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堀井On-Line
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2014年04月12日(土)
* サクラサク ー昨日みたシネマ ストーリーは、《 大手家電メーカーに勤める大崎俊介は、部下からの信頼も厚く、将来を嘱望される会社員だ。 重役への出世も目前で、生活は順風満帆なように思えた。しかし、気付けばその家庭は多くの問題を抱えていた。 妻・昭子との関係は冷え切り、息子の大介は大学受験に失敗してからはアルバイトを転々とし帰宅後も部屋に閉じこもる。 娘・咲子は高校生だが毎晩帰りが遅く、俊介の忠告も聞かず何を考えているかわからない。周りを見つめるきっかけは、 父・俊太郎が老人性認知症を患ったことだった。大雨の夜、俊太郎は徘徊しているところを警察に保護され、この日を境に おかしな行動が増えていく。苦しむ俊太郎を見ても家族は見て見ぬふりで、一切助けようとはしなかった。薄情な家族に 俊介は大きく失望し、孤独な父を守ろうと奮闘する。しかし実は、息子が人知れず俊太郎を介護していたことを知り…》 ▼ 40歳半ばから50歳までの5年半の間、母親の認知症と付き合った。映画は息子と娘、私の場合は、息子2人と、 少し状況は違うが、家内も同じ年頃。 家庭内や、4人の実姉達との関係は崩壊寸前。他にも大きな問題を抱えていて、 人生の大きは危機の時期であった。実の母親のシモの失敗の始末は、なかなか出来るものでないが、思わぬことが起きた。 長男がみかねて、率先して面倒をみてくれるようになっていた。しかし次男は、素知らぬふり。ところが、その長男が 進学で上京をしたと同時に、自分の順番とばかりに、負けないぐらいに世話をするようになった。それぞれの立場があった のである。それにしても一番だらしないのが自分。それでも毎日の早朝、車で20数分先にある、長岡ニュータウンの 散歩道で三十分の間、神秘的時間を過ごしていた。 この映画のストーリーはハッピーエンドだったが、実態は、 そう甘くはない。経験者にとっては、物足りない感が残るのでは? 現在、非力な自分への後悔の念が残っている。 その時は無我夢中だったが、よくぞ家族で乗越えたものと改めて、家内と子供に感謝の念が湧いている。そして今度は 自分の順番が、さほど長くない先に控えている! やはり死ぬべき時に死ぬが良い!それまで一日一日を味わい尽くす しかない。母親は下の失敗は最小で済んでいたが、呆けてもプライドが、そうさせていた。御陰で、この5年半の経験が バネになって、50歳代の10年間で20年〜30年分の人生を燃焼することが出来たようだ! 映画評ー85点 ・・・・・・ 4409,隠居大学ーよく遊びよく遊べ −7 2013年04月12日(金) 第六時限 「遊行の旅に出よう」 ー「隠居大学」天野祐吉、お相手 安野光雅 * いのち短し恋せよ 人生は! 御隠居には自由気ままで何事も楽しめる特権がある。桜は咲き誇った時だけでなく、桜絨毯にも何ともいえない美しさがある。 散った花も花である。人生は二度なし、その時どき、すべきことをしておくべき。しない後悔より、してみた後悔がよい。 「いのち短し恋せよ 人生」である。今でも遅くない、自分のバイアスに気づき取り払うこと。それが、御隠居の残された最後の お勤めになる。今までの枠を超え楽しまなくては、長生きの甲斐がない。どちらにしても先は長くはないのだから。 ≪ 天野: 落葉の風情なんてまるで意味のないものと思われていますよね。 安野: あのね、わたしの家の近くには桜並木があって、春には窓から花見ができる借景なんです。 この前、ある人が近所に引っ越してきて、その人も最初はキレイな桜を見て「素晴らしい、素晴らしい」って喜んでいたの。 ところが、秋になって落ち葉が家に入ってくるようになうたら、こりゃ住めたもんじゃないっていって、引っ越しちゃった。 花も落葉もあるいいところなのに。落葉は風が吹くと竜巻ぎみたいになって、クルクル回ったりしてね、いいなって思うんだけど。 天野: 落葉のそういう風情を楽しむのは、遊び心の一つなんですよね。機能的なことだげ考えたら、そんなのないほうがいいって ことになっちゃう。だけど、そういう、なんとなく無駄なようだけど風情があることの中に、何かこう人生を感じたり面白味が あったりするなあと思うんですよ。・・・(略) 安野: ・・・いまの現代の文明が昔を超えたかというと、超えていないわけですよ。ミケランジェロみたいな絵を描けって いわれても描けない。ミケランジェロはおろか、まだ人間以前のクロマニヨン人が描いたラスコーの壁画だって描けませんよ。 電気もない、真っ暗な洞窟の壁に、あんなものどうやって描いたんだろうと思うけど。文明は進化したかもしれんけど、文化は さほど進化していない。だから、古いものだからって、バカにするのは違うんですよ。 天野: 人間は技術文明の上では巨人になっても、文化や芸術の面では木偶の坊になったっていう人がいるんだけど、同感だね。 せめて現代の隠居は、落葉の風情の楽しみ方みたいなものを次の世代に伝えていけたらいいと思います。 安野:『即興詩人』に憧れてイタリア全土を周遊するなんて若いころの話で、今では、仕事だから、仕方がないから行っている ものも多いんです。私は言葉が分からなくても行くからね。そういうと、言葉とか、食事はどうするか聞かれる。高学歴の 人に多いね。でも、困ることなどない。宿屋に行けば、「部屋探しに来たんだな」って思われるし、八百屋に行けば、 「野菜を買いに来た」と思われる。レストランなどでは上から三つ目にしている。たいてい食べられるものが出てくる。 一度、とんでもないものが出てきたことがあったけどね。(笑い) 天野: 隠居生活は、遊行の旅のようなもの。日々気ままに、好きなほうに歩いていけばよい。面倒なことをしないで。 安野: そう、なんでも、自分の思いのまま、楽しんでやってみたらいい。言葉など必要ない。いのち短し恋せよ少女、ですよ。≫ ▼ 何ごとも楽しむ人生を過ごせたので、あまり人生に後悔はない。いい時代、いい家庭に恵まれたことを感謝している。 あとは、過去の思い出と、現在の楽しみを味わい尽くすことである。死んでしまえば、それまで。生きているうち。 それにしてもバイアスが邪魔をする。「ハミングしながらスキップ気分で何事にも触れること」は分かっているが、いま一つ。 ・・・・・・ 4035, パチンコに日本人は20年で540兆円使った 2012年04月12日(木) 「パチンコに日本人は20年で540兆円使った」 (幻冬舎新書) 若宮 健 (著) 以前にも、同じ著者の本を取り上げ、パチンコが日本に大きなマイナスを与えている実態の驚いた。 先日、図書館で、その続刊の最新書を見つけ読んで、改めて、その被害?の大きさに驚いてしまった。 ー内容紹介ー ≪ あっという間に1万円が消えるパチンコに日本人は多くのカネと時間を奪われてきた。この既得権益を貪る人間、依存症に苦しむ人々。 20年で540兆円―日本人が「失われた20年」でパチンコに費やしたカネは、2011年の国家予算(92兆円)の約6倍、GDP(479兆円)を凌駕。 多くの人々の労働・消費意欲を奪い、また精神疾患であるパチンコ依存症者の数は450万を超える。ものの30分で1万円以上を失うパチンコが、 カネと人間性を奪ってきた。なぜ韓国にはできた「パチンコ全廃」が日本ではできないのか。依存症の実態とそれを誘発するメーカー、 蜜に群がる利権政治家、警察、マスコミの現状を徹底糾弾。 ◎ パチンコ業界の売り上げは、『レジャー白書2011』によると、2010年は19兆3800億円。これは日本独自の市場。 ギャンブル依存症は 世界保健機関も認める精神疾患近年は通常の病気と同様、健康保険の適用を受けられるようになった。否認の病気と言われ、嘘・借金 ・お金を盗む・うつ・失踪などが症状で、進行性の病気である。厚生労働省が2009年に行った研究調査の結果によると、 日本の成人男性の9.6%、同じく女性の1.4%がギャンブル依存症であるという。 2009年の成人人口から単純計算すると、男性は483万人、 女性は76万人で、合わせて559万人という驚くべき数。そのうち8割程度がパチンコ、パチスロによるものと言われる。 ◎ テレビ、映画で禁じられるサブリミナル効果がパチンコの特許に特許3029562の発明。大当たりの図柄を暗示銘柄にし、 遊戯者が認識できない短い時間、挿入している。潜在意識に働きかけ、遊戯を続行させる手段として用いているようだ。≫ ▼ 私の感覚では20年で540兆円、年平均27兆円も使ったとは信じられない額である。コンビニの総売り上げが8兆円。スーパーの 売上総額が20兆円。書籍の2011年総売り上げが1兆1千億というから、その20倍の売上高になる。それに対してパチンコの売上総額が 20〜30兆円。しかも愛好者が1600万人、中毒者が500万人。 数多あるコンビニの二倍以上の売上高? 信じられないので何度見直しても、 そうある。 事実としてみると、これは亡国の事態。韓国は、その社会的大きさに、国家として廃止してしまった。 しかし日本には、それを実行するだけの自己修正力は無くなっている。 ◆ パチンコ店が何故、廃止にならないのか ? −2 2012/02/28 パチンコの売り上げ、10年前に30兆円、現在では20兆円という。ギャンブル総額が30兆というから、大部分がパチンコ・スロットの 売上げが占めている。子供を含めて一人あたり15万円にもなる。これは明らかに賭博であるが、どういう訳か廃止論が出て来ない。 この国は、政界、警察、広告、メディアがパチンコ業界と癒着?の実態がある。それがあって当然というのも異常。 チョットした 市の郊外には必ずパチンコ屋がある。 ギャンブルと見なされてない遊びの文化のようで何の規制もない。 受験が終わって、友人と 初めて行ったのがスロットマシーンとパチンコ屋。 