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堀井On-Line
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2017年05月17日(水)
閑話小題 〜回転(回らない)寿司
* 回転(回らない)寿司 TV番組のレポートで、回らない回転寿司のレポートを知っていた。 それが近くにできたSC内の一角にオープンした。歯医者がたまたま目の前 で昼時だったこともあり、一人で入ってみた。注文の全てがパネルタッチ方式で、 既存のパネルだけで発注するシステムと思えばよい。客の立場から一番良いのが、 厨房から握りたての寿司が数秒で目の前に届くため美味しさが違う。シャリが 立っていて街中の寿司屋のようだ。回転寿司といえば、目の前に次々と回って くる皿を取るが特徴だが、握られてから手に取るまでに平均10分?は要する。 しかし、これは口に入るまで、1分そこそこ。 美味いのは当り前。これでは、 従来の寿司屋はますます廃れる。あと5年もしないうちに、8〜9割方は、これに とってかわる? * つれづれに 毎日、スケジュールどおりに変わらない日々を過ごしているが、その中の柱が、 この随想日記を書上げること。これまで人生で起こったことと、日常の全てが テーマのネタになる。過去のネタと、日々のネタを仕入れ、縫い上げる物語化 するのに頭が一杯。しかし、これも慣れてくると面白い。いや、面白くなった が正直のところ本当。一寸したことで、落ち込みそうになるが、それも、物語化 をして面白がることで、何とか乗りきっている。これを書き続ける効用の一つが、 マイナスの出来事を、プラスに変容できること。 表現は、他人をも救うが、 自分も救ってくれる。たしかチャップリンが、映画の中で言った言葉、 <死は避けられない。しかし、生もまた避けられない>があるが、 避けられない生ならば、それを目一杯楽しむしかない。で、周囲からしたら、 奇妙な老人が、何かバカをしている? だけとしても、楽しければそれで充分。
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5541,閑話小題 〜 『ルーシー』
2016年05月17日(火)
* 『ルーシー』 先日、『ルーシー』をTVの再放送で観たが、半年に一回位は放映されている。 もう4〜5回はみている。私も微細だが、何か面白い特殊能力がある。誰も、 個々に特殊能力、いや脳力があるが、気づかず見逃しているだけ。この映画、 見る度、その面白さが増していくのも珍しい。それにしても、映画は面白い! 〜まずは、その内容から〜 【ストーリー】 ≪ マフィアの闇取引に巻き込まれたルーシーは、特殊な薬が入った袋を体に 埋め込まれ運び屋にされてしまう。しかし、体内で薬が漏れたことで彼女の 脳機能は驚異的に覚醒。脳科学者ノーマン博士が見守る中さまざまな能力が 超人的に目覚める一方、少しずつ人間性が喪失、自ら制御できなくなっていく。 『レオン』や『ニキータ』などクールなヒロイン像を打ち出してきたリュック・ ベッソン監督と、スカーレット・ヨハンソンが初めて組んだアクションスリラー。 体内に埋め込まれた特殊な薬が漏れたことで脳機能が驚異的に覚醒し、 人間離れした能力を発揮し始めるヒロインの暴走を描く。通常は10%程度しか 機能していない脳が、100パーセントへ向かって覚醒していくヒロインを見守る 脳科学者役に、オスカー俳優モーガン・フリーマンがふんする。≫ ▼ 西アフリカを南に下っていく道すがら、面白いところがあると立寄った 数軒のテントの店が全て、呪いに使う小道具だけを扱う店だった。当時は、 民度が低いアフリカの地方の一現象と見ていたが、どうだろう、案外に効果が あるのかもしれない。変と思われるかもしれないが、この5年間、いや人生の 節目ごと、直接、私の心の傷口を蹴り上げてきた人の8〜9割が人身事故か、 大病か、ごく近い親族が倒れ寝たきりとかになる。あとの1〜2割は、それが 入ってこないだけと思っていたが、その数人が、ごく最近・・? 自分でも 恐ろしい? 元もと不幸な性格の人が、他者の傷口に、自分の傷口の血を擦り 付けるため、それが膿んで、自分の傷口に毒が悪化するため。こんな映画を 数回も見るため、因果をつけた筋書きをしているだけとしても、実際に、何か あるのでは?と・・ 人を恨ばま、穴二つ、いや無数! 逆に、恨まれている 憶えは数限り? それでも何とか、健康に?生きている。毛沢東、スターリン、 ヒットラーなど、狂い死にしてよいはずだが、そうでもない。とすると、 これは私の創作した馬鹿話! がオチ。 でも不思議だが、娑婆は妄想である。 ・・・・・・ 5176,人生相談という気晴らし! 〜� 2015年05月17日(日) 『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 さすがの個人主義の哲学者も、老老介護の相談には歯切れが悪い。 介護の世界は複雑で、根深い。極限の場面で、真実を知ったところで、 せめて、気晴らしになるぐらい。最期の最期は、宗教に頼るしかない? ≪ Q: 〜老老介護から人の〈生〉と〈制度〉を問う〜 私は七十四歳の女性。以前の「死ぬ作法」の記事を読み考えるところが多く、 質問させていただきます。私は現在、九十五歳の母親の介護をしております。 昔であれば一番上の子供が還暦を迎えるころには親は天に旅立ってゆくもの でしたが、医療の進歩もあり、寝たきりであっても延命治療が続いております。 世間では後期高齢者医療制度が問題になっていますが、むしろ末期の医療現場を 考えていただきたいと思っています。人が生きるとはどういうことであるのか、 死に近い位置から医療をはじめ生きるということを見直すことが必要ではないか と思っております。哲学のご見地から、寝たきりとなった高齢者の生、死について 何かご示唆いただきたくお願いします。ちなみに私の兄弟三人は皆、病に倒れ 入院生活を送っています。私が倒れたら、どうすればいいものか不安で一杯です。 A: 〜われわれは「生きている」ことの意味が分からないのです〜 これは大変難しいご質問です。私も大学でここ十年ほど「生命倫理」の講義を 受け持ちましたが、さまざまな学説を紹介することはできても、自分の意見を 言えといわれると、とたんに分からなくなる状態です。 逃げのようですが、 あなたのご質問に対して「哲学の見地から」何の示唆もできない、と言うほか ありません。哲学は人を救えないものです。正確に言えば、世界とは、私とは、 時間とは、善悪とは、何か分からなくて悩んでいる人をある程度救えますが、 幸福になりたい人を救う能力は皆無だと確信しています。むしろ、哲学とは 不幸になってもいいから真実を知りたいという欲望をもっている人にのみ 開かれている。真実は必ずしも人々に慰めや、平安や幸福を与えるわけでは なく、逆に不安や不幸を与えるとしても、あえてそれを追究するのですから、 相当ヘンな欲望ですね。そもそも、われわれは「生きている」ことの意味が 分からないのです。ですから、生きているほうが、死んでいることより「いい」 ことを論証できないのです。哲学は「いかに」生きるか「いかに」死ぬかを 教えることはできず(それを安直に言い出す哲学者はニセモノ)、人間が死ぬ ことの意味そのものを問い続けることができるだけです。私も人間ですから、 直観的に「人を殺してはいけない」とか、「老人を虐待してはいけない」という ことは理解できますが、さらに「なぜ?」と問うと途方に暮れてしまいます。 まさに、ここに問題を見出す人のみが哲学に突き進むのであり、そんなことは 何の問題でもない、目の前に苦しんでいる人がいれば助けるのがあたりまえ ではないか、という考えの人は決して哲学の門にはいらないでしょう。・・ ≫ ▼ 難しく、深刻な問題だが、決して他人事ではない。人生の最期は、決して 不幸から逃れることが出来ない現実がある。それに対し、「南無阿弥陀仏」か、 「南無妙法蓮華経」と唱えるしかない。哲学は、「ことの道理」を追求すること が出来ても、人を救うことは出来ない。ということは、人生相談に、哲学は 向いてないことになる。だから、逆に質問の内容そのものの甘さを指摘して 納得させるのが、ベストになる。『人の心の問題は、ほっとけ!』と。 ・・・・・・ 4811, Quirt <内向型人間の時代> ー2 2014年05月17日(土) <内向型人間の時代>スーザン・ケイン著 * 内向型人間は二流の性格特性か? 外交型人間の代表といえば、特にイタリア、スペインなどの南欧の人たち。 逆に内向的人間の代表はフィンランド人を代表にした北欧の人たちからみて、 季節要因と食料が大きく影響しているのが分る。黒夜の時節、15時になれば 真っ暗になれば自殺率が高いのも当然である。冬期間に雪に閉ざされ、内向き になる秋田、新潟の自殺率が高いのと似てる。外交型人間を理想とする価値観 の中で、内向型人間は、一段も二段も低く見られるため、どうしても隠したがる。 ーその辺りから抜粋ー 《 今日、社会が求める性格タイプはごく狭い範囲に設定されている。 成功するには大胆でなければならない、幸福になるには社交的でなければ ならないと、教えられる。 私たちはアメリカを外向型人間の国家として見て いるが、それは必ずしも真実ではない。どの研究を見ても.アメリカ人の三分の一 から二分の一は内向型である。言い換えれば、あなたの周囲の人々のうち二、 三人にひとりは内向型なのだ(アメリカが有数の外向型の国のひとつだとすれば、 世界にはもっと内向型の比率が高い国々がある)。あなた自身が内向型でない としても、家族や学校や職場に何人か思いあたるだろう。もし三分の一から 二分の一という統計に驚きを感じるのなら、それはたくさんの人が外向的のふり をしているからだ。隠れ内向型は、学校の運動場や高校のロッカールームや 大企業の廊下に気づかれずに生息している。なかには自分自身までもすっかり 騙していて、なんらかのきっかけで、たとえば、失業、子供の親離れ、遺産が 転り込んで時間を好きに使えるようになったなどで、ふと自分の本来の性格に 気づく人さえいる。この本の内容を友人や知人に話してみれば、思いがけない 人が自分は内向型だと思っているとわかるだろう。 多くの内向型がそれを 自分自身にまで隠しているのには、それなりの理由がある。私たちは、外向型 の人間を理想とする価値観のなかで暮らしている。つまり、社交的で先頭に 立ちスポットライトを浴びてこそ快適でいられる、そんな自己を持つことが 理想だと、多くの人が信じているのだ。典型的な外向型は、熟慮よりも行動を、 用心よりもリスクを冒すことを、疑うよりも確信することを好む。たとえ悪い 結果を招くかもしれないと思っても、すばやい意思決定を優先する。 チーム行動を得意とし、グループ内で社交的にふるまう。私たちは個性を尊重 すると言いながら、ひとつの特定のタイプを賞賛しがちだ。その対象は 「自分の存在を誇示する」のを心地よく感じるタイプなのだ。もちろん、 テクノロジー分野の才能があって自宅のガレージで起業するような人なら、 一匹狼だろうとどんな性格だろうと許されるが、それはあくまでも例外で、 そういう特例として認められるのは大金持ちか、そうなると約束されている 人たちだけだろう。 内向性は、その同類である感受性の鋭さや、生真面目さ、 内気といった性格とともに、現在では二流の性格特性とみなされ、残念な性格 と病的な性格の中間にあると思われている。外向型を理想とする社会で暮らす 内向型の人々は、男性優位世界の女性のようなもので、自分がどんな人間かを 決める核となる性質ゆえに過小評価されてしまう。外向性はたしかに魅力的で あるがゆえに、押しつけられた基準になってしまっていて、そうあるべきと、 大半の人々が感じている。・・・ 》 ▼ 戦国時代の、信長、秀吉、家康を、この性格分類からみると、信長と、 家康は内向型で、秀吉は外交型になる。家系と、家族と、連れ合いなどの 環境も、大きく左右してくるが、豊かさと、知識も多分に影響してくる。 学生時代の、ある時期から、面白いように次々と小さな殻が壊れていった。 その一つが、父親が私の牛小屋のような寮に来て、その見窄らしい生活に驚き、 仕送りを二倍にしてくれた頃に、欧州旅行と、ゼミの影響もあって、外交型に 自分が変化していった。当時、仕送りが二倍になるのは、日常が根こそぎ 変わることでもあった。 ーつづく ・・・・・・ 4444, 過去の意味は変えられる 2013年05月17日(金) * 過去は変えることはできないが、過去の意味は変えられる 何気ないが心に響く言葉、「過去は変えることはできないが、過去の意味は 変えられる」がある。40年近い事業人生と、この結末を如何に受容するか。 所詮は、人生も事業もバブルと、その崩壊過程の側面がある。何事も始まりと 終わりがある。その行蔵は残るが、変えることはことはできないが、意味は 変えられる。それは、自分が何を目指すか、楽観的か悲観的か、などで意味の 捉え方で変わる。過去の意味(価値)を変えることは、未来と現在に対する 考え方を変える。過去を結果に言い換え「結果は変えることはできないが、 結果の意味は変えられる」として、人生、事業を総括すると多くの視点が 見えてくる。現在こうして存在していることは奇跡である。 全てがベストであったから今の私が、ここに存在している。 (この宇宙、地球、人間など全てだが)それでは「過去の意味を変える」とは 如何なることか。意味に近い言葉に価値がある、意味=価値として考えてみる。 価値とは、その人にとっての優先欲求、優先順位でもある。ということは、 何を目指しているかに行きつく。過去の価値は、現在の価値で解釈が変わって 当然、作り変えられ、加工される? 歴史が、時間と共に解釈が変ると同じ。 意味には真実も含まれるが、その真実もあてにならない。当人が信じていること、 それが真実といわれるケースが殆ど。そこで、真実と意味を辞書で調べると ・【真実とは、虚偽の反語。本当のこと、偽りでないこと。歪曲や隠蔽や錯誤を すべて排したときに明らかにされること。漢字の意味は、事柄の中身を開いて 見たときに、実(じつ)として充満しているもの ...】 ・【意味とは、表現に対する「なかみ」。意図するところ。表現(結果)を さかのぼる真意、意図、目的。ある現象(行為・言語・その他)に添付される、 ある種の上位概念。】とある。 真実も、意味も、言葉の解釈で如何様に変わる。あるのは現在しかないとすると、 過去は記憶でしかない。その記憶も曖昧ときたら、成り立つ基盤は在って無い ようなもの。「過去の意味は、現在の解釈で如何様にもなる」ということ。
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2017年05月16日(火)
* 『スプリット』〜映画評 先々週末は行かなかったが、先週は『スプリット』をみてきた。評価:85点。 一人の男に24人の人格が宿って、監禁した3人の少女の前に次々に現れる。 恐いが、これが面白い。16年にわたり、随想日記を書き続けながら、同月同日分 を読み返していると、自分の中に、何人もの違った人格をみている心持ちになる。 人は毎日、進歩と後退をしながら変化しているのである。 その中で、50年近く 前の日記の内容に驚いてしまう。社会人になる前の使用前、リタイアの使用後 なら違って当然。「気持ちは大して変わってない」と思うのは、そう思いこんで いるだけ? 読み返す度に、若い時分に戻りたいとも思わない… ≪ 〜『スプリット』 あらすじ 級友のバースデーパーティの帰り、車に乗った3人の女子高生。見知らぬ男が 乗り込んできて、3人は眠らされ拉致監禁される。目を覚ますとそこは殺風景な 密室…彼女たちはその後、信じがたい事実を知る。ドアを開けて入ってきた男 はさっきとは違う異様な雰囲気で、姿を現す度に異なる人物に変わっていた― なんと彼には23もの人格が宿っていたのだ! そして、さらに恐るべき24番目 の人格が誕生すると、3人は恐怖のどん底に。≫ ▼ 内なる他者?が存在して、どれが主体人格かさえ分からない人が、世の中 に現に存在している? 政治家など、理想の政治的リーダーを演じて票に する日常。頭にあるのは、票とお金のことばかり。集金の主体は、汚職ぎりぎり の塀の上の美味しい取引しかない。 で、主体人格が、まず歪む。 演じる理想的政治たる表の顔と、それを演じる主体人格の間の皮膜の中に 自分の個性をつくるしかない政治屋タレント。心の底に、多重の人格が育つのも 解らないでもない。 24人目の人格が、人間の奥底に潜む、モンスターのような 強固の人格がオチとして現れ出てくる。 映画は面白い! 多重人格を検索したが、これが面白い。 近くテーマにする。
・・・・・・ 5540,ドーキングスのセックス機械論 2016年05月16日(月) カントを頂点とした欧米の哲学の世で、< 生物の身体は遺伝子(DNA)を 運ぶ箱である>などと主張すれば、袋叩きになって当然の事。人は神様が おつくりになったと信じて疑わない国柄の米国だから顰蹙をかって当然だが、 ドーキングは、「セックス機械同士が交わった結果、子供が生まれ、子々孫々、 遺伝子が生き繋いでいく」と言い切る。この論からすると、死後の世界とか、 生まれ変わりや、「自己存在とは何だろう?」など、考えることが馬鹿くさく なる。 たまたま、やばい我々?の身体に、遺伝子が取りついただけ? ーエピソードで読む西欧哲学史:堀川哲著ー より ≪ ☆ 利己的遺伝子 1976年、オックスフォード大学の動物行動学の教師、リチャード・ドーキンス (1941〜)が『利己的な遺伝子』という本を出した。ドーキンス、35歳であった。 この本は現代のダーウィン主義を要約したものであるが、ドーキンスの文才も あって、センセーショナルな反響を呼び起こした。 彼は、「神も仏もあるもんか、生物はセックス機械にすぎない」という。 ドーキンスは特に宗教を攻撃して罵倒するものだから、特にアメリカでは 超顰蹙であった。ドーキンスがアメリカで講演しようとすると大変である。 硬派のキリスト教徒たちが「くたばれドーキンス!」と叫んで押し寄せる。 彼の理論自体は単純・明快である。「この本の主張するところは、われわれ および、その他のあらゆる動物が遺伝子によって創り出された機械にほかなら ないというものである」。 こうドーキンスは書いている。 生物の身体は遺伝子(DNA)を運ぶ箱である。よーく考えてみよう。 人間は、最初は一個の細胞である。お母さんのお腹の中に、微小な卵として 誕生するのである。 学校の生物の時間に教わったでしょう。 細胞の核にはDNAという二本鎖がある。DNAは四種の塩基物質で構成される。 四つの記号でプログラムが書かれていると考えればいい。コンピユータ時代 にはそのほうがわかりやすい。DNAはA、T、G、C(塩基物質の名前の頭文字)と いう四種の記号でプログラムが書かれるのである。 人間には人間のプログラムがあり、ブタやダニにはそれなりのプログラムが ある。私が何ものであるかは、このプログラムによって決定されるわけである。 DNAのプログラムは自分が生き延びるように動く、そういうようにできている。 サバイバルの方法はといえば、それは自己の複製(コピ!)を作り出すこと。 私たち人間は有性生殖の生き物であるから、コピーの作業は異性との性交と いう行為を通じて実現される。できるだけ多くのコピーを製造すること、これが DNAの基本的機能である。DNAはそうするように作られている。雨が降るのと同じ。 そのために、DNAのプログラムは私たちの身体を適当なときに発情させ、複製の 行為と駆り立てるのである。こうしで私たちは異性を追いかけ回すようになる。 人間誰でも年頃になれば、発情するようにプログラムされているということになる。 ☆ 遺伝子は永遠だ 間違いなくいえることだが、私はいつか死ぬ。私の身体はやがて滅び去る。 しかし、私が子どもを製造する限り、私を製造しているDNAプログラムは 少し書き換えられて、子どもにコピー(複製)される。個体としての私は死ぬが、 私のDNAプログラムは、私の子どもがまた複製を作れば、永遠である。 私にとってはうれしくも悲しくもないけれど、そういうことになっている。 遺伝子DNAは利己的である。だから「利己的遺伝子」である。その意味は、 DNAは自己の複製を極大化するように行為する、そういうようにプログラム されているということである。≫ ▼ 30数年前になるが、犬のブリーダーが、生まれたばかり犬の子、7〜8匹の 写真を見せてもらった時、それぞれの個性的な顔と姿を見た瞬間、「この子犬 たちは、以前存在した犬の遺伝子が、改めて、この世に現れ出てきた」と、 直感したことを憶えている。 もしかして、分霊の正体は遺伝子? たまたま、 自分とは、それに触媒の積み重ねでカタチつくられた存在に過ぎないのだ。 これを知っておくと、死に際の絶対孤独が和らぐのではなかろうか。同じか?
