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堀井On-Line
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2015年05月17日(日)
『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 さすがの個人主義の哲学者も、老老介護の相談には歯切れが悪い。 介護の世界は複雑で、根深い。極限の場面で、真実を知ったところで、 せめて、気晴らしになるぐらい。最期の最期は、宗教に頼るしかない? ≪ Q: 〜老老介護から人の〈生〉と〈制度〉を問う〜 私は七十四歳の女性。以前の「死ぬ作法」の記事を読み考えるところが多く、 質問させていただきます。私は現在、九十五歳の母親の介護をしております。 昔であれば一番上の子供が還暦を迎えるころには親は天に旅立ってゆくもの でしたが、医療の進歩もあり、寝たきりであっても延命治療が続いております。 世間では後期高齢者医療制度が問題になっていますが、むしろ末期の医療現場を 考えていただきたいと思っています。人が生きるとはどういうことであるのか、 死に近い位置から医療をはじめ生きるということを見直すことが必要ではないか と思っております。哲学のご見地から、寝たきりとなった高齢者の生、死について 何かご示唆いただきたくお願いします。ちなみに私の兄弟三人は皆、病に倒れ 入院生活を送っています。私が倒れたら、どうすればいいものか不安で一杯です。 A: 〜われわれは「生きている」ことの意味が分からないのです〜 これは大変難しいご質問です。私も大学でここ十年ほど「生命倫理」の講義を 受け持ちましたが、さまざまな学説を紹介することはできても、自分の意見を 言えといわれると、とたんに分からなくなる状態です。 逃げのようですが、 あなたのご質問に対して「哲学の見地から」何の示唆もできない、と言うほか ありません。哲学は人を救えないものです。正確に言えば、世界とは、私とは、 時間とは、善悪とは、何か分からなくて悩んでいる人をある程度救えますが、 幸福になりたい人を救う能力は皆無だと確信しています。むしろ、哲学とは 不幸になってもいいから真実を知りたいという欲望をもっている人にのみ 開かれている。真実は必ずしも人々に慰めや、平安や幸福を与えるわけでは なく、逆に不安や不幸を与えるとしても、あえてそれを追究するのですから、 相当ヘンな欲望ですね。そもそも、われわれは「生きている」ことの意味が 分からないのです。ですから、生きているほうが、死んでいることより「いい」 ことを論証できないのです。哲学は「いかに」生きるか「いかに」死ぬかを 教えることはできず(それを安直に言い出す哲学者はニセモノ)、人間が死ぬ ことの意味そのものを問い続けることができるだけです。私も人間ですから、 直観的に「人を殺してはいけない」とか、「老人を虐待してはいけない」という ことは理解できますが、さらに「なぜ?」と問うと途方に暮れてしまいます。 まさに、ここに問題を見出す人のみが哲学に突き進むのであり、そんなことは 何の問題でもない、目の前に苦しんでいる人がいれば助けるのがあたりまえ ではないか、という考えの人は決して哲学の門にはいらないでしょう。・・ ≫ ▼ 難しく、深刻な問題だが、決して他人事ではない。人生の最期は、決して 不幸から逃れることが出来ない現実がある。それに対し、「南無阿弥陀仏」か、 「南無妙法蓮華経」と唱えるしかない。哲学は、「ことの道理」を追求すること が出来ても、人を救うことは出来ない。ということは、人生相談に、哲学は 向いてないことになる。だから、逆に質問の内容そのものの甘さを指摘して 納得させるのが、ベストになる。『人の心の問題は、ほっとけ!』と。 ・・・・・・ 4811, Quirt <内向型人間の時代> ー2 2014年05月17日(土) <内向型人間の時代>スーザン・ケイン著 * 内向型人間は二流の性格特性か? 外交型人間の代表といえば、特にイタリア、スペインなどの南欧の人たち。 逆に内向的人間の代表はフィンランド人を代表にした北欧の人たちからみて、 季節要因と食料が大きく影響しているのが分る。黒夜の時節、15時になれば 真っ暗になれば自殺率が高いのも当然である。冬期間に雪に閉ざされ、内向き になる秋田、新潟の自殺率が高いのと似てる。外交型人間を理想とする価値観 の中で、内向型人間は、一段も二段も低く見られるため、どうしても隠したがる。 ーその辺りから抜粋ー 《 今日、社会が求める性格タイプはごく狭い範囲に設定されている。 成功するには大胆でなければならない、幸福になるには社交的でなければ ならないと、教えられる。 私たちはアメリカを外向型人間の国家として見て いるが、それは必ずしも真実ではない。どの研究を見ても.アメリカ人の三分の一 から二分の一は内向型である。言い換えれば、あなたの周囲の人々のうち二、 三人にひとりは内向型なのだ(アメリカが有数の外向型の国のひとつだとすれば、 世界にはもっと内向型の比率が高い国々がある)。あなた自身が内向型でない としても、家族や学校や職場に何人か思いあたるだろう。もし三分の一から 二分の一という統計に驚きを感じるのなら、それはたくさんの人が外向的のふり をしているからだ。隠れ内向型は、学校の運動場や高校のロッカールームや 大企業の廊下に気づかれずに生息している。なかには自分自身までもすっかり 騙していて、なんらかのきっかけで、たとえば、失業、子供の親離れ、遺産が 転り込んで時間を好きに使えるようになったなどで、ふと自分の本来の性格に 気づく人さえいる。この本の内容を友人や知人に話してみれば、思いがけない 人が自分は内向型だと思っているとわかるだろう。 多くの内向型がそれを 自分自身にまで隠しているのには、それなりの理由がある。私たちは、外向型 の人間を理想とする価値観のなかで暮らしている。つまり、社交的で先頭に 立ちスポットライトを浴びてこそ快適でいられる、そんな自己を持つことが 理想だと、多くの人が信じているのだ。典型的な外向型は、熟慮よりも行動を、 用心よりもリスクを冒すことを、疑うよりも確信することを好む。たとえ悪い 結果を招くかもしれないと思っても、すばやい意思決定を優先する。 チーム行動を得意とし、グループ内で社交的にふるまう。私たちは個性を尊重 すると言いながら、ひとつの特定のタイプを賞賛しがちだ。その対象は 「自分の存在を誇示する」のを心地よく感じるタイプなのだ。もちろん、 テクノロジー分野の才能があって自宅のガレージで起業するような人なら、 一匹狼だろうとどんな性格だろうと許されるが、それはあくまでも例外で、 そういう特例として認められるのは大金持ちか、そうなると約束されている 人たちだけだろう。 内向性は、その同類である感受性の鋭さや、生真面目さ、 内気といった性格とともに、現在では二流の性格特性とみなされ、残念な性格 と病的な性格の中間にあると思われている。外向型を理想とする社会で暮らす 内向型の人々は、男性優位世界の女性のようなもので、自分がどんな人間かを 決める核となる性質ゆえに過小評価されてしまう。外向性はたしかに魅力的で あるがゆえに、押しつけられた基準になってしまっていて、そうあるべきと、 大半の人々が感じている。・・・ 》 ▼ 戦国時代の、信長、秀吉、家康を、この性格分類からみると、信長と、 家康は内向型で、秀吉は外交型になる。家系と、家族と、連れ合いなどの 環境も、大きく左右してくるが、豊かさと、知識も多分に影響してくる。 学生時代の、ある時期から、面白いように次々と小さな殻が壊れていった。 その一つが、父親が私の牛小屋のような寮に来て、その見窄らしい生活に驚き、 仕送りを二倍にしてくれた頃に、欧州旅行と、ゼミの影響もあって、外交型に 自分が変化していった。当時、仕送りが二倍になるのは、日常が根こそぎ 変わることでもあった。 ーつづく ・・・・・・ 4444, 過去の意味は変えられる 2013年05月17日(金) * 過去は変えることはできないが、過去の意味は変えられる 何気ないが心に響く言葉、「過去は変えることはできないが、過去の意味は 変えられる」がある。40年近い事業人生と、この結末を如何に受容するか。 所詮は、人生も事業もバブルと、その崩壊過程の側面がある。何事も始まりと 終わりがある。その行蔵は残るが、変えることはことはできないが、意味は 変えられる。それは、自分が何を目指すか、楽観的か悲観的か、などで意味の 捉え方で変わる。過去の意味(価値)を変えることは、未来と現在に対する 考え方を変える。過去を結果に言い換え「結果は変えることはできないが、 結果の意味は変えられる」として、人生、事業を総括すると多くの視点が 見えてくる。現在こうして存在していることは奇跡である。 全てがベストであったから今の私が、ここに存在している。 (この宇宙、地球、人間など全てだが)それでは「過去の意味を変える」とは 如何なることか。意味に近い言葉に価値がある、意味=価値として考えてみる。 価値とは、その人にとっての優先欲求、優先順位でもある。ということは、 何を目指しているかに行きつく。過去の価値は、現在の価値で解釈が変わって 当然、作り変えられ、加工される? 歴史が、時間と共に解釈が変ると同じ。 意味には真実も含まれるが、その真実もあてにならない。当人が信じていること、 それが真実といわれるケースが殆ど。そこで、真実と意味を辞書で調べると ・【真実とは、虚偽の反語。本当のこと、偽りでないこと。歪曲や隠蔽や錯誤を すべて排したときに明らかにされること。漢字の意味は、事柄の中身を開いて 見たときに、実(じつ)として充満しているもの ...】 ・【意味とは、表現に対する「なかみ」。意図するところ。表現(結果)を さかのぼる真意、意図、目的。ある現象(行為・言語・その他)に添付される、 ある種の上位概念。】とある。 真実も、意味も、言葉の解釈で如何様に変わる。あるのは現在しかないとすると、 過去は記憶でしかない。その記憶も曖昧ときたら、成り立つ基盤は在って無い ようなもの。「過去の意味は、現在の解釈で如何様にもなる」ということ。 ・・・・・・ 4070, 主義とは、内に貫く一つの信条 2012年05月17日(木) * 勇ましい、高尚の人生こそ最大の遺物! ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 「金も、事業も、文学も、思想も、これをもって最大遺物ということが出来ない。 その訳は、誰にでも残すことが出来る遺物でないから最大遺物ということが出来 ない」と、内村鑑三は論じて、こう訴えかける。『それでドウゾ、後世の人が 我々に就いて此の人等は力もなかった。富もなかった。学問もなかった人であった けれども、己の生涯をめいめい持っていた主義のために送って呉たと云われたい ではありませんか。是は誰にでも残すことが出来る生涯ではないかと思います。』 ▼「内に貫く一つの信条」こそ、その人となりである。 私は、「人間として 生まれたからには、人生を全うをすること」を信条にしている。一度だけの 人生、自分で納得できてこそ。納得出来なかったとしても、それも人生だが・・ 主義とは言葉の通り、その人の主たる義。内に貫く一つの信条を実践することが 義である。他人の思惑など入り込む余地など、そこには微塵もないはず。 貫き通せば、勇ましく、高尚の人生が、そこに残る。しかし、人間は所詮、動物の 進化系でしかない。 勇ましい、高尚の人生も、見方でどうにでも解釈はできる。 そうとでも思わなければやってられないということ。やり抜くには刷り込みも 必要である。その刷り込みを、いかに加工するかである。 * 長い期間にわたって不幸なのは、その人が悪い! 誰でも長い期間にわたって不幸なのは、自分が悪いにほかならない。 死も生も堪える勇気のない人も、抵抗しようとも逃げようともしない人、 こういう人にはどうしてやればよいのだろうか。ーモンテーニュ『エセー』より ▼ どこにでもいる、不平家。 勝手に不幸と決め込んでいるから始末に悪い。 悪いことに親から相続しているため直しようがない。現実を全く疑い持たない 一般にいう世間人間。いっけん純粋で素朴のため、世間幻想を現実と信じている。 まともに思考をしたこともなし。 傍によらないことだ。不幸、幸福など、 これまた解釈の仕方ひとつ。不幸の時期ほどベストのことが隠されている。 ベストよりベターが良いと、信じているんじゃないのか、彼らは?いや自分か? ・・・・・・・・ 3704,自己を見つめる −22 2011年05月17日(火) * 死について ー� 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 死に際し、結局は神に頼りざるをえないのが人間。絶対者への希求に行き 当たるのである。 最後は絶対者の支えなしには、人間自身が、己を支える ことが出来ないのである。私という主体が死という終わりに、 根本態度として神様無しにはいられない。 【 神の子であるイエス自身が、ゴルゴダの丘で十字架に架けられたとき、 「わが神、わが神、なぜわ私をお見捨てになったのですか」と、大声で叫んだ。 西田幾多郎が、言ったように、有限性の極みのなかで、その逆対応的に、 絶対者への希求が現れてくるのである。もちろん、その絶対者をどのようなもの として思い描くかという立ち入った内実は、宗教的信仰によってさまざまであろう。 しかし、そうした観念の根底に、すべてを知る者としての絶対者という概念が 潜むことだけは明らかである。なぜなら、この現実の悲惨をすべて知り尽くし、 その上で、さらに、それを裁き、審判し、あるいは、善き者を許し、嘉し、 こうして、すべてについて、正義の秩序を保持して、万物を支え、生かし続ける であろうところの絶対者というものの観念の根底には、その根本前提として、 その者が、生起したいっさいの出来事を見抜き、知り尽くし、記憶し、 けっして抹消されることのない全知のなかにこれを映し出す働きを行うという ことが、予想されているからである。万物を知り、そのあるべき秩序を保持し、 それらすべてを見抜いて、審判と恩寵を与え、そのようにして、それらを本当の 意味で生かす根源的な働きを行うところに、絶対者の絶対者たるゆえんがある ことを、誰もが理解しているからである。そうした絶対者が、実際にどこかに、 この世界の内にか、あるいはその外にか、確固として、人間を越えて、現実に 存在するかどうかが、問題であるのではない。そうではなく、むしろ死の限界 意識および、それと連なる人間の悲惨という事態の自覚を介して、私たち人間に、 懐疑と絶望と憂悶のなかで、それと矛盾するかのように、こうした絶対者への 希求が湧き上がってくるという、その抑えがたい祈願の強靭な根源性そのものが 問題なのである。そこに、絶対者の観念の生まれ出る根源があるということが 大切なのである。言い換えれば、死の問題意識は、こうした絶対者の観念を生む 土壌であるという根本事実が重要なのである。おそらくは、そうした絶対者の 観念は、私たち人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎないのかも。 しかし、私たち自身のうちには、時を越えた不滅の全知の存在を要請する根強い 希求が、最後の時に至るまで、燃え盛っていることだけはたしかである。 それが、人間の生存とその努力を内面から支える根拠をなしている。 その根拠への確信が引き抜かれるとき、おそらく、人間の生存は、その究極の 意味と支えを失い、人間自身が、崩壊するであろう。人間の生存の営為が無意味 でないためには、その精進と努力のいっさいを移ろうことなく見届け、意味 づける絶対者の眼差しがどこかに存在しなければならない。誰もが、みずからの 心の奥深くに、そうした絶対者の眼差しの影を宿している。そこに、人間存在の、 畏怖すぺき尊厳の最終根拠がある。それは、死をも越えて光輝く人問の尊厳で あり、人間をとおして瞬く絶対者の眼差しである。 ーP・291 】 ▼「死の問題意識は、絶対者の観念を生む土壌であるということが重要。 絶対者の観念は、人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎない」 絶対者の眼差しが人間には必要欠くべからざるである。大部分の凄惨な最後は、 それを示している。 ・・・・・・・ 3339, 2011年新聞・テレビ消滅 −2 2010年05月17日(月) 「2011年新聞・テレビ消滅 」ー佐々木 俊尚 (著) 現在のマスメディア崩壊の原因の1つとしてメディアのプラットフォーム化 の進展をあげている。 これまでは新聞社の社員が記事を書き、紙面をつくり、 印刷し、それを販売店に届けた。販売店も専売店としてネットワーク化。 これを3つの層に分けて説明する(もとはグーグルの及川卓也氏の説)。 その3つの層とはコンテンツ、コンテナ、コンベヤというモデル。 ● コンテンツ=内容 ● コンテナ=内容を納める媒体 ● コンベヤ=媒体の流通経路 という形で説明している。 * これから旧来の新聞を分類すると、 コンテンツ=新聞記事 コンテナ=新聞紙に印刷された記事(新聞紙そのもの) コンベヤ=新聞販売店 となるが、 インターネットでニュースを読む層が増えてきた今は、 コンテンツ=新聞記事 コンテナ=新聞紙、またはニュースサイト コンベヤ=新聞販売店、またはインターネット と変化してきているとのこと。 * テレビだと、コンテンツ=番組、コンテナ=テレビ、コンベヤ=地上波 衛星放送、CATV。これがコンテンツ=番組、コンテナ=ユーチューブ、 コンベヤ=インターネット、という形に移行し始めている。 (字数の関係でカット 09年05月17日) ・・・・・・・・ 2964、「未婚社会」 2009年05月17日(日) 先日のNHKの特番「未婚社会」をみたが、収入に対して女性がシビアな 現状に驚いてしまった。長期停滞景気などの時代背景が、そうさせている。 最近は男性の収入も少ない。平均収入が200万円の男性が一番多いが、女性が 男性に望む最低年収は400万円。20代の独身男性で年収400万円以上は 4分の1しかいない。男の非正社員の既婚率は正社員の約2分の1。 30歳になっても、この時勢では給料が右上がりにはならないなら、互いに ミスマッチになる。セクハラを恐れて職場の女性に近付けない男性の声も。 それなら男は自分の趣味に没頭するしかない。女性の魅力も情報化で減少する。 法的に縛った現行の結婚制度に対する反対もあったが、頭でっかちの感も。 ドイツの新しい制度が紹介されていたが特徴として (1)減税あり、(2)お互いに貞操の法的義務なし、 (3)一方的に「結婚」を解消化が可能。 日本とは背景が違う。 未婚者増加の原因は「草食系男性の増加?」と、背景にワーキングプアの 拡大がある。いま、この国の若者の置かれている状況は深刻。 情報化社会も、結婚を躊躇する要因になっている。 ・女性の立場からみれば、豊かな社会がTVなどを通して入ってくる。 そうすれば「金のない男と苦労覚悟で何で結婚しなければ?」と疑問を 持つのも当然。 (字数制限のためカット 2015年5月17日)
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2015年05月16日(土)
『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 老いた人の絶対的孤独との向き合い方は ここで、自分のしたいことを誠実に熱心に追及している限り、理解者は 出てくるというが、どうだろう? 今では、ブログなど、ネットで繋がることが 可能なので、ある程度の他者と繋がることが可能だが。 ≪ Q: 〜年齢とともに肥大する孤独との向き合い方〜 六十五歳の男性です。人間、歳を取るとだんだん孤独になるものだとつくづく 実感しています。若い頃は学才に恵まれていた男が、いつのまにか「俺は文化 なんてものには興味はねえ」と野卑な口調で本性をあらわしたり、デリカシーに 欠けていた男の品性がますますひどくなったり。さらには盟友が亡くなったり…。 そんなこんなで、私はこの七〜八年ほどの間に若い頃からの友人をあらかた 失くしてしまいました。孤独であることにもそれなりの味わいはありますが、 しかし、人生、いや歳を取るということは、かくも無漸なものなのでしょうか。 歳を取ることによって生じる、どうしようもない孤独にどう対応したらいいのか? 適切なるご教示をお願いします。 A: 〜わずかでも心の通じ合える人がいれば絶対的孤独は避けられる〜 私は「孤独」がそれほど嫌いではなく、「それなりの味わいがある」と思って いますので、「どう対応したらいいか」に対する直接のお答えにはならないかも しれません。あなたの問題にされているのは、主に「他人との関係」でしょう。 それにも二つあって、1つは、人間、歳を取ると「品性」がますますひどくなる こと、そしてもう1つは、親しい他人や愛する他人が次第に自分より先に死んで いって、だんだん心細くなること。前者については、私も同じ印象を持ってます。 私が同年齢の男女との付き合いをかなり切っているのは、―自分はともかく― 一般的に言って中高年の「醜さ」に耐え難いからかもしれません。それに加えて、 私は「哲学」なんぞに首を突っ込んでしまったので、50や60の「普通に出来 あがった」男たちと話すことは何もないと確信しているせいでしょう。 この歳で、妙に哲学に擦り寄ってくる老人も嫌いです。大学の教師や研究者、 あるいは物書きをしていて気が晴れることは、若い学生たちや若い研究者たちや 若い編集者たちや若い読者たちとの「交流」が、適当にあることです。 もちろん、彼らの中にも「心の醜い」輩はいますが、私の周りには総じて 「心のきれいな」人が集まります。そう自分が厳選しているからなのですが。 このことは、第二の孤独にも通底しています。私の場合、特殊とも思いますが、 自分と同世代の男女との付き合いをほとんど完全に絶っていますから、という ことは、小学校から大学までの同級生などとの交際はないので、誰が生き残って いるのか、誰が死んでいるかさえ(連絡がないので)わかりません。それに、 私は目上の人との付き合いは(どんな恩人でも)苦手で、これもほぼ完全に切り 捨てていますので、目下、誰が死んでもいっさい葬式に行く義務はないのです。 別に老後の孤独に備えてこう準備したわけではありませんが、私はその時々で 一緒にいて心の通じ合える人がわずかにいればそれでいい、という「刹那主義」 に徹しています。どんなに歳を取っても、自分のしたいことを誠実にかつ熱心に 追求している限り、理解者は出てきますし、その限り絶対的孤独は避けられると 思いますが……。≫ ▼ 著者から肩書をとったら、「醜悪なクレーマー」と思われる。 これまでの著書を読んでいると、クレーマーとしての信じがたい内容が リアルに書いてある。それはそれは・・ 特に街中や電車などの騒音に敏感。 それと、著書を出し、思いを表現していると、孤独感は半減する。中島の口癖、 「いずれ直ぐ死んでしまう!」は、亡くなった友人を自分に置換えると分かる。 『死んでしまえば、それまでよ! そんなことなど死んで3日も経てば・・』 ・・・・・・ 4810,Quirt <内向型人間の時代> ー1 2014年05月16日(金) <内向型人間の時代> スーザン・ケイン著 * 内向型人間かどうかのチェックリスト 私は、あまり外交的ではない。だから、事業創業の人生を選んだのである。 この書の冒頭にあった内向型リストで、○✖▽で、チェックしてみた結果、 20のうち、13が○、✖が3、どうだろう?▽が4で、明らかに内向的 人間である。家内は明らかに外交的人間と思っていたが、○が15に、✖が3、 ▽が2で内向的人間には驚いた。専業主婦ということもあるが、驚きである。 ー以下、左が私、( )が私から見た家内である。 ーまずはチェックリストからー 日本人、特に地方、北国は8〜9割は内向的人間? ○グループよりも一対一の会話を好む ○ (▽) ○文章のほうが自分を表現しやすい ○ (✖) ○ひとりでいる時間を楽しめる ○ (○) ○周りの人にくらべて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味がないほうだ ○ (○) ○内容のない世間話は好きではないが、関心のある話題について深く話合う のが好きだ。 ○ (○) ○聞き上手だと言われる ○ (▽) ○大きなリスクは冒さない ✖ (○) ○邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ ○ (○) ○誕生日はごく親しい友人一人か二人や、家族だけで祝いたい ○(○) ○物静かだ」「落ち着いている」と言われる ○ (○)
○仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めない。▽(○) ○他人と衝突するのは嫌いだ ▽ (○) ○独力での作業で最大限の実力を発揮する ○ (○) ○考えてから話す傾向がある ○ (○) ○外出して活動したあとは、たとえそれが楽しい体験であっても消耗したと 感じる。 ✖ (✖) ○かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。 ✖ (✖) ○忙しすぎる週末よりも、なにもすることがない週末を選ぶ ○ (○) ○一度に複数のことをするのは楽しめない ▽ (○) ○集中するのは簡単だ。 ○ (○) ○授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式の方が好きだ。▽ (○) ▼ 意外なことに、アメリカ人でさえ、2〜3人に1人は、内向的人間という。 事業人生を30年以上、たずさわり、人との接触が多い仕事もあって、外交的 部分も多かった?反面、嫌な場面へ行かないで済む、自由もあった。逆に仕事上、 内向的姿勢も求められたこともあった。家内の友人に、極度の内向型人間がいて、 その話を度々、聞くことがあった。内向的にも、暗いのと、明るいのがいる。 冷たいのも、温みがあるのもいる。携帯パソコンが一般に普及した中、情報選択 と決断が重要になっているが、この時代だからこそ内向型人間の時代というのも、 説得力がある。ヨガブームというが、週二回、26ヶ月、参加して、成るほど、 内向き、精神性の時代が、実感できる。 高齢者は、どうであれ、内向きに なりざるをえない。 ーつづく ・・・・・・ 4443, ヨガと座禅の違い 2013年05月16日(木) 毎週二回、スポーツジムの「ヨガ」に参加して14ヶ月、百回はゆうに 超えているが、回数を重ねるたび、身体も、気持ちも解れていく。学生時代に 野狐禅だが、六日町の雲頓庵で持ち込んだ卒論の種本を読みながら、合間に 広い禅室で独り座禅を組んだことがあった。ただシーンとした中、 「直ぐにでも止めようか」という気持ちと戦いながらのたった独りの座禅は、 永平寺での一瞬気持ちを緩めれば、禅僧に叩かれる状況より辛い。誰もいない ため、直ぐ止めたい誘惑との闘いになる。ヨガで仰向けになり全身を弛緩する 「死者のポーズ」があるが、これは座禅の禅定に似ている。飛行機内の座席で、 耳栓をして姿勢を正し、次々出てくる思いを泡のように流していると、何かの ゾーンに入ってしまい、10時間以上の時間がアッという間に過ぎてしまう。 ヨガは、瞑想で心を解すのが目的で、禅は、その状況から仏の悟りに近づく ことにある。 ーヨガと座禅の違いをネットで調ベた、納得した3つをコピーしてみるー 《 人は疲れたときに目をつぶる事がある。そこで何かを思い浮かべながら 瞑想にふける。この繰返しがヨガという。 このヨガはもともと 「軛(くびき)」ということで、牛に車を曳かせる腕木を指した。これが 次第に神の力に人間を結びつけることを意味するようになり、その修行法と して智慧、愛、行、瞑想が重視された。一般にヨガと呼んでいるのは、 このうちの瞑想による神人合一の方法である。このヨガは紀元5世紀ごろ には「ヨーガ・スートラ」を根本経典としたヨーガ派が独立してさかえ、 完全性をそなえたひとつの霊魂を最高神としてあがめた。このヨガの修行法 が仏教にも広く取り入れられてきた。それが坐禅につながっていく。 》 《 ヨガと坐禅は、まず姿勢を正して、呼吸や五感(眼、耳、鼻、舌、身) を整え、誘惑をさけ、精神統一するのはどちらも同じ。ヨガは、これに よって初めて超自然的な力が得られ、対して禅は「禅定」に深くかかわり、 静けさを求める。禅とは(ジャーナ、禅那)という梵語の音写で、釈尊の 悟りを追体験して”身心脱落”し仏の境地になりきり坐禅をすること。 禅は「無」を標誘し功徳や利益を求めない。ひたすら足を組んで坐禅をする。 ヨガは神人合一して身心の健康を増進させる。 》 《 ヨガは、インドに古くからあり、ウパニシャッドと言われる古代インドの 哲学書にも出てくるもので、瞑想や呼吸法、座法などによって心身を鍛える 事で、心の動きを抑制する方法として古くから用いられた。後に、ヨーガ学派 という哲学集団によって、解脱への実践方法として体系化されていったと 言われています。そして仏教においても、このヨガは悟りへの実践方法として 用いられ、釈尊も、瞑想によって真理を悟ったと言われますし、「瑜伽行」 という修行法として確立されました。現代のヨガも、もともとはそのインド 独特の修行法をアレンジしたものですから、仏教の修行とヨガとは、出発点は 同じであると言えるでしょう。違いと言えば、仏教における修行は、さとりを 目指す為の方法であり、現代のヨガは、心身の健康維持のためのもの、という 点でしょうか。座禅とヨガとの関係についてですが、ヨガは、座法や呼吸法を 盛り込んだ、精神統一の方法でありますし、「禅」といいますのは、「禅定」 つまり精神統一をし、真理を観察することであって、「座禅」は座法や呼吸法を 用いた「禅定」一つの方法ですから、根本的な部分で同じ要素を持つ。 》 ▼ ヨガは座禅と出発点が同じ「座法」「呼吸」を盛り込んだ精神統一の方法に 対し、座禅は精神統一を通して真理を観察するもので、少し意味合いが違う。 腰痛持ちの私にとって、週二回のヨガは腰痛緩和の自己マッサージ治療。 私の腰痛は完治はないが、仲良くするのは可能。その方法がヨガに多くある。 手軽なベストの場が見つかったもの。たまたまー「早朝座禅」山折哲雄著ー を見つけ読んでいるが、数日前から、30分早く起き、早朝座禅を取り始めたが、 これが良い。4時から7時までは、正にゴールデンタイム。 60年以上溜まった毒出し、矯正の時間でもある。 ・・・・・・ 4069, お金と神 ー2 2012年05月16日(水) * 「お金=信用」と、「神=信仰」は同じようなもの 〜� ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より お金の本質に関して多くの本を読んで考え続けてきた。ここで、お金と神 の本質を同定し分かりやすく書いている。なるほど、人は心情的に多くの金を 持ちたがるはずである。とはいえ、それは心情である。傍に迷惑をかけない 範囲で、自分の好きなことに時間をかけて使うべきである。通帳にあるのは 単なる数字の羅列。その辺りの知識がないと必ず後悔する、それが人生である。 ーまずは抜粋ー ≪ 一方、お金はどうか。人は物やサービスという実体を消費し、生活している。 経済は、それらを効率よく手に入れるため発達してきた。多種多様な物欲と技能 を持つ人びとが、それぞれの能力を最大限発揮して、生活を物的に豊かにする ためには、自分の得意な物を作って、他人が得意とする生産物と交換すればよい。 それによって、自給自足では望めなかった生活永準を実現することができる。 そのための交換の場が市場であり、お金は交換手段として生まれ発達してきた。 物々交換では自分の欲しい物を相手が持っているとともに、自分も相手の 欲しい物を持っていなければならない。経済学で言う、交換における「欲望の 二重の一致」である。このとき、誰でも普遍的に欲しがる物があれば、交換手段 として最適である。二重の一致が一重で済むようになり、いつでも自分の欲しい 物と交換できるからである。そのため、宗教が雷や山から始まったように、 お金もはじめは、それ自体が安定した実用価値を持つ米や金銀などであった。 しかし、交換機能だけを考えれば実用価値などいらず、信用だけで十分である。 持ち運びや保管には、かえって実体として機能は邪魔になる。 そのため、 金銀の代わりに大銀行の金銀預り証が紙幣としての役割を持ち始め、20世紀 に入ってからは金銀との交換性とも切り離されて、純粋に交換手段の不換紙幣が 定着した。しかし何の価値のない紙幣を流通させるのに、信じ込ませることが 必要である。それが信用である。≫ ▼ 金も、社会的価値として信用出来るから流通するのである。 それ(交換手段としていた金)が、いつの間にか、将来の不安を解消する 手段にすり替わってしまっていることに人は気づかない。金は使うべき時に 使うのが道理ということ。 何で人は、お金を残して死ぬのだろう? 死後に残された金は、あくまで死の不安の遺物。しかし交換手段の額が 大きいほど、自由になる幅が広くなることは確か。が、それも幻想。 やりたいことをするのが自由である。何がしたのかをハッキリさせて使って こそ金(自由)の効用が生きてくる。 貯めたは貯めたで、金に未練を持った まま死んでいく。つくづく、人間は頭が変である。自分の好きなことをして 行蔵として残せばよいものを。100億円遺した人と、100億円使い果た した人と、どちらが面白かったかをみれば分かること。 人間両手に持てるのは2千万まで! ・・・・・・・ 3703, ジャズについて −3 2011年05月16日(月) ー 「音楽の本」三枝成彰著 より アームストロングとバイダーベックといえば、私が学生時代の1960年代 後半は現役で、ラジオやTVで見かけていた。当時の部屋にはステレオがあり、 アームストロングのレコードを何枚か持っていた。 この著書で、彼が集団 即興演奏を、ソロ中心のスタイルに変えた役割を果たしたことをしった。 当時の、あのシワガレ声は、今でも脳裏に焼きついている。近々、 近くの図書館に二人のCDを探しにいくことにした。あると思うが・・・ 【 * 〔シカゴ・スタイルの中心、アームストロングとバイダーベック〕 ジャズといえば4ピートのリズムを刻むのが大きな特徴だが、それが確立 されたのは一九二〇年代のことである。この時代、腕の立つミュージシャンが 集まったのがシカゴだった。シカゴを代表するジャズメンといえば、当時は 若きコルネット奏者としてニューオリンズからやってきたルイ・アーム ストロング(1901〜1971)である。彼がジャズ史上に残した最大の 功績は、それまでのジャズの集団即興演奏スタイルを、ソロ中心のスタイルに 変えたことだ。他のミュージシャンもこの時期、同じ方向を目指していたが、 アームストロングの才能は圧倒的だった。1925年には自らのバンド 「ホット・ファイブ」を結成し、やがて楽器をトランペットに持ち変え、 「ウエスト・エンド・ブルース」をはじめキラ星のごとくジャズ史上に輝く 名演奏を残していく。 同時に、独特のしわがれ声に深い情感をたたえた ボーカルも評判となり、1926年の、「ヒービー・ジービーズ」では軽快な スキャットボーカルを初めて披露した。30年代初めにはヨーロッパ・ツアー を敢行し、‘世界のサッチモ’となる。第二次大戦後はビッグバンド演奏を バックに従えたエンターティナーとして、もはやジャズの枠にとらわれない 活動を展開する。 もっとも、初期ジャズの優れたミュージシャンは、黒人 ばかりとは限らない。 1919年、アイオワ州ダヴェンポート。ドイツ移民 の一家の次男坊が、ディキシーランド・ジャズのレコード(兄貴の除隊みやげ) に夢中になっていた。やがて彼は、親兄弟の反対を押し切り、シカゴ周辺で コルネット奏者として身を立てることになる。この白人、ビックス・バイダー ベック(1903〜、93、)こそ、ルイ・アームストロ・ングに負けず劣らず、 多くの後進に影響を与えた天才ジャズメンである。 これこそ、白人ジャズマン の始祖である。ユニークなアーティストであるライ・クーダーのアルバム 『ジャズ』でも、、インナ・ミスト」「きらめき」と、彼が残こしてくれた 美しい音楽を聴くことができる。・・】 ▲ 歴史はクラシックと比べ、短いが、黒人の虐げられた歴史が背景にある ため、その奥行きは深い。その背景を、知って聴くと聴かないとは、雲泥の 差が出てくる。特に日本の戦後は、アメリカ文化に大きな影響を浮けた。 プロ野球に、ハリウッド、そして、ジャズにブルース。 特に私の青春時代は、その最たるものだった。 ・・・・・・・・ 3338, 2011年新聞・テレビ消滅 −1 2010年05月16日(日) 「2011年新聞・テレビ消滅 」 佐々木 俊尚 (著) プロローグからして、刺激的な内容である。 ≪ ・・最初に言っておこう。2008年からアメリカで始った新聞業界の 地滑り的な崩壊は、3年遅れの2011年、日本でも起こる。アメリカで 起こった現象は、ほぼ日本で3年遅れで起きている。 それからして来年の 2011年は、テレビ業界にとって二つの大きなターニングポイントの年。 アナログ波の停止による完全地デジ化と、情報通信法の施行だ。この二つの 転回点によって、これまでの垂直統合モデルが剥ぎ取られ、電波利権はなんの 意味をもたなくなり、劇的な業界構造転換の波へとさらされることになる。 何社かは破綻し、業界編成が起こるかもしれない。もちろんそれ以降も、 企業としての新聞の一部は生き残っていくだろう。しかし、そうやっていき のびた新聞社やTV局は、もうマスメディアとはいえない別の存在になって いるだろう。その先に何が待ち受けているのだろうか? ≫ ▼ この本を読んで尚のこと、日本でもかならず起きると確信してしまった。 現在、百貨店を見ればわかること。 誰が5年前に伊勢丹が三越を、 大丸が松坂屋を、ヨーカ堂が西武・ソゴウを、阪急が阪神を、救済合併をする とは 思ってもいなかった。さらに数年内に、高島屋も含めた再統合が始る? その後塵がマスコミ業界で始る。さらに、iPadなどのタブレット式PCの 普及が、紙からの移行を劇的に早めることになり、それがフリー(限りない 無料化)を推し進めることになる。 著者は、「これはマスコミのぬるま湯体質 とか金融危機が原因でもない。 (字数制限のためカット 2015年5月16日)
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2015年05月15日(金)
『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 個人主義者の覚悟 自分を、「アウトサイダー」「ソリスト」「個人主義者」と自認している。 老いるということは、孤独の重圧に押し潰されていく過程でもある。だから、 そのスタンスを取ってきたが、それでも、弱気になることがある。 今さら、「世間びと」になれないし、なる気は一切ないが、彼らの破壊兵器も ただならぬものがある。だから、「自分とは何だろう」と考えるに丁度よい エネルギーになる。どの道、永遠の彼方に消滅していく。老いは厳しいのです。 ≪ Q: 〜個人主義者にとっての老後を生きるヒントは?〜 現在、53歳既婚、フリーランスで仕事をしている男です。 私は元来、めんどうくさがり屋でわがままで、人付き合いも苦手です。 特に冠婚葬祭、歓迎会、忘年会など、あらゆる会合や行事に出席を拒否。 こんな利己的性格ですから当然、会社組織に馴染めるはずもなく、こうして 一人で事業をし、近隣との人間関係の希薄なマンション生活をしています。 しかし、現在、老後の問題など何となく将来に一抹の不安を感じています (目の前にある離婚の危機による自信喪失でしょうか)。自分本位な生き方 をしてきたため、義理を欠くことも多く、自ら世間を狭くしているように 感じています。いずれしっぺ返しがくるように思います。 個人主義生活者に「老後を生きるヒント」を教えてください。 A: 〜「自分とは何か?」という問いを突き詰めて生きることです〜 「個人主義生活者」にと、その「老後を生きるヒント」とい言葉によって、 あなたが何を期待されているのかよくわかりません(そもそも「個人主義」 とう言葉の意味がはっきりしない)。もし、長く世間に背いて自分本位を 貫いてきたが、老境に至り身体もガタが来ているし、このまま一人で生きて いくのも寂しいし不安だから、どうにかしたい、というのなら、あなたの言う ところの「個人主義」をきっぱり捨ててしまえぱいいのです。前後左右の 他人の思惑に常に媚び、自分勝手な考えはぐいと抑え込み、厭なことも率先 してなし、「和」を大切にし、これから必死になって「もちつもたれつ」の 人間関係を復元するのです。それはイヤだ、やはり「個人主義」を貫いた まま安全な老後を迎えたい、と言いたいのなら、そんなムシのいい話はない と答えましょう。「いずれしっぺ返しが来る」ことを予見もせずに、よくも 「個人主義」などに乗ってきましたねえ。失礼ながら、おめでたいとしか 言いようがありません。わが国民が、「個人主義」を蛇蝎のように嫌っている ことを知らなかったとは! 漢然と知っていたとしても、その大量破壊兵器級 の威力に対する自覚がなかったとは!あきれ果てます。しかし、もはや手遅れ ですから、残された老後は、先に言ったように、「個人主義」をできるだけ 「緩和」して、世間との和解策に奔走するか、あるいは潔く居直って、暗く 寂しい老後を迎えるか、のどちらかしかないように思います。そして、ここ までがんばってきたのですから、できれば「転向」せずに「個人主義」を 貫くことをお勧めします。それには、自分ひとりでできる仕事を見出すことが 絶対に必要です。単なる趣味ではなく、あなたの実存の中核に届く仕事。 例えば、「自分はなんでこうまで人付き合いが苦手なのか、利己的なのか、 自分本位なのか」という問いを、つまり「自分とは何だろう?」という問いを 突き詰めることです。そのためには、絶えず思索しなければならず、これまで の体験を微細に至るまで想い起こさねばならず、多方面にわたる読書も しなければならない。つまり、孤独かもしれませんが、ずいぶん充実した 老後をエンジョイできるのではないでしょうか。≫ ▼ ほぼ大部分の人の心には、相談者のような恐れを抱えている。老いて、 弱って、病気になって、疎んじられ、永遠の絶対無に吸取られ消滅するのが 人生である。個人主義を我が国民は蛇蝎のように嫌っているのは、一連の中で、 多いに実感したが、それ自体も幻想でしかない。 ・・・・・・ 4809,ある明治女性の世界一周日記 2014年05月15日(木) 「ある明治女性の世界一周日記―日本初の海外団体旅行」野村みち(著) 何気なく、図書館内を彷徨っていたら、この本が目につき借りてきたが、 現在の朝のNHKの連ドラの「花子とアン」の、出身校の東洋英和女学校出身と あったことも借りる動機にもなった。そして、読んでみて、面白いこと。 ランダムに、どのページを開いても、その日その日の、本人の視線が、 そのまま直に伝わる。 ーAmazonの内容紹介よりー 「母親からの厳しい「良妻賢母」教育と共に、東洋英和女学校でキリスト教と 英語という新しい教育を受けた明治の女性、野村みち。豊かな感性と柔軟性で、 真摯に、率直な心情を綴った世界旅行記。」 ーレビューよりー 《 元横浜YWCA会長を務めた野村みちの「世界一周日記」。若い頃から洋行に 憧れを持っていたことが書かれていた。その「世界一周」は、1908年3月18日 から96日間にかけて行われた。冒頭に旅のルートが掲載してあり、米太平洋郵船 会社のモンゴリア号で横浜港を出港し、ハワイを経由し、サンフランシスコ、 ソルトレークシティ、シカゴ、ボストン、ワシントン、ニューヨーク、英国 ホワイトスターライン社のセドリック号で大西洋を渡り、ロンドン、パリ、 ローマ、ナポリ、ヴェネチア、ベルリン、サンクトペテルブルク、モスクワ、 シベリア鉄道を利用してウラジオストック、敦賀に帰ってくる世界一周旅行。 一行54名、女性3人。筆者の夫は、横浜の実業家・野村洋三氏で、外国人相手の 古美術商のサムライ商会を営んでいました。本町通りにあったサムライ商会は 横浜の古い写真集を見ていると必ず登場するようなエキゾチックでユニークな 外観をしています。258ページに写真が掲載してありますので。筆者の家族の 写真や世界一周時の集合写真も掲載してあり、文章だけでなく当時のイメージ が理解できるようになっていました。旅行中の装いも和装で通す意味合いも 書いてあり、このあたりに聡明さが伺えます。アメリカのルーズベルト大統領 との謁見や、パリで名バイオリニストのサラサーテの演奏を聞いたことも記され ています。 巻末に番外編として「野村みちとは」と題する生涯を、北川原美乃 さんが25ページにわたって紹介していました。戦後すぐマッカーサーが占領下の 日本で初めて接した民間人が野村夫妻だったことも書いてあります。 そのような生き方を貫いた女性であることが分かる書でした。》 ▼ 100年前の96日間の世界一周日記、そこに女性が3人、加わっての旅行、 それは大変だっと思われるが、幕末、明治初期の一女性の目で見た当時の、 外国への視線が面白い。長年にわたり、多くの人が様ざまな経験をして記録に 残されているのに、改めて感心する。情報端末がノートしかない時代に、その 人の記録が逆に、生々しさとして、後世の者の心に訴える。横浜で外国人相手 の古物商をしていたため、カルチャーショックは、さほど無かったようだが、 そうでなかったら、その参加自体してなかっただろう。ところで、居間の座椅子 の横に、二年以上も「世界の旅行記101」が置いてあり、毎日、数分間、読む。 2〜3ページに要約した101の旅行記が、それぞれ何人かが分担して書いてある。 ところが、どれもこれも、重いため、せいぜい、一日、数分しか読めないが、 それでも門前の小僧で、少しずつ、階段を下りるように、何とか読んでいる。 それらから比べれば、ツアーで内容が軽いが、それ故に、親近感がわいてくる。 世界は広く、それぞれ深い! ・・・・・・ 4442, 閑話小題 ーリタイア後の幸せ度 2013年05月15日(水) * リタイア後の幸せ度 退職後の幸せ度は、一番高いのは創業者、二番目は違う会社で勤めている人、 三番目が、そのまま再雇用している人、最後は、そのままリタイアした人、 という調査結果がある。一番高いのが創業者は自分が、そうだから分かる。 それも、私のように会社を倒産させた人がいうと、強がりにように聞こえる だろうが、複雑な実感である。挫折感より遥かに達成感が強いことは確か。 自己完結してキレイサッパリするから。意外なのは、完全リタイア組の幸福度 が一番低いこと。長年かけたライフワークを持ってないためだろう。 「自分が、まだ有用の存在でいたい」のか。後は、解釈になる。収入の関係も あるのだろう。幸せの感じ方は様ざま。 鼻歌でスキップしていくしかない? そのためには、少々のお金と、知恵と、意欲が必要である。一番の問題は、 やはりお金に行き当たるのか。 * 節目を超えたようだ! 昨日、もう一つのブログ《バードウォッチ》に。「一月ほど前か、現在の自分 と娑婆に対し、底知れぬ可笑しさを感じて、知らずに独り腹から笑っていた。 これで節目を乗り越えたようだ。こういうのをアップスケール(脱皮)という。 