になっていくものだ。だから人に会ったら、なんとなく褒め、 逆に褒められたら褒め返す。これはゴマすりではなくて、会話の糸口なのだ。 会話の小ネタといってもいい。そこから本題に入っていくときに、お互いに 気持ちのいいスタートを切るための潤滑剤だと思えばいい。≫ ▼ 褒めるだけでは、ありきたり。そこで、「プチ礼賛」まで、心から褒め ないと相手の心は開かない。礼賛すると、みるみる、顔つきが変わっていく。 そうは礼賛されないため、心の奥から褒めると、それが礼賛になっていく。 好かれる前に、まずは人好きにならないと! それにしても、オバちゃんの、 あのフレンドリーは見上げたもの。 まずは褒める、その手際の良さ。 ―――― =人に好かれる六原則= 1.誠実な関心を寄せる 2.笑顔を忘れない 3.名前を覚える(名前は、当人にとって、最も快い、 最も大切な響きを持つ言葉であることを忘れない。) 4.聞き手にまわる 5.関心のありかを見抜く(相手の関心を見抜いて話題にする。) 6.心からほめる(重要感を与える――誠意を込めて。)
・・・・・・ 5164,パレーシア 〜真実を語ること 2015年05月05日(火) * ソクラテスのパレーシア 〜『哲学で自分を創る』瀧本往人著より 危険を冒しながら真実をかたること。これがパレーシアだが、とはいえ、 社会において、その実行となると難しい。このブログを書き続けていると、 己の程度を曝け出し、多くの人を揶揄し傷つけてきた。気遣っていてもである。 想定の対話の相手を、数年先の自分にしているが、後で読み返し、第三者の 目を想うと冷や汗が出ることしばし。しかし、飾っていたら、長続きをしない ことを自分が一番知っている。 〜以下の箇所は、哲学の本質を述べている。 ≪ ソクラテスにとって最も大事なのは、相手をやりこめることではなく、 自分の魂を磨くことであった。そのために命懸けで対話を行った。 この営みは「パレーシア」(真実を語ること)と呼ばれている。パレーシアとは、 危険を冒しながら真理を語るという実践を意味するギリシア語。ソグラテスが 裁判の際に立ち向かったやり方が、まさしくこのパレーシアである。 たとえ心の中で真理が発見されたとしても、「私が思う」だけでは、それは パレーシアとは無縁なのだ。パレーシアを通じた魂の鍛錬こそ、命のあるかぎり やめてはならず、見返りを求めることなく、純粋な熱意に発した無償の責務で あり、かつ、個人の内面的な人生訓にとどまるものではなく、結果的には他者や 共同体にとっても有益なものである、と考えられた。それゆえ、政治家になり、 ポリスを統治し他者の魂を気遣いたい者は、まず自分の魂を気遣うべきである、 とソクラテスは強調する。自分を気遣わない者は統治者としては不適格なのである。 ここには、身の魂の鍛錬に専心することが、他者や共同体を気導つことよりも 優先されるいという揺ぎのない確信が表明されている。 ・・(略) ソクラテスの対話術は、自らの主張を他者に受け入れてもらうための(もしくは 認めさせるための)技術ではなく、相手に「問いかけること」、相手の主張を 「聞くこと」に主眼があった。そもそもこの「無知の知」の重要性は、この 「聞くこと」のための手法という点にあったのである。何かを「知っている」 から語るのではなく、何も知らないか、もしくは何ごともよく分かっていない からこそ相手から何かを引きだそうとする。パレーシアの原点はここにある。 それゆえパレーシアとは「実直に語ること」ではあっても、単に一方的に 「包み隠さず語る」ということではない。ソクラテスのパレーシアは、政治家の ように多数者に向かって語るものではなく、密接な一対一の関係が必要である。 またこの対話は、自分が主役としてふるまうのではなく、相手の話を引きだす ようなやり方で行われる。それゆえ相手はソクラテスに導かれながら自分自身に ついて語ることになる。 