・・・・・・ 5175,人生相談という気晴らし! 〜⑥ 2015年05月16日(土) 『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 老いた人の絶対的孤独との向き合い方は ここで、自分のしたいことを誠実に熱心に追及している限り、理解者は 出てくるというが、どうだろう? 今では、ブログなど、ネットで繋がることが 可能なので、ある程度の他者と繋がることが可能だが。 ≪ Q: 〜年齢とともに肥大する孤独との向き合い方〜 六十五歳の男性です。人間、歳を取るとだんだん孤独になるものだとつくづく 実感しています。若い頃は学才に恵まれていた男が、いつのまにか「俺は文化 なんてものには興味はねえ」と野卑な口調で本性をあらわしたり、デリカシーに 欠けていた男の品性がますますひどくなったり。さらには盟友が亡くなったり…。 そんなこんなで、私はこの七〜八年ほどの間に若い頃からの友人をあらかた 失くしてしまいました。孤独であることにもそれなりの味わいはありますが、 しかし、人生、いや歳を取るということは、かくも無漸なものなのでしょうか。 歳を取ることによって生じる、どうしようもない孤独にどう対応したらいいのか? 適切なるご教示をお願いします。 A: 〜わずかでも心の通じ合える人がいれば絶対的孤独は避けられる〜 私は「孤独」がそれほど嫌いではなく、「それなりの味わいがある」と思って いますので、「どう対応したらいいか」に対する直接のお答えにはならないかも しれません。あなたの問題にされているのは、主に「他人との関係」でしょう。 それにも二つあって、1つは、人間、歳を取ると「品性」がますますひどくなる こと、そしてもう1つは、親しい他人や愛する他人が次第に自分より先に死んで いって、だんだん心細くなること。前者については、私も同じ印象を持ってます。 私が同年齢の男女との付き合いをかなり切っているのは、―自分はともかく― 一般的に言って中高年の「醜さ」に耐え難いからかもしれません。それに加えて、 私は「哲学」なんぞに首を突っ込んでしまったので、50や60の「普通に出来 あがった」男たちと話すことは何もないと確信しているせいでしょう。 この歳で、妙に哲学に擦り寄ってくる老人も嫌いです。大学の教師や研究者、 あるいは物書きをしていて気が晴れることは、若い学生たちや若い研究者たちや 若い編集者たちや若い読者たちとの「交流」が、適当にあることです。 もちろん、彼らの中にも「心の醜い」輩はいますが、私の周りには総じて 「心のきれいな」人が集まります。そう自分が厳選しているからなのですが。 このことは、第二の孤独にも通底しています。私の場合、特殊とも思いますが、 自分と同世代の男女との付き合いをほとんど完全に絶っていますから、という ことは、小学校から大学までの同級生などとの交際はないので、誰が生き残って いるのか、誰が死んでいるかさえ(連絡がないので)わかりません。それに、 私は目上の人との付き合いは(どんな恩人でも)苦手で、これもほぼ完全に切り 捨てていますので、目下、誰が死んでもいっさい葬式に行く義務はないのです。 別に老後の孤独に備えてこう準備したわけではありませんが、私はその時々で 一緒にいて心の通じ合える人がわずかにいればそれでいい、という「刹那主義」 に徹しています。どんなに歳を取っても、自分のしたいことを誠実にかつ熱心に 追求している限り、理解者は出てきますし、その限り絶対的孤独は避けられると 思いますが……。≫ ▼ 著者から肩書をとったら、「醜悪なクレーマー」と思われる。 これまでの著書を読んでいると、クレーマーとしての信じがたい内容が リアルに書いてある。それはそれは・・ 特に街中や電車などの騒音に敏感。 それと、著書を出し、思いを表現していると、孤独感は半減する。中島の口癖、 「いずれ直ぐ死んでしまう!」は、亡くなった友人を自分に置換えると分かる。 『死んでしまえば、それまでよ! そんなことなど死んで3日も経てば・・』 ・・・・・・ 4810,Quirt <内向型人間の時代> ー1 2014年05月16日(金) <内向型人間の時代> スーザン・ケイン著 * 内向型人間かどうかのチェックリスト 私は、あまり外交的ではない。だから、事業創業の人生を選んだのである。 この書の冒頭にあった内向型リストで、○✖▽で、チェックしてみた結果、 20のうち、13が○、✖が3、どうだろう?▽が4で、明らかに内向的 人間である。家内は明らかに外交的人間と思っていたが、○が15に、✖が3、 ▽が2で内向的人間には驚いた。専業主婦ということもあるが、驚きである。 ー以下、左が私、( )が私から見た家内である。 ーまずはチェックリストからー 日本人、特に地方、北国は8〜9割は内向的人間? ○グループよりも一対一の会話を好む ○ (▽) ○文章のほうが自分を表現しやすい ○ (✖) ○ひとりでいる時間を楽しめる ○ (○) ○周りの人にくらべて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味がないほうだ ○ (○) ○内容のない世間話は好きではないが、関心のある話題について深く話合う のが好きだ。 ○ (○) ○聞き上手だと言われる ○ (▽) ○大きなリスクは冒さない ✖ (○) ○邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ ○ (○) ○誕生日はごく親しい友人一人か二人や、家族だけで祝いたい ○(○) ○物静かだ」「落ち着いている」と言われる ○ (○)
○仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めない。▽(○) ○他人と衝突するのは嫌いだ ▽ (○) ○独力での作業で最大限の実力を発揮する ○ (○) ○考えてから話す傾向がある ○ (○) ○外出して活動したあとは、たとえそれが楽しい体験であっても消耗したと 感じる。 ✖ (✖) ○かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。 ✖ (✖) ○忙しすぎる週末よりも、なにもすることがない週末を選ぶ ○ (○) ○一度に複数のことをするのは楽しめない ▽ (○) ○集中するのは簡単だ。 ○ (○) ○授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式の方が好きだ。▽ (○) ▼ 意外なことに、アメリカ人でさえ、2〜3人に1人は、内向的人間という。 事業人生を30年以上、たずさわり、人との接触が多い仕事もあって、外交的 部分も多かった?反面、嫌な場面へ行かないで済む、自由もあった。逆に仕事上、 内向的姿勢も求められたこともあった。家内の友人に、極度の内向型人間がいて、 その話を度々、聞くことがあった。内向的にも、暗いのと、明るいのがいる。 冷たいのも、温みがあるのもいる。携帯パソコンが一般に普及した中、情報選択 と決断が重要になっているが、この時代だからこそ内向型人間の時代というのも、 説得力がある。ヨガブームというが、週二回、26ヶ月、参加して、成るほど、 内向き、精神性の時代が、実感できる。 高齢者は、どうであれ、内向きに なりざるをえない。 ーつづく ・・・・・・ 4443, ヨガと座禅の違い 2013年05月16日(木) 毎週二回、スポーツジムの「ヨガ」に参加して14ヶ月、百回はゆうに 超えているが、回数を重ねるたび、身体も、気持ちも解れていく。学生時代に 野狐禅だが、六日町の雲頓庵で持ち込んだ卒論の種本を読みながら、合間に 広い禅室で独り座禅を組んだことがあった。ただシーンとした中、 「直ぐにでも止めようか」という気持ちと戦いながらのたった独りの座禅は、 永平寺での一瞬気持ちを緩めれば、禅僧に叩かれる状況より辛い。誰もいない ため、直ぐ止めたい誘惑との闘いになる。ヨガで仰向けになり全身を弛緩する 「死者のポーズ」があるが、これは座禅の禅定に似ている。飛行機内の座席で、 耳栓をして姿勢を正し、次々出てくる思いを泡のように流していると、何かの ゾーンに入ってしまい、10時間以上の時間がアッという間に過ぎてしまう。 ヨガは、瞑想で心を解すのが目的で、禅は、その状況から仏の悟りに近づく ことにある。 ーヨガと座禅の違いをネットで調ベた、納得した3つをコピーしてみるー 《 人は疲れたときに目をつぶる事がある。そこで何かを思い浮かべながら 瞑想にふける。この繰返しがヨガという。 このヨガはもともと 「軛(くびき)」ということで、牛に車を曳かせる腕木を指した。これが 次第に神の力に人間を結びつけることを意味するようになり、その修行法と して智慧、愛、行、瞑想が重視された。一般にヨガと呼んでいるのは、 このうちの瞑想による神人合一の方法である。このヨガは紀元5世紀ごろ には「ヨーガ・スートラ」を根本経典としたヨーガ派が独立してさかえ、 完全性をそなえたひとつの霊魂を最高神としてあがめた。このヨガの修行法 が仏教にも広く取り入れられてきた。それが坐禅につながっていく。 》 《 ヨガと坐禅は、まず姿勢を正して、呼吸や五感(眼、耳、鼻、舌、身) を整え、誘惑をさけ、精神統一するのはどちらも同じ。ヨガは、これに よって初めて超自然的な力が得られ、対して禅は「禅定」に深くかかわり、 静けさを求める。禅とは(ジャーナ、禅那)という梵語の音写で、釈尊の 悟りを追体験して”身心脱落”し仏の境地になりきり坐禅をすること。 禅は「無」を標誘し功徳や利益を求めない。ひたすら足を組んで坐禅をする。 ヨガは神人合一して身心の健康を増進させる。 》 《 ヨガは、インドに古くからあり、ウパニシャッドと言われる古代インドの 哲学書にも出てくるもので、瞑想や呼吸法、座法などによって心身を鍛える 事で、心の動きを抑制する方法として古くから用いられた。後に、ヨーガ学派 という哲学集団によって、解脱への実践方法として体系化されていったと 言われています。そして仏教においても、このヨガは悟りへの実践方法として 用いられ、釈尊も、瞑想によって真理を悟ったと言われますし、「瑜伽行」 という修行法として確立されました。現代のヨガも、もともとはそのインド 独特の修行法をアレンジしたものですから、仏教の修行とヨガとは、出発点は 同じであると言えるでしょう。違いと言えば、仏教における修行は、さとりを 目指す為の方法であり、現代のヨガは、心身の健康維持のためのもの、という 点でしょうか。座禅とヨガとの関係についてですが、ヨガは、座法や呼吸法を 盛り込んだ、精神統一の方法でありますし、「禅」といいますのは、「禅定」 つまり精神統一をし、真理を観察することであって、「座禅」は座法や呼吸法を 用いた「禅定」一つの方法ですから、根本的な部分で同じ要素を持つ。 》 ▼ ヨガは座禅と出発点が同じ「座法」「呼吸」を盛り込んだ精神統一の方法に 対し、座禅は精神統一を通して真理を観察するもので、少し意味合いが違う。 腰痛持ちの私にとって、週二回のヨガは腰痛緩和の自己マッサージ治療。 私の腰痛は完治はないが、仲良くするのは可能。その方法がヨガに多くある。 手軽なベストの場が見つかったもの。たまたまー「早朝座禅」山折哲雄著ー を見つけ読んでいるが、数日前から、30分早く起き、早朝座禅を取り始めたが、 これが良い。4時から7時までは、正にゴールデンタイム。 60年以上溜まった毒出し、矯正の時間でもある。
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2017年05月15日(月)
『しあわせ仮説』ジョナサン・ハイト著 * 適応原理の機能とは 考えられる最善も、最悪のことも、あまり変わらないという。人間は直ぐに 適応し通常状態に戻るためである。30歳半ばまで自己配転をしてきた中で、 常に「そのときは、そのとき、何とかなる」と不安と恐怖心に押しつぶされない ように暗示をかけ、何とか乗越えてきた。適応原理が、その度に、働いたていた。 崖っぷちには知恵が湧き出て、底知れぬ力が働く。火事場の馬鹿力である。 《 適応原理の機能は、以下のように機能する。 現在の自分の状態に関する判断は、自分が慣れている状態よりも良いか悪い かに基ずく。適応は、部分的には、単なる神経細胞の性質である。それは 新しい刺激に対しては活発に反応するが、徐々に「馴化」し、馴れてしまった 刺激に対しては殆ど発火しなくなる。生命の関わる重要な情報を含んでいる のは「変化」であり、安定状態ではない。しかしながら人間は、認知的は極限 に対し適応してしまう。私たちは、単に慣れるだけでなく、再調整をする。 私たちは、自分のために多くの標的を創り出し、その標的の一つに当たるたびに、 それを別の標的へと置き換えていく。一連の成功の後には、目標を高くするし、 首の骨を折るような大きな挫折の後は、目標を低くする。 …(略) 適応の原理と、人の幸福の水準は遺伝子が高いという発見を結びつけると、 私たちは衝撃的な可能性にたどり着く。<長期的には、あなたに何が起こるかは さして重要でない。幸福であれ不運であれ、あなたは、常に自分の幸福の基準点、 つまり幸福におけるあなたの脳の初期水準に戻ってくる。> それは、あなたの 遺伝子によって決定されることが大きい。遺伝子というものが知られるはるか昔、 1759年にアダム・スミスは同じ結論にたどりついている。 < 変化が予測されない永遠的な状況下においては、すべての人の心は、遅かれ 早かれ、生来の平穏な通常状態へと戻ってくる。繁栄において、ある一定の 時間が過ぎれば元の状態に戻り、逆境において、ある一定の時間が過ぎると、 その状態に戻っていく。> この考えが正しいとすれば、私たちは皆、「快楽のトレッドミル」と呼ばれて きたものの上に留まっていることになる。人生においても、好きなだけ一生懸命 働き、欲しいだけ富をえ、果樹を植え、愛人を囲うことができるが、少しも先に 行くことはできない。なぜなら自分の「自然ないつもの平穏状態」を変えることが できないので、蓄えた富は単に期待値を上げるだけで、以前の状態に比べてより、 幸せだということにならないからである。しかしながら、私たちはその努力が 無駄であることに気づくことなく、それが人生ゲームで勝つために役立っている 限り、努力を続ける。常に自分が持っている以上のものを欲し続けて、回し車の 上のハムスターのように、走って走って走り続けるのである。 》 ー ▼ 6年前の節目から現在に至るまで、それ以前と比べて、格落ち感や、 引け目が思いの外、少なかった。逆に、今まで意識することがなかった、 人たちを凝視する機会になった。その姿は、節目以前の自分の姿でもある。 人間は深い内面をそれぞれが持っていて、日々刻々、変化し、順応している。 それが分からないのが大方の人間であり、他者を元もと分かってない上に、 内的順応の変化など知りようがない。平穏な状態と、波乱の織りなす絵柄が、 その人の人生になる。そして、永遠の彼方にプッチと消え去っていく。
・・・・・・ 5539,閑話小題 〜消防士の収入 2016年05月15日(日) * 地に足が着いた人生 ー2 先日の小テーマで、「地に足が着いた人生」を書いた。 そこで地方公務員資格試験は、如何なるものかと、「地方公務員資格試験」と、 「消防士」の二つで検索したところ、消防士の平均収入が700万以上とあった。 危険な仕事としても? あまりに・・ 〜その辺りから〜 ≪ 消防士は718万円が平均年収!(地方公務員給与実態調査結果の概要調べ) 消防士に支払われる給料の平均は36万円が基本で諸手当が65万円で、 民間企業と比較すると非常に高くなっています。 民間企業平均の平均年収は 409万円となっており、消防士はその300万円以上高い年収を得ている事になる。 消防士に割り当てられる諸手当を調べたところ、特殊勤務手当てがあり、 (1) 危険作業手当(2) 不快作業手当(3) 重勤務作業手当 (4) 非常災害業務手当 (6) 消防業務手当などの手当てがつきます。 現在全国の消防職の職員は15万8000名。 30代の平均年収は600万円、40代になると720万円といわれており、50代では 800万円以上と民間の平均よりも非常に高くなっています。民間の場合は50代 になると年収が減少する傾向が多いのですが、消防士は着実に上昇する。≫ とあった。成るほど、自信に満ちた彼の受け応えも、こういう背景があった。 * 「道」という漢字は、「生首」に由来する ある本に、「道」という漢字は、「生首」に由来するとあった。 道は「導く」の意味もある。道は血生臭いのである。人生を道に例えると、 納得する。道には血と汗と涙が詰まっている。 ≪ ・古代中国では、自分の領地をへいで取り囲み、そこから外へ抜ける道 には敵の首を埋めて、攻め込まれないように「まじない」をしたとする説。 ・敵から討ち取った生首をちょうちんのようにぶら下げ、「まじない」がわり にして外に通じる道を進んだとする説。 いずれの説も討ち取った敵方の生首を魔よけや、まじないがわりに使ったこと が道の漢字の成り立ちに含まれています。 ・「行が変化→辶(みち)」、と、「首(シユ/シウ→チウ疇=長く通っている 意味)」。 長く通じている「みち」→「道を行く」「みちびく」の意味。≫ ▼ 人生の道を切り開くとは、戦い、血だらけで進み、途中で行倒れて・・ と解っていても、進むしかない。急ぐのも、ゆっくり行くのも、人生。 とすると、ゆっくり急ぐのがベストということか。 人によるが。
