堀井On-Line



5296,『自分を超える 5つの法』とは  〜『自分を超える法』ー③

2015年09月14日(月)

             ー『自分を超える法』ピーター・セイジ著ー
   * 『自分を超える 5つの法』とは
 自分の長期目標を掲げて、そのための宣言書で明文化をして、それに精進
していけば、日々、自分を超えることになる。そこに自ずと3C主義=
チャレンジ(挑戦)、チェンジ(変化)、コンペティション(闘い)が生じる。
 それは現役である限り続くが、楽しむことが出来るかどうかが鍵となる。
  〜その5つの法則とは
法則1: 成功の心理学(「人間の6つの欲求」こそが、人間の行動を突き動かす
  安定感のニーズ 多くの人は何かを求めるとき「安定感」を基準にしてしまう
法則2: お金のつくり方(お金持ちになるダントツの方法は「ビジネス」
  お金とは、「社会への貢献度」を示す指標 ほか)
法則3:リーダーシップを高める(「リーダーシップ」は育てたリーダー数で
  決まるリーダーシップを発揮するカギー 「基準を上げる」 ほか)
法則4:世界観をつくる(自分に「力を与える世界観」をつくり上げる
「成長」と「貢献」が世界観をパワフルにする ほか)
法則5:10倍強くなる文章術(すべての人にとって「文章を書くこと」は、
    最重要の項目である
  コピーライティングは「創造力を高めた状態」で行なおう ほか)
  ――
   * まずは、法則1:の「成功の心理学」より
「人間の6つの欲求」こそが、人間の行動を突き動かす。
  〜そのニーズ(欲求)とは
1、安定感のニーズ
 :多くの人は何かを決めるとき「安定感」を基準にしている。
2、不安定感のニーズ
 :人生の質は、あなたが居心地のよさを感じられる、不安定の量に
  正比例する。 行動のさなかでは、恐怖は消える。
3、重要感のニーズ
 :真の「重要感」を持った人とは、使命を帯びた偉人である。
4、愛とつながりのニーズ
 :すべての出発点は「自分が自分を十分に愛すること」である。
5、成長のニーズ 
 :すべての生物は、成長し自分以外のものに何らかの貢献をする。
 大きな「成長」を得るには、大きな「失敗」は不可欠である。
6、貢献のニーズ
 :「力(パワー)」とは、世の中に貢献したいという思いの強さに
 正比例して与えられる。
  〜法則1 のまとめ〜
◎ 人生の質は、あなたが居心地のよさを感じられる不安定量に正比例する
◎ 行動のさなかでは.恐怖は消える
◎ 真の「重要感」を持つた人とは.使命を帯びた偉人
◎ すべての出発点は「自分が自分を十分に愛すること」
◎ 大きな「成長」を得るには、大きな「失敗」は不可欠
◎ ー力(パワー)とは、世の中に貢献したいという思いの強さに
  正比例して与えられるー 
▼ どうしても人間は、不安定より安定を優先するが、これが間違いの元。
 ブッダが亡くなる時に、「この世の中の ことは、すべてのことは移ろい
ゆくものである。従って怠りなく努めなさい」という言葉を残した。
自然界にも、人生にも、「確実なこと」など何もない。あるのは変化だけ。
 人生には、「変化と、刺激」が必要である。とすると、そこには、
不安定が伴うが、その量に比例して質が上がっていく。安定過剰の
ヘドロ人間は大よそ8割と見てよいが、それこそが娑婆である。
「したい時が、やれる時!」。その時にしておかないと、ゾンビになる。
しかし、変わりゆく世界の中にあって変わらないもの、それを つかんだ人間
が、世界の、人間の、本当の意味をつかむことが出来る。それは逆に変化
の中にこそ、現れ出てくる。 何か仏教めいてきたか! 
・・・・・・
4931,コトの本質 −1
2014年09月14日(日)
  * 喜びの根源とは ー魂の響き!   『コトの本質』 松井孝典著
〈 我を絶えず外界と衝突照合させ、そこで内部モデルが一新されるときの
 快感はたとえようもない 〉という著者の切り口が新鮮である。
それが人生では、挫折とか転進などの節目に生じるアップスケール(脱皮)
の時に生じる喜びになる。それと、壮大な自然の出会いの感動や、芸術の強振
の感激も同じである。「この感動は人生の大きな節目になる!」という感動が、
まさに新しい内部モデルである。秘境先のリアルな光景に感動して、魂に刻み
つけ、バーチャルになる一連が、私のライフワークの秘境ツアー。 
そのバーチャルと、TV番組の行先のバーチャルが重なって感動が蘇える。 
ーその辺りからー
≪ リアルとバーチャルとか言いますが、とりあえずリアルと呼んでいるもの
が外界と考えていいでしょう。意識に拘らず在るもの、といってもいいでしょう。
内部モデル的に整理されものが、バーチャルです。それは、リアルとは違います。
それはモデルですから。リアルというものをどう整理するか、というのは、
内部モデルの在り方に関わります。すっきり整理された内部モデルでは、
背後にあるものがすべて見えます。「ことが見える」という表現の中に、内部
モデルのすっきり感があるわけです。外界を投影した内部モデルの中で、
めいりようで、リアルな外界の構造が、明瞭に位置づけられるということです。
 生きていくということは、交わるということです。我というもの、これは
大脳皮質の中に内部モデルとしてつくられるのですが、それは、外界と関わる
ことによってつくられることになります。外界と関わることで、内部モデルが
つくられるわけですから、我という概念すらも他と交わらなければつくられ
ません。我、あるいは自分というものは、最初からあるものではないのです。 
人間の生においては「我とはなんぞや」というところの我の概念が生まれて
こなければ、何も始まりません。外界、他と交わって、最初に生まれるのが、
我という概念です。他という認識があり、我という認識が生まれる。他と我。
これはペアになっている概念です。
 三歳くらいの幼児の脳の中で、外界という他を認識することが起きる、
と考えられています。他を認識したその瞬間に、それを認識している自分と
いうものができます。そういう段階から、絶えず外界を認識する作業を経て、
その瞬時、瞬時につくられているのが、脳の中にできている内部モデルです。
我ができたあとは、まさに他と時々刻々関わることによって、内部モデルを
構築していく作業が、生きるということになります。その瞬間、その瞬間は、
それまでに構築された内部モデルとその瞬間毎に入力される情報を照合させ、
修正したりしながら、内部モデルを変えているわけです。そうやって内部
モデルができ、変容していく過程すべてが、生きるということです。
私は、考えることを仕事としたいと思いそれを続けているようなものですから、
学生時代からずっと考えるということとは何なのか、それを考え続けています。
自分という対象を、外から見て分析すると、これまで構築された内部モデル、
それが私の人生と考えています。私をいいかえると、私の内部モデルが
それで、あなたというものをいいかえると、あなたの内部モデルがそれです。≫
▼「外界がリアルで、それが、内部モデルに整理されたものがバーチャル」は、
分かりやすい! 毎日書いている、この随想日記は、リアルをバーチャルに
かえていることになる。過去の文章を振り返ると、実感として納得する。
リアルは消えるが、バーチャルは映像、言葉としてリアルの一端を残す。
だから、バーチャルを侮ってはいけない。リアルとバーチャルは裏表。
そのバーチャルは、書換え可能ときているから複雑になる。
  ー偶然だが、以下の文章に続くー
・・・・・・
4564,変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー1
2013年09月14日(土)
       『変えてみよう! 記憶とのつきあいかた』高橋 雅延 (著)
 * 豊富な知識、旺盛な好奇心の必要性   
‘無意味なものを意味づけるために必要なものは何か。
それは知識だ’が納得出来る。
≪意味づけこそが記憶の秘訣であるということは、並外れた「記憶力」を示す
 工夫からもうかがい知ることができる。たとえば、どこかできいたことがある
かもしれないが、円周率を何万桁も覚えているという日本人がいる。円周率は、
小数点以下、無限に続く意味のない数字の羅列だ。この円周率を一〇万桁以上も
暗記しているのが、原口謹さんだ。かつて私は、この原口さんと、五四歳のとき
に円周率四万桁の暗唱記録を打ち立てた友寄英哲さんの記憶能力について調べた
ことがある。その結果、二人の基本的な記憶能力は、同年代の人たちとそれほど
ちがいはなく、特殊な才能は何一つみられないことがわかった。
しかし、その代わり二人とも、日本人にはおなじみの、「語呂合わせ」を使う
技能に長けていた。つまり、何万桁もの円周率も語呂合わせで覚えていたのだ。
語呂合わせは、端的に言えば、数字の羅列のような意味のないものに意味づけ
することだ。原口さんも友寄さんも、けっして若いとは言えない年齢であるにも
かかわらず、並外れた「記憶力」を示すのは、二人が意味づけという記憶の
秘訣を使っているからにほかならないのだ。もちろん、何万桁もの数字の語呂
合わせをつくり、それを完壁に覚えるまで繰り返した努力を忘れてはならない
のだが。では、無意味なものを意味づけるために必要なものは何だろう。
それは知識だ。知識が貧弱だと、深い理解はできない。逆に豊富な知識をもって
いると、まったく理解できないような事柄であっても、自分の知っていること
との類似点をみつけるなどして、意味づけが可能になる。たとえば、難解小説を
読むときに、作者の生育環境や交友関係などを知っているとよく理解できること
があるが、これが知識による意味づけの一例だ・・
 ここで重要なことは、知識が増えれば、その後新しい事柄に出くわしても
その意味づけが可能となり、記憶に残る。ひいては、新たな知識として頭の中に
加わるということだ。つまり知識が増えるほど、新たな事柄の意味づけがより
多面的にできるようになり、知識に加わりやすくなる。よい循環が生まれるわけ。
逆に知識が乏しければ、新しい事柄も記憶に残らず、いつまでも知識は貧弱な
ままという悪循環に陥ってしまう。一六世紀から一七世紀にかけて活躍した
ベーコンは「知は力なり」と言ったが、まさに記憶にとって、知識は力なり」
なのだ。原口さんも友寄さんも、会って話をしたときに一番強く感じたのは、
もっと新しいことを知って、知識を増やしたいという、旺盛な好奇心をもち
続けているということだった。つまるところ、彼らの記憶力の秘訣である
多面的な「意味づけ」は、旺盛な好奇心あってのものだということなのだろう。》
▼12年以上も随想日記を書き続けて、これにエネルギーを費やしていること
に疑問を持たないことはない。反面、この御陰で人一倍の旺盛な好奇心を持ち
続けている利点がある。さらに記憶媒体になる上に、公開することで、情報と
知識のギブ・エンド・ギブにもなる。印象に残った読書内容を感想と共に
「起承転結」でパックにすることで、自分の知識として残すことが出来る。 
知識が増えた分、新しい事柄や知識に出くわした時、その意味づけが深くなり、
記憶に残る。少しキツイが、私にとってベストの習慣になっている。
続ければ続けるほど、自分の底の浅さに愕然とする。
 ・・・・・
4189, 呪いの時代 ー7
2012年09月14日(金)
             「呪いの時代」内田樹著
* 婚活も、「適職イデオロギーの刷り込み」の一種  
   ー第5章「婚活」と他者との共生ー
 ここで著者は、「ほぼ全ての結婚は、最後は『失敗だったな』と思うもの!」
と断言する。家庭内離婚を含め過半数が破綻しているのは知っていたが、ここで
殆んど全部というから驚きである。知人などから、こっそりと、『失敗だった』
という愚痴を聞くと、禁断の秘密を知ってしまったと思ったが、全部が、そういう
ことなら話は別。 実際に暮らして分かる相性もある・・ ーその辺からー 
≪ 婚活もイデオロギー的洗脳によってエンドレスの願客を作り出すという
 ビジネスモデるにおいては就活と同じ。就活における「適職イヂオロギー」
にあたるのが、「運命の赤い糸で結ばれた宿命の配偶者幻想」です。
世界のどこかに私だけに宿命づけられた一人の配遇者がいる。その人に
出会わなければならない。出会いさえすれば永遠の幸福が約束される… 
この赤い糸イデオロギーは幼児期からさまざまな物語を経由して、子ども
たちに植え付けられます。この幻想から自由であることはきわめて難しい。
そのイデオロギーに悼さすかたちで結婚情報産業が呼びかけます。
≪「この世の中に、あなたにだけ約束された人がいます。あなたはまだ
その人に出会っていません。何故でしょう? それは『出会い』が足りない
からです。私たちが、その出会いを提供しましょう。もちろん有償」・・ ≫
「あらゆる結婚は(と申してよいでしょう)「これは失敗だったな」という
後悔を当事者たちにもたらします。必ず。 だから、ご心配には及びません。 
僕たちは配属者の選択において、必ず間違いを犯します。そして、後になって
「なんで、こんな人と結婚しちゃうたんだろう…」と空を仰ぐことになる。
・・ そうですよね。頭に血が上ると「この人こそ世界でたった一人の私だけ
のための人だ」というような夢想に酔うが、普通はあまり継続しない。
「では、結婚しましょう」ということになり、両家の親族に挨拶に行き、
新居の家具を買いに行き、式の段取りをしているうち、「ほんとにこの人で
いいのかなあ」という懐疑の念が兆してくる。「赤い糸イデオロギー」は
平たく言えばただの夢想ですから、現実の「やすり」でこすられるとポロポロ
と剥落してくることは避けがたい。何となく「マリッジ・プルー」になっている
うちに新婚旅行に行き、そこでいびきをかいて寝る夫や、トラブルが起きるたび
「あなた、なんとかしてよ」ときいきい叫ぶ妻にうんざりし、婦りの飛行機の中
では口もきかないというようなことが起こる。 いや、これは「あなたの場合」
じゃなくて、ほとんど全て(95%くらいの)夫婦についてなさていることなんです
から、ほんとうは少しも心配するには及ぱない≫
▼ これを読むと、社会の見方と人生観が一変する人もいるはず。とはいえ、
 やはり夫婦というシステムは、一部動物と人類が作りあげてきた。やはり、
結婚と、その後の我慢はしておくべき。身も蓋も無い話だが、そういうこと。
 ・・・・・・
3824, 閑話小題
2011年09月14日(水)
   * スポーツジムに通って半年、その効果は?
 月に一〜二度位しか休むだけで半年間ほぼ皆勤でスポーツジムに通っている。
スポーツジムの休日の金曜日と日曜日は市の公民館の中のスポーツ施設に行くが、
変化があって、これはこれでよい。お陰で体調は、非常に良くなった。足腰が、
この数年来、重くなってきたが半分以上は元に戻ってきた。 健康ジムの
「イージーライン」というプログラムに参加しているのが良い。12人一チーム
で、若い女性のインストラクターの掛け声で、全員が互いを意識しながらやる
ため、手抜きは最小になる。特に初めと終わりのストレッチが、非常に良い。
ここが要と、入念に足腰の関節部分に気持ちを入れる。このストレッチを早朝の
ミニ・サイクリングの途中の土手のベンチの横で休憩の合間にもやるが、いま
一つ気合が入らない。 あの場でやるから良いのである。二年前に、酷い腰痛
になってから、居間や書斎の椅子に、低反発クッションを、寝床には低反発枕
と低反発クッション、居間には腰痛用の健康機器を入れたため、腰痛は最小に
収まった。そこに更に、健康ジム通い、体には良いはずである。また健康ジム
そのものが持つ明るい雰囲気が良い。ここで痛感したことは、足腰に大きな
重圧がかかっていること。それを一日に数度、丹念に揉み解す習慣は最重要事項。 
歳を重ねると足腰の弱体化から自然に猫背になっていく。これが、良くない。
前かがみの老人は不健康に見える。「老化すると、人は老人になる」というが、
老齢期に人生のそれまでのツケが一挙に老い被さってくる。そこで、まずは
足腰と、頭の老化は人一倍、気をつけないと・・
 成るほど、老いるとは、辛いことだ。
  * 老老介護
 先日、近くのチャンコ鍋チェーン店に久々に食事に行ったところ、案内された
小座敷の隣に80歳過ぎの老夫婦の先客がいた。少し妙な直感がしたが、別に
気にはとめてなかった。しかし私たちが入店した時には食事が終わっていたのに、
私たちが帰る直前まで、そのまま御茶を飲みながら周りの客の話を聞いている
雰囲気が伝わってきた。それは別に問題ないが、家内がセルフ・サービスの
コーヒーを取りに行ったところ、帰りかけで入り口にいた御婆さんが、家内に
「足が痛くて歩けないんだけど、どうしたらよいですか?」と話しかけたので、
家内は戸惑い「私には、どうにもならないんで、店の人に御願いしたらどう」と、
少し冷たく答えたという。連れもいるのに見知らずの人に訴えること自体が変で、
明らかに痴呆症が半分入っている風とか。私も腰痛を持っているので、その酷い
ときの辛さは痛感するので(痴呆が入ってなくとも)誰彼なく言いたいのも
分かる・・ 長生きは有難いが、精神的、肉体的苦痛の代償を自然は与える。 
老いただけ、無念が増す、ということか。 本気で「来年は存在ない」という
思いで、一日一日を生きる時節になってきた。 あの人は誰かに愚痴を聞いて
欲しかった?のか。長生きはしたいが、老いたくはない。 
この矛盾が老いの問題になってくる。
・・・・・・
3459, 今日の民主党党首選は?
2010年09月14日(火)
昨日のヤフーの私のブログに
《小沢と管の民主党党首選が明日に行われるが、順当なら小沢だろう。
選挙は水物だが、連中が真っ当ならでの話。真っ当でないのが、衆院選で当選
している可能性があるから、外れるかも・・ そこまで程度が低くない?
政治には、それほど期待してないが、この数年間は無政府状態。 国しか
我われの身を守ってくれない。だから恐慌の現在、特に注目せざるを得ない。 
小沢も、確かに変である。当選したら、バッシングの嵐。短命でも良いから、
政界再編成を早く実現し、出来たら病気で倒れた方がよい。》 と書いた。
 今日、その民主党の党首選が行われる。小沢からみたら、負けた方が良い。
その方が首相の立場で再編するより、やりやすいはず。だから党首選に立候補
して、接戦をすること自体が目的。その圧力が選挙後の力関係にも影響してくる。
そうこう考えると勝敗に関係なく、接戦に持ち込んだことで既に勝負があった
ことになる。 それより民主党の代議士が真っ当かどうかの方に興味がある。 
何でマスコミが、その予測で管首相に一方的に傾くのか?不思議である。
アメリカの間接的圧力がある?と、穿った見方もある。ネットでは8割が
小沢を支持しているというが、その乖離は何故起きるのか。 
(字数の関係上、カット11年09月14日)


5295,閑話小題 〜慎太郎と佐々の死生観の対話

2015年09月13日(日)

