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堀井On-Line
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2016年08月30日(火)
<不幸な国の幸福論 2009/12/16 加賀乙彦 (著)> * 考えない、正しく悩めない ここまで生きてきて、思うことは、多くの「人は、考えない」ということ。 だから、正しく悩めない。5年半前に、会社の清算に至ったが、その創業設計に、 破綻前提に、万一に備えを組みこんでいた。幼児期に、太平洋戦争の戦災に焼き だされた中の両親の血の滲む苦労の後姿を見て育ったこともある。夜半、隣で、 母が父に、『死にたい、何もかもが嫌になった』と話しているのが聞こえていた。 両親にとって、長年かけて築いた財産の大部分を長岡空襲で焼け出された前後に、 様々な問題が家庭内に起こっていた。両親は、子供8人を含めた10人家族分を 稼がなければならなかったため、普通の働きでは、生活出来ない。(当時は、 多くの家庭が大家族だったから、別に珍しいことではないが)。この幼児体験が あったため、準備を含めた45年の事業人生、大変だったとか、会社整理に対し、 何ら後悔がない。決めた時から、万一の場合の覚悟もしていた。 何事も、 『事前の一策は、事後の百策に勝る』で、そのため、考えて考えて考えなければ ならない。博打は恐怖を見据えて、乗越える中で勝機がやってくる。そのため、 考えない人は、直ぐに感知できていた。日本人は、島国で海に守られている閉鎖 社会。考えないで済まされることも、ある。 〜ネットによる書評から〜 ≪ 日本人特有の性質は、自分で考えることをせずに評価の基準を他者に求め それに合わせようとする。狭い人間関係の中で簡単に人間にレッテルを貼り、 本来なら複雑な要素から出来ている人間を単純に理解してしまう。それが故に 別の環境であれば何でもないことでも必要以上の敗北感やつまづきを覚える。 だが、気の持ちようでいつでも人間は幸福を手にすることが出来る。 本来幸せに形なんかない。むしろ理想の幸せの形を決めてしまった時から、 自分はアレが足りない、コレが出来ないとあら探しをしてしまい不幸が始まる。 人生万事塞翁が馬である。変えることが出来ないものを受け入れる冷静さ、 変えることが出来ることを変える勇気、そしてその2つを見極める知恵。 正しい諦めから生まれるしなやかさを手に入れれば、幸福はもうそこにある。≫ ▼ この城下町では、「同化圧力」が異常に強い。だから、地元の長岡高校の 校訓、「和して同ぜず」の和同の精神があるが、実際は、同化しないと、 「どうかなる」のが実情。地元の41年前になるが、Uターンをしてきて、 直ぐに直感したのが、この「同化圧力」の毒素で、脳がやられる恐れである。 そのため、地元の卒業校の同級会以外の会は、一切、参加しないことを決めた。 会社整理で、この御蔭で、人間関係では最小のストレスで済んでいる。 人間は感情の動物、理性で割切れといっても、そうはいかないが、感情が 元もと皆無のため、同級生の範囲で済まされる。怒りの感情は、全てここで? <考えない、なやめない、カッパエビセン> が、何故か浮かんできた。
・・・・・・ 5281,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー④ 2015年08月30日(日) ーその時、言葉は私の「神」となるー (新潮45/6月号) 〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ * 言葉は原罪から生まれた 他人からみた私を意識する「自意識」過剰が果たして罪なのか。 二つの私、「自意識の私」と「自我の私」の両者が頭の中で、常に問答をする。 老齢期では、「私の人生、果たして、これで良かっただろうか?」と。 良かったのだろうか? 人間は生きている限り、原罪を犯すもの。 老いて、その原罪を見つめて悔悟する。知識を持つことは原罪なのか? 知恵を持つことが原罪なのか。他者=世間の目を神のごとく信じるのは、 プラ・マイの両面を持つ。 最後は、自分の自意識で、どう受け止めるか? 死線を漂い、社会復帰をする中で思った心の奥底は深いもの。〜その辺りから ≪ ああ、諸君。「自我の私」として唯我独尊で生きるのと(もちろん、孤独は 感じない。もとより孤独という概念がないからね)、「自意識の私」として 他者と繋がりながら傷つけ合いながら生きるのと、どちらが幸福なのだろうか? 少なくとも心肺停止前の「自我の私」で生きていた私は、多幸感に満ち満ちて いた、他者のいないたったひとり楽園に住んでいて、寂しさも不安も感じず、 その中でぬくぬくと微笑んでいた。周りの人々から見たら、それは呆けた抜げ殻 であったようだが、本人はそんなことちっとも気にかけず、ふわふわと漂い 幸せに生ぎていた。・・心肺停止の後に生ぎ返って、目覚めた私は自意識も取り 戻していた。肉体が回復すればするほど、自意識も回復し、他者との関係に 悩まされるようになった。特に例のMXTVの降板以降は、人と会うのが嫌になって 完壁に引きこもった。社会に拒絶された気分になってひどい孤独感に苛まれ、 誰にも必要とされない自分にはもはや何の価値もないと苦しんだ。 おそらく「自我の私」であったなら、そのような苦しみは味わわなかっただろう。 「孤独」も「自分の価値」も、他者との比較や承認から生じる相対的な概念である。 他者を通して自己を確認するから、他者から拒絶されることが自分の存在まで 脅かすのだ。自己の存在の絶対性を疑いもしない「自我の私」は、仕事を失って 経済的な不安を感じることはあっても、それを己の存在意義の問題とは捉えまい。 そうやって考えると、我々の苦しみの原因は、ほぼ「自意識」に起因している ように思える。 我々は「自意識」を持つべきではなかったのか。エデンの園で 幸福に暮らしていたイヴに蛇が勧めた「知恵の実」は、やはり禁断の木の実で あったのか。「自意識」を持つことで我々は他者の目に裁かれ続け、他者に 見捨てられる不安に怯え、大きな苦しみを背負うこととなった。だから聖書は それを「原罪」と呼んだのか。「自意識」は「罪」であったのか。 犬や猫は鏡に映った自分の姿を「私」だと認識しない。鳥にいたっては、鏡の中の 自分に向かって求愛のダンスを踊るらしい。彼らには己を客体視する能力がない。 彼らにとっての「私」は、ほぼ百%「自我の私」である。彼らは幸せなのだろうか。 他者にとっての客体ではなく、「私」という主体としてのみ生きていくことは、 どんな苦しみも生じさせないのだろうか。いや、待て。「苦しみがない」ことを 「幸せ」と考えていいのだろうか? 苦しみば確かに幸福感とは程運いものでは あるが、我々は「甘美な苦しみの自意識」というものも知っているではないか。≫ ▼「起こってしまったことは変えられなくとも、受止めかたは変えられる」と いうが、これも、「自意識の私」を「自我の私」への変換ということ。 「他者を通した自己の確認」を超越して、己の原罪を見つめることが必要である。 そこまで自分を追詰めないと、内なる二つの問答が、蒟蒻問答になる。
・・・・・・ 4916,一度、死んでみましたが 2014年08月30日(土) 『一度、死んでみましたが』神足 裕司著 * 重介護5のスーパー闘病記 平々凡々の日々を当たり前のように過ごしているが、実は、これが最上で あることに気づくのは、失ってから! あと一年余りで、平均すると同年齢 の男の過半数は介護生活、5年後には寝たきりに、10年は死んでしまう。 TVや、西原の漫画に度たび出ていた神足裕司を、この数年見かけなかった。 実は三年前にくも膜下出血で倒れ、重介護度5でリハビリ生活の中、 去年12月に、不自由なベッドで書いた『一度、死んでみましたが』という スーパー闘病エッセーを出していた。コラムニスト復帰の第一弾の本を、 偶然、図書館で見つけ、借りてきた。脳の大手術で、現在も殆ど動くことが できず、寝たきり。ここで、介護、寝たきりとか、言っているが、この書を 読むと、さほど遠くない未来に似たような事態になる可能性が十分にある。 50歳半ばから還暦辺りにかけて、友人、知人が次々と、半身不随になったり、 癌で死んでいるが、どれもこれも、最期は壮絶な状態。これは、その実況 中継のような闘病エッセーで、ベッドの中の苦闘が、そのまま伝わってくる。 本の題名が『スーパー闘病エッセー! 一度、死んで見ましたが』 HONZ http://honz.jp/36901 の書評が、要点の7〜8割は押さえている。 「その時から、それまで生きてきた一生分を生きることになる」と言うが、 そう信じさせられる内容。 ーアマゾンのレビューの、息子のレビューより ≪ はじめに、家族という立場にあるものからのレビューであることをお許し いただきたい。本が手元に届いてからも、私はなかなか本を開く気に なれなかった。怖かったのだ。父の、つまりはこの本の筆者の状態はもちろん 百%ではない。ページを繰っていけば、彼がこれまで積み上げてきたものが、 私の前に立ちはだかる者としての彼が、崩れ去ってしまうのではないか、 そんな恐れを抱いていた。杞憂だった。そこにあったのは、私にはとても 紡ぎ出せない「凄み」のある言葉の数々。いや、もしかしたらこれは、 以前の筆者にも書けなかったのかもしれない。薀蓄をちりばめ、変幻自在の 修飾語を用いながら、ページを埋め尽くすのが豊穣な表現だとするならば、 この本はそれには当たらないかもしれない。むしろ、そのような表現は 全てが余白へと沈み、筆者にとっての瞬間の全てがこめられている。 少なくとも筆者の生きる「世界」において、その瞬間、それ以外の表現は あり得なかったのだろう。切り詰められた音の数。他の人が弾いたら、 ミスタッチだと思われかねないフレーズ。彼の憧れたジャズピアニストを 思い出す、なんていったら笑われるだろうか。 ・・ 病気は誰にでも訪れうることだ。「病気」とはなんなのか、「家族」 とは「友人」とは、そして「生きること」とは何か。誰しも考えたことのある テーマについて、文章を書いているその瞬間の筆者にとっての虚飾のない、 研ぎ澄まされた言葉が胸に迫ってくる。深刻なテーマに思われながら、 どこかにおかしみを含んでいるのは筆者のコラムニスト魂だろうか。 くも膜下出血、高次脳機能障害の患者・家族の方はもちろん、今立ち 止まって「これから」について考えたい方には、ぜひお勧めしたい一冊です。≫ ▼ こうなるか、癌で壮絶死をむかえるか、今の私に出来ることは、日々を 味わうしかない。どのみち、少し早いか遅いだけ。それでも奥さんが優しい 人のようだが・・ 本人は、このスーパー闘病記を、自分の愛読者に読んで もらうことが、慰めのようだ。私のエッセイ『事業人生を決心して・・』 の続編として「その後、脳溢血で倒れてと、この事態になった」と 吾が身に例えて読むと、他人事でない内容である。 ・・・・・・ 4549, 六韜三略 2013年08月30日(金) 学生時代に、守屋 洋著『六韜三略』と海音寺潮五郎著『孫子』を読んだ時 の面白さと驚きは今でも憶えている。純朴で、欲と欲の争いに立たされる前の 学生時代に読んでいたため、社会に出てから丁度良い手引き書になっていた。 この思想を通して人間をみると、その心底が透き通って見えるようで、 世俗が幼稚に思えてくる。 ー当時の感想はー 《人間は欲で動いているが、それを隠して綺麗ごとを並びたてる社会的動物。 それを前提に一切を無にして諸現象を一度、疑ってみること。そして冷静に 本質を捉えること。利害対立の場に立った場合は、よりシリアスに徹すべし》。 そう割り切ると、誠意の外面の奧に隠された心底が手に取るように見て取れた。 これに学生時代のゼミの(現象の)事例研究が叩き込まれていれば、アウト サイダーになるのは自然。人生に戦略的である必要性を、この書で実感。 人生への鳥瞰の視線でもある。 ーネットで、『六韜三略』を検索するとー 《「六韜」は文韜、武韜、竜韜、虎韜、豹韜、犬韜の六篇からなることによる。 「韜」は弓袋( 秘訣)。「略」は機略の意味。「三略」は、上略、中略、 下略の三篇からなることによる。 二つとも「太公望の兵法」であるから、 主張を統一して判断すべしというスタンス。もう一 つは内容である。 『六韜』が兵法のうち戦略・謀略を担っているのに対し、『三略』が政治思想、 軍事思想を担っている。『三略』はリーダー、『六韜』はマネージャー の書 ..》 《 劉邦の軍師となって漢の国の柱石となる張良が、若い頃、行きずりの老人 から「明朝5時、ここに来い」と命じられた。言われたとおりその場所に 行くと老人はもう来ていて、「年寄りを待たせおって。また明日だ」と言って 去った。 翌朝、今度は3時に行ってみると、また老人は待っていて 「まだまだだ」と同じように去る。 張良は意地になって「今度は絶対に 待たせない」と徹夜して老人を待った。すると老人はニコニコと笑って六冊の 書物を渡し、「よく勉強して世のためになれ」と肩を叩いた。 『六韜』は「虎」「竜」を始めとした六巻の兵法書で、「虎の巻」の語源。 『三略』は、前・中・後の三巻からなる兵法書で、『六韜三略』は 中国はもちろん日本の戦国大名の兵法書としても親しまれた。》 《 中国の兵書、六韜と三略の2書。前者は太公望呂尚、後者は黄石公の 撰述と伝え、併称して韜略の書という。 いずれも後世の偽書であるが、 宋代、『武経七書』のうちに組み入れられ、中国古兵法の教科書として広く 読まれてきた。・六韜は周の文王・武王の問いに対し、呂尚が経世済民の術、 富国強兵の策を説くもの 》 ▼ これを参考に黙し対処したら、これほど難しい相手はいない・・ この書を通すと、面白いように物事が透けてくる。心静かに、これを読み 続ければ、その中の原理原則が己を導いてくれる・・ 学生時代に、 この二書を読んでいたので、いざこざの真只中で、対峙した人の言葉を一度、 突き放し、疑い、静かに自問自答する余裕が出来ていた。問題は、その都度 「正中心一点無の心境で道理は何かを考える」しか解決は出来ない。 ・・・・・・ 4174, 閑話小題 ー電機メーカーの苦境 2012年08月30日(木) * 電機メーカーの苦境 日本の電機各社が苦境に陥っていると、マスコミを騒ぎ出している。 この原因が、あのエコポイント。電機メーカーにとって、神風になり大きな 利益を確保したが、その間に韓国などのメーカーが主力商品に力をつけ日本が 太刀打ち出来なくなっていた。数年前まで、薄型TVで勝ち組だったシャープ が死に体で倒産の危機になり、同じく恩恵を受けたソニーとパナソニック、 東芝、日立の各社が数千億の赤字というから尋常ではない。世界に名立たる 日本のブランドが、今や苦境に立っている。耳を疑うが、これが現実である。 現在、同じことが自動車で行われている。 どうしたというのだろうか。 中小企業救済法も今となれば、良かったのか悪かったのか? しかし、産業の 不振は日本に限ったことでない世界的な流れ。スマートフォンとタブレットPC、 この中に、電話、テレビ、パソコン、デジカメ、ビデオ、全ての機能が入って 同じ位の値段なら電子機器が売れなくなるのは当然。日本のメーカーが、 専用機種に目を奪われている間に、マックや韓国メーカーが、ここに集中 していたのである。日本のメーカーは決定的なミスを犯してしまった。 10年前、5年前なら考えられない事態が、目の前に起こっている。 * 地元経済は、ますます悪化 先日、3ヶ月ぶりに自宅に送付されてきた一連の書類を持って弁護事務所に 行き弁護士と30分位、世情話になった。中越地区の景気状況は、来春の 「中小企業特別救済立法」の打ち切りに向けての動きが顕著になっており、 その上に刈羽原発の休止にともない関連の5千人の従業者のうち3千人が、 この秋に整理される。更に小千谷にある大手の工場も雲行きが怪しい。 それらから景気は一段と悪化しているという。一線から退くと生の情報は 殆んど入ってこなくなる。必要がないからもあるが。この9月から12月にかけ、 リーマンショック並みの一大イベントが発生する可能性が大と見ているが、 その前兆の波か、それとも思い過しなのか? 景気は一段と悪化の道を たどっているようだ。
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2016年08月29日(月)
<不幸な国の幸福論 2009/12/16 加賀乙彦 (著)> * 幸福を阻む考え方・生き方 著者が東京発大阪行きの新幹線に乗車したところ、典型的な上流と 思ぼしき上品な奥様方3人のグループがすぐ後ろの席に場所を取った。 ご婦人たちは京都に着くまでの時間、大きな声で“会話”の話が著者の 耳に飛び込んできた話題を紹介している。 〜要約すると〜 《・「ご主人、部長になられたんですって? さすがねぇ」 ・「さすがどころか、やっとなのよ。○○さんはもう役職待遇なのに」 ・「でも同期の中では二番目に早いご出世だって聞いているわよ。羨ましいわよ。 息子さんは○×大学だし、お嬢さんもご結婚が決まったそうで」 ・「主人の母校の△△大に行かせたかったのに落ちちゃって。○×大も悪くは ないけど、義姉のところの子供たちが△△大出て外務省だから肩身が狭いのよ。 それに娘の相手がねえ。ウェブデザイナーとかいう仕事なんだけど専門学校 しか出てないの。フリーランスだから不安定だし、ご実家も借家住まいで・・」 京都駅で降りていく三人組は、それぞれブランドのバッグを持ち、ブランド らしき服やアクセサリーで着飾っていた。 夫は難関大学出身で、日本有数の 大企業で働いているらしい。 住んでいるのは東京・世田谷の高級住宅街。。 著者は「快楽の踏み車」の言葉を用いている。 カゴの中で踏み車に乗って ぐるぐる回転するハツカネズミ。そう自分で自分の欲望を果てしなく肥大化させ、 疲れ切ってしまう人間たちを重ね合わせている。 与えられた理想形「これこれの条件を満たせば幸せになっる」を疑うことの ない人は、そのレールの上は走れても、レールから一歩はずれたら、自分が どのように考えて進んでいけばいいのかわからなくなる。外的価値に拘れば、 束の間の満足と引き換えに、永遠の二十日鼠の、快楽のふみ車をまわし続ける ことになる。》 ▼ 面白い内容である。私が5年前の会社整理をした時に、外的価値に縛られ 一生を終えるハツカネズミと、ドブネズミに罵声を浴びせられた。しかし、 ネズミはネズミと分かっているから平然としていられる。新潟駅前のチンピラ に何度も暴言罵声を浴びせられてきたが、これ以下の連中と確信できるので 超然としていられる。 家内が某女子大の県内の地元OB会で、大小規模の経営者婦人たちとの会話は 大同小異で、こんなもの? オーナー会社の御婦人が中心もあり、少し違うが、 亭主の力関係が、そのまま当人に跳ね返ってくる。それを何とも思わないのが 家内の特性。幼少期の幾かの習い事のベースと、受験高校に在籍、地方の子女に 人気の女子大(短期)を卒業。実家の仕入先のメーカの茶汲みを丸の内でして、 その直後、私と見合い結婚。 割引新幹線で年に10回は東京名所巡りが趣味。 40回近い秘境・異郷の修羅場をくぐってきた経験がある。そこで、遥かに違った 人種とのやり取りの経験も多々ある。 「あなたの状況がどうして? 私には 関係ないこと!」の開き直りがある。 開き直りは私にも無いではないが、 遥かにドライときている。 元もとサラリーマン系ハツカネズミの単一思考 など何もない。5年前に「もしか、原信のレジをしなければならないの?」と、 する訳が無いのに、至って超然。この程度は、彼女にとって、幸せを阻止する 要因でない。単一の理想系すらない。生まれ、楽しみ、その時が来たら、死ぬ。 こういうのを幸福形(系)の人という。 それにつけても、私は何をしてきた? 以下の「うさぎちゃん」みたいのも、存在しているのに。