・・・・・・ 5174,人生相談という気晴らし! 〜⑤ 2015年05月15日(金) 『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 個人主義者の覚悟 自分を、「アウトサイダー」「ソリスト」「個人主義者」と自認している。 老いるということは、孤独の重圧に押し潰されていく過程でもある。だから、 そのスタンスを取ってきたが、それでも、弱気になることがある。 今さら、「世間びと」になれないし、なる気は一切ないが、彼らの破壊兵器も ただならぬものがある。だから、「自分とは何だろう」と考えるに丁度よい エネルギーになる。どの道、永遠の彼方に消滅していく。老いは厳しいのです。 ≪ Q: 〜個人主義者にとっての老後を生きるヒントは?〜 現在、53歳既婚、フリーランスで仕事をしている男です。 私は元来、めんどうくさがり屋でわがままで、人付き合いも苦手です。 特に冠婚葬祭、歓迎会、忘年会など、あらゆる会合や行事に出席を拒否。 こんな利己的性格ですから当然、会社組織に馴染めるはずもなく、こうして 一人で事業をし、近隣との人間関係の希薄なマンション生活をしています。 しかし、現在、老後の問題など何となく将来に一抹の不安を感じています (目の前にある離婚の危機による自信喪失でしょうか)。自分本位な生き方 をしてきたため、義理を欠くことも多く、自ら世間を狭くしているように 感じています。いずれしっぺ返しがくるように思います。 個人主義生活者に「老後を生きるヒント」を教えてください。 A: 〜「自分とは何か?」という問いを突き詰めて生きることです〜 「個人主義生活者」にと、その「老後を生きるヒント」とい言葉によって、 あなたが何を期待されているのかよくわかりません(そもそも「個人主義」 とう言葉の意味がはっきりしない)。もし、長く世間に背いて自分本位を 貫いてきたが、老境に至り身体もガタが来ているし、このまま一人で生きて いくのも寂しいし不安だから、どうにかしたい、というのなら、あなたの言う ところの「個人主義」をきっぱり捨ててしまえぱいいのです。前後左右の 他人の思惑に常に媚び、自分勝手な考えはぐいと抑え込み、厭なことも率先 してなし、「和」を大切にし、これから必死になって「もちつもたれつ」の 人間関係を復元するのです。それはイヤだ、やはり「個人主義」を貫いた まま安全な老後を迎えたい、と言いたいのなら、そんなムシのいい話はない と答えましょう。「いずれしっぺ返しが来る」ことを予見もせずに、よくも 「個人主義」などに乗ってきましたねえ。失礼ながら、おめでたいとしか 言いようがありません。わが国民が、「個人主義」を蛇蝎のように嫌っている ことを知らなかったとは! 漢然と知っていたとしても、その大量破壊兵器級 の威力に対する自覚がなかったとは!あきれ果てます。しかし、もはや手遅れ ですから、残された老後は、先に言ったように、「個人主義」をできるだけ 「緩和」して、世間との和解策に奔走するか、あるいは潔く居直って、暗く 寂しい老後を迎えるか、のどちらかしかないように思います。そして、ここ までがんばってきたのですから、できれば「転向」せずに「個人主義」を 貫くことをお勧めします。それには、自分ひとりでできる仕事を見出すことが 絶対に必要です。単なる趣味ではなく、あなたの実存の中核に届く仕事。 例えば、「自分はなんでこうまで人付き合いが苦手なのか、利己的なのか、 自分本位なのか」という問いを、つまり「自分とは何だろう?」という問いを 突き詰めることです。そのためには、絶えず思索しなければならず、これまで の体験を微細に至るまで想い起こさねばならず、多方面にわたる読書も しなければならない。つまり、孤独かもしれませんが、ずいぶん充実した 老後をエンジョイできるのではないでしょうか。≫ ▼ ほぼ大部分の人の心には、相談者のような恐れを抱えている。老いて、 弱って、病気になって、疎んじられ、永遠の絶対無に吸取られ消滅するのが 人生である。個人主義を我が国民は蛇蝎のように嫌っているのは、一連の中で、 多いに実感したが、それ自体も幻想でしかない。 ・・・・・・ 4809,ある明治女性の世界一周日記 2014年05月15日(木) 「ある明治女性の世界一周日記―日本初の海外団体旅行」野村みち(著) 何気なく、図書館内を彷徨っていたら、この本が目につき借りてきたが、 現在の朝のNHKの連ドラの「花子とアン」の、出身校の東洋英和女学校出身と あったことも借りる動機にもなった。そして、読んでみて、面白いこと。 ランダムに、どのページを開いても、その日その日の、本人の視線が、 そのまま直に伝わる。 ーAmazonの内容紹介よりー 「母親からの厳しい「良妻賢母」教育と共に、東洋英和女学校でキリスト教と 英語という新しい教育を受けた明治の女性、野村みち。豊かな感性と柔軟性で、 真摯に、率直な心情を綴った世界旅行記。」 ーレビューよりー 《 元横浜YWCA会長を務めた野村みちの「世界一周日記」。若い頃から洋行に 憧れを持っていたことが書かれていた。その「世界一周」は、1908年3月18日 から96日間にかけて行われた。冒頭に旅のルートが掲載してあり、米太平洋郵船 会社のモンゴリア号で横浜港を出港し、ハワイを経由し、サンフランシスコ、 ソルトレークシティ、シカゴ、ボストン、ワシントン、ニューヨーク、英国 ホワイトスターライン社のセドリック号で大西洋を渡り、ロンドン、パリ、 ローマ、ナポリ、ヴェネチア、ベルリン、サンクトペテルブルク、モスクワ、 シベリア鉄道を利用してウラジオストック、敦賀に帰ってくる世界一周旅行。 一行54名、女性3人。筆者の夫は、横浜の実業家・野村洋三氏で、外国人相手の 古美術商のサムライ商会を営んでいました。本町通りにあったサムライ商会は 横浜の古い写真集を見ていると必ず登場するようなエキゾチックでユニークな 外観をしています。258ページに写真が掲載してありますので。筆者の家族の 写真や世界一周時の集合写真も掲載してあり、文章だけでなく当時のイメージ が理解できるようになっていました。旅行中の装いも和装で通す意味合いも 書いてあり、このあたりに聡明さが伺えます。アメリカのルーズベルト大統領 との謁見や、パリで名バイオリニストのサラサーテの演奏を聞いたことも記され ています。 巻末に番外編として「野村みちとは」と題する生涯を、北川原美乃 さんが25ページにわたって紹介していました。戦後すぐマッカーサーが占領下の 日本で初めて接した民間人が野村夫妻だったことも書いてあります。 そのような生き方を貫いた女性であることが分かる書でした。》 ▼ 100年前の96日間の世界一周日記、そこに女性が3人、加わっての旅行、 それは大変だっと思われるが、幕末、明治初期の一女性の目で見た当時の、 外国への視線が面白い。長年にわたり、多くの人が様ざまな経験をして記録に 残されているのに、改めて感心する。情報端末がノートしかない時代に、その 人の記録が逆に、生々しさとして、後世の者の心に訴える。横浜で外国人相手 の古物商をしていたため、カルチャーショックは、さほど無かったようだが、 そうでなかったら、その参加自体してなかっただろう。ところで、居間の座椅子 の横に、二年以上も「世界の旅行記101」が置いてあり、毎日、数分間、読む。 2〜3ページに要約した101の旅行記が、それぞれ何人かが分担して書いてある。 ところが、どれもこれも、重いため、せいぜい、一日、数分しか読めないが、 それでも門前の小僧で、少しずつ、階段を下りるように、何とか読んでいる。 それらから比べれば、ツアーで内容が軽いが、それ故に、親近感がわいてくる。 世界は広く、それぞれ深い! ・・・・・・ 4442, 閑話小題 ーリタイア後の幸せ度 2013年05月15日(水) * リタイア後の幸せ度 退職後の幸せ度は、一番高いのは創業者、二番目は違う会社で勤めている人、 三番目が、そのまま再雇用している人、最後は、そのままリタイアした人、 という調査結果がある。一番高いのが創業者は自分が、そうだから分かる。 それも、私のように会社を倒産させた人がいうと、強がりにように聞こえる だろうが、複雑な実感である。挫折感より遥かに達成感が強いことは確か。 自己完結してキレイサッパリするから。意外なのは、完全リタイア組の幸福度 が一番低いこと。長年かけたライフワークを持ってないためだろう。 「自分が、まだ有用の存在でいたい」のか。後は、解釈になる。収入の関係も あるのだろう。幸せの感じ方は様ざま。 鼻歌でスキップしていくしかない? そのためには、少々のお金と、知恵と、意欲が必要である。一番の問題は、 やはりお金に行き当たるのか。 * 節目を超えたようだ! 昨日、もう一つのブログ《バードウォッチ》に。「一月ほど前か、現在の自分 と娑婆に対し、底知れぬ可笑しさを感じて、知らずに独り腹から笑っていた。 これで節目を乗り越えたようだ。こういうのをアップスケール(脱皮)という。 独り万歳! あとは、心置きなく流しの遊びの世界で我を忘れればよい。 割り切るのに、やはり二年。節目としての4分割の最後のシリーズ。 心の還暦になる」と書いた。50歳になった時が、これかと思ったが・・、 もう一破壊が必要だったようだ。そして少し楽しめ!ということになる。 まだまだ重いし、最近、何事にも面倒が先に立つ。ただ、バイアスが日ごと 取れて好奇心が強くなっている。遊びに対して、まだまだ修行が足りない。 「節目を打て」というが、なるほどである。 (後記)ところで偶然だが、去年の以下の文章が、これに連動していた。 面白いもの。決して傷は浅くないということか!
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2017年05月14日(日)
『しあわせ仮説』ジョナサン・ハイト著 * 適応の原理 目先のベストの幸せは莫大な宝くじに当たること、不幸は首から下が麻痺を することだろう。しかし、ここで、果たして、そうだろうか?と、問いかける。 〜p129より抜粋〜 《 適応の原理 自分に起こりうる一番よいことと一番悪いことを10秒で挙げよ と言われれば、あなたは以下のように思いつくかもしれない。 ・2千万ドルの宝くじに当たること、 ・首から下が麻痺をしてしまうこと。 宝くじに当たれば、どれほど多くの心配事や制約から解放されるだろう。 夢を追いかけ、人を助け、快適に暮らすことができる事だろう。首から下が 麻痺してしまう自由を失えば、刑務所暮らし以上に制限されるだろう。 ほとんどすべての目標や夢を諦めなければならない。多くの人は、死んだより ましだと考える。しかし、それは間違えである。 もちろん、首の骨を折るより、宝くじに当たった方がよい。しかし、あなたが 考えるほどではない。なぜなら、どのようなことがおこっても、おそらく適応 するだろうが、実際に起こる前には適応できるとは考えられないからである。 私たちは『感情予測』、つまり未来において私たちがどのように感じるかに ついて考えることが苦手である。私たちは、自分の感情的な反応に対する強度や 持続時間を酷く過剰に見積もってしまう。 宝くじも、下半身麻痺も、 「平均的には」たいてい、一年以内に、自分の幸福の水準基準に戻ってしまう。 宝くじに当たって新しい家を買い、つまらない仕事を辞め、より美味しいものを 食べる。以前との対比を大いに楽しむが、数ヶ月以内にその対比も曖昧になり、 喜びは消えていく。人間の心は、条件の「変化」にたいして極端に敏感だが、 絶対的水準に対してそれほどでない。当選者の喜びは、富が高いことではなく、 その増加によってもたらされてため、数ヶ月後には、その新たな快適な水準は 日常における新たな基準値になってしまう。当選者はそれらを当然とみなす。 それ以上になることもなく、逆にだんだん悪くなる。周囲には、友人、親戚、 詐欺師、涙にうせぶ赤の他人が、群がり、訴訟を起こしたり、取り入って、 富の配分にあずかろうとする。宝くじの当選者は、あまりの嫌がらせのため、 引越しを余儀なくされる。… 》 ― ▼ アメリカの統計だが、<宝くじを当てた95%が、5年以内に当選金を失う> というデーターがあるという。『男はつらいよ』の主人公・寅さんなら、さも ありなんと思うが、普通の人は、それはないと思うが、現実は上記のとおり。 逆に考えてみれば、泡銭ならアブクのように使った方が、長い人生にとって プラスではと、最近、深く実感する。 <使ってしまった金は、あの世に持っていける> あるから、未練が残る、 使って面白かったなら、そこには充実感と満足感が、楽しい思い出として行蔵 の中に刻印される。せいぜい、邸宅と、世界一周ぐらいだろう。金を持った分、 充実した気持ちにはなるが… 持って使わないのも醍醐味だが、やはり使った 楽しみは何ものにも変えられない。あるうち、使えるうち。これは、金だけの 話ではない。後悔、先に立たず! いや、後に立たずですか? ――― 2015/09/18 閑話小題 〜宝くじで5億円当たったら何に使いますか * 5億円当たったら何に使いますか? 昨日の朝のTVショーで、『宝くじで5億円当たったら何に使いますか』 の街頭インタビューがあった。 回答が多かった順というと 1位、高級マンションなど住宅購入 2位、お店などの起業 3位、世界一周 (豪華客船の旅など) 4位、健康などのエステに (健康食品、スポーツジム) 5位、整形手術 の順であった。 その中の一人が、『当たった人をみると、多くが離婚をしている』という 答えがあったが、そうだろう。 当選をしたとして、上記の夢が実現 したところで、それが何だ?ということか。 今回の会社整理の中で、 気づいたことが、一千万、二千万分の一しか可能性がない宝くじに夢を 託している人たちの視線。要するに世間様の夢でしかないのが宝くじ。 高級マンション以外は、5年10年スパンで計画を実行に移せば、 可能なことばかり。答える方も面白半分としても、考えさせられる内容。 『二週間で死ぬと宣言されたら何をしますか?」の質問に似ている。 その答えは、今すぐにでも出来ることばかり。宝くじの場合の質問が軽い ものなら、ジョークで『ホストクラブで、ドンペリをあけて大騒ぎをしたい』 とか、『全部、周りの人にあげる』とか、『宇宙旅行をしたい』とか、どうせ 御遊びの質問なら、御遊ぶの答えがよい。 それに答えている庶民?の、 あの活き活きした顔がよい。1位から4位は実現したが、だから如何した? である。残ったのは充実感だけだが、人生で、一番、大事なことでもある。 2位の起業希望が多いのに驚いた。だから、何もしない、できない連中が 失敗をみると、「人の不幸は蜜の味」と大喜びをする心の内は、こんなもの。 その蜜には毒がある。その毒は、自分の膿ゆえ、撥ね返って来るのが己の脳。 で、どういう訳か、去年の同月同日の、以下の内容に続く・・ が、その前に、以前書いた、「宝くじ」に関連した文章をコピーする。 ――― 2013/06/17 宝くじが当たる確率(何倍?)はどのくらい? 宝くじには全く興味がなかった。一度、一枚だけ話の種に買ったことがある。 SCなどの店先の宝くじ売場で買っている人を見かける度、 「夢を買っているんだ!」と思っていた。 ー教えて!Goo、によるとー 【 問い= 例えば、以下のような宝くじは当選確率はどのくらい。 1等 1億円 20名 2等 1千万円 20名 3等 百万円 200名 4等 5万円 30000名 例えば、1億円当たる確立は百万人に一人とか… 【 答え= ○ あなたが、宝くじの1等に当る確率は、1等の当選番号が、 「11組111111番」になるのと同じです ○ 一般的な宝くじは、100kgの米の中からある1粒の米粒を探し出すのと 同じくらいの確率だそうです。 ○ 売り上げ枚数を調べれば簡単に分かりますよ 7億6千万枚ほど売れて いるようですから、完全ランダムで3800万枚に1枚ほど入っているかと ○ 年末ジャンボの場合、1ユニットで1000万枚発売されている。 1等は1ユニットあたり1本ですから、単純に1000万分の1となります。 ○ 当選番号が 123456番だとした場合 最初のくらいの1番はどのくじにも ついているわけで,あとは1の位から万の位までの5つの数字の組合わせは 10×10×10×10×10で10万分の1となりますよね。ただし,これは一枚 買った場合で 連番で10枚買ってると 確率は その10分の1で 1万分の1。 一等は宝くじでは この組の数が二桁あるので、その10×10の100倍 つまり、一枚 買って一等に当たるのは千万分の1となりますよね ○ ちなみに東京ドームの敷地に新聞紙を敷き詰め、天井から針を落として 新聞の一番小さい1文字に当たる確率と同じくらいとか聞きました。 ▼ 一等、二等で合計500万分1の確率で、当たる分けがない。買う当人に とっては千分一の気持ち。アメリカなどで数十億円が当たるケースがあるが、 それが元で不幸のどん底に落ちるケースが殆どという。悪銭身につかずである。 それなら毎日、何とか5百円預金をすれば一年で18万円、10年で180万円、30年で 金利を含め1千万になり、遥かに効率が良い。 が、そうはいかないのが人間。 生を受け、今、存在していること自体が奇跡なのに、それを生き切らなくて何が 宝くじ。せめて、当たった夢をみたいのは分かるが。1億当たったところで、 したいこと、買いたい物など、何も無いのも面白くないが。 ――― 2015/06/21 宝くじを当てた95%が、5年以内に 『世界の大富豪2000人が教えてくれたこと』トニー野中(著) * 宝くじを当てた95%が、5年以内に当選金を失う 日本では『悪銭、身につかづ』という諺がある。入る器の方を育て上げないと、 その殆どが溢れ流れていく。私も事業投資の当初の10年で5倍まで純資産を 増やしたが、2001年の9・11と、リーマンショックと、2011年の3・11の10年で 壊滅! 辛うじて保険代りに家内名義で積みたててきた給与の預金と、 二人厚生年金で、これまでの生活を維持している。 その辺りから 〜p40 ≪ アメリカやイギリスでは、「宝くじを当てた人が、その後どうなったか?」と いう追跡調査が、よく行なわれます。 それによると、「宝くじの一等が当たった 人の95パーセントが、5年以内に手にした当選金の全てを失っている」という。 「器のできていない人がお金を持っても身につかないこと」を、データは如実に 証明しているわけです。 いえ、当選金を失うどころか、それ以上のマイナスを 被るとがあります。たとえばアメリカでは、宝くじに当選すると、宝くじ売り場 まで乗ったタクシーの運転手まで「分け前を寄こせ」と主張してくるそうですし、 100万ドルを当てたーカ月後に毒殺されるという事件まで起こっています。 『となりの億万長者』というベストセラーで知られるトマス・J・スタンリーは、 その著書で「宝くじを買う頻度と、その人の資産レベルの間には非常に顕著な 反比例関係がある」(『なぜ、この入たちは金持ちになったのか』日本経済新聞社) ということを証明しています。それは、「お金があるから、宝くじなんて買わない」 という理由だけではないのです。宝くじの当選確率など、計算すれば、ビジネスで 成功する確率よりはるかに低いとすぐにわかります。大富豪になるような人で あれば、そんな確率の低いことよりも、もっと確実に稼げることに、時間とお金 を投資しようと考えるのが当然でし欲う。それでも多くの人が宝くじをほしがり、 "当たる"と評判の宝くじ売り場に朝一から並んでいるのは、 「楽して莫大な富が手に入る」という誘惑に逆らえないからです。≫ ▼ 宝くじは夢を買うもので、それ自体に矛盾がある。夢は長年かけて地道に 積み上げ実現するもの。そのプロセスにこそ価値(意味)がある。数羽の ブラックスワンで、私の事業は終わったが、プロセスで元をとっていたので、 後悔は意外に少ない。宝くじの当選金を5年で失っても、持ったままより、 遥かに良い!とも考えられる。「失う」と思うのは傍目で、実際に使えば、 その価値を味わい尽くすことが出来る。 5年で数億など使ってみたいもの。 いや実際に使ってみた。一棟、ホテルを建てると土地代を入れると3〜10億。 そのプロセスを遊びに昇華すれば、遊びとして、それだけ使ったことになる。 遊びとしてみても、実際に面白かった。当事者の実感は、「失った」というより 「使った」である。本人が言うから間違いない! ということは、著者は浅い? ボロボロになって涙した方が、その数倍増やしニヤニヤしているより味は濃い。 「大恋愛の成就より、失恋をした方が遥かに良い」ことを考えれば解るだろう。 『 宝くじを当てた95%が、5年以内に当選金の全て使う! 』良いでないか。
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2017年05月13日(土)