       文芸春秋2,015年7月号特集「老いと健康の危機管理術」より
   * 信長の死生観には共感するね
 図書館で立読みをしていたら、石原慎太郎と佐々淳行の対談の、
「老いと死」についての以下の部分にひかれて借りてきた。80歳を過ぎた
お二人の諦観が滲み出ている内容である。      
佐々: 私は、自分の家で死ぬつも、りでいた。だから少し無理をして、
 鉄筋で三階地下室付きという家を建てたんです。自分の部屋で死んで、
葬式も自分の家から出そうという、前近代的なお葬式観だった。
そのための部屋も作ったし、お客さんの誘導路まで考えた。
家族と別れて暮らすなんていうことがあり得るとは思っていなかった。
ところが周りを見ていると、‘お葬式は身内で密葬をやって、あとで
ホテルとかどこかの会館で偲ぷ会って'いうのをやる。これが定着した。
石原:俺は遺言に「葬式不要、戒名不要。我骨は必ず海に散らせ」と書いた。
 去年出した『私の海』な(幻冬舎)には辞世
(「灯台よ汝が告げる言葉は何ぞ我が情熱は誤りていしや」)も載せた。
佐々:僕もかなり考えが変わったよ。でも、葬式無用っていうのは、ちょっと。
石原:僕は信長が好きなんだけど坂口安吾の『織田信長』っていう短編の
 エピグラフに、信長の愛唱した小唄があるのよ。信長といえば『敦盛』の
「人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり一度生を受け滅せぬ者の
有るべきか」でしょう。僕は知らなかったんだけど、安吾が引用しているのは、
「死のふは一定、しのび草には何をしよそ、一定かたりをこすよの」と」いう
小唄なの。「かたりおこすよの」がわからなくて、ある国文学者に聞いたんです。
そうしたら「おこす」は、おこがましいの「おこ」で、「人が死んだあとに
皆な勝手、なことを言いやがるけど、死んだ人間にとってはバカみたいな話だ」
という意味なんだな。痛烈なニヒリズムですよ。信長は徹底したニヒリスト
だったんだね。偲ぶ会をやったり追悼記を出すなんていうのは、その信長の
小唄と同じことで、いまさら何を言ってるんだということですな。
佐々:でも、お別れ会さえやらないで、さよならも言わずに去っていくのもね。
石原:僕は敬愛した政治家はめったにいないんだけど、賀屋興宣という人には
 私淑したんです。無類の財政家で、日本で初めて統制経済をやった人です。
戦前に大蔵官僚から政治家になって、A級戦犯で服役したあと、政界に復帰。
晩年に賀屋邸へ行ったら、髪も真っ白になって、サンルームで瞑想されていた。
「先生、何をお考えですか?」と訊いたら「人間が死ぬというのはどんなことか。
興味があるので一生懸命考えている」。「それで、死ぬってどんなことですか?」
「いや〜死ぬというのはつまらないね。私はだんわかってきた。死んだら、
一人で暗い道を黙って歩いていくんですよ。そのうち、葬式で泣いて送って
くれた家族も私のことを忘れてしまって、世間も忘れる。第一、彼らも忘れなきゃ
やっていけませんからね。それだけじゃなしに、自分が自分を忘れちゃうんです。
来世なんかありませんよ、石原さん。だから死ぬのはつくづくつまらないですね」
と言って、小さく笑うんだよね。すごいニヒリズムだと思ったね。
この段になってくると、そんなことを思い出しますな。 ≫
▼ 佐々が入った、介護つき有料老人ホームに、石原が訪ねて行われた対談。
 自宅に近く、三食昼寝付きで、何でもやってくれるそうだ。中産階級?向けで、
商社の支店長とか、サラリーマン社長だった人や、旦那がいるが、面倒を見切れ
ない奥さんだけが入っているとか。リハビリは別だが、食費や光熱費を入れて
30万位という。「奥さんも一緒かと思ったが、少し費用が足りないのでやめた」
とか。最近、同年代のタレントが夫婦して入居したとかという話は聞いたが!
古希を過ぎると、どうも娑婆の景色が変わって見えてくる。
4930,パワレルな知性 ー8
2014年09月13日(土)
   * たけしの品格      『パワレルな知性』鷲田清一著
たけしの品格について、が面白い!たけしは、「この男はダメ!」がキャラ。
人間はすべからくダメな人間だが、それを良い人間、有能な人間のコスプレを
しているだけ。コスプレが、コスプレを笑っているのが娑婆の実態。 
これが分かってないから、世の中、他人が、歪んでみえる。
「歪んだのが歪んだのを歪んでいる」と今さら言うのが間違いの元。 
「たけしは、それを剥いだ有りのままを笑いで剥き出すことで、
己の品格を表現している」は、褒めすぎ?  ーその辺りからー
≪ 最後は言語学者らしくこう締める。 「『品格のある日本語』というのは、
 借り物ではなく、じぶんが一番よく知っている言葉で語られるものですよね。
方言なんかはとても品格がある」。つまり「品格」について語るその地声に
言い及ぶところに、金田一の衿持が現われでているとおもう。じぶんについて
語る言葉が信用できるかどうかは、語られるじぶんに対してどれほどの距離が
とれているかにかかっている。「離見の見」と高尚なことを言わなくてもよい。
何かについて語るとき、そのように語っているじぶんがどこから語りだして
いるのか、それについての明確な意識をもっているかどうかに、その言葉の
真はかかっている。何かについて語るとき、いつもどこか断片的であって、
語りつくさない。語りだすのは否応もなくつねに地上のどこかからであって、
語りつくすというのは、じぶんがこの地上のどこでもないある特権的な
場所にいると錯覚することである。 それこそ品格に欠けることである。
 これに対して北野武は、品格から外れることに自己の品格を賭けるという、
それこそ綱渡りをしてきた。いきなり北野はいう。「どうしようもない人」、
これがじぷんにとっての最高の誉め言葉だと。「人から、『あこがられている』
と言われると、失望させないように自らを律したりするじゃない? 
そういうのが大嫌いで、頼むからあきらめてくれって。『この人はだめだ』って
言わせるためにわざわざ変なことをやる。『どうしてそういうことをするの』
って言われるのが一番好き」。北野もまた、この世の価値序列から外れる
ところに「品格」を見る。「みんな社会的立場上、言えない部分があるけれど、
俺の場合、お笑いというジャンルが隠れみのになっていて、意外に好きなことを
言っちゃっている」。たしかに、「トツプには立ちたい」けれど、そしてそれは
「すごく下品」なことだけれど、同時に、「何をやっても勝てない相手がいる」
ことは身に沁みている。だからちゃらんぽらんと見えるほど、いろんなものに
手を染めてきた…。 首尾一貫していないこと、立派な「先輩」と見られたら
すぐにそれを裏切ること、つまりじぶんを模倣しないこと、そういう囚われの
なさに肩肘張らない自由を見る。ここにもなるほど、みずからへのクールな
距たりがある。その距たりを構えずにほのめかし、北野は最後にこうつぶやく。
「いつも何か考えているけれど努力して考えているわけじゃない。魚に
『アンタ、いつも泳いで偉いね』とは言わないじゃない?」じぶんが壊れる…。 
そういうあぶない場所にじぶんをもってゆきながら、かろうじて身を持す、
ぎりぎりのところでみずからを揺さぶることのない人に、「品」はぜったいに
訪れない。… ≫
▼「まあ、お笑いの、たけし、だから!」という免罪符を取ってしまって
いるから、今さら誰も非難できない。こうなれば、好き放題、言い放題。
週刊誌も、『たけしに愛人!』など、今さら誰も興味を示さない。
昔の芸人は、こういう人が多かったというが・・ いつも、あぶないところに、
自分を置いてきたので、いやに、同感する。じぶんが壊れる直前に、常に身を
呈してきたが、実際のところ、既に壊れていたのでは? 
 〜ところで、三年前の一連のイベントからこの方、ギリギリ生きて
こなかった人格に、あまりに多く出会った! 輩をヘドロという。              
・・・・・・
4563, 2050年の世界 ー5
2013年09月13日(金)
   「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」
                 英『エコノミスト』編集部 (著)
  * 予言はなぜ当たらないのか (第二十章)
  ー まずは要約部分よりー
・今から四〇年前になされた予言をみると、悲観的なものばかりで、
 その殆どが外れている、
・なぜ、そうした予言が外れるかと言えば、理由はふたつある。
 良いニュースは目立たず、人々の記憶に残りにくいからだ。 
 悪いニュースだけが残り相互に連関する認知のバイアスが人間に
 あるので、そういう予言をすることが受け入れられる。
・もう一つは人間が対策を講じることを無視するからだ。
・資源が枯渇する、食料が枯渇するというのは終末予言の典型的だが、
 「技術革新」よる「低価格化」を無視している。
・グローパル化による国際分業により、人々は、かってより遥かに
 安い値段で必要なものが手に入るようになった。
・1950年代には、平均賃金の人がハンパーガー1個の代金を稼ぐのに
 三〇分かかったが、今では三分だ。
・技術が人間の生活水準に作用するのは、技術が発明されたときではなく、
 何十年ものちに手ごろな価格の技術になったとき。
・バイオテクノロジーの発展によりその応用物が低価格化する。
 たとえば幹細胞をさまざまな臓器に発展させる技術は、移植医寮
 そのものを、低価恪化させる。また、癌治療もバイオテクノロジー技術
 の発見によって、癌ワクチンや遺伝子組み換えウイルスを体の必要な
 場所に送るという治療を大衆化させる。
・第二次大戦以来、全世界のGDP成長率がゼロを下回ったのはたった一年。
 それは2009年で、マイナス0・6%の成長率だった。
・先進国ではさまざまな形で実際に、森林面積が増えるなど環境は
 良化している。いまの新興国が先進国なみの経済水準になる二〇五〇年
 までに、これまで損なわれた環境が腹興するようになるだろ。
▼ 予言はなぜ当たらないのか? その状況で対応する「技術革新」
 が出てくるからだ。その中で情報機器と、バイオテクノの革新は、
 予測不能である。現に過去40年をみると肯けること。
 人間には、長期楽観、短期悲観が経験を通して認知バイアスとしてある。
 それが目先、悲観的な見方が受け入れられる。40年前の予測が悲観的
 過ぎたというのも大いに疑問である。ソ連は崩壊、米国も、衰退の坂を
 転げ落ちている。そして日本は、20数年前のバブル崩壊から現在にわたって
 惨憺たる事態。40年後を考えると、さらに酷くなるのは現在の状況をみれば
分かること。「現時点で予言不能の未来が待っている」ことだけは確か・・ 
 バーチャルと現実が混合した世界だろう! 今もそうか?
・・・・・・
4188, 呪いの時代 ー6
2012年09月13日(木)                 
 *「適職イデオロギー」の刷り込み   「呪いの時代」内田樹著
ー第5章「婚活」と他者との共生ー
「適職イデオロギーの洗脳」の切り口は面白い。そのため?まず3年もしない
うちに3分の1が夢やぶれ辞めていく。それだけでない、その後も、その影に
追われることになる。歌の文句ではないが「自分を待っている職があるはず」と。
そんなものは、あるはずはない。現実は、そんな軽い若者を拒否をする職場だけ。
そのため転々と幻影を求めてサマヨウしかない。私たちはコマーシャルで、
知らないうちに無防備に不安と劣等感と無知を煽られ多くの洗脳を受けている。 
  ーその辺りからー
≪ 就職活動を始めるに当たって最初に叩き込まれるのが「適職イデオロギー」。
 就職情報産業の営業マンがきて、大学2年生を購堂に集めて「空気を入れる」
ときに彼らはこう言います。「ひとりひとりには、この広い世界のどこかに、
ただひとつだけ適性に合致した天職がある。この一年余りで、諸君は自分に
適正に合致したこの職業にであわなくてはならない。そのために捧げうる就活に
全エネルギーを当時なければならない」と。学生たちは驚きますけれど、
だいたい根が素直な子たち、たちまち、この「適職イディオロギー」
に染め上げられる。
△ そして「自分が適職に出会えないのは、自分の何であるか知らないからだ」と、
△「世の中にどのような職業があるのかについてまだ十分に知らないからだ」と
いう2種類の「情報」不足によって説明されるということに、うっかり頷く。 
そうして適性試験を受けたり、目を赤くして就職情報誌に見入ることになるわけ
ですが、もちろんこれらの情報は無償ではありません。かの「適職イデオロギー」
を宣布してまわった営業マンの会社が課金して販売しているまわるのですから、
この段階で、「なんとなく家業継ぐか」とかいう「ゆるい」就職観はきびしく
排斥されます。 そして、私たちは「ほんとうに『こんな仕事』に就いていい
のだろうか」という不安から逃れられなくなります。就活中ももちろんですが、
実際に内定をもらった後も不安が鎮まらず、さらに就活を続ける学生が多くいる。
最初に内定をくれたところはそれだけ「ご縁」があるということなんだから、
そこでいいじゃないかと僕は学生に相談されると答えるのですが、僕のそういう
場当たり的な就職観に説得される学生はほとんどいません。
 ・・就職情報産業にとって、「適職イデオロギー」を深く内面化した若者は
エンドレスの顧客です。「この職場に骨を埋めよう」と覚悟をしているわけで
ないのだとしたら、「いつか出ていきたいが、今は出ていけないので我慢して
ここにいる」という「腰掛け」的な就労態度をありありと示すことになる。
「はやく出ていって『ほんとうに私の適正に合った仕事』がしたい」という
切ない思いは更につのる・・ 仕掛けになっている。就職情報産業は、
このビジネスの洗脳によって決して自由になれない人々を量産することで
利益をあげることを自覚しておいた方がいいと思います。・・ ≫
▼ 幻影を求めてさ迷う若者に、更に就職産業屋は顧客として利益を貪る
 ことになる。気が付いた時には、立派なフリーター。社会は、彼らを便利な
部品として使いまわす。グローバル化で人件費が抑えられる中で、ひ弱な
若者は火の目を見ることはない。 これと酷似しているのが婚活である。
結婚相手と、就職先も幻影でしかないことが自覚できない若者。それは次回。
 ・・・・・・
3823, 閑話小題 
2011年09月13日(火)
   * 『哲学人』の感想文を連載は、二年前に一度書いていた。
 昨日に気づいたことだが、二年前に、この下巻のー小説の作り方ーについて
取り上げていた。難しかったのだろう、それっきりで終わっていたが、
それ自体を忘れていたのは迂闊だった。無意識のリベンジだったことになる。
分類の検索で調べたが見落としたようだ。それにしても、思いもよらなかった。 
成るほど、さすが哲学者が実践した小説作法は実に分かりやすい。(下にコピー)
それにしても、ブライアン・マギーの教養のレベルに驚かされる。  
   * 初めての書くテーマのネタ切れ
 この10年間、ここで一応、起承転結を成した?文章を書き続けてきた。
最低でも2つの仕込み文はあったが、今回、初めてゼロになってしまい、
それ自体をネタに書いている。現在の読書感想文の『哲学人』が、私にとって
難しい。しかし、何とかギリギリで理解出来るから、なお疲れる。さらに、
iPadにエネルギーを大部分取られていることも重なっている。ひとつテーマを
書いても、ウェブ上では、それより遥かに素晴らしい情報が満ち溢れている。
そこをネットサーフィンしていた方がより広く深く世界をみることが可能。
それでも自分が10年間エネルギーを入れたサイトをiPadで何時でも見れるのは
悪くはないと、何とか気持ちを保っている。有料、無料を含めて、iPhone・ipad
のアプリは10万以上あるというが、その一端を次々にダウンロードして使って
みるが、その都度驚きの連続になる。別に、声高に、これは凄い!
という必要もないし、これに近いモバイル携帯電話で既に普及している。
何を今さらといえば、それまでのこと。話を戻すが、書くネタが無くなるほど
本音で書くので、読む方は面白いというが・・ 何も書けない焦りは何とも
言い難い。この辺が限界の際が見えてくる。書き続けるのは大変だが、
その分、張り合いにもなる。
 ・・・・・・
3458, 9・11から9年
2010年09月13日(月)
 あれから9年になる。こと自社からみたら、この日をもって右下がりになり、
現在も続いている。2004年から少し持ち直してきた矢先に今度は2008年9月15日
のリーマンショックを契機にした100年、250年に一度の世界恐慌。
 あの日から世界も日本も変わってしまった。まことしやかなアメリカ陰謀説
がある。時間の経過と同時に信じるようになってきている。為替と株式で大儲け
をした輩がいた現実がある。更に、この事件をキッカケに兵器業界は大儲けを。
アメリカでは戦争は公共事業といわれ、不況にとって手っ取り早い毒薬と同時に、
回復剤になる。第二次世界大戦は1929年から世界恐慌から立ち直る大きな契機
になった。 アメリカの誘導によって日本がハワイ急襲をしてしまった。
そうこう考えると、アメリカは恐ろしい国。イラクの攻撃のキッカケとなった
大量破壊武器所持疑惑も、実際には存在してなかった。戦争を仕掛けるために
CIAが捏造したことが後になって判明した。日本のバブルもアメリカによる
日本国内の内需拡大の強制による。その結果の日本のバブルのピークを
待って株式の暴落を誘導を図った。そして下がりきった株と不動産を買い
捲ったファンドが、大儲けをした。好き放題に日本の資産をいじくりまわし、
収奪を繰り返しているアメリカに日本は成す術がない。歴史的にみて、
その後の2008年9月15日のリーマンショックと同じレベルで、2001年9月11日
の事件は語られるはず。アメリカ崩壊への二つの大事件として。 
これを必然的事件とみると、何か底知れない深いウネリを垣間見れる。
20世紀的なものの崩壊の必然の事件としてである。そして、この火の手が10年
20年かけて世界を焼き尽くす。日本のバブル崩壊後、山一證券が倒産したのが、
7年後。大手銀行が3つになったのが10年後である。この世界恐慌も、10年
20年の時間で世界を大きく変えていく。現在はデフレ、ハイパーインフレが
襲ってくる。グローバル化は、世界をフラット化する。日米欧は、その他の国
と変わらないレベルになりざるを得なくなる。9年でネットも、携帯電話も、
テレビも、劇的進化をしてきた。それが、世界をフラット化を進めている。
これから10年、世界は、その動きを更に大きくするだろう。 
面白いと同時に、恐ろしい10年になる。


5294,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー��

2015年09月12日(土)