やっと大人を感じる時である。 人がギャンブルに嵌りこむのは、大損しても、 稀に勝った快感の記憶が残り、その味を求めて繰り返す仕掛けがある。 業者の方は、勝った際の高揚感や恍惚感を高める工夫をする。 パチンコ店の音楽やパチンコの光と音などである。 そして勝つための技術が必要と錯覚させる仕掛けをつくる。 負けたのは、 勝つための技術料金と錯覚させる。 もう一つ巧妙なのは、ニアミスの仕掛け。スロットの場合、AAAが当たりの場合、ABAや、 AABが出ると、「当たり損ねた」と考える。 しかし、外れは外れでしかない。その辺の気持ちを逆用するようゲームは出来ている。 ギャンブル依存症の人は、脳内に勝った時に出るドパーミンが長年の間に多くなっている。 それは麻薬中毒の似ている。 iPadを購入して以来、パソコンゲームに嵌っている。 あるゲームの場合、達成すると、音楽と金色の星が三つでる。失敗すると、 グフフ!とバカにしたような笑い声と軽蔑の絵が出てくる。 それも、あと一歩のところで達成できないようになっている。 金を賭けている訳でもないのに、やり始めたら、止めるタイミングが無くなりトイレさえ行けないほど熱中する。 難しい本を読んだ直後には非常に効果的である。 私の周辺の人でパチンコが趣味というのは一人もいないため、20〜30兆円が ピンとこないが、この金額は国民の何割の人は中毒に近いと伺わせる。 韓国は、悲惨な悲劇の続出で禁止されてしまった。 この不景気で、業界は壊滅的打撃を受けているはずだが、何故か倒産の話は聞こえてこない。 ・・・・・・・ 3669, 節目どきに ー4 2011年04月12日(火) こういう時にこそ、これまでの付き合いの真の姿が見えてくる。私の人間関係は長年?の友人が多い。その節目どきに、 真かどうかが見えてくる。 具体的の話は、まあ・・止めておこう。立場が変われば、これまでの関係が変わるのは当然。 それを取り上げること自体がおかしい。その中で一番身近な家内が、このところ上機嫌である。立場が逆転するからである。 今後を考えただけで恐ろしい。早々に粗大ゴミにされてしまう恐れがある。彼女も含め、手の裏を返す人の共通点は、 プライド?の高い、底の浅い?修羅場経験の少ない人?等、共通がある。しかし何処か憎めない性格。前向きな人生を生きていなかった? それぞれの人生が、境目から見えてくる。これは私の歪みの目。それでは御前は何じゃい! と言われると何も返す言葉がない。 年齢からして「節目どき」というより「夕暮れどき」か? 65歳なら、それも仕方がないか。 大体が人間の付き合いは立場における 力のバランスの上で成り立っている。その力が変化をすればバランスが崩れて当然と割り切ればよいのは分かっているが。 ところで昨夜、学生時代の友人が当時のクラブを代表して東京から見舞い?に来てくれ新潟駅南で一献を傾けた。 (当人の会社の仕事が偶然あったこともあるが)有難いことである。 そうこうして落ち着いた二ヶ月後に落ち込みが来ると、 何の?先輩の実兄が先日、電話で教えてくれた。 この体験の中で、ここでは書けない聞くに値する?話しは幾らである。 いや、この数年間は、その宝の山だろう。 特に銀行筋の手順の中には・・・ それと、世間様レベルの人々の視線を、 そのまま書くことになるだろうが、面白そうだ。「家内が、先日、前の町内会長婦人とあったので、挨拶をしたら無視された」 レベルの話しである。こういうのを重ねて、ジワジワ追い詰められていくのだろうが、アウトサイダーの長年の実績が、 こういうのを茶化して楽しむ術がある。人は言葉よ、言葉!それも心の奥底の絶対言明!より深く本を読む節目の時節到来か。 ・・・・・・・ 3304, 金の価格は談合で決まる!って本当 ? ー1 2010年04月12日(月) あるレポートに「金(ゴールド)の相場は談合で決まっている」という衝撃的な内容があった。 どうも金の相場を見ていると、不可解な動きに疑問を感じてはいた。しかし、こうしたレポートで、 「連銀が間接的にコントロールしている」とか、「大手貴金属会社の主要メンバーの談合で動かされている」 というと、話しは違ってくる。 そのレポートの内容とは ・ひとつは、世界の中心的な金相場のあるロンドンで、JPモルガン・チェースなどの米英機関が相場が上がりそうになる度、 大量の先物売りを浴びせていたという。 連銀が金融機関に相対取引で「地金を貸し出す仕組み」の中で金利を極端に下げ、 金の空売りを奨励しているというから、聞き捨てにはならない。これはある業者の告発から表ざたになった情報で、 レポートの主が「ネット上で見つけた内容」。 真偽は如何だろう? ・いまひとつは、金の価格は表向きの取引で決まるのではなく、ロンドン貴金属市場協会のメンバー60社の中の主要9社が 午前と、午後の二回、金額を持ち寄って、上の値の2社と下の2社の価格を取り除いた5社の価格平均で決めているいうもの。 米英が二社ずつ、独・仏・日、カナダ、スイスが一社ずつという。 ここで問題になるのは、その総量が実際に会員が 保有している総量より多いことである。 これはマグワイヤというトレーダーによって暴露されたという その本人は、その後に、あわや暗殺されそうになったとか。 金の先物で破産したとか大儲けしたとか、という話を聞くと、ラスベガスの八百長賭博並みの世界で 騙された結果でしかなかったことになる。「嘘だろう!」と狐につままれた内容だが相場の世界は、こんなものかもしれない。 相場の世界は情報の質量の絶対数が多い方が有利で大手ほど有利になるが、 「金相場が談合で決定!」というと、話は違ってくる。 ちなみに、このレポートはネット上のものだが、半年、3千円、 2〜3日に一度、書き込みがあるもの。 決して、怪しげな情報源ではない。 世界経済は、数人の男たちによって 動かされているというが、最近、それが信じられるようになってきた。 ロシアや、アメリカの政府の首脳とは別の! ・・・・・・・・ 2929,閑話小題 2009年04月12日(日) * 昨日は法事 去年早々、母方の叔父が亡くなり、両親の全ての兄弟・姉妹と連れ合いが亡くなった。その叔父と連れ合い、 そして長男の合同の法事が昨日あり、家を代表して参列してきた。「自分たちの法事としては、最後ではないか」と言っていた。 これから法事は少なくなる傾向のようだ。「家」の意識が、ここで大きく変化している。親戚も最小にして、 ごく内々で済ますようになった。坊様の商売は不景気に大きく左右される上に、これだから上ったりだろう。 * 国債>税収 09年度の一般会計が、ついに税収を国債発行が超えてしまったと、あった。目を疑ったが、事実である。もちろん戦後60数年で 初めてで異常事態である。国債大量発行で国債価格が下落し、金利が上がれば、企業の資金調達が困難になる。恐ろしいことである。 世界規模の大恐慌を避けるために、15兆円の大ぶるまいだが、それは国債発行でまかなうしかない。しかし、 その結末は将来の大きな負担と禍根を残すことは間違いない事実。あらゆるところから、綻びが現れてきている。 * 宮城県が2011年にも財政破綻 これまた、目を疑ったが、宮城県が2011年にも財政破綻という。宮城県だけでなく多くの県が同じような窮状にあるという。 一般には隠しているだけで、数年以内に露呈するという。一日一日と何か恐ろしい事態が迫っている。 マイナスばかりが、目に付くが、それが現実なら仕方がない。 * 桜が満開に 新潟市は昨日一昨日と花見と年度変わりの歓迎会を兼ねた宴会が集中する。不景気になって今年は、 それが顕著に現れたようだ。近くの地元の大型居酒屋は、予約で満杯という。但し長岡は、どこもガラガラ。 地域によって違うようだ。桜は満開になり、渡り鳥の姿が見られるようになったが、心は・・・ ・・・・・・・ 2565, ドル覇権の崩壊 ー2 2008年04月12日(土) (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪ この本で面白いと思ったところといえば、 ・第二次世界大戦後に、「金・ドル体制」が確立、 ・ニクソンが1971年に金ドル体制で崩壊、それに変わって「ドル・石油交換体制」が成立した。 ・そして、ここにきて「コモデティ・バスケット通貨体制」と移動しようとしている。 という点である。 現在の天然資源や穀物などの値上がりは、そういう要素もあったのだ。 イラクにアメリカが攻撃を仕掛けたのは、フセインが石油の決済をユーロにしようとしたことが、原因というのも解る。 その『コモデティ・バスケット通貨体制』とは、 (字数制限のためカット 2012年4月12日) ・・・・・・・・・ 2007年04月12日(木) 2200, 反時代的毒虫 ー1 才八∋ウ_〆(∀`●) ー読書日記 何げなく図書館で、この本を手にして、ーまえがきにかえてーの部分の中の一節に目が吸い寄せられた。 *カフカに「皇帝の使者」という短編小説がある。ある男のところに皇帝の使者が出発したというお告げがある。 (字数制限のためカット 2010年4月12日) ーーーーーーー 2006年04月12日(水) 1835, 善意について \(^▽^*)おはようございます!(*^▽^)/ 善意については、色いろ考えさせれることが多い。最近になって、そのプラス面でなくマイナス面の指摘を目にする。
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2014年04月11日(金)
