堀井On-Line



6028,閑話小題 〜大相撲・炎上

2017年09月15日(金)

   * 横綱・大関の権威失落
 大相撲が大変な事態になっている。私の相撲ファン歴からして、これほどの
大関・横綱の権威失落の事態は初めてで、理事長自らが辞任しても然るべきほど
である。初日から4人横綱のうち3人が休場。残る一人の横綱が前半で2勝3敗とは、
これいかに。上位に上がったばかりの阿武咲が横綱初挑戦で金星を挙げ5連勝。
日馬富士の負け方が空中に1回転して裏返し。その上に、大関の照の富士が負傷、
3人の大関も2人が休場ともなれば。 面白といえば面白いが、この惨状では、
首を傾げざるをえない。その背後には若手に実力があるのが何人か台頭してきた
ことがある。もしかして、半年、1年後の番付が、これかとも… 
 ファンが、相撲協会の心配をする必要がない。横綱・大関の権威の崩壊を
見ながら、誰が優勝をするかを楽しめば、「また白鵬!」よりも遥かに刺激的。
「何で今の若手が強いのかって?」というと、勝つために頭(情報機器)を活用、
稽古土俵から考えているため。それも親がかりで。 将棋の新生人と同じ。
白鵬が、それ。素材が良いだけでは難しい。一月前に、高校横綱のトーナメント
を見たが、その中で、強そうなのが数多く見かけた。底辺の育成が出来ていると
いうことか。 
   * 地方銀行消滅
 ふと、去年分の同月同日分をみると、以下なるテーマ「地方銀行消滅」を
書いていた。「第四銀行と北越銀行の合併」をテーマにしていた時には、これを
書いていたことを失念していた。数年で、3分の1、5分の1に再編・統合なら、
早々に、合併するのも当然のこと。健全ということになる。ただし地方豪族化
した体質、塗炭の苦しみになるだろう。

――――
2017/03/17
閑話小題 〜北越と第四銀行の経営統合
  * 北越と第四銀行の経営統合、の号砲一発
 昨日の夕方、TVのニュースで「地元NO・1と、NO・2の地銀の統合合併の
ニュースが報じられた。 6年前に一線を離れた身としても、驚きは大きい。
実際にあるとすれば、元・第二地銀の大光銀行と北越銀行と思って当然。
まさか殿様?の北越と第四銀行とは鳩に鉄砲の組合せ。
「合併に対等はなし」の通例からして第四の吸収になるが、目的は人員と
関連会社の整理。機械化と、ネット化などの合理化で、人員の三分の?が
不要になるという。ニュースであまり取上げられてないが、2年前の
北陸新幹線開通のマイナス効果。それと、二つの地元の大地震の損害と
原発停止による経済の弱体化も大きな要素。 
 〜ネット記事から
≪・新潟県の地方銀行で最大手の第四銀行(新潟)と二番手の北越銀行
(長岡)が経営統合する方向で最終調整に入ったことが、16日分かった。
4月にも基本合意を交わした上で、2018年春をめどに統合を目指す。
統合の形態は共同持ち株会社を設立して、2行が傘下にぶら下がる方式を検討。
将来的な2行の合併も視野に入れる。2行は統合による規模の利益の追及など
によって経営効率を高め、今後の生き残りを図る。
2016年9月末時点での2行の連結総資産額を単純合算すると、8.2兆円。
統合が実現すれば、全国の地銀約100行・グループの中で10位台に浮上
する、大規模な地銀グループが誕生することになる。
・2行を経営統合へと突き動かした要因は大きく二つ。
一つは、ここ数年で相次いでいる他の地銀再編と同じく、地元地域の人口減少と
超低金利環境だ。 国立社会保障・人口問題研究所によると、2行が地盤を持つ
新潟県における25年時点での15〜64歳人口は、10年時点と比べて約2割も減少
するという推計結果(13年3月推計)が出ている。
2つめは、足元の経営環境も16年2月の日本銀行によるマイナス金利政策の導入
以降、一層厳しさを増している。超低金利の状況において、預金と貸出金の
金利差である利ざやの縮小が進んでいるためだ。
対前年同期比で見た、2行の16年4〜12月期決算における業績がそれを示唆する。
一般事業会社の営業利益に当たる実質業務純益では、第四が26.7%減の117億円、
北越銀行が18.9%減の65億円。さらに、連結経常利益では2行共に3割以上の
減少という苦境に陥っている。この状況が長く続けば、将来的に地元である
新潟県の地域金融を支えられなくなるかもしれない。そんな危機感が2行を
統合交渉のテーブルに着かせた。≫
――
▼「15〜64歳人口は、10年時点と比べて約2割も減少」は、この記事で知ったが、
 深刻な事態である。常識的にみれば、中越地区は3割減?。これからして、
この合併は、当然といえば当然。第四にとって第二地銀との合併は避けて当然。
その結果が第四+北越銀行の組合せ。「地方経済の弱体化モデル地区の象徴」
として、越後長岡は取上げられる。全体エネルギーが、3分の2に落ちている
感はあったが… それでも合併で何とかなる?から、よいのか。
 今後10年で第四の3分の1、北越の2分1の人員と店舗の整理があって然るべき。
目的は時代に即した合理化。 地銀の整理淘汰の号砲一発。
今夜と明日の殿町の巷は如何なることに? 金融関係者は青い顔、中小・零細
経営者は赤い顔で。今さらだが、「毒喰えば皿まで」。県知事は建設省出身者
の選択しかなかった? 床柱だった北海道拓殖銀行の倒産は、地元道民が乾杯
をあげたという。地元は、如何なることに? 倒産でもないし… 
越後新潟も、新潟市一極化は、ますます顕著になる。ここというより、地方の
常識は非常識。負け犬の遠吠えでしかないが… ワオ〜ン。 いや、キャン!
――――
2017/04/08
閑話小題 〜北越と第四銀行の経営統合 −2
   * 大蔵直轄統治の大光は
・数日前になるが、地銀の第四と北越銀行頭取の合併に関する 記者会見が
TVニュースで流れていた。気のせいか、第四頭取は明るく、北越の頭取は
下向き加減の暗い顔をしていたような? しかし、健全な経営体質なら、
前向きの統合策として評価されて然るべき決断。で、残る大光は、地勢上から
他県の有力な地銀との連合が筋道なるが…  考えてみれば、今まで動きが
無かったのが不思議。デフレと、首都圏一極化と、情報化による地方経済の
疲弊は、直接、金融機関の劣化に正比例する。20数行あった都市銀行は三行
まで激減した中で、地銀以下の集約は無かった方が不自然であった。
銀行の本質は職業柄、高利貸しの悪質の特性をも持つ。力の有る者に媚り、
弱者から利益を毟り取る。世界最大規模を誇る柏崎・刈羽原発の再開が見込め
ない現在、地元経済の劣化は進む中で、締め付けは厳しくなる一方。それが
銀行憎しのガスを充満をしている。その最中のリストラの号砲一発。その弱肉
強食の現実が、世間とかいう人食いネズミ群の絶好の餌食?になっていく。
立場が一転、弱者の「こんなはずではなかった」へ、文字通りに立つ。
・バブル崩壊後、大手地銀自ら格下げをした「リソナ銀行」?が、バランス
からしてよい?…云々が、連想創作の「天の声」として1人歩きをしそうな。
しかし、天領と、大波で削ぎ落とされた体質の銀行では、体質が違い過ぎる。
ちなみに次男の嫁さんと、両親がリソナ母体?の一つの旧埼玉銀行の出身。
また兄嫁が大手銀行出身。更に家内の妹が、一度退社後の子育てを終えた頃、
元上司に請われ、地銀のパートを20年続けている。
・大蔵官僚として、天領の天下り先の地銀の『頭取』の座は残したいが、
問題は単独のリストラ能力の有無。直轄統治でも無理、と思うのは官僚役人
の力を知らないから? このようなコンニャク政経談議。 今後、材料は
絶えることはない… 状況は条件の意味に近い。城下町小唄の世界にドップリ
浸かってしまった私。「先手の一策は、事後の百策に勝る」という。 
この時節が、先手かどうか。以下の「一切は、君の自由だ」に、無理があるが、
文脈としてつながる。 「未来の健全のために、ご自由に、どうぞ!」 
――――
5662,閑話小題 〜地方銀行消滅
2016年09月15日(木)
   * 地方銀行消滅   〜地方銀行消滅 (朝日新書)津田倫男 (著)〜
 先日の新聞広告の、<『地方銀行消滅 』〜105行から20行に>が刺激的。 
  〜アマゾンの内容紹介には〜
《銀行名が消え、組織も行員も消える再編の奔流を、いかに乗り切るか?
 全国6ブロックの新勢力図を発表! 地銀、第二地銀の計105、大手信金を
あわせて140ほどの金融機関が5年後には20~30に再編・統合されてしまう。
人口減少がもたらした「金融戦国時代」に生き残るのは、どこか!?
その理由は!? 元・敏腕バンカーが大胆に予想する。》
▼ 20数年前に20数行あった都銀が、数年でメガバンク3行になった。
 地方経済の衰弱化が進んでいる中、地銀の再編の推進が行われなかった方が
不可解。世界不況が深刻化する中、人口減が進む地方経済は深刻な弱体化が
進行、待ったなしの地銀再編の合理化は当然の成行き。常識的にみて、地方再生
とかいうが、その疲弊は政治力では何ともならない。地方豪族化した一部の
土着プチブルと我世を謳歌した地銀も、世界的大不況と、グローバル化で、
大幅な合理化対象になる。
 
・・・・・・
5297,『自分を超える 5つの法』とは  〜『自分を超える法』ー��
2015年09月15日(火)
             ー『自分を超える法』ピーター・セイジ著ー
   * 法則 2 ーお金のつくり方
 ここで、お金を得る方法として5つをあげている。
「勤めるか、相続か、盗むか、ギャンブルか、ビジネスをする」をあげ、
ビジネスでの成功を勧めている。ビジネスとは、「利益を創出すること」で、
宝クジの当たる確率が1400万分の1に対し、ビジネスは「5%」の
20分の1。とすると70万倍の確率である。「経済の歴史」から、有史
以来、常に「人口の5%が経済的に自立した人たち」である。 これは、
時代や地域に関係なく、あらゆる時代、国、地域に共通する。身近な例で、
私の世代では、まず高校の進学校に20%が、次は国立大か、私立なら早慶、
上智、同志社あたりに5%に絞り込まれる。そして、上場企業の勤め人か、
上級公務員になるか、実家の事業を継ぐか。数ヶ月前に、中学の「古希の会」
が湯沢で開かれたが、卒業時の成績が拡大したままが、その人生のようだ。 
死んだり、ウダツの上がらないのは、出てこれないが、私みたいなのもいる。
 ここでは起業を勧めている。とすると、20歳時に「創業}の人生を決意
したのは、賢明だったことになる。で、このザマだが、充実感は残った。
  〜章末の「まとめ」より〜
● お金持ちになるダントツの方法は「ビジネス」
● お金とは、「社会への貢献度」を示す指標
● ビジネスの選択は.「できること」ではなく「情熱」で選ぶ
● 起業に必要なのは「資金」ではなく.よりよい「戦略」
●「購入額」と「購入頻度」がビジネスを成長させる秘訣
● 起業を成功させる5つの秘訣は.
 1.まず、「情熱」を持てる仕事か、
 2、次が、「ニーズ」より「ウォンツ」の商品かサービス
 3、どうすれば「付加価値」を上げることが出来るか、
 4、自分がいなくても会社がまわる「しくみ」をつくる、
 5、成功の「モデリング」をすること
  「成功したビジネス事例のエッセンス部分」を、形を変えて
  「自分のビジネスに応用してあてはめる」こと。
  〜巻末の、ピーターからの「格言」より〜
◎ あなたがお金を少ししか持っていないとき、それを気分が落ち込んでいる
 ことの言い訳にするのであれば、「常にお金が少ないという状態」が続きます
◎ よりよい戦略とは、「よりよい質問をすること」です
◎ 「人の感情を動かし、行動を起こしてもらう能力」は、どんなビジネス
 においてももっとも高い価値が支払われるスキルです
◎ 意思決定をする際に、この3つの質問をすることが大切です
 「1・何がもっとも大切なのか?」「2・私は何が本当にほしいのか?」
 「3・何がもっとも貢献できるのか?」
◎ 方法はまったく関係ありません。「情熱」さえ注げれば、
 方法は必ず現れるのです。どんな状況でも常に「道はある」のです
◎ お金とはあなたが社会に「どういう貢献をしたか」の証明なのです。
 そして、豊かなマインドとは、「先に貢献し、そのあとでお金をもらう
 というマインド」なのです
◎ ビジネスをスタートするのに「お金」は必要ありません。
「よりよい質問」を自分自身に投げかける必要があります分 それは、
「どうしたらより多くの価値を加えることができるのか?」という質問です。
―――
▼ 成るほど、上手くいっている時は、上記などの法則に当てはまり、
 丁度よい塩梅で油断をしている時に、突然、想定外の事変で、転覆するのが
事業、いや人生のなりわい。幼児のときから、両親に規模は小さいが、起業
経験を、聞いてきた割に小さく縮んでしまった。でも、45年間の物語が、
そこにあった。何より良かったのが、『時間』と『閑』があったこと。
そこで、ふやけてしまった結果が、これだったが。人間の型だけは?
・・・・・・
4932,コトの本質 −2
2014年09月15日(月)
 * 未知の外界に接し、子供のように興奮する!    
                 『コトの本質』松井孝典著
現在の毎日が、まさに〔未知の外界に接し、子供のように興奮する日々〕。
45年間の事業も、その日々だったし、秘境ツアーも同じ。 現在も、
その延長にあるためか? 毎日が充実をしている。 ーその辺りからー
≪ 大学という環境で、私はいつもエネルギーが高い状態を保てます。
 歳をとると、普通は、だんだんその状態から落ちていくわけです。
安定した軌道上に落ちてしまって、変化がなくなってくる。引退するときに、
よく、刺激を受けなくなったとか、燃えなくなったとか、モチベーションが
なくなったとかいいますが、同じこと。私は、脳の内部モデルを更新していく
ということが、無性に楽しいわけ。毎日のように、生命や地球、太陽系、
銀河系、宇宙について、次々といろんな新しいことがわかるわけでしょう。
タイタンに探査機が軟着陸して、探査するとか、どんどん未知の現象が眼前
に飛び込んできます。それについてどう思うか、考えさせられているわけ。
夢中になります。わくわくします。子どもみたいなものです。未知の外界に
接して、興奮する日々を送る。本当は、そのような機会をより多く与える
ことが子どもの教育にとって必要なことなのです。他と接することによって
おのれを知る。これが教育の基本です。いまの教育に欠けているのは、まさに
その点です。それが欠けているから、自分を持たず自分の頭で考えられない、
ろくでもない子どもが育ってしまうわけで、ほんとは、子どもというのは
そういう環境下におくべきなのです。外界と接し、境界を拡大することに
よって、自らを知るわけです。それが、おのれとはなんぞやを認識すること
でしょう。そのような経験を通じて自己ができてくると、初めて自分の頭で
考える、あるいは自分の意見というものがいえるようになる。さらに、
どこまでこの意見は通用するのか。それはここまでしか通用しないとか、
いろいろなことを経験して、普遍性、あるいは世間を知ったうえで、
さらに深いレベルで自分の判断ができるようになるわけです。
 成長するということは、ここまではわかっているという、外側の境界を、
いつでも広げ続けていくことですから、毎日が楽しくてしようがないはずです。
新しい事象に接することで、その境界が広がっていくわけです。ここだけの
領域でしか通用しないことが、あ、ここでもそうなんだ。さらにここでも
そうなんだ。 ・・・≫
▼ 著者の本を何冊か読んで、ここでも、紹介したことがあった。宇宙の彼方
 から逆照射の視点で見直し、 地球をシステムとして捉える。そして、
その一つとしての人間圏を改めてみると、気がつかなかったことが、見えてくる。
まさに、地球を支配しているサルが、その自然圏の資源を使い放題で、破壊を
している。綺麗ごとを言っている私も、その恩恵を受けているサルにすぎない。
未知の外界は漆黒だが、光を当てると?
・・・・・・
4565, 2050年の世界 ー6
2013年09月15日(日)
     「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」
                〜英『エコノミスト』編集部 (著)
  * 第十九章 距離が死に、位置が重要になる
《 テクノロジーが距離を葬った。通信費は限りなく無料に近づき、様々な
 ソフトウェアーでこれまで以上につながるようになり、‘どこにいるか’が
かってない程重要になる。》 これは10年前から現在に遡って言えること。
その何処かにいるのかさえ、重要で無くなる可能性がある。
大相撲やプロ野球の観戦も、現場より居間の大型TVの方が面白くなりつつある。
その意味でグーグルアースは、ますます重要な位置を占めてくる。
   ー第十九章のまとめーより
・『エコノミスト』誌編集主任だったフランセス・ケアンクロスは一九九七年
 に『距離の死』という本を書き、そのなかで通信費が技術革新で安くなり、
 距離は障害ではなくなると予言したが、二〇一一年現在の時点でそれは
 現実になりつつある。
・一九九七年には、アメリカと欧州の電話料金は、一分あたり平均で八一セント、
 二〇一一年には、スカイプを使えば2セントですむようになった。
・国際間のテレビ電話会議とも言える「テレプレゼンス」はすでに商業化
 されているが、今後はそれが家庭に安価に進出していくだろう。
・携帯電話に搭載されるさまざまなソフトで、距離はさまざまな分野で意味を
 なさなくなっている。テキストメッセージで現金を移動させるモバイルマネー
 もそのひとつ。 そういうサービスで最も成功した一例が、二〇〇七年に
 ケニアで始まったM-PESAだ。
〔 *(M-pesa、エムペサ)とは、ケニアにおいて人口の約3割(1,300万人)
 が登録 するほど普及しており、銀行口座を持たない貧困層の金融システム
 へのアクセスを可能 にしたとして名高いSafaricom社のモバイルバンキング〕
・典型的な発展途上国で百人あたりの携帯電話台数が一〇台増えれば、
 GDP成長率を○・八ポイント押し上げる効果がある。
・ウェブ空間上で、人の集えるソフトは、専制的な政府が集会の自由を圧迫
 しているときも、それを迂回できる道を提供した。
・距離が意味をなさなくなったことを利用し、各地域、各文化圏の労働力、
 技術力の特長を生かした国際分業がやりやすくなった。そのぶん、どこで何を
 する、という位置が重要になってきた。開発の得意なシリコンバレー、スペック
 をもとにプログラミングをするのが得意なインドのバンガロール、厳格な運用
 システムを創ることが得意なドイツ、といった具合である。
・常時接続の世界により人々は互いに話すことに興味を失ったように見える。
 市場調査会社二ールセンによると、アメリカでは携帯電話の加入者が自分の端末
 で話す時間は、二〇〇七年からの四年間で、一カ月あたり一〇〇分以上短縮され、
 七〇〇分になった。
▼ネット社会が世界を覆い尽くし、それが全てを変え始めているが、その行方は
誰も知る由がない。それが距離より、それぞれの立ち位置を重要にさせていく。
家族や隣人より、ネットで継った友人が優先されるネット社会が現にきている。 
そうこう考えると、「自分」「私」の哲学的問題も出てくる。  
「ネットで継った私は何者だろうか?」「ネット社会とは何?」


6027,死の恐怖は観念でしかない

2017年09月14日(木)

明るく死ぬために  〜3、

   * 死ぬということは
「余命数ヶ月」と告げられた作家が、病院の帰路、都内の駅前の喫茶店から、
雑踏を眺めて、「自分が死んでも、彼らは、そのまま、生き続ける!」と氷つく
孤独感そのままを書いていたのを憶えている。哲学者は、これを観念のなせる
虚構とという。死ぬのを恐れるのは、愛する家族との永遠の別離。プッツンの
瞬時、「私」なるのが消えるため、「自分が死ぬ」という言葉が成り立たない
のは自明のこと。一人称の自分が死ぬわけがない。雑踏の通行人が、そのまま、
生き続けることも当人の思い込み…  中島の、<私が住んでいる世界、私が
見ている世界は「このようにある」のではない。 客観的世界のあり方と、
「私がある」というあり方は全く異なる>の言葉に、「独り死にいく恐怖は、
長年かけて作られた観念でしかない」と…。とすると、寂寞の観念そのものが、
自分を孤独地獄に落しこんでいることになる。「明るく死ぬためには、いずれ
死ぬ? そして永遠の彼方に消し去られる「私」と、「他者」の問題を直視し、
問答を続けなければならない。 「存在」と「認識」そして「死」の命題が、
年々、面白く、かつ切実になってきたのは、背後から正面に周ったため?
【 〜2004/10/02
  1278, 人生(時間)のセイムスケール−2 より〜
★「線路を走る列車のように、人生は見えないレールの上を走っていく。
 そして、終着駅が近いと知ったとき、〈別の人生もありえたのでは〉
 と夢を見る。しかし、列車を乗り換えることはできない」
                       (田中 誠)
★「我が命は地球より重い。他人の命は犬より軽い」
                       (山田風太郎)
★「人は生まれ、苦しんで死ぬ。人生の要点はそれでつきている」
                       (正宗白鳥)
★「みんないう。いつか死ぬことはわかっている。
 しかし、「今」死にたくないのだ」      (山田風太郎)

★「幸福な人々の死だけ悼もう。つまりごく少数の人々だけを」
                        (フロベール)
★「---いろいろあったが、死んでみりゃ、なんてこった、
 はじめから居なかったのとおんなじじゃないか、みなの衆」
                       (山田風太郎)

★「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」
                     (橋本多佳子)
★「死が生にいう。
〈おれはお前がわかっている。しかし、お前にはおれがわかっていない〉」
                     (山田風太郎)

★「昔の死は、人が、死にゆく人物を演技する喜劇的な悲劇であった。
 今日の死は、人が自分の死ぬのを知らない人物を演技する悲劇的な喜劇」
                     (フィリップ・アリエス) 】
―
▼ 『("^ω^)・・・ 御あとがよろしいようで、はい、さようなら!』
(こう言い残し、七転八倒をして死んで逝きたいが、私のは「畜生め」入り?)