      ー私は「言葉」を諦めないー(新潮45/5月号)
            〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
   * 女とは何か、の問い
 女の自意識のねじれと矛盾の言語化を何とアッサリとするとは驚き。
これは男も似ているが、受身である点で大きく変わってくる。
確かに、「人間的価値」より、「性的価値」が「商品価値」として、優先する
ため、それを高める化粧品や、ファッション衣料が売れている。プロの作家の
言語化は、流石である。  〜その辺りから〜
≪ 私とは何かという問いから始まって、人間とは何かを突き止めたかった。
 そしてまた、人間とは何かを考えているうちに、女とは何かという問題にも
突き当たったのである。私は自分を女という主体として捉え、その「私」は
「人間」であり「女」であると当たり前のように考えていたのだが、そもそも
「人間」であり「女」であることの定義は何なのか。 特に「女」という性別
に生まれてきたことで、自分が「欲望する主体」であると同時に「欲望される
客体」であり、そこに快と不快の両方が混在するアンビバレントな存在である
という認識を持ったのである。 
 男から一方的に性的欲望の標的とされるのは、私の心に支配への恐怖や反発
を生じさせる。若い頃、夜道を見知らぬ男に付け回されたり電車の中で痴漢に
遭ったりするたびに、私は自分が常に男から性的な視線で見られており、
しかも彼らは私の意思とは関係なくその欲望のはけ口として私の身体を使う
つもりなのだと感じた。それはまるで自分が人間ではなく物のように扱われて
いるかのような屈辱感と、彼らに力ずくで欲望の餌食にされるのではないか
という恐怖感を、私にもたらしたのだった。
 が、その不快さの一方で、私は男たちに求められることにナルシスティックな
快感を覚えることもあった。年を取って男たちに相手にされなくなってくると、
自分の価値が暴落したような気分になっ、た。それは決して私の「人間的価値」
の暴落ではなく、あくまで「性的価値」の問題に過ぎないこともわかっていたが、
しかし女の場合、「性的価値」は「商品価値」と密接に結びついているため、
まるで自分が価値のない商品に成り下がったかのような悲哀を味わったのだ。
 男たちに「性的道具」のような「物」扱いされることに怒りを感じながらも、
自分の価値を「商品価値」と捉えて「物」扱いしてしまう… その矛盾が、
理屈で解消されるものならまだしも、生理的な「快・不快」感と結びついて
いるため、よけいに始末に負えない。どんなに理性が「こんなものは根拠薄弱
で非論理的な感情だ」と結論づけたところで、やっぱり心は傷ついてしまうのだ。
それが人間というものではないか。
 私はこの「女」という生き物の自意識のねじれと矛盾を、自分の体験や感覚
を通して言語化しようとしてきた。私を、そして女を、「言葉」で再構築し、
人々に届けたいと願ったのだ。そのためならデリヘルでも何でもやった。
それがどれだけ世間から白い目で見られるかも承知していたが、それでも
「知りたい」「言語化したい」という欲求のほうが遥かに強かったのだ。 
 世の中の「自分がわからない」と嘆く女たちに、「女がわからない」と
ぼやく男たちに、私は自分の言葉を届けたかった。
諸君、我々は「主観」という濫の中から抜け出せず、互いに他者を理解し得ない
まま、閉鎖的な脳内世界の中で孤独に、生きている。だが、その隔絶された
各々の世界を繋ぐのが「言葉」なのである。だから私は「言葉」を諦めない。
それが私と他者を繋ぐ唯一の絆なのだから。 ≫
▼ 抜粋の文章をカットしようと上記を読み直すと、それが辛い。言葉に魂が
乗り移っているためである。ここまで書ければ、本望だろうが、それだけ傷が
深いのである。「言葉」に魂が乗り移ったのを「言霊」というが、成る程!
・・・・・・
4562, ポタリ、ポタリ、ポタリかな!
2013年09月12日(木)
 4月〜11月の8ヶ月間、毎朝一時間、4年続けて雨の日以外、合計
一万キロ以上も乗り続ければ、自らをポタリスト(ポタリング=自転車散歩)
と宣言してよいだろう。4年前になるが、「電動アシストのMTB
(マウンテンバイク)が、格安で、スポーツチェーン店から通販サイトで
売り出される」という新聞記事を読み買うことにした。そして乗って仰天! 
ママチャリを年に1〜2度しか乗ったことのない私が、その日を境に、
冬季間と雨天以外は、ほぼ毎日12キロは乗っている。 自転車で15分の
距離に信濃川があり、二つの大橋を一周して帰ってくると丁度一時間、
早朝の運動に最適である。ある本に、「江戸時代に舟に車輪をつけた陸舟車
というのが試作されたのが第一号」とあった。さしづめ電動アシスト自転車
を舟とすると、エンジン付きカヌー。手で漕ぐか、脚でペダルを踏むかの違い。 
この自転車に出会うまでは、自宅から300M先にある栖吉川の土手を30年近く
ウォーキングをしてきた。ところが、道路拡張工事で散歩道が数年間も交通
ドメになったタイミングに、電動アシストのMTBを購入。一気に、4キロ
程先の信濃川まで行動パターンが広がった。電動アシストのうえ、MTBの
車種が良かった。 軽くて、小さくて、小回りがきいて、6段変速ギア。 
変速ギアのついたスポーツ自転車も一度も乗ってないうえに電動アシスト。
驚くのは当然である。 東京在住の学生時代のゼミの後輩がカヌーの愛好家で、
数年前、車にカヌーを積んで新潟にきて、阿賀野川河口と、寺泊の浜辺で同乗
させてもらったことがある。それもヨットカヌー。彼の別荘が川口湖にあり、
長年、乗りこなしていた。羨ましいと思ったが、今さら私には無理。 
そこで、スポーツ自転車を陸のカヌーとみたて、電動アシストにすればよい。
早朝、電動アシストの力を借りて、信濃川の土手を飛ばすのも快感。 
乗っていると、自分がいかに軽く小さい存在で、空中遊泳をしているような
感覚になる。現在のものも限界に近づいてきたので、消費税のアップ直前の来春
2〜3月に、もう一台を買う予定にしている。クロスか、折りたたみのMTBか、
電動のついてない10数万の高級車か? それまで半年間の選定が楽しめる。
これを購入すると胸を張って、「古いMTBと、クロスバイクの二台を持って
いるポタリスト」と宣言ができる。車やオートバイで高級車といえば数百万だが、
自転車では、30〜50万も出せば超高級車、十数万なら高級車になる。
ーブログ内の検索で、以下のような文章があったが、時間の経過とともに
内容が濃くなっている。一つのキーワードで検索で過去分を拾うと、
書き遺した価値が味わえる。肌で風を切ると、頭が冴えてくるのも良い。
 低空の飛行艇のようにも・・・ 少しオーバーか!
・・・・・・
2013/07/29
スポーツ自転車の勧め! ー4               
   * マウンテンバイク    「自転車で痩せた人」高千穂 遙(著)
 私が現在乗っているのがマウンテンバイク。 舗装されてない山道などを
走るため、特徴は丈夫かつ軽快さである。ただ値段の安さに惹かれ買ったが、
私の毎朝のコースからみて、これがベスト。小さく軽いのがよい。
  ーそこで、ウィキペディアで調べると、以下のとおりー
《 1970年代後半にアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ郊外の
 マリン郡で、ヒッピー達がビーチクルーザーや実用車などに太いタイヤをつけ、
急勾配の山を下りタイムを競った遊びが始まりと言われている。同時期に
北カリフォルニアでも同じ遊びが発生していた。初めは手作りだったが、
一つのジャンルの大量生産で一般に広がっていった。MTBの定義は、
【 荒野、山岳地帯等での高速走行、急坂登降、段差越えなどを含む広範囲の
乗用に対応して、軽量化並びに耐衝撃性、走行性能および乗車姿勢の自由度等
の向上を図った構造の自転車のこと。舗装路でも広く利用されており、用途に
よって様々な形態が存在する。】である 》
▼ 以上だが、MTBはポタリングに手軽な自転車で、軽快さが良い。
 それとママチャリと同じく、普段の生活でも使えるマルチのところがよい。
親が、このタイプを少年用に買うことが多いこともあり、HCの自転車売場では、
丈夫でない見た目だけMTB風のチャリが並んでいる。そのため愛好家は「モドキ」
とか「ルック車」などと呼んでいて、良いイメージはない。その見分けは
デザインで直ぐ分かる。また「悪路走行禁止」と書いてあるのもある。
私のようなスポーツ車初心者に向き。 まずは軽く小回りがきき、乗りこなし
がスムースが入口になる。 次は、クロスバイクにするつもりだが、折畳み式
も捨てがたい。スポーツジムと、家でパソコンか、TVか、読書になりがちな
生活の中で、これはソロで出来る手軽な趣味になる。 早朝に加えて午後から
のポタリングの習性も悪くはない。それと現在、ジムや、図書館への移動に
使うことも考えてよい。趣味としてポタリングにするとなると、違った切り口
が出来てくる。それより、まず事故に気をつけなくては。これまで色々なMTB
を見て、デザインが違うとしか思ってなかったが、実は、使用目的が違っていた。
――
スポーツ自転車の勧め! ー3 ー2 ー1は、
字数制限でカット(バードウォッチにコピー)          
・・・・・・
2013/06/25
電動アシスト自転車に乗って、はや4年
 電動アシスト自転車を乗って3年8ヶ月になる。ーまずは、その時の文章より 
   ー3131,期待どおりの電動自転車 2009年10月31日(土) 
≪ 注文をしていた電動自転車が一昨日届き、昨日の朝、さっそく試乗した。
 自宅は長岡駅裏から徒歩10分にあるが、長岡駅前から歩いて20分のところ
にある大手大橋まで12分で着いた。信濃川を渡ったところのジャスコに15分、
ユニ系SCのアピタまでは20分。そして、その先にある長岡大橋から駅前近く
まで戻って、家に着いたのが50分後。万歩計をみると2500歩になっていた。
50分というと5500歩になるから、半分近くになる。疲れは、ウォーキング
と同じぐらい。 これまでは月に一〜二度ママチャリに乗るぐらい。
一日一万歩を目指しているので、自転車にはほとんど乗ることはなかった。
そのためスポーツタイプで、6段切り替えで、かつ一対二のアシストの
自転車を乗った驚きは大きい。一対二のアシストというと、人が一の動力を
かけると二倍の加速がかかる。自転車は発進時の加速と、登り坂に力を要する
が、その時にペダルに力が二倍加わるのは、何か異様な感がする。
コースは線路の下をくぐる地下道の登りとか、信号待ちの後の加速とか、
大きな橋までの登り坂とか、起伏がある。そのストレスがゼロで、平らの
道路でペダルをまわす時の加速も三分の一で済むのだから、非常に楽である。
 ところで、通販で注文して送られてきた電動自転車を組み立ててくれた
長男が「すぐに、盗まれるよ!」というのも分かる。小型のためボックスカー
に、簡単に乗せる事が可能だからである。一年ほど前に、家内に電動自転車を
買おうかどうか相談したら、「友達が買って直ぐに盗まれてしまった。あと
数年先がよいと思うよ」といって、買うのを止めた経緯もあった。
スーパーや、駅前などは当分は置けないが、その時はその時。≫
▼ これを書いた翌日から25年続けていた早朝ウォーキングを、ポタリング
(ミニサイクリング)に切り替えた。同じ一時間で、コースは東バイパスから、
長岡大橋を渡って、日赤前の土手を通って、大手大橋から、土手を走り、
長岡大橋に戻り、同じコースを逆コースで帰ってくる。 冬期間(12〜3月)
と雨天を除くと、ほぼ毎日、乗っている。大よそ、年に200日として7百回以上、
一日、14キロで1万キロ、地球を半周も走ったことになる。 スポーツチェーン
のネット販売で59800円で買ったが、中国産だが私にとって大当たり。
現在は値下げで49800円。もうボロボロだが、何とかあと一年使って買換える
つもり。まず故障するのはブレーキと、蓄電池周りの固定器具。
 パンクは三月に一度ぐらい。来年には、一ランク上のナショナルのものを
買うつもりだが・・ 自転車には、シティ、クロス、ロード、マウンテンタイプ
などがある。 私のは車輪の小さなマウンテンタイプ。来年の購入予定は
ナショナルのクロスタイプのもの、どうなることやら。iPodで音楽を聴き
ながらの早朝サイクリングは良い。雨が降ると溜息が出るほど。
最近の週末は天気の具合をみて、昼も同じコースを走っている。
・・・・・・
2013/03/27
閑話小題 −つれづれに
 * 先週から早朝の信濃川一周のポタリングを始めたが、ほとんど散歩する姿
はないのは寒いためだろう。分厚い手袋と耳あてをし何とか寒さを凌いでいるが、
日々暖かくなっている。慣れてしまえば最上の習慣である。 毎日15キロ、
一年200日として三千キロ。三年間で9千キロ走ったことになるが、自転車は
ボロボロになって当然。リチウム電池は、当初一回の充電で二日持ったが、劣化で
一日が限度。この買換は一年後の予定?だが、持つか?  あと一年で4年で
一万二千キロ、地球の4分の1周を走ったことになるのだから良しとするか。
 * 一昨日、カラスの交尾をみた。ポタリングの何時ものコースの通りの脇の
花壇にいたカラスに、小さなカラスが舞い降りてきて尾っぽを向けて羽根を
そば立てて小さくうずくまった。そこにオスが・・ 
メスからの求愛である。これで春の訪れを知るとは・・・
・・・・・・
2012/08/21
つれづれに
   * 大手大橋にて
 先週土曜日の早朝、何時ものようにポタリング(ミニ・サイクリング)の
大手大橋で、ヒキチャリをしながら歩いていると、後ろから声をかけたれた。
車椅子に乗った隻手の男性で、恐らく交通事故で右腕を根元から切断、下半身
麻痺で自走式車椅子。私の電動アシスト自転車に興味を持ち声をかけてきた。
電動アシスト自転車が如何に良いか説明すると、自分の車椅子が電動切替え式で、
背後に電動モーターがついていて時速6キロという。何度か薄暗い中、かなりの
スピードで走っているのを見たことがあった。人それぞれの運命と人生がある。 
ところが昨日の朝、いつものコースの信濃川の土手を走行していると、
屋根つきの休憩所で30歳前後の男女二人が、その電動の車椅子を畳んでいた。
本人は不在で、まさか聞く訳もいかないし、そのまま遣りすごしたが。
その前に何か(熱中症とか?) あったのだろう。ポタリングを始めて4年目
になるが、続けていると色いろある。そういえば、雀が少なくなった。
去年の大雨で河川敷の雑草地に水が使ったせいだろうか。
燕も少なくなった。多いのはカラスだけ。 
・・・・・・
2012/06/15
閑話小題 
  * 自転車のパンク
 4〜11月まで八ヶ月間、毎朝一時間もポタリングをしていると、
年に二回はパンクをする。たまたま土砂降りの時にパンクをし、ズブ濡れで
自転車を引いて帰って来たこともある。それも付きものと割り切っている。
一回のパンクの修理代が千〜千二百円で、店によって違う。昨日もパンクを
したので近くの自転車屋で修理をした。世間話に、市内の自転車屋の数を
聞いたところ、「百軒あった店が今では三十軒になってしまった。4kのため
次世代が店を継ぎたがらない」という。店売りの自転車はHCや、スーパーが
大量販売するため、価格競争に負け、修理だけとか。パンクの修理時間は平均、
20分。それで千二百円は悪くないが、私の見立てでは一日4〜5人。
奥さんがパートなら兼業商家なら何とか?
・・・・・・
2012/04/14
閑話小題
  * ポタリングを再開
 早朝のミニ・サイクリング(ポタリング)を再開した。冬期間を除いた
4月〜11月の間、一時間かけ信濃川の二つの大橋を一周する。6時過ぎから
7時過ぎにかけての時間帯だが、何とも清々しい。電動アシスト自転車の効能で、
午後の二時間のスポーツジムを加えると、三時間も運動している。平坦な習慣の
組み合わせのためかアッという間に一週間が経ってしまう。電動アシスト自転車
の使用目安を5年と決めているので、半分使え終えたことになる。電動自転車は、
お薦めである。手段(自転車)が、目的(朝の運動)を変えてしまう
(ウォーキングからポタリングへ)典型的事例になる。これからはスマート
フォンとタブレットPCの普及が、ビジネスや生活パターンを根こそぎ
変え始めているが、手段の進化は、人間生活を間違いなく良くしてくれる。
・・・・・・
2011/11/08
閑話小題 ー自転車からの風景
  * 焼鳥屋、鳥梅
 私の幼稚園の頃の、一番初めの友達が、近くの焼き鳥屋の息子であった。
幼稚園の一年間と、小学校の二年の三年間である。ある日の午後、そこに
遊びに行くと、今から思うと焼鳥の串さしの仕込みを、御父さんがしていた。
子供なりに、仕事の場には近づいてはならないことは知っていた。
ところが手招きをして、その一本の焼き鳥を差し出してくれた。そして、
食べて驚いた。その美味いこと。ガムのようで噛んでも噛んでも、噛み切れ
ないが、その味わいと香りは、今でも強烈な記憶として残っている。その後、
成人になって長岡にUターンをしてから1〜2度、飲みにいったことがある。
私の幼馴染は何があったか分からないが、店から引退し、姉さんと、奥さんが
店に出ていた。その店の前を二月ほど前に早朝のポタリングの帰りに通ったら、
店の看板が無くなっていた。そこで、姉さんらしき女性が、店の前で掃き掃除
をしていた。そこで、長岡の夜の博士と自認している?人に聞いてみたところ、
「この春に閉店したが、その閉店の日に行ってきた。姉さんも高齢と不景気
で止め時と言っていた」という。それにしても、幼稚園時代の記憶の原点の
一つの店が閉店とは、時代の変わり目である。
・・・・・・
3777, ポタリング
2011年07月29日(金)
  最近、面白い言葉ーポタリングを知った。 −ネット辞書によるとー
【 ポタリングとは、自転車でぶらつくことを意味する和製英語で、観光名所
 などに自転車を用いる「散歩」的なサイクリングをいう。 散走とも言う。
サイクリングの一種で、散歩程度に軽く走ることをいう。】
 中高年のオジサンが、行く当てない風にママチャリに乗っているのとは、チト
違うようだ。毎朝、ウォーキング代わりに、信濃川まで一時間、自転車で散走
をしているが、サイクリングというには違和感があったが、適切なポタリング
という言葉があった。「ちょっとポタリングしてくる!」なら、丁度よい。
自転車は野球帽を少し深めに被っていれば目だたないし、人は気に留めない。
また電動アシストなら、エネルギーは普通の自転車の三分一か、五分一で済む。
 近くのSCや図書館に気楽にいけるのも良い。この御陰で生活が一変した。 
イメージとして、サイクリングは、中・長距離の場合に使い、目的は自転車に
乗る方のニュアンスが強い。またツーリングは、長距離で、自転車で旅行を
する場合につかう。 東京など密度の濃い都会の二時間の散策なら、かなりの
場所に行くことが出来る。 現在、早朝の信濃川のポタリングが主だが、
今度は午後などに折りたたみ自転車を車に乗せて日本海沿岸をポタリングする
のも面白そう。そうこう考えると、周囲に面白いことは、山ほどある。
ただ気づいていないだけである。ベストの敵はベターというが、その通り。
それにしても「ポタリング」という語感がよい。 これから少し与太るで、
「ヨタリング」という言葉も浮かんでくる。陰鬱の時、少し与太らないと
やってられない。 でも、自重の時期である。で、自転車でヨタルしかないか。
 少し離れた場所のポタリング用に、もう一台、安い折りたたみでも買うか? 
でも、車で一時間で何処かあるのか考えると?


5293,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー⑧

2015年09月11日(金)

      ー私は「言葉」を諦めないー(新潮45/5月号)
            〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
   * 自分とはいったい何者なのか?
 世間を馬鹿にしているところが、いやに同調できる。『閑』という字が
ある。門の中に木がある状態、その木を己とすると、『独』の状態。
それを自分の中で守ってこそ、自分と他者との分別が可能になる。それが、
出来てない、他人志向的傾向の強い人たちを世間様と定義つけている。
 大方八割?の、世間にまみれた人たちに揉まれ、そこで、己とは何者なのか
を自覚するのは、並大抵でない。世間を見下しながら、そこに依存をするしか
ない己の心情を、以下で明晰に表現している。 〜その辺りから抜粋
≪ 自分もまた俗世間を馬鹿にしており、誰よりも高みにいる気でいたわけだ。
 なのに、そんな自分が世間から排除されたことにこれほどまでに傷つくとは!
私のこれまでの世間への侮蔑は単なるポーズに過ぎなかったのか? それとも、
私が世間を拒絶するのはいいが、世間が私を拒絶するのは許せない、と、
そういう理屈なのであろうか? 
 おそらく、そういうことなのだろう。 私のとどまるところを知らぬ
ナルシシズムは、自分を高い高い場所に押し上げ、超然と世間を見下ろして
いるつもりだった。なのに、その下々の世間から「おまえなんかいらない」
と言われたことで、私は激しい屈辱感を味わい、同時に、自分がずっと見下して
きた世間からの評価をいかに必要としていたか、強烈な痛みとともに思い知った
のである。これほどまでに尊大にして卑屈な人間を、私は他に知らない。
私は己の愚かさに呆れ果てているが、それは自己卑下と-か謙遜とかいった
ものとはまったく別の次元のものだ。
 私はいったい何者なのだろう。この問いに、またもや私は立ち返る。
何度も自分に問いかけ、一度も答えを得られなかった問いだ。これからも
たぶん、答えなんか見つからないに違いない。その答えを見つけるには、
私はあまりに己を知らな過ぎるのだ。 私は何者なのかを突き止めることが
私の人生の大命題なのだとしたら、これはもうきわめてパーソナルなテーマ
であるから、世間から承認されたり評価されたりする類のものではあるまい。
 私がその答えを見つけたとしても、誰の役にも立たないからだ。
 ならば、私は世間から排除されようが拒絶されようが痛くもかゆくもない、
ということになる。人がどう思おうと、私は自分のテーマを変えるつもり
はない。私は私にしか興味がないのだ。
 そんなふうに考えたら、なんだかちょっと気が楽になってきた。
おそらくこれからも私は態度を改めることなく、世間を馬鹿にし続ける
だろうし、そんな世間から許しをえたいとも思わないからだ。
世間が私を必要としなくても、私が私を必要としている限り、私は私の
ために生き続ける。それがどんなに傲慢なことかわかったうえで、あえて
そういう生き方を選択する。
 このように私が世間と隔絶した場所で生きようとすることと、私が本気の
言葉を諦めずに人々に投げかけ続けることは矛盾しているように思われるかも
しれない。が、私が言葉を投げかける相手は、決して「世間」ではない。
 私が言葉を届けたいのは、わざわざお金を払ってまで私の文章を読んで
くれる人々だ。その人たちの心に何かが届けばもうそれ以上は望むまい。
私はずっと「私とは何者なのか」という問題に拘泥し続け、その答えを得る
ためになりふり構わず生きてきた。「私」を解析することで、広く「人間」
というものの核心に迫れるのではないかと思ったからである。
 私は「人間」を知りたかったのだ。 私とは何かという問いから始まって、
人間とは何かを突き止めたかった。・・・ ≫
▼ 現在の、私の心情に、重なる部分が多い。数十万人?に向けて書く
 内容だから力が入りようが自然と違ってくるのだろうが、この湧き出て
くる力は、心拍停止から蘇った経験があればこそ。そう、4年前の一連の
出来事が、『脱皮』だったことを、彼女の脱皮した文章から、自覚した。
 『脱皮』といえば、51歳の時、母親を見送って、さて如何するか?
と考えたとき、還暦までに、死ぬまでの大よそ30年分のしたい事を
可能な限り、やり尽くすと決めた。 その時も『脱皮』であった。
だから8割?の有象無象を無視できる! 人生、良いように出来ている。
・・・・・・
4928,パワレルな知性 ー6
2014年09月11日(木)
     * 人間の持つ二重性    『パワレルな知性』鷲田清一著
 「ひとりの人を理解するまでには、少なくとも1トンの塩をいっしょに
舐めなければならない。」と、須賀敦子に諭したイタリア人の姑の言葉が、
古典や人とのつき合い方についての根本を示している。人間は、40億年の
生命の進化の歴史を背景に持つ複雑怪奇な生きもの。自分の中にある
グレーソーンに多くの何かが隠されている。 ーその辺りからー
≪ ・・白黒つけられないこと、グレイゾーンにあることこそ、じつは大きな
 意味をもっているのではないかとおもってきた。「噛みきれない想い」を
抹消しないこと、それが思考の次のステップの火床になるのではないか、と。
そのことを日常のさまざまな局面で確かめてみたかった。わたしは子どもの
頃から、物ごとを見るとき、表面上の意味とは反対の意味を背後に透かし
見る癖があった。その癖の源となったのは、幼少期のある体験である。
 わたしは、京都の下京区という下町の生まれである。お寺が多く。
そこを通り抜けると島原という花街があるという土地柄で、わたしは子ども
のころ、若い修行僧や芸妓さんとよく道ですれ違った。修行僧は冬でも裸足
に草履履で、服装もきわめて簡素で、逆に、芸妓さんはきらびやかなきもので
着飾っていた。子どものころのわたしは、「お坊さんは寒いのに可哀相やなあ」
とおもい、「芸妓さんは優雅やなあ。おいしいもの食べ、きれいなきもの着て」
とおもったものだ。 しかしその後、そうした表面的な印象とは逆の面が
見えた出来事があった。
・一つは、祖母から「お寺さんは貧相な格好に見えるけど、わたしらが知らん
 『浄土』という、この世にはない幸福を知ってはるんよ」と言われたこと。
・もう一つは、芸妓さんがお座敷に出る前に地味な洋服姿で銭湯に行き、
 帰り道にお宮に参って「早う故郷に帰れますように」と祈っている姿を
 見たことである。
貧相の極みに見えた修行僧の心にはこの世ならぬ幸福があり、豪奢の極みに
見えた芸妓さんの心には寂しく哀しい想いがあった。わたしはそのことを
知って、「物ごとって、見た目だけやないんやなあ。わからんもんやなあ」
と、世の中に対する見方が少し変わった気がした。わたしが哲学の道に
進んだのも、子どものころから身についた‘物ごとの裏側を見透かす癖'
が遠因となったのかもしれない。・・・ ≫
▼ 実家が衣料小売商をしていて、4階建ビルの3Fに4〜10歳まで育った
 ため、日常が戦場真只中! その上に両親を含めた10人家族と、住込み
従業員が4Fと2Fに同居していた。更に猫と、猿と、犬が、同居とくれば、
まさしく小説の世界。そこで、子供ながらに、様々な不条理の場面を見てきた。
子供でも、裏と表が分かるのである。そこでは、まずは自分を自分自身で守る
しかなかった。その中で、姉たちは、成績優良だったから、いま考えると不思議。
その末っ子となれば、「沈黙こそが金」を身につけざるを得なかった。
全てがグレーゾーンで、裏も表も、斜めも、底もある生々しい世界で、娑婆
そのもの。それが、その後の社会経験の中で、危険な場面を乗越えるノウハウ
になっていた。 直感的リスク管理が、幼児時代に身についていたことになる。
人間科学を学び続けて知ったことは、『人間の持つ多重性』である。 
幼児、少年時代の、この体験の上に、学生時代の寮生活と、武澤ゼミの
「ケーススタディ」が加わっていた。今回の節目の一連の構えを備えていた
のも、それらの蓄積があればこそ。人間の持つ多重性の奥底を知ればこそ。 
で、この結果、この様だから、何を言わんか。それにしても、見え過ぎるのも、
面白い反面…?奇妙なもの!
 後記)ところで、読み返してみたところ、私の内容の方が中味が濃い? 
    いや、丁度よい? 悪い?
・・・・・・
4561, 2050年の世界 ー4
2013年09月11日(水)
         「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 
                  英『エコノミスト』編集部 (著) 
本書は(第一部:人間とその相互作用)(第二部:環境、信仰、政府)
(第三部:経済とビジネス)
(第四部:知識と科学)それぞれ5章の合計20章から成る。
人間、宗教と政治、経済、知識と科学の、4つ括り。
次回からは後半ほど面白いため、20項目の一番最後から⑳⑲⑱⑰と
逆向きに取り上げる。 ーまず目次からー
  (第一部:人間とその相互作用) 
① 人口の配当を受ける成長地域はここだ ② 人間の病気の将来
③ 経済成長がもたらす女性の機会  ④ ソーシャル・ネットワークの可能性
⑤ 言語と文化の未来
 (第二部:環境、信仰、政府)
⑥ 宗教はゆっくりと後退する     ⑦ 地球は本当に温暖化するか
⑧ 弱者が強者となる戦争の未来    ⑨ おぼつかない自由の足取り
⑩ 高齢化社会による国家財政の悪化をどうするか
 (第三部:経済とビジネス)
⑪ 新興市場の時代      ⑫ グローバリゼーションとアジアの世紀
⑬ 貧富の格差は収斂していく ⑭ 現実となるシュンペンターの理論
⑮ バブルと景気循環のサイクル
 (第四部:知識と科学)
⑯ 次なる科学        ⑰ 苦難を越え宇宙に進路を
⑱ 情報技術はどこまで進歩するか  ⑲ 距離は死に、位置が重要になる
⑳ 予言はなぜ当たらないのか
▼ これを見ていると、人口の推計以外、どれもこれも、この程度ではない?と。
 日本一つ取り上げてみても、40年前の1973年は高度経済成長の真っ只中、
石油ショックで茫然自失。12年後にバブルが発生、5年後にバブル崩壊。
そして、失われた20年を経て、リーマンショックと東北大震災。現在は
1000兆円の借金を抱えている。明らかに10年後は国家破綻国の可能性が大。
まして、40年後は・・・ それでも、叩き台として想定するのは必要である。
最終章の「予言はなぜ当たらないのか?」の答えは、「土台無理のテーマ」。
情報化によるグローバル化で、世界が平準化していく結果は、誰も想定出来ない。
・・・・・・
4186, 閑話小題 ーヨーカ堂の正社員削減
2012年09月11日(火)
   * オスプレーを一番必要としているのは日本じゃないかい?
 政府がトラフ地震の被害情報を発表してから、次の大震災に対しての被害想定
が表立ってきた。道路が寸断された災害地に対する緊急の救済にヘリコプター
が一番有効に働くが、短距離しか有効に働かない。問題は中距離からの輸送。
そうオスプレーのような中距離の大量空輸が可能な緊急輸送手段こそ必要になる。
被害地の近くに飛行場は無いのである。問題は数千、数万の命に関わる問題、
危ないとかいっている場合でない。尖閣列島などの領土問題でもしかり。
もし戦闘になった時に最も必要になるのは中距離輸送。 オスプレーの着陸は、
別に住宅密集地にする必要がない、問題はコース。ヘリ機能はコースを如何
ようにも変えられる。こういう意見は、この国では口に出せない。
出せば袋叩きになる。何かがおかしい!
   * ヨーカ堂の正社員削減
 ヨーカ堂が現在の正社員8600人を4,000以上削減すると発表し、
パート比率を90%に引き上げるという。それだけ、経営状況が悪化している
ということだ。 ヨーカ堂グループは、セブンイレブンを持っているので、
グループとしての経営体質は良いが、その発生の元のGMSの業態のヨーカ堂店舗
を多く抱えている。それが正社員比率を一割まで減らすというから驚き。 
店舗も一割削減するため均衡縮小になる。情報機器が高度化しているため、
それほど店舗レベルの質の低下は避けられるのだろう。
地元の長岡駅前のヨーカ堂は、私と家内の目からみて死に体の店。
ファッション、雑貨に買いたくなる商品が皆無。
 ・・・・・・
3821, 哲学人 ー�
2011年09月11日(日)
 * ウィトゲンシュタインの『論理哲学考』   
              ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
   ー まずは、以下の箇所である。
【 オックスフォードでは、しきりとこの本「論理哲学考」が参照されていた
 けれど、学生は読むように勧められていなかった。これを理解するには、
論理学の技術に習熟する必要があったからである。・・ 私はこの本に取り組む
準備はできていると感じた。 このような本だと知ったときほど驚いたことは、
あとにも先にもないのではないだろうか。オックスフォードでは『論理哲学論考』
は常に論理実証主義の基礎をなす文献として挙げられていた。ところがきちんと
読んでみると、その中心テーマは論理実証主義のほぽ対極にあった。
論理実証主義者は、世界に関するあらゆる真理探究を科学に同化させる傾向が
あり、その結果、科学を律する基準によってすべての真理探究活動を判断し、
科学的発言に適用されるルールによってすべての発言の妥当性を判断した。 
観察か経験により立証されるものしか、世界について知ることはできないので
あり、確実な論拠を提出できるものしか、有効に、もしくは正当に語ることは
できない。だが重要な事柄はすべて、少なくとも原理上は語ることができるはず。
そして曲がりなりにも語ることができるものは、明確に語りうるだろう。
『論理哲学論考』は、こうしたこととは正反対に、きわめて重要なものの
ほとんどはまったく語ることができず、言葉を使ってもせいぜい示すことが
できるだけと言いきっていた。それは示されうるとしても、語ることはできない
のだ、と。 また、「論理哲学諭考』は科学をあまり評価していなかった。
命題言語が有効なのは、経験や分析に基づく真実、すなわち事実と論理にかわる
事柄を表現する場合にかぎられる。それ以外の分野では、役に立つというより
むしろ誤解を招きやすいので、有益というよりむしろ有害となりやすい。
このため、私たちにとってきわめて重大な意味をもつ問題はどれもその範囲の
外にあることになる。倫理・道徳・価値観に関する疑問・人生の意味に関する
疑問、自我や死の本質に関する疑問、全体としての世界の存在に関する疑問は、
観察にも論理にも解決できない。したがって命題言語が扱えるものではなく、
強引に命題言語で処理しようとすれば、行き詰る結果となる。】
▼《『論理哲学論考』は、きわめて重要なもののほとんどはまったく語ることが
 できず、言葉を使ってもせいぜい示すことができるだけだと言いきっていた。
それは示されうるとしても、語ることはできないのだ、と。また『論理哲学諭考』
は科学をあまり評価していなかった。命題言語が有効なのは、経験や分析に
基づく真実、すなわち事実と論理にかわる事柄を表現する場合にかぎられる。
それ以外の分野では、役に立つというよりむしろ誤解を招きやすいので、有益と
いうよりむしろ有害となりやすい。》 上記の中で、この部分は非常にシビアで、
したり顔で小理屈を述べている学者風の人を一言で切り捨てている。これは哲学
の否定でもある。語りえないことを、哲学は求めていることになる。
論理実証主義者と言語哲学者たちが、この『論理哲学考』を全く誤解していた
ことになる。
*「論理は考えられるもの」の範囲を定める。 
* 語りえないものには沈黙を 
* 言語は「写像形式」によって世界につながっている。 
 言語はものや出来事を写し取って名前をつけたもの 
* 言語が対象に意味を持たせる=言語ゲームの始まり、である。
「言語が語れることだけが思考できる範囲」と言うが、私として、
「解釈できる範囲が思考できる範囲」であって欲しいが。
 ・・・・・・・・
3456, 渥美俊一氏死去 −2
 2010年09月11日(土)
 一回の追悼文で終わる予定だったが、何か言い足りないので更に書く。
7月21日に亡くなったが、どういう訳か死亡記事を見過ごしてしまった。
知人に聞くと日経新聞に小さく載っていたという。氏の業績から言えば、
より大きく取り扱われてよいのだが、既に時代が変ってしまったか? 
所詮はスーパーの神様でしかないのか。早くいえば、流通先進国アメリカを
ウォッチング、そっくり真似をし、日本の遅れている流通経路に新しいバイパス
を創りなさい、ということである。「大量生産、大量消費の間に、大量流通の
仕組みつくりを、それぞれの立場で、新業態をつくること、それをロマンとして
志すべし」は、高度成長期には正しいことであった。その時期、ジャスコ、
いとはん(その後、北陸ジャスコ)に勤ていたので、濁流の渦で色いろな現象
を目の当たりに見てきた。バブル崩壊。以降、今度は激しい生存競争に晒される。
その中で、長崎屋、マイカル、ダイエー、西武流通グループなどが次々と姿を
消していった。大手で残ったのがジャスコ=イオン、ヨーカ堂だけになって
しまった。その二社も最近、変調をきたしてきている。
(字数制限のためカット 2011年9月11日)