ここで、注意しなければならないことがある。 率直に語ること、もしくは相手の言葉に耳を傾けることは、後にキリスト教文化 ならびに精神分析においては、「告白」という形態をとって展開され、あたかも 地続きのもののように理解されることがある。だが、この両者は異なる。 パレーシアにとつて重要なのは、自分が語ることができる「ロゴス」(つまり 論法と言葉)が、自分の生き方と確固たるつながりがあることなのである。≫ ▼ 成るほど、飽きもせず、連日、書き続けているのは、いまここの私が、 数年先の、いまここの私に向け話している実感があるため。そして、近未来 の自分の感想を想定することで、私自身を見つめることになる。これを公開 するのは、あまりに危険だが。また、公開しないと続かない弱さもある。
・・・・・・ 5894,本物の教養 −4 2017年05月05日(金) <人生を面白くする 本物の教養 〜出口治明 (著) > * 日本のリーダー層は勉強が足りない 平和ボケをした日本は、リーダー層だけでなく、国民全体の教養度が大きく 低下したようだ。島国のため同質が求められ、それが、思考能力を削いでいる。 「和して同じず」の諺があるが、現実には、それぞれの意見を持つことが、 不協和音とされ、全会一致こそ最善とされる。島国もあるのだろうが。 ここも、目次そのままを繋げると、要約になる。 ―― ―目次ー 謙虚でなければ教養は身につかない 「この人は面白そうだ」と思ってもらえるか 面白さの源は「ボキャブラリー」 「広く浅く」でなく「広く、ある程度深い」素養が必要 決定的に重要なのは「自分の意見」を持っていること 欧米の若者とはすでに大学の段階で差がついている 学生が勉強しないのは会社がそれを求めないから 「考える力」をつけさせる連合王国の教育 「学生には自国の没落をリアルに認識してほしい」 自分の頭で考えないほうが都合がいい社会 「終身雇用、年功序列、定年」の特異な労働慣行 世界標準では日本の企業幹部は圧倒的に低学歴 これまでと同じ戦略ではもうやっていけない 日本にはまだかなり伸びしろがある 〜要点を抜粋する〜 【 ライフネット生命を創業する前、連続して合計六年間ほど、主として 外国人相手の仕事をしたことになります。そのときの経験で痛感したの
〜字数制限のためカット ・・・・・・ 4799,よくもここまで騙したな 2014年05月05日(月) 「よくもここまで騙したな これが[人殺し医療サギ]の実態だ! ーいのちを奪いながら金を奪うワンワールド支配者」 船瀬 俊介 , ベンジャミン・フルフォード (著) 以下の内容紹介だけでも、この書の半分は言い尽くしている? あのベンジャミン。これぐらいでないと、面白くないが、医者の世界では、 今さらのこと? こういう視点も知っておいたほうがよい。ー内容紹介ー 〜医療を殺人ビジネス化した者たちよ! 化けの皮はすでに剥がれている! ◎ がん患者1000人殺して一人前! ◎ 日本の内科医は1人平均1000人のがん患者を殺している ◎ 命を奪う、カネを奪う! 医者は完璧に白衣の殺人鬼、白衣の詐欺師! ◎ 日本の近代医学はどこをほじくり返しても詐欺とペテンと強盗と殺人だらけ ◎ 欧米医療というのは基本的に軍隊の医療 ◎ 足を切断や伝染病の治療には欧米医療はいいが、糖尿病とがんといった 慢性病のときは絶対に関わらない方がいい ◎ 漢方も鍼灸も食事療法や整体療法も弾圧された ◎ マッサージ、カイロプラクティック、サイコセラピー、 ホメオパシーも弾圧された ◎ 自然治癒力をサポートして病気を治す伝統的なテクノロジーは 全部弾圧され、薬物療法だけが生き残った ◎ 伝統療法は、金融マフィアによって保険対象外にされた ◎ 強制的に保険料を取って、自分たちの息のかかった殺戮医療マフィア にだけおカネを回すシステム ◎ 医療の問題は上に行くとラムズフェルド、ブッシュ、ロックフェラー らに行き当たる ◎ 医者に金も命も投げ出す崖っぷち日本人よ! 