独り万歳! あとは、心置きなく流しの遊びの世界で我を忘れればよい。 割り切るのに、やはり二年。節目としての4分割の最後のシリーズ。 心の還暦になる」と書いた。50歳になった時が、これかと思ったが・・、 もう一破壊が必要だったようだ。そして少し楽しめ!ということになる。 まだまだ重いし、最近、何事にも面倒が先に立つ。ただ、バイアスが日ごと 取れて好奇心が強くなっている。遊びに対して、まだまだ修行が足りない。 「節目を打て」というが、なるほどである。 (後記)ところで偶然だが、去年の以下の文章が、これに連動していた。 面白いもの。決して傷は浅くないということか! ・・・・・・ 4068, 疲れたら憩がよい、彼等もまた、遠くにはゆくまえ! 2012年05月15日(火) * 挫折について ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著より ≪「人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事 があります、と言い切れる自覚ではないか」(太宰治・〈走れメロス〉)という 科白もある。これなぞは負の体験こそ人間に正当な自負心を与えうる唯一の立脚点 ではないかと、負をプラスに転化している。・・たえず自分の弱さや、醜さや、 愚かさを思い知らされているというが、それがしかし、自分というものを知る 第一歩なんだ。そして自分の悩みを知ることを通じて以外にどうして他人を知る ことが出来るのだろう。その点からいえば君の悩みは、まだ浅すぎるかもしれない。 自分はもっともっと悩むべきだ、と考えてみる必要があるかもしれない。 「ひょっとして、人間が愛するのは、太平無事だけではないかもしれないでは ないか? 人間が苦痛をも同程度に愛することだって、ありうるわけだ。いや、 人間がときとして、恐ろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることも、間違い なく事実である。」(ドフトエフスキー「地下室の手記」より) ・・世に文豪と呼ばれるほどの人びとの書いたものを読めば納得できよう。 彼らが作品に描いてみせた人間的苦悩の深さは、とても凡人には耐え難いほどだが、 そういう深い苦しみ苦悩を通じてこそ彼らは、その反対に光り輝く美や愛や幸福を、 あれだけ深く生き生きと感じることができたのだった。・・「疲れたら憩がよい、 彼等もまた、遠くにはゆくまえ!」(尾崎一雄「痩せた雄鶏」) おそらく挫折して世に出れなかった日々、尾崎さん自身、この言葉を自分に 言い聞かせ、じっと耐えていたのだろうと思う。 ≫ ▼「死ぬほど苦しんだと言い切れる自覚がプライドの立脚点」には考えさせ られる。負の体験を現在しているが、これをプラスに転化にするには、結果から、 原因を徹底的に見つめなければならない。まだ悩みが足りないのは分かっている。 しかし、盛んだった日々の光りがあれば闇もあって当然と思ってしまう。 幸せも、不幸も解釈次第。死んでしまえば、全てチャラ!だから人生は面白い。 負の節目が挫折になるが、プラスの節目もある。しかしマイナスの節目ほど 次のステップには効果的である。 ・・・・・・・・・ 3702, 自己を見つめる −21 2011年05月15日(日) * 死について ー� 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 元気旺盛のただなかで、突如、不治の病を宣告された人は、初めは死を、 不条理な運命として呪誼し、憎悪し、拒否するが、次第にやがて、その苛酷な 宿命を受容し、死を覚悟し、承認するようになるという心理学的研究も存在する。 人間が死と立ち向かう心理的状況は、種々様々である。死を迎え入れ、その定め を覚悟し、その準備を整える用意は、憂き世の終末に向けて身辺を整理すること を含む。そこには、種々雑多な俗世間的な事柄が絡みつくが、それらはみな、 老境の責務だとも言える。 ありうべき介護や臨終、葬儀やさまざまな後始末、 それらをすべて、何らかの仕方で見越しながら、誰もが、終末に身構えざるを えないのが、死にまといつく憂き世のしがらみである。 たいていの日本人なら、死んだら、草場の蔭から子孫を見守り、お盆には 憂き世に帰り、生者と交わることを望み、しかしやがて年月が経てぱ、往時茫々、 すべては諸行無常のなかに消え去ってゆくのがこの世の定めだとして、それを、 詮方ないことと心得る諦念を、心中密かに保持しているであろう。あるいは、 永遠の生命の流れとしての浄土に、自己が繋がり、久遠の仏性に救い上げられる という強い信仰をもつ人もあるかもしれない。 さらにはまた、西洋からの 宗教思想の影響のもとで、死に際して、神の恩寵と審判が下され、裁きが 行われるという終末観を抱き、神に救済されることを祈って、日夜、信仰と精進 に励んで生きる、敬謙な人々も存在するであろう。 死という終わりに直面する 私たちが抱くさまざまな不安や、懐疑や、憂悶や、希望や、希求や、欣求には、 果てしがない。それらの種々の想念と気遣いのすべては、いかに人間が、死の影 のもとに、蜉蝣のような自己の身の上を、儚いながらも、充実した有意義なもの として構築して生きようとするかという、胸痛む事実を、告知している。 人間は、徹頭徹尾、死の影のもとに生きる存在者なのである。 この憂悶にみちた現実が、人間の生存の真実である。】 ▼ 結局は、大部分の人にとって壮絶な死に際が待ち構えているが、敢えて 知らないふりをし、日々の細事に気を紛らわせるしかない。それも、物心とも 準備を怠ってきた人は、ただ動転し、目先を辛うじて生きるしかない。 その結果、事故や、争いに巻き込まれ、老醜を曝す結果となりがちでなる。 それは、家系とか、持っている体質にも関係してくる。やはり人の死は大方 悲惨と覚悟をすべき。問題は、当の本人が、それに独り直面し、ギリギリの 極みの中で、苦痛の中で最期を向かえ、意識が消えていくことである。 ・・・・・・・ 3337, サイバーとは超格差社会 2010年05月15日(土) ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ー8 * サイバーとは超格差社会 ー まずは、その部分を抜粋してみる ー P−236 私は過去のコラムで「サイバーとは超格差社会」と書いたが、一方で これは持たざる者、立場の弱い者に大きな恩恵をもたらすものだとも考えている。 その格差といえば情報と知恵の差である。仮に判らないことがあっても質問できる 双方向性。実はこれこそがサイバーの最大の特徴でもある。そこから自然に コミュニティが生まれ、互いのノウハウを交換しあうことによって更に自らを 高めることができる。電子町内会の誕生である。こうしたことも、かってなかった スタイルの「恩恵」であろう。サイバー社会の格差を埋めるのもまたサイバー。 この事実に我々はもっと注目すべきだ。なのに現状、インターネット上の最大 の産業がポルノ、またはポルノまがいのコンテンツになっているのは情けない話。 「あらゆる技術は軍事目的で開発され、ポルノ目的で広まる」ともいうから (写真もビデオも、もちろんインターネットもそう)、ある程度は仕方がない ことなのかなとも思う。 しかしインターネットが我々の身近なものに降りてきて 10年あまり、そろそろ次の段階にステップアップすべきなのではないか。 「次の段階」、それは前述したように人々が学び、情報武装し賢明な市民となり、 甘言を弄する政府の嘘を見抜き、健康で文化的な生活を生涯に渡って維持する ことである。 そして、そのためにこそサイバーを有効活用することだ。 サイバー社会が人に恩恵をもたらすものである限り、私はそこを自らの 事業ドメインとして関わり続けていこうと考えている。 ▼ 現在、サイバーに対してマイナーの視点で論じる傾向があるが、負け犬の 遠吠えでしかない。弱い立場の者に大きな恩恵をもたらすが問題は知恵である。 知恵と才覚があれば、その中で格差を埋めることが可能である。そのためには 哲学の基礎も必要になる。哲学をもってネットを使えるかどうかで、その差は 大きく左右。考えないでネットにハマッタら、底なしのバカ?になる。 HP・ブログに10年前に気持ちを集中してなかったら、良し悪しは別にして 現在の世界観とは全く違っていたはず。これからiPadと簡易ブログのツイッター が爆発的に普及した時に、この蓄積は何ものにも変えがたくなる。 知らないうちにサイバーに移動していたことになる。ますます情報=通貨の 度合いが強くなる。恐慌も含めて、こんな時代が見れるとは思ってみなかった! ・・・・・・・ 2962,若者たちは今 −2 2009年05月15日(金) −若者が危ない!ー いつの時代にも「今時の若者は」と言われてきたが、少し前の経済週刊誌に 「現在の20歳代が危ない」という特集があった。 その特徴として、 ・上昇志向なし ・10歳代で「失われた10年」を経験 ・二年で3割離職 ・20歳代前半の43パーセントが非正規社員 ・親との同居率6割 ・職場に不満は過半数 ・海外志向のない若者が半数 ・あまりモノを買いたがらない 等々である。 今さらだが、彼らには弱肉強食の意識が欠落、若いときに辛い体験をして、 それをバネにして上を目指そうという気持ちが欠落している。韓国、中国などの 若者に比べて、全く人生に対する姿勢が劣っているようだ。 例の「ゆとり教育の犠牲者」なのである。こういうマイナスの回転に引きこまれた 世代は、何処までもマイナスがついて回るのだから、気の毒といえば気の毒。 我われの世代が逆にプラスの回転だったから、それが鮮明に見えるのである。 (以下、字数の関係でカット11年05月15日) ・・・・・・・・・ 2598, 中国の地震について 2008年05月15日(木) 中国の地震は、死者行方不明は十万人以上の可能性も出てきた。 産経新聞が行方不明9万人と報道していたが、まだ真偽は解らない。 中越、中越沖地震がマグネチュードが6・8、今回の中国の地震が、7・8。 震度が一違うと32倍というから、いかに大きな地震だったか!が推測できる。 32年前の文革真っ只中に24万人の死者の地震があったというから、日本の最近の 地震とは規模が違う。この地震もも、マグネチュードが7・8だったという。 最近は誰もがデジカメか携帯電話のカメラや、ビデを撮ってしまうから 情報管制は難しい。連日、生々しい写真が出始めいる。スマトラ沖地震と、 ミャンマーのサイクロン、そして、この地震と大規模の災害が続いている。 それも中国にとって華やかなオリンピックの聖火リレーの最中に。 (以下、字数の関係でカット09年05月15日)
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2015年05月14日(木)
『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 周りと同じ「普通」であることが、果たして善か? 「世間びと」の典型事例が<普通の人>である。普通であることが善と信じる 大部分の一人が、この質問者。少し外れた弟を勝手に見下す普通の人である。 無知だから仕方がないとしても、私の姉4人を見る限り、同じような思考範囲。 で、私は最たる愚弟であり、自認している。身辺からしても、当然、異物である。 ≪ Q: 〜41歳になる弟が稼げません。将来が心配でなりません〜 私は53歳の主婦です。私の41歳になる弟のことで相談があります。 弟は大学卒業後、証券会社に入社し、バブルの絶頂期に社内結婚、しかし バブル崩壊と同時期に離婚、そしてリストラされています。子供はいません。 それ以来、何か気が抜けてしまつたようで、40代になっても独身生活。 社会保険労務士、ファイナンシャル・プランナーなど資格取得にチャレンジし、 その資格を活かして働いているようですが、所得はアルバイト程度で(国民 年金も払えていません)、父親からの援助なしでは暮らしていけないようです。 身内の私が見た限りですが、弟の性格は悪くなく、独身女性にもモテるように 見えるのですが、このままでは弟の未来が心配です。 弟を一人前にするにはどうしたらよいでしょうか。 A: 〜まず、あなた自身が弟さんを見下す姿勢をやめなさい〜 回答を裁判の判決形式にしますと「主文、放っておきなさい」となります。 あと判決ではぐだぐだ「判決理由」が続くのですが、今回の場合、何と理由 づけようと(たぶん)五体満足で精神病に陥っているわけでもない41歳の男を 一人前にするために姉が(いや、ほかの誰でも)口を挟むことはありません。 ご相談の内容を仔細に見ても、別に弟さんに何の問題もないじゃありませんか? むしろ、私はこういう相談をもちかけるあなたのほうに問題があると思います。 世の中には、周りの者(とくに家族)が「普通」でないと、きわめて居心地が悪い 「善人」という名の一群の人々がいますが、あなたもその一人のような気がして なりません。その「普通」の中心に仕事と結婚がデンと居座っている。 あなたも、弟さんがしっかりした職業についてしっかり金を稼ぎ、しっかりした 家庭を築けば、それでいいのでしょう? しかしーあえて原則論を言いますがー さまざまな生き方があっていいのではないですか? 現代日本、組織に入らなく ても食っていける道はいろいろありますし(弟さんはいまそれを模索している のではないですか?)、結婚しなければならないという規則はありません。 というわけで、自分の弟であっても自分とはまったく別の人格であることを 尊重して、今後弟さんの人生に対してあれこれ干渉するのをいっさいやめる ことをお勧めします。なお、親が彼を援助するのは勝手です。・・・ ≫ ▼ 私が何時も非難する『世間びと』で、世の中の大部分が、善人で普通を 求める方々で占められている。そういう私も、いざ息子になると、似たような 思考形態から抜けてないことも事実。振返ってみると、弟思いの善人の姉たちに、 いつも、「普通であれ!」と洗脳されていたようだ。見下している世間は、実は 普通の人たちで、普通になれない悪人たる自分が作りあげた幻想でしかない。 逆に、普通こそ据わりが悪いのも確か。「われ、普通を笑う」も、「目くそ鼻くそ を笑う」の類のこと、ということ!「大変な人」と「普通人」、どうでもよいか! ・・・・・・ 4808,閑話小題 ー年寄りの愚痴 2014年05月14日(水) * 年寄りの愚痴 親戚の法事で、いつも愚痴を言っている一回り少し年上の人がいる。 今回も、前回同様に酒が入ると愚痴が始まった。今回は「昔は良かった!」から 始まり、山本五十六の家系の話から、掛軸の絵の知識の披露と、講釈が続いた。 年を重ねると知らぬ間にクドくなるのは、自分も同じ? 長く生きてきたため だろうが、これは合せ鏡で、自身を思いやるしかない。酒もまわっていたため、 私も二度「本当に昔が良かったですか?」と、クドく話に割り込んでいた。 愚痴は、老人性うつ症の特徴の一つの現れ。 そこでネットで検索してみると、 《 65歳以上の高齢者が全人口の23.1%(平成22年)を占める高齢社会になって、 当然ながら老人性うつ病も増えてきた。高齢者のうつ病には若年層で発症する のと比べると、いくつか特徴があります。若年期、壮年期に発症する場合には 患者の口数は少なくなり、行動はむしろ不活発にみえますが、高齢者の場合では 逆によくしゃべり落着きのない印象を与える。若年期のうつ病では身体的な症状 を強く訴える場合は、仮面うつ病と診断されますが、同じように老人性うつ病 でも身体の不調を訴える傾向があります。うつ病を発症していなくても老年期 には、個人差はあるにしろ変化を嫌い、意欲を失い、適応力の低下、周囲への 関心の喪失という行動的、心理的な面でいろいろな変化が起きやすい時期です。 特に注意したいのは、老化に伴って性格が変わっていく点です。 一般的傾向をまとめてみますと、 ①自己中心的になる ②疑い深くなる ③何にでも口や手を出したがる ④保守的になる ⑤自分の健康を必要以上に心配する ⑥愚痴が多くなる ⑦感動しなくなる ⑧気分や気持ちの切り換えがスムーズにできなくなる ⑨ストレスにうまく対応できなくなる ・・・》 ▼ 肉体的衰えが、精神の衰えを加速し、それがウツ症状をきたす要因になる。 週に5日は運動ジムに通い、1〜2時間のミニサイクリングをしているので、 何とか落ちこみそうな気持ちを保っているが、この楽しみと、週一の映画館通い と、自宅のドラマや映画の鑑賞と、この随想日記を書上げる面白味が無ければ、 おそらく、ウツ症になっているはず。先ほどの9つの老人の傾向、どれも これも、日々、強くなっている現象である。これが連れ合いにも起こり、 その矛先が自分に向かってくるため、二重三重苦になる。で、愚痴が深くなる。 しかし、老いてからの連れ合いの喪失は、それより遥かに厳しくなる。 そして、攻撃先を探し出し・・ 意地悪ばあさん、じんさんになっていく。 「転がる石には苔がつかない」で、転げまわるしかないのか? ・・・・・・ 4441, 四つの時間 2013年05月14日(火) * 四分割の時間割 〜「早朝坐禅―凛とした生活のすすめ 」山折 哲雄(著) 宗教学者の著者が、この本で勧めている生活が奇しくも私の時間割と酷似 していて驚いた。 �デカルトの時間、�イエスの時間、�ブッダの時間、�涅槃の時間、の四分割 だが命名がユニークでよい。( )は、私。�のデカルトの時間は、早朝座禅と 読書や執筆などに充てる時間。(4時半〜6時にブログに掲載する文の添削と 完成、そしてアップ。6時過ぎから7時20分がミニ・サイクリングになる。 そして朝食、新聞、風呂で9時になる) �のイエスの時間。著者が会社勤めをしていた時は、仕事に集中。 あたかもゴルゴタの丘を十字架を背負い歩くような時間。 (9時過ぎから12時近くは書斎で、読書か、翌日のブログに掲載する文章の 下書きなど音楽を聴きながら、独り沈潜する) �のブッダの時間。午前中に集中した緊張から解放された時間。 (一時間ほどTVを見ながら昼飯した後、スポーツジムへ。正午から15時が 目安になる。帰りに図書館かスーパーか蔦屋に立ち寄り15時半位に帰宅) �の涅槃の時間。仕事も終わり、疲れきってしまい、後は晩酌をしたり野球中継 をみたり。そして、熟睡。(私の涅槃の時間は16時から21時になるが、 TVの前で、野球、大相撲、録画のドラマか、書斎で読書、そして晩酌) 早朝、午前、午後、夕刻・夜の四分割になるが、書き出してみると価値の高い 順に坂を下りるように世俗化するのが見てとれる。この四分割、人生にも当て はめることが出来る。0〜19、20〜39、40〜59、60歳以上の、20年一区切り。 か、25年一区切り。こうみると、どうも私は��が混同していたようだ。 ゴルゴダの丘も大変だったが。そして、涅槃の時節に御隠居で、納得。 4分割を更に8分割すると「時間割」になるので、曖昧に二つ分けて おくと良い。成るほど、老後への長期間の準備が必要だ。 ・・・・・・ 4067, つれづれに ー悲観的すぎるのか 2012年05月14日(月) 先日、一年半ぶりに木鶏クラブの会に出席した。この会の何人かは、 私のブログを見てくれているが、自分でも気にしていた、「最近の世界と 日本経済の私の見方が悲観的過ぎるのでは」と指摘をされた。読者の多くは、 「一年前に会社を潰したため、悲観的になっているだろう」と予感をしていたが、 案の定。その指摘に対して、「自分の事業の資産デフレと価格デフレの実情を 実際に見て、右下がりの移動年計グラフを10年間にわたって見てきた裏ずけ がある。世界の株価の総額が4千兆円というが、その十数倍=6京円の不良債権 が銀行、企業、政府の金庫の中に隠されている。これは、何かのキッカケで現れ 出る日がくる。私の事業に早めに来たので、会社をたたんだが、これから世界 恐慌というカタチで、大荒れになるのは当然の理。決して、悲観的過ぎないと・・ 日本政府の財政を見れば分かるはず、この有様をみて、悲観的に思わないほうが 変である。」等々、の話になった。フランスも、ギリシャも、今回の選挙で、 国民は緊縮政策に「ノー」の答えを出した。 綺麗事をいい国民におもねいた 野党の毒入りの饅頭の政策に傾いてしまった。それと現在の民主党と自民党の 一部の連中の、囁きは同じ。10年前、5年前に、現在の事態を予測して、 警告を発した人は、当時は変人扱いをされていた。5年先から現在に戻ってきて、 警告を発したら、私が言い続けてきたことなど、大甘の論になると確信している。 5年後は世界恐慌の渦中にあり、銀行閉鎖とか、食料の配給もありえる話。 5年前、リーマンショックや、東北大震災と原発事故を想像できただろうか。 両者とも、500年とも千年に一度の大事件である。目先の応急処理で平静を 保っているが、株式の大暴落やハイパーインフレなど大クラッシュが起て当然。 リーマンショックという大地震は起きてしまったのである。その後の津波は 1〜2年以内に押し寄せてくる。ただ、時間の問題でしかない。地方経済は 半値八掛が現実。現場は沈黙しているが。ところで移動統計グラフとは、月単位 とすると、毎月、去年の翌月から今月までの年間の売上合計をとりグラフ化した もの。それをみると、一年単位の趨勢が見えてくる。この右下がり傾向が10年 以上も続いているのが地方の現状。 それで6〜7割減といえば・・ 一番先に現れるのが駅周辺のホテル、居酒屋、タクシー業界。 さらに携帯、 パソコンなどの情報化が、消費者のシビアな選択を加速、競争を激化させる。 その結果としてデフレが拍車。この中で供給サイドの体力は大きく削ぎ落と されている。 悲観的になるわ〜 ・・・・・・・ 3701, ジャズについて −2 2011年05月14日(土) ー 三枝成彰著「音楽の本」より 【 * スピリチュアル、ブルース、ラクタイム…ジャズのルーツは黒人音楽。 ニューオリンズのブラスバンドだけがジャズの母体となったわけではない。 二百年にわたるアメリカ黒人の悲惨な奴隷生活の中から自然に沸き起こってきた ‘魂の歌’の営々たる蓄積が、今世紀初頭にジャズという人種の垣根を超えた 新しい大衆音楽として花開いた、ともいえるだろう。そうした‘魂の歌’が、 ワーク・ソング(労働歌)であり、スピリチュアル(黒人霊歌)であり、ブルース。 ワーク・ソングとは、その名の通り、長く単純な肉体労働の最中、少しでも気を 紛らせるために、あるいは仲間主体となってその苦行を乗り切るために歌った 歌のことである。リーダーが即興で一声うなると、それ応じて全員がコーラスで 応じるスタイルだった。これは、たとえばかって日本の酒つくりで、極寒の 酒造りの中で杜氏たちが作業中に歌った‘元摺り歌"などにも通じるものがある。 ワーク・ソングはなにも黒人特有のものではなく、世界のいたるところで かつては見られた労働者の風習だったといえるだろう。スピリチュアルは、 西洋キリスト教の賛美歌などに影響を受けた黒人独特の宗教歌で、これは教会 音楽を経由し、ゴスペルという形で現代に継承されている。 ブルースについては、他のページでも融れるが、奴蒙の身分から解放された 黒人ひとりひとりが、差別や貧困に苦しむ私生活の哀歓を個人的な感情を込めて 歌ったものといっていいだろう。そして、そのブルースが持っていたミとシの 音撰半音下がる「ブルーノート」と呼ばれる音階構造は、とりわけジャズの 発生に大きな影響を及ぼした。また、黒人とクレオールの融合は、ラグタイム というリズミカルな音楽を生んだ。ラグクイムはクラシックと同じように楽譜 遍りに演奏されるピアノ音楽で、即興性を大切な要素とするジャズとは直接の 共通点はないが、十九憧紀後半から二十世紀初頭にかけて流行した音楽で、 これもまたジャズの源流となった音楽の一スタイルであることは間達いない。 いずれにせよ、一方には黒人の魂の歌やリズムがあり、他方には、クレオール からもたらされたといってよいラグタイムとブラスバンドがあった。】 ▼ ジャズのルーツはブルースやワーク・ソングなどの二百年にわたる アメリカ黒人の悲惨な奴隷生活の中から沸き起こってきた‘魂の歌’の営々 たる蓄積が背景にあると知って聞くと、また違って聞こえてくる。特にブルース が、ジャズの発生に大きな影響を及ぼしていると、この本で知った。ジャズに 奥底には、黒人の差別と貧困の長年の哀歓がある。その辺を捉えて聴くと、 今まで何気なく聴いていたリズムの奥にあるスピリットを少しは感じる。 ・・・・・・・ 3336, 2010年6の月、500万人が夜逃げする 2010年05月14日(金) 昨日の朝の書籍の新聞広告をみていると、 「2010年6の月、500万人が夜逃げする 」ー水澤 潤著 が目に入った。 (以下、字数の関係上カット2011年5月14日) ・・・・・・・・ 2961,300人のディナーショー 2009年05月14日(木) 昨夜、地元の長岡駅近くのグランドホテルで福沢恵介ディナーコンサートに 参加してみた。前夜の知人と福沢恵介さんとのガーデンパーティに招かれ楽しい ひと時を過ごし、是非参加してみたくなったのである。私らしからぬことだが・・ これもライフレッスン!9割が50歳〜60歳代の中年の女性で、一割が和服姿。 隣に昨夜、一緒だった同級生の席。顔見知りが数人はいたが、ほぼ見知らぬ人 ばかり。ところが、隣席の同級生が、あれは何処どこの誰、これは誰と教えて くれると、正しくディズニーランドにいるよう??。歳をとってきたせいか、 面白おかしく姿を正視することができた。オバサンのファッションショーの 趣きも! 武士の紋付・袴には胸に二つ、背中と袖に三つ家紋が付いていたが、 あれは正しく家を背負っていることを意味していた。それと同じことが現在でも 罷り通っているようだ。家に縛られた閉鎖社会である。同級生に「あんたも、 大変だね。こういう社会で商売をしていて。よくノイローゼにならないね」と 思わず言ってしまったが。「いや、これが長岡。外部の人が長岡では中々、 仕事をするのは難しい」とか。コンサートは、福沢恵介さんのギターの弾き語り、 熱のこもった素晴らしいショーだった。一人で300人の観客を自分の歌の世界 に引き込むのだから、大変な仕事である。ところで、同じテーブルの前の席の 女性二人、歌っている最中に平気でオシャベリをしていた。隣の女性に「注意」 されても、平気で話し続けていた。何処かの老舗の??。歌の半分は彼女らの 声のバックグランド。途中から慣れて気にならなくなってしまったが、家内に 聞いたら、かなり酔っていたとか。 まあ、ディズニーランドだから、それも ご愛嬌だが、オバサマは凄い。この二日間は、普段は経験できない楽しい 貴重な体験をしてみた。