5292,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー⑦

2015年09月10日(木)

         ー私は「言葉」を諦めないー(新潮45/5月号)
             〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
  * 私の物語、私が書かずに誰が書く
 一年前に50回に渡ってー「事業人生を決心して45年」の語り直しー
を書いていた。思い浮かぶままの書きなぐりだったが、傍目からみたら、
バイアスがクッキリみえていたのだろうが、それが、その時の私自身である。
それも他人に向けて書いた内容ではなく、自分自身の旅路をそのまま書き
残したもの。あとで余禄も書いてあったが。  〜その辺りから
≪ 我々は皆、それぞれの思考や感覚の癖によって歪められた主観世界に住み、
自分に都合よく書換えた物語を生きている。登場する他者たちもリアル世界
の存在ではあるものの、そのキャラクターは主観者によって解釈され色付け
されるため、被害妄想的な物語を紡ぐ者にとっては迫害者となる一方で、
同じ人物が別の人間の目には英雄的存在として映っていたりするわけである。
 したがって、どれが本当の物語なのかは誰にもわからない。いや、本当の
物語などないのかもしれないのだ。マリー・アントワネットやヘンリー8世と
いった歴史上の有名人物も、その語り継がれたエピソードを忠実に再現しても
なお、解釈のしようによってその人物像はいかようにも描かれ得る。
私は私の物語をできるだけ正直に書こうと心がけてはいるが、己の主観の歪み
からはどうしても逃れられないため、公正なる第三者(そんな者がいるとして)の
目から見ると、かなりバイアスのかかった物語になっている可能性も大いにある。
それを考えると「正直でありたい」などという‘夢'というか、途方もなく
誇大妄想的な万能感に基づく放漫な野望なのかもしれないのだ。
 だが、私はそれを承知していてもなお自分の物語を書かずにはいられない。
私の物語を私の視点で語れるのは、この世に私ひとりしかいないからだ。
私が書かなくて誰が書く、といった心境である。いや、ぺつに誰も書かなくて
いいけど。どうせくだらない物語だしね。 しかし私は、ただでさえ少ない
脳みそをぎゅうぎゅうに絞っては、必死で己を表現しようとしている。私が
「言葉」を諦めないのは、自分の物語を諦めたくないからなのかもしれない。
私が体験したこと、私が感じたこと、私が見てきた世界の風景を、ありのまま
に届けたい。それは何故か? 私は何を伝えたいか? おそらくこういうことだ。
 私が何者なのかを、私は知らない。自分が何のために生きたかもわからない。
そんな無知蒙昧な私が己の人生を通して、どのような答えに行き着くのか、
私とは何者だったのか、私の人生にはどんな意味があったのか、それを
読者に問いたいために、私は私の物語を書くのである。 
 正確なジヤッジを下して欲しいから、できるだけ正直に書きたい。
私の主観によるバイアスも含めて、私という人間を客観的に解読して欲しい。
その結果、とんでもない詐欺者だという結論を下されようが、ただの頭の
おかしい自己顕示欲女だと言われようが構わない。私は他者の目にどう映るか…
それが知りたいから、私は書く。間違っていようが狂っていようが、私の中の
本気の言葉を書き続ける。「言葉」は私の神であり、「言葉」は私自身である。
そんな私の言葉を信じなくても構わないし愚弄したければしてもいいが、
わざと歪曲するのは許さない。無意識から生まれた曲解であれば仕方ないけど、
故意にやったらそれは悪意だ。私に対する、いや、私の「言葉」に対する
侮辱なのである。・・・ ≫
▼ 人の口は歪曲そのもの。その歪曲を許せないとは! とすると、
 己の歪曲もまた許せないことになる。そこから悩みも矛盾も出てくる。
物書きだから、仕方がないとしても・・『日々是口実』と自覚を持てば、己も、
他者の歪曲も許せ、見逃せる。 自分の物語を書き出すことは、自分の歪み、
壁に気づくことになる。 それこそが自分自身であると自覚することになる。
・・・・・・
4927,パワレルな知性 ー5
2014年09月10日(水)
   * 専門主義と、教養     『パワレルな知性』鷲田清一著
 人生を振返ると、あらためて教養の必要性を感じる。仕事や、目先の事象に
影響する経験や知識でない純粋に知っておくべきことがある。古典文学、芸術、
音楽、大自然の景観に感動することや、世界の果てから、あらためて現在の
自分を振返ることも、教養である。その積み重ねが、複眼で問題を見ること
を可能にする。見識が狭いと、その枠内でしか考えることが出来ない。
 ーその辺りからー
≪ 学者や専門家は、ながらく、みずからの知的努力を一つの専門領域に絞り、
専門外の領域に対しては、越権行為としてみずから禁じてきた。逆に、専門外
の意見は、受け入れようとしなかった。しかし情報化の時代に、そんな態度は
とれなくなってきた。 ・・協同するプロたちにとって、組む相手はいずれも、
じぶんの専門領域からすればアマチュアだということだ。とすれば、ほんとうの
プロというのは他のプロとうまく共同作業ができる人のことであり、彼らに
じぶんがやろうとしていることの大事さを、そしておもしろさを、きちんと
伝えられる人であり、そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けること
のできる人だということになる。一つのことしかできないというのは、
プロフエッショナルではなく、スペシャリストであるにすぎない。
 このことが意味しているのは、ある分野の専門研究者が真のプロで
ありうるためには、つねに同時に「教養人」でなければいけないということ。
「教養」とは、一つの問題に対して必要ないくつもの思考の補助線を立てる
ことができるということ。いいかえると問題を複眼で見ること、いくつもの
異なる視点から問題を照射することができるということである。このことに
よって一つの知性はより客観的なものになる。そのためには常日頃から、
じぶんの関心とはさしあたって接点ない思考や表現にふれるよう、心懸けて
いなければならない。じぶんの専門外のことがらに対しいつも感度のいい
アンテナを張っていること、そう、専門外のことがらに対して狩猟民族が
もっている感度の良さが必要である・・≫
▼ 穴を深く掘ろうとしたら、間口を広くしなければならない。その間口
の広さが、知識の幅になる。ここで、スペシャリストとプロフェッショナル
との違いが分かりやすい。そのために、人の話を聞くこと、本を読む、何事
にも興味を持つ、一流のものに接する、とにかく変化する、など長年かけた
習慣が必要になる。情報化の時代、専門主義では大波に一瞬で流されてしまう。
それにしても我が教養の少なさを実感する。これも自覚できるか、出来ないか
の違いでしかないが! 高学歴ほど、それが分からないから始末が悪い! 
知れば知るほど、知らないことが多いことに気づくはずなのに、である。
知れば知るほど、膨大な未知の世界の存在に気づくはずなのに、である。 
専門分野も、掘り下げれば下げるほど、専門外の知識が必要になって然る
べきだが? 掘り下げが中途半端だから、視野狭窄になる?
・・・・・・
4560・横尾 忠則の老人論 ー3
2013年09月10日(火)
 「猫背の目線」横尾 忠則 (著)
    * コスプレの公開制作が面白い!
 コスプレはアニメやゲームなどの登場人物やキャラクターに扮する行為。
画家が、自分の描く風景の登場人物のコスプレで公開制作とは面白い。これまで
色いろな職種を経験してきたが、制服を着た当初はコスプレのような感がした。
それも数日で同化するから不思議。それは事業も同じで、無我夢中で取り組んで
いるうち、その機能になってしまうもの。人生もコスプレのように、服装も心も
身体も全身仮面で時節ごと付け替えているに過ぎないのではないか。
化粧と服装も、自分が主役のTPOSに合わせたコスプレ? ギャルとか、
キャバクラ嬢の見なりは、その典型・・
  ーその辺りの箇所からー
《 1980年代にさしかかった頃、グラフィクデザインから画家に転向したが、
 当初アトリエがなかったため美術館のスペースで絵を書く事が多かった。
それもただで場所を提供してくれるところはなく、「貸してあげるが公開制作
にしてくれないか」という条件が出された。絵は本来アトリに独り籠って
かく孤独な作業なのに人前で描くということは考えてもいなかったので、
果たして描けるかどうかに頭を痛めたが、やってみると意外と抵抗なく、
むしろスイスイ描けることに我ながら驚いたものだ。
 それ以来アトリエができるまであちこちの美術館で公開制作を行ってきた。
人前で描くことは確かにプレッシャーになったり、ストレスの原因を生むが
慣れてしまえぱ平気。背後の観客から、集中する僕に突き刺さってくるのが
ヒシヒシとわかる。こんな想念がぼくの中でエネルギーに変換されてより
創造的になることを発見した。この場合の創造というのは無私になること。
不思議なことに雑念が去来しなくなるのである。そう言う意味で座禅に近い
のかもしれないが、座禅とて雑念に振り回される場合が多い。
その点、公開創作の方が「私」意識が薄れるのである。それはは考えるという
ことと描くということが一体化されるからだ。おまけに描くスピードが早く
なり、手と心が同化していくのがよくわかる。だから時には一日で150号大
の作品が描き上がることさえある。観客がこちらの一挙手一投足を固唾を飲んで
見ているのが体に伝わるので、思わず手を休めるのを忘れ描き続けてしまう。
このことが描きてであるぼくを解放する。公開制作の味を占めたぽくは最近
また続づけるようになった。しかもコスプレによって制作する。
公面制作で描く絵は、ぼくが近年描き続けている「Y字路」である。
そこで道路で作業している現場の人たちと同じ格好で絵を描くことにした。
街でよく見かけるー幅の広いズボンにベスト着用、頭にはタオルを巻いてー
とこんな風景をよく見かけるでしょう。つまり鳶職スタイルである。
他の学芸員も道路工事の関係者の役回りになってもらう。
最初は観客は度肝を抜かれ、ギョッとした顔になって、次はケラケラ笑う。
それも一瞬、こちらが真剣に絵を描くものだから、あとは会場は水を
打ったようになる。 よく仮面効用というが、コスプレはまさに全身仮面
になり、人格も他者になるわけだから不思議な解放感に襲われ、その結果、
実に自由な気分になるのである。そして描く行為そのものも絵と同じように
作品化されてしまう。だから観客はパフォーマンスを鑑賞することになる。
制作の休憩時間に美術館のレストランにこの格好で入っていくと、
まずお客は場違いなものを目にしたわけだから、なんとも当惑した顔をする。
われわれに向ける視線には明らかな拒否反応の色が見える。
「作業着のままでよく、ソフィスティケイトされた美術館のレストランに
入ってくるわね」という視線を投げてくると同時に「レストランの人たちは
何もいわないのか」と。ぽくがコスプレしていることがわからないのだけど。
そんな反応をぼくは実は楽しんでいるのである。これも仮面の効用で、
普段体験できない経験にほくは悦に入っているというわけだ。》
▼ それは、自分自身にも人間そのものにも当てはまる。両親合作の心身を
「魂らしい自分の芯」が、コスプレ? としての自分を見つめ続けている。
さすがに横尾忠則である。描き手の目線を、その環境の一人として、まず
服装から当事者になってしまう。そして観客も、その場の一人として
引き込んで、作家のイメージの世界に誘導する。
・・・・・・・・
4185, 呪いの時代 ー4
2012年09月10日(月)
             「呪いの時代」内田樹著
 * 脊髄反射的その場のつくろい  ー第3章「後手」に回る日本ーより
島国の閉鎖的社会では、問題を荒立てないために「その場のつくろい」も必要。
しかし、情報化社会では、それは許されるものではない。現在の日本の政治は、
毎年、首相を交換させることで、その場のつくろいをしているに過ぎない。
それを国民が求めているから首相は、問題解決の痛みを敢えて強いない。
そして一年もしないうちに引きずり下ろされる。
  ー以下の部分は、その理由を端的についている。
≪ 日本の政治家とアメリカの政治家の違いというのは、武道で言うと、
 アメリカは基本的に「先手」の人であり、「日本は後手」の人ということ。
欧米では、とりあえず国家が行くべき道というか、実現すべき国家像という
ビジョンがあり、それが国民的規模で共有されている。日本には、そんなものは
ありません。終戦時に、それがなかった。とりあえず「アメリカ人が日本が
かくあるべしと考えていること」をもって国是とした。「自分で与えた憲法の
理念と背馳する命令が出せるほどの強大な国家には従属するしかない」という
経験則が存在したということです。それが日本の国是です。アメリカに従属する。 
・・相手が次に打ってくる一手に最適対応すべく全神経を集中すること。
どれを武道では「居着き」と言います。物理的には足の裏が地面に張りついて
身動きならない状態ですが、構造的に「負ける」ことです。日本の政治が三流
であるということはそういうことです。政治家個々人の資質がどうこうでなく、
構造的に負けているのです。国家像が描けない、統治原理が語れない、外交
戦略が起案できないというのは個別的な知性の問題でなく、日本人全員が罹患
している国民的な病です。・・・ ≫
▼ 現在、日本が直面している問題は、まさに上記のことによる。数十年に
 渡って、間接的米国隷属国家として、当然、と言えば当然で、これしか
出来なかった。上司と部下の関係である。アメリカには建国の精神がある。
独立宣言書である。何かあると、ここに立ち戻って、立て直す。問題あるのは、
それから軌道がそれたと理屈づけ軌道修正をしてきた。明治維新も、太平洋
戦争の敗戦も、アメリカの圧力で変化を余儀なくされた。それに日本人の
特質もあり、後手という守りしか手が打てなかった。 現在の領土問題も、
これから起因して周辺各国から遊ばれている状態。   〜つづく
・・・・・
3820, 哲学人 ー�
2011年09月10日(土)
  * 現実と経験と言語は一緒ではない 
             ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
  ーまずは、「現実把握は、言語的分類次第で決まる」という部分からー
【 言語が経験を構成するというのである。この見解について
  ジョーン・サールが、明快に述べている。
≪ 私は言語が現実をつくると言っているのではありません。とんでもない。
 むしろ、私が言おうとしているのはこういうことです。何を現実とみなすか
 ーどういうものをグラス一杯の水として、一冊の本として、一脚のテープル
としてみなすか、どういうものを同じグラスとか違う本とか二脚のテープルと
みなすかー は、私たちが世界に押しつけるカテゴリーしだいなのです。
そして、こうしたカテゴリーはたいてい言語的なも。それだけではありません。
世界を経験するとき、私たちは経験そのものを形成する際に役立つ、言語的な
カテゴリーを通じて世界を経験しているのです。世界はもとから物体と経験
に分かれて存在しているわけではありません。何を物体とみなすかは、
もともと私たちの表象体系の一機能の結果であり、経験のなかから世界をどう
知覚するかは、その表象体系に影響を受けているのです。 言語を世界に適用
することを、いわばみずから独立自存する物体にラベルをつけることだと想定
するのは間違いです。私の考えでは、世界は私たちが分類するとおりに分類
されるのであり、事物を分類する主な方法は言語によるものなのです。
 現実の把握は、言語的なカテゴリーしだいなのです。≫
この考え方はいまなお、哲学者ばかりか、文学や言語学をはじめとする
他分野の専門家たちによって、さらには、一部の社会学者や人類学者たちに
よって唱えられている。「何を物体とみなすかは、もともと私たちの表象体系の
一機能の結果であり、経験のなかから世界をどう知覚するかは、その表象体系に
影響を受けている」という点について、私もサールに賛成したいし、誰もが同意
しなくてはならないだろうが、私としてはこれをカント哲学的な意昧に解釈
したいと思う。 ただし、その表象体系に含まれるカテゴリーが基本的に、
もしくは第一に言語という性質をもつとする点は認められない。考え方と
してはわかる。 わからないのは、そしてこれまで一度として理解できた
ためしがないのは、どうしてそんな考えを抱けるのかということだ。
というのも、それは私の直接の経験によって真っ向から否定されるように
感じるからである(この点に関して私が特殊であるとは思えない)。】
▼ 事業が、この結果(倒産)で終わった。総括は頭を冷やした来年早々にする
 つもりだが、それが、この30年の構成の提示になる。創業10年、中間期
10年、最後の10年、そして最後に、どのような終わり方をしたか?、
その時の断面は、どうだったか。それを、どういう切口で分類し、評価するか。
30年、人生の事業生活の大部分を注ぎ込んだ、この結果は? 要は、倒産で
終わったということ。その視点を失うと、総括は不可能になる。炎上している
世界経済と、ネット社会の移行の中で日常が音を立てて変化している。
その中で、言語的分類の枠組みを立て直すことが、まず求められる。
「3つの震災が何もかも飲み込んだように見えるが、実は情報化の潮流に飲み
込まれたのが真の理由だったのか?」これも言語的分類。分類は分析の第一歩。
そのプロセスが総括。そこで価値(意味)を自ら下げることもない。
今までの価値観のコペルニクス的転換の時。ここの小テーマが「現実と経験と
言語は一緒ではない」である。 当然、この小テーマが問題になる。
「言語は、それを構成する」だけ。消滅してしまった事業の総括。
ただ、それだけだが・・あと講釈でしかない、だから冷静に見つめないと。
意思決定から45年である。
・・・・・・・
3455, 渥美俊一氏死去
2010年09月10日(金)