・・・・・・ 5280,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー�� 2015年08月29日(土) ーその時、言葉は私の「神」となるー 中村うさぎ 〜心肺停止になって考えたこと! (新潮45/6月号) * 二種類の私と、純粋な自我 死に際を経験すると、傍目に縛られすぎてきた自分に気づかされる。 そして、裸の己を直視し、それを言語化し、それに従うことが、自分の真実を 生きることと、著者は悟る。 死線を漂うと、虚無の彼方から、宇宙の向こう 側から、小さな世界に縛られている自分を客体化する視線を持つ。 その実体験から得た、重層の心の構造を、醒めたタッチで解体する。 ≪ 心肺停止の数日前に私は別人格になっていたらしい、という話を以前に 書いたと思う。 ・・誇大妄想的な発言を真顔でしてみたり、「魂が抜けて 言葉だけ残った空っぽの中村」になっていた。あの時の私はいったい何者だった のだろう、と今でも時々考える。あの頃の私は別人になっていたわけではなく、 自意識とかいうものを一切失い、純粋な「自我」のみになっていたのでは。 私が「私」と言う時、そこには二種類の「私」が混在しているように思う。 ・ひとつは「他者から視られている私」という「客体としての私」で、 ・もうひとつはデカルト言うところの「我思う、ゆえに我あり」的な 「主体としての私」である。 「客体としての私」は「自意識」に支配されており、 「主体としての私」は「自我」そのものだ。たとえぼ「世界を救う」などと いった壮大にして荒唐無稽な使命感を私が意識の底に抱えていたとしても、 それが他者の目にどんなに愚しく狂気じみて映るかを知っている「自意識の私」 は決して人前でそのような発言をしないし、何とか己の意識下に無理やり、 その人格を封印してしまうだろう。だが当時の私は、そのような他者の視点で 己を視るというスキルが崩壊していて、頭に浮かんだことを自意識の検閲なしに ぺらぺらと喋っていたのだった。まさに「我思う、ゆえに我あり」だ。 私が思考し、私が語るから、私は「私」の存在を実感する、という感覚。 そこに他者は介在しない。他者を通して自己確認することもない。 私という主体を中心に世界は存在し、自分の存在価値など問う必要もない。 「価値」などという相対的な概念が最初からないのだ。なんと単純明快な 世界だろう。アダムとイヴが他者の目を気にして己を恥じたり隠し立てしたり することもなく、素っ裸で歩いていた「エデンの園」そのものではないか。 「自我の私」のみで生きるということは「エデンの園」に戻るということである。 他者の評価に怯えることもなく、己の存在価値だのに悩まされることもなく、 獣のように天衣無縫に生きられる楽園の生活。が、その代わり、社会性は著しく 失われる。自意識が高度に発達した現代社会で、このような人間は生ていけない。 生きていくことを許されない。 ≫ ▼ 先日、一番上の義兄の葬式に参列した。地元の名士?の中で、精一杯、 背伸びをして生きた人だった。表面的な人付き合いに生きるのも、それは それで、一つの生き方である。それぞれにとって、中味は別として、それが 全世界である。ただ、自意識に支配されている、「客体として私」を、 「主体としての私」が、見つめ、「自意識過剰」を「自我」がコントロール する基盤が必要となる。それが教養である。「独り」を「独り」で楽しめる 素養は、家系を含めた長年の蓄積が必要となる。城下町は、それは有り余って いる筈だが、変化を嫌う体質が、「独り」の世界を小さく変質させてしまう。 ・・・・・・ 4915,閑話小題 ー宝塚歌劇団「ブスの25か条」 2014年08月29日(金) 宝塚歌劇団には「ブスの25か条」なる教訓が舞台裏に貼ってあるという。 右側の⇒は、私が真逆にした「美人の25か条」。 これはスターの内的要素の骨格である。 「ブスの25か条」 「美人の25か条」 1.笑顔がない ⇒ 常に笑顔で 2.お礼を言わない ⇒ 前回のお礼の挨拶から 3.美味しいと言わない ⇒ 美味しい、嬉しい、楽しい、幸せを口癖に 4.精気がない ⇒ 精気を満たす 5.自信がない ⇒ 自信を持てる何かを持つ 6.愚痴をこぼす ⇒ 愚痴は言わない 7.希望や信念がない ⇒ 希望と信念を持つ 8.いつも周囲が悪いと思っている ⇒ 周囲のお陰様に気づく 9.自分がブスであることを知らない ⇒ 自分の程度をわきまえる 10.声が小さくイジケている ⇒ 声が大きく溌剌としている 11.なんでもないことに傷つく ⇒ 何ごともケセラセラと楽天に 12.他人に嫉妬する ⇒ 他人の美点を凝視する 13.目が輝いていない ⇒ 何ごとにも興味をもつ 14.いつも口がへの字の形をしている ⇒ 笑顔を心がけて、口元を上げる 15.責任転嫁がうまい ⇒ 元は此方、そのまま結構の心がけ 16.他人をうらやむ ⇒ 人を賛美する 17.悲観的に物事を考える ⇒ 楽観的に、そのためには教養を 18.問題意識を持っていない ⇒ 常に問題意識を持つことを心掛ける 19.他人に尽くさない ⇒ 人の役にたつ生き方を 20.他人を信じない ⇒ 信じられるだけの知識を持つ 21.人生においても仕事においても意欲がない ⇒ 積極一貫の心かけ 22.謙虚さがなく傲慢である ⇒ 謙虚に、注意を常にもつ 23.アドバイスや忠告を受け入れない⇒アドバイス、忠告を聞き、受け入れる 24.自分が最も正しいと信じ込んでいる ⇒ 唯我独尊の人から学ぶこと 25.存在自体が周囲を暗くする ⇒ 光り輝くよう、自分を磨き続けること ▼ 老いるとは、人間としてブスになっていくプロセス? 無知で我ままなら、 誰もがブスの要素が多くなる。とすると、これは戒老録にもなる。タカラ ジェンヌが光り輝いて見えるのは、内側からの輝きを心掛けるため。物理的 貧困と精神的貧困は「貧すれば鈍す」で、『ブス』になりがちになる。 それと無知!これを常に自覚していないと、左側の要素が増えていく。 タカラジェンヌのミニスターを、まず彼女たちは演じることから始まる。 そして大スターの道をめざし、日々、努力をする。 幸せへの道しるべ!である。 ・・・・・・ 4548, 2050年の世界 ー1 2013年08月29日(木) 「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 英『エコノミスト』編集部 (著) * 2050年までを見通すことで現在を理解できる 何気なく図書館の返却コーナーで手にとった本だが、英『エコノミスト』 誌の各ジャーナリストが20の分野で予測。これが面白いが限界も見て取れる。 この激動の時代に、40年先の予測など所詮は無理な分野もあるが、人口趨勢 など予測可能な分野もある。だから面白い。 5〜10年先を予測したければ、40年先を考えてみればよい。 ーアマゾンの内容説明ー 〈 2050年日本のGNPは韓国の半分になる。 グローバルな一流誌英エコノミスト誌が、総力をあげ、科学、政治、人口、 経済、女性、などの20の分野で2050年までの世界を予想 〉 まずは‘はじめにー「2050年までを見通すことで現在を理解できる」’の冒頭 ≪ 世界人口が10億人になったのは、18OO年ごろのことだが、それまでに 人類は20数万年の歳月を費やしている。ところが、 60億人から2011年の 70億人に違するまで要した時間はわずか10数年。このような変化に驚くほどの 速さで展開する大規模な変化は―メガチェンジーと呼ぷにふさわしいもの。 実際、わたしたちはメガチェンジに囲まれている。技術は信じられないほどの スピードで拡散しており、ネットや携帯電話の進歩は言うに及ばず、現在では コンピューターから大量の情報を入手したり、フェイスプックやツイッター などのソーシャル・ネットワークを通じて、大量情報を受信したり、発信する ことが可能である。また、世界経済は私たちの目の前で着々とアジアへ 重心を移している。このような変化はどれも、人々の生活と、企業の戦略と、 国家の政策と、地球の将来展望に深遠な影響を与える。 ー本書は2の重要な目的を持っているー ☆ 第一の目的は、人々の健康から財産まで、あらゆる側面から世界を変革 するトレンドを特定し探求することだ。本書では、身の周りの話題をひとつ ひとつ論じてみたい。この手法を採用すれば、わたしたちは、ヘリコプター から地上を見下ろすように、俯瞰図を掌握することができるだろう。 ☆ 第二の目的は、第一の目的で確認したトレンドにより、2050年の世界が どのように形作られるかを予測することだ。一見すると、これは非常識なほど 大きな野望かもしれない。 ダン・ガードナーが自著「専門家の予測はサル にも劣る」で論じた、人類の歴史には百パーセントデタラメな予言が のらべられている。1914年、英国人ジャーナリストのブレールスフォードは、 「近代国家間の国境の線引きが最終決定されたことは、政治的にはこれ以上 ないというほど確実である。私見を述べると、今後、既存の六大国間で戦争は 勃発しないだろう」と記した。第一次世界大戦が始まったのはその直後。 米国経済学者のフィッシヤーが「わたしの予想では、これから数カ月の間に株式 市場は大幅に上昇する」と予言したのも、1929年の株価大暴落が起きる1週間前。 果たして人間が未来を知ることは可能なのか? あすの天気を予想するのさえ 難かしいのに40年後の世界をどうして描き出せるのか? おそらくこの四十年の あいだに、わたしたちはブラック・スワンの詳れを絶えず目撃させられるはず だとはいえ、未来を予測してみる価値はある。奇妙だが、2050年を予測する ことは、来週や来年を予想することよりも簡単。実際、ナシム・タレブも 一世代以上先の予測を好んでいる。 長い年月で「今日において脆弱な ものが壊れて消える」からだ。》 ▼ 次回から、めぼしい部分を抜粋しながら考えてみる。40年前といえば、 文化大革命が終盤を迎えていた頃。そこで、現在の中国を予測できたか? その十数年後にソ連の崩壊、東欧の共産圏の消滅。日本のバブルと崩壊。 その10年後の9・11テロ、7年後のリーマンショック、その3年後の東北大震災。 それより、世界中の人々が形態パソコンを持ち、ネットで繋がるとは誰が予測 できただろう。40年後に存在しなくとも、どんな時代か考えるだけで面白い! ・・・・・・ 4173, 木を見る西洋人 森を見る東洋人 ー2 2012年08月29日(水) * 二つの違った未来観 ! 「木を見る西洋人 森を見る東洋人」 ニスベッド著 ー西洋と東洋の認知の違いはなくなるかー フクヤマとハンチントンの二人の政治学者の未来観こそ、西洋と東洋の違い。 20世紀に入ってから、哲学が、決して西洋が文明的に優れているのではない という構造主義の考え方が主流になってきている。しかし時代は木も森も、 そして、地球環境も同時に見ていかなければならない時代になってきている。 3・11震災がもたらした原発事故が、それを我々に突きつけた。この対立は、 避けることは出来ないが、何とか、それを抱えて未来に向うしかない。 ー まずは、その部分から ≪ 今、二つの非常に異なった未来観が、多くの領域の社会科学者たちの間で 戦わされている。ひとつは政治学者のフランシス・フクヤマが唱えた未来観で、 世界の政治経済システムが一極に収束し、それに伴って価値も一極化していく ことを予測するもの。もうひとつは今後とも多極化が続くことを予測するもの。 フクヤマは著書『歴史の終わり』で、資本主義と民主主義が勝利をおさめた今、 面白い出来事を生み出すような切迫した力はもはや存在しないと述べている。 片や政治学者のサミュエル・ハンチントンは、世の中が今度とも多極化を 続けると予測している。社会が収束に向かうというフクヤマの視点とは大きく 異なり、ハンチントンは世界が『文明の衝突』を迎えようとしていると断言。 東アジア、イスラム、西洋といった主要な文化集団における価値観や世界観の 違いは調整不可能であり、したがって対立は避けられない。 「民族の対立と文明の衝突が生じつつある中にあって、西洋文化の普遍性を 信じる西洋人たちの信念には、3つの問題点がある。その信念が誤りだという こと、道徳に反するということ、そして危険だということである」 言うまでもなく、経済や政府のかたちがどこでもみな同じならば、 人の心の中はどこへ行っても同じだろう。逆に、文明の衝突が避けられない ならば、思考の習慣は多極化を続けるだろう。 ・・ フクヤマの未来観は、多くの西洋人、特にアメリカ人の視点を代弁している。 アメリカ人は、誰もが根はアメリカ人か、そうでなければ、これからアメリカ人 になると思っている。・・今やどの国の人たちも、ジーンズとTシャツを着て、 ナイキの靴を履き、コーラを飲み、アメリカ音楽を聴いて、アメリカ映画と TVを見ている。 逆にハンチントンによれば、世界の文化が西洋の文化に同化し つつあるという考えは、近視眼的かつ自民族中心主義な発想にもとずく幻想。 社会は互いに違っており、今後の国際紛争は、過去に見られた経済的あるいは 政治的な対立よりむしろ、文化的対立を発端にしていると考えられる。・・・≫ ▼「東洋と西洋の混血が現時点の日本」と仮説を立てると、日本の混乱が見える。 和魂洋才という言葉が、それをあらわしている。情報化の進展で世界がグローバル 化された現在、決して否定出来ないこと。要は和魂を常に意識すべき。これは日本 だけでない。トルコがイスラム教国に関わらず欧州よりの国家体制を作っている。 矛盾があっても乗り越えてである。いずれにしても、あらゆる人種をかかた世界が ネットで情報が共有された現実がある。それゆえの混乱は激しくなるのは当然。
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2016年08月28日(日)
<不幸な国の幸福論 2009/12/16 加賀乙彦 (著)> 面白い本である。さして貧しくもなく、隣国からの攻撃の危険もなく、 何が不幸の国かと思うが、何か重苦しい空気が日本を覆っている。この本の 発行は9年前で、今では自殺数は3万を割ってはいるが、大きい変化はない。 日本は経済悪化が、そのまま不幸に直結する数少ない先進国という。 家内がよく口にするのが、「私の友人の何人かは、美人で、家庭が裕福なのに、 絶対タブーの言葉の<自分は不幸せ>と、平気に口にする。傍で見ていて幸せ を絵に書いたよう状況なのに。家庭なら幾つかの問題を抱えていて当然なのに、 勝手に、全体の幸・不幸を決めてしまっている!」 である。 「それは外に出ないから、一人遊びが出来ないから、基礎教養がないから、 世間とかに押しつぶされているため」と、私が答える。 これは著名な精神科の先生が書いた「幸福論」だが、同調する箇所が多い。 ー内容紹介ー 《 ー挫折と逆境こそが「幸福」の要件であるー 経済は破綻し格差は拡大する一方、将来への希望を持つことが難しい日本に あって、「幸せ」は遠のくばかりと感じている人は多い。しかし、実は日本人は 自ら不幸の種まきをし、幸福に背を向ける国民性を有しているのではないか―。 精神科医、心理学者である作家が「幸せになれない日本人」の秘密を解き明かし、 幸福になるための発想の転換法を伝授する。追い求めている間は決して手に いれることのできない「幸福」の真の意味を問う、不幸な時代に必読の書。 》 ★ 次回から、各項目ごとに取り上げるが、まずは、一番のエキスの部分〜 ≪ かなり痛んでいるとはいえ、GDPで世界第?位の経済大国であり、世界一の 長寿国(女性。男性は4位)で、他国と比較して街は清潔で、犯罪も少ない。 警察庁発表資料によると、1999年から2008年までの自殺者は、357,854人に上る (年間3万人超)。しかも、自殺未遂者はその 10倍は存在すると推定されている。 さらには、年間3万人どころか、実際には10万人が自殺しているという説もある。 というのも、病院以外の場所で医師に看取られず不慮の死を迎えると、すべて変死 扱いになるというが、日本では変死者数も90年代後半から急増していて、年間14〜 15万人で推移しているからだ。WHOは、変死者のおよそ半数が自殺と述べており、 日本以外の国では変死者の半数を自殺者統計に加えている組が多い。仮にこの 数字を日本が計上すれば、自殺率世界一のリトアニアを抜き去ってしまう。≫ ▼ 北欧も自殺率が非常に多い。これは閉ざされた世界で、暗夜が続くことに ある。日本も裏日本の秋田、山形、新潟に自殺率が多い。 気候からくる、 閉鎖社会が大きく影響をしているが、孤独に対する逞しさが無いことも原因。 汁の出そうな閉鎖社会で、如何に孤高を保つかは、長年かけた基礎教養と、 少々の挫折と逆境経験が必要。 閉鎖社会はお笑いゾンビ製造機械そのもの! ただし、ゾンビは、八割、いや九割のカタガタだが。この大断層の中でこそ、 こういう世界も、あって良いのかも? 「取り上げるだけ、見えるだけ、影響 を受けている」ということか。 家内が東京と、新潟に、それぞれ年に10日、 行くのもわかる。しかし、平気で、世間様とやらの波乗りが出来ている。 それが当り前だとすると、私が偏屈ということか。 まあ、いいか! 以下の「うさぎちゃん」と同じく、私も心肺停止のようなもの? お後が宜しいようで。
・・・・・・ 5279,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー② 2015年08月28日(金) <その時、言葉は私の「神」となるー中村うさぎ著> 〜心肺停止になって考えたこと!(新潮45/6月号) * ナルシシズムと自己愛と、自尊心 下の文章の初めの10行は、この数年の私の状況と気持ちそのもの。 状況からみて、人間の弱さを知っているためもあって、うつ病に陥らないため、 毎日の生活習慣を良好に保たなければ、自己愛も、自尊心も地に落ち、粉々に なってしまう。全身全霊で日々を過ごさないと、あのゾンビのような魂の抜け 殻になってしまう事態は、むしろ、ベストである。 なるほど、 女無頼漢作家の言葉だからこそ、説得力がある。〜その辺りから〜 ≪ 読者諸氏は私の文章を読んで「最近の中村は躍起になって自己肯定しようと しているな」と思っていることだろう。そのとおりである。私は今、崩壊した ブライドを必死になって立て直し、なんとか生き続けている。 何しろ「おまえなんかいらない。おまえになんか価値はない」と言い渡されて しまったのだから、私の自己評価は地に堕ち、生きる意味も理由も見失ったのだ。 それでも今後行き続けるためには、なんとか自分の人生の価値を再確認し、 生きる理由を見つけ出さなくてはならない。「私は生きてていいのだ」と自分 を納得させなくてはならない、そうでなければ私は死の誘惑に負けてしまう。 人はナルシシズムゆえに己を見失うものであるが、自己愛や自尊心といったもの を失っては生きていけない。この「ナルシシズム」「自己愛」「自尊心」の違い については私なりの定義がある。 ・まず「ナルシシズム」の語源は、ご存じのように、ギリシャ神話の美少年 ナルキッソスで、彼は水に映った自分の美しさに恋い焦がれて死んでしまう。 そう、これは「愛」ではなく「恋」なのだ。我と我が身に陶然と惚れ込んで、 正しく自分を見られなくなってしまう。我々が恋人に自分の幻想を投影し、 相手の本当の姿を正しく見られなくなるのとまったく同じ構造である。 ゆえに「ナルシシズム」とは「自分に恋すること」だ、と私は定義ずる。 ・では、「自己愛」とは何か。「ナルシシズム」が「自分に恋する」ことなら、 「自己愛」とは文字どおり「自分を愛する」ことであろう。となると「恋」と 「愛」、の違いが、そのまま「ナルシシズム」と「自己愛」の違いになる。 「恋」が己の幻想に目を眩まされて盲目となる状態であるのに対して、「愛」 はより客観的な視点を持つ。相手の欠点も、きちんと見えていて、そこも含めて 愛するのだ。それは寛大さや公正さを含んでいる。したがって、「愛」は「恋」 よりも利己的ではなく独占支配的でもない。この「恋」と「愛」は非常に混同 されやすい感情である。たとえば「母性愛」の言葉で表現されている感情は、 私に言わせれば必ずしも「愛」ではない。盲目的で排他的な母性愛はもはや 「愛」ではなく「恋」に限りなく近いものであり、「ナルシシズム」の延長 線上に位置するものだと感じる。このように紛らわしく似て非なる存在である 「ナルシシズム」と「自己愛」をきっちりと分けて考えると、おのずと我々に とって必要なものは何であるかが明確になってこよう。 我々はナルシシズムから極力脱却しようと試みる一方で、正当な自己愛を 失わないよう気をつけなくてはならない。自分をしっかりと見つめ、その弱さも 醜さも受け容れて愛すること…それが自己愛のあるべき形であろうと私は思う。 己の弱さや醜さを受け容れられずに目を背けたり美化したり、逆に激しく憎悪 したりするのは、すぺて「自己愛」ではなく「ナルシシズム」の仕業だ。 自分嫌いは自分好きの裏返し、と、私は以前、子ども向けの自著で書いたが、 自分を憎んだり嫌悪したりする気持ちはじつはナルシシズム過多の証なのだ。 理想の自分、幻想の自分に恋するあまり、現実の自分を受け容れられない。 このようなナルシスティックな自分嫌いは、己の価埴を貶める行為であり、 いつまでたっても正当な自己評価には至らな仏のである。 ・次は自尊心について考えてみたい。自尊心とほ、これまた文字どおり、 目分を尊重する気持ち」である。誰かに不当に賠められたりした時に傷つく のは、この「自尊心」だ。「不当に」と言った、のは、それが正当な批判で あれば、自尊心は傷つかないからである。自尊心はナルシシズムではなく、 公正なる自己愛によって裏付けられる。他人「批判されてカーッとなるのは ナルシシズムだ。自己愛は、それが正当な批判でなければ謙虚に受け容れ、 的外れだと感じれば冷静に反論する。