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2015年05月13日(水)
『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 人生の意味とは何ですか? 人生の意味は、それぞれあるが、確たる意味など、ある訳が ないことなど、少し考えれば分かるはずだが。質問者が言うとおり、 この手の本を読み込んでいなかったということか。ニーチェがキリスト教的 偽善を根こそぎ否定してニヒリストと言われたのも、大衆は、実は神など存在 しないと思っているのに、信じたふりをいていただけと看破をしたため。 ≪ Q: 人生の意味とは何か? 極楽を説く宗教とは? 62歳、自営業、仕事はまあまあ、家庭も平穏、健康、毎晩酒を呑み、 週一でゴルフをする典型的な中年オヤジです。しかし、少しは本を読みます。 最近の小説のつまらなさに、学生の頃に夢中で読んだサマセット・モームを ひっばり出して読みました。そしてガキの時には読み飛ばしていた 「人生に意味などない」(『人間の絆』)という言葉に出会ったのです。 それ以来、この言葉が頭の中に鳴り続けています。 古今東西の英雄たちの人生さえ無意味だというなら、小生の人生は一体何か? 死がまったく「無」であるなら、天国を云い、極楽を説く宗教とは何か? 哲学書を一冊も読んだことがない小生にも分かるようにご教示ください。」 A: 人生が無意味であることを実感するには覚悟が必要です。 私は普通の人生相談の回答者と異なり、嘘をついて励ます(慰める)ことは したくないので、相談者が多少傷ついたとしても、思っていることをそのまま お話しします。まず「哲学書を一冊も読んだことがない小生にも分かるように ご教示ください」という要求にあきれ果てています。 お答えは「できません」 というものです。ここで相談を終えてもいいのですが、(私は優しいので) あえて続けますと、「人生に意味があ るか?」という問いに対して真摯な答えを 与えるのは、とにかく難しい。それは,こう問う多くの人が、人生に意味がない はずがない、だから何でもいいから都合よく納得できる「意味」を提示して ほしい、と願っているからです(あなたもその一人?)。モームは哲学者ではない のですが、多分この問題を一番考え抜いた哲学者は「ニーチェ」でしょう。 彼は、キリスト教の教えはすべて嘘であり、坊主たちがグルになって二千年間 われわれを騙してきたとみなしました。この世で報われなかった人があの世で 報われるわけでもなく、この世の幸不幸は永遠に清算(最後の審判)されない。 高速道路で飲酒運転のトラックに追突され幼児が焼き殺されたのも、電車が脱線 してビルに激突し、ぐちゃぐちゃになった車体の中で多くの乗客が死んだのも、 その人たちがただ「そこにいた」からです。こうしたとき、われわれは「なぜ、 罪もない幼児が? なぜ、親孝行の息子が?」と問います。古来人々はこう問い、 「われわれには測りしれない目的によって、神が災いを意志したのだ」と解釈 して、心を慰めてきましたが、ニーチェはきっぱりこれを否定する。すべては ただそうなっただけ。その奥に隠された意味(意志)などまったくないのです。 彼はこの真理を伝えるのに全人生をかけ、ついに発狂しました。人生に何の 意味もないことを全身全霊で実感するのは、それほどきついことなのです。 あなたも、そんなに「人生の意味」を知りたいのなら、あと統計的に死ぬまで 十年ちょっとあるのですから、残りの人生、それを探究することに費やして みてはいかがでしょうか? それが厭なら、謙虚にただ「わからない」と 眩いて死ぬことをお勧めします。 ・・・≫ ▼ 中島の面目躍如の内容である。この20の人生相談の回答に、ことごとく 私自身の曖昧さが指摘されているようでもある。それと私が忌み嫌っている 我が内なる世間びとへの批判に徹してようである。それだけ、世間という共同 幻想は、人々を縛りつけている。欧米では、その共同幻想がアッラ〜の神。 その名のもとで、互いが殺戮を行っている。ところで、『人生の意味』の意味 を価値に置換えると糸口が見えてくる。 人生に価値がありや、なしや? と。 ・・・・・・ 4807,閑話小題 ーボケの始まり? 2014年05月13日(火) * ボケか? 先週の土曜日、親戚の法事で駅まで歩いた後、タクシーに乗って寺まで 行ったが、誰もいない。そこで住職の自宅玄関で聞いたところ、翌日の間違い。 その前日、もしかと思い、案内を見直して日曜日と確認したが、その勘違いを 確認したことも忘れてしまっていた。 こういうのが呆けの初期症状? 家内に厳しい冗談?で、「施設に入れなくては!」と、馬鹿にされ 「他人に言わない方が良いよ」とまで、言われる始末。 それにしても、 ハガキを見直しても、間違えてしまう迂闊さに、我ながら信じられない思い。 帰り道、履き慣れない靴のため靴擦れの脚を引きずりながら、反省のため 30分の道のりを歩いて帰ってきた。 休憩のため駅東のマックに入って ハンバーガーを食べたが、それが何ともいえない味。緊張感欠如だろうが、 後々考えたとき、これが、ボケの始まりだった、でなければよいが。 * カラオケは、森の生活だからこそ? スナックに行っても、カラオケをほとんど歌わなくなった。 店内に客が連れと二人だけでも、歌う気がしないのである。やはり仕事の 憂さとか、張り合いの中でこそ、歌に張りも気持ちが入るというもの。 ゴルフはやらないが、現役時代のプレーが、定年後より遥かに面白いとか。 年齢もあるが、秘境ツアーも以前ほど行きたいと思わない。これも、仕事の 合間に何とか都合をつけて、浮世のストレスを秘境旅行のストレスで消す からこそ張り合いがある。 今は今の楽しみがあるのだから、 それは、それで良いとしなくては。 * カラスの糞かけ またまた偶然の一致だが、法事から帰ってきた玄関で、カラスの糞が、 目の前50センチ前に落ちてきた。これまで、一度は命中、あと一度が、 以下の前年の同月同日に書いたのを含めて、三度目になる。それより、 よりにもよって一年前に書いていたとは面白い偶然である。私には、この 手合いの偶然があまりに多い。その瞬間、「今回は、カラスに狙われた」 と直感したが・・。 最近、一羽のカラスがペットのインコの鳴き声に 惹かれて、自宅の周辺に屯している。何か、法事とか、葬式に、よく起きる 不思議な現象の一つ?だろうか。 ー以下をご覧あれ!ー ・・・・・・ 4440, 閑話小題 ーカラスの糞かけ 2013年05月13日(月) * カラスの糞かけ 数年前になるが、自宅近くを自転車に乗っていた時、カラスが低空で 私の二mほど先に糞を落としていった。問題は、これは果たして私を狙ったのか 偶然か、毎朝近くを通る度に考えたことがあった。ところが、一昨日の朝日新聞 の朝刊のコラムで、四コマ漫画の「ののチャン」が、専門家に質問する形式で、 「カラスの糞かけは、意図したものかどうか」を取り扱っていた。よくあること だから、取り上げたのだろう。 答え手は、「あくまで偶然で、カラスにとって 何ら利益にならない」と、ゲーム説や、カラカイ説には否定的だった。 専門家といっても、私のように三十年以上、毎朝、散歩やミニサイクリングで カラスを観察していた訳でない。で、私はゲーム説である。長岡大橋の手すりで、 カラスが5羽並んで私が自転車の通りすがりで至近距離に近づいても逃げない 「度胸ためしゲーム」をしていたことを、ここで書いたことがあった。 また散歩中の小型犬を、至近距離で、威嚇して遊んでいるのを見たことがある。 犬の飼主も、それを面白がって見ていたが、明らかにバカにして遊んでいた。 話は変わるが、昨日の午後、帰宅をすると、隣の空地で5羽のカラスが入り 乱れて空中戦をしていた。よくあることだが、昨日は違っていた。その二組が 同時に地上で激しい乱闘を始めたのである。初めは車内で見ていたが、決着が つかないので、車庫に車を入れてから門の角から隠れてみていたが、その間 7〜8分。鳴き声を聞きつけた他のカラスが数羽が駆けつけ、騒然とした中での 激しい乱闘はなかなか見もの。上下に体勢が入替わり互いの身体をワシヅカミ してツツキ合っていた。よく再び飛びたてたもの。身体からみて若いカラス同士 の縄張り争い。最近、一羽が我家の庭に度々来ているが、その中の一羽だろう。 ・・・・・・ 4066, つれづれに ースポーツジム、その後 2012年05月13日(日) * スローヨガ このところ、スポーツジムのスローヨガに参加している。連続参加が勘違い で14回で途切れたが、これまで18回参加した。ヨガのポーズは腰と背骨の 矯正に絶好である。大よそ40人が参加しており、火・木曜日の午後の週二日。 平日の午後、これだけの人数が一同、暗闇の教室でヨガをするのも奇妙な感覚 である。慣れるのに7〜8回はかかったが、慣れてしまえばしめたもの。 60×120センチのマットの上で色々のポーズをとるが、ヨガの先生曰く、 「ヨガでは、このシートが全宇宙と思って、自分独りと思って下さい!」 一回、50分だが、あっという間に、時間が過ぎてしまう。始まると周囲の人が 意識から消えてしまうのがよい。シートの中の自分と先生の世界が、それぞれ 出来てしまう。 ところで、専門のヨガ教室だったら幾ら?と値踏みをしたが、 一回、千円の価値は充分ある。 週二日、月に6回(二回、休む?)として 6千円になる。 これだけでSJの会費の元が取れることになる。 時間帯もあるが、9割が中年女性である。 * 昨夜は、新潟で飲み会 あれから一年以上経ち、そろそろ蟄居閉門も明けつつある。とはいえ新潟駅前 で事業をしていた手前、会場は敷居が高い地区。一般債権が無いが、気分的には 近寄り難いことは確か。「あの野郎、沼垂で赤ら顔をして飲んでいた」と、 言われそうだが・・ 27〜8年前に、月刊雑誌「到知」に惚れ込み、新潟市 周辺の愛読者の同好会「木鶏クラブ・新潟支部」を立ち上げた。私自身は12年 ほど前から、会から遠ざかっていたが、現在でも続いているが、有難いことである。 最後に行ったのが一昨年の忘年会、去年は時が時だけに一年の喪?が明けた今回、 参加した。その前に、新潟駅構内にある家電のジョーシンと、ビックカメラに 寄ったが、土曜日もあって客で溢れていた。長岡と新潟の勢いの差は駅に出るが、 あまりに大きい。泊まろうと思ったが、22時半の最終新幹線で帰ってきた。 昔の仲間との邂逅は良いものだ。 * 自転車専門大店 昨日、新潟駅近くのイオン直営の自転車大店に行ってみた。100坪位の 店舗にビッシリ自転車が並んでいたが、やはり電動アシスト自転車が主流。 開店直後で、まだ軌道に乗ってないようだが、時代から見て時間をかければ 良くなるはず。まだ価格帯が10万円あたりだが、4〜5万円が爆発的に売れる 分岐点だろう。店長曰く「電気代が月に20〜30円」。一回分なら分かるが、 こんなに安いとは知らなかった。電動アシスト自転車に乗って二年半になるが、 本当に良いと実感している。道具一つで、自分の生活圏の広さが全く変わって しまう一事例である。ヨガもそうだが、ポタリングを習慣にしてしまえばよい。 ・・・・・・・ 3700, ジャズについて −1 2011年05月13日(金) ジャズ1000曲がパソコンに入ったため、常にBGMとしてジャズが聴こえる。 これに慣れると、もう無しにはいられないから不思議。そこで、ジャズとは、 そもそも何?と知りたくなって本棚をみると、たまたま三枝成彰著「音楽の本」 があった。 そこに丁度、私が知りたいことが、そのまま書いてあった。 【「黒人の民族音楽と白人のヨーロッパ音楽とが融合し、その結果、黒人を 中心としたブラスバンドから生まれたポピュラーミュージック」 「遅れて拍子を打つ黒人独特のバック・ビート(四拍子の一拍目、三拍目に おくアクセントを二拍目・四拍子目にずらして演奏する)をリズムに持ち、即興 演奏を生命とする音楽」 ジャズという音楽を簡単に説明すれば、こういう ことになるであろう。さて、そのジャズは二十世紀の初頭、アメリカ南部の港町 ニューオリンズで生まれるのだが、ここは十九世紀はじめにアメリカが購入する まで、スペインとフランスが交互に統治していた地域だ。そこには、フランスや スペインの白人と、西アフリカをルーツとする奴隷として連れてこられた黒人、 そして、その混血である「クレオール」が生活していた。クレオールはおし なべて教育水準が高く、ヨーロッパに留学をしたり、ビジネスで成功するなど、 ニューオリンズではエリート層に入っていた。ところが南北戦争を受けて奴隷を 解放せざるを得なくなった南部白人層の不満は、黒人ばかりかクレオ一ルへも 向けられ、クレオールも人種差別の対象となる。 一方、ニューオリンズの黒人たちは、奴隷解放後、主に音楽に仕事を求めた。 南北戦争に敗れた南軍軍楽隊の楽器を古道具屋で安く手に入れた彼らは、祝祭 パレードや葬儀の行進などで演奏するブラスバンドとして活躍。とりわけ、 葬儀の際のブラスバンド行進は、ニューオリンズ名物として伝説化されている。 埋葬へ向かうときには悲しげな曲を、墓地から戻るときには死者の魂が天国に 迎えられるように明るい曲を。ジャズ史上最も有名な曲の一つ「聖者の行進」は、 そんな時代に生まれた曲だ。こうしたブラスバンドには、どのグループにも 何人かのクレオールがいた。白人社会から締め出された彼らは、同じ被差別層 黒人たちと一緒に仕事を始めたのである。音楽の素養があるクレオールは、 楽譜の読めない黒人に西洋音楽の技法の手ほどきをする。黒人はアフリカの 祖先から脈々と受け継がれている生来のリズム感覚を持っていた。 それが融合し、ジャズの生まれる下地ができあがったのである。 「ニューオリンズ(ディキシーランド)−>スウィングー>ビパップー> クールー>ハード・バップー>フリー」 これがクラシックの歴史を振り返ると 「バロックー>古典ー>ロマンー>近・現代」といった流れで見るように、誕生 から百年を経過したジャズのスタイルの変遷も、こうした流れで見るのは一般だ。】 ▼「ニューオリオンズ」という地域と「黒人」、そして「クレオール」という 人種に行き着くのである。20世紀の初めの頃、怪しげな下町の酒場で、即興 として、古道具屋から安く手にいれた黒人たちがバック・ビートのリズムで始った。 あのアルカポネの時代に全米に、それが瞬く間に広がっていった。 やはり、その背景を知っているといないとでは・・ ・・・・・・・・ 3335, 閑話小題 ーつれづれなるままに 2010年05月13日(木) * ゴールデンウィークの異変と、連休明けの異変 このゴールデンウィーク、道路も街も賑っていたが、この5〜6年で 様変わりをした。10年前までは車の旅行客が夕方になると殺到していたのが、 ピーク3日間でギリギリ満室か9割がやっと。それも高校の剣道大会とバスケット の大会がベースで一棟埋まっていた上で、これである。不景気もあり消費者が 合理的になったのである。 その行動パターンのケースとして ・連休の間に日帰りを二回するとか、一泊で四国まで行って来たとか、 高速道路の料金千円をフルに利用するもの。 ・東京まで早朝のバス代2500円×往復で5000円で行って来たとか、 周辺ではいかに安く済ましたかが話題の中心。 それがブログやツイッターで話題になれば、直ぐに伝わる。これも恐慌と 情報化の影響である。ところで毎年の恒例で、連休明けに一時的に宿泊が減る。 さらに6月に入ると二段目の落ち込みになる。覚悟をしていたが、今回も予測 どおりの落ち込みである。数年前の、ブログにも落込みの現象を書いているが、 それが、ますます大きくなっている。 年末年始明けと同じような数字だから 恐ろしい限りである。 * 民主党のおぞましさ 思わず現政権の官僚の言葉に耳を疑った。一国のトップが外国と約束をした 「5月末までの決着」を、ここにきて「延期」と言い出したからだ。国際間で、 それが通ると思っている無知・幼稚さに、ただただ呆れる。これからみても 政権末期である。これまた、一年も政権維持が出来ないことになる。 これで4人連続である。鳩山首相も、血筋も知性?も一級だが、やはり政治は 阿修羅の世界で一寸先は闇の世界である。長年かけたアメリカの実質日本占領下 で出来てしまった体質の中では、思い切ったことが出来ない事情もあるが。 * 「Youtubeが面白い」のに気づく 息子に「Youtubeが面白いよ」と言われてから一年以上経つが、殆んど みることがなかった。ところがデジタルビデオカメラを購入しアップをキッカケ にして時々見るようになったが、これが面白い。それより、自分が現実にアップ して初めて注目をするのだから、頭が固くなってしまったということ。 特にペットとか、動物の世界の思わぬ出来事の遭遇の映像には驚いてしまう。 これまではTVで、月に一度位でみた衝撃映像が、ここでは幾らでも出てくる。 情報格差も大きくなるわけだ。 ・・・・・・・ 2960,藤を見るかい 2009年05月13日(水) 「藤を見るかい」の招待を受けて、昨日の17時過ぎに長岡郊外の 友人の別荘に行ってきた。(字数制限のためカット 2010年5月13日) ・・・・・・・・・ 2596, 金融鎖国 2008年05月13日(火) ー読書日記ー (朝´∀`){♪Good Morning♪} 「連鎖するドル大暴落」「ドル覇権の崩壊」の二冊を立て続けに読んでショック を受け、それでは、その著者が以前に書いた本が、何処まで当たっているか見て みようと、「金融閉鎖」と「日本壊死」を図書館から借りてきた。そして、 その7?8割は当たっていた。数年前に本屋で手を取ってみたが、気になってはいた 本であった。読めば読むほど、先行きに対して不安になってくる。 やはり、 その2008年になったのである。石油が120ドルという、とてつもない暴騰をし、 世界経済が根本からおかしくなり始めたのである。穀物や油が高騰を続ければ、 世界経済は大混乱をするのは時間の問題である。物は売れない、原価は止めの 無い高騰。企業は成りゆかなくなり、倒産、そして失業者が溢れかえる。 資源を狙って隣国同士が戦争とマイナスの連鎖が続くだろう。現時点では、 金融閉鎖は無いにしても、アメリカのドルの暴落、債権の暴落等で金融鎖国の 事態もありうるというのも肯ける。悲しいことに日本は、その直撃を受ける。 ー概略をまとめてみたー 「金融鎖国」ー日本経済防衛論 副島 隆彦 (著) (字数の関係でカット 09年05月13日)
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2015年05月12日(火)
* ボ〜ッとしたデカルトの時間 御隠居の生活に入って、早朝からスケジュールとおりに時間を過ごしている。 その時間の中で一番大事なのがボ〜ッとした時間。だが、それが過ごせてない。 ひとつ終わると直ぐ、次のスケジュールに移行するため。 以前もふれた事が あるが、宗教学者の山折哲雄が、早朝30年続けてきた座禅で、無念無想を諦め、 この時間帯は、デカルトの「ものを考えている」と思いつき、全身が解放された、 という話にハッと何かを感じとった。 最近、パソコンや読書の合間に、何を するでなし、意識的に弛緩した状態でボ〜ッとしている。考えてみたら、現役 時代は何時もしていたことだが、問題は意識してボ〜ッとすることだった。 〜その辺りの記述を抜粋〜 ≪ 朝3時か4時に起きて、毎朝一時間ぐらい座る。毎日香っている線香一本 燃えるのにだいたい50分前後。その一本を闇の中でつける。その明りを 見ながら座る。道元が言っている「無念無想」なんてのになれるものならなって みるか、なんてやっていたけど、ぜんぜん無の境地にはならなかったですね。 雑念、妄想とズ〜ッと戯れている。30年近くこれをやって、「俺はもうダメだ」 と思ったのが50代の終わりぐらい。でも、もう癖になっているからとにかく 朝は座るんです。で、あるときハッと思った。「無念無想になろう」と思うから いけないのであって、「ものを考えている」と思えばいいじゃないかと。 あっという間に全身が解放されたような気分になってね。「俺は今デカルトを やっているんだ」と。道元の時間と思っていたからできないのであって、 デカルトの時間と思えばいいと。すると、何を考えてもいいわけです、金、 女性、喧嘩したこと…。「我考える、ゆえに我あり」。道元だって大部分 の時間は無念無想じゃなくて妄想と戯れていたんじゃないかと思ったのね。 それで瞬間的にパッと無の瞬間が訪れる。逆にデカルトだって、考えづめに 考えていて、ときには無念無想の時間に恵まれたことがあるんじゃないかと。 そうすると、道元とデカルトはぜんぜん違う世界の人間じゃなくて、彼らは 同じ時間を共有していたのかもしれない、そう思ったときはうれしかったね。 座禅が終わって五時ぐらい。それから本を読んだりものを書いたり。以前は 夜型だったんだけど、朝一時間は夜の3〜4時間に匹敵する、それがわかって から夜は仕事をしないことにした。朝2〜3時間仕事をすることが、だいたい 自分のノルマになったかな。 ・・・。 ≫ ▼ 数ヶ月前から、ブログを書上げネットにアップした後、それまでは、 次のプログラムを直ぐに移行するが、その時、ただボ〜ッと全身を弛緩し、 ただ座ることにした。これが意外と難しい。要するに雑念が次々と思い浮ぶが、 その中に思いもよらぬ砂金が含まれていることがある。「我考える」とはいえ、 どうせ、碌なことしか考えてない。それなら、この随想日記のように、まず 禄でもないことから、考えればよい。元もと『禄でない』だから! 早朝の散歩も、ポタリングも、ある瞬間、『無念無想』の瞬間がある。 『エッ!俺、何時もボ〜ッとしている』って? それってバカじゃないか。