・・・・・・
5661,『エゴの力』�� 〜総論・B
2016年09月14日(水)
               『エゴの力』石原 慎太郎 (著)
  ネット上の解りやすい概略を検索すると、アマゾンの投稿に、最適なのが
あった。エゴを、「人間の感性の発露以外の何ものでもない」「己の好きなこと
を通じてエゴを磨くこと」と著者はいう。それらから考えると、私の秘・異郷を
中心とした旅行で磨いた感性は、確かに人生を変えた。回数を重ねるほど、
『エゴの力』が増したことになる。好きなことを継続するほど『エゴ』が強く
なる。それが個性である。
    =アマゾンの投稿=
≪ 本書で、「人間の強さとは何かといえば、その人間の備えた個性の力」
(100p)というテーマを中心に、エゴについて語っている。石原さんほど
老成しているわけではないが、私も50歳を過ぎ、このテーマには賛同する。
 石原さんは冒頭、「エゴとは人生を左右する力、人間の個性。個性とはその
人間の感性の発露以外の何ものでもない」(4p)と定義し、織田信長、東郷
平八郎、出光佐三などの行動を引き合いに出し、成功の裏にはエゴの発露がある
ことを紹介する。そして、松下幸之助の言葉「経営には勘が必要だが、勘だけ
ではだめだ。またデータ、コンピューターだけではだめだ。資料をいくら重ね、
データをいくら分析しても限界がある。経営に成功するための原則がある。
その原則のなかで絶対必要条件ともいえるのは経営の哲学、経営理念や志だ」
(46p)を引用する。
・第2章では、恋愛とエゴについて語る。『八百屋お七』『娘道成寺』を引合いに、
「男のエゴの虚弱さというものを、またある意味で人間の備えた弱さを示す象徴
かもしれません」(81ページ)と解説する。 また、明治維新の功労者や太平洋
戦争の英霊達にもエゴを見いだすという。古今東西の小説や歴史上の人物に典拠
を求めるあたりは、いかにも石原さんらしい展開である。
・第3章では、趣味であるヨットを通じて、好きなことを通じてエゴを磨くことが
できると語る。
・第4章では教育や就職について語り、「他者との関わりが自分のエゴ、自我を
切りつけ、損なうことの端的な事例は間違った教育、あるいは間違った躾による
ものが実に多い。特に躾・教育は幼年から始まって成人になるまでの、まだ自我
が確立される前の未成年の段階で一方的に行われる作業ですから、その影響は
極めて容易だし、また大きなものがあります」(148ページ)と指摘する。
・第5章では田中角栄による金権政治を振り返り、「お金というものは決して
ただのお金ではなしに、人生を左右しかねぬ、その使いようによって極めて
貴重で微妙な人生のための小道具」(213ページ)と語る。
・最後に、「世界がアメリカンスタンダードで統一されることはありえない
のと同じように、人間全体に統一規格があてはまることは絶対にありえない。
それと同じように、それぞれの強いエゴを備えている人間たちに人間の
スタンダードがありうるはずはありません」(217ページ)と結んでいる。≫
▼ 遺伝子の研究から、「生命の本質は利己主義の発露にあり>、と言われる。
 生命は、単独では生延びることが出来ないため、仲間を利するしかない。
だから、尤もらしい理屈をつけて、他のため、生きると社会正義と論じる。
成るほど! 自分に力がなければ、他を助けることが出来ない。「興産あって、
恒心あり」。特に人間は、「利己は生命の本質と認め、他利を加える必要性」
がある。男女間のエゴの発露は、人類最大の永遠のテーマになる。

・・・・・・
5296,『自分を超える 5つの法』とは 〜『自分を超える法』ー��
2015年09月14日(月)
             ー『自分を超える法』ピーター・セイジ著ー
   * 『自分を超える 5つの法』とは
 自分の長期目標を掲げて、そのための宣言書で明文化をして、それに精進
していけば、日々、自分を超えることになる。そこに自ずと3C主義=
チャレンジ(挑戦)、チェンジ(変化)、コンペティション(闘い)が生じる。
それは現役である限り続くが、楽しむことが出来るかどうかが鍵となる。
  〜その5つの法則とは
法則1: 成功の心理学(「人間の6つの欲求」こそが、人間の行動を突き動かす
  安定感のニーズ 多くの人は何かを求めるとき「安定感」を基準にしてしまう
法則2: お金のつくり方(お金持ちになるダントツの方法は「ビジネス」
  お金とは、「社会への貢献度」を示す指標 ほか)
法則3:リーダーシップを高める(「リーダーシップ」は育てたリーダー数で
  決まるリーダーシップを発揮するカギー 「基準を上げる」 ほか)
法則4:世界観をつくる(自分に「力を与える世界観」をつくり上げる
「成長」と「貢献」が世界観をパワフルにする ほか)
法則5:10倍強くなる文章術(すべての人にとって「文章を書くこと」は、
    最重要の項目である
  コピーライティングは「創造力を高めた状態」で行なおう ほか)
  ――
   * まずは、法則1:の「成功の心理学」より
「人間の6つの欲求」こそが、人間の行動を突き動かす。
  〜そのニーズ(欲求)とは
1、安定感のニーズ
 :多くの人は何かを決めるとき「安定感」を基準にしている。
2、不安定感のニーズ
 :人生の質は、あなたが居心地のよさを感じられる、不安定の量に
  正比例する。 行動のさなかでは、恐怖は消える。
3、重要感のニーズ
 :真の「重要感」を持った人とは、使命を帯びた偉人である。
4、愛とつながりのニーズ
 :すべての出発点は「自分が自分を十分に愛すること」である。
5、成長のニーズ 
 :すべての生物は、成長し自分以外のものに何らかの貢献をする。
 大きな「成長」を得るには、大きな「失敗」は不可欠である。
6、貢献のニーズ
 :「力(パワー)」とは、世の中に貢献したいという思いの強さに
 正比例して与えられる。
  〜法則1 のまとめ〜
◎ 人生の質は、あなたが居心地のよさを感じられる不安定量に正比例する
◎ 行動のさなかでは.恐怖は消える
◎ 真の「重要感」を持つた人とは.使命を帯びた偉人
◎ すべての出発点は「自分が自分を十分に愛すること」
◎ 大きな「成長」を得るには、大きな「失敗」は不可欠
◎ ー力(パワー)とは、世の中に貢献したいという思いの強さに
  正比例して与えられるー 
▼ どうしても人間は、不安定より安定を優先するが、これが間違いの元。
 ブッダが亡くなる時に、「この世の中の ことは、すべてのことは移ろい
ゆくものである。従って怠りなく努めなさい」という言葉を残した。
自然界にも、人生にも、「確実なこと」など何もない。あるのは変化だけ。
 人生には、「変化と、刺激」が必要である。とすると、そこには、
不安定が伴うが、その量に比例して質が上がっていく。安定過剰の
ヘドロ人間は大よそ8割と見てよいが、それこそが娑婆である。
「したい時が、やれる時!」。その時にしておかないと、ゾンビになる。
しかし、変わりゆく世界の中にあって変わらないもの、それを つかんだ人間
が、世界の、人間の、本当の意味をつかむことが出来る。それは逆に変化
の中にこそ、現れ出てくる。 何か仏教めいてきたか! 
・・・・・・
4931,コトの本質 −1
2014年09月14日(日)
  * 喜びの根源とは ー魂の響き!  〜『コトの本質』 松井孝典著
〈 我を絶えず外界と衝突照合させ、そこで内部モデルが一新されるときの
 快感はたとえようもない 〉という著者の切り口が新鮮である。
それが人生では、挫折とか転進などの節目に生じるアップスケール(脱皮)
の時に生じる喜びになる。それと、壮大な自然の出会いの感動や、芸術の強振
の感激も同じである。「この感動は人生の大きな節目になる!」という感動が、
まさに新しい内部モデルである。秘境先のリアルな光景に感動して、魂に刻み
つけ、バーチャルになる一連が、私のライフワークの秘境ツアー。 
そのバーチャルと、TV番組の行先のバーチャルが重なって感動が蘇える。 
ーその辺りからー
≪ リアルとバーチャルとか言いますが、とりあえずリアルと呼んでいるもの
が外界と考えていいでしょう。意識に拘らず在るもの、といってもいいでしょう。
内部モデル的に整理されものが、バーチャルです。それは、リアルとは違います。
それはモデルですから。リアルというものをどう整理するか、というのは、
内部モデルの在り方に関わります。すっきり整理された内部モデルでは、
背後にあるものがすべて見えます。「ことが見える」という表現の中に、内部
モデルのすっきり感があるわけです。外界を投影した内部モデルの中で、
めいりようで、リアルな外界の構造が、明瞭に位置づけられるということです。
 生きていくということは、交わるということです。我というもの、これは
大脳皮質の中に内部モデルとしてつくられるのですが、それは、外界と関わる
ことによってつくられることになります。外界と関わることで、内部モデルが
つくられるわけですから、我という概念すらも他と交わらなければつくられ
ません。我、あるいは自分というものは、最初からあるものではないのです。 
人間の生においては「我とはなんぞや」というところの我の概念が生まれて
こなければ、何も始まりません。外界、他と交わって、最初に生まれるのが、
我という概念です。他という認識があり、我という認識が生まれる。他と我。
これはペアになっている概念です。
 三歳くらいの幼児の脳の中で、外界という他を認識することが起きる、
と考えられています。他を認識したその瞬間に、それを認識している自分と
いうものができます。そういう段階から、絶えず外界を認識する作業を経て、
その瞬時、瞬時につくられているのが、脳の中にできている内部モデルです。
我ができたあとは、まさに他と時々刻々関わることによって、内部モデルを
構築していく作業が、生きるということになります。その瞬間、その瞬間は、
それまでに構築された内部モデルとその瞬間毎に入力される情報を照合させ、
修正したりしながら、内部モデルを変えているわけです。そうやって内部
モデルができ、変容していく過程すべてが、生きるということです。
私は、考えることを仕事としたいと思いそれを続けているようなものですから、
学生時代からずっと考えるということとは何なのか、それを考え続けています。
自分という対象を、外から見て分析すると、これまで構築された内部モデル、
それが私の人生と考えています。私をいいかえると、私の内部モデルが
それで、あなたというものをいいかえると、あなたの内部モデルがそれです。≫
▼「外界がリアルで、それが、内部モデルに整理されたものがバーチャル」は、
分かりやすい! 毎日書いている、この随想日記は、リアルをバーチャルに
かえていることになる。過去の文章を振り返ると、実感として納得する。
リアルは消えるが、バーチャルは映像、言葉としてリアルの一端を残す。
だから、バーチャルを侮ってはいけない。リアルとバーチャルは裏表。
そのバーチャルは、書換え可能ときているから複雑になる。
  ー偶然だが、以下の文章に続くー
・・・・・・
4564,変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー1
2013年09月14日(土)
       『変えてみよう! 記憶とのつきあいかた』高橋 雅延 (著)
  * 豊富な知識、旺盛な好奇心の必要性   
‘無意味なものを意味づけるために必要なものは何か。
  それは知識だ’が納得出来る。
≪意味づけこそが記憶の秘訣であるということは、並外れた「記憶力」を示す
 工夫からもうかがい知ることができる。たとえば、どこかできいたことがある
かもしれないが、円周率を何万桁も覚えているという日本人がいる。円周率は、
小数点以下、無限に続く意味のない数字の羅列だ。この円周率を一〇万桁以上も
暗記しているのが、原口謹さんだ。かつて私は、この原口さんと、五四歳のとき
に円周率四万桁の暗唱記録を打ち立てた友寄英哲さんの記憶能力について調べた
ことがある。その結果、二人の基本的な記憶能力は、同年代の人たちとそれほど
ちがいはなく、特殊な才能は何一つみられないことがわかった。
しかし、その代わり二人とも、日本人にはおなじみの、「語呂合わせ」を使う
技能に長けていた。つまり、何万桁もの円周率も語呂合わせで覚えていたのだ。
語呂合わせは、端的に言えば、数字の羅列のような意味のないものに意味づけ
することだ。原口さんも友寄さんも、けっして若いとは言えない年齢であるにも
かかわらず、並外れた「記憶力」を示すのは、二人が意味づけという記憶の
秘訣を使っているからにほかならないのだ。もちろん、何万桁もの数字の語呂
合わせをつくり、それを完壁に覚えるまで繰り返した努力を忘れてはならない
のだが。では、無意味なものを意味づけるために必要なものは何だろう。
それは知識だ。知識が貧弱だと、深い理解はできない。逆に豊富な知識をもって
いると、まったく理解できないような事柄であっても、自分の知っていること
との類似点をみつけるなどして、意味づけが可能になる。たとえば、難解小説を
読むときに、作者の生育環境や交友関係などを知っているとよく理解できること
があるが、これが知識による意味づけの一例だ・・
 ここで重要なことは、知識が増えれば、その後新しい事柄に出くわしても
その意味づけが可能となり、記憶に残る。ひいては、新たな知識として頭の中に
加わるということだ。つまり知識が増えるほど、新たな事柄の意味づけがより
多面的にできるようになり、知識に加わりやすくなる。よい循環が生まれるわけ。
逆に知識が乏しければ、新しい事柄も記憶に残らず、いつまでも知識は貧弱な
ままという悪循環に陥ってしまう。一六世紀から一七世紀にかけて活躍した
ベーコンは「知は力なり」と言ったが、まさに記憶にとって、知識は力なり」
なのだ。原口さんも友寄さんも、会って話をしたときに一番強く感じたのは、
もっと新しいことを知って、知識を増やしたいという、旺盛な好奇心をもち
続けているということだった。つまるところ、彼らの記憶力の秘訣である
多面的な「意味づけ」は、旺盛な好奇心あってのものだということなのだろう。》
▼12年以上も随想日記を書き続けて、これにエネルギーを費やしていること
に疑問を持たないことはない。反面、この御陰で人一倍の旺盛な好奇心を持ち
続けている利点がある。さらに記憶媒体になる上に、公開することで、情報と
知識のギブ・エンド・ギブにもなる。印象に残った読書内容を感想と共に
「起承転結」でパックにすることで、自分の知識として残すことが出来る。 
知識が増えた分、新しい事柄や知識に出くわした時、その意味づけが深くなり、
記憶に残る。少しキツイが、私にとってベストの習慣になっている。
続ければ続けるほど、自分の底の浅さに愕然とする。


6026,リベラリズムとは

2017年09月13日(水)

    * リベラリズムとは
 最近、いやにこの言葉を見かけたり、聞いたりする。
そのまま解釈すると「自由主義」になるが、欧米では、<富の再配分などを
通して経済的な弱者を救済し、福祉国家的政策を支持する立場>をいう。
自由主義を主張するロールズにとって、<ベンサムの功利主義の弱点を克服
するために、自分が男か女か、白人か有色人種か、健常者か否かなどが分から
ないことを前提とした「無知のヴェール」を皆なでかけた状態で、どのような
社会を作ればよいか考えるべき>と主張した。 
 その為にロールズは、3つの原理を導きださせると考えた。
・1つが、「基本的自由の原則」で、個人の自由は原則的に保証され。
・2つ目が、「機会均等の原則」で、公正な競争の機会は平等でなければとし、
・3つ目が、「競争による格差調整の原則」。これは、最も不遇な人々の生活
     が改善され、調整されなくてはならないとする原則。
自由主義とはいえ、再配分を前提としなくては、不平の充満が爆発を誘導する
からだ。これに批判を加えたのが、ノージックで、<税金を集めすぎて富を
政府が集中すると国家権力が肥大化してしまうと考えた。国家はあくまで、
暴力、窃盗、詐欺などの侵略行為を防ぐにとどまる最小国家であるべき>と。
この考え方は「リバタリアニズム(自由至上主義)」という。これに対して、
サンデルはリベラリズムをリバタリアンとは違ったカタチで否定、批判した
のが、「コミュニタリアズム」である。<自分のコミュニティの倫理や習慣を
重視して暮らすべし。個人のアイデンティティは育った環境や、共に歩んで
きた仲間と切り離して考えることはできない> と、考えるに至る。
白人でもないし、黒人でもない自分は、生まれ育った場所、仲間が一番好き!
という素朴な心である。トランプ大統領の「白人第一主義」も、これに近い
のか? トランプは、アメリカ独立の理念を根こそぎ否定するから、自滅は
時間の問題としても、数年は要するから、困ったもの。「リベラリズム」の
キーワード、ひとつとっても、これだけ奥行きが深くなる。 この隙間に、
チンケの軍事独裁国家に好き放題にされるから、問題深刻である。
「基本的自由の原則」「機会均等の原則」「競争による格差調整の原則」など、
絶対的権力者にとって軽く全否定される戯言でしかない。そこは未だに、
臨戦の世界。これもまた、文明の相剋ということになる。スターリン、毛沢東、
ヒトラーも、知らない間に気違いに変貌してしまうが、絶対権力はそのまま。
数百万、数千万の大量虐殺に至る。50〜100年スパンで考えると、その時節に
到着しつつある? 人類の将来を考えると、人類の半分か、三分の二が、淘汰
され、生き残った三分の一が、新たな文明を立ち上げた方が?という悪魔?の
思想もあって然るべき。 それが21世紀とすると、特に今世紀前半は、過酷な
時節になるとしたら、第二次朝鮮戦争勃発も何ら不思議ではない。
国家を持たないクルド族、ジプシー、かってのユダヤ民族が、いかに悲惨か… 
リベラリズムもいいが、国家あっての国民ということを忘れないことだ。

・・・・・・
5660,閑話小題 〜シネマ評 『ウフィツィ美術館』 〜��
2016年09月13日(火)
 フィレンツィに3度行き、その都度、ウフィツィ美術館を訪れている。
フィレンツィの観光コースに必ず含まれているからである。現地ガイドの説明
を聞き、生の名画をみるのも良いもの。見る度に、それぞれの名画が身近に
感じられてくる。この映画では、その名画と、フィレンツィの街並みが撮影
されている。その映画なら見ない手はない。で、予想とおりに、3D・4kの迫力
ある映像に圧倒された。 現地の慌しい人込みで、説明を聞きながら、一作品
に数分しか凝視できない名画を、シネマ館でジックリと観る醍醐味が良い。
現地で観る本物より、デジタル加工された立体的な画像が生々しく迫ってくる。
ある意味、現地の本物を観るの変わらない?というと、大げさか。TV番組で、
その作品と、解説を何度か、見聞きしてきたことも、そう思わせるのだろう。
  〜シネマの映画案内より〜
《 日本×イタリア 国交樹立150周年を迎える記念すべき年に“イタリア・
 ルネサンス絵画の 宝庫”ウフィツィ美術館と世界遺産の街フィレンツェを
 世界最高水準3D・4Kテクノロジー で撮影した本美術ドキュメンタリー! 》
《 花の都フィレンツェ。そうつぶやくだけで、うっとりとした気分になる
 美術ファンは多いはずだ。ウフィツィ美術館を始め、市内の教会や美術館、
広場のそこここに珠玉のルネサンス美術が顔を出す。その背景には銀行業で巨万
の富を蓄えたメディチ家の存在があった。当時、いくつかの共和国に分かれて
いたイタリアでフィレンツェ共和国の実質的な支配者となり、後に教皇まで
輩出し、中世ヨーロッパで権勢を誇ったキリスト教世界のトップにたった家柄だ。
 ロレンツォ・メディチを始めとするメディチ家の人々は、自らの為政の場や
住まいを飾るためミケランジェロやダ・ヴィンチ、ボッティチェリらに絵画や
彫刻を依頼する。教会にも布教のための壁画を寄進し、壮大なドームを備えた
聖堂を建てる。こうしてわずか2キロ四方程度のエリアに巨匠たちの至宝が
ひしめき合う、それ自体が一つの美術館であるような街が生まれた。
 本作ではウフィツィ美術館が収蔵する傑作の数々のほか、サンタ・マリア・
デル・フィオーレ大聖堂やシニョーリア広場、国立バルジェッロ博物館などに
並ぶ至高の絵画や彫刻、建築を高精細3Dで見ることができる。なかでも2011年
から修復が進められてきたレオナルド・ダ・ヴィンチ「東方三博士の礼拝」が
映像では初公開となるのに注目だ。またフィレンツェ・ルネサンスの代表作と
いえるボッティチェッリ「春(プリマヴェーラ)」「ヴィーナスの誕生」、
ミケランジェロ「聖家族」、ラファエロ「ひわの聖母」などの作品群も
じっくりと堪能できる。世界遺産の街、フィレンツェの花が文字通り咲き
誇る映像は最初から最後まで見逃せない。》
▼ 現地の作品の前では、まず作品に集中し凝視する。そして、作者と、
 その作品の背景を知る。それは、TVや、写真集を再び見た時のため。
現物からの波動は、作家の魂の波動である。それに反応する心が感激と感動。
そのために、短時間でも、心を集中し凝視するしかない。
 人生とは、感動と感激と畏敬の念、で織成す連続体である。
それを作品で表現するのが芸術家。世界は広くて、深い!そして、面白い!