5291,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー⑥

2015年09月09日(水)

      ー私は「言葉」を諦めないー(新潮45/5月号)
           〜心肺停止になって考えたこと 8! 中村うさぎ
   ☆ 「口先コミュニケーション」
 6月号を読んだ後、逆順の5月号の内容になる。私同様に、彼女もまた
世間様といわれる人たちを蛇蝎のごとく嫌っていて、その理由を、わざわざ、
「口先コミュニケーション」と項目を立てている。何も考えようとしない輩。
その言葉が、自らの想いや考えを伝えたり、まとめる手段ではなく、適当な
世間話の手段でしかないことを指摘する。彼らは、他者の理解など出来ようも
ないし、必要もない。何故なら、会話と対話の差異を知りようもないし、
対話など死際での家族とのやり取りか、窮地に陥った時ぐらい。『新潮45』
の読者にも、世間様が存在することもあって、「口先コミュニケーション」
というお品のよい言葉にしたのだろうが、この一連の彼女の手記の多くが、
ドブネズミたちに言いたいこと、そのままが素直に書かれている。
   〜その部分を抜粋〜
≪ 私には、人の気持ちがわからない。同じ世界に生き、同じ空気を吸って
 同じ場を共有し、同じ風景を見ているつもりでも、おそらく私の目に映って
いるものと他人の目に映っているものはまったく違っていたりするのだろう。
我々は「主観」という名の脳内世界を現実世界だと思い込んでいて、
それがどんなに歪んでいても気づかないし、たとえ間違いを指摘されても
おいそれとは自分の世界を描き変えられない。 こうして我々は、すぐ隣で
肩を並ぺている人とまったく違う風景を見ながら同じ体験を共有している気分
になっているのだ。そして、同じ風景や体験に一緒に感動しては、相手と心が
繋がったように錯覚している。本当は、それぞれが全然別の物語を生きている
というのに。ああ、諸君。このようなことを私はずっと以前から了解していた
はずだし、他人が感じていることと自分が感じていることは違うのだと己に
言い聞かせ、それを思い知らされるようなことが起きても動じない心づもりで
あった。 『が、実際には、私は何もわかっていなかったのである。』
その証拠に今回、自分を理解してくれていると思っていた人々がまったく
理解もしていなければ信頼もしていなかったこと、私と仲良くしてくれている
と思っていた人が私を蛇蜴のごとく嫌っていて陰でその心情を吐露しまくって
いたことを知って、心の底から驚いてしまった。こんなのは世の中によくある
ことなのだろうが、少なくとも私にとっては近年まれに見る出来事であった。
何故なら「周囲の人々」は心にもないお世辞や表面的な社交辞令などを言わず、
むしろ毒舌と呼ばれながらも本当に思ったことしか口にしない人々であり、
しかも言いたいことは相手に面と向かって告げる人が多いので、今回私を
驚かせた人々がずっとやっていたような口先だけのコミュニケーション作法
をすっかり忘れていたのだった。 だが、諸君、私は問いたい。
言葉が自分の想いや考えを伝えるものでなく、適当に相手をごまかすための
ものならば、我々は他人の言葉の何を信じればいいのか。そして、そのような
口先コミュニケーションが世間一般の常識なのだとしたら、「誠実さ」とは
いったい何か。そんなものは幻想なのか。少なくとも私は心にもない言葉は
絶対に言わないように心がけてきたし、たとえ相手にとって耳触りが悪くても
伝えるべきことはきちんと伝えてきたつもりである。それが「誠実さ」だと
私は思っていた。だが彼ら彼女らはそんな私を「幼稚」で「無神経」な人間
と思っていたようだ。 まあ、確かに「無神経」なのは認めよう。こんなにも
人の気持ちがわかってなかった私が繊細な感受性など持ち合わせているとは
思えない。しかし、それなら彼ら彼女らは、人の気持ちがわかっているのか。
少なくとも彼らは私が本気で語ってきた言葉を一切理解してなかったし
信用してもいなかった。私がどれだけ本気かわかっていなかったのだ。
彼らは私のことも自分たちと同様の口先人間だと思っていたのだろうか。
ならば、彼らはまったく私という他者を理解していなかったことになる。
そんな人たちに「人の気持ちがわかる」はずがないではないか。
彼らは私などより遥かに「空気の読める」人々である。だが、空気が読める
からといって、人の気持ちがわかっているわけではなさそうだ。(略)・・
・・ 私にとっては無意味な人間関係だが、それで彼らの世界が回っている
のなら、それでよかろう。永遠に空気なるものを読みながら、中身のない
価値なき言葉を吐き続ければいいのである。それが君たちの入生だ。
そして、そんな君たちの人生や処世術に、私は何の関心も持てない。
念のために言っておくが、私は彼らの人生に価値がないと言っているのでない。
彼らの人生には彼らなの価値がある。ただ、その人生においては、言葉に
価値が与えられてないだけ。彼らは言霊のない世界に住んでいて、そこでは
空っぽの言葉が行き来している。が、おそらく言葉ではなく別のものに
価値があるんだろうから、それはそれで、いいんじゃないかと思う。≫
▼ 死の間際から生き返り、改めて身辺を見たときの澄みきった感覚は、
 4年前の経験や、過っての色いろ味わってきた。 「うさぎちゃん」が
怒っているのも、彼女の、それまでの脇の甘さからくるもの。世の人は、
大体が、この程度のものと達観すれば、そこに慈愛が湧き出てくる。
それだけ、世人は口先人間が、目先で、口先で、空っぽのことで騒いで
いるに過ぎない。それを怒るとは、彼女自身も、同類になってしまう。
しかし、それらの多面をとらえて、全身で受け止めるのも彼女だからこそ。
『よくぞ、書いてくれた!うさぎちゃん』である。でもアフォか! 誰が?
・・・・・・
4926,パワレルな知性 ー4
2014年09月09日(火)
  * カフェという集い −③   『パワレルな知性』鷲田清一著
 カフェといえば、TV番組の中にカフェ方式をとったのを幾つか見かける
ことがある。特に日曜日に多いのは、休日の居間をカフェに見立て、気楽に
一週間分のニュースを異種の人たちの対話を通して楽しませるため。
関西系の『そこまで言って委員会』『サンデーモーニング』『笑点』、
がそれ。知らないうちに、視聴者が、その場に居るような感覚になってしまう。 
そこでは、テーマを提示して、異種の業界の人たちに議論を面白おかしく進行
させ、楽しませるキャスターの役割が大きな要になる。 レギュラーには、
それぞれ役割があって、本人も、それをわきまえ対話に参加する。
バラエティ番組も、その傾向があるが。視聴者の多くが、非専門家を前提に、
各種専門家の議論を楽しませるのだから、出演者たちは大変のはず。
グローバル化とは、「多文化共生」になること。 カフェに似た文化に、
イギリスならパブ、スペインならバール。バールは、イタリア、スペイン
などの南ヨーロッパで軽食喫茶店、酒場のことをいうが、一日、一回は立寄り、
誰かと話す文化が深く根付いている。特に大都会は「異文化、多文化共生」
の傾向が強くなる。しかし、情報化の時代、世界中がネットで結ばれ、
異種の価値観が交差する中、逆に、自国の文化を知っていなくてはならない。
情報化だからこそ、カフェや、酒場などで直接、異質の人との対話の中から、
知見を得ることが重要になっていく。フィリピンパブとか、ロシアンパブの
痴的会話?でなく、あくまで知的対話が前提になるが・・ 
 最近、喫茶店が見直されてきたが・・ 
・・・・・・
4559, グレートジャーニーから見えてきたことは ? ー3
2013年09月09日(月)
  * 平等こそが生き延びてきた知恵! しかし欲望が人間を変えた
 実験によると、チンパンジーは平等に非常に敏感。これに仲間内の力関係が
絡むので、集団は非常に複雑でデリケートで、その研究から人間の本質が垣間
見ることが出来る。平等原理はアマゾンなどでは生きていくために必要なこと。
極限の生活で生きていく上で、常に分かち合うのが合理的であるからだ。
しかし、文明の進化?が、社会的階級と富の独占を生み出し、さらに
グローバル化が、それに拍車をかけている。 
≪ たけし〕 関野さんはいろんな未開地に行っていますが、人食いとか
 カニバリズムは見たことがありますか。
関野〕うーん、少なくとも、僕は見たことがないですね。
たけし〕「人食い人種」とか言うじゃないですか。
アマゾンやニューギニアで、そうした風習はなかったのかな。
関野〕 例えばマヤとかアステカで生贄の人間から心臓を取ったりしたことは
あったけれど、それを食べたかどうかは分からない。生贄にする人間は、
誰でもいいわけではなく、強い戦士でないといけない。 勇気をもらうとか、
そういう意味があるんです。しかし、アマゾンで生き延びるために相手を
殺して食べるということは、過去にも僕はなかったと思っています。理由は、
アマゾンの奥地で僕たち日本人はすぐに餓死するかもしれないが、彼らは
餓死することはあり得ない。・・・
たけし〕 パリ・ダカールで日本人ドライバーが地元の子どもを撥ねてしまい、
慰謝科として何十万円か払ったら、次のレースから子どもを放り投げようと
して侍つている奴がいたらしい。そういうバカなことが起きてしまう。
関野〕 結局、欲望が人を変えてしまう。食料や資源は40年以上も前に
ローマクラブが声明を出しているのに、経済が絶対的に右上がりでなければ
いけないと思ってしまうのは、やはり欲望のせいでずよね。欲望が膨れ上がる
ことによって、一部の人たちたけが富を独占しようとしているのが現代の社会。
アマゾンの人たちと暮らすと、すごく平等なんです。僕は人間が誕生した時に
平等でないと滅ぴていたと考えています。 なぜかというと、まず弱かった
ということが挙げられます。太古の人類は採取・狩猟で生きていたと思われて
いたんですけれども、最近は二本足で立って歩くようになった時は、
狩猟なんかできなかったと見ている。】
▼ レヴィ=ストロースの構造主義などがある。アフリカや南米で残っている
「未開人」の地に何千年も変わらない社会がある。そこは彼らにとって意味の
ある極めて合理的な社会である。決して、西欧が文明の最先端にいるのでは
ないのである。その社会の特徴は平等。文明社会は変化の積み重ねの結果の
産物たが、未開社会は一切変わらぬ「静かな世界」が続いてきた。
そこは冷めた日常があり、美しさがある。変化はエネルギーを要する。
その熱い社会の方が優れているという進歩史観に促われてきたが、それを
根こそぎ覆す説こそ見直す時である。特に地球資源の枯渇でエネルギー問題が
出ているからだ。 私も含めて戦後から、このかた、欧米に追いつき、
追い越せで必死に生きてきた。そしてバブルの崩壊から、失われた20年から、
30年に入りつつある。ここで、考えるべきは、未開社会にある「冷たい社会」
のシステム。 ここに至って何が「東京オリンピック」である。
あれは、追いつき、追い越せの、高度成長期の残物でしかない。
「最後の止めが、これ!」ということが、見えてきた。とんでもない
劇薬であり最後のトドメ。年寄の冷水(酒)か? 
「いいじゃないか、いいじゃないか、ヨイヨイヨイヨイ」ということ。
先がない私たちには、これでよいが? 
「それでは、落選した方が良かったか?」と、問われれば、
どうだろう? どのみち、大して変わらない?なら、踊るか!
・・・・・・
4184, 閑話小題 ーつれづれに
2012年09月09日(日)
  * 元IBM社長が・・・
ネット以外は、あまりマスコミでは流れなかったが、元IBM社長が
アイフォンで女性の下着の盗撮をしたとか。男は50歳までは多かれ
少なかれ異常性欲者?たまたま超エリートが少し変わった趣味だったに
過ぎない、という同情もある。前科があったかどうかだが、
その後、マスコミが騒がないのは悪質で無かったためか。超エリートが、
その危険をかえりみず盗撮をするスリルの快感は本人しか解らない。
私など、最近、時どき深酒で、ある時間から記憶が無くなることがある。
「ハッとして起きてみたら留置場の中」なんてことがあっても不思議はない。
ネットの写真じゃ、満足できないのは分かるが。それにしても娑婆は面白い。
常にデジカメを持って歩いているが、気をつけないと!
  * 「あと20年以上生きそうな感じがする!」には驚いた
 中学校の同級会で隣に座った男の言葉。私など不摂生もあり、
あと5〜10年が限度と思い込んでいたので、実のところ驚いた。
飄々とた何か仙人を思わせる雰囲気を漂わせているが、この感じなら、さも
ありなんである。節制をしているから言える言葉。そこで自分を振り返ると、
どうみても十年以上は無理、せいぜい75歳。まず、そこを目標とすると、
あと8年4ヶ月。2021年1月15日である。何とか節制をすれば? 
しかし、現在の酒量からみて明らかに無理。毎日の晩酌が美味いのである。
 最近、20歳位の人を見ると、「私より50年以上も長く生きるんだ」
という思いが先に立つ。去年春の一連の出来事、人生の側面からすれば、
人生の整理に入るためにフリーハンドになるため。それにしても、自覚は薄い。
で、幾つまで生きたいのか、自分に問うてみた。80歳である。
そこまで生きるべく節制するか、一年一年、二倍濃厚に生きるかである。
それとも、80歳を目標に節制しながら二倍以上濃厚に生きるか? 
濃厚に生きなくても、実際に濃厚だから、このまま?
 ・・・・・・
3819, つれづれに
2011年09月09日(金)
* ドル安がジワジワと景気に影響をしてくる時節に入った。 
 それと新米の問題が出てくる。もし県内の何処かで汚染米が出たら、
 全ての県内米に影響を与えることになる。ヒヤヒヤだろう、農業関係者は。 
 それと輸出業関係者もギリギリのはず。
* ドル安と同時に、ユーロも110円を割ってきた。
 ECもピッグス=PIGS(ポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインなど)
 を抱え、足元が揺らいで いる 昨今、100円を割る可能性がある。
 これも数年前から、破綻すると言われていたことが。そのため、金が一年で
 5割以上も値上りをした。 金が上がったというより、欧米を中心とした
 紙幣の価値が下がったため。 これは株式と国債が暴落につながってくる。 
* 9月、10月のある日、欧州か、アメリカ発の株式大暴落の可能性が大。
 日本国民は東北大震災で大打撃の現在、世界経済の変調の動きに鈍感。
 三年前の9・15、そして、十年前の9・11ダブルの津波の波が、
 いかに甚大なものか、イメージが出てこないのか。 大震災の直後、
 識者も今更騒ぎ立てることもできない。
* 恐らく現在も事業を続けていたら、売り上げは更に3~5割減の筈。
 資金ショートで、業者や給与も払えず倒産の頃。悪い倒産の惨状は地獄。 
 地方経済は、その一歩手前。 世界の何処から火の手が上がるか、木、金
 曜日は要注意。ギリシャ国債の金利が20パー、ということは実質破綻。
 欧州経済は、導火線に火がついた。{ 何か極度に悲観的のようだが、
 まだまだ言葉が足りない。最悪に備えているかである。}
 ・・・・・・・・
3454,  つれづれに −政治談議 
 2010年09月09日(木)
* 民主党党首選挙について
 前にも書いたが中長期的にみたら、やはり小沢がなるしかない。 
管首相は選挙管理内閣で終わるべき。まず、その器でない。それが役割以上の
ことをすれば、それは国害になる。左翼運動家上がりが、さらに過激派だった
男を官房長官に据えれば、舵取りを間違えることは誰の目に見ても明らか。
実質オーナーの小沢を首班指名をされた途端に手の裏を返すとは、あまりに
露骨で稚拙である。まだしも愚衆の目を欺く演劇なら分かるが、本気でやる
とは思いもよらないこと。それが、あの官房長官と財務長官の指名である。
ところ、あの世論調査ってのは何。 現在の政治と内閣は「世論調査内閣」
といってよい。 世論調査で政治の行方を左右するなど、亡国の極まりである。
100・250・500年スパンの世界的激変の時代に世論に動かされる舵取り
など、とんでもないこと。タイタニックの船内の連中に海原の向こうの大波が
見えるわけがない。それを彼等の顔色に従って舵取りをするなど、最悪。
船内で揚げ足を取りの経験しかない彼らに船の舵取りを任せた国民も問題あり。 
間違いに気づいたなら、早く政界再編をして、体制を作り変えないと国家破滅
になる。それはアメリカにとっても、中国にとっても望ましいこと? 自民も
駄目、民主党も駄目なら、それを解体して新しい枠決めをしなければならない。
また政治家の二代目、三代目しか、政治の表舞台に出れないシステムも、変である。
明治維新後、学歴を自力で上り詰めれば、誰でも出世のチャンスが、日本を
短時間に飛躍的に国力アップにつながった。どうも、こうも、日本は気がつけば
戦後65年で、頭から尻尾まで、腑抜けにさせられてしまった。それでもネット
では小沢の支持が八割という。世論調査とかいうのは、どうも誘導された
マヤカシでしかないと考えた方がよい。 蓋をあければ、小沢が間違いなく
勝つだろうが、それでも、この国の民度が異常な低下からみると、管首相の
続投も有りえる。その時は、間違いなく政界再編成しかない。
いずれにしても、あと数日で大きく政治も動き出す。


5290,起業こそ、自分を超えていく道 〜『自分を超える法』ー②

2015年09月08日(火)