それってバカじゃない。 ・・・・・・ 4806,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー3 2014年05月12日(月) 「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著 * 自分も、人生も、記憶がつくりあげる 記憶は、その痕跡として、自分でアレンジすることが出来るため、その蓄積 としての記憶は、その人自身が作り上げた要素が大きく加わっている。その時点 での、自己対話としての内的世界が重要になる。そして、その記憶もである。 時間の経過とともに、その記憶も修正されていく。 《 記憶は自己の同一性の基礎となっており、私たちの性格や生きかたに 大きな影響を与えている。しかし、たとえそうだとしても大多数の人は、 記憶など自分の過去に起こったできごとの痕跡にすぎないと言うだろう。 これから未来へ向かって生きていこうというのに、今さらどうしようもない 過去の痕跡にかかずらっている時間はない、と。しかし本当にそうだろうか。 先ほどのTさんの話の中には、未来に向かって生きるためにもやはり、 記憶が重要なことを示唆する一幕がある。記憶喪失のために八年間の記憶を すべて失ったTさんは、当初、何とかしてその記憶を取り戻そうと焦っていた。 母親はそんなTさんに、誰もが365日すべての記憶があるわけではないのだから、 過去にこだわるよりは、今から何かを始めればよいと言ったそうだ。しかし、 それに対してTさんは、「今まで何をしようとしていたのかを知らなければ、 前に進むことができない。それを知らなければ生きている意味がない」 と言ったという。 このことに関連して私が思い起こすのは、戦後40年目に おこなわれた当時の西ドイッのヴァイツゼッカー大統領の演説だ。 ヴァイツゼッカー大統領はこの演説の中で、第二次世界大戦のナチスドイツに よるユダヤ人虐殺について深く謝罪すると同時に、「過去は神でも変えられぬ」 という台詞で、過去を変えることができないことを強調した。しかし、だから といって過去を封印しようというのではなく、彼は「過去に亡目になる者は 現在に目を閉じることになる」と続け、過去を知り、それを現在に生かすこと の大切さを訴えかけたのだ。基本的には、私たちの記憶もこれと同じではない だろうか。自分の記憶をみつめることで、それを現在に生かすことができ、 記憶は未来への航海へと漕ぎ出す原動力となるのではないだろうか。》 ▼ 記憶といえば、日記に書かれていたかどうかで、大きく違ってくる。 だから、ネットや、日記帳に、書き込んでいる。そして、毎年の同月同日分を 読み返しているが、なるほど、自分の加工が大きく入っている。それが「自分」 ということになる。ということは、それぞれが自分史を生きているのである。 今さら書く事もないが、より足取りを確かにするためには、書いておいた方が良い のだろう。改めて、何気なく繰り返し思い出している記憶が、実は、自分が大きく 加工したものでしかないとすると、やはり共同幻想、幻覚の中で生きているだけ ということが、少しは自覚できる。最近、ブログで過って行った先の写真を ネットからコピーし、ブログに載せているが、これが、当時の記憶を彷彿させる。 これも、当時の記憶の再生と、再体験になる。行ってなければ、注目もしない だろうし、どんな写真より、当時の感動の方がはるかに良い。過去の再生と 体験と同時に、新たなる未来のためにも、常に、記憶の手入れが必要になる。 ・・・・・・ 4439, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー9 2013年05月12日(日) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 ーこれまでの7つの登山道を更に簡略すると、次になる(後書きより)ー ・ ルート1は、心は幻想だと理解する道。 脳神経科学の知見から考えると、意識される今は幻想だ。 今とは、未来や過去が調整されて今だと思わされているに過ぎない。 自分が主体的に行っているとリアルに感じる意思決定も、そうしていると 思い込んでいるだけだ。 僕たちは「生きていると錯覚しているだけだ」と考えざるを得ない。 ・ ルート2は、すぐ死ぬことと、あとで死ぬことの違いを考える道 所詮はいつか死んでしまう、ということから人生を考えると、今死んでも あとで死んでも同じよなものだ。人生は死刑のようなもの。だが、それは、 悲観的なものではない。生まれてきた奇跡を、この宇宙的ラッキーを、 ポジティブに捉えようではないか。死ぬことが悲劇なのではなく、 生きていること自体がすばらしい奇跡なのだ、と。、 ・ ルート3は、宇宙サイズの視点に立って、自分の小ささを客観視する道。 138億年前にできて、直径276億光年のサイズを持つ巨大な宇宙。この宇宙 スケールから見ると、何て人間は小さいことか。しかも、地球上に70億人も うごめいている人間。あなたはその中のたったの一人に過ぎない。全体から 見ると、あなたが自分の死にこだわることは、極めて部分的些細なこと。 ・ ルート4は、主観時間は幻想だと理解する道。 客観的な時間は、138億年にわたって、一秒ずつ確実に時を刻んできた かもしれないが、主観的な時間は、それとは異なる。過去と未来は圧縮され、 生死のところで長さがゼロになる。しかも、それは幻想だ。あなたの過去は 記憶にしかないし、あなたの未来は想像上の産物。あなたには今しかない。 あなたは、今しか感じられないのだ。時間などない。だから、あなたの主観 時間に、死の入り込む余地はない。 ・ ルート5は、自己とは定義の結果だと理解する道。 自分がいて、生きていて、考え、行動し、いずれは死んでいく。 そう考えるのは、近代西洋流に、自と他、生と死、主体と客体、能動と受動 といった二項対立図式でものごとを捉えているからに過ぎない。それが正解 ではなく、ものごとを考えやすいように、そのように定義しているだけだ。 「自分」を定義するから自分があるかのような認知が行われ、「死」を定義する から死を恐れている気がするに過ぎない。もともと、世界は単に全体として 世界であるだけであって、自分も死もないのだ。 ・ ルート6は、幸福学研究からのアプローチ。 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の 目を気にしない傾向。これらを満たすのは、自己を捨て、無我・無私を実践 できる達人の生きかた。・・ここに到達した人は、持続的な至福を感じる ことができる。逆に、持続的な至福を感じられる人は、達人の域に 到着することができる。・ ・ ルート7は、リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ。 そこには、リラクゼーションからでも座禅からでも、念仏からでも達する ことができる。いや、ルート6のいずれからでも到達することができると言う べきだ。 何しろ、もともと同じ山を登っていたのだ。 登頂した先は、 同じところ。死を恐れない境地。それはそのまま、生を満喫出来るところ。 昔の人は、科学技術の知見がなかったから、仏教哲学によってしかそこに 到達できなかったのかもしれない。しかし、現代人には科学技術がある。 脳科学の知見は意識が幻想だという事実を僕たちに突きつける。 ▼ <私たちの心は幻想でしかない。137億年の時空の自分は小さな存在、 そこでの主観時間は幻想。それを感じている己も定義でしかない。そこでは、 他の人との比較に目を奪われることなく、深くリラックスをしていれば良い> が活きるコツ。ひたすら今を活き活き、楽しめばよい。背中に羽をつけた 天使のようになるに、まだ重い。せっかくサバンナに出てきたのに。 ・・・・・・ 4065, お金と神 ー1 2012年05月12日(土) * 「お金=信用」と「神=信仰」は似ている 〜� ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より 金とは何だろう?と長年考え続けてきたが、金と神との同定の視点が面白い。 両者ともバーチャルの信頼で成り立っている。一部の支配者が神の信託に、 紙幣の信託の類似性をみて発明したのが金で、両者とも共同幻想の最たるもの。 ーまずは、抜粋から。 ≪ 金と神は似ている。一般に、金とは汚いもの、神とは聖なるものと言われる。 いずれ実体のないバーチャルなものなのに、人びとの行動に大きな影響を与える。 適度に使えぱ人々に安心と幸せをもたらすが、行きすぎれば人生を狂わせる。 宗教が狂信者を生んで世界を恐怖に陥れるように、現代における金への強い執着 は、人々に購入を控えさせ、不況を生み自分たち自身を失業に追い込んでいる。 ◎ 宗教とは、リアルな物欲が生む煩悩から逃れるために、人間が頭の中に 作ったバーチャルな世界である。それはときとしてリアルな物より人間行動に 強い影響を与える。純粋にバーチャルな神という概念をそこまで高めるのに、 人間は多くの過程を経てきた。はじめ神は嵐や雷、山や川など、自然物や自然 現象と結びつき、それらのリアルな脅威や恵みが、直接の畏敬の対象だった。 その後、徐々に抽象化されていく過程では、多くの装置を必要とした。装置とは、 大伽藍であり、宗教画や彫刻であり、神話や経典である。それらを使って 人びとに極楽浄土や天国を信じさせ、信仰に導いた。この段階ではまだ、 宝石や黄金、美しい花や天女など、極めて世俗的な妄想を抱かせている。 しかし、宗教の抽象化はこれに留まらい。禅宗に至っては、脳内での世俗的な 快楽や美しさへの想像さえ否定する。すべては無であるという禅宗の経典、 般若心経では、直接的な物欲だけでなく物への妄想さえ捨て去ることにより、 心の平安を得ようとする。これによって宗教は完全にリアルから切り離され、 バーチャルな観念へと昇華きれる。 ◎一方、お金はどうか。ーつづく ≫ ▼ お金の亡者は、金を神のように崇める人をいう。世の中の9割方の問題が 金で解決出来る代物なら神様より頼れる紙切れである。神が共同幻想なら、 それを信じている世界では通用するが、通用しない世界では、紙切れの存在で しかない。信じばこそ、そこに価値が出るもの。その価値を生み出すための装置 の重積で、妄想から信仰に昇華させていく。資本主義における神こそ、金である。 アメリカのドルと国債こそ、神に近い存在であった。それも今や、そのカラクリ (欧米の資本主義)が崩壊しつつある。 ・・・・・・・ 3699, 自己を見つめる −20 2011年05月12日(木) 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) * 死について ー� ーP・283 【 死の壁に突き当たって打ち砕かれ、この世での自己の赤裸々な実存の現実 へと跳ね返されて、そこで、みずからの過去を背負い、あるべき将来を目指し、 現在の状況のなかに立って、熟慮し、行為し、人生の道を切り開いていって、 自己と他者と世界と存在のすべての意味ある本質充実を達成すべく格闘して 生きるよりほかにないが、それが人間が生きるということである。それはまた、 人間が生きつつ死ぬということであり、さらには死につつ生きるということ。 したがって、この世で生きる自己の存在の根底には、こうした死の存在論的 概念が深く食い入っている。死を抜きにして、自己はなく、人生はなく、 この世の生存はない。無にさらされたものとしてのこうした人間的自己という その必然的運命の自覚の上に初めて、具体的な医学的現象としての死の諸相も、 位置づけられうる。 自分が、癌で死ぬのか、事故で死ぬのか、成人病の悪化で 死ぬのか、老衰によって天寿を全うするのか、それは誰にも分からない。 しかし誰もが、この世に生まれてきた以上は、医学的な具体化を伴って出現する 死に早晩さらされることを自覚し、自己の無化を心得つつ、終わりある自己の 人生を深く銘記し、心の奥底でその覚悟を整え、その孤独な最期を密かに見つめ ながら、いままさにこの世のさまざまな営為に携わって生存の努力を重ねている。 こうした意味で、明るい現実の根底には、穴が穿たれ、虚無の風が吹き上げて いると言ってよい。そこには、暗い無の深淵が、底なしの無気味さを湛えながら 広がっている。自己の存在の根底には、無が潜んでいる。考えてみれば、自己が この世に存在する以前に、元来、自己は、どこにもなく、無であった。 いま、自己は現世のなかの活動に浸って、一見確固たる実在感を覚えている。 しかし、無常のこの世は、うたかたのように過ぎてゆき、再び自己は、存在の 無のなかに沈み込む。無としての存在の大海のなかに、ひととき浮かび上がって、 浮き草のように漂い、必死にもがいて、確固たる存在を築きえたかに思った 自己存在は、やがてまた、無の大海に呑み込まれてゆく。ハイデッガーが言った ように、死は、無の枢である。そこには、人間には窺い知れない存在の秘密が 隠されているとも言える。誰もその奥を覗き込んだ者はいない。さりながら、 かつて、エジプトのザイスの神殿に、帳で隠された女神が祀られていたが、 その帳を取り除けることに成功したある人物がそこに見たものは、不思議な ことに、当の自分自身だったという。へーゲルやノヴァーリスが語るこの意味 深い言い伝えに従えば、存在の深淵を覗き込んで見出されるものは、実は、 当の自分自身である。・・その意味でも、死を含んだ、無としての存在が、 人間の真実であり、それ以外にどこにも存在の真理はないと言わねばならない。】 ▼ 最後の章は死である。死は、ドーナツの穴と類推すると、面白い。 穴はあって、ない。ドーナツの形状が穴を形づくっている。永六輔が 「色即是空の色がドーナツで、真ん中の穴が、空」といみじくも言っていたが、 人間存在を色とすると、自己の存在の根底に潜みこんでいる死は、その穴の ようなもの。ドーナツを食べてしまえば、その穴も無くなってしまう。 また、ハイデッガーの「死は、無の柩」も考えさせられる。 無など元もとないのに、それを敢えて柩という著者のセンスが面白い。 ・・・・・・・ 3334, 「ウェブ2.0」時代の大前流「情報活用術」 2010年05月12日(水) ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー 大前研一 (著)ー7 「ウェブ2.0」時代の大前流「情報活用術」 ー まずは、その要点部分を抜粋し考えて見る ー (P 230) ≪ 今の若い世代から40代、50代の世代に至るまで、情報収集・管理・活用 が下手になった。これは「○×式教育」の弊害である。答えはあらかじめ用意 されている、しかもそれは「○か」「×か」という世界で育つと、そもそも答え を探すところからわからなくなっている。 手探りで失敗を繰り返しながら答え を導き出すという習慣がない。そして、よしんば答えを得たとしても、それが正解 であるか間違いであるか検証する方法もしらないのである。だから、初めから 「新聞やテレビの情報は正しいものだ」という前提で、そこにある情報を収集し、 それを覚え込もうとする。これが間違いである。こんなことをすると、昨日の夕食 に何を食べたか思い出せないように、情報は体外にそのままストンと流れ出て 終わりである。 なぜ、体内に残らないのかと言えば、それは、本当に自分の血 となり肉となる情報でないばかりか、せっかく取り入れた情報でも自分で加工 しようとしないからだ。 情報といいうものは、加工しないことにはなんの価値 も生み出さない。いくら収集しても放置してしまえば、そこから何も生まれない。 従って、手に入れた一時情報の意味を考え、時に疑い、ストックした情報と 照らし合わせて、栄誉のある情報だけを吸収して自分の中に取り込み、 あとは捨てる・・ ≪字数制限のためカット 2012年5月12日≫ ・・・・・・・・ 2959,閑話小題 2009年05月12日(火) * 金メダルを取れる人 「金メダルを取る人は、トップレベルの才能のある人は逆に取れない」という。 トップレベルの人を目標に背中を追っていた「三番手、四番手の人」の方が、 努力をするからである。一番手の才能の人は、そのこと自体の有難さが分からない から努力をしなくなり、こぼれていく。その重なりの中で、結果として金メダル の道を歩くことになる。必死に努力した方は、その努力に愛情を持っているから、 心の芯になってしまう。ここに金メダルと、途中で挫折する才能ある人の差が出る。 何か亀とウサギの御伽話のようだが、人生の深い示唆があるような話である。 二代目が大成しないのと同じか! * 物語をつくる * エーゲ海クルーズと吉田類の酒場放浪記 ≪字数制限のためカット 2011年5月12日≫
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2015年05月11日(月)
『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 「いい人」やめて、「ろくでない」になれ 母親の痴呆症と5年半の間、付合ったこともあり、相談者の切実な気持ちが 手にとるように分かる。兄弟の微妙な関係もあって、そう簡単に事は進まない。 ただ「いい人」を止めてしまうことには大賛成だが、「いい人」は簡単に止め ようがないもの。介護は、それなりの強さと覚悟が必要になる。「ろくでなし」 にも、覚悟が必要。 正常と非正常の間を彷徨う肉親との同居は重く疲れる。 ≪ Q: 〜母親の介護で、自分自身が壊れてしまいそうです!〜 私は四十五歳で、現在母親の介護をしております。母の介護をするために 仕事を辞め、現在無職です。私には、父、兄、弟がいるのですが、まったく 母の面倒をみようとしないので、男一人で母の介護をしております。 その母も痴呆が進み、モノの判断ができなくなり、外でゴミを拾ったり、 真夜中に叫んだり、私もその対応に、やり場のない疲れが溜まっております。 もういっそのこと、私も介護を放棄し、母親に早く死んでほしい気さえします。 同時に私まで気がおかしくなりそうなのです。しかし、これまで母親に世話に なったことを考えると、それも出来ません。このように思う私はやはり 「できていない」人間なのでしょうか? A: 〜「いい人」をやめて、「ろくでなし」になりなさい!〜 これも失礼ながら、いらいらする相談ですね。あなたは、私の嫌いな 「いい人」なんですね。これまた細かい事情はわからないのですが、真剣に 考えれば社会的にはいろいろ道は開けると思います。お母さんには息子が三人も いるのですから、三人でお金を出し合って、介護士を雇う、老人ホームに預ける 等々。(お父さんはともかく)ご兄弟がそれに協力しないのなら、あなたが介護を 続ける代わりに、彼らにあなたの心的・肉体的負担相応のお金を請求してもいい でしょう。お二人がそれさえ拒否するなら、その原因は二つ考えられます。 一つは、あなたのご兄弟が「ろくでなし」だということ、もう一つは、あなたが 「いい人」という名の「困った人」だということ。「ろくでなし」と「いい人」 が共存すると、だいたいいまのあなたのような状況に陥ります。「ろくでなし」 は、「いい人」を骨の髄まで利用し続け、「いい人」は全身不満の塊になって 恨み続けるというわけです。一般に、人がある限度を超えて耐えるとき、碌な 結果を呼ばない。だから、なるべく避けたほうがいいのです。・・(略) あなたがお母さんを(間接的にでも)殺さないうちに、あるいはあなた自身が 「気がおかしく」ならないうちに、あなたは大変身する必要がある。つまり、 「いい人」をやめて、ご兄弟と同じように「ろくでなし」になることです。 そこで、私の提言はただ一つ。一度みんなを集めて、「俺だけおふくろの面倒を 見るのはおかしい!」と大声で叫んでみてはどうでしょう。「もう介護はやめる!」 ときっぱり宣言してはどうでしょう。つべこべ理由を言う必要はない。ことの おかしさは、どんな「ろくでなし」にもわかるはずですから。一度、そういう 修羅場を経由しなければ、そしてみんなが全身ひりひりするほどの痛みを覚え なくては、何も変わらない。もっとも、あなたがどうしてもそうしたくない、 そういう勇気がないというのなら、仕方ないですね。お母さんが死ぬまで、 あなたは介護を続けるしかないでしょう。お母さんを恨み、ご兄弟を憎み、 そして自分を責めて生きるしかないでしょう。≫ ▼ 介護には、周囲の無理解がついて回る。「まだらボケ」が、その一つ。 第三者が居るときには、緊張が入った正常状態に近いため、痴呆症の人との 同居経験がないと、「聞くと見ると大違い」と、勘違いをしてしまう。 で、「ろくでなし」と決め付けられる。 当人は今さら何をか! 私自身を振り返ると、見えてくるのが、「ろくでない」「いやなやつ」の影。 ・・・・・・ 4805,閑話小題 ー倒産よもやま話 ー⑥ 2014年05月11日(日) * 当事者の隠れた心理とは 其の辺の視線から度々、思うことは、当事者の心理まで解ってないこと。 ホテル建設の準備と立上げほど面白い仕事はないのでは? 実感として、その トータルと、一応軌道にのせた時に、その金額分の元を既にとった実感がある。 これは事業創業と同じであるが。クルーズが好きで、趣味が興じて、その設計 から建設まで、造船会社と打ち合わせをし、造りあげた船が10年、20年後に 難破して命からがら助かったとする。その時、誰かが、「惜しかったですね!」 と言われた気持ち?が、こんなもの。「いや、これだけ楽しんだから、未練も 悔しさもない!海から引退する身にとって、下手に中古品で残っているより、 この方が危険な遊びより解放されて、むしろ良かった」が本音。 第三者は、 難破して命からがら救われた、姿しかみてない。しかし、当事者は、その辺り が周辺の視線とは全く違う。これも、救命用具と救命舟を用意して、命からがら 助かった?からこそ、言えるのだが。 で、ボートしか乗ったことがない人ほど、 その時に勝手な揶揄をすることになるが、その面白さが、何ものにも代え難い ことは知る由もない。人は、それぞれ、頑固な岩場の小さな洞窟内のことしか、 知りえない。それは、あくまで、大小の大きさの差でしかないが。 私の身近な人の心理が、こんな心理もあった?ということを、自分が経験して 初めて知ったこと。両親の生き様の後ろ姿から、「人生には、何が起こるかも しれない、だから、その時々の楽しみは、その時に、味わうことを、子供ながら 学んだ。それにしても、9割以上の何も考えない人たち、何をしているのだろう。 年金生活に入っても、収入の二割は漠然たる目先に不安のため、預金をして、 死期が迫ってから、この世に、したいことをし得なかった無念と、預金を残して 死んでいくのだから、恐れ入る。 で、「そのお金もない、したいこともない、 無念もない!で、どうした!」 これはこれで、おめでたいこと。これも、 目くそ鼻くそを笑う範疇でしかないが! 王陽明もあるが、論語もあるか? ・・・・・ 4438, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー8 2013年05月11日(土) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 * ルート7 リラクゼーションと東洋的思想からのアプローチ(思想の道) 「いい湯だな」と「悟り」は同じこと。