・・・・・・
5295,閑話小題 〜慎太郎と佐々の死生観の対話
2015年09月13日(日)
       文芸春秋2,015年7月号特集「老いと健康の危機管理術」より
   * 信長の死生観には共感するね
 図書館で立読みをしていたら、石原慎太郎と佐々淳行の対談の、「老いと死」
についての以下の部分にひかれて借りてきた。80歳を過ぎた、お二人の諦観が
滲み出ている内容である。      
佐々: 私は、自分の家で死ぬつもりでいた。だから少し無理をして、
 鉄筋で三階地下室付きという家を建てたんです。自分の部屋で死んで、
葬式も自分の家から出そうという、前近代的なお葬式観だった。
そのための部屋も作ったし、お客さんの誘導路まで考えた。
家族と別れて暮らすなんていうことがあり得るとは思っていなかった。
ところが周りを見ていると、‘お葬式は身内で密葬をやって、あとで
ホテルとかどこかの会館で偲ぷ会って'いうのをやる。これが定着した。
石原:俺は遺言に「葬式不要、戒名不要。我骨は必ず海に散らせ」と書いた。
 去年出した『私の海』な(幻冬舎)には辞世
(「灯台よ汝が告げる言葉は何ぞ我が情熱は誤りていしや」)も載せた。
佐々:僕もかなり考えが変わったよ。でも、葬式無用っていうのは、ちょっと。
石原:僕は信長が好きなんだけど坂口安吾の『織田信長』っていう短編の
 エピグラフに、信長の愛唱した小唄があるのよ。信長といえば『敦盛』の
「人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり一度生を受け滅せぬ者の
有るべきか」でしょう。僕は知らなかったんだけど、安吾が引用しているのは、
「死のふは一定、しのび草には何をしよそ、一定かたりをこすよの」と」いう
小唄なの。「かたりおこすよの」がわからなくて、ある国文学者に聞いたんです。
そうしたら「おこす」は、おこがましいの「おこ」で、「人が死んだあとに
皆な勝手、なことを言いやがるけど、死んだ人間にとってはバカみたいな話だ」
という意味なんだな。痛烈なニヒリズムですよ。信長は徹底したニヒリスト
だったんだね。偲ぶ会をやったり追悼記を出すなんていうのは、その信長の
小唄と同じことで、いまさら何を言ってるんだということですな。
佐々:でも、お別れ会さえやらないで、さよならも言わずに去っていくのもね。
石原:僕は敬愛した政治家はめったにいないんだけど、賀屋興宣という人には
 私淑したんです。無類の財政家で、日本で初めて統制経済をやった人です。
戦前に大蔵官僚から政治家になって、A級戦犯で服役したあと、政界に復帰。
晩年に賀屋邸へ行ったら、髪も真っ白になって、サンルームで瞑想されていた。
「先生、何をお考えですか?」と訊いたら「人間が死ぬというのはどんなことか。
興味があるので一生懸命考えている」。「それで、死ぬってどんなことですか?」
「いや〜死ぬというのはつまらないね。私はだんわかってきた。死んだら、
一人で暗い道を黙って歩いていくんですよ。そのうち、葬式で泣いて送って
くれた家族も私のことを忘れてしまって、世間も忘れる。第一、彼らも忘れなきゃ
やっていけませんからね。それだけじゃなしに、自分が自分を忘れちゃうんです。
来世なんかありませんよ、石原さん。だから死ぬのはつくづくつまらないですね」
と言って、小さく笑うんだよね。すごいニヒリズムだと思ったね。
この段になってくると、そんなことを思い出しますな。 ≫
▼ 佐々が入った、介護つき有料老人ホームに、石原が訪ねて行われた対談。
 自宅に近く、三食昼寝付きで、何でもやってくれるそうだ。中産階級?向けで、
商社の支店長とか、サラリーマン社長だった人や、旦那がいるが、面倒を見切れ
ない奥さんだけが入っているとか。リハビリは別だが、食費や光熱費を入れて
30万位という。「奥さんも一緒かと思ったが、少し費用が足りないのでやめた」
とか。最近、同年代のタレントが夫婦して入居したとかという話は聞いたが!
古希を過ぎると、どうも娑婆の景色が変わって見えてくる。
4930,パワレルな知性 ー8
2014年09月13日(土)
   * たけしの品格      『パワレルな知性』鷲田清一著
たけしの品格について、が面白い!たけしは、「この男はダメ!」がキャラ。
人間はすべからくダメな人間だが、それを良い人間、有能な人間のコスプレを
しているだけ。コスプレが、コスプレを笑っているのが娑婆の実態。 
これが分かってないから、世の中、他人が、歪んでみえる。
「歪んだのが歪んだのを歪んでいる」と今さら言うのが間違いの元。 
「たけしは、それを剥いだ有りのままを笑いで剥き出すことで、
己の品格を表現している」は、褒めすぎ?  ーその辺りからー
≪ 最後は言語学者らしくこう締める。 「『品格のある日本語』というのは、
 借り物ではなく、じぶんが一番よく知っている言葉で語られるものですよね。
方言なんかはとても品格がある」。つまり「品格」について語るその地声に
言い及ぶところに、金田一の衿持が現われでているとおもう。じぶんについて
語る言葉が信用できるかどうかは、語られるじぶんに対してどれほどの距離が
とれているかにかかっている。「離見の見」と高尚なことを言わなくてもよい。
何かについて語るとき、そのように語っているじぶんがどこから語りだして
いるのか、それについての明確な意識をもっているかどうかに、その言葉の
真はかかっている。何かについて語るとき、いつもどこか断片的であって、
語りつくさない。語りだすのは否応もなくつねに地上のどこかからであって、
語りつくすというのは、じぶんがこの地上のどこでもないある特権的な
場所にいると錯覚することである。 それこそ品格に欠けることである。
 これに対して北野武は、品格から外れることに自己の品格を賭けるという、
それこそ綱渡りをしてきた。いきなり北野はいう。「どうしようもない人」、
これがじぷんにとっての最高の誉め言葉だと。「人から、『あこがられている』
と言われると、失望させないように自らを律したりするじゃない? 
そういうのが大嫌いで、頼むからあきらめてくれって。『この人はだめだ』って
言わせるためにわざわざ変なことをやる。『どうしてそういうことをするの』
って言われるのが一番好き」。北野もまた、この世の価値序列から外れる
ところに「品格」を見る。「みんな社会的立場上、言えない部分があるけれど、
俺の場合、お笑いというジャンルが隠れみのになっていて、意外に好きなことを
言っちゃっている」。たしかに、「トツプには立ちたい」けれど、そしてそれは
「すごく下品」なことだけれど、同時に、「何をやっても勝てない相手がいる」
ことは身に沁みている。だからちゃらんぽらんと見えるほど、いろんなものに
手を染めてきた…。 首尾一貫していないこと、立派な「先輩」と見られたら
すぐにそれを裏切ること、つまりじぶんを模倣しないこと、そういう囚われの
なさに肩肘張らない自由を見る。ここにもなるほど、みずからへのクールな
距たりがある。その距たりを構えずにほのめかし、北野は最後にこうつぶやく。
「いつも何か考えているけれど努力して考えているわけじゃない。魚に
『アンタ、いつも泳いで偉いね』とは言わないじゃない?」じぶんが壊れる…。 
そういうあぶない場所にじぶんをもってゆきながら、かろうじて身を持す、
ぎりぎりのところでみずからを揺さぶることのない人に、「品」はぜったいに
訪れない。… ≫
▼「まあ、お笑いの、たけし、だから!」という免罪符を取ってしまって
いるから、今さら誰も非難できない。こうなれば、好き放題、言い放題。
週刊誌も、『たけしに愛人!』など、今さら誰も興味を示さない。
昔の芸人は、こういう人が多かったというが・・ いつも、あぶないところに、
自分を置いてきたので、いやに、同感する。じぶんが壊れる直前に、常に身を
呈してきたが、実際のところ、既に壊れていたのでは? 
 〜ところで、三年前の一連のイベントからこの方、ギリギリ生きて
こなかった人格に、あまりに多く出会った! 輩をヘドロという。              
・・・・・・
4563, 2050年の世界 ー5
2013年09月13日(金)
   「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」
                 英『エコノミスト』編集部 (著)
  * 予言はなぜ当たらないのか (第二十章)
  ー まずは要約部分よりー
・今から四〇年前になされた予言をみると、悲観的なものばかりで、
 その殆どが外れている、
・なぜ、そうした予言が外れるかと言えば、理由はふたつある。
 良いニュースは目立たず、人々の記憶に残りにくいからだ。 
 悪いニュースだけが残り相互に連関する認知のバイアスが人間に
 あるので、そういう予言をすることが受け入れられる。
・もう一つは人間が対策を講じることを無視するからだ。
・資源が枯渇する、食料が枯渇するというのは終末予言の典型的だが、
 「技術革新」よる「低価格化」を無視している。
・グローパル化による国際分業により、人々は、かってより遥かに
 安い値段で必要なものが手に入るようになった。
・1950年代には、平均賃金の人がハンパーガー1個の代金を稼ぐのに
 三〇分かかったが、今では三分だ。
・技術が人間の生活水準に作用するのは、技術が発明されたときではなく、
 何十年ものちに手ごろな価格の技術になったとき。
・バイオテクノロジーの発展によりその応用物が低価格化する。
 たとえば幹細胞をさまざまな臓器に発展させる技術は、移植医寮
 そのものを、低価恪化させる。また、癌治療もバイオテクノロジー技術
 の発見によって、癌ワクチンや遺伝子組み換えウイルスを体の必要な
 場所に送るという治療を大衆化させる。
・第二次大戦以来、全世界のGDP成長率がゼロを下回ったのはたった一年。
 それは2009年で、マイナス0・6%の成長率だった。
・先進国ではさまざまな形で実際に、森林面積が増えるなど環境は
 良化している。いまの新興国が先進国なみの経済水準になる二〇五〇年
 までに、これまで損なわれた環境が腹興するようになるだろ。
▼ 予言はなぜ当たらないのか? その状況で対応する「技術革新」
 が出てくるからだ。その中で情報機器と、バイオテクノの革新は、
 予測不能である。現に過去40年をみると肯けること。
 人間には、長期楽観、短期悲観が経験を通して認知バイアスとしてある。
 それが目先、悲観的な見方が受け入れられる。40年前の予測が悲観的
 過ぎたというのも大いに疑問である。ソ連は崩壊、米国も、衰退の坂を
 転げ落ちている。そして日本は、20数年前のバブル崩壊から現在にわたって
 惨憺たる事態。40年後を考えると、さらに酷くなるのは現在の状況をみれば
分かること。「現時点で予言不能の未来が待っている」ことだけは確か・・ 
 バーチャルと現実が混合した世界だろう! 今もそうか?


6025,明るく死ぬために ー2、ほどほどの人生で良いのか

2017年09月12日(火)

             ―「明るく死ぬための哲学」中島義道著―
   * 人生、ほどほど上手くいって死んではならない
・「人生、ほどほど上手くいっていた私が何故に?」 6年前の会社清算。
そこに至る直前の3ヶ月前までは、心の底では、思いもしなかったが、現実は
過酷である。 その答えは簡単、「事業を始めたから。一点集中に拘ったため。
バブルの波に乗り膨張、破裂しただけのこと。」 振りかえ見れば、丁度よい
引き時ということか。
・1990年のバブル崩壊は日本にとっての歴史的節目。応仁の乱、戦国時代、
明治維新、太平洋戦争の敗戦と匹敵する事態。 その上、21世紀初っ端の
9・11テロが文明の相剋(ユダヤ・キリストとイスラム教徒の争い)の号砲。
現在の中東の動乱で数百万人が欧州に難民として流出。ISによるテロが、
あいも変わらず続いている。同時に、数百年、数千年単位の、世界的大震災の
幕開けが重なっている。
・長岡空襲の廃墟の中、敗戦の5ヶ月後の1946年1月に生を受け、奇跡的経済
成長の環境下、「人生、ほどほど上手くいっていた」が、思いもよらない
「9・11テロ」・「リーマンショック」・「東北大震災」のブラックスワンの
到来。で、事業清算。 これらは、私にとって、陰陽の解釈が可能。
それは、「人生、ほどほど上手くいって死んではならない」というサイン?
せっかく頂いた80年の人生。 地球自らが創造した大自然の景観に数多く
触れることも重要だろうが、人類が知り得た真理を掘下げることも必要である。
・<「ほどほど上手くいく人生」は、寝転がってでも得ることが可能。
私たちは、いや私は、この「ほどほど上手くいった人生の虚構」を追い求めて
いたのでは。だから振返ると、全てが可笑しく、馬鹿しい姿が垣間見えてくる。
「人生、ほどほど上手くいって死んではならない」ということは、
「幸福を第一に求めてはならない、真実が第一で、幸福は第二にすべし」
ということ。哲学者なら当然のことだが、一般人は? 幸福第一ですか。
 たとえ話で、「地球散策の帰路の宇宙船内の回顧で、何と想うか」だ。
自己欺瞞がないではないが…
『 実に面白かった! 節目と、どん底。 数知れない旅先の〔至高体験〕。
 更にいうと、〔未知との遭遇〕! 』 

・・・・・・
4562, ポタリ、ポタリ、ポタリかな!
2013年09月12日(木)
 4月〜11月の8ヶ月間、毎朝一時間、4年続けて雨の日以外、合計
一万キロ以上も乗り続ければ、自らをポタリスト(ポタリング=自転車散歩)
と宣言してよいだろう。4年前になるが、「電動アシストのMTB
(マウンテンバイク)が、格安で、スポーツチェーン店から通販サイトで
売り出される」という新聞記事を読み買うことにした。そして乗って仰天! 
ママチャリを年に1〜2度しか乗ったことのない私が、その日を境に、
冬季間と雨天以外は、ほぼ毎日12キロは乗っている。 自転車で15分の
距離に信濃川があり、二つの大橋を一周して帰ってくると丁度一時間、
早朝の運動に最適である。ある本に、「江戸時代に舟に車輪をつけた陸舟車
というのが試作されたのが第一号」とあった。さしづめ電動アシスト自転車
を舟とすると、エンジン付きカヌー。手で漕ぐか、脚でペダルを踏むかの違い。 
この自転車に出会うまでは、自宅から300M先にある栖吉川の土手を30年近く
ウォーキングをしてきた。ところが、道路拡張工事で散歩道が数年間も交通
ドメになったタイミングに、電動アシストのMTBを購入。一気に、4キロ
程先の信濃川まで行動パターンが広がった。電動アシストのうえ、MTBの
車種が良かった。 軽くて、小さくて、小回りがきいて、6段変速ギア。 
変速ギアのついたスポーツ自転車も一度も乗ってないうえに電動アシスト。
驚くのは当然である。 東京在住の学生時代のゼミの後輩がカヌーの愛好家で、
数年前、車にカヌーを積んで新潟にきて、阿賀野川河口と、寺泊の浜辺で同乗
させてもらったことがある。それもヨットカヌー。彼の別荘が川口湖にあり、
長年、乗りこなしていた。羨ましいと思ったが、今さら私には無理。 
そこで、スポーツ自転車を陸のカヌーとみたて、電動アシストにすればよい。
早朝、電動アシストの力を借りて、信濃川の土手を飛ばすのも快感。 
乗っていると、自分がいかに軽く小さい存在で、空中遊泳をしているような
感覚になる。現在のものも限界に近づいてきたので、消費税のアップ直前の来春
2〜3月に、もう一台を買う予定にしている。クロスか、折りたたみのMTBか、
電動のついてない10数万の高級車か? それまで半年間の選定が楽しめる。
これを購入すると胸を張って、「古いMTBと、クロスバイクの二台を持って
いるポタリスト」と宣言ができる。車やオートバイで高級車といえば数百万だが、
自転車では、30〜50万も出せば超高級車、十数万なら高級車になる。
ーブログ内の検索で、以下のような文章があったが、時間の経過とともに
内容が濃くなっている。一つのキーワードで検索で過去分を拾うと、
書き遺した価値が味わえる。肌で風を切ると、頭が冴えてくるのも良い。
 低空の飛行艇のようにも・・・ 少しオーバーか!
・・・・・・
2013/07/29
スポーツ自転車の勧め! ー4               
   * マウンテンバイク    「自転車で痩せた人」高千穂 遙(著)
 私が現在乗っているのがマウンテンバイク。 舗装されてない山道などを
走るため、特徴は丈夫かつ軽快さである。ただ値段の安さに惹かれ買ったが、
私の毎朝のコースからみて、これがベスト。小さく軽いのがよい。
  ーそこで、ウィキペディアで調べると、以下のとおりー
《 1970年代後半にアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ郊外の
 マリン郡で、ヒッピー達がビーチクルーザーや実用車などに太いタイヤをつけ、
急勾配の山を下りタイムを競った遊びが始まりと言われている。同時期に
北カリフォルニアでも同じ遊びが発生していた。初めは手作りだったが、
一つのジャンルの大量生産で一般に広がっていった。MTBの定義は、
【 荒野、山岳地帯等での高速走行、急坂登降、段差越えなどを含む広範囲の
乗用に対応して、軽量化並びに耐衝撃性、走行性能および乗車姿勢の自由度等
の向上を図った構造の自転車のこと。舗装路でも広く利用されており、用途に
よって様々な形態が存在する。】である 》
▼ 以上だが、MTBはポタリングに手軽な自転車で、軽快さが良い。
 それとママチャリと同じく、普段の生活でも使えるマルチのところがよい。
親が、このタイプを少年用に買うことが多いこともあり、HCの自転車売場では、
丈夫でない見た目だけMTB風のチャリが並んでいる。そのため愛好家は「モドキ」
とか「ルック車」などと呼んでいて、良いイメージはない。その見分けは
デザインで直ぐ分かる。また「悪路走行禁止」と書いてあるのもある。
私のようなスポーツ車初心者に向き。 まずは軽く小回りがきき、乗りこなし
がスムースが入口になる。 次は、クロスバイクにするつもりだが、折畳み式
も捨てがたい。スポーツジムと、家でパソコンか、TVか、読書になりがちな
生活の中で、これはソロで出来る手軽な趣味になる。 早朝に加えて午後から
のポタリングの習性も悪くはない。それと現在、ジムや、図書館への移動に
使うことも考えてよい。趣味としてポタリングにするとなると、違った切り口
が出来てくる。それより、まず事故に気をつけなくては。これまで色々なMTB
を見て、デザインが違うとしか思ってなかったが、実は、使用目的が違っていた。
――
スポーツ自転車の勧め! ー3 ー2 ー1は、
字数制限でカット(バードウォッチにコピー)          
・・・・・・
2013/06/25
電動アシスト自転車に乗って、はや4年
 電動アシスト自転車を乗って3年8ヶ月になる。ーまずは、その時の文章より 
   ー3131,期待どおりの電動自転車 2009年10月31日(土) 
≪ 注文をしていた電動自転車が一昨日届き、昨日の朝、さっそく試乗した。
 自宅は長岡駅裏から徒歩10分にあるが、長岡駅前から歩いて20分のところ
にある大手大橋まで12分で着いた。信濃川を渡ったところのジャスコに15分、
ユニ系SCのアピタまでは20分。そして、その先にある長岡大橋から駅前近く
まで戻って、家に着いたのが50分後。万歩計をみると2500歩になっていた。
50分というと5500歩になるから、半分近くになる。疲れは、ウォーキング
と同じぐらい。 これまでは月に一〜二度ママチャリに乗るぐらい。
一日一万歩を目指しているので、自転車にはほとんど乗ることはなかった。
そのためスポーツタイプで、6段切り替えで、かつ一対二のアシストの
自転車を乗った驚きは大きい。一対二のアシストというと、人が一の動力を
かけると二倍の加速がかかる。自転車は発進時の加速と、登り坂に力を要する
が、その時にペダルに力が二倍加わるのは、何か異様な感がする。
コースは線路の下をくぐる地下道の登りとか、信号待ちの後の加速とか、
大きな橋までの登り坂とか、起伏がある。そのストレスがゼロで、平らの
道路でペダルをまわす時の加速も三分の一で済むのだから、非常に楽である。
 ところで、通販で注文して送られてきた電動自転車を組み立ててくれた
長男が「すぐに、盗まれるよ!」というのも分かる。小型のためボックスカー
に、簡単に乗せる事が可能だからである。一年ほど前に、家内に電動自転車を
買おうかどうか相談したら、「友達が買って直ぐに盗まれてしまった。あと
数年先がよいと思うよ」といって、買うのを止めた経緯もあった。
スーパーや、駅前などは当分は置けないが、その時はその時。≫
▼ これを書いた翌日から25年続けていた早朝ウォーキングを、ポタリング
(ミニサイクリング)に切り替えた。同じ一時間で、コースは東バイパスから、
長岡大橋を渡って、日赤前の土手を通って、大手大橋から、土手を走り、
長岡大橋に戻り、同じコースを逆コースで帰ってくる。 冬期間(12〜3月)
と雨天を除くと、ほぼ毎日、乗っている。大よそ、年に200日として7百回以上、
一日、14キロで1万キロ、地球を半周も走ったことになる。 スポーツチェーン
のネット販売で59800円で買ったが、中国産だが私にとって大当たり。
現在は値下げで49800円。もうボロボロだが、何とかあと一年使って買換える
つもり。まず故障するのはブレーキと、蓄電池周りの固定器具。
 パンクは三月に一度ぐらい。来年には、一ランク上のナショナルのものを
買うつもりだが・・ 自転車には、シティ、クロス、ロード、マウンテンタイプ
などがある。 私のは車輪の小さなマウンテンタイプ。来年の購入予定は
ナショナルのクロスタイプのもの、どうなることやら。iPodで音楽を聴き
ながらの早朝サイクリングは良い。雨が降ると溜息が出るほど。
最近の週末は天気の具合をみて、昼も同じコースを走っている。
・・・・・・
2013/03/27
閑話小題 −つれづれに
 * 先週から早朝の信濃川一周のポタリングを始めたが、ほとんど散歩する姿
はないのは寒いためだろう。分厚い手袋と耳あてをし何とか寒さを凌いでいるが、
日々暖かくなっている。慣れてしまえば最上の習慣である。 毎日15キロ、
一年200日として三千キロ。三年間で9千キロ走ったことになるが、自転車は
ボロボロになって当然。リチウム電池は、当初一回の充電で二日持ったが、劣化で
一日が限度。この買換は一年後の予定?だが、持つか?  あと一年で4年で
一万二千キロ、地球の4分の1周を走ったことになるのだから良しとするか。
 * 一昨日、カラスの交尾をみた。ポタリングの何時ものコースの通りの脇の
花壇にいたカラスに、小さなカラスが舞い降りてきて尾っぽを向けて羽根を
そば立てて小さくうずくまった。そこにオスが・・ 
メスからの求愛である。これで春の訪れを知るとは・・・
・・・・・・
2012/08/21
つれづれに
   * 大手大橋にて
 先週土曜日の早朝、何時ものようにポタリング(ミニ・サイクリング)の
大手大橋で、ヒキチャリをしながら歩いていると、後ろから声をかけたれた。
車椅子に乗った隻手の男性で、恐らく交通事故で右腕を根元から切断、下半身
麻痺で自走式車椅子。私の電動アシスト自転車に興味を持ち声をかけてきた。
電動アシスト自転車が如何に良いか説明すると、自分の車椅子が電動切替え式で、
背後に電動モーターがついていて時速6キロという。何度か薄暗い中、かなりの
スピードで走っているのを見たことがあった。人それぞれの運命と人生がある。 
ところが昨日の朝、いつものコースの信濃川の土手を走行していると、
屋根つきの休憩所で30歳前後の男女二人が、その電動の車椅子を畳んでいた。
本人は不在で、まさか聞く訳もいかないし、そのまま遣りすごしたが。
その前に何か(熱中症とか?) あったのだろう。ポタリングを始めて4年目
になるが、続けていると色いろある。そういえば、雀が少なくなった。
去年の大雨で河川敷の雑草地に水が使ったせいだろうか。
燕も少なくなった。多いのはカラスだけ。 
・・・・・・
2012/06/15
閑話小題 
  * 自転車のパンク
 4〜11月まで八ヶ月間、毎朝一時間もポタリングをしていると、
年に二回はパンクをする。たまたま土砂降りの時にパンクをし、ズブ濡れで
自転車を引いて帰って来たこともある。それも付きものと割り切っている。
一回のパンクの修理代が千〜千二百円で、店によって違う。昨日もパンクを
したので近くの自転車屋で修理をした。世間話に、市内の自転車屋の数を
聞いたところ、「百軒あった店が今では三十軒になってしまった。4kのため
次世代が店を継ぎたがらない」という。店売りの自転車はHCや、スーパーが
大量販売するため、価格競争に負け、修理だけとか。パンクの修理時間は平均、
20分。それで千二百円は悪くないが、私の見立てでは一日4〜5人。
奥さんがパートなら兼業商家なら何とか?
・・・・・・
2012/04/14
閑話小題
  * ポタリングを再開
 早朝のミニ・サイクリング(ポタリング)を再開した。冬期間を除いた
4月〜11月の間、一時間かけ信濃川の二つの大橋を一周する。6時過ぎから
7時過ぎにかけての時間帯だが、何とも清々しい。電動アシスト自転車の効能で、
午後の二時間のスポーツジムを加えると、三時間も運動している。平坦な習慣の
組み合わせのためかアッという間に一週間が経ってしまう。電動アシスト自転車
の使用目安を5年と決めているので、半分使え終えたことになる。電動自転車は、
お薦めである。手段(自転車)が、目的(朝の運動)を変えてしまう
(ウォーキングからポタリングへ)典型的事例になる。これからはスマート
フォンとタブレットPCの普及が、ビジネスや生活パターンを根こそぎ
変え始めているが、手段の進化は、人間生活を間違いなく良くしてくれる。
・・・・・・
2011/11/08
閑話小題 ー自転車からの風景
  * 焼鳥屋、鳥梅
 私の幼稚園の頃の、一番初めの友達が、近くの焼き鳥屋の息子であった。
幼稚園の一年間と、小学校の二年の三年間である。ある日の午後、そこに
遊びに行くと、今から思うと焼鳥の串さしの仕込みを、御父さんがしていた。
子供なりに、仕事の場には近づいてはならないことは知っていた。
ところが手招きをして、その一本の焼き鳥を差し出してくれた。そして、
食べて驚いた。その美味いこと。ガムのようで噛んでも噛んでも、噛み切れ
ないが、その味わいと香りは、今でも強烈な記憶として残っている。その後、
成人になって長岡にUターンをしてから1〜2度、飲みにいったことがある。
私の幼馴染は何があったか分からないが、店から引退し、姉さんと、奥さんが
店に出ていた。その店の前を二月ほど前に早朝のポタリングの帰りに通ったら、
店の看板が無くなっていた。そこで、姉さんらしき女性が、店の前で掃き掃除
をしていた。そこで、長岡の夜の博士と自認している?人に聞いてみたところ、
「この春に閉店したが、その閉店の日に行ってきた。姉さんも高齢と不景気
で止め時と言っていた」という。それにしても、幼稚園時代の記憶の原点の
一つの店が閉店とは、時代の変わり目である。
・・・・・・
3777, ポタリング
2011年07月29日(金)
  最近、面白い言葉ーポタリングを知った。 −ネット辞書によるとー
【 ポタリングとは、自転車でぶらつくことを意味する和製英語で、観光名所
 などに自転車を用いる「散歩」的なサイクリングをいう。 散走とも言う。
サイクリングの一種で、散歩程度に軽く走ることをいう。】
 中高年のオジサンが、行く当てない風にママチャリに乗っているのとは、チト
違うようだ。毎朝、ウォーキング代わりに、信濃川まで一時間、自転車で散走
をしているが、サイクリングというには違和感があったが、適切なポタリング
という言葉があった。「ちょっとポタリングしてくる!」なら、丁度よい。
自転車は野球帽を少し深めに被っていれば目だたないし、人は気に留めない。
また電動アシストなら、エネルギーは普通の自転車の三分一か、五分一で済む。
 近くのSCや図書館に気楽にいけるのも良い。この御陰で生活が一変した。 
イメージとして、サイクリングは、中・長距離の場合に使い、目的は自転車に
乗る方のニュアンスが強い。またツーリングは、長距離で、自転車で旅行を
する場合につかう。 東京など密度の濃い都会の二時間の散策なら、かなりの
場所に行くことが出来る。 現在、早朝の信濃川のポタリングが主だが、
今度は午後などに折りたたみ自転車を車に乗せて日本海沿岸をポタリングする
のも面白そう。そうこう考えると、周囲に面白いことは、山ほどある。
ただ気づいていないだけである。ベストの敵はベターというが、その通り。
それにしても「ポタリング」という語感がよい。 これから少し与太るで、
「ヨタリング」という言葉も浮かんでくる。陰鬱の時、少し与太らないと
やってられない。 でも、自重の時期である。で、自転車でヨタルしかないか。
 少し離れた場所のポタリング用に、もう一台、安い折りたたみでも買うか? 
でも、車で一時間で何処かあるのか考えると?