* 環境六割、血筋が4割 「人間は環境の動物」と言われる。いくら血筋がよくても、生活環境の 良し悪しが大きく左右する。血筋が悪くても幸運に恵まれてアップスケール することもある。 遺伝学者がいうには、 < 人の能力は遺伝と環境の総和により、「環境六割、遺伝が4割」>と。 これは人生一般にも生物全体にも適応する。 自らを振りかえみれば、時々の 環境によって状況が大きく左右していた。「順境に枝を、逆境に根を張れ」の とおり、目指すところがハッキリすれば、置かれた環境と時節がプラスにも、 マイナスにもはたらく。環境づくり、環境選択は自分で出来るが、それに 遺伝子が大きく左右する。 歳をとってガンになりたくないなら、生活習慣を正すことが必要。 まず、免疫力アップと、細胞を傷つけないための毎日の食事が重要。 発ガン性物質の入った食品を識別し、避けて、ビタミンCやカロチンなどを とった方がよい。マウスやサルを使った実験で、餌を7分目に制限した固体と、 そうでない固体とは大きな差の結果が出ている。 環境は条件であり、条件は 原因。因果応報が、まさにこれ。「環境六割、遺伝が四割」は納得できる。 環境を選ぶのは遺伝子? 血筋が環境を選ぶ? なども考えられる。 30年前に10匹ほどの産まれたばかりのチャウチャウのブリーダーから子犬の 写真を見せてもらった時、それぞれの個性が写真から溢れ出ていた。 その時の直感が、「この子犬たちは、元もと過去に存在していた犬が、再び、 現れ出た」という直感。それが正しいか、どうかは未だに不明。 ありようにいえば、遺伝子が生物を通して生き抜いて、現れ出てきただけと 解釈できる。 イスラエルの地にユダヤ教とキリスト教が、中東の砂漠に イスラム教が、インドに仏教が、その環境にあった教義で現れ出てきた。 それらが共存するのは至難のこと。文明の相克がグローバル化の時代、 当然の現象である。そうこう考えると、人類は、今世紀で終わり? すべて消え去った後に残るとしたら、次のような空虚の疑問。 《何故に、神は人類をつくり、狂わせ地球の自然を消滅させたか?》 赤ざると、白豚の掛合いが、ブラックジョークで、その近未来を予測させる。 問題は笑い事でないこと。でも、笑うしかないでショー。これは。
・・・・・・ 5172,人生相談という気晴らし! 〜③ 2015年05月13日(水) 『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 人生の意味とは何ですか? 人生の意味は、それぞれあるが、確たる意味など、ある訳がないことなど、 少し考えれば分かるはずだが。質問者が言うとおり、この手の本を読み込んで いなかったということか。ニーチェがキリスト教的偽善を根こそぎ否定して ニヒリストと言われたのも、大衆は、実は神など存在しないと思っているのに、 信じたふりをいていただけ、と看破をしたため。 ≪ Q: 人生の意味とは何か? 極楽を説く宗教とは? 62歳、自営業、仕事はまあまあ、家庭も平穏、健康、毎晩酒を呑み、 週一でゴルフをする典型的な中年オヤジです。しかし、少しは本を読みます。 最近の小説のつまらなさに、学生の頃に夢中で読んだサマセット・モームを ひっばり出して読みました。そしてガキの時には読み飛ばしていた 「人生に意味などない」(『人間の絆』)という言葉に出会ったのです。 それ以来、この言葉が頭の中に鳴り続けています。 古今東西の英雄たちの人生さえ無意味だというなら、小生の人生は一体何か? 死がまったく「無」であるなら、天国を云い、極楽を説く宗教とは何か? 哲学書を一冊も読んだことがない小生にも分かるようにご教示ください。」 A: 人生が無意味であることを実感するには覚悟が必要です。 私は普通の人生相談の回答者と異なり、嘘をついて励ます(慰める)ことは したくないので、相談者が多少傷ついたとしても、思っていることをそのまま お話しします。まず「哲学書を一冊も読んだことがない小生にも分かるように ご教示ください」という要求にあきれ果てています。 お答えは「できません」 というものです。ここで相談を終えてもいいのですが、(私は優しいので) あえて続けますと、「人生に意味があ るか?」という問いに対して真摯な答えを 与えるのは、とにかく難しい。それは,こう問う多くの人が、人生に意味がない はずがない、だから何でもいいから都合よく納得できる「意味」を提示して ほしい、と願っているからです(あなたもその一人?)。モームは哲学者ではない のですが、多分この問題を一番考え抜いた哲学者は「ニーチェ」でしょう。 彼は、キリスト教の教えはすべて嘘であり、坊主たちがグルになって二千年間 われわれを騙してきたとみなしました。この世で報われなかった人があの世で 報われるわけでもなく、この世の幸不幸は永遠に清算(最後の審判)されない。 高速道路で飲酒運転のトラックに追突され幼児が焼き殺されたのも、電車が脱線 してビルに激突し、ぐちゃぐちゃになった車体の中で多くの乗客が死んだのも、 その人たちがただ「そこにいた」からです。こうしたとき、われわれは「なぜ、 罪もない幼児が? なぜ、親孝行の息子が?」と問います。古来人々はこう問い、 「われわれには測りしれない目的によって、神が災いを意志したのだ」と解釈 して、心を慰めてきましたが、ニーチェはきっぱりこれを否定する。すべては ただそうなっただけ。その奥に隠された意味(意志)などまったくないのです。 彼はこの真理を伝えるのに全人生をかけ、ついに発狂しました。人生に何の 意味もないことを全身全霊で実感するのは、それほどきついことなのです。 あなたも、そんなに「人生の意味」を知りたいのなら、あと統計的に死ぬまで 十年ちょっとあるのですから、残りの人生、それを探究することに費やして みてはいかがでしょうか? それが厭なら、謙虚にただ「わからない」と 眩いて死ぬことをお勧めします。 ・・・≫ ▼ 中島の面目躍如の内容である。この20の人生相談の回答に、ことごとく 私自身の曖昧さが指摘されているようでもある。それと私が忌み嫌っている 我が内なる世間びとへの批判に徹してようである。それだけ、世間という共同 幻想は、人々を縛りつけている。欧米では、その共同幻想がアッラ〜の神。 その名のもとで、互いが殺戮を行っている。ところで、『人生の意味』の意味 を価値に置換えると糸口が見えてくる。 人生に価値がありや、なしや? と。 ・・・・・・ 5537,閑話小題 〜閑なるままに・・ 2016年05月13日(金) * 思いのままに ☆ 先日、一年ぶりに弁護士と会ってきた。ということは、一年、債権に関し、 何も動きが無かったことになる。ところが、債権買取機構の一つが、債権の 買取請求をしてきた。これが終わると、残りは政府系の2つになる。それも、 私が死ねば、それで清算になる。銀行以外に債権は、ほぼゼロのため、債権 処理のトラブルは無いのが当然。弁護士一任の瞬間、問題終了ということ。 ☆ 5年前に、『キレイに止めたい!』という弁護士への私の要請に、 『会社整理に、キレイも汚いもない。良くて70点ならオンの字』の答え。 そこで、『その70点で、お願いします!』 と言い換えて、手順を踏んだが、 抵当物件の全てが、呆気なく、一年以内に売却終了。 弁護士いわく、 『今回は見切り千両というより、見切り万両の結果!』と総括。私の実感は、 『70点というより、80点!』。「20日締めの月末払い」の実質現金決済 の体質もあるが・・ 『生きてきたとおり、死ぬ』の言葉とおりに終了。 実際、小さなトラブルも無かった。 だから、拍子抜けのところもある。 そこで見えた誹謗中傷は、それぞれが、その知識経験の中で、思いつきの推測 をした化物はなし、それもほぼ嘘で固められた、妄想! でしかない。 固定化された社会には、ガスが蓄積し、まず自分の毒で、自分を殺す。 ☆ 数日前のTVレポートで、最近の「冷凍食品の高質化」を取り上げていた。 ファミリー・レストランと、味が変わらない冷凍食品が、自宅でレンジに かければ、美味しく食べれる。 数ヶ月前、この随想日記で、その美味さに ついて取り上げた。 不景気の中、家計が苦しくなる昨今、ファミレス、 専門レストランの料理を自宅で、安く、手軽に食べる時代に変ろうとしている。 最近、酒と摘みを買うついでに、冷凍食品のコーナーで、スパゲッテーとか、 焼きソバを買って、昼の食事を家内と分けると、これが丁度良い量。週一回の、 酒とツマミと、冷凍食品などの買い物が、ストレス解消にもなっている? それと、百均ショップの買物。値段に関わらず、購買は何かの欲求達成になる。 『日々、是、好日』ということか。 時々、傷口が傷まないこともないが・・
・・・・・・ 4807,閑話小題 ーボケの始まり? 2014年05月13日(火) * ボケか? 先週の土曜日、親戚の法事で駅まで歩いた後、タクシーに乗って寺まで 行ったが、誰もいない。そこで住職の自宅玄関で聞いたところ、翌日の間違い。 その前日、もしかと思い、案内を見直して日曜日と確認したが、その勘違いを 確認したことも忘れてしまっていた。 こういうのが呆けの初期症状? 家内に厳しい冗談?で、「施設に入れなくては!」と、馬鹿にされ 「他人に言わない方が良いよ」とまで、言われる始末。 それにしても、 ハガキを見直しても、間違えてしまう迂闊さに、我ながら信じられない思い。 帰り道、履き慣れない靴のため靴擦れの脚を引きずりながら、反省のため 30分の道のりを歩いて帰ってきた。 休憩のため駅東のマックに入って ハンバーガーを食べたが、それが何ともいえない味。緊張感欠如だろうが、 後々考えたとき、これが、ボケの始まりだった、でなければよいが。 * カラオケは、森の生活だからこそ? スナックに行っても、カラオケをほとんど歌わなくなった。 店内に客が連れと二人だけでも、歌う気がしないのである。やはり仕事の 憂さとか、張り合いの中でこそ、歌に張りも気持ちが入るというもの。 ゴルフはやらないが、現役時代のプレーが、定年後より遥かに面白いとか。 年齢もあるが、秘境ツアーも以前ほど行きたいと思わない。これも、仕事の 合間に何とか都合をつけて、浮世のストレスを秘境旅行のストレスで消す からこそ張り合いがある。 今は今の楽しみがあるのだから、 それは、それで良いとしなくては。 * カラスの糞かけ またまた偶然の一致だが、法事から帰ってきた玄関で、カラスの糞が、 目の前50センチ前に落ちてきた。これまで、一度は命中、あと一度が、 以下の前年の同月同日に書いたのを含めて、三度目になる。それより、 よりにもよって一年前に書いていたとは面白い偶然である。私には、この 手合いの偶然があまりに多い。その瞬間、「今回は、カラスに狙われた」 と直感したが・・。 最近、一羽のカラスがペットのインコの鳴き声に 惹かれて、自宅の周辺に屯している。何か、法事とか、葬式に、よく起きる 不思議な現象の一つ?だろうか。 ー以下をご覧あれ!ー ・・・・・・ 4440, 閑話小題 ーカラスの糞かけ 2013年05月13日(月) * カラスの糞かけ 数年前になるが、自宅近くを自転車に乗っていた時、カラスが低空で 私の二mほど先に糞を落としていった。問題は、これは果たして私を狙ったのか 偶然か、毎朝近くを通る度に考えたことがあった。ところが、一昨日の朝日新聞 の朝刊のコラムで、四コマ漫画の「ののチャン」が、専門家に質問する形式で、 「カラスの糞かけは、意図したものかどうか」を取り扱っていた。よくあること だから、取り上げたのだろう。 答え手は、「あくまで偶然で、カラスにとって 何ら利益にならない」と、ゲーム説や、カラカイ説には否定的だった。 専門家といっても、私のように三十年以上、毎朝、散歩やミニサイクリングで カラスを観察していた訳でない。で、私はゲーム説である。長岡大橋の手すりで、 カラスが5羽並んで私が自転車の通りすがりで至近距離に近づいても逃げない 「度胸ためしゲーム」をしていたことを、ここで書いたことがあった。 また散歩中の小型犬を、至近距離で、威嚇して遊んでいるのを見たことがある。 犬の飼主も、それを面白がって見ていたが、明らかにバカにして遊んでいた。 話は変わるが、昨日の午後、帰宅をすると、隣の空地で5羽のカラスが入り 乱れて空中戦をしていた。よくあることだが、昨日は違っていた。その二組が 同時に地上で激しい乱闘を始めたのである。初めは車内で見ていたが、決着が つかないので、車庫に車を入れてから門の角から隠れてみていたが、その間 7〜8分。鳴き声を聞きつけた他のカラスが数羽が駆けつけ、騒然とした中での 激しい乱闘はなかなか見もの。上下に体勢が入替わり互いの身体をワシヅカミ してツツキ合っていた。よく再び飛びたてたもの。身体からみて若いカラス同士 の縄張り争い。最近、一羽が我家の庭に度々来ているが、その中の一羽だろう。 ・・・・・・ 4066, つれづれに ースポーツジム、その後 2012年05月13日(日) * スローヨガ このところ、スポーツジムのスローヨガに参加している。連続参加が勘違い で14回で途切れたが、これまで18回参加した。ヨガのポーズは腰と背骨の 矯正に絶好である。大よそ40人が参加しており、火・木曜日の午後の週二日。 平日の午後、これだけの人数が一同、暗闇の教室でヨガをするのも奇妙な感覚 である。慣れるのに7〜8回はかかったが、慣れてしまえばしめたもの。 60×120センチのマットの上で色々のポーズをとるが、ヨガの先生曰く、 「ヨガでは、このシートが全宇宙と思って、自分独りと思って下さい!」 一回、50分だが、あっという間に、時間が過ぎてしまう。始まると周囲の人が 意識から消えてしまうのがよい。シートの中の自分と先生の世界が、それぞれ 出来てしまう。 ところで、専門のヨガ教室だったら幾ら?と値踏みをしたが、 一回、千円の価値は充分ある。 週二日、月に6回(二回、休む?)として 6千円になる。 これだけでSJの会費の元が取れることになる。 時間帯もあるが、9割が中年女性である。 * 昨夜は、新潟で飲み会 あれから一年以上経ち、そろそろ蟄居閉門も明けつつある。とはいえ新潟駅前 で事業をしていた手前、会場は敷居が高い地区。一般債権が無いが、気分的には 近寄り難いことは確か。「あの野郎、沼垂で赤ら顔をして飲んでいた」と、 言われそうだが・・ 27〜8年前に、月刊雑誌「到知」に惚れ込み、新潟市 周辺の愛読者の同好会「木鶏クラブ・新潟支部」を立ち上げた。私自身は12年 ほど前から、会から遠ざかっていたが、現在でも続いているが、有難いことである。 最後に行ったのが一昨年の忘年会、去年は時が時だけに一年の喪?が明けた今回、 参加した。その前に、新潟駅構内にある家電のジョーシンと、ビックカメラに 寄ったが、土曜日もあって客で溢れていた。長岡と新潟の勢いの差は駅に出るが、 あまりに大きい。泊まろうと思ったが、22時半の最終新幹線で帰ってきた。 昔の仲間との邂逅は良いものだ。 * 自転車専門大店 昨日、新潟駅近くのイオン直営の自転車大店に行ってみた。100坪位の 店舗にビッシリ自転車が並んでいたが、やはり電動アシスト自転車が主流。 開店直後で、まだ軌道に乗ってないようだが、時代から見て時間をかければ 良くなるはず。まだ価格帯が10万円あたりだが、4〜5万円が爆発的に売れる 分岐点だろう。店長曰く「電気代が月に20〜30円」。一回分なら分かるが、 こんなに安いとは知らなかった。電動アシスト自転車に乗って二年半になるが、 本当に良いと実感している。道具一つで、自分の生活圏の広さが全く変わって しまう一事例である。ヨガもそうだが、ポタリングを習慣にしてしまえばよい。
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2017年05月12日(金)
* 自己を失うことと、存在を失うこととは違う <自己を失うことと、存在を失うこととは違う>とは、意味深長の言葉。 挫折を例にすると、「挫折で自己を失った時期があったが、その中でも、 自己の存在が、その状況を冷たく、優しく見つめていた」という存在である。 印税が多く入ってくるのだろうが、浪費癖のため、蓄積は多くない? ≪ 入院した半年後に退院したが、仕事が皆無になっていた。いきなりバッタ 扉を閉められたのだ。世界は私を拒否をした。私は何もかもを失ってゼロに なった。ゼロに、そうゼロである。仕事もなければ、身体を支える足も萎え、 私は私の知っているではない。見慣れない老いさらばえた女が鏡に映っている。 …(略) 仕事を失ったと同時に、私は社会から閉め出され、私を規定する 他者を失った。他者を失うことは、すなわち自己を失うことである。ここで あえて「ゼロ」を「無」とは表現しない。世間が中村うさぎを消し去っても、 私の存在自体がこの世から消えるわけではない。 「自分を失うことと、存在を失うことと同義ではない」。 自分がゼロになった感覚は恐ろしいものだが、しばらくすると何だかどうでも よいいいことのように思えるようになった。ゼロになったということは、単に リセットされたということではないか。 たとえば、ゲームをやっていて、いきなり何かのエラーで強制終了になって 今までやってきたことが、全部リセットされるなんてことは、昔は日常茶飯事 だった。同じようなことが人生でも起きたと思えばいい。また一からやり直せば いい。そんな強制終了も人生でも起こりえるのだと、と学べただけでも儲けもの ではないのか? …(略) 結局のところ、人間は自分で自分を救わなくては、 どこにも行けない。≫ ー ▼ 深く考えることも、大きく挫折したことのないサラリーマンが、定年を むかえた時に、上記のような初老性欝病に陥るケースが多い。「私の人生、 何だった?」の根本的疑問である。20歳代から30歳半ばまで多くの変転を重ね、 リセットの最中で、著者の「自分で自分を救わないと、どこにも行けない。 何者にもなれない!」と独り言を脳裏で呟くしかなかった。それが、6年前の リタイアの節目から、現在に至るまで、他者の存在に気にすることなく、 現在に至っている。元もと自分も、他者も、幻想でしかない。そこまで、 精神を覚醒していれば、何のことはない。どうでもよい事である。
・・・・・・ 5536,閑話小題 〜地に足が着いた人生 2016年05月12日(木) * ある地に足が着いた人生 幼児の頃から、両親の勤勉さと仕事と人生に対する飽くなき姿勢をみて、 人生の何たるかを教えられ育ってきた。それは、「凡人だけには陥らないこと、 学び続ける必要性」である。戦前、戦中、戦後の激しい時代の変遷の中で、 10人の家族が生き抜くための生存本能が働いたのだろう。 無我夢中で15年間も、この随想日記も書続けてきたのも、50年以上も、 早朝の読書習慣を続いているのも、その幼児体験があったため。 その卑小な自分を、ある人物の人生の合せ鏡でハッとさせられた。 ある酒席で、同年齢位の隣人に、『職業は何やってこられましたか?』と問い かけると、少し考えた後に語った人生とは、『当時の中卒は、金の卵といわれ、 集団就職で、ある大手メーカーに勤めた。殆どの同期は、仕事の後から、 夜間高校に通い、高卒の資格をとってから地方公務員を目指していた。 自分も同様、夜間高校に通い、地方公務員試験の勉強をして合格、消防士 になって、無事、定年退職し現在に至っている。消防だけでなく、救急も経験、 多くの人生を垣間見ることが出来た・・ 』と言う。 昭和30年代半ばは、クラスの二割位が中卒で就職をしていったが、 夜間高校から地方公務員になったケースを身近に聞いたのは初めて知った。 「夜間高校出の消防士の平凡な人生が、どうした?」といえば、そうだが。 その人生から、恵まれた家庭環境に育った自分の境遇に気づかされた次第。 中学の同級の訃報の半分は中卒の人たち。学歴が上がるにつれて訃報数が 減るのは何故か? その目線から見た私の人生は、大甘もいいところ。当時は 中卒で働かなければならない家庭境遇の生徒が、同級に多くいた。振返りみて、 恵まれていた人生だったと痛感する。 私の一生は、恵まれた列車で、少々、 汗をかいた人生でしかない。 それからして、最後の思いもしなかった挫折は、 私にとって幸運だったといえる? いや、誰にでも最期は死という挫折が待つ。 それぞれに、それぞれの因縁があり、それを如何に楽しむか、志を貫けるか。 娑婆世界は、面白可笑しく、哀しく、甘塩っぱい味がする! せっかくだから、 もっともっと楽しんで、味わい尽くしてから生前に戻りたいもの! 幸せな人は、何があっても幸せであり、不幸の人は、何があっても不幸! 心の奥で、どう折り合いをつけるかどうかだ。 そういうこと!