今こそ、自分の脳を疑いなさい ◎ 薬漬け、検査漬けの放射線大量照射に生物兵器の毒物注入まで ◎ 抗がん剤は元々は廃棄に困った化学兵器の原料 ◎ 失敗する医者ほど儲かる /治す医者は失業 ◎ 医療は世にも不思議な失敗報酬の世界! ◎ 一番高い抗がん剤ペグイントロンは1グラム3億3170万円する ◎ マイクログラムまで薄めて使っても1回当たり何十万円、 利益率は何万%にもなる ◎ 白血病はがんではない。 団十郎を殺した!?マイロターグという 白血病の治療薬は、1グラム4800万円 ◎ マイロターグは投与した患者の90・5%が死ぬ! ◎ 輸血は人命を助けていない、むしろ殺している!? ◎ お年寄りが死ぬとわかるとここぞとばかりに点滴、投薬をやる香典医療 というのがある。稼ぎどきならぬ殺しどき! ◎ 「現代医学の神は、唯一人しかいない、それは死神である」と ベストセラー書籍『医者が患者をだますとき』の著者ロバート・メンデルソン はいっている! だから病院が営業停止中には死人が減る!? ▼ 少し?過激に思えるが、何度か目を通すと決して過激ではなく、こんな ものと気づくはず。医者にすれば、見送りの手助けだが、患者からすれば殺人? 更に言えば、人間ドックや、健康診断が一般的に行われているのは世界で日本だけ。 先日、週刊ポストの広告見出しに、ー「血圧147は健康値」の怪奇ーがあった。 《人間ドック学会が健康診断の基準値を大幅に緩和。他に「総コレストロール 199ー>254」「悪玉コレストロール119ー>178」「中性脂肪149ー>196」など、》 「これを元に、それまで飲んできた薬は何なんだ?」の疑問が起きて当然。 この変更だけをみても「健康人」を「病人」にして、薬漬けにする利権の闇が 見えてくる。医療行政と製薬会社の利益のため、一般国民が弄ばれている図式が 透けてくる。昔、父親が高血圧で何時も気にしていたが、当時、年齢プラス90が 目安と言う。ところが、5年前に医師から聞かされたのが130。 『これも、いい加減なので』と、言葉を加えていたが・・ で、健康センター で測ってみると125〜160の間で、平均すると140辺り。父から聞いていた数値から すると、私は158が目安。140は少し高めだが、これで良しと思っていたが正解。 これからして、医者は偉そうにしているが、詐欺、たかり、殺人集団?
|
|
|
|
2018年05月04日(金)
* 5月4日は、このブログ開始記念日 このブログは、私の人生を根底から変えてくれた。 まる17年間、6260回も続けてきた。学生時代に、基礎教養不足に気づき、 読書習慣と本屋通いを習慣に取入れた。読みっぱなしのためか、 読んだ割に知識が身に付いてなかったことに焦りがあった。55歳時に、 何とかパソコンを我が生活の中心に取り入れたいと近所に出来たての PC教室の通うことにした。当時は、ブログは出始めた頃。 「個人HPの作成の過程でネット社会に近づくこと」を目的にした。 以来、現在に至っているが、2007年12月から、「はてな」のブログを 始めて10年あまり、今では、来訪者は、ほぼ「はてな」に移動した。 しかし個人HPの「内部検索」が、私にとって非常に効果的になっている。 以下にコピーした過去のテーマは、これによる。例えば、「イスラエル」と 検索すると、数秒もしない内に、時系列で現れ出てくる。脳のクラウド化の 感覚が何とも奇妙。写真も、然り。 下記の中に書いてあるように、学生時代 のカード日記作成の下地」がある。下記も「カード日記」で検索したもの。 ある意味、潜在意識化された記憶をキーワードで引張り上げが可能に…。 ささやかだが、私には、非常に効果的システムである。TVで「タンザニア」 の放映があれば、タブレットで検索すれば、たちまち当時の記憶が鮮明に 現われ出てくる。若者、子供が、こんなことより遥かに情報機器を使い こんでいるのだから… 情報化社会の一端を連日、目の当たりにして、 その面白さ、楽しさを充分に満喫できる日々が信じられない感がする。 何事も一万時間か、10年続けることですか。