        ー『自分を超える法』ピーター・セイジ著ー
   * 起業こそ、自分を超えていく道
 ここで、「自分を超える5つの方法」を提示しているが、
キーワードは『起業』。実績あるの起業家が書いているだけに説得力がある。
   〜アマゾンの内容より〜
〔考え方さえ変えればお金は必要ない。世界No.1コーチのアンソニー・ロビンズ
 の「史上最年少トレーナー」として活躍するピーター・セージ。22社の会社を
経営し、1兆円ビジネスを手がけるビジネス界の若き天才。
その「世界初の著書」で語られる、自分を超える「5つの法則」とは。〕
 【著者プロフィール】からして面白い!
イギリス若手No.1起業家。お金を使わずに、ビジネスを作り出すプロ。
世界No.1マーケッター、ジェイ・エイブラハムのビジネスパートナー。
資金なしから22社の企業を成功に導き、そのビジネス手腕は世界的に高い。
 過去に二度、ビジネスパートナーを選び間違えて無一文になったものの、
2回とも再起してすぐに億万長者に戻った。また、3カ月間で、資産ゼロから
5億円の不動産を買うなど、極めて短期間で大きな結果を出したことで知られる。
 最近では、起業家精神の分野で、世界のトップビジネススクールの1つである、
INSEAD(欧州経営大学院)の顧問委員会(パリ)に招聘されたり、学生企業家
協会の世界大使としてCEOに任命されるなど、経営のかたわら、講演家や
コンサルタントとしても活動中。 また、ピーターは年に約1カ月間、自発的
にボランティアとして世界中を旅をしており、チャリティとして世界中から
のべ数千万円もの金額を集めた。現在は「スペース・エナジー」という
事業に携わり、宇宙空間で太陽エネルギーを発電し、地球に供給する
「1兆円プロジェクト」に取り組んでいる。
▼ プロフィールだけでも面白い。起業を勧めると同時に指導者でもある。
 規模が桁違いだが、起業原理は納得する部分が多い。何かを決めるとき、
「安定感」を基準にすることより、「居心地のよい不安定」を優先せよ、
とは、成長過程では当然のこと。チャレンジ、チェンジ、コンペティション
の成長サイクルでは不安定感がつきもの。20歳代に、この本が傍らに
あったら、また違った人生になっていたはず。世界が大きく変化する中、
適応した新システムを提供することで、基盤を拡大するには起業しかない。
その点で、まったく力不足だった自分を思い知らされる内容である。
「優秀な起業家に、優秀な指導者あり」ということか。今さらだが・・
・・・・・・
4925,パワレルな知性 ー3
2014年09月08日(月)
   * カフェという集い −②     『パワレルな知性』鷲田清一著
 カフェといえば、30年も経つが、『致知』という月刊雑誌を知って購読
するうちに、全国に愛読者の同好会があるのを知り、新潟支部を立ち上げた。
今では年に一回参加しているが、30年も続くとは驚き。全く知らない新潟で、
肩書きを横にした同年代の人たちとの出会いの場、一種のカフェのような集い
の場を求めたため。とはいえ、当初は営業ネタを探して参加する人が過半数は
いたが、それも良しだった。ところで、学生時代の寮がまさにカフェの
ようなものであった。今でいうシェアハウス。大きな屋敷の一角に、平屋で、
4畳半と6畳の和室が25室、「く」の字に並んでいて、角が炊事場と洗濯場
で、両端がトイレ。廊下は土間で、あたかも馬小屋のようだった。
各部屋には鍵が付いているが、私生活があってないような。それが寮という
ものだが。炊事場やトイレの行き帰りなどに、どこかの部屋の前にサンダルが
幾つか並んでいると、つい顔を出し、お茶などを飲んでいる輪に入る。
そこでは、読んだ本や、政治経済、現在進行形の恋愛の話題が中心になる。
寮生は全国各地の出身者で、早大の学生が半数を占めていた。 雰囲気は、
まるで「住込みカフェ」のようで、なにもかも参考になることばかり! 
その上に、それぞれの大学の親友が遊びにくるため、その輪は更に大きくなる。
そこで、軽井沢の山荘でのアルバイトとか、留学や、海外旅行の情報が、
ごく当り前に交されていた。それに加えて、大学では、クラブ、ゼミ、欧州
旅行の仲間と、クラスの友人の網目が出来ていて、広いコモンルームや、
中庭、学食で誰かと話をしているかであった。学生だからこそ、自由に様々の
人と邂逅しえたのである。 現実社会に入ると、組織や、地域の社会の、
それぞれの立場があって、自ずと人間関係に制約があるが、学生時代は、
思惑は最小で済む。それと、高度成長期真っ只中の恵まれた環境があった。
『カフェの集い』の視点で、人生を振返ると、やはり最終の学生時代が最も
良かったことになる。プライベートの時間が持てなかった『青雲寮』に、当時、
不満もあったが、この環境が最良だったことに、これを書いていて気づいた。 
この寮生活で、それぞれの私生活で垣間見た姿から、<人間には、教養とは別に、
想像を超えた、善良と邪悪が混在する人が存在する>ということを、知ること
になる。そして、実社会に出てから、その多くを己の中で見ることになる。 
 秘境ツアーなども、これに似たところがある。全国から集まった見も知らない
人たちと1〜2週間、親密な時空を共有する。その多くは、ツアー慣れをして
いるので、直ぐ胸襟を開くが、それぞれが様々な情報の宝庫のため、そこは
ツアー・カフェそのもの。かって長屋の御隠居は、横丁カフェの主。
 私の友人に、喫茶店に入浸って?半世紀以上、その人自身が、カフェみたいな
人がいる。いや、居酒屋? 問題は、そこが教養ある知的会話?であるかどうか! 
共通した価値観と、それぞれの全く違った価値観を備えた人との出会いこそ、
カフェの集いの面白さになる。 とすると、このブログ、『居間の一人カフェ』
になる。 時々、塩昆布茶も出るが。
・・・・・・
4558, 東京が、2020年の開催地に決定!
2013年09月08日(日)
 5時20分に、次次回のオリンピック開催地が発表された。
その2時間前の3時に何時ものように目が醒めたため、布団の中で瞑想モード
に意識を持っていき、「私が神としたら、3都市の何処を選ぶだろうか?」と
考えた。その結果はイスタンブール。5時からのTVの特別番組の選定会場で、
まずマドリッドの落選。あとの残ったイスタンブールと東京の二者択一の中で、
東京が決定された。 「そんなことをしている場合じゃないだろう!」が、
気持ちにあったが、いざ発表となると「東京」と願うのが人情。以前から、
「2020年の75歳が死に時」と思っていた。その年が、これで東京
オリンピック開催の年になったのである。一回目は昭和39年、18歳の年。
二回目は生きていれば75歳。現実は、世界も日本も2020年までは、
大きな試練が山のように待ち構えている。福島第一原発の汚染処理、世界恐慌
の対応、国家財政の破綻、国境問題等々がある。トルコか日本?の二者択一
というと、選ぶ方は、原発汚染への不安より、中東の政治的不安定と、欧州危機
を考えると、安全、安定面から、今回は極東の安定した都市の「東京」を選んだ。 
これで、「2020」と「東京オリンピック」が、キーワードとして浮上、国家
として明るい目標が出来た。オバマがシリア攻撃を示唆したのもトルコにとって
マイナスになった。タイミングをみていた? 日本のような島国では、一つ明確
な目標があれば元気が出るが、大きな問題が残っている。南海トラフ地震と、
東京直下地震、富士山噴火の可能性である。 福島第一の汚染に目を向けさせた
のは戦術としては良かった。実際問題は、これらを考えると二つの都市の危険さ
と遜色はない。 国内の政治面では、予想される混乱の中で、国民の目を
オリンピックに向けさせることが出来る。今日を境に大きく空気が変わる。
今日は目出度い日になる!
 ・・・・・・
4183, 呪いの時代 ー3
2012年09月08日(土)
                    「呪いの時代」内田樹著
  * 記号の過剰化    ー第2章 「祝福」の言葉についてーより
 呪いは怒りや羨望、嫉妬などの要素が相まって内面に作りあげられた一種
の記号と著者が指摘している。しかし怒りの感情を言葉にし繰り返すうちに、
その毒が己の脳を侵してしまう。鬱である。そこで医者から貰ったハッピー
ドラッグで目先、散らしている内はよいが、いつの間に、呪いの感情を更に
強く苛んでいく。呪文は記号のため、反復するうち、その人そのものになって
しまい、自滅の道をひた走ることになる。 次の箇所は、悲劇と喜劇の境い目
としてみると、うなずける。
≪ なぜ、このようなニヒリズムが社会を覆うようになったのか。
 それについて考えてみようと思います。僕はそれを「記号の過剰」あるいは
「過記号化」という枠組みで説明できるのではないかと思っています。
「呪い」は、その本質からして、記号的なものです。藁人形に五寸釘を打ち込む
「丑の刻参 り」という古典的な呪いの儀式がありますが、これ自体、きわめて
記号的な行為です。生身の人間の心臓にではなく、代替物の藁人形に五寸釘を
打ち込むわけですから。メタファーとして行われる殺人が生身の人間の生き死に
影響を与えるという信憑が共有されていないとこの種の類感呪術は有効性を持ち
ません。つまり、藁人形が生身の人聞でないように、殺意や嫉妬、羨望や憎悪も
記号化されない限り呪いとして機能しない。忘れられやすいことですが、呪いが
機能するのは、それが記号的に媒介された抽象物だからです。具体的、個別的、
一回的な呪いというようなものは存在しません。あらゆる呪いは、抽象的で、
一般的で、反復的です。それが記号的ということです。
なまの現実が記号化されて、「情報」になるプロセスを「情報化」と呼びます。
情報とは「なまもの」が加工され、分類され、ラベリングされ、パッケージ
されたもののことです。「高度情報化社会」とは情報だけが行き交い、
「なまもの」に触る機会が失われた社会のことです。生きた動物が殺され、
皮を剥がれ、血を抜かれれ、骨が切り離されて、細切れになってパッケージ
されるという工程については誰も考えず、清潔な商品だけが売り買いされている。
医療でも過情報化の問題は深刻なもの。当今の医師たちは、なまものとしての
身体ではなく、「記号としての身体」を診療している。『医療崩壊』の著者
である小松秀樹さんが指摘されていましたが、今の診療室では、机上のパソコン
のディスプレィに患者のカルテや検査数値が表示されます。患者が診察室に
入ってくると、医師は患者を診るより先に、まずディスプレイに表示された
さまざまの数値を見る。うっかりすると診療時間のうち、患者の顔を見ている
時間よりもディスプレイを見ている時間の方が長いのです。 ≫
▼ TVのワイドショーは情報を提供するところ、情報化は「なまもの」とは
 違うため、それを扱う解説者は、記号としての言葉にして発信するするため、
呪詛的な言葉になっていく。それを受け止める視聴者は、いつの間に、呪いと
して、なまものを呪ってしまう。これが端的に出のが政治であり、政治家は手軽
な呪いの対象になる。だから、島国日本の首相は、一年しかもたないのは、
何ら不思議ではない。そして、その行き先は? 
 ・・・・・・
3818, 哲学人 ー�
2011年09月08日(木)                     
 * 精神と肉体ー 二元論  ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 
 ーまずは二元論についてのデカルトの誤りを、ライルが指摘している部分ー
【 ライルは二元論について『心の概念』で、私たちの誤用に的を絞って
 書いている。ライルの攻撃対象はデカルトである。・・ 二元論の生みの親
をデカルトと特定したが、実際には二元論、もしくはそれに似たものは、原始
時代から人間についての通説となっていた。常にと言っていいほど、人は自分を、
肉体と、肉体に宿る非肉体的な要素から出来ているとみなしてきた。そして常に
時代によって霊、魂、心と様々な呼ばれ方をしてきた、この非肉体的要素を、
ある程度独立した存在として、また、そうなる可能性があると見てきたと言って
いい。私がかつて、この事実を挙げて異議を申し立てると、ライルはこう答えた。
「この間違いを最初に犯したのがデカルトだと思っている人はいないでしょう。
要はデカルトがこの考え方をとても明確に打ち出したので、デカルト時代以降、
これが教義もしくは定説なったということです。シェイクスピアも聖書も言って
いませんが、デカルトは実際にこう言いました。『私の心はひとつの実体であり、
私の身体はそれとは別の実体である』と、それが事実であるかのような言い方
なら、それまでもされたことはありました。が、デカルトは確かに事実である
と言ったのです」 実を言うと私はそうは思わないのだが、それはさておき、
精神という実体などないのだから二元論は誤りというのがライルの主旨。
  その著書で述べられている詳細な分析をもとに、ライルはこう書ている。 
≪ われわれ人間が行なっているのは、自分の行動と経験のある部分を精神的な
 ものとして分類し、その他の部分とは異なる、主体に帰属させること、そして
その主体を精神として物象化することである。精神に関連する概念の使用法を
入念に調査すれば、そのようなことをする正当な理由はないということがわかり、
さらには人間は単一の存在であり、行動と経験のただひとつの主体で、アイデン
ティティも歴史もひとつしかないことが明かになる。 われわれはふたつの実体
が神秘的に結びついたものではない。これまでわれわれは、「カテゴリー錯誤」
(ライルが哲学の世界に広く普及させた用語)を犯してきた。
われわれは精神という概念を一種類のものを意味するとみなしているが、実際は
多種多様なものを意味している。精神とは、独立して存在する実体であって、
なんらかのことをして経験をもつものと考えているが、通常はさまざまな行動
形式のうちのいくつか(行為、気分、経験など)を総括する言葉にすぎず、また
こうした行動様式はどれも、正しくはひとつの主体に帰属させるべきなのだ。
このカテゴリー錯誤がもととなって、われわれが自分自身を想定する上で、
そして考えたり語ったりする上で数多くの誤りが生まれている。これは哲学的
誤謬の好例であり、我われの思考の広大な領域はこの誤謬に犯されている。≫
ライルの本は、いかにして言語分析派がこうした問題を解決するかを示す
範例である。P・106 】
▼「肉体が消滅した後、私(精神)はどうなるのだろう」という疑問
 そのものが、二元論である。デカルトが言わなくとも、大昔から天国か
地獄に召されると言われている。肉体と精神と、改めてデカルトが述べただけ。
肉体が無くなれば、当然、精神とやらも消滅するのは、当たり前である。
精神を指している一つに『言葉』がある。「生きているときに発した言葉。
それは現在でも生きている」というが、それは、生前に発した言葉。
死んだ後に、言葉は発せられない。
 ・・・・・・・
3453,, ニューカレドニアの休暇 −3
 2010年09月08日(水)
 夕飯でいったフランス料理、ベトナム料理、中華料理が、それぞれ美味しい。
フランス領のためだろう。特に天使の贈りものといわれる「海老」が美味い。 
ベトナム料理、中華料理は日本的味付け。それより新鮮な貝魚がふんだんに
入っているからである。値段も、日本の居酒屋に少しプラスした程度である。
 ところで、オプションツアーで行った「天国にもっとも近い島」のニック
ネームで親しまれているイル・デ・バン島が良かった。日本では、その称号は
森村桂の著『天国にいちばん近い島』から、ロワイヨテ諸島のウベア島がそう
呼ばれているが、実際はここ。数多くの種類の熱帯魚や珊瑚礁を、透明度の高い
海水の中に見ることができた。この島は南北15キロ、東西13キロの大きさで、
島人口は約2,000人である。珠玉のような島で、ニューカレドニアで是非とも
行ってみたかったところ。双発のプロペラ機で首都ヌメアから30分ほどの
ところにある。 行く先々の小さな湾の海岸線と海と空が美しい。
いまだ観光づれしてないハワイと考えればよい。ここに宿泊するツアー
もあるが、値段は非常に高くなる。ニューカレドニアは日本人に特に好まれて
いるようで、親しみやすい。中国、韓国人の姿は、ここで一人も見かけなかった。
まずはハワイ、東京、欧州、オーストラリアなのだろう。この島を通して、
日本の現状を現地のポリネシア人を通してみてしまう。小さな島国で、フランス
の占領に甘んじているが、日本も同じ被占領国。ドルとアメリカ国債という紙切れ
と小麦・大豆と、汗水たらして作った商品と交換。 その紙切れは、20年〜30年
単位で価値を数分の一に一方的に下げさせられている。アメリカ、豪州も、
欧州人が現地人を虐殺して建国したところ。現在も、その構図は同じである。
マスコミを背後で操り、教育システムで骨抜きにし、官僚を洗脳、コントロール
することで、間接占領をしている。フランス領の観光地で、気楽に避暑。
それだけで、深く考えることもないが・・
・・・・・
3078,富豪と金の使い道
 2009年09月08日(火)
 (字数制限のためカット 2015年9月8日) 


5289, ー「原因」と「結果」の法則 ー  〜②

2015年09月07日(月)

ー「原因」と「結果」の法則 ージェームズアレン(著)
   〜まえがき〜より
《 私がこの本で行っていることは説明というより提案であり、その目的は、
 出来るだけ多くの人たちが、みずからの手で、「自分こそが自分の人生の
創り手である」という真実に気づくことにあります。
 私たちは、自分自身が選び、めぐらしている思いによって、自分の人生を創り
上げています。心は、人格という内側の衣と、環境という外側の衣の双方の、
熟練した織り手です。そして、それらの衣は、これまでは暗闇と苦悩の中で
織られてきたかもしれません。でも、それらは、そもそも光と幸せのなかで
織られてしかるべきものなのです。》
   〜思いと人格〜
《 行いは思いの花であり、喜びは悲しみはその果実です。思いによって私たち
 人間は、自分自身を育てる、甘い、あるいは苦い果実を収穫し続けるのです。
「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」
・・私たちは、自分の人生に深く思いをめぐらし、それを創り上げている法則を
自らの手で発見したときから、自分自身の賢い主人となり、自分自身を知的に
管理しながら、豊かな実りへとつづく思いを次々とめぐらすようになります。
そのときから私たちは、自分自身の意識的な主人となります。・・ 》
▼「念じれば花開く」である。「因果応報」という仏語がある。
 その意味は、【行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では
悪いほうに用いられることが多い。 「因」は因縁の意で、原因のこと。
「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと】
 仏教的考えを、西洋的に説いているともみれるが、思いが、如何に大切か。
人の心は9割がマイナーの思いに捉われているというが。意図的にプラスに
することは可能。 己を導くのは、誰でもない、自身だけ!
・・・・・・
4924,パワレルな知性 ー2
2014年09月07日(日)
   * カフェという集い −①   『パワレルな知性』鷲田清一著
 『カフェ』について、が面白い!
   ー 学生時代の効用は、このフリーの立場での交わりが良い!
≪ このところ市中では「カフェ」という催しが盛んである。
「カフェ」と いっても喫茶店のことではない。「サイエンス・カフェ」とか
「アート・カフェ」といった類の、小人数でおこなうディスカッションの会。
市民が三々五々集まり世情について自由に論議し、その議諭を活字化するあの
ジャーナリズムの原型ともいうべきものを生んだ、英国の「コーヒーハウス」
にちなんで、そう名づけられたらしい。じつはわたしも15年ほど前から
「哲学カフェ」なるものを、町なかの集会所で、あるいはお寺の一室を借りて、
そしてときにじっさいに喫茶店でもやってきた。何について議論するかは、
集まった顔ぶれでその場で決める。そしてテーマに即して、だれかがまず
じぶんの経験を、そしてその解釈を語りだしたあとは、それを糸口に延々
三時間から五時間、あれこれ話しあう。 ルールはかんたんで、
:たがいに名を名乗るだけで所属も居住地も明らかにしない、
:人の話は最初から最後まできちんと聴く、
:他人の著書や意見を引きあいに出して長々と演説をしない、この3つである。
わたしはもう籍を離れているが、大阪大学の臨床哲学研究室では、かつての
同僚や大学院生たちが個々にそれを拡げ、通算すると、もう数百回になると聞く。
ある日、もっとも年配の参加者が最後にぽつりと話したことばが忘れられない。
司会をしていた大学院生がまとめに窮しているときに、その、老人が口を
はさんだ。「まとめんでいい、知り合いでもない孫のような歳の子とこんなに
『家族とは何か』ということをまともに話しあったというだけで満足や」。 ≫
▼ 人生を振り返ると、20歳代の経験がベースになっている。視点が固まる、
 それまでが分かれ目! それに10歳までの実家の店舗での生活もある。 
今から考えると、様々な人間が集まり、その生態が、あからさまに露出していた。
『花子とアン』の主人公ではないが、「朱に交われば赤くなる」である。
そこで、如何にオープン状態で、書籍と、様々な人と触れ合うか、その質量で、
人生は決まってくる。そこで大きな知的劣等感を得たのが、私にとって、
最大の収穫。以来、半世紀近く独学をしてきたが、私には器の大きさが
足りなかった。更に『酒量』『一言』が多過ぎた!
・・・・・・
4557, グレートジャーニーから見えてきたことは ?  ー2
2013年09月07日(土)
 * 携帯電話が、世界を変えている  
       「新潮45ー6月号」 ーたけしvs・関野吉晴の対談ーより
 旅番組などで、ケニアなどの僻地でマサイなどが携帯電話をしているのを
見かけて驚いたことが何度かあった。携帯電話の電波環境が出来ているためだが、
さほどインフラに資金がかからないのだろう。考えてみれば、僻地ほど濃密な
繋がりと日々の生活情報が必要である。苦労して僻地についた先で、携帯電話
をしている姿を見たらガックとするはず。ーその辺りが具体的に書かれているー
【 たけし〕ところで、そういう極限の地域で暮らしている人たちの生活って
 今も昔と変わっていないのですか。関野〕昔は自分たちが食べていくために
自給的生活とか狩猟採集で暮らしていた人々が、換金可能な作物を作っている。 
現金収入を得ないと生活ができなくなっている。最近はグローバリゼーション
がアマゾン、シペリア、 アフリカとか、どこまでも進行しています。
特にすごいのは携帯電話ですね。携帯で全てが変わります。
 たけし〕 それはどういう意味でですか。
関野〕携帯電話は世界を変えていますよ。アマゾンには、僕が四十年前から
 つき合っている先住民の部族がいます。 最初会った時は、大人たちは腰巻
だけつけて、子どもは素っ裸でした。そんな村でも三十年前に学校ができた。 
それは小学佼しかないから、中学校に行くようになると町の寄宿舎に人る。
高校生になると、皆な携帯を持ってる。村に帰ってくると電波は通ってません
が、携帯でダウンロードした音楽は聴ける。そうなると若者は伝統音楽ではなく、 
ロックを携帯で聴くようになる。文明人に近いほうがステータスが高いと
思うと伝統音楽に目を向けなくなり、どんどん文化が変わっていく。
アマゾンの奥地でさえそうなるのですよ。」
たけし〕 あっという間の変化ですね。
関野〕 ここ数年、フィリピン、マレーシア、インドネシアの海域で淘賊が
 いっばい出るところがあるんですけど、 そこにパジョという家船生活をして
いる漁民がいるんです。
たけし〕 確か百万人ぐらいいるとか。
関野〕それは海岸縁に杭を打ち込んで家屋をつくって住んでいる人たちも
 含めての数字です。わずかに家船で陸に家を持たない人たちがいて、その人
たちのところに僕は「泊めてください」と言って、一緒に暮らしていた。
ちょうど僕が訪ねた頃に彼らの生活にも携帯電話が入ってきたんです。
たけし〕 2004年から、日本人の祖先が日本列島に到達するルートを辿る
「新グレートジャーニー」(〜2011年)を始めていますが、それに挑戦していた
時のことですね。
関野〕 はい。南方から船で海上を渡ってきた日本人の祖先のルートを辿ろう
 としたんです。風の関係で航海で暫なくなると、パジョの人たちのところに
通っていました。彼らにとっても携帯はすごい役に立っている。家船が十数隻
あって、夜は集まってくるんですが、昼間は別々に魚を穫りに行ったりして
行動している。その時に、海賊がいるかいないか、携帯があれば安全かどうか
確認できたりするわけです。
たけし〕 海の上で電波が届くわけですか。
関野〕 沿岸から五キロまではアンテナがあれば届きます。
たけし〕海の漂流民がそうならば、砂漠のペドウィンはどうなんだろうね。】
▼ これは、僻地だけでない。都会の社会的弱者にも携帯が普及。
 弱者が結びつけば、強者に変身する。中国など多くの社会的矛盾を抱えた
国家は、ある日突然、この矛盾への暴発が起こることになる。そこにパソコン
機能が入ったスマートフォンの普及は、世界を根底から変えようとしている。
貧富の格差は、情報の格差から生じるが、それが均質化されていくとしたら、
格差は一部を除いて是正されていく。ただし、それは世界平準に近づくため、
G8は、G20の国々の平均値に、G20は、世界200ヶ国の平均レベル
になっていく。日本にとって、それは貧乏への茨道!
・・・・・・・
4182, 呪いの時代 ー2
2012年09月07日(金)
          「呪いの時代」内田樹著
 呪いに対する言葉は祝福。含めて世の中が右上がりの時は、何事もハッピー。
しかし、世の中全体が右下がりになり、暗い世相の中では一部の勝ち組を傍で
祝福する人は少ない。羨望と嫉妬が、そこに生じてくる。特にこの情報化で、
そのの事態が生で伝わるから呪いが社会全体を覆ってくる。その中でハッピー
にいるには、「にもかかわらず祝う」しかない。現に生きている、そのことを
祝う諦念である。最後は生きている感謝しかないのである。
今さら世を呪っても致し方がない。
  * 「このようなもの」でしかない自己の承認   
     ー第2章 「祝福」の言葉についてーより
≪「生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりパッとしない
 この「正味の自分」をこそ、真の主体としてあくまで維持することです。
「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け入れ、
承認し、けなげに生きている姿を可憐と思い、一掬の涙をそそぐこと。
それが「祝福する」ということの本義だと思います。呪いを解除する方法は
祝福しかありません。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け容れ、
自分をだきしめ、自分を愛すること。多くの人が誤解していることですが、
私たちの時代にこれほど攻撃的なふるまいが増えたのは、人々が「自分をあまり
に愛している」からではありません。逆です。自分を愛することがどういうことか
を忘れてしまったせいです。私たちはまず「自分を愛する」というのがどういう
ことかを思い出すことから、もう一度始めるしかない思います。≫
▼ 第二次大戦後、経済成長という僥倖に恵まれ「自由」が容易く転がり込んで
 来て、安手の「近代」を掴んだ。しかし、それが崩壊する中で、「全て他人が
悪い、自分は悪くない」という他責的で未成熟な言説がメディアにより拡がった。
豊かさが急速に萎み、大多数がプアーになりつつある中、呪いの時代と思われる
ほど惨めな社会になってきた。「このようなものでしかない」自分を受け入れず、
承認せず、祝福せず、自分探しという自分でない突っかい棒を求めて彷徨って
いる社会。わが国は平城平安の時代から呪いを基軸にして変転してきた。
ここで急に「呪いの時代」がキーワードになったのではない。呪いがあればこそ
古事記、日本書紀、源氏物語、平家物語、太平記、法隆寺、北野天満宮も正史に
登場しなかった。日本の文化文明の本源は、この呪いにある。だから一時でも
よいから祝うしかない。お祭りは、そのためにあったといえる。
社会に出てからの読書習慣がなかったら、現在、世を呪い、過去を後悔し、
人生そのものを否定しているはず。 娑婆娑婆!
 ・・・・・・
3817, 松下政経塾の野田が首相に
2011年09月07日(水)
   まずは松下政経とは何か? −知恵蔵2011ーによると
【 松下電器産業(パナソニック)の創業者・松下幸之助が、1979年に約70億円の
 私財を投じ、政治家育成塾として設立した財団法人。神奈川県茅ヶ崎市の6千
353坪の敷地には、寮棟・食堂・体育館の他、茶室やテニスコートも付設され、
入塾の応募資格は22〜35歳。全寮制で3年の研修を原則としているが、期間中に
選挙に出馬することは半ば容認。ただし、最低2年間を修了しないと退塾扱いになる。
授業料などの費用はゼロで、逆に研修資金・活動資金が提供される。
研修は人間学・哲学・近代政治学などの講座と茶道・書道・剣道などによる
精神修練が中心。また、現地現場主義の下、自治体訪問、松下関連工場での
実地作業、自衛隊体験入隊といったカリキュラムも用意されている。
過去30年間の卒塾生は237人で、このうち69人が政治家の道を歩んでいる。
開塾後の10年間で当選した国会議員は、1期生の逢沢一郎(自民党)だけだったが、
新党ブームが吹き荒れた93年の衆議院選挙で、一気に15名の当選を果たした。
政経塾出身議員の評価は分かれるが、世襲議員が増える中、選挙に必要な3バン
「地盤(地元支援組織)・看板(知名度)・カバン(資金)」を持たない若者に政治家
への道を開いている点で、政経塾の存在は評価されている。 
現職の松下政経塾出身の国会議員は、衆議院議員が27名、参議院議員が3名。
*自民党では前述の逢沢一郎の他、元金融担当大臣の伊藤達也(5期生)、
高市早苗(5期生)ら、*民主党では元代表の前原誠司(8期生)や野田佳彦(1期生)、
原口一博(4期生)ら、次代のリーダー候補が名を連ねる。この他、神奈川県知事
の松沢成文や横浜市長の中田宏など、自治体の長も輩出している(2009年7月時点)】
▼ 現在の日本に丁度良さそうな人物が、首相に選出された。
 それも、松下幸之助が憂国にかられ、つくりあげた人材育成機関出身。
存在そのものは知っていたが、まさか34名も国会議員になっていたとは驚き。
巷では、「人工栽培の頭でっかちのエリートの育成機関と」批判的だが、それでも
公明党に次ぐ出身母体になっている。どうも、二、三代目が目に付く中で、
こういう機関も必要?卒塾生の43%が、政治の道を歩いているという。
政治家は、一国を未来に導く仕事。「クールな頭脳と、暖かい心」を必要とする。
それを3年か、4年の期間でベースをつくり上げることが良いことかどうか? 
二代目政治家と、どちらが良いというと考えてしまう。 
やはり二代目より、まだましレベルか。現在議員は、貴族院化している。
 ・・・・・・・
3452, ニューカレドニアの休暇 −2
2010年09月07日(火)
 * ホェール・ウォッチング 
 オプション・ツアーの「ホェール・ウォッチング」に参加してみた。
家内はヨットに12時間も無理ということで、私一人の参加。20人乗りの
2Fのヨット(1Fにトイレとベッド)に、日本人が私の他に中年ペアー。
他は白人系15人を加えた18人。もう少し大きなヨットのつもりだったが
意外と小さい。外海に出たと同時に、船は二Mの波で大ゆれ。 
案の定、気分が悪くなってきたが後の祭り。乗員も分っていて海水を
入れたのを持ってきて、「あげろ!」という。そして胃を空にした。
その直後に睡魔が襲ってくる。 ロビーの椅子に座ったまま二時間ほど寝たら
気分は元に戻る。船酔いを心配していたが、その時はその時と覚悟はしていた
が、何とかなるものである。そうこうして鯨の出産場に三時間後に到着。
そこを40分ほどかけて通過している間に、5分位の間隔で、鯨が空気を
吸うために海面に出てくる姿をウォッチングすることができた。
そこでTV撮影を過って見たことを思い出した。今回は10匹近くを見ることが
できた。 鯨は、まず潮を噴き上げるので見逃すことはないが、潮を吹いて
7〜8秒しか浮いてないので、目を凝らしてないと見逃す。海も天気で大きく
左右するが、天候に恵まれたこともあり今回のウォッチングは大当たり。
また12時間も小型ヨットに乗船するのもワイルドな感覚で、南太平洋を堪能
することができた。甲板から海に向かって足を突き出して座って海を眺め
ボットするのも、気分は爽快である。また10秒ぐらいだったがイルカが二頭、
ボートと同じスピードで泳いでいったのも印象的。さらに帰港前の20分ほど、
タイミングよくサンセットにゆきあったが、南太平洋に浮かぶヨットと、
赤い色合いのマッチが印象に残った。一期一会、直感を信じ躊躇をしないこと。
・・・・・・・
3077,SCが工期半年で完成とは、驚き
2009年09月07日(月)
 長岡の自宅から500m先に、オープンモールの25店舗のSCが9月1日
に着工、来年の3月8日にオープンと現場の立て看板にあった。それにしても
半年とは驚いた。これから冬場の中で駐車場も含めてである。新造成地の更地で
全てが平屋だから可能なのだろう。突貫工事になるのだろうが、見ものである。
先月、近くで説明会があった。折込の通知によると、大和ハウスの総合企画で、
三菱東京銀行系が資金調達とあった。住宅地も数ヶ所売り出されているが、
坪27〜8万円、少し高いが環境からして悪くはない。 場所は長岡駅裏から
直線道路一キロほど、自宅からは5分の場所。自宅の100m先にSCがある
上に、長岡駅(12分)には一万坪の専門店街があるので生活環境は、
ますます良くなる。そのSCから車で数分(一キロ)のところに家具のニトリ、
家電のジョウシン、ホームセンターのコメリ、ディスカウント、紳士服のアオキ
など20店舗近い川崎のオープンモールのSCがある。店舗構成をみると
バッテングをさけて補完してある。店舗が重なるのは、原信と、蔦や。
業種では中古ショップである。二つのSCを買い回ると丁度良い店舗構成。
これまでは長岡の信濃川の西に比べて、川崎のSCだけでは魅力が薄かったが、
この二つを合わせて対抗拠点として、周辺に店舗が自然発生的に出来ていく
過程をみることになる。長岡駅中専門店街は、年々、弱体化していくが、
駅前再開発も含めて大きく一変する。これも見もの。
間違いなく大きく縮小していく市場の中で、再開発だけは止まらない。 