「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) * 「懶」 ー心の余白 「『ものうい生活』の中に自らなる別天地に休んじ、楽しむことを気取ることが懶惰」というらしいが、これが、この年齢で、 少しは分かってきたようである。事業を立上げ、軌道に乗せて暫くの間、何もすることが無い日々の別天地を知っればこそ、 この懶惰の味わいが分る。振返ると、あの退屈の懶惰こそ、お宝だった。その合間の、読書や、秘境ツワーなども、それだ。 《 谷崎潤一郎は、1930年に『懶惰の説』という随筆を書いている。西洋の人々がいかに活動的であり、精力的であるかを 例示し、これに対し東洋の人々がいかにものぐさで、面倒くさかり屋であるかを対照的に書いている。懶惰の代表者は誰か。 物語のなかでの人物ではあるが、物臭太郎(三年寝太郎)の名をあげている。 さて、瀬惰とはなんだ?. 「『ものうい生活』の中に自らなる別天地のあることを知り、それに安んじ、それをなつかしみ、楽しみ、或る場合には そう云う境地を見えや気取りにするかの如き傾向の存すること」 瀬惰心という言葉があるとすれば、この谷崎の定義は その一面を言い当てている。むろん、西洋人にも瀬惰心の人がいるし、東洋人にも活動的な人がいるのはいうまでもないが、 あるていど類型化しないと、論旨がはっきりしない。 瀬惰をよしとする人は、年中あくせくしてきりきり働く人を冷笑し、 ときには俗物扱いにする。朝から晩までせかせかと動き回る人を嗤う傾向がある。 一方、瀬惰心に批判的な西洋人は、浮世を捨てて山の中に隠遁し、独り瞑想にふけっているような人物を聖人とは思わない。 高潔の士とも思わず「一種のエゴイスト」にすぎないと切り捨てる。浮世を離れて「何もしないでいる」などということは 西洋人にとって「悪徳中の悪徳」なのだ、と谷崎は書く。 もっとも、谷崎自身は、瀬惰心というものに、一定の共感をもっていたことはたしかだ。 「とにかくこの『物臭さ』、『億劫がり』は東洋人の特色であって、私は仮りにこれを『東洋的瀬惰』と名づける、 というとき、自分にもまた、その東洋的瀬惰なるものの血が流れているという自覚があっただろう。 》 ▼ 事業を目指し、準備15年間、そして立上げ、最後は、津波で流され終わった私の事業人生。 それを全面否定され、 あざ笑われているような内容である。それも、あと一年で古希になろうとして気づいた底浅い己には、この結果が 似つかわしいと独り納得させられる。 こういう視点もあると割り切ってはいても、気になることは確かである。 心の余白など埋めぬがよい! いや、埋めようがない! ・・・・・・ 4408, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −6 2013年04月11日(木) 第五時限 「うふふ力を磨こう」 ー「隠居大学」天野祐吉、お相手 坪内捻典 * 俳句はゲーム感覚で楽しむ 母が50歳の頃、それまでの苦労のため重症のウツ病になり、数年かけ独り立ち上がったが、子供なりに壮絶さを垣間見た。 88歳で老衰で亡くなったが、医師の要請による解剖で心臓の四分の一が壊死していた。第二の人生の40年近くは、趣味の 世界に徹底していた。舞踊、謡い、茶道、写真、短歌、どれもこれも負けず嫌いで、ある領域まで達していた。晩年、母親に、 「一番、極めたのは何?」と訊ねたところ、短歌という。 老年の趣味といえば、短歌と俳句と川柳がある。 ー 次の箇所は、短歌と俳句の違いを端的に示している ー ≪ 坪内:俳句的人間と短歌的人間って呼んでいるんですよ。ぼくの中では、つぶあんは俳句的人間、こしあんは短歌的人間。 天野 どういうところが、俳句的、短歌的なんでしょう。 坪内 そうですね、まず、俳句は、自分の言いたいことを言わないんです。これは、つくるときにも意識しておくといいと 思うんだけど、いちばん言いたいことを言わないのが、俳句がうまくなるコツですよ。よく、「わたしのこの俳句は こんなところがこんなにいいんです」と、自分で一生懸命説明する人がいるんだけど、そういう人はあまりうまくならない。 自分の俳句についてしゃべらなくて、人の意見を聞いている人が、うまくなるっていうか、俳句向きだと思います。 天野 主体性のない人がいいんですね。 坪内 そうです。無責任で主体性がないんでいいんです、できるだけ(笑)。 天野 自分ってものを、強調したがるような人は……。 坪内 それはもう、あきらかに短歌の人です。短歌は最後の七七で、自分の言いたいことが言えるんですよ。 俳句には、その七七を言わない醍醐味というのがあります。 天野 そうか。これは短歌じゃなくて狂歌ですが、「世の中に金と女は仇なり早く仇にめぐり会いたい」というのが ありますよね、これも、言いたいことは最後の七七ですもんね。 坪内 俳句だったら、最後の七七はいりません。 ・・・(略) 天野 言いたいこと言わないなんて、欲求不満になりませんか。 坪内 そう思うのが、こしあんの人の特色なんじゃないですか(笑)。俳句的つぶあんは、言いたいことを言う欲求より、 自分の言葉を他人がどう読むか、っていうほうに欲求や興味がいくわけです。 天野 じゃあ俳句は、こう見て欲しい、感じて欲しい、こう解釈して欲しいっていうのは、表には出しちゃいけないんだ。 坪内 いけないってことはないけど、出さないほうが俳句らしいでしょうね。 天野 お話を聞いているうちに、「三月の甘納豆のうふふふふ」がなんだか、これまでとは違うふうに思えてぎました。 なるほどねえ。今日、帰ったらさっそく俳句、つくってみようかな。・・・ ≫ ▼ 「俳句は、ひとりきりで捻っていく人はうまくならない。それは自分を読者にしていまうから」に、ドキッとした。 句会では、たいてい作者名を隠す。それで非難されて恥ずかしいと思ったら句会に入れない。恥をかくから上手くなる。 この随想日記、だから公開しているが、あくまで自分中心。 毎日、書き続けていると、誰かの嘲笑を独り感じる。 そこで、馬鹿丸出しを曝してよいものか?迷いが出る。しかし、人間には露悪趣味が心の隅にある。露悪とエゴと 無知を偽善で包んでいるのが人間の本来の姿と思って開き直るしかない。私が短歌を書いたら、ほぼ狂歌だろう! 母の短歌より: 窓の下 逆巻く波のはげしくて わが生涯の縮図の如し: 大仕掛け 空を焦がして彩どれば 中天の月いろを失ふ: 若き僧 煙草の吸いがら 投げ捨てぬ 早朝のホーム 一点のしみ: 青き田の 水に浮かべる没つ日を 絵心あらば 描かむものを: ものかなし 豆腐屋の鈴流れきて 秋の夕暮足はやに来ぬ ・・・・・・ 4034, 幸福になるための五箇条 2012年04月11日(水) 「幸福になるためのソフト」の五項目 ー中川昌蔵 「今日一日 親切にしようと想う。」 「今日一日 明るく朗らかにしようと想う。」 「今日一日 謙虚にしようと想う。」 「今日一日 素直になろうと想う。」 「今日一日 感謝しようと想う。」 「以上のことを、実行してはだめです。意識して実行すると失敗します」。意識するとエゴがでてしまいます。 そういう想いが、いつも体の中にある人間になるのが一番いい。 潜在意識に刷り込むのが良い。 ▼ 老齢とは、この逆になっていくことをいう。「しようと想う;なろうと想う」が良い。パソコンかトイレに貼っておくと良い。 「今日一日、しん(親切)、めい(明るく)、にかけ、謙虚に、素直に、感謝しようと想う」と憶えればよい。 ・・・・・・・ 3668, 節目どきに ー3 2011年04月11日(月) これまでと違う日常に入って、10日になる。もっと、その変化に違和感を感じるかと思いきや、それが全くない。 恐らく10年以上、一日2〜3時間を集中し、蓄積してきたこのHPのためである。事象の変化に対して、脳の外部化した基地が、 ここにあるためだろう。 ある人に「HPに偉そうに書いているが、現状のその様は何だ!」と、酒席で言われたが、その通り。 その時に「少なからず経営に携わっている限り、赤裸々に曝け出すブログを書くのは如何なものか」と、他の人から忠告された 言葉を思い出した。 毎日の記憶をHPの中のブログに記録したり、読書の感想を書き残したり、毎日一文を書き始めた時から 何かが確実に変わっていった。 脳の外部化で、因縁のある人の何人かと繋がっている実感があるのが心を広く明るく自由にする。 心は言葉である。毎日、言葉として表出していれば、現象が変わったとしても、気持ちの芯が乱れることはない。 毎日、書き続けているのは、経営を良くするためでない。経営は失敗すれば、全責任はトップにある。 何を責められても言い訳は出来ない。 立場的に、赤裸々に自分の心を露出すること自体が大問題である。 ギリギリのところで、 表現を注意していても本音が表出してしまう。 しかし、その何倍も、書き出し、公開することの効果を感じ取っている。 だから 偉そうに! と言われても、その通りと認めざるを得ない。初めから覚悟をして書いている。5年、10年後から振り返ったとき、 書いた時々のマイナス、プラスなど、如何にでもよいことを毎日、過去の文章を読み返していて分かっている。以前に都銀の担当に、 「借りた金は、返すな!」という読書感想文を書いたのを読まれ、貸し剥がしをされかけた事があった。その上に、いわれのない? 数百万を強奪?されたことがあった。 それなりに、書き、表現していると周囲に波を立てることになる。しかし、その蓄積が、 このような節目どきに、安定した心を保つことが出来る。その時に、書く内容に力を落としたら、その分だけ心に違和感が出てくる。 先月末を持って、数ヶ月、節目ということで、休もうとした。しかし、あと一月で、まる10年に辿りつくまで書くことにした。 結果からして、心を乱さないためには、休まないのが正解であった。 で、・・・ 2005年04月11日(月) 1469, 負い方ひとつで、重荷も軽い ・・・・・・・ 3303, 人みな骨になるならば ー10 2010年04月11日(日) * 死の不安の克服は可能か ー まずは、その部分の抜粋 ー 老いゆく日々はまた死の不安に対する対処の日々でもある。その圧力があまりに大きいため、われわれはそれと正面切って 対決するよりは、なにかで紛らせてしまおうとする。人生前半は若さや時間をもてあますあまり何かで紛らせようとするが、 人生後半になると若さや残された時間の急速な目減りを直視しないために何かで紛らせる必要が生じる。 