ただ、批判ですら根も葉もない誹謗中傷 に関して、それがたいてい陰口という形をとるために反論する機会すら与え られず、自尊心が深く傷つく羽目になる。私はずっとナルシシズムによって 盲目⊂なることを恐れ、その一方で正当な愛を培おうと努力してきた。 それが成切したとはいわないが、少くともその切口の区別は常に意識していた し、拙いながらも己の弱さや醜さと対時し、受け容れようと心がけてきた。≫ ▼ 「ナルシシズム」が、異常に強い女性を身近で見かけるが、それが、 その人を。そして傍の人を、傷をつけていることに気づかない。 「ナルシシズム」は、「自己愛」「自尊心」と似ているため、混合してしまう。 その危険性に、無頓着過ぎることが、大きな悲劇を呼びよせることになる。 ・・・・・・ 4914,閑話小題 ー代々木ゼミナールの7割の校舎が閉鎖 2014年08月28日(木) * 代々木ゼミナの7割の校舎が閉鎖 「代々木ゼミは、三大予備校の1つとして浪人生を中心に多数の生徒を集め、 全国に校舎を展開してきたが、少子化に伴う受験生の減少などで、29の校舎 のうち7割以上に当たる22の校舎を閉鎖する方針を決めた」というニュースが 数日前に一斉に流れたが、 隔世の感がする。 ーネットによるとー 《 ・ピーク時には41万人の予備校生が、今では6万人。近年は大学全入時代 に入り、浪人生の数も減少している。不況が続いた中で家庭でかけられる 教育費が非常に少なくなって、浪人をすることにブレーキがかかっている。 ・大学入学者の浪人生の割合は1985年の約4割から約1割に減少。その上に、 1990年の85%が予備校依率存が、現在では30%まで下落している。 ・1980年代の半ば頃から生徒数が減少,90年代以降,その速度がさらに高まった。 1990年では14万2千人だったのが,2000年には4万9千人に,2011年の2万4千人に 至っている。ピークの1977年を基準とすると,予備校生の数はおよそ10分の1に。 ・大学進学率は1966年に16.1%だったが76年には38.6%、今では50%と大幅に 上昇、受験戦争という言葉も登場するほど大学進学は当り前になり、予備校は 急成長を遂げた。中でも代々木ゼミナール・駿台予備校・河合塾は三大予備校。 ◎河合塾は理系の国公立、◎駿台予備校は特に難関国公立大学、 ◎代々木ゼミナールは私立文系の大学受験を中心に浪人生向けの大学受験指導 をしてきたが、そこに市場の規模が大幅に縮小したことが大きな要因である。》 ▼ 今では私立大学の45%が定員割れ、浪人をする必要が無くなった。 ネット活用で自宅浪人も可能なことや、東進ゼミのような『衛星放送ゼミ』で、 地方各地でも一流講師の授業が聞けるのも大きなマイナス要因である。 私の事業で、売上が3分1に驚いた現象より劇的である。20年前に、新潟に 代ゼミが進出した直後に、新潟予備校が倒産したが、今度は、その代ゼミが 時代の潮流に直撃したことになる。校舎は転用可能のようだが、不動産業として 生き残れるか、どうかである。次にくるのは専門学校の類。崩壊過程が既に 始まっている?・・ グローバル化、情報化による「隠れた大恐慌」が 引き起こしている「中産階級総崩壊」の、一象徴である! ・・・・・・ 4547, 閑話小題 ー海外ツアー48回のフラッシュ 2013年08月28日(水) * 秘異境ツアーからのフラッシュ 突然、思いもよらない過去の記憶が飛び出すことを「フラッシュ」という。 アメリカのTVドラマ『LOST』で、陸の孤島に墜落した登場人物の素性を表現 するのに各人の「フラッシュ」を利用していたが、巧い技法と感心した。 秘異郷ツアーの中では、次次と思いもよらない経験をする。しかし、その都度、 それを解釈をしている余裕がない。それが長い年月を経て、フラッシュとして 記憶の奥底から飛び出てくる。それはツアーだけではないが。還暦を過ぎた頃 から、バイアス(固定観念)が溶けてきたこともある。家内とは40回近くともに 旅行をしてきて、旅先の記憶が共有している。BS/TVなどで毎日のように 行先の何処かが放映されていて、それを録画で夕食時に見ているが、そこで多く の記憶が蘇ってくるため、番組が行き先の追体験になる。出来る時に、出来た ことに感謝している。『秘境旅行ーフラッシュバック』をテーマに書くつもり。 * 消費税の増税の是非 消費税を上げれば、その分、国民にとって実質所得ダウンになる。 それに2%のインフレターゲットとすれば、年金生活者など低所得者に大きな 負担が被ってくる。それも生活消費財から上がるから深刻な問題である。 しかし財政事情からみたら、消費税は上げざるを得ない事態。上げるも地獄、 上げないも地獄なら上げるしかない。現在の年金の収入では、月に10万円持ち 出しだが、今月から家内の年金が数万円アップで持ち出しは少しは減るが。 当初の予定は、敷地内の貸家の家賃収入で収支ゼロの予定だったが、古屋は敬遠 されて、2年間も空家状態。で、この二年半で、大きな買物はiPadを買っただけ。 自転車も、パソコンも、自動車も限界に近づいているが、それでも充分に使える。 家の中は要らないゴミの山。実際のところ、欲しいものは殆どないから不思議。 で、消費税増税の是非の話に戻すと、株式と国債の暴落を待って、一度、根本 から精算するしかないのは、誰の目にも明らか。今の日本では改革の断行は 無理の中、外国へのポーズとしても、増税は99%は、やってくる! ・・・・・・ 4172, 木を見る西洋人 森を見る東洋人 2012年08月28日(火) * 認知科学者は間違っていた? 「木を見る西洋人 森を見る東洋人」ニスベッド著 最近になり「自分が理解していることは、言葉で説明すれば相手は理解して くれているはず!」が、私の思い込みに気づいた。人間は知りうる範囲で理解 しているだけだが、自分が理解している範囲とは違うのである。 「自分が真実と思っていることと、真実は違う」のである。真実と思っても、 思い込みのことがあまりに多い。今まで国や文化や肌の色や宗教によって世界観 が変わっても、人間がものを考えるために用いる道具は同じと誰も疑わなかった。 「ものごとを知覚したり、推論するために用いている道具は同じである。 論理的に正しい文章は、日本語も英語も中国語であれ、正しいことに 変わりはない。だが、もし、それら全てが間違っていたとしたら、認知科学の 大前提を覆ることになる。」と、いう。 緑の原野で、何を見て、何を信じてきたのだろう。 ー以下の部分は、その部分ー ≪ ヨーロッパ人の思考は「対象の動きは(それが物体であれ、動物であれ、 人間であれ)単純な規則によって理解可能である」との前提で成り立っている。 西洋人は物事をカテゴリーに分類することに強い関心をもっている。なぜなら、 分類することによって、今問題となっている対象にどの規則を適用すればよいか がわかるからである。また、問題解決に当たっては形式的な論理規則を適用する ことが有効だと信じている。これに対して、東アジア人は対象を広い文脈のなか で捉える。アジア人にとって、世界は西洋人が思うよりも複雑であり、出来事を 理解するためには常に複雑に絡み合った多くの要因に思いを馳せる必要がある。 形式論理学はほとんど問題解決の役には立たない。実際、論理にこだわりすぎる 人間は未熟だとみなされることもある。私は心理学者として、これらの主張が 革命的な意味をもっていると感じた。もし彼らが正しければ認知科学者は 間違っていたことになる。つまり「人間の認知はどこでもみな同じ、ではない」。 人文・社会科学諸分野の研究者たちは、明確にそれと言わなかったが、実は 思考の本質について非常に重要な主張を行っていた。 第一に異なる文化の人々は、世界の本質についてそれぞれの根本的 メタフィジックスな信念、彼らなりの「形而上学」を有している。 第二に、それぞれの人々に特徴的思考のプロセスには大きな違いがあること。 第三に、そうした思考プロセスは、世界の本質についての信念に合致したもの であること。言い換えれば、人は自らの世界観に合致した方法で世界を 認知するということである。 注目すべきことに、社会の構造や人間観というものは、それぞれの社会に生きる 人々がもつ信念体系や認知プロセスと非常によく合致しているように思われる。 アジア社会は、集団や周囲の他者との協調を重んじる傾向があると言われる。 こうした特質は、アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向を もっていることや「出来事は極めて複雑なもので、その生起には多くの要因が 関係している」と信じていることと合致。これに対して西洋社会は、個人主義的 でお互いの独立性を重んじる傾向があるとされる。こうした西洋人が特定の事物 を周囲の文脈から切擁して観察する傾向をもっている。≫ ▼「アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向をもっている ことに対して、西洋社会は、個人主義的でお互いの独立性を重んじる傾向が あるとされ、西洋人が特定の事物を周囲の文脈から切り離して観察する傾向を もっている。」ことより、「気を見る西洋人、森を見る東洋人」という本の題名 になっている。同じ森林を見ても、これだけ思考の仕方が違ってくる。 また一神教の欧米と多神教の東洋人とは、同じ現象でも受け止め方が違って当然。 それと、好き嫌いという感情で違ってくる。「世界についての考え方は根本的に ひとつである」 大前提が違うとすると、文明の相克はあって当然。 争いは永遠に続くことになる。
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2016年08月27日(土)
<「賢い子」に育てる究極のコツ 瀧 靖之 (著)> * 「子」を「自分」に置換えると? 「賢い子」を、「賢い自分」置換えると、どうなるか。 その3つの秘密道具=「秘密道具1ー図鑑」、「秘密道具2ー虫とり網」、 「秘密道具3ーピアノなどの楽器」のキーワードを、現在の私の世界の道具に すると、どうなるか。 ・まずは『図鑑』 〜図鑑の対象を難しい哲学や、とっつきにくい聖書、 古典文学、世界の聖地、秘境・異郷、大自然の絶景を図鑑にした本がある。 空間と配置と重視し、絵入や文字の大小で鳥瞰しやすくしてある。 学業が強くなかった原因を、現在から振り返ると、ノートのとり方に問題が? ノートの記録を図鑑を参考に応用すれば良かったのだ。読返す度に、書き足し ていけば良かった。 それも、後講釈でしかない。 現在ではアイコンと、 ファイルの配置のパソコン画面が、それにあたる? ウィンドウズ95が、 画面を図鑑にするアイディアで、世界を変えてしまった。 ・『虫とり網』 虫を情報として捉えると、網はネット(検索)になる。 現実社会の上を、ネットが覆ってネット社会が新たに出来てしまった現在、 これを如何に使いこなせるかどうか。この随想日記も、ネット検索が無ければ、 連日、書き続けることは不可能。 ・『ピアノなどの楽器』 〜これを幼児期に身に着けたかどうか。耳からの 情報収集が大きく人生を分ける。楽器演奏は、集中力と、継続力が無くては、 決して習得できない。そこに、それを指導する先生の存在が必要になる。 それも、幼児期の頃からというから。ということは、このテーマの「自分」 の置換えは、テーマとして成立しなくなる。「今さら・・」だが、何か一つでも、 楽器演奏をしておけば、より豊かな心を持てたはず。 学生時代からステレオを 身近に置いていた。現在は買い集めたCDの2000曲入りiPhoneを二つ。あくまで、 早朝のポタリングの走行中だけ。 「賢い子」を、<「心豊かな自分」に育てるコツ>をテーマにすべきだったか。 PCと、ネット活用は、少しは、賢い自分を育ててくれている。で、このザマ!
・・・・・・ 5278,「読書の腕前」 ー�� 2015年08月27日(木) 〜「読書の腕前」岡崎武志著 ー読書日記 〜 * 独りの楽しさと、読書 半世紀近く、早朝と午前中の読書の時間は、私にとって至福の時間である。 これに30年まえからウォーキング(7年前から自転車散策に変更)が、15年 前からネットが加わった。これと秘境ツアーの蓄積が、人生の財産である。 読書に関しては10歳までの習慣化が必要と言われるが、その割りに、 底が浅いのは、20歳辺りで、ようやく面白みを知ったため。〜その辺りから〜 ≪ 「いまの日本には楽しみがあふれているのに、楽しみ方が下手だ」 谷川俊太郎の『「ん」まであるく』というエッセイ集のなかにある言葉だ。 たしかに、余暇というと多くの人が、ゴルフへ行く、家族でディズニーランド へ出かける、ショッピングセンターへ買物に行き、ついでに食事もする、 というかたちで時を過ごす。それが悪い、と言うのではない。しかし、 あらかじめ用意された場所や装置がないと、時間がつぶせないというのでは、 「楽しみ方が下手」と言われても仕方がないだろう。このことを、もう少し、 谷川の文章に添って考えてみたい。 ー続けて、こんなふうに言う。 「文学、芸術に関する限り、私たちは楽しさよりも先ず、何かしら 〈ためになること〉を追うようだ。楽しむための文学を、たとえば中間小説、 大衆小説などと呼んで区別するところにも、自らの手で楽しむことを卑小化 する傾向が見られはしまいか。感覚の楽しみが精神の豊かさにつながって いないから、楽しさを究極の評価とし得ないのだ」と。 ここ数年のベストセラーリストを眺めていると、自己啓発本がつねに上位を 占めている傾向に気づく。多くの人がいまの自分に満足できず、なにかを変えた がっているようだ。スキルアップを図り、それを仕事に結びつけて出世したい。 本もそのため「役立つ」なら読む。そういう気持ちがリストから透けて見える。 出世を願う気持ちを否定することはできない。しかし、本一冊を読み、いきなり 自己を変革しようというのはあまりに安易だ。そして、なにか「ためになる」 ことがないと、本に手を出さない姿勢もいびつだ。それもこれも、「本を読む」 ことのほんとうの楽しさを知らないから、いつまでたっても即効性を願う本 ばかりに手を出してしまうのである。 本は栄養ドリンクではない。 「つつしむことのできぬ精神はひよわだ。楽しむことを許さない文化は未熟だ。 詩や文学を楽しめぬところに、今の私たちの現実生活の楽しみかたの低の浅さも 表れていると思う」と、谷川は言う。また楽しみはもっと孤独なものであろう、 とも。恋人と、あるいは大勢の仲間といっしょに音楽を聴いたり、映画を観たり するのは楽しい。しかし、その瞬間だって、その楽しさを腹の底から感じる のはいつだってひとりの自分なのだ。 いつも誰かといっしょでないと不安で仕方がない、ひとりでいるのはみじめ。 だからケータイやメールで他人とつながって生きている。こうして孤独、という 言葉を恐れるあまり、自分ひとりで感じることのできる力をないがしろにしたら どうなるか。「ひとりじゃいられない病」にかかってしまい、いつの間にか、 伸び切ったゴムのように魂は弛緩してしまうだろう。 『教養とはつまるところ自分ひとりでも時間をつぶせる』ということだ。 それは一朝一夕にできることではない。「働き蜂たちの最後の闘いは、膨大な 時間との孤独な闘い」 そう書いたのは中島らも(『固いおとうふ』双葉文庫)。 「教養」という、うさんくさく実体のない言葉を、なんとうまく表現している。 「自分ひとりでもうまく時間をつぶせる」人のことを「孤独な人」とは言わない。 なぜなら、その人の時間はきわめて充実しているからだ。私はつまるところ、 「孤独」を克服し、たったひとりで自分の内面を深めるのは「読書」以外にない、 と考えている。 また谷川は前掲書のなかで、自分だけが感じる「楽しさ」を ちゃんと見つめることが「成熟」だと言っている。≫ ▼ 今では、ネットサーフィンという遊び方もある。逆に、誰とでも気楽に、 「ツイッター」や「リンク」で結びつくことが可能だ。それと、自己啓発本に 偏っていたこともある。『教養とは自分ひとりでも時間をつぶせる』という点 では、充分、教養があるはずだが、それが浅いと実感するのは、10歳までの ベースがないため。その割切りをしておけば、読書の楽しみは増えるはず。 それよりも、現実社会があまりにも面白い!ということか。 ・・・・・・ 4913,世界の美しさをひとつでも多く見つけたい ー5 2014年08月27日(水) 『世界の美しさをひとつでも多く見つけたい』石井光太著 この著書を読んでいて思い出したのが、以前に取上げた、 <京大工学部の新宮教授の「幸福の4階建て論」説。 (古今東西の幸福論を読み漁った結果) 4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。 3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する。 2階:獲得した「快」を永続させる。 1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。> 『世界の美しさを一つでも・・・』の著者・石井浩太は、それが壮絶であるほど 余計なものが剥ぎ取られた人間の泣きたくなるほど、その美しさが浮上るという 説に重なる。このルポも、時代の要請なのだろう。 ーまずは、その辺りを抜粋ー ≪ なぜ過酷で壮絶だったりする現場に赴くのか。それは過酷な現場であれば あるほど、「人間の美しさ」が見やすいからです。良心、善意、優しさ、強さ といったものです。暗い場所であればあるほど、光はより明るく輝きます。 それと同じで、悲しくてつらい世界だからこそ、人の優しさやたくましさがより 鮮明に浮き上がる。 たとえば、マドウと薬草売りの関係が、ニューヨークの 高価な私立病院の個室でくり広げられるお金持ちの病人と専属看護師のそれだと したらどうでしょうか。高級病院の専属看護師は、コルカタの薬草売り同様に お金持ちの病人を必死に励まそうとしているかもしれません。しかし「高額な お給料をもらっている」「最新の医療を受けている」という事実があることで、 専属看護師の善意は見えにくくなります。コルカタの路上で人間が裸同然で うごめくように生きています。良し悪しは別にして、余計なものが一切ないから こそ、薬草売りのマドウに対する善意がはっきりと目に見えるし、それが 泣きたくなるほど温かな行為として感じられる。そして、薬草売りとしての 美しさが鮮明に浮き上がるのです。私は先ほど「人生観が変化するような感動 を見つけ出したい」というようなことを書きました。過酷な現場へ向かうのは、 そのためなのです。厳しい状況の方が人間の美しさがより輝いて見えるので あれば、必然的に向かう先もそこになります。過酷な現場を見たいから行く のではなく、より多くの人間の輝きを発見できるからこそ赴くのです。・・≫ ▼ 幸福の4階建て論に疑問が残っていたが、これを読んで、成るほど合点が いった。著者が、この論を知っていたかどうかは知らないが、克服できない 不幸も、見方を少し変えると、こうも違って見えてくる。3年前の節目も、 実際に経験をしてみて、それまでとは社会と人間が違って見えてきたのに 驚いている。死を悟った時とか、克服できない苦難や悲しみの中にこそ見える 様ざまな感動が、人生観を変える。逆に、ただ、思い込みの壁で、物事が全く 見えてない人と、過っての自分の姿が見えてくる。漆黒の闇の中こそ光は輝く! ふと気づいたが、4F説の、1階が壮年までの生、2階が老年、3階が病気、 4階が死ぬまでの葛藤?で、屋上は死、自分から解放された無限世界! (一言多いが)平屋もマンションもある・・・ ・・・・・・ 4546,閑話小題 ー小学、中学校の同級会で、どうしてるの? 2013年08月27日(火) * 小学、中学校の同級会で、どうしてる? 数ヶ月前になるが、家内が真剣な顔で、「中学の同級の女子会に初めて出席 するけど、会社を興し、ワンマンで好き放題のアナタが、話題が合わないはず なのに、何時もどうして時間を過ごしているの?」と、聞いてきた。 それに対し「殆ど毎年、出席して30数年、慣れがある。相性の悪いのは近くに 来ないし、最初の30分さえ過ぎれば『場』が出来るので、それまでの我慢。 早めに酔ってしまうのがコツだが、気を許さないで悪意の話に乗らないで、 ただ黙々と酒を飲む。話題が合わないのは当り前と割り切っている」と。 「それにしては、毎回、いそいそ行くじゃない」というので、 「小中高校の集まりは魂の故郷。合う合わないでない。魂の故郷の温もりを 味わうだけで充分良いもの」と。地元受験高校から、女子短大を卒業して、 実家の取引先である上場メーカーのオフィスで、丸の内勤め二年をした後、 結婚先は実家同様、お手伝いがいて(10年前まで)、今だTVドラマと、 現実の境目が分からない人が、40年、柏崎の世界で地道に生活している人と、 この年齢で出席してかみ合う訳がない。 で、家内が柏崎から帰ってきて、 「どうだった?」に 「・・・・・」。