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堀井On-Line
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2015年09月03日(木)
ー「原因」と「結果」の法則 ージェームズアレン(著) 学生時代に読んだカーネギーや、最近では「7つの習慣」のコヴィー博士など の啓発本のハシリの本。森の生活(現役)から、サバンナの生活(御隠居)に 移行したこともあり、純粋に、こういう考え方を受け入れることが出来る立場に なった。良い原因をつり続ければ、良い結果が現れることは分かってはいるが・・ そこが生身の人間。 四苦八苦は、人間に生まれてきたからにはついて回るが、 その三倍の楽を常に心がければ、何事も上手くいく!ことになる。 三倍を楽しむことは、日常生活の細部を楽しむ習慣化すれば決して無理ではない。 ピュアーな心根を持って、日々の細事を楽しめばよいだけ。 ーまず、アマゾンの商品内容の説明文より ・< デール・カーネギー、オグ・マンディーノなど、現代成功哲学の祖たちが、 もっとも影響を受けた伝説のバイブル『AS A MAN THINKETH』。聖書に次いで 一世紀以上ものあいだ読まれつづけている、驚異的な超ロング・ベストセラー! 「私たちの人生は、ある確かな法則にしたがって創られている。 私たちがどんな策略をもちいようと、その法則を変えることはできません。 『原因と結果の法則』は、目に見える物質の世界においても、目に見えない 心の世界においても、つねに絶対で、ゆらぐことがないのです」(本文より)> ー次に、あるビュアーより ・《「私たちがこれまで考えてきたこと(原因)が、私たちを、いまの環境 (結果)に運んできた」ということになります。つまり、自分の「思い」が 自分の「人生」を創り上げているということです。人の幸不幸は、その人の 環境と、その環境をどう思うか、その人の人格によって決まります。 環境が幸せなものならそれだけ幸せになりやすい、また、幸せになれる 人格をもつ人はそれだけ幸せになりやすい、ということです。 幸せになるためには、自分の環境を(幸せなものに)変えるアプローチと、 自分の人格を(幸せになれるべく)変えるアプローチがあるわけです。 自分の環境を変えるためには、自分が幸せになれるような目標をもって 努力すればいいのでしょう。 自分(の人格)を変えるためには、自分 (の心)を育てる努力をすればいいのではないでしょうか。》 ・《 何かにつまずいた時や心が弱った時、頼りたくなるのが啓発書。 本書は1902年に英国の作家によって記されたもので、世界に数多くある啓発書 のルーツとも言われている。意外なことに、日本語版は今回が初出となる。 現実がままならないのは、すべて悪しき思いによるもので、環境のせいではない と説く。結果としての成功も失敗も、その原因は必ず人間の心の奥底にある 支配的な思いにあると言う。「人間は身勝手な欲望を放棄しているとき、 搾取する側、される側のどちらにも属さない」という記述からは、当時の 英国社会に蔓延していた閉塞感を宗教以外の論理で解消したいという狙いが うかがえる。「自己制御は熟練技能」という啓発書の基本が、1世紀前に存在 していたことは興味深い。》 ▼ この年齢になっても、いや、なったからこそ、この原因と結果の法則には、 考えさせられる。 「いま、ここ、わたし」は、これまでの、自分の 「おもい」の結果である。 自然に任せておけば、大方は、いいこと、 わるいことは、五分五分になるが、意識して、いいことにアプローチをすれば、 わるいこと1、よいこと3にすることが出来る。それを対象、環境にも応用が 出来る。嫌なことがあったら、よいところを3つ探せば、確かに、そこにある。 自分の人生でも、同じことがいえる。老いると自己嫌悪に陥りやすくなり、 過去の全てをマイナスの視点で照射してしまいがちになる。 しかし、その視点で凝視すると、三倍、十倍のプラスの経験がある。 ・・・・・・ 4920,閑話小題 ー女社会のカースト制度 2014年09月03日(水) * お笑い、女社会のカースト制度 以前、目白の高級?住宅街の住人の「渡り僧侶」の奥さんが、 このカースト制度社会で虐められて、相手の子供を殺してしまう痛ましい 事件があった。 今朝のTVで、そのカーストの実態を放送していた。 「巷の社会学」を40数年、独学を続けてきたため、その扱いが面白おかしく 一人ニヤニヤしながら見ていた。それによると、階層が、セレブ、中間層、 最下層の三階層あって、大部分を占める中間層が、セレブもどきの小金持と、 普通のサラリーマンに分かれている。そして最下層は、その中に入れずに 除外されている人たち。 その色分けは、セレブは高級マンションから アパートの住まいと、子供の学校のレベルと、夫の年収と社会的地位などで される。セレブもどきは、中級のマンションか一般住宅の住人で、一億前後の 資産? 最下層はアパートか、中間層から排除された人。それをわきまえ ないと、露骨な嫌がらせか、村八分にあうという。高層マンション住民にも、 上層階ほど値段が高いので、自然と上ほどランクが高くなるとか。 男社会の仕事の現場も似ている。 それは面白いが、一切に触れないように、 アウトサイダーに徹し、ガードを張って生きてきたが、この事態に、差別? の露骨な嫌がらせに何度か受けたが、20年近く前から、森の住人から、 サバンナに軸足を移動していたため、動揺は少なかった? というより、 コミカルな蔑視の対象にしてきた。 ところで数年前、家内のところに、見知らぬ人から一枚の手紙が来た。 その内容が「近くの高齢者向マンションの住人で、人伝に貴女が共立女子大 出身と聞きました、何かの御縁、お茶でも飲みませんか」の誘い。断る理由も ないので、早速、ホテルのレストランでコーヒーを飲んできたが、時々、 同窓の集まりがあるので、参加しませんかの誘いであった。 あとで知ったが、この会の新潟支部長の長男と、私の長男が高校の同級生で、 その人からの指示があったのでは?と推測された。で、何時の間にか、 その世界にドップリ浸かり、今では支部長の妹分?のようだ。 人から見たら、カースト制のセレブ?か、セレブもどきの世界。 その顔ぶれは?? 慶応出の女子部会も、あると聞いたことがある。 この視点でみれば、家内はセレブ社会の住人に入り込んだ「セレブもどき」で、 私は最下層の住人になる。いや、最下層からも弾けだされた人非人。 元もと触れなければ、一切関係ない世界。これに拘り視界狭さくをしている のが世間様。娑婆娑婆である。 ーまた偶然だが、以下の文章は、子供時代の目線の中に、 その存在が、モロに現れ出ている。 ・・・・・・ 4553, 51年前の小学校の写真にタイムスリップ ー2 2013年09月03日(火) 写真を見ながら、当時の20人の男子同級生のフルネームと実家が何をして いたか思い出してみた。私を除いた男19人中15人の8割近くのフルネームと、 各々の実家の職業は全員、憶えていた。半分以上は幼稚園から同窓で何処かで 同クラスだったためだろう。 焼鳥屋、自転車屋、ペンキ屋、乾物雑貨屋、 美容院、衣料卸、床屋2人、和装店、電気店、青果卸業など、駅前もあって 商店主の子供が多い。実家を継いだのは3人。 青果卸業(兄が継いで現在、 社長をしている)と土田塗装以外は、消滅?している。51年も経てば当然。 中学校は全員、東中学校に進み、2、3年時での同クラスは男は私を含め7人。 女は3人。その後の人生をみると、高校と、大学に進むにつれ分別され、 そこで大部分が決まってしまう。それ以前から血筋で決まっていた? 当時、4Fの鉄筋の商店ビル3Fの住居を、この頃に駅裏に引っ越していた。 やっと商店内の生活から解放された。 と同時に、勉強に遅ばせながら目覚め 始めていた。目の前のライバルがハッキリしたこともある。実家の力関係と、 相撲の強さと、学業の成績で、微妙な力関係が出来ようとしていた。 その頃、ある姉に成績の良くなるコツを教わった。「一つでも良いから一度、 テストで百点をとってみな! そうすると、他も自然に良くなるから!」 その時、「これだ!」と思い、実践したのが勉強の目覚めの第一歩。 他に店から自宅と生活環境が変わったことが成績に大きく左右をした。 また中学二年時に兄と同室だが、勉強部屋と机を与えられたこともある。 勉強の出来不出来は勉強空間の親の配慮が大きく影響するもの。 当時は隣家に遊び好きな一歳年上の子と遊びまくっていた。その上、居間に TVが入って夢中になっていた中ニの後半に、それをみた同じ姉に、 「慶応高校に挑戦してみな!」と言われた。そこでガムシャラな勉強を始めた。 一年の即席では無理だったが、その挑戦がなかったら地元の受験校さえ 入れたかどうか? そのことから具体的に目標を定め無我夢中になる重要性を 学んだ。大した玉でないことは確か。だから水面下の独学は必要だった。 話は逸れたが、写真を通し当時にタイムスリップすると、同級生と自分が ディズニーのキャラのように見える。頭でっかちで、親が、そのまま縮小した ような姿で、未来の人生に向かって精一杯生きていた。 この切り口は、 人生の全ての場面に当てはめることが可能。自分とは過去の積み重ねから 成り立っている。記憶を失うとは、自分を失うことになる。この文章を書いて いて気づいたことだが、80歳まで、あと12年の現在、生から生前(無) に逆照射すれば、同年代になる。その意味で、団塊の世代にとって、 昭和三十年前半は意味がある。里帰りということか。 やはり「人生は生きているうち」。 ・・・・・・・ 4178, 事実と真実と真理について 2012年09月03日(月) * 「真実」と「事実」の違い 事実の中にある真実とは、そもそも何かという素朴な問いかけがある。 以前、自宅に電話の苦情があった。「さっき、お宅の犬に突然に飛びかかられた。 子供のヒモが外れたのは分かるが、危険過ぎないか。腹の虫が収まらないので、 電話をした」と御立腹の様子。ところが家には子供も犬もいないので、 「何かの間違いではないですか?」というと、「御宅の前のアパートに住人で、 駐車場から突然、飛びつかれた」という。そこで「電話番号を間違えたのでは?」 というと「間違いない」と、押し問答。後で分かったことだが、自宅奧の貸家の 住人が、何時の間に犬を飼っていたのである。それなら勘違いは分かる。 アパートの住人は裏に、もう一軒、家が存在しているなど知るよしがない。 事実は、我家の駐車場から飛び出してきた犬が突然、飛びかかったのである。 その現象の事実は、そうだが、真実はこうである。今回の倒産劇で、B層、 C層レベルの創作話が多く流れたようだが、誰も好意的解釈などするはずがない。 ー 以下は、、ネットで、「事実と真実」を検索してみた内容である ー ≪●「実際に起こった事象『事実』に対して、それを個人、または集団の心理、 または理解を通して視られるものが『真実』である」 ● 事実と真実の違いは、5Wのうち「いつ、どこで、だれが、何を」に ついて言うのが事実です。表面には現れない「なぜ?」を見つけるのが 真実を見つけるということ。真実を追求するというのは、 事件や問題の 背後にある何故そうなのか、を見つけること。 ● 真実・・・嘘のないこと、本当のこと 事実・・・現実に起きたこと 本来なら「真実」=「事実」に ならなければならないが、うはならないことが多く「多くの人間は見たい 現実しか見ない」。 真実とは「見た人が見たい現実をみているもの」、事実は一つだが真実は 人の数ほどある。 真実はそれを口にする人の価値観と切っても切り離せない。 「事実」は人間の外部にあるものだが、「真実」は人間の内部にあるもの。 「客観的事実」という言葉はあっても「客観的真実」という言葉を聞かない。 問題は、人の認識がそういうものである以上、はたして、「事実」を「事実」 として認識できるのか?という問題が生じる。そうなると、「真実」という のは本当にあるのか?という疑問も生じる。≫ ▼ 寺山修司の言葉に「真実の最大の敵は事実である」がある。真実は、 事実の中にある、それぞれの解釈でしかない場合が多いからである。世間では 「事実の最大の敵はウワサである」になる。それがウワサがB級層では事実に なってしまう。教養とは、そのへんを見分ける知識の蓄積をいうが、とにも かくにも考えない人が多い。ひと事ではないが。そういえば、学生時代のゼミで、 ケーススタディを一年間してみた。次回分のケースのプリントを渡された内容を 10人ずつ二グループに分かれて議論して、それを持寄り20人の円座を組んで 再び議論する。提出された問題の中の答えとの誤差を、更に議論する。 半年も月4回もしているうち、その誤差が無くなっている。 事実=現象の中の真実、真理を見通す能力の訓練だった。 ・・・・・・ 3813, 無知の涙 2011年09月03日(土) * 問題は悪意より無知から生じる――ハンロンの剃刀 ー「ハンロンの剃刀」とはー 「無能で説明できる現象に悪意を見出すな(愚かさによって充分に説明できる ことを悪意のせいにすな。)」頭にきた行為が愚かさで説明できれば、必要以上 に悪意を想定するな!ということ。この定理を知ると、不満やトラブルに遭遇 した時に、相手が本当に悪意に基づくものか、無知や愚かさからくるものか、 を間をもって判断できる。そうすれば、その大部分が無知から生じていること を知る。しかし現実に厄介なのは、悪意より無知からくる方で、無知の自覚が ないから始末が悪い。「知らぬが仏の恐ろしさ」を、他者に、多く見てきた。 いや、それ以上に過っての自分を振り返ると無知の涙を経験してきた。今もか。 人生は無知から生じる問題を解決するプロセス。大体のことが、この法則で (少なくとも他人への)怒りをなだめることができる。それで問題は半減。 「本来、人を理解するのは至難のわざ」である。 自分さえ分からないのに、 他人のことなど分かるわけがない。その他者に悪意を見出しても何にもならない、 という道理は納得できる。一番怖いのは、無知の善意。あとで、悪意がつく。 ー「ハンロンの剃刀」をネット検索で調べるとー 【 ハンロンの剃刀とは、オッカムの剃刀の代用品である。あくまで代用品 なので、切れ味はそれなりである。しかし、その切れ味の悪さは単に研磨屋 の腕が悪かったり、粗悪な鋼を使ったりしているためであって、別に悪気が あった訳ではない。もちろん穿った見方をすれば「腕を磨いておかないのは 研磨屋の怠慢すなわち悪意である」とか「素材に良質な鋼を用いないのは商業 倫理に悖る卑劣な行為」とか言えないこともないが、そう何でもかんでも バッサリ切り捨てないのが優しさと言うもの。 要するに「無能な(≒悪意はない)んだから、許してよ」という言い訳。 「無能で説明できるなら、それに悪意は存在しない。】 何かドッキとする言葉。 無知蒙昧を、一々取り合わない、 腹を立てるだけロスということ。出来たら、孤高でありたいが・・無理。 ・・・・・・・ 3448・秘・異郷の旅、よもやま話・・5 2010年09月03日(金) * ツアーあれこれ ー4 ・パック・ツアーに参加するか。・旅行代理店に行って窓口の担当に旅行の 目的をいい、行程を組んでホテルや飛行機の手配をしてもらうか。 ・旅行先の現地のパックを探してもらい飛行機の搭乗券と組み合わせるか。 ・それらをネット上で、全て予約を組むか。 ・それとも、飛行機だけを予約して、現地に行って出たとこ勝負で、ホテル とか行き先を決めるとか、旅行にも色いろな方法がある。 人見知りをする私にとって、パック旅行は最適なシステムである。 旅行パックシステムは欧米から発展してきたもの。全国から同じ目的を 持った者がチームを組んで旅の目的を達成する。その最適パッケージを代理店 が企画販売するのがパックツアー。激しい競争の中で、パッケージの商品は 年々、改良されていく。 その進化したシステムを如何に合理的に使うか。 インテリと称す何?が時々、パッケージ・ツアーを罵倒している文章に 出くわすが、彼等はそのシステムの合理性を知らない。これがなければ 「ケニアでヌーの河渡り」や、タンザニアのセレンゲッティー草原で、 チーターの狩りなど見れる訳がない。それを可能にするには、10倍近い 金額と期間が必要になる。それ以前に、そんな気持ちになれない。 南米のべネゼイラのテーブルマウンテンに、地元のインディアンが先導する ボートに乗って奥地にいき、キャンプをし、飛行機で上空を旋回し、 エンゼルフォールの滝の下から1千Mの滝を見上げることなど出来るわけがない。 南アフリカで、ボツナワとザンビアの国境の橋の上から100mの高さからの バンジージャンプなど出きようがない。代理店は普通のパック商品では 生き残れないから、各種のパッケージを開発する。特に中小は、自社の強みが 何かを探し出して、それを売りにする。ケニア・タンザニアを専門にしたり、 イスラエルだったり、アマゾンだったり。それをパッケージにして、可能な限り 格安に売りに出してくる。面白いところでは、ツアーのベテランを狙って、 秘境・異郷のツアーに、かなり厳しい教育の入った自前社員を組み合わせた 一ランク値段の高いパッケージを売っている代理店もある。それも、ランクが あって特Aの客層狙いだったり、A狙いだった。特Aの団体を時どき見かけるが、 人相からして違う?一度、パタゴニアのツアーで参加したことがあるが、 成程である。 ・・・・・・・・・ 3073,飲み屋横丁考 2009年09月03日(木) このところ重い内容が続いたので、飲み屋横丁考でも・・・ 飲食街は幾つかの飲み屋横丁と、飲食ビルの組み合わせから構成されている。 飲食街そのものは50年〜60年の長年の歴史の上に成り立つ。その飲食街も、 この不景気と生活様式の変化で存続そのものが揺らいでいる。東京は銀座、 新橋、六本木、新宿など地区で、客層が分けられるが、一般的には、年齢、 客単価、一次会、二次会など目的などで大まかに分かれている。この数年は 地元・長岡で飲む時は、殿町の一角にある3メートル通路両側に8軒が並んでる 横丁の二軒で飲む機会が多い。 ところが先日、行きつけの隣の店に新たに 入ってみた。 これで8軒のうちに6軒目に入ったことになる。 ・先日開拓した「笑いキャラ」の店である。30〜40歳代の客層の店という。 (そこで、その横丁の各店の話題をしていたら、5軒の店が年代別の客層で 分かれているのに気づいた) ・私が通っている店は、50代から60代後半のカラオケを売りにした名物店。 ・もう一軒の行きつけは医者や夫婦が何組が常連の店で50〜65歳前後の店。 ・極めつけは70歳後半から80歳代の店がある。 ママは当然80歳前後。 知らない人が入ったら驚く。 ・それにフィリッピン人と、韓国人がママの店が一軒ずつある。 ・残りの二軒は入ってないが、何かの違いがあるのだろう。 自然に店舗構成がそうなったところが絶妙である。基本として高い店は 行かないので少し離れた横丁である。そこだけで店を替えていれば十年間は 持つことになる。 吉田類の「酒場放浪記」という番組があるが、店の中より、 最寄駅から周辺の商店街などを歩くことから始る。背景から客を知るのである。 大きな飲食店ビルは、オーナーが意識的にテンポ構成をするのだろう。 そういえば数年前に、地元で最高級?のスナックビルが倒産した。 この御時勢、そうだろう。
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2015年09月02日(水)
* 高齢者運転講習と適性検査 一昨日、70歳の免許証の書換えを前にした、法定の『高齢者運転講習と 適性検査』を受けてきた。参加者が10名(その中に、田中真紀子もいた)、 時間は14〜17時までの三時間。講義、ビデオ、目の検査、適性検査、実際 の運転検査など、かなり真剣な内容。 どうも目が不適正で、このままだと 不合格になりそうである。書換えまで5ヶ月あるので、近々に病院で検査に行く しかないが、最悪は免許返済もありうる? 10数年前から、長いトンネルや、夕方の薄暮や暗くなると、視界が悪く なってはいたが、どうだろう? 講師曰く、『人によるが、歳と共に、年々、 極端に運転の適正が落ちていく』と。これも、「悲しい老い」の一現象。 気持ちは若いが、肉体は、年齢そのままに老いている。 講習の中で、 《地元で去年の交通事故の死者が、加害者・被害者を含め8人だったが、 そのいずれも65歳以上の高齢者。 以前は圧倒的に若者が多かったが、 都会を中心に若者の車離れの傾向が強いため。 都会では、地下鉄網が キメ細かく張巡らされていて、何処にも歩いていけるし、買物はコンビニや、 スーパーがあり、ネット販売がある。 スーパーや大型店での大きな物は、 宅配便で、送ってもらえるし、スーパーがネットによる宅配まで開始をした。 そこに都会では駐車場などの経費がかかるため、若者は、当初から関心がない。 それもあって、運転教習所は深刻な経営難で、市内に二つあった教習所の 一つが数年前に廃校になった。》と。 若者の正規雇用が減り、収入から みて、都会では親がかりでない限り、車を持つのは不可能に近いのが現実。 ところで、来年早々の、免許の書換え、視力の具合からみて、返済も 真剣に考えてみなければ。タクシーを頻繁に使っても、維持費からしても 格安になるが・・ これが、老いの現実か。まずは、医者にいってから! マイナスに考えすぎないで、出たとこ勝負になるが。そういう年齢だ! そして、偶然だが、以下に丁度よくつながる。 ・・・・・・ ・・・・・・・・・ 2006年09月02日(土) 1978, クルマが売れない! Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning ある新聞の経済欄で「クルマが売れない!という記事が出ていた。 景気回復に比例して車が売れ出すという業界常識が崩れてしまった。 車そのものの魅力が低下、車が日用品化してきたからだ。これまでの車は 30年から40年前までの時計みたいなもの。ロンジンとか、ローレックスとか、 持っているだけで偉そうな錯覚をさせるイメージを加えて売っていた。 ステータスシンボルの要素が大きかった。ところが現在は、どんなよい車に 乗っていても何の価値も感じなくなった。むしろ頭の軽さが目立つだけだ。 この情報化でモノ、コトへの価値が見え始めてきたのだ。7月の新車販売 台数が(軽自動車を除いて)13ヶ月連続で前年実績を下回ったという。 軽自動車を除くと、13ヶ月も前年を下回ったのは1968年以来という。 (軽自動車を含めると4ヶ月連続の下落) あれだけ騒がれて登場したトヨタのセルシオの国内販売が、当初予定して いた計画を遥かに下回ったという。この背景には日用品化した以外に、 消費の多様化がある。車に振り向けられた消費者のお金が、デジタル 携帯音楽プレーヤーや、薄型TVなどの家電製品や、携帯電話の通話料に 向けられているためだ。確実に消費者の欲しいものの中の、順位が 下がっている。かって本田宗一郎が「ライバルは同業者だけではない!」 といって言葉が、さらにシビアに聞こえてくる。車購入の中心だった団塊の 世代の、車への興味も確実に下がってきている。 年功序列の賃金制度がホボ崩壊し、「いつかはクラウン」という購入パターン は過去のものになったこともある上に、その年代が実質定年を迎えつつある。 「クルマが売れない」というキーワードで検索をかけたら、日産と三菱自動車 の販売不振の内容が出てきた。かなり深刻のようだ。日産のゴーンの戦略も 尽きてきたようだし、鼻持ちのならない「三菱のブランド」が大衆に嫌悪感を 持たれてしまった。フルラインのトヨタ、若者・スポーツ感のあるホンダと、 軽自動車のメーカーと、それぞれの特化が顕著になってきている。 ところで私自身14年近くトヨタのソアラに乗っている。前の型のソアラに 4年半乗った後、新中古のソアラに乗り換えた。 現在もエンジンもしっかり しているし、車自体14年以上乗った車という古さを全く感じない。 まだ8万キロしか乗ってないが・・・ また十年前より、高速自動車の長い トンネルに入ると、閉所恐怖症みたいな感覚になってから遠乗りをしなくなった。 そのため「近くの移動の手段であれば何でもよい!」という気分になった。 おまけに前の型のソアラがあまり出回ってないので、古車を乗っている感じがない。 60歳になったら最後の車を買おうと思ったが、そんな気分にもなれない。 それなら海外旅行に、もっと行ったほうがよい。その気持ちは、一般の団塊の 世代と同じなのだろう。売れない理由は、流行語でいうと、社会の比重が 中流社会から下流社会へと変化していることもある。 それが一番の理由。 ・・・・・・ 4919,一度、死んでみましたが −2 2014年09月02日(火) 『一度、死んでみましたが』神足 裕司著 * 死の淵からのルポの凄み 〜① 介護度5の筆者の、たどたどしい文から、その日常と心情が直に伝わる。 それでも生きなければならない、そして、書き残さなければ直ぐに忘れてしまう 恐ろしさ、そして、ベッドで、のたうちまわる日常を淡々と、たどたどしく、 生々しく書いている。 倒産の葛藤の日々に似てないこともない?が、 状況のレベルが違う。 ーその辺りからー ≪ ● 死の入り口 ーp21 忘れていたが、思い出したことがあった。また忘れるので、書いておく。 たぶん、意識がなかったときのことだと思う。 ボクはのんびりとした毎日を 過ごしていた。あたたかい、やわらかい空間で、取材をしたり、原稿を書いたり していた。「そうだ、家に帰らないといけない」「心配しているかもしれない」 そう思っていると、遠くから息子や娘の声が聞こえてくる。「そろそろ帰ろう」 そう思っていたが、何度も原稿の締め切りがあって、たくさん原稿を書いていた。 そして、もう一回書かないと、とゆっくり書いていた。死の入り口の人間は 痛みもない、あのあたたかい、やわらかい空間にいるのだと思う。 死の入り口は、痛くも怖くもないのだ。” ● 忘れていた ーp25 思い出したことがあった。眠っているとき、白い服を着た白い鳥のような ものがボクの頭の上あたりをぐるぐる回って飛んでいる。僕は仕事で忙しかった ので、その白いものを見て見ぬふりをして、仕事を続けていた。忙しい、 忙しいと、締め切りに間に合いそうもないと、原稿を一生懸命書いている。 気分は良好。そこで娘の叫び声がする。「パパ!」僕は娘のところ行かなくては とふと顔を上げると、白いそれは消えてなくなった。喉が渇いていた。そうだ これは喉が乾き過ぎたからだ。だが僕は何を知らせたいのか、わからなかった。 「パパ、お茶飲む?」そう娘に聞かれて、喉が渇いたのをはじめて思い出した。 本当に喉はからからで、お茶をごくごく飲んだ。もっと、もっと、飲みたい…。 だが、僕は喉が乾いていたのを、忘れていた。 ≫ ▼ 何気ない文章だが、死の淵の意識は、こういうものだろう。 なまあたたかい、やわらかい空間にいて、痛くも怖くもないようだ。 それぞれの章ごとに、介護度5の筆者の写真があるが、その虚ろな表情が、 そのまま、その状況を伝えている。 介護度5の重症患者の自分を、そのまま ルポをしているのだから、これ以上のルポはない。 誰もが、訪れる『死』の 前での凄惨な日々は避けられない。「死んでしまえば、それまでよ」だが、 その直前の凄惨な格闘、その時は、その時に受け入れ闘うしかないが!