不安や恐怖に対して、 そこから目を逸らせて別の関心事で紛らせることは必ずしも悪い料簡ではない。何かで紛らせるのが下手な人物のほとんどは 中高年期以後に精神障害に陥るように思われる。つまり、何かで紛らせそこねたとしても、自らの死や限界を直視したり 対決したりできるものではなく、ただノイローゼになるだけなのだとしたら、死の直前まで俗世間のことで紛らせ続けるほうが はるかにましな選択かもしれない。ある意味で病気というのが紛らせる工夫として最後の手段なのであろう。少なくとも、 病気はそこからの回復という一時の目的を用意してくれる。 ただ、ノイローゼになろうが、別の何かで紛らせ続けようが、 最後の時が近づいている事実を変ることはない。猛獣にねらわれた駝鳥が逃げあぐねて、砂の中に頭をもぐりこませたとしても、 猛獣そのものが消えてなくなるわけではないのだ。 俗世において最低限の衣食住を確保すること以上の関心や活動の全ては、 死や滅亡しないで済ませる工夫でもあり得る。 仕事も趣味も健康法も孫の世謡も老入クラブもゲートも、いやい老人向けのもの ばかりで無い。あらゆる交際、作業、訓練、試合、家事、育児、創作、旅行、遊興、その他、ありとあらゆる実務と余技と行楽が 空虚を埋めてくれるレパートリーなのである。 与えられた時間の中身を埋めていく営みを、交流分析の祖、E.バーンは 「時間の構造化」と名づけた。確かに、われわれは無構造な時間、中身のない時間を過ごすのに適した脳を進化させてはいない。 ・・(中略)恐らく人間は、ただ死を待っている例外的な状態か、それを忘れるために俗事に忙殺されている通常の状態かの いずれしか許されていない。・・われわれのできる最大限の抵抗は、せいぜい「生まれる前なることが、それほど恐れる べきことか」と自他に問いかけることぐらいだろう。・・・・(中略)それがしの不安を宥めるために思いつかれたか どうかはさだけではないが、祖先や供養や崇拝もわれわれにとって捨てがたいことである。・・もちろん、われわれは 多くの祖先に負っている。祖先がどこかで安らんでいると思えば心安んじることができるし、なによりも、わたしたちが、 そこで安んじることができる。しかし、ああ哀しいかな現代のわれわれは、草葉の陰も、煉獄も、もはや信じていないのである。 ▼ あまりにも虚無的な内容だが、そんなものかもしれない、特に目を逸らしてきた人は。60代までは、後ろから迫ってくるが、 70歳代に入ると前方より迫ってくる感覚になるという。 病気でさえ、それから回復という目標としての気を紛らわせる 手段でしかないとは・・・ 死は本人にとっては、無だから、そんな存在しないことに恐れることはない!とはいえ、 そういかないのが、言葉を持ってしまった人間の宿命。 だから、天国のイメージを永年つくっておく必要があるから 宗教が最後のよりどころということか。 最後のレッスン=学習と思っても、身近な人の苦痛と苦悩の極みを見ているから、 一日一日を精一杯生きることしか、紛らわせることができないのだろう。 知ること、新しい経験をすること、愛すること、 楽しむこと、等々、時間の構造化(一週間の予定を立てて入れていく)をすること位しか無いのだろう。気を紛らわせるために。 ・・・・・・・・ 2928,中沢新一の『三位一体モデル』 −7 2009年04月11日(土) それでは、実際の演習をしてみる。 ー「会社役員」ー 子=会社役員 父=変化する社会変化、その変化に関わるニーズの変化、市場の変化そのもの。 会社の理念、そして「あるべき姿」を把握。精霊=会社の現状、そして父の姿を反映しているか? ということになるが、何か書きながら赤面してしまうから、・・・ ー設計事務所ー 子=設計事務所 親=会社の理念、創業者の積み重ねた信用、長年積み重ねてきたノウハウと実績。 社会の変化と、新しい技術、そして 精霊(自己増殖するもの)=設計で完成した建物。地域社会との繋がりと貢献。 ーソフトハウスー 子=ソフトハウス 親=ニーズとされる人材の確保と、 〜〜 ー保険事務所ー 子=保険事務所 親=万一の危険に対する対応のニーズ。 危険を金で分散をしておくノウハウ 精霊=得意先のニーズの充足。 顧客。 金融商品。 こんなものだが、自分の名前を「子」に入れてみようか?ドッキとするだろうが。 ・・・・・・・・・・ 2564, サルも朝日の美しさに感動する! −1 2008年04月11日(金) 以前、旅番組で猿が二匹で夕陽が沈むところを眺めている姿を後ろから映していたが、いやに、その画面が目に焼きついている。 猿も日没の美しさに心打たれるのだろうか。それは感動という心の働きではないだろうか?それを猿が持っている?等を考えた。 しかし、同じような姿を、ユングが見ていたのである。夕陽の入りと、朝日の昇るのを見るのは万国共通のようで、その不思議を 感じていたが、猿も、その美しさに見とれていたのである。 ユングの『自伝』の一節に以下のような印象的な言葉である。 まずは、その一節を書き写してみよう。 * ウガンダのナイル河上を、ユングが旅をしていたとき 断崖の上にヒヒたちの群れが東の方にむいて並んで座っている。 その地帯の夜明けは信じがたいほど劇的った。朝日の光が、渓谷の深い闇の底から一切の物の形を浮かび上がらせる。 ヒヒたちはその朝日の最初の瞬間を、身じろぎもせず待っているのだ。そしてその光のドラマを見終ると、ぞろぞろと 台地の向こうに去ってゆく。「光への憧憬、意識に対する憧憬」「原初の暗闇から脱出しようという抑え難い衝動」・・。 * この地方の日の出は、日々新たに私を圧倒する出来事であった。劇的だったのは、地平線上に太陽が急に昇ってきた ときの光輝よりも、それに続いてひき起こることの方にあった。私は夜明け直前に、キャンプ用の椅子を持ち出して、 アカシアの木の下に座る習慣をつけた。私の前には小峡谷の底に、黒い、ほとんど暗緑色のジャングルが細長く横たわり、 谷の反対側にはジャングルの上に聳える台地の外輪があった。 まず、光と闇との対照がくっきりと鋭くなった。 (字数制限のためカット 2010年4月11日) 〜〜〜〜〜〜〜 2007年04月11日(水) 2199, 歌舞伎町シノギの人々 オッ(*^○^*) ハ〜ヨウ ー読書日記ー 新幹線車内・読書用として図書館から借りてきて読み始めたが、これが面白い! (字数制限のためカット 2010年4月11日) ・・・・・・・・ 2006年04月11日(火) 1834, 壁際の名言−2 才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*) ー読書日記ー 唐沢俊一著の「壁際の名言」が面白い!この本は、「まえがき」と「あとがき」を読むだけでも充分に価値がある。 老詐欺師の「内面なんで 見かけだけだもの」の一言が目に付いて図書館から借りてきた。内容は馬鹿馬鹿しい?が、シビアで 現実感がある。少し(15分)時間がかかったが「あとがき」を書き写してみた。自分の経験と照らして、この文章を味わうとよい。 ーあとがきーの文章がよい! 老詐欺師は私のおだてに乗って、自分の若いときの女性遍歴を話し始めた。今は詐欺師に身をおとしているが、 京都のしかるべき家の出であることを本当らしく、大正時代の上流家庭の子女を篭絡させていった手管や失敗談は、 一冊の本にしたいほど、スリリングで抱腹絶倒させた。 そして彼は私の周りをウロチョロして、一円の金もとれずに消えてしまった。 ・・・ それらの話も終盤にかかった時、私は彼に、「・・・結局女性の、どんなところがいいと思っているのですか?」 と聞いてみた。すると、彼はうつむいて考えていたが、やがて「・・・やっぱし、美しさだね」と言った。 「それは・・・顔の?それとも、内面の?」と私。「顔だよ。顔。それしかないよ」「内面とかはどうでもいいと?」 「・・君はね、まだ若いね。いいかい、内面の美しさなんて、見せかけにすぎないんだよ」 逆説なのか、それとも単なる言葉の言い違いかもしれないが、「内面なんてみせかけだもの」という言葉のインパクトは、 ずっと私の心に残った。それから十数年の間に、私もかなり、様ざまな女性と付き合った。(もちろん、仕事上である) そして、最も仕事上で酷い目にあったのが、心が純粋で、内面が美しく、それのみを自分の価値観として生きていて、 ビジネス的な話が理解できないところか私に内面の美しさを要求し、つまり金などという汚らしいことを云々するな、 と強要し、こちらはホトホト困窮した。一方、外面〜顔〜の美しい女性は、世間に対する見栄を大事にして、 此方がわ(芸能プロダクション)が要求しているのは顔の綺麗さだけだということを理解して、 プロの論理できちんと応えてくれた。その度に、あの老詐欺師の言葉が、フラッシュバックしたものである。 ー 以上であるが、これは美人論でもある。女の職場を渡り歩いてきて色いろな経験をしてきて、著者の言いたい一部分は 理解できる。美人は部下として使いやすい?という現実がある。 (字数制限のためカット 2012年4月11日)
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2014年04月10日(木)