何があったか黙して語らず。 時間が経つと出たくなるのが同級会、それが魂の領域であるため、 が分からないようだ! で、暫くしてから「二度と行かない!」 * ビデオカメラから覗いたロス市警警官の日常 先週の金曜日に上映時間が変わっていたため見れなかった 『エンド・オブ・ウォッチ』を、昨日午前に見てくる。 (番外は、年に2〜3回はある)ロス市警のコンビの警官の勤務をリアルに 浮かび上がらせている。その手法が、車の中のビデオカメラと二人の警官が 胸に遊びで付けた?小さなビデオカメラで映し出す手法。それが臨場感があり、 ロス警官の日常勤務に観客を引きずりこむ。更にギャングにも、グループの 一人が悪ふざけでビデオカメラで撮影している設定をしてあり、その目線も 重なっている。それがリアルで、次の瞬間何が起きるか恐怖が先にたつ。 観客目線より、主役と脇役それぞれの役割目線のアングルが良い。 ロスのサウス・セントラルでは、年間10万件、5分に一度の割に事件が 起こっている全米最悪の地域。 特にメキシコ系と黒人系のギャング争いを リアルに映し出しているが、それが恐ろしい限り。その中で、二人の警官の 生々しい、ビデオレポート風の映画とすれば・・ Googleが、眼鏡フレームに ビデオカメラを付けたものを実験販売をしたが、映画も、個人目線の映像が 交差する物語が多く出てくることになる。これは、そのハシリということか。 Youtubeのようなサイトから、面白映像が溢れかえる流れが激しくなる。 次にどのような端末が出てくるか、楽しみである。 ・・・・・・ 4171, 閑話小題 ーつれづれに 2012年08月27日(月) * つれづれに このところ尖閣諸島、竹島や北方領土に、中国、韓国、ロシアが意図的に 仕掛けてきている。現在の首相がレイムダック状態で、組みやすいタイミング とみてだ。しかし日本にとって、沖縄米軍基地問題の中、その存在を考えるに 丁度良い問題。関連している各国全てが良い上に、国民の目をそこに引きつけて くれる。もう直ぐに、中東で決定的な何かが起こすための目先の意図的な小競り 合いの要素がある。 中国は権力の移行期における軋轢が起こっている上に、 景気は減速。韓国は、現大統領の側近が収賄などで次の選挙に立候補さえ出来ず、 失職後に恒例の暗殺か、自殺?か、逮捕劇が待っている。極東も不安定状況に なってきた。 アメリカの穀物が異常気象で干ばつというニュース。 深刻なら経済が一挙に際どくなる。一昨晩のBS/TVで、欧州の経済不況の現場を 特集していた。スペイン移民が住宅ローンの破綻で、家の明け渡しのトラブル とか、アルゼンチンにUターンをしている事例とか、深刻な内容。 5年、10年後の日本の状況である。 * iPad導入、一年 去年の8月25日にiPadを購入して一年になる。当初の熱は冷めたが、 使い勝手が良いこともあり、今では必需品である。居間と書斎に卓上型のiMacを 置いているが、居間のPCは家内が専ら使って、そこで私はiPadを使っている。 TVに飽きたり、コマーシャルの間、ネット・サーフィンをしたり、本のチョイ 読みが専らである。気楽に自由空間を飛びまわっている感覚が良い。 電動アシスト自転車が三年、未来型TVが二年、iPadが一年。 それぞれ大きく日常の生活を変えてくれた。 新しいツールが、 日常を大きく変えている。 馬鹿になっているだけだが! ・・・・・・ 3806, 哲学人 ー� 2011年08月27日(土) * 歴史の知識が、物事の理解の仕方に及ほす影響 ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 【 歴史の専攻に費やした五年間(パブリック・スクールでの二年間と大学での 三年間)は、一般的な遺産をひとつと、個別的な遺産をいくつか残してくれた。 一般的な遺産として私の頭のなかには、古代ギリシャかち現在までつづく西洋の 歴史に関する概略的な知識が残った。こうした知識は習得に数年間の研究を 要するので、当然たいていの人は、いや、高学歴の人でさえもっていない。 物事の理解の仕方へのこの知識の影響は根深いらしく、私の考え方には、対象が 音楽であれ、演劇であれ、政治であれ、哲学であれ、ともかく決まって歴史的な 側面が認められる。私にはあらゆるものを、その成り立ちや今後の展開といった 観点から眺める傾向がある。また、過去の人物をより広い文脈に置く傾向もある。 そうやって、その人々が住んでいた社会の様子や、彼らが活動していた当時の 状況、その時代にはまだ起きていなかったこと、彼らが知リえなかったことなど を認識するのである。さらに私は、現実が絶えず変化しつづけることを踏まえ、 ‘現在には特別扱いすべきところなどない’とわきまえている。 いま起きていることには特別な重要性がある、そう思いこんでいる人が大勢いる ようだが、私はそうではない。過去全体がいまへとつながっているのであって、 かつてのどのいまとも同じように現在は一時的なものであり、ときに総体として の過去のなかの一瞬にすぎなくなることを私は知っている。過去、現在、未来を 問わず人は誰しも、複雑で途絶えることのない大きな歴史の流れのなかの任意の 時点に人生をはめこまれるのであり、その歴史の流れは絶えず変化し、各個人の 死後もつづいていく。その流れのなかに、ほかと比べて特権的な時点などなく、 ほかより多少なりとも絶対的な時点もない。こうした思いが私の骨の髄まで染み こみ、芸術と知的生活のどちらに対する態度にも行き渡っている。】 ▼ ついつい我々は、「自分の生きてきた時代を特権的かつ絶対的な時点」 と思い込んでしまう。それが自分が生きてきた時代という理由だけで・・ しかし過去を振り返れば、長い歴史の中の一コマでしかないは明白である。 従って、日本史や、世界史を何度でも読み返し、自分の置かれた時代を冷静に 見つめるため、地球儀と世界史の本を身近に置いておくべきである。 グーグルアースとは別に。 ・・・・・・・ 3441, 政治談議 2010年08月27日(金) * 小沢一郎が、民主党党首に立候補 日本の歴史始って以来の危機の時期に、小沢が立候補を決断をした。 この恐慌を乗り越えるには、自民党、民主党という枠を超えた大連合しかない。 その断行は待ったなし。管首相以下の三人が政権運営維持、難局に対処出来る など考えられない。面白いもので、小沢が立候補のニュースをみた直後、 月刊誌の「現代・プレミアムーノンフィクションと教養」を手に取ると、 週刊文春などの編集長などをいていた花田紀凱が小沢一郎批判をしている文に 行き当たった。田中角栄直伝の集金システムの手法は、そのまま続いている。 ここで、1993年、小沢が新生党を結成した時に立花隆が朝日新聞に痛烈な 批判の文章を取上げていた。 (字数の関係でカット09年8月27)
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2016年08月26日(金)
* 幸・不幸の実相 10年位までは、青少年向きのテーマとして、その話題は一般的に避けられて いた、幸福論、不幸論が表舞台に出てきた。世界的に政治・経済の停滞が、 起因している。 同じ人生で、これほど違うかと思うほど、孝・不幸の差がある。 よくみると、その差は親の愛情と、教養の差にあるようだ。 人生の甘味、辛さも一通り味わったつもりだが、孝・不幸は、自己責任と、 痛感する。要するに、幸・不幸は起こってしまった現実の解釈と、受容の人生 への姿勢にある。それは長年かけた心のベースから派生する。それが稀弱な人は、 目先に動転、その責任を外に求めてしまう。自分の足で、地べたを踏み込むことが、 出来ないため、同類合い哀れむ群れで屯するしかない。こういうのを蓄群というが、 群れることで、己の思考を放棄するため、 何が問題かを知ることができない。 そして「残念な人生」をおくる。その自覚さえないから、それは「残念な人生」 ではないのだろう。 という論も、羊の群れを馬鹿にする山羊? でしかないが。 ―― * オリンピックも終わって リオのオリンピックが、先日、終了した。 メダルの数からして、今回の オリンピックは、丁度良い塩梅の数。何はともあれ、テロが起きなかっただけ でも、良かった。 次は2020年の「東京オリンピック」に向けて動き出す。 目安は金メダルが25個辺りか。オリンピック委員会も、開催国に金をもたらす 追加種目を宛がうのは周知のこと。 4年後は、世界はテロや戦争で、混乱が 激しくなっているはず。 テロの効率からみて、ISに狙われて不思議でない。 私の寿命は、その辺りと設定しているので、健康状態で迎えられるかどうか。 冬季(12月〜3月)を除いて一日、3時間は運動をしているが、問題は酒量。
・・・・・・ 5277,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー① 2015年08月26日(水) ーその時、言葉は私の「神」となる (新潮45/6月号) 〜心肺停止になって考えたこと! * 人生の価値とは何か 生死の境目で、彼女(中村うさぎ)は大きく変わった? 『何を成し遂げたかでなく、如何に生きたか』というが、実は人生は、 『何を成し遂げようとして如何に生きたか』である。ただノンベンダラリ という生き方も、あるとしても。同じ人生なら、何かを目指し、問題解決を し尽くし、燃焼した生きかたを私は選ぶ。女無頼派作家が心肺停止で見えた ことは・・ 挫折、問題こそ価値の源ということ。 〜その辺りから〜 ≪ 我々はそれぞれが自分なりの方法で己を表現しながら生きている。 そもそも「生きる」こと自体が表現なのである。どう生きたかを見れば、 その人物の価値観や世界観がわかる。生きていく過程でどんな選択をしたか、 何を大切にし、何を捨てたか。その選択や行為によって形作られていく人生 こそが、その人の作品なのだ。 むろん、本人が作りたいと望んだ作品と出来上った作品は、似ても似つかぬ ものになっていることもあるだろう。さまざまな要因によって人生はその形を 変え、思いも寄らない方向に転がっていったりするからだ。 それゆえ多くの者は、人生の後半において「こんなはずじゃなかった」と 臍を噛む想いに打ちのめされる。だが、それでもその人生は、「私の作品」だ。 不可抗力的な外的要因で捻じ曲げられても、そこで我々が下した判断や選択は、 まぎれもなく我々自身のものだからだ。ままならないことも含めて、「人生」 である。そして、その「人生」は、よくも悪くも、我々自身を見事に反映して いるのだ。 私の人生は、私そのものである。 このように考えると、「いかに生きるか」という問題が我々にとってどれだけ 重要であるか気づかされる。組織内や世間の評価を得ることに血道をあげようが、 世間に背を向けて自分だけの世界を作り上げようが、それは各人の自由であるが、 その目標のためにどんなことをしたのか、己の中のどの欲望を優先したのか、 その欲望を自分自身がどこまで明確に把握していたのか、そこが問われることに なるのだと思う。 己の人生を「いかに生きるか」に、我々は責任を取らねば ならないのだ。・・(略) どんな人生であろうとその人にとってはかけがえ のないものであるし、何の業績も残さずとも本人か精一杯生きれぱ、そこに必ず 価値が生ずる。問題はその人が何も考えずにだらだらと生きたか、己や他者や いろいろなものと格闘しながら悩み苦しみ葛藤を繰り返して生きてきたか、だ。 たとえ挫折や失敗ばかりの人生であったとしても、その挫折や失敗は絶対に 無駄ではないのだ。そう、そこには必ず意味も価値もある。 「何を為し遂げたか」という結果ばかりに目を奪われて「どう生きたか」という 過程を見落とすと、この世の多くの人の人生は無価値という結論になる。 何事かを為し得る人間など、ほんのひと握りだからだ。そのような価値観で生き ていたら、「結果を出さなきゃ自分には価値がない」という強迫観念の虜となり、 己の人生を正当に評価できなくなるのではないか。若い人の悩みを聞いていると、 多くがこの強迫観念に取り葱かれていて、「何者かにならなくちゃ」 「何事かを為さなくちゃ」と焦っている。まあ、若いうちはそういう悩むのも ひとつの過程と思うが、彼ら彼女らにいずれは気づいて欲しい。 何者にもなれない人生、何事も為し遂げられない人生にだって価値はある、と。 人生は結果ではなく、そうやって答を探して長い長い旅をする、あなたのその 足取りこそが貴重なのであり、その過程の積み重ねがあなたにしか生きられない この世で唯一無二の人生を形作っていくのだ、と。≫ ▼『ご覧のとおり、そのまま、結構!』を、4年前の事業断念時に自分自身に 対して言い聞かせていた。バブル崩壊が、どれだけ大きな経済敗戦だったかを 見抜けなかったことが、ある。 盤石と信じていた事業が根こそぎ崩壊するのも、 一瞬の出来事。更に同時進行の情報革命も、大きな要素に加わる。 これに9・11テロ、リーマンショック、3・15大地震なら、仕方ない。 面白かったから、まあいい、と思えるのは、何とか避難が出来たから。 『総括として、面白かった!』という実感は、何ものにも代えがたい。 ・・・・・・ 4912,世界の美しいさを一つでも多く見つけたい ー4 2014年08月26日(火) * 現場の壮絶! 内容は 題名とは程遠く、映画や小説でさえ描写できない現実の凄みがある。 デジタル機器の進化で、生首を刎ねる写真や映像などがネットで流される。 臨検など今では無理。それにしても、このルポは、凄惨で、これが現実である。 ーその辺りからー ≪ 話を聞いてわかったのは、LRAの兵士たちのあまりに残忍な行動でした。 彼らはまず戦力を増やすために村を襲い、食糧や金品を略奪します。 そして村人の中から子供を選び出し、彼らに銃を突きつけて自分の親や兄弟を 殺害させる。「この場で親の首を切れ。そうしなければ、おまえを殺すぞ」 そう脅して無理やりやらせるのです。家族を殺した子供は、村で生きていく ことができません。兵士はそんな子供たちを連れ去り、部隊の兵士にする。 家族を殺させるのは、子供を村と決別させ、殺人マシーンにするべき通過儀礼 のようなものなのです。子供たちは部隊に入った後、全員が従順に兵士として 生きるわけでありません。途中で逃げ出したり、命令に従わなかったりする こともあります。そんな時、ゲリラ兵は見せしめのために裏切った子供たちの 鼻や耳、それに唇を切り取ったりします。人間には見えないような容貌にする ことで恐怖心を植え付けるのです。おそらくこうした事実だけ見れば、私は LRAのゲリラ兵を「鬼南のような兵士」として描き、彼らにつかまって兵に させられた子たちを「悲劇の被害者」として描いたはずです。でも、さらに 調べていくにつれ、違う側面があることもわかってきました。 LRAの子供兵の中には、誘拐されて兵士になった子以外に、自分の意思で自ら 兵士になった子もいるのです。貧しい農村で一生暮らすことが嫌になり、銃を 持って略奪をして暮らしをしたいと思っている子供、銃で人を殺して出世する ことがカッコイイと思って参加する子、もともと反社会的な人格を持っていて、 それがエスカレートして、兵士になることを望んだ子供がいるのです。・・≫ ▼ これに匹敵する残虐行為に、ドイツのナチと、カンボジアのポルポトに よる数百万単位の大量殺戮がある。北朝鮮も一歩内部に入れば、このような 弾圧が現在進行で行われている。中国文化大革命では1千万〜5千万人が虐殺 されたが、詳細は隠されている。25年前に桂林に行った時の現地添乗員が 『文化大革命時には、この辺りは死体の山だった。それが全国の各村で同じ ように・・・』と、何気なく話すのを聞き耳を疑った。当時は、日本国内では タブーで、現地であればこそ聞けた話。 島国で、海で外界から守られ、 平和ボケの日本。グローバル化は、その平和を儚くも砕いてしまう。 憲法を変えるのは当然のことだが・・ この国では無理? 〜 また偶然だが、以下の二年前の随想日記に続く! 〜 ・・・・・・・・・・・ 4170, 金正日の料理人 2012年08月26日(日) * 若きドン様の親の敵討ちは残酷! 何気なくTVをみていたら、北朝鮮の金正日の元料理人が出ていた。これが 漫画的ドラマ仕立。その男が、「金正恩に招待され北朝鮮に行ってきた内容」 で、金正恩や、そののファミリーと食事をした写真があった。 父・金正日を 裏切り逃げ帰った過去全てを水に流してくれた温情深い現在のドン様に感激 している、という筋書き。その日本人は現地に妻と二人の子供を残してきたが、 正恩の計らいで残留家族と対面した。ところが、「料理人の長男が、再会した 二週間前の夜半に苦しみだし、両手を三回突上げ絶叫し、亡くなった」という。 心臓発作だった。 『呼び出しに応じたのを確認したと同時に、長男を毒殺し、家族に会わせて、 その事実を知らしめ、今度は長女を殺す、という脅しをかけ、北朝鮮の メッセンジャーを暗に強要している』のは誰の目にも明らか。その後、妻と娘 を残して帰国し、TVに出演したのだが、その筋書きをキャスターに指摘されると、 「そうであっても、それでよいと思っている」という返事。北朝鮮に愚弄されて いる姿が、そのまま出ていたが、陰湿で残酷な仕打ちのドラマ仕立。 リアルで現在進行中のため、料理人が翻弄されている姿が痛々しい。 独裁国家のドン様を裏切り愚弄すると、このザマになるという残酷ショー。 これは北朝鮮が茶の間に直接日本愚弄のメッセージをしてきたことになる。 逆にみれば、この程度の連中でしかない。マスコミが、料理人を抹殺するか、 パンダとして利用するか、パンダ利用になるのだろう。現地の家族が本当に 存在していたのか、そう持ちかけられたのか、本人の作り上げた物語なのか、 色いろの仮説がたつ。コミック漫画の悲劇、喜劇? くさい話だけは確かだが。 ・・・・・ 4545, 閑話小題 ー夏対策 2013年08月26日(月) * 暑さ対策! 居間、寝室では扇風機で冷をとるのが基本。しかし30度を超えるとクーラー を付けるが、今年は、その頻度が多い。扇風機の場合は、補助として保冷剤の 入った首巻きを三つ冷凍庫で冷やし一時間ごとに入れ替える。これが効果がある。 更に先日、寝室用に保冷枕を購入し使い始めたが、これも良い。 冬生まれもあって夏の暑さには特に弱いが、それでも、いざとなればクーラー があるという余裕があるから出来るのだろう。 * 業種店が、新規出店? 車で二分ほどの三沢のSCの運動ジムに週五日通っているが、道路一つ隔てた 敷地に2Fの建物の鉄骨が立ち上がってきた。3〜4ヶ月前に「地元のスポーツ店 が、東バイパス出口に出店!」という新聞記事を見ていたので、着工と同時に、 これでは?、と思っていたが、先日に家内から、それが地元スポーツ店と 知らされた。地元のスポーツ店も典型的な業種店。自然消滅は時間の問題と 見ていたが、それが新規の出店とは意外! 家内が言うには、「近くに高校や 中学が多いので、運動着やスポーツ用品が学校単位の需要があるのでは?」。 家内の方が、よほど世情に詳しい。全国チェーン店が捨てた(地元しか手に 入らない)インサイダー営業が存在している、ということ? としても、 私には疑問が残るのは、私がアウトサイダーのため? それとも、幾つかの SCの重なっている郊外の一等地で、大手のスポーツチェーンに囲まれ苦戦。 その原因が業種店の限界と知らず、スポーツ店の無店地帯の東バイパス地区に 移転で起死回生を図るためなのか?としたら・・ 最悪のケース。 常識的にみれば破滅行為!しかし、街中から移転して20年?近く、ブランド物に 的を絞り、営業では学校関係に地道な営業努力の結果、二店目の出店に至った? と、考えるしかない。立地センスは最適だが、黒鳥の舞降りる中で、どうなる? 毎日のように、窓から見えているので書いたが・・ 更に最悪のケースは、 順調な数字を上げていて、移転でなく拡大としての二店目の場合。 恐ろしいのは二店目の甘い計画。 ・・・・・・ 3805, 哲学人 ー� 2011年08月26日(金) * 学生時代の恩恵 学生時代の恩恵は、現在でも大いに実感している。もしも学生時代に一度、 頭を粉々にしてなかったらと思うと・・ マギーは、ここでイギリスのエリート 学生の内面を正直に書いている。哲学と芸術の長い歴史が大学にあり、そこの プログラムを学生はこなしているのである。都市には、美術館があって歴史的 名画を身近に見ることができる上に、コンサートも子供時代から親から連れて 行ってもらっている。 教養のベースが、風土の中に染み付いているのである。 ー「哲学人」ブライアン・マギー著よりー 【 結局、大学が知性という面で私にしてくれたことの中で一番肝心なことは、 知的価値が芸術的価値とは独立して存在しているということ、そして、知的 価値に関心を持つように仕向けてくれたことである。 一年目には、理知的で 気の合う仲間の中に、他にもまして知的な価値に傾倒している人がいることを 知ってカルチャーショックをうけたことである。彼らとの交流のかなで、 そうした価値を自分なりに受け入れられるようになるに三年目まで待たなければ ならなかった。そのおかげで、知的価値は私にとって欠かせないものとなり、 私の人生と考え方に色褪せることのない彩を添えてくれた。 ちなみに、私はこのような経験をしたおかげで、一部の聡明な人々に対する 理解を深めることができたのではないかと思っている。それは、さまざまな 理由から大学教育を受けたことがなく、そのためにこういだ経験をしていない 人々についてである。そういった人々がどんなものの見方をするか私はわかる つもりだし、彼らの身になってみることもできる。 ひょっとしたら自分も 同じ立場になっていたかもしれないからだ。 正式な教育は、世界というものが 個人の見解や意識や関心や想定の単なる拡張ではないという考えを育むよう 仕向けてくれる。これは正式な教育が授けてくれる最大の恩恵である。 当然のことながら、こうした教育は他者の助けなしにできない。他者は私たち 個人をしばっている拘束をまぬがれているからである。けれども、ここから 導かれるのは、独学の者は生半可な教育を受けた程度にしかなりえないという、 残念だが逃れようのない事実である。 オックスフ・オード入学当時の私の 考え方にはっきりいって欠けていたもののうち、最も重要だったのは、その後の 経過を考えると、哲学ということになる。 人間の関心事の中で最も価値が あって大切なものとして、哲学は確かに偉大な芸術に近い水準に達しているし、 その理由も似通っているように思う。どちらも、人間が到達しうる最も高い レペルで真理を探究する活動である。どちらも物事の本質を、つまり存在の 根源的な神秘を探ろうとしている。それを果たせないとしても、人間の理解 に限界があるせいにすぎない。ショーペンハウアーが述ベているように 「芸術家が具体的に行なっていることを、哲学者は抽象的に行なっている。」 哲学者は自分の意見を概念で表現するよりほかなく、そして概念というものには どうしても一般性がつきまとうため、哲学は芸術ほどの深みには到達できない かもしれない。だがその一方で、哲学にはできても芸術にできないことがある。 アイリス・マーギックは「よきにつけ悪しきにつけ、芸術は哲学より深い ところに達する」と語ったが、哲学には芸術よりすぐれた面がいくらかはある という意味ではそのとおりであるし、全体としては芸術に及ばないという 意味でもそのとおりである。】 ▼ 芸術と哲学が教養のベースであるのは今さらだが、マギーの、このような 文章を読むと、より芸術に触れておくべきだったと実感する。 芸術作品は、 作者の魂そのもの。それぞれの時代が生み出した人物が全霊を捧げて、作品の 中に魂を入れ込んだ名作である。それに直接触れ、感動するのが一番、人間の 魂を高めることになる。そのためには時間をかけて対象と向き合うしかない。
