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堀井On-Line
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2015年05月26日(火)
* ヤマダ電機が5月末に46店舗の閉鎖 ≪ ヤマダ電機が5月末に閉鎖する46店舗のうち45店舗は郊外型で、 需要低迷が目立つ地域で事業を縮小する。一方、今年度の新規出店数は 15店舗と従来の半分程度に抑えつつ、目玉店舗として東京駅・八重洲口側に 新規出店する方針。増加傾向にある訪日外国人の需要を取り込む狙いがある。≫ というニュースが、先日、突然発表された。 以前も書いたが、郊外型店舗で欲しい商品を見て、実際に購入するのはネット。 確実に二割はお買得になる。ヤマダ電機の総店舗数は国内外あわせて4,401 店舗 もあるから、僅か一%あまりだが、発表後、一週間で閉鎖とは・・ 買ってはないが、目立たない「自転車用ヘルメット」をネットで調べたが、 思いもしなかった帽子に組み込む隠れヘルメットがあった。また、帽子に組み 込まれたヘルメットもあった。それらは、自転車専門チェーン店も販売してない。 情報化は、あらゆる業態の既存のシステムを根こそぎ破壊している。 * カースト制度 インドに行ったときに、まず疑問に感じたことが、『何故、カースト制度が 三千年も存在し続けたのか? 階級間の争いが起きなかったか?』であった。 それに対して、階級が高いアーリア人のガイドが曰く、『それぞれ階級には、 その下の階級が存在しているので、上からの差別を、そのまま下にするため、 バランスが取れている』と、平然と話していた。平等は分かっているが、肌の色、 人種、宗教上からして、アーリア人が、それ以下の人種と混血にさせないため、 つくり上げたヒンズー教。分かってはいても、階級を容認するしかない、という。 考えてみたら、自由、平等、博愛の理念は理想であって、現実は、その逆。 日本のような島国では、実質的なカースト制度が長年かけて構築されている。 笑い話?に、『平等の理想が困難なのは、みんなが自分より上位の人間との 平等を願うから!』がある。 なるほど、確かである。その希求は、思いの他に 強いものがある。そのため、下方ほど、他人の粗探しに精を出す「世間びと」 になる。が、それも、差別。『世間虚仮、唯仏是真』というが、せめて、自分も、 「世間びと」の自覚を。ところで、老いるたび、社会の隅に押しのけられていく? ・・・・・・ 4820,閑話小題 ー22年ぶりの車選び 2014年05月26日(月) * 22年ぶりの車選び 日常生活の中で、TV、パソコン、車の位置づけは大きい。 この年齢になれば、便利で、面白そうで、実利的であることが第一になる。 年金生活者ということがあるが、これが最後の車の買物?となると、大いに 迷いが出る。しかし、選定のための中古車センターまわりは、なかなか面白い。 22年間、乗っソアラの車検の見積で、修理費など30万といわれていた 経費がマフラーの交換が加わり、50万以上の見積になった結果、急遽、買替え を決め、先週、連日、市内と見附と三条の中古車センターをまわった結果、 メーカー直の販売所に比較的良い車があることを知る。まず、ソアラ・クラスの 三ナンバーの大型車か、普通車のセダンか、スポーツタイプかと判断に迷った。 まわって思い知ったのは、22年も乗っていた車より、どの車も、遥かに良い! ということ。「このソアラは当たり!」という思い込みが、過剰に縛られる ことになっていた。 日産とトヨタというと、先代のソアラと、その前のコロナを加えると、 35年以上もトヨタ車を乗ってきたため、トヨタ系を選びたくなる。 また、車は家内名義になるため、どうしても最安の選定に引っ張られる。 こういう時に、偉そうなことをいっても、森の生活とサバンナの年金生活の差 が出てくる。歳からして、あと?年しか乗れないから、可能な限り良いものか、 逆に安いものか、大きな迷いになったが・・ 何の制約もなければ、年齢を 考えても、トヨタのスポーツ車にするが、中古でも結構な値がする。 今更、遠出も、スピードも出さないため、考えた末に止めた。 で、決めたのが、トヨタの「マークXジオ」、走行距離57千キロの格安 のワゴンタイプ。一応スタイルも気に入った上に、実用的が判断基準。 オーナーは、もちろん家内。で、ますます頭が上がらない。産業廃棄物とは、 よく言ったもの。で、車選定も一歩手前の己と似たのを探し出す! ・・・・・・ 4453, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー1 2013年05月26日(日) スポーツジムのヨガに週二回参加して15ヶ月になるが、家ではやらない。 ジム内のフリースペースで常に数人がヨガやストレッチをしている。 半年前にストレッチマットを買って始めようかと考えていたが、何もしなかった。 丁度良いタイミングに、図書館でこの本を見つけた。100回以上のヨガで、 ここで取り上げているポーズの殆ど経験している。その中で、自宅用として 要約して、「どうですか!」と提示されたよう。 独り部屋でヨガをしている 姿も奇妙といえば奇妙。 ー著者からの内容紹介ー 動かすだけで、体に自然と力がみなぎり、元気になる!! 1日5分、1週間でマスターできるように、「息の出し入れ」「体の動き」 「気の流れ」の3大要素を、徹底図解。読んでいくだけでも、ヨーガの効果が 体得できてくる!私の師匠が長年提唱し続けてきたヨーガは、インドの伝統に のっとったうえで、体位法などの形のみに偏らない、呼吸を大切にして 「気の流れ」のあるヨーガでした。しかもそのエッセンス的ヨーガの中に、 伝統的に重要な行法をすべて濃縮した、極めて濃度の濃いものなのです。 本書で説くヨーガも、難解な体位などの実修は含まれていません。 「ヨーガ独得の呼吸法の解説」と、それを通して得られる「生命エネルギー、 気の獲得」そしてなによりも、こうした要素を簡単に 「1日5分、2種類の実修から」始められることが、大きな特徴となっています。 ●4つの呼吸 ●1日目 胸を開いて ●2日目 足腰を軽快に ●3日目 身体の前後両面と手指 ●4日目 背骨にいきいきと ●5日目 胸と脇を開き ●6日目 上体を反らせる ●7日目 1週間の疲れを癒し ●オーダーメイド・ヨーガ ●症状別のヨーガ 次回には、4つの呼吸法を紹介するが、なかなか良い。 −− 瞑想は釈迦も取り入れて悟りに至ったが、ヨガとして確立したのは、 後のようだ。 「まえがき」の冒頭で〜 ≪ ヨーガは、もともとインドの哲学や宗教のすべてに共通する宗教的な 実践法でした。仏教も例外ではなく、心を集中し統一するための実践という 意味で、ヨーガ(瑠雌)ということばが使われています。とくにインドの宗教史 のうえでは、グプタ王朝(4〜6世紀頃)の時代に『ヨーガ・スートラ』を根本 聖典とするヨーガ学派が成立し、ごれにもとついてさまざまなヨーガの流派が 出現しました。そのなかでも、12〜13世紀以後に発達した「ハタ・ヨーガ」 と呼ばれるものがもっとも重要で、現在行われているヨーガに直接的に影響を 与えています。「ハタ・ヨーガ」とは、肉体的な修練や呼吸の制御などによって、 心の集中、統一に適する身体と精神力を築き上げる方法です。ヨーガは主と して健康法として人々に受け入れられていますが、本来は真の意味での 心の安泰、あるいは真実の自分の発見という宗教的な目的をもった 行法であり、瞑想と深いつながりがある。≫ ▼「心を集中し統一するための実践法」で、心の安泰と、真実の自己発見が ヨガの目指すところ。ヨガの先生が言うには、「私の日常の行為の殆どが ヨガに繋がっている。歩いても座っても寝ても、靴を履く行為さえも」。 ・・・・・・ 4079, 老いの見本帳ーダークサイト −3 2012年05月26日(土) 「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日武彦(著) * 第一章 孤独な人 孤独は、老人に一番、似合っている。老いれば老いるほど、人間は頑固に なると同時に、愛想がなくなり殻に篭るようになりがちになる。この章で紹介 している老人は、比較的強い人たちで孤独の世界にドップリとつかっている。 私も長く生きるほどに、この中の誰かに似た人になっていくのだろう。 いや、既にそうか?「長生きはしたいが、歳はとりたくない」という絶対矛盾 が誰の心にもあるのだろう。理想的老人は、孤独でなくてはならないようだ。 社会的にも、経済的にも弱者に追いやられ、孤立せざるをえないのが老人。 ≪ 菊蔵は、他人の不幸が嬉しいのではない。まだ自分と無関係にはなり きっていないがどんどん遠ざかりつつある「世間」で生じた惨たらしい 出来事が、孤身の自分の気楽さと寄る辺なさとをマゾヒスティックに際立たせて くれるから、「また、子供が落ちて死んでいないかな」などと思わずには いられないのである。 そこに孤独な晩年の鬱屈と醍醐味とがある。・・ わたしとしては心の深いところで共感したくなってしまう。わたしはこの章で、 自分の憧れる、あるいは好ましく思う老人たちを紹介してみようとした。 すると、どの老人も孤独な影を携えた人ばかりではないか。 老いに伴って、 心身の能力は衰えていく。もちろん人生経験を踏まえて円熟したり豊かになって いく要素もある。 が、おしなべて衰えは我々に違和感や困惑を与えてくる。 自分自身がマイナス方向へ変貌していくという実感は、孤独感に通じるだろう。 家族や友人に囲まれていてもなお、ある種の頼りなさや不安、無力感や孤独感 が、多かれ少なかれ付いて回るのではないか。 老人となることは、死に 近づくことでもある。また、馴染み深い人や大切な人がいち早く彼岸へ 旅立ってしまう機会も増えてくるだろう。死とは、おそらく究極の孤独である。 だからこそ恐ろしい。だからこそ祈りが求められる。孤独であっても、淡々と、 あるいは瓢々と、あるいはふてぶてしく生きていく老人たちに興味が向いて しまう理由には、そのように死への不安が伏在しているからなのかもしれない。 もちろん自身の孤独癖が大きく関与しているからでもあるのだが。≫ ▼ 友人や、連れ合いにも先立たれ、誰も見向きもしなくなった頑固一徹の 老人が長生きの果てに待っている結末か。逆に90歳半ばを超えて元気で、 あと10年は生きると仲間たちと運動している老人も、何か変である。年寄の 愚痴と、悪口、噂話ほど醜いものはないが、それは、孤独を更に際立てる。 とぼしい行蔵の棚卸も孤独を増すだけ。 人生の終え方は難しい。 ・・・・・・ 3713, ジャズについて −8 2011年05月26日(木) モダン・ジャズの誕生 ー� ー 「音楽の本」三枝成彰著 より * ビバップのキーマン、 チャーリー・パーカー 【 四〇年代に出現した、ビバップ・スタイル以後に続く流れを総称して、 モダン・ジャズという言い方もする。それほど、ビバップ・スタイルの出現 は革命的だったのだ。そのビパップの"スポーグスマン"的役割を担ったのが、 トランペット奏者デイジー・ガレスピー(一九一七〜一九九三年)。 「クレオパトラの夢」で有名なピアニスト、バド・パウエル(一九二四〜 一九六六年)も、のちのジャズメンに多大な影響を与えた (アルバム『バド・パウエルの芸術』『アメイジング・バド・パウエル』など)。 だが、最大のキーマンといえば、その飛び抜けた才能を死後になってようやく 正当に評価されたサックス奏者チャーリー・パーカー(一九二〇〜一九五五) があげられる。 ジャズという音楽において、ペルギー人が発明したとされる 管楽器サックス(サキソフォン)が果たす役割は、他の音楽に対して比較に ならないほど大きい。バリトン、テナー、アルト、ソプラノと四種類があるが、 いずれもジャズと切り離すことができない大切な楽器である。 このように ジャズにとって命ともいうべきサックスの演奏家として、あえて代表をあげる なら、のちに触れるジョン・コルトレーンとカンザス・シティ出身のこの チャーリー・パーカーをおいてほかはない。サックスを、それこそ自在にはね 回る鳥のごとく縦横無尽に操る早業から、‘バード’名称をミュージシャン仲間 につけられたパーカー。芸術肌のミュージシャンのご多分にもれず、彼は酒と 麻薬に溺れ、34歳の非業の死を遂げるが、ジャズに新し息吹を吹き込んだ 天災であったことは間違いない。 】 ▼ それぞれの楽器で、その時代のジャズを特徴づける奏者が出てきてきて いた。パーカーはサックスである。モダン・ジャズでのサックスの役割は 大きい。モダン・ジャズは、更にクールジャズへと変っていく。 ・・・・・・・ 3348, 閑話小題 2010年05月26日(水) * 何か凄い夢をみた! 一昨日の夜半に、変わった夢を二つ立てつづけにみた。これ以上の不愉快が ない夢をみた。これは不徳のなせること?もう一つが夜空の星雲をみている夢。 それが壮大なスケールで美しく今だかって見たことのないイメージ。 何かの宇宙映画の映像が頭の隅にあったのだろう。 神の目線のような、 夢でしか経験できない内的な経験である。もっと近づいて見ようとするうちに 夢が終わってしまった。 宇宙に浮いて立体的に星座の星をみている夢は初めて だが、こんなリアルで壮大な夢をみたのに驚いている。「アバター」や 「2012年」をシアターでみたのもあるか。3Dの映画やTVで、これに近いか、 それ以上の経験もできるのだろうが。脳の奥行きの深さを夢で知らされた 思いである。こんな夢をみるとは、お迎えが近いのかもしれないゾッとする 内的経験であった。内面は宇宙ということ? (字数の関係でカット2011年5月26日) ・・・・・・・・ 2973,超円高社会 2009年05月26日(火) 「超円高社会」 水澤潤著 ー読書日記 この本は初めから終わりまで、たとえ話のオンパレードである。 下手な分析より、たとえ話の方が解りやすいことが多い。 「まえがき」の一行目の冒頭から、 《 日本は世界のATMだと言われてきた。お金が必要だと思ったら、 欲しいだけ、いくらでもニッポンATMからゼロコストで引き出しできる というのだから。そこで引き出された金は、みんな日本以外のところに 流れていき、世界中を潤してきた。21C初頭の世界的な好景気の原動力と なったものこそ、実はニッポンATMがしゃぶしゃぶに供給してきた キャッシュだったのである。アメリカ、中国、欧州、ロシア、インドが、 産油国が好景気を堪能した。 (字数の関係でカット2008年5月26日) ・・・・・・・・ 2609, サルトルについて、考えてみる ー1 2008年05月26日(月) ..φ(ー ̄*)カキカキ_φ(* ̄0 ̄)ノオハ 最近は、サルトルは人気がないが、私が学生時代は最も人気のある思想 ・哲学者であった。サルトルといえば「存在と無」である。その中で説かれて いる「対自」と「即自」と「対他」というキーワードがある。これらの言葉に 出あった時の驚きを今だに忘れることが出来ない。 この言葉から「自分の裂け目」を言葉で初めて知った。 ・そのままの存在が「即自」。犬は己を犬と思わない。 自分が何者かを問わない存在。 ・その己に語りかけるのが「対自」になる。自分が「?である」ことを 意識して生きている存在。 ・そして、他人から「もの」として見られる存在という意識が「対他」。 「実存が本質より先立つ」人間はまずは生まれて「存在」となる。その後に、 それぞれの本質が作られる。実存主義だが、サルトルは、それで、「私」 という殻から抜け出て「外に出よう」と....。 この辺が学生時代の「私」の 理解である。当時、これを読んでいるうちに少しオカシクなりかけた記憶がある。 先週は、面白いので手持ちの哲学書入門書の何冊かを引っ張り出して、サルトル に集中してみた。なるほど大戦後に一世を風靡するだけのことがある。 共産主義の理解者として、左派のイメージが当時あったが、現在振り返ると、 それほどでもない。 さて、この一週間で サルトルで思い出した知識といえば、 ・「主体性」の哲学であること。 ・デカルトは「あらゆるもの疑ってみた結果、疑っている自分、そのように 考えている自分がいる、ということだけは疑うことが出来ないのではないか」 と考え、「私は考える、ゆえに私は存在する」とした。それをサルトルは 批判をした。彼は「私が、何かを見ている」「私が何か考えている。」 の「私」が疑問という。「何か考えている」は確かだが、「私」は振りかって 「反省」をしていた時に生まれる対象。つまり反省している意識とは、 意識自身を対象とする意識なのである。「私とは一人の他人」なのである ・人間は自由の刑に処されている。「人は何も決められてない投げ出されて、 一から自分をつくりあげていくしかない。それが人間の「自由」である。 投企とは、現在の自分を乗り越えるため未来へ 自分を投げ出していくこと。 人生を前向きに生きていくことということである。 ・アンカジュマン=自分の選択をする以上、自分の行動には責任を負わなければ ならない。と同時に社会の未来に対して責任を負うべきである。ー 等々である。 次回は、新たに知ったことを要約してみる。 ヾ(^ω^*)
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2015年05月25日(月)
『世間の捨て方』ひろさちや著 常日頃から、ここで〈『世間』という妄想と、その害毒〉について何度も 述べてきた。それを、この前書きで、そのまま、理路整然と書いてあった。 20歳で、創業的人生を選択した時から、悪くいえば「自己中心」の生き方に 徹してきた。大部分の人が、何か得体の知れない模範的良い人を求め、他人の 視線を気にして日常を過ごしていた。そんなものは、転勤か、転職をすれば、 何とことはなく過ぎ去っていく事象でしかない。そして、人生の最終になり、 その妄想に気づいて慌てふためく。いや、気づきもしない人が大部分だろう。 そして、やらなかった後悔、出来なかった後悔に涙する。 以前、取上げた、 ある担任の先生が私に吐露をした、「自分には人生が無かった!両親とも教員で、 自分も教員を半ば強制的に歩んできた。定年になった現在も、90歳になっても 健在だが、何事も無い人生ほど詰まらないものはない!」と、かなり強い初老性 鬱病の前段階。一番身近な親たる「世間」の犠牲者である。 〜まえがき〜より ≪ 「俺はどんな女も口説き落とせる」と豪語する男がいました。ところが 彼は、ある女性から肘鉄を食らった。「きみも失敗することがあるんだね」 と言う友人に、彼はこう言いました。「なあに、あれは女じゃなかった」 こういう人を世間では「自己中心」と呼ぶようです。 では、「自己中心」の反対は何でしょうか? わたしは、それは「世間中心」 だと思います。普段、わたしたちは「世間中心」で生きています。 無意識のうちに世間を気にしているのです。世間に気兼ねをしています。 子どものころから、わたしたちは、 「そんなことをすると、世間の人から笑われますよ」と・・ 「世間の人から褒められる人間になりなさい」「立派な人になりなさい」と 教えられてきた。つまり、世間の「期待」に応えることが求められていたのです。 しんどい生き方ですね。よく考えてみてください。世間の「期待」に応えると いっても、その「期待」が何なのか、あなたに分かっていますか? 企業が「期待」する模範社員は、おとなしくて、あまり自分の意見を言わず、 仲間と協調する人間でしょうか? それとも、独断専行的ではあるが、行動力 のある人間でしょうか? 場合によって違っています。とすると、あなたが 企業の「期待」に応えるためには、場合に応じて自分を変えねばなりません。 どう変えればよいのかさっぱり分からないままに、ともかく自分を相手に 合わさねばならないのです。 疲れますよ。そんなことをしていると、 人間失格になってしまいます。だから、世間を捨ててしまいましょう。 世間の「期待」なんかに応えなくていいのです。 だいたい優等生というのは、相手の「期待」に応えようとして、うじうじ 悩んでいる人間です。いままでの時代は、そんな人間がある程度幅を利かせて いたかもしれません。でも、これからの時代、世の中がどう変わるか、誰も 予測できません。とすると、優等生的生き方をしていてはだめなんです。 「世間中心」ではなしに、もっと大胆不敵に「自己中心」でいきましょう。 たとえば、学校の試験において、かりにあなたが不合格点をつけられたら、 「あんな問題を出すなんて、教師がまちがっている」と言えるぐらいの人間が いちばんいいのです。あなたが働きやすい場所でなければ、それは会社が悪い のです。会社の管理職は、あなたがもっと働きやすい組織形態に会社を変える 必要があります。そう思えるようになるのが「自己中心」の生き方です。 本当にお先真っ暗な時代です。こんな時代を生きるには、世間に気兼ね していてはだめですよ。だって、世間のほうがどうしてよいか分からず、 われわれに気兼ねしているのです。わたしは、いまの時代をそのように 読んでいます。本書において、わたしは自己流の時代の読み方に従って、 われわれの今後の生き方を考えてみました。これまで誰も言わなかった ことですから、きっとあなたの生き方の指針になると思います。・・ ≫ ▼ 母親が亡くなった財産分与の話合いの時に、姉四人が、私に 『何で特別に、アナタだけが、学生時代から、何ごとも自由に許されて、 したい放題。私たちは両親の監視下で、何にも出来なかった。あまりに 理不尽過ぎる。特に父親は厳しすぎた。しかし、あなたに甘い』と、 あたかも、私が父親であるかのような怒りをぶつけていた。厳しかった 父の姿を見てきたこともあり、両親を含めた「世間様」とは、心の奥で 一線を隔した内省的な性格になっていた。 で、このザマだが、自由に? 生きられた充実感は、何ものにも勝る。 今日は、「ひろさちや」の過去分の 読書日記を、以下にコピーした。 改めて読んでも、納得する内容。 ―― 2007/02/15 2144, 「狂い」のすすめ −1 (~Q~;) おはよう〜〜ファ〜 サム! 閑吟抄の中の、「ちろリ ちろり ちんちろり ・・・一期は夢 ただ狂え」 を切り口に、世間に縛られないで 自由に生きなさい!と論じている。 まさに何時も、ここで書いていることである。 私にとって、今ひとつ物足りないところがあるが、団塊の世代の マニュアル人間が定年を迎えようとしている現在、丁度良い内容である。 人生に意味など無い、生まれ、飯を喰って、くそをして、死ぬだけだ。 あるのは「いま ここ」だけ! ーまずは、その概要からー ー読書日記 著者:ひろさちや :集英社