両者とも「リラックスの極致=悟り ということ。 笑いは緊張とリラックス(弛緩)の間に生まれ出る。喜劇や お笑い番組の束の間に悟りがあるのか? お笑い芸人が果たして悟りをひらいて いるのか? という疑問が出てくる。しかし「深いリラックス」が、悟りと 笑いにある。早朝のミニサイクリングで信濃川の土手を音楽を聴きながら、 深呼吸をしている時の気持ちは悟りの心境。深くリラックスをしてないと、 自分が壊れてしまう恐れもある。逆に悟りに近い心境は自ずから リラックスの状況を求める。 −その辺りを抜粋ー ≪ 先ほどの達人の境地や禅僧の姿はこれに通じるものがある。自分を磨く ことによって至ることのできる境地。 これに対し、リラックスの境地は、 「世界を貫く原理原則を知った」状態とは異なるように思えるかもしれない。 しかし、そうだろうか。リラックスの境地は、我欲や悩みやその根源である 身体の不自由さから解放された境地だ。心が無であること、あるいは、幻想で あることを、体で理解した境地だ。「ああ、世界での幸福なあり方とはこう いうものか」と体で理解した境地だ。そう考えれば、リラックスの境地は、 「世界を貫く原理原則を知った」ことと等価ではないだろうか。「体で理解」 する点が、禅宗の「不立文字」とも関係している。先ほど述べたように、 禅宗では、悟りの境地は言葉では言い表せないものだと考える。右で述べた、 体で理解した境地とは、まさにこのことだ。 頭で理解したのではない。 体で理解したのだ。体で、世界を貫く原理原則がわかった、と実感したのだ。 よって、リラックスの境地は禅宗の悟りの境地と同じものだ、と体で理解 しさえすれば、同じものなのだ。ただ、古代仏教では、禅宗とは違って、 悟りの境地を論理として理解しようと考える。これはどう捉えるべきなのか。 僕はここにも矛盾はないと考える。矛盾か矛盾でないか、自己か他者か、 実在か幻想か、論理か感性か、頭か体か、という対立図式を超えるのが 仏教哲学の論理だ。・・・ 〜(略)湯船につかって「あ〜あ、きもちいい〜」 と思う瞬間。これは大金持ちでも、貧乏人でも同じ。育ちも実績も関係ない。 欲も悩みもない。何も考えない。ただ、「あ〜あ、きもちいい〜」に集中 している。実は、あっけないことに、これが「リラックスの極限」=「悟り」。 あらゆる欲を超越し、過去も未来も超越し、静かで満ち足りていて、心の 安らぎと平和を享受している。悟りや涅槃の定義にぴったり一致する。 そうはいっても、リラックスの境地と悟りが同じとは ーしかも、 よりによって、風呂の「あ〜あ、きもちいい〜」と悟りを同一視するとはー あまりに突飛で不謹慎な考えだ。そう思われる方も少なくないかもしれない。 が、そんなことはない。期せずして、あるチベット仏教のアメリカ人僧侶は、 悟りとは深いリラックスだと述べていた。≫ ▼ 起業を決意してから45年間。三つのブラックスワンで、この結末。 オセロで、白石が全て黒に変わったようなもの。しかし、人生にとって ベストと数ヵ月後に気づいた。50歳の節目時に、「還暦までに、それまでの 人生を圧縮して生きる」と決意して、その通り実行してきた。しかし、 まだ何かが足りなかった。そこで気づいたのが、悟りが全く足りなったこと! ・・・・・・・ 4064, 思想とは 2012年05月11日(金) * その人の思想とは一つの行為である ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より ≪ ――自分に実感がなければ、ひとを掴めるはずがない。 心の底からほとばしって、聞いているみんなの心を ひたむきな感動で引っ張ってゆくのでなけりゃだめだ。 今日も明日も机にへばりついて、膠で接ぎ合わせたり、 他人の賞味したお余りでこった点をこしらえたり、 掻き集めた灰のなかから 貧弱な火を吹き起したりするのでは、 子どもや猿どもには感心してもらえるかも知れん―― それがきみらのお望みならばだ。しかし、真実、良心から出たもの でなければ、けっして心に達するものではない。(ゲーテ「ファウスト」) そういう声を聞くと、心を打たれると同時に、なるほどこの人はそういう 人かと、そこにたしかな一個の存在を認めるだろう。この人物には思想が ある、と。すなわち思想とは、つまりその人が断乎としてそのように考え、 そのように生きる、その生き方の言葉や行動にあらわれたもの、という ことになる。自分の生き方の全部を賭けた言動だけが、思想の名に値する。 そこから小林秀雄の、次のようなはげしい断定も出てくる。≫ ≪ ――精神の状態に関していかに精しくても、それは思想とは言へぬ、 思想とは一つの行為である。 (小林秀雄『私の人生観』より) 口で言うのならどうにでもなる、とよく人はいい、これはとくにわが国では 支配的で、政治家の言口葉などはその標本のようなものだが、そんなふうに 言葉=意見を弄んでいる者は、ついに真の自己に達することはできないだろう、 というのである。なぜなら、ひとは自分がしんから正しいと考えたこと (それはその人の生き方から出た必然の思想である)を口にする時、己れの 全存在を賭けてそれを言うのであり、それが周囲に認められ、あるいは 否認されることで、己というものを知るのだから。≫ ▼ 11年間、ここで書き続けてきた効用は、この実感がないことは逆に、 書けないということ。だから出来事に直面したときの実感を、その場で文章化 して頭に残して置いて、記憶に残す習慣が出来てしまった。写真家は、シャッター チャンスを待つが、その間、頭の中で、その場の光景の実感を文章化している。 写真に添えられている文章は、だから写真を引き立てる薬味になる。思想とは、 真実、良心から出たものでなければ、心に達しないのである。心にとどくのは、 自分だけの頭で考え、経験し、感じた実感である。読書日記より、書くネタが なく仕方なく捻り出した「閑話小題」、「つれづれに」のテーマの方が面白いと 言われるゆえんである。 ・・・・・・・ 3698, 自己を見つめる −19 2011年05月11日(水) 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 人生は、難しい。老いの時期に、それまで生きてきた過程で問題処理を 誤って置き去りにしてきた過去が吹き出てくる。これは万人に言えることだが、 肉体の衰弱と、精神の衰弱が、それに加速させていく。特に、現在、これまでの 家制度が崩壊、老後は、親子が支えあうシステムは消えようとしている。その中に あって、自分(の世界)を長年かけて作っておくしかない。しかし、 「こんなはずではなかった、まさか!」が、人生である。 誰の身にも形を変えて、突然現れ出る。 * 老いについて ー� ーP272 【 こうして不動の英知を得た、落ち着いた老年は、死を覚悟しながら、 自分なりの人生のまとめを試み、知恵を磨いて、認識を深め、 哲学的知性を 研ぎ澄ます恰好の時期となる。キケロが言ったように、無分別は青春につきもの であり、反対に、分別こそは、老熟に伴ってようやく熟成する。およそ、知性を 錬磨して、労作や仕事に励む老年には、老化は寄りつかないのである。老年に なって恵まれた晴耕雨読の田園生活こそは、人間に幸福をもたらす。自然のなか で草木を慈しみ、書籍を読んで知性を鍛える田園生活は、人間に精神の安らぎを 叶えさせる。あらかじめ美徳善行の想い出を蓄えることに努力を傾注して、 精神的に満ち足りた円熟した老年にとっては、こうして、時きたってこの世を 去るのは望ましいことである。自然の摂理に従い、生命に定められた限界に 従って、従容と死に赴くのは、人の使命だからである。セネカの説いたように 自然の定めに従い、それに即して自己を形成することが、何よりも大切であろう。 心身を健全に保ち、見識を蓄え、運命の贈り物は活用しながら、しかしその奴隷 にはならずに、乱されない自由な心と剛毅な精神において、不屈の力をもって、 公正に生き、道義を守り、克己心強く、高潔に、そして調和をもって優美に、 善行に励むことのうちに、人生態度の基本が据え置かれねばならないと、 セネカは捉えた。 人間は、老境においてこそ、いよいよ、こうした人間の あり方に熟慮を傾けて、人生の実りを念頭に置きながら、自己自身に相応しい 生き方の拡充努め、最期の時に、備えなければならないであろう。】 ▼ 長生きはしたいが、老醜は曝したくない。この溝が老年の大問題になる。 他人のドブ沼は垣間見ることはできても、自分になると!「生まれ活き、老い、 その結果、長く生きている分、多くの病を経験し、死んでいく。これが人生。」 そう、綺麗には人生を終わることはできようがない。事業も同じ。綺麗に引きたい は妄想。これからが、本番、長い日々が待っている。 清く、正しく、美しい 人生もあるのだろうが?これほど詰まらない人生もないだろう。それは私の偏見? ・・・・・・・ 3333, 「○」と「×」の標識の間を漂流している国民 2010年05月11日(火) ー「知の衰退」からいかに脱出するか?ー大前研一 (著) ー6 * 「○」と「×」の標識の間を漂流している国民 ここで小選挙区制度の欠陥を大前はシビアに指摘をしている ーそれをダイジェストに、まとめてみたー ≪ 2005年9月に「郵政選挙」で自民党は歴史的大勝を果たし、2007年 7月では「年金選挙」で自民党は大敗し、民主党が大勝した。そして去年の9月 には衆院選挙でも、自民党は惨敗をきした。2005年の郵政選挙は、 「郵政民営化に」賛成か、反対かの二者択一の選挙であった。年金選挙は、国民 は民主党に勝たせたいという訳でなく、年金の不祥事に自民党に「ノー」を突き つけた選挙。これも二者択一の選挙であった。 この二つの選挙で言えるのは、 争点が単純化できれば選挙は勝てることを証明した。さらに言えば、「国民は複雑 なことは考えられない。単純なことしか通用しない」ことが、二つの選挙で証明 されてしまった。その時点で、郵政3事業はその歴史的役割を終え廃止すべき だった。 道路公団も整理・廃止すべきものであった。小泉元首相は、歴史にも 逆らったことをやり国民のためのものでなかった。 改革と称し、その政策を ほぼ官僚に丸投げし、つぶすべきである道路公団や郵政を生きながらえさせた のだから、ほとんど詐欺。しかし国民詐欺行為を国民は認識していない。現在の 日本国民は「〇」と「×」の標識の間を漂流しているに過ぎない。標識の間を 漂流しながら、本当の答えは求めていないし、求める方法も知らない。さらに、 求めるための正しい質問もしていない。これが日本国民の「知の衰退」の実態。≫ ▼ 現在の民主党政権の政策を国民が支持したのではない。 あくまで、自民党 の長期政権にノーを突きつけただけ。しかし連立の社民党や民主党内の隠れ 元社会党の輩が、この時とばかりに時代遅れの社会主義政策を本気にやりだした から、とんでもない事態になっている。 これこそ、○×の標識の間を政策が 国民と共に漂流している姿である。それでは自民党に政権を戻せば、間違いなく 土建屋的利権を復活してくることは目に見えている。国家衰退は、全てが マイナスに働く。 どう立て直すのか、当分の間は迷走するしかないのか。 ・・・・・・・・ 2958,人はどうしてオヤジになるか? ー4 2009年05月11日(月) * 時たま見かける恐ろしいオナゴ アフリカ旅行で、イスラエル旅行で、そしてetcで見かけた「離れオバサン」。 「離れ○○」の離れとは、アフリカで恐れられている水牛である。群れから少し 離れて一匹で居る「離れ水牛」で、人間やジープを見ると見境なく襲ってくる 凶暴な奴。現地人が一番、恐れている水牛。一人参加か、時に二人参加だが、 その場合は一人は小使いのように隷従している。とにかく唯我独尊我。 自分のペースを他の人に強要し、自分の旅行自慢をするが、他人の話は一切 聞こうとしない。もし従わない場合は喧嘩腰で攻撃してくる。その恐ろしいこと。 兎に角、その毒は強烈である。独身のため夫婦・親子連れは目の仇になる。 アンハッピーだから癒しに来るのだろうが・・ 独りの強さ弱さを知り尽くして いるから、どうもこうもならない。「ヌーの河渡り」のツアーに参加した時には、 何と三人もいたが、常連で徒党を組んでいた。親分肌の50代後半の独身オバサン は、毒の塊。10年は経つが、今でも忘れることができない。老いた母親がいて 婚期を逸したと他のオバサンが教えてくれたが。アフリカ専門ツアーの代理店に 申込みをした時に、受付の女性が「何か歯に挟まったイワクがありそうな雰囲気」 (えっ参加するの!)の意味を、アフリカのサファリカーの密室で初めて知った。 面白い旅行には何かにマイナスがある。旅行をしていると、その人の人生の一端 をみることになる。 不幸な状態?は、その本人が作り出した我慢のなせる業。 人生を60年以上生きてきて思うことは、如何なる場合でも貧してはならないこと。 (字数制限のためカット 2015年5月11日)
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2015年05月10日(日)
* どっちに失礼? 猿の赤ちゃんの「シャーロット」の名問題で、家内が『私も失礼だと思う!』 と言った時、思わず出たジョークが、『どっちが?』だが、反応はゼロ。 そのジョークを即座に理解出来る玉?ではないらしい。直ぐにブログに取上げ ようとしたが、その辺の世間びとに配慮して自重した。 獣を軽くみるのは、 人間のエゴの思い上がりである。 朝日の天声人語が、上手い解説である。 ≪ イギリス人はユーモアが好きだ。苦しいときほど必要だと考えるらしい。 第2次大戦中、ロンドンはドイツ軍の空襲を受けた。動物園に爆弾が落ちた ときは、タイムズ紙が「しかし、猿たちの士気はいささかも衰えていない」 と書いたそうだ ●考えてみると、これは「猿たち」が利いている。 猿山を眺めれば、彼らがわれわれに最も近い動物であるとよく分かる。 ゾウやキリンではあまり面白くない●古びた話を、大分市の高崎山自然動物園の 赤ちゃん猿の命名騒動に思い出した。英王室に誕生した王女と同じシャーロット と名づけたら、「失礼だ」という批判が山と届いた。これも猿ゆえだろう ●ウサギやカピバラなら、騒動にはならなかったと思われる。ではカバはどうか と問われると困るけれど、ユーモラスではある。英王室の広報は鷹揚に 「赤ちゃん猿の命名は動物園の自由」と語る。結局、名前はそのままと決まった。 「失礼」を案じた人たちも、先方の対応に少し気が楽になっただろうか ●ロンドン空襲に話を戻せば、半壊したある百貨店は「本日より入り口を 拡張しました」という看板を出したそうだ。やせ我慢で繰り出した泣き笑いの ユーモアに、お国柄を見る思いがする。そういえばきのうは、英国にとって 対独戦の勝利から70年の日だった●健やかなプリンセスの誕生から世界注視の 総選挙と、英国発のニュースが続く。日本の皇室ともゆかりの深い王室である。 美しい5月の慶事を、遠くより祝福申し上げる。≫ ▲ 今回の騒動について、文化人類学者は「人々の深層にある獣に対する 差別意識が表れた」という。 また「一部の人たちが英王室の王女の名前に 日本の皇室を重ね、敏感に反応したのだろう」と。「(失礼なのは)どっちが?」 のジョークも、我ながら人類への皮肉である。 同じ島国でも歴史が違うと・・ * 連休での渋滞原因とは 連休での観光地の車の渋滞原因は、意外なところにある。高速道のトンネルを 抜けたときの陽光に、直ぐに眼が馴染めずスピードを落とす。その小さな積み かさねが、数百、数千台が積み重なって渋滞になってしまう。その上、登り坂で、 少しスピードが落ちてしまうが、それに気づかないことの積重ねも渋滞原因に なっている。要は、それぞれの小さな減速の重なりが、原因とか。 それと、普段、遠出をしたことがないドライバーの不慣れが重なるため。 ・・・・・・ 4804,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー2 2014年05月10日(土) 「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著 * ある逸話 ー‘あとがき’に、以下のような逸話があった。まず、その抜粋からー 《「サザエさん」の原作者の長谷川町子のマンガで、小学一四年生のときに読み、 今なお覚えている作品がある。それは、一人の男の人生をめぐる、良い神様と 悪い神様の話だ。何の不自由もない家に、玉のような男の子が生まれた。 これを知った悪い神様は、どうもこれがおもしろくなく、この男の子の人生を 惨たん憺たるものにしようとシナリオを練る。そして、「男の子の身には次々と 不幸が起こり、紆余曲折をへて船乗りとなった挙句に猛烈な嵐に遭遇して、 最後は絶海の孤島に流れ着き、そこで人生を終える」というシナリオをつくり あげた。はたして、男の子の身に次々に不幸が襲いかかる。しかし、良い神様が それに気づいて彼を何度も助けたために、彼は幸せな人生を送ることになる。 ところがその臨終の場で、彼は自分の人生を振り返って、本当に不幸な一生 だったと言い出すのである。そして、自分の夢は船乗りになって、どこかの島で 人生を終えることだった、と述懐して息を引きとるのだ。二人の神様は、人間 とはよく分からないものと言って去っていく。これが私の人生の原点である。 幸せな人生とはあくまで本人が決めることであり、まわりがとやかく言う問題 ではない。もとより、記憶のざまざまな性質や、生かしかたを知ったからと いって、幸せになれるわけではない。もとより、記憶の様々な性質や、その 生かし方を知ったからといって、幸せにはなれない。ただ、知らないよりは、 知っておいたほうが、みすみす損をしないだろうと思われるだけだ。・・ 》 ▼ 何か、現在の複雑な気持ちの解釈に、大きなヒントになる内容である。 3年前の節目の数ヶ月前までは考えられない、「まさか、自分が!」が、 正直な気持ち。しかし、現在に至って、これが私の物語の終わりには、丁度 良いのでは?とか、こういうのも面白い?とか、何でまた?等、色いろ複雑な 気持ちが入り組んでいる。 絶海の孤島ではないが、結末がハッピーエンド より、せっかく創業をしたのだから、倒産の終わりの方が、この筋書きとして 面白い?とか、この物語の解釈がある。これが私らしいというか、何だろう? 要は、30年間、転身しなかった結果でしかないが。ストーリーの面白さは、 これで充分。「ああ、面白かった!」と、言えるだけでも有難い。 神様は、丁度良いオチをつけたようだ。 ・・・・・・ 4437, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー7 2013年05月10日(金) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 * ルート6 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道) 《 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人 の目を気にしない生き方。それを満たすのは、自己を捨て、無我、無私を実現 する達人の生き方。欲にも、生死にも、他人との争いごとに拘らず、達観して 静かに生きる姿勢。ここに達成した人は、持続的至福に達することが出来る》 これが、幸福学の結論。 現在の状況を冷静にみると、 「これが人生、で、もう一度同じ人生を歩みたい」という現在の心境と同じ。 ー他人と比較しないことによる幸せこそ、人生の要諦。 その辺りよりー ≪ 幸福学とは、要するに、幸せに効く主観的な要因は何かを明らかにする研究。 その結果、僕たちの行ったアンケートの範囲では、幸福の要因は大きく 四つの因子に分けられることがわかった。 ・一つ目は、自己実現や自己能力に関する因子。目標を持っているか、直近の目標 と将来の目標に一貫性があるか、自己統制感が高いか、自尊心が高いか、など。 ・二つ目は、つながりに関する因子。他人に対して親切か、様々な出来事に 感謝しているか、多様な知人がいるか、など。 ・三つ目は、楽観因子。楽観的か、ポジティブか。 ・四つ目は、他人と自分を比べない因子。他人と自分を比較しない傾向が高いか。 ここでは、四つ目の因子に注目しよう。 すなわち、「他人と自分を比べない ことによる幸福」について。 自分を他人と比較しない人には、長続きする 幸福が訪れると考えられる。千五百人への調査結果も、それを表している。 つまり、千五百人の回答者のうち、他人と自分を比較しない傾向が強い人は 幸福である比率が高く、他人と自分を比較する 傾向が強い人は不幸である比率が高かったのだ。 自分と他人を比較しない人々には二つのタイプがあると考えられる。 他人を見ないタイプと、自分を見ないタイプだ。前者は、自分だけを見て他人 を見ないタイプ。周りのことを気にしないマイペースタイプだ。 我が道を 行くから、周りなど関係ない。場合によっては、独りよがりだったり、わがまま だったりするかもしれない。自分は幸せでも、他人には迷惑をかけている 「自分勝手」タイプかもしれない。後者の自分を見ないタイプは、逆に、 世界は見るが自分を見ないタイプ。何が欲しい、こうなりたい、などの自我の 欲求があまり強くないから、他人と自分を比べることにそもそも興味がない。 悪くいえば向上心や競争心がない。なすがまま、自然のまま、だ。 たとえば、武道の達人をイメージしてみていただきたい。茶道、華道、座禅 などでもいい。 凛として、姿勢がよい。何かあっても、動じない。静を以て 動を制す。普段は静かだが、実は相手を倒す力を秘めている。無駄に力んだり せず、相手の力をすっと利用して、自分の思いどおりに世界を動かす。しかし、 私利私欲はない。判断は大局的。全体が見えている緊張感のある空気を醸し 出すが、自分のためには怒らない。思考の対象は常に世界だ。世界のために 行動する包容力。名声を得ていたり、人望が厚かったりするが、決して自慢など しない。 もちろん、他人と自分の比較などしない。≫ ▼ どうも世の中、嫉妬と苛めの糸で哀れなほど。私住む城下町は長年の柵 で、雁字搦めの蛸壺社会。8割以上が地元出身者で占められ、それが全社会。 学校関係者以外は殆ど付き合いがないが、垣間見えてくる世界は箱庭のようで 面白い。知識を持たない人の無意識の科学は、身近の人との比較しかない。 不幸になって当然。それも私の主観による思い込み。「横を見ないで、縦 (今、ここ、自分)を見て生きる」と割切ってしまえば、良いが。 ・・・・・・ 4063, 本当は怖い抗うつ剤 ー2 2012年05月10日(木) * うつ病になったら、どうしたらいいのか。 { 浜松医科大名誉教授 高田明和 } 倒産の惨劇を身近で見ていたので、二年間は落ち込むのは避けられないと判断。 最小にするためスポーツジム通いと、打ち込める対象を加えることを考えた。 一つ間違えると欝に伴う暴発か、破滅になっていく。それがiPadとシネマと 蔵書の再読と、世界の潮流の鳥瞰などを、逆に徹底的に楽しむことであった。 それと、中村天風の「積極一貫」の思想書を、身近に置いて何度も読み返した。 二年にまだ一年あるが、一息ついた後半の方が危ないのかもしれない。 その私が予防策でとった方法がそのまま、治療法として研究されていた。 運動と、考え方、受け止め方をプラスにすることだ。 ≪ うつ病の治療法として確立しているのが「運動」である。体を動かすことが 精神によい影響を与えることは様々な研究で示されている。第二は「ものの考え方」 である。私たちは競争社会に生きている。競争とは相手に勝つことを目的とする。 もし負ければ落伍者になる。