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2016年08月25日(木)
* 通っているジムが活気づいてきた 駅東口の、ダイエーが入居していたビルの最上階にあった、ジム最大手の 「コナミスポーツジム」が7月末で撤退。大量の難民?が、歩いて15分の 私の通う「ホリディ」に移動してきた。 何か「ホリディ」とは人相が違う、 街中の衆という感が強い。 不景気もあってか、ジムの経営も大変のようだ。 但し、「ホリディ」は、最新の施設もあってか、会員数が安定している。 人気の「ヨガ」エアロが常に満席。 競合対策で?「平日・昼間会員」枠で、 二年前まで週に3回だったのが、現在は6回に増えている。 増えた枠は、 外部のヨガ専門の先生だけでなく、エアロのインストラクターが、見よう 見まねの指導を始めたが、それはそれなりに? 時に週4回参加もあるが、 週3回が私には最適。 4年半も続けた結果、腰痛からくる腰の重みが、 かなり軽くなっている。 これで、3〜4割は増えたようだ。これは大きい! ところで、スポーツジムの大手は、どうなっているかと検索すると、 最大手の「コナミ」が750億円。次が「セントラル」が半分近くの500億、 「ルネサンスが420億」、「ホリデイ」が10位で100億。それぞれの戦略を 持っている。 「ホリディ」は<初心者向け>が売り。 平成26年のフィットネス業界の数値は次のとおり。 市場規模:4,316億円 施設数 :4,375軒 会員数 :4,193,706人となっています。 この数値を元に推計すると、1施設あたりの年間売上高は約1億円。 会員数は約1,000人になる。「ホリディ」は私の推測だが1,500〜2000人、 売上は1億2〜5千万。 コナミ撤退もあって、地域NO1。 こういう装置産業は、後だしジャンケンが勝つ。 満足度90点。 まあ、日々、お幸せなことで!
・・・・・・ 5276,閑話小題 〜静かなる恐慌が表立ってきたか 2015年08月25日(火) * 株価、世界同時安が ここで、世界は静かな世界恐慌に既に入っていると、くり返し述べてきた。 リーマンショック以来、アメリカのドルの供給量が三倍。円は二年前の二倍に なったが、ドルの為替値は、変わらず。円は、三分の二になった。 こういう歪な不自然なことには自然淘汰が、起こって当然である。 その発火点が中国か、ギリシャか、日本か、北になるのかだったが。 「暴落しそうな企業は、株式市場での売買停止が可能」とは、知らなかった。 これでは、国内外の投資家は、引くのは当然である。私のHPの内部検索で、 去年春に、以下の内容が出てきた。我ながら真面目なものだ。 ≪ 2014/02/10 閑話小題 〜時どき、10年前から現在を振り返えり〜 * 時どき、10年前から現在を振り返えって見えてくるのは! 株式のチャート見るように、その時どきから、5、10年間を振り返えると 思いもよらない事件に遭遇していることが分る。では2004年2月〜2014年2月 まで、何が起きたか?を調べると想像を絶することばかり。 先の10年間は、 これらより遥かに大きな自然災害と経済震災に遭遇することになるが、 これだけは起きてから分かること。 時系列であげると! ・2004年に、中越地震とスマトラ沖地震、 ・2007年に、中越沖地震、 ・2008年には、ミャンマーでサイクロンで死者・行方不明は13万4千人以上。 5月12日- 中国で四川大地震発生。M8.0、累計で4千万人以上が被災し、 6万9千人が死亡。米国でリーマンショックが発生。 ・2008年9月15日 − リーマンショック ・2009年1月20日 - バラク・オバマがアメリカ合衆国建国以来、 初の黒人大統領とし第44代米国合衆国大統領に就任。 ・2010年には、チリとハイチで大地震。ハイチでは30万以上が死亡。 ・2011年に、東北大地震で2万人近くが亡くなり、福島第二原子炉が破壊された。 チュニジアのジャスミン革命が各国に波及し、アラブ各国で独裁政権に対する デモに発展。エジプトでムバーラク政権が崩壊、リビアでNATOが軍事介入し 半年間の内戦の末にカダフィ政権が崩壊した。(アラブの春)アルカーイダ の最高指導者とされるウサーマ・ビン・ラーディンが、パキスタン・ アボッターバードにて米国の特殊部隊との銃撃戦の末に殺害される。 ▽ 東北大地震の直後、私の事業もあっけなく消滅。 時系列でみると、 10年前に、こんな予測をしても誰も信じない。が、現実には次々に起きている。 とすると、2014/02〜2024/02年は、さらに大きな自然震災、経済災害があるはず。 それを前提に対策を立てておく必要がある。まさか地元の中越地区に二度も、 大地震があるなど思いもよらなかった。いま考えられるのは、首都直下型地震、 南海トラフ地震、富士山の噴火の可能性が高い。また静かな世界恐慌?が 表立ってくるのも自然の成りゆき。その中で、情報革命が劇的に進んでいる。 パソコンがスマフォや、タブレット型に収まるとは、当時は考えられないこと。 次の10年は、メガネ型、腕時計、ジャケットなどの身体の一部になる装着式。 危険な大震災の可能性と、反面、面白い時代になる。ブラックスワンがいるが、 大部分はホワイトスワン。 私個人としてのブラックスワンは、「死」。 5分5分、いや6分が到来? で、その日のための予習を楽しんでいる。 一応、やりたいことは、やり終えた実感は、小さい範囲としても、気が楽。 それも吹っ飛ぶのだろうが。 ≫ 〜以下は、2015年8月25日・記 ▼ 後記)中国のバブル経済の崩壊は、世界恐慌が表立ってくるのか、どうか? 見ものである。一線に立っていれば、由々しき出来事に夜も眠れない? 昨日の夕方、NHK:BSで、『中国の製造業崩壊現場』を、再放送をしていた。 人件コストアップのため、カンボジアに工場移転をしたところ、カンボジアも 人件費が高騰し、人民レベルの質の問題もあり、当てが外れたという内容。 中国経済と、その株式市場の崩壊の影響は、リーマンショックとは、 レベルが違う! 一年、二年かけて、世界の株価が、現在の半値か、 3分の1の可能性もある。目先は、一時的には平成を保つとしても・・ ・・・・・・ 4911,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー50 2014年08月25日(月) * 総括の総括 ー小さな物語のまとめー HP内検索で調べてみたら、2年半前の春先に『事業生活39年の総括』 『シングルイン、31年間の総括』と、二つ似たようなテーマで7〜10回 シリーズで書いていた。しかし、それを全く忘れて、これを書き続けた。 45年と、6年〜14年間延びた分、今回は準備期間の15年間を重点的に 書いてある。(重なりが多いが) 無事、ハッピーエンドで事業が終わって いたら、在り来りの成功物語でしかないし、この3つのシリーズは書くことは なかっただろう。この結果なればこそ物語を再編成をしなければ、45年間を 受け入れることが出来なくなるためだ。創めるまで、こんな準備をし、半狂乱? になって全てを注ぎ生きてきた。それぞれの場面には、それぞれ多面性があり、 重く、複雑な問題が、次々と生じてくる。 時には、直ぐにでも投げ出し、 逃げたくなるような、ドロドロしたものが覆いかぶさる。しかし、重みに 耐えているうちに、それは何時の間に解消していることが多い。そこに必死に 立向かっていた自分が間違いなく、いた。この物語を語らずには、死ぬに死ね ない思いがある。これは誰の人生でも同じ。 書き残すか残こさないかである。 書き残せば、遺言にない、かつ自分への弔辞にもなる。 『ご覧の通り、そのまま結構!』で、これ以上でも以下でもない自分の姿が、 そのまま現れ出ている。私生活では、読書、ウォーキングかポタリング、 事業、秘境ツアーが大きく占めている。 素晴らしい仲間に恵まれ、何とか、 ここまで辿り着いたが、結果は?? それでも、悔いは少ない。 10数年前のつくった辞世の句?『有難う 面白かった 悔いは無し』がある。 「遊び、学び、働き、ぼんやり(中空)」と分け自己満足度を総括をすると、 遊びー80点、学びー80点、働きー40点、ぼんやりー80点。平均で70点。 甘いのは分かってはいるが! バブルと、その崩壊に対する認識の甘さが、 働きの自己評価を大きく下げてしまった。それもひとつの小さな小さな物語。 手がけたホテルを一つの生命体とすると、「新しい経営陣と、前オーナーと 管理者の総入れ替えと、借金の6割カットのリストラ」になる。 新潟駅再開発で、二つのホテル棟が買収が予定されているため、何とか、 それまで持ちこたえれば採算に合う?という思惑があればこそ、新オーナーは、 決断したのだろう。問題は、経営母体の体力になる。私は、20年かけて、 衰弱をしたが。このシリーズ、今回が一つの区切り。あとは、「つれずれに」 で、書き加えていくつもりである。結局は『珍獣』止まりだったが、こんなもの! 別記)『分類』の中の「行蔵ーこんな経験をしてみた」の中に、3つの総括 シリーズが収めてある! 一番、楽しんで読んでいるのが私とすれば、 幸せなこと。癒し、というより何だろう、これ。 ムンクの『叫び』? ・・・・・ 4544, ヨガの瞑想と死者のポーズ 2013年08月25日(日) * ヨガに参加して一年半、経過したが スポーツジムのスタジオでのヨガ教室に週2回、1回につき50分間、 参加をして一年半になる。ジムの盆暮の特別休暇以外で休んだのは7〜8回位 とすると、140回は参加したことになる。毎回、50人の定員はほぼ満席で、 30分前までに行き、参加の予約チップを確保しなければならない。 で、二回は遅れて不参加の事があった。火曜と木曜日の午後で、30代半ば? の女性インストラクターは、それぞれ別。私の見立てで能力、人気も同程度? 2人ともヨガが大好き人間で、それに負けないほど、教えること自体が楽しくて 仕方がないようだ。40坪位のスタジオに50人が一同でヨガをする様は異様 の光景。正面には全面カガミがあり、見た目は100人の姿が視界に入るから、 なお迫力がある。横60センチ、縦120センチ位のフィットネスマットの上で 百種類のポーズのうち、一回につき10数種類はする。そこで言うのは、 「周りの人の視線は無視してください。 マットの上は、それぞれの全宇宙。 独りの世界の入って下さい。他人ではなく自分と向き合って下さい。」と。 スタジオはカーテンで外の光が遮られ、照明を落とした薄暗い中、チャンドラ などヨガの空気にピッタリの音楽が流れ、数分でヨガ世界に引き込まれる。 そこで、直ぐに家で取り入れたのが、瞑想と、死者のポーズである。 死者のポーズは、仰向けの瞑想と思えばよい。仰向けになって。両目を閉じ、 両腕と両足は少し大の字気味に開き、全身の力を抜いて、チャンドラの音に 気持ちを向け、戦場の死者のように横たわるイメージを持つ。 毎回、最後の5〜10分は仕上げに行うが、これが疲れを取ってくれる。 ここで感じるのが「大人数の中の、ひとり」。気持ちの集中で、殆ど他人を 気にすることがなく半睡状態になる。それは、一時間の睡眠の効果に当たる。 仏壇前の、早朝の瞑想は30分、死者のポーズは、やはり午前9時〜20分間、 行う。夜半に目が覚めた時に、大の字になって、気持ちをヨガをしていると 思えば、それをしていることになる。問題は、呼吸を小波、中波、大波が 岸辺に打ち寄せるイメージですること。何事もそうだが、続けること。 この二つだけでなく、他にもヨガのポーズがチョットした仕種の中に入る。 居間でTVを見ている合間に大の字の姿勢で、両手、両足を目一杯伸すとか、 歩いている時に背筋を伸すとか・・・
・・・・・・ 4169, 老年行動学 ー5 2012年08月25日(土) * 老生自覚 「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一 (著) ≪自らの老いを自覚することを「老性自覚」と呼び、老性自覚には 「内からの自覚」と「外からの自覚」あります。 △ 内からの自覚には、物が見えにくくなったり耳が遠くなったりする 「五感の能力低下」、しわや白髪が増える、歯が抜けるなどの「身体的徴候」、 もの忘れが増えたり、計算が遅くなったり、根気がなくなったりする 「精神的な減退」などがあります。 △ 一方、外からの自覚には、子どもの成長や孫の誕生、配偶者や友人の死、 定年退職、他者からの老人扱いなど、「社会的なできごとや経験」があります。 このような老性自覚は、「老い」にネガティブな意味だけでなく、ポジティブな 意味も感じていた時代には、当たり前のこととして、自然に受け入れられていた のかもしれません。しかし今は、そうではありません。第1章で述べたとおり、 現代人は老いを感じると、暦年齢を主観年齢に合わせるべく、アンチエイジング に励みます。また、身体の状態も75 歳〜80歳ぐらいまであまり下がらずにきて、 最後の数年でガックと落ちるのが今の老人です。日本人の場合、介護が必要に なるのは平均して寿命の1割、7年間か8年間程度なのです。つまり現代の日本人 には、極端にいえば老年期がなく、壮年期のあと直ぐに死と向かい合う時期が やってくるのです。このことは「死に対する準備ができない」ことを意味します。 老性自覚を自然に受け入れ、心も体も徐々に老いていった時代には、 自身が老人になることや死ぬことを、自然に受け入られたのだと思います。≫ ▼ 人は脳卒中や心臓発作などで病院に運び込まれたり、死に直面する病気に 直面し逃げ場のない状態に追い込まれた時や、自信を失ったときにガックと 老いるのである。老人は自分が失敗したことで自信を失うのではなく、周囲が、 それを繰り返し指摘することで生きる気力を失うことが多い。だから周囲は、 これに気づく必要があるが、現実は甘くはない。少くとも服装と言葉と運動量は 注意しておく必要がある。「一年後は無いかもしれない!」を常に意識しているが ・・それでも一期一会の気持が甘くなる。仏壇に祖父の遺影があるが、私より 10歳若い57歳時だが、80歳近くに見える。目先を精一杯生きるしか ないが、果たして死に際、冷静でいられるのだろうか? 充分生きたので静かに逝きたいが、所詮、無理。 ・・・・・・ 3804, iPadを買った 2011年08月25日(木) タブレットPC、来年春のiPad3が出てから買おうかどうか迷っていたが、 思いたったが吉日で、三日前に購入。去年から八月に買うと決めていたが、 この春先の騒動で、それどころではなかった。ここで気持ちも落ち着いて きたことと、「iPadバカ」というタイトルの本を読んだのがキッカケとなった。 そこで実際に手に取ると、成るほど面白い。感想として、これはモバイル携帯 が大きくなったというより、無線のタッチ式タブレットパソコン。 パソコンでゲームをしたことは皆無だが、今度はゲームなどソフトを ダウンロードして、使いこなしてみたい。タブレット(バインダー)で 持ち運びが簡単で、無線であることが、これまでと違った感覚。ベッドや車内 などで、気楽にウェブ上の新聞やニュース、ブログなどを見ることができる。 パソコンの前に座り、電源をオン、ヤフーのHPにアクセス・・ 等々を、 タッチだけで出来るので手軽にネット世界に入れる。しかも板状で、何処へ でも持っていける。 まだ使い始めて数日なので、門前から一歩を踏み込んだ ばかりだが、これは日常の必需品になる。初期投資がゼロ円、ランニング・ コストが5千円が高いか安いかは、その人によるだろうが、新聞を止めて 少し生活を切り詰めれば何とかなる?少し重いのが気がかり。あとは本を 自動的にめくり、スキャンしてくれる器械でも出現すれば良いが。 新聞・雑誌がタブレット式パソコンなどの端末の出現で淘汰されるといわれて いるが、実際に手元に使ってみて、その流れになると確信。先日、近くの ステーキチェーンでランチの写真を撮っていたら、フロアーの女性が来て、 「写真を何に使うのですか?」と、聞かれた。(HPに写真が多く掲載されて いるので、競合店の視察とも思ってもいないはず)「ブログに、気に入った ランチを時々載せているので、これも」と答ると、暫くして再びやって来て、 「店長がブログを見たいので、ブログ名を教えてもらえますか」という。 少し躊躇したが、教えたところ、厨房の辺りから、「出てきた出てきた」 と小さな声。モバイル携帯で早速、何人かで見ているようだった。 そういう時代になったのだ。 薄型タブレット、無線、ツイッターなどで、 誰でも直ぐに情報が繋がると、現実社会の上にネット社会が覆いかぶさる 時代が現実に、こういうカタチでやってきた。 面白い時代である。
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2016年08月24日(水)