・・・・・・ 5171,閑話小題 〜ボ〜ッとしたデカルトの時間 2015年05月12日(火) * ボ〜ッとしたデカルトの時間 御隠居の生活に入って、早朝からスケジュールとおりに時間を過ごしている。 その時間の中で一番大事なのがボ〜ッとした時間。だが、それが過ごせてない。 ひとつ終わると直ぐ、次のスケジュールに移行するため。 以前もふれた事が あるが、宗教学者の山折哲雄が、早朝30年続けてきた座禅で、無念無想を諦め、 この時間帯は、デカルトの「ものを考えている」と思いつき、全身が解放された、 という話にハッと何かを感じとった。 最近、パソコンや読書の合間に、何を するでなし、意識的に弛緩した状態でボ〜ッとしている。考えてみたら、現役 時代は何時もしていたことだが、問題は意識してボ〜ッとすることだった。 〜その辺りの記述を抜粋〜 ≪ 朝3時か4時に起きて、毎朝一時間ぐらい座る。毎日香っている線香一本 燃えるのにだいたい50分前後。その一本を闇の中でつける。その明りを 見ながら座る。道元が言っている「無念無想」なんてのになれるものならなって みるか、なんてやっていたけど、ぜんぜん無の境地にはならなかったですね。 雑念、妄想とズ〜ッと戯れている。30年近くこれをやって、「俺はもうダメだ」 と思ったのが50代の終わりぐらい。でも、もう癖になっているからとにかく 朝は座るんです。で、あるときハッと思った。「無念無想になろう」と思うから いけないのであって、「ものを考えている」と思えばいいじゃないかと。 あっという間に全身が解放されたような気分になってね。「俺は今デカルトを やっているんだ」と。道元の時間と思っていたからできないのであって、 デカルトの時間と思えばいいと。すると、何を考えてもいいわけです、金、 女性、喧嘩したこと…。「我考える、ゆえに我あり」。道元だって大部分 の時間は無念無想じゃなくて妄想と戯れていたんじゃないかと思ったのね。 それで瞬間的にパッと無の瞬間が訪れる。逆にデカルトだって、考えづめに 考えていて、ときには無念無想の時間に恵まれたことがあるんじゃないかと。 そうすると、道元とデカルトはぜんぜん違う世界の人間じゃなくて、彼らは 同じ時間を共有していたのかもしれない、そう思ったときはうれしかったね。 座禅が終わって五時ぐらい。それから本を読んだりものを書いたり。以前は 夜型だったんだけど、朝一時間は夜の3〜4時間に匹敵する、それがわかって から夜は仕事をしないことにした。朝2〜3時間仕事をすることが、だいたい 自分のノルマになったかな。 ・・・。 ≫ ▼ 数ヶ月前から、ブログを書上げネットにアップした後、それまでは、 次のプログラムを直ぐに移行するが、その時、ただボ〜ッと全身を弛緩し、 ただ座ることにした。これが意外と難しい。要するに雑念が次々と思い浮ぶが、 その中に思いもよらぬ砂金が含まれていることがある。「我考える」とはいえ、 どうせ、碌なことしか考えてない。それなら、この随想日記のように、まず 禄でもないことから、考えればよい。元もと『禄でない』だから! 早朝の散歩も、ポタリングも、ある瞬間、『無念無想』の瞬間がある。 『エッ!俺、何時もボ〜ッとしている』って? それってバカじゃないか。
それってバカじゃない。 ・・・・・・ 4806,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー3 2014年05月12日(月) 「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著 * 自分も、人生も、記憶がつくりあげる 記憶は、その痕跡として、自分でアレンジすることが出来るため、その蓄積 としての記憶は、その人自身が作り上げた要素が大きく加わっている。その時点 での、自己対話としての内的世界が重要になる。そして、その記憶もである。 時間の経過とともに、その記憶も修正されていく。 《 記憶は自己の同一性の基礎となっており、私たちの性格や生きかたに 大きな影響を与えている。しかし、たとえそうだとしても大多数の人は、 記憶など自分の過去に起こったできごとの痕跡にすぎないと言うだろう。 これから未来へ向かって生きていこうというのに、今さらどうしようもない 過去の痕跡にかかずらっている時間はない、と。しかし本当にそうだろうか。 先ほどのTさんの話の中には、未来に向かって生きるためにもやはり、 記憶が重要なことを示唆する一幕がある。記憶喪失のために八年間の記憶を すべて失ったTさんは、当初、何とかしてその記憶を取り戻そうと焦っていた。 母親はそんなTさんに、誰もが365日すべての記憶があるわけではないのだから、 過去にこだわるよりは、今から何かを始めればよいと言ったそうだ。しかし、 それに対してTさんは、「今まで何をしようとしていたのかを知らなければ、 前に進むことができない。それを知らなければ生きている意味がない」 と言ったという。 このことに関連して私が思い起こすのは、戦後40年目に おこなわれた当時の西ドイッのヴァイツゼッカー大統領の演説だ。 ヴァイツゼッカー大統領はこの演説の中で、第二次世界大戦のナチスドイツに よるユダヤ人虐殺について深く謝罪すると同時に、「過去は神でも変えられぬ」 という台詞で、過去を変えることができないことを強調した。しかし、だから といって過去を封印しようというのではなく、彼は「過去に亡目になる者は 現在に目を閉じることになる」と続け、過去を知り、それを現在に生かすこと の大切さを訴えかけたのだ。基本的には、私たちの記憶もこれと同じではない だろうか。自分の記憶をみつめることで、それを現在に生かすことができ、 記憶は未来への航海へと漕ぎ出す原動力となるのではないだろうか。》 ▼ 記憶といえば、日記に書かれていたかどうかで、大きく違ってくる。 だから、ネットや、日記帳に、書き込んでいる。そして、毎年の同月同日分を 読み返しているが、なるほど、自分の加工が大きく入っている。それが「自分」 ということになる。ということは、それぞれが自分史を生きているのである。 今さら書く事もないが、より足取りを確かにするためには、書いておいた方が良い のだろう。改めて、何気なく繰り返し思い出している記憶が、実は、自分が大きく 加工したものでしかないとすると、やはり共同幻想、幻覚の中で生きているだけ ということが、少しは自覚できる。最近、ブログで過って行った先の写真を ネットからコピーし、ブログに載せているが、これが、当時の記憶を彷彿させる。 これも、当時の記憶の再生と、再体験になる。行ってなければ、注目もしない だろうし、どんな写真より、当時の感動の方がはるかに良い。過去の再生と 体験と同時に、新たなる未来のためにも、常に、記憶の手入れが必要になる。 ・・・・・・ 4439, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー9 2013年05月12日(日) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 ーこれまでの7つの登山道を更に簡略すると、次になる(後書きより)ー ・ ルート1は、心は幻想だと理解する道。 脳神経科学の知見から考えると、意識される今は幻想だ。 今とは、未来や過去が調整されて今だと思わされているに過ぎない。 自分が主体的に行っているとリアルに感じる意思決定も、そうしていると 思い込んでいるだけだ。 僕たちは「生きていると錯覚しているだけだ」と考えざるを得ない。 ・ ルート2は、すぐ死ぬことと、あとで死ぬことの違いを考える道 所詮はいつか死んでしまう、ということから人生を考えると、今死んでも あとで死んでも同じよなものだ。人生は死刑のようなもの。だが、それは、 悲観的なものではない。生まれてきた奇跡を、この宇宙的ラッキーを、 ポジティブに捉えようではないか。死ぬことが悲劇なのではなく、 生きていること自体がすばらしい奇跡なのだ、と。、 ・ ルート3は、宇宙サイズの視点に立って、自分の小ささを客観視する道。 138億年前にできて、直径276億光年のサイズを持つ巨大な宇宙。この宇宙 スケールから見ると、何て人間は小さいことか。しかも、地球上に70億人も うごめいている人間。あなたはその中のたったの一人に過ぎない。全体から 見ると、あなたが自分の死にこだわることは、極めて部分的些細なこと。 ・ ルート4は、主観時間は幻想だと理解する道。 客観的な時間は、138億年にわたって、一秒ずつ確実に時を刻んできた かもしれないが、主観的な時間は、それとは異なる。過去と未来は圧縮され、 生死のところで長さがゼロになる。しかも、それは幻想だ。あなたの過去は 記憶にしかないし、あなたの未来は想像上の産物。あなたには今しかない。 あなたは、今しか感じられないのだ。時間などない。だから、あなたの主観 時間に、死の入り込む余地はない。 ・ ルート5は、自己とは定義の結果だと理解する道。 自分がいて、生きていて、考え、行動し、いずれは死んでいく。 そう考えるのは、近代西洋流に、自と他、生と死、主体と客体、能動と受動 といった二項対立図式でものごとを捉えているからに過ぎない。それが正解 ではなく、ものごとを考えやすいように、そのように定義しているだけだ。 「自分」を定義するから自分があるかのような認知が行われ、「死」を定義する から死を恐れている気がするに過ぎない。もともと、世界は単に全体として 世界であるだけであって、自分も死もないのだ。 ・ ルート6は、幸福学研究からのアプローチ。 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の 目を気にしない傾向。これらを満たすのは、自己を捨て、無我・無私を実践 できる達人の生きかた。・・ここに到達した人は、持続的な至福を感じる ことができる。逆に、持続的な至福を感じられる人は、達人の域に 到着することができる。・ ・ ルート7は、リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ。 そこには、リラクゼーションからでも座禅からでも、念仏からでも達する ことができる。いや、ルート6のいずれからでも到達することができると言う べきだ。 何しろ、もともと同じ山を登っていたのだ。 登頂した先は、 同じところ。死を恐れない境地。それはそのまま、生を満喫出来るところ。 昔の人は、科学技術の知見がなかったから、仏教哲学によってしかそこに 到達できなかったのかもしれない。しかし、現代人には科学技術がある。 脳科学の知見は意識が幻想だという事実を僕たちに突きつける。 ▼ <私たちの心は幻想でしかない。137億年の時空の自分は小さな存在、 そこでの主観時間は幻想。それを感じている己も定義でしかない。そこでは、 他の人との比較に目を奪われることなく、深くリラックスをしていれば良い> が活きるコツ。ひたすら今を活き活き、楽しめばよい。背中に羽をつけた 天使のようになるに、まだ重い。せっかくサバンナに出てきたのに。 ・・・・・・ 4065, お金と神 ー1 2012年05月12日(土) * 「お金=信用」と「神=信仰」は似ている 〜� ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より 金とは何だろう?と長年考え続けてきたが、金と神との同定の視点が面白い。 両者ともバーチャルの信頼で成り立っている。一部の支配者が神の信託に、 紙幣の信託の類似性をみて発明したのが金で、両者とも共同幻想の最たるもの。 ーまずは、抜粋から。 ≪ 金と神は似ている。一般に、金とは汚いもの、神とは聖なるものと言われる。 いずれ実体のないバーチャルなものなのに、人びとの行動に大きな影響を与える。 適度に使えぱ人々に安心と幸せをもたらすが、行きすぎれば人生を狂わせる。 宗教が狂信者を生んで世界を恐怖に陥れるように、現代における金への強い執着 は、人々に購入を控えさせ、不況を生み自分たち自身を失業に追い込んでいる。 ◎ 宗教とは、リアルな物欲が生む煩悩から逃れるために、人間が頭の中に 作ったバーチャルな世界である。それはときとしてリアルな物より人間行動に 強い影響を与える。純粋にバーチャルな神という概念をそこまで高めるのに、 人間は多くの過程を経てきた。はじめ神は嵐や雷、山や川など、自然物や自然 現象と結びつき、それらのリアルな脅威や恵みが、直接の畏敬の対象だった。 その後、徐々に抽象化されていく過程では、多くの装置を必要とした。装置とは、 大伽藍であり、宗教画や彫刻であり、神話や経典である。それらを使って 人びとに極楽浄土や天国を信じさせ、信仰に導いた。この段階ではまだ、 宝石や黄金、美しい花や天女など、極めて世俗的な妄想を抱かせている。 しかし、宗教の抽象化はこれに留まらい。禅宗に至っては、脳内での世俗的な 快楽や美しさへの想像さえ否定する。すべては無であるという禅宗の経典、 般若心経では、直接的な物欲だけでなく物への妄想さえ捨て去ることにより、 心の平安を得ようとする。これによって宗教は完全にリアルから切り離され、 バーチャルな観念へと昇華きれる。 ◎一方、お金はどうか。ーつづく ≫ ▼ お金の亡者は、金を神のように崇める人をいう。世の中の9割方の問題が 金で解決出来る代物なら神様より頼れる紙切れである。神が共同幻想なら、 それを信じている世界では通用するが、通用しない世界では、紙切れの存在で しかない。信じばこそ、そこに価値が出るもの。その価値を生み出すための装置 の重積で、妄想から信仰に昇華させていく。資本主義における神こそ、金である。 アメリカのドルと国債こそ、神に近い存在であった。それも今や、そのカラクリ (欧米の資本主義)が崩壊しつつある。
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2017年05月11日(木)
* 私は他人に頼ることを学ばなければ あと2〜3年で、健常年齢の平均に達する。著者の立場に今日明日にも以降 の可能性があり、他人事の話でない。腰痛は、週4回、ヨガ・エアロに参加を しているに係わらず少しずつ悪化。著者ほどの無頼漢ではないが、年齢が年齢。 長年の不摂生で、他にも支障が出てきた。〜以下は、納得する。 ≪ 「ひとりで生きていける人間」の条件に、経済力、精神力だけでなく、 もっと大事なことがあった。それは「健常な肉体」。身体が自由に動くこと… そんなのは当り前すぎて、そこに思いはせることが出来なかった。 そこにこの病が降りかかった。私は為す術もなく、ひとり立つことも歩くこと もできなくなった。他人に依存しなくてはならない人間になってしまった。 なんという皮肉であろうか。神が私にこう囁いた気がした。 「ひとりで生きていけるだと?思い上がるんじゃない。おまえがどんな弱い 存在か教えてやろうか」。辛辣な神は、いつも私に手酷い罰を与える。だが、 今度の罰ほど酷いものはない。自立した成人から一気に赤ん坊に逆戻りした気分。 自殺をしようにも出来ない自分はますます絶望した。ひとりで生きていけると 放漫にも嘯いていた私は、このような身体にならなければ、ずっとこのまま 生き続けただろう。他人に頼ることを恥じ、他人に依存する者たちを見下し、 自分は強い、自分は偉いと思い込み、高い城の天辺でひとり悦に入ってたこと だろう。その城がどんなにキジャクな地盤の上に建っているか知る由もなく。 病を経て、誰かに手助けをもらっても、それは恥ずべきことではない。ひとりで 生きていけなくとも情けないことではない。そもそも人間は、他者を必要とする 生き物なのだ。人に頼らない人間は、人に支えられていることに気づけず、人に 感謝する気持を忘れてしまう。その末路が、どんなに寂しいものであろうか。≫ ー ▼「他人に頼ることを学ばなければ」の言葉には…ショック。老いるほど、他人 に頼らざるをえなくなる現実がある。不摂生をしてきた分、返り矢が突刺さる。 半年ほど入院していた間に連載の仕事が殆ど来なくなり、「病欠後、復帰しよう とした初老の会社員がリストラされた気分になった」という。まだ中年?だから、 現役気分なのだろうが、作家の仕事は、そう甘くない。 そうか、私は今まで「アウトサイダー」と肩肘を張っていたが、老いれば、 コテコテの捻ねた弱者でしかない。私は、何かどえらい事を学んでこなかった? 「他人に頼ることの学び」は、ありきたりだが、『感謝の念』を正一点無にし、 強めることか。身につまされた‘中村ウサギ’ちゃんを通した忠告の言葉である。 <辛いの〜 老いていくのは!> いま出来ることは、垂直に立った、 今日一日を、楽しむしかない!
・・・・・・ 5535,魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思 2016年05月11日(水) * 魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思 魂とは何かについて、様ざまな諸説を学んできたが、 <魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思>の説の切口は新鮮。 そこで思い出したのが、中村天風の言葉。 ソクラテスは、2500年前に、 魂の進化こそ人間の目的という。 〜天風の哲学から〜 ≪ カリアッパ師は遠くの空の彼方を見つめ、誰に言うともなく、つぶやいた。 【お前には人生観らしいものが何もない。その場、その場を生きているだけだと 言われても返す言葉もない。アメリカで医学とやらを勉強したらしいが、逆に その知識が災いして、ちょっと咳をしても恐れ、不衛生だといっては神経をすり 減らし、オドオドばかりしてる。枝葉末節の学問ばかりして、一番肝心の、 『私は何をするために、この世に生まれてきたのか!』ということを考えてない。 本末転倒もいいところだ!それだったら、死でも仕方がないな。そこから立て 直さなければダメだな!】 カリアッパ師は言った。 【何をするためにお前は遣わされてきた!そのことを考えたことは あるのか!】 これは、<私たちが生きている意味は宇宙の進化に 同調すること>であると。 教義の最終目的はアートマン(自分)がブラフマン(宇宙)に合 一すること。≫ ▼ マルクス・アウレリウス、<人間の心で行う思考が、人生の一切を創る。>と、 中村天風は、<私たち は自分が考えた通りのものになる。 そのすべてが、 この宇宙を動かしているのと同じエネルギーの力を得ている。> と、いう。 この宇宙の意思が魂ということ。善なる方向に向かおうとする意思こそ、 最も大切なことである。毎朝、仏前で、「この世の全ての人が、善くあります ように!」と、祈ってはいるが、世人の例外があまりに多すぎて・・ 〜これもまた、以下の内容に丁度よくつづく!「良い人」を止めると楽になる。 ハイデッガーのいう、「世人」相手でなく、己の良心に従えば、「ろくでなし、 結構」になる。「世人」の無知はよくない。善い方向(知識)を知らなくては。