世間や常識の奴隷になるよりも「ただ狂え」。 狂者の自覚を持つことで見えてくることとは…。 人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、 自分を楽しく生きようと呼びかける。 ー表紙裏の内容紹介ー 今の世の中、狂っていると思うことはありませんか。 世間の常識を信用したばかりに悔しい思いをすることもあるでしょう。 そうです、今は社会のほうがちょっとおかしいのです。 当代きっての仏教思想家である著者は、だからこそ「ただ狂え」、 狂者の自覚をもって生きなさい、と言います。 そうすれば、かえってまともになれるからです。 人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく 生きましょう。「狂い」と「遊び」、今を生きていくうえで必要な術は ここにあるのです。 −面白そうな所を何箇所か抜粋してみた- *『人生に意味なんてありません。「生き甲斐」なんてペテンです。』 *「日本人は人生を知りません。人間らしく生きることができず、 エコノミック・アニマル、すなわち畜生の生き方をしています。 日本人は狂っているのです。」 *「上等の靴を履いてぶくぶく太った日本の子どもと、 裸足でやせたインドの子どもと、どっちがまともなんでしょうか!? そして、どちらが幸せでしょうか!? わたしたちの『常識』『物差し』は狂っていませんか!?」 *「ともあれ、遊牧民族は、敵と味方をはっきり分けて考えることができます。 だから楽なんです。ところがわれわれ農耕民族の末裔である日本人は、敵か 味方かわからない世間を相手にせねばなりません。それがしんどいのです。」 *「浄土経典である『大無量寿経』においては、 《人、世間の愛欲の中に在りて、独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る》 と言われています。この「独生・独死・独去・独来」が人間の本質なんです。」 *『わたしたちは、人間を商品価値、機能価値で測ってはいけません。 機能価値は相対的に変化します。 勤勉な人間の方が怠け者より機能価値が高いようにおもわれますが、 その機能価値は他者との縁によって一時的に付加されているものであって 絶対的なものではありません。 従って、人間の価値は、「存在価値」で論じられるべきであって、 その存在価値を測る物差しは、「仏の物差し」「神の物差し」 でなければなりません。それは目盛のない物差し「測らない物差し」 なのです。』 = 要約をすると= ー大多数である弱者が世間(=強者)の奴隷とならないためには、 世間(強者)が『常識』としている(それはしばしば強者の都合で変わる) ことがらを信用しないことである。 だがまともに闘おうとしても勝てっこないので、むしろ世間(強者)から 『狂っている』とみなされるようにすれば、世間(強者)も遠慮してくれるで あろう(いつ噛み付かれるか恐れるからだ)。 今の世間(強者)の方が狂っているのだから、その常識の中で 『狂っている』ということは逆にまともといえる。ーということだ。 少し強者でなければ実際は難しいがね! −今回はこの本の大筋の面白そうなところを書いたが、 次回は、狂ってみせる対象の世間様からのアップスケールについて、 主観を込めて書いてみる。世間はバカが多いからね! なら、もっとバカになっていればよいだけじゃないかい? そのままがバカだから、バカになることもないか! つづく ¥(*^_^*)\ バイバイ ――― 2006/02/02 1766, こころの羅針盤(コンパス) −1 −読書日記 三十篇の文章を、どれを読んでも深い心の世界に引き込まれる。 「私たちは羅針盤の針にしたがって航海しているわけではない。 行くべき場所へむかうために羅針盤を用いるだけだ。」 という言葉一つ捉えても、ハッとする内容が次から次へと出てくる。 その幾つかを抜粋してみる。 (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが? まずは、 「こころの震えを感じるとき」 ─まえがきに代えて─ 五木寛之 「人生いろいろ」という歌があったが、こころ模様もいろいろである。 「こころの羅針盤」というタイトルヘの感想もまた、各人各様だろう。 「こころ」という言い方がなあ、と苦笑する人もいるだろうし、 「こころ」に羅針盤なんていらねえよ、と、そっぽを向く人もいるにちがいない。 しかし、本のタイトルなど、本当はどうでもいい事なのだ。 「題名いろいろ」と、歌いとばしてもらっても一向にかまわない。 とりあえずここにギュウギュウづめになっている三十篇の文章を、 どこからでもいい、パッとぺージを開いたところから読みはじめてごらんなさい。
「人間いろいろ」「文章もいろいろ」、こんなに各人各様でいいのかしら、と、 あっけにとられる位に個性的な書き手のオンパレードである。 声に出して笑ったり、ため息をついたり、なるほどなあとうなづいたりと、 私自身、人生を三十回生きたような感じがした。 才気あり、含蓄あり、厭味あり、教養あり、風格ありと、 活字を読む楽しみこの一冊につきると言えば、 いささか香具師の口上めいてくる。 羅針盤の針は必ずしも一点を指すわけではない。 実際に磁石を使ってトレッキングしたかたなら経験がおありだろう。 震える針は揺れ動きながらも、最後は落ち着くところに収まる。 この三十篇の文章は、右へ左へと跳びはねながら、 最後は或る一点に読む人を導く。 それは「こころ」という実体など、じつはどこにもない、 という乾いた真実である。 私たちが「こころ」と信じているものは、存在する人間の影にすぎない。 ひとりひとりの性格や体型が異なるように、 その影も異なったかたちをしている。 私たちは羅針盤の針にしたがって航海しているわけではない。 行くべき場所へむかうために羅針盤を用いるだけだ。 ここに集められた文章のすべてに、その確かな意志がひそんでいる。
そのことが感じられたとき、震える私たちの「こころ」は、 それぞれの一点にむけて収斂するにちがいない。 ここにあるのは、そのような力を秘めた見事な文章ばかりなのである。 ー評ー 作家は、どうしてこのような上手い文章を書けるのか、 その博識に驚かされ、ただ感じ入るだけだ! つづく ―――― 2015/02/15 真の友人 ー楽しく生きる一日一話 〜③ * 真の友人 【本日「いいかげん」日和 】ひろさちや (著) 私に真の友人がいただろうか? 学生時代からの友人が存在するし、 仕事での付合いから、気心が知れた人が何人かいる。そういう人は、年に 一度か、数年に一度しか会わないが、それで十分。この随想日記は、一方的 に、友人にトッテオキの情報を知らせる感覚で書いている。 その意味で、 ビュアーは私と会っていると同じ? しかし残念ながら、知人で同じ感覚で ブログを書いている人はいない。今ではソーシャル・ネットワークもあるが、 何か参加する気になれない。 ー以下のドイツ人の友人観に同感するー ≪ ある日本人がドイツ人に尋ねられた。 「あなたに友人はどれくらいいますか」 日本人は、『さあ、百人か二百人くらい……」と答えたが、 それを聞いてドイツ人は驚いたという。 ドイツでは、その人のために自分を犠牲にできる人 ――自分が何も言わなくても、自分をわかってくれる人―― この二つの条件が満たされて、はじめて「友人」と言えるそうだ。 だとすれば、百人も二百人も友人がいるわけがない。 ドイツ人が驚くのも無理はない。 わたしたち日本人は、いささか「友人」を安売りしているのではないか…。 簡単に友人ができる、友人をつくれる、と思い込んでいる。 だから、自分に友人がいないとさびしくなる。 しかし、真の「友人」というものは、一生に一人得られるか否か、 といった存在なのだ。そう考えると、いま自分に「友人」がいなくても 悲しむ必要はない。これから死ぬまでのあいだに、真の「友人」に めぐりあえぱいいからである。きっとチャンスはあるであろう。 ≫ ▼ 以前、トーク番組で、『私には友人がいません!』といってのけ、 周囲が一瞬、静寂になった、のが印象的だった。これを公然と言放つには 強さが必要である。20歳時に、両親の後姿から、創業を決意した時から、 自ら友情を求めない孤独業、一種の自閉症になっていた。といえ、友人は 存在していたが。 創業を決意して見えるのは、自分の卑小、無能だけ。 しかし、今さら後には退けない袋小路で、その都度、友人ができていった。 ――― 2015/01/23 貧・病・争と宗教 ー楽しく生きる一日一話 〜② < 本日「いいかげん」日和 一日一話 >ひろさちや(著) * 貧・病・争と宗教 優しい言葉で、仏教の本質をズバリついた道理。 解決するのではなく、そのままで幸せに生きることが宗教の功徳と。 それに気づくの老年というのが、私も含めて大方?。まず幸せであること。 そのまま自然であれば、何ごとも良い方向に運ぶということ。 ≪一昔前まで、新興宗教への入信の動機は、― 貧、病・争の三本柱 ― と言われていた。貧しい人が金儲けのために、病気の人は病気治しを求めて、 そして人間関係トラブルの解決を期待して、多くの信者が新興宗教の門をたたく のだそうだ。しかし、信者になったら金儲けができるとか、入信すれば病気が 治るというのは、どうもインチキくさい。本物の宗教は、貧しい人は貧しいまま、 病人は病気のまま、幸福に生きる道を教えてくれるものであろう。 わたしは、宗教とはそういうものだと思っている。 ところで、貧と病につづく第三の争であるが、仏教やキリスト教といった 本物の宗教は、この人間関係のトラブルを解決してくれるのではないか…と いった期待が大きい。つまり、簡単に言えば、仏教のまじめな信者であれば、 嫁と姑のあいだがうまくいくと思っている人が多いが、これは誤解である。 宗教は、人間関係のトラブルを解決するためにあるのではない。 嫁と姑が対立していても、対立したままの二人が幸せに生きることが できれば、それでいい。宗教はそのような幸せを教えてくれるものだ。≫ ▼ 「貧・病・争、そのまま結構!」が、宗教の本質? どの道、これらを 避けて通ることが出来ないのだから。逆の「富・健・和」も、現象の捉え方 でしかない。やはり宗教心は当然だが必要条件である。南無ぅ( ̄人 ̄)ちーん 即説咒曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 ーノー)o/"Ω ・・・・・・ 4697,末期がん、その日のための予習を ー1 2014年01月23日(木) ー「末期がん、その不安と怖れがなくなる日」樋野 興夫 (著) 怖しい本だが、いつ何時、「余命?ヶ月」を宣言される可能性のある年齢。 父の余命一年間の精神的、肉体的苦痛を目の当たりにしたが、この世から消え去る 恐怖と、生への渇望は、砂漠の中の彷徨い人のよう。 いずれは通る道。 その時、父に聞きかじりの哲学の『死についての一考察』を話したことは、 何度か、ここで書いてきた。 【 本人にとって死は存在しない、あるのは自分以外の死だけ。何故なら、 死んだ瞬間、自分は無くなる。その当人が考えている死は、他人の死の イメージで、亡くなった人にとって、死んだ瞬間、その自分は、消滅している。 だから、全て死は、それぞれの当人に存在をしていない云々』と話したところ、 ハッとして急に顔が輝いたことがあった。 死は何か? 死の恐怖の克服を如何に すべきか?何故、自分が死ななくてはならないか?等の問いは、哲学の究極的問い。 いざ余命を告げられ、絶望に陥ってから、この類の本を探し当てるのは至難のこと。 哲学として死について考えること、身近な人を見送った手記や、医師と末期患者 との哲学問答などの本を読むことが出来るのは、今のうち。 『死ぬための生きかた』と『生きるための死にかた』という具体例に 取上げた本を読んだことがあるが・・それは生々しい! まずは ーアマゾン〜内容紹介ー 《 一人の病理医師が‘期間限定’で開いた「がん哲学外来」。 評判が評判を呼び、全国に広がった。人は「死」を前にしたとき、「生」 の意味を考え始める。ここに生きるヒントがある。日本人の2人に1人はがんで 死ぬ時代、一人の病理医師が開設した「がん哲学外来」。医療が手放した末期の 患者に対し、生きる意味、死ぬ意味などを問うこの外来が大きな評判を呼んだ。 余命を宣言されたとき、あなたは何を思うだろうか、何をしたいのだろうか… 多くの患者が抱える悩みは、人間関係にあるという。それらを克服し、どう死ぬか に至るための道筋がこの本にある。いま、がんで苦しむ本人はもとより、その家族 ばかりではなく、現在、健康な人へも「なぜ生きる」「死をどう迎える」という 命題をつきつける。 ●人生いばらの道、にもかかわらず宴会●八方ふさがりでも天は開いている ●命より大切なものはないと思っている人ほど、悩みは深い ●死ぬという大事な仕事が残っている ●がん細胞は人間社会と同じ ●勇ましく高尚なる生涯〜死んだあとに何を残すか ●がんになっても天寿は全うできる●愛しているなら、心配するな ●「する」ことより「いる」ことがやさしさ●暇げな風貌と偉大なるお節介・・》 (字数制限のためカット 2015年5月25日)
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2015年05月24日(日)
『読書脳』立花隆著 * TPPは、アメリカが世界の富を吸い上げる戦略の要! ここで、反対の立場からのTPP入門書を紹介している。 「TPPこそ、アメリカ主導の、アメリカンルールで囲いこんだ地域経済を 太平洋周辺に作らんとする、ブロック経済そのものの発想。」と談じている。 日本国家として、それを分かっていても、中国との地政学上、その枠外に 出ることは不可能。その上に、現政権は、保守本流で、アメリカのポチなら・・ 日本は70年前にアメリカに敗戦、現在に至るまで、軍事、経済と間接支配を されており、そのブロックからの脱出は不可能! =アマゾンの紹介より ≪ 世の中、TPPへの参加をめぐって賛否両論がわきたっているが、もうひとつ 議論の焦点がよくわからんと思っている人への、最良の入門書が、E・トッド 他十一人の著者による論集『自由貿易という幻想』。 これは賛否両論を要領 よくまとめたどっちつかずの入門書ではなく、「反対」の立場から、なぜ反対 すべきかを、多くの論者がさまざまの論拠から明らかにした党派性ある入門書。 非常に説得力がある。TPP参加を「第三の開国」と唱える人々は、自由貿易を アプリオリに善とし、保護貿易をアプリオリに悪とする考えにとらわれ、 保護貿易は世界経済をブロック経済化し、世界恐慌に通じる道だとするようだが それは正しくない。TPPこそ、アメリカ主導の、アメリカンルールで囲いこんだ 地域経済を太平洋周辺に作らんとする、ブロック経済そのものの発想。 その目的は、双児の赤字に悩みつづけ、ドル価値を落してきたアメリカが、 その囲い込みをテコに再浮上をはかろうとすることにある。 年の大統領一般教書演説で明らかにされたように、「アメリカは、2014年 までに輸出を二倍にし、もって自国の雇用を増やすという戦略」を持つ。 「そのための戦術は、第1に為替の誘導であり、第二に非関税障壁の破壊である。 いずれも、八○年代のプラザ合意や日米構造協議以来、アメリカの伝統的な 経済戦術」。考えてみれば、ドルと金の交換停止(ニクソン・ショック)は、 「史上最大のアメリカによる債務不履行宣言」といってよい。 その後、世界の通貨制度は、「ドル"準金本位制からドル基軸.変動相場制 に移行した」が、それは、金の裏付けを失ったドルを、「超大国アメリカの 軍事力と消費市場の巨大さを背景に流通させる」というシステム。それに よって「アメリカは一種の中央銀行としてドルの発行で特権的な利益を享受し、 貿易赤字を気にする必要がなくなったばかりか世界経済を通貨と金融の面で 自由に操作」できるようになった。その後のアメリカは、実体経済の弱さを 「自国に残された唯一最強の商品であるドルを駆使して打開しようとする国」 になってしまった。その結果招かれたものは、「世界経済の金融化」と、金融 資本を国家の壁を越えてスムースに動かすことを可能にする「グローバリ ゼーション」。その果てに出てきたTPPの推進は、「吸血鬼よろしく、アメリカ ができる限り世界の富を吸上げて瀕死のドルに輸血するための策」と見てよい≫ ▼ 欧州経済共同体(EEC)をなぞった「太平洋経済共同構想」の通貨統一を 除いた経済圏なら、日本の農林業や、金融業は、更にアメリカ支配が強まる。 特に、日本の金融資産は骨の髄まで毟り取られることになる。 韓国の現状が近未来の日本である。国民の7割が国外移住希望という国に! ・・・・・・ 4818,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー1 2014年05月24日(土) 自分史的物語など、都合の要素だけを切り取り、繋げあわせた絵柄。 私の場合、こういう結果だからこそ、歩んできた道筋の要所要所の現象、決断 などの語り直しの絵柄も面白くなる? 実感としては、「この結果こそベスト?」 と、「そう都合良く思うしかない詭弁?」という気持ちを含め、断片的に語って きた物語の「語り直し」になる。 傍から見れば珍妙な己の姿を、この結果 なればこそ、自覚できる。隠れテーマは「この喜劇の創りかた」あたり。 ここで書く内容は、今まで書いてきた断片的な事象、内的体験の再編になるが、 視点が変わると新たな記憶が蘇ってくる。そのため殆ど書いてないことに 気づいてきた。語り直しは、あまり気持ちの良くないが、書き続けるうちに、 新しい視点が多く出てきている。自分とは、それぞれの記憶の総合体だが、 その記憶そのものを変える作業は、極度の神経の集中が必要になる。 < 「事業人生を決心して45年」の語り直し > * 学生時代編 ー前編 ① 事業創業の人生を目指そうと決心し、準備15年、創業から30年の独り 語りを始める。漠然と自分の将来は、流通業と漠然と考えていた20歳の時、 「キリスト教倫理」の夏休みに、『これからの人生設計』のテーマのレポートが 宿題に出された。そこで、それまで真剣に考えたことがなかった自分の将来に ついて考えてみた。 その内容といえば、『 父親のような創業を幾つか挑戦 してみたい、過酷としても、事業創業の人生を生きたい! 』と。 その時から、人生が変わっていった。そこで当時の授業カリキュラムの内容を 改めて見直すと、前半二年の教養課程が、人生の土台になる学問。後半二年が、 そこから選択できる専門課程が整然と組込まれており、これから生きていくため のカリキュラムが合理的に組まれていたことを知る。 哲学者エリクソンは、 学生時代や、病気療養の期間を、「心理・社会的な猶予期間」とし、より自分 らしい人生を選ぶために必要な時間として前向きにとらえている。 人生を振り返ってみて、大学の4年間や、その後の放浪が、自分の生きる 目標を明確にするため必要であったことは、体験上、充分に理解出来る。 そのレポート作成で、漫然と生きてきた自分に気づくことになる。 その時、真剣の考えた分、ノンビリしている同期生より、二年早く将来設計 に気づいたことになる。卒業半年前になって、慌てている人が過半数?はいた。 それから読書も、友達付き合いも全く変わっていった。 自然と、クラブの合気道と、寮生との距離が離れていった。 ② その頃から、遊び半分、アルバイト半分で、学生寮の先輩が鳩山一族 の政治団体「友愛」が経営する『友愛山荘』を任されていた軽井沢の山荘に 手伝いに行くようになっていた。先輩の寮生と二人、そこの手伝いに誘われて 掃除とか、料理をしながら連休とか夏休みなどに、山荘生活と、軽井沢の世界 を楽しむようになった。そこは、鬱蒼とした森林の中の別荘地。その世界を 憧れる若い女性と、金持ちが集まる別天地である。こういう世界の住人になる には、それなりの力を持たなければと実感することになる。それにしても、 早朝の朝靄の小道の散歩は格別! 世界には一部の裕福層と、その他が存在 することを肌身で知ることになる。それより何が楽しいかといえば、夕食後の ミニ・パーティ。紅茶と御菓子で、フォークソングを歌い、踊る。 それも御客は若い女性ばかり・・ ・・・・・・ 4451, しまった! ー1 2013年05月24日(金) ーしまった! 「失敗の心理」を科学するージョゼフ・T・ハリナン(著) 人間の認識の甘さは今さらいうまでもない。カントのコペルニクス的転換、 「人の認識は対象に従うのではなく、認識が対象を決める」。それを知識として 知らないため、思い込みに縛られ、人は多くの失敗を重ねてきた。 更に失敗から学ぼうとしないから始末が悪い。その上、失敗に対して 意識的にも無意識的にも話を作りかえる。 まずはー内容紹介ーより人間はなぜ、まちがうのか」というテーマについて、 面白くてネタになるトピックを「これでもか」というぐらい集めて分析した本。 たとえば・・・・・・ ★ レントゲン技師は、画像に写っていた悪性腫瘍の9割を見落とす? ★ トップレスダンサーの収入は、彼女の月経サイクルに左右されている? ★ 黒いユニフォームのチームは、ペナルティーをとられる可能性が高くなる? ★ 人間は、誤りを犯しそうなときは、むしろ「行動を起こさない」 という誤りを犯すほうを選ぶ? ★「セックスした相手の数」を、男は女の四倍も多めに答えたがる? ★ 医師の八四%は、同業者がメーカーからの贈与に影響されていると考える。 だが、自分が影響されていると考える医師はわずか一六%しかいない。 ★ 人はなんらかの形で自分が不正をしていないことを証明すると、 その後の作業でもっと不正をしやすくなる。 ★ 映画を「あとで見る」人は高尚な作品を、「いま見たい」人は 大衆的な作品を選ぶ。 ★ キャッシュローンを勧める通知書に女性の写真を載せるだけで、 利率を五ポイント下げたのと同じ効果が期待できる。 ★ 予備選名簿の一番目に載った候補者は、得票に三ポイント上乗せできる。 ★ 投資家は、金曜日の経済記事には月曜日の記事ほど注意を向けない。 ★ 人間は、印象の操作など特定の目的のためには平気で話をつくり変える。 ★ 無意識につくり変えた話でも、二度三度と繰り返すうちに、 いつしか「記憶」そのものになってしまうことがある。 ★ 一般的に、男は自分を持ち上げるために、女は他人を持ち上げるために 嘘をつくことが多い。 ★ 社会的地位や学歴、収入は、全体の幸福度にわずか三%しか占めていない。 ★ 人を単純作業に従事させるためには、お金の力がものを言う。 だが、たいていの行動では、人間は総じて金銭的動機には左右されない。 (ゆえに、行動経済学はあまり役に立たない?)など、興味深い話がてんこ盛り。 ▼ 人は思うほど完全な存在でないが、しかし周囲は人が完全であるかのような 前提で動いている。私が学生時代のゼミで多くのことを学んだ中の一つに 「会社組織は完全な存在でなく、個人の将来まで考えてくれない。 独自で学び続けなければ知識や能力は得ることが出来ない」ということ。 キャリアは自身でつくり上げるもので、与えられるものでない。実際のところ、 成功の背後には失敗の累積がある。問題は致命的な失敗をしないこと。 そして、失敗から学び取ること。人生を振り返って、今になって真の失敗は 何だったか気づくことが、あまりに多い。 ・・・・・・ 4077, 哲学で自分をつくる ー4 (ソクラテス) 2012年05月24日(木) 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」瀧本 往人(著) * 魂に磨きをかける 第一章 しったかぶりはもうたくさん 〜ソクラテス ー� ≪ 死刑を宣言された際、つまり自分の死に対し、「死を恐れることは、 死のことがよく分かってないのに分かった気になる」に等しいと、ソクラテス は考えた。死について何も分かってないのに「死を恐れる」などということは 愚かしい、誰も死を知っている者はいないのに、なぜ恐れるのかと問いを発する。 命がけで期待された弁明の機会もアテネ市民の将来を憂いる。そして死刑判決を 受ける。 ・・無知をハッキリさせることは「汝自身を知れ」に通じる。 自分が何も知らないことを自覚し、より一層真理を追究する態度は、単に、 汝自身を「知る」ことでなく、魂の鍛錬という「実践」であり、自分がよく 生きるための問いである。魂を磨くことは、ただ漠然と、自問自答するので はなく、他者にかかわる中で、他者に問いかける中で磨かれるものである。 ソクラテスが探そうとしたのは「真理」であって、ソクラテスらしさでない。 