・・・・・・ 4552, 2050年の世界 ー3 2013年09月02日(月) 「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 英『エコノミスト』編集部 (著) * 米国の衰退の予感と、勝ち組になる国の姿は? 日米欧のうちG7の中で残るのは米国だけと予測。人口衰退の国に明日は ないことになる。その中で、日本の影は一層、薄くなるのは、現在の日本を 見ていても分る。米国の実質支配下の隷属国家、親が転ければ子も転ける。 〜まずは、その辺りから抜粋〜 《 米国民は、つねに競争、解雇、収奪、殺害のリスクにさらされている故に 脆弱感を持ち続けている、だから宗教にすがる、と分析する。 次に・高齢化に伴う医療費・年金の財政圧迫であり、投票率も高く献金も多い 高齢者の仕様の老害政治である。高齢者に有利な財政・優遇策ではなく、 若者の勤労意欲を引き出し、結果として高齢者をよりよく支えさせる賢明な 政治に切り替えよ、と主張する。エコノミスト誌の予測を読んで、私なりに 導いた結論は、次の点である。これからの「国々の興亡」は、中産階級を育て、 維持し、大いに嫁がぜる中産階級大国と、若年層の勤労意故、社会・政治参加、 高齢者を支えるコミットメントを上手に引き出すスマート・カントリーが 勝ち組になる。それはグローバル化を活用しながら、可能にしなければならない。 グローバル化の波頭でサーフィンするのではなく、海面からは見えない潮流を とらえ帆を張ること。それには黒潮をつかまえることだ。そのひとつは、 シュンペーター的起業家精神。 ローレンス・サマーズは「21Cは、 シューペンターがもっとも重要なエコノミストになるだろう」と看破したが、 グローバル化により創造的破壊がグローバルに解き放たれている。 その怒涛に渦から湧き上げるプランクトンを貧ること。 もう一つはグローバル・リテラシーである。いま、それは英語である * 二〇五〇年の日本の影は一層、薄い。 2010年に1億2600万人を打った人口は減少し続ける。人口減少は毎年1%GDPを 押し下げる。GDPは世界全体の1.9%、(2010年は5・8%)。人口一人あたりの GDPも、米国を100とすると、韓国の105に比べて日本は58へと沈んでいく。 しかし、日本の真の問題は人口とGDPではない。 日本の科学関係のノーベル賞 受賞者は15人しかいない、オーストリアは日本の人口の7%に過ざないが、 受賞者は14人と日本より一人少ないだけだ。なぜなのか。エコノミスト誌は、 権威に挑戦することを目己規制するからだ、と見る。「欧米に追いつき追い越せ」 の後に何を生み出すのか、それが見えない点では日本も中国も同じである、 というのである。向こう40年間、日本にとっての最大の挑戦は、シュンペーター と英語ということかもしれない。 { *参考 20世紀の経済学者ヨーゼフ・シュンペーター(1883〜1950年)は、 イノベーションと改善を求める起業家の意欲が、いかに大きな変動と変革を もたらすか注目し、起業家精神を「創造的破壊」をもたらす力と考えた。 彼によれば、起業家は「新結合」を遂行し、古い産業の衰退を促す。 確立されたビジネス手法が、より優れた新たな手法により破壊される。}》 ▼ 現在の日本がシューペンター的起業家精神を持って創造的破壊が可能 だろうか?といえば、疑問である。それより国家の概念が、情報端末とネット の進化で破壊される可能性が高い。ますます個人化が進み、個人が国家や、 地域社会の垣根を超えて行き来する。10年前、誰がPCが、タブレット、 スマートフォンの大きさになると想像した? ・・・・・・ 4177, 哲学で自分をつくる ー6 (デカルトー②) 2012年09月02日(日) 第二章 まだ自分をさがしているのか?(ーデカルト―②) 「哲学で自分をつくる」瀧本往人 (著) * まずは、「感覚」「現実」「数学」を疑うことから 確かに間違いなくある五感と、現実。デカルトは、まず、それを疑った。 現実と思っているのが実は夢でないかと。確かに感覚で捉えても、錯覚という こともある。 まず、感覚と現実をデカルトは疑った。なる程、デカルトは 近代哲学の祖。ここから、まず疑うのが知性、理性の出発点。膨大の情報化の 真っただ中で、このへんの事を、よく分かってないと、その洪水に流される。 いわゆるB層の人々になってしまう。割り切ってしまえば、それも良いが。 哲学で自分をつくろうとしているのだから、現実も、感覚も、まず疑うこと から出発しないと・・ あの人たち?のようになる。ーその辺を抜粋ー ≪ ◎ 最初に疑ったのは、「感覚」である。一般的には、自分が見たもの 感じとったものは絶対に正しいと考えたくなるが、デカルトはこれに依存して はならないとした。なぜなら、見えているもの、感じているものは、しばしば 「錯覚」を起こすからである。 ・・・要するに自分からの確信は世界を正確に とらえているとはかぎらない、ということである。逆に、この錯覚にさえ気を つければ自分の感覚もあてになる、とも言えるが、デカルトは、どんな場合も 間違いなく依拠できるもの、条件なしのものを追求しているので、感覚には 依拠できないとする。 ◎ 次に疑いにかけたのは「現実」である。実は第一の疑いである「感覚」と この「現実」とは重複した部分がある。実際に見ているものは、「感覚」でも あり、「現実」でもあるからだ。だが、自分が今、経験していること、つまり 感覚も含めて把握していることが「リアル」だ、というイメージならば「現実」 を疑うデカルトの意図は少し明確になる。この「現実」に対してデカルトは、 もしかすると、今現実と自分が思っているものも夢ではないか、と疑ってみた。 夢なのか現実なのか、その見定めができない、ということである。こでもやはり、 自分が夢を見ていないということが証明されれば問題はなくなるのだが、むしろ デカルトは、その根拠を必要としているので、確かなことではないとみなした。 ◎ そして第三に、デカルトは数学を疑う。彼は最も擁護したいものを一度 懐疑にさらしたことになる。数学的な真理は確かに、その体系においては真理が 成立しているかのように見えるが、新たな真理が発見されてしまうと、今まで 信じてきたものもあっけなく崩れることがある。デカルトはここで、数学を 特権視せず世の中に多々ある約束事と同様のものとして、不確かなものとみなす。 このようにしてデカルトは、用心く、私たちが最も依拠するであろう「感覚」 「現実」「数学」にそれぞれ落し穴があると強調する。つまり、特に確からしい と思われているものさえ不確かなのだから、「すべてのものごとは不確かなもの なのだ」ど判断するのだ。≫ ▼ 般若心経の「色即是空」の、色が現象であり、受想行織が感覚になる。 それらの全てが、即、空であり、あてにならないとデカルトは看破した。 まず常識を疑うことが第一歩だが、それを疑っている自分の感覚を疑って かかることこそ必要である。緑の原野からサバンナに出てみて、 「あの原野での出来事は何だったのだろう?」と、振り返ると、何も疑問を 持たないで同じ行動パターンを繰り返していた自分が見えてくる。 そして、現在も同じようなことをしている。根こそぎ、否定出来ない。 それをするには常に死を意識しなくてはならない。 しかし、目を背けている弱い自分が、ここにいる。 ・・・・・・ 3812, 世の中、すべからく代理・代行 −2 2011年09月02日(金) 国会議員、地方議員も間接民主主義による、国民や地域社会の代理・代行業。 ・セブンイレブンなどのコンビニは、車や徒歩で10分以内の住民が、買って 10分以内に消費するニーズを満たす代行の店。土地持ちのオーナーに 全国区レベルの情報とシステムの提供で、互いの利点を生かしあっている。 ・配送業が供給過剰のため熾烈な競争に入ったが、その中で一部業者は逆に 成績を伸ばしていった。家電なら、TVやDVD、冷蔵庫、洗濯機などの配達先の 取り付け作業を家電店に代わって請負うのである。パソコンもしかり。 運送業者が電器の取り扱い経験者を運転手として雇えばよいのである。 ・スーパーの流通センターから各店の配達も、最終店出し直前まで請負う。 ・先日、寿司の宅配専門で伸びている業者が、東京の山の手の有名店の宅配 だけを専門に請負う会社運営をTVで放映していた。売り上げの4割を店から 分けぶんとして貰う。 それでも有名店の店舗運営の経費からみても、 採算がとれるという。 ・代理出産もあるが、ここではやめておこう。 ・その中で面白いのが結婚相談所。これは昔からあったが、ネット時代。 一番、微妙な部分を考慮に入れた仕組みづくりがポイントのようだ。 料亭などが、最近では料理教室をつくり、そこに男女を集めて出会いの 機会を提供する。中高年や、エリートだけに絞り込んだコースとか、 外国人との結婚を求めている男女とか ・面白いのでは、ゴーストライターがある。有名人や成功した社長に代わり 一代記や、人生訓などを書く。ケネディ、オバマ大統領にも名ライター がいたが、あくまで影の身である。 ・戦国時代、江戸時代の大名にも名筆の書き手がいた。それは、それで専門職 は必要である。激しく時代が変わる中で、一人で何もかもは不可能。 その中で、いち早く、変化のニーズを察知して、その代理・代行のシステム を提供する必要性がある。デジタル化とネットによる情報化が別世界を 新たに出来つつある中で、代理・代行がキーワードになる。 ・・・・・・・ 3447.秘・異郷の旅、よもやま話・・4 2010年09月02日(木) * 初めての21歳の欧州旅行 ー3 初回の欧州旅行で、帰国して半年間は自失呆然状態であった。 自分の心が粉々に粉砕されてしまったようだ。カルチャーショックである。 今から思うと、これが良かった。両親から受け継がれていた小さな世界の 価値観が根こそぎ壊れたのである。それと「自分は東洋の小さな島国・日本の 黄色人種」という目線を得たことである。これをキッカケとして、根こそぎ 自分を変えなければ学生の4年の自由時間を与えられた価値がないと気づいた。 それと社会、世界は不平等で格差であること。世界には豊かな人種と国家があり、 逆に貧しい人種と国が満ちている。その中で生きていく自分を作る基礎を学生 時代に培わなければと、気づいた。とにかく世界は広く、深い一端をみた。 話は戻るが、ロマンチック街道から見た、川添に展開するお城と、景色。 それと、早朝にスイスに霧の中から見えたレマン湖とスイスの渓谷の美しさに 言葉を失ったことを思い出す。 毎日にように、これまで、想像すらできない 光景を、これでもか、と見せられるのだから・・ 当時、中高年の人で、 あまりのカルチャーショックで精神の異常をきたす人が多いと聞いた。 現在のように、写真、テレビ旅番組、ニュースに、映画の背景として過剰に 入る時代ではない。私のように、中高校の白黒の小さな写真でしか見たことが ないものを、次から次へと見れば、感動の蓄積で、脳が変になって当然である。 幕末の獅子たちで、当時、欧米渡航経験があるかないかで、動乱の中で大きく、 その後を左右したというが、当時の彼らは欧米の社会を驚愕の目で見てきて 近代国家の絵図を描いたのである。時代も、スケールも、全く違うが、 それでも21歳での経験として、大きな財産になっている。 ・・・・・・・・・ 3072,コカコーラのビン 2009年09月02日(水) ー字数のため、カット 2015年9月2日ー
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| 5283,「読書の腕前」〜 「歩く」ことは「読書」に似ている |
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2015年09月01日(火)
「読書の腕前」 ー④
〜「読書の腕前」岡崎武志著 ー読書日記 〜 * 「歩く」ことは「読書」に似ている シンプルで、非常に分かりやすい例えである。7年前から早朝の散歩が、 ポタリング(自転車散歩)にとって代ったが、30年、冬期間を除いて、 近くの土手を毎朝、一時間前後、歩いてきた。 初めは腰痛対策だったが、 いつの間にか、「ストレス解消の癒し」の効用に気づいた。以下に指摘して ある、「じぶんがじぶんからぬけだしてきた感じ」が、程よいのである。 その間の、自由な孤独感と、開放感は何とも素晴らしくミニ・リゾートの ような時間になっていた。それと、「読む」という行為を重ね合わせて同定 するとは、言いえて妙である。 〜その辺りから ≪「読む」という行為が、「歩く」ことと非常に似通っているのを知ったのは、 詩人の長田弘のこんな文章によってだ(『読書のデモクラシー』岩波書店)。 ・「歩くということは、じぶんがじぶんからぬけだしてきた感じをもって、 いろいろなキズナからときはなたれた感じをもって、一人の自由な孤独な 人間となって歩くということだ」 この文章の「歩く」を「読む」に置き換えてみたとき、読書の本質をあまりに 見事に言い当てている。特に「じぶんがじぶんからぬけだしてきた感じ」 という表現には、「感電した」ようなショックを受ける。 そう、まさに「読書」ってそういうものなんだ、と。 自尊心や劣等感、出生地や職業、年齢や日々のスケジュール、家族や友人、 好きな食べ物や嫌いな歌手など、じつにさまざまな属性をぶらさげて生きている、 この「自分」というもの。考え込んだり、ため息をついたり、「自分」という やっかいな気ぐるみを着て、生きているようなものだ。 本を読むときに、これらから完全に自由になれるかというとそうでもない。 しかし、物語の時間に慣れて、あるいは著者の思想の渦に呑まれて、本に流れる 血液が手を通して自分の体内を流れはじめる頃、まさに「じぶんはじぶんから ぬけだして」ゆくのだ。いつの間にかさまざまな属性をぶらさげた「自分」 という着ぐるみを足元に脱ぎ捨て、ほんとうの意味で「裸の自分」がそこにいる。 夢中になると、裸になっていることさえ気づかない。 これこそ、読書の大きな功徳ではないか。長田はこうも書く。 ・「歩くことは、あなたが見知らぬ人びとや見知らぬものや自然を見ながら、 その人たちやものや自然から、言葉や形や色でもって語りかけられるということ。 つぎに、あなたのほうでもそれらに語りかけないわけにはゆかないということだ」 ・「日々に歩いて心をひらくことができて、はじめて私たちはいま、ここの中身を ほんとうにゆたかに深く複雑なものにすることができるのだ」と。 いずれも表向きは「歩く」ことを語りながら、読書の本質を言い当てている ことがわかるだろう。「歩く」というのは、ほかの移動手段にくらべればはるかに 不便だ。自転車、バイク・自動車、電車、あるいは飛行機…時間と距離の効率に おいて、「歩く」ことは、そのどれにも及ぱない、また「ながら」も利かない。 音楽を聴きながら、ぐらいはできても、歩きながらのの読書や、またノート パソコンを使っての原稿書きもまず無理。 折り鶴だってできないだろう。 「歩く」ときは、「歩く」ことに集中するしかない。このこともまた、 読書と似ているのではないだろうか。 ≫ ▼ 読書の功徳を、「歩くこと」を語ることで、シンプル化して掘下げる。 私の心の財産に、秘境ツアーがある。40歳頃から、ストレス解消として 始めたシリーズも、読書に似ている。「歩く」かわりに、手軽に、秘境旅行 パックのツアーに参加する。そして、大自然の景観に圧倒され、日常の着ぐるみ を剥ぎ落としてくる。20年間、年に2〜3度だったが、何ものにも換えがたい 経験だった。読書も、半世紀にわたり、2〜5時間は続けてきたが、これも トリップには最適である。トリップをしすぎて、現実世界に適応出来なかった ことが、良かったのか悪かったのか? ・・・・・・ 3446.秘・異郷の旅、よもやま話・・3 2010年09月01日(水) *初めての21歳の欧州旅行 ー2 デンマークの初めての夜はレストランのバイキング料理である。 当時の日本にはセルフ形式は全くなかった。それより、自分が食べたいだけ 皿にとってよい、とうのが珍しく、不思議な感覚であった。 そして、スウェーデン。夏のせいか、金髪の若い女性が裸足で、 超ミニスカートで、街を闊歩している。その美しさが街並みにマッチして いるのに驚いた。 また郊外にある古城の絵に出てくるようは美しさ。 それと高台からみた高原の輝く景色。それが次々と続いて出てくるのである。 そしてロンドンに。中学校の教科書の小さな写真でしか見たことのない バッキンガム宮殿、ロンドン市内には、シルクハットをかぶって歩く風格ある 紳士。パブに入って飲んだビールの美味さ。重厚なパブの雰囲気も異次元世界へ タイムスリップをしたような感覚であった。そこで仲間数人酔ってしまい、 子供時代以来、腹の底から笑った経験をしてみた。こんな楽しく高揚をした ことは今だかってなかった。もう、その世界に入ってしまったのである。 これを何度か経験すると、チョッとしたキッカケで同じ気分になれる。 これが人生を楽しさの面で非常に豊かにした。元もと実家で商売をしていて、 年に一回、家族、従業員、取引先など5〜60人が、年末に飲めや歌えやの ドンチャン騒ぎをしていた回路があったが、ロンドンで仲間と騒げば面白みが 格段と上がる。それで酒席が好きになり、ハメがきかなくなってなっていった? パリのシャンゼリゼ通りと、凱旋門、エッフェル塔。歴史的な積み重ねが、 そのまま、街並みに出ている。そのシャンゼリゼを、独りで歩いたことが 今でも記憶に鮮明に残っている。歩行者の、ほぼ全員が白人。 その中で、東洋人の自分に違和感を初めて覚えたということ。 ・・・・・・ 4918,閑話小題 〜ドルの不思議 2014年09月01日(月) * ドルの供給量が三倍 リーマンショック以来、ドルが三倍、ユーロが二倍の資金供給量の増加に なったが、円は二割の増加。それからして、ドルは40円になって然るべきだが、 不思議なことに100円辺りにとどまっている。米国債を発行したりしてドルを 回収しているが、そこにシェールガスの供給量が爆発的増加の要素が加わる。 やはりドルが全世界の基軸通貨の絶対的強みがあるが、マジックがあるような。 で、安部・黒田コンビが、過ってなかったほど、無制限に円の資金供給量を増やし、 それが株式にまわり株価を上げる。その崩壊も、時間の問題で、ある日、突然・・ * つれづれに 先日、TVで「幽霊や、虫の知らせ」について、色いろなケースを取上げていた。 そして、学者が「それら全てを、勝手な物語化しているに過ぎないだけ!」と 否定をしていた。これは各自の感覚の問題であり、断定出来る問題でない。 私も、ある時期、変な感覚が身についたことがあった。今は全く無くなったが、 これは経験してみないと理解できない。「激怒した相手は、本人か家族が数年 以内に病気か不幸が起こる」と信じている。家庭内は何こも多くの問題を抱えて いて、数年以内に必ずトラブルは起こる。特に熟年家庭には・・ 自分より年上には「いずれ直ぐ死ぬ!」で済む! そういう年齢になった ということ! 死んで三日もたてば、三百年前と死んだと同じこと! で、日々暮らすしかない。 * 「LUCY/ルーシー」〜シネマ評 まあ面白い! 95点である。ここでは、人間は脳の10%しか機能してない というが、3〜5%も使ってないのが大部分だろう。私自身の過去を振り返って みた実感は5%である。 ーレビューよりー ≪ 脳が100パーセント機能してしまったヒロインの戦いを描くアクション 「LUCY/ルーシー」。ごく平凡なルーシーは、台北で、マフィアの闇取引に 巻き込まれ、密輸のため新種ドラッグを体内に埋め込まれる。だが、袋に入った そのドラッグが体内で漏れ出し、ルーシーの脳はみるみる覚醒。 驚異的スピードで変化する彼女は、脳科学者ノーマン博士が見守る中で、 人知を超えた能力に目覚めていく…。 しかし一方で次第に人間性を失って いく彼女は、 自分自身でさえも制御不能な状態へと陥っていく。果たして 100%に覚醒したルーシーは、人類を救う存在なのか? それとも破滅へ導いて しまうのか? 通常は10パーセントしか機能していない脳が100パーセント機能 してしまったら? わずか数分で外国語をマスターし、傷みも感じない身体は スーパーパワーを身につけ、肉体的な格闘を超越して超能力の域に達する。 気弱な女の子から、人間性を失いつつも超人に激変を楽しみたいファンには おすすめだ。≫ ▼ 火事場の馬鹿力は確かに存在するが、それを薬物を使って引出すのは、 アスリートや音楽家の世界では広く応用?されている。これを拡大した アイデア一発だけで勝負をした内容が、何とも面白い! ・・・・・・ 4551, 2050年の世界 ー2 2013年09月01日(日) 「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 英『エコノミスト』編集部 (著) * 船橋洋一の解説 〜1 最後の船橋洋一の解説が簡潔に大筋をまとめてあり、これだけでも読み ごたえがある。四十年間の最も意外の黒鳥はインターネットには全く同調する。 まずは、その辺りを抜粋してみる。 ーその部分を抜粋してみるー ≪ 四十年先の世界を予測しようと言うメガチェンジならぬメガチャレンジを エコノミクス誌が試みた。これがいかに無謀かは、過去四十年間に世界で 起こったことがどれほど不可測的であったかを振り返れば足りる。 例えば、 一九七二年の時点で、次のような地政学的新世界を誰が予測しただろうか。 ○ ソ連が崩壊する。 ○ 中国が世界第二の経済大国にのし上がる。 ○ 新興国パワーのインド、ブラジル、南アフリカがサミットを開催する。 ○ 日本が二十年間の「失なわれた時代」の揚句、没落する。 ○ 米国と欧州連合)が深刻な債務危機に喘いでいる。 ○ インターネットが世界を覆い、フェイスブックが、インド、中国に次ぐ 十億人の大国になると誰が予測しただろうか。過去四十年間の最も意外の 黒鳥は、インターネッ卜だったかもしれない。これ一つとっても未来予測に 謙虚であるべき。もっとも、英エコノミスト誌は、この種のメガチェンジの 調査予測をこれまでたびたび特集してきた。有名な例の一つが、一九六二年、 ノーマン・マクレー副編集長が執筆した「驚くべき日本」の大特集である。 日本が戦後の復活の過程を終了、世界の経済大国へとのし上がっていくだろう との日本像を鮮明に打ち出し、世界の日本観を一変させた記事だった。 同記者の日本調査予測モノは、その後、一九六五、一九六七、一九八一年と続いた。 今回のエコノミスト誌の予測は世界をまるごと予側している。さらに野心的。 ○ 絶滅種が再生技術で復活するだろう。マンモスが一番乗りするかもしれない。 (恐竜は雛しいのだろうか?) ○ イエメンでは、二〇一五年までに自然水が完全になくなる。 ○ インドは、文盲人口と大学卒人口がほぼ同数という世界で最初の国になる。 ○ インドとパキスタンが競争の可能性がある。それが起これば、核保有国 同士の最初の戦争となり、もしか核戦争?。 ○ 中国の繁栄は長続きしない。最大の要因は、人口減のの重圧である。 中国の出生率は2.1に落ちる。四十年後、日本、欧州と並んで最大の人口 負け組となるだろう。