<「女はギャップ」名越康文 (著)> * 女の鎧はプライド 〜テーマから離れ、女性の心根を、私の持論で論じてみる。 さてお立会い!〜 ≪「男はギャップ」という切り口で、「若い女性の心の鎧」を脱がせるには、 < 気楽に褒める、安心感を持たせ、優しくすること、身方になること。> 美人ほど、プライドを満足させる言葉や態度で表して欲しいようだ。 鎧を堅くするのは、< 下ネタと、女性蔑視と、嫌らしい視線と気持ち。> 「自分は特別な存在」と心の奥で信じて疑わない。 つくづく思うのは世の中、 不平等に出来ていること。 女性は、価値が外形で決まるから複雑になる。 男としての第一歩は、センスと美貌を褒めること。簡単そうだが、タイミング が難しい。更に、言葉以前に好意を持つこと。 これだけは簡単! そのためには、気持ちが自由であること。 世の中、「不平等で、不自由で、憎しみで満ちている。」その別名が「世間」。 特に、女子供には、強い。 それから解き離れるには、心が、自由で、平等で、 博愛を求めてなくては・・ 自由を求めれば、平等と博愛が希薄になり、 平等を求めれば、自由と博愛が犠牲になる。 博愛を求めれば、自由と、平等のバランスが崩れる。 女の鎧はプライド。このたった一つの拠りどころが、最後の砦。 特に若い時は、自尊心が異常に強い。褒め言葉は、その確認のため、 絶対に必要なこと。ところが、それが意外と少ない。だからこそ、 軽く褒めてやればよい。 まず、一人あたり3回。それがベース。 女性の気持ちをコントロール出来れば、世界を支配できるという。 それほど、複雑怪奇で、得体の知れないのが女心。女性はシンデレラ・ コンプレックスと、ファザー・コンプレックスがベースにある。 現状の世界から、外に連出してくれる相手が欲しいのである。 これは結婚した後も、心の底で燻っているが、その人は現れない。 で、最後は、諦めで、思いの他の人と妥協して、結婚と相成る。 旦那として姉たちの中で一番条件は揃っている姉の一人が、結婚10年も した頃、『今でも、王子様が白馬に乗って迎えに来てくれると思っている』 と、のたまったのを聞いて、思わず顔を凝視したことがあった。 女性にかかわらず、人間は、それぞれが、小さな殻の中で、窒息しそうな 殻の中で、必死に息をしようと蠢いている存在ということ。 ヨガに週3〜4回、 4年半に亘って参加しているが、これは、一時でも、人間の身体に押込まれた 魂を開放しようとする試みでもある。プライドは大事だが、それに囚われる のも、自分を不自由にする。<「掃溜めに鶴」の私。どうすれば開放されるの> が、おんな心の偽らざる本音だろう。 この妄想から、いつ開放されるのか?≫ ▼ 以上! ・・・・・・ 5274,クオリア再構築 ー① 2015年08月23日(日) ークオリア再構築〜島田雅彦:茂木健一郎、対談集ー 森の生活(現役)からサバンナ(御隠居)に移動して、過去を振り返ると、 分岐点の判断に対しての後悔が出てくる。現場では、取り返しのきかない ことや、逆に適切な判断などが、思いやられる。 しかし、現在の私は、 その多くの過ち、成功の結果の現れ。だからこそ面白い。鋭い対話集である。 * 取り返しのつかないことやってしまう現場 ー島田雅彦 ≪ たった一度の過ちが運命を大きく左右する。 タイムマシンで原始時代に出かけ、美しい花を一輪摘んで、現代に戻ったら、 世界は滅びていた、という話があるが、人生も同じだとしたら、身がすくむ。 過去を振り返る時、いくつもの転機があったことに思い至る。たとえば、 妻に浮気がばれた夫は、あの時、携帯電話を机の上に置いておかなかったら、 隠し通せたのに、と考える。大きな契約を逃したビジネスマンは、あの時、 話題を政治に振らなければよかった、と後悔する。事故に巻き込まれた人は、 あの時一本早い電車に乗っていれば、避けられた、と嘆く。 しかし、誰もが占い師ではないのだから、今この瞬間の行為があとで取り返し のつかない事態になると予測することはできない。運命は刻刻変わるので、 その瞬間に正しい未来予測を立てても、五秒後には変わる。まさに、一歩、 一歩が命懸けである。占い師を過信するものは痛い目に遭う、と相場は 決まっている。細木数子もそれを認めるだろう。 ともあれ、時間は無情に先に進む。 迷っている暇はない。 人も歩けば、過ちを犯す。 だが、諦めを知る人には救いもある。 人生にはオプションがあって、挫折すなわち死ではない。 凡庸な人生を振り返る者より恥多き人生を振り返る者の方の回想は甘い。 輝ける栄光の人生には同じだけ恥に満ちている。英雄も凡人も今際の際 では平等だが、凡人にはこんな思いもある。 どうせ滅びるんだから、もっと過ちを犯しておくんだった。 ワルハラの城は炎上し、ライン川は氾濫する。 きっかけはスワッピングと裏切られた妻のヒステリー。 戦争も革命もそのきっかけは感情のもつれだったり、指導者の勘違いだったり。 英雄がしゃしゃり出ようが、凡人がのらくらしようが、歴史は痛くも痒くもない。 愚か者が英雄になり、売れない画家が独裁者になり、アル中の狂信者が大統領に なり、田舎のモテない男が億万長者になるのだから、歴史は長い目で見れば、 万人に平等だ。≫ ▼「輝ける栄光の人生には同じだけ恥に満ちている」が、 「暗い凡庸の人生にも、多くの光が満ちている」。凡庸の人生も、 輝ける人生も、振り返ってみれば、遠くから見れば、砂利の一つでしかない。 とはいえ、人生は生きているうちにある。 ・・・・・・ 4909,世界の美しさをひとつでも多く見つけたい ー3 2014年08月23日(土) 『世界の美しいさを一つでも多く見つけたい』石井光太著 * 「小さな神様から、小さな物語へ」 著者は、東北震災の地で、苦しんでいる被災民それぞれの「小さな物語」 を見つけ出す。起こってしまった現実に対し、自分を納得させる物語でしか 救われないのである。 ーその辺から(P222)よりー ≪ 「私は、夫が家にいた私を心配してもどってこようとして被災したのだと 思っでいます。夫は私を助けようと命を落としたのだと考えたいのです。 消防団員からすれば、「町のために死んだ」と考えた方が死を受け入れやすい はずです。しかし、奥さんからすればそう考えるより、「自分を助けようと 死んだのだ」と思った方がどこか納得できる。「小さな物語」が落としどころ となって前を向くことができるようになるのです。 ―夫は町のために死んだのではない。自分を助けるために家に帰ろうとし 流されてしまったんだ。私は彼女がそう自分に言い聞かせながら生きていこう とする姿を見て、こみ上げる感情を抑えきれなくなった。彼女にとって、 この物語がどれだけ大切なものであるか。それは闇に閉ざされた海に灯る灯台の ようなものです。この光があるからこそ、彼女は闇の中を進んでいけるのです。≫ ▼ 数ヶ月かけ書いてきたー「事業人生を決心して45年の」の語り直しーが、 これに近い。書くべきことでないが、自らを保つため書いてきた。いや、 このブログが、毎日の「小さな物語」。「死んで3日も経てば、300年前に死んだ と同じこと」というが、書き残こせば、痕跡になる。成るほどブログは墓場。 毎朝、過去の10年以上の同月同日の文章に目を通すが、これは過去の自分自身 への墓参りでもある。 ・・・・・・ 4542, 閑話小題 ー種銭の話 ー3 2013年08月23日(金) * 種銭は、まず一億が目安 日経新聞の『私の履歴書』で、誰かは忘れたが、「事業の種銭は一億円。 そして次は三億。何はともあれ、その金額を用意すること。」と語っていた 言葉が記憶に残っている。20数年前のことだが、その間にデフレもあり現在 でも通じる金額。「富裕層=ミリオネア」が金融資産1億以上というから、 これがロットしての目安のラインとみてよい。ミリオネアが、世界では1千万。 日本で190万人が存在するというから、一世帯あたり2・46人とすると、467万人、 総人口1億2600人として、37世帯に一軒が1億円の現金を持っていることになる。 「40軒弱の世帯が一億の現金を、その70倍の2700世帯に一軒が10億の現金を 持っている」と、家内の反応をみたら、「そんなにいるはずがない!」と 取合わない。 地方の最もマイナーの経済地域にいることもあるが、大学の 友人を見ると、有り得ること・・ 33年前の私の創業時の手持ち金額が1億。手持ちの土地が1億で、合計2億。 それに1億8千の借入で、総計3億8千が、最初のホテルの投資額。これが創業 としてのロットとすると、こんなもの。 ホテルは創業は華々しいが、一度、 投資をすると20年〜30年かけ回収する地味な装置産業。結果からして、10年を 節目で売却、転身すべきであった。その辺りが私の限界である。事業年齢から みて30年経過後の老衰死。 残ったのは、家内名義の自宅と、家内名義の 幾ばくかの預金と、何とか人並みに過ごせる?二人分の厚生年金分。 子供が本気で事業を望めば、自宅を売却して何とか・・ だが、子供も家内 にも、「家のために」「自主独立のため独立」とかいう気が全くない。 それより世界恐慌の本番に向け、下手に事業などしない方が得策。ところで、 100億、いや10億の現金があったら、何をしたいか? 今さら、何もない! 50歳代までに遣り尽くした感があるので、今さらハワイかシンガポールへの 移住するのも面倒。京都か、軽井沢近辺に住みたいとも思わない。 あとは人生をスキップしながら、適当に生きていければ充分。 世界恐慌の最中、衰退する地方も面白いと思えばよい。
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2016年08月23日(火)
<「女はギャップ」名越康文 (著)> * 男の鎧とは 図書館の返却コーナーで見つけた本。 著者のいう「男って愚かで臆病で どうしようもなく勝手な生き物」、は本当。 一生、抱え込む可能性があれば、 臆病にもなって当然。 人によるが、8割は、そうだろう。 男女に関わらず、 不特定多数の男性に軽く声をかけた結果が、好かれ、モテるってこと。 「まえがき」にある、<多くの女性がこう嘆きます。 「女から見るとブサイクなアフォ女がモテたり超美人なのに彼氏がいない人 がいる。なぜ?」の疑問に、男は女を「顔がキレイだから」「洋服のセンスが よいから」「お金をもっているから」「セックスしたいから」好きになるわけ ではない。声をかけられた相手にしか、反応できないため。 男は「臆病と気遣い」を、鎧に生きてます。この鎧をはがしてくれる女性たち がモテルわけ。独身時代の女の職場で知ったことは、自信があるのだろう、 美人系の2割が、何事にも積極的で、青春を謳歌していたようだ。 (内容紹介) 「彼氏のいない性格もよい美人」と「アホでもモテるブサイク」。 この差はどうして生まれるのか? それは男の臆病と気遣いの鎧を上手にはがす 「女のギャップ」に答えがあった。人に愛されるためには、美貌もマナーも媚も 必要ありません。心が楽になる恋愛のカタチを、精神科医がレクチャーする。 ▼ この本の冒頭で、図表で、男女別の250人に対するアンケートをある。 ・男性250人に、あなたは「臆病な男」ですか?に対し、65%が「はい」と答え。 ・女性250人に「臆病は男」が、嫌いですか? に、64%が「はい」と答える。 臆病には、男からすると慎重が含まれ、女性からすれば「私を守ってくれない」 が含まれる。このミスマッチを早々、理解した女性に多くの福がくる。 「男の鎧の脱がし方」が、実際のテーマである。そのためは、笑い、質素に、 気楽に、カジュアルであること。 要するにコンビニ、ファーストフードの 店員のマニュアルどおりであれば良いことになる。 手軽で気楽に、清潔感が あって、安価で、笑顔で・・ 大衆食堂よりは、若い男には遥かに良いはず。
・・・・・・ 3802, 哲学人 ー� 2011年08月23日(火) * 驚きを忘れた人々 (P/29より) 【 あらゆる意味とあらゆる目的がこの世界のなかにあリ、価値と道徳は人間に よってつくられる、つまり、価値と道徳は社会的・歴史的に形成されるのである。 真実はミステリアスであるとの意見を『彼ら』は理解できず、それゆえ人間の 経験の意味するところは私たちの理解を超えているのかもしれなといった意見を、 まわりくどい戯れ言(その正体はやはり宗教的なもの)とみなした。 私にとってこの態度のどこがいちばんなじみにくく、理解しがたかったというと、 それは私たちが存在していることに、というより、なんらかのものが存在して いることに驚異(あらゆるものが奇跡にほかならないということ)を感じる 感覚が欠けているという点である。 結局のところ、深く考えなくても、 子どもくらいの思考力さえあれば、私たちの経験のきわめて一般的かつ基本的な 特徴すら私たちは自分では気づいて当然なのに、私がいま述べているような人々は その点を見抜けなかったらしい。ある種の常識的なものの見方がほぼ正しいという ことを自明だととらえているようだが、私にとって自明だったのは 「常識は正しくない」ということだった。あっという間に不可解さと自己矛盾の 泥沼に嵌ってしまうからである。さらに正直に言うと、「『彼ら』は常識的な 世界観を否定することをばかげているとみなしたけれども、私からすれば、 それを容認することこそばかげていた。彼らの見解は、その基盤を顧みない あいだしかもちこたえ代物だった。はなはだ浅薄であったばかりか、支えとなる ものはなく、ぽっかりと宙に浮いていたのである。『彼ら』の見解の根本を 問いただしても、そうした疑問はことごとく退屈で的はずれなものとして 退けられた。世界や経験のさまざまな基本的特徴は、人間の推理力ではとうてい 理解できそうにないという事実に注意を向けようとすると、彼らはこの事実を 逆手にとって、問題を提起することを封じこめた。彼らの望みは、理解できる 事物の領域に自分の人生を閉じこめることだった。最初に挙げたクルーブと比べ ると、わずかながら深遠で批判的でもあったが、結局、両者の態度には多くの 共通点があったのである。大人になるにつれて、世界にまつわる驚異の念にひたり、 世界が差し出す解決できそうにない問題(とくに、時間、空間、物体の知覚、 物体の本質などに関する問題)にのめりこんでいったおかげで、私はまわりの 人たちからやや孤立することになった。こうした問題を語りあえる相手が 見つからなかっただけではない。そんな問題をもち出せば変人扱いされかねない ことを思い知らされたのである。人づきあいをしなかったわけではなく、 人生のほかの局面ではとても社交的な人間だった。昔から友人はいたし、 17歳になって恋愛もした。 パーティが大好きで、熱烈な音楽愛好家にして、 芝居通でもあった。それでも、経験のきわめて形而上学的な次元に心を奪われて いることは、たとえ日々そうした問題に取リ岨んでいたとしても伏せておくべきだ と知った。そんなふうに孤独感を覚えながらも、この問題に取り組んだのは、 なんといってもこの問題が圧倒的に重要であったからだ。私たちの本質や、 私たちが暮らしている世界の本質にとって根本的であるのに、こうした問題に 何故誰も魅了されないのか理解できなかった。頭の良い人なのに、何よりも 重大な問題に暗黙のうちに禁じられているには、何とも奇妙に思われた。 】 ▼ ここで、マギーは「 私にとって自明だったのは、常識は正しくない ということだった。あっという間に不可解さと自己矛盾の泥沼に嵌ってしまう からである。さらに正直に言うと、彼らは常識的な世界観を否定することを ばかげているとみなしたけれども、私からすれば、それを容認することこそ ばかげていた。彼らの見解は、その基盤を顧みないあいだしかもちこたえ 代物だった。」と、述べている。常識は、殆ど正しくないことは、今さらだが、 あえて事を荒立てることもない。私も常識とやらは、ほぼ間違えていると、 この年齢で実感する。考えてみれば「あの人は常識人」ほど侮蔑の言葉はない。 大部分である常識人のいうことを、まともに聞いてきた人生、何だったのだろう。 ・・・・・・・ 3437, 64歳の現時点で、感じること! ー2 2010年08月23日(月) * あと5ヶ月で65歳になるが 65年の人生を振り返ると、月並みだが長いような短いような感じだが、 決して長くはない。アッという間である。家庭に恵まれていたし、時代背景にも 恵まれていた。 満足度は70、いや80点である。明日の金が無くて呆然とした ことも無かったし、人間関係で悩むことも比較的少なかった。また事業を四十年 近く、やれたことが良かった。また装置産業を選択したため、自由時間に恵まれた のが良かった。好きな秘境ツアーも、私の環境=条件内では最大限に楽しむことが できた。 好きな本も充分に読むことができた。 好きな箱物(ビル)造りも、 小規模だが増築を含めると8棟を立ち上げることができた。もっと事業を大きく できたチャンスがあったが、恐慌になった現在、それが良かったかどうか。 第二次世界大戦の終了から、米ソの対立、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中国の 文化革命、そして、ソ連と東欧の崩壊、日本の高度成長、バブルと、崩壊、 そして失われた20年という長期停滞。ニューヨークの9・11テロと、 アフガン・イラク戦争。そして、極めつけがアメリカ発の大恐慌である。 それが今後、10〜20年と色いろなカタチで、20世紀的なものや、文化の 破壊がすすむ。65年の人生で、半分以上は成長期の時代を味わってきた。 特に20代、30歳代は、高度成長期にあたっていた。もう日本が、これだけの 右上がりに成長を謳歌する時代は二度とこない。そうこう考えると本当に良い 時代背景だった。情報化社会の到来で、劇的変化を始めた時代の入口を生きている。 その変化は想像を遥かに超えている。毎日が驚きと、感動と、おののきの日々。 それにしても知らないことが多すぎる。 ・・・・・・・ 3062,階級社会だと! −2 2009年08月23日(日) 上流階級?の人が落ちぶれた時に、階級の存在をシビアに知ることになる。 その時のハビトゥス(その人の習慣をつくりあげている文化構造)の崩壊の プロセスを身近で何人か見てきた。その崩壊は人間性の崩壊になる。 階級社会にとって必要なことは、その入れ替えの弾力性である。弾力性が 無くなれば階級社会が自滅することを経験的に知っているからである。 時間軸の長短から考えれば誰もが成上がりでしかない。イギリスは階級制度 のハッキリした国であるが、その入れ替わりには長年の経験上、当然のように 受け入れるシステムになっている。新しい価値をつくりあげれば、その価値 の創造者として認める。日本でも明治時代の伝統で、家柄より学歴を優先する 社会的システムができている。日本の最も優れた文化資産である。 (字数制限のためカット 2011年8月23日) ・・・・・・・・・ 2697, 散歩について 2008年08月23日(土) 散歩の習慣と効用については何度か書いてきた。1月から3月半ばを除けば 毎朝、豪雨でない限り歩いている。もう25年ほどになる。年々少しずつだが 歩数は減っているが、それでも毎朝一時間弱は歩く。 日本人の歩行は、 この三十年で激減しているという。30年前で7000歩が現在では 6000歩弱に、車通勤では、4000歩も歩かない。江戸時代には日本には 散歩という概念がなかった。車がないので、何処に行くのにも歩いていたから、 敢えて歩く必要も無かったようだ。それでも、現代人と比べると3倍から5倍は 歩いていたという。西欧人のように、「楽しみのための目的なしの歩き」に名前 を散歩と名をつけたのは、勝海舟であった。氷川清話には、散歩の話がところ どころ出てくる。散歩の語源は、漢方の言葉で、漢方の内服薬を飲んだあと、 その薬を早く吸収させるため歩くことを意味していた。勝海舟は、外国人が 生活の中に散歩を取り入れているのを見て、心身の健康の効用を看破した。 私にとって、散歩のない日々は考えられないほど、日常生活の一部になっている。 大雨で歩かなかった翌日など、身体から毒素(恐らく活性酸素だろう)が抜けて いくのがわかる。それと、脳の活動が活発になるのも分かる。これを続けて いると鬱病などなる訳がない。早朝に、陽光にあたりながら、鳥の声と、川の せせらぎの音を聞きながら、深呼吸をして歩いていれば、マイナス思考など 出ようがない。最近はiPodでアルファー波のタップリ入った音楽を聴く習慣も 取り入れた。哲学の小道が京都になるというが、決まった道を、他のことを意識 しないですむ道という。ソクラテスではないが、プラトンなどと問答しながら 歩いたのは、脳が活性化するためである。散歩を健康のためとか、考えるため、 というのでは長続きはしない。あくまで楽しい日課の一つとして取り入れて、 スキップするような気持ちで歩くことだ。最近80歳過ぎの少し痴呆症の入った 年配の人が散歩をしている。道に立って、来る人来る人に手を上げて親しそうに 話しかけている。 (字数制限のためカット 2012年8月23日)
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2016年08月22日(月)