探し出すには、相当の鍛錬、実践が必要とされた。自分の魂を磨くには、 命をかけて真理を追究しなくてはならない。他者が嫌がることでも、問いかけ を行わなければならない。この対話、営みは「パレーシア」(真実を語ること) と呼ばれている。彼の対話術は、自らの主張を他者に受け入れてもらうための 技術ではなく、「相手に問いかけること」そして相手の主張を「聞くこと」 に主眼があった。そもそもこの「無知の知」の重要性は、この「聞くこと」 のための手法にあった。何かを知っているから語るのではなく、何も知らない から、分かってないからこそ、相手から引き出そうとする。 パレーシアの原点は、そこにある。それゆえ、その原点は、密接な一対一の 関係が必要である。この対話は、自分が主役として振舞うのでなく、相手の話を 引き出すように行われる。それゆえ相手はソクラテスに導かれながら自分に ついて語ることになる。重要なのは、自分が語ることができる「ロゴス」(論法 と言葉)が、自分の生き方と確固たるつながりがあることなのである・・ ≫ ▼「吟味されることのない人生など生きるに値しない」というソクラテスの 言葉が好きである。要は、味わい尽くしてこそ人生である。対話は他者だけ でない、自分の経験に対してもおこなうべきである。そのため老後という期間が 人生に与えられている。老後を如何に過ごすか?と問われれば、「それまでの 人生に対しての自己問答を通して、魂に磨きをかけること」が答えになる。 それは死を間近にした真剣勝負である。だから面白いのである。 魂に磨きをかけるとは、そう甘いものではない。 ・・・・・・・ 3711, ジャズについて −6 2011年05月24日(火) ー「音楽の本」三枝成彰著より ー1935年、2ビートから 4ビートへー「スウィング」の時代ーP192 * 「スウィング・スタイル」の立役者ぺニー・グッドマン 【 デューク・エリントンに、「スウィングしなけりゃ意味がない」という、 よく知られたタイトルの曲がある。 一九二九年の金融恐慌に始まった大不況 がようやく回復の兆しを見せてきた三五年頃、ジャズの中心地となっていた ニューヨークで、スウィング・スタイルのジャズの時代を迎える。スウイング・ スタイルのジャズとは、ビッグ・バンドによる躍動感あふれるダンスのための ジャズといってもいいだろう。ジャズのリズム的特徴の4ビートにある。従来の 2ビートから4ビートに移行したのも、このスウィング・スタイルの特徴であり、 心地よい揺れるような感じ(スイング感)がこれによって生まれた。 立役者は白人のペニー・グッドマン(一九〇九〜一九八六)。彼は、一九三四年 に不況のあおりで自分のバンドを解散せざるをえなかったフレッチャー・ ヘンダーソンから、そのビッグ・バンド・スタイルの編曲を丸ごと"買い受け" たのである。そしてそれに洗練を加えることによってダンス音楽としてのジャズ に新たな味わいをもたらした。そもそもジャズは、誕生当時からダンスホールや クラブで演奏されることが多かったように、ダンス音楽の側面を持っていた。 ジャズが鑑賞のための音楽になるのは、その後のことである。 グッドマンは、より速いテンポ、短いフレーズの繰り返し、軽快で歯切れの よいタッチの演奏で、それをスウィツグ・ジャズ・スタイルとして確立させた。 グッドマンのあとには、トミー・ドーシー楽団やグレン・ミラー楽団といった 白人ビッグ・バンドが続いた。 やがてこのスウィング・スタイルでのコンポ (八人くらいまでの小編成楽団)も人気を集めた。彼らはニューヨークの五二番街 に集中していた小ぶりなクラブでもっぱら演奏したので、五二番街は 「スウィング・ストリート」と呼ばれた。スウィングを担ったジャズメンは 白人が多かったものの、だからといって、ジャズが「黒人による不良っぽい ワイルドな音楽」から「白人による健全でスイーツ音楽」へと変質したわけ ではない。むしろ、スウィングから次のビバツプの時代を経て、ジャズが黒人 だけの音楽から、白人を含む音楽へと広がりを持ったと認識すべきであろう。】 ▼ ここでジャズは、元もとダンス音楽の側面があり、スウィングの流行後に、 ジャズ音楽鑑賞として進化したとは知らなかった。それも、あのべニー・グッド マンがスウィング・ジャズの立役者とは。 あの恐慌の半ばで・・・ それと、学生時代に持っていた少ないレコードの中にグレン・ミラー楽団と べニー・グッドがあったことを、この書を読んでいて思い出した。 ・・・・・・・ 3346, YouTube の視聴回数 1 日 20 億回! −1 2010年05月24日(月) YouTube の視聴回数が1 日 20 億回!には驚いた。2年前に息子から面白い とサイトを開いてK-1を見て驚いたが、それっきりだった。それがビデオカメラ を買って、撮影し、投稿して初めて面白い投稿が多くあるのに気づいた有様・・。 まずはペットから始まり、アフリカの野生動物、そして花火と、見る度に はまってしまった。 ーこのサイトのHPによるとー ≪ 5年前の5月、YouTube の創業者たちは何カ月も深夜まで及ぶテストと 作業の末、YouTube.com をオープンしました。その使命とは「誰でも簡単に 動画をアップロードし世界中と共有することができる場所を提供すること」。 今日 YouTube は、映画監督でも、政治家でも、自慢の子を持つ両親であっても、 または大きな何かと繋がっていたいという人たちが、自身をブロードキャスト することができる場となりました。YouTube は誰もが想像したよりも遥かに 素晴らしいサイトに変化を遂げ、活気に満ちたユーザーのコミュニティが 創られた。多くの皆さんに使っていただいた結果、今日 YouTube の視聴回数は 1 日あたり20 億回を超えるまでになりました。これはアメリカの主要テレビ局 3 局のゴールデンタイム中の番組視聴回数の合計の 2 倍近い数値。自宅の寝室 で撮影された動画ブログやバイラル動画のサイトとして始まったものが、 HD画質や3D動画に対応し、200 カ国に放映される1シーズン分のスポーツの試合、 より良い社会を目指したドキュメンタリー映像、更にはアメリカ合衆国大統領 へのインタビューまでも配信する世界的なプラットフォームに進化しました。≫ ー以上だが、ツイッターには、すぐ反応したが、これに反応しなかった鈍い 感性に驚いている。 (字数制限のためカット2011年5月24日) ・・・・・・ 2971,住まうこととさまようこと ー3 2009年05月24日(日) * さすらう者たち 「さすらい」という言葉は、深い何かを感じ取ることが出来る。それは、青年期 になると、親から一歩はなれ、自分の世界を探し求める者の姿に二重写しになる。 産まれ、育ち、生きていく人間のありようが、さすらいかもしれない。 その言葉に、「ニヒリズム」の響きを感じるとるのは、人間の存在は死すべき 存在であるかだ。さすらいといえば、船乗りと遊牧民。彼らは、「住まうことと さすらうこと」を同時にしている。彼等の方向性は、目的とする港であり、 商業の街。彼らは、港や商業地で住む人たちとは本質を別とする。 「男はつらいよ」の寅ちゃんではないが、自分の帰属するところがあってこそ、 さすらいが出来る。 古来、未知なるものへの憧れが、人間をさすらいへと 駆り立ててきた。欧州ではユダヤ・キリスト教の影響が顕著になると、さすらい は原罪を背負い呪われた者たちの宿命であり、彼岸という最終目的に至るための 受難の道に過ぎないと、考えられるようになった。今日でも、何らかの最終 目的に到着することが、旅の目的とみなされてきた。 (字数制限のためカット2011年5月24日)
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2015年05月23日(土)
『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 悟りが在りや無しや? 世には、「悟り」を真面目に求める人がいるものだが、私の答えを正直に いえば、「自分が、つくづくバカを悟ること」「体裁を過剰に求めないこと」 と、「自分に対し、あまり誠実でないと自覚すること」である。それは悟り の問題というより、「自覚」の問題だが。 世界の果て(秘境)で、想像を 遥かに超えた絶景に出会った感動の瞬間が、悟りに近い? これは自分が実感するしかないが。 ≪ Q: 「悟り」の世界はただの夢なのでしょうか? 私は五十六歳の主婦です。三十年ほど前、結婚して心のバランスを崩した ことがきっかけで、精神世界に関する本を読み漁り、悟りという煩悩に支配 されない境地に憧れるようになりました。それから、さまざまな講演や参禅会に 参加したりしましたが、今でも悟りなどとはほど遠く、つい感情的になったり、 主人に嫌味を言ってしまいます。以前と何一つ変わらず、同じところを堂々廻り しているような気がします。最近はいっそ、悟りなど無いと言われたほうが 気が楽だとさえ思ったりします。本当に悟りというものはあるのでしょうか。 それとも、元々ない夢を追い求めていたに過ぎないのでしょうか。 何か手がかりをいただけると幸いです。 A: 〜自分で一生かかつて確かめてみるしかないでしょう〜 今回の相談も「いらいらする」ものですね。大体、哲学者ごときに 「悟り」が在るか無いかを聞いても、まともな答えが返ってこないことぐらい わからないのでしょうか? 同じように、神はいるのか、善悪の基準はあるか、 真理はあるのか-…、といった問いに、ハキハキ答えてしまう哲学者は、 正真正銘のニセモノです。では、哲学者はこうした問いに対して何もできない かというと、そうではない。 哲学特有の領域を指し示すことはできます。 あなたはすでにわかっているかのように「在る」とか「無い」という言葉を 使っていますが、じつはその意味は皆目わからないのだ、ということを あなたに気づかせることです。「悟り」が「在る」としても、それはコップの ように、空間のように、数字のように在るわけではない。では、「どのように」 在るのか、もしかしたら「無い」のか、と問えば、まず論理学的法則から決め られるのでないことは確かです。「悟り」は別にそれ自体として矛盾している わけではないのですから。また、物理学などの科学を持ち出して決定できる わけでもない。現代科学のすべての成果をもってしても、意識については わずかにも説明できない。「見える」ということ、私が私の手を「上げられる」 ことさえまったく説明できません。このことを話すと話が長く(千倍くらい) なりますので、いまはやめます。疑いなく、「悟り」とは意識に関すること ですから、科学者をはじめ、その体験をしたことがない人が「外から」アレコレ 詮索しても仕方ないのです。言いかえれば、あなたが本当に確かめたかったら、 実際あなた自身で確認してみるしかないでしょう。あなたがいままでどの ような修行をなさったのか知りませんが、そんなに気になるのでしたら、 自分で一生かかって確かめてみるしかないのです。しかも、最後まで わからなくて、そのまま死んでいくかもしれないのです。本当に心の底から 出た問いなら、それでもかまわないはずですし、そもそも他人から「手掛かり」 を得ることでは満足できないはずです。そうしないで、安直に答えを求めて いるあなたにとっては、悟りなんか「無い」と割り切って「気が楽」になった ほうがいいのではありませんか? ≫ ▼ 悟りとは、現象を、色即是空、空即是色と直感できたような一瞬の感覚? ネット辞書によると、《悟り(さとり)とは知らなかったことを知ること、 気がつくこと、感づくことを言い、覚りとも書く。宗教上の悟りは迷妄を去った 真理やその取得をいう。サンスクリットでは日本語の「理解」「気づき」 「通達」などの意味に相当する単語はある。》とある。悟りで、恐ろしいのが 「死期」だろう。それから死ぬまで、生きてきた分の人生を生きるというが。 ということは、「死期を悟り、それを受け入れる葛藤を通して得られる心境? ・・・・・・ 4817,いま、一人前の条件 2014年05月23日(金) 朝日新聞の(耕論)「いま、一人前の条件」=規範ない、寅さんのつらさ」 ノンフィクション作家・高野秀行が面白い。 私が一人前として自立できたと 感じたのは27歳の時。父が亡くなり、最初の事業を千葉で立上げと同時に結婚。 その時、石油ショックが起きて、ただ無我夢中の日々だった。両足に鉄の下駄 を履き(結婚生活)、背中には創業という重い荷物を担ぎ、よろよろと坂道を 登っているような日々だったが、これが私の独り立ちであった。 以下の内容は、世界における「一人前の条件」だが、やはり結婚が大きな 目安のようだ。 ーその全文をコピーするー 《 早大の探検部以来、外国人が入らないような辺境も含め、世界60カ国 以上を旅してきました。その経験を踏まえて言えば、 ・先進国以外の大部分の地域では、結婚しているかどうかが「一人前」の 一つの大きな基準。20歳過ぎても独身だと、 何か特別な理由、特殊な 事情があると思われます。正確には子供が生まれて完全に一人前という 感じでしょうか。 ・かって半年ほど住み込んでいたミャンマーの少数民族の村では、子供が できて初めてその人の土地がその人の名を冠した「○○の畑」と呼ばれて いました。一人前になることは、財産を含めて地域社会から認知を受ける という意味でもあります。 ・長年、無政府状態が続いたソマリアの取材を続けていますが、ここでは 「大人」という言葉に、成人という意味に加え、「偉い人」「長老」という 意味があります。長老はだいたい50歳以上、10人の集団に2、3人の割。 人望や財力、教養があり、何か問題が起きた時に「あの人に相談しないわけ にはいかない」というような存在です。氏族内のトラブルや他の氏族との 争いでは、交渉の窓口になり、決定権や責任を持ちます。前例をもとに 物事が決まる社会なので、年を重ねることは知識と経験をもつ貴重な データベースということになり、尊敬されます。私はいま47歳ですが、 日本も私が子供の頃はアフリカやアジアの発展途上国のように、結婚して 家庭をもって初めて一人前扱いされるという感覚が一般的だったと思います。 ・最近は日本を含めた先進国で、年寄りの経験値の意味が薄れてきています。 情報技術を駆使できる若い世代が圧倒的に知識量が多い。従って社会的に 年寄りが尊敬されることもなければ、年をとるメリットも感じられなく なります。何歳から何をすべきだ、この世代はこうあるべきだという 決めつけがなくなり、多様なライフスタイルが認められるがゆえに、単純に 一人前とはこういう人といえなくなっています。例えていうなら、今の日本 は山田洋次監督の映画「男はつらいよ」シリーズで、社会規範にとらわれず、 気ままに旅を続ける「フーテンの寅さん」が急増している社会です。 寅さんが増えると少子高齢化がさらに進み、社会が回っていかない。 同時に本人もつらい。規範がない社会では自分でそれを作らなければ ならないからです。特に日本人は自分で自分の価値観を作ることが苦手。 でもいったん自由になると、なかなか過去の価値観には戻れません。 「一人前とはこうだ」というモデルを強要しない社会は、 「自由はつらいよ」ともいえるんじゃないでしょうか。 * 高野秀行 66年生まれ。早大探検部時代にコンゴを探検し 「幻獣ムベンベを追え」 でデビュー。》 ▼ 私の人間としての一人前は、三年前の節目時。「なるほど、自立する とはこういうことか!」という感覚。 家庭持った時点の自立は社会の中の 承認だが、リタイアー後の自立は、社会の束縛?からの、自立になる。(>'A`)> いや、超越の方が正しい。真の孤独を味わうべき時に、自立できないで アタフタしている姿がイジマシイ :((゙゚'ω゚')): ・・・・・・ 4450, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー10 2013年05月23日(木) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 人生の大問題は死期が迫り、もう先はないと悟った時の恐怖である。 脳溢血や事故で即死なら別だが、誰もが最期の最期に行き当たる大問題。 だから著者の言葉は平易だが、どれもこれも深い。死を扱っていると同時に、 如何に生きるかの問題でもある。この年齢になると誰も明日にでも突きつけ られる可能性のある。だから「死を解決する登山道」という。初めは軽い 気持ちで読んでいたが、読むほどに哲学の総論を読んでいるようになる。 ーここまで書ききれなかった印象的部分を抜粋してみるー ・切腹を辞さないほどの死の覚悟を常に持つということは、欲の超越、 自我の超越、生死という二項対立の超越だ。 ・むしろ21世紀は、世界が日本化し、日本も日本思想に戻っていく時代 なのではないかと思う。もちろん、ここでいう日本思想とは、明治に回帰 したいという現代保守主義ではない。もっと前からの日本思想の原点は、 無我・無私の心、静かな達人の心だ。 ・自己保存本能を超越し、何の因果かこの世に生まれてきたことに感謝し、 今この一瞬に集中してこの幻想としての自己の存在という奇跡を心から 祝福する気持ち。悩みや我欲を超越し、世界を愛し、自分が世界と一体で あることを喜び、それ以外に何も要らないし、もちろん手にも入らない ことを理解する境地。身体で、感性として理解する境地。 ・死本来の恐ろしさとは、無で「ある」ことでなく、なぜか いったん存在してしまったものが無に「なる」ところにある。 ・感覚ではなく心の中の何かに向けられるクオリアを、志向的クオリアという。 「死が怖い」という感じもクオリアだ。「怖さ」のぞっとした感じが心の中 からわき上がってくる。 ・人間として生まれ落ちて以来身に付けているこのいきいきとしたクオリア。 これを失いたくないということが、死にたくないということと、根本的な 意味では同義なように思われる。このかけがいのないクオリアは、あろう ことか幻想。本当はないのだ。脳の無意識の計算がやっていることなのだ。 ・知情意のクオリアは結びつけ問題を解くためにあるのか? 僕たちが 生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんてなかった。何もなかった。 無だ。ところが何の因果か、僕たちは、たまたま知情意のクオリアという 幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから、生きている感じがしている。 ・僕は「意識は体験を記憶するために作り出された機能だ」と考える。 僕たちが生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんかなかった。 何もなかった。無だ。ところが、何の因果か、僕たちは知情意のクオリア という幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから生きている感じが している。しかし、ほんとうは人間もロボットと同じ自動機械なのだ。 ・そもそも、自分が、自由意志や自由な知覚を持っていると思うから、 死にたくないと思うのだ。 ▼ 知情意のクオリアも、心の中の何かに向けられる志向的クオリアも、 幻想でしかない。実際にそうなのだから、「死ぬのが怖い」というのは 幻想そのもの。半世紀以上以前の中学校の頃、ひとり死を考えて、底知れぬ 恐怖を覚えていた時を考えれば、その恐怖感は、幻想でしかないことが分かる はず。間近に迫った死を覚悟した時から死ぬまでの間に、それまで生きてきた 全人生を生きる、という。その時に「これは幻想でしかない」と、思えるのか。 ・・・・・・・ 4076, 老いの見本帳ーダークサイド ー1 2012年05月23日(水) 「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著) 面白い本を図書館で見つけた。一日一日、老いていく日々だが、どうも心は歳を 取そこねている。実感がわかないのである。この本は老いの見本帳、それも老醜の 見本帳である。わざわざ自虐的な、マゾ的な、げんなりするような事が書いてある。 <・・人生など呻き声をあげたくなるようなことの連続ではないか。まして 老いたら、それはそれで独自の当惑や「釦の掛け違い」、恥や失望や悔しさが 待ち受けているに決まっている。ならばそのようなものを、まずは他人事として 味わってみるのも一興ではないか。 ・・気負った言い方をすれば、種々様々な 悲しみや煩悶や屈託を見知ってこそ我々は豊かになれる。その上で若づくりする 初老期を笑うのも結構だし、共感するのも結構ということになる。> と。 これまで両親、親戚、近所の老人を見てきた。それが何時の間に、その仲間入り である。しかし歳を取りそこねているようだ。知的好奇心や、やりたいことが あまりに多い。気持ちが枯れてきた実感など、どう考えてもない。しかし鏡を 見ると歳相応で、ますます怒りっぽくなっている! まずは ーアマゾンの内容紹介よりー ≪ 老いることは、むずかしい……「若さという神話」への無自覚で強迫的な 執着は虚しい。 ならば、望ましい「年寄り」の適切なモデルはあるのか? 歳をうまく取れないために生じる恥、勘違い、いかがわしい振る舞い。 老人の不安に向き合ってきた精神科医が、臨床現場での知見と数多くの文学 作品の読解をもとに、老人の心に迫る。 哀しくもおかしな老いの見本帳 = 序章 初老期と不安 = ≪ 人間の心を安定させ安寧を保つ装置のひとつとして、惰性というものが挙げ られる。我々は基本的にマンネリに則って生きている。退屈で変化に乏しく、 うんざりする。だがこの十年一日のトーンこそが我々に安心感を与えてくる。 とりあえずこのマンネリにしがみついている限りは、大きな聞違いや不幸は (たぶん)生じない。 自分の存在意義も生きている意味も現実の確実性も、 みんな惰性の中に埋め込まれている。過去を振り返ってノスタルジックだとか 懐かしいと感じられる事柄の大部分は、リアルタイムにおいて惰性やマンネリに 彩られていた事物なのである。 日々の惰性がストップしたとき、そこに出現 するのは異形の現実である。精神的にショックを受けたとき、生活の根幹を 揺るがせる事態に直面したとき、世界は親しみやすさを失う。当たり前の 世の中が、よそよそしく違和感に満ちたものとして迫ってくる。 我々は孤独感と不安とに襲われる。それこそ実存的な風景とでも称すべきか。 おそらく死とはこのような感覚の究極としてあるのではないかと予感したく なるような風景に向き合うことになるだろう。我々は日々の惰性を憎みつつも、 それによって安心感を得ている。そしてときに訪れるささやかな絶望や悲しみ を介して、惰性が、マンネリが失われる恐ろしさを薄々理解している。≫ ▼ 「初老期の不安は、それまでの人生の惰性を失うのではないか?」という 見方は確かに心当たりがある。老いとは、一日一日、死にむかって歩いて いる時期にある。そして、それまでの人生の返り矢が次々と返ってきて弱者 への道を歩むことになる。老いるのは、まず肉体からだが、それに従って 確実に心も老いていく。それに気づかないのが老醜。如何に包み隠すしかない。 ・・・・・・ 3710, 自己を見つめる ー番外 2011年05月23日(月) * つれづれに、早朝に・・ あの日々から二ヶ月近く過ぎ、少し気持ちが落ち着いてきた。 しかし、いくら平気な顔をしていても、やはり一大事である。数日前に、 自宅に一本の電話がかかってきた。 家内が買い物に行っていたので私が受けた。 「日テレの番キシャの記者ですが、震災の影響で廃業されたホテルの件の取材の 電話です!」で・・・、拒否反応の感情が先に立ち、「そういうことは、一切 お断りをしています!」と、直ぐに切ってしまった。 当然といえば当然。 番組では当方は取り上げてなかったが、「震災倒産」がタイトルで、東北から 離れた地域の北海道とかの遠方でも、倒産が出始めてきたという趣旨の内容。 ところで、東京も含め関東甲信越以北のホテルは壊滅状態。東京の4月の ホテルの平均稼働率が80パー以上だったのが、半分以下まで落下したとの 新聞報道があった。 それを見越して見切ったが、読みどおりホテルは壊滅状態。 実際のところ、前倒しを決断できる状態だったから、見切りが出来た。 が、月末の資金繰りに困るようだったら前倒しは無理。当方は10年前の 9・11ショックで、売り上げが4年かけて3割以上も激減した上、二年半前 のリーマンショックで、更に半減。三分の一まで落ちていた。それでも、借入 返済の減額や、人件費などの政府補助で何とか遣り繰りしていた矢先の、この震災。 シュミレーションをすると、半年後には丸裸。 今なら銀行債権以外は清算が可能。 それならばと見切り廃業を決断した。結果からみて、「少し早めの見極めは 打撃は半減、少し遅めは打撃が倍増?、その差は4倍」と、実感している。 兄と姉の倒産劇を身近で相談に乗っていたから、断末魔の苦しみを肌で感じて はいた。「金がないのは首がないのと同じくらい苦しい」が生前の父の口癖。 それは「日々の資金繰りに追われることだけは避けろ」という教え。それだけは 避けたいと思っていたが、こういう結果で終わっても、資金枯渇の苦しみは殆ど 経験しないで済んだのは救いである。 どっちにしても人生は甘いものではない。 生きてきた、そのままが、返りや矢として自分に戻ってくる。プラスにも マイナスにも。 「これが、生きるということだったのか。ならば、もう一度」 という二ーチェの言葉は、なかなか言えないが、人生全体から搾り出しても 言わなければ・・ 9・11、9・15、3・11と歴史的経済震災と自然震災 に続けて直撃をされると、運、不運とかいう以前の諦念の問題になる。 学生時代に合気道の経験があるが、そこで学んだ一番の教えは危機の際の「引き」。 危機に出会うことを避けるのが真の極意だが。来年に入ったら、謹慎期間が (私にとって)終わるので、倒産劇の悲喜こもごものミニ講演を受け付けます。 ここに書けないことが、けっこうある。 個人的には、何時でも・・臨場感が あって、面白い材料がタップリ・・・ 味付けもして? ・・・・・・・ 3345, 閑話小題 ―つれづれに 2010年05月23日(日) * トヨタのレクサス