二〇五〇年。最大の人ロを擁する国は17億人のインド。 中国がそれに次ぎ、米国を抜いて、ナイジェリアがその後を追う。 インドネシアも向こう四十年間、人ロポーナス国である。二〇五〇年、 アジアは世界経済の半分の規模。この時点でのG7は、インド・ブラジル・ ロシア、インドネシア、メキシコ。現在のG7で残るのは米国だけになる。・・≫ ▼ 過去40年より、今後40年の方が遥かに大きな変化が次々と生じてくる。 理由は簡単、スマートフォンなどの情報端末が止まることなく進化し、世界中の 人たちが瞬時に繋がる流れが加速し、それが一部の特権階級の富、 情報、権力の 独占を破壊することになるからだ。未来学者が、現在の事態は自分たちの予測を 遥かに超えていると述べていた。こと知識、情報、娯楽面で充分に恩恵を 受けている実感がする。 ・・・・・・ 4176, グローバル化の真実 2012年09月01日(土) 『終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか』水野和夫(著) なかなか面白い本である。ーアマゾンの書評をコピーしてみたー ≪「自由とはドルとエネルギーの消費である」と言われたアメリカが覇権国 である時代はもう終わった。しかるにアメリカはグローバリゼイションと いう名の〈米による世界経済征服計画)方策で、その命を永らえさせている。 (そこには様々なきしみとともに大きな亀裂も生じる)成長を至上命題とする 近代資本主義は限界に来ている。今行われようとしている景気回復は誰のための 景気回復か立ち止まって考える必要がある。それはいわゆる株主〈言い換えれば 上位1%の富裕層)のための景気回復ではないのか。働くものを幸福にはしない。 このままでは景気は回復しても労働者の賃金は下落する。 (一億総中流というほんの少しの間の日本のキラメキは戻ってこない) アメリカは金融化で世界経済を支配しようとしている。しかしそれがうまく いかないことはもう証明されている。≫ ≪ 水野氏の議論の核心は昨今の世界経済危機が、16世紀以降近代資本主義 の構造を前提に反復された景気循環の一環ではなく、こうした構造自体の終焉 を示すより根源的事態であるという視点に他ならない。これに匹敵する歴史の 根源的危機として水野氏が参照するのが、中世封建制経済から近世資本主義経済 への過渡期に当たる16世紀である。16世紀と21世紀は、氏によれば、 数々の点で相似的関係に立つ時代である。 こうした相似性は 1.それぞれの構造において経済が極限を迎えてしまった結果、投資効率が 極端に落ち類を見ない低金利に陥ってしまったこと、 2.こうした危機的状況の打開のため前者においては「陸から海へ」、 後者においては「海から陸へ」という世界軸の大転換が生じたこと、 3.かかる転換の途上で前者においては地理的空間の拡張、後者においては 仮想的空間の拡張とそれに伴う超法規的収奪が、それぞれスペイン/ アメリカという旧体制維持の世界帝国建設のため実行されること、 4.こうした世界帝国はその反動制故に解体を余儀なくされ、その残骸の上に 新世界が現出されること等々に確認されるという。21世紀における '1.から'3.への過程は天然資源の希少化に由来する大量生産/大量消費型 経済モデルの失速とそれに代わる情報・金融革命に基づく仮想空間への 資本主義の突出により可能となるが、帝国を支えるかかる空間上の高収益は 人件費の流動化、即ち〈搾取〉により初めて実現する。だがこのことこそ、 近代という時代を構成した資本主義と民主主義の幸福なる結婚という神話の おわりを明らかにする。 「ルールを破ることを許される者と、それが許されない者との徹底的不平等」に 基づく新自由主義を通じ国家は、前者の後者に対する「搾取」を「規制緩和」 を通じ実現する手段に過ぎなくなった。「労働は、資本にすり寄った国家に 裏切られたのである」。グローバリゼーションの本質を、16世紀に起きた 同質の変化と 対比させることによって明らかにしようとする。≫ ▼ ここで著者は、「グローバル化の真実を、「アメリカ金融帝国システムを 中心と、その周辺を結びつけるイディオロギー」と、看破している。グローバリ ゼーションの事実とは「ヒト、モノ、カネの国境を越える自由な移動」である。 そして、帝国主義国=アメリカ金融帝国は世界中の従者から「規制緩和」を強要し、 「搾取」をする、これが実態であると。その手始めが1985年のプラザ合意である。 日本は、ここからバブルとバブル崩壊のプロセスを歩み、アメリカに搾取された。 ・・・・・・ 3811, 閑話小題 ー老いと病について −1 2011年09月01日(木) ▼ 血圧について 酒好きの私が、これまで血圧を意識したことは全くなかった。 年に一度の半日検査では、「少し高めで高血圧の入り口にある。 出来たら酒は止めた方がよい」と、いわれ続けてきた。それでも、 「毎日の運動を意識的にして続けているので大丈夫」と、判断していた。 最近、二箇所の運動ジムに通いだしたが、両方とも血圧測定器が置いてある ので自然に、毎日のように検査をしている。だいたい145〜155である。 そこでネットで調べてみたところ140からが高血圧の三段階の初段階とあった。 医者にいわれ続けてきた通り。両親とも高血圧で数値をいつも気にしていたので、 年齢プラス80〜90が高血圧の境目、という記憶がある。 65歳として、 やはり145〜155が境目になる。ということは年齢からして、少しは 考えなければならない。晩酌で少し飲みすぎが原因は分かっている。 食事は20年以上前から、肉食を避け魚料理にし、御菓子など甘いものは、 ほぼ口にしない。また塩分も最小と心がけてた。運動も30年近く、早朝に 散歩か、最近はサイクリング。 5ヶ月前からは、ほぼ毎日のように運動ジム に通っている。 反面、晩酌に酒一合から二合と、350mlのノンアルコール の缶ビール1本を欠かさず飲んでいる。死ぬならガンと思っていたので、血圧に 対して少し認識が甘かったようだ。 昨夜のNHK番組の「ためして合点」で、 高血圧と認知症対策のマッサージを紹介していたが、そろそろ一歩踏み込んだ 血圧対策をしなくてはならない時期にきた。今さら遅いか?まだ遅くないか? ネットや、社会、世界の断層の狭間を目の当たりにし、健康で長生きをしたい 欲が出てきている。 まだ娑婆に未練? が残っているか。 やはり、振り返ると、60歳までが人生の良いところ。 ーべき時に、べき事を、べく、すべきーとは、良くいったもの。 「 若気のいたり、とは若気のいたりが、むしろ無かったこと!」 と今東光が、いみじくも言ったが、その通り。 「チョット、あの老人、現実に溺れすぎて、恋もしたことが無いんだって! 」 というのも、ある。血圧と何の脈絡がある? かというと、血圧など気にする 時節に「人生を充実して活きてこなかったことに、後悔する」からからだ。 チロリ・チロリ・チンチロリか〜 2008年09月01日(月)
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| 5282,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー⑤ |
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2015年08月31日(月)
ーその時、言葉は私の「神」となるー(新潮45/6月号) 〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ * 言葉は自意識の申し子 著者の自我そのままの言葉が、直接、私の心に届いているのは、魂から発した 言葉だからである。 会社断念をして、何か後ろめたさを持つようになってから、 私の書く、随想日記の文章が、「自意識の私」より、「自我の私」へ、言葉の 比重が変わったためだろう? ネット上に公開すること自体が、実は、 「自意識の私」に縛られていることになる。「自我の私」がまる見えだが。 ≪ 我々はもはや引き返せない。他者の中で己を形作る「客体としての私」が、 「私」の大半を占めている以上、我々は自意識の地獄から抜出すことができない。 そして我々は、他者の中で生きるために「言葉」を発明した。 「言葉」は「自意識」の申し子である。他者を理解したい、他者に理解されたい、 他者と繋がりたいという必死の想いが「言葉」を生んだ。 「あなたに私の気持ちを届けたい」その祈りにも似た強い想いは言霊、となって 言葉に宿り、相手の心を揺り動かす。言葉とは本釆、そういうものであったのだ と思う。だからこそ言葉は神であった(ヨハネによる福音・第一章第一節)」のだ。 他者の中で生きていく時、私は言葉以外の武器を持てない。「空気を読む」という コミュニケーションも苦手だし、心にもないお世辞や社交辞令といった口先コミュ ニケも得意じゃない。言葉がなければ、私は人の世で生きていけないだろう。 だが、それは武器であるだけに、凶器にもなり得る。人の心に届けようとして 相手の心を突き刺してしまうことも多々あるのだ。が、そんな体当たり コミュニケーションも、そこに相手に対する好意や信頼があれば、より深い 人間関係を築くことができる。お互いに血を流しながら、まっしぐらに相手の 心の奥へと突き進んでいく。それが本気の言葉であればあるほど、我々は互いの 魂に触れ合うことができるのである。そこには嘘も悪意も存在しない。 だからこそ安心して胸襟を開くことができるのだ。そして本気の言葉が届き合い、 剥き出しの魂が触れ合った瞬間、我々は互いに対する深い理解と共感に満たされ、 以前よりももっと相手のことを好きになる。この人になら何を言っても大丈夫、 どんな自分を見せても受け容れてくれると、心の底から信じられる。 それが、私のコミュニケーションだった。もちろん、これが通用する相手は 限られる。だから私は友人が少ない。しかし真の友人なんてものは少数精鋭で いいと思っている。これからも私は本気の言葉を投げ続けるだろう。 私は、そのために生きると決めたのだ。私は自分が何のため生きているのか ずっと知りたかった。特に死に損なってからは、自分は何故生きているのかと 繰り返し自問した。答はまったく見つからず、生きているのが苦痛で、 「どうしてあの時に死なせてくれなかったのだ」と医者に当違いの恨みを 抱いたりもした。ところがそんな時に、思いも寄らぬ人の計報が入って、 私は激しく動揺した。自分は生きる理由もなく生きているというのに、 死んで欲しくない人が亡くなりてしまうという、この理不尽。人の生死には 道理も必然性もないのだ、と、つくづく思った。私は何者かに連れ戻された わけでもなければ、正当な理由のもとに生かされているわけでもない。 生きる理由なんかないのだ。それが耐えられないというのなら、理由は自分で 見つけるしかないではないか。諸君、こうして私は、自分の言葉のために 生きようと決めたのだった。何故なら私は、成り行きとはいえ、何十年も 言葉を生業としてきたからだ。もはや私には言葉しか残ってないからだ。 私にしか語れない私だけの言葉を、私はこれからも探し続ける誰かに届きます ようにと祈りながら言葉を綴る。その時、言葉は私の「神」、となるのだ。 ≫ ▼ 著者の「自我の私」の言葉である。成るほど、これなら万人の 心まで 届くだろう。それと、死線から戻ってきたが故の心の苦しみは、想像を 絶するほど厳しいから、その言葉そのものが、本人にとっても「神」になる。 ・・・・・・ 2014年08月31日(日) 4917,「個人から分人へ」 ですか! * 永遠の問い、「私とは何か」 平野啓一郎「私とは何か ―個人から分人へ」の久垣啓一氏の書評が解りやすい! ≪ この本の主張は、人間の単位を考え直すことだ。個人という意味で使っているindividualは、 これ以上分けられないという意味であるが、本当にそうか。そして本当の自分なるものがあるという 考え方が間違いのもとではないか、というのがこの本の問題意識である。平野は、人間は分けること が可能な存在であり、人間は対人関係ごとに複数の顔を持っており、一人の人間は複数の分人の ネットワークによって成り立っているという。 そして個性とは、その複数の分人の構成比率によって決定されるというのだ。 ・誰とどうつきあっているかで、分人の構成比率は変化する。その総体が個性となる。 ・自己の変化とは、分人の構成比率を変えるしかない。それはつきあう人間を変えることだ。 ・自分という人間は、複数の分人の同時進行のプロジェクトと考えよう。 ・自分探しの旅とは、欠落している新しい分人を手に入れて、新たな個性を創出しようとする行為だ。 ・私たちは、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている。 ・自分が気に入る分人を少しづつ増やしていくことができれば、自分に肯定的になっていける。 ・片思いとは、お互いの分人の構成比率が、非対称な状態である。 それが許せずに自分向けの分人を大きくしようと、異常な行動にでるのがストーカーだ。 ・分人主義は、人間を個々に分断させず、単位を小さくすることで、きめ細かなつながりを 発見させる思想である。 ・帰属するコミュニティが一つであることがアイデンティティであったが、今後重要なのは 複数の分人を使って複数のコミュニティに参加することだ。むしろ矛盾する複数のコミュイティに 参加することが大事なのだ。個人を複数の分人のネットワークとしてとらえると新しい視界が 開けてくる気もする。分けるというより複数のレイヤー(層)によって重層的に個人が形成されている と考えることもできる。ヨコに分けられているのではなく、タテにつながっているのではないか。≫ ▼ 「わたし」は、わ(我)の最小単位が、たし(足し)で加わって私になっている。だから、 人生を振り返ると、その時々の出会いとか、経験で、分人を増やしている自分が存在する。 創業には、その分人たる主体たる自分が、厳然と、そこに存在している。秘境旅行で、各地に 旅をしている自分も、旅行先に溶け込んでいる分人である。旅行を続けることは、旅先に溶け込んで いる分人を増やす行為である。個性とは、過去の経験の総体の構成比率とは、言いえて妙である。 自己の変化とは、付き合う人間を入替えることだ。それも、森の生活のうちである。 ・・・・・・ 2007年08月31日(金) 2341, 「私」とは何か? 〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●) 「狂人三歩手前」−中島 義道 (著) −読書日記 ー「私」とは何か?ー 「私」について、その構造について、過ってこの読書日記で書いたことがある。成る程と合点が いったが・・ 常に考える時、「私」は何々・・と一日、数百回も自問自答しているのに、その「私」とは 何ぞや?と考えたことがない。それを知っていると、いないとでは、思考の根本が違ってくる。 ー「私」が無になることーのコーナーの「私」についての説明が解りやすい。 ある哲学書で「私」についての説明があった。 {「いま・ここ」の主観を私とは言わない。 土手を歩いていて振り返った時、さっきの橋を歩いていた 主観が「私」として飛び出してくる。云々}と。成る程と思いつつ、解ったようで理解できない モヤモヤが残っていた。過去を振り返った時に「私」が初めて発生するということ?垂直に縦にある 「いま・ここ」の主観は、まだ私になってないということ? ところが彼は、この本の中で、その「私」を み砕いて解りやすく説明をしている。 −p.86 「いま・ここ」に存在するものを「私」だと思い込んでいるのだ。だが、そうであろうか? いま両肩から下に頭部を欠いた独特の身体が広がっているが、なぜこれが「私の」身体なのだろうか? そこに独特の感じがするから? だが、なぜその独特の感じが「私の」感じなのだろうか? こう問いつめていくと、この方向に答えは見いだせないことがわかる。「私」とは知覚とは別の独特の 作用によって端的にとらえられるものではないか? いや、そんな独特の作用など見いだせない。 「私」とは知覚しているときに、同時にそこに感じられるものではないか? いや、胃がきりきり痛い時に それと並んで独特の「私」という感じなどない。そもそも「私」とは作用の対象ではなく、作用の絶対的 主体なのではないのか?多くの哲学者はそう考えた。そして、それを「純粋自我」とか「超越論的統覚」 とか名付けた。だが人間としての「私」がそんな抽象的な発光点のようなものであるはずがない。 あれもこれも否定して、振り出しに戻ったわけである。ここで、別の視点から反省してみるに、 「私」とははじめから異なった時間における同一なものと了解されている。「私」とは過去のあの時も 同一の「私であった」者である。しかも、その同一性は二つの対象を見比べて判定するのではなく、 現在の側から一方的に過去のあの者を「私であった」者と判定するのである。 「私」は、過去と現在との関係において登場してくるのだから、現在の世界を隈なく探しても 見いだせないのは当然。過去自体はすでに消えている。過去の記憶だけが残っている。 現在の知覚される世界ではなく、過去の想起される世界を探究することによってはじめて 「私」は身を現わす。ここにきわめて重要なことは、過去のあの時に私が不在であっても 「私」の同一性は保たれるということだ。夢の場合で考えてみよう。夢を見ているあいだ「私」は 自覚されていない。「私」は、夢から覚め「私は夢を見た」と過去形で語る時にはじめて自覚される。 まさにその時、あれが「私の」夢であったことが忽然と了解され、遡ってあの時「私が」夢を 見ていたことになるのである。夢ばかりではない。この構造は広く普遍化できる。 「私」は仕事に没頭している時や、夢中でボールを追いかけている時や、ぼんやりもの思いに 耽っている時など、いわば消えている。しかし、あとから「私は〜していた」と語れる限り、 その時「私」は存在していたことになるのだ。夢中で小説を読んでいた。 ふと気がつくとあたりが薄暗く、電気をつけてみるともう三時間も経っている。 私は小説の内容を細部に至るまでありありと覚えている。 一体誰が読んでいたのか?ほかならぬこの「私」である。 ーーー 夢を例にした説明が、理解しやすい。夢見ているうちは「私」は成立してない。 じゃあ、夢の中で私は何々、云々といっているのは何だろうか?ただ夢の中で過去のことを 考えただけで何の問題は無いか!まだ夢の中で成立してない純粋何とかいう未成立の?が、 夢の中で成立した「私」として過去からの流れの何かを考えていた! ということになる、ただそれだけだ。 そういえば、また夜半にリアルな夢をみた ・・・・・ 2013年08月31日(土) 550, 51年前の小学校の写真にタイムスリップ 『長岡市の昭和』という写真集の広告の折り込みが、今月だけで二度も朝刊に入っていた。 それも、一枚目は表面トップに実家の商店ビルの写真で、二度目は、裏側に、何故か小学校五年時の クラスの集合写真。出版社に誰か同級生でもいるのかとネットで調べてみたが??7名の小さな 長岡市内の出版会社で、県内だけでなく全国の各市の昭和の街の写真集を出している会社。 団塊の世代以上を狙ったものだが、旧長岡市内の人たちに限定2000冊としても9990円で 売れるのだろうか?その方が心配になる。しかし他は、HPを見ると完売となっていた。 その小・中・高校時のアルバムが、引越しなどで紛失、同級会などで誰かが持ち込んだのを 見るしかなかった。で、51年の時空を超え、このチラシの集合写真を何度か見ているうちに、 当時のことが、次次と思い出してきた。 11〜12歳は、人間としての最終の熾烈な闘いがあって、そこで、ほぼ性格も能力も決まるという。 クラス内の力関係などで、誰かが常にターゲットにされる、あまり気持ちの良くない年頃。そのため 心の傷は深く残るもの。その最たるのが、まあ、書くのは止めておく・・ 自分も似たようなもの だったろう。手取り早く学歴からみると、慶応一人に、立教三人、あとは大学名は不明だが、数名、 卒業しているから、街中の小学校として並みというところ。学校の先生の子弟は新大付属小学校が ある。ここで目立つのは長岡青果市場の社長の息子で慶応と明治の教授をしたが既に故人に なっている人とか、土田塗装とか、何処かの中学校の先生とか、多種多彩。 女性の方は皆目分からないが、少し目立っていた三人が三人とも離婚? 死亡数は男20人中に4人。女性は分からない。 主任は非常に厳しいので有名な西沢先生。その後、多くの小学校校長を歴任し、 最後は何処か教育長をされた人で、定年時に400人が祝いに集まったという。20年近く前に、 私が経営していた新潟駅前ホテルに泊まって、古町を数軒、飲み歩いたことがあった。 せっかくなので、この数日、当時の記憶をたどっているが、51年の時空を超えて嫌な記憶を 中心だが幾らでも出てくる。太平洋戦争と長岡空襲の影響も色濃く残っていて、口に出さなかったが、 戦争孤児とか様々な問題を各家庭が抱えていたようだ。 そうこう振り返ってみると、子供の頃の 記憶から、繁華街で、父親の大きな影響下で、負けん気が強い遊び好きの生意気な子供だった。 今だ続いているが・・ 当時、家庭内で多くの問題があり、母親が倒れてしまい、住居が商業ビル 3Fから、歩いて7分ほどの駅裏に移転していた。その辺りから、やっと学業に目覚め始めてきた。 生活環境は本当に大事である。 ・・・・・・ 2012年08月31日(金 4175, 閑話小題 ー恐ろしい近未来がまっている * 恐ろしい近未来 南海トラフ地震の最悪の死者予測が32万人と政府が発表、マスコミが騒ぎ出したが、 もう一年以上も前から週刊誌で騒がれた記事と同じ内容。政府発表となれば違ってくる。 大手ゼネコンの含み笑いが聞こえてきそうだ。これは太平洋沿岸沿いには住めないということになる。 その地区の住宅地や商業地が暴落というより、ほぼゼロになってしまったことになる。 当事者は、まだピンとこないはず。 千年前の大地震の後に二回、17年内周期で大地震と大津波が 起こっている痕跡があるという。活断層が不自然に捩れていて、何らか次の大地震が起きる可能性が 大きい。決して非現実的予測ではない。これに関東直下型地震の可能性がある。 更に世界恐慌も遅かれ早かれ起こる。いや、すでに起きている? これでは、夢も希望も持てやしない。 この数年来、大卒の正規社員就職率が63パーセントで、三分の二も就職ができてない。 これが恐慌が吹き荒れる前で、この有様。数年先は、こんなものでないはず。 40数年前の私の卒業の時とはえらく違う。金の卵で、会社は選び放題。私の同期の男たちは、 殆どが一部上場の有名企業で、ハッピーリタイアをした。時代は大きく変わった。 * 田中真紀子が民主党党首に立候補 ? 久々に面白い話に驚いた。途中で立ち消えになるかどうか?だが、真紀子様が民主党党首の 候補の可能性が出たという。思わず失笑したが、それほど民主党は困っているということになる。 あの外相時の相応しくない姿を忘れてしまったのか。あの人物から誠意の何も感じられない。 一国を束ねる力量があるとは到底思えない。何が今さらだが立場が野党なら、最適の逸材か。 あの辛辣な口撃は溜まったガス抜きになる。国が衰えると、こうなる。 政治は、何でもありである。 床屋レベルの政治談義からみると、この世界的危機の中での、日本、米国、韓国、中国のトップ 交代による政治変動は非常に興味をそそられる。なるほど2012年問題は危ない要素に満ちている。 安倍自民党総裁、田中真紀子民主党党首、それに安倍に担がれた橋元首相。面白いがどうだろう? それと何時起こるかしれない南海トラフ地震と、関東直下型地震。 それと世界恐慌の可能性がある。20世紀前半に世界恐慌を挟んで二つの世界大戦があった。 このドサクサで一億以上の人たちが犠牲になった。それより大きな変動が、始まってしまった。 これから壮大なシネマのような世界が展開される。 ・・・・・・ 3810, 世の中の商売、すべからく代理・代行 2011年08月31日(水) 旅行代理店、保険代理店、会計事務所などのサービス業があるが、すべからく世の多くは 代理サービスの変形。家電商品も、その多くの製品は代理システム品。洗濯機、炊飯器、扇風機、 暖房機も、人間の労働の代理品である。20年前に「一世代前の人が、現在の生活をするには 200人の従者を必要とする」と聞いたことがあった。現在では数万人でも無理だろう。 車は馬車の代行であり、カメラは専属カメラマンの代行。 夕食の宅配は、主婦の仕事の 一部代行である。旅行代理店のパック・ツアー。その大ファンにとって、その恩恵は大きい。 アフリカのタンザニアや、ケニアのヌーの河渡りなど素人では絶対に無理だが、ツアーに参加 すれば誰にでも気楽にいける。スナックや、居酒屋も家庭内で満たされない料理や、お愛想、 気などの代行である。 この事業整理の一連も、弁護士事務所が会社が300万プラス個人が 50万、合計350万で、一括業務?委託。 一連の委託契約をすると、全ては弁護士の管理下に 入り、良くいえば債権者から守られる。逆に、一切の社会的信用はゼロ、前科者に近い後ろ指、 陰口の絶好の対象になる。また、最近通いだしたスポーツジムも、各種のエアロビがあり、運動の 指導をパッケージにしてある。それに従っていれば体質改善が合理的に出来る。その指導を多くの 会員を集めることで、パックにして、場の提供をしている。これも各自で行っていた個別運動の パッケージ化。 ところで、これまでの蔵書ベストの100〜200冊をデジタル化して、iPadに気楽に入れられたら、 よいだろうにと思っていたら、一万冊を入力してiPadに入れて持ち歩いているという人の本があった。 それは面倒と思っていたら、一冊100円で入力をしてくれるサービスがあった。とりあえず100冊を? と考えているが・・。 また、アマゾンに注文した本を、そのまま業者に本が直送し、スキャン してくれるサービス業者もあるという。デジタル本が、まだまだ普及してない中、これは良い 代行システムになる。情報化とデジタル化の時代、代理・代行システムは重要なキーワードになる。 それにしても、面白い時代である。各種代理システムをiPadを端末として、 如何に使いこなせるかが、これからのポイントのようだ。 ・・・・・・・ 2010年08月31日(火) 3445・秘・異郷の旅、よもやま話・・2 *初めての21歳の欧州旅行 ー1