一度敗北すると、将来がないように思うのだ。 さらに大事なことは、どのような分野でも自分より勝れた人がいるという事実。 例えば野球にイチローがいて、ゴルフには石川遼がいるのと同じようなものだ。 努力は大事だが、自分が及ぼないからといって自分を責めていたら人は決して 心の幸せは得られない。・・・堀口大學は自身の『座右の銘』という詩で 「暮らしは分が大事です。気楽が何より薬です そねむ心は自分より 以外の ものは傷つけぬ」と詠んでいる。自分以外とは社会的ランクのことである。 今の自分のランクを受け入れ、それでよいのだとする以外に心は楽にならない。 禅では「不思善 不思悪」といって、思い出さないことをもって最も尊いとする。 といって、無理のことなら、思い浮かんだら、しばらく放っておいて手を出すな、 必ずその思いは消えると、禅では教えている。 実際に、どのような思いも 5秒で消える。・・・ ≫ ▼ 「どんな思いも5秒で消える」は、言いえて妙である。出るのは仕方が ないが、なるべく、そこで切るように心がければよい。全ては二年で落着くし、 目先は五秒のフラッシュで出てきた思いの延長を考えないこと。特に寝付けない 布団の中での苦悩の嵐は、訓練で最小にすることが可能。 そのためにiPod を枕元に置いている。最近は、ほとんど夜半、使うことはないが、音楽は効く。 ・・・・・・・ 3697, 自己を見つめる −18 2011年05月10日(火) * 老いについて ー� 〜P270「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【ショーペンハウアーが言ったように、そうした老年の実りが熟するためには、 まず何よりも、人は、健康と生計の維持に、早くから留意して、みずからの 人生設計を築き上げる努力を怠ってはならない。生計もままならない病気がちの 老年は悲惨の一語に尽きるから。そうではなしに、比較的健康に恵まれ、また、 なにほどかの金銭を蓄えた老年は、少なくとも社会生活全体の安寧が保たれた 条件下では、むしろ静かで、平穏な人生の実りの時期になるであろうと、 ショーペンハゥアーとともに人は言うことができるかもしれない。生の本能の 激しい渇望も静まり、社会的責務もいちおう果たし終えた、比較的自由な老年は、 自己を振り返り、世界を見つめ、知性の働きを純化させて、洞察と実りを結び うる最良の時期だと、たしかに言えるであろう。しかし、そのためには、人生に 対する過剰な期待や野心に惑乱された、思い込みの激しい混乱した想念から解き 放たれて、冷静にこの世の営為をその真相において見つめる知恵の魂が熟成して こねぽならない。ショーペンハウアーが言ったように、人生の表側だけでなく、 裏側もすっかりよく眼のなかに入った老境においてこそ、初めて、人生の虚妄と 空しさが会得され、所詮はいかなる人生も五十歩百歩であるという事態が得心 されてくる。 そうした人生の有限性への徹底した悟りが、老境の平静さを 築く基底とならねぼならない。実際、誰しも、老年とともに、そうした悲愁に みちた諦念を学び取るものであろう。 老年になって、やっと人は、自分の人生を変えた大きな出来事が、そっと 気づかないうちに自分に忍寄ってきて、自分を支配するに至ったことを理解する。 自分の周りの人々が、ほんとうは何者であったかが、ようやく分かるのは、 老年になってからである。 老境に至って、ようやく、自分の歩いてきた人生が、 その意味と射程において、誇張も、卑下もなく、ありのままに見つめられ、 自己の人生の限界と特性、その意味と無意味とが、過不足なく凝視される萌芽 が生い育ってくる。この世の中の名誉や名声や栄誉などが当てにならず、他者 の身勝手な憶測に依存した評価に過ぎないことも、すべて見抜かれている。】 ▼ 新潟で事業を事業を立ち上げた時、近隣の土地のオーナーの老人に建築確認 の判を貰うため交渉をしたときに、心底、驚いた。優位の立場を利用して、 自分の人生の鬱憤を晴らしている姿が老醜そのものに思えた。これは沼垂界隈の 特性と当時は思ったが、最近分かったのは、実は老人全般が持っている性癖と いうことである。内面を見つめる力のない人は、その鬱憤を外に向けるしかない。 それを長年かけて培ってきたため、心の底には、怒りと憤りが底なしの泥沼の ように深く蓄積され毒ガスのように湧き出ている。そのガスの対象を次々と 探し出し、他虐、そして自虐として爆発を始める。それが老醜である。 老年は、その道を一歩ずつ歩いていると割り切った方が良い。そうすると、 長生きは、ほどほどということになる。それにしても老醜という奴は、である。 ・・・・・・ 3332, 全然人種が違う「携帯世代」 2010年05月10日(月) ー「知の衰退」からいかに脱出するか?ー 大前研一 (著) ー5 * ぜんぜん違う携帯世代 この7〜8年で、ブログと携帯電話が我われの生活を激変させた。 携帯電話とブログが、これだけの機能を持つとは驚異的といえば驚異的である。 さらに、ツイッターと、iPadなどが爆発的普及を始めようとしている。 第二次大戦後の電話とTVの普及から始った情報革命がデジタル化などで、 人類そのもののあり方を変え始めた。情報端末によって、その世代の性格、 能力まで既定をするほどになっている。で、次は携帯電話世代である。 ー まずは、その部分を抜粋してみる ー ゲーム・キッズに続く世代が、この章の冒頭で述べた、いわゆる 「ケイタイ世代」である。この「ケータイ世代」は、これまでの日本人とは、 また全然人種が違う。この世代の特徴をひとことで言えば、彼らは私たちの 見えないもの、私たちの見ていないようなものを空想できるカは持っているが、 まったく無欲だということである。 たとえば彼らは「モバオク」や 「モバゲータウン」を平気で信頼して、モノを売り買いしたコミニティを形成 したりしている。これは上の世代からすると、ある意味信じられないことだ。 ここまでサイバー空間を無条件に受け入れることは、おそらく私たちにはできない。 10年前に携帯電話が普及し始めたころ、誰が、ここまで携帯が進化し、私たちの 日常生活に入り込むと考えただろうか? それが、いまやメール、ネットアクセス、 テレビ視聴、ゲーム、写真、動画の撮影、スケジュール管理、ショッピング、 切符予約・購入、決済など、全てがケータイで済む時代になった。 前記した 「モパオク」だが、これは2004年にディー・エヌ・エーが立ち上げた携帯電話 からのオークションサイトで、売りたいものをケータイで撮り、DenAのサイトに 送るシステムである。現在では1日1600万のべージビューがあると言い、その 利用者の6割以上が女性という。また、その後導入されたケータイゲームサイト 「モバゲータウン」は1日2億ページビューがあるというから驚く。 忘れてはならないのは、この携帯文化は日本特有のものということである。 外国は、せいぜいチケットやメールくらいである。 〜〜 さらに、これが進化してパソコン機能まで付いたモバイル携帯電話に変化を 始めてきた。それと兄弟的機能を持ったiPadが次の主役になる。現在の 5〜10歳の子供たちは、ツイッター・iPad世代と、後々になっていわれる。 「情報機器からみる世代分類」というテーマを立つ。それは、後のテーマにする。 いずれにしても、別世界が出来てしまったのである。 ・・・・・・・・ 2957、世界はパンデミックに入ったのか! 2009年05月10日(日) 新型インフルエンザの拡大が、警戒「5」に入ったが、近々に最悪の「6」が 宣言される可能性が出てきた。今のところ鳥インフルエンザのような猛毒では ないが、世界中に拡大していく中で猛毒に進む可能性が大。 ≪字数制限のためカット 2011年5月10日≫
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2015年05月09日(土)
『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 哲学者への人生相談 以前、週刊プレーボーイの人生相談の特集本を読んだが、中でも、今東光の 解答が面白かったが、これに勝るとも劣らない面白い内容。哲学者の中島義道が、 ここで、「人生相談を持ちかける人は、たぶん常識の範囲を超えないかぎりで、 つまりあまり苦労なく実行できる範囲で、何らかのポジティヴな回答を、 あるいはちょっと考え方を変えれば楽になる、そんな妙薬を求めている」と、 人生相談の「質問の甘さ」を一刀両断。いや、甘いから、相談するのか? ー世間人の末路ー ≪ Qー まず、定年後、何をしたらよいのか? 今年退職した62歳の男です。経済面でゆとりがあるので、家にいます。 妻から『趣味を持て』『友だちはいないのか』など言われるが今さら、趣味も、 友だちもありません、もう何を考え、したらよいかよいか分かりません。 まず何を考え、何をすべきなのでしょうか? Aー こういう相談を受けるといらいらします。あなたは多分これまでの人生 で「安全」を後生大事に守ってこられたのでしょう。とにかく無難にとにかく 失敗のないように、生きてこられたような気がしてなりません。結婚もした、 子供も独立した、仕事も定年で区切りがついた…と、ふとわれに返ってみれば、 あとは「無事」死ぬだけというわけ。その虚しさは腹の底まで知っているのに、 どうしていいかわからない。「私はまず、何を考え、何をすべきなのでしょう」 という問いかけは、失礼ながら、いささか滑稽です。しかし(見方を変えると)、 あなたがいま、こうしてぐだぐだ悩んでいるのは、とてもいい機会と思います。 もっともっと徹底的に悩めばいいと思います。あなたは、趣味を見つけても、 友人を見つけても、散歩をしても、社会に興味を持っても、満足しないでしょう。 もしあなたが、いままで通り自分をごまかし続け、そのつど「気晴らし」を 見つけ、そして「これでいいんだ」と呟いて死んでいくのでない限り。といって、 私は何か人のために有益なことをせよとか、何か情熱をかけることを見つけよ、 と言うつもりは毛頭ない。そんなことをしたって、どうせ、じきに死んで しまうんですから。むしろ、あとわずかな人生(統計的にはたった15年) をかけて、ほんとうに自分がしたいこと(したかったこと)を見つけることです。 どんなに反社会的なことでもかまわないから、一度は洗いざらい自分を点検して みること。そのためには、これまで営々と築き上げてきた「うそ」で固めた城を 崩さねばなりません。恐ろしいから自分の中に見出しても握りつぶしてきたこと、 排除されるのが怖いから、いやいや皆に合わせてきたことを徹底的に崩さねば ならない。そして、徐々に「自由」になることです。これって、老後の生き方 としてはうってつけですよ。あなたは、会社から定年と、つまり「役立たず」 と公認されたのですから、そしてもうじき死んでしまい、二度と生きることは ないのですから、最後の最後くらい「自由に」生きてもいいのではないで しょうか? その自由の中身は、あなた自身が見つけるほかありません。・・≫ ▼ 機会あるごとに、心の中で呟いている「いい人」の末路そのままが、 この20の質問。いずれも少し切り口が変わっているだけ。噂話、世間話を、 そのまま信じ、その枠の中で何も考えずに、他人の揚足をとってきた群れの 人たち(世間人)の末路である。でも、気づいただけ充分マシ。気づかないで 御めでたく、そのまま逝くのが大部分。こういうのが集まったのが「烏合の衆」。 ・・・・・・ 4803,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー1 2014年05月09日(金) 「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著 * 自分も人生も、記憶がつくりあげる この本の感想文を書いていた昨日、9年前〈2005年05月08日(日) 1496, いま・現在について−4 〉に、記憶について書いたことに気づいた。 よくある偶然の一致だが、ーまずは、その内容からー 《「記憶のない男」ーDVDレンタル レンタルDVD ノ「記憶のない男」が、「いま」と「私」を考える上で面白い。 ー知らない街に仕事を捜しに来て、暴漢に襲われて記憶を失った中年男の物語ー それぞれの人の「いま」は、それぞれの過去を背景を持っている。 過去が記憶喪失で失われた場合、その人の「いま」は無いに等しい。 ストーリーでは、そこまでは表現しつくしてはいなかったが。しかし、 その空白を「いま・現在」という現実の中で、必死になって埋めようとする 主人公の心を、静かに淡々と映し出していた。過去の想起がなければ、[私]は 存在しないに等しい。動物に[私]はない。それは想起ができないため。 もし自分が過去の記憶を無くしたら、「いま」という感覚は希薄になる。 青年時代の日記を偶然倉庫で発見。それを悪趣味的に、この随想日記で 露わにした。その過去の「いま」を、思い出すほど、現在の「いま」との 重なりが見えてくる。そして現在の「いま」がより濃く深くなっていく。 それは現在が過去より成立しているためである。過去や、未来より、「いま」 が全てだと考えがちだが、過去も未来も重要であることを教えてくれた映画。 {「いま」を人間の手とすると、過去と未来は人間の身体}と例えると解り やすい。手は手としては存在し得ない。手はあくまで身体の一部でしかない。 記憶喪失とは、「手そのものしか自分を感じ得ない」ということ。 身体全体が失われた感覚は想像しただけで恐ろしい。そこ(いま)には、 「私」は無いに等しい。[いま]に集中するということは、過去と未来に対して 「楔」を打つことである。楔を打つことは最も重要な行為である。しかし 全体の構造を考えて打たなくてはならないのである。今上の人生、来世の ことは考えない方がよいのか? それとも、来世のために今生を生きるか? 「いま」に全てを傾けるべきである!?「どうせ死んでしまう」のだから。》 ▼ 人の記憶は、そのまま、その人の過去になる。その記憶がスッポリと 無くなれば、その箇所の過去が消えたのと同じ。リタイア後は、過去と 向き合う時間が多くなる。それは自分と向き合うことである。問題は、 その過去の解釈、受け止め方になる。それを、ここで延々と書いているが、 その受け止め方は、過去の蓄積の上の知識と経験のベースで決まる。 その記憶との付き合い方を、この書が変えようというのだから、 面白くないはずがない。 ーつづく ・・・・・・ 4436, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −6 2013年05月09日(木) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 * ルート5: 自己とは定義の結果だと理解する道(自他不分離の道) ≪ ー自己という概念を取り去ってみるとー 意識は身体をコントロールする 主体ではなく、世界を観測し世界と相互作用する身体Aという媒介の動作を モニターする装置に過ぎない。僕たちの心は、そもそも、どの身体に宿っても いいのではない。一つの身体に、一つの「こころという幻想」がセットになって いるだけ。ただそれだけのことだ。どんな人間にも、心は一つ。あなたの心は、 よくSFにあるようにコンピューターに乗り移ったり、オカルトのように身体を 抜け出したりできるものではなく、脳の計算によって作られた単なる擬似体験 劇場に過ぎないのだ。そう考えれば、特に身体Aを「自分の身体」と捉える必要 はない。 ・・ 本書を読んでいる「クオリアA」は「あなたの心」ではない。 何かを感じているだけの存在だ。たまたま、これまでは「あなたの身体」と 呼んでいた「身体A」と接続されていて、「身体A」が世界と相互作用した結果を 観劇しているだけだ。つまりクオリアAから見ると、身体Aもそれ以外の世界も 同じくクオリアAの観劇対象なのであって、所有物ではない。もはや身体と外界、 自己と他者、主体と客体、という分け方は意味を持たない。意味としてつながり 合って相互作用しているのみ。クオリアAが観劇できる範囲は、身体Aの五感が 情報取得する範囲まで。つまり、身体Aは移動式観測装置だ。これまでの世界で、 あなたと他人の同意とか共感とか呼んでいたものは、身体Aを介した他者の 自己化だ。いや、自己の他者化と言うべきか。自己という概念はないので、 主客合一、自他非分離と言うべきである。≫ ≪ ー私とは、仮構された「自己」というシステムでしかないー もちろん、この楽しく生き生きした世界を観劇できなくなることはとても 残念だが、それだけ。「私の死」ではなく「一つの観劇システムの終了」だ。 つまり、仮構された「自己」という概念を解体してみると、「死ぬのが怖い」 という概念は存在できない。「死ぬのが怖い」という概念は、「自己」という 幻想に付随して作り出された幻想に過ぎないのだ。比喩的に言えば、身体Aとは 窓だ。一つの窓を通して世界を見る装置だ。世界は、いろいろな身体を通して 見られていた。また、世界では、それらの身体によるインタラクションも行われ ていた。これからも今までと同じように、行われていく。おびただしい数の 身体たちによつて。違いは、おびただしい数の身体の中のたった一つである ところの身体Aが機能を停止した、ということだけだ。それに伴い、役目を 終えた、身体Aを介した世界観測者であるクオリアAもまた役目を終えた。 ただそれだけ。 もう「つ、強調しておくと、身体Aと世界は一体だ。 身体Aは、世界とつながっている。世界は、身体Aとつながっている。つまり、 元来「自分」と呼んでいたものは世界である、世界は「自分」だ。 本来、自己と他者の境界はない。境界を定義するからあるように見えるだけだ。 したがって身体Aの喪失は、世界の一部の喪失に過ぎず、世界から見ると 髪の毛や爪を切るようなものだ。≫ ▼ 自己は定義の結果とすると、精一杯生きてきたこと自体が何だった のだろう?そこで立ち現れた世界が自分になる。ご隠居の身になった現在、 私など死のうが生きていようが、どうでもよいこと。今まで「自分」と呼んで いたのが実は世界だったということ。入江の洞窟と外海が繋がっていて、洞窟 の周辺を自分と思っていたが、外界を含めた世界が自分と考えると納得する。 己の行蔵を振り返ってみれば、そのことがよく分かる。今の自分も世界という ことも。そうこう考えると、何?この俺は! になる。ただ気楽に死ねば よいだけ、プシュと。 ボチボチ気楽にいけばよい。 ・・・・・・ 4062, 本当は怖い抗うつ剤 ー1 2012年05月09日(水) 数ヶ月前に抗うつ剤(ハッピードラッグ)の恐ろしさについて書いたが、 ある雑誌に浜松医科大元教授の抗うつ剤からの脱却のレポートがあった。 親戚・縁者にも鬱病に苦しんでいる人を多くいる。青年期に何度か挫折体験を したが、宗教系や精神論の本で、独りで克服してきた。去年の挫折?は、 早朝のミニサイクリングとスポーツジム通いで運動量を増やし、毒が溜まらない ようして乗り越えた。iPadにエネルギーを集中したことと、シネマ通いも 効果があった。 また身近な縁者の倒産劇を手助けしたことで、情報を得ていた こともある。節目は可能な限り綺麗に?を、心がけたことも毒を最小にした。 私の知人に気楽に精神科の通院を勧めたが、大丈夫だろうか。 抗うつ剤が 多く使われ出した頃から、自殺者が激増し始めた統計がある。要はドラッグ 患者に仕立てられているのでは? という疑問が出ていた矢先の、医学者の 実体験の内容である。 恐ろしい限りである。 ー 大まかにまとめると ー {浜松医科大名誉教授 高田明和} ≪ 厚生労省は2013年から、今まで4大疾病として扱われてきた、脳卒中、 急性心筋梗塞、がん、糖尿病に精神疾患を加えることを決定した。厚労省が 08年に実施した調査によると、精神疾患の患者は323万人と糖尿病の患者数 237万人を上回っている。 自殺者の数は13年運続で3万人を越えている。 私たち家族は米国における9年の生活を切り上げて、1975年に浜松に帰ってきた。 子どもたちは日本語を話せず、家族ともども激しいカルチャーショックを経験。 それは強度のうつ状態を引き起こした。 その時の体験は、『本当に「うつ」 が治ったマニュアル』に書いた。薬は便わなかったが1年後に、私が言霊療法と 呼んでいる言葉を使い考えを変える方法と、坐禅で劇的にうつから脱却できた。 その後30年くらい何の問題もなかったが、70歳のころ、何度か海外出張後に 時差ボケが治らず、医師に相談すると、睡眠薬と抗うつ剤を処方された。 最初は眠れたが次第に寝付が悪くなり、これは睡眠薬の依存かと思って中断 したところ、ひどい不安と不眠を体験した。パキシルで不安が解消されたので、 自分がうつ病になり、パキシルが効いたのかなと不安になった。しばらくして パキシルを中断すると、再度不安と不眠に襲われた。そのころ、欧米でパキシル の離脱症状(車酔いのような気持ち悪さ、顔の発汗、血の気を引いたような症状) が問題になっていたので、抗うつ剤から逃れようと、二週間薬なしで済ませた。 自分は病気でないと繰り返して、何とか頑張った。 抗鬱剤は効果より 副作用の方が大きいのではないかと、疑問が生じたのである。 実際には 抗うつ剤の効果はブラシポ効果(暗示)が多いこと、抗うつ剤を一度服用して しまったら、止めるのが至難である。・・≫ ▼ 抗うつ剤の恐ろしさは、それは麻薬そのものであること。一度、依存を してしまうと、切れると禁断症状が起こることだ。そして服用をしている うちに段々、強い抗うつ剤でないと効果がなくなる麻薬の禁断症状と同じである。 初めは、気楽に医者の処方薬を飲んでいるうちに麻薬中毒になってしまうことだ。 薬のため、精神のバランスを崩した男をみたことがある。狂ったような怒り方は、 狂人そのもの。長年積み重なった鬱憤が麻薬で爆発するから、知らない人は、 呆然となる! ーつづく ・・・・・・・ 3696, 閑話小題 2011年05月09日(月) * ジャズ、1000曲 私の知人がジャズマニアのSE。先日、パソコンの不具合をみてもらった折、 「自分の持っているジャズが1万曲あるが、そのうち1000曲をあげるよ」と 言われた。 先日、その記憶媒体を通して私のパソコンに入力をしてもらった。 その結果、私の書斎コーナーのパソコンと、それに伴ないiPodには、一挙に ジャズが1千曲が加わった。先日、事務所から引き上げてきたステレオを パソコンと繋いでiTunesで聴けるようにしたため、部屋はジャズ喫茶のように BGMが常に流れる空間になっている。ジャズなど知らない私でも、自分の好み のリズムのジャズを選んで聴いている。それが、読書や、この随想日記の下書き をするBGMに非常によい。 自分の居場所を昔から作るのが好きだったが・・ 本人は、ネットラジオと図書館の貸し出しのCDからコピーした曲というが、 フリーの時代は、こういうことである。 * 問題は高速道路と新幹線が引っかかるため?・・ 政府が、汚染地域を拡大出来ないのは、広げると高速道路、次に新幹線の 福島駅に引っかかるためではないか?と言われている。もしアメリカの基準の 80キロにしたら、新幹線と高速道路が不通になり、東北六県が大打撃になり かねない。この原発事故の今後を考えると暗澹たる気持ちになる。海水汚染と、 それに伴なう雨などで関東圏も、やられる可能性も充分にある。それほど、 この事故の根は浅くない。既に関東圏の不動産の暴落の噂が週刊誌などで騒がれ はじめてきた。もちろん、地元の新潟県も影響してくるだろうに。放射能測定器 が6万から8万円で売られていて、飛ぶように売れているというが・・・ ・・・・・・・ 2010年05月09日(日) 3331、「ゲーム・キッズ世代」は、まだ見込みがあるが・・ 「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ー4 *「ゲーム・キッズ世代」は、まだ見込みがある ーまずは、「ゲーム・キッズ世代」の部分からー Pー262 「少年ジャンプ世代」に続くのが「ゲーム・キッズ世代」である。 