「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) * 「怠」―「1日四時間労働」の夢 「怠」肯定の論など、それもラッセルというから、驚いた。 ーまずはその辺りからー 《 英国の哲学者であり数学者であったバートランド.ラッセルは、一九三二年『怠惰への讃歌』という論文を雑誌に発表。 怠けることは「いいことなのだ」といえば、昔はむろん、いまでもかなりの反発を買うことになるだろう。お前は怠け者の 味方をするのか、この世に怠け者が横行すればマジメに働くものは損をする、働くことをおろそかにする世の中なんか おしまいだ、などなど非難のツブテはつきないだろう。 怠けることは大切なことだと主張したラッセルでさえ、「何もしないで怠けているものには、悪魔がいたずらをする」 という子どものころに聞いた格言を紹介し、怠けることを恐れるあまり、いままで一生懸命に働きつづけてきたと回想する。 それでもなお、ラッセルは「仕事はよいものだ」という信念こそ、恐ろしく多くの害をひきおこしていると主張する。 ラッセルはなぜ「仕事はよいものだ」という世問一般の常識を批判し、「怠惰はよいものひぽだ」という主張をしたのか。 人びとが生きるうえで大切なのは、「閑」である、という思いがラッセルの主張の根幹にある。 勤労は神聖であり、働くことはすばらしいものだという考え方は、支配者、富裕階級が、働くものにそう思いこませる ためにいいつづけ、その企みが一般にもひろまったとラッセルは考える。 少数の特権階級は、他人の労働のおかげでたくさんの閑な時間を享受している。自分たちの快適な閑を守るためにも、 特権階級は働く人に向かい、「働くことは大事なこと」といいつづけてきた。 「私が本当に腹からいいたいことは、仕事そのものは立派なものだという信念が、多くの害毒をこの世にもたらしている ということと、幸福と繁栄に至る道は、組織的に仕事を減らしていくにあるということである」と、ラッセルは書いている。 文明が起こってから産業革命まで、人ぴとはせっせと働いてきた。妻も、働ける年齢になった子ども働いてきた。 しかし、最低の生活支える分しか手元には残らず、食料は支配者階級が管理した。飢饉のときは、余剰物資は支配階級の 管理下にあり、多くの労働者は餓死した。労働者たちは、十分な閑をもつどころではない貧しい暮らしをつづけいた。 》 ▼ 「人生で最も大切なことに縁が無くなるのは、暇な時間が無いため」と、ラッセルが指摘する。 私の選んだ事業は 装置産業だった。 当たりさえすれば、当分は何もしないで済む時間が、褒美として差し出される。 当初は、戸惑い、 暇を持て余し次の設置に取組んで、最後は、過剰投資でダウンした。しかし、その間の膨大の時間は、何ものにも 代えがたい贈物であった。 冷静に考えれば、長期装置産業など、この激変の時代に、そぐわないが、後悔が少ないのは、 膨大の「怠」の時間を得ていたため。これは当事者でなければ理解できない実感。そのため、解放された現在、肩に羽が はえ、空中を飛んでいる感覚がある。いずれも、同じでしかない、ということ。 生きるのは、辛く、哀しく、面白く、 滑稽な、ことである。 立場が変われば、見方も変わる、ということ! 振返ると、挫折して呆然としていた時に、 人生で一番、必要なことをしていた。 聖書を読んだり、講演を聞きに行ったり、旅をしたり、溢れる言葉の整理とか・・ ・・・・・・ 4407, 閑話小題 ー自転車の修理 2013年04月10日(水) * 自転車の修理 一昨日はチャリのパンク。で、何時もの自転車屋に持っていくと、オヤジさん、転んで左手を骨折で修理が出来ないという。 「手伝うので直してほしい」と言うと、しぶしぶ納得。 そこで思ったのが、自分でも可能でないかということ。 「こんど泊り込みでサイクリングに出たいがパンクが不安。で、見ていて私でも直せそう」というと、「問題は修理道具だが、 二本の専用ヘラがあれば、タイヤ外しと装着が手軽に出来る。HCにはパンク部分はゴムのノリ付シールがついたパンク修理 セットが売られている」という。一寸した靴の修理と同じである。 靴も自転車も専門家が直すもの、というバイアスが かかっているだけのこと。それか千二百円を割り切って払うか? 次回、考えてみようか! * 絆とは 絆は家畜などをつなぎとめる綱の意味。 言葉の通じない人間と家畜が、互いに生きていくため、鼻や首につけられる綱が 転じて義理や人情の喩えになった。互いが、その綱だけで繋がっている危うい関係をいう。そのため、震災での助け合いの 繋がりに使うのに無理がある。阿部首相が米国との絆を強調したが、毎日新聞に「日本は米国の家畜と受け止められる」と 批判されたのも、記憶に新しい。絆という言葉に何か危うさ弱さを感じるのは私だけでないはず。とはいえ、身内や自宅や 共同体を失って路頭に迷った時、頼れるのは親戚縁者と共同体の繋がりしかないのも事実。いまだ避難民が20万世帯もいると 思うと、「絆の批判」など、とんでもないこと。 人と人の間で生きているから、人間。その繋がりが絆ということか。 * ネットラジオ 書斎コーナーのBGMはネットラジオを聴いている。iTunesで、世界中の千局のテーマ別スタジオから音楽を聴ける。 思いもよらぬ曲が次々と飛び込んでくるが、これが新鮮で良い。人は、思いもよらぬ仮想の中で気持ちが解放される。 それは未知の音楽の中に近道があるようだ。こういう音楽を気楽に聴けるようになったのは、バイアスがとれてきたため。 ジャズ、ソウル、カントリーなどジャンル別だったり、70、80、90年代のヒット曲別だったり、分類も豊富。 音楽好きだったら、たまらないはず。少し目をネット上に向けると、こういうのが無制限に手に入れることが出来る時代、 それを如何に楽しめるかどうか? そのためには若い人の間に居ないと。 バイアスが外れる度、外は広く、内は深くなる! ・・・・・・ 4033, シングルイン、31年間の総括 ー9 2012年04月10日(火) * つれづれに ー9割がた終了 抵当に入っていた自宅は家内が買い取ることになり、新潟駅前の物件5つを加え、すべて決着。 弁護士曰く、「あれから一年、世の中はグチャグチャ。 この環境下、見切り千両というより、見切り万両といってよい。 これだけの物件で金融関係が全く異議をいってこないのは、初めて。」 という訳で、9割方終了という。 一瞬早い決断は、 問題を数分の一にしてしまう。あとは個人保証債権をサービッサーと交渉して家内が買いとるか、破産するか一年がかりになる。 これが残りの一割。 「この時世の中、全ての物件が一年で処分できたことに逆に銀行に感謝された!」と弁護士。 これで現時点で、絵に描いたような撤収。 これも一連の事業の範疇。 経理担当OOさんの管理が完璧だったことが背後にある。 夜逃げ、首吊りか、合理的撤収になるかは一瞬の決断の間合い。 それでも心の傷が癒えるに数年はかかる。これは、 時間の経過と、問題の中心点に気持ちを集中し続けるしか、解決はできない。多くの要素が絡んだ原因と結果でもあるからだ。 一度、社会から身をひくと、経済と社会の流れに鈍感になる。 表立ってないが、深く景気の悪化が進んでいるようだ。 起こってしまった東北大震災と、今後予測される大震災を、連日マスコミで流されれば、住宅関連、車、家電など買う気がなくなる。 その中で運良く全ての物件が売れてくれた。 ホテルの装置は稼働していないと、内臓(ボイラー、配管)が時間とともに腐り、 買い手がいなくなる。 最悪の場合、建物撤去が必要になり、価値が更に暴落することを銀行は知っている。その結果、個人保証に 厳しい姿勢になる。 破産をすれば、それで終わるが、拗れると個人破産にも異議が出る。しかし生きたままの債権移動は、買い手も、 銀行も、債務者も良い、「三方両得」になる。 目安が3〜5年先と思っていたので、歴史的異常時の中、有難い結果である。 ・・・・・・・ 3667, 節目どきに ー2 2011年04月10日(日) 今回の ? を当事者の目線で現状分析すると、 ・ 9・11、9・15、の経済震災と、3・11の自然震災の直撃で、事業としての立ち居地が悪かったこと! 五割が、これ。 ・ 三割がネットなど情報化の影響が直撃、そこにビジネス客の首都圏より二時間圏内の日帰りの徹底が 地方都市駅前ホテルを衰退を招いたこと。グローバル化で、特に、この10年地方経済が衰退したことがある。 ・ 最後の二割が、鉄とセメントの装置産業で身動きが取れなかったことと、部屋在庫を多く持ちすぎたことである。 ・ さらに当方として30年という事業年齢の満期にきたこともある。 これらを読めなかった能力不足が全てといえば、その通り。 しかし、(これを読めというのか?)という内なる声。 結果からすれば、創業後10年辺りの最盛期に事業転換をすべきだったが、これはあと講釈。 この3つの経済震災と自然震災の結果について、震災は震災として割り切るしかない。その辺の、したり顔の下司講釈など・・ 宮城の震災地の真っ只中で、「こんなところで事業をしている御前が悪い」とか言う輩はいないが(いや何は何処にもいるか?)、 経済震災になると、その辺の類推がでない人が大部分だろう・・・。 今回の災害そのものを大地震とすると、恐慌という 大津波が何波も、もう、そこにきているのに、情報コントロール下のため?か、大部分の国民は、分かってない? 今年は2012年の前年である。この三年は10〜20メートル・クラスの経済破壊の大津波と、放射能汚染などのパニックが 起こってくる。 たとえとして、ソ連解体直後のロシアの大混乱?や、中国の文化大革命(推定3〜7千万人の??) に匹敵する混乱を日本に想定すればイメージがわいてくる。 リーマンショックが日本経済を直撃している最中に、 日本史、いや世界史に残る、大震災に直面するとは! 東日本のリゾートホテル・旅館は、客が5分の1、10分の1という。 長岡の奥座敷といわれるホテル街は、ほぼ客がゼロとか。 中越地震で立ち直りかけた矢先に豪雪と、これ。 青色吐息でなく、 黒色吐息。 それにしても、原発事故の行方がサッパリみえない暗い日日が続く。このままでは経済の先行きは真っ暗。 この原発事故の汚染が、このまま収まるとは思えない。 農業、漁業、土木、建設、第三次、第四次産業も、 輸出産業など、どれをみても・・・。 どうなるのだろうか? 何をかいても曳かれし者の戯言 か、これは。 ・・・・・・・ 3302, ブログ向けビデオカメラ 2010年04月10日(土) 新聞で、ブログ用に特化したデジカメを二種類を比較対照した記事があった。発売当初から両方とも興味があったので早速、 近くの家電量販店に行ってみた。たまたま、真剣に見ていたためだろう、女店員が来て詳しく説明をしてくれが、なるほど 実物は思ったよりズット良かった。