<『かわいい自分には旅させよ』浅田次郎著> * オヤジのためのラスベガス 直木賞作家の浅田次郎がラスベガスに嵌り、その内実を書いた内容。 一度、行ってみたかった都市。 数年前に、グランドキャニオン、ヨセミテ、 イエローストーンなど大自然を 楽しむ『アメリカ西海岸国立公園の旅』。 大自然のほかに、ラスベガス・サンフランシスコ などのコース。 ところが出発前日、公務員ストで、急遽、中止のため断念したことがあった。 映画でラスベガスを舞台に多くの場面を見てきたが・・ ≪ ラスベガスのカジノはデカい。「無限」と表現してもいいくらいである。 たとえば今回の取材で協力して下さった「MGMグランド」一つを例にとっても、 総面積4777坪、ゲームテーブル150台、ゲームマシン3073台、だそうであるから、 「見渡す限りの鉄火場」と言ってよかろう。 この種のメガホテルが、 ブルヴァードを挟んでみっしりと建ち並んでいる。この規模はまさに「無限」。 日本人の視野でこれを小さくしてはいけない。常々思うのだが、日本人 ギャンブラーはたいはてい狭い場所に嵌まっている。毎日を旅打ちの気分で、 カジノからカジノへとさすらうのがラスベガスの醍醐味である。 ゲームの種類はあまたあるが、最もラスベガス的といえぱ、やはりマシン であろう。ルーレットやブラックジャックは世界中どこのカジノに行っても 同様に遊べるが、スロットやポーカーマシンを打ち倒すとなれば、規模のある ラスベガスでなければならない。そうした意味から、私は同行者にはたいてい マシンを勧めることにしている。レーティングさえ守っていれば、あんがい 怪我が少いのもこれだからである。 日本人的なレーティングといえば、25セント台、もしくは1ドル台であろうか。 ただし上限は一勝負3000ドルという怪物まであって、こうなると一時間で億の 金が動く。神域のごときハイリミット・エリアでは、このスーパーマシンの前に 座って淡々とゲームを続けるハイローラーの姿を拝むことができる。見ている だけで有難い。 ヨーロッパのカジノではテーブルに根を生やしている私も、ラスベガスでは ほとんどマシン・ギャンブラーである。十年前はおそるおそる1ドルマシンから デビューしたのだが、このごろではハイリミット・エリアの常連になって、 めでたく宿泊代も飲み食いもタダになり、空港までは送迎のリムジンが付く ようになった。 常宿はかつて「ベラッジォ」だったのだが、数年前に 「ヴェネッィアン」に鞍替えした。日本人ギャンブラーが比較的少く、 使い勝手もサービスもよいホテルである。≫ ▼ 賭け事に向いてない私にとって、異次元の世界の話。だからこそ面白い。 日本では、コンビニの売上高より多いと言われているパチンコ店が、郊外に ある。韓国も日本から上陸したパチンコ店も、その熱狂ぶりに、禁止された。 ラスベガスといえば、『ハスラー』など、多くの映画の舞台になっている。
・・・・・・ 5273,「読書の腕前」 ー� 2015年08月22日(土) 「読書の腕前」ー� 岡崎武志著 ー 読書日記 〜 * 本は「即効性のない」メディア 倉庫内の書棚で見つけて再読しているが、HP内の検索によると、 2008年1月31日に一回だけ、書評を書いていた。(後にコピー) 当時、熟読はしてなかったことは、読書日記が一回で終わっていた ことでわかるが、この本、改めて精読すると、なかなかの内容。 ここで、著者は「人間の土台は、『読書』がつくる」というが・・ それにしても、半世紀以上の読書を続けてきた割に、人間としての土台が、 軟弱なのは、20歳までの読書の絶対量が、あまりに少なかったためと、 自覚をしている。 〜その辺りから抜粋〜 ≪ 本というのはじわじわ効いてくる。あるいはそのときには気づかなくても、 後になって考えると、ちゃんと効果があった、とわかる。または、効き目が なくとも、いつのまに溶けて、静かに体内に吸収されてしまっている。 本とはそういうもの。だから、「本というのはもともと不便なもの」だと 北上はいう。 注目すべき発言である。ところが、現代は「不便」を嫌う。 効率や至便性を重んじて、極力「不便」を切り捨ててきた。 その点、本は、いやでも読む場所を固定し、そこに自分の肉体を釘付けにし、 いくばくかの時間を費やさなければならない。「読む」という意志も必要だ。 「不便」なことこのうえない。「そこに便利なものを求めてしまったら、 ものの中身が変質してしまうという怖さがあるでしょう」 北上は非常に重要な ことを、静かに主張している。なぜ、そんなに急ぐのか。なぜ、とりあえずの 結果や答えを求めようとするのか。仕事のことでは、大切なことかもしれない。 しかし、それは本の役目ではない。「あらすじ」だけ知って事足れりとした のでは、その本と出会うチャンスを永遠に放棄してしまったことになる。 本を読んでいる時間が惜しい? いや、ほんとうに惜しいのは、 読書の時間を失ってしまったことのほうだ。 『だれが「本」を殺すのか延長戦』で、デザイン評論家の柏木博と対談した 佐野は、こんなことを言っている。「幻想かもしれないけれど、僕は本という ものは、時間の流れを一瞬で止めることができるメディアだと思うんです」 われわれは否応なく時間によって動かされている。現代に生きる以上、 それから逃れることなどできない。画家のクレーは「人間という動物」を 「血でできた時計」と定義した。われわれはまるで、血という電池で動いて いる時計、なんだと。 読書はそんな時間の流れに逆らう行為である。 視覚と脳を通して、読めない人にとりては記号や模様にしかすぎない文字を、 速やかに解読し、心と身体になじませていく。こうした奇跡のような行為は、 文字通り、時間を忘れて没頭しなければできない。天体の運行も、この地球上 のすべての時計の針も止め、ひとところにじつとして、ただ本のなかを流れる 時間だけに身を委ねる。そんな至福の時間を放棄して、「あらすじ」だけで 答えを求めて何になるというのだろうか。 〜p18・19 ≫ ▼ 人間を、「血で出来た時計」とは、いい得て妙である。 大学に入るまでは、試験勉強に追われ?面白いと思える純粋な読書習慣は、 あまりに少なかったが、20歳・30歳代は、一日、2〜3時間、40歳代は4時間、 50・60歳代は5時間は、読書に時間を当てていたが、ノートや手帳に記録する 習慣がなかったことが悔やまれる。 50歳半ばから、この随想日記に書き残して きたが、それまで大学ノートに、せめて1〜2ページの読書録、備忘録を書いて いたら、格段に豊かな知識の相乗効果があったはず。知識の蓄積の量と質は、 直ぐに露出するから怖い。 〜つづく ―――― 2008年1月31日 「読書の腕前」ー� 面白そうなところを何箇所、書き写してみた。 なかなか含蓄のある読書論であり、何度も肯いてしまった。 ーー 川面に多くの舟が漂っている、私たちはひとりひとりが違う舟に乗って 流されている。中には錨を下ろしている舟がある。 川の流れを時の流れ、舟を人生にたとえたらいいだろうか。そして、 本を読んでいる時間は、動かぬ舟の中で、川の流れを感じるようなものだ。 川は永遠に流れていく。水がある限り、流れることをやめようとしない。 そんな悠久の流れを、ひととき止めたりを舟の中で感じる。 本を読むということは、そういうものだと思っている。 ―ー 寝床で読む、喫茶店で読む、電車で読む、バスで読む、食事中に読む、 トイレで読む、風呂で読む、眼が覚めている間中ずっと読む。 ーー 飯島耕一が 「何もつよい興味をもたないことは /不幸なことだ /ただ自らの内部を / 目を閉じてのぞきこんでいる。/ 何にも興味をもたなかったきみが / ある日/ ゴヤ のファーストネームが知りたくて/隣の部屋まで駈けていた。」 「生きるとは / ゴヤ のファーストネームを/ 知りたいと思うことだ」 ーー 読書に費やしたこれまでの膨大な時間を、もっと別の有意義なものに 置き換えられなかったのか。そんなふうに悔やんだことは一度もない。 一度もない、といま気づいたことに驚いている。 ほんとうに、一度もないのだ。そうして生きてきたのだ。 だから、明日からも同じように生きていく。 ー― 「本を読むことで得る大切な収穫の一つは、他者を知ることだと思います。」 色川武大 「読書の楽しみの一つは、私にとってこの他人を生きること、 他人になれる喜びかもしれない」 遠藤周作 「僕は本を読む労働のための忍耐力をつちかったのである」 大江健三郎 本は膨大な人間のモデルを提供してくれる。しかも、相手の忖度を気にせず、 思うまま、自由にそのモデルと触れ合うことができるのだ。 ーー 田辺聖子が読書論の中で、 「もし出世と引き換えに何をとるか、ということになったら、それは何か」と、 同年代の友人たちと、あるとき話題になった。さまざまな意見が飛び出した。 いい女房を持つ、硬骨に生きる、世間を捨てて山頭火になる・・。 しばらくして、誰かがしみじみ言ったことに、みんながうなる。 「出世せんでもええ、毎日読みたい本を読んでたのしく暮らせたらええなあ・・」 ^^^^^^ 以上だが、今のところ読書が人間にとって、一番良い習慣である。 最近はインターネットというトンデモナイ手段が出てきたが、 それでもジックリと他者と対話が出来るのは本である。この本も、直ぐに アマゾンの中古本を発注したが、まだまだ面白い箇所が多数ある。 バイ(´・ω・`)ノ ーつづく ・・・・・・ 2333, ホッファー −2 *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ! 4908,世界の美しさをひとつでも多く見つけたい ー2 2014年08月22日(金) 『世界の美しいさを一つでも多く見つけたい』石井光太著 * 小さな神様見つけ方〜� 相手の文脈で大切にしている神様を見出す! 人生は妄想によって生み出した「小さな神様」に頼って生きるしかない過酷 の旅でもある。それが過酷であるほど、しがみつくしかない。 宗教の原点が、そこにある。 ーその辺りから抜粋ー 《 ムンバイの売られたレンタルチャイルドでさえ、マフィアを心の拠り所 としている。これまでの旅で出会った人たちも同じでした。 たとえば、 ヨルダンのナイトクラブで会ったイラク人売春婦は男性客を不安に怯える自分 を支えてくれる大切な人と見なしていたし、バングラデシュの公園で暮らして いた少女は変質者の男性を一緒にいてやさしくしてくれる大人と見なしていた。 みんなそれぞれ闇の中で何かしら心の拠り所をつくり上げ、それにすがり つきながらがむしゃらに生きていたのです。人間は絶望の底につき落された時、 懸命に光を見出そうとします。それは、救いを求める人が神にすがる行為に 通じるものがあります。「貧困に生きる人々が苦しみの果てで生み出すのは 神様のようなものだ」といえるはずです。もちろん、ここでいうのはキリストや お釈迦様のような存在ではありません。教義を有する宗教における神ではない。 ただ、個入にとっての救い主という意味では、同じような存在であり、私は それを「小さな神様」と呼ぶ。マレーシアであった兄妹の彼女は、誕を垂れ流し、 会話もできないほどに精神を病んでしまっていた。そこで兄は妹を連れて祖国の スーダンを離れ、知り合いを頼ってマレーシアに辿り着いた。コタキナバルで、 兄は妹にリハビリを施していました。心の闇を吐き出すために絵を描かせ、 静かな公園へ連れて行って気晴らしをさせたりしていた。 私はそんな二人と 何度か話をしたのですが、妹が妙なことをいいだしたことがありました。 こんな話でした。「スーダンの故郷には、私のことを待ってくれているやさしい 人がいるの。兵隊さんなの。私は彼と結婚するつもり。だから、国に帰りたい」 どうやら彼女を拉致監禁した武装組織の兵士と婚約をしているということでした。 なぜ自分をつかまえてレイプをした側の男性とそんな関係になったのでしょうか。 兄はその話題について詳しく説明しようとしませんでした。ことの真相を知った のは、しばらく経った日のこと。その日、私たち三人が暮らしている安宿へ 赴きました、そこで兄から妹が語る「婚約者」について・・・ それは彼女が作り上げた妄想でした。(略)・・・そうやって生み出された 個人のごく小さな希望や幸福が「小さな神様」となる。私は他者を見つめる際に 大切なのは、相手がどんな小さな神様を抱いているかを知ることだと思います。 その人にとって希望だとか幸せだとかいったものは「小さな神様」に集約されます。 それを発見することが、その人の価値観に寄り添って物事を考えることにつながる。 ・・それでは、小さな神様を見つけるにはどうすればいいのでしょうか。 決して難しいことではありません。 一言で表せば、「自分の文脈で勝手な 価値観を押し付けるのではなく、相手の文脈で大切にしている物を探すこと」 その人が何を小さな神様と見立てるかには、きちんとした理由があります。 何かしらの文脈で小さな神様ができ上がっているのです。従って、その文脈で 考えさえすれば、ちゃんと小さな神様が何であるか、つまり何を幸せとして いるかが見えてくるはずなのです。》 ▼ いかなる惨状の中でも、必ず希望を見出して生き抜く人間の生命力、 そこには、惨状だからこそ、浮かび上がってくる小さな神がいる。 そこでは、世界がひっくり返るほどの感動、美しさが見えてくる。 それが、著者が伝えたいこと。 ところで、私の小さな神様は何だろう? ・・・・・・ 4541, 「ひとり」には、覚悟から生まれた強さがある ー3 2013年08月22日( * 宗教の伝統的な実践による心の治瞭 「ひとり達人のススメ」山折哲雄著 私が学生の頃、親戚が末期ガンと知らされ、その苦しみ恐怖から逃れるため 『写経』に没頭し亡くなっていった。この本で、死の恐怖を克服する実践に 『写経』と『散歩』を上げている。『散歩』には遍路や巡礼が含まれる。 早朝の散歩で、吐く息に身体の毒を、吸う息は大自然の霊気を入れ込む イメージすれば、身体に良いはずである。 ーまず、その辺りを抜粋ー 《 三十代で、絶食によってわが身体とは何かを考えるようになった私は、 体と心の関係に強い関心を持ち始めていました。そして四十代に入ると、さらに 興昧深い出会いが待っていたのです。さまざまな経緯があり、私は母校である 東北大学の文学部に宗教学の助教授として迎えられることになり、東京から東北 に戻りました。当時の母校の医学部には、最近亡くなられた鈴木仁一先生という 心療内科の助教授がいらしゃった。心の病がからんで、どの科でも回復の望めない 患者が、心療内科の鈴木先生のもとへ送られていました。彼は患音の心の病を治療 する、今でいう心身医療の専門家でした。その鈴木先生がやっていたのが絶食療法。 もともと戦前の東北大医学部では、女性のヒステリを治す治療法として絶食療法が 行われ、基礎が出来上がっていた。その診療法で女性のヒステリーの60%近くが 治ったという結果もある。先生は、その絶食療法を中心に治療している。ただ、 絶食療法は、誰でも有効というわけでない。どういう人が効くかというと、 意志の強い人だと、いっておられる。そこで思い浮かんだのが山頭火。 山頭火のような修行ができる人間というのは意志も意地も強かったはずです。 意志の弱い、普通の人は、なかなか絶食療法ができない。 私が「死ぬきは断食で死ぬよ」と言ったら、賛成する人もいるが、 「それは思った以上に大変なことだよ」と、反対する人もけっこういます。 やはり食を断つということは並大抵の覚悟ではできないのです。 それでは 意志の弱い人には、どういう治療をほどこすのかを尋ねると、「写経」という 方法あると先生言下に言われた。それから「散歩」とも。俗世の欲望を捨てる ための修行のひとつに「とそう」というものがあります。「行脚とそう」 ともいう。これは徒歩で修行のために諸国を遷ることです。お遍路も含めて 巡礼というものは、みんなこれに入るでしょう。けれども写経や散歩はいろんな レベルのものがあって誰にでもできるので、人それぞれに応じたことを薦めます。》 ▼ もうダメと悟ったら、断食を考える。無理なら、四国のお遍路に出るか、 身体が動ける範囲で近くを歩き回る。 天候の具合で、疲れて家に居るときは、 写経を書いて過ごす。それも終わりに近づいたら、点滴などを拒否し、可能な 限り、食を絶って、自然死を待つ。そのぐらいしか出来ないが、身内に今のうちに 伝えておくこと。 死に時には死ぬ覚悟が必要!以下の、去年の文章が丁度よい 内容である。老いの準備から、死に準備の移行である。 あと一年数ヶ月で「古希」になる。 ・・・・・・ 4166, 老年行動学 ー3 2012年08月22日(水) 「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一(著) * 長寿の人の共通点 ーわがままに生きる 「憎まれもの世にはばかる」ではないが、歳をとると因業になる。 先がないので抑えていた我がままが表だつ。 長寿の共通点が「わがまま」。 わがままと因業は紙一重。 ー その辺りをまとめてみた。 【 日本には100歳をこえる人は4万8千人いる。50年前には153人 しかいなかったというから300倍以上。10年前で1万人をこえたという から、僅か10年で5倍である。人間の寿命の限界は、フランス女性の122歳。 100歳以上の人に対し医学や遺伝子の様々な研究が行われていて、心理学研究 では、ある程度共通した性格ががわかっている。男性の場合は、性格が几帳面で、 自分を曲げないで、日課がほぼ決まっていて、生活がきちんとした人。 女性の場合は、明るくてわがまま。ちょっと強引だが、周囲の人を幸せにして くれる‘大阪のオバチャン’みたいの人。男女とも「わがまま」の人が長寿。 「自分勝手」とは、少し違うが、我が強い人である。「わがまま」の意味は、 「自分が決めたことを、自分の思うようにできている」で、誰かが元気がない時、 その人が喜びそうなことを、積極的に動く人。それは「自律できている」こと。 自律を保つことで幸福度を高く保っている人ということになる。アメリカの 心理学者が、面白い実験をした結果がある。 ≪ 三匹の犬を一緒につなぎ、電気ショックを与える。 一匹目は、電気ショック を与えたら、鼻でパネルを押すと電気ショックを 押すと止むようにし、二匹目は、一匹目が押した時に、電気ショックが止むが、 自分では何をしない。三匹目には何もしない。これを繰り返した後に、 それぞれを仕切に分けたボックスに入れて、電気ショックを与えると、 二匹目の犬は、すぐに飛び越えられる低い仕切りでも、うずくまっただけで、 逃げようとしなかった。この犬の状態を「学習性無力感」と呼ぶ ≫ 】 ▼ 何か勤め人根性が染み付いて、退職後に誰も指示しないため無気力になる 大方が二匹目の犬に近い? 身につまされる人が多いだろう。身近な人に似た ような人がいるが、人生は誰も同じようなもの? わがままな二代目か、婿取り 娘が果たして長生き?かというと、そうでもない。それぞれ気苦労がある。 ライフワークを続けること自体が、わがままになるが、10年20年が必要。 今からでも遅くはない。
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2016年08月21日(日)
<『かわいい自分には旅させよ』浅田次郎著> * 芸術とは ここで著者は、芸術について簡潔に述べている。ツアーの行き帰りの 主要都市(ロンドン、パリ、フィレンチェ、マドリッド)にある、美術館、 博物館で、世界的名画や美術品を見て周って、感動の蓄積が多く残っている。 それが自分を大きく変えていた。大自然の絶景の感動とは別に、美がその まま表現された芸術作品に同化しているうち、美への感動が、魂そのものを 高めてくれることを実感した。 芸術とは、本来、そういうものである。 ≪ 美しいものを美しいままに表現することが芸術。 それを「言葉」でなそうというのが文学。 さらに、それを「物語」という形式で表そうというものこそ、小説です。 理屈も何もいらない。そこに理屈を持ち込もうとしたから、芸術は退行した。 これは芸術の都に住むパリジャンの罪です。 医学が肉体の病を癒すように、芸術は心の憂いを除くためのものであると、 僕は信じています。だからこそ芸術は尊い。 芸術家がそうした本来の使命を忘れて芸術なるものを衒い始めたときから、 アニアックな、アカデミズムの一部に成り下がった。たとえば神が作り給う た天然のように、誰がどう見ても理屈抜きに美しいものの存在を、僕らは 見失おうとしているのではないでしょうか。 自然は美しい。もちろん、その自然の中の人間の営みも、僕はそれらを 小説として表現するにあたり最も直截的な感情表現である「ユーモア」と 「ペーソス」を用います。それが小説家としての僕の方法だと思うから。 僕には夢があります。 バチカンで、ルーブルで、フィレンチェで、僕は奇跡を見ました。 ミケランジェロは明らかに、古代芸術家を超えた。文明の進化とともに 衰弱する芸術家の宿命の中の、これは奇跡です。 彼が一本の鑿で、一個の大理石の塊にうがち出した奇跡を、僕は一本の 筆で、一枚の紙に書き表したい。限りない感動を、かけがえのない美を。≫ ▼ 美の中で、20歳前半の一瞬咲きほこった女性の美しさもナマモノ だからこその美しさがある。ただ、あまり話さない方が良いのが多いが。 女性だけでない、動物の美しさもある。花の美しさもある。誰が、設計 したのだろうか。美はバランスというが、美そのものを感じ取る感覚が 見る側に必要になる。これは質量を多くコナスことで磨かれ、高めることが 可能である。「人間は何のために生まれてきた?」の答えとは、 「大自然と、人間がつくり出した創造物に触れ、感動するため、生まれて きた!」である。心の憂いで覆われ濁った、「今、ここ、私」の目の汚れを 取り除くため芸術がある。セッカク貰った命、もっともっと、味わなくては!