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| 5281,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー④ |
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2015年08月30日(日)
ーその時、言葉は私の「神」となるー (新潮45/6月号) 〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ * 言葉は原罪から生まれた 他人からみた私を意識する「自意識」過剰が果たして罪なのか。 二つの私、「自意識の私」と「自我の私」の両者が頭の中で、常に問答をする。 老齢期では、「私の人生、果たして、これで良かっただろうか?」と。 良かったのだろうか? 人間は生きている限り、原罪を犯すもの。 老いて、その原罪を見つめて悔悟する。知識を持つことは原罪なのか? 知恵を持つことが原罪なのか。他者=世間の目を神のごとく信じるのは、 プラ・マイの両面を持つ。 最後は、自分の自意識で、どう受け止めるか? 死線を漂い、社会復帰をする中で思った心の奥底は深いもの。〜その辺りから ≪ ああ、諸君。「自我の私」として唯我独尊で生きるのと(もちろん、孤独は 感じない。もとより孤独という概念がないからね)、「自意識の私」として 他者と繋がりながら傷つけ合いながら生きるのと、どちらが幸福なのだろうか? 少なくとも心肺停止前の「自我の私」で生きていた私は、多幸感に満ち満ちて いた、他者のいないたったひとり楽園に住んでいて、寂しさも不安も感じず、 その中でぬくぬくと微笑んでいた。周りの人々から見たら、それは呆けた抜げ殻 であったようだが、本人はそんなことちっとも気にかけず、ふわふわと漂い 幸せに生ぎていた。・・心肺停止の後に生ぎ返って、目覚めた私は自意識も取り 戻していた。肉体が回復すればするほど、自意識も回復し、他者との関係に 悩まされるようになった。特に例のMXTVの降板以降は、人と会うのが嫌になって 完壁に引きこもった。社会に拒絶された気分になってひどい孤独感に苛まれ、 誰にも必要とされない自分にはもはや何の価値もないと苦しんだ。 おそらく「自我の私」であったなら、そのような苦しみは味わわなかっただろう。 「孤独」も「自分の価値」も、他者との比較や承認から生じる相対的な概念である。 他者を通して自己を確認するから、他者から拒絶されることが自分の存在まで 脅かすのだ。自己の存在の絶対性を疑いもしない「自我の私」は、仕事を失って 経済的な不安を感じることはあっても、それを己の存在意義の問題とは捉えまい。 そうやって考えると、我々の苦しみの原因は、ほぼ「自意識」に起因している ように思える。 我々は「自意識」を持つべきではなかったのか。エデンの園で 幸福に暮らしていたイヴに蛇が勧めた「知恵の実」は、やはり禁断の木の実で あったのか。「自意識」を持つことで我々は他者の目に裁かれ続け、他者に 見捨てられる不安に怯え、大きな苦しみを背負うこととなった。だから聖書は それを「原罪」と呼んだのか。「自意識」は「罪」であったのか。 犬や猫は鏡に映った自分の姿を「私」だと認識しない。鳥にいたっては、鏡の中の 自分に向かって求愛のダンスを踊るらしい。彼らには己を客体視する能力がない。 彼らにとっての「私」は、ほぼ百%「自我の私」である。彼らは幸せなのだろうか。 他者にとっての客体ではなく、「私」という主体としてのみ生きていくことは、 どんな苦しみも生じさせないのだろうか。いや、待て。「苦しみがない」ことを 「幸せ」と考えていいのだろうか? 苦しみば確かに幸福感とは程運いものでは あるが、我々は「甘美な苦しみの自意識」というものも知っているではないか。≫ ▼「起こってしまったことは変えられなくとも、受止めかたは変えられる」と いうが、これも、「自意識の私」を「自我の私」への変換ということ。 「他者を通した自己の確認」を超越して、己の原罪を見つめることが必要である。 そこまで自分を追詰めないと、内なる二つの問答が、蒟蒻問答になる。 ・・・・・・ 2704、共同幻想を抱いていただけ? 2008年08月30日(土) 松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」である。 一万年前に農耕牧畜を始めて、「人間圏」を作り上げてきた。そして右肩上がり 人間圏の拡大が共同幻想だったことを、人類は宇宙に出て地球を俯瞰して初めて 知った。資源が有限であり、農耕以来、環境破壊を続けてきたことも、これ以上 の人間の欲望を拡大できないことも知った。 ー著者の松井孝典は、次のように人間圏の危機を述べている。 ≪ 欲望のカタチは所有であり、人間は地球という大地を「所有」すると、 錯覚していたのである。これが人類の「共同幻想」というのである。 共同幻想は、これだけでなく、貨幣は未来永劫に交換可能とか、神様の存在とか、 人間の命は地球より重いとか、民主主義、市場主義経済とか、自由平等とか、 人間を規定する概念すべてといってよい。21世紀の人間圏にとって、その崩壊 の引き金になる最も高いシナリオは、これらの共同幻想が多くの人に幻想と認識 されたときである。 その一つがインターネット。インターネット社会は、 個々人を主体化し、情報が個人に拡散する。 情報が拡散するということは、 社会が均質化していくことになるが、共同幻想という面で理想的かも しれないが、宇宙からの視点から見れば、人間圏のビッグバンになる。 それは秩序も構造も、情報もあってない、混沌とした社会になる。》 そこで、共同幻想とは何かを知るためにネットで調べてみた。 ー以下は共同幻想についてのウィキペディアのコピーであるー 共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。 日本の思想家である吉本隆明が用い、有名になった言葉。吉本は、自分の 共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、ただ手垢が ついているから使いたくなかったと述べている。 吉本隆明は、著書 「共同幻想論」で人間関係は3種類に分類されると提唱。 ▼ 自己幻想 = 個人と個人の関係。 ー芸術がこれに当たる。 他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。 ▼ 対幻想 = 個人と他者とのプライベートな関係。 〜家族・友人・恋人がこれに当たる。 ▼ 共同幻想 = 個人と他者との公的な関係。 ?国家・法律・企業・組合が これに当たる。宗教は、個人の内面に収まっている限りは自己幻想に当たるが、 教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想に当たる。 この分類は効果的であり、 世界を正しく見るうえでこの3つの幻想領域を混乱、混同させないことが大事 であると主張する。これらはそれぞれ独自の法則で動いているのである。 例えば、吉本は心理学者のフロイトはリビドーと言う対幻想性を、社会領域まで 無条件に拡大して採用しようとしたところに誤りがあると批判する。 また、1人の人間もこの3つの領域でそれぞれ違う顔を持っている。 * 職場にいる顔と、* 家庭にいる顔、* 1人でいるときの顔や行動は、 それぞれ違うのである。外弁慶、内弁慶という言葉があるように、冷酷な 独裁者や軍人が家庭内では優しいよき父親であったり、逆に職場では物静かな 男が家庭内では暴力的な暴君として振舞うなどということは、充分ありえる。 吉本隆明は、共同幻想の世界では、個人が幽霊としてしか存在できないと主張。 例えば、「今は企業の危機だから、粉骨砕身働け」との企業幹部の檄は、 労働力を売りに来ているに過ぎない個人としての労働者の立場と矛盾する。 〜〜〜 以上だが、 松井孝典の二冊の本は、大きな衝撃であった。 地球学という視点で、自分を振り返ると、大いなる共同幻想の中で蠢いていた 小さな生命でしかないことだ。 太陽の惑星の一つの地球、その大気圏の中の、 物質圏の、生物圏の、人間圏の、極東圏?の中の小さな島国の、北陸圏の、 新潟圏の中の、何でしかない私。地球の外から俯瞰すれば、そういうことである。 そして共同幻想を何の疑問を持たないで抱いていた存在である自分を振り返り、 「何?何だったのか?」と根こそぎ、人生観がぐらついている。 恐らく身近に死を感じ取った時に、直感的に感じる恐怖心の向こうに見える 宇宙的な俯瞰の視線は、織田信長が舞ったという敦盛の「人生50年、下天の 内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」 を彷彿させる。
・・・・・・ 4916,一度、死んでみましたが 2014年08月30日(土) 『一度、死んでみましたが』神足 裕司著 * 重介護5のスーパー闘病記 平々凡々の日々を当たり前のように過ごしているが、実は、これが最上で あることに気づくのは、失ってから! あと一年余りで、平均すると同年齢 の男の過半数は介護生活、5年後には寝たきりに、10年は死んでしまう。 TVや、西原の漫画に度たび出ていた神足裕司を、この数年見かけなかった。 実は三年前にくも膜下出血で倒れ、重介護度5でリハビリ生活の中、 去年12月に、不自由なベッドで書いた『一度、死んでみましたが』という スーパー闘病エッセーを出していた。コラムニスト復帰の第一弾の本を、 偶然、図書館で見つけ、借りてきた。脳の大手術で、現在も殆ど動くことが できず、寝たきり。ここで、介護、寝たきりとか、言っているが、この書を 読むと、さほど遠くない未来に似たような事態になる可能性が十分にある。 50歳半ばから還暦辺りにかけて、友人、知人が次々と、半身不随になったり、 癌で死んでいるが、どれもこれも、最期は壮絶な状態。これは、その実況 中継のような闘病エッセーで、ベッドの中の苦闘が、そのまま伝わってくる。 本の題名が『スーパー闘病エッセー! 一度、死んで見ましたが』 HONZ http://honz.jp/36901 の書評が、要点の7〜8割は押さえている。 「その時から、それまで生きてきた一生分を生きることになる」と言うが、 そう信じさせられる内容。 ーアマゾンのレビューの、息子のレビューより ≪ はじめに、家族という立場にあるものからのレビューであることをお許し いただきたい。本が手元に届いてからも、私はなかなか本を開く気に なれなかった。怖かったのだ。父の、つまりはこの本の筆者の状態はもちろん 百%ではない。ページを繰っていけば、彼がこれまで積み上げてきたものが、 私の前に立ちはだかる者としての彼が、崩れ去ってしまうのではないか、 そんな恐れを抱いていた。杞憂だった。そこにあったのは、私にはとても 紡ぎ出せない「凄み」のある言葉の数々。いや、もしかしたらこれは、 以前の筆者にも書けなかったのかもしれない。薀蓄をちりばめ、変幻自在の 修飾語を用いながら、ページを埋め尽くすのが豊穣な表現だとするならば、 この本はそれには当たらないかもしれない。むしろ、そのような表現は 全てが余白へと沈み、筆者にとっての瞬間の全てがこめられている。 少なくとも筆者の生きる「世界」において、その瞬間、それ以外の表現は あり得なかったのだろう。切り詰められた音の数。他の人が弾いたら、 ミスタッチだと思われかねないフレーズ。彼の憧れたジャズピアニストを 思い出す、なんていったら笑われるだろうか。 ・・ 病気は誰にでも訪れうることだ。「病気」とはなんなのか、「家族」 とは「友人」とは、そして「生きること」とは何か。誰しも考えたことのある テーマについて、文章を書いているその瞬間の筆者にとっての虚飾のない、 研ぎ澄まされた言葉が胸に迫ってくる。深刻なテーマに思われながら、 どこかにおかしみを含んでいるのは筆者のコラムニスト魂だろうか。 くも膜下出血、高次脳機能障害の患者・家族の方はもちろん、今立ち 止まって「これから」について考えたい方には、ぜひお勧めしたい一冊です。≫ ▼ こうなるか、癌で壮絶死をむかえるか、今の私に出来ることは、日々を 味わうしかない。どのみち、少し早いか遅いだけ。それでも奥さんが優しい 人のようだが・・ 本人は、このスーパー闘病記を、自分の愛読者に読んで もらうことが、慰めのようだ。私のエッセイ『事業人生を決心して・・』 の続編として「その後、脳溢血で倒れてと、この事態になった」と 吾が身に例えて読むと、他人事でない内容である。 ・・・・・・ 4549, 六韜三略 2013年08月30日(金) 学生時代に、守屋 洋著『六韜三略』と海音寺潮五郎著『孫子』を読んだ時 の面白さと驚きは今でも憶えている。純朴で、欲と欲の争いに立たされる前の 学生時代に読んでいたため、社会に出てから丁度良い手引き書になっていた。 この思想を通して人間をみると、その心底が透き通って見えるようで、 世俗が幼稚に思えてくる。 ー当時の感想はー 《人間は欲で動いているが、それを隠して綺麗ごとを並びたてる社会的動物。 それを前提に一切を無にして諸現象を一度、疑ってみること。そして冷静に 本質を捉えること。利害対立の場に立った場合は、よりシリアスに徹すべし》。 そう割り切ると、誠意の外面の奧に隠された心底が手に取るように見て取れた。 これに学生時代のゼミの(現象の)事例研究が叩き込まれていれば、アウト サイダーになるのは自然。人生に戦略的である必要性を、この書で実感。 人生への鳥瞰の視線でもある。 ーネットで、『六韜三略』を検索するとー 《「六韜」は文韜、武韜、竜韜、虎韜、豹韜、犬韜の六篇からなることによる。 「韜」は弓袋( 秘訣)。「略」は機略の意味。「三略」は、上略、中略、 下略の三篇からなることによる。 二つとも「太公望の兵法」であるから、 主張を統一して判断すべしというスタンス。もう一 つは内容である。 『六韜』が兵法のうち戦略・謀略を担っているのに対し、『三略』が政治思想、 軍事思想を担っている。『三略』はリーダー、『六韜』はマネージャー の書 ..》 《 劉邦の軍師となって漢の国の柱石となる張良が、若い頃、行きずりの老人 から「明朝5時、ここに来い」と命じられた。言われたとおりその場所に 行くと老人はもう来ていて、「年寄りを待たせおって。また明日だ」と言って 去った。 翌朝、今度は3時に行ってみると、また老人は待っていて 「まだまだだ」と同じように去る。 張良は意地になって「今度は絶対に 待たせない」と徹夜して老人を待った。すると老人はニコニコと笑って六冊の 書物を渡し、「よく勉強して世のためになれ」と肩を叩いた。 『六韜』は「虎」「竜」を始めとした六巻の兵法書で、「虎の巻」の語源。 『三略』は、前・中・後の三巻からなる兵法書で、『六韜三略』は 中国はもちろん日本の戦国大名の兵法書としても親しまれた。》 《 中国の兵書、六韜と三略の2書。前者は太公望呂尚、後者は黄石公の 撰述と伝え、併称して韜略の書という。 いずれも後世の偽書であるが、 宋代、『武経七書』のうちに組み入れられ、中国古兵法の教科書として広く 読まれてきた。・六韜は周の文王・武王の問いに対し、呂尚が経世済民の術、 富国強兵の策を説くもの 》 ▼ これを参考に黙し対処したら、これほど難しい相手はいない・・ この書を通すと、面白いように物事が透けてくる。心静かに、これを読み 続ければ、その中の原理原則が己を導いてくれる・・ 学生時代に、 この二書を読んでいたので、いざこざの真只中で、対峙した人の言葉を一度、 突き放し、疑い、静かに自問自答する余裕が出来ていた。問題は、その都度 「正中心一点無の心境で道理は何かを考える」しか解決は出来ない。 ・・・・・・ 4174, 閑話小題 ー電機メーカーの苦境 2012年08月30日(木) * 電機メーカーの苦境 日本の電機各社が苦境に陥っていると、マスコミを騒ぎ出している。 この原因が、あのエコポイント。電機メーカーにとって、神風になり大きな 利益を確保したが、その間に韓国などのメーカーが主力商品に力をつけ日本が 太刀打ち出来なくなっていた。数年前まで、薄型TVで勝ち組だったシャープ が死に体で倒産の危機になり、同じく恩恵を受けたソニーとパナソニック、 東芝、日立の各社が数千億の赤字というから尋常ではない。世界に名立たる 日本のブランドが、今や苦境に立っている。耳を疑うが、これが現実である。 現在、同じことが自動車で行われている。 どうしたというのだろうか。 中小企業救済法も今となれば、良かったのか悪かったのか? しかし、産業の 不振は日本に限ったことでない世界的な流れ。スマートフォンとタブレットPC、 この中に、電話、テレビ、パソコン、デジカメ、ビデオ、全ての機能が入って 同じ位の値段なら電子機器が売れなくなるのは当然。日本のメーカーが、 専用機種に目を奪われている間に、マックや韓国メーカーが、ここに集中 していたのである。日本のメーカーは決定的なミスを犯してしまった。 10年前、5年前なら考えられない事態が、目の前に起こっている。 * 地元経済は、ますます悪化 先日、3ヶ月ぶりに自宅に送付されてきた一連の書類を持って弁護事務所に 行き弁護士と30分位、世情話になった。中越地区の景気状況は、来春の 「中小企業特別救済立法」の打ち切りに向けての動きが顕著になっており、 その上に刈羽原発の休止にともない関連の5千人の従業者のうち3千人が、 この秋に整理される。更に小千谷にある大手の工場も雲行きが怪しい。 それらから景気は一段と悪化しているという。一線から退くと生の情報は 殆んど入ってこなくなる。必要がないからもあるが。この9月から12月にかけ、 リーマンショック並みの一大イベントが発生する可能性が大と見ているが、 その前兆の波か、それとも思い過しなのか? 景気は一段と悪化の道を たどっているようだ。 ・・・・・・ 3809, つれづれに 2011年08月30日(火) ▼ 収まる所に収まった民主党党首 最後の最後まで、誰が民主党党首に選出されるのか分からないギリギリの選挙。 しかし、海江田と野田の二人の決戦となれば、どちらが相応しいかはTV画面が 正直に語っている。しかし小沢一郎と鳩山が後盾の海江田が勝つのではと予測 されたが、党員も、その歴然とした差に、野田に雪崩をうっていったようだ (立候補者の一人が最後の最後に野田支持に回ったのが勝因ともいうが)。 その前にも、彼の立候補の政策を聞いたが、至極自然なもので、他が悪すぎた こともあり、一人光っていた。 【 二年前に政権についたが、国民からは期待はずれの結果しか出せなかった。 次の選挙まで残された期間は二年。それまでに捨て身で、この国難とマニフェスト を達成しなくてはならない。大震災の国難を乗り切るためには、 野党との 大連合を考え、かつ党内融和も必要。また赤字の国家財政と、大震災を乗り切る ためには増税もやむをえない】 この当たり前のことを当たり前に述べているに過ぎないが、現在の与野党も 含めて、これをいうと世論受けしないとか何とかのジレンマに陥っていた。 小泉も含めて、この数代の首相の中で、一番真っ当であってほしいものである。 菅首相の直後では、やりやすいだろうが、この日本の政治と経済の惨状下では、 それもどうか?まさか、海江田とか、あれ、ではね。これで当分は、少しは 政治不信は小さくなるだろうが(いつも最初は期待感でそうだが)・・ この国の体質は、この20年で、あまりに劣化した。 ▼ あれから5ヶ月 あれから5ヶ月になる。 事業期間三十年のうち、初めの10年が登り。 次の10年間はバブル崩壊の日本経済の混乱の最中、逆に積極策に出て客室を 増やした(これが、今回の倒産の間接原因になる)。最後の10年の始まりが 9・11で、二度の中越大地震、三年前のリーマンショックの直撃、とどめが 半年前の東北大地震。その中で一番の打撃が、リーマンショック。 この影響は、まだまだ序盤で本格的津波=大恐慌は、この秋口からアメリカから 世界、そして日本に吹き荒れること必定。この二十年、日本の政治は混乱を極め 国家の態をなさないほど疲弊してした。それと比例して、この今回の倒産。 (字数制限のためカット 2015年8月30日)