―――― 2016/12/08 なぜ本を読むといいか? 〜7 <本を読む人だけが手にするもの>藤原和博著 * 確実によい本に出合う方法はあるのか? 本の選択能力を磨くには、どうしたらいいか。 “どのよんなジャンルでもいいから、数にあたることが大切”と著者はいう。 あたり前のことだが、その中で、著名人の読書指導書を、何処かで読んでおく べきである。ツボを心得ているかどうかで選択肢が変わってくる。 それ以前に、あらゆるジャンルの絶対量の読書が必要になる。 〜その辺りを、第5章に具体的に述べてある。 ≪・“こうしたよい本に出合う機会は、当然のことながら、読書の量を 重ねれば重ねるほど多くなる。「これだ!」という本を数えたことがない から確かなことはいえないが、私の場合、おそらく300冊ぐらいだろうか。 300冊という数字だけを見れば多いかもしれないが、それでも3千冊読んで の300冊だ。9割の本は、私の感性には引っかからなかったということ。 でも、それで損をしたとは思わない。無駄な本に出合わずに効率的に本を選ぶ ことなど、どだい無理だと思っているからだ。 ・また、他人の脳のかけらをつなげて新しい視点を獲得したいと思うならば、 自分には相場観のないジャンルや著者の本を手に取ることも大切だ。相場観を 持たない世界では、だれだって効率もクソもない。全く外れになる可能性も、 おおいに歓迎しよう。そのリスクを取ることで、リターンが得られるのだから。 ・大事なので、結論を繰り返す。 本当に自分に必要な本と出合いたいと思う人には、「乱読」の習慣化をすすめる。 予想もしなかった考え方に出合ったり、本を介して未知の人物との遭遇が将来 起こる可能性もある。その化学反応は、読む前にはわからないことが多い。 本に即効性を期待する人もいるが、私は違うと思う。 本1冊の値段は文庫本で500円前後、新書で700円〜900円、単行本で 1300円〜2000円程度である。買ったうちの9割がダメでも我慢できる。 外れる確率は高くても、偶然の出合いがあるほうが、よほど面白い物語に なると思う。それは人生における人間との出会いと変わらない。 人生における 偶然の素晴らしい出会いを、効率的に設定することなどできはしない。 本との出合いも、同じなのである。数をこなそう。≫ ―― ▼ 現実の体験や読書評を連日書いてきたが、一つのテーマに対して、 その選定から、起承転結をマトメルに膨大のエネルギーを入れている。 文字の認識度が低いためである。子供の頃から漫画が好きで、絵からの 認識度があるが、読書脳は希弱のベース。 まして、文章化など・・ それに気づいたのが学生時代。それを取り戻す為、毎日2時間以上の読書量 の確保と、日記と、メモを小まめにとることにした。 で、辿りついたのが、 ブログ、この雑記帳的随想日記である。 大学を卒業直後、何か足りないと 気づき、一年間、独学に近い状態で、産能大学で遊学。フィールド(現場)の 情報を効率よく残すには、如何すべきか? そこで得たのが、記録方法。 この随想日記の原型の方法、カード日記である。それも、大型カードに、 記録を残し、日付を入れて、毎日、得た知識のカード化。新聞切抜きは、 それを二枚重ねホチキスでファイル状にして、カードに挟んで茶封筒に入れる。 ところが、これに問題が生じてきた。そうすると、最少単位のテーマを 二度と見ることがなくなる。その弊害が、その習慣の自然消滅の原因になって しまう。 現在のブログに、毎日、同月同日の文章をコピペをしているのは、 かって書いた内容を、一年に一度、目を通す為である。また、ブログ内検索で、 思い出すキーワードで過去文を瞬時に引出している。実際、この随想日記は 私には非常に有効なシステムになっている。