6024,明るく死ぬために  〜1、まずは内容紹介から

2017年09月11日(月)

        『明るく死ぬための哲学』中島義道 (著)
 この春に出たばかりの、中島の本。「どうせ死んでしまう」と、死に対して
異常なほど恐れ慄き、逆に直視して、どこまでも堀下げている。死のイメージ
は暗く、絶望に満ちている。あれだけ気丈の人が、目先に余命を告げられると、
その恐怖に、恐れ慄く。数十年、いや、一生かけて自問自答して、自分自身で
土台を構築をしておくべき問題である。「人間は死なない。なぜなら自分が
死ぬことを見ることができないから」というエピクロスの言葉が実に納得できる。
 成るほど、70歳を過ぎると、後方から前方に回って近づいてくるというが…

  ー内容紹介ー
 私が住んでいる世界、私が見ている世界は「このようにある」のではない。
客観的世界のあり方と、「私がある」というあり方はまったく異なるのだ。
「私がある」とは、私がこの世界には属さないということである。
では私が死ぬ、とは果たしてどういうことなのか?
私が死ぬとき、私は新しい〈いま〉に直面する――。
子どものころから死とは何かを問い続けてきたカント哲学者が、
古希を迎えて改めて大難題に挑んだ哲学的思索。
 はじめに
1章:古希を迎えて
2章:世界は実在しない
3章:不在としての私
4章:私が死ぬということ
  =Amazonビュアーより=
《 中島哲学に最も共感を覚えるのは、それが死を ―とりわけ「私の死」を―
 モティベーションとしている点である。「哲学の最大問題は死である」という
中島の言葉には全く同感であるし、ともすればタブーになりがちな死を真正面
から論じているのは哲学だけであろう。「死がなければ哲学もなかった」と
ショーペンハウアーも言っている。
 一般常識によれば死とは「世界から私が消滅し、私の死後も世界は存続する」
ことを意味する。しかし中島はその残酷さに耐えられなかった。そして二つの
突破口を見出す。
・一つ。世界はそもそも実在しない。よって私が死んでも私は何も失わない。
・もう一つ。私はそもそも実在しない。実在しない私が消滅することに意味はない。
 中島は自分が消滅して世界が存続するよりも、自分の死とともに世界が消滅
する方がまだ救われるというようなことを言っている。しかし自分は全くそうは
思わない。どうせ自分が消滅するなら、むしろ世界は存続してほしいと思う。
そのせいもあるのか「世界は実在しない」という中島の一方の戦略は、それが
正しいか否かは別にして、少くとも自分にとって死の解毒剤とはなりえなかった。
 むしろもう一方の「私は実在しない」という戦略の方が、自分にとっては
はるかに有効だと思われた。もっとも「私は実在しない」という議論自体は、
それほど目新しいものではない。サルトルは対自存在としての私を「無」として
定義したし、永井均の自我論もとどのつまりは<私>を身体や記憶とは無関係な
「世界の原点」として位置づけている。ドーナツの穴はドーナツを食べても
何一つ傷つかない。 しかしながらもう一つ、中島の指摘していない突破口が
あるような気がする。それは「私にとって死は実在しない」というものである。
 死は必ず他人に訪れる。私が死ぬとき、私はもうそこにはいない。エピクロス
が言うように「死があるときわれわれはなく、われわれがあるとき死はない。
よって死とわれわれのあいだにはいかなる関係も成り立たない」。
私と死はあくまでも無関係にとどまる。そもそも私が死ぬことは証明されていない。
未来は常に不確定であり、私と他人はあくまでも別人である。しかるに今まで
死ななかった他人が一人もいないという過去が、私の死という幻想を未来に描き
出す。死の絶対的確実性は、過去と未来の同一視、他人と自分の同一視という、
実は何の根拠もない二つの倒錯に由来する。 その倒錯は、おそらくは言語に
よってもたらされた(この点では中島と一致する)。死は言語というプログラム
において不可避的に発生したバグである。死が誕生した経緯をひもとけば、
それが幻想に過ぎないことが分かるかも知れない。もっとも分かったところで、
それを消すことはできない。死を忘れるということは、人間であることをやめる
ということだ(それでも死を忘れることができれば、人生はどんなに明るく
楽しくなることだろう)。
――――
▼ これまで、挫折し、打砕かれた時、〔どうせ、死んで無に帰すのだから〕と、
 解毒剤にしてきたが、解毒剤そのものが、激痛の元になる? 平均80数年の地球
滞在が終盤に至ろうとする現在、「世界は世界として、ありのままにいて欲しい」
というのも、観念でしかない。「そこそこの人生なら、その真逆の人生が良い」
と、死は教えてくれる? それを信じて疑ったことにない私に、最後の最後に、
『神が教えてくださった!』 何を?『ほどほどの人生は、ほどほどにしろ』と。

・・・・・・
5658,『エゴの力』�◆ 疏輜�
2016年09月11日(日)
          『エゴの力』石原 慎太郎 (著)
   * 『エゴの力』�◆ 疏輜�
 「エゴ」といえば、日本人にはマイナーな印象だが、包丁と同じで、使い方
次第でプラスにもマイナスにもなる。綺麗ごとで人生を切り開けない。
「健全なエゴを如何に内に育てる必要性」を著者は説く。江戸幕府は士農工商
の身分制度の中で、エゴを抑えることが美徳とされた。考えないこと、他人と
同じであることが、第一とされていた。<エゴイスト>は、社会から抹殺される
環境にあった。  =アマゾンの内容紹介=
《 織田信長もイチローもヘミングウェイも…成功する人物はみんな真っ当な
“ジコチュー" 「怯むな」「おもねるな」「諦めるな」悔いのない人生を送る
 ための新たなバイブル!【人生を決めるのは神でも仏でもない。己の感性だ】
・思いつきが報いられる組織は伸びる ・織田信長こそ完璧な自己中心主義者
・感性を磨きたければ趣味を持て ・強固な自我で老いと向き合う名選手たち
・恋心というエゴの恐ろしさ ・浪費こそが最大の貯金
・日本という国の「エゴの資質」 etc…
恋愛、結婚、進学、就職、転職、起業…人は人生の岐路で悩んだ時、第三者の
助言やマニュアルを頼ろうとするが、結局何を選択するかを決めるのは自分自身。
その人の「エゴ」である。つまり、失敗しない人生を送るには強くて健全なエゴ
を育てるしかない。博覧強記の著者が古今東西の文献、偉人の足跡からその人物
のエゴが光り輝いた感動的瞬間を蒐集。人生の定理とともにエゴという力の
蓄え方がよく分かる画期的自己啓発エッセイ。
▼ 私の身近にも、「エゴの塊」のような人がいる。エゴイストほど、それを
 オブラートに巧妙に包む知恵がある。エゴとは、その人の感性というが、
理性ー>悟性ー>感性の三重構造のベースを、自ら明確にしておくべきである。
個性は、この三重構造のベースそのものと言える。創業、起業は、「エゴイスト」
に徹しなければならない。そのカエリ矢が、今になって次から次へと、突き
刺さってくる。だから、日々が面白いのも事実。極限を超えようとする時に、
エゴが顔を出してくるのは、誰もが経験すること。エゴを蔑む人は、極限に
立ったことの無い人だ。俗にいう、「世間様たち」「行動範囲数十mの人たち」。
家内に言わせると、そういう人が実に多いらしい。 ジムと近所のSM以外、
何処にも行きたがらない人たち。 そういえば、最近の私も似たようなものか。

・・・・・・
5293,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー��
2015年09月11日(金)
      ー私は「言葉」を諦めないー(新潮45/5月号)
            〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
   * 自分とはいったい何者なのか?
 世間を馬鹿にしているところが、いやに同調できる。『閑』という字が
ある。門の中に木がある状態、その木を己とすると、『独』の状態。
それを自分の中で守ってこそ、自分と他者との分別が可能になる。それが、
出来てない、他人志向的傾向の強い人たちを世間様と定義つけている。
 大方八割?の、世間にまみれた人たちに揉まれ、そこで、己とは何者なのか
を自覚するのは、並大抵でない。世間を見下しながら、そこに依存をするしか
ない己の心情を、以下で明晰に表現している。 〜その辺りから抜粋
≪ 自分もまた俗世間を馬鹿にしており、誰よりも高みにいる気でいたわけだ。
 なのに、そんな自分が世間から排除されたことにこれほどまでに傷つくとは!
私のこれまでの世間への侮蔑は単なるポーズに過ぎなかったのか? それとも、
私が世間を拒絶するのはいいが、世間が私を拒絶するのは許せない、と、
そういう理屈なのであろうか? 
 おそらく、そういうことなのだろう。 私のとどまるところを知らぬ
ナルシシズムは、自分を高い高い場所に押し上げ、超然と世間を見下ろして
いるつもりだった。なのに、その下々の世間から「おまえなんかいらない」
と言われたことで、私は激しい屈辱感を味わい、同時に、自分がずっと見下して
きた世間からの評価をいかに必要としていたか、強烈な痛みとともに思い知った
のである。これほどまでに尊大にして卑屈な人間を、私は他に知らない。
私は己の愚かさに呆れ果てているが、それは自己卑下と-か謙遜とかいった
ものとはまったく別の次元のものだ。
 私はいったい何者なのだろう。この問いに、またもや私は立ち返る。
何度も自分に問いかけ、一度も答えを得られなかった問いだ。これからも
たぶん、答えなんか見つからないに違いない。その答えを見つけるには、
私はあまりに己を知らな過ぎるのだ。 私は何者なのかを突き止めることが
私の人生の大命題なのだとしたら、これはもうきわめてパーソナルなテーマ
であるから、世間から承認されたり評価されたりする類のものではあるまい。
 私がその答えを見つけたとしても、誰の役にも立たないからだ。
 ならば、私は世間から排除されようが拒絶されようが痛くもかゆくもない、
ということになる。人がどう思おうと、私は自分のテーマを変えるつもり
はない。私は私にしか興味がないのだ。
 そんなふうに考えたら、なんだかちょっと気が楽になってきた。
おそらくこれからも私は態度を改めることなく、世間を馬鹿にし続ける
だろうし、そんな世間から許しをえたいとも思わないからだ。
世間が私を必要としなくても、私が私を必要としている限り、私は私の
ために生き続ける。それがどんなに傲慢なことかわかったうえで、あえて
そういう生き方を選択する。
 このように私が世間と隔絶した場所で生きようとすることと、私が本気の
言葉を諦めずに人々に投げかけ続けることは矛盾しているように思われるかも
しれない。が、私が言葉を投げかける相手は、決して「世間」ではない。
 私が言葉を届けたいのは、わざわざお金を払ってまで私の文章を読んで
くれる人々だ。その人たちの心に何かが届けばもうそれ以上は望むまい。
私はずっと「私とは何者なのか」という問題に拘泥し続け、その答えを得る
ためになりふり構わず生きてきた。「私」を解析することで、広く「人間」
というものの核心に迫れるのではないかと思ったからである。
 私は「人間」を知りたかったのだ。 私とは何かという問いから始まって、
人間とは何かを突き止めたかった。・・・ ≫
▼ 現在の、私の心情に、重なる部分が多い。数十万人?に向けて書く
 内容だから力が入りようが自然と違ってくるのだろうが、この湧き出て
くる力は、心拍停止から蘇った経験があればこそ。そう、4年前の一連の
出来事が、『脱皮』だったことを、彼女の脱皮した文章から、自覚した。
 『脱皮』といえば、51歳の時、母親を見送って、さて如何するか?
と考えたとき、還暦までに、死ぬまでの大よそ30年分のしたい事を
可能な限り、やり尽くすと決めた。 その時も『脱皮』であった。
だから8割?の有象無象を無視できる! 人生、良いように出来ている。
・・・・・・
4928,パワレルな知性 ー6
2014年09月11日(木)
     * 人間の持つ二重性    『パワレルな知性』鷲田清一著
 「ひとりの人を理解するまでには、少なくとも1トンの塩をいっしょに
舐めなければならない。」と、須賀敦子に諭したイタリア人の姑の言葉が、
古典や人とのつき合い方についての根本を示している。人間は、40億年の
生命の進化の歴史を背景に持つ複雑怪奇な生きもの。自分の中にある
グレーソーンに多くの何かが隠されている。 ーその辺りからー
≪ ・・白黒つけられないこと、グレイゾーンにあることこそ、じつは大きな
 意味をもっているのではないかとおもってきた。「噛みきれない想い」を
抹消しないこと、それが思考の次のステップの火床になるのではないか、と。
そのことを日常のさまざまな局面で確かめてみたかった。わたしは子どもの
頃から、物ごとを見るとき、表面上の意味とは反対の意味を背後に透かし
見る癖があった。その癖の源となったのは、幼少期のある体験である。
 わたしは、京都の下京区という下町の生まれである。お寺が多く。
そこを通り抜けると島原という花街があるという土地柄で、わたしは子ども
のころ、若い修行僧や芸妓さんとよく道ですれ違った。修行僧は冬でも裸足
に草履履で、服装もきわめて簡素で、逆に、芸妓さんはきらびやかなきもので
着飾っていた。子どものころのわたしは、「お坊さんは寒いのに可哀相やなあ」
とおもい、「芸妓さんは優雅やなあ。おいしいもの食べ、きれいなきもの着て」
とおもったものだ。 しかしその後、そうした表面的な印象とは逆の面が
見えた出来事があった。
・一つは、祖母から「お寺さんは貧相な格好に見えるけど、わたしらが知らん
 『浄土』という、この世にはない幸福を知ってはるんよ」と言われたこと。
・もう一つは、芸妓さんがお座敷に出る前に地味な洋服姿で銭湯に行き、
 帰り道にお宮に参って「早う故郷に帰れますように」と祈っている姿を
 見たことである。
貧相の極みに見えた修行僧の心にはこの世ならぬ幸福があり、豪奢の極みに
見えた芸妓さんの心には寂しく哀しい想いがあった。わたしはそのことを
知って、「物ごとって、見た目だけやないんやなあ。わからんもんやなあ」
と、世の中に対する見方が少し変わった気がした。わたしが哲学の道に
進んだのも、子どものころから身についた‘物ごとの裏側を見透かす癖'
が遠因となったのかもしれない。・・・ ≫
▼ 実家が衣料小売商をしていて、4階建ビルの3Fに4〜10歳まで育った
 ため、日常が戦場真只中! その上に両親を含めた10人家族と、住込み
従業員が4Fと2Fに同居していた。更に猫と、猿と、犬が、同居とくれば、
まさしく小説の世界。そこで、子供ながらに、様々な不条理の場面を見てきた。
子供でも、裏と表が分かるのである。そこでは、まずは自分を自分自身で守る
しかなかった。その中で、姉たちは、成績優良だったから、いま考えると不思議。
その末っ子となれば、「沈黙こそが金」を身につけざるを得なかった。
全てがグレーゾーンで、裏も表も、斜めも、底もある生々しい世界で、娑婆
そのもの。それが、その後の社会経験の中で、危険な場面を乗越えるノウハウ
になっていた。 直感的リスク管理が、幼児時代に身についていたことになる。
人間科学を学び続けて知ったことは、『人間の持つ多重性』である。 
幼児、少年時代の、この体験の上に、学生時代の寮生活と、武澤ゼミの
「ケーススタディ」が加わっていた。今回の節目の一連の構えを備えていた
のも、それらの蓄積があればこそ。人間の持つ多重性の奥底を知ればこそ。 
で、この結果、この様だから、何を言わんか。それにしても、見え過ぎるのも、
面白い反面…?奇妙なもの!
 後記)ところで、読み返してみたところ、私の内容の方が中味が濃い? 
    いや、丁度よい? 悪い?
・・・・・・
4561, 2050年の世界 ー4
2013年09月11日(水)
         「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 
                  英『エコノミスト』編集部 (著) 
本書は(第一部:人間とその相互作用)(第二部:環境、信仰、政府)
(第三部:経済とビジネス)
(第四部:知識と科学)それぞれ5章の合計20章から成る。
人間、宗教と政治、経済、知識と科学の、4つ括り。
次回からは後半ほど面白いため、20項目の一番最後から�喚貝沖韻�
逆向きに取り上げる。 ーまず目次からー
  (第一部:人間とその相互作用) 
� /邑�の配当を受ける成長地域はここだ �◆/祐屬良袖い両�来
�� 経済成長がもたらす女性の機会  �ぁ.宗璽轡礇襦Ε優奪肇錙璽�の可能性
�ァ仝生譴畔顕修量ね�
 (第二部:環境、信仰、政府)
�Α―ゞ気呂罎辰�りと後退する     �А|狼紊亘榲�に温暖化するか
�─ー綣圓�強者となる戦争の未来    �� おぼつかない自由の足取り
�� 高齢化社会による国家財政の悪化をどうするか
 (第三部:経済とビジネス)
�� 新興市場の時代      �� グローバリゼーションとアジアの世紀
�� 貧富の格差は収斂していく �� 現実となるシュンペンターの理論
�� バブルと景気循環のサイクル
 (第四部:知識と科学)
�亜ー,覆覯奮悄       ´院ゞ貽颪魃曚┗�宙に進路を
�押‐霾鶺蚕僂呂匹海泙膿癖發垢襪�  �魁ゝ�離は死に、位置が重要になる
�粥〕集世呂覆偲�たらないのか
▼ これを見ていると、人口の推計以外、どれもこれも、この程度ではない?と。
 日本一つ取り上げてみても、40年前の1973年は高度経済成長の真っ只中、
石油ショックで茫然自失。12年後にバブルが発生、5年後にバブル崩壊。
そして、失われた20年を経て、リーマンショックと東北大震災。現在は
1000兆円の借金を抱えている。明らかに10年後は国家破綻国の可能性が大。
まして、40年後は・・・ それでも、叩き台として想定するのは必要である。
最終章の「予言はなぜ当たらないのか?」の答えは、「土台無理のテーマ」。
情報化によるグローバル化で、世界が平準化していく結果は、誰も想定出来ない。
・・・・・・
4186, 閑話小題 ーヨーカ堂の正社員削減
2012年09月11日(火)
   * オスプレーを一番必要としているのは日本じゃないかい?
 政府がトラフ地震の被害情報を発表してから、次の大震災に対しての被害想定
が表立ってきた。道路が寸断された災害地に対する緊急の救済にヘリコプター
が一番有効に働くが、短距離しか有効に働かない。問題は中距離からの輸送。
そうオスプレーのような中距離の大量空輸が可能な緊急輸送手段こそ必要になる。
被害地の近くに飛行場は無いのである。問題は数千、数万の命に関わる問題、
危ないとかいっている場合でない。尖閣列島などの領土問題でもしかり。
もし戦闘になった時に最も必要になるのは中距離輸送。 オスプレーの着陸は、
別に住宅密集地にする必要がない、問題はコース。ヘリ機能はコースを如何
ようにも変えられる。こういう意見は、この国では口に出せない。
出せば袋叩きになる。何かがおかしい!
   * ヨーカ堂の正社員削減
 ヨーカ堂が現在の正社員8600人を4,000以上削減すると発表し、
パート比率を90%に引き上げるという。それだけ、経営状況が悪化している
ということだ。 ヨーカ堂グループは、セブンイレブンを持っているので、
グループとしての経営体質は良いが、その発生の元のGMSの業態のヨーカ堂店舗
を多く抱えている。それが正社員比率を一割まで減らすというから驚き。 
店舗も一割削減するため均衡縮小になる。情報機器が高度化しているため、
それほど店舗レベルの質の低下は避けられるのだろう。
地元の長岡駅前のヨーカ堂は、私と家内の目からみて死に体の店。
ファッション、雑貨に買いたくなる商品が皆無。


6023,閑話小題 〜相撲談義

2017年09月10日(日)