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| 5280,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー③ |
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2015年08月29日(土)
ーその時、言葉は私の「神」となるー 中村うさぎ 〜心肺停止になって考えたこと!(新潮45/6月号) * 二種類の私と、純粋な自我 死に際を経験すると、傍目に縛られすぎてきた自分に気づかされる。 そして、裸の己を直視し、それを言語化し、それに従うことが、自分の真実を 生きることと、著者は悟る。 死線を漂うと、虚無の彼方から、宇宙の向こう 側から、小さな世界に縛られている自分を客体化する視線を持つ。 その実体験から得た、重層の心の構造を、醒めたタッチで解体する。 ≪ 心肺停止の数日前に私は別人格になっていたらしい、という話を以前に 書いたと思う。 ・・誇大妄想的な発言を真顔でしてみたり、「魂が抜けて 言葉だけ残った空っぽの中村」になっていた。あの時の私はいったい何者だった のだろう、と今でも時々考える。あの頃の私は別人になっていたわけではなく、 自意識とかいうものを一切失い、純粋な「自我」のみになっていたのでは。 私が「私」と言う時、そこには二種類の「私」が混在しているように思う。 ・ひとつは「他者から視られている私」という「客体としての私」で、 ・もうひとつはデカルト言うところの「我思う、ゆえに我あり」的な 「主体としての私」である。 「客体としての私」は「自意識」に支配されており、 「主体としての私」は「自我」そのものだ。たとえぼ「世界を救う」などと いった壮大にして荒唐無稽な使命感を私が意識の底に抱えていたとしても、 それが他者の目にどんなに愚しく狂気じみて映るかを知っている「自意識の私」 は決して人前でそのような発言をしないし、何とか己の意識下に無理やり、 その人格を封印してしまうだろう。だが当時の私は、そのような他者の視点で 己を視るというスキルが崩壊していて、頭に浮かんだことを自意識の検閲なしに ぺらぺらと喋っていたのだった。まさに「我思う、ゆえに我あり」だ。 私が思考し、私が語るから、私は「私」の存在を実感する、という感覚。 そこに他者は介在しない。他者を通して自己確認することもない。 私という主体を中心に世界は存在し、自分の存在価値など問う必要もない。 「価値」などという相対的な概念が最初からないのだ。なんと単純明快な 世界だろう。アダムとイヴが他者の目を気にして己を恥じたり隠し立てしたり することもなく、素っ裸で歩いていた「エデンの園」そのものではないか。 「自我の私」のみで生きるということは「エデンの園」に戻るということである。 他者の評価に怯えることもなく、己の存在価値だのに悩まされることもなく、 獣のように天衣無縫に生きられる楽園の生活。が、その代わり、社会性は著しく 失われる。自意識が高度に発達した現代社会で、このような人間は生ていけない。 生きていくことを許されない。 ≫ ▼ 先日、一番上の義兄の葬式に参列した。地元の名士?の中で、精一杯、 背伸びをして生きた人だった。表面的な人付き合いに生きるのも、それは それで、一つの生き方である。それぞれにとって、中味は別として、それが 全世界である。ただ、自意識に支配されている、「客体として私」を、 「主体としての私」が、見つめ、「自意識過剰」を「自我」がコントロール する基盤が必要となる。それが教養である。「独り」を「独り」で楽しめる 素養は、家系を含めた長年の蓄積が必要となる。城下町は、それは有り余って いる筈だが、変化を嫌う体質が、「独り」の世界を小さく変質させてしまう。 ・・・・・・ 4915,閑話小題 ー宝塚歌劇団「ブスの25か条」 2014年08月29日(金) 宝塚歌劇団には「ブスの25か条」なる教訓が舞台裏に貼ってあるという。 右側の⇒は、私が真逆にした「美人の25か条」。 これはスターの内的要素の骨格である。 「ブスの25か条」 「美人の25か条」 1.笑顔がない ⇒ 常に笑顔で 2.お礼を言わない ⇒ 前回のお礼の挨拶から 3.美味しいと言わない ⇒ 美味しい、嬉しい、楽しい、幸せを口癖に 4.精気がない ⇒ 精気を満たす 5.自信がない ⇒ 自信を持てる何かを持つ 6.愚痴をこぼす ⇒ 愚痴は言わない 7.希望や信念がない ⇒ 希望と信念を持つ 8.いつも周囲が悪いと思っている ⇒ 周囲のお陰様に気づく 9.自分がブスであることを知らない ⇒ 自分の程度をわきまえる 10.声が小さくイジケている ⇒ 声が大きく溌剌としている 11.なんでもないことに傷つく ⇒ 何ごともケセラセラと楽天に 12.他人に嫉妬する ⇒ 他人の美点を凝視する 13.目が輝いていない ⇒ 何ごとにも興味をもつ 14.いつも口がへの字の形をしている ⇒ 笑顔を心がけて、口元を上げる 15.責任転嫁がうまい ⇒ 元は此方、そのまま結構の心がけ 16.他人をうらやむ ⇒ 人を賛美する 17.悲観的に物事を考える ⇒ 楽観的に、そのためには教養を 18.問題意識を持っていない ⇒ 常に問題意識を持つことを心掛ける 19.他人に尽くさない ⇒ 人の役にたつ生き方を 20.他人を信じない ⇒ 信じられるだけの知識を持つ 21.人生においても仕事においても意欲がない ⇒ 積極一貫の心かけ 22.謙虚さがなく傲慢である ⇒ 謙虚に、注意を常にもつ 23.アドバイスや忠告を受け入れない⇒アドバイス、忠告を聞き、受け入れる 24.自分が最も正しいと信じ込んでいる ⇒ 唯我独尊の人から学ぶこと 25.存在自体が周囲を暗くする ⇒ 光り輝くよう、自分を磨き続けること ▼ 老いるとは、人間としてブスになっていくプロセス? 無知で我ままなら、 誰もがブスの要素が多くなる。とすると、これは戒老録にもなる。タカラ ジェンヌが光り輝いて見えるのは、内側からの輝きを心掛けるため。物理的 貧困と精神的貧困は「貧すれば鈍す」で、『ブス』になりがちになる。 それと無知!これを常に自覚していないと、左側の要素が増えていく。 タカラジェンヌのミニスターを、まず彼女たちは演じることから始まる。 そして大スターの道をめざし、日々、努力をする。 幸せへの道しるべ!である。 ・・・・・・ 4548, 2050年の世界 ー1 2013年08月29日(木) 「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 英『エコノミスト』編集部 (著) * 2050年までを見通すことで現在を理解できる 何気なく図書館の返却コーナーで手にとった本だが、英『エコノミスト』 誌の各ジャーナリストが20の分野で予測。これが面白いが限界も見て取れる。 この激動の時代に、40年先の予測など所詮は無理な分野もあるが、人口趨勢 など予測可能な分野もある。だから面白い。 5〜10年先を予測したければ、40年先を考えてみればよい。 ーアマゾンの内容説明ー 〈 2050年日本のGNPは韓国の半分になる。 グローバルな一流誌英エコノミスト誌が、総力をあげ、科学、政治、人口、 経済、女性、などの20の分野で2050年までの世界を予想 〉 まずは‘はじめにー「2050年までを見通すことで現在を理解できる」’の冒頭 ≪ 世界人口が10億人になったのは、18OO年ごろのことだが、それまでに 人類は20数万年の歳月を費やしている。ところが、 60億人から2011年の 70億人に違するまで要した時間はわずか10数年。このような変化に驚くほどの 速さで展開する大規模な変化は―メガチェンジーと呼ぷにふさわしいもの。 実際、わたしたちはメガチェンジに囲まれている。技術は信じられないほどの スピードで拡散しており、ネットや携帯電話の進歩は言うに及ばず、現在では コンピューターから大量の情報を入手したり、フェイスプックやツイッター などのソーシャル・ネットワークを通じて、大量情報を受信したり、発信する ことが可能である。また、世界経済は私たちの目の前で着々とアジアへ 重心を移している。このような変化はどれも、人々の生活と、企業の戦略と、 国家の政策と、地球の将来展望に深遠な影響を与える。 ー本書は2の重要な目的を持っているー ☆ 第一の目的は、人々の健康から財産まで、あらゆる側面から世界を変革 するトレンドを特定し探求することだ。本書では、身の周りの話題をひとつ ひとつ論じてみたい。この手法を採用すれば、わたしたちは、ヘリコプター から地上を見下ろすように、俯瞰図を掌握することができるだろう。 ☆ 第二の目的は、第一の目的で確認したトレンドにより、2050年の世界が どのように形作られるかを予測することだ。一見すると、これは非常識なほど 大きな野望かもしれない。 ダン・ガードナーが自著「専門家の予測はサル にも劣る」で論じた、人類の歴史には百パーセントデタラメな予言が のらべられている。1914年、英国人ジャーナリストのブレールスフォードは、 「近代国家間の国境の線引きが最終決定されたことは、政治的にはこれ以上 ないというほど確実である。私見を述べると、今後、既存の六大国間で戦争は 勃発しないだろう」と記した。第一次世界大戦が始まったのはその直後。 米国経済学者のフィッシヤーが「わたしの予想では、これから数カ月の間に株式 市場は大幅に上昇する」と予言したのも、1929年の株価大暴落が起きる1週間前。 果たして人間が未来を知ることは可能なのか? あすの天気を予想するのさえ 難かしいのに40年後の世界をどうして描き出せるのか? おそらくこの四十年の あいだに、わたしたちはブラック・スワンの詳れを絶えず目撃させられるはず だとはいえ、未来を予測してみる価値はある。奇妙だが、2050年を予測する ことは、来週や来年を予想することよりも簡単。実際、ナシム・タレブも 一世代以上先の予測を好んでいる。 長い年月で「今日において脆弱な ものが壊れて消える」からだ。》 ▼ 次回から、めぼしい部分を抜粋しながら考えてみる。40年前といえば、 文化大革命が終盤を迎えていた頃。そこで、現在の中国を予測できたか? その十数年後にソ連の崩壊、東欧の共産圏の消滅。日本のバブルと崩壊。 その10年後の9・11テロ、7年後のリーマンショック、その3年後の東北大震災。 それより、世界中の人々が形態パソコンを持ち、ネットで繋がるとは誰が予測 できただろう。40年後に存在しなくとも、どんな時代か考えるだけで面白い! ・・・・・・ 4173, 木を見る西洋人 森を見る東洋人 ー2 2012年08月29日(水) * 二つの違った未来観 ! 「木を見る西洋人 森を見る東洋人」 ニスベッド著 ー西洋と東洋の認知の違いはなくなるかー フクヤマとハンチントンの二人の政治学者の未来観こそ、西洋と東洋の違い。 20世紀に入ってから、哲学が、決して西洋が文明的に優れているのではない という構造主義の考え方が主流になってきている。しかし時代は木も森も、 そして、地球環境も同時に見ていかなければならない時代になってきている。 3・11震災がもたらした原発事故が、それを我々に突きつけた。この対立は、 避けることは出来ないが、何とか、それを抱えて未来に向うしかない。 ー まずは、その部分から ≪ 今、二つの非常に異なった未来観が、多くの領域の社会科学者たちの間で 戦わされている。ひとつは政治学者のフランシス・フクヤマが唱えた未来観で、 世界の政治経済システムが一極に収束し、それに伴って価値も一極化していく ことを予測するもの。もうひとつは今後とも多極化が続くことを予測するもの。 フクヤマは著書『歴史の終わり』で、資本主義と民主主義が勝利をおさめた今、 面白い出来事を生み出すような切迫した力はもはや存在しないと述べている。 片や政治学者のサミュエル・ハンチントンは、世の中が今度とも多極化を 続けると予測している。社会が収束に向かうというフクヤマの視点とは大きく 異なり、ハンチントンは世界が『文明の衝突』を迎えようとしていると断言。 東アジア、イスラム、西洋といった主要な文化集団における価値観や世界観の 違いは調整不可能であり、したがって対立は避けられない。 「民族の対立と文明の衝突が生じつつある中にあって、西洋文化の普遍性を 信じる西洋人たちの信念には、3つの問題点がある。その信念が誤りだという こと、道徳に反するということ、そして危険だということである」 言うまでもなく、経済や政府のかたちがどこでもみな同じならば、 人の心の中はどこへ行っても同じだろう。逆に、文明の衝突が避けられない ならば、思考の習慣は多極化を続けるだろう。 ・・ フクヤマの未来観は、多くの西洋人、特にアメリカ人の視点を代弁している。 アメリカ人は、誰もが根はアメリカ人か、そうでなければ、これからアメリカ人 になると思っている。・・今やどの国の人たちも、ジーンズとTシャツを着て、 ナイキの靴を履き、コーラを飲み、アメリカ音楽を聴いて、アメリカ映画と TVを見ている。 逆にハンチントンによれば、世界の文化が西洋の文化に同化し つつあるという考えは、近視眼的かつ自民族中心主義な発想にもとずく幻想。 社会は互いに違っており、今後の国際紛争は、過去に見られた経済的あるいは 政治的な対立よりむしろ、文化的対立を発端にしていると考えられる。・・・≫ ▼「東洋と西洋の混血が現時点の日本」と仮説を立てると、日本の混乱が見える。 和魂洋才という言葉が、それをあらわしている。情報化の進展で世界がグローバル 化された現在、決して否定出来ないこと。要は和魂を常に意識すべき。これは日本 だけでない。トルコがイスラム教国に関わらず欧州よりの国家体制を作っている。 矛盾があっても乗り越えてである。いずれにしても、あらゆる人種をかかた世界が ネットで情報が共有された現実がある。それゆえの混乱は激しくなるのは当然。 ・・・・・・ 3808, 哲学人 ー⑧ 2011年08月29日(月) ● 社会主義〜 妄想的理想社会への逃避 ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 残念ながら、学生時代から社会主義・共産主義に対して本能的に、その虚偽を 見抜いていたつもりだった。それも、思いこみでしかない。しかし経済も社会も、 国家単位の計画で成立するはずがない。 「経済は個々の競争原理の弱肉強食の戦いの中から優勝劣敗で進化する。 その歪を国家がコントロールすべきで、役人がたてた計画経済で、ことが上手く 進むなどありえない」という単純な考えから抜け出れなかったのが本当だったが。 ここで、マギーは、学生時代に「資本論」に大きな影響をうけたと述べている。 人生で夢中になった一ダースに満たない本の一冊に「資本論」を上げている。 しかし、社会主義国家が本当に成立するかどうか、疑問を持ったと、述べる。 【 * ー 資本論を、二週間ひたすら読む ー 二学年めの復活祭の休暇中、私はオックスフォードに見つけた下宿屋にこもり、 二週間は朝も昼も晩もひたすら 『資本論』を読みつづけた。じっくりと読み進め、書いてある内容について考え たくなったら、いつでも本を置いて好きなだけ黙想し、散歩をしながら重要な 一節について思索したり、夜にはべッドのなかでもこの書物について思いを めぐらせたりする。そんなふうに夢中になった本はそれが初めてだったし、 生涯を通じてもその数は一ダースに満たない。 プラトンの『対話編』、『新約聖書』、ヒュームの『人性論』、カントの 『純粋理性批判』、ショーペンハウワーの『意志と表象としての世界』、 『ウパニシャッド』、力ール・ポパーの『開かれた社会とその敵』、 アインシュタインの『一般相対性理論』ぐらいだろう。こういった本が私を 変えてくれた。これはつまり、こうした書物に感化された考え方をするほど 夢中になったということであり、もし読んでいなかったとしたら、いまのような 人間になっていたとは思えないということである。誰であれ、そんなふうに 言える本はめったにあるものではない。 私の場合、戯曲家、で同じことが あてはまるのは、少なめに見積もるとシェイクスピアひとり、作曲家は七、八人 といったところだろう。もちろん、読書や観劇や音楽鑑賞の蓄積が、その人の 考え方や人格にじわじわと影響を及ぽし、自覚できる変化を自我に生じさせた 張本人と特定できる作家は、少数である。ここに挙げた書物の半分はドイツ語圏 の作家によるものだが、この事実(作曲家の大半もその地域の出身であり、 時代も同じであるという事実を加えてもいいのは、私の精神生活がどんなもので あるかを示唆している。『資本論』の大半を占めているのは、英国の産業革命の 歴史である。にもかかわらず、私の考え方はマルクスに多大な影響を受けている。 その影響は、彼の著作を吟味するにつれて薄れていったけれども、けっして 消えはしない。私はそうなることを望まないし、マルクスの提示する洞察には 不変の価値があると思っている。彼は偉大な作家であり、大人物でもある。 その怒りと裁断は厳しすぎ、エホバめいたところがあるとしても、である。 『資本論』は退屈でわかりにくい大冊だなどという考えがどうして出てくるのか。 私には、その厚さにうんざりした人たちがこしらえた、読まないための口実と しか思えない。『資本論』は名著である。 世界史上、指折りの影響力をもつ 書物であるのは確かである。 】 ▼ ソ連の崩壊と、中国の実質、社会主義的計画経済の放棄は、それは理想で あって、現実にはそぐわないことを立証した結果になった。そこに起こった のは、役人の特権化と汚職の氾濫であり、狂った独裁者の誕生であり、国家経済 の疲弊である。熾烈な競争経済の中でしか経済は発展しないことが、数千万の 餓死などの犠牲者を出し証明された。まだ残存は残っているが。 ・・・・・・・ 3443, 最近の昼飯事情 2010年08月29日(日) * まさか昼飯がパン食になるとは! 最近の昼飯は外食から事務所内で駅のベーカリーのパン食に切かえた。 時どき弁当もあるが、どうも冷えた弁当は部屋で食べるにはそぐわない。 レンジでもあれば別なのだろうが。それもインドのナンのようなもので パセリと海老か、唐揚げを包んだものがラップに巻かれている。 若い女性が好みそうなやつで、それだけのコーナーがある。以前は、他に カレーパンなど二個だったが現在では一個にバナナ。この歳になると、味は 美味しく、サッパリして、腹に持たないものを求める。とすると女性向きに つくられたものが丁度良い。30年近くのランチャーも卒業で、お部屋で ヒッソリとパン食。 なれると外食が馬鹿馬鹿しくなる。 駅内にある スーパーの弁当コーナーを見ると、300円弱から400円辺りが中心。 月に3〜4回は買うが、何かイマイチ。駅のベーカリーにイートインの コーナーがあり、コーヒー付きで400円位である。近くのマクドナルドなどと 競合しているが、殆どが女性客。早い時間から客席は半数以上は埋まっている。 最近、長岡駅内にも出展したが山崎パンの直営店という。最近、ほぼ同じものが 地元のスーパーに見かけられるようになった。スーパー原信が、地元の ベーカリーチェーンを買収して、自社店舗内に出店している。土日のどちらか 一日の早朝7時に毎週行って、焼き上がりのパンとコーヒーを飲むのが 楽しみの一つ。昼にパン食に切り替えてから体重が1〜2キロほど痩せたが、 これで20歳半ばの体重に戻った。歳相応になったということか。 それより、ランチを食べに行くのが面倒になったということ。 (字数制限のためカット 2015年8月29日)
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| 5279,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー② |
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2015年08月28日(金)