5288,「毎日を一生懸命すごすこと」の価値 〜『自分を超える法』

2015年09月06日(日)

         ー『自分を超える法』ピーター・セイジ著ー
  * ミツバチが教えてくれた「毎日を一生懸命すごすこと」の価値 
‘考え方さえ変えれば、お金は必要ない’と、自分を超える「5つの法則」
を提示する面白い本である。その中の、色いろな寓話が良い。
ランダムだが、ミツバチの寓話がよい! 
  〜ハチミツをつくることが、ミツバチの真の仕事ではない〜
≪ ここで寓話を1つ紹介します。
 起業家のキース・カニングハムから聞いた、ミツバチの話です。
ミツバチの生きる目的を知っているかい? もしミツバチに
「何のために生きているのですか?」と尋ねたら、きっとこう答えるだろう。
「ハチミツをつくることが仕事よ。せっせと蜜をつくるの。
なぜなら私たちはミツバチだから。」 キースが続けます。
「でも、その答えは必ずしも正しくない。ミツバチには、ハチミツをつくる
ことなどよりも、はるかに重要な役割があるんだよ。その役割とは、花の
『花粉』を運び受粉の手伝いをすること。それにより花は咲くことができ、
生命が循環している。仮にその営みを取り去ったとしたら、すべての生態系
が崩壊してしまうほど、もっとも根本的、かつ絶対不可欠な役割を担っている」
 当のミツバチは、おそらくそのことを知らないでしょう。もし、今全世界の
ミツバチが自意識に目覚め、次のように言い始めたらどうでしょう?
  〜無意識でやっていることが、貢献につながる〜
「ねぇ、私。生きる目的を知りたくなってきたの。仕事を放りだして山で
瞑想するわ。生きる意味の答えが見つかるまで、山頂のバラの茂みに
しばらく引きこもるの。使命が見つかれば、充実感と情熱に満たされて、
また仕事に戻ることができるから、しばらく休むね。」
 全世界のミツバチが突如そう言い出したら、花が咲かなくなり、
生態系の循環が停止してしまいます。
 当のミツバチは気づいてないかもしれないが、
「毎日の仕事を精一杯こなすこと」で、彼らの「真の使命」がまっとう
されているのです。 私が言いたいのはこういうことです。
〈あなたが日々無意識に自然体でできていることの中には、
   実は世界に大きく貢献しているようなことがあるのです。〉 ≫
▼ 人間は、言葉を持ったお陰で、「毎日を一生懸命すごすこと」の価値を
 理解できる。とはいえ、目の前の問題に集中し続けてこそ、その先にある
「真の役割」が理解できる。人生を振り返ると、節目に大きな機会がある。
表面的には挫折というカタチを装うが、実は、生き方を変える節目時を
運命が提示をしてくれている。4年前の節目は、〔余白はさほど残されてない、
余裕を持って死に準備を始めなさい。まず手始めに、会社の整理から!〕




・・・・・・
4923,パワレルな知性 ー1
2014年09月06日(土)
   * 価値の遠近法      『パワレルな知性』鷲田清一著
 鷲田清一の「価値の遠近法」が面白い!
  ーネットによるとー
≪ 「価値の遠近法」は、あらゆる事象・物事を次の四つに分けること。
 ① 絶対に必要なもの、失ってはならぬもの
 ② あってもいいけどなくてもいいもの
 ③ なくてもいいもの
 ④ 絶対に不要なもの、あってはならないもの
彼は、これが上手に仕分けられる能力を「教養」と呼び、その重要性を
 いろいろ示す。
「価値の遠近法」は、それぞれ自身の価値観を明示的にする効果がある。
四つに仕分けることで、「何を大切にしたいのか」を自らに問い掛けることに
なるからだ。自らの価値観を知ることは、自己理解の最も重要な要素。
当然、人によって仕分け方は違うため、自らの仕分け方と他者のそれを比較し、
違いが起きた理由を探ることで、他者を理解するきっかけになる。
「価値の遠近法」を実践していくと、ある「真理」に気づくという。
「大事なものほど、仕分けづらい」「重要なものほど、答えがない」という真理。
いま大きな社会問題になっている原発推進の是非を問う論争が、まさにこれ。
推進派と即時廃止派、さらには漸減派、一旦凍結派等々、議論が百出する。
「何を大切にしたいのか」を巡る論争には、唯一絶対の正解などない。
さらにこの問題を突き詰めてみると、わたしたちは、正解が見えないものに、
とりあえずの解を出さないと前に進めないことにも気づく。 私たちは、
不確定要素に満ち、偶然に左右され、先行き不透明な問題に囲まれ生きている。
わからないものに取り囲まれ、わからないままベストの解を出すことを迫られる。
国の経済政策も、企業の経営戦略も、個人のキャリアも、構造は同じなのだ。 
こういう問題に直面して、「価値の遠近法」を使って、よくわからない問題を
仕分けていく時に必要なポイントについて、「ようわからんけども大事!という
勘がはたらくか」「わからんことに囲まれていても、なんとか切り抜けていく」
野性的な思考が必要という。≫
▼ <「右下がりの時代」は、社会が‘まとも’になっていくためには
 悪いことではない。右上がりの時代には次に何を手に入れようかと考えて
いたわけだが、下がっていく時代には「何をまずあきらめるか」を考えざるを
えない。「価値の遠近法」を、嫌でも頭に入れておかなければならない>
とあるが、老いていくことは、不要なものを捨てていくこと。
「価値の遠近法」の④、③、②と、一つずつ捨てて、①に絞ること。
そのために教養が必要になる。今さら遅いかどうかは、その人によるが・・ 
「お金は、②、いや、①?」
――――
4556, グレートジャーニーから見えてきたことは ? ー1
2013年09月06日(金)           
 * 追われ追われて南米最南端 
        「新潮45ー6月号」ーたけしvs・関野吉晴の対談ーより
 冒険家が人類の移動の跡を辿って見えてきたのは、
「人類の弱者が、より悪い環境の地に追い込まれて、その繰り返しの究極の地が
南米最南端パタゴニアであった」ということ。アフリカから追われ、その移動先
で落ち着くと、その中の弱者はまた弾き出される。その積み重ねが、アフリカ
から南米の最南端までの人類の軌跡であった。その過程で生き延びる知恵こそ、
弱者の知恵になる。その過程で彼らは進化したかというと、そうではない。
北アフリカと欧州に留まり闘い続けた人間が、文明の基礎を作りあげていった。
逆に、エスキモーとか、南米インディアンは、逃げることで生き延びていった。
弱者には逃げるしかない。この切り口で人類の歴史を鳥瞰してみると面白い! 
僻地の人間は、そのためか優しい。  ーその辺りから抜粋ー
《 たけし〕しかし、六万年前に人類がアフリカから移動していって、
 世界中に広がったルートを逆に辿る発想は面白いけど、ずいぶん無茶なことを
しましたね(笑)。
関野〕 確かに逆ルートは無理があります。やっぱり人類は逆ルートで移動しない
 ことが、やってみると分かります。全部、逆風なんですよ。例えばべーリング
 海峡を渡るときに、風速5〜10Mのいい風というのは西から吹く。 
 僕はアラスカからシベリアに行くわけですから、東風が欲しい。しかし、
 東風は風速15M以上になることが多い。  
たけし〕どうしてアフリカで生まれた人類が全世界に移動したと
 言われているんですか?
関野〕研究者によって意見が違っていて、僕は最初、「あの山を越えたら
 何かあるんだろうか」という好奇心、あるいは「あの山を越えたらもっと獲物
 がいて、いい暮らしが出来るんじゃないか」という向上心で心で動いていたと
 思っていました。もしそういう好奇心とか向上心とか、いわゆる
 進取の気性に富んでいたなら、一番遠くまで行った人たちの末裔のはずです。
たけし〕そういうことになります。
関野〕ところが行ってみたら逆でした。南米最先端に行った人は一番弱い人です。
 そこでは狩猟生活もできない。ホタテとかカニをとって生活をせざるを得ない。
 どうしてそんなところに移住してきたのだろうと考えてみると、弱いから。
 例えば、あるところが住みよいとなれば人ロが増えていきますよね。
たけし〕 そうなると誰かがふき飛ばされる人が出てくる。
関野〕ええ、誰が出ていくかが問題になる。強い人出ていきません。
 そこで、はじき出された人がフロンテアに行くわけです。滅びてしまう人も
 多いと思いますが、そこでバイオニアになれた人が生き残れる。
 創意工夫を働かせて適応した人が「住めば都」に変えてしまう。
 そこでも人口が増えると、また弾き出される人たらが出てくる。
 だから、日本は弱い人の吹だまり。それ以上、東に行けないわけですから。
たけし〕日本人がもともと弱い人間の吹だまりだというのは面白いね。
関野〕それはイギリスも同じですね。もっと西に行けない。ところが、いいか
 悪いかけ別にして、日本はアジアを制圧しようとしたし、イギリスは世界を
 制覇しようとした。だから、弱いといって、いつまでも弱いわけでない。
 弱いから逆にいろんな知恵を使うわけです。元もと人類はその誕生のとき
 から、弱いから知恵を使って生きてきた。 》
▼ 強みは、弱者の苦労から湧き出る知恵から生まれる。決して野心を持って
 挑んだ訳ではない。弱者の知恵こそ、力になる。弾き出した方はといえば、
変化適応能力が無くなり弱者になっていく。 何処かの国か、地域そのもの。
脱皮できない蛇は死ぬ。
・・・・・・
4181, 呪いの時代 ー1
2012年09月06日(木)
              「呪いの時代」内田樹著
 なかなか時代の特質を捉えた面白い本である。バブルと、バブル崩壊後、
日本は20年以上も下降曲線をたどっている。経済大国と言われたのも遠い
過去になりつつある中、人々は、その環境の中で互いに呪い、怒りをぶつけ
あっている。そして中流社会が崩壊を始め、総下流化社会になりつつある。
そこでは互いに呪い、一部勝ち組を呪う時代になっている。
呪いは人間としての悪い意志、否定的な情動であるが、その核心部分には
他者の全面否定と破壊と殺意が内蔵されている。自己崩壊は他者への憎悪と
なり自他とも傷つけるだけでない、未来へ希望と友愛を損傷する。
「呪いの時代」は、言い得て妙である。
  * まずは、第一章 呪いの時代より
≪「呪い」は今や僕たちの社会で批評的な言葉づかいをするときの公用語に
 なりつつあります。「弱者」たちは救済を求めて呪いの言葉を吐き、
「被害者」たちは償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義の人」たちは公正な
社会の実現を求めて呪いの言葉を吐く。けれども彼らはそれらの言葉が他者
のみならず、おのれ自身へ向かう呪いとしても機能していることにあまりに
無自覚のように思われます。20年ほど前、まだ僕が学会というところに顔を
出していた頃までは、学会発表後の質疑応答で、「あなたは…の論文を読んで
いないのではないか」とか「周知の…についての言及がないのはなぜか」
といった、「そこで論じられていないこと」を持ち出して、「こんなことも
知らない人間に、この論件について語る資格はない」と切り捨てる態度に出る
学者が沢山いました。僕はそういう「突っ込み」を見るたびに、どうして
彼らは「自分の知っている情報」の価値を高く格付けする一方、
「自分の知らない情報」が知るに値しないものだとあれほど無邪気に信じて
いられるのか、その理由がよくわかりませんでした。僕たちは誰でも自分の
知っていることの価値を過大評価し、自分の知らないことの価値を過小評価
する傾向にあります。だから、学者にとっていちばん最初の仕事は、自分の
所有する学術情報を適切に評価することであるはずです。でも、
「君は『こんなこと』も知らんのか」と気色ばむ学者たちは「こんんなこと」
が議論の始点でなければならない理由について、ほとんど説明責任を持てない
ようでした。・・・・ 学者というのは「知識を持つ人間」ではなく、
「自分のもつ知識についての知識を持っている人間」のことだと思います。
ですから自分の知っていることは「知るに値すること」であり、自分が知ら
ないことは「知るに値しないこと」だと無反省的に信じ込める学者のことを
僕は端的に「学者の腐ったようなやつ」と呼んでいました。しかし、
学界だけの固有種であったこのタイプの人々が今ネット上では異常増殖して
いるように僕には思われます。ディスプレイに向かって、グーグルで
キーワード検索をしながら、個別的なトピックについてのトリヴィアルな
情報を入手することそれ自体は愉快なことですし、誰の迷惑になるわけでも
ありません(僕だって大好きです)。けれども、そうやって自分が仕入れた
知識の価値を「知識についての知識」というメタレベルから吟味する習慣を
持たない人にとっては、どれほどトリヴィアルな情報を収集しても、
それは学的には無価値だということは忘れない方がいいと思います。≫
▼「呪い」が、恐ろしい結果をもたらす事例を、あまりに多くみてきた。
特に、人生に恵まれてない人のそれは酷い。起こった現象しか見えないため、
その背後の原因を突き詰める能力が無いのである。呪いは、羨望が含まれている。
そのため周囲の全ての人が対象になるから始末が悪い。国会の有様は、正に
呪いの政争である。 呪いの政治は破壊しかない。
・・・・・・
3816, iPadを買った ー3
2011年09月06日(火)
 手元にきてから二週間、iPadにますます虜。パソコンが大好きだが、
イマイチ使いこなせかった。このお陰で?アプリを比較的簡単にダウン
ロードして気楽に使えるようになったことが大きい。更にゲームをパソコン
で遊んだ経験が殆どなかった。そこで、まず無料のゲームで子供心に立ち
返って遊んでいる。「自分の人生がゲームそのもの、敢えてする必要もない」
と決めつけ、受け付けなかったこともある。このところ一日2時間は熱中。
まずは無料の小学校低学年?レベルのもの数種類だが、始めると止まらない。 
まあ、いい歳をして幸せなことだが、面白いのは面白い! 先日、初めて
デジタル雑誌をAplleから購入をしてみた。『最新iPadアプリ 特選700』。
「成るほどiPadを買ったことで、iBookが購入出来た」と一人感心。 
そこで気づいたのは、目次から一瞬で項目のトップに切り替わること。
それとitunesの音楽とは逆に、ページの下に次々と、各ページのイメージが
スクロールをすると現れてくる。 雑誌をパラパラと捲るのと同じことが可能。 
また、最後に読んだところが、次回にiBookを開いた時に自動的に開く。 
最近の録画は、最後にみたビデオの部分が自動的出てくるのと同じ。 
さらに字の大きさが親指と人差し指二本で拡大・縮小できるのも便利である。
 何よりも何時でも、何処でも、気楽に見れるのがよい。Podに数千曲入力して
ある感覚と同じ。「アプリあってのiPad」が、この本の副題にあるが、
PCでアプリを充分に活用できない者にとって、「iPadあってのアプリ」になる。
それぞれの有り難さは違って当然。 私には「iPad 様様」のよう。 
初めて携帯電話を手にしたのに匹敵する。 問題は自分にピッタリのアプリを
如何に探し出し活用できるかである。 無線で、平面で、本の大きさのため、
画面にピアノや太鼓の画面を表示し、作曲したり、演奏をしたり、
車の運転席で道路を疾走するする画面のゲームも現れている。
それもネット上で誰かと競技も可能。
・・・・・・・
3451, ニューカレドニアの休暇 −1
2010年09月06日(月)
 去年はブタインフルエンザ騒ぎで予約をしていたクロアチア・ツアーを
急遽キャンセルをした。その後、あの騒ぎは薬品メーカー(WHOに入り
こませた役員)が薬品を売るための詐欺紛いの扇動と後になって気づいたが
後の祭り。恐慌二年目も加わり、25年間、毎年行き続けた海外旅行が途切れた。
そして今年は恐慌三年目、経済的状況は二番底に向け動き出した。
さて、どうするか迷った。毎年9月以降に大きな事件が起こる傾向があるので、
最終タイムリミットは9月初旬まで。 近くで、安く、目だないツアーを
絞って盆明けになって探した。グァム島はありきたり、バリ島は家内が嫌。 
オーストラリアはイマイチ。そうこう調べてると南太平洋の中で
「7日間で8万弱のニューカレドニア」を探しあてた。ワンフライト8時間で、
滞在型で、エネルギーが最小で済むところとあいなった。しかしホテルの
一ランク上に上げたり、現地で4回のオプションツアーに参加したりで、
二倍近くになってしまった。それでも15万である。 振り返ってみて、
オプションは2回で十分で、あとはホテル近くの海岸線の木陰で日干しを
したりして、のんびりするのが正解。 二度と来ないと思うと可能な限り
動きたい気持ちに勝てなかったのである。 私の基準の採点では80点。 
フィジーが90〜95点とすると少し低いが、私の避暑的時間の
過ごし方になれてなかったこともある。フィジーと違って、ここはフランス領
ニューカレドニア。 四国ほどの面積に25万弱の人口が住んでおり、小さな
多くの島が点在している。ニッケルを主とした鉱山資源が豊富。
フィジー、タヒチなど年中、常夏な気候に対し、5度ほど寒い冬がある。
この時期は丁度冬と夏の境目。冬で20度、夏でも25度というから、やはり常夏。 
大まかにポリネシア系の現地人が4割、フランスなど白人系が3割、アジアの
移民が3割の比率で、フランス支配感が強い国で、地中海のフランス領の
小島にいるようである。その点、フィジーは小さいながらもポリネシアの
独立国でありポリネシアの人間的特性が前面に出ている。料金はフィジーが
5割高くなる。 南太平洋に行くなら、何処の国の領地か、独立国か調べた
方がよい。 植民地は白人支配が前面に出ている。現在、世界は一部の白人が
支配している厳然たる事実がある。 インドのカースト制度は、三千年かけた
アーリア人による身分制度で、裏づけにヒンズー教で心まで支配する
システムになっている。一神教のユダヤ、キリスト教も、ほぼ同じ手法で、
侵略の尖兵として、キリスト教で洗脳しながら乗り込んでいく。そして世界を
牛耳っている。ここで、日本がアメリカの金融被支配国が表面化してきた。
それだけでない、軍事も支配されている現実がある。 
バカではないかというほどの人の良さが小さな島国の運命である。
・・・・・・・・
3076,120年の物指し
2009年09月06日(日)
 週刊朝日の記事ー 平成維新「次の100年が始った」が面白い。