・・・・・・ 5170,人生相談という気晴らし! 〜② 2015年05月11日(月) 『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 「いい人」やめて、「ろくでない」になれ 母親の痴呆症と5年半の間、付合ったこともあり、相談者の切実な気持ちが 手にとるように分かる。兄弟の微妙な関係もあって、そう簡単に事は進まない。 ただ「いい人」を止めてしまうことには大賛成だが、「いい人」は簡単に止め ようがないもの。介護は、それなりの強さと覚悟が必要になる。「ろくでなし」 にも、覚悟が必要。 正常と非正常の間を彷徨う肉親との同居は重く疲れる。 ≪ Q: 〜母親の介護で、自分自身が壊れてしまいそうです!〜 私は四十五歳で、現在母親の介護をしております。母の介護をするために 仕事を辞め、現在無職です。私には、父、兄、弟がいるのですが、まったく 母の面倒をみようとしないので、男一人で母の介護をしております。 その母も痴呆が進み、モノの判断ができなくなり、外でゴミを拾ったり、 真夜中に叫んだり、私もその対応に、やり場のない疲れが溜まっております。 もういっそのこと、私も介護を放棄し、母親に早く死んでほしい気さえします。 同時に私まで気がおかしくなりそうなのです。しかし、これまで母親に世話に なったことを考えると、それも出来ません。このように思う私はやはり 「できていない」人間なのでしょうか? A: 〜「いい人」をやめて、「ろくでなし」になりなさい!〜 これも失礼ながら、いらいらする相談ですね。あなたは、私の嫌いな 「いい人」なんですね。これまた細かい事情はわからないのですが、真剣に 考えれば社会的にはいろいろ道は開けると思います。お母さんには息子が三人も いるのですから、三人でお金を出し合って、介護士を雇う、老人ホームに預ける 等々。(お父さんはともかく)ご兄弟がそれに協力しないのなら、あなたが介護を 続ける代わりに、彼らにあなたの心的・肉体的負担相応のお金を請求してもいい でしょう。お二人がそれさえ拒否するなら、その原因は二つ考えられます。 一つは、あなたのご兄弟が「ろくでなし」だということ、もう一つは、あなたが 「いい人」という名の「困った人」だということ。「ろくでなし」と「いい人」 が共存すると、だいたいいまのあなたのような状況に陥ります。「ろくでなし」 は、「いい人」を骨の髄まで利用し続け、「いい人」は全身不満の塊になって 恨み続けるというわけです。一般に、人がある限度を超えて耐えるとき、碌な 結果を呼ばない。だから、なるべく避けたほうがいいのです。・・(略) あなたがお母さんを(間接的にでも)殺さないうちに、あるいはあなた自身が 「気がおかしく」ならないうちに、あなたは大変身する必要がある。つまり、 「いい人」をやめて、ご兄弟と同じように「ろくでなし」になることです。 そこで、私の提言はただ一つ。一度みんなを集めて、「俺だけおふくろの面倒を 見るのはおかしい!」と大声で叫んでみてはどうでしょう。「もう介護はやめる!」 ときっぱり宣言してはどうでしょう。つべこべ理由を言う必要はない。ことの おかしさは、どんな「ろくでなし」にもわかるはずですから。一度、そういう 修羅場を経由しなければ、そしてみんなが全身ひりひりするほどの痛みを覚え なくては、何も変わらない。もっとも、あなたがどうしてもそうしたくない、 そういう勇気がないというのなら、仕方ないですね。お母さんが死ぬまで、 あなたは介護を続けるしかないでしょう。お母さんを恨み、ご兄弟を憎み、 そして自分を責めて生きるしかないでしょう。≫ ▼ 介護には、周囲の無理解がついて回る。「まだらボケ」が、その一つ。 第三者が居るときには、緊張が入った正常状態に近いため、痴呆症の人との 同居経験がないと、「聞くと見ると大違い」と、勘違いをしてしまう。 で、「ろくでなし」と決め付けられる。 当人は今さら何をか! 私自身を振り返ると、見えてくるのが、「ろくでない」「いやなやつ」の影。 ・・・・・・ 4805,閑話小題 ー倒産よもやま話 ー⑥ 2014年05月11日(日) * 当事者の隠れた心理とは 其の辺の視線から度々、思うことは、当事者の心理まで解ってないこと。 ホテル建設の準備と立上げほど面白い仕事はないのでは? 実感として、その トータルと、軌道にのせた時に、その金額分の元を既にとった実感がある。 これは事業創業と同じであるが。クルーズが好きで、趣味が興じて、その設計 から建設まで、造船会社と打ち合わせをし、造りあげた船が10年、20年後に 難破して命からがら助かったとする。その時、誰かが、「惜しかったですね!」 と言われた気持ち?が、こんなもの。「いや、これだけ楽しんだから、未練も 悔しさもない!海から引退する身にとって、下手に中古品で残っているより、 この方が危険な遊びより解放されて、むしろ良かった」が本音。 第三者は、 難破して命からがら救われた、姿しかみてない。しかし、当事者は、その辺り が周辺の視線とは全く違う。これも、救命用具と救命舟を用意して、命からがら 助かった?からこそ、言えるのだが。 で、ボートしか乗ったことがない人ほど、 その時に勝手な揶揄をすることになるが、その面白さが、何ものにも代え難い ことは知る由もない。人は、それぞれ、頑固な岩場の小さな洞窟内のことしか、 知りえない。それは、あくまで、大小の大きさの差でしかないが。 私の身近な人の心理が、こんな心理もあった?ということを、自分が経験して 初めて知ったこと。両親の生き様の後ろ姿から、「人生には、何が起こるかも しれない、だから、その時々の楽しみは、その時に、味わうことを、子供ながら 学んだ。それにしても、9割以上の何も考えない人たち、何をしているのだろう。 年金生活に入っても、収入の二割は漠然たる目先に不安のため、預金をして、 死期が迫ってから、この世に、したいことをし得なかった無念と、預金を残して 死んでいくのだから、恐れ入る。 で、「そのお金もない、したいこともない、 無念もない!で、どうした!」 これはこれで、おめでたいこと。これも、 目くそ鼻くそを笑う範疇でしかないが! 王陽明もあるが、論語もあるか? ・・・・・ 4438, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー8 2013年05月11日(土) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 * ルート7 リラクゼーションと東洋的思想からのアプローチ(思想の道) 「いい湯だな」と「悟り」は同じこと。両者とも「リラックスの極致=悟り ということ。 笑いは緊張とリラックス(弛緩)の間に生まれ出る。喜劇や お笑い番組の束の間に悟りがあるのか? お笑い芸人が果たして悟りをひらいて いるのか? という疑問が出てくる。しかし「深いリラックス」が、悟りと 笑いにある。早朝のミニサイクリングで信濃川の土手を音楽を聴きながら、 深呼吸をしている時の気持ちは悟りの心境。深くリラックスをしてないと、 自分が壊れてしまう恐れもある。逆に悟りに近い心境は自ずから リラックスの状況を求める。 −その辺りを抜粋ー ≪ 先ほどの達人の境地や禅僧の姿はこれに通じるものがある。自分を磨く ことによって至ることのできる境地。 これに対し、リラックスの境地は、 「世界を貫く原理原則を知った」状態とは異なるように思えるかもしれない。 しかし、そうだろうか。リラックスの境地は、我欲や悩みやその根源である 身体の不自由さから解放された境地だ。心が無であること、あるいは、幻想で あることを、体で理解した境地だ。「ああ、世界での幸福なあり方とはこう いうものか」と体で理解した境地だ。そう考えれば、リラックスの境地は、 「世界を貫く原理原則を知った」ことと等価ではないだろうか。「体で理解」 する点が、禅宗の「不立文字」とも関係している。先ほど述べたように、 禅宗では、悟りの境地は言葉では言い表せないものだと考える。右で述べた、 体で理解した境地とは、まさにこのことだ。 頭で理解したのではない。 体で理解したのだ。体で、世界を貫く原理原則がわかった、と実感したのだ。 よって、リラックスの境地は禅宗の悟りの境地と同じものだ、と体で理解 しさえすれば、同じものなのだ。ただ、古代仏教では、禅宗とは違って、 悟りの境地を論理として理解しようと考える。これはどう捉えるべきなのか。 僕はここにも矛盾はないと考える。矛盾か矛盾でないか、自己か他者か、 実在か幻想か、論理か感性か、頭か体か、という対立図式を超えるのが 仏教哲学の論理だ。・・・ 〜(略)湯船につかって「あ〜あ、きもちいい〜」 と思う瞬間。これは大金持ちでも、貧乏人でも同じ。育ちも実績も関係ない。 欲も悩みもない。何も考えない。ただ、「あ〜あ、きもちいい〜」に集中 している。実は、あっけないことに、これが「リラックスの極限」=「悟り」。 あらゆる欲を超越し、過去も未来も超越し、静かで満ち足りていて、心の 安らぎと平和を享受している。悟りや涅槃の定義にぴったり一致する。 そうはいっても、リラックスの境地と悟りが同じとは ーしかも、 よりによって、風呂の「あ〜あ、きもちいい〜」と悟りを同一視するとはー あまりに突飛で不謹慎な考えだ。そう思われる方も少なくないかもしれない。 が、そんなことはない。期せずして、あるチベット仏教のアメリカ人僧侶は、 悟りとは深いリラックスだと述べていた。≫ ▼ 起業を決意してから45年間。三つのブラックスワンで、この結末。 オセロで、白石が全て黒に変わったようなもの。しかし、人生にとって ベストと数ヵ月後に気づいた。50歳の節目時に、「還暦までに、それまでの 人生を圧縮して生きる」と決意して、その通り実行してきた。しかし、 まだ何かが足りなかった。そこで気づいたのが、悟りが全く足りなったこと! ・・・・・・・ 4064, 思想とは 2012年05月11日(金) * その人の思想とは一つの行為である ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より ≪ ――自分に実感がなければ、ひとを掴めるはずがない。 心の底からほとばしって、聞いているみんなの心を ひたむきな感動で引っ張ってゆくのでなけりゃだめだ。 今日も明日も机にへばりついて、膠で接ぎ合わせたり、 他人の賞味したお余りでこった点をこしらえたり、 掻き集めた灰のなかから 貧弱な火を吹き起したりするのでは、 子どもや猿どもには感心してもらえるかも知れん―― それがきみらのお望みならばだ。しかし、真実、良心から出たもの でなければ、けっして心に達するものではない。(ゲーテ「ファウスト」) そういう声を聞くと、心を打たれると同時に、なるほどこの人はそういう 人かと、そこにたしかな一個の存在を認めるだろう。この人物には思想が ある、と。すなわち思想とは、つまりその人が断乎としてそのように考え、 そのように生きる、その生き方の言葉や行動にあらわれたもの、という ことになる。自分の生き方の全部を賭けた言動だけが、思想の名に値する。 そこから小林秀雄の、次のようなはげしい断定も出てくる。≫ ≪ ――精神の状態に関していかに精しくても、それは思想とは言へぬ、 思想とは一つの行為である。 (小林秀雄『私の人生観』より) 口で言うのならどうにでもなる、とよく人はいい、これはとくにわが国では 支配的で、政治家の言口葉などはその標本のようなものだが、そんなふうに 言葉=意見を弄んでいる者は、ついに真の自己に達することはできないだろう、 というのである。なぜなら、ひとは自分がしんから正しいと考えたこと (それはその人の生き方から出た必然の思想である)を口にする時、己れの 全存在を賭けてそれを言うのであり、それが周囲に認められ、あるいは 否認されることで、己というものを知るのだから。≫ ▼ 11年間、ここで書き続けてきた効用は、この実感がないことは逆に、 書けないということ。だから出来事に直面したときの実感を、その場で文章化 して頭に残して置いて、記憶に残す習慣が出来てしまった。写真家は、シャッター チャンスを待つが、その間、頭の中で、その場の光景の実感を文章化している。 写真に添えられている文章は、だから写真を引き立てる薬味になる。思想とは、 真実、良心から出たものでなければ、心に達しないのである。心にとどくのは、 自分だけの頭で考え、経験し、感じた実感である。読書日記より、書くネタが なく仕方なく捻り出した「閑話小題」、「つれづれに」のテーマの方が面白いと 言われるゆえんである。
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2017年05月10日(水)
『しあわせ仮説』ジョナサン・ハイト著 * 危機にぶち当たった時の対処 ≪ 人は危機に当たった時の対処に主に3つの方法で対処する。 ・能動的対処:(問題解決のための直接行動) ・回避的対処:(その出来事を否定したり、薬物などで気を紛らわせたり) ・再評価:(思考を正したり、希望の兆しを探したり、心の内部を変える) 楽観主義者は、能動的対処と再評価の間で揺れて、対処の中で能動的 物語の粗筋をつくっていき、悲観主義者は回避的対処と再評価の間で消極的 物語、意味づけをしていく。楽観主義そのものに意味(価値)があるのでは なく、楽観主義者がたやすく見出す「意味づけ」にある。〜P/217 ≫ ー ▼ 態度価値といえば、フランクルである。 彼によれば、 【人間が実現できる価値は創造価値、体験価値、 態度価値の3つに分類される。 ・創造価値とは、人間が行動したり何かを作ったりすることで実現される価値で。 仕事をしたり、芸術作品を創作したりすることがこれに当たる。 ・体験価値とは、人間が何かを体験することで実現される価値である。 芸術を鑑賞したり、自然の美しさを体験したり、あるいは人を愛したりする ことでこの価値は実現される。 ・態度価値とは、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値である。 病や貧困やその他様々な苦痛の前で活動の自由(創造価値)を奪われ、楽しみ (体験価値)が奪われたとしても、その運命を受け止める態度を決める自由が 人間に残されている。】 これから危機の対処方法をみると、人間としての生きる意味そのままが現れ 出てくる。再評価が態度価値になる。「受け止め方」を変えることになる。 価値実現のために、「意味づけ」「物語化」が必要で、態度価値を冷静な視線 で捉えておかなければならない。6年前の節目で、まず整理したのが、態度価値。 危機はチャンスでもある。チャンスは、節目を全身で叩きつける切れ目を凝視 する機会にすること。新たな支点で世界をみるための既成概念を叩き壊すこと。 危機があればこそ物語が生まれる。世界が広がっていくのである。
・・・・・・ 5534,若者よ、外に出よ! ー⑬ 19世紀の芸術に触れろ 〜B 2016年05月10日(火) 『人生の教科書』なかにし礼著 ここで、若者に、<海外に出て、自然と、芸術作品に触れ、読書などで 教養を積み、恋愛をしろ>と勧める。これは若者だけでなく、壮年、老年に も言えること。情報化社会の中で、クラシックをジックリと聴く余裕は少ない。 しかし、今ではアイフォンがあり、何千、何万の音楽を入れておくことが可能。 更に今では、定額のネット配信で好きな音楽を好きな時間に聴くことができる。 そのベースとなる19世紀クラシック音楽鑑賞を趣味にすることを勧める。 * なぜクラシックを聴くべきなのか ≪ 芸術を学ぶ際、音楽なら、黙ってクラシックを聴くこと。いまだに クラシックは不滅の音楽なのだから、それを聴くことが趣味になれば最高だ。 たとえ趣味となり得なくても聴くべきである。 特に、やはり19世紀の音楽。18世紀にはモーツァルトがいるけど、彼の死後、 すぐベートーヴェンへ、19世紀の音楽へと繋がっていく。ベートーヴェンから 始まって、シューベルト・ショパン、ブラームス、ワーグナー、マーラー、 ブルックナー、ベルリオーズ……とにかく19世紀だ。 ロマン派の時代である19世紀は、前世紀の革命時代が終わり、 「人間は進化する」ことを人類が知った時代である。愛によって人間は死ぬ こともできるし、愛によって罪を犯すこともできる。そして「人間は進化して 神にもなれる」という思想を、芸術家たちが作品の中に叩き込んだ。 19世紀は人間の可能性のすべてを歌いきった時代なのである。 文学の世界でも、トルストイ、ドストエフスキー、バルザック・ユーゴ、 アレクサンドル・デュマ、スタンダール、ゲーテ、バイロン、シラー、ボード レール・ベルレーヌ、ランボー、オスカー・ワイルドなど、大作家が生きた 時代はすべて19世紀である。 19世紀という時代を常に自分の心の中に持っていようとするには、音楽を聴く ことを日常の習慣にしてしまうことだ。この頃の作品は、今や不滅の作品群だ。 20世紀になるとそれらはすべて別の音楽になっていってしまうし、言うなれば 19世紀の残骸のようなものだ。19世紀の音楽を楽しめなかったら、その人間の 精神生活はすごく貧弱なものになると思う。 ≫ ▼ それでは、絵画はどうだった調べてみると、 【19世紀はもっとも絵画が進化した時代と言っても過言ではない。現代絵画の 巨匠ピカソやマティス、ムンク、シャガールなど全員がその影響を受けている。 16世紀まではイタリアが、18世紀はフランスが芸術の最先端。ゴッホは19世紀 終わりの画家である。・・】とある。その背景には、国力の成熟もあるようだ。 学生時代に、安いステレオを買って、世界の民謡、ジャズ、アメリカン ポップス、クラシックを独りコーヒーを飲みながら聴くのが楽しみだった。 大都会の中の孤独は、音楽と読書でまぎらわすのが一番だったが、後から 考えてみると、大都会の中の孤独こそ、一番の環境だったことになる。 早稲田大学近くの寮、今でいう「シェアハウス」の25人の地方出の共同生活 から垣間見た人間観察と、クラブ、ゼミ、世界旅行と、恵まれた経験だった。