ーその時、言葉は私の「神」となるー 中村うさぎ著 〜心肺停止になって考えたこと!(新潮45/6月号) * ナルシシズムと自己愛と、自尊心 下の文章の初めの10行は、この数年の私の状況と気持ちそのもの。 状況からみて、人間の弱さを知っているためもあって、うつ病に陥らないため、 毎日の生活習慣を良好に保たなければ、自己愛も、自尊心も地に落ち、粉々に なってしまう。全身全霊で日々を過ごさないと、あのゾンビのような魂の抜け 殻になってしまう事態は、むしろ、ベストである。 なるほど、 女無頼漢作家の言葉だからこそ、説得力がある。〜その辺りから〜 ≪ 読者諸氏は私の文章を読んで「最近の中村は躍起になって自己肯定しようと しているな」と思っていることだろう。そのとおりである。私は今、崩壊した ブライドを必死になって立て直し、なんとか生き続けている。 何しろ「おまえなんかいらない。おまえになんか価値はない」と言い渡されて しまったのだから、私の自己評価は地に堕ち、生きる意味も理由も見失ったのだ。 それでも今後行き続けるためには、なんとか自分の人生の価値を再確認し、 生きる理由を見つけ出さなくてはならない。「私は生きてていいのだ」と自分 を納得させなくてはならない、そうでなければ私は死の誘惑に負けてしまう。 人はナルシシズムゆえに己を見失うものであるが、自己愛や自尊心といったもの を失っては生きていけない。この「ナルシシズム」「自己愛」「自尊心」の違い については私なりの定義がある。 ・まず「ナルシシズム」の語源は、ご存じのように、ギリシャ神話の美少年 ナルキッソスで、彼は水に映った自分の美しさに恋い焦がれて死んでしまう。 そう、これは「愛」ではなく「恋」なのだ。我と我が身に陶然と惚れ込んで、 正しく自分を見られなくなってしまう。我々が恋人に自分の幻想を投影し、 相手の本当の姿を正しく見られなくなるのとまったく同じ構造である。 ゆえに「ナルシシズム」とは「自分に恋すること」だ、と私は定義ずる。 ・では、「自己愛」とは何か。「ナルシシズム」が「自分に恋する」ことなら、 「自己愛」とは文字どおり「自分を愛する」ことであろう。となると「恋」と 「愛」、の違いが、そのまま「ナルシシズム」と「自己愛」の違いになる。 「恋」が己の幻想に目を眩まされて盲目となる状態であるのに対して、「愛」 はより客観的な視点を持つ。相手の欠点も、きちんと見えていて、そこも含めて 愛するのだ。それは寛大さや公正さを含んでいる。したがって、「愛」は「恋」 よりも利己的ではなく独占支配的でもない。この「恋」と「愛」は非常に混同 されやすい感情である。たとえば「母性愛」の言葉で表現されている感情は、 私に言わせれば必ずしも「愛」ではない。盲目的で排他的な母性愛はもはや 「愛」ではなく「恋」に限りなく近いものであり、「ナルシシズム」の延長 線上に位置するものだと感じる。このように紛らわしく似て非なる存在である 「ナルシシズム」と「自己愛」をきっちりと分けて考えると、おのずと我々に とって必要なものは何であるかが明確になってこよう。 我々はナルシシズムから極力脱却しようと試みる一方で、正当な自己愛を 失わないよう気をつけなくてはならない。自分をしっかりと見つめ、その弱さも 醜さも受け容れて愛すること…それが自己愛のあるべき形であろうと私は思う。 己の弱さや醜さを受け容れられずに目を背けたり美化したり、逆に激しく憎悪 したりするのは、すぺて「自己愛」ではなく「ナルシシズム」の仕業だ。 自分嫌いは自分好きの裏返し、と、私は以前、子ども向けの自著で書いたが、 自分を憎んだり嫌悪したりする気持ちはじつはナルシシズム過多の証なのだ。 理想の自分、幻想の自分に恋するあまり、現実の自分を受け容れられない。 このようなナルシスティックな自分嫌いは、己の価埴を貶める行為であり、 いつまでたっても正当な自己評価には至らな仏のである。 ・次は自尊心について考えてみたい。自尊心とほ、これまた文字どおり、 目分を尊重する気持ち」である。誰かに不当に賠められたりした時に傷つく のは、この「自尊心」だ。「不当に」と言った、のは、それが正当な批判で あれば、自尊心は傷つかないからである。自尊心はナルシシズムではなく、 公正なる自己愛によって裏付けられる。他人「批判されてカーッとなるのは ナルシシズムだ。自己愛は、それが正当な批判でなければ謙虚に受け容れ、 的外れだと感じれば冷静に反論する。ただ、批判ですら根も葉もない誹謗中傷 に関して、それがたいてい陰口という形をとるために反論する機会すら与え られず、自尊心が深く傷つく羽目になる。私はずっとナルシシズムによって 盲目⊂なることを恐れ、その一方で正当な愛を培おうと努力してきた。 それが成切したとはいわないが、少くともその切口の区別は常に意識していた し、拙いながらも己の弱さや醜さと対時し、受け容れようと心がけてきた。≫ ▼ 「ナルシシズム」が、異常に強い女性を身近で見かけるが、それが、 その人を。そして傍の人を、傷をつけていることに気づかない。 「ナルシシズム」は、「自己愛」「自尊心」と似ているため、混合してしまう。 その危険性に、無頓着過ぎることが、大きな悲劇を呼びよせることになる。 ・・・・・・ 4914,閑話小題 ー代々木ゼミナールの7割の校舎が閉鎖 2014年08月28日(木) * 代々木ゼミナの7割の校舎が閉鎖 「代々木ゼミは、三大予備校の1つとして浪人生を中心に多数の生徒を集め、 全国に校舎を展開してきたが、少子化に伴う受験生の減少などで、29の校舎 のうち7割以上に当たる22の校舎を閉鎖する方針を決めた」というニュースが 数日前に一斉に流れたが、 隔世の感がする。 ーネットによるとー 《 ・ピーク時には41万人の予備校生が、今では6万人。近年は大学全入時代 に入り、浪人生の数も減少している。不況が続いた中で家庭でかけられる 教育費が非常に少なくなって、浪人をすることにブレーキがかかっている。 ・大学入学者の浪人生の割合は1985年の約4割から約1割に減少。その上に、 1990年の85%が予備校依率存が、現在では30%まで下落している。 ・1980年代の半ば頃から生徒数が減少,90年代以降,その速度がさらに高まった。 1990年では14万2千人だったのが,2000年には4万9千人に,2011年の2万4千人に 至っている。ピークの1977年を基準とすると,予備校生の数はおよそ10分の1に。 ・大学進学率は1966年に16.1%だったが76年には38.6%、今では50%と大幅に 上昇、受験戦争という言葉も登場するほど大学進学は当り前になり、予備校は 急成長を遂げた。中でも代々木ゼミナール・駿台予備校・河合塾は三大予備校。 ◎河合塾は理系の国公立、◎駿台予備校は特に難関国公立大学、 ◎代々木ゼミナールは私立文系の大学受験を中心に浪人生向けの大学受験指導 をしてきたが、そこに市場の規模が大幅に縮小したことが大きな要因である。》 ▼ 今では私立大学の45%が定員割れ、浪人をする必要が無くなった。 ネット活用で自宅浪人も可能なことや、東進ゼミのような『衛星放送ゼミ』で、 地方各地でも一流講師の授業が聞けるのも大きなマイナス要因である。 私の事業で、売上が3分1に驚いた現象より劇的である。20年前に、新潟に 代ゼミが進出した直後に、新潟予備校が倒産したが、今度は、その代ゼミが 時代の潮流に直撃したことになる。校舎は転用可能のようだが、不動産業として 生き残れるか、どうかである。次にくるのは専門学校の類。崩壊過程が既に 始まっている?・・ グローバル化、情報化による「隠れた大恐慌」が 引き起こしている「中産階級総崩壊」の、一象徴である! ・・・・・・ 4547, 閑話小題 ー海外ツアー48回のフラッシュ 2013年08月28日(水) * 秘異境ツアーからのフラッシュ 突然、思いもよらない過去の記憶が飛び出すことを「フラッシュ」という。 アメリカのTVドラマ『LOST』で、陸の孤島に墜落した登場人物の素性を表現 するのに各人の「フラッシュ」を利用していたが、巧い技法と感心した。 秘異郷ツアーの中では、次次と思いもよらない経験をする。しかし、その都度、 それを解釈をしている余裕がない。それが長い年月を経て、フラッシュとして 記憶の奥底から飛び出てくる。それはツアーだけではないが。還暦を過ぎた頃 から、バイアス(固定観念)が溶けてきたこともある。家内とは40回近くともに 旅行をしてきて、旅先の記憶が共有している。BS/TVなどで毎日のように 行先の何処かが放映されていて、それを録画で夕食時に見ているが、そこで多く の記憶が蘇ってくるため、番組が行き先の追体験になる。出来る時に、出来た ことに感謝している。『秘境旅行ーフラッシュバック』をテーマに書くつもり。 * 消費税の増税の是非 消費税を上げれば、その分、国民にとって実質所得ダウンになる。 それに2%のインフレターゲットとすれば、年金生活者など低所得者に大きな 負担が被ってくる。それも生活消費財から上がるから深刻な問題である。 しかし財政事情からみたら、消費税は上げざるを得ない事態。上げるも地獄、 上げないも地獄なら上げるしかない。現在の年金の収入では、月に10万円持ち 出しだが、今月から家内の年金が数万円アップで持ち出しは少しは減るが。 当初の予定は、敷地内の貸家の家賃収入で収支ゼロの予定だったが、古屋は敬遠 されて、2年間も空家状態。で、この二年半で、大きな買物はiPadを買っただけ。 自転車も、パソコンも、自動車も限界に近づいているが、それでも充分に使える。 家の中は要らないゴミの山。実際のところ、欲しいものは殆どないから不思議。 で、消費税増税の是非の話に戻すと、株式と国債の暴落を待って、一度、根本 から精算するしかないのは、誰の目にも明らか。今の日本では改革の断行は 無理の中、外国へのポーズとしても、増税は99%は、やってくる! ・・・・・・ 4172, 木を見る西洋人 森を見る東洋人 2012年08月28日(火) * 認知科学者は間違っていた? 「木を見る西洋人 森を見る東洋人」ニスベッド著 最近になり「自分が理解していることは、言葉で説明すれば相手は理解して くれているはず!」が、私の思い込みに気づいた。人間は知りうる範囲で理解 しているだけだが、自分が理解している範囲とは違うのである。 「自分が真実と思っていることと、真実は違う」のである。真実と思っても、 思い込みのことがあまりに多い。今まで国や文化や肌の色や宗教によって世界観 が変わっても、人間がものを考えるために用いる道具は同じと誰も疑わなかった。 「ものごとを知覚したり、推論するために用いている道具は同じである。 論理的に正しい文章は、日本語も英語も中国語であれ、正しいことに 変わりはない。だが、もし、それら全てが間違っていたとしたら、認知科学の 大前提を覆ることになる。」と、いう。 緑の原野で、何を見て、何を信じてきたのだろう。 ー以下の部分は、その部分ー ≪ ヨーロッパ人の思考は「対象の動きは(それが物体であれ、動物であれ、 人間であれ)単純な規則によって理解可能である」との前提で成り立っている。 西洋人は物事をカテゴリーに分類することに強い関心をもっている。なぜなら、 分類することによって、今問題となっている対象にどの規則を適用すればよいか がわかるからである。また、問題解決に当たっては形式的な論理規則を適用する ことが有効だと信じている。これに対して、東アジア人は対象を広い文脈のなか で捉える。アジア人にとって、世界は西洋人が思うよりも複雑であり、出来事を 理解するためには常に複雑に絡み合った多くの要因に思いを馳せる必要がある。 形式論理学はほとんど問題解決の役には立たない。実際、論理にこだわりすぎる 人間は未熟だとみなされることもある。私は心理学者として、これらの主張が 革命的な意味をもっていると感じた。もし彼らが正しければ認知科学者は 間違っていたことになる。つまり「人間の認知はどこでもみな同じ、ではない」。 人文・社会科学諸分野の研究者たちは、明確にそれと言わなかったが、実は 思考の本質について非常に重要な主張を行っていた。 第一に異なる文化の人々は、世界の本質についてそれぞれの根本的 メタフィジックスな信念、彼らなりの「形而上学」を有している。 第二に、それぞれの人々に特徴的思考のプロセスには大きな違いがあること。 第三に、そうした思考プロセスは、世界の本質についての信念に合致したもの であること。言い換えれば、人は自らの世界観に合致した方法で世界を 認知するということである。 注目すべきことに、社会の構造や人間観というものは、それぞれの社会に生きる 人々がもつ信念体系や認知プロセスと非常によく合致しているように思われる。 アジア社会は、集団や周囲の他者との協調を重んじる傾向があると言われる。 こうした特質は、アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向を もっていることや「出来事は極めて複雑なもので、その生起には多くの要因が 関係している」と信じていることと合致。これに対して西洋社会は、個人主義的 でお互いの独立性を重んじる傾向があるとされる。こうした西洋人が特定の事物 を周囲の文脈から切擁して観察する傾向をもっている。≫ ▼「アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向をもっている ことに対して、西洋社会は、個人主義的でお互いの独立性を重んじる傾向が あるとされ、西洋人が特定の事物を周囲の文脈から切り離して観察する傾向を もっている。」ことより、「気を見る西洋人、森を見る東洋人」という本の題名 になっている。同じ森林を見ても、これだけ思考の仕方が違ってくる。 また一神教の欧米と多神教の東洋人とは、同じ現象でも受け止め方が違って当然。 それと、好き嫌いという感情で違ってくる。「世界についての考え方は根本的に ひとつである」 大前提が違うとすると、文明の相克はあって当然。 争いは永遠に続くことになる。 ・・・・・・ 3807, iPadを買った ー2 2011年08月28日(日) iPadを買って六日になる。これはブログ、電子書籍、ネット新聞、メールなど 「閲覧用と割り切って使う」のと「ゲーム」に適している。ゲームやアプリを取り 入れ「自分の面白空間を創造する手みじかで持ち運び可能な電子基地」になる。 これまでのPCを固定電話に喩えると、これは携帯電話、それもモバイル携帯に 一挙に進化したもの。もし迷っているようだったら、買うことを勧めます。 モバイル携帯のiPhoneは私には合わなった。これは、それが大型化しただけ? と躊躇したが、実際に手にして私にも使えるシロモノ。まずよいのは画面を横に スクロールすると、ページが次々と切り替わる。これがアイコンの分類によい。 一ページ目に、元もとiPadについていたアイコン。 二ページ目には、気に入ったブログ。 三ページ目には、ダウンロードしたソフト。 4ページ目は、ゲーム等々に分けることができる。これが使う立場から扱い易い。 そしてゲームやアプリなどを、それぞれのページに溜め込むことができる。 現在のパソコンのセカンドとして、閲覧とゲーム専用に割り切るとネットに 繋がる時間が圧倒的に増える。ノートと同じ薄型で、無線のため、持ち運びが 手軽で、これまでと格段にネット世界が広がる。パソコンのある机に縛られて いたのが、そこから開放されるのは大きい。先ほど述べた携帯電話が固定電話 から人々を解放したと同じで、一度開放されたものは元に戻ることはない。 その意味で、これは革命的進化といえる。モバイルPCはあったが、キーボードで 操作であった。しかし、これは直感的に画面上のタッチ操作になっている。 iPhoneと、どこが違うかのか?というと、まず画面の大きさである。 手帳とノートの差といえば、分かりやすいだろう。講習会や授業で手帳に 書き込む人はいない。誰もがノートである。電子ノートと思えばよい。 iPhoneは携帯電話にパソコン機能をいれたもの。これは電子ノートパソコン であり、画面の大きいわりに移動時に嵩張らない。週刊誌や新聞も、あと数年も しないうちに大部分が、これを通してみることになる。もうひとつ、Youtubeが ワンタッチで直にみれる。こうなると、文字情報の伝達から画像、映像に手段が 移動していくことになる。ということは、情報が圧倒的に個人間で増加していく。 年内は私に最適なアプリ探しがテーマになるのだろうが、それにしても面白い ものが出てきた。これにツイッターの映像公開となり、これにネットTVと きたからには、政治も、経済も、一般消費者の変化に対応出来なって当然。 ネット世界が我われを覆ってきた。 ・・・・・・・ 3442, 我が家に新しいTVが −3 2010年08月28日(土) 新しいTVに切り替え二週間になる。画面の鮮明さは説明が難しいほど。 時間が経過しても驚きは消えない。ボクシング、プロ野球、歌謡番組、演奏会、 大自然などの旅番組などの現場の臨場感がこれまでと違う。 剥き出しのエネルギーが、これらから直に伝わってくるからである。 その結果、それ以外のワイドショー、バラエティー、中途半端なドラマなどを、 ほぼ見なくなった。マシーンが逆に視聴者の選択を変えてしまう現象である。 それと対象をリアルに変えてしまうのである。米国の本格的な映画も、これまで と違った迫力が画面に出るので面白みが倍増してきた。そうこう考えると、 やはり大したしろもの。現場で人間が見える対象より、デジタル加工した方が、 より鮮明になる領域に入ってしまった。これに3Dの立体化された映像が 加わったり、スーパーハイビジョンが本格的に放送されたとしたら、世界各地 に実際に行ってみるよりTVで見た方が良く見えるということになる。 (現に、ある領域では達しているが)その一端を垣間見ているのである。 実際には現地でみる360度の視界で、五感で体感するものにかなうはず はないが、視覚・聴覚の世界で数倍鮮明に映し出される世界は違う。 まだ地デジがアンテナの関係でまだ映らないが、これが入ると本来の多くの 機能が加わる。それが凄い。(8画面を同画面で見たり、地デジ8チャンネルを 26時間録画したり・・)高機能TVというより、未来の先取りのTVという 感である。 テレビなどバカが見るもの!は間違いない事実。しかし自分が 行った旅先の映像が、より鮮明に画面に映し出され、深く浸かることが可能。 面白い機能のひとつが、テレビのセンサーが室内の照明や室外からの陽光を読んで、 画面を修正する「おまかせ」がある。 テレビは、それぞれの家庭の居間で 毎日、顔を突き合わせるもの。そのため、メーカーは、そのシェアが即、 会社の力をあらわす。そのため、いずれも総力をあげ商品作りをしてくる。 一歩出遅れた東芝がプライドをかけたエネルギーが伝わってくる。
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2015年08月27日(木)
〜「読書の腕前」岡崎武志著 ー読書日記 〜 * 独りの楽しさと、読書 半世紀近く、早朝と午前中の読書の時間は、私にとって至福の時間である。 これに30年まえからウォーキング(7年前から自転車散策に変更)が、15年 前からネットが加わった。これと秘境ツアーの蓄積が、人生の財産である。 読書に関しては10歳までの習慣化が必要と言われるが、その割りに、 底が浅いのは、20歳辺りで、ようやく面白みを知ったため。〜その辺りから〜 ≪ 「いまの日本には楽しみがあふれているのに、楽しみ方が下手だ」 谷川俊太郎の『「ん」まであるく』というエッセイ集のなかにある言葉だ。 たしかに、余暇というと多くの人が、ゴルフへ行く、家族でディズニーランド へ出かける、ショッピングセンターへ買物に行き、ついでに食事もする、 というかたちで時を過ごす。それが悪い、と言うのではない。しかし、 あらかじめ用意された場所や装置がないと、時間がつぶせないというのでは、 「楽しみ方が下手」と言われても仕方がないだろう。このことを、もう少し、 谷川の文章に添って考えてみたい。 ー続けて、こんなふうに言う。 「文学、芸術に関する限り、私たちは楽しさよりも先ず、何かしら 〈ためになること〉を追うようだ。楽しむための文学を、たとえば中間小説、 大衆小説などと呼んで区別するところにも、自らの手で楽しむことを卑小化 する傾向が見られはしまいか。感覚の楽しみが精神の豊かさにつながって いないから、楽しさを究極の評価とし得ないのだ」と。 ここ数年のベストセラーリストを眺めていると、自己啓発本がつねに上位を 占めている傾向に気づく。多くの人がいまの自分に満足できず、なにかを変えた がっているようだ。スキルアップを図り、それを仕事に結びつけて出世したい。 本もそのため「役立つ」なら読む。そういう気持ちがリストから透けて見える。 出世を願う気持ちを否定することはできない。しかし、本一冊を読み、いきなり 自己を変革しようというのはあまりに安易だ。そして、なにか「ためになる」 ことがないと、本に手を出さない姿勢もいびつだ。それもこれも、「本を読む」 ことのほんとうの楽しさを知らないから、いつまでたっても即効性を願う本 ばかりに手を出してしまうのである。 本は栄養ドリンクではない。 「つつしむことのできぬ精神はひよわだ。楽しむことを許さない文化は未熟だ。 詩や文学を楽しめぬところに、今の私たちの現実生活の楽しみかたの低の浅さも 表れていると思う」と、谷川は言う。また楽しみはもっと孤独なものであろう、 とも。恋人と、あるいは大勢の仲間といっしょに音楽を聴いたり、映画を観たり するのは楽しい。しかし、その瞬間だって、その楽しさを腹の底から感じる のはいつだってひとりの自分なのだ。 いつも誰かといっしょでないと不安で仕方がない、ひとりでいるのはみじめ。 だからケータイやメールで他人とつながって生きている。こうして孤独、という 言葉を恐れるあまり、自分ひとりで感じることのできる力をないがしろにしたら どうなるか。「ひとりじゃいられない病」にかかってしまい、いつの間にか、 伸び切ったゴムのように魂は弛緩してしまうだろう。 『教養とはつまるところ自分ひとりでも時間をつぶせる』ということだ。 それは一朝一夕にできることではない。「働き蜂たちの最後の闘いは、膨大な 時間との孤独な闘い」 そう書いたのは中島らも(『固いおとうふ』双葉文庫)。 「教養」という、うさんくさく実体のない言葉を、なんとうまく表現している。 「自分ひとりでもうまく時間をつぶせる」人のことを「孤独な人」とは言わない。 なぜなら、その人の時間はきわめて充実しているからだ。私はつまるところ、 「孤独」を克服し、たったひとりで自分の内面を深めるのは「読書」以外にない、 と考えている。 また谷川は前掲書のなかで、自分だけが感じる「楽しさ」を ちゃんと見つめることが「成熟」だと言っている。≫ ▼ 今では、ネットサーフィンという遊び方もある。逆に、誰とでも気楽に、 「ツイッター」や「リンク」で結びつくことが可能だ。それと、自己啓発本に 偏っていたこともある。『教養とは自分ひとりでも時間をつぶせる』という点 では、充分、教養があるはずだが、それが浅いと実感するのは、10歳までの ベースがないため。その割切りをしておけば、読書の楽しみは増えるはず。 それよりも、現実社会があまりにも面白い!ということか。 ・・・・・・ 4913,世界の美しさをひとつでも多く見つけたい ー5 2014年08月27日(水) 『世界の美しさをひとつでも多く見つけたい』石井光太著 この著書を読んでいて思い出したのが、以前に取上げた、 <京大工学部の新宮教授の「幸福の4階建て論」説。 (古今東西の幸福論を読み漁った結果) 4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。 3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する。 2階:獲得した「快」を永続させる。 1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。> 『世界の美しさを一つでも・・・』の著者・石井浩太は、それが壮絶であるほど 余計なものが剥ぎ取られた人間の泣きたくなるほど、その美しさが浮上るという 説に重なる。このルポも、時代の要請なのだろう。 ーまずは、その辺りを抜粋ー ≪ なぜ過酷で壮絶だったりする現場に赴くのか。それは過酷な現場であれば あるほど、「人間の美しさ」が見やすいからです。良心、善意、優しさ、強さ といったものです。暗い場所であればあるほど、光はより明るく輝きます。 それと同じで、悲しくてつらい世界だからこそ、人の優しさやたくましさがより 鮮明に浮き上がる。 たとえば、マドウと薬草売りの関係が、ニューヨークの 高価な私立病院の個室でくり広げられるお金持ちの病人と専属看護師のそれだと したらどうでしょうか。高級病院の専属看護師は、コルカタの薬草売り同様に お金持ちの病人を必死に励まそうとしているかもしれません。しかし「高額な お給料をもらっている」「最新の医療を受けている」という事実があることで、 専属看護師の善意は見えにくくなります。コルカタの路上で人間が裸同然で うごめくように生きています。良し悪しは別にして、余計なものが一切ないから こそ、薬草売りのマドウに対する善意がはっきりと目に見えるし、それが 泣きたくなるほど温かな行為として感じられる。そして、薬草売りとしての 美しさが鮮明に浮き上がるのです。私は先ほど「人生観が変化するような感動 を見つけ出したい」というようなことを書きました。過酷な現場へ向かうのは、 そのためなのです。厳しい状況の方が人間の美しさがより輝いて見えるので あれば、必然的に向かう先もそこになります。過酷な現場を見たいから行く のではなく、より多くの人間の輝きを発見できるからこそ赴くのです。・・≫ ▼ 幸福の4階建て論に疑問が残っていたが、これを読んで、成るほど合点が いった。