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2015年05月22日(金)
『読書脳』立花隆著 * アウシュビッツの奇跡的幸運(地獄に仏) 二ヶ月前のNHK/BSのアーカイブで、ある女性の奇跡的生還を扱っていたが、 これも似たケース。奇跡的幸運が重ならないと、この過酷の状況下で生延びる ことなど出来ようはずがない。 ≪「シモーヌ・ヴェーユは驚くべき女性だ」と書くと、日本では社会思想家の シモーヌ・ヴェーユを思い浮かべる人が多いかもしれないが、私が言及している のは、もう一人のシモーヌ・ヴエーユだ。フランスで最も有名な女性政治家。 一九七四年シラク内閣で保健大臣になったのを皮切りに、歴代の内閣で保健大臣 をつとめ、フランスに人工妊娠中絶法を導入したことで知られる。一九七九年 には、第一回欧州議会で直接選挙による初代議長に選出されてもいる。 だが彼女を何より有名にしているのは、ドイッがフランスを占領している最中、 ユダヤ人身分証偽造)に問われて、ゲシュタポに逮捕され、アゥシュヴィッツに 送られながら、奇跡の生還をとげたこと。彼女の腕には、いまでも囚人番号の 入れ墨がある。シモータ・ヴェーユ『シモーヌ・ヴェーユ回想録』は自ら筆を とってその数奇な人生をふり返ったもので、フランスでは〇七年に発売されるや たちまちベストセラーになった。政治家になってからの話も面白いが、圧巻は 第二章「罠」と第三章「地獄」。逮捕劇とアウシュビッツ時代を語ったくだり。 【アウシュヴィッツに着くとすぐに、その場で囚人の仕分けが行われた。彼女 は十六歳だったが、見知らぬ人の耳打ちで「十八歳」と申告し危くガス室送り をまぬがれる。子供、老人、身障者など労働に適さないと判定された者は、 その場でガス室送りのトラックに乗せられたのだ。「親や子どもがどこへ 行ってしまったのか(略)カポー(女看守)に尋ねる人がいると、彼女たちが 窓から見える死体焼却炉の煙突とそこから上がる煙を指し示していたことを 私は覚えている。(略)死体焼却炉の煙は休みなく煙をはき出していた。 堪え難い匂いが立ちこめていた】 読んでいくと、彼女が生きながらえたのが 不思議に思えるくらい地獄の生活がつづく。収容所の娼婦あがりの女監督官に 気に入られて「あんた本当にかわいいねえ、ここで死なすにはもったいないよ。 別のところへ行けるようにしてあげる」「でも母と姉が一緒だからいいです」 と断ると、「じゃお母さんとお姉さんも一緒に」と、本当に三人そろって、 アウシュヴィッツから別?収容所に移され、仕事も調理担当に代えてくれる というウソのような話が本当に実現した。その女監督官がなぜそんな特別の ことをしてくれたのか、理由はよくわからない。その頃かわいい女囚に同性 愛的サービスを求めて特別の便宜をはかる女看守もいたが、それ的な要求も なかったという。それから間もな-戦争が終り、女監督官は英国の手で 逮捕され処刑されてしまったので、その理由がいまでもわからないという。 本書には若いときのヴェーユの写真もおさめられているが、確かにガス室で すぐ殺すには惜しい容貌だ。≫ ▼ アウシュビッツといえば、フランクルである。12年前に、彼の本を 集中して読んだが、人生への絶対的肯定に驚かされた。こういう極限の中で 奇跡的に生延びている人の共通点がある。それは、この状況下から生延びて、 家族か、友人たちと楽しい時間を過ごす具体的イメージを持っている人という。 【人生に何かを求めるのでなく、人生が私に何を求めているかを問うべきだ!】 が、特に印象に残っている。女監督官は、ただヴェーユが可愛いという理由 だけでなく、光る何かを見出したのだろう。そして、その後、彼女は光った のである。肯定的イメージ化と、信念こそが、人生で最も必要ということか。 ―― 2003/09/19 《V・E・フランクル》について 十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。 そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。 人生の調度まがり角であったためであろう。 その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。 彼の「意味」発見のための3つの問い 「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」 「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。その人は、どこにいるのか」 「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」 この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』 『満たすべき意味』を発見するための手がかりになると、 フランク心理学では考えている。
特に以下の分析には深く納得をした。 ー自己超越のための3つの意味(価値)ー 1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味 =仕事・子育て・学問・芸術 ー力への意志 2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味 =自然・芸術・愛 ー愛への意志 3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで 得られる価値・意味ロゴスの覚醒=対象との一体化 ※自身が何らかの喜びに満たされていること ー知への意志 人生には発見されるべき価値や意味がある (1)意志への自由 (いかなる境遇でも自由意志を持つことができる) (2)意味への意志 (意味と目的を発見し充足するのは人間の努力である) (3)人生の意味 (創造・体験・態度生きる姿勢の中に意味を見出す) ー生きることは価値判断(学習)と選択の連続である
ー私が読んだ本は以下であるー ・「夜と霧」:ドイツ強制収容所の体験記録 V・E・フランクル 霜山徳爾(訳) みすず書房 1985年 ・「それでも人生にイエスと言う」 V・E・フランクル 山田邦男・松田美佳(訳) 春秋社 1993年
・「宿命を超えて、自己を超えて」 V・E・フランクル山田邦男・松田美佳(訳) 春秋社 1997年
・「<生きる意味>を求めて 」 V・E・フランクル 諸富祥彦(監訳) 上嶋洋一・松岡世利子(訳) 春秋社 1999年
・「フランクル回想録:20世紀を生きて」 V・E・フランクル 山田邦男(訳) 春秋社 1998年
・「フランクルに学ぶ 」 斉藤啓一 日本教文社 2000年
・「どんな時も、人生に‘YES’と言う 諸富祥彦 大和出版 ・・・・・・ 2003/09/20 《V・E・フランクル》について 十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。 そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。 人生丁度まがり角であったためであろう。 その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。 彼の「意味」発見のための3つの問い 「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」 「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。 その人は、どこにいるのか」 「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」 この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』 『満たすべき意味』を発見するための手がかりになると、 フランク心理学では考えている。 ーー 『夜と霧』(みすず書房、1971年新版) 収容所での体験を描写することによって語っているのは 「人は変えようのない運命に直面したときでも、それに対して取る゛態度゛ というのは自ら選ぶことができる」という真実です。精神的自由、すなわち 環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態の下においても、 外的にも内的にも存しつづけたということを示す英雄的な実例は少なくない のである。強制収容所を体験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは 優しい言葉、あちらでは最後のパンの一斤を与えて通って行く人間の姿を 知っているのである。そしてたとえそれが少数の人数であったにせよ ――彼等は、人が強制収容所の人間から一切を取り得るかもしれないが、 しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の 最後の自由、をとることはできないということの証明力をもっているの。 「あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、 収容所内の毎日毎時がこの内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。 その内的決断とは、人間からその最も固有なもの――内的自由――を奪い、 自由と尊厳を放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所 囚人に鋳直そうとする環境の力に陥るか陥らないか、という決断なのである。」 生きていれば、誰しも避けがたい苦悩に直面するわけですが、そういった ときに、「どのような゛態度゛を取るのか」というコトが問題となってくる のだと思います。変えられない運命に絶望しニヒリズムに陥ることや、責任を 転嫁して他者を恨むこと、現実逃避のために自暴自棄になることは簡単 だけれども、フランクルは、そういった態度は人間としての自由と尊厳を 放棄した態度だと言っているのだと思います。
「〜生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味を もっているに違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命 も死もそうである。苦悩と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである。 一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命をそれが彼に課する苦悩とを 自らに引き受けるかというやり方の中に、すなわち人間が彼の苦悩を彼の十字架 としていかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況に あってもなお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が 開かれているのである。」 変えようがない事実そのものをそのまま認識し、 そこから自分はどうするのか、何が出来るのか、といった自らの可能性を考える 態度。それは、苦しみを受け入れ、苦しみに耐えながら、苦しみと共に生きて いこうとする態度。人はこのような苦悩を正面から受け取る態度を取ることに よって初めて、その苦悩を乗り越え、自己をさらなる高みに引き上げることが 出来るのだと思います。ここで、苦悩の持つ意味・価値が創り出されるのでしょう。 フランクルは、このように苦悩を超えることによって生み出された価値という のは、他の価値とは次元の違うものであるとしています。彼は、それは如何なる 外的状況(例えば、傍から見れば「失敗」であったり「不幸」であったり「悲惨」 であったりするような状況)に関係なく得るコトの出来る価値だと述べる。 このように、苦悩を自己の飛躍へと転化することというのは、きっと誰にでも 可能なことなのだろう、とわたしは思います。わたしたちの苦悩が収容所での 経験を凌駕するほどの悲惨なものでないのなら、この、人間が運命に対して挑む ことの出来る唯一のやり方、「事実を受け入れ、そこから生きていくという姿勢 を取るコト」は、わたしたちにも可能だろうと思うのです。フランクルも本の 中で、このような態度を取ることが出来た人が過去において一人でもいたという 事実そのものが、「人間がその外的な運命よりも内的にいっそう強くありえる」 ということの証しとなると述べています。 わたしたちはともすれば、自分を取り巻く様々な運命的な制限(生まれや能力、 容貌、環境などなど)に落胆し、成す術もなく空虚な気分になりがちですが、 しかし、これらの変えようのない事実をしかと受けとめ、その苦しみに塗れ ながらも、どうにかして何かをしていこうという姿勢こそが、わたしたちを 内的な成長へと導いてくれるのだとフランクルは言っています。収容所の中で さえ、そのような偉大な所業を成し遂げた人間がいるのなら、現代に生きる わたしたちに出来ないはずがないでしょう。全ての苦しみをかかえる人が、 それぞれ立っている場所から自己と自己に与えられたモノを見つめることに よって、それぞれの意味を見出し、苦しみを乗り越えることが出来るはず。 わたしはそう思っていたりします。「真の運命を正しく耐え、率直に苦悩する ことは、それ自身、行いであり、まさに人間に許される最高の成就であり 業績である。」 (『神経症の理論と治療』より) ----------- 「夜と霧」からの抜粋 ー内面化と内的豊かさー 人間が強制収容所において、外的のみならず、その内的生活においても、 陥って行くあらゆる原始性にも拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい ”内面化への傾向”があったということが述べられなければならない。 元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的 繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛では あるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。 なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な 豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。”かくして、そしてかくして のみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人間よりも、収容所生活を よりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。” 若干の囚人において現れる内面化の傾向は、またの機会さえあれば、芸術や 自然に関する極めて強烈な体験にもなっていった。そしてその体験の強さは、 われわれの環境とそのすさまじい様子とを忘れさせ得ることもできたのである。 〜中略〜 あるいは一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、 スープ匙を手に持ったままバラックの土間にすでに横たわっていた時、一人の 仲間が飛び込んできて、極度の疲労や寒さにも拘わらず日没の光景を見逃せ まいと、急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。 そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃えあがる雲を眺め、 また幻想的な形と青銅色から真紅色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な 変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の 掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまあだ燃える空が映っていた。 感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に 「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞こえた。 ー運命としての苦悩を受け入れるー かかる人々は、著しく困難な外的状況こそ人間に内面的に自らを超えて 成長する機会を与えるものだということを忘れているのである。 収容所の外的な困難さを内的な試練の試みに変える変わりに、彼等は現在の 存在を真面目に受けとらず、それをある重要でないものに貶め、過去の生活に 思いを寄せることによって現在の前では目を閉じるのが最も良いと考える。 ところで具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、人間はこの苦悩のなか にも一つの課題、しかもやはり一回的な運命を見なければならないのである。 人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ一人 一回だけで立っているという意識にまで達せねばならないのである。 何人も彼から苦悩を取り去ることはできないのである。 ”何人も彼の変わりに苦悩を苦しみぬくことはできないのである。 ”まさにその運命に当たった彼自身がこの苦悩を担うということの中に 独自な業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。
ー【フランクルに学ぶ(日本教文社,斉藤啓一】ー ・『 人間など,いくら優秀でも大したことはできない. 真に偉大な業績は,宇宙の力を借りて行う.』 ・『 人間は近くに,神は遠くに幸福を見る. 神の視点は,人間よりも常に遠いところに置かれている.』 ・『 虚栄と誇りは違う.虚栄を満たすには他者を必要とするが, 誇りは他者を必要としない.』 ・『 人生に何かを期待するのは間違っている. 人生が,あなたに 期待しているのだ.』 ・『 信じてもダメかもしれないが, 信じなければ,実現するものもしなくなる』 ・『 絶望とは,もうすぐ新しい自分と新しい希望が 生まれてくるという前兆である.』 ・『 運命は何のために訪れるのか?本当の自分に目覚めるために.』 ・『 名優は,いかにさえない役を演じても輝き, 大根役者は,いかに輝かしい役を 演じてもさえない. 輝きこそが人生の幸福を決める.』 ・『 人生の幸福は,どれだけ快楽を得たかではなく, どれだけ感動を得たかによって決まる.』 ・『 愛の喜びは,捕まえようとすると逃げていく. 愛を表現するときにのみ,それはやってくる.』 ・『 自分を忘れ,仕事や人間に愛を傾ける人.そんな人にはすべてが ひとりでにやってくる.成功も楽しみもである.』 ・『 あなたがいるだけで世界は意味をもつし,生きている意味があると 思わせる人生こそ最高だ.』 ・『 いくらすばらしい技術があっても人は癒せない.人間的な 触れ合いと愛の交流がなければ.』 −− 【それでも人生にイエスという (春秋社,V・E・フランクル)】 『 私たちが「生きる意味があるか」と問うのは,はじめから誤っているのです。 つまり,私たちは生きる意味を問うてはならないのです。 人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。 私たちは問われている存在なのです。私たちは,人生がたえずそのとき そのときに出す問い,「人生の問い」に答えなければならない, 答えを出さなければならない存在なのです. 生きること自体,問われていることにほかなりません.』 『 生きるということは,ある意味義務であり,たったひとつの重大な 責務なのです.たしかに人生にはまたよろこびもありますが,そのよろこび を得ようと努めることはできません..よろこびはおのずと湧くものなのです. しあわせは,けっして目標ではないし,目標であってもならないし, さらに目標であることもできません.それは結果にすぎないのです.』 『 私たちは,いつかは死ぬ存在です.私たちの人生は有限です. 私たちの時間は限られています.私たちの可能性は制約されています. こういう事実のおかげで,そしてこういう事実だけのおかげで,そもそも, なにかをやってみようと思ったり,なにかの可能性を生かしたり実現したり, 成就したり,時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです. 死とは,そういったことをするように強いるものなのです.ですから, 私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです.』 『人生に重みを与えているのは,ひとりひとりの人生が一回きりだという ことだけではありません.一日一日,一時間一時間,一瞬一瞬が一回きりだと いうことも,人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせているのです. その一回きりの要求が実現されなかった,いずれにしても実現されなかった 時間は,失われたのです.「永遠に」失われたのです.しかし逆に, その瞬間の機会を生かして実現されたことは,またとない仕方で 拾われて現実になったのです.』 『 肉体がなくなってもなくならず,私たちが死んでもなくならないもの, 私たちの死後もこの世にのこるのは,人生のなかで実現されたことです. それは私たちが死んでからもあとあとまで影響を及ぼすのです.』 ・・・・・・ 4816,尊厳死は必要か ー2 2014年05月22日(木) <映画監督・周防正行>ー朝日新聞オピニオン〜耕論ーより ◆ 深く悩み納得するのが先 ―② (字数制限のためカット 2015年5月22日)