・・・・・・ 5169,閑話小題 〜どっちに失礼? 2015年05月10日(日) * どっちに失礼? 猿の赤ちゃんの「シャーロット」の名問題で、家内が『私も失礼だと思う!』 と言った時、思わず出たジョークが、『どっちが?』だが、反応はゼロ。 そのジョークを即座に理解出来る玉?ではないらしい。直ぐにブログに取上げ ようとしたが、その辺の世間びとに配慮して自重した。 獣を軽くみるのは、 人間のエゴの思い上がりである。 朝日の天声人語が、上手い解説である。 ≪ イギリス人はユーモアが好きだ。苦しいときほど必要だと考えるらしい。 第2次大戦中、ロンドンはドイツ軍の空襲を受けた。動物園に爆弾が落ちた ときは、タイムズ紙が「しかし、猿たちの士気はいささかも衰えていない」 と書いたそうだ ●考えてみると、これは「猿たち」が利いている。 猿山を眺めれば、彼らがわれわれに最も近い動物であるとよく分かる。 ゾウやキリンではあまり面白くない●古びた話を、大分市の高崎山自然動物園の 赤ちゃん猿の命名騒動に思い出した。英王室に誕生した王女と同じシャーロット と名づけたら、「失礼だ」という批判が山と届いた。これも猿ゆえだろう ●ウサギやカピバラなら、騒動にはならなかったと思われる。ではカバはどうか と問われると困るけれど、ユーモラスではある。英王室の広報は鷹揚に 「赤ちゃん猿の命名は動物園の自由」と語る。結局、名前はそのままと決まった。 「失礼」を案じた人たちも、先方の対応に少し気が楽になっただろうか ●ロンドン空襲に話を戻せば、半壊したある百貨店は「本日より入り口を 拡張しました」という看板を出したそうだ。やせ我慢で繰り出した泣き笑いの ユーモアに、お国柄を見る思いがする。そういえばきのうは、英国にとって 対独戦の勝利から70年の日だった●健やかなプリンセスの誕生から世界注視の 総選挙と、英国発のニュースが続く。日本の皇室ともゆかりの深い王室である。 美しい5月の慶事を、遠くより祝福申し上げる。≫ ▲ 今回の騒動について、文化人類学者は「人々の深層にある獣に対する 差別意識が表れた」という。 また「一部の人たちが英王室の王女の名前に 日本の皇室を重ね、敏感に反応したのだろう」と。「(失礼なのは)どっちが?」 のジョークも、我ながら人類への皮肉である。 同じ島国でも歴史が違うと・・ * 連休での渋滞原因とは 連休での観光地の車の渋滞原因は、意外なところにある。高速道のトンネルを 抜けたときの陽光に、直ぐに眼が馴染めずスピードを落とす。その小さな積み かさねが、数百、数千台が積み重なって渋滞になってしまう。その上、登り坂で、 少しスピードが落ちてしまうが、それに気づかないことの積重ねも渋滞原因に なっている。要は、それぞれの小さな減速の重なりが、原因とか。 それと、普段、遠出をしたことがないドライバーの不慣れが重なるため。 ・・・・・・ 4804,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー2 2014年05月10日(土) 「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著 * ある逸話 ー‘あとがき’に、以下のような逸話があった。まず、その抜粋からー 《「サザエさん」の原作者の長谷川町子のマンガで、小学一四年生のときに読み、 今なお覚えている作品がある。それは、一人の男の人生をめぐる、良い神様と 悪い神様の話だ。何の不自由もない家に、玉のような男の子が生まれた。 これを知った悪い神様は、どうもこれがおもしろくなく、この男の子の人生を 惨たん憺たるものにしようとシナリオを練る。そして、「男の子の身には次々と 不幸が起こり、紆余曲折をへて船乗りとなった挙句に猛烈な嵐に遭遇して、 最後は絶海の孤島に流れ着き、そこで人生を終える」というシナリオをつくり あげた。はたして、男の子の身に次々に不幸が襲いかかる。しかし、良い神様が それに気づいて彼を何度も助けたために、彼は幸せな人生を送ることになる。 ところがその臨終の場で、彼は自分の人生を振り返って、本当に不幸な一生 だったと言い出すのである。そして、自分の夢は船乗りになって、どこかの島で 人生を終えることだった、と述懐して息を引きとるのだ。二人の神様は、人間 とはよく分からないものと言って去っていく。これが私の人生の原点である。 幸せな人生とはあくまで本人が決めることであり、まわりがとやかく言う問題 ではない。もとより、記憶のざまざまな性質や、生かしかたを知ったからと いって、幸せになれるわけではない。もとより、記憶の様々な性質や、その 生かし方を知ったからといって、幸せにはなれない。ただ、知らないよりは、 知っておいたほうが、みすみす損をしないだろうと思われるだけだ。・・ 》 ▼ 何か、現在の複雑な気持ちの解釈に、大きなヒントになる内容である。 3年前の節目の数ヶ月前までは考えられない、「まさか、自分が!」が、 正直な気持ち。しかし、現在に至って、これが私の物語の終わりには、丁度 良いのでは?とか、こういうのも面白い?とか、何でまた?等、色いろ複雑な 気持ちが入り組んでいる。 絶海の孤島ではないが、結末がハッピーエンド より、せっかく創業をしたのだから、倒産の終わりの方が、この筋書きとして 面白い?とか、この物語の解釈がある。これが私らしいというか、何だろう? 要は、30年間、転身しなかった結果でしかないが。ストーリーの面白さは、 これで充分。「ああ、面白かった!」と、言えるだけでも有難い。 神様は、丁度良いオチをつけたようだ。 ・・・・・・ 4437, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー7 2013年05月10日(金) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 * ルート6 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道) 《 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人 の目を気にしない生き方。それを満たすのは、自己を捨て、無我、無私を実現 する達人の生き方。欲にも、生死にも、他人との争いごとに拘らず、達観して 静かに生きる姿勢。ここに達成した人は、持続的至福に達することが出来る》 これが、幸福学の結論。 現在の状況を冷静にみると、 「これが人生、で、もう一度同じ人生を歩みたい」という現在の心境と同じ。 ー他人と比較しないことによる幸せこそ、人生の要諦。 その辺りよりー ≪ 幸福学とは、要するに、幸せに効く主観的な要因は何かを明らかにする研究。 その結果、僕たちの行ったアンケートの範囲では、幸福の要因は大きく 四つの因子に分けられることがわかった。 ・一つ目は、自己実現や自己能力に関する因子。目標を持っているか、直近の目標 と将来の目標に一貫性があるか、自己統制感が高いか、自尊心が高いか、など。 ・二つ目は、つながりに関する因子。他人に対して親切か、様々な出来事に 感謝しているか、多様な知人がいるか、など。 ・三つ目は、楽観因子。楽観的か、ポジティブか。 ・四つ目は、他人と自分を比べない因子。他人と自分を比較しない傾向が高いか。 ここでは、四つ目の因子に注目しよう。 すなわち、「他人と自分を比べない ことによる幸福」について。 自分を他人と比較しない人には、長続きする 幸福が訪れると考えられる。千五百人への調査結果も、それを表している。 つまり、千五百人の回答者のうち、他人と自分を比較しない傾向が強い人は 幸福である比率が高く、他人と自分を比較する 傾向が強い人は不幸である比率が高かったのだ。 自分と他人を比較しない人々には二つのタイプがあると考えられる。 他人を見ないタイプと、自分を見ないタイプだ。前者は、自分だけを見て他人 を見ないタイプ。周りのことを気にしないマイペースタイプだ。 我が道を 行くから、周りなど関係ない。場合によっては、独りよがりだったり、わがまま だったりするかもしれない。自分は幸せでも、他人には迷惑をかけている 「自分勝手」タイプかもしれない。後者の自分を見ないタイプは、逆に、 世界は見るが自分を見ないタイプ。何が欲しい、こうなりたい、などの自我の 欲求があまり強くないから、他人と自分を比べることにそもそも興味がない。 悪くいえば向上心や競争心がない。なすがまま、自然のまま、だ。 たとえば、武道の達人をイメージしてみていただきたい。茶道、華道、座禅 などでもいい。 凛として、姿勢がよい。何かあっても、動じない。静を以て 動を制す。普段は静かだが、実は相手を倒す力を秘めている。無駄に力んだり せず、相手の力をすっと利用して、自分の思いどおりに世界を動かす。しかし、 私利私欲はない。判断は大局的。全体が見えている緊張感のある空気を醸し 出すが、自分のためには怒らない。思考の対象は常に世界だ。世界のために 行動する包容力。名声を得ていたり、人望が厚かったりするが、決して自慢など しない。 もちろん、他人と自分の比較などしない。≫ ▼ どうも世の中、嫉妬と苛めの糸で哀れなほど。私住む城下町は長年の柵 で、雁字搦めの蛸壺社会。8割以上が地元出身者で占められ、それが全社会。 学校関係者以外は殆ど付き合いがないが、垣間見えてくる世界は箱庭のようで 面白い。知識を持たない人の無意識の科学は、身近の人との比較しかない。 不幸になって当然。それも私の主観による思い込み。「横を見ないで、縦 (今、ここ、自分)を見て生きる」と割切ってしまえば、良いが。 ・・・・・・ 4063, 本当は怖い抗うつ剤 ー2 2012年05月10日(木) * うつ病になったら、どうしたらいいのか。 { 浜松医科大名誉教授 高田明和 } 倒産の惨劇を身近で見ていたので、二年間は落ち込むのは避けられないと判断。 最小にするためスポーツジム通いと、打ち込める対象を加えることを考えた。 一つ間違えると欝に伴う暴発か、破滅になっていく。それがiPadとシネマと 蔵書の再読と、世界の潮流の鳥瞰などを、逆に徹底的に楽しむことであった。 それと、中村天風の「積極一貫」の思想書を、身近に置いて何度も読み返した。 二年にまだ一年あるが、一息ついた後半の方が危ないのかもしれない。 その私が予防策でとった方法がそのまま、治療法として研究されていた。 運動と、考え方、受け止め方をプラスにすることだ。 ≪ うつ病の治療法として確立しているのが「運動」である。体を動かすことが 精神によい影響を与えることは様々な研究で示されている。第二は「ものの考え方」 である。私たちは競争社会に生きている。競争とは相手に勝つことを目的とする。 もし負ければ落伍者になる。一度敗北すると、将来がないように思うのだ。 さらに大事なことは、どのような分野でも自分より勝れた人がいるという事実。 例えば野球にイチローがいて、ゴルフには石川遼がいるのと同じようなものだ。 努力は大事だが、自分が及ぼないからといって自分を責めていたら人は決して 心の幸せは得られない。・・・堀口大學は自身の『座右の銘』という詩で 「暮らしは分が大事です。気楽が何より薬です そねむ心は自分より 以外の ものは傷つけぬ」と詠んでいる。自分以外とは社会的ランクのことである。 今の自分のランクを受け入れ、それでよいのだとする以外に心は楽にならない。 禅では「不思善 不思悪」といって、思い出さないことをもって最も尊いとする。 といって、無理のことなら、思い浮かんだら、しばらく放っておいて手を出すな、 必ずその思いは消えると、禅では教えている。 実際に、どのような思いも 5秒で消える。・・・ ≫ ▼ 「どんな思いも5秒で消える」は、言いえて妙である。出るのは仕方が ないが、なるべく、そこで切るように心がければよい。全ては二年で落着くし、 目先は五秒のフラッシュで出てきた思いの延長を考えないこと。特に寝付けない 布団の中での苦悩の嵐は、訓練で最小にすることが可能。 そのためにiPod を枕元に置いている。最近は、ほとんど夜半、使うことはないが、音楽は効く。
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2017年05月09日(火)
* 病は覚醒装置である 二年前に、中村うさぎの手記の感想文を10回にわたって、いや、その前にも 幾つか書評を書いていた。女流無頼漢を地でいく内容が面白い。私のような半端 なアウトサイダーではない。だから心は傷だらけ。その血を文字に替えて書くから 内容はシリアス。一昨年の内容をブログ内検索をかけると、 <「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと!ー①2015/08/26 ーその時、言葉は私の「神」となる(新潮45/6月号)中村うさぎ著>である。 その直後にTVに出ていたが、最近は殆ど見かけることが無かった。 ところが先日、図書館で、新潮45。2月号に、彼女の手記があったが、現在、 死にかけた病を抱えたまま車椅子生活を過ごしているという。 知人に事故で車椅子生活を余儀なくされた人がいるが、心の内は如何ばかりと 思っていたが、それそのままを中村うさぎ女子が、代弁しているような内容。 社会といえば、経済社会が、その位置を大きく占める。倒産といえば、経済 社会では落伍者として葬りさられる。著者が語る言葉そのままが、現在の私の 奇妙な立場の気持ちそのままを表している。〜その一節より 【 私がもっとも苦手とするのは私の悪口を言う人々ではなく、私に一方的な 幻想を抱いてそれを押し付けてくる人々だ。私の幻想を必要とする他者に、 私は一切の責任を負う気がない。だって、それは私が作った幻想でないからね。 あなたが自分で作り上げた虚像なのよ。そんなものを振りかざして私に勝手に 期待を抱かれても、困る。あなたに私を規定される筋合いはこれっぽちもない。 ……(略) 病と、それに伴う喪失は、何だかんだ言いながらも社会の中に ポジショニングされる自分を捨て切れなかった私にとって、痛烈にして効果的 な平手打ちだったのだと今では思う。いきなり身ぐるみを剥がされた時は、 まるで追剥に遭った気分だったけど、結果的には、裸にされたことで、私は 自分を取り戻せたのである。病は、私の覚醒装置だったのだ。】 ー ▼ 6年前から現在に至る間に、小躍りをした様ざまの人が病や事故で倒れた。 それからして、「私のエネルギーは? 彼らを排除する脳力を持つ?」 「私の覚醒装置が他者に働いた場合、彼らは「まさか」に遭遇する」という 物語を作り上げて怪奇現象?としてを眺めている。 同世代の倒れた人は、 遥かに深刻な内なるブラックスワンがいずれ自分に舞い降りるとは思わない。 己の死や重大事故が身近にあることに気づいていない。病も倒産も、確かに 覚醒をさせてくれている。数日前に書いた「素朴な実在主義者」の「純粋悪」 の汚水が年齢を重ねるにつれ満ちてくる。 生・老・病・死は、一体である。 〜その幾つかより〜 (読み返してみて、「これじゃ病気なるわ!」) ― 2007/06/02 2251, ビョーキな人々探訪記 −1 才ノヽ∋―_φ(≧ω≦*)♪ ー読書日記ー 「変? ビョーキな人々探訪記」 著者・中村うさぎ またまた「中村うさぎ」である。 買い物依存症の中村が、他の依存症の人と語る、際どい話である。 この変な人が、それに劣らないほどの変な人の病巣を浮き上がらせる。 やはり両親、特に父親との愛情不足の問題がある。 色いろ反省することが多い。 両親から愛情をたっぷり注がれたわりに子供には?等々・・・ ーまずは、その目次からー
* 私たちって「変」ですか?うさぎと語る12人 ー目次 和田秀樹―「買い物依存症」になって考えた。人間はなぜ、心の病に罹るのか? 原田宗典―躁鬱病VS依存症。どっちがバカで、どっちが辛いか?ま、いい勝負だが。 本橋信宏―覚醒剤やめますか、人間やめますか?それとも人間やめたくて 覚醒剤をやるんですか? 島村洋子―お互いのすべてを肯定する快感! だから恋愛って、素晴らしいと思う 横森理香―お人形さん願望と自己実現願望。エステサロンは女の業の吹き溜まり。 団鬼六 ―鬼畜のブランド買いVS鬼六のサディズム!さて両者の接点は? 尾崎弥生―やめられない、止まらない。餓鬼のごとく貪る、過食の恐怖…! 宮台真司―少年犯罪と依存症。他者への攻撃行動と自分への破壊行動は、 正反対の存在か? 月乃光司―引きこもりからアルコール依存症へ。 自意識の病は人を限りなく転落させる。 松本侑子―男であること、女であること。それって、そんなに大事なことなのか? 沢村拓也―ホストにハマった中村うさぎをベテランホストは救ってくれるか!? 苫米地英人ーなぜ、やめられない。なぜ、破滅したがる。 依存症の不思議に、脳機能学が答える! ーーーー この本の書評をいざ書くとなる難しい? どこから書いてよいのやら、とまずは深呼吸をしないと、 それで上記の上から、気の向いたまま面白いところを抜粋してみよう。 下手な精神病理の話より、ずっと話の奥行きが深い。
* 買い物依存タワーハッカー説 まずは和田秀樹の「買い物依存タワーハッカー説」より。 後楽園のタワーハッカーに乗るたび、とてつもなく恐怖と後悔を味わう中村。 だが猛スピードで落ちた後に押し寄せてくるのは、これまたとてつもない陶酔感と 異様な達成感で、全身が鳥肌立つほど興奮してしまうのだ。 これは「死の恐怖」に直面した脳が、恐怖をやわらげるための脳内麻薬を ドッバーと分泌するからではないか。 そして、中村が浪費するたびに味わう恐怖と快感は、このタワーハッカーと 同じ現象が起きているせいではないか、と。
和田:「アルコール依存症」と「大酒飲み」の一番の違いは、 ひとりで飲むか、誰かと飲むかの、ということなんです。 いつも誰かと一緒に飲んでいる人は、依存症にまずならない。 中村:わかります。その気持ち。私は誰かと一緒に行く買い物はダメなんです。 ひとりじゃないと絶対にヤダ。 和田:依存症状態になった人は、自分の内面に深く入り込みますから、 ひとりではまっていくのです。
和田:何より、自己洞察の世界に入っていますから。これだけ自己分析が できるというのは、重症ではないと思います。普通なら、自分が見えなくなって しまうのが依存症の基本ですから。直そうと思っている時点で、充分治る可能性は あると思います。 ーーーー 「秘境旅行依存症」というのがあるなら、少し「買い物依存症」に似ている。 この浪費で味わう事前の恐怖と達成感の快感は、タワーハッカーの現象に似ている。 いやまだあった、ニュージーランドと南アフリカでのバンジージャンプは、 この数百倍?の恐怖と達成感である。 それと「アルコール依存症」は一歩手前までいったと思ったが全く関係ない。 一人、黙々と飲むのが、特徴のようだ。 私が経験したのは、単なる大酒のみである。 ただ、守ったのは一人酒のハシゴ、この味を覚えたらアル中になる予感がしたからだ。 see you again!(*ゝェ・)/~☆Bye-Bye♪ ・・・・・・ 「読書日記・映画鑑賞日記」のコーナー 2007/05/11 2229, 人生張っています −2 (σ・з・)σオハYO!! 『人生張ってます』−読書日記 対談を終えてのインタビューの感想がまた面白い! ーー さすがの中村うさぎも、毒気を抜かれて「まだまだ、うさぎは青かった」と。 「私はそれなりに地雷を踏んできたなと思っていたが、世の中には私の 踏んでない地雷がいっぱいあるものだと、勉強になりました」と脱帽。
30歳前後位で、女はみんな迷ったり模索するじゃないですか。 その時に暴走しちゃったらするんだと思うんですね。 私の買い物もそうかもしれない。 5人の場合も折り合いがついてないのかもしれないが、 「私はこっちの道を行くと決めた」というのがあって。 こんな人にはなってはいけない。
「あなたはあなたなりの道が用意されているわけで、それはあなた自身が決めないと いけないんだ」ってこと。誰かから決めてもらって押し上げてもらって 押し上げられた人は誰もいない。ある程度のところで決断して、捨てるものは捨て、 受け入れるところは受け入れて、自分の売りとか生きていくキャラの方向性を決めないと。 「これが私なんだ、こんな私はどうよ?」という腹のすわり方は、読者も見習ってほしい。
私のそういう瞬間は、第一次、第二次があるとして、第一次は離婚でしょうね。 あの旦那をわたしの人生から簀巻きにして放り出したところで、これでいいや と思ったんです。それから浪費癖ですね。開き直ったんです。 「浪費作家・中村うさぎ」という名が売れるとは、想像もしてなかった。 ドン底にはまった時に、そのドン底がネタになるんですね。 ネタにしようとやっているわけではない。 ーー 解)以上であるが、冷静かつ真面目に彼女等と自分を見据えている。 それよりも、すざましいウンコ話をパソコンに打っている自分が面白い? 秘境旅行は、一度の旅行に一通りの人生のトラブルが圧縮して立ちふさがる。 その一つが『デモノ・ハレモノところきらわず』である。
食事と飲み物と、時差の関係で、何時何処で、もようしてくるかわからない。 今まで、一度も失敗が無かった方が奇跡である位、何度も危機一髪の事態に陥る。 そんなことを恐れていたら、秘境旅行などできやしない。何とかなるものである? だから、このエゲツナイ話が身に沁みるのである。 書き写すかどうか迷ったが、今さらである。 読まない方が良いですよ!と 言いながら・・・
こういう話は、タブーなのだろうが、この本は誰もが嬉々として 話しているところが怖い!ところだ。 ー内容は、明日のお楽しみ?に! 三人分の対談者の内容を書き写してある! ☆^(*≧ω≦)ノ~~~βyё βyё♪ ・・・・・・ 「読書日記・映画鑑賞日記」のコーナー 2007/05/09 2227, 人生張っています −1 (*´・ω・)ノおはよー (((。・-・)从(・-・。)・*: ー 読書日記 「中村うさぎ」については、もういい加減にしろ!と思いながら、 図書館で見つけると、ついつい借りてしまう。 エゲツナイ!の一言である。「人生張っています」は露悪という言葉など、 はるかに超えている。 「無頼の女たち」5人と語った対談は、互いの最悪を引き出したエログロものである。 こういう話は、世間様の枠から遥かに出ていて中途半端なお笑いより面白い!