5287,閑話小題 〜子どもたちの世界に何が〜大阪中1遺体遺棄事件〜

2015年09月05日(土)

   * 子どもたちの世界に何が 〜大阪中1遺体遺棄事件〜
 普通の中一の男女二人が、夏休みとはいえ、夜半に街中を彷徨う姿が何とも
不思議で、奇妙に感じられた。その疑問の一つが、出会い系のアプリと、
TVの‘クローズアップ現代’で紹介していた。 そこで、ー出会い ご近所ー 
で検索したところ『ダレログ』などのチャットが出てきた。ご近所の友達との
出会いをサポートするサイトで、例えば「12歳、今から夜どうし遊びたい、」
という絞込みのキーワードを入れると、近くの条件にヒットする人が、写真付で
画面に羅列して出てきて応答する? 「合コン、居酒屋名、性別、年齢」を
発信すると、ある場に見知らずの人が、目的に応じて出会うことが出来る。
危険だが、居酒屋位ならと、集まってくるという。
≪ 〜9月2日(水)放送のNHKの「クローズアップ現代」に関するブログより〜
・8月13日に大阪府高槻市の運送会社の駐車場で中学1年生の平田奈津美さん
の遺体が見つかった事件。平田さんと行動をともにしていたと見られる同級生の
星野凌斗くんの遺体も大阪府柏原市内で見つかり事件は最悪の結末を迎えた。
 近年、全国で子どもを巻き込んだ殺人事件や連れ去り事件が相次ぐ中、
今回の事件は各地の教育委員会が子どもの安全を重点政策に掲げる中で起きた。
少年と少女は、夜に自宅を出て、朝まで街中で過ごし、事件に巻き込まれた。
番組では、インタビューやアプリでの直接対話などを通じて、数多くの子ども
たちの肉声をあつめ、子どもたちの“リアル”をひもといていく。
 謎が多い事件の深層を最新情報とともに伝えるとともに、大人からは
見えなくなった子どもたちの心を描き出していく。≫ 
▼〈「そういう趣味?」の前科8犯の変態男が、12年の刑期を終えて出所。
 そして、ことに及んだ〉。たまたま、あどけない12歳の男女が、わけも
分からないで、繁華街で彷徨っているうちに獲物になったという事件。今では、
携帯に位置情報があるため、普通の子供同士が、気楽に出会うことが出来る。
その対応は、本人同士の同意のため、コントロールは、非常に難しくなる。
子供だけでなく、大人の世界は、こんなものではないのだろう。情報化が
投げかける問題は、イスラム国の宗教の世界だけでなく、全ての分野で
根底から大きく変化を始めている。思いもよらない子供、若者の実態の
話を、身近から聞こえてくるが、これでは、仕方がない!ということか。
・・・・・・
4922,音楽を愛でるサル
2014年09月05日(金)
   『音楽を愛でるサルーなぜヒトだけが愉しめるのか』正高 信男 (著)
  * 「孤人」の誕生  
 これは「ウォークマンやiPodが、グーテンベルグの印刷に匹敵する
インパクトを世界に与えた」という説。読書は目からの視覚情報手段になるが、
ウォークマンは手軽な音楽の手段になった。それまでは、ラジオ、レコードや、
公共の場で集団で聞いていた音楽を、コンパクトな情報端末として個々が持ち
運び可能になった。それが一般大衆の「孤人」化の傾向を劇的に進むことになる。
それが今ではPCの携帯化とネット化である。  
  ー内容をまとめると、以下のようになる。
≪:何気なく音楽を聴いているが、実は音楽に喜びを見出せるのは人類だけ。
他の霊長類には音楽への感性が備わってない。なぜこのような違いが生じたか。
人類出現とともに社会的なコミュニのツールとして誕生した音楽が、言語と
分化し、ウォークマンやiPod、「ひとりカラオケ」など個人で愉しむものに
変わるまでの音楽の起源と歴史、機能から、人類の進化の謎を解明かしている。
 :グーテンベルク以前は、書物という代物はたいへん重いもので、移動する
のはほとんど困難。手書きのオリジナル版が僧院や図書館に保管されていて、
読むためにはそこに出かけるしかない。借り出すことはできないので、気になる
記述に遭遇すると筆写するのが常だったが、活版印刷で状況は一変する。
薄い紙にぎっしりと文字をつめ込み、大量に製作することで、安価でハンディ
な活字本ができあがった。時期を同じくして、ヨーロヅパ世界では英国を
皮切りにして(乗り合い馬車という世界初の公共交通機関が出現。 乗客たちが、
この使い慣れないシステムを活用するにあたり、活字本を持参して移動中の
所在ない時間をつぶすという行為を思いつき、それが普及したとき読書という
習慣が社会に流布した。 まず最初は貴族が始めた。
彼らがとりたてて知的欲求が高かったと考えるのは、やや早計だろう。
乗合い馬車のなかの狭い空間で、身分の異なる見知らぬ者同士が顔をつき合わす、
その気まずさに平民よりも貴族が耐えられなかったことが、大きく影響した
のかもしれない。しかし本を持ち込んで、読書をすれば(または読んでいるふり
をすれば)、良い。
 :グーテンベルクに遅れることと五百年で、かつて中世で起こったのと同じ
ことが音楽でも見られるようになった。 ポータブル・オーディ・プレーヤー
の最大の特徴は、いつでもどこでも、セットをすれば一人で音楽と向き合える
という点に尽きるだろう。なるほど当人の視線は拘束を受けていない。だが
本人の注意が視線の先にないことは、誰にも見てとれる。耳から伝わってくる、
その源に行っているのだ。結果として「私の今の関心は、目の前にはありません。
文字通り、「心ここに在らず」の状態ですよ」というメッセージを強烈に発信
する機能を果たす。しかも機能的には書籍より格段にすぐれている。
手をふさぐこともないし、電車に乗っているときばかりか、通りを歩いて
いようと、あるいは走っているときでさ、彼らは公共の場にいないことに
されてしまうのである・・ ≫
▼ 視覚だけでなく、音楽を手軽に楽しめる視覚活用に、大衆がウォークマン
で気づく。数年前から、更にパソコンが手の平サイズの携帯に収まって世界的に
普及を始めた。それで、ネットで孤人が結ばれたのだから、孤人は、それまでと
違った「?人」に変わろうとしている。「?」は「弧」「拠」「壺」?
 現実世界の上にネット社会が出来て、世界を激変させている。
グローバル・ネット社会の住人の呼称は?孤独の群集、孤独の流離い
人が、気楽に、それぞれ結ばれる面白い社会になってきた。
・・・・・・
4555,横尾 忠則の老人論 ー2
2013年09月05日(木)                    
  * 人生の目的 ―バルザックの場合   
              「猫背の目線」横尾 忠則 (著)  
ー良く遊び、良く学び、良く働く。その他に「空白=虚」の領域を持つことー 
これが私の人生の目的。その虚の領域が、バルザックの人生の目的の「休息」
になるのか? 生前、死後に取り囲まれた『自分』の外(虚空)を常に意識を
するため、休息が必要ということか? 欧州のバカンスで1〜2ヶ月も休暇を
とり、生活圏から離れ、ただボッとする。それが彼らの休息。
日本にも湯治というシステムが昔からあった。軽井沢や那須などの別荘地は、
娑婆から隠れるためにある。  ーまずは、その部分からー
《 彼は「芸術家にとって暇が労働なのだ」と言う。つまり芸術家は常に規則
 に従うことを拒絶し、自らが自らの規則に生きることを本懐としている。
世の中の潮流や流行は意に介さず、無頓着でいなければならない。社会や他人の
支配に従うのではなく、その時の気分(そう、この気分が大事である)に従う
のを第一義にしなければならない。バルザックも「芸術家は自分の好きなように、
またはやれるように生きる」と語っている。「人生の日的は休息にある」という
バルザックは、芸術家は例外としてもこの彼の目的は万人に通じる。先に彼は
「芸術家にとって閑暇が労働であり、労働が休息なのだ」と言ったが芸術家は
何もしないでボーッしている瞬間にも、作品の構想を頭の中で練っている。
 だか休息中でも働いているのだと言っているのである。働くといえど肉体労働
ではない。知的というか創造的労働を体を休ませると同時に行っている。
「芸術家は休む時がないですね」と言われそうだが、確かにそうだ。
でも画家の立場からすれば描いている時は結構休んでいる。考ているようで
考えてない状態、三昧世界に入っているのである。
バルザックが「人生の目的は睡眠にある」と言ったらヤバイが「休息」と言う
ところがさすがである。つまり休息こそわれわれが無意識になれる最もベスト
の状感だからである。またこの無意識の状態こそ最も健康な状態といえるのでは
ないだろうか。常に頭を使ったり過度な肉体労働をすることは健康を害すること
に結ぴつくことがある。バルザックが人生の目的を「休息」と言ってのけた
ところには人間の究極の幸せがあるように思う。大半の日本人は人生の目的を
手に入れるためには多忙を極めなければならないと考えているのではないか。
「休息」を目的にしたらきっと落ちつかないに決まっている。「休息」の
背後には芸術家バルザックの優雅な生活というのが存在しているのである。
貴族趣味で家中を金目の物で飾り付けるという優雅さでなく、自由に心の向く
ままに生きることこそ優雅な人生の目的であるということを「休息」を通して
学び直す必要があるとぽくは思うのです。》
▼「休息は死後にすればよい」というが「激しく生きた後の死こそ人生の目的」
 と言いたいのか? 先日、新しいCDを出すと、ツアーで同行した
ミュージシャンから販促を兼ねた手紙がきた。西アフリカのバスツアーで
ひたすら海岸線を南下する日程だったが、そこで「この旅行は、私にとって仕事。
異国のツアーが私に創造を喚起する。税務署は、これを経費と認めてくれない」
と言っていた。芸術家にとって休んでいる時が、創造状態にあり、それをカタチ
に移行する状態が、むしろ休んでいる、遊んでいる状態というのは、納得できる。
・・・・・・・
4180, 復讐するは我にあり
2012年09月05日(水)
『復讐するは我にあり』は、キリスト教の言葉で、‘我’というのが神様
(イエス)のこと。復讐はまた新たな復讐を呼び”憎悪の連鎖”が生まれてしまう、
それを断ち切るために復讐は神に預けて神の裁きにまかせると言う意味。
この言葉を知らしめたのは、第74回直木賞を受賞した佐木隆三の小説で、
5人を殺害した西口彰事件を題材にした作品【復讐するは我にあり】。
1979年に映画化したストーリーとは、≪ 昭和38年。当時の日本はたった
一人の男、榎津巌に恐怖していた。 敬虔なクリスチャンでありながら
「俺は千一屋だ。千に一つしか本当のことは言わない」と豪語する詐欺師
にして、女性や老人を含む5人の人間を殺した連続殺人犯。延べ12万人に及ぶ
警察の捜査網をかいくぐり、78日間逃亡したが、昭和39年に熊本で逮捕され、
43歳で処刑された。≫ である。
 この「復讐は神に預けて神の裁きにまかせること」の意味を知って以来、
怒り心頭になると、この言葉を呪文のように唱え、気持ちを収めてきた。
逆に、私の逆鱗で多くの人の心を傷をつけてきたが、それ故に何倍も返り矢で
傷ついてきた。その時も、この言葉の意味を痛いほど実感した。年齢を重ねる
につれ、この言葉の重みを感じている。 要は因果応報で、報いは一番、
当人が受けているから、あえて怒りの感情に支配されることもない。
怒りの感情は、相手を毒する以上に自分を害する。復讐となれば更に毒が
自分に向かう。とはいえ、家族が殺されたり、致命的な裏切りの怒りは
癒しのしようがない。この言葉を唱えるしかないことになる。逆に祝福を
積み続けた人に神は幸運を与える。「積善の家に福来る」である。
しかし、この言葉こそ、ニーチェは弱者の怨念の原因となるという。
領土を奪われた国民が『復讐するは我にあり』と信じ、他力に頼ろうとしたら、
国は滅びる。人を恨めば穴二つ、という格言があるが、復讐は長期的潮漬け
にするしかない。「江戸の仇を長崎で討つ」ということ。
グローバル化は弱肉強食の世界になっていく。怨念が世界に満ちることになる。
 ・・・・・・
3815, 哲学人 ー�
2011年09月05日(月)
               ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
* ー経験の裏側には、常識ではまったく感知できない真理と現実が数多くあるー
 人生の比較的前半で、経験、そして現象の裏側に一般では感知できない真理と
現実があることを、垣間見てきたつもり。私たちは表側の一部だけの事象を見て
判断している。知りえる範囲でしか見えない。旧約聖書の世界の創世の物語は
7千~8千年前。当時は、そこまでしか想像が出来なかったのである。
それも我々が住む地球が球形で、宇宙に無限に近い星があることも分るはずない。
現在の我々は、現象の中にある真実を知ろうともしないで日常を流れている。 
その範囲のイメージ内でしか生きるしかないのである。 
  ー以下の部分が、その辺のことを明快に表現している。
【 現代科学によって明らかにされつつあるように、日常の世界における、
 そのときどきの経験の裏側には、常識ではまったく感知できない真理と現実が
数多くある。それはしばしば人を愕然とさせるうえに、直観に反したものである
ことが少なくなく、真実であるとわかったところで、納得できない場合もある。  
 ー例を挙げると、
・私たちの周囲にあるどの物体も、分子と原子から成立しており、その原子を
 構成する素粒子の一部は不規則に運動している。これらはすべてエネルギーに
 変換可能なのだが(あらゆる物体は力に満ちた空間である)、こうしたことは
 常識的なものの見方とは全く相容れない。
・私たちのまわりの空気は、テレビやラジオの微量の電波など、情報を運ぷ
 見えない波動に溢れており、そのほかにも数々の分析可能の属性を
 有している、という事実にしても同様である。 
・私たちは巨大な球体の表面で暮らしており、その球が表面上では時速千六百
 キロで自転していると同時に、空間を驀進しているといった、ごく基本的な
 事柄でさえ、(私としてはどうしても言っておきたいのだが、猛烈に)直観に
 反しており、真理であるとわかっていても見たり触れたりすることはできない。
 この事実はあまりに常識はずれであるため、これを最初に発表した人々は、
 いまからほんの数百年前のことだというのに、ふざけた空想家か危険な嘘つき
 として糾弾され、そんな途方もない嘘を人々が信じたとしたら、あらゆる真の
 宗教と(それゆえ)真の道徳にとって害になると非難されたほどである。
 このように、常識は私たちの置かれている状況を適切に解き明かすどころか
 忠実に説明してくれそうもないということを、私たちは事実として知っている。
 さらに、特殊および一般相対性理論によって明らかになったもろもろのことや、
 量子物理学によって明らかになったもろもろのことが示しているように、
 私たちがじかに触れている物理的環境は、近年まで人間には想像もつかな
 かったほど奇怪であり、あまりに常識とかけ離れているため、どれだけ聡明な
 研究者だろうと、こうした問題を理解するのは至難のわざ。このような状況の
 なかで常識的な世界観の擁護を試みても、やる前から結果はわかっている。
 この試みはきわめて想像力を欠いたアナクロニズムと蒙昧主義にほかならない。
 それは最も粗悪な時代錯誤なのである。 なるべく失礼にならないよう控えめ
 に述べるなら、常識的な世界観は思慮の浅い人々の形而上学にはなりうるだろう。
 ラッセルは、それを「野蛮人の形而上学」と呼んだ。ラッセルの言葉で私が
 何よりも頻繁に引用してきたものは、つぎに挙げる『哲学の諸問題』
 (『哲学入門』社会思想社)の一節の最後の文である。
 「・・そうなると常識はも、もう役に立たなくなり、私たちは物理的対象の
 本性について、五里霧中におちいりざるをえない。そこで物理的対象を正当な
 理由で心的なものとみなせるとしたら、ただ奇妙に思われるというだけでそう
 いう説を否定することは正しいはずがない。物理的対象に関する真理は、
 奇妙であらざるをえない」 】
▼ 歳を重ねると、軽くなっていくか、重くなっていくかである。
 私の知る限り、教養を積んできた人ほど軽くなっていく。生きてきた月日の
 出来事が所詮は粟粒、チリの様に消え去っていく事象でしかなかったことを
 知っているからである。
 ・・・・・・・
3450 秘・異郷の旅、よもやま話 -7
2010年09月05日(日)
 * アフリカに魅せられて
 私がアフリカに興味を持ったのは、私の高校の友人がケニアのサファリ
から帰ってきて、その写真を見せてもらったことに始る。100枚以上の、
ライオンや象、ヌー、そしてチーターの写真が数多くあった。それだけの
写真が、その男が実際に写真に撮ってきた事実が受け止められないのである。
そこには、バルーンから動物を撮った写真もあった。なんで一回のツアーで、
これだけ多くの写真が撮れるのだろか? 実際に彼が撮った写真だろうか? 
狐に摘まれる感覚であった。 どれもこれも、これまで見たことのない
活き活きした野生動物のエネルギーが写真から溢れ出ていた。
丁度、カナダのロッキーに行って、大自然に魅せられたばかり。なら、
アフリカの大地と、野生動物が次のターゲットとして良いだろうと考えた。 
しかし、17〜8年前にケニアのサファリというと、大きな抵抗感がある。
とはいえ、あの写真を見せられた上には、行かない訳にはいかない。
そして、初めてケニアのマサイマラの平原にサファリカーで乗入れたのである。
平原をしばらく走っていると、遥か彼方に動物が走っているのが見えてきた。
事前知識は全くないので、期間中にせいぜい数匹のライオンか、シマウマを
見れれば儲けもので、テレビで撮影された動物は、普通は見れないものと、
信じきっていた。それが、シマウマが走っているのである。 そして、
その後は、次々と、ヌー、ガゼルの姿を見ることができるのである。
現地のドライバーが、無線とか、行きあう仲間同士で、何処にライオンの群れ
がいるとか、チーターがいるかを連絡しあっている。そして、夕刻に象の
20頭位の群れが一列になり寝ぐらに帰っていくのに出くわした。夕陽の中に、
黙々と隊列を組んで進む姿が何とも絵になっている。そして、翌朝は、早朝
サファリである。この時の参加者が4名に添乗員が一人。我われ夫婦に40歳
ぐらいの中年の男の一人参加が、二人のため、ペースは我われ夫婦になる。 
これほど、都合の良いサファリのツアーは今だかってない。どの場面も、
強烈な印象が残っている。最初のサファリは、誰にとっても、そうらしい。

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