「私は無能で、遊び好きで、怠け者」 と自覚しているため、習慣化という第二の天性を多く重ねるしかないことを、 人生で学んできた。 他者の冷たい蔑視に、殆ど気にしないでいられるのは、 <少し離れてみれば、所詮、石の形、大小が違えども、砂利、砂でしかない> を自覚しているため。 良質の量の増加は、質の自然変化を促す。それも、 砂利の中の比較世界の話、アフォと、パーの違い。 トランプとクリントン女史の討論を見れば、自明? 韓国の女子たちも然り。 すると、安倍・麻生コンビも如何だろう?と 自然考えてしまう。・∀・)ニ
・・・・・・ 2005年11月03日(木) 1675, 「自薦エッセイ集 魂の光景」−1 −読書日記 「創造する心 日野啓三対談集」につづいて、図書館から 日野啓三著「自薦エッセイ集 魂の光景」を借りてきた。 読めば読むほど、日野啓三の深い洞察に驚きざるを得ない。 数年前に亡くなったが、1990年代、60歳代に入ってから大きな 手術をし、死と向き合うことによって、一段と深い所に達したようだ。 心の奥底に、先祖たちの、生物のあらゆる記憶の存在を感じている。 神秘思想に非常に近いところにいる。 しかし同時に心の奥底に、 神秘思想のところがありながら、「意識は脳の働きである」という 意識を明確に持ったまま、心の奥深い世界を描写している。 印象に深い章から抜粋しながら考えてみる。
ー「書くことの秘儀」ー ”小説を書くってことは、なにひとつ実在しないところから、 リアリティを生み出すことだ、” ”だが死は恐怖であると同時に、生をより自覚的に劇的に物語的に、 悲壮の輝かしく喜ばしいものと痛感させる条件ではなかっただろうか。 死者を弔い。祖霊、神霊への祈り、祭り。 それに伴う様々な建築物、道具、装備品の洗練。 歌と壁画。 食って寝て性交をして子供を育てる以上の膨大な事柄が、 われわれの生を満たすようになったのだ、意識と言葉の進化によって。 一口に言語といっても、他人とのコミュニケーションのための話し言葉と、 ひとり物思い思考しその過程と結論を刻みつける書き言葉とは、 ほとんど異質なものである。 新人を、その抽象的・象徴的能力を 特徴づけるのは、書き言葉とその洗練である。
”「書くことは、話し言葉の領域とは違う領域からやってくる」 「当人は口をきかない、別の人格の言葉なのだ」 本当に、このことはとても微妙で重要だ。 <「別の人格」とは何のことか>ユングは「神話的元型」といった。 インディアンの祈祷師マツゥスは「沈黙の知」といった。”
”自分自身の言葉で自分自身の想念、思考、予感、物語を書く人は、 よく知っているはずだ―文章を書き進んで自然にふしぎな加速度がついて、 自分の内部がどんどんめくれ上がって、何者かに乗り移られたような状態に なる瞬間があることを。 以後、自分はいわば巫女のように、自動筆記機械 のように、その正体不明の何者かの、言葉以前の暗い想念のエネルギーの ゆらぎを言葉に翻訳するような具合になることを。”
”少し落ち着いて考えてみれば、”自分の言葉”などないのだ。何万何十 万年の間に数え切れぬ人々の体験と感情と思考が折り重なり、まといつき、 溶けてはまた固まってでき上がってきた言葉の連なりのシステムがある。 ただしとても曖昧で重層的なシステムだ。”
”より自分に近く言葉を使う人の方が、もの言わぬ「別の人格」あるいは 「沈黙の知」に、つまり自分を超える何者かに近づき触れることができる。 心ならずも近き触れて、その無言者の代弁ないし通訳になってしまう。”
”自覚的に書く人―書く前からわかっていることを他人に伝えるためにではなく、 書くことによって自分の奥の、あるいは夜の果ての何かを呼び出して、自分を、 世界を少しでも意識化しようとして書く人、すなわち職業的にではなく運命的に ”書く人”である人=作家にとって、書くという事態はそういうことである。 神秘的とまで言わないにしても、逆説的、背理的な異様なことである。 彼あるいは彼女を駆立て支えるものは、そのように<自分のために書くことが (特定の読者層に向かって書く作家より)、より普遍的な声に至るであろう> という信念というより信仰に近いものだ。”