花井愛子、岩井志麻子、マツコ・デラックス、西原理恵子、斎藤綾子とくれば 「たしなみ」など、ありえるわけがない。 「はみだし者」の世間の価値観におさまらないオバケのような妖怪女が 普通人の「常識」と違う「異世界」の話を展開している。 個性的な女同士のバトル的、際物的な、ぶっ飛びの話題ばかり。 中村うさぎが普通の人に思えてくるから不思議である。 女のシモネタの羅列も、ここまで明け透けの話すと、なるほど納得する。
西原が「私から悪いところ取ったら私がなくなっちゃうじゃない」 という言葉がよい。自分自身を丸ごと引き受けて生きている言葉である。 まずは冒頭の ー無頼な女たち宣言ー 「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には まくらする所がない」 (マタイによる福音書第八章20節) 諸君、我々には、あらかじめ用意された居場所などない。それ故、 人はさまようのである。自分の居場所を求めて・・・・ 無頼な女たちとは、ねぐらを持たない行き方を選択した女たちだ。 その道は自由で、孤独で、そして果てしない。 人は彼女たちを笑い、彼女たちを恐れ、彼女たちに憧れるだろう。 多くの物を背負いながら、何も持たないかのように歩いていく、 その軽がるした足取りに。 ーー 人生とは何じゃらかんじゃら?などクソクラエである。 世間?そんなもの何処にあるの? 生きたいように生きて何が悪いの? 変態? それじゃあんたはどうなのよ? 新幹線の中で薄気味悪い笑いを浮かべながら読んでいるが、 誰かが見たら不気味だろう! ーつづく ☆^(*≧ω≦)ノ~~~βyё βyё♪ ・・・・・・
「読書日記・映画鑑賞日記」のコーナー 2007/04/28 2216, 中村うさぎ 「女殺し借金地獄」 ー読書日記 書き写しながら、何でこんな文章を自分が?時間を潰していて、 果たしてよいのだろうか?と自責の念にかられる内容である。 男には、こういう文章はかけない?ものである。 アル中の、買い物依存症の、バカ女が、それを売りに捨身で文章にして、 生計をたてているだけの本でしかない。 それもブランド買いの世にも哀れな気の毒な底の浅さを売りに! その哀れな女のサガが共感を得るのだろうが・・・。 一番嫌いの、そのバカさの露悪が、逆に面白いから取り上げている。 しかし、考えてみれば現象を変えてみれば自分の姿でもある。 お水の世界には、こういう人は意外と少ない。 虚飾を見抜いているからだろう? ーとっておきの場面を抜粋してみるー ーー P-177 その夜、私は、何人かの友人と、一気飲みのゲームをしていた。 何回か負けた後、「これはヤバイ」と気がついた。 これ以上飲むと、私ははいてしまう。これ以上飲めないと 宣告すると、友人たちは、苛酷な罰を私に課したのである。 「飲めないのなら、代わりに、ケツの穴を見せてもらおう」 吐くより、ケツの穴を見せるのは、ただ一瞬の恥で済むのではないか。 痛くもなければ、体調をくづすわけもない。そうせ、こいつら酔っ払いだ。 私がケツの穴を見せた事など、一晩たてば、すっかり忘れるにちがいない。 よ〜し、決めた!ケツの穴をみせてやるぜ! 私は不適にも微笑み、ぺロリと尻をめくってやった。 まさか私が本当にケツの穴を見せようとは誰も予測してなかったらしい。 たちまち、「ゲゲェ〜」「本当にみせるのか」というブーイング! (-""-;) だが、私はケツの穴を晒しながら、勝利の快感に恍惚と酔いしれていた。 ざま、みろい!この中村うさぎを見くびっちゃ~いけねぇよ。 ケツの穴くらい、いくらでも見せてやらい。もってけ、ドロボ~! たいてい、尻の穴を見せるぐらいならゲロを吐くと言うが、そうかな〜 しかしまあ、一つだけ、誤算があった。このことが一晩で忘れると タカをくくっていた。が、彼らはしっかりと覚えていたのである。 旅行から帰ってしばらく経ってから、そのことを思い知らされたのである。 初対面の人から、「ああ、あなたが噂の肛門様?」と言われたのだ。(ー'`ー;) 二丁目の肛門様・・・それが、今の私のニックネームなのである。 σ('、`) ま、いいや。生きていれば、いろいろ失敗もあるさ。 肛門様、いや、黄門様もいっているじゃないか。 人生、楽もありゃ苦もあるさ。わーはっは!(笑っている場合か) ・・・ "(;;、)ヾ(^^ )"
P−178 ところで、恥を忍んで告白すれば、私が他人にケツの穴を見せたのgは、 これが初めてではない。時は、今から10年前にさかのぼる。 その夜、私は、結婚した友人の家で酒を呑んでいた。その旦那と妙に 馬が合い、しばしば呑んでいたのである。 酔っ払った彼が、「チ〇コ見せるぞ」が口ぐせであった。 本当に見せるほどの勇気がないことを、私はヨーク知っていた。 そんなわけで、彼が「チンコ見せるぞ」と言ったとき、 わたしはせせら笑って、 「ふん!口ばっかりで、ホントに見せたら、あたしゃ、 ケツの穴を見せるモンね。」「ホントだな!」「ホントだ〜よん」 妻の友人に、このように嘲笑されては、男のコケン(股間)にかかわる と思ったのだろう、やおらパンツを脱いで、「どーだ~と叫んだのである。 「へへへっ!驚いたか〜」と、彼は高らかにフリチンで笑った。 「さぁ〜、てめえのケツ、見せてもらおうじゃねえか!」 「おう、見せてやろうじゃん」 「ぐははは、よーく見ろよぉ〜!」 ┗(・o・)┛ナハ 私は叫んで、パンツをめくり、思い切り尻を突き出した・・・が、 その時、ガッツン!目から火花が飛び出た。 テーブルの四つ角に前屈みになった拍子に、額を嫌というほど打ったのである。 私の顔を見た彼が、すざましい悲鳴をあげたのである。 だらだらと、大量の出血をしてしまった。 ゲッ!!ε=(@.@;) ーー これ、書き写していて「バカじゃないかい! 書くほうも書くほうだが、 書き写している私はもっとバカか!」と、不気味な気持ちであった。 でも、これほど酷くないとしても、バカ騒ぎをしているのだろう、 酔っ払いは。ヘ(゜◇み)ノ~ ところで、自分は如何だったのだろうか? まあ、忘れてしまった! m(。^_^。)m 都合の悪いことは、どういうわけか忘れてしまう。 (・_・) ノ ホンジャ~
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| 5897,閑話小題〜30年以上、毎日使ったコーヒーカップが |
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2017年05月08日(月)
閑話小題 〜 フランス大統領選挙 [ * フランスと韓国の、大統領選挙 昨日、フランス大統領選挙が行われ、明後日には韓国大統領選挙が行われる。 いずれも重要な選挙だが、フランスは、アメリカと違って歴史も、教養もある 文化国家、極右の大統領を選択する間違いはしなかった。 〜今朝方のネットニュースによると、 【 仏紙ルモンドの出口調査結果では、得票率はマクロン氏が約65%で、 約35%のルペン氏を上回り、当選を確実にした。7日午後7時15分現在の 暫定投票率は74.7%で、第1回投票を下回る見通し。】と、波乱は無かった。 問題は韓国大統領選挙。結果によって北への服従政権の可能性が非常に強い。 瀕すれば貪するを地でいっている韓国。火の海になるなら、少しの妥協も厭わ ないと考えても、不思議ではないが… それだけ深刻な事態ということか? * 30年以上、毎日使ったコーヒーカップが 先日、注いだばかりのコーヒーが、カップの受皿に漏れていた。それを 家内がみつけ、『また〜あ』と、嫌味を言われたが、溢した覚えがない。 よく見ると、手もと部分にヒビが入っていた。30年以上も毎日使い続ければ、 当然だが、飽きもせず、よくぞ使い続けたもの。私を馬鹿にするに絶好な小話。 どうぞ御使い下さいませ。 旅行先で、コーヒーカップを幾つも買って、飾り だなに並んでいるが、たまに使うと、下々の者が贅沢なという嫌な顔をする。 『コーヒーカップは眺めるものでなく、時どき使って楽しむもの。地震で破損 すれば、ただのゴミ。』と、いっても納得しない。で、二回の地元の大地震で、 三分の一は破損しても、その後も、同じスタンス。その結果、一つのコーヒー カップを30年も使うことに相成った。 気に入っていたカップだったので、 30年も使っていたのだろうが。 〜20年以上前になるが、もっと面白い逸話… 私としては少し値がはったが、気に入ったウォーキング・シューズ。 早朝の散歩や、海外旅行などに年中使って10数年。結果的は如何なることに。 靴底が磨り減って亀裂をし、水漏れのため使用不可能。 この手の話は尽きない。決して自慢できる話ではないが…
・・・・・・ 5532,若者よ、外に出よ! ー⑪ 天空のショー 2016年05月08日(日) 『人生の教科書』なかにし礼著 * 天空のショー 人間わざ、大自然、そして宇宙へと、対象が一つずつ、ランクアップする。 自然現象、宇宙のテーマは、『人生の教科書』にはない、私の経験の話題になる。 オーロラは太陽系の天空のショーで、地球上の自然現象ではない。だから、 その神秘な輝きに何か得体の知れない現象が感動を呼ぶ。テーマが、 「地球は」から、「宇宙は」に変る。 〜ネット検索によると〜 《 天体の無数の星星の間に輝くオーロラは、太陽から大気圏内へ、光や熱 だけでなく、太陽風を降り注いでいる現象。この太陽風は、太陽の表面の 爆発によって放出されるプラズマ状の電気を帯びた小さな粒でできている。 この太陽風の粒は、地球の磁場を横切ることができない特性を持っていて、 地球の側面からは入ってくることはできない。それに対し、地球の北極や南極 の辺りの磁力線は地球に対して垂直になっているため、太陽風の粒は、地球に 入ることができる。こうして地球に入ってきた太陽風の粒が、オーロラを発生 させることになる。この極地方から入ってきた太陽風の粒が、地球から100〜 400Kmのところで、酸素原子や窒素分子などと衝突すると、光を出す。 これがオーロラの正体である。》 北極近くの天空をキャンパスにした神秘的な光のウネリは、気ままに姿を 現したり、消えたりする。その魅力は、映像では知ることは出来ない。 外に出続けた結果、出会えたのが、これである。〜10数年前の文章をコピー ―――― 2003/10/14 923, アイスランド旅行記ー3 2003年10月14日(火) ーオーロラハントー 数年前に、ノルウエーのトロムソにオーロラハントに行ったことがあった。 その時は「何だこんなものか」という程度で、期待とは全く違うものであった。 薄い雲がスジ状に光っているだけであった。だだ行きの飛行機から見たオーロラ がカーテン状に広く光っていたが。今回も5日間で一日しか見えるチャンスが 無かった。夜になると寒くなる為か曇ってしまうのだ。 感動するような大きなオーロラのはそうそう見ることができないのだ。
そしてたった一回だけの私にとって一生もののオーロラが出たのだ。 天空に展開した時の感激は、想像をしていたより遙かに神秘的かつ荘厳であった。 写真など撮っている余裕など無く、ただ呆然と見とれるだけであった。 これをどう言葉で表現したらよいのだろうかと考えていた。 天空の黒をキャンパスに、滝が降るように頭上の両側に壁になり揺らぐ青白光の 波がこの世のものと思えない、神秘的なものであった。。 あとは「 ・・・・・ 」である。
取材できていた共同通信社のカメラマンが、 「このオーロラをどう東京の友人に説明したらよいか解らない」話しかけてきた。 「これは実際、この目で見るしか理解はできないでしょうね」と答えるしかなかった。 その時、涙が出そうになっていた。 以前ツアー仲間から、この体験談を聞いたことが何回もあったが。 「もういつ死んでもよいと思った!」 「聞くと見ると大違い、実際見なくては!言葉で表現できない」 ―――― H1201自然の神秘 −オーロラ− 旅行に行く度にツアー仲間よりオーロラのすばらしさを聞いて、機会を待って いた。「この冬が十一年に一回のあたり年で五泊六日・三食付、十四万九千円」 の新聞広告に引きつけられ、ノルウェーのトロムソのオーロラ・ツアーに参加。 スカンジナビア半島の北極圏に位置した、北海道を思わせる質素だが、 豊かな上品な街というのが第一印象であった。丁度クリスマスのシーズンに入り、 それぞれの家が電飾で飾られておりお伽噺に出てくるような街並みであった。 トナカイにソリとサンタクロースがぴったりマッチするような絵画的景色であった。 帰りに一泊二日でデンマークのコペンハーゲンに立ち寄ったが、街中がネオンで 飾りたてられており、ディズニーランドを思わせるこの世とは思われない “夢の国”という印象であった。特にチボリ公園の電飾が印象的であった。
トロムソに近づいた機中より見た、天空を背景にしたカーテン状の白いオーロラが 一番初めに見たそれであった。最終日の夜半三時よりみたオーロラも青色、ミカン色 と自然がおりなす天空色彩ショーであった。オーロラも必ず見れるという訳にいかず、 3〜4回来ても見れない人もいるという。一生に一回は見ておくべき自然のパノラマ であった。 (H11.12.10〜12.15)
・・・・・・ 写真 https://retrip.jp/articles/10962/ http://keiki-porori.com/archives/7892 http://4travel.jp/travelogue/10633722
録画 https://www.youtube.com/watch?v=lBiB6a9ERa0
・・・・・・ 5167,閑話小題 〜心は科学者か弁護士か 〜� 2015年05月08日(金) * 私たちの心は「判事」や「科学者」ではなく「弁護士」を雇っている ネット検索で、「科学者」「弁護士」と入力したら、以下の内容が出てきた。 心の内なる弁護士は、時にご主人様のため、盲目になってしまい暴走、歯止め がきかなくなる。そこで、科学者や判事も同じ力量を置かないと、極端の個人 主義者になってしまう。 〜まずは、その辺りを抜粋〜 ≪ この世に産れ落ちるあなたに、神様から 「二つの人生のどちらかを選択しなさい」と言われる。どちらを選ぶ? �生涯究極の正直者を貫き通すが、ならず者だと思われる。 �常習的な嘘つきなのに、模範的な人物と見なされる。 「徳が高く見えるか?」「実際そうであるか?」は、このように大きな違いだ。 現実として、皆、どちらを選んで生まれただろう? 哲学者グラウコンのように、 大抵「人々は現実よりも見かけや評判に、より大きな注意を払う」 これは長い 歴史の中で、私たち先祖が生存競争に勝利するにあたり、真実と名声のどちら が重要だったと考えたかを表している。人は人の見えないところでは、正直 とは言えない。少数の腐ったリンゴが倫理社会をダメにしているわけではなく、 人々の大多数がほんの少しずつズルをするからこそ、この世界は危いと言える。 おまけに、始末が悪いというか、ほとんどの人が自分の誠実さを疑わない。 つまり、自分がした行為の正当化に恐ろしく長けているのだ。 私たちは心に「判事」や「科学者」を雇っているのではない。 私たちは心に「弁護士」を雇っているというのが、本当のところだ。 だからこそ、グラウゴンは言う。倫理的な社会を築くためには何が重要か? 「あらゆる人々の評判がつねに皆の目に入るようにし、不正な行為がつねに 悪い結果を生むようにすることだ」と。心の「弁護士」とは「思考」のこと。 思考の中心的な役割は、他人に対して説得的な理由や、いい訳を提示するための 準備を整え、振る舞えるようにすることだ。事実自分がした選択を正当化しよう とするプロセスはきわめて強力なので、意思決定者は、何かを決めるに際して、 他人の説得のみならず、正しい選択をしたと自分を納得させるためにも有力な 理由を探そうとする。つまり私たちの中の優秀な弁護士は「自分自身をも説得 しようとする」のだ。道徳的な思考は科学者のような真理の探究より、政治家 の票集めにはるかに近いと言える。たとえば、人は論争になると、ほとんど 考えを変えようとしなくなる。心は論争相手から遠ざかろうとし、挑戦を むきになって論駁しとうとするのだ。とは言え、心は絶対的な独裁者でもない。 もし相手に愛情や敬意を抱いていれば、心はその相手に歩み寄るし、理性は 相手の主張に真理を見いだそうと務めるだろう。・・ ≫ ▼ ここで、弁護士とは「思考」というが、判事、科学者、弁護士との 裁判のやり取りが「思考」だろう。それと、傍聴席の視線の想定も重要。 日本では、�の人を極端に嫌う。尻尾を出していても、�の人を好む。 一神教なら、規範が明示されているが、訳の分からない世間教徒の日本人は、 あいまいな�になるしかない。で、殆どは? 人生の最終晩年に我にかえる。 人生の節目に常習的嘘が暴発し、「まさか、あの人が!」と、正体を現す。 ・・・・・・ 4802,年金破綻報道の罠 ー� 2014年05月08日(木) <世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> ー細野真紘(2014年の論点100) * 年金は安心!を、まとめると 年金は、あくまでも老後生活の補助金。あまり知られてないが、現役世代が 圧倒的に多かった数十年間で、積立金が120兆円もあり、それを取り崩せばよい。 現在の年金の支払いは、現役世代の年金収入以外にも、税金からも支払われる。 巷で言われている、1970年の20〜65歳年齢対65歳年齢が8・5人対1で、2050年に 1・2人対1としても、今まで計画的に積み立てられてきた年金基金と、税金を 加えればよいことになる。楽観的だが、一理はある。正社員の比率が減る中で、 厚生年金に加入できる人が減っていることが大問題。今後、高度成長も望めず、 国家の体力が弱っていく中で、楽観視は出来ない。しかし、この年金制度が 無かったとしたら、10年、20年先の若者は、大変。最悪の想定で、両親2人と、 その両親の親4人、合計6人の面倒を見るケースも、ありえる。多くの紆余屈折 を経て、それなりのカタチになっていくが、悲観だけをしても何も得ることは 出来ない。ここで取り上げてきた基本的知識を、国民は、あまり知られていない ようで、より丁寧な教えが必要のようだ。40年以上の厚生年金を夫婦してかけて きて、手取り25万では、何か釈然としないが、それでも大きは生活の柱である。 逆に、夫婦二人で、国民年金だけの収入で手取り11〜2万では、生活保護にも 満たない。 核家族化の中で、子供からの援助も当にできず、ハイパーインフレ にでもなれば、アメリカの貧困層のように救済センターに食事のための行列も 現実になりかねない。私も、半年前までは、倒産など、思いもよらなかった。 家内も、私の実家も、堅実な家柄だったので、厚生年金や、万一の備えをして いたので、何とか生活の質を落とさないでいるが、一つ間違えれば、大変の事態 になるところ。生きていく上で、お金は健康とともに大切である。それから 自由になるには、長年の時間をかけての準備と、蓄積が必要。老いれば尚の事、 たかが年金、されど年金。たかがお金、されどお金。それ以前の知識も・・ で、120兆の年金基金も、日本国債とアメリカ国債に化けているとしたら、 どうなる? 国家あってこその個人である。 ・・・・・・ 4435, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −5 2013年05月08日(水) * ルート4:主観的時間は幻想だと理解する道 ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 ーまずは、この概要を主観的にまとめてみる。ー ≪ 客観的な「今」と主観的な「今」の違いからみると、客観的時間は、時間が 一定速度で進むという前提に基づいている。 時間を秒、分、時間、日、月、 年、10年、世紀といった絶対尺度で捉えるから、そのような結論になる。 客観時間は、一定速度で進む。それは、人がそのように定義したからに過ぎない。 しかし、主観時間は、そのように捉えるべきものでない。主観的時間を考えるに、 「今」を考えてみよう。「今」は、客観的には時間軸のある一点である。 客観的な今は時間の幅を持たない。どんなに短くても、時間が幅を持ってたら、 それは今でなく、過去と未来になってしまう。今とは、それが千分の一秒前と、 千分の一秒後の間が、今になってしまう。 千分の一などどうでもよいと思い がちだが、数学や物理の世界ではそれを認めない。ということは客観的今とは 時間幅を持たない。 では、主観的な今とは何か。「クオリアとして知情意を 感じている、この今とは何か?」と問う以上、主観的な今は時間の幅を持って いると考えるべきだ。ここに、時間的幅を持たない客観的な今と、時間幅を持つ 主観的今。両者の定義は異なる・・ 私たちの心は、「今」しか考えられない。 過去を思い出したり、未来を想像できるが、それらを行うのも「今」だ。 私たち人間には、過去も未来もない。実は現在もない。過去を思い出せるが、 エピソード記憶に残っていることを思い出しているに過ぎない。過去はクオリア ではない。単なる記憶だ。その過去の体験のクオリアに戻ることは出来ない。 人間には「今」しかないのだ。・・・ 僕たちは「今しか感じられない機械」。 今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、あなたにとってのすべての 時間なのだ。それだけだ。 主観的時間には、「死」なんてない。死ぬ瞬間は、 もはや主観的な「今」はない。死の直前には「今」を感じられるが、それは 死の瞬間ではない。主観的には死はないのだ。生まれる前は主観的には生まれて いなかったのだから当然、時間は流れていなかったのだ。主観的な過去の時間は 過去にさかのぼるほど圧縮され、ついには物心ついたとき以前の時間は完全に つぶれゼロになると考えるべきだ。未来も、先に行くほど圧縮される。 物心ついたときより前の時間がぺしゃんこにつぶれてゼロだったように、いつか 死んだ後の時間もぺしゃんこのゼロだ。・・ つまり自分が死んだ後の無限の 時間、という想定も、過去と同様、見直すべきだ。そんなのは無いのである。≫ ▼ 当たり前のことを論じているが、これが自覚できないのが人間。 過去も未来もゼロ、現在も幻想。ただクオリアがあるだけ。「自分が死んだ 後も世界は無限に続く」ということが、間違いである。死ぬと同時に今も、過去 も未来も、ゼロに潰れる。「今」しかないのに、過去や未来にこだわる人間は 奇妙な生きもの。過去は記憶に過ぎなく、未来は予測に過ぎない。ならば可能な 限り、嫌なことを忘れ、良いことを繰り返して思い出すよう努め、今だけを 考えること。所詮、未来も、過去もない。それで良いのだと。亡くなった両親を 考えてみると、その道理が理解できる。死んだ後の時間はペチャンコに潰れている。 クオリヤを感じている今こそ、生きているのである。だったら、私たちも、 この「今」を生きるべきである。主観的時間が幻想としてもである。今しか 活き活き生きることが出来ないのである。ケセラセラと今を活き切るしかない。 ・・・・・・ 4061, 我事に於て後悔せず 2012年05月08日(火) * 我事に於て後悔せず。 宮本武蔵「五輪書』より ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より この本で著者は、五輪書の武蔵の「我事に於いて後悔せず」を取り上げている。 一流のプロなら、引退後の後悔などせぬはず。 後悔するのは腐った? のような人物がするもの。 ー以下の部分は、その辺りを微妙に書いてある。 ≪ これをふつうは「われ事に於て後悔せず」と読む。 小林秀雄は「わが事に 於て」と読むほうがよかろうと言っていて、その意は、「その日その日が自己 批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。 別な道が吃度あるのだ、自分といふ本体に出会ふ道があるのだ。後悔などといふ お目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は 語ってゐるのである」(小林秀雄『私の人生観』)と説明している。自分の過去の 行動についてあとから、あれは間違っていた、などとそのたびに後悔するよう では、後悔というものを受け入れるようでは、ひとは本当の自己に出会うことは できぬ、というのだ。 小林秀雄は武蔵の言葉をかりてつまりはそれが言いた かったのだが、このことは今ぼくらの考えている「自己への忠誠」にあてはまる。 ◎『自己に対する何という無礼だ、その決心をした時より今の自分の方が利ロ だと、どうして思うのか。』スタンダール「パルムの僧院」これぞ言葉の中の 言葉だ、これほどにひとを励まし、自己への忠誠を元気づける言葉を、ぼくは ほかに知らない。武蔵の箴言はいささか道学者くさいが、ここには自己であること の純粋なよろこびがある。・・これはスタンダールの全作品に鳴りわたる言葉。 ◎ ースタンダールはそのすぐ前で公爵夫人の性格についてもこう言っている。 公爵夫人の性格には二つの特徴があった。彼女は一度欲したことは あくまでも欲した。また一度きめたことはけっして論議しなかった。 ◎ ー彼女は偶然にまかせ、そのときどきの快楽のために行動してきた。 しかしどんな行動に身を委ねる場合でも、断乎として行なった。あとで冷静に 返っても、けっして自分を非難しなかった。まして後悔しなかった。自己に たいする忠誠とはかくのごときものであるかと若い日に讃嘆させられて以来、 これらの言葉はそのときどきにつねにある内耳器官のごときものとなって、 ぼくを導いてきた小説の主人公ではないか、とバカにしてはいけない。 ≫ ▼ 小林秀雄に「無私の精神」という文章がある。実践家は、自我を押し通す人 と思いがちだが、実は無私の人である。彼は無私に徹しなければ物事は成就 しないことを知っている。極限に立ってきた人は後悔などしない。そこで自分を 押し殺し、己を抑えるほど物事は大きく成就してきたことを知っているからだ。 後悔は、実践の中では後々、害になることもである。
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