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2015年05月21日(木)
* ガス室の中の、断末魔の地獄絵 『読書脳』立花隆著 ー私はガス室の『特殊任務』をしていたーショロモ・ベネツィア著を、 『読書脳』立花隆著で紹介をしていたが、その内容は極めて凄惨である。 ガスを吸った瞬間死ぬのではなく、15〜20分の間、のたうちまわるのだ。 そこで生残った特殊任務部隊員(囚人)の証言が生々しく記されている。 ≪「人体組織の抵抗力で目が眼窩から飛びだした人もいました。 身体じゅう出血している人もいれば、自分や他人の排泄物で汚れている人も いました。恐怖とガスの効力で、犠牲者は身体のものを全部排出することが 多いのです。(略) みんな苦しんで死んでいました。普通の人は、ガスが注入 され、はい終わりと考えるでしょう。でも、なんという死か!…。よく見ると、 お互いにしがみついて、少しでも空気をと、みんな必死だったんですね。 床に落ちたガスから酸が発散するので、みんな空気がほしくなる。 そのために、最後のひとりが死ぬまでみんな互いの上をよじ登ろうとする」 その言葉通りまるで運動会の棒倒しのように、天井の空気穴めがけてもがき あい手足をひっぱりあい重なりあいながら人間ピラミッドを作るようにして 死んでいた。その一体一体が苦悶の表情を浮かべている。ガスの注入から全員 の死亡まで15分〜20分だった。断末魔の悲鳴が徐々に弱くなり、無音になる のを待って、特殊任務部隊(囚人)が中に入り、からみ合った死体を一体 一体引き離し、焼却炉に運んだ。遺体の口を開き、金歯をしている者からは 金歯を抜いた。ガス室の中に入ることを許されたのは、特殊任務部隊員だけ。 彼ら自身も三ヵ月ごとにガス室で処分され、秘密が保持された。生き残り 数十人だけがガス室の中で起きたことを証言したが、あまりのおぞましさ故に、 その詳しい実情はこれまであまり表に出なかった。 本書は2007年に仏国で 出版されると大ベストセラーになり、世界15ヶ国以上で翻訳されている。 これを読まずにアウシュヴィッツに行っていたら、私も東大生と同じように、 ガス室や焼却炉の残骸を見ても、犠牲者の髪の毛の山や遺品の山を見ても、 本や映画で見たのと同じと思い、ショックを受けなかったかもしれない。≫ ▼ 多くが糞尿を垂れ流し、断末魔の苦しみの中で死んでいく姿が、そのまま 描写している。個々では、どこかの病院の一室で毎日あることだが、それが 集団となると地獄絵そのもの。20世紀は、集団殺戮の世紀で、一億近くの 人たちが抹殺された。21世紀の現在も、北朝鮮や、中近東で、こうした 殺戮が現に行われている。恐ろしいが、これが現実である。ー以下も御覧あれ! ―― 2015/03/15 ホロコーストを生き延びて * 囚人番号A26188〜ホロコーストを生き延びて〜 〜15年3月11日 水曜 午後6時〜6時50分〜 先日、大相撲が終わり何気なくまわしたチャンネルが、この番組。 当時の凄惨な収容所や、殺された人たちの写真と共に淡々と語る老婆 へニアの話に、我を忘れ見入ってしまった。転々としたどの収容所でも、 奇跡的に助かり生き延びた内容は、想像を絶した生き地獄。 途中で、 この番組を数年前に見ていたことに気づいた。 ポーランド、ソ連を 中心に500〜600万人が虐殺されたホロコーストは残酷の極み!何度見ても、 その悲惨さに驚愕をする! 〜NHKのHPの、その紹介記事から〜 ≪ 1939年のドイツによるポーランド侵攻は、ある少女の運命を狂わせた。 靴工場を経営する父と母、3人の兄弟と幸せに暮らしていたヘニアは、 マイダネク強制収容所、「シンドラーのリスト」の舞台として知られる プワシュフ強制収容所、アウシュビッツ強制収容所、終戦時のベルゲン・ ベルゼン強制収容所と、4つもの収容所を転々とし、偶然と機転、そして 時には他人に助けられて奇跡的に生き残ったのだ。 現在南アフリカで静かに暮らす彼女は、ホロコーストを知らない若者が 増えていることに危機感を抱き、今まで夫や息子にも話さなかった悲惨な 過去を明らかにすることを決めたという。目の前で日常的に繰り返された ナチスの残忍な行為の数々、アウシュビッツ解放前に強いられた“死の行進”、 家族の行方―ホロコーストを生き延びた“囚人A26188”ヘニア・ブライヤー が、壮絶な体験のすべてを語る。≫ ▼ 20世紀といえば、スターリン、毛沢東、ヒトラー、ポル・ポトなどが、 大量殺戮を重ねた世紀。彼らは国内や隣国の人民を1〜2割も殺戮した、 というから、平和ボケした日本では想像すら出来ない事態。 現在も、 北朝鮮が同じような状況にある。社会主義も資本主義も駄目というなら、 何が良いのか? その上、情報機器が飛躍的に進化する中、政治体制が、 それを持った大衆をコントロールするのは至難の業である。その行着く先は 混沌とした世界。そして極端な原理主義が、世を覆い、同じような大量殺戮 の世が再び、生じる可能性が出てきた。人間は本当に進化したのだろうか? ・・・・・・ 4815,尊厳死は必要か ー1 2014年05月21日(水) 尊厳死について、多くの身近な人たちの最期をみて、これは正しい! という答えが無いことを前提に、司法は可能な限り介入すべきではないと思う。 回復の見込みがなくなった時に治療の中止を認める、尊厳死法案が検討されて いるが、これは当然のこと。人生の終わりに、どうすれば尊厳は守られるのか、 当人にとって大問題である。この3月末にとり上げた、 「そんなに長生きしたいですか 1〜7」の内容に通じるところがある。 ◆ 深く悩み納得するのが先 ー① <映画監督・周防正行> ー朝日新聞 オピニオン〜耕論ーより 《「患者に良かれ」と思い、治療をやめたお医者さんが、告発される。 一度つけた呼吸器は外せない。そんなことがあるのなら、何らかの法律が 要るんだろうなと漠然と思っていました。でも、2012年に公開した映画 「終(つい)の信託」をつくるため終末期医療を調べるうち、「待てよ」と 感じるようになりました。死の迎え方は、人がどう生きてきたかと同じように、 一律ではない。経済的な理由から治療をやめざるをえない場合もあり、 社会システムの問題でもあると気付いたのです。取材してわかったのは、 食べられなくなった時に栄養を直接いれる胃ろうをつけた家族も、つけな かった家族も、どちらも「正しかったのか」と悩んでいること。そこに正解 はなく、あんなに考え、話し合って決めたのだから、という思いがせめてもの 救いになるのでは。その質と量によって納得するしかないんですよね。 今の医療現場では、患者や家族と医師らの間で信頼関係を築きにくい。 お互い忙しく遠慮もあるのでしょう。患者や家族がいつでも、これからの ことや不安を相談できる人が病院にいる態勢づくりが、大事だと思う。 患者と医師を結びつけてくれる窓口のような存在がいると、患者や家族は 深く考え、きちんと悩めるようになるのです。この人が望む道は何なのか。 共通認識を持ち、それを実現するのが「尊厳ある治療」なんじゃないかな。 まずはそれが大事。良い医療かどうかって、患者や家族がいかに納得できる かにかかっている。コミュニケーションがうまくとれないとだめなんです。 ・・・ つづく 》 ▼ 医療現場では、各個人の尊厳死に至るまでのフォローする仕組みなど 出来ていない。あとは、医療経営に有利な延命治療か、家族の都合によって 生かされるか、殺されていく。病院を監獄と看做すと、病室は獄内、身体に つけられたチューブは鎖、看護婦は刑務官になる。そこでは、拷問のため 生かされた人たちの苦しみの悲鳴が聞こえてくる。チューブを外し、死なす 尊厳死は犯罪として禁じられている。しかし、当人も、家族も、それを望む なら、拷問のような苦痛の人を死なせることも、必要になる。それを法律で 禁止すること自体に問題がある。縁者の死際では、殆どが医者の手で、呼吸を 止めているが、その前段階に、本人や家族の希望で延命を認めるべきだが、 色いろなケースがあるから一概に断じることが出来ないのが末期医療。 今までは他人事だったが、今では近い将来の問題になってしまった。 ・・・・・ 4448, 屋根裏に誰かいるんですよ −2 2013年05月21日(火) 「屋根裏に誰かいるんですよ―都市伝説の精神病理」春日 武彦著 「幻の同居人」をネットで検索すると、日本老年精神医学会学会での 「幻の同居人」に関する考察で、医師の深津亮(埼玉医科大学)が講演で、 以下のような発表をしていた。 1.はじめに = 超高齢社会を迎えた我が国の社会構造は劇的な変化が もたらされている.高齢者は社会的に孤立を余儀なくされており,このような 孤独な環境は 種々の喪失体験を増悪させ,特有の妄想反応や誤認症候群を生じる 母胎となる.「幻の同居人」もその様な症状の一つであり,「自分の家の中に だれか知らない人たちが住み込んでいて,さまざまなかたちで自分を苦しめる」 という妄想と定義されている.「幻の同居人」はRowwan EL が1984 年に 「自分の家の中にだれか知らない人が住み込んでいて,さまざまなかたちで 自分を苦しめる」と訴える女性例を報告したことをもって嚆矢とされている. 「幻の同居人」は「天井裏や,床下に住んでいる」,「留守にすると部屋に 入ってきて,いろいろなものに触っていく」などと訴えられる.さらに自分 の行動がその同居人に監視されていると確信していることがある. Rowan の報告例では,知的機能の低下や感情障害が明らかではなく,思考, 感情,精神運動の障害や退行などの脳器質性障害を示す徴候も認められない ことから遅発性パラフレニーにみられる被害妄想とされた. 2・「幻の同居人」はどのような精神症状か?=「だれかが自分の家に 侵入して,物を盗んでいく,部屋を汚す,嫌がらせをする」などの住居(家) に関する被害妄想は遅発性パラフレニー,遅発性統合失調症,接触欠損性妄想症 などにも認められる.高齢者では少なからず見出される.我が国においても, 同様の症例は,報告されている. 精神症状はいかなるものか,幻覚か, 実在性意識か,あるいは想像上の友達などとの鑑別が必要と思われるが, 必ずしも明確でない。 3.「幻の侵入者」か「幻の血縁者」か? = 確かに「幻の同居人」は, 本邦の高齢者にも稀ならず見出される.Terada S らは前述の「幻の同居人」 の特徴を分析して,「幻 の侵入者」と記載した.我が国では,このほかに 父,母,祖父,祖母,子供などの血縁者が現れることがある.外部から 侵入するのではなく被害的でも敵対的でもないことが多い. むしろ親密で友 好的協調的な懐かしい血縁者であり,特に小さな子供の場合も 少なくない.これらは「幻の血縁者」と呼ぶことができるかも知れない. この様なタイ プの同居人が比較的よく見出されることが我が国の特徴のように 思われる.また妄想性誤認症候群,鏡像現象やTV 現象を伴うことも稀ではない. 4.「幻の同居人」の発現機構 = このような精神症状は加齢による さまざまな変化や社会文化的背景をもとに出現していると考えられている. 精神機能の解体過程,退行などによ ってゲマインシャフト的世界,しかも 日本的な農村共同体への回帰とみることができよう.「幻の血縁者」に子供が 現れることは,遠野物語のザシキワラシ 伝説とも相通ずることを示唆している. ▼ 以上だが、この「屋根裏に誰かいるんですよ」で、< 身体の一部を 失っても、脳機能は、それがあたかも存在するように感じ取る働きをする。 それに似た働きに近いのでは>は納得できる。作家の佐藤愛子本人が、色いろな 場所で、これに近い経験をしているが、作家なら、冷静に精神の衰えと看破する はずだが、どうだろう。知人の夫人の場合は、高齢者の孤立、種種の喪失体験 などによる精神不安定が見て取れる。老化による精神機能の解体過程に出てくる 妄想ということ。私にもサードマンが頭の中に同居しているが、これは自分で 意識的に作りあげた対自。ちょっと違うか。 ・・・・・・ 4074, 屋根裏に誰かいるんですよ 2012年05月21日(月) 「幻の同居人」―都市伝説の精神病理 春日 武彦 (著 ーアマゾン 紹介文ー まず、その奇妙なタイトルが目を引く。しかし本書は、そのタイトルから 受けるコミカルな印象とは異なり、精神科医である著者が、現代社会における さまざまな精神病理を、きわめて冷静に考察したものである。 ある日、 ひとりの老女が、「自分の部屋に勝手に人が入ってきて困る」と訴える。 その侵入者は、彼女の部屋にある日用品などを盗んでいったり、ちょっとだけ 位置をずらしていったりするという。しかし、姿は見えない。まるで、 「座敷わらし」などの妖怪のしわざとしか言いようがない不可解な話を、 老女は真剣に語る。表題となっているこの症例は、「幻の同居人」と呼ばれる。 このような症例は、多数報告例があるらしい。患者たちは、脳に器質的な異常が 認められるわけではなく、精神的にも問題ない場合が多い。「妄想の突飛さと 当人の穏やかな常識人ぶりとのあいだに乖離が生じているときには、精神医学は たちどころに歯切れが悪くなってしまう」と著者は言う。それがこの症例の複雑 さと奇妙さとを物語っている。本書は、現代社会においても、妖怪と出会うと いったような「非日常」的な現象が、たちあらわれる瞬間があることを示唆する。 精神科医が語っているだけに、いっそう説得力がある。 ▼ ある亡くなった友人の奥さんが数年前、急に事務所に訪ねてきて、世間話の 後に何気なく「最近、家に侵入者が時々入ってくるが、生前、主人が何か言って ませんでしたか」と言う。「侵入者とはとんでもないこと、どういうこと?」 と吃驚して聞きなおすと、「自宅の屋根裏に侵入者がいて、彼方此方、徘徊して いる。」という。よくよく聞いた後、「貴女は魔界に一歩踏み込んだようですね。 ご主人からは、それについて聞いたことはありません。」と答えた。 警察に相談して屋根裏を調べてもらった時の写真を何枚か出して、「私には、 侵入者が見えるが,貴方は見えませんか」という。 私には全く見えなかったが、 その辺から、何か精神的に追い詰められているのだろうと思い始めた。 その後、ご主人と共通の複数の知人から彼女の同様の話を聞かされた。 本人には、実際に屋根裏に何かがいるのだろう。彼女は初老で、独り暮らし。 佐藤愛子が、似たような現象を経験している。それと同じかどうか私には 分からない・・・ ・・・・・・・ 3708, 自己を見つめる −24 2011年05月21日(土) ー 他者について 〜� ー ーP194 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【幼児は、他者が素敵な玩具をもっていると、自分もそれをもっていなければ ならないとすぐに決め込み、それでいて自分にはその玩具がないところから、 その他者を激しく嫉妬することになる。こうして、一般に、大人になってからも、 人間は、他者とか世の中とか世間からの影響を色濃く帯び、ときにはそれに 飲み込まれてしまって、その水準で自分を裁断し、ほんとうの自分の姿を見失い、 自己喪失の状態に陥ってしまう。 また、自分の不幸や不満の原因を、他者の せいとして責任を転嫁し、自分がひどい目に遭った原因を、ともすれば世の中に 押しつけ、他者攻撃に生きる傾向に人は陥りやすくなる。したがって、本来 そうであるぺきなように、自己でありつつ、他者とともにあるという、二重性 ないし両義性をほんとうに生きることは、人間にはきわめて困難になるのである。 東洋ふうの言い方をすれば、「和して同ぜず」という、自他の自由な自律性と、 連帯性ないし他者容認とが、過不足なく、円滑に両立してこそ、自他の関係は 充足されうるのだが、それがきわめて困難になるのである。 ニーチェは、自他の関係において、ルサンチンマン(怨恨感情)という 恐ろしい感情が胚胎する機微を鋭く抉り出した。他者の不当な振る舞いに 直ぐに反発できずに、じっと我慢する人間のうちに、やがて次第に欝積してくる 不満の感情のことを指す。それは、恐ろしい怨恨感情となって、やがてさまざま な形で爆発してきて、自虐と他虐の凄惨な凶行さえも生み出す原因となる。 しかし、ニーチェにょれぱ、そうしたルサンチマンの人は、他律的なのである。 つまり、怨恨感情は、他者に囚われ、他者からの傷跡に執着し、こうして、他者 への遺恨を募らせ、やがて復讐心の形を取って、自虐と他虐に向けて爆発する。 そこでは、自己自身の本来性が見失おれている。しかし、自己は、ときに、 自己自身を見失って、他者になりきってしまうこともあるものである。 しかもそれは、人間的他者に関してだけ起こることではなく、事物に関しても 起こる。 たとえば、私がすっかり花に見惚れたときには、花が私になりきって しまうのである。それと同じ意味で、私たちは、自己自身を見失い、ついには、 さまざまな主義主張の虜になったり、迷信や邪教に取りつかれたり、神憑りに なったり、あるいは、変身願望に駆られ、嘘と芝居で身を塗り固め、役者気取り で自分を英雄天才視し、人類の救済を気取って、大言壮語し、自己欺瞞と他者 篭絡に憂き身を窶すことすら生じかねない。その反対の被害妄想や厭世意識も 似たりよったりである。 】 ▼ その人を知るには、その人の身近の他者(=親、妻、友人、会社の上司など) を知ればよい。そして、その不満と満足度を聞けば、ほぼ大部分を知ることが 可能になる。「人を恨めば穴二つ」と言うが、恨んだレベルのことでしかない。 そこに囚われるからだ。長期の間に、その質の段差は、その空白に大きなガスを 溜めることになる。身近な人と、自分の関係はメビウスの帯のように結局は同じ ようなもの。だから、連れ添いや、仕事は厳選をしないと互いに命取りになる。 他者は、三人称より二人称をさすことが多い。 他者たちによって形づくられた自己は、自分の合せ鏡でもある。 ・・・・・・・ 3343, 閑話小題 2010年05月21日(金) * 9・11事件の謎 ここで「9・11事件についての謎?」 何で、というと、米国軍事産業か、 金融関係者なら平気でやりかねないと最近、特に思うようになってきたから。 このテロでアフガンやイラク戦争で軍事産業が大きな需要が生じ、恩恵を受けた からだ。さらにリーマンショックもしかりである。世界中に不良債権という 毒の入った債権を売り、その影響が今後、10年〜20年間にわたり出てくる。 これは数百年にわたって築き上げられてきた近代資本主義の崩壊をもたらす。 それさえ金融の支配者はやりかねない疑念が出ている。ユーロの揺さぶり、 そして膨大なアメリカの借財の棒引きの狙いだ。その真っ只中に我われがいる のである。その第一波の大きな波が、まずは南欧のラテン系の国家、Piigs。 そして、時を同じくして日本の地方と輸出産業である。まずは地方の我われが、 その直撃を受けている。 9・11事件発生の数ヶ月前から、株と為替に異常な 動きが在ったと、関係者からの証言がある。事前に知っていた者たちが、 その情報で大儲けをしていたのである。あれから世界は本格的に激動を始めた。 * 韓国が北朝鮮に報復攻撃? (字数制限のためカット 2015年5月21日)
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2015年05月20日(水)