”少なくとも結果の保証のない賭け。 賭け金は自分でもよく分からない自分の生涯の体験の闇の奥行と自己判定 不能の才能。確実に失われるのは、保証された人生の幾つもの現実、 その安定と安心。” ー 読んでいるといつの間にか、深い心の底に導かれてしまっている。 [深いことを書くこと]は、読者を深いところに導くことになる。 ・・・・・・ 2017/08/25 閑話小題 〜 随想日記、6000回超え、
* 随想日記も、6千回超え 千回単位を超えた度に、その時々の実感を書いてきた。この16年と数ヶ月の間、 ‘テーマ探し’が、遊びの柱になっている。 凡庸な者が書上げるには、膨大の 時間とエネルギーを使うしかないのが最大の利点になるが、時おり何も浮かばず、 茫然とする。 この下地が20歳半ばにあった。卒業の直後に感じたことは、 「長い人生で、多くの経験をするのだろうが、それを高めるため、現場体験や、 情報をコンパクトに纏める能力( =経験を言葉に変換し、起承転結に完結する 物語化する技能)こそが重要と… そこで会社を辞め、産能大に籍を置き、KJ 法や、創造工学の書を独学で学んで、辿りついたのが、ハガキ大のカード二枚を ホチキスでとめファイルにし、カードに感想文などを書き、その間に新聞やメモ を挟み、カードボックスに分類して放りこむ、システムである。それそのままが、 個人HPであり、ブログになっている 16年前に、ネット上のブログとして公開、 外部脳として、活用している。 情報収集に検索と、ネットサーフィンが非常に 有効に働いている。まだ、ブログが出揃う前後で、パソコン教室で「個人のHP」 の共同制作を通して、ネットに別世界をつくり始めていた。現在でも、細菌対策 のバックアップの役割として続いている。これは、ブログ閲覧の10分の1以下 だが、当初からの閲覧者が根強く存在している。6千回も続くのは、それなりの 軌跡があってのこと。批判・批評なら誰も出来るが… 好きにならなきゃ無理。 2つの合計、350人前後の閲覧者が、今年に入って500人近くに増えた。 少しでも力を抜くと、即、減るため… 抜くに抜けないのが実情。結果、馬鹿 丸出しになる。自覚をしているため、平気だが… 要するに、「ライフワークになってしまった」ということ。 ―― 2014/11/22 閑話小題 ー今日で5000回! * この随想日記も5千回 気持ちを入れた文章は足跡として残る上に、過去の同月同日に、再び、 その時の自分と出会える。5千回は、以前より大きな目安としていたので、 やはり感慨が深い。とにかく続けることだが・・ この随想日記と、50回の海外ツアー(来年達成)と、新潟駅前事業が、 この30年の大きな行蔵だが、これ、何の価値(意味)があるの?と、改めて 問いなおせば、何もない。ただ、ひたすら生きてきた中で、これがあっただけ。 面白く、厳しい場面が多くあったが、悔いは無い。いや、そう思うしかない。 読み返すと千回までが大変だったのが見てとれる。 5分遅れでアップできな かったことが一回あったが、我ながら五千回もよく続いたもの! 学生時代に日記と、卒論を書いた以外は、社内報に二月に一度、書く以外は、 殆ど書くことはなかった。それまで本を読みっぱなしで、ダイアリーにメモ書き で残す以外、感想も、要約も書き残すこともなく、一番大切なことをしてなかった ことに気づいていた。そこでHPの存在を知り、記憶の雑記帳としてネット上に 公開すればと、思い立った。そこに、通勤途中に開業したばかりのパソコン教室 を見つけて本格的にのめりこんで行った。当時は、まだブログの出だしの頃で、 手作りのHPだった。