衝動買いは必ず後悔することを経験上知っているので、パンフレットだけを貰ってきた。 ネットで調べて迷ったあげく、結局はアマゾンで買ってしまった。 ヨドバシカメラの値段より、25パーセントはやすい。 16GBのSDカードを別口に注文をして3万1千である。ちなみにヨドバシは、カード込みで4万弱だった。 一方のソニーのものと最後まで迷ったが、5千円高い方の、これにした。 シンプルだが、非常に使いかってがよい。 5年前なら軽く20万はしただろう。デジカメとして800万画素もあるので、デジカメにビデオが付いているという感覚である。 (字数制限のためカット 2012年4月10日) ・・・・・・・・ 2927,中沢新一の『三位一体モデル』 −6 2009年04月10日(金) *「三位一体モデル」を使った演習 ー � 「三位一体モデル」を実際の知人の仕事を当てはめて演習をしてみたが、考えさせられる。 実際に丸を重ね合わせて三つ書いて、その一つの「子」の円に、職業を書き込んで、次ぎに「父」、そして「子」の順に 書き込んでいく。 それが、なかなか面白いのである。 その前に、我われの生存ベースである幻想としての 「国家」、「国民」、そして「家族」から考えてみる。 * まずはー「国家」ーから 子= 国家 親= 国家成り立ちの神話 日本なら「天皇神話」から、これまでの歴史と、これからの方向を示す羅針盤。 精霊= 文化、文明(国家としての教養)。国民と、その民度。国家としての政治・経済・軍事力・警察力。 * 次に、ー「国民」ー 子= 国民 親= 国家憲法、法律、それを維持する暴力装置(対外的には軍隊、対内的に警察)。これに愛国心。 精霊= 公共施設(道路、河川、鉄道、公園、学校 etc)、都市、街、村、故郷、政治家、芸術家、経済力、など・・ * 国家のベースとしてのー「家庭」ーとは 子= 家族 親= 血統、家柄。家訓、家そのもの。 精霊= 子孫、盆暮れの集まり。家族の団欒。家族旅行。 国家は、共同幻想の典型と言われるが、長い歴史に裏付けられた蓄積がある。日本では天皇制度である。 人間の「なすべき基準、価値観のベース」は、国家のために何をすべきかに行き着く。 我われの安全を最後に守るのは国家である。それが軍隊であり、警察という暴力装置である。 現在の憲法は、明らかにアメリカ庇護を前提として作られている。庇護は建前で実態は隷属である。 この憲法である限り、日本は衰退するしかない。右翼みたいなことを言うが、グローバル化になればなるほど、 ベースとしての国家の強固の基盤が必要になる。 無理だろうが・・ つづく ・・・・・・・・・・ 2563, ディープ・スロート 2008年04月10日(木) 『ディープ・スロート 』ー大統領を葬った男 ボブ・ウッドワード著 ゜+.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゜ これも図書館で見つけた本である。これが出版されていたことは知っていたが、買うほどではないと、判断していた。 あまりに奇抜で、生々しいから目をそむけたのだろう。まずは、アマゾンの紹介文からして、面白い。 ー内容 ニクソン大統領を辞任に追い込んだ「ウォーターゲート事件」から33年。新米記者ボブ・ウッドワードに 地下駐車場で極秘情報をリークしていた人物が名乗りを上げた。当時のFBI副長官マーク・フェルトだった。 フェルトが死ぬまで秘密を守り抜く覚悟でいたウッドワードが、その告白を受けて初めて明かす、 フェルトとの出会い、情報源秘匿のエピソード、その後の二人の関係…。 (字数制限のためカット 2010年4月10日) ・・・・・・・・ 2007年04月10日(火) 2198, リーダーシップの旅 才八∋ウ_〆(∀`●) ー読書日記ー 「リーダーシップの旅」ー 見えないものを見る 野田 智義 (著), 野田氏の考えを主として金井氏が聞き手として対談し、まとめたもので、サブタイトルは「見えないものを見る」である。 二人の気持ちが、そのまま現れて解りやすい内容になっている。 *リーダーは、それに相応しい人がリーダーの仕事をするのではなくて初めは、あることをやろうと思い立ち、 自ら一歩踏み出すことがはじまりで、最初からリーダーだったわけではない。あることやり遂げることで初めてリーダーになる。 それは私たち一人一人が、自分の生き方の中に発見するもの、生き様を問うことだ。創業を何度か経験をしてきたので、野田氏の 言わんとするところが、いやというほど解る気がする。ツアーを使った秘境旅行でも、そのつど何処に行くかの選定の筋書きが始まる。 だいたい家内の大反対から始まり、それでは私一人で行くとなり・・その後、家内が従う物語になる。 この難関が一番大変である。周囲の反対で中止というのは、それだけのことでしかない。 :面白そうな部分を抜粋してみる: リーダーシップは「見えないもの」を見る旅だ。 ある人が、「見えないもの」、つまり現在、現実には存在せず、 多くの人がビジョンや理想と呼ぶようなものを見る、もしくは見ようとする。そして、その人は行動を起こす。 世の中ではよく、リーダーはついてくる人(フォロワー)を率いる、リーダーシップはフォロワーを前提とするなどと 言われるが、私はそうは思わない。旅はたった一人で始まる。 フォロワーは旅の途中で現れる。リーダーと出会い、 一緒に旅をする。しかも、この時点で、しばしばリーダーは自分のリーダーシップには気づかない。 見たいものを見、やりたいことをやり、自身が描く目標に向かって歩いているだけで、 自分がリーダーシップを発揮しているとは意識しない。リーダーとフォロワーが、実現したい何かに向かって、 ともに旅という時間と空間を過ごすプロセスで、お互いの共振関係が生じる。 決して、一方的な関係ではなく、相互の影響がそこにはある。その中で、リーダーが見る「見えないもの」が フォロワーにも共感され、いつしかフォロワーの目にも「見えないもの」が見え始める。 そんなリーダーの行動がフォロワーに向けて醸し出す「フェロモン」と、フォロワーがリーダーに感じる賞賛によって、 リーダーシップは結果として成立する。リーダーは、リーダーになろうと思ってなったわけではなく、 「結果として」リーダーに「なる」のだ。 (21〜22ページ) (字数制限のためカット 2012年4月10日) ーー 中年がある時期、立ち止まり、自らの来し方を振り返ることには意味がある。三十代半ばから四十代は「人生の正午」に当たる。 学校を出て働き始めて二十年近くが過ぎ、定年を迎えるまで二十年少しを残している。 十分に経験を積み、現実もそんなに甘くないことは分かっている。 そのぐらいの年齢で、 自分は本当に何を実現したかったのかを考え直す意味は非常に大きいのではないだろうか。(中略) 今なぜ仕事をしているのか、その会社や組織で働くことにどういう意味があるのか、自分のいる場所にとどまり、会社や組織、 社会に対しても貢献できて、そして何より自分が生きいきできる夢とは何なのかを、考えることもできるのではないか。 とどまって挑戦する。精一杯やって、どうしても駄目だったら、別の場所を考え始めればいいのではないだろうか。(161〜162P) (2008/04/09字数の関係でカット) ホンジャ~~ヾ(´ω`)バイバイ
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2014年04月09日(水)
「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) * 「閑」ー逆茂木に囲まれて 森の生活(世俗)を抜け出て、ご隠居(サバンナ)の世界に入った現在が、まさに逆茂木の「閑」の世界である。 閑の字は、門の中の一本の木がある。それが、ぼんやりの世界である。 ーその部分を抜粋し、考えてみるー 《 とげさかもぎ刺のある木の枝をならべて積み、垣にしたものを逆茂木という。トゲトゲの垣を周囲にめぐらせておけば、 「邪魔者はたやすく突破できない。逆茂木の内側では、人はのんびりと過ごすことができるし、閑をたのしむこともできる。 それが閑という字の意味だ。 およそ、そんな意味の文章が『閑適のうたー中華愛諦詩選』の冒頭にあった。・・ だれにも知られていない宿でぼおーっとして過ごすとか、めったに人の来ない尾根道で二時間も三時間もぼんやりした ときをもつとか、そういうのが逆茂木に囲まれた「閑」の状態といいうのだろう。 閑は時間であり、空間である。 それはときに逆茂木の内側という空間を表し、同時に逆茂木の内側に坐りつづける 時間を表す。そして、「閑」と「ぼんやり」は表裏の関係にあるといってもいい。現代人にとっては、隠れ家を逆茂木で 囲むには、それなりの工夫が必要になる。 白居易の詩『閑適の詩』に、こんなくだりがあった。 心足る(みちたる) すなわち 富(とめる)なり 身暇なり(からだひまなり) すなわち貴(とうとき)なり (中略)・・ やがて吉井勇は、こんな歌をうたうようになる。 目を閉ぢて半珈を組みて或る夜半はほのぼのとして涅槃おもふも 苦しみ、楽しみながらたどりついた一つの境地が、この歌にはある。 (中略)・・旅をすること、自然度の高いところに隠ること、日々、散歩をすること、温泉に入ること、閑をもつこと、 独りになること、雑事から解放されたこと、すばらしい土地の人びとに会えたこと、そしてたっぷりとぼんやりする時間に 恵まれたこと、勇は、高知の猪野沢温泉で、そういうぼんやり道の骨子になる部分の実践をしたことになる。 そのよみがえりは偶然のことではなかった。》 ▼ 「せめてミニ書斎を持て!」とは、この閑の独りだけの時空を持て、ということになる。現に、この二m四方の、 この空間は私だけの世界で、BGMが流れ、2台のパソコンからは、欲しい情報、知識の殆どを手に入る。今では、 タブレットなどのモバイルPCという優れものもあり、何処へにも持ち出し可能である。とはいえ、やはり自分の空間も 必要である。