   * 今日から大相撲…
・今日から大相撲が始まるが、4人の横綱のうち白鵬を含めた3人が休場で
興味は半減。まだ白鵬あっての大相撲。 若手が力をつけてきたが、横綱の器
は、見当たらない。休場が多いのは、結論でいえば、『ガチンコ(真剣勝負)』
が、拙いということか。 所詮は興業の世界、みる方からすれば、真剣勝負が
面白いが… やる方からしたら大変である。 ガチンコ相撲を見るにつけ、
朝青龍が不祥事で追放された幸運もあるが、白鵬は褒められて然るべき大横綱。
 腕白相撲、高校相撲をみていると、強そうなのが多い。それと、若手力士にも
多く見かけるが、まず目先の大関、横綱の既存体制を維持しないと。
当然、上位陣に強いのが勢揃いするが、ここは死闘の場。 張り手が、上位の
特権のように使われるが、相撲は番付階級社会。下位力士が上位に張り手は、
やり辛い。やれば、稽古場で、リンチ状態の「可愛がり」が待っている。

・奇数の隔月に15日間、相撲がTV中継をしている。その間、平均して2〜3時間は
みているが、特に4kTVを入替えてから、臨場感が格段アップしたため、面白さが
増したことは、何度か、ここで書いてきた。特に「初日」と「千秋楽」の緊張感
が良い。また土俵の溜り場の観客の服装と表情と反応。そして、待合の付人や、
呼出し、行司の所作も臨場感を醸し出す。

・解説は「北の富士」が特に秀でていて、次は「舞の海」。先般亡くなったが、
「千代の富士」と、「元・大乃国」辺りが良い。 相撲ファンの「有名人」が、
放送に加わるのは「当り、外れ(適、不適格)が大きく」いただけない。
 
・大相撲をテーマにすると「ああ、私も歳をとったもの!」と、自ら思いしる。
幼児の頃からラジオで取組を聞いていたので、ファン歴は65年にもなる。
特に最近、横綱、三役より、幕下、十両の若手の有望な力士に興味がいくのは、
老いたためか。相撲取りは、潰しの効かない、大怪我の危険を伴った格闘技。
将来を考えたら、躊躇する職業。好きだからこそ、選択するとしても、だから
応援したくなるのだろう。

・・・・・・
5657,閑話小題 〜SJの現場で!ー��
2016年09月10日(土)
    * 週、5回のヨガにチャレンジ
 先々週は週に5回、先週は4回、続けて参加したが土曜日の5回目の予約チップ
を2時間半前に取りに行ったところ、既になく、目標達成はならずなかった。。
今週は、4回続けてきたが、今日は如何に?と思いきや、先週同様、昨日から
腰痛が出ている。 過ぎたるは及ばざるがごとくで、週4で十分が実感。
 先日、ヨガの待合の行列の前の同世代の人に、知りあいが声をかけてきた。
『週に5回、出席しているが、欠かさず参加して何が良くなったか、今のところ
分からない』と。私の実感と同じような疑問。先週の土曜には、少し、腰痛気味
だったため、予約チップが無かったのが良かったと思っていた。
そこで、行列の間、同じ状況の私が答えは何だろう?と、暇にまかせて考えた。
『効果云々は、その人によるが、週5回は、毎日になる。好きで、調子が良く
なければ、出来ないこと。思うに、<大好きになるため>ではないか。
大好きになれば、参加する理由はなくなる。理由は<好きだから>になる。』
 大好きとしても、週5がキツイなら、週4に減らせばよい。週3回、予約チップ
を取りに行くのもキツイなら、それだけ好きになれないとことになる。
これは、人生すべてに言えること。継続は力であり、愛であり、知恵の母である。
 連日、続けることが出来るのは、集団でこそ可能。意思薄弱な私に、独りは
どだい無理。 蓄群と、群れる人たちの弱点を突きながら、自分は、群れヨガに
参加している。何をか言わんやである。 添乗員の付く、ツアーに参加して
世界の僻地に行けないのに、こと日常生活で、群れたがる人たちを冷ややかな
目線で見ている私が、ここにいる。 「集団セルフマッサージ」として費用
効果としては、最善だが。腰痛からして、今日は止めにする。 お暇なことで!

・・・・・・
5292,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー��
2015年09月10日(木)
         ー私は「言葉」を諦めないー(新潮45/5月号)
             〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
  * 私の物語、私が書かずに誰が書く
 一年前に50回に渡ってー「事業人生を決心して45年」の語り直しー
を書いていた。思い浮かぶままの書きなぐりだったが、傍目からみたら、
バイアスがクッキリみえていたのだろうが、それが、その時の私自身である。
それも他人に向けて書いた内容ではなく、自分自身の旅路をそのまま書き
残したもの。あとで余禄も書いてあったが。  〜その辺りから
≪ 我々は皆、それぞれの思考や感覚の癖によって歪められた主観世界に住み、
自分に都合よく書換えた物語を生きている。登場する他者たちもリアル世界
の存在ではあるものの、そのキャラクターは主観者によって解釈され色付け
されるため、被害妄想的な物語を紡ぐ者にとっては迫害者となる一方で、
同じ人物が別の人間の目には英雄的存在として映っていたりするわけである。
 したがって、どれが本当の物語なのかは誰にもわからない。いや、本当の
物語などないのかもしれないのだ。マリー・アントワネットやヘンリー8世と
いった歴史上の有名人物も、その語り継がれたエピソードを忠実に再現しても
なお、解釈のしようによってその人物像はいかようにも描かれ得る。
私は私の物語をできるだけ正直に書こうと心がけてはいるが、己の主観の歪み
からはどうしても逃れられないため、公正なる第三者(そんな者がいるとして)の
目から見ると、かなりバイアスのかかった物語になっている可能性も大いにある。
それを考えると「正直でありたい」などという‘夢'というか、途方もなく
誇大妄想的な万能感に基づく放漫な野望なのかもしれないのだ。
 だが、私はそれを承知していてもなお自分の物語を書かずにはいられない。
私の物語を私の視点で語れるのは、この世に私ひとりしかいないからだ。
私が書かなくて誰が書く、といった心境である。いや、ぺつに誰も書かなくて
いいけど。どうせくだらない物語だしね。 しかし私は、ただでさえ少ない
脳みそをぎゅうぎゅうに絞っては、必死で己を表現しようとしている。私が
「言葉」を諦めないのは、自分の物語を諦めたくないからなのかもしれない。
私が体験したこと、私が感じたこと、私が見てきた世界の風景を、ありのまま
に届けたい。それは何故か? 私は何を伝えたいか? おそらくこういうことだ。
 私が何者なのかを、私は知らない。自分が何のために生きたかもわからない。
そんな無知蒙昧な私が己の人生を通して、どのような答えに行き着くのか、
私とは何者だったのか、私の人生にはどんな意味があったのか、それを
読者に問いたいために、私は私の物語を書くのである。 
 正確なジヤッジを下して欲しいから、できるだけ正直に書きたい。
私の主観によるバイアスも含めて、私という人間を客観的に解読して欲しい。
その結果、とんでもない詐欺者だという結論を下されようが、ただの頭の
おかしい自己顕示欲女だと言われようが構わない。私は他者の目にどう映るか…
それが知りたいから、私は書く。間違っていようが狂っていようが、私の中の
本気の言葉を書き続ける。「言葉」は私の神であり、「言葉」は私自身である。
そんな私の言葉を信じなくても構わないし愚弄したければしてもいいが、
わざと歪曲するのは許さない。無意識から生まれた曲解であれば仕方ないけど、
故意にやったらそれは悪意だ。私に対する、いや、私の「言葉」に対する
侮辱なのである。・・・ ≫
▼ 人の口は歪曲そのもの。その歪曲を許せないとは! とすると、
 己の歪曲もまた許せないことになる。そこから悩みも矛盾も出てくる。
物書きだから、仕方がないとしても・・『日々是口実』と自覚を持てば、己も、
他者の歪曲も許せ、見逃せる。 自分の物語を書き出すことは、自分の歪み、
壁に気づくことになる。 それこそが自分自身であると自覚することになる。
・・・・・・
4927,パワレルな知性 ー5
2014年09月10日(水)
   * 専門主義と、教養     『パワレルな知性』鷲田清一著
 人生を振返ると、あらためて教養の必要性を感じる。仕事や、目先の事象に
影響する経験や知識でない純粋に知っておくべきことがある。古典文学、芸術、
音楽、大自然の景観に感動することや、世界の果てから、あらためて現在の
自分を振返ることも、教養である。その積み重ねが、複眼で問題を見ること
を可能にする。見識が狭いと、その枠内でしか考えることが出来ない。
 ーその辺りからー
≪ 学者や専門家は、ながらく、みずからの知的努力を一つの専門領域に絞り、
専門外の領域に対しては、越権行為としてみずから禁じてきた。逆に、専門外
の意見は、受け入れようとしなかった。しかし情報化の時代に、そんな態度は
とれなくなってきた。 ・・協同するプロたちにとって、組む相手はいずれも、
じぶんの専門領域からすればアマチュアだということだ。とすれば、ほんとうの
プロというのは他のプロとうまく共同作業ができる人のことであり、彼らに
じぶんがやろうとしていることの大事さを、そしておもしろさを、きちんと
伝えられる人であり、そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けること
のできる人だということになる。一つのことしかできないというのは、
プロフエッショナルではなく、スペシャリストであるにすぎない。
 このことが意味しているのは、ある分野の専門研究者が真のプロで
ありうるためには、つねに同時に「教養人」でなければいけないということ。
「教養」とは、一つの問題に対して必要ないくつもの思考の補助線を立てる
ことができるということ。いいかえると問題を複眼で見ること、いくつもの
異なる視点から問題を照射することができるということである。このことに
よって一つの知性はより客観的なものになる。そのためには常日頃から、
じぶんの関心とはさしあたって接点ない思考や表現にふれるよう、心懸けて
いなければならない。じぶんの専門外のことがらに対しいつも感度のいい
アンテナを張っていること、そう、専門外のことがらに対して狩猟民族が
もっている感度の良さが必要である・・≫
▼ 穴を深く掘ろうとしたら、間口を広くしなければならない。その間口
の広さが、知識の幅になる。ここで、スペシャリストとプロフェッショナル
との違いが分かりやすい。そのために、人の話を聞くこと、本を読む、何事
にも興味を持つ、一流のものに接する、とにかく変化する、など長年かけた
習慣が必要になる。情報化の時代、専門主義では大波に一瞬で流されてしまう。
それにしても我が教養の少なさを実感する。これも自覚できるか、出来ないか
の違いでしかないが! 高学歴ほど、それが分からないから始末が悪い! 
知れば知るほど、知らないことが多いことに気づくはずなのに、である。
知れば知るほど、膨大な未知の世界の存在に気づくはずなのに、である。 
専門分野も、掘り下げれば下げるほど、専門外の知識が必要になって然る
べきだが? 掘り下げが中途半端だから、視野狭窄になる?
・・・・・・
4560・横尾 忠則の老人論 ー3
2013年09月10日(火)
 「猫背の目線」横尾 忠則 (著)
    * コスプレの公開制作が面白い!
 コスプレはアニメやゲームなどの登場人物やキャラクターに扮する行為。
画家が、自分の描く風景の登場人物のコスプレで公開制作とは面白い。これまで
色いろな職種を経験してきたが、制服を着た当初はコスプレのような感がした。
それも数日で同化するから不思議。それは事業も同じで、無我夢中で取り組んで
いるうち、その機能になってしまうもの。人生もコスプレのように、服装も心も
身体も全身仮面で時節ごと付け替えているに過ぎないのではないか。
化粧と服装も、自分が主役のTPOSに合わせたコスプレ? ギャルとか、
キャバクラ嬢の見なりは、その典型・・
  ーその辺りの箇所からー
《 1980年代にさしかかった頃、グラフィクデザインから画家に転向したが、
 当初アトリエがなかったため美術館のスペースで絵を書く事が多かった。
それもただで場所を提供してくれるところはなく、「貸してあげるが公開制作
にしてくれないか」という条件が出された。絵は本来アトリに独り籠って
かく孤独な作業なのに人前で描くということは考えてもいなかったので、
果たして描けるかどうかに頭を痛めたが、やってみると意外と抵抗なく、
むしろスイスイ描けることに我ながら驚いたものだ。
 それ以来アトリエができるまであちこちの美術館で公開制作を行ってきた。
人前で描くことは確かにプレッシャーになったり、ストレスの原因を生むが
慣れてしまえぱ平気。背後の観客から、集中する僕に突き刺さってくるのが
ヒシヒシとわかる。こんな想念がぼくの中でエネルギーに変換されてより
創造的になることを発見した。この場合の創造というのは無私になること。
不思議なことに雑念が去来しなくなるのである。そう言う意味で座禅に近い
のかもしれないが、座禅とて雑念に振り回される場合が多い。
その点、公開創作の方が「私」意識が薄れるのである。それはは考えるという
ことと描くということが一体化されるからだ。おまけに描くスピードが早く
なり、手と心が同化していくのがよくわかる。だから時には一日で150号大
の作品が描き上がることさえある。観客がこちらの一挙手一投足を固唾を飲んで
見ているのが体に伝わるので、思わず手を休めるのを忘れ描き続けてしまう。
このことが描きてであるぼくを解放する。公開制作の味を占めたぽくは最近
また続づけるようになった。しかもコスプレによって制作する。
公面制作で描く絵は、ぼくが近年描き続けている「Y字路」である。
そこで道路で作業している現場の人たちと同じ格好で絵を描くことにした。
街でよく見かけるー幅の広いズボンにベスト着用、頭にはタオルを巻いてー
とこんな風景をよく見かけるでしょう。つまり鳶職スタイルである。
他の学芸員も道路工事の関係者の役回りになってもらう。
最初は観客は度肝を抜かれ、ギョッとした顔になって、次はケラケラ笑う。
それも一瞬、こちらが真剣に絵を描くものだから、あとは会場は水を
打ったようになる。 よく仮面効用というが、コスプレはまさに全身仮面
になり、人格も他者になるわけだから不思議な解放感に襲われ、その結果、
実に自由な気分になるのである。そして描く行為そのものも絵と同じように
作品化されてしまう。だから観客はパフォーマンスを鑑賞することになる。
制作の休憩時間に美術館のレストランにこの格好で入っていくと、
まずお客は場違いなものを目にしたわけだから、なんとも当惑した顔をする。
われわれに向ける視線には明らかな拒否反応の色が見える。
「作業着のままでよく、ソフィスティケイトされた美術館のレストランに
入ってくるわね」という視線を投げてくると同時に「レストランの人たちは
何もいわないのか」と。ぽくがコスプレしていることがわからないのだけど。
そんな反応をぼくは実は楽しんでいるのである。これも仮面の効用で、
普段体験できない経験にほくは悦に入っているというわけだ。》
▼ それは、自分自身にも人間そのものにも当てはまる。両親合作の心身を
「魂らしい自分の芯」が、コスプレ? としての自分を見つめ続けている。
さすがに横尾忠則である。描き手の目線を、その環境の一人として、まず
服装から当事者になってしまう。そして観客も、その場の一人として
引き込んで、作家のイメージの世界に誘導する。
・・・・・・・・
4185, 呪いの時代 ー4
2012年09月10日(月)
             「呪いの時代」内田樹著
 * 脊髄反射的その場のつくろい  ー第3章「後手」に回る日本ーより
島国の閉鎖的社会では、問題を荒立てないために「その場のつくろい」も必要。
しかし、情報化社会では、それは許されるものではない。現在の日本の政治は、
毎年、首相を交換させることで、その場のつくろいをしているに過ぎない。
それを国民が求めているから首相は、問題解決の痛みを敢えて強いない。
そして一年もしないうちに引きずり下ろされる。
  ー以下の部分は、その理由を端的についている。
≪ 日本の政治家とアメリカの政治家の違いというのは、武道で言うと、
 アメリカは基本的に「先手」の人であり、「日本は後手」の人ということ。
欧米では、とりあえず国家が行くべき道というか、実現すべき国家像という
ビジョンがあり、それが国民的規模で共有されている。日本には、そんなものは
ありません。終戦時に、それがなかった。とりあえず「アメリカ人が日本が
かくあるべしと考えていること」をもって国是とした。「自分で与えた憲法の
理念と背馳する命令が出せるほどの強大な国家には従属するしかない」という
経験則が存在したということです。それが日本の国是です。アメリカに従属する。 
・・相手が次に打ってくる一手に最適対応すべく全神経を集中すること。
どれを武道では「居着き」と言います。物理的には足の裏が地面に張りついて
身動きならない状態ですが、構造的に「負ける」ことです。日本の政治が三流
であるということはそういうことです。政治家個々人の資質がどうこうでなく、
構造的に負けているのです。国家像が描けない、統治原理が語れない、外交
戦略が起案できないというのは個別的な知性の問題でなく、日本人全員が罹患
している国民的な病です。・・・ ≫
▼ 現在、日本が直面している問題は、まさに上記のことによる。数十年に
 渡って、間接的米国隷属国家として、当然、と言えば当然で、これしか
出来なかった。上司と部下の関係である。アメリカには建国の精神がある。
独立宣言書である。何かあると、ここに立ち戻って、立て直す。問題あるのは、
それから軌道がそれたと理屈づけ軌道修正をしてきた。明治維新も、太平洋
戦争の敗戦も、アメリカの圧力で変化を余儀なくされた。それに日本人の
特質もあり、後手という守りしか手が打てなかった。 現在の領土問題も、
これから起因して周辺各国から遊ばれている状態。   〜つづく


6022,閑話小題 〜パノプティコンとは

2017年09月09日(土)

 ≪ パノプティコンとは、
・英国の哲学者・法学者ジェレミー=ベンサムが考案した円形の監獄。
 中心に監視塔があり、そのまわりに独房を放射状に配したもので、囚人同士
の接触はなく、常に看守の監視下にあることを意識させるようになっている。
フランスの哲学者ミシェル=フーコーが著書「監獄の誕生」において、少数の
権力者が多数の個人を監視する近代の管理社会の起源とみなし、広くその名が
知られるようになった。
・中央の監視室はマジックミラーになっていて、囚人からは監視室内が見えない。
よって囚人は常に規律に従わなくてはならない。やがて誰に強制されるでもなく
自ら規律を守るようになる。この効果により、いつしか人は社会の矛盾に疑問を
持たなくなり、彼らの常識から外れた人を、「狂人」として排除していきます。
・フーコー、民主主義を作り上げた権力を「生の権力」と呼び、それが一般常識
を作り上げたと考えた。 … ≫
―
▼ 日本には『神』が存在しない代わりに、『世間』が存在する。身近な人間
関係では、狭い分、相互監視システムが強く働く。島国・日本は国土が小さく、
雨量が多く、多湿の、均質の価値観に飼い慣らされている。その枠内で、静かに
呼吸し、お互いに気を配りあう。 誰もが、円環の内側の独房に閉じ込められ、
息を潜めて暮らす。見えるのは視界の三分の二と、監視塔。それが、私たちの
日常に組み込まれている「世間の視線」。実は、これが妄想。それに気づくのは、
「生老病」に直面した後の「死」に直面したとき。独房の住人は、監視室と、
視界内の、独房の思惑の呪縛に怯え暮らす。それらから少しでも自己解放する
には、運動時間で身体を動かすか、読書か、瞑想を取入ること。長年かけた
脱走の準備もある。まずは、自分が、この監獄の住人ということに気づくこと。
 妄想を取り払い続けないと、「あのゾンビ」になってしまう。外側の世界も、
内も、広く、深い世界が広がっているのに… 他人事ではなく、私を含めた、
それぞれの「自分」のこと。今では、スマートフォンという便利な小さなカメラ
という名の監視塔を各人が持ち始めたから始末が悪い?いや良い?

・・・・・・
5656,閑話小題 〜シダックス時代の終了
2016年09月09日(金)
   * カラオケ・シダックス時代の終了
 カラオケ大手の『シダックス』が80数店の閉鎖。大型店のため、これだけ
多くを潰すのも、まだ余力があるため。本体の経営体質がまだ健全だからこそ
出来ること。大人数でカラオケを楽しむ時代が終わり、小グループで楽しむ時代
になった上に、スマートフォンの普及が、カラオケを通しての社交から、ネット
を介在とした社交に立ち居地の重心を変ったため。それにしても、時代の変遷は、
あまりに激しい。会社整理に対して、何の疚しさ、後悔がないのも、この激変の
中では当然という諦念があるため。 そこで、シダックスと、カラオケ市場の
現状は、どうなっているかを、YAH00で検索した・・
≪ ☆ シダックスは全体の約3割の店舗を閉鎖
 シダックスは8月31日、本社機能もある渋谷の旗艦店「渋谷シダックスビレッジ
クラブ」をはじめとして、一気に44店舗の閉鎖を行いました。4月からすでに一部
店舗の閉鎖を開始しており、9月末には累計で80店舗が閉鎖される予定です。
これまで全国で約270店舗を展開していましたから、ざっと全体の3割のお店がなく
なる計算です。今でこそカラオケチェーンとしてのイメージが強い同社ですが、
もともとは社員食堂の請負事業で成長した会社であり、現在でも売上高の8割は、
食堂運営、病院給食などで占められています。ちなみに創業者の志太勤氏は著名な
起業家であり、ベンチャー・ビジネス支援や中小企業支援を日本の政策に盛り込む
よう、政府への提言を続けた人物としても知られています。
 カラオケ事業についても給食事業との関連性が深く、充実した食事のメニュー
を用意するなど、宴会での利用を想定しています。当初はこうした戦略はうまく
機能しましたが、カラオケの利用形態が変化してきたことから、同事業も低迷が
顕著となってきました。
 2012年には480億円だったカラオケ事業の売上高は毎年減少しており、2016年
には300億円となっています。しかしながら、日本におけるカラオケ市場全体が
大きく落ち込んでいるわけではありません。2015年のカラオケ人口は約4750万人
と2010年との比較では約100万人増えました。≫ とあった。
▼ 4年で市場規模が4割減とは、尋常ではない。カラオケを遊び、ゲームの一つ
 とみると、スマフォの普及が大きく影響をしている。カラオケ人口が微増を
しているから、一人あたりの客単価が下がっていることから、回数が4割
減ったということ。それと情報化による遊びの多様化が進んでいることもある。
 それと、不景気の影響と、団塊の世代の一線からの撤退?も大きい。
ああ、そういえばカラオケ投資で莫大な損失を出したことを思い出した。
たしかに私は、あまり頭の良い人間ではない。大バカというより、小ばかである。
 数十年かけた、純益を、たった一つのミスで失う恐ろしさが常に口を空けて
いる。 人生も同じことがいえる。ったく! それも有りだから、人生は面白い。
  