『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 信念に生きることは割りに合わない! 信念に生きると、当然、摩擦が起きる。それをバネに信念の芯を強めるか、 修正するしかない。 信念を貫いた人生には充実感が残る。 ≪ Q: 先の暗い人生でも生きるべきでしょうか? 私は58歳の零細自営業者です。同世代の先生なら説明する必要はないと 思いますが、学生時代から頑迷に反体制を信条として、就職や年金とは無縁の 生活を送ってきました。そのことに後悔はありませんが、困ったことに働ける 年齢を越えて生きのびそうな予感がするのです。いまさら、官にたよって生活 保護を受けるなんて恥ずかしくて出来ませんし、この歳になって信念を曲げて まで生きる気もしません。自殺は解決手段ではないと読んだことがありますが、 私はこれから到底よくなるとは思えない苦渋の日々を寿命が尽きるまで生き なければならないのでしょうか。あるいは、何としても生きるべきでしょうか。 その理由があるのでしたら教えてください。 A: 「信念」を生きるとは割の合わないものです これも同じようなご相談で、一見どう答えていいか難しそうですが、 私の回答は至極簡単です。自分の「美学」があなたにとって何より大切なこと でしたら、これまでせっかくがんばってきたのですから、国家の面倒を今後も いっさい辞退して、潔くホームレスになってしまってはいかがでしょうか? そして、どこまでも自分の美学を全うして死ぬことです。 私が法学部を捨てて 哲学に身をささげようとしたときは、先生から「自殺率は高いですよ」と 言われました。33歳で誰も待つ者のいないウィーンにひとり私費留学した ときも、ドクター論文が書けなかったら戻ってはこれない、死ぬしかないと 思いました。 たとえ誰もほめてくれなくとも、いやバカだ、アホだ、と罵倒 されても、それがあなたの「生き方」なんですから、それでいいではないですか。 本物の「信念」とはそういうもの、そういう割の合わないものです。 だから(場合によって)感動的なのです。ソクラテスが最後の最後で脱獄して しまったら(そういう誘いは多かったし、それは可能であった)、弟子のプラトン はじめ彼のことなどすっかり忘れてしまっていたことでしょう。単なる 「合理的な爺さん」で終わっていたことでしょう。とはいえ、私は自分の信念を 貫き、ついに毒杯を仰いだソクラテス的生き方を賛美し勧めるつもりは毛頭ない。 もうひとつの合理的な爺さん的生き方もなかなかいいのではないか、と思って います(私だったら迷うことなく脱獄します)。つまり、昨日までの反骨精神など きっぱり捨てて、たったいまからは国家や政府あるいはボランティア団体から すべての「援助」を貪欲にむしり取るのです。あらゆることを巧利的かつ合理的 にとらえなおし、「豊かな」老後に備えるのです。あっという間に変身する 生き方も、なかなか颯爽としていいものですよ。こちらは、ソクラテス型に 対して、ホッブズ型とも言えましょう。俺が人々と暗黙の社会契約を結んで 国家を承認したのは、自分にとって利益があるかぎりであるから、国家が俺に 死刑を請求したら、さうさと逃亡するのが当然だ、という考えです。 どうです、なかなかさっぱりしていていいでしょう? ≫ ▼ 「功利的、合理的に生きる」という信念もある。サッサと事業断念を して「合理的爺さん」で終え、「節目を打った」と独り嘯いても、 「お前さんのそれは『日々是口実』でしかない」「これが私の生き方だから」 という「口実」が湧き出る。こと信念については、独り呟き続けるしかない! ・・・・・・ 4814,Quirt <内向型人間の時代> ー3 2014年05月20日(火) <内向型人間の時代> スーザン・ケイン著 * ‘誰からも好かれる人’の興盛 毎日が淡々として、読書、スポーツ、TV鑑賞、パソコンに明け暮れる日々。 ますます内向的人間になっている。私の年齢と、時代が、そうさせていると いう実感がある。一般的に、外交的人間の評価が高いが、実際に生きる上で、 内向的か外交的が良いのかは、その人自身の問題になる。誰からも好かれる タイプは、時代によって大きく変わってくる。特に、現在、何が外交的か、 内向的かの根本から定義を変えなければならない。 ーその辺りからー 《 社会学者のウィリアム・ホワイトは1956年の「組織のなかの人間」で、 親や教師がどのようにして内気な子供を矯正しようとしたかについて述べている。 「ジョニーは学校にうまくなじめません。 担任の先生が言うには、勉強の ほうはまあまあなのに、社交性の面がはかばかしくないとのことです。 友達はひとりか二人だけで、どちらかといえばひとりでいるのが好きだそう」 ある母親がホワイトにそう話した。そうした教師の干渉を親は歓迎すると ホワイトは書いた。「少数の変わった親を別にすれば、たいていの親は学佼が 子供の内向酌な傾向など偏挟な異常を直そうとすることを歓迎している」 親がそういう価値観を持つのは、思いやりがないせいでも鈍感なせいでも なかった、たんにわが子に「現実の世界」と向き合う準備をさせようとした だけだ。成長して大学に入った職に就けば、わが子は集団のなかで上手に 立ちまわらなければならない。大学の入試担当官が求めているのは、特別な 学生ではなく、外向的な学生だった。1940年代後半に、ハーバード大学の ポール・バック学長は「繊細で神経質」や「頭でっかちな」学生よりも 「健康的で外向的な」学生を入学させるべきだと言明した。1950年には、 エール大学のアルフレッド・ウィットニー・グリスウォルド総長が、理想の エール大生は「しかめ面の専門家ではなく、円満な人間だ」とした。さらに、 ホワイトがある学長から聞いた話は印象的だ。「学生たちの推薦状を読んで いると、大学が何を望んでいるかだけでなく、四年後に企業の採用担当者が 何を望むかまで考慮するのが常識になっているのを感じると総長は語った。 『外向的で活動的なタイプ』が好まれるそうだ。『つまり理想的なのは、 平均してして八十から八五点の成績を取り、課外活動に熱心な学生である。』 『抜群の成績』でも性格が内向的な学生はあまりこのまれないという。 この学長は20世紀半ばの理想的な従業員は沈思黙考ではなく、セールスマン 的な性格を持った外交型であることを適確に把握していたわけだ。・・・ 要するに、科学者の仕事は研究するだけでなく、販売を手助けすることでも あり、相手に調子を合わせる態度が必要になってくるというわけだ。 》 ▼ 地方から上京してきて、都会育ちの洗練された外交的人たちを知った時の 驚きは、はかり知れないものだった。暇さえあれば、的確な間合いで、ダジャレ を言い、笑いを取る。それに比べ、地方出身者は言葉が重く、無口な人が多い。 ジョーク、ダジャレで、その場を明るく和やかにするセンスはゼロ。 更に内向的になっていくか、身につけるか分かれる。 私の場合、まず カーネギーの『人に好かれる六原則』の一つずつを身につけるしかなかった。 1、相手に誠実な関心を寄せる。 2、笑顔を忘れず前向きに。 3、名前を覚え、意識して名前を呼ぶようにする。 4、聞き手に回り、聞き上手になる。 5、自分ではなく相手の関心を話題にする。 6、その人を心から大切に思う気持を伝える。 これを半年〜一年かかって身につけた結果、多くの友人に囲まれるように なった。 しかし、仮面に嫌気をさして、直ぐ止めてしまった。何故、自分を 偽るのだろう、相手中心の話題ばかりで、自分を抑えなくてはならないのか!と。 人付き合いが良くなった反面、自分を抑えすぎて、日々、息苦しくなっていた。 その後、所属した武澤ゼミの影響もあった。 ・・・・・・ 2013年05月20日(月) 4447, 早朝座禅 − 「早朝座禅ー 凛とした生活のすすめ」山折哲雄著 *「死生観」から「生老病死観」へ 信長の時代から終戦までは人生50年の時代であった。それから僅か50,60年 もしないうちに人生80年の時代になってしまったが、それまでの死生観では、 30年も多く生きる時代に対処できなくなってきた。それが異常な自殺者の増加 というカタチで出ている。そこで問題になるのは老いと病に対する対処の仕方 である。ここで著者は「死生観」から「生老病死観」への対応が必要という。 ガンになれば、以前なら老人病で助からない自然死に近い扱いであったが、 治療で乗り越えるケースが多くなる。しかし、治療で生き延びた方が幸せかと 老と病に対する問題が出てくる。そして、それが自殺の増加につながってくる。 ー まずは、その辺りから、抜粋してみるー ≪ 人類は「人生五〇年」の時代を長く続けてきた。日本の場合、一九四七年の 平均寿命は男性が五〇歳、女性が五四歳だったが、その二〇年前や三〇年前は 織田信長が、桶狭間で、「人生四〇年」だったかというと、そんなことはない。 あの織田信長が、桶狭間の戦げてんゆめまぼろしごといの前夜に「人間五十年、 下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」という冒頭の一節で知られる幸若舞 「敦盛」を舞ったのは、一五六〇年のことである。その時代からほんの数十年前 まで、四世紀から五世紀もの長きにわたって、人間の寿命は五〇年だったわけ。 現代人は、平均寿命が徐々に延びるのが当たり前だと思っている。だが、 それはごく最近になって生まれた「常識」にすぎない。何百年にもわたって、 「人間の寿命はおよそ五〇年」というのが世の中のスタンダードだった。 したがって「人生八○年」というのは、人間社会にとって「常識破り」の 大変化だといっていいだろう。人の一生がいきなり従来の一・五倍以上に膨張 したのだから、その急激な変化が人間の心理に影響を与えないはずがない。 当然、何らかの不適応が起きるだろう。現代人のうつは、その不適応のひとつ なのではないだろうか。 というのも、「人生五〇年」と「八○年」では、 人間のライフサイクルがまるで違う。人生五〇年の時代は、働きづめに働いて、 気がついたときには死が目前まで迫っていた。だから「人生観」のことを 「死生観」とも呼んでいたわけだ。だが、人生八○年になるとそういうわけには いかない。さんざん働いて定年を迎えても、死を迎えるまで二〇年、三〇年もの 時間が残されている。ゆっくりと老い、衰えや病気とつき合いながら、徐々に死に 近づいていくわけだ。そのライフサイクルは、「生か死か」というシンプルな ものではない。「生」と「死」のあいだにある「老」や「病」を受け入れざるを 得ないのが「人生80年」の時代である。その場合、人生観は「死生観」だけでは 足りない。「生老病死観」とでも呼べるような、新たな人生観、もしくは人間観 のようなものが求められるわけだ。 ≫ ▼ 両親の最期に、二人を看取ったこともあり、生老病死を近くで見たが、 いざ自分が、その時期に近づくと、一人称と二人称の、あまりの開きに驚く。 身体はあちこち痛むし、心は暗くなる。世の中は、決して老人に優しくない。 それと身近が次々と亡くなっていく中、死の不安の問題が出てくる。所詮は、 全てが死んでしまうのが分かっていてもである。考えようによって、以前は僅か だったが、現在は殆どが、長生長者。生老病死をじっくり味わうことができる。 どう味わうかは「生老病死観」になってくる。その中で、やはり自分一人の世界を 持ち、味わうことが求められる。現在は情報化の時代、その気になれば幾らでも 味わう対象が手に入る。そうなると、それまでの準備があるか? 群れから自分から離れ、「ひとり」になれるかどうか。 手っ取り早いのが、早朝の座禅、瞑想になる。長生きは辛く面白い! ・・・・・・ 4073, 哲学で自分をつくる ー2 2012年05月20日(日) 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」瀧本 往人(著) 以下の人たちの哲学を一通り理解し、ダイジェスト的に説明出来れば一応、 哲学の歴史の一端を理解出来たことになる。対象が哲学の初心者に向けられて いるので、門前の小僧にとってシンプルで分かりやすい。ーはじめにーより ≪ 本書に登場する哲学者と、哲学史上の位置づけは、以下のとおりである。 �哲学は、ソクラテスからはじまる。 �近代西洋社会を支えたのは、デカルト、カント、へーゲルの哲学である。 �根本的な近代批判を展開したのは、マルクス、フロイト、二ーチェである。 �二〇世紀の哲学を構築し直したのは、フッサール、ベルクソン、 ウィトゲンシュタインである。 �二〇世紀の哲学を反転させたのは、スピノザ、ハイデガー、メルローポンティ。 ※スピノザは一七世紀の人間であるが、影響という意味でここに配置。 �二〇世紀哲学は、実存主義と構造主義の対立、つまりサルトルと、 ソシュール、レヴィストロースの対立に代表される。 �二一世紀の哲学は、フーコー、デリダ、ドゥルーズからはじまる。 一般的な哲学入門書と似たような構成をとっているが、確固たる哲学の教義 体系に必ずしも沿ってはおらず、「近代」以前の哲学や西洋以外の哲学に ついてもあまり言及していない。また、哲学の知識や技術を伝授するような目的 で書かれたものでもない。ここで言う「哲学」とは、今生きている私たちの 「常識」的な考えの「見直し」。「常識」を「否定」「非難」しているわけでない。 あくまでも「見直し」は、哲学で言うところの「批判」である。その結果、 あなたがこれまでの「常識」と違った考え方を持てるようになったならば、 本書の目的は達成されたことになる。もちろん、「常識」も大事である。 鵜呑みにするのがよくないだけである。いろいろと考えた末に、「常識」 的な考えに立ち戻ってもかまわない。「常識」以外にも別の視座を持ち、 力強く二一世紀を生き抜けるよう、願ってやまない。 ≫ ▼ この近代哲学の区分けも分かりやすい。著者は、常識的考えの「見直し」 という点を強調しているが、哲学は本来そういうこと。 共通するのは、 あくまで入門書のため。現在ギリシャが経済を含め破綻しているが、欧米の 行き詰まりの象徴であるギリシャ哲学の行き着いた果て。人間の心の奥には 不安、悩みが常に沸きあがっている。目先の安易の解決を図ろうとせず、 一度、世間的常識から手を切ることだ。勝手なエゴイズムにならない ようにしながら、考え抜いて肯定的に生きるべきである。 ・・・・・・・・ 3707, ジャズについて −5 2011年05月20日(金) ー 「音楽の本」三枝成彰著 より ジャズといえば、日本人の私にとって、「アルカポネがいた20世紀初めの 大都会の下町の酒場で、マフィアとか、チンピラの屯している中で、数人の 演奏者が奏でている曲」というイメージがある。実際に、ジャズの歴史に残る 巨人たちは、そこから名をなすことになる。以下の三人も、ジャズに興味が 薄い私でも知っている名前である。 * "不良の巣窟"に生れのホーキンス、レスター・ヤング、カウント・ベイシー 【 p・189ー アメリカ中西部のミズーリ州カンザス・シティ、まさに ‘不良の巣窟’だった街に目を移してみよう。アメリカでは二〇年から三三年 までは禁酒法の時代だった。禁酒法はかえってアル・カポネに代表される ギャングを生む土壌をつくった。カンザス・シティは、こうしたギャングたち が経営する密造酒場やダンスホールが栄えた街で、ジャズもまたそうした 場所を賑わせることになる。カンザス.シティのジャズを代表するのが、 コールマン・ホーキンス(一九〇四〜一九六九)とレスター・ヤング (一九〇九〜一九五九)という、スタイルがまったく対照的だったテナーサックス 奏者の二大元祖だろう。ホーキゾスは、アップテンポの曲では豪快に荒々しく、 バラードでは甘く柔らかく、低音域から高音域まで緩急自在なトーン・ コントロールで、サックスを単なる伴奏楽器からソロをとれる楽器へ押し上げた。 三〇〜四〇年代のニューヨークでは、たいていのテナー奏者がホーキンスを手本 とした。 一方、レスター・ヤングは、同時代人としてホーキンスの色に 染まらなかったところに、その独自性がある。彼はニューオリンズ、メンフィス、 ミネアポリスと渡り歩いて、カンザスシティのカウント・ベイシー楽団で頭角を 現わす。そのテナーサックスは、ホーキンスのリズミカルな力強さよりも、 まろやかでメロディアスなフレージングを特徴とした。二人ともスウィング・ ジャズ時代に全盛期を迎えたが、のちのビバップ時代のアーティストとも共演。 ホーキンスのテナーは、スウィングの衰退後しばらく鳴りをひそめていたものの、 五〇年代後半、ジャズの復古ブームとともに蘇り、力強い豪快なトーンの健在 ぶりを示してビバップ派を驚かせた。しかし晩年は深酒に溺れ、栄養失調による 餓死同然の状態で最期を迎える。レスター・ヤングはシンガーのビリー・ホリデイ (一九一五〜一九五九)との共演でも知られ・ビバップ時代以降は、スタン・ゲッツ をはじめとするクール派の白人アーティストの間に熱狂的な信奉者を生んだ。 彼は軍隊生活で人種差別にあったことなどからその神経を病み、やはり酒と ドラッグの助けを借りることが多くなって、晩年のセッションはしばしば 深い憂馨をたたえたものになる。、 カンザス・シティのジャズといえば、 なんといっても、カウント.ベイシー(一九〇四〜一九八四年)と彼の楽団を 抜きにして語れない。カンザス・シティ。そのカンザス・シティを拠点に活躍 していたカウント.ベイシーも、のちに楽団を率いてこユーヨークに進出する。 エリントンとベイシー。期せずしてビッグ・バンドの両雄がニューヨークで 相対し、人気を二分する。いや、三十年代に入って禁酒法が廃止されると、 カンザス。シティの歓楽街の灯も消え、そこを拠点にしていた他の腕こき ジャズメンも相次いで、この街をさり、ニューヨークへと向かうことになる。 以後、ジャズの中心地はニューヨークになっていく。 】 ▼ 当時の黒人はスポーツかジャズマン位しか名をなす機会がない世界。 そこで名をなすのは至難の技の筈。その曲に魂が入っていて当然。 ・・・・・・・ 3342, 医師と看護婦の危ない関係 2010年05月20日(木) いまさらの話だが、医師と看護婦の危ない関係が表面化してしまった。 下世話の話だが、何処かの同級会で「あの何某、医師になって順調に出世 しているが、彼の話だと看護婦は、○○放題?だと!」。酒席で酔っ払って いるので、言っている方も、聞いている方も、ほぼデマ?として本当とは思って ないが、「そういうこともあるんだ?」と、半信半疑で聞いたことがある。 看護婦の立場からみれば、医師にみそめられるのが理想系だが、医師の立場 からすれば、同じ医師か、その世界の娘と結婚をするか、医師のネーム バリュー?で自分より格上の家の娘を対象にする。 (字数制限のためカット 2012年5月20日)
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2015年05月19日(火)
* 後世への恥さらし 〜歴史的汚点の結果に ・大阪都構想は、僅差で否決され、これで維新の党は消滅をする。 これは既存政党丸がかりで「維新の党」を潰したと同じ。後々、 この否決は、日本の没落の象徴として位置づけられる。大阪市民がノー という選択をしたことは、間違いなく、日本の将来に暗雲をもたらす。 本気になって日本を変える気持ちが無いという選択である。 ・ある批評家が、ブログで、「大阪市政廃止は、何の合理化にはならない」 と、したり顔で論じていたが、この問題は、「日本を本気で変えていく気が ありやなしか」の突破口の杭になるかどうかだった。東京オリンピック開催を 選択した上に、この有様。これが日本の現状である。それにしても、日本の 既成政党が、こぞって、反対したとは、何をか言わんである。この結果の、 マイナス効果は、大阪だけでなく日本を痛めつけるだろう。 ・私が橋下を代弁すると、『仕方がない、この結果の評価は歴史が証明する。 それにしても、この既成政党の全てが総がかりで反対とは、世も末。 これだけ、内側の市長と、県知事の立場で内部告発をしても、市民、府民が 理解できないとは思いもよらなかった。何が地方再生だ。その前に、大阪を まな板に上げ、徹底的に合理化をすべきだろうに。 これでは、生活保護の 対象者は大阪に殺到する。彼らは、この甘さを享受したいからだ。 無念だが、仕方がない!』 ・これもそうだが、気持ちの悪い空気が覆い始めている。 こういう時に、 大地震と噴火が得てして起きる。バブル崩壊の数年後に淡路・神戸大地震が、 リーマンショックの4年後に東北大震災が起きた。恐らく近い将来に経済の クラッシュが起き、その数年後に大震災の可能性が・・(逆もあるが) 何か、自分の死の不安を重ねている? ようだが。 ・・・・・・ 4813,閑話小題 ー高齢者の三割が認知症とは 2014年05月19日(月) * 高齢者の三割が認知症とは 先日の朝日新聞の社会面に「認知症徘徊 不明届け一万人」の記事があった。 その中で「65歳以上の高齢者のうち462万人が認知症で、軽度認知障害が 400万人もいると推計される」とあった。高齢者が人口に占める割合が 23〜4%からすると、高齢者が3000万人。その中の862万とすると、 三割が軽度を含めた痴呆症になる。前期と後期高齢者では、二倍以上は違って くるから、80歳までに4分の1、それを超えると、過半数は認知症になる。 そして徘徊で不明になるのが年に一万人というから、深刻な問題である。 それからして、長寿を願うのは実は考えもの。独り住まいの高齢者が増加 している中、本人も周囲も深刻な問題である。「健康診断などしないで自然死も 選択の一つ」も、理解出来る。胃瘻で一度、管につながれると、簡単に取り払う ことが出来ない。生かして拷問しているようでもある。 死ぬも地獄、生き延びる も地獄。老いて死ぬのも大仕事である。これを書いたためか、自分が認知症に なって呆然と佇んでいる夢をみた。脳は面白いものである。その夢とは、 <店頭で、ハンバーガーとコーヒーを注文するが、商品がなかなか来ない。 それを(どういう訳か中年男)の店員に言うが、何も答えない。ところが後で 入ってきた若い男が目の前のチケットを取って、カウンターに並んでいる。 私が店のシステムの要領を得ないで財布を持って勝手に立っていたようだ。 仕方がないので、店から出て、他のテイクオフの店に行くが、店内の座席は、 二人以上でないと座れないという。どうも自分が認知症で、街を彷徨っている ことに気づいた>ところで、目がさめる。何か恐ろしい夢だが、認知症とは、 こんなものと自分自身に知らしめる内容である。そうこう考えると、可能な 限り医者に行かないで、自然にまかせることも選択の一つである。いざ、余命 一年、半年と告げられると、その恐怖は、はかり知れないのは父親の姿で知った。 傍らに一年いて、その恐怖感が直に伝わってきた。それも、激痛が死にたくなる ほど激しくなっていく。死にいくのは、簡単なことではない。そのため認知症を 神様が与えた自然の業わいとも言える。マダラボケになるから、本人も、周囲も 地獄になる。 生きているうち、元気なうちである。以下の内容も、その類? ・・・・・・ 4446, 屋根裏に誰かいるんですよ 2013年05月19日(日) 「屋根裏に誰かいるんですよ ―都市伝説の精神病理」春日 武彦著 数年前になるが、既に亡くなった知人の奥さんが会社の事務所に訪ねてきて 言うに、「誰かが留守に家に入りこみ、困っている」と切り出してきた。 それも会話の中で何気なくである。「ちょっと、待ってください。聞き捨てに ならない話で、もう一度、本当に侵入していたのですか」と聞きなおすと、 現在も屋根裏に隠れていると、写真を数枚だし、ここですと言う。 私の目には見えなかったが、本人には見えるという。「警官に来てもらい 見たが、何も見つからなかった。が、私には隠れているのが分かる。ところで、 うちの主人が生前、そういう話をしてませんでしたか? 貴方にはシックス センスがあると聞いてましたが、この現象をどう思いますか?」と真剣な眼差し。 「恐らく貴女は、魔界とか何か違う世界に取りつかれたと考えるしかありません。 そういう話は一度も本人から聞いたこともありません」と答えた。その話を、 その人の共通の知人に話すと、「実は私の家に訪ねてきて、全く同じ話をし 写真を見せてくれたが、何も見えなかった。他にも訪ねてまわっている」 とか。本人は60歳前後で、老女というには、まだ若い。 ーアマゾンの内容説明ー 精神科医である著者が、現代社会におけるさまざまな精神病理を、きわめて 冷静に考察したものである。ある日、ひとりの老女が、「自分の部屋に勝手に 人が入ってきて困る」と訴える。その侵入者は、彼女の部屋にある日用品などを 盗んでいったり、ちょっとだけ位置をずらしていったりするという。しかし、 姿は見えない。まるで、「座敷わらし」などの妖怪のしわざとしか言いようが ない不可解な話を、老女は真剣に語る。 表題となっているこの症例は、 「幻の同居人」と呼ばれる。このような症例は、多数報告例があるらしい。 患者たちは、脳に器質的な異常が認められるわけではなく、精神的にも問題ない 場合が多い。「妄想の突飛さと当人の穏やかな常識人ぶりとのあいだに乖離が 生じているときには、精神医学はたちどころに歯切れが悪くなってしまう」 と著者は言う。それがこの症例の複雑さと奇妙さとを物語っている。 ▼ 当時は、この本の存在を知らなかった。 子供達の巣立った家で、 当人は深夜怯えているのだろうが・・ 想像しただけで、背筋が寒くなる。 当人にとって感じるのだから!私も一時期、女性の幽霊?を見たり、幽体離脱 をしたり、面白い経験をしたことがあるので、当人が真剣になるのは分かる。 ・・・・・・ 4072, 南直哉 恐山菩提寺院代の話 2012年05月19日(土) 昨夜の18日、BSフジ・プライムニュースに恐山菩提寺の南直哉(じきさい) 院代が2時間近く出演し、「生きる」ということ、「死」について、説いていた。 最近、「恐山」出版されたようだ。東北震災で家族を亡くされた人が多く訪れて くるというが、行方不明の場合、縋る思いで恐山に救いを求めるのは分かる。 院代とキャスターの問答の中で多くの鋭い指摘があった。 ・恐山は感情の器。 ・死は観念、生は感覚。 ・「やりすごす」ことの重要性。(なんとかやっていける方法がくるまで待つこと) ・人間には存在が認められた経験が必要。最初の動力になる。 子供の頃に、その基盤を両親がつくるが、それが壊れてしまっている。 ・自殺は選択の問題。まず生きることを選択すること。転んでも起き上がる ことが大事、自殺したくならないような人生は本来の人生でない。 ・あの世があるか?の質問に対し、「その前提に、死後の世界がある、という 認識がある。」その前提は何か?と逆に問う。 ・最近さかんに「心の時代」というが、どんな時代にも、その時代を生きた人 には心があったのであって、いまさら、この時代だけを「心の時代」と言うのか? 「心の時代」と声高にいう人たちは、そう言うことで、「心の時代」という商品 を作っているではないか?等々だが、訪問者が色いろの遺物を持ち込んでくる。 その中に花嫁姿の人形が年に十数持ち込まれる。10年もすれば百以上になるが、 捨てるに捨てられないという。毎年、その人形に拝みにくる家族がいるからだ。 その花嫁人形も、特注のものばかり。院代の話の奥行は深い。東北大震災で 奥さんがお産のため実家に帰っていて、亡くなられたヤンキーっぽい若い人 の話が、涙を誘う。ただ独りで来たが、哀しみが感じられなかったという。 哀しむまで心が追いついてないのだ。本当の悲しみは時間とともにやってくる。 あっという間の二時間だった。30年前に行った恐山は、強烈な印象である。 山鳴りと、硫黄の臭いと、老人が多く入っていた硫黄風呂。あちこちに 置かれていた遺品。そして、イタコと涙ながらに話している人たち。 目の前に広がる白っぽい小さな湖。哀しみの感情の器である。 ・・・・・・・・ 3706, 自己を見つめる −23 2011年05月19日(木) ー 他者について ー 「自己を見つめる 」渡邊二郎(著) 幼児の頃から、「自分」は、他者の呼びかけによってカタチづくられていく。 一般的には、「他者」は、自分以外の人や、生物、そして物を総称して呼ばれる。 二人称の「汝」と「我」の出会いと対話から生じてくるのが他者である。 【(* 対人関係の葛藤の海 ーp186) 二十世紀になって、たとえば ブーバーなどを中心として、多くの思想家によって二人称の「汝」と向き合った、 「我と汝」の出会いと対話の関係が、人間存在の根本事実として、改めて 強調されるようになったのも当然である。とりわけ、人間関係が稀薄になって ゆく機械的現代文明社会のなかでは、「我汝関係」の豊かな拡充が緊急の課題 として重視された。ブーバーなどは、汝の奥に、永遠の汝の面影さえ予感して、 神の前に立つ自己の存在の確認を、汝との出会いの延長線上に設定するほど。 こうした我汝関係の思想は、十九世紀前半のフォイエルバッハあたりから始まる とも言えるが、とりわけ現代において強調された重要な問題意識である。 さりながら、そうした他者のうちに、たとえば、サルトルは、むしろ逆に、 鋭く私の秘密を握って、私に対して支配力を行使しようと隙を窺っている、 油断のならない「まなざし」を予感した。したがって、そこでは、自他の関係は、 永遠に自由をもった者同土の「相克」が宿命となる。調和的な共同主観などは 幻想であり、むしろ、個別の体人同士の峻烈な争いと闘いが、対人関係の根本 事実と見なされるわけである。 ヤスパーも、人間関係において、やはり、 争いを、不可避の個別的限界状況と捉えていたことは、すでに述べた。 ・ つまり、一つには、人間関係の根本には生存競争という非情な争いが、 一皮剥けば、いたるところに隠れ潜んでいることが、すぐに露呈してくる からである。実際、人間関係の深刻な極限的状況においては、食うか食われる かの、生死を賭けた争いの火花が噴出してくることは、誰もが覚悟している。 また、平凡な日常生活の場面においても、いろいろな局面で、先着順や成績順 や業績順や体力順によって、岐路が分かれ、自他の運不運の差が顕在化して、 憂き世での浮沈が結果としてくる。 ・ さらに二つには、自己と他者は、相互に協力し合いながらも、 「愛しながらの争い」において、互いにたえず、本心を確かめ合おうとし、 公明正大さをめぐる人間的吟味の鋭い眼を、相互に向け合う。すなわち、 自他は互いに、相手が、どれほど誠実であるか否かを、いつも気懸かりの 種とする。つまり、他者を、その誠意や裏切り、欺朧や正直、傲慢や謙虚、 忘恩や怠慢などの点で、吟味して、他者が真に信頼の置ける人物であるか否か、 人は不断に確認しようとする。・・・ 】 ▼ ソクラテス、デカルト、カントの三者の考えは、みな「私」を拠り所 にして他者や世界と立ち向かっていたと感じていた。しっかりした「自分」 があってはじめて他人と接しることができると考えていたようである。しかし、 19世紀初めに生きたヘーゲルは、この考えに根本から批判する。 自分が自分でいるのは、先に「私」があるのではなく、むしろ他者が先にいる からであると。少なくとも、相互作用が必要と言う。「他者」が「私」のことを 意識することによってはじめて、「私」は、この世に位置づけられる。人生の 節目どきで、身近にいた他者が変わる時に、この意味が実に鮮烈に見て取れる。 特に内面の希弱な人にとって、他者の交代の節目は、自分を支える基盤が 無くなり、大きく動揺する。老齢になるほど大きくなる。 ・・・・・・ 3341, 今日からデジカメ写真がうまくなる 2010年05月19日(水) 「今日からデジカメ写真がうまくなる」 久門易著 元もと写真が好きで多く撮ってきたが、デジカメが出来てから、それが より多くなったようだ。それにしてもデジカメの機能の日々の進化は目を見張る ものがある。プロとアマチュアの差は、「多くの角度から枚数を撮って、 その中からベストのものを選択できる要因の差」という。 (字数の関係でカット2,012年5月19日) ・・・・・・・・・ 2966,ミューズが降りる 2009年05月19日(火) 先日、立川談志のテレビインタビューを見ていたら「ミューズが降りた」芸 について語っていた。年に2〜3回はあるという。 話芸の中の人物に魂が 降りてきて、自分でも信じられない芸になる。その幾つかの中の一つの 「芝浜」の録画を放映したが、何度か観たことのある録画。名優の演技には、 度々あるのだろう。森光子の放浪記の演技の中でも多くあったはず? 談志曰く、「その時の芸は自分でも抱きしめたいようだ!」 ーネットでミューズを調べてみると・・・ ー「ミューズ とは、ギリシア神話に出てくる、文芸・音楽・舞踊・哲学・天文 ・芸術一般などの女神たちの総称。個々の女神は、Muse ミューズで単数の形に なります。 大神ゼウスと、記憶を意味するムネーモシュネー女神のあいだに 生まれた、9人の姉妹とされている。ー 芸の中の人物を演じていると、 その人物が自分を観ている錯覚を覚えるという。 霊感の鋭い人の感覚は、 鈍い人に解りようがない。スポーツ選手でも、政治家でも、一番勢いの乗って いるときは、誰でも神がかる。神?が本人を使っている状態か。頭に浮かんだ イメージに自分を通してエネルギーを入れると、魂が入るということだ。 芸術品もミューズが降りた神の仮の姿とみれば、違った面も見えてくる。 私の同級生の兄が「能」をしているが、「能の世界は現実か、現実が幻想世界 か、混同することがある」(新聞紙上)と、同じようなことを言っているのだろう。 ところで私にミューズが降りたことがあっただろうか? いや、誰にもあること でしかないか?言わないだけ、表現する場がないだけ、表現方法を知らないだけ、 それだけ人間の脳力は深いということ。 (後記ー偶然、昨年書いた、「ごっこ遊び」が、関連したような内容。) ・・・・・・・・・ 602, ごっこ遊び 2008年05月19日(月) ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。 ーまずは「ごっこ遊び」を、ー辞書で調べてみるとー 【ごっこ遊びはこどもの遊びの一種で、何かになったつもりになって 遊ぶものである。通常、○○ごっこというように、何かの名前をつけて呼ぶ。 何かの職業のまねをして遊ぶ場合や、テレビやマンガのヒーローやヒロイン のまねをして遊ぶ場合がある。こどもはあこがれを抱いた対象ならどんなもので ごっこ遊びにしてしまうので、 「わんちゃんごっこ」や「お人形さんごっこ」 など大人の予想しないごっこ遊びを始めることがある。】とある。 子供の頃に、多くのごっこ遊びをした記憶がある。最近は、若者の間に アキバ系で「メイドカフェ」なども、「ごっこ遊び」そのもの。 他にも、ロールプレーイング・ゲームがある。元々は戦争シミュレーション ゲームから派生したアメリカで考案された遊び。参加者が各自に割り当てられた キャラクターを操作し、一般にはお互いに協力しあい、架空の状況下にて 与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を 目指すゲームの一種。様々な設定と制約の元で、空想上の世界で物語の登場人物 のように活躍できる。考えてみれば、世の中の多くは「ごっこ遊び」のような もので、国が発行している札だって、所詮は紙切れでしかない。 (字数の関係でカット2,011年5月19日)
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2015年05月18日(月)
* あなたの中で何をしているのですか イタリア作家のタブッキの、『インド夜想曲』の中で、その「僕」は、 ピントという名前のポルトガル人を探して旅をしているらしい。ポンペイ、 マドラス、ゴアへ。 その中の一文が印象に残った。 ≪「漂泊の旅」などといいうが、旅の無意識の目的とは、今までの自分を失くし、 新しい自分に出会うことなのかもしれない。・・ 深夜の駅で、「僕」と死を 目前にした、「インド人の紳士」が、どこかぎくしゃくとした会話を交わす。 「この肉体の中で、われわれはいったいなにをしてるのですか」 「これに入って旅をしてるのではないでしょうか」 「なんて言われました?」 「肉体のことです」と僕はいった。 「鞄みたいなものではないでしょうか。われわれは自分で自分を運んでいる といった」 みずからの影に運ばれるわたしは黒いケースにおさまった ヴァイオリンそのもの。≫ ▼ 死を悟り、「この肉体を与えられ、それを使って、この人生で何をして きたのだろう?」と思うとき、「あ〜長い旅をしてきた! しかし、一瞬 だった気がする!」」と思うのだろう。「私たちは地球上に、一回限りの 70〜80年(平均)の旅行にきている」のである。そこで、互いに首輪の 紐を引っぱりあい、世界を見ようとしない人たちを、『世間びと』ともいう。 で、以下のミニマリズムに繋がっていく。 * ミニマリズム 最近、「ミニマリズム」なる言葉を知った。 その意味とは、 <最小限主義で、無駄をそぎ落として最も重要なことにフォーカスること。> 人生の夕暮時に入り、ミニマリズムを本格的に取り組まなくてはならない 時節ということ。 母親を看送った51歳の節目に、人生のギアを入替えた。 そのコンセプトが、 「還暦までの9年間に、80歳までの30年分を10年に圧縮して生きる」と、 濃厚な日々として過ごした。それが次の事業清算の決断?に繋がっていく。 そして、次の最重要事項が「死に準備」である。この20数年以上にわたり、 「死に関する本」を読んできたが、死ぬときは、七転八倒の苦しみの中で、 漆黒の闇に消滅していくしかない。ただし、その直前までは活ききればよい! ・・・・・・ 4812,閑話小題 ーシネマ『それでも夜が明ける』 2014年05月18日(日) * シネマ『それでも夜が明ける』 ー評論 一昨日はシネマの日。今週は『それでも夜が明ける』を、みた。評)90点 暗い内容だが、重厚で、アカデミー賞の作品賞をもらうだけのことはある。 南部の奴隷が動物並みに扱われていた実態は、それは酷い。中南米諸国の アスリストの身体能力が高いのは、奴隷としてアフリカから運搬船で送られる 船中で、まず淘汰。その後、過酷な肉体労働で生き延びた人たちから、さらに 選び抜かれているため、異常に高い身体能力があるという。当時の南部では、 家畜として見ていたようだ。 インドのカースト制は、三千年前に西の方から やってきたアーリア人が、ヒンズー教を創りあげ、肌の色で階級をつけた仕組み で、そのミックスを防ぐのが目的で、現在も、そのまま続いている。 白、赤、 黄色、ねずみ色の順に、見た目だけで階級が判断できる。その上に体格も、 顔つきも、そのまま三千年の歴史が現れ出ている。最下層は、牛以下で、車で はねても、そのまま立ち去ってしまう。先進国、後進国の格差も、似たような? 3年前の節目時の日々は、『それでも夜が明ける』そのもの。 『闘い済んで日が暮れる』である。ただ、面白みと味わいもあったが・・差別?、 軽蔑の視線をモロに受けてみて、「成るほど、こういうものか」という逆視線と、 経験したことのない怒りと、その対処法の知恵も出てくる。いちいち怒って いられないので、その場でイメージで消去してしまう。それで相手への憎しみも 怒りも、その場限りで不思議なことに消えていく。 消去方法は?企業秘密。 で、再び怒りが出てきたら、その都度、小まめに消去する。10回もすれば、 ほぼ消去。百回なら大病、事故? 何度も書くが、避難先の高台(現状)から、 外海に押し寄せてくる大津波に、ただ、漫然としている人たちの姿が見える。 三分の二は助かるが、三分の一は、間違いなく飲み込まれる。危ない人ほど、 自分は大丈夫とタカをくくっている。 この映画の主人公のように、ある日、 突然騙され南部に売られ自由を失った主人公のように、突然、全てが失われる。 これは、社会的変動だけでなく、誰にでも起こる生老病死の問題もあるが。 国家としての行き先は、現在の韓国のように、韓国内の企業の株式の8割が 外国所有になって、民度は落ち続け、客船沈没事件とか、得体の知れない宗教 団体の跋扈とか・・ それでも、かの国の夜が明けている。 色いろ考えさせられた映画である。 ・・・・・・ 4445、早朝座禅 2013年05月18日(土) 「早朝座禅ー 凛とした生活のすすめ」山折哲雄著 この本を読んで直ぐに30分早く起きて、早朝座禅を取り入れてみた。 まずは、今月一杯は続けてみるが、どうなるか。今のところ抵抗感も、 異物の習慣といった感もない。もう40年以上も朝起きの習慣化があった 上に、その時間帯での全てがカタチを変えた瞑想みたいなもの。 朝の散歩やミニサイクリングは、移動座禅といってよいほど。何故、今まで 軽い気持ちで早朝座禅か、瞑想を取り入れなかったのが不思議なくらい。 30年間の新幹線通勤の往復一時間が、瞑想に近いし、夜半の4時間の 爆睡後の一時半から4時半までの三時間は、瞑想に近い状態になるので、 あえてその必要が無かったこともある。しかし姿勢を正し、目を瞑り、 思いに捉われないで、覚醒した気持で正座をするのとは違うのは、 経験して初めて知ったこと。 ーまずは、(内容ーアマゾン)よりー < 現代ほど「人間関係」の重要性が説かれる時代もない。家族、学校、 会社、それぞれにおけるコミュニケーションの大切さが謳われる一方、 疲れた人やうつ病は増え続け、自殺者は九年連続で三万人を超えている。 著者は、疲れたときには「群れ」から離れて「ひとり」になってみよ、という。 毎朝、五分坐って、己の心と向き合う。正しい姿勢で、深い呼吸をする。 季節の風を胸元に入れながら、歩く。ときには庭にたたずみ、河原で風に 吹かれる。ひとり静かに自分自身や自然と向き合うことが、騒々しい人間 関係の疲れを取り、豊かな人生を手に入れる最良の方法。凛とした生活を 送るために大切な身体作法を実践的に説く、山折流・人生指南の書。> =概要をマトメルと= ≪ 現代社会にあふれる‘うつ’の現象を分析し、 ○過去に人生モデルが見つけられない程の高年齢化。 ○宗教的な感覚が欠如した口先だけの言葉の群れの氾濫。 それが、世の中に不安をもたらすモノノケとなり、うつを蔓延させている。 回復には、ひとりで静かな中で早朝坐禅をし、モノノケから自由になり、 歩く・泣く・眠るという3原則が大事とのこと。 宗教は非日常性。 教会でもお寺でも、日常の気持ちから離れ、心を改めて参拝します。 一方、俗人の日常は、非宗教です。宗教者とは違い、生活に宗教性は薄く、 実生活を営んでいきます。著者にとっては、この場は混ざり合っていて縦横に 歩ける無境界地帯のよう。早朝坐禅は、無念無想のために坐るのではなく、 むしろ雑念妄想を吐き出させ、それ以後の1日をスッキリ生活させる為の手段。 またチベットの寺院の真似をして、呼吸さえ密やかにする坐禅中に、茶を喫する などその自由闊達な動きは著者独自のもの。頭の中に湧いてくる雑念をそのまま 流れに任せ感じ、そのまま受け入れる。嫌な事でもいい事でも想像の中で、 いろいろ出来る。著者は「疲れたときには‘群れ'から離れ‘ひとり'になれ」と。 そして自分の心と向き合って深呼吸をする。人間が自分を不幸だと感じるとき、 それは絶対的な不幸をいうのではなく、「幸福な他人」との比較による相対的な 不幸について言っている。 あらゆる不満は他人と比較で生じると。≫ ▼ 創業の第一歩は、「ひとりになること」から始まる。心にイメージした絵に 向かい、ただ独り長年かけ準備をしていく。周囲が現在のことに無我夢中の中で、 一種の宗教のように自分が目指す、創業に向かい一つずつ、パーツを集める。 傍からみたら一種の狂人に近い心の状態。それでも続けていると、カタチが 少しずつ現れてくる。問題は前進を止めないこと。 その中で、心の芯に 「ひとり」を保っていないと、現象に流され、群れに同化してしまう。庭弄り とか、散歩、一人旅、読書など、「ひとり」になる切り口は幾らでもある。 それでも、モノノケに縛られる。早朝禅か、瞑想の習慣は最も有効だが。 さて30分の野狐禅が身につくかどうか? ・・・・・・ 4071, 哲学で自分をつくる ー1 2012年05月18日(金) 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著) 実をいうと、この本、トイレに一年間以上、置いておき毎日読んでいたもの。 これを手に取ると自分の本音を見透かされてようで、切り口が素朴で日常的の ため面白い。あまり知られてない、こういう掘り出しものが哲学書には数多ある。 門前で野狐禅みたいなレベルで知識を弄んでいる輩(私)に、噛み砕いて教えを 説かれているようである。 ー内容ー ソクラテス、ニーチェ、ウィトゲンシュタインから、フーコー、ドゥルーズ、 デリダまで、19人の哲学者の思想・人生のエッセンスを、現代に生きるリアルな 問いに置き換え、今を生きぬいていく方法を学ぶ。(読者評価) 19人の哲学者 たちの声に耳を傾けつつ、もう一度自分自身の頭で考えるということから 始めてみよう。確かに悩みや不安を宿命として受け止め肯定的に捉えるのは 容易なことでは無い。しかしそのために考えることを生きていくことの 力とする哲学というものが存在する。もっと哲学という方法を、すなわち自分で 考えるということの強度を信頼しても良いのではないか・・。著者はそうした 問題提起の下、それぞれの哲学者に成り代わって現代の読者との対話を試みる。 しかし本書は哲学者を高みの存在には置かない。また、昨今の入門書のように デフォルメもしない。あくまでも彼らがそれぞれの時代を生きた一人の人間であり、 一人の生活者であったことに軸足を置いている。このニュートラルな哲学者の位置 づけによって、それぞれの哲学者に瑞々しい生命力が与えられ、彼ら哲学者と 現代に生きる我々との問題意識が決して隔てられたものではないという親近感を 得るのに役立っている。 ーはじめにー の冒頭が、この著書の特徴と狙いを書いているー 【 あなたには、自分らしくありたい、人に認められたい、自分のことを 分かってほしい、世の中で成功したい、幸せになりたい、金持ちになりたい、 モテたい、死にたくない、もっと真っ当に生きたい、といった積極的な意欲が あることだろう。もしくは、とにかくモヤモヤしている、何もかもが信じられない、 人づきあいが面倒、生きるのがつらい、何もしたくない、誰かなんとかして、 といったような、消極的な感情もあるかもしれない。過去の哲学者たちがもし、 今、ここにいて、21世紀に生きる私たちの、そういった悩みや葛藤を聞いたなら、 はたしてどうなるのか。どのように聞きとり、どのようなことを語ろうとするのか。 「街の意見」をぶつけられた哲学者が応えるようなスタイルで本書は書かれている。 本書は、あなたに「哲学する」ことを勧める。 ここで言う「哲学する」とは、 生きてゆくうえでの「思考の力を磨くこと」である。既存の哲学を単に解釈したり 理解することではない。日常的に哲学的な問いかけを行い、生きることに役立てる こと、つまり哲学を使って「自分」をつくるということである。】 ▼ 我々にとっての疑問、悩みを歴史上の哲学者が答える形式は分かりやすい。 我々が日常で悩んでいることや考えていることは、全て過去の哲学者が考えて きた一部の悩みでしかない。19人は哲学者の中でも選りすぐりの人たち。 彼らのいっている真理は現在でも、そのまま通じること。最近、気づいたことは、 私の人生はニーチェに大きく影響されていたようだ。この生活者としての生の 内面の疑問に19名が答える形式は哲学を身近に引き寄せる。 残されて人生、とにかく考え続けるしかない。 ・・・・・・・ 3705, ジャズについて −4 2011年05月18日(水) ー 「音楽の本」三枝成彰著 より 1920年代に「ビッグ・バンド・スタイル(4人位のバンド編成が、 15人を超える大編成)」が受けるようになった。その巨人が、あの デューク・エリントン。ジャズの世界を知れば知るほど、面白い。 * ビッグ・バンド・スタイルの流行 【 ジャズの中心がその生誕地ニューオリンズからシカゴに移っていた 二〇〜三〇年代、ニューヨークやカンザス.シティでは、大編成による ビッグ・バンド・スタイルのジャズが流行した。トランペット奏者、サックス 奏者、トロンボーン奏者がそれぞれ四人程度、それにピアノ、べース、ドラム、 ギター奏者が一人ずつの編成し、クラシックの楽団には比べるべくもないが、 それでも、一五人を超えるメンバーからなるビッグ・バンドはニュー・ ーオリンズ・ジャズの編成(一般的にはコルネットット、トロンボーン、 バンジョー、ピアノ、ベース、ドラム各一人)に比べればはるかに大規模 だったし、現在でもトリオ(ピアノ、べース、ドラム各一が基本)か、カルテット (ピアノ、べース、ドラム各一にトランペットかサックスが加わる)がジャズ演奏 の主流であることを考えれば、大編成と呼んでもいいだろう。 そのビッグ・バンド・スタイルを確立させたのは、フレッチャー・ヘンダーソン (一八九七〜一九五二)。しかし、ニューヨークの黒人居住区であるハーレムの ポールルーム(ダンスホール)やクラブを拠点に活躍したビッグ・バンドの巨人 といえぱ、デューク・エリントン(一八九九〜「九七四)をおいていない。 本名エドワード・ケネディ・エリントン(デュークは公爵という意味のニック ネーム)は、あとで触れるマイルス・デイビスに、「あらゆるミュージシャンは 彼に感謝を捧げる日を持つべきだ」といわしめ、フランスの作家ポリス・ヴィアン をして、小説の登場人物に、「かわいい女の子たちとの恋愛と、デューク・ エリントンの音楽。それ以外は消え失せたっていい。醜いんだから」と語らせた 人物である。「A列車で行こう」「黒と茶の幻想」「ソフィスティヶイテッド・ レディ」「サテン・ドール」・・・。ジャズ・ファンならずとも耳にしたことが ある名曲.名盤を数多く残し、自らもピアン奏者であったが、彼の真の楽器は、 自分の楽団そのものだったといっていい。アーム・ストロングと同じように時代や 国に影響を与えた彼は、アームのソロイストとは対照的に、優れたバンドリーダー であった。エリントンにとって、バンドのメンバーはさながら絵の具のようであり、 それぞれ個性という色を混ぜ合わせて、最終的には「エリントン風絵画=楽曲」 に仕上げることに長けていた。】 ▼ そうこうジャズについて知ると、学生時代に、こういう本があれば、 もっとジャズ好きになっていた筈である。