雪もとけ、自転車散歩(ポタリング)を再開したが、信濃川の土手の休憩で「ぼんやり」を意識的に 始めたが、これがなかなか良いが、難しい。先を急ぐ気持ちが、勝ってしまい、直ぐに立上がってしまう。木の下や、 ベンチで30分でも一時間でも、小春日和の中、寝転べば良いのが分かっていても、気が競いてしまう。 ・・・・・・ 4406, 大丈夫、なんとかなるさ 2013年04月09日(火) * よい先生、わるい先生 ー「大丈夫、なんとかなるさ」近藤勝重著 より 著者は毎日新聞の論説委員をしており、「文章をうまく書く秘訣」などのレポートを読んだことがある。 「随想は想いを書くもの。その想いを書くとは思い出を書くこと。多くの経験の中で、記憶として残っているのは、 その人にとって大きなインパクトのあったこと、それを書きなさい」という論に、ハッとしたもの。 これは、毎日新聞の夕刊に「しあわせトンボ」に5年前から二年半の間、連載されたエッセー。なかなか味わいがある。 ーまずは、心に響いたものから、取り上げてみる。 ≪ 司馬遼太郎さんが学校嫌いで図書館が好きだったことは有名だ。それは中学一年の英語リーダーで先生にニューヨークの、 地名の意昧を質問したことからはじまる。なんと先生は「地名に意味があるか」と怒声を上げたというのだ。司馬さんは帰り道、 市立図書館に寄ってニューヨークの意味を知る。独学癖がつくようになるそもそもだが、一方で「いい先生につくに越したことは ない」とエッセーで言い添えている。 いい先生というと、アメリカのある学校で数学を教えていた先生の話を思い出す。その先生は数学を教えることが自分の 仕事だと思っていたが、ある日、「私の仕事は子供を教えることである」と思い直す。つまり科目「数学」から科目「子ども」 へのチェンジである。「数学」を教えていれば子どもに完全な答えを求める。しかし「子ども」を教えるのだとなると、 それは最終の目標ではなくなる。 やがで子どもたちも変わってきて、成績がぐんぐん伸びたエディという子はこう答える。 「先生に習うようになっでから、自分が好きになったんです」 「こころのチキンスープ」で知った話だが、・・・ ≫ ▼ 「数学を教えるのではなく、子供を教えるのが仕事」は、さすが。 この随想日記、「自分のために、同調したこと、 心に響いたこと、記憶に残したいことなどの雑記帳・記録帳」と割り切っている。 忘却のためのメモ帳ということ。 そう割り切ってしまえば恥も外聞も何もない。「偉そうなことを書いている割に全然、成長の跡などみえないじゃないか」 と言われれば、「全く、その通り!」である。未来の自分は、現在、そして過去の自分の子供と想定。 その子供のために 書き残すと思えば、逆に手が抜けなくなる。「未来の自分は、現在と、過去の子供」という言葉、我ながら言い得て妙。 とすると、過去の自分は現在の親になる。あまり良い父親ではない? まあ、いい、この子(私)を見れば、仕方がない! ・・・・・・ 4032, 「人生の知恵」ノート ー4 2012年04月09日(月) ー 人生を成功に導く言葉ノートより ー * 先延ばしは命どり 「仕事で失敗する理由で一番多いのが先延ばし。一度やりはじめれば意外と簡単に片付く。とにかく先取りで問題を解決すること。 * 尊敬など、されようと思うな 孤高の姿が敬意を呼ぶ。無理に尊敬されようとしないこと。 * ツキを見極める 新しい事を始めるときは、運の風向きに敏感になり、好機を待つ間に準備を進めよう。 * 引き際を見極める 勇敢な攻撃と同時に退くこともたたえれるべき。引き際のタイミングが大事。幸運の女神は、 その頂点が高いほど、期間が短くなる。 絶頂期を見定めたら、引き際を考えるべきだ。 * 欠点を直すこと 人は他人の欠点を見逃さない。あなたの実力を点検した上で、欠点だけに注目し、悪し様に言い立て、他の長所をかすませる。 * 二回目の挑戦を必ずする 一度失敗しても、必ず二回目の挑戦をすること。一回目の失敗を取り戻せる。成功より失敗の方が多いが、 二回目に成功する確率は一回目より遥かに高い。多くの挑戦は二回目に成功が多いという真理を知っておくべきだ。 * 現実的に生きるべし 賢者は思ったふうに生きられないとしても、できる限りのことをする。運命が与えてくれないものを惜しむのをやめ、 運命が与えてくれたものを大切にすべきだ。現実が理想を支えることを知ろう。現実の土台が弱ければ、理想は単なる重石となる。 未来の理想の自分を明確にしたうえで、現在すべきことを確実に実行する。賢人は現実で未来をコントロールする術を知っている。 * 忘れるべきは忘れる 「人が一番良く覚えているのは、忘れた方がいいことである。」嫌な記憶は楽しい思い出で吹き飛ばせばよい。反省をしたら、次へ。 ▼ 引き際は、最も大事な決断。最高値の引き際は無理だったが、最後の最後は断崖絶壁での引き際。 いや、どうだか? ・・・・・・・ 3666, 節目どきに 2011年04月09日(土) 先月末から一週間、この30年来と違った生活に入った。リタイアになる。 以前も、そうだったが、それまでの生活と 全く変わってしまったが、抵抗感はない。 肩の荷がおりたためか、何か地から浮いているような、ふわふわした気分である、 独りになったためか縛りがなくなり、まずは足が軽くなり、直感的に新しい習慣つくりを始めている自分に驚いている。 30年前、40数年前の自分に戻ってしまったようである。 装置産業の装置に縛られていた、それからの開放ということか。 今は興奮状態だが、2〜3ヶ月たつと「より戻し」がくるようだ。 問題は、これまでのエネルギーを、どの方向に向けるかである。 同じ一日なら、充実した時間を過ごさないと! で、イメージとして ・市営の福祉センター1Fにあるスポーツジムと、初心者向けのスポーツジムに入会。 平日、この二つを隔日に使い分ける。 ・これまで通り図書館通いと、信濃川沿岸の早朝のサイクリングとウォーキング。 さらに月に一回のシネマの通いと、 月1〜2度、居酒屋でクダをまく?。 更に、これから探すが、何かのカルチャー・センター通い。 その立場にたつと、新しい世界が開けるもの。 とはいえ、当分は謹慎の身であることは事実。 元もとアウトサイダーを 自認してきたので、こういう切り替えには抵抗感がない。 それと世間様とやらの何は今さらである。 マイナーの方々の暗示にさえ乗らなければ落ち込むことはない。 居間に中村天風本を手元に置いておくか。 ー つづく ・・・・・・・ 3301, 日本経済は死ぬのか 2010年04月09日(金) 先日の週刊現代の新聞広告の見出しを見て、つい買ってしまった。 週刊誌の見出し以上の内容が無いのは知っているが、 それでも何か目新しいことが?と ・・で、あるわけないがジックリ恐慌本を読む機会のない人にはダイジェストとして丁度良い。 その中で、野口悠紀雄が、「もはや日本経済は死に近づきあることは間違いありません。まず、日本経済の落ち込みの原因を 「米国の金融危機」と考えていますが、それは正しくありません。悪化原因は米国にあるのではなく、極端に外需に依存してきた 日本の産業構造にある。戦後最長といわれた2002年から08年の日本の好景気は、米国のバブルに乗ったものです。米国の住宅価格の バブルによって、結果として日本の輸出が伸びたという現象が起こっていたのです。当時の米国では3パーの物価が上昇していたが、 日本では0パーセントことが円安に拍車をかけていた。・・そのバブルが弾けてしまったのだから2002年前の水準に戻るのが当然。 数字で言えばピーク時の07年度に対し輸出で20パーセント、GDPで10パーセント減になる。09年の2月の輸出額は3兆5300億、 これは1984年度3月と、殆んど同じ。 この事態に、政府はエコポイントで家電や自動車などの購入を支援している。 これは今の製造業が、政府の支援にしがみついて生きている状態である。これも期間が終了をした時には反動として跳ね返ってくる。 それは時限爆弾になる。 日本の潜在的失業率は14パーセントというが、これが打ち切られれば、失業率が10パーセントを越える 可能性が高くなる」等々、刺激的内容である。彼の著書「世界経済危機ー日本の罪と罰」をダイジェストとし述べているといってよい。 欧米の失業率が10パーセントに対し、これだけ悪化している日本が5パーセントは、明らかに変である。それが一挙に二倍、 三倍になると、どうなるか考えただけで恐ろしくなる。 他人事では決してない。まだ日本の消費税を5パーセントに抑えてあるから、 少しは救いがある。これが、既に欧州並みの20パーセントで、これだけの赤字なら救いがない。 したがって早めに政界再編成をして、 消費税のアップが必要である。ただし国民を納得する上にも国会議員、地方議員も定数を半数か、三分の二にしなくてはならない。 スマトラ沖地震の津波の映像で、向うから大津波が来ているのに、浜辺で海水浴をしている観光客を思い浮かぶが。 ・・・・・・・ 2926,中沢新一の『三位一体モデル』 −5 2009年04月09日(木) 『三位一体モデル』中沢新一著 −読書日記 *「三位一体モデル」を読んだ人たちの座談会 それぞれの職業の立場で考え出した三位一体モデルの事例が面白い。これからみても思考モデルとして充分に使える。 私の思考法として利用しているのが、この随想日記である。 テーマ選定から始まり、それを起承転結にまとめあげる、 そのプロセスで頭の中を整理していく。第三者から見れば、私の脳の中が少しは見ることができるのだから面白いだろう。 =その事例から= ー広告代理店の勤務ー 「精霊(代理店)」と、「子(お得意先の企業)」は、一緒になって、見えにくくなった「父(理念)」を 探しにいく旅に出るということでしょうか。 父は「企業の社会的価値」と理解できる。 ー中学校の教師ー 自分(教師)を「子」とすると、父が「法則」「原理」「先人の知恵」。 そうすると、まずは<成功や幸福という概念>が「父」だと思われます。 