・・・・・・ 5272,「エリック・ホッファー自伝」〜⑦ 『希望より勇気を』 2015年08月21日(金) 「エリック・ホッファー自伝」中本義彦訳 * ホッファーが生きた時代背景と、弱者 ホッファーは、自分の生きた時代背景と、そこに適応出来ない人々の 精神状態が、いかなるものか?を、自身をそこに置くことで詳細に観察した。 当時は、現在の断絶の時代に酷似しているようだ。情報機器を使いこなせない 中高年たちは、情報段差に呆然とするしかない。それでも、タブレット、 スマホの普及がフォローをしてはいるが。物理的な金銭に加え、現在は 情報格差の問題が加わっている。 ≪ ホッファーが分析の対象としたのは、何よりも同時代の「気質」であり、 そこに生きる人々の「精神状態」であった。近代人は、長きにわたって拘束 された神から逃れ、ようやく自由を手に入れたものの、今度は、 「かれ自身の魂の救済を、しかも四六時中、行なわねばならなくなった」。 自らに対して、そして社会に対して、自らの価値を日々証明し、自らの存在を 理由づけなければならなくなった。 これは容易ではないし、絶え間なく変化 する社会に生きる一個の人間にとっては途轍もない重荷である。 われわれは、往々にして、自分自身に満足できず、「自己自身と異なったもの」 になりたいと熱望する。そして、「真に欲していて、それを持つことができない ものの代用品」を追求して多忙をきわめる。好ましからざる自己から自分を 引ぎ離し、文字通り「心を亡くそう」と試みる。かくて、「人生のあらゆる 部門に熱狂の噴出がある」のであり、「社会組織そのものが、一般に、心の病 に冒されやすい、すぐ燃えやすい体質になってしまった」とホッファーは洞察。 本書に鮮やかに描かれているように、この簡潔で力強い分析の源泉は、 彼自身の浮浪者としての原初的な生活の中にあった。 「金がつきたらまた仕事に戻らなければならない」生活に自殺未遂をするほど うんざりしながらも、それを克服して「旅としての人生」を生き抜いていく ホッファー、その彼は、季節労働者キャンプでのささいな出来事から、 自分も他ならぬその一員の「社会に適応しえぬ者たち」に興味を抱き始める。 そして、彼ら固有の自己嫌悪が放出する「生存競争よりもはるかに強い エネルギー」こそが、人間の運命を形作るうえで支配的な役割を果たしている のであり、「弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する」ことが、 人間の独自性であるという洞察に到達するのである。 ここで本書の歴史的な背景に少し目を転じてみると、ホッファーは 路上にあった1930年のカリフォルニアには、浮浪者がかなりたくさんいた。 F・L・アレンの『ジンス・イエズタディ』(1939年)が記している、その原因 のひとつは、テキサス州からカナダ国境から大平原地帯で起きた異常気象。 1933年から二年余りにもわたって無数の嵐が起こり、過度の放牧で荒廃した 広大な地域で大量の砂が吹き上げられた。大恐慌ですでに苦境にあった。 この「黒い大吹雪」と大洪水によって、決定的な打撃を受ける。 農業の崩壊は、町を衰退させ、住民は、「約束の地」西部へと逃れる。 そして、ホッファーと同年生まれのスタインベックが『怒りのぶどう』 (1939年)で鮮烈に描いたあの苦難を経験したのである。 「普通の安定した地位に留まることができず、社会の下水路へ押し流された人々」、 「居心地のよい家を捨てて荒野に向かった者たち」こうした人々の内面に欝屈する 「こんなはずではない」という不満と「別の人間になりたい」という変身願望を、 ホッファーは折に触れて感じていたのかもしれない。そして、自分の内面を 厳しく見つめ、自分が存在する歴史的世界を認識することによってこそ、 あの近代人の「情熱的な精神状態」を見抜くことができたのであろう。 人間の抱く"情熱"の現実を見ようとしたホッファーは、常にその両面性を 指摘した思索者でもあった。われわれは、まずもって、情熱的な精神を 「創造の新秩序の発生」として見なければならない。情熱のない人間など、 その独自性を放棄した存在に等しい。しかし、同時に、それが「退行化」 そして死をも辞さない狂信になることに絶えず警戒を怠ってはならない。 この世の悪を絶滅しようとする宗教的、民族的・イデオロギー的な熱狂の 罠に陥ってはならない。そもそも「山を動かす技術があるところでは、 山を動かす信仰は要らない」のである。 情熱を飼いならし、加工し、創造的なカへと変容させること ーそれは、 きわめて困難な作業である。「抵抗しがたい渇望」は突然襲ってくるもの。 しかし、われわれは、「希望」より「勇気」をもって、それをやり抜かねば ならないのだとホッファーは訴える。自己欺隔なくして希望はないが、勇気は 理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は 長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それを やり遂げるには勇気がいる。闘いに勝ち、大陸を耕し、国を建設するには、 勇気が必要だ。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の 存在になるのである。≫ ▼ 考えさせられる内容である。時代に合わせ、自分を変えてるリスクと勇気 こそが激動の世に求められる。それは常に不安定が伴うが、それを観察し、 楽しめる精神の強さが求められる。現在は、「情報革命による断絶の時代」。 『勇気』こそが、時代を切開くキーワード。人生を創造していく勇気!である。 ・・・・・・ 4907,ホントに大事なお金の話 −5 2014年08月21日(木) * 真のお金持ちは紙袋を持つ 元ネタは、プレジデントオンラインー2010年8月頃の記事 『なぜお金持ちは紙袋を持つのか?』 ー面白いと思った部分の要約をするとー ◎ お金持ちはなぜ紙袋を好むのか? 彼らは紙袋で移動してもOKだからだ。 運転手付きの車、タクシー移動とドアtoドアで雨にも濡れない。 だから紙袋でも平気。必要なくなれば折りたたむことも、処分することも できる紙袋が、一番使い勝手がいい。 ◎「海外ではいい時計や靴がセレブの証だ」というが、本当のお金持ちに とって、それも無意味。なぜなら予約の際すでに彼らの身分は割れている。 お金持ちは決して粗雑に扱われないルートで予約するし、定宿は決まっている。 一流ホテルとなれば、常連の顧客の顔を覚えていないわけがない。安い時計に スーパーで買ったシャツでも、彼が歓待されるのはそういうわけがある。 ◎ ブランドショップにもいない。ものを買うなら知り合いから少しでも 安いものを買うのが基本。 ◎ さらにお金持ちは「ブラックカード」や「プラチナカード」も持たない。 「ゴールド」ですら必要ない。「年会費がバカ高くてもったいない、普通の カードで十分」。必要な局面ではコネがあるので優遇されるし、不必要な 場所で自分がお金持ちであることを、ことさら触れまわるのはリスクが大きい。 ◎ また彼らは絶対に見栄を張らない。元もと、「お金持ち」であることを人に 知らせる必要がない。ランチは1円まで割り勘。でも慈善事業に多額の寄付を している。使い切れないお金を持てる人は、それに振りまわされない独自の 価値観をしっかり持っている。見栄を張ると無駄な出費も多くなります。 本当のお金持ちは絶対に見栄を張らない ▼ ここで著者がいう本当の金持ちは、上の上の人たち。百億以上の資産を 持つ人たち。上の中といえば、純資産が10億以上。上の下が1〜2億。 上の下から上の中ギリギリが、その嫌らしさが現れ出てくる。知識同様、 その辺りの「似非」が金持ちを演じたがる!金持ちのラインは10億の現金か、 純資産である。 47年前の学生時代に、一ヶ月間の大名旅行をした時、 ここでいう大金持ち?の子弟が多くいた。 身なりからして違う人種。しかし お金には、非常に敏感で細かい。何気ないオシャレでブランド品をさり気なく 着こなしていた。見栄を張るのは一部の人たちのみで、開放的でフレンドリー。 漂う空気からして、それまでの友人とは違っていた。周囲の思惑など気にしない で、紙袋などを平気で、何処にでも持って行く。その紙袋が実にセンスが良いが。 こういう存在を身近で見る初めての機会だった。 当時、その段差を、さほど 意識はしなかったが、現在、考えると、上記の通り。 時おり海外ツアーで、それらしき人を見かけるが、まずユニクロを着ている ことを隠さない。アンダーとして割切っている。元もと隠す必要がない。 ブランド品を着ること自体、自分のセンスに自信がないため、ブランドで、 それを覆い隠すしかない。 TVドラマで、セレブ世界のドロドロした社会が 出てくるが、その世界を知らない人が演出したものとしか思えない。実際は、 あんなものではない。それぞれ独自の価値観を持って振り回されない人が殆ど。 この一連の経験から見えたのは、それぞれ独自の価値観の質の格差。 その視点の質は、隠せないようだ。 ・・・・・・ 4540, 「ひとり」には、覚悟から生まれた強さがある ー2 2013年08月21日(水) * TVが比較地獄をつくった 「ひとり達人のススメ」山折哲雄著 まずは、ひとりになれない人たち、B層の人たちの比較地獄の話。 自分の頭で考えることが出来ず、マスコミに流されていること自体、気づかない 人たち。ファッション、化粧、車、スマートフォンなどメーカーの比較戦略の 術中に嵌ってしまう。人間の性としてのコンプレックスこそが狙い目で刺激する。 ファッションのプロと称するオカマが、街頭で女性に声をかけ、服装のセンスを チェックするお笑いコーナーとか、健康チェック、英会話など番組が続く。 そのTVの弊害の結果、「ひとり」になれない比較、嫉妬地獄の罪人のような 群衆のひとりにされている。 ーその辺りを、抜粋するー 《 戦後の変化といえぽ、テレビ文化の波及もひとつ。家庭の娯楽の主役が ラジオからテレビへと移り変わり、映像が強大な影響力を持つようになりました。 テレビというのは視覚を重規したメディアです。そして、現代人は視覚を 重要視し、視覚に振りまわされるようになった。もちろん、人は基本的に、 朝起さてから夜寝るまで、目を開けています。たえず視覚を使い眼前にある 何ものかを見て、さまざま判断をしている。もし、ひとりが嫌いで、常に誰かと 一緒にいるとすると、どういうことが起きるのか。視覚は人間を比較に誘います。 この人は(自分より)いい服を着ている、あの人は(自分より)容姿が整っている… 視覚で判断すると、要望や才能、環境などの違いが歴然とします。そのことに 耐えられない人が多いはず。人間は平等、平等と教えられてきたにもかかわらず、 現実を見ると、何から何まで違う。だからひとりになれない人間、結局は比較 地獄に陥る。たえず他人と自分を比鮫せずにはいられない。比鮫して、自分が 劣っていても、現実はどうすることもでません。すると恨みがつのって、 「嫉妬地獄」に移行してしまいます。さらに批難や中傷、陰口の井戸端会議で、 自分より優れていると判断した人を引きずり下ろそうとする。このような、 群れの関係がしばしば陥りがちな「嫉妬地献」から身を守るためにも、 ひとりの時間は大切だと思うのです。 》 ▼ 私が地元に帰ってきて、まず決めたことは、学校関係以外の人間関係を 最小にすること。商業界とか、ライオンズとか銀行が主催する「何何会」 とかは、まさに比較地獄の世界。町内、寺の檀家衆、商店会とかには「ひとり」 になれないB層がC層を中心にした輪があって、住みやすい絆がある。 そう、NHK連続TV小説のコメディの東北の、あの街の人たち。実態は、 あれは地獄の針のむしろに座っているようなもの。都会人が思い抱いた地方の 理想郷、妄想である。地方経済は疲労困憊の結果、若者は都会に出ていくしか なくなっている。絆は、一人一人が確立されて出来るもの。その逆の弊害を TVが数十年かけて作り上げてしまった。それから逃れるためには、 ライフワークを持つしかない! それがA層とB層の境目の目安である。 それさえ持っていれば、比較とか嫉妬に陥ることが少なく済む。TVも、 シネマも、ネット、面白くなっている。これでは、比較材料の垂れ流しで 「ひとり」になれない人たちの嫉妬地獄の修羅場が、ますます拡大していく! 「和して同ぜず」なら良いが、「同じて、和せず」になる。アウトサイダーは、 「和せず同ぜず」になるが、インサイダーとして、何処かの高校の校是に 「和して同ぜず」があるが、「ひとり」が鍵になる。 ・・・・・・ 4165, 閑話小題 ー今年の熱さ対策 2012年08月21日(火) * 今年の熱さ対策 今年は当初は熱暑だった。しかし7月末辺りから暑さも収まってきたが 再び盆からぶり返してきた。ひと月前にミニサイズの扇風機二台を買ってきて、 居間と書斎に一台ずつ置き、これまでの古い扇風機と併用して使っている。 それにスーパーで売っていた「冷却ジェルパック首もとベルト」を3つを 冷凍庫で冷やし交互に使っている。これは冷たさが一時間しかもたないが、 冷却時間が三時間のため複数必要になる。 ところで今年の電力不足騒ぎ、 今のところ起きてない。問題は残暑のこれからになるが。クーラーは寝室の 就寝時間だけ入れて、居間では夕方の一時間ぐらい入れている。 夏場の電気料金が月に三万円、一日千円になる。 * 大手大橋にて 先週土曜日の早朝、何時ものようにポタリング(ミニ・サイクリング) の大手大橋で、ヒキチャリをしながら歩いていると、後ろから声をかけたれた。 車椅子に乗った隻手の男性で、恐らく交通事故で右腕を根元から切断、下半身 麻痺で自走式車椅子である。私の電動アシスト自転車に興味を持ち声をかけてきた。 電動アシスト自転車の良さを説明すると、自分の車椅子が電動切替え式で、 背後に電動モーターがついていて時速6キロという。何度か薄暗い中、かなりの スピードで走っているのを見たことがあった。人それぞれの運命と人生がある。 ところが昨日の朝、いつものコースの信濃川の土手を走行していると、 屋根つきの休憩所で、30歳前後の男女二人が、その電動車椅子を畳んでいた。 本人は不在で、まさか聞く訳もいかないで、遣りすごしたが。その前に何か (熱中症とか?)あったのだろう。ポタリングを始めて4年目になるが、 続けていると色いろある。そういえば、雀が少なくなった。去年の大雨で 河川敷の雑草地に水が使ったせいだろうか。燕も少なくなった。 多いのはカラスだけ。
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