それが、今でも、エンピツの「随想日記」と、「分類」 として続いている。 そして7年前に、この二つのフォロー用に始めた「はてな」 のブログに、読み手の殆どが移動してしまった。そのことに気づいたのが一月前。 13年の日時もあって、「ヤフー」のブログを加えると、300人の閲覧。 もっとも、最大のファンは、同月・同日の自分と、未来の自分だが。 アップをした瞬間、その全てを忘れるため、読み返すと奇妙な気持ちになる。 なるほど、言葉は言霊! 「その瞬間の自分は、集中すればしただけ残るんだ!」 を、読み返すと分かる。ーまずは初回からー ―― 4000, 4000回の随想日記 2012年03月08日(木) 千、二千、三千回目に、それぞれの感想を書いてきた。旅行中も「書きだめ」 をしたのを知人に頼んでアップをしていたのでほぼ休まず書いてきた。自分でも 11年近く四千も連続して書いたと驚いている。次は五千が目標になるが、四千回 を契機に、時どき休むことにする。 また五千回に到達した時点で半年位は休む つもりである。この程度の文章は誰でも書けるが、一応自分で納得した内容を 書き続けるのは大変である。充実感があり、習慣化したから可能だった。 「チョット聞いてよ。こんなことがあったよ!」という長屋のハッツァンが、 クマサンに自慢気に話している感じである。もちろん、自分のために整理し知識と して残すのが目的だが、せっかくの獲物?を共有することで、学び続ける動機づけ にしている。気楽に、面白可笑しく、バカ丸出しで、地頭で、書いたため、その まま伝わっていたはず。それも四千ともなると、自分の脳内そのものでもある。 自分の貯めた文章を毎朝、同月同日分を読む楽しみは格別。今では、その日書いた 分を含めると11年分の同日の自分に出会っている。書いたことも、その内容も、 ほぼ忘れた文章が、早朝に読み返すのは不思議で奇妙な感覚になる。だから倒産 とか、それに関わる嫌な日々も、この御陰で毎朝、心が洗われる。文章を起承転結 でまとめるのはプロならいざしらず、気力が無いと無理。 但し、一度、その習慣 をつければしめたもの。 しかしブログに字数制限があるため、当日分の書いた分 だけ、過去に書いた文章をカットする。それが、身を切る思いになる。 しかし、それが好い加減な文章を書くと数年もしないうちに、自分の手で削除する ことになるので、内容の質を落とせなくなる効用がある。 文は、一度書き、 アップすると、あとに戻せない。何気なく書いたために明らかに傷をつけた人が 何人かいる。 注意はしているが、厳重な注意が必要だが、それが見えなくなって しまう。時系列に書き続けていると、ある意味で、メモ帳、雑記帳にもなるが、 毎日、書き連ね、別ボックスに分類すると、違った意味で、価値が出来てくる。 また分類ボックスの一番下に、過去に書いた文章の検索が可能になっている。 時々、検索をすると、キーワードの入った文章が出てくる。もし、秘境旅行、と 入れれば、過去に書いた文章が時系列に出てくる。これは記憶の検索になる。 ―― 3000、3000回か〜 2009年06月22日(月) この随想日記が3000回になった。1000回、2000回の時ほどの感慨がない。 書き続けることに慣れてきたのだろう。 誰に頼まれたわけじゃなし、ただ習慣 だから続けているだけ。確かに、続けているとプラスにはなる。考えざるを得ない からである。それと、常に何か書く材料がないか注意を周囲に向けるようになった。 その現場で、キーワード探しと、その組み合わせをするようになっている。書く ことを職業にしている人は、考えることを職にしていることになるが、紺屋の 白袴で…? ところで、千回、二千回の時に何を書いていたか、調べてみた。 なるほど、今回も同じような気持ちである。ふと、気づいたが、自分とは時間の 経過と同時に広がっているということ。それと、心の底の変わらない‘X’が 魂ということになる。
|
|
|
|