・・・・・・
5291,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー��
2015年09月09日(水)
      ー私は「言葉」を諦めないー(新潮45/5月号)
           〜心肺停止になって考えたこと 8! 中村うさぎ
   ☆ 「口先コミュニケーション」
 6月号を読んだ後、逆順の5月号の内容になる。私同様に、彼女もまた
世間様といわれる人たちを蛇蝎のごとく嫌っていて、その理由を、わざわざ、
「口先コミュニケーション」と項目を立てている。何も考えようとしない輩。
その言葉が、自らの想いや考えを伝えたり、まとめる手段ではなく、適当な
世間話の手段でしかないことを指摘する。彼らは、他者の理解など出来ようも
ないし、必要もない。何故なら、会話と対話の差異を知りようもないし、
対話など死際での家族とのやり取りか、窮地に陥った時ぐらい。『新潮45』
の読者にも、世間様が存在することもあって、「口先コミュニケーション」
というお品のよい言葉にしたのだろうが、この一連の彼女の手記の多くが、
ドブネズミたちに言いたいこと、そのままが素直に書かれている。
   〜その部分を抜粋〜
≪ 私には、人の気持ちがわからない。同じ世界に生き、同じ空気を吸って
 同じ場を共有し、同じ風景を見ているつもりでも、おそらく私の目に映って
いるものと他人の目に映っているものはまったく違っていたりするのだろう。
我々は「主観」という名の脳内世界を現実世界だと思い込んでいて、
それがどんなに歪んでいても気づかないし、たとえ間違いを指摘されても
おいそれとは自分の世界を描き変えられない。 こうして我々は、すぐ隣で
肩を並ぺている人とまったく違う風景を見ながら同じ体験を共有している気分
になっているのだ。そして、同じ風景や体験に一緒に感動しては、相手と心が
繋がったように錯覚している。本当は、それぞれが全然別の物語を生きている
というのに。ああ、諸君。このようなことを私はずっと以前から了解していた
はずだし、他人が感じていることと自分が感じていることは違うのだと己に
言い聞かせ、それを思い知らされるようなことが起きても動じない心づもりで
あった。 『が、実際には、私は何もわかっていなかったのである。』
その証拠に今回、自分を理解してくれていると思っていた人々がまったく
理解もしていなければ信頼もしていなかったこと、私と仲良くしてくれている
と思っていた人が私を蛇蜴のごとく嫌っていて陰でその心情を吐露しまくって
いたことを知って、心の底から驚いてしまった。こんなのは世の中によくある
ことなのだろうが、少なくとも私にとっては近年まれに見る出来事であった。
何故なら「周囲の人々」は心にもないお世辞や表面的な社交辞令などを言わず、
むしろ毒舌と呼ばれながらも本当に思ったことしか口にしない人々であり、
しかも言いたいことは相手に面と向かって告げる人が多いので、今回私を
驚かせた人々がずっとやっていたような口先だけのコミュニケーション作法
をすっかり忘れていたのだった。 だが、諸君、私は問いたい。
言葉が自分の想いや考えを伝えるものでなく、適当に相手をごまかすための
ものならば、我々は他人の言葉の何を信じればいいのか。そして、そのような
口先コミュニケーションが世間一般の常識なのだとしたら、「誠実さ」とは
いったい何か。そんなものは幻想なのか。少なくとも私は心にもない言葉は
絶対に言わないように心がけてきたし、たとえ相手にとって耳触りが悪くても
伝えるべきことはきちんと伝えてきたつもりである。それが「誠実さ」だと
私は思っていた。だが彼ら彼女らはそんな私を「幼稚」で「無神経」な人間
と思っていたようだ。 まあ、確かに「無神経」なのは認めよう。こんなにも
人の気持ちがわかってなかった私が繊細な感受性など持ち合わせているとは
思えない。しかし、それなら彼ら彼女らは、人の気持ちがわかっているのか。
少なくとも彼らは私が本気で語ってきた言葉を一切理解してなかったし
信用してもいなかった。私がどれだけ本気かわかっていなかったのだ。
彼らは私のことも自分たちと同様の口先人間だと思っていたのだろうか。
ならば、彼らはまったく私という他者を理解していなかったことになる。
そんな人たちに「人の気持ちがわかる」はずがないではないか。
彼らは私などより遥かに「空気の読める」人々である。だが、空気が読める
からといって、人の気持ちがわかっているわけではなさそうだ。(略)・・
・・ 私にとっては無意味な人間関係だが、それで彼らの世界が回っている
のなら、それでよかろう。永遠に空気なるものを読みながら、中身のない
価値なき言葉を吐き続ければいいのである。それが君たちの入生だ。
そして、そんな君たちの人生や処世術に、私は何の関心も持てない。
念のために言っておくが、私は彼らの人生に価値がないと言っているのでない。
彼らの人生には彼らなの価値がある。ただ、その人生においては、言葉に
価値が与えられてないだけ。彼らは言霊のない世界に住んでいて、そこでは
空っぽの言葉が行き来している。が、おそらく言葉ではなく別のものに
価値があるんだろうから、それはそれで、いいんじゃないかと思う。≫
▼ 死の間際から生き返り、改めて身辺を見たときの澄みきった感覚は、
 4年前の経験や、過っての色いろ味わってきた。 「うさぎちゃん」が
怒っているのも、彼女の、それまでの脇の甘さからくるもの。世の人は、
大体が、この程度のものと達観すれば、そこに慈愛が湧き出てくる。
それだけ、世人は口先人間が、目先で、口先で、空っぽのことで騒いで
いるに過ぎない。それを怒るとは、彼女自身も、同類になってしまう。
しかし、それらの多面をとらえて、全身で受け止めるのも彼女だからこそ。
『よくぞ、書いてくれた!うさぎちゃん』である。でもアフォか! 誰が?
・・・・・・
4926,パワレルな知性 ー4
2014年09月09日(火)
  * カフェという集い −��   『パワレルな知性』鷲田清一著
 カフェといえば、TV番組の中にカフェ方式をとったのを幾つか見かける
ことがある。特に日曜日に多いのは、休日の居間をカフェに見立て、気楽に
一週間分のニュースを異種の人たちの対話を通して楽しませるため。
関西系の『そこまで言って委員会』『サンデーモーニング』『笑点』、
がそれ。知らないうちに、視聴者が、その場に居るような感覚になってしまう。 
そこでは、テーマを提示して、異種の業界の人たちに議論を面白おかしく進行
させ、楽しませるキャスターの役割が大きな要になる。 レギュラーには、
それぞれ役割があって、本人も、それをわきまえ対話に参加する。
バラエティ番組も、その傾向があるが。視聴者の多くが、非専門家を前提に、
各種専門家の議論を楽しませるのだから、出演者たちは大変のはず。
グローバル化とは、「多文化共生」になること。 カフェに似た文化に、
イギリスならパブ、スペインならバール。バールは、イタリア、スペイン
などの南ヨーロッパで軽食喫茶店、酒場のことをいうが、一日、一回は立寄り、
誰かと話す文化が深く根付いている。特に大都会は「異文化、多文化共生」
の傾向が強くなる。しかし、情報化の時代、世界中がネットで結ばれ、
異種の価値観が交差する中、逆に、自国の文化を知っていなくてはならない。
情報化だからこそ、カフェや、酒場などで直接、異質の人との対話の中から、
知見を得ることが重要になっていく。フィリピンパブとか、ロシアンパブの
痴的会話?でなく、あくまで知的対話が前提になるが・・ 
 最近、喫茶店が見直されてきたが・・ 
・・・・・・
4559, グレートジャーニーから見えてきたことは ? ー3
2013年09月09日(月)
  * 平等こそが生き延びてきた知恵! しかし欲望が人間を変えた
 実験によると、チンパンジーは平等に非常に敏感。これに仲間内の力関係が
絡むので、集団は非常に複雑でデリケートで、その研究から人間の本質が垣間
見ることが出来る。平等原理はアマゾンなどでは生きていくために必要なこと。
極限の生活で生きていく上で、常に分かち合うのが合理的であるからだ。
しかし、文明の進化?が、社会的階級と富の独占を生み出し、さらに
グローバル化が、それに拍車をかけている。 
≪ たけし〕 関野さんはいろんな未開地に行っていますが、人食いとか
 カニバリズムは見たことがありますか。
関野〕うーん、少なくとも、僕は見たことがないですね。
たけし〕「人食い人種」とか言うじゃないですか。
アマゾンやニューギニアで、そうした風習はなかったのかな。
関野〕 例えばマヤとかアステカで生贄の人間から心臓を取ったりしたことは
あったけれど、それを食べたかどうかは分からない。生贄にする人間は、
誰でもいいわけではなく、強い戦士でないといけない。 勇気をもらうとか、
そういう意味があるんです。しかし、アマゾンで生き延びるために相手を
殺して食べるということは、過去にも僕はなかったと思っています。理由は、
アマゾンの奥地で僕たち日本人はすぐに餓死するかもしれないが、彼らは
餓死することはあり得ない。・・・
たけし〕 パリ・ダカールで日本人ドライバーが地元の子どもを撥ねてしまい、
慰謝科として何十万円か払ったら、次のレースから子どもを放り投げようと
して侍つている奴がいたらしい。そういうバカなことが起きてしまう。
関野〕 結局、欲望が人を変えてしまう。食料や資源は40年以上も前に
ローマクラブが声明を出しているのに、経済が絶対的に右上がりでなければ
いけないと思ってしまうのは、やはり欲望のせいでずよね。欲望が膨れ上がる
ことによって、一部の人たちたけが富を独占しようとしているのが現代の社会。
アマゾンの人たちと暮らすと、すごく平等なんです。僕は人間が誕生した時に
平等でないと滅ぴていたと考えています。 なぜかというと、まず弱かった
ということが挙げられます。太古の人類は採取・狩猟で生きていたと思われて
いたんですけれども、最近は二本足で立って歩くようになった時は、
狩猟なんかできなかったと見ている。】
▼ レヴィ=ストロースの構造主義などがある。アフリカや南米で残っている
「未開人」の地に何千年も変わらない社会がある。そこは彼らにとって意味の
ある極めて合理的な社会である。決して、西欧が文明の最先端にいるのでは
ないのである。その社会の特徴は平等。文明社会は変化の積み重ねの結果の
産物たが、未開社会は一切変わらぬ「静かな世界」が続いてきた。
そこは冷めた日常があり、美しさがある。変化はエネルギーを要する。
その熱い社会の方が優れているという進歩史観に促われてきたが、それを
根こそぎ覆す説こそ見直す時である。特に地球資源の枯渇でエネルギー問題が
出ているからだ。 私も含めて戦後から、このかた、欧米に追いつき、
追い越せで必死に生きてきた。そしてバブルの崩壊から、失われた20年から、
30年に入りつつある。ここで、考えるべきは、未開社会にある「冷たい社会」
のシステム。 ここに至って何が「東京オリンピック」である。
あれは、追いつき、追い越せの、高度成長期の残物でしかない。
「最後の止めが、これ!」ということが、見えてきた。とんでもない
劇薬であり最後のトドメ。年寄の冷水(酒)か? 
「いいじゃないか、いいじゃないか、ヨイヨイヨイヨイ」ということ。
先がない私たちには、これでよいが? 
「それでは、落選した方が良かったか?」と、問われれば、
どうだろう? どのみち、大して変わらない?なら、踊るか!
・・・・・・
4184, 閑話小題 ーつれづれに
2012年09月09日(日)
  * 元IBM社長が・・・
ネット以外は、あまりマスコミでは流れなかったが、元IBM社長が
アイフォンで女性の下着の盗撮をしたとか。男は50歳までは多かれ
少なかれ異常性欲者?たまたま超エリートが少し変わった趣味だったに
過ぎない、という同情もある。前科があったかどうかだが、
その後、マスコミが騒がないのは悪質で無かったためか。超エリートが、
その危険をかえりみず盗撮をするスリルの快感は本人しか解らない。
私など、最近、時どき深酒で、ある時間から記憶が無くなることがある。
「ハッとして起きてみたら留置場の中」なんてことがあっても不思議はない。
ネットの写真じゃ、満足できないのは分かるが。それにしても娑婆は面白い。
常にデジカメを持って歩いているが、気をつけないと!
  * 「あと20年以上生きそうな感じがする!」には驚いた
 中学校の同級会で隣に座った男の言葉。私など不摂生もあり、
あと5〜10年が限度と思い込んでいたので、実のところ驚いた。
飄々とた何か仙人を思わせる雰囲気を漂わせているが、この感じなら、さも
ありなんである。節制をしているから言える言葉。そこで自分を振り返ると、
どうみても十年以上は無理、せいぜい75歳。まず、そこを目標とすると、
あと8年4ヶ月。2021年1月15日である。何とか節制をすれば? 
しかし、現在の酒量からみて明らかに無理。毎日の晩酌が美味いのである。
 最近、20歳位の人を見ると、「私より50年以上も長く生きるんだ」
という思いが先に立つ。去年春の一連の出来事、人生の側面からすれば、
人生の整理に入るためにフリーハンドになるため。それにしても、自覚は薄い。
で、幾つまで生きたいのか、自分に問うてみた。80歳である。
そこまで生きるべく節制するか、一年一年、二倍濃厚に生きるかである。
それとも、80歳を目標に節制しながら二倍以上濃厚に生きるか? 
濃厚に生きなくても、実際に濃厚だから、このまま?


6021,閑話小題 〜何時の間にか準戦争事態に…

2017年09月08日(金)

   * 北朝鮮の迷走で…
・尖閣列島の所属問題や、北朝鮮の迷走で、何時の間にか準戦争状態の状況に。
戦争といえば太平洋戦争を思い浮かぶ。この大戦で日本は300万人を超える
320〜350万人とも)戦没者をだした。(海外で亡くなったのは240万人
(兵士が212万人)。国内、海外を合わせ100万人前後が民間人犠牲者。
日本の歴史上、最大の事件である。
・中国が尖閣列島を占拠をしても、アメリカは中国との直接対決を避ける?
その上に、追詰められつつ北朝鮮が過敏にアメリカを挑発し、非常に危険な
状況になっている。 ロシアか中国の謀略で、韓国か北朝鮮からミサイルを
撃ち込み火の手をあげれば、ソウル周辺の2千万人の1割、200万の死者が出る
可能性がある。当然、中東のイラク、シリア難民が欧州に数百万も、なだれ込ん
だように、日本と中国にも大挙、流入する。北にとって、人畜無害の日本は、
恐喝には最も効果がある。その前に、潜り込んだスパイのテロも想定できる。
・このまま、北朝鮮の挑発が縮小するイメージが出てこない。「何処かで必ず!」
と考えるのが妥当。実戦を積重ねてきたアメリカとの長期戦は考えられないが、
泥沼に陥る可能性も充分にある。とにもかくも、両国のトップが軽すぎ。
 朝鮮戦争は停戦のまま。 
・朝鮮戦争をネット検索すると〜
【朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) と大韓民国 (韓国) の間で 1950年6月
に始った紛争で,およそ 300万人が命を落した。米軍主体の国連軍が韓国側に
立って戦争に参加し,また中国が最終的に北朝鮮支援に動いた。戦況は目ま
ぐるしく変化した末,戦争は 1953年7月,決定打のないまま終結した。】
 再び開戦となれば、300万では済まないが、そこが北朝鮮の狙い目。
北の原子炉が破壊されると、放射能が日本上空に降り注ぐことになる。
まずは、今月、いや、この一週間が… 心配しても、これだけは!
 日本は、東京オリンピックで御祭り騒ぎ。如何なっていくのでしょうか!

・・・・・・
5655,『エゴの力』 �  創家颪海修�最大の預金
2016年09月08日(木)
             『エゴの力』石原慎太郎著
   * 浪費こそが最大の預金
石原慎太郎の著書に、「浪費こそが最大の預金」と、あった。二人の息子に、
スペイン、インド、エジプト・トルコ、ベネゼイラなどに連れていった。
一見、浪費だが、青少年期の、これらの経験は大きな預金になっているはず。 
何事も、若いうちの経験が大きい。
 倒産というカタチで会社整理をしたが、今では未練も後悔もない。実際に、
父親の影響もあり、創業(狂気)を目指し、自分を狂気の道具(凶器化)をし、
捨身で生きてきた。最後に(家族の手持資産)が数分の一になったが、元金の
数十倍を楽しみ、行蔵として最大の預金が残った実感がある。 そのため、
「浪費こそが最大の預金」という言葉が実感できる。
 半世紀前の学生時代の「欧州30日の旅」が、今の300〜350万の費用だった。
幼児期からの大晦日に父などから貰った「お年玉」の積立金を、高校入学と
同時に金銭教育のためか、父親に何かを自分で選らべと勧められて買った株式
の20数万の元金があった。欧州に行きたいと決心した時、これをベースに10万円
を貸して欲しいと、母親を通して父親に頼んだ。頭の硬い父親がスンナリと
承諾したのは、20年近くかけた資金をベースにした計画のため。
 その30年後に、母親の財産分与の話合いで、4人の姉たちに、
『あなただけ、父親が甘かった。学生時代に欧州旅行など私たちには考えもつか
ないこと。それに、大学を2つも行かせてもらって。不公平過ぎる!』と詰られた。
私にすれば、情報を得て、求めたからである。 
 で、浪費の話に戻る。創業から、幾つかのホテル物件に30数億以上を投資をし、
最後は、数羽のブラック・スワンの到来で、あえなく事業清算に至った。
結果からして浪費になるが、その経験は、その数倍の心の預金が残っている。
 その辺りは第三者に全く理解できない。浪費は、あの世に持っていける。 
そのことを学生時代に、「欧州旅行」の浪費?から、学んでいた。
 30億の投資経験の楽しみは、「あの世」に持っていける。生きている内に
失った経験は、あの世に持っていける。これは実体験をしてこそ分かる感覚。
『100億残すより、100億失う方が、その人にとって真の財産になる』という道理。 
同時に、敗者の泣き言でもある。
 〜これも、偶然だが、以下の同月同日のテーマに脈絡が繋がる〜
これからすると、私には、起業には向いてないことが実感できる。ったく!
  
・・・・・・
5290,起業こそ、自分を超えていく道 〜『自分を超える法』ー��
2015年09月08日(火)
            ー『自分を超える法』ピーター・セイジ著ー
  * 起業こそ、自分を超えていく道
 ここで、「自分を超える5つの方法」を提示しているが、キーワードは
『起業』。実績あるの起業家が書いているだけに説得力がある。
   〜アマゾンの内容より〜
〔考え方さえ変えればお金は必要ない。世界No.1コーチのアンソニー・ロビンズ
 の「史上最年少トレーナー」として活躍するピーター・セージ。22社の会社を
経営し、1兆円ビジネスを手がけるビジネス界の若き天才。
その「世界初の著書」で語られる、自分を超える「5つの法則」とは。〕
 【著者プロフィール】からして面白い!
イギリス若手No.1起業家。お金を使わずに、ビジネスを作り出すプロ。
世界No.1マーケッター、ジェイ・エイブラハムのビジネスパートナー。
資金なしから22社の企業を成功に導き、そのビジネス手腕は世界的に高い。
 過去に二度、ビジネスパートナーを選び間違えて無一文になったものの、
2回とも再起してすぐに億万長者に戻った。また、3カ月間で、資産ゼロから
5億円の不動産を買うなど、極めて短期間で大きな結果を出したことで知られる。
 最近では、起業家精神の分野で、世界のトップビジネススクールの1つである、
INSEAD(欧州経営大学院)の顧問委員会(パリ)に招聘されたり、学生企業家
協会の世界大使としてCEOに任命されるなど、経営のかたわら、講演家や
コンサルタントとしても活動中。 また、ピーターは年に約1カ月間、自発的
にボランティアとして世界中を旅をしており、チャリティとして世界中から
のべ数千万円もの金額を集めた。現在は「スペース・エナジー」という
事業に携わり、宇宙空間で太陽エネルギーを発電し、地球に供給する
「1兆円プロジェクト」に取り組んでいる。
▼ プロフィールだけでも面白い。起業を勧めると同時に指導者でもある。
 規模が桁違いだが、起業原理は納得する部分が多い。何かを決めるとき、
「安定感」を基準にすることより、「居心地のよい不安定」を優先せよ、
とは、成長過程では当然のこと。チャレンジ、チェンジ、コンペティション
の成長サイクルでは不安定感がつきもの。20歳代に、この本が傍らに
あったら、また違った人生になっていたはず。世界が大きく変化する中、
適応した新システムを提供することで、基盤を拡大するには起業しかない。
その点で、まったく力不足だった自分を思い知らされる内容である。
「優秀な起業家に、優秀な指導者あり」ということか。今さらだが・・