著者が、この論を知っていたかどうかは知らないが、克服できない 不幸も、見方を少し変えると、こうも違って見えてくる。3年前の節目も、 実際に経験をしてみて、それまでとは社会と人間が違って見えてきたのに 驚いている。死を悟った時とか、克服できない苦難や悲しみの中にこそ見える 様ざまな感動が、人生観を変える。逆に、ただ、思い込みの壁で、物事が全く 見えてない人と、過っての自分の姿が見えてくる。漆黒の闇の中こそ光は輝く! ふと気づいたが、4F説の、1階が壮年までの生、2階が老年、3階が病気、 4階が死ぬまでの葛藤?で、屋上は死、自分から解放された無限世界! (一言多いが)平屋もマンションもある・・・ ・・・・・・ 4546,閑話小題 ー小学、中学校の同級会で、どうしてるの? 2013年08月27日(火) * 小学、中学校の同級会で、どうしてる? 数ヶ月前になるが、家内が真剣な顔で、「中学の同級の女子会に初めて出席 するけど、会社を興し、ワンマンで好き放題のアナタが、話題が合わないはず なのに、何時もどうして時間を過ごしているの?」と、聞いてきた。 それに対し「殆ど毎年、出席して30数年、慣れがある。相性の悪いのは近くに 来ないし、最初の30分さえ過ぎれば『場』が出来るので、それまでの我慢。 早めに酔ってしまうのがコツだが、気を許さないで悪意の話に乗らないで、 ただ黙々と酒を飲む。話題が合わないのは当り前と割り切っている」と。 「それにしては、毎回、いそいそ行くじゃない」というので、 「小中高校の集まりは魂の故郷。合う合わないでない。魂の故郷の温もりを 味わうだけで充分良いもの」と。地元受験高校から、女子短大を卒業して、 実家の取引先である上場メーカーのオフィスで、丸の内勤め二年をした後、 結婚先は実家同様、お手伝いがいて(10年前まで)、今だTVドラマと、 現実の境目が分からない人が、40年、柏崎の世界で地道に生活している人と、 この年齢で出席してかみ合う訳がない。 で、家内が柏崎から帰ってきて、 「どうだった?」に 「・・・・・」。何があったか黙して語らず。 時間が経つと出たくなるのが同級会、それが魂の領域であるため、 が分からないようだ! で、暫くしてから「二度と行かない!」 * ビデオカメラから覗いたロス市警警官の日常 先週の金曜日に上映時間が変わっていたため見れなかった 『エンド・オブ・ウォッチ』を、昨日午前に見てくる。 (番外は、年に2〜3回はある)ロス市警のコンビの警官の勤務をリアルに 浮かび上がらせている。その手法が、車の中のビデオカメラと二人の警官が 胸に遊びで付けた?小さなビデオカメラで映し出す手法。それが臨場感があり、 ロス警官の日常勤務に観客を引きずりこむ。更にギャングにも、グループの 一人が悪ふざけでビデオカメラで撮影している設定をしてあり、その目線も 重なっている。それがリアルで、次の瞬間何が起きるか恐怖が先にたつ。 観客目線より、主役と脇役それぞれの役割目線のアングルが良い。 ロスのサウス・セントラルでは、年間10万件、5分に一度の割に事件が 起こっている全米最悪の地域。 特にメキシコ系と黒人系のギャング争いを リアルに映し出しているが、それが恐ろしい限り。その中で、二人の警官の 生々しい、ビデオレポート風の映画とすれば・・ Googleが、眼鏡フレームに ビデオカメラを付けたものを実験販売をしたが、映画も、個人目線の映像が 交差する物語が多く出てくることになる。これは、そのハシリということか。 Youtubeのようなサイトから、面白映像が溢れかえる流れが激しくなる。 次にどのような端末が出てくるか、楽しみである。 ・・・・・・ 4171, 閑話小題 ーつれづれに 2012年08月27日(月) * つれづれに このところ尖閣諸島、竹島や北方領土に、中国、韓国、ロシアが意図的に 仕掛けてきている。現在の首相がレイムダック状態で、組みやすいタイミング とみてだ。しかし日本にとって、沖縄米軍基地問題の中、その存在を考えるに 丁度良い問題。関連している各国全てが良い上に、国民の目をそこに引きつけて くれる。もう直ぐに、中東で決定的な何かが起こすための目先の意図的な小競り 合いの要素がある。 中国は権力の移行期における軋轢が起こっている上に、 景気は減速。韓国は、現大統領の側近が収賄などで次の選挙に立候補さえ出来ず、 失職後に恒例の暗殺か、自殺?か、逮捕劇が待っている。極東も不安定状況に なってきた。 アメリカの穀物が異常気象で干ばつというニュース。 深刻なら経済が一挙に際どくなる。一昨晩のBS/TVで、欧州の経済不況の現場を 特集していた。スペイン移民が住宅ローンの破綻で、家の明け渡しのトラブル とか、アルゼンチンにUターンをしている事例とか、深刻な内容。 5年、10年後の日本の状況である。 * iPad導入、一年 去年の8月25日にiPadを購入して一年になる。当初の熱は冷めたが、 使い勝手が良いこともあり、今では必需品である。居間と書斎に卓上型のiMacを 置いているが、居間のPCは家内が専ら使って、そこで私はiPadを使っている。 TVに飽きたり、コマーシャルの間、ネット・サーフィンをしたり、本のチョイ 読みが専らである。気楽に自由空間を飛びまわっている感覚が良い。 電動アシスト自転車が三年、未来型TVが二年、iPadが一年。 それぞれ大きく日常の生活を変えてくれた。 新しいツールが、 日常を大きく変えている。 馬鹿になっているだけだが! ・・・・・・ 3806, 哲学人 ー� 2011年08月27日(土) * 歴史の知識が、物事の理解の仕方に及ほす影響 ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 【 歴史の専攻に費やした五年間(パブリック・スクールでの二年間と大学での 三年間)は、一般的な遺産をひとつと、個別的な遺産をいくつか残してくれた。 一般的な遺産として私の頭のなかには、古代ギリシャかち現在までつづく西洋の 歴史に関する概略的な知識が残った。こうした知識は習得に数年間の研究を 要するので、当然たいていの人は、いや、高学歴の人でさえもっていない。 物事の理解の仕方へのこの知識の影響は根深いらしく、私の考え方には、対象が 音楽であれ、演劇であれ、政治であれ、哲学であれ、ともかく決まって歴史的な 側面が認められる。私にはあらゆるものを、その成り立ちや今後の展開といった 観点から眺める傾向がある。また、過去の人物をより広い文脈に置く傾向もある。 そうやって、その人々が住んでいた社会の様子や、彼らが活動していた当時の 状況、その時代にはまだ起きていなかったこと、彼らが知リえなかったことなど を認識するのである。さらに私は、現実が絶えず変化しつづけることを踏まえ、 ‘現在には特別扱いすべきところなどない’とわきまえている。 いま起きていることには特別な重要性がある、そう思いこんでいる人が大勢いる ようだが、私はそうではない。過去全体がいまへとつながっているのであって、 かつてのどのいまとも同じように現在は一時的なものであり、ときに総体として の過去のなかの一瞬にすぎなくなることを私は知っている。過去、現在、未来を 問わず人は誰しも、複雑で途絶えることのない大きな歴史の流れのなかの任意の 時点に人生をはめこまれるのであり、その歴史の流れは絶えず変化し、各個人の 死後もつづいていく。その流れのなかに、ほかと比べて特権的な時点などなく、 ほかより多少なりとも絶対的な時点もない。こうした思いが私の骨の髄まで染み こみ、芸術と知的生活のどちらに対する態度にも行き渡っている。】 ▼ ついつい我々は、「自分の生きてきた時代を特権的かつ絶対的な時点」 と思い込んでしまう。それが自分が生きてきた時代という理由だけで・・ しかし過去を振り返れば、長い歴史の中の一コマでしかないは明白である。 従って、日本史や、世界史を何度でも読み返し、自分の置かれた時代を冷静に 見つめるため、地球儀と世界史の本を身近に置いておくべきである。 グーグルアースとは別に。 ・・・・・・・ 3441, 政治談議 2010年08月27日(金) * 小沢一郎が、民主党党首に立候補 日本の歴史始って以来の危機の時期に、小沢が立候補を決断をした。 この恐慌を乗り越えるには、自民党、民主党という枠を超えた大連合しかない。 その断行は待ったなし。管首相以下の三人が政権運営維持、難局に対処出来る など考えられない。面白いもので、小沢が立候補のニュースをみた直後、 月刊誌の「現代・プレミアムーノンフィクションと教養」を手に取ると、 週刊文春などの編集長などをいていた花田紀凱が小沢一郎批判をしている文に 行き当たった。田中角栄直伝の集金システムの手法は、そのまま続いている。 ここで、1993年、小沢が新生党を結成した時に立花隆が朝日新聞に痛烈な 批判の文章を取上げていた。 (字数の関係でカット09年8月27) ・・・・・・・・ 3066,ウワサを考えてみる −2 2009年08月27日(木) 「うわさ」をもう一歩掘り下げて考えるために「オレルアンのうわさ」と 「和服美人局のうわさ」を対比してみる。似ているところは、バックにある 犯罪組織の臭いと、性的な危うさ、そして「ユダヤ人経営者」=「女好き経営者」 への虐め。違うところはオレルアンが若い女性の間の噂だったのが、長岡は街の 酔い客である。前者は根も葉もないデマだったと後で判明したが、後者は ファジーのままで終焉したこと。「うわさは愚者に始って、賢者で終わる」 というが、冷静になれば風評ということが分かるはず。 人は「事実より、 信じたいことを信じる」傾向があり、心の闇に符号することには更に強くなる。 「悟りとは、平気で死ぬことでなく平気で生きること」というが、うわさなど 一々気にしていたら自分の世界を小さくするだけである。特に地方では小さい 世界を更に小さくしてしまうことになり、生き辛くなる。 女性週刊誌は芸能人 の「うわさ」(とくに下ネタ)を商売のネタにしている。芸能人も売名のため、 自分の方からネタを売り込む場合もある。「火のないところに煙がたたない」 というが、うわさをたてられた当人が火ではなくて、うわさを好んでする 「劣化した連中の口が火元」になるから、複雑になる。 中世の頃にあった 「魔女狩り」や、第二次大戦の東京大空襲直後の「朝鮮人狩り」とか、デマが 真実と信じられ殺害にまで至る。今では「2チャンネル」のサイトが、その機能 を果たしている。人間の心の弱点には「自分の心の不安を言葉に言い換えた物語 を信じてしまう傾向」がある。それをついたのが新興宗教、占い師である。 週刊誌の記事は売らんがために、不安のネタを見出しにし、あらゆる手法を使う。 それを額面どおりに受け止めるのも問題だが。この選挙のキャンペーンにも、 不安を煽って物語をつくり、自分を解決の主役にしている輩を多くみかける。 それを選挙民が求めているいるのだから、虚像でもよいから演じるのは当然、 といえば、その通りだが。
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| 5277,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー① |
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2015年08月26日(水)
ーその時、言葉は私の「神」となる (新潮45/6月号) 〜心肺停止になって考えたこと! * 人生の価値とは何か 生死の境目で、彼女(中村うさぎ)は大きく変わった? 『何を成し遂げたかでなく、如何に生きたか』というが、実は人生は、 『何を成し遂げようとして如何に生きたか』である。ただノンベンダラリ という生き方も、あるとしても。同じ人生なら、何かを目指し、問題解決を し尽くし、燃焼した生きかたを私は選ぶ。女無頼派作家が心肺停止で見えた ことは・・ 挫折、問題こそ価値の源ということ。 〜その辺りから〜 ≪ 我々はそれぞれが自分なりの方法で己を表現しながら生きている。 そもそも「生きる」こと自体が表現なのである。どう生きたかを見れば、 その人物の価値観や世界観がわかる。生きていく過程でどんな選択をしたか、 何を大切にし、何を捨てたか。その選択や行為によって形作られていく人生 こそが、その人の作品なのだ。 むろん、本人が作りたいと望んだ作品と出来上った作品は、似ても似つかぬ ものになっていることもあるだろう。さまざまな要因によって人生はその形を 変え、思いも寄らない方向に転がっていったりするからだ。 それゆえ多くの者は、人生の後半において「こんなはずじゃなかった」と 臍を噛む想いに打ちのめされる。だが、それでもその人生は、「私の作品」だ。 不可抗力的な外的要因で捻じ曲げられても、そこで我々が下した判断や選択は、 まぎれもなく我々自身のものだからだ。ままならないことも含めて、「人生」 である。そして、その「人生」は、よくも悪くも、我々自身を見事に反映して いるのだ。 私の人生は、私そのものである。 このように考えると、「いかに生きるか」という問題が我々にとってどれだけ 重要であるか気づかされる。組織内や世間の評価を得ることに血道をあげようが、 世間に背を向けて自分だけの世界を作り上げようが、それは各人の自由であるが、 その目標のためにどんなことをしたのか、己の中のどの欲望を優先したのか、 その欲望を自分自身がどこまで明確に把握していたのか、そこが問われることに なるのだと思う。 己の人生を「いかに生きるか」に、我々は責任を取らねば ならないのだ。・・(略) どんな人生であろうとその人にとってはかけがえ のないものであるし、何の業績も残さずとも本人か精一杯生きれぱ、そこに必ず 価値が生ずる。問題はその人が何も考えずにだらだらと生きたか、己や他者や いろいろなものと格闘しながら悩み苦しみ葛藤を繰り返して生きてきたか、だ。 たとえ挫折や失敗ばかりの人生であったとしても、その挫折や失敗は絶対に 無駄ではないのだ。そう、そこには必ず意味も価値もある。 「何を為し遂げたか」という結果ばかりに目を奪われて「どう生きたか」という 過程を見落とすと、この世の多くの人の人生は無価値という結論になる。 何事かを為し得る人間など、ほんのひと握りだからだ。そのような価値観で生き ていたら、「結果を出さなきゃ自分には価値がない」という強迫観念の虜となり、 己の人生を正当に評価できなくなるのではないか。若い人の悩みを聞いていると、 多くがこの強迫観念に取り葱かれていて、「何者かにならなくちゃ」 「何事かを為さなくちゃ」と焦っている。まあ、若いうちはそういう悩むのも ひとつの過程と思うが、彼ら彼女らにいずれは気づいて欲しい。 何者にもなれない人生、何事も為し遂げられない人生にだって価値はある、と。 人生は結果ではなく、そうやって答を探して長い長い旅をする、あなたのその 足取りこそが貴重なのであり、その過程の積み重ねがあなたにしか生きられない この世で唯一無二の人生を形作っていくのだ、と。≫ ▼『ご覧のとおり、そのまま、結構!』を、4年前の事業断念時に自分自身に 対して言い聞かせていた。バブル崩壊が、どれだけ大きな経済敗戦だったかを 見抜けなかったことが、ある。 盤石と信じていた事業が根こそぎ崩壊するのも、 一瞬の出来事。更に同時進行の情報革命も、大きな要素に加わる。 これに9・11テロ、リーマンショック、3・15大地震なら、仕方ない。 面白かったから、まあいい、と思えるのは、何とか避難が出来たから。 『総括として、面白かった!』という実感は、何ものにも代えがたい。 ・・・・・・ 4912,世界の美しいさを一つでも多く見つけたい ー4 2014年08月26日(火) * 現場の壮絶! 内容は 題名とは程遠く、映画や小説でさえ描写できない現実の凄みがある。 デジタル機器の進化で、生首を刎ねる写真や映像などがネットで流される。 臨検など今では無理。それにしても、このルポは、凄惨で、これが現実である。 ーその辺りからー ≪ 話を聞いてわかったのは、LRAの兵士たちのあまりに残忍な行動でした。 彼らはまず戦力を増やすために村を襲い、食糧や金品を略奪します。 そして村人の中から子供を選び出し、彼らに銃を突きつけて自分の親や兄弟を 殺害させる。「この場で親の首を切れ。そうしなければ、おまえを殺すぞ」 そう脅して無理やりやらせるのです。家族を殺した子供は、村で生きていく ことができません。兵士はそんな子供たちを連れ去り、部隊の兵士にする。 家族を殺させるのは、子供を村と決別させ、殺人マシーンにするべき通過儀礼 のようなものなのです。子供たちは部隊に入った後、全員が従順に兵士として 生きるわけでありません。途中で逃げ出したり、命令に従わなかったりする こともあります。そんな時、ゲリラ兵は見せしめのために裏切った子供たちの 鼻や耳、それに唇を切り取ったりします。人間には見えないような容貌にする ことで恐怖心を植え付けるのです。おそらくこうした事実だけ見れば、私は LRAのゲリラ兵を「鬼南のような兵士」として描き、彼らにつかまって兵に させられた子たちを「悲劇の被害者」として描いたはずです。でも、さらに 調べていくにつれ、違う側面があることもわかってきました。 LRAの子供兵の中には、誘拐されて兵士になった子以外に、自分の意思で自ら 兵士になった子もいるのです。貧しい農村で一生暮らすことが嫌になり、銃を 持って略奪をして暮らしをしたいと思っている子供、銃で人を殺して出世する ことがカッコイイと思って参加する子、もともと反社会的な人格を持っていて、 それがエスカレートして、兵士になることを望んだ子供がいるのです。・・≫ ▼ これに匹敵する残虐行為に、ドイツのナチと、カンボジアのポルポトに よる数百万単位の大量殺戮がある。北朝鮮も一歩内部に入れば、このような 弾圧が現在進行で行われている。中国文化大革命では1千万〜5千万人が虐殺 されたが、詳細は隠されている。25年前に桂林に行った時の現地添乗員が 『文化大革命時には、この辺りは死体の山だった。それが全国の各村で同じ ように・・・』と、何気なく話すのを聞き耳を疑った。当時は、日本国内では タブーで、現地であればこそ聞けた話。 島国で、海で外界から守られ、 平和ボケの日本。グローバル化は、その平和を儚くも砕いてしまう。 憲法を変えるのは当然のことだが・・ この国では無理? 〜 また偶然だが、以下の二年前の随想日記に続く! 〜 ・・・・・・・・・・・ 4170, 金正日の料理人 2012年08月26日(日) * 若きドン様の親の敵討ちは残酷! 何気なくTVをみていたら、北朝鮮の金正日の元料理人が出ていた。これが 漫画的ドラマ仕立。その男が、「金正恩に招待され北朝鮮に行ってきた内容」 で、金正恩や、そののファミリーと食事をした写真があった。 父・金正日を 裏切り逃げ帰った過去全てを水に流してくれた温情深い現在のドン様に感激 している、という筋書き。その日本人は現地に妻と二人の子供を残してきたが、 正恩の計らいで残留家族と対面した。ところが、「料理人の長男が、再会した 二週間前の夜半に苦しみだし、両手を三回突上げ絶叫し、亡くなった」という。 心臓発作だった。 『呼び出しに応じたのを確認したと同時に、長男を毒殺し、家族に会わせて、 その事実を知らしめ、今度は長女を殺す、という脅しをかけ、北朝鮮の メッセンジャーを暗に強要している』のは誰の目にも明らか。その後、妻と娘 を残して帰国し、TVに出演したのだが、その筋書きをキャスターに指摘されると、 「そうであっても、それでよいと思っている」という返事。北朝鮮に愚弄されて いる姿が、そのまま出ていたが、陰湿で残酷な仕打ちのドラマ仕立。 リアルで現在進行中のため、料理人が翻弄されている姿が痛々しい。 独裁国家のドン様を裏切り愚弄すると、このザマになるという残酷ショー。 これは北朝鮮が茶の間に直接日本愚弄のメッセージをしてきたことになる。 逆にみれば、この程度の連中でしかない。マスコミが、料理人を抹殺するか、 パンダとして利用するか、パンダ利用になるのだろう。現地の家族が本当に 存在していたのか、そう持ちかけられたのか、本人の作り上げた物語なのか、 色いろの仮説がたつ。コミック漫画の悲劇、喜劇? くさい話だけは確かだが。 ・・・・・ 4545, 閑話小題 ー夏対策 2013年08月26日(月) * 暑さ対策! 居間、寝室では扇風機で冷をとるのが基本。しかし30度を超えるとクーラー を付けるが、今年は、その頻度が多い。扇風機の場合は、補助として保冷剤の 入った首巻きを三つ冷凍庫で冷やし一時間ごとに入れ替える。これが効果がある。 更に先日、寝室用に保冷枕を購入し使い始めたが、これも良い。 冬生まれもあって夏の暑さには特に弱いが、それでも、いざとなればクーラー があるという余裕があるから出来るのだろう。 * 業種店が、新規出店? 車で二分ほどの三沢のSCの運動ジムに週五日通っているが、道路一つ隔てた 敷地に2Fの建物の鉄骨が立ち上がってきた。3〜4ヶ月前に「地元のスポーツ店 が、東バイパス出口に出店!」という新聞記事を見ていたので、着工と同時に、 これでは?、と思っていたが、先日に家内から、それが地元スポーツ店と 知らされた。地元のスポーツ店も典型的な業種店。自然消滅は時間の問題と 見ていたが、それが新規の出店とは意外! 家内が言うには、「近くに高校や 中学が多いので、運動着やスポーツ用品が学校単位の需要があるのでは?」。 家内の方が、よほど世情に詳しい。全国チェーン店が捨てた(地元しか手に 入らない)インサイダー営業が存在している、ということ? としても、 私には疑問が残るのは、私がアウトサイダーのため? それとも、幾つかの SCの重なっている郊外の一等地で、大手のスポーツチェーンに囲まれ苦戦。 その原因が業種店の限界と知らず、スポーツ店の無店地帯の東バイパス地区に 移転で起死回生を図るためなのか?としたら・・ 最悪のケース。 常識的にみれば破滅行為!しかし、街中から移転して20年?近く、ブランド物に 的を絞り、営業では学校関係に地道な営業努力の結果、二店目の出店に至った? と、考えるしかない。立地センスは最適だが、黒鳥の舞降りる中で、どうなる? 毎日のように、窓から見えているので書いたが・・ 更に最悪のケースは、 順調な数字を上げていて、移転でなく拡大としての二店目の場合。 恐ろしいのは二店目の甘い計画。 ・・・・・・ 3805, 哲学人 ー� 2011年08月26日(金) * 学生時代の恩恵 学生時代の恩恵は、現在でも大いに実感している。もしも学生時代に一度、 頭を粉々にしてなかったらと思うと・・ マギーは、ここでイギリスのエリート 学生の内面を正直に書いている。哲学と芸術の長い歴史が大学にあり、そこの プログラムを学生はこなしているのである。都市には、美術館があって歴史的 名画を身近に見ることができる上に、コンサートも子供時代から親から連れて 行ってもらっている。 教養のベースが、風土の中に染み付いているのである。 ー「哲学人」ブライアン・マギー著よりー 【 結局、大学が知性という面で私にしてくれたことの中で一番肝心なことは、 知的価値が芸術的価値とは独立して存在しているということ、そして、知的 価値に関心を持つように仕向けてくれたことである。 