エリントンの70年の録音された 「ニューオリンズ・スイート」は、その地と縁もゆかりもない彼が、ジャズの 発祥の地に敬意を表したアルバム。アメリカ発の魂の歌と言うことができる。 ・・・・・・・ 3340, 感性・悟性・理性 ーカント 2010年05月18日(火) 理性といえば、「純粋理性批判」のカントである。 ーこの一冊で「哲学」がわかる!ー白取晴彦著ー の中で、 認識についてのカントの考えを次のように書いている。 ≪ 彼は、その中で「・・・我われの認識がすべて経験を以て始るとはいえ、 それだからといって、我われの認識がすべて経験から生じるのではない。 なぜなら、おそらく我われの経験認識ですら、我われが印象(直感)によって 受け取るものと、我われ自身の認識能力(悟性)が自分自身から与えるものとの 結合真実であろうからである。」と述べている。では、この「我われ自身の認識 能力が自分自身から与えるもの」とはいったい何なのか。それは感性と悟性。 ・感性とは、見えている素材がいろいろな形で心に受容される能力というほどの 意味。 感性は五感を通じて現われたもの、すなわち現象を捉えます。 このとき、感性は時間と空間という内なる形式にしたがって現象を整理して 見ています。時間と空間というこの形式は、人間の感性の中にあらかじめ 備わっている先天的なものである。 ・この現象から得た情報を整理して判断するためには、もう一つの理性、 「悟性」がここで必要となる。悟性とは、大雑把にいえば、「理解する能力」。 少し丁寧にいえば、能動的な思考・判断能力となります。さらにわかりやすく いえば、「現象に規則を与える能力」だといえます。この結果、概念の骨格が 一つずつ出来てきてそれに肉付けをしたものがイメージになって出てくる。 受け取った概念はたとえていえば、骨格標本のようなもの。これに対応する イメージを生み出すのが、我われの人間の「心の内奥に隠された技術」 すなわち構想力だといいます。 ・我われは日常的なこと、目に見えることだけを知りたがっているわけでは ありません。「愛とは何か」「神はいるか」「何が善で何が悪か」といった ことを知りたがる。 カントによれば、これら形而上の事柄に関しての担当は 悟性ではなく、理性であるといいます。感性と悟性は現象まで扱い、それ以上 のこと、すなわち現象の原理については理性が扱うのである。 「霊魂は単一か否か」は昔からの馴染み深い疑問でした。 しかし、これこそ、 という答えはありません。霊魂は現象として目に見えるものではない。 しかし、理性はこれについて考えてきた。つまり人間の理性は、感性や悟性が 感知できないものについて、思考をめぐらすことが可能である。 しかし、 カントは、そこで面白い結論を出したのです。すなわち、認識の限界を超えた ことを思考すれば、必ずや二律背反に陥るということである。 二律背反とは、 互いに矛盾するということ、互いに矛盾しながらも互いに反駁も出来ないこと を言います。どうして、こういうことが起こるのか。 感性も悟性も到達 しえない理念について理性が考えても、その考えは認識できるものではない ということです。 ≫ ▼ カントの認識に関するエキスの部分を非常にわかりやすく噛み砕いてある。 「・現象を時間と空間の中で対象として感性で捉え、・悟性で、その対象を 整理をし、・思考して(判断を加え)、・理性で原理を求める」ということが 認識としている。非常に分りやすいカントの認識論である。 ・・・・・・・・ 2965,世界はパンデミックに入ったのか! ―2 2009年05月18日(月) * パンドラの箱が開いた! ついに国内に新インフルエンザの感染者が出て、そして拡大が始った。 時間の問題ではあったが、これからは何処まで感染者が増えるかの問題になる。 感染者が増えていく過程で、菌が悪性化するから問題。予測どおりにゴールデン ウィーク明けの10日足らずで、日本も世界並みに感染が始った。 問題は高校生であるところ、多くの生徒の間に感染している可能性がある。 更に家族などからネズミ算的に感染してる可能性がある。 スーパーや電車など 人混みの多い所は要注意。マスクは殆ど感染に効果がないというし、 よく手を洗うしか予防がない。ウガイは10分以内の菌にしか、 効果がないという? しないよりは、良いのだろう。 (字数制限のためカット2011年5月18日)
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2015年05月17日(日)
『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 さすがの個人主義の哲学者も、老老介護の相談には歯切れが悪い。 介護の世界は複雑で、根深い。極限の場面で、真実を知ったところで、 せめて、気晴らしになるぐらい。最期の最期は、宗教に頼るしかない? ≪ Q: 〜老老介護から人の〈生〉と〈制度〉を問う〜 私は七十四歳の女性。以前の「死ぬ作法」の記事を読み考えるところが多く、 質問させていただきます。私は現在、九十五歳の母親の介護をしております。 昔であれば一番上の子供が還暦を迎えるころには親は天に旅立ってゆくもの でしたが、医療の進歩もあり、寝たきりであっても延命治療が続いております。 世間では後期高齢者医療制度が問題になっていますが、むしろ末期の医療現場を 考えていただきたいと思っています。人が生きるとはどういうことであるのか、 死に近い位置から医療をはじめ生きるということを見直すことが必要ではないか と思っております。哲学のご見地から、寝たきりとなった高齢者の生、死について 何かご示唆いただきたくお願いします。ちなみに私の兄弟三人は皆、病に倒れ 入院生活を送っています。私が倒れたら、どうすればいいものか不安で一杯です。 A: 〜われわれは「生きている」ことの意味が分からないのです〜 これは大変難しいご質問です。私も大学でここ十年ほど「生命倫理」の講義を 受け持ちましたが、さまざまな学説を紹介することはできても、自分の意見を 言えといわれると、とたんに分からなくなる状態です。 逃げのようですが、 あなたのご質問に対して「哲学の見地から」何の示唆もできない、と言うほか ありません。哲学は人を救えないものです。正確に言えば、世界とは、私とは、 時間とは、善悪とは、何か分からなくて悩んでいる人をある程度救えますが、 幸福になりたい人を救う能力は皆無だと確信しています。むしろ、哲学とは 不幸になってもいいから真実を知りたいという欲望をもっている人にのみ 開かれている。真実は必ずしも人々に慰めや、平安や幸福を与えるわけでは なく、逆に不安や不幸を与えるとしても、あえてそれを追究するのですから、 相当ヘンな欲望ですね。そもそも、われわれは「生きている」ことの意味が 分からないのです。ですから、生きているほうが、死んでいることより「いい」 ことを論証できないのです。哲学は「いかに」生きるか「いかに」死ぬかを 教えることはできず(それを安直に言い出す哲学者はニセモノ)、人間が死ぬ ことの意味そのものを問い続けることができるだけです。私も人間ですから、 直観的に「人を殺してはいけない」とか、「老人を虐待してはいけない」という ことは理解できますが、さらに「なぜ?」と問うと途方に暮れてしまいます。 まさに、ここに問題を見出す人のみが哲学に突き進むのであり、そんなことは 何の問題でもない、目の前に苦しんでいる人がいれば助けるのがあたりまえ ではないか、という考えの人は決して哲学の門にはいらないでしょう。・・ ≫ ▼ 難しく、深刻な問題だが、決して他人事ではない。人生の最期は、決して 不幸から逃れることが出来ない現実がある。それに対し、「南無阿弥陀仏」か、 「南無妙法蓮華経」と唱えるしかない。哲学は、「ことの道理」を追求すること が出来ても、人を救うことは出来ない。ということは、人生相談に、哲学は 向いてないことになる。だから、逆に質問の内容そのものの甘さを指摘して 納得させるのが、ベストになる。『人の心の問題は、ほっとけ!』と。 ・・・・・・ 4811, Quirt <内向型人間の時代> ー2 2014年05月17日(土) <内向型人間の時代>スーザン・ケイン著 * 内向型人間は二流の性格特性か? 外交型人間の代表といえば、特にイタリア、スペインなどの南欧の人たち。 逆に内向的人間の代表はフィンランド人を代表にした北欧の人たちからみて、 季節要因と食料が大きく影響しているのが分る。黒夜の時節、15時になれば 真っ暗になれば自殺率が高いのも当然である。冬期間に雪に閉ざされ、内向き になる秋田、新潟の自殺率が高いのと似てる。外交型人間を理想とする価値観 の中で、内向型人間は、一段も二段も低く見られるため、どうしても隠したがる。 ーその辺りから抜粋ー 《 今日、社会が求める性格タイプはごく狭い範囲に設定されている。 成功するには大胆でなければならない、幸福になるには社交的でなければ ならないと、教えられる。 私たちはアメリカを外向型人間の国家として見て いるが、それは必ずしも真実ではない。どの研究を見ても.アメリカ人の三分の一 から二分の一は内向型である。言い換えれば、あなたの周囲の人々のうち二、 三人にひとりは内向型なのだ(アメリカが有数の外向型の国のひとつだとすれば、 世界にはもっと内向型の比率が高い国々がある)。あなた自身が内向型でない としても、家族や学校や職場に何人か思いあたるだろう。もし三分の一から 二分の一という統計に驚きを感じるのなら、それはたくさんの人が外向的のふり をしているからだ。隠れ内向型は、学校の運動場や高校のロッカールームや 大企業の廊下に気づかれずに生息している。なかには自分自身までもすっかり 騙していて、なんらかのきっかけで、たとえば、失業、子供の親離れ、遺産が 転り込んで時間を好きに使えるようになったなどで、ふと自分の本来の性格に 気づく人さえいる。この本の内容を友人や知人に話してみれば、思いがけない 人が自分は内向型だと思っているとわかるだろう。 多くの内向型がそれを 自分自身にまで隠しているのには、それなりの理由がある。私たちは、外向型 の人間を理想とする価値観のなかで暮らしている。つまり、社交的で先頭に 立ちスポットライトを浴びてこそ快適でいられる、そんな自己を持つことが 理想だと、多くの人が信じているのだ。典型的な外向型は、熟慮よりも行動を、 用心よりもリスクを冒すことを、疑うよりも確信することを好む。たとえ悪い 結果を招くかもしれないと思っても、すばやい意思決定を優先する。 チーム行動を得意とし、グループ内で社交的にふるまう。私たちは個性を尊重 すると言いながら、ひとつの特定のタイプを賞賛しがちだ。その対象は 「自分の存在を誇示する」のを心地よく感じるタイプなのだ。もちろん、 テクノロジー分野の才能があって自宅のガレージで起業するような人なら、 一匹狼だろうとどんな性格だろうと許されるが、それはあくまでも例外で、 そういう特例として認められるのは大金持ちか、そうなると約束されている 人たちだけだろう。 内向性は、その同類である感受性の鋭さや、生真面目さ、 内気といった性格とともに、現在では二流の性格特性とみなされ、残念な性格 と病的な性格の中間にあると思われている。外向型を理想とする社会で暮らす 内向型の人々は、男性優位世界の女性のようなもので、自分がどんな人間かを 決める核となる性質ゆえに過小評価されてしまう。外向性はたしかに魅力的で あるがゆえに、押しつけられた基準になってしまっていて、そうあるべきと、 大半の人々が感じている。・・・ 》 ▼ 戦国時代の、信長、秀吉、家康を、この性格分類からみると、信長と、 家康は内向型で、秀吉は外交型になる。家系と、家族と、連れ合いなどの 環境も、大きく左右してくるが、豊かさと、知識も多分に影響してくる。 学生時代の、ある時期から、面白いように次々と小さな殻が壊れていった。 その一つが、父親が私の牛小屋のような寮に来て、その見窄らしい生活に驚き、 仕送りを二倍にしてくれた頃に、欧州旅行と、ゼミの影響もあって、外交型に 自分が変化していった。当時、仕送りが二倍になるのは、日常が根こそぎ 変わることでもあった。 ーつづく ・・・・・・ 4444, 過去の意味は変えられる 2013年05月17日(金) * 過去は変えることはできないが、過去の意味は変えられる 何気ないが心に響く言葉、「過去は変えることはできないが、過去の意味は 変えられる」がある。40年近い事業人生と、この結末を如何に受容するか。 所詮は、人生も事業もバブルと、その崩壊過程の側面がある。何事も始まりと 終わりがある。その行蔵は残るが、変えることはことはできないが、意味は 変えられる。それは、自分が何を目指すか、楽観的か悲観的か、などで意味の 捉え方で変わる。過去の意味(価値)を変えることは、未来と現在に対する 考え方を変える。過去を結果に言い換え「結果は変えることはできないが、 結果の意味は変えられる」として、人生、事業を総括すると多くの視点が 見えてくる。現在こうして存在していることは奇跡である。 全てがベストであったから今の私が、ここに存在している。 (この宇宙、地球、人間など全てだが)それでは「過去の意味を変える」とは 如何なることか。意味に近い言葉に価値がある、意味=価値として考えてみる。 価値とは、その人にとっての優先欲求、優先順位でもある。ということは、 何を目指しているかに行きつく。過去の価値は、現在の価値で解釈が変わって 当然、作り変えられ、加工される? 歴史が、時間と共に解釈が変ると同じ。 意味には真実も含まれるが、その真実もあてにならない。当人が信じていること、 それが真実といわれるケースが殆ど。そこで、真実と意味を辞書で調べると ・【真実とは、虚偽の反語。本当のこと、偽りでないこと。歪曲や隠蔽や錯誤を すべて排したときに明らかにされること。漢字の意味は、事柄の中身を開いて 見たときに、実(じつ)として充満しているもの ...】 ・【意味とは、表現に対する「なかみ」。意図するところ。表現(結果)を さかのぼる真意、意図、目的。ある現象(行為・言語・その他)に添付される、 ある種の上位概念。】とある。 真実も、意味も、言葉の解釈で如何様に変わる。あるのは現在しかないとすると、 過去は記憶でしかない。その記憶も曖昧ときたら、成り立つ基盤は在って無い ようなもの。「過去の意味は、現在の解釈で如何様にもなる」ということ。 ・・・・・・ 4070, 主義とは、内に貫く一つの信条 2012年05月17日(木) * 勇ましい、高尚の人生こそ最大の遺物! ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 「金も、事業も、文学も、思想も、これをもって最大遺物ということが出来ない。 その訳は、誰にでも残すことが出来る遺物でないから最大遺物ということが出来 ない」と、内村鑑三は論じて、こう訴えかける。『それでドウゾ、後世の人が 我々に就いて此の人等は力もなかった。富もなかった。学問もなかった人であった けれども、己の生涯をめいめい持っていた主義のために送って呉たと云われたい ではありませんか。是は誰にでも残すことが出来る生涯ではないかと思います。』 ▼「内に貫く一つの信条」こそ、その人となりである。 私は、「人間として 生まれたからには、人生を全うをすること」を信条にしている。一度だけの 人生、自分で納得できてこそ。納得出来なかったとしても、それも人生だが・・ 主義とは言葉の通り、その人の主たる義。内に貫く一つの信条を実践することが 義である。他人の思惑など入り込む余地など、そこには微塵もないはず。 貫き通せば、勇ましく、高尚の人生が、そこに残る。しかし、人間は所詮、動物の 進化系でしかない。 勇ましい、高尚の人生も、見方でどうにでも解釈はできる。 そうとでも思わなければやってられないということ。やり抜くには刷り込みも 必要である。その刷り込みを、いかに加工するかである。 * 長い期間にわたって不幸なのは、その人が悪い! 誰でも長い期間にわたって不幸なのは、自分が悪いにほかならない。 死も生も堪える勇気のない人も、抵抗しようとも逃げようともしない人、 こういう人にはどうしてやればよいのだろうか。ーモンテーニュ『エセー』より ▼ どこにでもいる、不平家。 勝手に不幸と決め込んでいるから始末に悪い。 悪いことに親から相続しているため直しようがない。現実を全く疑い持たない 一般にいう世間人間。いっけん純粋で素朴のため、世間幻想を現実と信じている。 まともに思考をしたこともなし。 傍によらないことだ。不幸、幸福など、 これまた解釈の仕方ひとつ。不幸の時期ほどベストのことが隠されている。 ベストよりベターが良いと、信じているんじゃないのか、彼らは?いや自分か? ・・・・・・・・ 3704,自己を見つめる −22 2011年05月17日(火) * 死について ー� 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 死に際し、結局は神に頼りざるをえないのが人間。絶対者への希求に行き 当たるのである。 最後は絶対者の支えなしには、人間自身が、己を支える ことが出来ないのである。私という主体が死という終わりに、 根本態度として神様無しにはいられない。 【 神の子であるイエス自身が、ゴルゴダの丘で十字架に架けられたとき、 「わが神、わが神、なぜわ私をお見捨てになったのですか」と、大声で叫んだ。 西田幾多郎が、言ったように、有限性の極みのなかで、その逆対応的に、 絶対者への希求が現れてくるのである。もちろん、その絶対者をどのようなもの として思い描くかという立ち入った内実は、宗教的信仰によってさまざまであろう。 しかし、そうした観念の根底に、すべてを知る者としての絶対者という概念が 潜むことだけは明らかである。なぜなら、この現実の悲惨をすべて知り尽くし、 その上で、さらに、それを裁き、審判し、あるいは、善き者を許し、嘉し、 こうして、すべてについて、正義の秩序を保持して、万物を支え、生かし続ける であろうところの絶対者というものの観念の根底には、その根本前提として、 その者が、生起したいっさいの出来事を見抜き、知り尽くし、記憶し、 けっして抹消されることのない全知のなかにこれを映し出す働きを行うという ことが、予想されているからである。万物を知り、そのあるべき秩序を保持し、 それらすべてを見抜いて、審判と恩寵を与え、そのようにして、それらを本当の 意味で生かす根源的な働きを行うところに、絶対者の絶対者たるゆえんがある ことを、誰もが理解しているからである。そうした絶対者が、実際にどこかに、 この世界の内にか、あるいはその外にか、確固として、人間を越えて、現実に 存在するかどうかが、問題であるのではない。そうではなく、むしろ死の限界 意識および、それと連なる人間の悲惨という事態の自覚を介して、私たち人間に、 懐疑と絶望と憂悶のなかで、それと矛盾するかのように、こうした絶対者への 希求が湧き上がってくるという、その抑えがたい祈願の強靭な根源性そのものが 問題なのである。そこに、絶対者の観念の生まれ出る根源があるということが 大切なのである。言い換えれば、死の問題意識は、こうした絶対者の観念を生む 土壌であるという根本事実が重要なのである。おそらくは、そうした絶対者の 観念は、私たち人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎないのかも。 しかし、私たち自身のうちには、時を越えた不滅の全知の存在を要請する根強い 希求が、最後の時に至るまで、燃え盛っていることだけはたしかである。 それが、人間の生存とその努力を内面から支える根拠をなしている。 その根拠への確信が引き抜かれるとき、おそらく、人間の生存は、その究極の 意味と支えを失い、人間自身が、崩壊するであろう。人間の生存の営為が無意味 でないためには、その精進と努力のいっさいを移ろうことなく見届け、意味 づける絶対者の眼差しがどこかに存在しなければならない。誰もが、みずからの 心の奥深くに、そうした絶対者の眼差しの影を宿している。そこに、人間存在の、 畏怖すぺき尊厳の最終根拠がある。それは、死をも越えて光輝く人問の尊厳で あり、人間をとおして瞬く絶対者の眼差しである。 ーP・291 】 ▼「死の問題意識は、絶対者の観念を生む土壌であるということが重要。 絶対者の観念は、人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎない」 絶対者の眼差しが人間には必要欠くべからざるである。大部分の凄惨な最後は、 それを示している。 ・・・・・・・ 3339, 2011年新聞・テレビ消滅 −2 2010年05月17日(月) 「2011年新聞・テレビ消滅 」ー佐々木 俊尚 (著) 現在のマスメディア崩壊の原因の1つとしてメディアのプラットフォーム化 の進展をあげている。 これまでは新聞社の社員が記事を書き、紙面をつくり、 印刷し、それを販売店に届けた。販売店も専売店としてネットワーク化。 これを3つの層に分けて説明する(もとはグーグルの及川卓也氏の説)。 その3つの層とはコンテンツ、コンテナ、コンベヤというモデル。 ● コンテンツ=内容 ● コンテナ=内容を納める媒体 ● コンベヤ=媒体の流通経路 という形で説明している。 * これから旧来の新聞を分類すると、 コンテンツ=新聞記事 コンテナ=新聞紙に印刷された記事(新聞紙そのもの) コンベヤ=新聞販売店 となるが、 インターネットでニュースを読む層が増えてきた今は、 コンテンツ=新聞記事 コンテナ=新聞紙、またはニュースサイト コンベヤ=新聞販売店、またはインターネット と変化してきているとのこと。 * テレビだと、コンテンツ=番組、コンテナ=テレビ、コンベヤ=地上波 衛星放送、CATV。これがコンテンツ=番組、コンテナ=ユーチューブ、 コンベヤ=インターネット、という形に移行し始めている。 (字数の関係でカット 09年05月17日) ・・・・・・・・ 2964、「未婚社会」 2009年05月17日(日) 先日のNHKの特番「未婚社会」をみたが、収入に対して女性がシビアな 現状に驚いてしまった。長期停滞景気などの時代背景が、そうさせている。 最近は男性の収入も少ない。平均収入が200万円の男性が一番多いが、女性が 男性に望む最低年収は400万円。20代の独身男性で年収400万円以上は 4分の1しかいない。男の非正社員の既婚率は正社員の約2分の1。 30歳になっても、この時勢では給料が右上がりにはならないなら、互いに ミスマッチになる。セクハラを恐れて職場の女性に近付けない男性の声も。 それなら男は自分の趣味に没頭するしかない。女性の魅力も情報化で減少する。 法的に縛った現行の結婚制度に対する反対もあったが、頭でっかちの感も。 ドイツの新しい制度が紹介されていたが特徴として (1)減税あり、(2)お互いに貞操の法的義務なし、 (3)一方的に「結婚」を解消化が可能。 日本とは背景が違う。 未婚者増加の原因は「草食系男性の増加?」と、背景にワーキングプアの 拡大がある。いま、この国の若者の置かれている状況は深刻。 情報化社会も、結婚を躊躇する要因になっている。 ・女性の立場からみれば、豊かな社会がTVなどを通して入ってくる。 そうすれば「金のない男と苦労覚悟で何で結婚しなければ?」と疑問を 持つのも当然。 (字数制限のためカット 2015年5月17日)
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