・・・・・・
4925,パワレルな知性 ー3
2014年09月08日(月)
   * カフェという集い −�◆    悒僖錺譽襪蔽寮�』鷲田清一著
 カフェといえば、30年も経つが、『致知』という月刊雑誌を知って購読
するうちに、全国に愛読者の同好会があるのを知り、新潟支部を立ち上げた。
今では年に一回参加しているが、30年も続くとは驚き。全く知らない新潟で、
肩書きを横にした同年代の人たちとの出会いの場、一種のカフェのような集い
の場を求めたため。とはいえ、当初は営業ネタを探して参加する人が過半数は
いたが、それも良しだった。 ところで、学生時代の寮がまさにカフェの
ようなものであった。今でいうシェアハウス。大きな屋敷の一角に、平屋で、
4畳半と6畳の和室が25室、「く」の字に並んでいて、角が炊事場と洗濯場
で、両端がトイレ。廊下は土間で、あたかも馬小屋のようだった。
各部屋には鍵が付いているが、私生活があってないような。それが寮という
ものだが。炊事場やトイレの行き帰りなどに、どこかの部屋の前にサンダルが
幾つか並んでいると、つい顔を出し、お茶などを飲んでいる輪に入る。
そこでは、読んだ本や、政治経済、現在進行形の恋愛の話題が中心になる。
寮生は全国各地の出身者で、早大の学生が半数を占めていた。 雰囲気は、
まるで「住込みカフェ」のようで、なにもかも参考になることばかり! 
その上に、それぞれの大学の親友が遊びにくるため、その輪は更に大きくなる。
そこで、軽井沢の山荘でのアルバイトとか、留学や、海外旅行の情報が、
ごく当り前に交されていた。それに加えて、大学では、クラブ、ゼミ、欧州
旅行の仲間と、クラスの友人の網目が出来ていて、広いコモンルームや、
中庭、学食で誰かと話をしているかであった。学生だからこそ、自由に様々の
人と邂逅しえたのである。 現実社会に入ると、組織や、地域の社会の、
それぞれの立場があって、自ずと人間関係に制約があるが、学生時代は、
思惑は最小で済む。それと、高度成長期真っ只中の恵まれた環境があった。
『カフェの集い』の視点で、人生を振返ると、やはり最終の学生時代が最も
良かったことになる。プライベートの時間が持てなかった『青雲寮』に、当時、
不満もあったが、この環境が最良だったことに、これを書いていて気づいた。 
この寮生活で、それぞれの私生活で垣間見た姿から、<人間には、教養とは別に、
想像を超えた、善良と邪悪が混在する人が存在する>ということを、知ること
になる。そして、実社会に出てから、その多くを己の中で見ることになる。 
 秘境ツアーなども、これに似たところがある。全国から集まった見も知らない
人たちと1〜2週間、親密な時空を共有する。その多くは、ツアー慣れをして
いるので、直ぐ胸襟を開くが、それぞれが様々な情報の宝庫のため、そこは
ツアー・カフェそのもの。かって長屋の御隠居は、横丁カフェの主。
 私の友人に、喫茶店に入浸って?半世紀以上、その人自身が、カフェみたいな
人がいる。いや、居酒屋? 問題は、そこが教養ある知的会話?であるかどうか! 
共通した価値観と、それぞれの全く違った価値観を備えた人との出会いこそ、
カフェの集いの面白さになる。 とすると、このブログ、『居間の一人カフェ』
になる。 時々、塩昆布茶も出るが。
・・・・・・
4558, 東京が、2020年の開催地に決定!
2013年09月08日(日)
 5時20分に、次次回のオリンピック開催地が発表された。
その2時間前の3時に何時ものように目が醒めたため、布団の中で瞑想モード
に意識を持っていき、「私が神としたら、3都市の何処を選ぶだろうか?」と
考えた。その結果はイスタンブール。5時からのTVの特別番組の選定会場で、
まずマドリッドの落選。あとの残ったイスタンブールと東京の二者択一の中で、
東京が決定された。 「そんなことをしている場合じゃないだろう!」が、
気持ちにあったが、いざ発表となると「東京」と願うのが人情。以前から、
「2020年の75歳が死に時」と思っていた。その年が、これで東京
オリンピック開催の年になったのである。一回目は昭和39年、18歳の年。
二回目は生きていれば75歳。現実は、世界も日本も2020年までは、
大きな試練が山のように待ち構えている。福島第一原発の汚染処理、世界恐慌
の対応、国家財政の破綻、国境問題等々がある。トルコか日本?の二者択一
というと、選ぶ方は、原発汚染への不安より、中東の政治的不安定と、欧州危機
を考えると、安全、安定面から、今回は極東の安定した都市の「東京」を選んだ。 
これで、「2020」と「東京オリンピック」が、キーワードとして浮上、国家
として明るい目標が出来た。オバマがシリア攻撃を示唆したのもトルコにとって
マイナスになった。タイミングをみていた? 日本のような島国では、一つ明確
な目標があれば元気が出るが、大きな問題が残っている。南海トラフ地震と、
東京直下地震、富士山噴火の可能性である。 福島第一の汚染に目を向けさせた
のは戦術としては良かった。実際問題は、これらを考えると二つの都市の危険さ
と遜色はない。 国内の政治面では、予想される混乱の中で、国民の目を
オリンピックに向けさせることが出来る。今日を境に大きく空気が変わる。
今日は目出度い日になる!
・・・・・・
4183, 呪いの時代 ー3
2012年09月08日(土)
                    「呪いの時代」内田樹著
  * 記号の過剰化    ー第2章 「祝福」の言葉についてーより
 呪いは怒りや羨望、嫉妬などの要素が相まって内面に作りあげられた一種
の記号と著者が指摘している。しかし怒りの感情を言葉にし繰り返すうちに、
その毒が己の脳を侵してしまう。鬱である。そこで医者から貰ったハッピー
ドラッグで目先、散らしている内はよいが、いつの間に、呪いの感情を更に
強く苛んでいく。呪文は記号のため、反復するうち、その人そのものになって
しまい、自滅の道をひた走ることになる。 次の箇所は、悲劇と喜劇の境い目
としてみると、うなずける。
≪ なぜ、このようなニヒリズムが社会を覆うようになったのか。
 それについて考えてみようと思います。僕はそれを「記号の過剰」あるいは
「過記号化」という枠組みで説明できるのではないかと思っています。
「呪い」は、その本質からして、記号的なものです。藁人形に五寸釘を打ち込む
「丑の刻参 り」という古典的な呪いの儀式がありますが、これ自体、きわめて
記号的な行為です。生身の人間の心臓にではなく、代替物の藁人形に五寸釘を
打ち込むわけですから。メタファーとして行われる殺人が生身の人間の生き死に
影響を与えるという信憑が共有されていないとこの種の類感呪術は有効性を持ち
ません。つまり、藁人形が生身の人聞でないように、殺意や嫉妬、羨望や憎悪も
記号化されない限り呪いとして機能しない。忘れられやすいことですが、呪いが
機能するのは、それが記号的に媒介された抽象物だからです。具体的、個別的、
一回的な呪いというようなものは存在しません。あらゆる呪いは、抽象的で、
一般的で、反復的です。それが記号的ということです。
なまの現実が記号化されて、「情報」になるプロセスを「情報化」と呼びます。
情報とは「なまもの」が加工され、分類され、ラベリングされ、パッケージ
されたもののことです。「高度情報化社会」とは情報だけが行き交い、
「なまもの」に触る機会が失われた社会のことです。生きた動物が殺され、
皮を剥がれ、血を抜かれれ、骨が切り離されて、細切れになってパッケージ
されるという工程については誰も考えず、清潔な商品だけが売り買いされている。
医療でも過情報化の問題は深刻なもの。当今の医師たちは、なまものとしての
身体ではなく、「記号としての身体」を診療している。『医療崩壊』の著者
である小松秀樹さんが指摘されていましたが、今の診療室では、机上のパソコン
のディスプレィに患者のカルテや検査数値が表示されます。患者が診察室に
入ってくると、医師は患者を診るより先に、まずディスプレイに表示された
さまざまの数値を見る。うっかりすると診療時間のうち、患者の顔を見ている
時間よりもディスプレイを見ている時間の方が長いのです。 ≫
▼ TVのワイドショーは情報を提供するところ、情報化は「なまもの」とは
 違うため、それを扱う解説者は、記号としての言葉にして発信するするため、
呪詛的な言葉になっていく。それを受け止める視聴者は、いつの間に、呪いと
して、なまものを呪ってしまう。これが端的に出のが政治であり、政治家は手軽
な呪いの対象になる。だから、島国日本の首相は、一年しかもたないのは、
何ら不思議ではない。そして、その行き先は? 
 ・・・・・・
3818, 哲学人 ー�
2011年09月08日(木)                     
 * 精神と肉体ー 二元論  ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 
 ーまずは二元論についてのデカルトの誤りを、ライルが指摘している部分ー
【 ライルは二元論について『心の概念』で、私たちの誤用に的を絞って
 書いている。ライルの攻撃対象はデカルトである。・・ 二元論の生みの親
をデカルトと特定したが、実際には二元論、もしくはそれに似たものは、原始
時代から人間についての通説となっていた。常にと言っていいほど、人は自分を、
肉体と、肉体に宿る非肉体的な要素から出来ているとみなしてきた。そして常に
時代によって霊、魂、心と様々な呼ばれ方をしてきた、この非肉体的要素を、
ある程度独立した存在として、また、そうなる可能性があると見てきたと言って
いい。私がかつて、この事実を挙げて異議を申し立てると、ライルはこう答えた。
「この間違いを最初に犯したのがデカルトだと思っている人はいないでしょう。
要はデカルトがこの考え方をとても明確に打ち出したので、デカルト時代以降、
これが教義もしくは定説なったということです。シェイクスピアも聖書も言って
いませんが、デカルトは実際にこう言いました。『私の心はひとつの実体であり、
私の身体はそれとは別の実体である』と、それが事実であるかのような言い方
なら、それまでもされたことはありました。が、デカルトは確かに事実である
と言ったのです」 実を言うと私はそうは思わないのだが、それはさておき、
精神という実体などないのだから二元論は誤りというのがライルの主旨。
  その著書で述べられている詳細な分析をもとに、ライルはこう書ている。 
≪ われわれ人間が行なっているのは、自分の行動と経験のある部分を精神的な
 ものとして分類し、その他の部分とは異なる、主体に帰属させること、そして
その主体を精神として物象化することである。精神に関連する概念の使用法を
入念に調査すれば、そのようなことをする正当な理由はないということがわかり、
さらには人間は単一の存在であり、行動と経験のただひとつの主体で、アイデン
ティティも歴史もひとつしかないことが明かになる。 われわれはふたつの実体
が神秘的に結びついたものではない。これまでわれわれは、「カテゴリー錯誤」
(ライルが哲学の世界に広く普及させた用語)を犯してきた。
われわれは精神という概念を一種類のものを意味するとみなしているが、実際は
多種多様なものを意味している。精神とは、独立して存在する実体であって、
なんらかのことをして経験をもつものと考えているが、通常はさまざまな行動
形式のうちのいくつか(行為、気分、経験など)を総括する言葉にすぎず、また
こうした行動様式はどれも、正しくはひとつの主体に帰属させるべきなのだ。
このカテゴリー錯誤がもととなって、われわれが自分自身を想定する上で、
そして考えたり語ったりする上で数多くの誤りが生まれている。これは哲学的
誤謬の好例であり、我われの思考の広大な領域はこの誤謬に犯されている。≫
ライルの本は、いかにして言語分析派がこうした問題を解決するかを示す
範例である。P・106 】
▼「肉体が消滅した後、私(精神)はどうなるのだろう」という疑問
 そのものが、二元論である。デカルトが言わなくとも、大昔から天国か
地獄に召されると言われている。肉体と精神と、改めてデカルトが述べただけ。
肉体が無くなれば、当然、精神とやらも消滅するのは、当たり前である。
精神を指している一つに『言葉』がある。「生きているときに発した言葉。
それは現在でも生きている」というが、それは、生前に発した言葉。
死んだ後に、言葉は発せられない。


6020,閑話小題 〜平成の30年は何だったのだろう

2017年09月07日(木)

   * 平成も終わりつつあるのか?
 来年で、太平洋戦争・敗戦の5ヶ月後に生を受けて71年、昭和の時代を
42年と、平成を29年生きたことになる。そして来年、新たな年号になる。
前半が昭和時代、後半が平成と、新たな年号の時代を数年?生きたことになる。
 時代背景は、戦後の昭和時代が右上りの時代で、平成はバブルとバブル崩壊で、
右下りの時代。冷戦としても、世界戦争が無かったのが最大の特徴だった。
一貫していたのは、恵まれた時代背景にタイミング良く生まれてきたもの。
バブルの恩恵も、反動も、十分に味わうことが出来た。出生も、家庭環境も
恵まれ、比較的順調の人生を過ごすことが出来た。大家族の末っ子の立ち位置
も良かったようだ。

   * 昨夜は寺泊で、中学校の同期会
 昨夜は、長岡から40分ほどの海岸にあるホテルで中学校の同期会があった。
集合時間まで少し時間があったので、良寛の由来の「国上寺」に立ち寄った。
30年以来になる。ここに別荘用の墓?と一瞬、思ったが、さて如何する?
誰一人来ない墓も如何なるものか?100年後に生きた証で残るのは、これだけ?
 出席は36名。 会費は宿泊込みで18000円、日帰り10000円。
ホテル内の二次会を中座して、そうそうに帰ってきた。この同期会の準備会と
名うって、長岡駅周辺で年に3〜4回は開かれている。老いるに従い、同級会、
同期会は、魂の故郷に戻ってくるような妙な感がする。同期は360人というから
出席率が1割。150人に出欠の葉書を出したという。70歳を過ぎると、1年1年、
翌年、出席できる保証がないため「何はさてあれ、出席」になる。会う度に、
互いの老いが深くなっていく。「あとは野となれ、山となれ!」の、一期一会
の出生地なればの、際どく、かつ面白い会であった。幸せの人は、どこまでも
幸せそうで、逆も、そう。 幸せには法則がある。幸せ状態が、幸せを呼ぶ。
 
・・・・・・
5654,閑話小題 〜TV映画の楽しみー『ミスト』
2016年09月07日(水)
   * TV映画の楽しみ 〜『ミスト』
 アメリカ発の『刑事コロンボ』『ポアロ』刑事・探偵シリーズものが面白
かったが、今ではイギリス・北欧発に面白いのがある。半年前に、寝室に録画機
を入れ、二室目契約でWoWoWを見るようになってから、静粛の中、映画、ドラマ
鑑賞をしている。最近、見つけたのが、WoWoWの深夜時間帯の映画。そこには、
少し残酷だったり、マニアックなものが多い。これをスポーツジムから帰った
15時から17時までの時間帯に見るのである。 先日見たのが『ミスト』。
その意味は霧。「ラスト15分の衝撃的な展開」が良い。
  *『ミスト』のラストが凄い!  〜ネット検索によると
■ あらすじ:『嵐の翌日、デヴィッドは異様な霧に懸念を抱きながら息子と共
 にスーパーマーケットへ買い出しに出掛けた。すると、その濃い霧は間もなく
買い物客でごった返すマーケットに迫り、ついには町全体を飲み込むように
覆っていく。人々がマーケットに缶詰状態となる中、霧の中に不気味な怪物を
発見したデヴィッド。 一方、骨董品店の女主人カーモディは狂信めいた発言で
人々の不安を煽っていく。その夜、突如として霧の中のモンスターたちが襲撃を
開始、店内は大混乱に陥った! 原作者スティーヴン・キングと、フランク・
ダラボン監督が「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」に続いて再び
コンビを組んだ驚愕のホラー・ミステリー。霧(ミスト)の中に待っていた
ものは何か?映画史上かつてない、震撼のラスト15分!』
  〜ネットの感想に、その物語を簡略したのがあった〜
≪ ストーリー的にはシンプル。ある日、街に霧が発生した
 → やがてその霧はどんどん大きくなり、街全体を覆い尽くす
→ たまたまスーパーマーケットに買い物に来ていた主人公
→ すると突然お爺さんが「霧の中に何かいる!」と叫びながら飛び込んで来た
→ 霧の中から”見た事も無い不気味な生物”が出現
→ 全員、スーパーマーケットに閉じ込められてしまう…と、序盤の展開。
この後はひたすらスーパー内部での描写が続き、「出て行こう!」「いや残る
べきだ!」など異常な事態に直面した”人間同士の醜悪な言い争い”に終始。
そして徐々に精神的に追い詰められた人々は、「神の裁きが下されたのよ!」
と煽る宗教かぶれのオバサンの言う説得に耳を傾け始める。”霧の中のもの”
を描くのではなく、”得体の知れない何かに翻弄される人間の姿”を描くことが
メインだが、しかし!この映画の真価は、「ラスト15分の衝撃的な展開」に
よって初めて発揮される! 徹底的に追い詰められた主人公デヴィッドたちは、
スーパーからの脱出を決意。車へ乗るまでの僅か数十メートルで数人が化け物
に食い殺され、残ったのはデヴィッドと息子を含め5人だけ。一行はデヴィッド
の家へ向かうも、既に化け物の巣窟と化しており、奥さんも死亡していた。
あてもなく彷徨ううちにガソリンも底を尽き、救援の道を断たれた彼らが最後
に選んだ道は… 拳銃には弾が4発しか残っていなかったため、デヴィッドは
息子を含めた仲間4人を射殺。 半狂乱になったデヴィッドは車を飛び出し、
化け物に喰い殺されようと大声で叫び続ける。ところが、あれほど大量に発生
していたモンスターの姿がどこにも見当たない。いったいどういうこと?
その数分後、急に霧が晴れ、辺りが鮮明になってきた。そこでデヴィッドが
目にしたものは…おびただしい数の難民と兵隊、陸軍のジープ、戦車の姿。
陸軍は火炎放射器で怪物を焼き払い、スーパーも無事に解放されていた。
茫然と立ち尽くすデヴィッド。そんな彼の前をトラックが横切ります。
その荷台にはスーパーを飛び出した子供とその母親が乗っていました。
あともう少し耐えれば、デヴィッドと彼の息子も助かっていたのに…。
結局、デヴィッドは無事に救助されるが、いつまでも絶叫し続けていた… ≫
▼ 何とも後味の良くない内容だが、最後の思いもしない結果が圧巻。
 スーパーで、それぞれの人から現れ出てくる究極での人生が見えてくる。
得たいの知れないバケモノの正体が、軍部の秘密部隊が、空けてしまった
時空からの侵入者という設定も面白い。 ところで、シリーズものドラマと、
シネマ分を加えると、年に500本はみている? その、どれもこれも面白い。
 現実も面白いが、デジタルのフィクションの世界も面白い。
ますます馬鹿になるわけだ。

・・・・・・
5289, ー「原因」と「結果」の法則 ー  〜��
2015年09月07日(月)
   ー「原因」と「結果」の法則 ージェームズアレン(著)
 〜まえがき〜より
《 私がこの本で行っていることは説明というより提案であり、その目的は、
 出来るだけ多くの人たちが、みずからの手で、「自分こそが自分の人生の
創り手である」という真実に気づくことにあります。
 私たちは、自分自身が選び、めぐらしている思いによって、自分の人生を創り
上げています。心は、人格という内側の衣と、環境という外側の衣の双方の、
熟練した織り手です。そして、それらの衣は、これまでは暗闇と苦悩の中で
織られてきたかもしれません。でも、それらは、そもそも光と幸せのなかで
織られてしかるべきものなのです。》
   〜思いと人格〜
《 行いは思いの花であり、喜びは悲しみはその果実です。思いによって私たち
 人間は、自分自身を育てる、甘い、あるいは苦い果実を収穫し続けるのです。
「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」
・・私たちは、自分の人生に深く思いをめぐらし、それを創り上げている法則を
自らの手で発見したときから、自分自身の賢い主人となり、自分自身を知的に
管理しながら、豊かな実りへとつづく思いを次々とめぐらすようになります。
そのときから私たちは、自分自身の意識的な主人となります。・・ 》
▼「念じれば花開く」である。「因果応報」という仏語がある。
 その意味は、【行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では
悪いほうに用いられることが多い。 「因」は因縁の意で、原因のこと。
「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと】
 仏教的考えを、西洋的に説いているともみれるが、思いが、如何に大切か。
人の心は9割がマイナーの思いに捉われているというが。意図的にプラスに
することは可能。 己を導くのは、誰でもない、自身だけ!
・・・・・・
4924,パワレルな知性 ー2
2014年09月07日(日)
   * カフェという集い −�    悒僖錺譽襪蔽寮�』鷲田清一著
 『カフェ』について、が面白い!
   ー 学生時代の効用は、このフリーの立場での交わりが良い!
≪ このところ市中では「カフェ」という催しが盛んである。
「カフェ」と いっても喫茶店のことではない。「サイエンス・カフェ」とか
「アート・カフェ」といった類の、小人数でおこなうディスカッションの会。
市民が三々五々集まり世情について自由に論議し、その議諭を活字化するあの
ジャーナリズムの原型ともいうべきものを生んだ、英国の「コーヒーハウス」
にちなんで、そう名づけられたらしい。じつはわたしも15年ほど前から
「哲学カフェ」なるものを、町なかの集会所で、あるいはお寺の一室を借りて、
そしてときにじっさいに喫茶店でもやってきた。何について議論するかは、
集まった顔ぶれでその場で決める。そしてテーマに即して、だれかがまず
じぶんの経験を、そしてその解釈を語りだしたあとは、それを糸口に延々
三時間から五時間、あれこれ話しあう。 ルールはかんたんで、
:たがいに名を名乗るだけで所属も居住地も明らかにしない、
:人の話は最初から最後まできちんと聴く、
:他人の著書や意見を引きあいに出して長々と演説をしない、この3つである。
わたしはもう籍を離れているが、大阪大学の臨床哲学研究室では、かつての
同僚や大学院生たちが個々にそれを拡げ、通算すると、もう数百回になると聞く。
ある日、もっとも年配の参加者が最後にぽつりと話したことばが忘れられない。
司会をしていた大学院生がまとめに窮しているときに、その、老人が口を
はさんだ。「まとめんでいい、知り合いでもない孫のような歳の子とこんなに
『家族とは何か』ということをまともに話しあったというだけで満足や」。 ≫
▼ 人生を振り返ると、20歳代の経験がベースになっている。視点が固まる、
 それまでが分かれ目! それに10歳までの実家の店舗での生活もある。 
今から考えると、様々な人間が集まり、その生態が、あからさまに露出していた。
『花子とアン』の主人公ではないが、「朱に交われば赤くなる」である。
そこで、如何にオープン状態で、書籍と、様々な人と触れ合うか、その質量で、
人生は決まってくる。そこで大きな知的劣等感を得たのが、私にとって、
最大の収穫。以来、半世紀近く独学をしてきたが、私には器の大きさが
足りなかった。更に『酒量』『一言』が多過ぎた!
・・・・・・
4557, グレートジャーニーから見えてきたことは ?  ー2
2013年09月07日(土)
 * 携帯電話が、世界を変えている  
       「新潮45ー6月号」 ーたけしvs・関野吉晴の対談ーより
 旅番組などで、ケニアなどの僻地でマサイなどが携帯電話をしているのを
見かけて驚いたことが何度かあった。携帯電話の電波環境が出来ているためだが、
さほどインフラに資金がかからないのだろう。考えてみれば、僻地ほど濃密な
繋がりと日々の生活情報が必要である。苦労して僻地についた先で、携帯電話
をしている姿を見たらガックとするはず。ーその辺りが具体的に書かれているー
【 たけし〕ところで、そういう極限の地域で暮らしている人たちの生活って
 今も昔と変わっていないのですか。関野〕昔は自分たちが食べていくために
自給的生活とか狩猟採集で暮らしていた人々が、換金可能な作物を作っている。 
現金収入を得ないと生活ができなくなっている。最近はグローバリゼーション
がアマゾン、シペリア、 アフリカとか、どこまでも進行しています。
特にすごいのは携帯電話ですね。携帯で全てが変わります。
 たけし〕 それはどういう意味でですか。
関野〕携帯電話は世界を変えていますよ。アマゾンには、僕が四十年前から
 つき合っている先住民の部族がいます。 最初会った時は、大人たちは腰巻
だけつけて、子どもは素っ裸でした。そんな村でも三十年前に学校ができた。 
それは小学佼しかないから、中学校に行くようになると町の寄宿舎に人る。
高校生になると、皆な携帯を持ってる。村に帰ってくると電波は通ってません
が、携帯でダウンロードした音楽は聴ける。そうなると若者は伝統音楽ではなく、 
ロックを携帯で聴くようになる。文明人に近いほうがステータスが高いと
思うと伝統音楽に目を向けなくなり、どんどん文化が変わっていく。
アマゾンの奥地でさえそうなるのですよ。」
たけし〕 あっという間の変化ですね。
関野〕 ここ数年、フィリピン、マレーシア、インドネシアの海域で淘賊が
 いっばい出るところがあるんですけど、 そこにパジョという家船生活をして
いる漁民がいるんです。
たけし〕 確か百万人ぐらいいるとか。
関野〕それは海岸縁に杭を打ち込んで家屋をつくって住んでいる人たちも
 含めての数字です。わずかに家船で陸に家を持たない人たちがいて、その人
たちのところに僕は「泊めてください」と言って、一緒に暮らしていた。
ちょうど僕が訪ねた頃に彼らの生活にも携帯電話が入ってきたんです。
たけし〕 2004年から、日本人の祖先が日本列島に到達するルートを辿る
「新グレートジャーニー」(〜2011年)を始めていますが、それに挑戦していた
時のことですね。
関野〕 はい。南方から船で海上を渡ってきた日本人の祖先のルートを辿ろう
 としたんです。風の関係で航海で暫なくなると、パジョの人たちのところに
通っていました。彼らにとっても携帯はすごい役に立っている。家船が十数隻
あって、夜は集まってくるんですが、昼間は別々に魚を穫りに行ったりして
行動している。その時に、海賊がいるかいないか、携帯があれば安全かどうか
確認できたりするわけです。
たけし〕 海の上で電波が届くわけですか。
関野〕 沿岸から五キロまではアンテナがあれば届きます。
たけし〕海の漂流民がそうならば、砂漠のペドウィンはどうなんだろうね。】
▼ これは、僻地だけでない。都会の社会的弱者にも携帯が普及。
 弱者が結びつけば、強者に変身する。中国など多くの社会的矛盾を抱えた
国家は、ある日突然、この矛盾への暴発が起こることになる。そこにパソコン
機能が入ったスマートフォンの普及は、世界を根底から変えようとしている。
貧富の格差は、情報の格差から生じるが、それが均質化されていくとしたら、
格差は一部を除いて是正されていく。ただし、それは世界平準に近づくため、
G8は、G20の国々の平均値に、G20は、世界200ヶ国の平均レベル
になっていく。日本にとって、それは貧乏への茨道!
・・・・・・・
4182, 呪いの時代 ー2
2012年09月07日(金)
          「呪いの時代」内田樹著
 呪いに対する言葉は祝福。含めて世の中が右上がりの時は、何事もハッピー。
しかし、世の中全体が右下がりになり、暗い世相の中では一部の勝ち組を傍で
祝福する人は少ない。羨望と嫉妬が、そこに生じてくる。特にこの情報化で、
そのの事態が生で伝わるから呪いが社会全体を覆ってくる。その中でハッピー
にいるには、「にもかかわらず祝う」しかない。現に生きている、そのことを
祝う諦念である。最後は生きている感謝しかないのである。
今さら世を呪っても致し方がない。
  * 「このようなもの」でしかない自己の承認   
     ー第2章 「祝福」の言葉についてーより
≪「生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりパッとしない
 この「正味の自分」をこそ、真の主体としてあくまで維持することです。
「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け入れ、
承認し、けなげに生きている姿を可憐と思い、一掬の涙をそそぐこと。
それが「祝福する」ということの本義だと思います。呪いを解除する方法は
祝福しかありません。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け容れ、
自分をだきしめ、自分を愛すること。多くの人が誤解していることですが、
私たちの時代にこれほど攻撃的なふるまいが増えたのは、人々が「自分をあまり
に愛している」からではありません。逆です。自分を愛することがどういうことか
を忘れてしまったせいです。私たちはまず「自分を愛する」というのがどういう
ことかを思い出すことから、もう一度始めるしかない思います。≫
▼ 第二次大戦後、経済成長という僥倖に恵まれ「自由」が容易く転がり込んで
 来て、安手の「近代」を掴んだ。しかし、それが崩壊する中で、「全て他人が
悪い、自分は悪くない」という他責的で未成熟な言説がメディアにより拡がった。
豊かさが急速に萎み、大多数がプアーになりつつある中、呪いの時代と思われる
ほど惨めな社会になってきた。「このようなものでしかない」自分を受け入れず、
承認せず、祝福せず、自分探しという自分でない突っかい棒を求めて彷徨って
いる社会。わが国は平城平安の時代から呪いを基軸にして変転してきた。
ここで急に「呪いの時代」がキーワードになったのではない。呪いがあればこそ
古事記、日本書紀、源氏物語、平家物語、太平記、法隆寺、北野天満宮も正史に
登場しなかった。日本の文化文明の本源は、この呪いにある。だから一時でも
よいから祝うしかない。お祭りは、そのためにあったといえる。
社会に出てからの読書習慣がなかったら、現在、世を呪い、過去を後悔し、
人生そのものを否定しているはず。 娑婆娑婆!