「任天堂キッズ」「プレステキッズ」と言ってもいい。… ただし、このゲーム・キッズというのは、その世代の主流ではない。 「少年ジャンプ」に熱中するよりはゲームに熱中した世代ということでこう 命名しただけだ。 この世代の先端は、すでに三十代半ばになろうとしている。 この「ゲーム・キッズ世代」は見たところ、「少年ジャンプ世代」よりはマシ。 ゲーム・キッズ世代は子供のころから、ロールプレイングゲームをやってきた 世代だけに、とにかく、何かをしてやろうという挑戦するメンタリティをもって いる。ロールプレイングモデルのいいところは、少なくとも勇気を持って 「新しいドアを開ける」「未知の世界に通じる洞窟に入る」などの選択を しなければ、物語が進まないことである。とはいえ、この世代は粘りがない。 ゲームの展開が思わしくなくなるとすぐに‘ゲームオーバー’させたくなる、 つまり「オールクリアーしたい」と思ってしまうのだ。・・ この世代で活躍 している人間を見ると、たとえばアメリカやインドに負けないIT人材が輩出 されている。彼らは日本のゲーム産業をつくった世代であり、「ウェブ2・0」 の適応力はこの世代が一番高い。彼らはネットの世界を通じて世界観を確立、 これを本格的に利用した初めての世代である。したがって、現在のサイバー 社会に対する感覚は、世界でもトップクラスである。これは自明のことで、 たとえば、ここで30歳と45歳を比べてみれば一目瞭然である。30歳の多くは、 12歳ごろからパソコンを始めているから、パソコン歴は15年以上になる。 つまり、人生の半分以上を、パソコンといっしょに暮らしてきた。一方の 45歳は、30歳ぐらいでようやくパソコンを始め、メールを使い始めたのがここ 7、8年。 ワードでの文書作成やネット検索などを経て、最近4、5年でようやく エクセルやパワーポイントを使えるようになったレベルだ。この両者の どちらが、いまのビジネス社会に対応できるだろうか? こう考えてみると、 いまや若い人間が年上の人間の「先輩」になる下克上の時代であることがわかる。 IT化によって古いスキルは廃れ、どんどん新しいスキルが必要とされている。 ▼ それぞれの年代別の特徴が入りこんでいるから複雑だが、漫画からゲーム・ キッド、そしてパソコン、携帯と、IT化が、それぞれの世代の性格を微妙に 変えている。この次の世代が携帯である。それは次回になるが、ここでは、 まだ書いてないが、ブログ、ツイッター世代、そしてiPad世代という 括りも出てくるはずだ。 ・・・・・・・・ 2956,マッピングする視点 2009年05月09日(土) ある本に「マップする視点」という言葉があった。グーグル・アースが出来て 《誰もが何時でも、宇宙からの写真を気楽に見ることが可能になった。》気楽に マッピング出来るのである。「秘境ツアーにはまって世界中を憑かれたように 何ゆえに行ったのか」というと、ストレスの発散であった。軽い痴呆症の母と同居、 ストレス発散をしないと家庭が壊れるという危機感を持ち、家内と年に2〜3度、 秘境旅行に行くことで何とか乗り越えることが出来た。 自分の存在を異質空間に 移動して実感としてマッピングすることで、その時点の「今、ここ、自分」を括弧 にいれ、旅行のストレスと相殺することだった。遠くから「極限に近いストレス」 の生活を眺めることによって乗り越えようとしていたのだ。アフリカや南米の 遠くからマッピングする視点を、自分たちの支えにしていたのである。 これが空間的なマッピング体験である。 ≪字数制限のためカット 2012年5月9日≫
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| 5167,閑話小題 〜心は科学者か弁護士か 〜�� |
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2015年05月08日(金)
* 私たちの心は「判事」や「科学者」ではなく「弁護士」を雇っている ネット検索で、「科学者」「弁護士」と入力したら、以下の内容が出てきた。 心の内なる弁護士は、時にご主人様のため、盲目になってしまい暴走、歯止め がきかなくなる。そこで、科学者や判事も同じ力量を置かないと、極端の個人 主義者になってしまう。 〜まずは、その辺りを抜粋〜 ≪ この世に産れ落ちるあなたに、神様から 「二つの人生のどちらかを選択しなさい」と言われる。どちらを選ぶ? �\験教羔砲寮議昭圓魎咾�通すが、ならず者だと思われる。 �⊂鐔�的な嘘つきなのに、模範的な人物と見なされる。 「徳が高く見えるか?」「実際そうであるか?」は、このように大きな違いだ。 現実として、皆、どちらを選んで生まれただろう? 哲学者グラウコンのように、 大抵「人々は現実よりも見かけや評判に、より大きな注意を払う」 これは長い 歴史の中で、私たち先祖が生存競争に勝利するにあたり、真実と名声のどちら が重要だったと考えたかを表している。人は人の見えないところでは、正直 とは言えない。少数の腐ったリンゴが倫理社会をダメにしているわけではなく、 人々の大多数がほんの少しずつズルをするからこそ、この世界は危いと言える。 おまけに、始末が悪いというか、ほとんどの人が自分の誠実さを疑わない。 つまり、自分がした行為の正当化に恐ろしく長けているのだ。 私たちは心に「判事」や「科学者」を雇っているのではない。 私たちは心に「弁護士」を雇っているというのが、本当のところだ。 だからこそ、グラウゴンは言う。倫理的な社会を築くためには何が重要か? 「あらゆる人々の評判がつねに皆の目に入るようにし、不正な行為がつねに 悪い結果を生むようにすることだ」と。心の「弁護士」とは「思考」のこと。 思考の中心的な役割は、他人に対して説得的な理由や、いい訳を提示するための 準備を整え、振る舞えるようにすることだ。事実自分がした選択を正当化しよう とするプロセスはきわめて強力なので、意思決定者は、何かを決めるに際して、 他人の説得のみならず、正しい選択をしたと自分を納得させるためにも有力な 理由を探そうとする。つまり私たちの中の優秀な弁護士は「自分自身をも説得 しようとする」のだ。道徳的な思考は科学者のような真理の探究より、政治家 の票集めにはるかに近いと言える。たとえば、人は論争になると、ほとんど 考えを変えようとしなくなる。心は論争相手から遠ざかろうとし、挑戦を むきになって論駁しとうとするのだ。とは言え、心は絶対的な独裁者でもない。 もし相手に愛情や敬意を抱いていれば、心はその相手に歩み寄るし、理性は 相手の主張に真理を見いだそうと務めるだろう。・・ ≫ ▼ ここで、弁護士とは「思考」というが、判事、科学者、弁護士との 裁判のやり取りが「思考」だろう。それと、傍聴席の視線の想定も重要。 日本では、�,凌佑魘肪爾坊�う。尻尾を出していても、�△凌佑鮃イ燹� 一神教なら、規範が明示されているが、訳の分からない世間教徒の日本人は、 あいまいな�△砲覆襪靴�ない。で、殆どは? 人生の最終晩年に我にかえる。 人生の節目に常習的嘘が暴発し、「まさか、あの人が!」と、正体を現す。 ・・・・・・ 4802,年金破綻報道の罠 ー�� 2014年05月08日(木) <世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> ー細野真紘(2014年の論点100) * 年金は安心!を、まとめると 年金は、あくまでも老後生活の補助金。あまり知られてないが、現役世代が 圧倒的に多かった数十年間で、積立金が120兆円もあり、それを取り崩せばよい。 現在の年金の支払いは、現役世代の年金収入以外にも、税金からも支払われる。 巷で言われている、1970年の20〜65歳年齢対65歳年齢が8・5人対1で、2050年に 1・2人対1としても、今まで計画的に積み立てられてきた年金基金と、税金を 加えればよいことになる。楽観的だが、一理はある。正社員の比率が減る中で、 厚生年金に加入できる人が減っていることが大問題。今後、高度成長も望めず、 国家の体力が弱っていく中で、楽観視は出来ない。しかし、この年金制度が 無かったとしたら、10年、20年先の若者は、大変。最悪の想定で、両親2人と、 その両親の親4人、合計6人の面倒を見るケースも、ありえる。多くの紆余屈折 を経て、それなりのカタチになっていくが、悲観だけをしても何も得ることは 出来ない。ここで取り上げてきた基本的知識を、国民は、あまり知られていない ようで、より丁寧な教えが必要のようだ。40年以上の厚生年金を夫婦してかけて きて、手取り25万では、何か釈然としないが、それでも大きは生活の柱である。 逆に、夫婦二人で、国民年金だけの収入で手取り11〜2万では、生活保護にも 満たない。 核家族化の中で、子供からの援助も当にできず、ハイパーインフレ にでもなれば、アメリカの貧困層のように救済センターに食事のための行列も 現実になりかねない。私も、半年前までは、倒産など、思いもよらなかった。 家内も、私の実家も、堅実な家柄だったので、厚生年金や、万一の備えをして いたので、何とか生活の質を落とさないでいるが、一つ間違えれば、大変の事態 になるところ。生きていく上で、お金は健康とともに大切である。それから 自由になるには、長年の時間をかけての準備と、蓄積が必要。老いれば尚の事、 たかが年金、されど年金。たかがお金、されどお金。それ以前の知識も・・ で、120兆の年金基金も、日本国債とアメリカ国債に化けているとしたら、 どうなる? 国家あってこその個人である。 ・・・・・・ 4435, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −5 2013年05月08日(水) * ルート4:主観的時間は幻想だと理解する道 ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 ーまずは、この概要を主観的にまとめてみる。ー ≪ 客観的な「今」と主観的な「今」の違いからみると、客観的時間は、時間が 一定速度で進むという前提に基づいている。時間を秒、分、時間、日、月、 年、10年、世紀といった絶対尺度で捉えるから、そのような結論になる。 客観時間は、一定速度で進む。それは、人がそのように定義したからに過ぎない。 しかし、主観時間は、そのように捉えるべきものでない。主観的時間を考えるに、 「今」を考えてみよう。「今」は、客観的には時間軸のある一点である。 客観的な今は時間の幅を持たない。どんなに短くても、時間が幅を持ってたら、 それは今でなく、過去と未来になってしまう。今とは、それが千分の一秒前と、 千分の一秒後の間が、今になってしまう。 千分の一などどうでもよいと思い がちだが、数学や物理の世界ではそれを認めない。ということは客観的今とは 時間幅を持たない。 では、主観的な今とは何か。「クオリアとして知情意を 感じている、この今とは何か?」と問う以上、主観的な今は時間の幅を持って いると考えるべきだ。ここに、時間的幅を持たない客観的な今と、時間幅を持つ 主観的今。両者の定義は異なる・・ 私たちの心は、「今」しか考えられない。 過去を思い出したり、未来を想像できるが、それらを行うのも「今」だ。 私たち人間には、過去も未来もない。実は現在もない。過去を思い出せるが、 エピソード記憶に残っていることを思い出しているに過ぎない。過去はクオリア ではない。単なる記憶だ。その過去の体験のクオリアに戻ることは出来ない。 人間には「今」しかないのだ。・・・ 僕たちは「今しか感じられない機械」。 今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、あなたにとってのすべての 時間なのだ。それだけだ。 主観的時間には、「死」なんてない。死ぬ瞬間は、 もはや主観的な「今」はない。死の直前には「今」を感じられるが、それは 死の瞬間ではない。主観的には死はないのだ。生まれる前は主観的には生まれて いなかったのだから当然、時間は流れていなかったのだ。主観的な過去の時間は 過去にさかのぼるほど圧縮され、ついには物心ついたとき以前の時間は完全に つぶれゼロになると考えるべきだ。未来も、先に行くほど圧縮される。 物心ついたときより前の時間がぺしゃんこにつぶれてゼロだったように、いつか 死んだ後の時間もぺしゃんこのゼロだ。・・ つまり自分が死んだ後の無限の 時間、という想定も、過去と同様、見直すべきだ。そんなのは無いのである。≫ ▼ 当たり前のことを論じているが、これが自覚できないのが人間。 過去も未来もゼロ、現在も幻想。ただクオリアがあるだけ。「自分が死んだ 後も世界は無限に続く」ということが、間違いである。死ぬと同時に今も、過去 も未来も、ゼロに潰れる。「今」しかないのに、過去や未来にこだわる人間は 奇妙な生きもの。過去は記憶に過ぎなく、未来は予測に過ぎない。ならば可能な 限り、嫌なことを忘れ、良いことを繰り返して思い出すよう努め、今だけを 考えること。所詮、未来も、過去もない。それで良いのだと。亡くなった両親を 考えてみると、その道理が理解できる。死んだ後の時間はペチャンコに潰れている。 クオリヤを感じている今こそ、生きているのである。だったら、私たちも、 この「今」を生きるべきである。主観的時間が幻想としてもである。今しか 活き活き生きることが出来ないのである。ケセラセラと今を活き切るしかない。 ・・・・・・ 4061, 我事に於て後悔せず 2012年05月08日(火) * 我事に於て後悔せず。 宮本武蔵「五輪書』より ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より この本で著者は、五輪書の武蔵の「我事に於いて後悔せず」を取り上げている。 一流のプロなら、引退後の後悔などせぬはず。 後悔するのは腐った? のような人物がするもの。 ー以下の部分は、その辺りを微妙に書いてある。 ≪ これをふつうは「われ事に於て後悔せず」と読む。 小林秀雄は「わが事に 於て」と読むほうがよかろうと言っていて、その意は、「その日その日が自己 批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。 別な道が吃度あるのだ、自分といふ本体に出会ふ道があるのだ。後悔などといふ お目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は 語ってゐるのである」(小林秀雄『私の人生観』)と説明している。自分の過去の 行動についてあとから、あれは間違っていた、などとそのたびに後悔するよう では、後悔というものを受け入れるようでは、ひとは本当の自己に出会うことは できぬ、というのだ。 小林秀雄は武蔵の言葉をかりてつまりはそれが言いた かったのだが、このことは今ぼくらの考えている「自己への忠誠」にあてはまる。 ◎『自己に対する何という無礼だ、その決心をした時より今の自分の方が利ロ だと、どうして思うのか。』スタンダール「パルムの僧院」これぞ言葉の中の 言葉だ、これほどにひとを励まし、自己への忠誠を元気づける言葉を、ぼくは ほかに知らない。武蔵の箴言はいささか道学者くさいが、ここには自己であること の純粋なよろこびがある。・・これはスタンダールの全作品に鳴りわたる言葉。 ◎ ースタンダールはそのすぐ前で公爵夫人の性格についてもこう言っている。 公爵夫人の性格には二つの特徴があった。彼女は一度欲したことは あくまでも欲した。また一度きめたことはけっして論議しなかった。 ◎ ー彼女は偶然にまかせ、そのときどきの快楽のために行動してきた。 しかしどんな行動に身を委ねる場合でも、断乎として行なった。あとで冷静に 返っても、けっして自分を非難しなかった。まして後悔しなかった。自己に たいする忠誠とはかくのごときものであるかと若い日に讃嘆させられて以来、 これらの言葉はそのときどきにつねにある内耳器官のごときものとなって、 ぼくを導いてきた小説の主人公ではないか、とバカにしてはいけない。 ≫ ▼ 小林秀雄に「無私の精神」という文章がある。実践家は、自我を押し通す人 と思いがちだが、実は無私の人である。彼は無私に徹しなければ物事は成就 しないことを知っている。極限に立ってきた人は後悔などしない。そこで自分を 押し殺し、己を抑えるほど物事は大きく成就してきたことを知っているからだ。 後悔は、実践の中では後々、害になることもである。 ・・・・・・・ 3695, 自己を見つめる −17 2011年05月08日(日) 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 還暦もとうに過ぎ、更に65歳になったとたん、事業は、これ。それは本格的な 老いへの第一歩を踏み込んだ現象だろう。歳に勝てない現実が誰にも待っている。 それに対し抵抗を諦め、従うしかない。それが老いと著者はいう。 そして、それが恵まれた状態で向えようが、悲惨な状態であろうが、直ぐに やってくる死を前にすれば、誰も彼も大して変わらないことは、今更言うまで もない。それぞれの年齢の老いの景色は変わっていくが、殺風景になっていく 経験も辛いものがある。しかし、それでも、生きているだけでも有り難いと 思えるうちは良いが。 * 老いについて ー� −P262 【 老いは、端的に言って、心身の変化や不調、障害や不全、病気や悩、生計の 面での困難や窮迫、人間関係における亀裂や別離、忘恩や裏切り、さらには長年 の人生遍歴における事故や災害、対立や紛争などの側面の出現といった、ありと あらゆる不幸な事態の顕在化という姿を取って、人生の暗い側面を表す顛末の 様相を帯びながら迫ってくる傾向が強い。もちろん、明るく幸せな老年という ものも存在するであろう。けれども、老いは、もともと死の予感とも結びついて、 悲惨な様相の影を本質的に内在させている。老いは、総じて、誰もがそこから 眼を背けたがる暗黒の象徴を含むものとして受け取られる面を含んだ現象である ことは否定することができない。 実際、ショーペンハウアーも指摘したように、 年を取って、生計に困り、病気がちとなったら、その人の晩年が暗いものとなる のは必定である。したがって、誰もが、早くから、その点に留意して、自分を守る 必要がある。しかし、いくら用意周到を心掛けても、予測しえない出来事の起きる のが人生である。 老いと高齢化の行く手は、誰にも予測することができない。 むろん、老いとともに円熟する人生というものも考えられる。しかし、人間は、 受肉した自分自身を、自分自身の思いどおりに、させたり、若返らせたり、 あるいは好きな姿で老化させたり、終わらせたりすることはできない。自己の 自然的かつ社会的な存在のうちには、自分の思いどおりにならないもの、いわば 自己の根源的受動性が潜んでいる。自己は、自己を越えた宿命の定め委ねられた 側面を、その根底に抱えている。 いかに自発性に富み、能動的で、いわゆる 勝ち気で、理性的な人といえども、自分の老化と死を、自分の思いのままに 支配することはできない。 人は、老化と死の歩みを停止させることはできない。 それどころか、老化し、瀕死の身となった自分自身を自己は、自分で処置する こともできず、そこで自己の能力の限界に突き当たる】 ▼ 定年などを切欠に職を終える時期に、人は、老いの段階に入ったと認識 させられる。特に定年制は、まだ活力のある逸材を含めて、一律に世の中から 排除する一種の姥捨てとして、世代交代の作用にもなる。姥捨ても見方の一つだが、 現実には山中で悲観にくれるのも辛い。 二人称である親族、知人などの最期を 傍でみていても、壮絶である。そこに向かって一日一日が歩みだした自覚を 持ったとき、本当の老いが始るのである。起承転結でなく、起承転々というが、 これが難しいはず。老いと向き合う時期に入ったか。 ・・・・・・ 3330, スモールハッピネスの「少年ジャンプ世代」 2010年05月08日(土) 「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) −3 * スモールハッピネスの「少年ジャンプ世代」 いまの日本を語る上で、以下のように著者独自の観点で世代を分けている。 ≪ 偏差値の次に指摘するのが「少年ジャンプ世代」である。この世代は 「偏差値世代」より、さらに考えることが出来ない世代。彼らが育った1980年代 後半は、「少年ジャンプ」が部数的に大飛躍した時代で、1990年に入ると、実に 600万冊以上も売れた。その「少年ジャンプ」で描かれるのは、編集方針である 「努力・友情・勝利」という、3つの要素の入った物語。この3つの要素で1つの 物語が完結をする。しかし、その物語というのは、‘近くのラーメン屋の娘と 仲良くなれたらラッキー’というふうな世界。勝利は社会的な勝利ではなく、 極めて身近な勝利である。小さな夢と身近な友だち、そして幸せ。それもいいが、 言い換えれば、「非常な内向き」ということになる。このような、外向きでない 人間たちがいまの日本の働き盛りの中核を占めている。 これは憂うべきことで、 日本だけの閉じられた世界ではグローバルは立ち行かなくなる。少年ジャンプの 世界は、最後は勝利である。 そこには、ものを考える余地がなくなっている。 2000年代に入ると、その少年ジャンプが部数低落に歯止がきかなくなった。 主人公が努力している姿を見ても面白くなくなったなど、色いろ分析されている。 この世代に続くのが、「ゲーム・キッズ世代」である。 ≫ ▼ 以上が要旨だが、国が衰退するときは、頭と尻尾から腐ってくる。 それにしても幼稚である。草食系は、アメリカと、その手下の自民党、社会党、 そして官僚の長期政策の結果だったのである。ここで思い切った政策の変更を 根底から変えなければならない時期に来ているが、果たして可能かどうか。 ・・・・・・・・・ 2955, マネーはなぜ暴走したのか? 2009年05月08日(金) * アタリの経済危機を考える NHKの連休の二日間のジャック・アタリのインタビューの内容が考え させられた。二時間近い内容を、頭に残ったまま思い切って要約すると、 《 この経済危機の大きな要素は、ベルリンの壁の崩壊である。これは人類 3千年かけて望んできた(自由)と(個人)を最終的に獲得した画期的な 大事件。その結果として、まずは経済のグローバル化が始った。それが市場 原理主義と情報化がマッチして世界の流れになってしまった。しかし、 それには絶対的なルールが必要であったが、アメリカの金融関係の連中が 自分の利益を追求するあまり、ルールのできる前に金融工学とかいう美名を 楯に世界中に得体の知れない金融債権をばら撒いてしまい、再起不能なほどの 金融危機を起こしてしまった。 その結果、今後10年、20年、30年と、 大きな津波が押し寄せることとなった。 第一の波は、アメリカ一極支配体制の崩壊(アメリカは、一極支配は 捨てても、決して弱体化はしない。内向きになるだけ) 第ニの波は、多極支配体制への移行 第三の波は、グローバルな超帝国の波 ー市場そのものが帝国化して、 国単位では規制不可能になる 第四の波は、超紛争の波ーあらゆる武器が開発されコントロール不能になる 第五の波は、超民主主義の波 ー人々は利他主義に気づいて、その力が加速 して結果として、プラスの流れが出る。 アイデアは他人に与えても減るものではなく、むしろプラス の相乗効果が出てくる。 (字数の関係でカット15年05月08日)
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