一年目には、理知的で 気の合う仲間の中に、他にもまして知的な価値に傾倒している人がいることを 知ってカルチャーショックをうけたことである。彼らとの交流のかなで、 そうした価値を自分なりに受け入れられるようになるに三年目まで待たなければ ならなかった。そのおかげで、知的価値は私にとって欠かせないものとなり、 私の人生と考え方に色褪せることのない彩を添えてくれた。 ちなみに、私はこのような経験をしたおかげで、一部の聡明な人々に対する 理解を深めることができたのではないかと思っている。それは、さまざまな 理由から大学教育を受けたことがなく、そのためにこういだ経験をしていない 人々についてである。そういった人々がどんなものの見方をするか私はわかる つもりだし、彼らの身になってみることもできる。 ひょっとしたら自分も 同じ立場になっていたかもしれないからだ。 正式な教育は、世界というものが 個人の見解や意識や関心や想定の単なる拡張ではないという考えを育むよう 仕向けてくれる。これは正式な教育が授けてくれる最大の恩恵である。 当然のことながら、こうした教育は他者の助けなしにできない。他者は私たち 個人をしばっている拘束をまぬがれているからである。けれども、ここから 導かれるのは、独学の者は生半可な教育を受けた程度にしかなりえないという、 残念だが逃れようのない事実である。 オックスフ・オード入学当時の私の 考え方にはっきりいって欠けていたもののうち、最も重要だったのは、その後の 経過を考えると、哲学ということになる。 人間の関心事の中で最も価値が あって大切なものとして、哲学は確かに偉大な芸術に近い水準に達しているし、 その理由も似通っているように思う。どちらも、人間が到達しうる最も高い レペルで真理を探究する活動である。どちらも物事の本質を、つまり存在の 根源的な神秘を探ろうとしている。それを果たせないとしても、人間の理解 に限界があるせいにすぎない。ショーペンハウアーが述ベているように 「芸術家が具体的に行なっていることを、哲学者は抽象的に行なっている。」 哲学者は自分の意見を概念で表現するよりほかなく、そして概念というものには どうしても一般性がつきまとうため、哲学は芸術ほどの深みには到達できない かもしれない。だがその一方で、哲学にはできても芸術にできないことがある。 アイリス・マーギックは「よきにつけ悪しきにつけ、芸術は哲学より深い ところに達する」と語ったが、哲学には芸術よりすぐれた面がいくらかはある という意味ではそのとおりであるし、全体としては芸術に及ばないという 意味でもそのとおりである。】 ▼ 芸術と哲学が教養のベースであるのは今さらだが、マギーの、このような 文章を読むと、より芸術に触れておくべきだったと実感する。 芸術作品は、 作者の魂そのもの。それぞれの時代が生み出した人物が全霊を捧げて、作品の 中に魂を入れ込んだ名作である。それに直接触れ、感動するのが一番、人間の 魂を高めることになる。そのためには時間をかけて対象と向き合うしかない。 ・・・・・・・ 3440, 再び、死について考えてみる ー4 2010年08月26日(木) * 死を喩えると 死を喩えると、旅と、眠り、とされる。 「死ぬ」が旅と、眠り、に 喩えとされることは、プラトン『ソクラテスの弁明』の一節にある。 ー「つまり死ぬということは、次の二つのうちの一つなのです。あるいは 全く何もない.無」といったようなもので、死んでしまえば何も少しも感じない といったものなのか、あるいはまた言い伝えにあるように、それはたましいに とって、ここの場所から他の場所へと、ちょうど場所をとりかえて、住居を移す ようなことになるかなのです。そしてもしそれが、何の感覚もなくなることで あって、ひとが寝て、夢ひとつ見ないような場所の、眠りのごときものである としたならば、死とは、びっくりするほどの儲けものであるということになる。 ・・・・また他方、死というものが、ここから他の場所へ、旅に出るようなもの であって、人が死ねば、誰でもかしこへ行くという、あの言伝えがが本当とする と、これより大きい、どんな善いことがあるのでしょうか、裁判長諸君。」ー 葬式で、「故人は旅立たれました」というが、夢なら醒め、旅なら帰って くるのが前提にある。永遠の眠りというと、そこで夢を見る可能性がある。 無に帰した者が夢の見ようがない。あくまで心象風景でしかないのが、これで わかる。 最近、ブラックホールに喩えることがある。その人の全てが、 その中に吸い込まれ、再び戻ってくることはない、という意味で、喩えとして 科学的風である。 ブラックホールは生命を終えた星が爆発をして、その重圧で 空間の歪が生まれ、穴が開いて異次元?の時空に周辺のものを吸い込んでいく。 これを死に喩えることは、これはこれで、説得力がある。最近、ホワイトホール も、存在も云われるようになってきた。何処かの歪から何が噴出している空間の 存在。それは生命ということになる。 面白いのが、死の喩えを、生そのものに している説がある。 これまでの死の喩えのは、生のうちで経験される現象=旅、 眠る、去る、失う、等々である。それらは再び我われの元に帰ってくる可能性 がある。死は絶対性であるから、「死ぬ」に永遠性が現われてくる。そうすると、 永遠に眠る存在になる。こんなそんなで、結局、死は喩えると分かりやすそう だが、生きている人間の論理というのが露出するだけ。同じ動物の牛に喩えると、 先ほどの喩えは不自然である。死も、生きていることも、幻想でしかないなら 喩えでイメージするのも良いではないか。 少し、眠たくなってきた。 (字数制限のためカット2011年8月26日)
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| 5276,閑話小題 〜静かなる恐慌が表立ってきたか |
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2015年08月25日(火)
* 株価、世界同時安が ここで、世界は静かな世界恐慌に既に入っていると、くり返し述べてきた。 リーマンショック以来、アメリカのドルの供給量が三倍。円は二年前の二倍に なったが、ドルの為替値は、変わらず。円は、三分の二になった。 こういう歪な不自然なことには自然淘汰が、起こって当然である。 その発火点が中国か、ギリシャか、日本か、北になるのかだったが。 「暴落しそうな企業は、株式市場での売買停止が可能」とは、知らなかった。 これでは、国内外の投資家は、引くのは当然である。私のHPの内部検索で、 去年春に、以下の内容が出てきた。我ながら真面目なものだ。 ≪ 2014/02/10 閑話小題 〜時どき、10年前から現在を振り返えり〜 * 時どき、10年前から現在を振り返えって見えてくるのは! 株式のチャート見るように、その時どきから、5、10年間を振り返えると 思いもよらない事件に遭遇していることが分る。では2004年2月〜2014年2月 まで、何が起きたか?を調べると想像を絶することばかり。 先の10年間は、 これらより遥かに大きな自然災害と経済震災に遭遇することになるが、 これだけは起きてから分かること。 時系列であげると! ・2004年に、中越地震とスマトラ沖地震、 ・2007年に、中越沖地震、 ・2008年には、ミャンマーでサイクロンで死者・行方不明は13万4千人以上。 5月12日- 中国で四川大地震発生。M8.0、累計で4千万人以上が被災し、 6万9千人が死亡。米国でリーマンショックが発生。 ・2008年9月15日 − リーマンショック ・2009年1月20日 - バラク・オバマがアメリカ合衆国建国以来、 初の黒人大統領とし第44代米国合衆国大統領に就任。 ・2010年には、チリとハイチで大地震。ハイチでは30万以上が死亡。 ・2011年に、東北大地震で2万人近くが亡くなり、福島第二原子炉が破壊された。 チュニジアのジャスミン革命が各国に波及し、アラブ各国で独裁政権に対する デモに発展。エジプトでムバーラク政権が崩壊、リビアでNATOが軍事介入し 半年間の内戦の末にカダフィ政権が崩壊した。(アラブの春)アルカーイダ の最高指導者とされるウサーマ・ビン・ラーディンが、パキスタン・ アボッターバードにて米国の特殊部隊との銃撃戦の末に殺害される。 ▽ 東北大地震の直後、私の事業もあっけなく消滅。 時系列でみると、 10年前に、こんな予測をしても誰も信じない。が、現実には次々に起きている。 とすると、2014/02〜2024/02年は、さらに大きな自然震災、経済災害があるはず。 それを前提に対策を立てておく必要がある。まさか地元の中越地区に二度も、 大地震があるなど思いもよらなかった。いま考えられるのは、首都直下型地震、 南海トラフ地震、富士山の噴火の可能性が高い。また静かな世界恐慌?が 表立ってくるのも自然の成りゆき。その中で、情報革命が劇的に進んでいる。 パソコンがスマフォや、タブレット型に収まるとは、当時は考えられないこと。 次の10年は、メガネ型、腕時計、ジャケットなどの身体の一部になる装着式。 危険な大震災の可能性と、反面、面白い時代になる。ブラックスワンがいるが、 大部分はホワイトスワン。 私個人としてのブラックスワンは、「死」。 5分5分、いや6分が到来? で、その日のための予習を楽しんでいる。 一応、やりたいことは、やり終えた実感は、小さい範囲としても、気が楽。 それも吹っ飛ぶのだろうが。 ≫ 〜以下は、2015年8月25日・記 ▼ 後記)中国のバブル経済の崩壊は、世界恐慌が表立ってくるのか、どうか? 見ものである。一線に立っていれば、由々しき出来事に夜も眠れない? 昨日の夕方、NHK:BSで、『中国の製造業崩壊現場』を、再放送をしていた。 人件コストアップのため、カンボジアに工場移転をしたところ、カンボジアも 人件費が高騰し、人民レベルの質の問題もあり、当てが外れたという内容。 中国経済と、その株式市場の崩壊の影響は、リーマンショックとは、 レベルが違う! 一年、二年かけて、世界の株価が、現在の半値か、 3分の1の可能性もある。目先は、一時的には平成を保つとしても・・ ・・・・・・ 4911,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー50 2014年08月25日(月) * 総括の総括 ー小さな物語のまとめー HP内検索で調べてみたら、2年半前の春先に『事業生活39年の総括』 『シングルイン、31年間の総括』と、二つ似たようなテーマで7〜10回 シリーズで書いていた。しかし、それを全く忘れて、これを書き続けた。 45年と、6年〜14年間延びた分、今回は準備期間の15年間を重点的に 書いてある。(重なりが多いが) 無事、ハッピーエンドで事業が終わって いたら、在り来りの成功物語でしかないし、この3つのシリーズは書くことは なかっただろう。この結果なればこそ物語を再編成をしなければ、45年間を 受け入れることが出来なくなるためだ。創めるまで、こんな準備をし、半狂乱? になって全てを注ぎ生きてきた。それぞれの場面には、それぞれ多面性があり、 重く、複雑な問題が、次々と生じてくる。 時には、直ぐにでも投げ出し、 逃げたくなるような、ドロドロしたものが覆いかぶさる。しかし、重みに 耐えているうちに、それは何時の間に解消していることが多い。そこに必死に 立向かっていた自分が間違いなく、いた。この物語を語らずには、死ぬに死ね ない思いがある。これは誰の人生でも同じ。 書き残すか残こさないかである。 書き残せば、遺言にない、かつ自分への弔辞にもなる。 『ご覧の通り、そのまま結構!』で、これ以上でも以下でもない自分の姿が、 そのまま現れ出ている。私生活では、読書、ウォーキングかポタリング、 事業、秘境ツアーが大きく占めている。 素晴らしい仲間に恵まれ、何とか、 ここまで辿り着いたが、結果は?? それでも、悔いは少ない。 10数年前のつくった辞世の句?『有難う 面白かった 悔いは無し』がある。 「遊び、学び、働き、ぼんやり(中空)」と分け自己満足度を総括をすると、 遊びー80点、学びー80点、働きー40点、ぼんやりー80点。平均で70点。 甘いのは分かってはいるが! バブルと、その崩壊に対する認識の甘さが、 働きの自己評価を大きく下げてしまった。それもひとつの小さな小さな物語。 手がけたホテルを一つの生命体とすると、「新しい経営陣と、前オーナーと 管理者の総入れ替えと、借金の6割カットのリストラ」になる。 新潟駅再開発で、二つのホテル棟が買収が予定されているため、何とか、 それまで持ちこたえれば採算に合う?という思惑があればこそ、新オーナーは、 決断したのだろう。問題は、経営母体の体力になる。私は、20年かけて、 衰弱をしたが。このシリーズ、今回が一つの区切り。あとは、「つれずれに」 で、書き加えていくつもりである。結局は『珍獣』止まりだったが、こんなもの! 別記)『分類』の中の「行蔵ーこんな経験をしてみた」の中に、3つの総括 シリーズが収めてある! 一番、楽しんで読んでいるのが私とすれば、 幸せなこと。癒し、というより何だろう、これ。 ムンクの『叫び』? ・・・・・ 4544, ヨガの瞑想と死者のポーズ 2013年08月25日(日) * ヨガに参加して一年半、経過したが スポーツジムのスタジオでのヨガ教室に週2回、1回につき50分間、 参加をして一年半になる。ジムの盆暮の特別休暇以外で休んだのは7〜8回位 とすると、140回は参加したことになる。毎回、50人の定員はほぼ満席で、 30分前までに行き、参加の予約チップを確保しなければならない。 で、二回は遅れて不参加の事があった。火曜と木曜日の午後で、30代半ば? の女性インストラクターは、それぞれ別。私の見立てで能力、人気も同程度? 2人ともヨガが大好き人間で、それに負けないほど、教えること自体が楽しくて 仕方がないようだ。40坪位のスタジオに50人が一同でヨガをする様は異様 の光景。正面には全面カガミがあり、見た目は100人の姿が視界に入るから、 なお迫力がある。横60センチ、縦120センチ位のフィットネスマットの上で 百種類のポーズのうち、一回につき10数種類はする。そこで言うのは、 「周りの人の視線は無視してください。 マットの上は、それぞれの全宇宙。 独りの世界の入って下さい。他人ではなく自分と向き合って下さい。」と。 スタジオはカーテンで外の光が遮られ、照明を落とした薄暗い中、チャンドラ などヨガの空気にピッタリの音楽が流れ、数分でヨガ世界に引き込まれる。 そこで、直ぐに家で取り入れたのが、瞑想と、死者のポーズである。 死者のポーズは、仰向けの瞑想と思えばよい。仰向けになって。両目を閉じ、 両腕と両足は少し大の字気味に開き、全身の力を抜いて、チャンドラの音に 気持ちを向け、戦場の死者のように横たわるイメージを持つ。 毎回、最後の5〜10分は仕上げに行うが、これが疲れを取ってくれる。 ここで感じるのが「大人数の中の、ひとり」。気持ちの集中で、殆ど他人を 気にすることがなく半睡状態になる。それは、一時間の睡眠の効果に当たる。 仏壇前の、早朝の瞑想は30分、死者のポーズは、やはり午前9時〜20分間、 行う。夜半に目が覚めた時に、大の字になって、気持ちをヨガをしていると 思えば、それをしていることになる。問題は、呼吸を小波、中波、大波が 岸辺に打ち寄せるイメージですること。何事もそうだが、続けること。 この二つだけでなく、他にもヨガのポーズがチョットした仕種の中に入る。 居間でTVを見ている合間に大の字の姿勢で、両手、両足を目一杯伸すとか、 歩いている時に背筋を伸すとか・・・ ・・・・・・ 4169, 老年行動学 ー5 2012年08月25日(土) * 老生自覚 「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一 (著) ≪自らの老いを自覚することを「老性自覚」と呼び、老性自覚には 「内からの自覚」と「外からの自覚」あります。 △ 内からの自覚には、物が見えにくくなったり耳が遠くなったりする 「五感の能力低下」、しわや白髪が増える、歯が抜けるなどの「身体的徴候」、 もの忘れが増えたり、計算が遅くなったり、根気がなくなったりする 「精神的な減退」などがあります。 △ 一方、外からの自覚には、子どもの成長や孫の誕生、配偶者や友人の死、 定年退職、他者からの老人扱いなど、「社会的なできごとや経験」があります。 このような老性自覚は、「老い」にネガティブな意味だけでなく、ポジティブな 意味も感じていた時代には、当たり前のこととして、自然に受け入れられていた のかもしれません。しかし今は、そうではありません。第1章で述べたとおり、 現代人は老いを感じると、暦年齢を主観年齢に合わせるべく、アンチエイジング に励みます。また、身体の状態も75 歳〜80歳ぐらいまであまり下がらずにきて、 最後の数年でガックと落ちるのが今の老人です。日本人の場合、介護が必要に なるのは平均して寿命の1割、7年間か8年間程度なのです。つまり現代の日本人 には、極端にいえば老年期がなく、壮年期のあと直ぐに死と向かい合う時期が やってくるのです。このことは「死に対する準備ができない」ことを意味します。 老性自覚を自然に受け入れ、心も体も徐々に老いていった時代には、 自身が老人になることや死ぬことを、自然に受け入られたのだと思います。≫ ▼ 人は脳卒中や心臓発作などで病院に運び込まれたり、死に直面する病気に 直面し逃げ場のない状態に追い込まれた時や、自信を失ったときにガックと 老いるのである。老人は自分が失敗したことで自信を失うのではなく、周囲が、 それを繰り返し指摘することで生きる気力を失うことが多い。だから周囲は、 これに気づく必要があるが、現実は甘くはない。少くとも服装と言葉と運動量は 注意しておく必要がある。「一年後は無いかもしれない!」を常に意識しているが ・・それでも一期一会の気持が甘くなる。仏壇に祖父の遺影があるが、私より 10歳若い57歳時だが、80歳近くに見える。目先を精一杯生きるしか ないが、果たして死に際、冷静でいられるのだろうか? 充分生きたので静かに逝きたいが、所詮、無理。 ・・・・・・ 3804, iPadを買った 2011年08月25日(木) タブレットPC、来年春のiPad3が出てから買おうかどうか迷っていたが、 思いたったが吉日で、三日前に購入。去年から八月に買うと決めていたが、 この春先の騒動で、それどころではなかった。ここで気持ちも落ち着いて きたことと、「iPadバカ」というタイトルの本を読んだのがキッカケとなった。 そこで実際に手に取ると、成るほど面白い。感想として、これはモバイル携帯 が大きくなったというより、無線のタッチ式タブレットパソコン。 パソコンでゲームをしたことは皆無だが、今度はゲームなどソフトを ダウンロードして、使いこなしてみたい。タブレット(バインダー)で 持ち運びが簡単で、無線であることが、これまでと違った感覚。ベッドや車内 などで、気楽にウェブ上の新聞やニュース、ブログなどを見ることができる。 パソコンの前に座り、電源をオン、ヤフーのHPにアクセス・・ 等々を、 タッチだけで出来るので手軽にネット世界に入れる。しかも板状で、何処へ でも持っていける。 まだ使い始めて数日なので、門前から一歩を踏み込んだ ばかりだが、これは日常の必需品になる。初期投資がゼロ円、ランニング・ コストが5千円が高いか安いかは、その人によるだろうが、新聞を止めて 少し生活を切り詰めれば何とかなる?少し重いのが気がかり。あとは本を 自動的にめくり、スキャンしてくれる器械でも出現すれば良いが。 新聞・雑誌がタブレット式パソコンなどの端末の出現で淘汰されるといわれて いるが、実際に手元に使ってみて、その流れになると確信。先日、近くの ステーキチェーンでランチの写真を撮っていたら、フロアーの女性が来て、 「写真を何に使うのですか?」と、聞かれた。(HPに写真が多く掲載されて いるので、競合店の視察とも思ってもいないはず)「ブログに、気に入った ランチを時々載せているので、これも」と答ると、暫くして再びやって来て、 「店長がブログを見たいので、ブログ名を教えてもらえますか」という。 少し躊躇したが、教えたところ、厨房の辺りから、「出てきた出てきた」 と小さな声。モバイル携帯で早速、何人かで見ているようだった。 そういう時代になったのだ。 薄型タブレット、無線、ツイッターなどで、 誰でも直ぐに情報が繋がると、現実社会の上にネット社会が覆いかぶさる 時代が現実に、こういうカタチでやってきた。 面白い時代である。 ・・・・・・・ 3439, 「うち」と「そと」という、考え方 2010年08月25日(水) 日本人の考え方として、「うち」と「そと」を区別する。 「そとの人」に対し「うちの人」の話をするときには、その人に敬称をつけない のが一般である。元もと「家」の単位をベースにして、その内側を「うち」と いい、一歩出ると、「そと」とする。家の玄関は鍵をしめて用のある人以外は、 あけない。節分には、「鬼はそと、福はうち」と、豆をまく。 江戸時代の藩制度の名残で、属している組織の帰属を第一にする考え方は現在も 続いているといってよい。朝礼、社員旅行などは、うちを固める儀式。 日本的な名残。それが人間関係の中でも、考え方として色濃く残っている。 「この人は、うち側の人で、友人。うち側でない人は、そとの人で、知人」 とする。裏切られたり、騙されると、あっさりと、心の中で、そとの人に分別 してしまう。 面白といえば面白いが。一般的に、家族と、信頼している友人、 そして会社の同僚が「うち」になる。それ以外は「そと」と単純明瞭。 これが個人主義の欧米人からしたら不思議なようだ。欧米は一神教。 ビック鶸と「私」の関係が「うち」で、その神の前で永遠の愛を誓った連れ添い、 そして、二人の間の子供と「うち」が拡大して、「家庭」が存在する。しかし、 日本の「うち」は、多神教をベースにして「家」に、 まず帰属して、その内側が「うち」で、外側が「そと」になる。 私自身を振り返ると、この二分法で知人、友人、同僚を振り分けていた。 一度、信頼を失った相手は、そとの人と、二度と、心を開くことはない。 特に、卑しさを見せつけられると我慢が出来ない。 そういえば、「タテ社会の人間関係」で、中根千枝が《日本社会の人間関係は、 個人主義・契約精神の根づいた欧米とは、大きな相違をみせていて、まず「場」 を強調し「ウチ」「ソト」を強く意識する日本的社会構造に、どのような条件が 考えられるか》を論じ、タコツボ社会が日本的特質と指摘している。 その考え方そのものが、私の造語になるが「タコツボ思考」ということか。 自分を省みると成る程、いやに納得できる。ウツボが徘徊している中でタコは タコツボに入って、最後は人間に食べられてしまう。「うち」と「そと」の間の 「にわ」か「うちにわ」を日本人は昔から取り入れて自然を取り入れていた。
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