6019,閑話小題 〜人間は「使い捨てカメラ」である

2017年09月06日(水)

   * 人間は「使い捨てカメラ」である
 ジャーナリストの大江瞬の「人間・使い捨てカメラ・論」が面白い。
≪ 12、24、36枚撮りのカメラは、写し終えると、そのまま現像所に送られる。
その後、カメラは解体され、フィルムだけが取りだされる。写し撮られた元の
風景は、カメラが製造される以前からあったもので、カメラがスクラップした
後も、そのまま残る。現像されたフィルムに、ピンボケだったり、何も写って
なかったら、その人の人生は虚しく終わったのかもしれない。風景は残り、人間
だけが入れ替わる。… かつての音楽を聴きながら、そのアーティストたちは、
みんな死んだ人たちである。女性歌手ならデビュー当時の溌剌とした若さから、
美しさの絶頂の20代、アラフォー、ファイブの熟女となり亡くなる前の魔女の
ような姿まで、その折々の歌声とともに記録映画・音声として残されるのは残酷
だが、それも偉大な芸術家の勲章である。… ≫
――
▼ デジカメが出来た現在、「使い捨てカメラ」をあまり見かけなくなった。
 そこで考えたのが、「人間はデジカメラである・論」。
<デジカメの進化で、気楽に、安価で、何処でも写真が撮れ、一枚のSDに数千枚
の鮮明の写真を撮りおくことが可能になった。ビデオも可能のモノもある。
そして、ブログに記念として残せる。書くことより、撮影しネットにアップする
媒体が人間の役割になっている。その写真が美しいほど、本人が薄れていく。
本人にとって、それで充分に満足。そのネット上の蓄積が、同じ嗜好の価値と
して円熟し、成長していく。カメラ、記録媒体は、止まることなく進化する。
これが人間にもいえるのでは?> 
 世界も、そこに生きる人間も刻一刻と変わっていく。カメラの機能も、それを
映し出すテレビやPCなどの媒体も人間の5感を遥かに超えて写し出す。それが、
進化し続けて止まらない。対象を一度、高性能のマシーンを通して見れるのも、
科学の恩恵。何か、本筋から大きく逸れたが。 これからすると、
「よりデジタル機能を多様すべし」になる。 仮想世界は、刺激的で面白い!

・・・・・・
5653,「家、ついて行ってイイですか?」 ー��
2016年09月06日(火)
 ネットの[教えて!goo] で、「ぬいぐるみに話かける男」に対する回答が7人
あったが、ほぼ肯定的の内容。 自宅から離れた学生時代の初めての独り暮しで、
部屋の座り机に鏡を置き、自問自答をして寂しさを紛らわせていたことがあった。
誰とも話す相手が居ない都会の侘しさの極めである。自宅通いの都会育ちは、
このシェアハウスの生活が羨ましそう?でもあった。25室の寮生活の生活環境は、
トイレと、共同台所と、洗濯場がある、今でいう<シェアハウス>風で、誰かが
部屋に遊びに来て談笑するなどの温みがあった。しかしアパート暮らしの友人は、
慣れるまでの1〜2年は、長期の連休前になると、誰とも接点が無くなるためか、
帰宅恐怖症的になって、喫茶店で同類と群れていた。3連休以上はキツイらしい。
 しかし、この都会の孤独経験が貴重で良いのである。青年期の一時期、殻に
篭る生活が必要である。
 現在、書斎コーナーのパソコン横に、両親が残した小さな布袋と百万長者像、
ネパールの市場で買ったミニ仏像、マリア像、自然石の仏様の像、仏像を彫り
こんだ胡桃、ガラスの地球儀などが並べてある。息抜きに、撫ぜると、なぜか
気持ちが和む。それもあってか、ノイローゼや、落ち込みはホボ無い。 
数ヶ月前から、就寝時に、梅干大の大きさのラジウム石を握り眠っている。
真中に穴が開いており、そこに紐を通して、指に絡めているため、熟睡しても
転げ落ちない。数年前に、一年以上使っていたものだが、復活。ラジウムが手
から直接伝わり熟睡できる。岩盤浴に近い効果があるのか、気が充満してくる。 
 就寝用の「ラジウム握ぎ握ぎ」ということか。 終の入院には、これらを
持ちこみ、枕元に、小さなオボンに並べて、手にはラジウム石を握り締めて。
イメージは、亡くなった家族に囲まれたイメージを持ち、虚空を彷徨いながら。
――
  * 「ぬいぐるみに話かけるのは変ですか」に対する返答
≪ 〜No.7 回答者:
こんにちは、いいんじゃないですかね〜、私ならキモくもないしドン引きも
しません。私もお針は得意なので、修繕してあげたいです(笑)
 以前交際してた男性がそんな感じで。20代後半のとき、百貨店のおもちゃ
売り場においてあったオレンジ色の熊のぬいぐるみに一目ぼれ。4000円ほど
だったのですが、大のオトナ、しかも男が・・ と本人は熊を撫で回しながら
悶々と悩んでいましたが、「ほんならアタシがプレゼントしよか?」と提案
したところ、大喜びでした。幼稚園児の姪が「アレで遊びたい」とお願いしても、
ダメ! と触らせないくらいのかわいがりようです。 (彼の留守中に来て、
勝手に遊んでたらしいですが・笑) そこから何に目覚めたのか、古くなった
シャツや家族の洋服をリサイクルし、テディベア作りにハマリ始めました。
パソコンで型紙から起こして作るような凝りようです。ぬいぐるみ作家って、
結構男性もいるそうですよ。そんな彼も40を過ぎましたが、オレンジ色の熊に
「みかんちゃん」と名づけ、今でも大切に飾ってあるそうです。
そんな人もいるということで(笑) ≫
▼ アブラハムの創出したラージXの『神』は、この「ぬいぐるみ」に似ている。
 それを共同幻想化したアラーの神である。問題は、人種間に分裂した仲間割れ。
人間には共同幻想が必要。コスプレは、その人形になって楽しむこと。ホテルの
ロビーで、その集団に遭遇した時の驚き。若いから出来ること。 ハロウィンは、
それを祭りにして練り歩く行事。 数年前に行ったモントリオールが、その日で、
千人近い血だらけの殺人者の仮装行列に出会ったが、その面白かったこと!
人生の砂場の遊びは、深くて、味わい深いものがある。極限では、味わえない。
その先に何歩も踏み出さないと、それらとは出会えない。
「達磨さん、こちら向かんせ世の中は、雪月花(ゆきつきはな)に、酒と三味線」
【花見酒】 世の中は月雪花に酒と三味線 酒のない国に行きたき二日酔い、
      また三日目に帰りたくなる
・・・・・・
5288,「毎日を一生懸命すごすこと」の価値 〜『自分を超える法』
2015年09月06日(日)
         ー『自分を超える法』ピーター・セイジ著ー
  * ミツバチが教えてくれた「毎日を一生懸命すごすこと」の価値 
‘考え方さえ変えれば、お金は必要ない’と、自分を超える「5つの法則」
を提示する面白い本である。その中の、色いろな寓話が良い。
ランダムだが、ミツバチの寓話がよい! 
  〜ハチミツをつくることが、ミツバチの真の仕事ではない〜
≪ ここで寓話を1つ紹介します。
 起業家のキース・カニングハムから聞いた、ミツバチの話です。
ミツバチの生きる目的を知っているかい? もしミツバチに
「何のために生きているのですか?」と尋ねたら、きっとこう答えるだろう。
「ハチミツをつくることが仕事よ。せっせと蜜をつくるの。
なぜなら私たちはミツバチだから。」 キースが続けます。
「でも、その答えは必ずしも正しくない。ミツバチには、ハチミツをつくる
ことなどよりも、はるかに重要な役割があるんだよ。その役割とは、花の
『花粉』を運び受粉の手伝いをすること。それにより花は咲くことができ、
生命が循環している。仮にその営みを取り去ったとしたら、すべての生態系
が崩壊してしまうほど、もっとも根本的、かつ絶対不可欠な役割を担っている」
 当のミツバチは、おそらくそのことを知らないでしょう。もし、今全世界の
ミツバチが自意識に目覚め、次のように言い始めたらどうでしょう?
  〜無意識でやっていることが、貢献につながる〜
「ねぇ、私。生きる目的を知りたくなってきたの。仕事を放りだして山で
瞑想するわ。生きる意味の答えが見つかるまで、山頂のバラの茂みに
しばらく引きこもるの。使命が見つかれば、充実感と情熱に満たされて、
また仕事に戻ることができるから、しばらく休むね。」
 全世界のミツバチが突如そう言い出したら、花が咲かなくなり、
生態系の循環が停止してしまいます。
 当のミツバチは気づいてないかもしれないが、
「毎日の仕事を精一杯こなすこと」で、彼らの「真の使命」がまっとう
されているのです。 私が言いたいのはこういうことです。
〈あなたが日々無意識に自然体でできていることの中には、
   実は世界に大きく貢献しているようなことがあるのです。〉 ≫
▼ 人間は、言葉を持ったお陰で、「毎日を一生懸命すごすこと」の価値を
 理解できる。とはいえ、目の前の問題に集中し続けてこそ、その先にある
「真の役割」が理解できる。人生を振り返ると、節目に大きな機会がある。
表面的には挫折というカタチを装うが、実は、生き方を変える節目時を
運命が提示をしてくれている。4年前の節目は、〔余白はさほど残されてない、
余裕を持って死に準備を始めなさい。まず手始めに、会社の整理から!〕
・・・・・・
4923,パワレルな知性 ー1
2014年09月06日(土)
   * 価値の遠近法      『パワレルな知性』鷲田清一著
 鷲田清一の「価値の遠近法」が面白い!
  ーネットによるとー
≪ 「価値の遠近法」は、あらゆる事象・物事を次の四つに分けること。
 � \簑个防�要なもの、失ってはならぬもの
 �◆,△辰討發いい韻匹覆�てもいいもの
 �� なくてもいいもの
 �ぁ\簑个防塒廚覆發痢△△辰討呂覆蕕覆い發�
彼は、これが上手に仕分けられる能力を「教養」と呼び、その重要性を
 いろいろ示す。
「価値の遠近法」は、それぞれ自身の価値観を明示的にする効果がある。
四つに仕分けることで、「何を大切にしたいのか」を自らに問い掛けることに
なるからだ。自らの価値観を知ることは、自己理解の最も重要な要素。
当然、人によって仕分け方は違うため、自らの仕分け方と他者のそれを比較し、
違いが起きた理由を探ることで、他者を理解するきっかけになる。
「価値の遠近法」を実践していくと、ある「真理」に気づくという。
「大事なものほど、仕分けづらい」「重要なものほど、答えがない」という真理。
いま大きな社会問題になっている原発推進の是非を問う論争が、まさにこれ。
推進派と即時廃止派、さらには漸減派、一旦凍結派等々、議論が百出する。
「何を大切にしたいのか」を巡る論争には、唯一絶対の正解などない。
さらにこの問題を突き詰めてみると、わたしたちは、正解が見えないものに、
とりあえずの解を出さないと前に進めないことにも気づく。 私たちは、
不確定要素に満ち、偶然に左右され、先行き不透明な問題に囲まれ生きている。
わからないものに取り囲まれ、わからないままベストの解を出すことを迫られる。
国の経済政策も、企業の経営戦略も、個人のキャリアも、構造は同じなのだ。 
こういう問題に直面して、「価値の遠近法」を使って、よくわからない問題を
仕分けていく時に必要なポイントについて、「ようわからんけども大事!という
勘がはたらくか」「わからんことに囲まれていても、なんとか切り抜けていく」
野性的な思考が必要という。≫
▼ <「右下がりの時代」は、社会が‘まとも’になっていくためには
 悪いことではない。右上がりの時代には次に何を手に入れようかと考えて
いたわけだが、下がっていく時代には「何をまずあきらめるか」を考えざるを
えない。「価値の遠近法」を、嫌でも頭に入れておかなければならない>
とあるが、老いていくことは、不要なものを捨てていくこと。
「価値の遠近法」の�ぁ↓�、�△函�一つずつ捨てて、�,帽覆襪海函�
そのために教養が必要になる。今さら遅いかどうかは、その人によるが・・ 
「お金は、�◆△い筺↓ �」
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4556, グレートジャーニーから見えてきたことは ? ー1
2013年09月06日(金)           
 * 追われ追われて南米最南端 
        「新潮45ー6月号」ーたけしvs・関野吉晴の対談ーより
 冒険家が人類の移動の跡を辿って見えてきたのは、
「人類の弱者が、より悪い環境の地に追い込まれて、その繰り返しの究極の地が
南米最南端パタゴニアであった」ということ。アフリカから追われ、その移動先
で落ち着くと、その中の弱者はまた弾き出される。その積み重ねが、アフリカ
から南米の最南端までの人類の軌跡であった。その過程で生き延びる知恵こそ、
弱者の知恵になる。その過程で彼らは進化したかというと、そうではない。
北アフリカと欧州に留まり闘い続けた人間が、文明の基礎を作りあげていった。
逆に、エスキモーとか、南米インディアンは、逃げることで生き延びていった。
弱者には逃げるしかない。この切り口で人類の歴史を鳥瞰してみると面白い! 
僻地の人間は、そのためか優しい。  ーその辺りから抜粋ー
《 たけし〕しかし、六万年前に人類がアフリカから移動していって、
 世界中に広がったルートを逆に辿る発想は面白いけど、ずいぶん無茶なことを
しましたね(笑)。
関野〕 確かに逆ルートは無理があります。やっぱり人類は逆ルートで移動しない
 ことが、やってみると分かります。全部、逆風なんですよ。例えばべーリング
 海峡を渡るときに、風速5〜10Mのいい風というのは西から吹く。 
 僕はアラスカからシベリアに行くわけですから、東風が欲しい。しかし、
 東風は風速15M以上になることが多い。  
たけし〕どうしてアフリカで生まれた人類が全世界に移動したと
 言われているんですか?
関野〕研究者によって意見が違っていて、僕は最初、「あの山を越えたら
 何かあるんだろうか」という好奇心、あるいは「あの山を越えたらもっと獲物
 がいて、いい暮らしが出来るんじゃないか」という向上心で心で動いていたと
 思っていました。もしそういう好奇心とか向上心とか、いわゆる
 進取の気性に富んでいたなら、一番遠くまで行った人たちの末裔のはずです。
たけし〕そういうことになります。
関野〕ところが行ってみたら逆でした。南米最先端に行った人は一番弱い人です。
 そこでは狩猟生活もできない。ホタテとかカニをとって生活をせざるを得ない。
 どうしてそんなところに移住してきたのだろうと考えてみると、弱いから。
 例えば、あるところが住みよいとなれば人ロが増えていきますよね。
たけし〕 そうなると誰かがふき飛ばされる人が出てくる。
関野〕ええ、誰が出ていくかが問題になる。強い人出ていきません。
 そこで、はじき出された人がフロンテアに行くわけです。滅びてしまう人も
 多いと思いますが、そこでバイオニアになれた人が生き残れる。
 創意工夫を働かせて適応した人が「住めば都」に変えてしまう。
 そこでも人口が増えると、また弾き出される人たらが出てくる。
 だから、日本は弱い人の吹だまり。それ以上、東に行けないわけですから。
たけし〕日本人がもともと弱い人間の吹だまりだというのは面白いね。
関野〕それはイギリスも同じですね。もっと西に行けない。ところが、いいか
 悪いかけ別にして、日本はアジアを制圧しようとしたし、イギリスは世界を
 制覇しようとした。だから、弱いといって、いつまでも弱いわけでない。
 弱いから逆にいろんな知恵を使うわけです。元もと人類はその誕生のとき
 から、弱いから知恵を使って生きてきた。 》
▼ 強みは、弱者の苦労から湧き出る知恵から生まれる。決して野心を持って
 挑んだ訳ではない。弱者の知恵こそ、力になる。弾き出した方はといえば、
変化適応能力が無くなり弱者になっていく。 何処かの国か、地域そのもの。
脱皮できない蛇は死ぬ。
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4181, 呪いの時代 ー1
2012年09月06日(木)
              「呪いの時代」内田樹著
 なかなか時代の特質を捉えた面白い本である。バブルと、バブル崩壊後、
日本は20年以上も下降曲線をたどっている。経済大国と言われたのも遠い
過去になりつつある中、人々は、その環境の中で互いに呪い、怒りをぶつけ
あっている。そして中流社会が崩壊を始め、総下流化社会になりつつある。
そこでは互いに呪い、一部勝ち組を呪う時代になっている。
呪いは人間としての悪い意志、否定的な情動であるが、その核心部分には
他者の全面否定と破壊と殺意が内蔵されている。自己崩壊は他者への憎悪と
なり自他とも傷つけるだけでない、未来へ希望と友愛を損傷する。
「呪いの時代」は、言い得て妙である。
  * まずは、第一章 呪いの時代より
≪「呪い」は今や僕たちの社会で批評的な言葉づかいをするときの公用語に
 なりつつあります。「弱者」たちは救済を求めて呪いの言葉を吐き、
「被害者」たちは償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義の人」たちは公正な
社会の実現を求めて呪いの言葉を吐く。けれども彼らはそれらの言葉が他者
のみならず、おのれ自身へ向かう呪いとしても機能していることにあまりに
無自覚のように思われます。20年ほど前、まだ僕が学会というところに顔を
出していた頃までは、学会発表後の質疑応答で、「あなたは…の論文を読んで
いないのではないか」とか「周知の…についての言及がないのはなぜか」
といった、「そこで論じられていないこと」を持ち出して、「こんなことも
知らない人間に、この論件について語る資格はない」と切り捨てる態度に出る
学者が沢山いました。僕はそういう「突っ込み」を見るたびに、どうして
彼らは「自分の知っている情報」の価値を高く格付けする一方、
「自分の知らない情報」が知るに値しないものだとあれほど無邪気に信じて
いられるのか、その理由がよくわかりませんでした。僕たちは誰でも自分の
知っていることの価値を過大評価し、自分の知らないことの価値を過小評価
する傾向にあります。だから、学者にとっていちばん最初の仕事は、自分の
所有する学術情報を適切に評価することであるはずです。でも、
「君は『こんなこと』も知らんのか」と気色ばむ学者たちは「こんんなこと」
が議論の始点でなければならない理由について、ほとんど説明責任を持てない
ようでした。・・・・ 学者というのは「知識を持つ人間」ではなく、
「自分のもつ知識についての知識を持っている人間」のことだと思います。
ですから自分の知っていることは「知るに値すること」であり、自分が知ら
ないことは「知るに値しないこと」だと無反省的に信じ込める学者のことを
僕は端的に「学者の腐ったようなやつ」と呼んでいました。しかし、
学界だけの固有種であったこのタイプの人々が今ネット上では異常増殖して
いるように僕には思われます。ディスプレイに向かって、グーグルで
キーワード検索をしながら、個別的なトピックについてのトリヴィアルな
情報を入手することそれ自体は愉快なことですし、誰の迷惑になるわけでも
ありません(僕だって大好きです)。けれども、そうやって自分が仕入れた
知識の価値を「知識についての知識」というメタレベルから吟味する習慣を
持たない人にとっては、どれほどトリヴィアルな情報を収集しても、
それは学的には無価値だということは忘れない方がいいと思います。≫
▼「呪い」が、恐ろしい結果をもたらす事例を、あまりに多くみてきた。
特に、人生に恵まれてない人のそれは酷い。起こった現象しか見えないため、
その背後の原因を突き詰める能力が無いのである。呪いは、羨望が含まれている。
そのため周囲の全ての人が対象になるから始末が悪い。国会の有様は、正に
呪いの政争である。 呪いの政治は破壊しかない。

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