分かりやすくいうと予備校の教師群こそが「精霊」なのです。 資本主義社会では予備校こそ一番分かりやすい「三位一体モデル」です。 ー音楽業界にいるものー 先ず「子」として、音楽家とする。そして私たちは音楽産業を「精霊」の場所とする。 父の部分を逆算して「歌われるべきもの=神の意思」と。この原型になるのに教会音楽がある。 神の思し召しを、バッハが音楽を通して地上の民に伝えてくれる。それを伝える場所が教会であった。 ースポーツ業界にいるものー ルールが父なんです。見えないけど絶対の「神」です。「子」が選手です。 「霊」の中には、「競技場」とも「観客席」ともいいし、「テレビ」でもいいと思います。 いっそ、「スポーツ業界」ともいえる。いまの時代に、もっとも考えられているのが、この部分です。 一番のポイントは、装置化した「霊」の部分が、「子」の材料を探してくることです。 スポーツでは、三位一体は考えやすいのです。何しろ「父」が確固として存在しているからです。 ー料理人ー レストランでは、前から「三位一体」を「味」「料理」「ムード」といってました。。 今回の、この「三位一体」を読んだことで、「美味しい幸せ」が父。 それを作り出すのが「料理人」というのが「子」。そして、「お店とムード」が「霊」に変わりました。 ―― スポーツ業界のルールが親には驚いた。コーチとか、父親・母親ならわかるが。 次は、身近な知人の職業を『三位一体モデル』で演習をしてみる。 ・・・・・・・・・ 2562, ドル覇権の崩壊 -1 2008年04月09日(水) 図書館で借りてきた本だが、この本が出版されたのが、去年の7月の末である。 それから半年もしないうちにアメリカのサブプライムの問題が表面化をして、この本の大筋のとおりになってしまった。 かなり刺激的な言葉に満ちているが、サブプライム問題で株とドルの暴落を目の当たりにすると、納得するしかない。 この著者の本は何度か買って読んだが、何時も刺激的・悲観的な内容で一貫している。 そして、指摘しているほどの事態に世界はならなかった。しかし、この本に関する限りアメリカのサブプライムが 表面化したために、決して悲観過ぎではなかった。 この一連の金融危機、考えれば考えるほど、 恐ろしい近未来が待ち受けているようだ。 年々ジワジワと悪くなっているのが身に沁みる。どうなるのだろうか? まずは、この本の表紙裏の 「説明文」と 目次を コピーしてみる。 これだけで、この本の半分以上の要旨が書いてあると言って過言ではない。 ーー 「ドル覇権の崩壊」?静かに恐慌化する世界 副島隆彦著 ー背表紙裏の説明文 ドル暴落を見越した資産逃避(キャピタル・フライト)が始まった 2007年5月からの「三角合併方式」での日本企業への買収の真実は"ドルの逃避"である。 日本企業をただ単に乗っ取ることよりも、真の動機は、ドル資産の保全、ドル暴落からの避難、外貨建て資産でのリスクヘッジ という考えに変わりつつある。日本の大企業を買収する利益は、チョップ・ショップ方式による、荒っぽい 自動車泥棒・解体屋の手法ではなくて、これからは、アメリカ本国からの資産逃避(キャピタルフライトである。 ー 目次 ー (字数の関係でカット2009年04月09日) ・・・・・・・・・ 2007年04月09日(月) 2197, ファンタジー文学の世界へ ー3 ( ^3)?♪ オハヨウゴザイマス! 「ファンタジー文学の世界へ」 ー読書日記 P-154 「さいはての島へ」(ゲド戦記?) ■目的と存在 ー「ある人生と、する人生」について 第三巻は、壮年になったゲドが王子アレンとともに、世界の均衡を取り戻す旅に出る物語です。 これから本格的に冒険が始まろうとする前夜、ゲドは、以下のようにアレンに語りかけます。 「よくよく考えるんだぞ、アレン、大きな選択に迫られた時には。 まだ若かった頃、わしは‘ある人生’と ‘する人生’のどちらかを選ばなければならなくなった。わしはマスがハエに飛びつくように、ぱっと後者に飛びついた。 だが、わしらは何をしても、その行為のいずれからも自由にはなりえないし、その行為の結果からも自由にはなりえないものだ。 ひとつの行為が次の行為を生み、それが、またつぎを生む。そうなると、わしらは、ごくたまにしか今みたいな 時間が持てなくなる。 一つの行動と次の行動の間の隙間のような「する」ということをやめて、ただ、「ある」という、それだけでいられる時間、あるいは、 自分とは結局のところ、何者なのだろうと考える時間をね。」ここでの「ある人生」とは人間の存在を意味し「する人生」とは 人生の目的を意味する。 人間の全体性を哲学的に分析すれば、この存在と目的という観点は重要な切り口である。抜粋にあるとおり、 若きゲドは「する人生」に飛びついたという。目的は若者の特権としても、目的だけの人生には、常に、危ないものがつきまとう。 目的を持つことと、それを目指す行為とは一体のものだから。目的と行為の一体性には、何ら問題が無いように感じるかも知れない。 しかし、往々にして行為のみに追われだすと、行為という活動に実在感を得て、何もしないことや、何もできないことが自分にとって 否定的に感じてしまう。とにかく「動く」ことのみ専心してしまいがちになる。活動のみに追われて、その意味を考えることが 鬱陶しくなってくる場合が多くなる。先の抜粋の中の『一つの行動と次の行動の間の隙間のような「する」ということをやめて、 ただ「ある」という、それだけでいられる時間、あるいは、自分とは結局のところ、何者なのだろうと考える時間』が大きな意味を持つ。 この休止時間こそ最も大事な時間である。この時間の中で、一に戻って考えることこそ、個々人の心や魂と向き合うことになる。 ・・・・・・・ ゲドも、世界の危機を救うさまざまな冒険を成し遂げ、魔法学院の長である大賢人となるが、本人はそれを喜ばない。 そして曰く「わしのほうは、うむ、いろんなものになった。いちばん最後が、そして、おそらく、いちばんつまらないものが、 この大賢人というやつだ」と。河合隼雄が著書「生と死の接点」の冒頭「ライフサイクル」の中で、人生の「後半の問題」を解説する。 ユングがフロイトへの批判をして、「フロイトは人生の前半の問題(自我の確立といった言葉で表される) しか相手にしていない」としている。「人生後半の問題とは、自分なりのコスモロジーを完成させることである。
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2014年04月08日(火)
「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) * 「独」―独りでいること ーぼんやり道 「ぼんやりの時間」は独りでいる時である。人間は生まれてくるときも、死ぬときも独り。宇宙の一点に独りおかれた 存在で、その背後には暗黒が無限に広がっている。だから、自分という存在と、親しい人の存在が大事である。 ー以下の部分に納得するー 《 アン・モロウ・リンドバーグは1955年に『海からの贈りもの』を刊行している。この本には、多くの心に残る言葉がある。 たとえば「今日、わたしたちは、ひとりになることを恐れるあまり、ひとりになることができなくなっている」という言葉。 いつもだれかとつるんでいたい、群れていたいという習性になじんでくると、人はしだいに「独りになること」が怖くなる。 仲間はずれにされるのが恐ろしくなる。群れてみたからといって、心が満たされるものでもないのだが、独りっきりに なるよりはましだという気持ちになり、人は群れようとする。 A・M・リンドバーグはこうも書いている。 「わたしたちは、ひとりの時間を求めなければならない。ひとりで静かに過ごす時間。ゆっくりと考える時間。祈りの時間。 音楽、読書、そのほか何かの勉強でも、仕事でも、自分を自分の内部に向かわせて、わたしたちを分断しようとする各種の 遠心的な力に抵抗しなければならない。」 なぜ独りになるのか。独りでいることによって、人は「静かに過ごす時間」というものを味わうことができるからだ。 「ゆっくり考える時間しを過ごすことができるし、「自分の内部」に思いを向ける時間をもつことができるからだ。 「空想にふける」時間も生まれる。『孤独の空間に自分の夢の花を咲かせる」ことだってできるのだ。 そして、独りでいることと、ぼんやりすることとはかなり重なっている、と私は思う。・・・ ・・・「寄せては返す波。松林を吹き抜ける風。砂丘をゆったりとはばたきながら飛んでいく都鶏。そんなものが、 あわただしい都会の暮らし、時間割りや計画のざわめきを消してくれる。そうして、ただそこに横になったままのわたしを、 あるがままでいさせてくれる。横になったわたしは、波で平らになった浜辺とひとつになる」。 「ぼんやり道」というものがもしあるとすれば、このあたりの文章はまさに「ぼんやり道の奥義」、といっていいだろう。 ただそこに横になっている。あるがままの自分がそこにいる。・・・ リンドバーグは、さらにこの本で、「孤独の力」といったことについて、重要なことを書いている。 「ひとりでいる時間は、一生のうちでもきわめて重要な時間である。ある種の原動力は、わたしたちがひとりでいる時にだけ 湧いてくる。芸術家は創造するために、作家は考えを深めるために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために、 ひとりにならなければならないことを知っている」 独りでいる。独りでいることで、心安らかにぼんやりすることができる。 ぼんやりしながら、いつか自分の内面と向き合っている。謙虚な気持ちで、内面と向き合っている。・・・ 》 ▼ 午前中の5時間は、ミニ書斎でブログの下書きと、修正、読書、ネットサーフィンのいずれかをしている。 この時間帯は時間感覚が無くなって、完全孤立の壺の中。没頭ないし、ぼんやりの世界という方が正確だろう。 そこで生じた内容を公開していることもあり、日常の生活でも、孤立感とか、孤独感が全くない。 毎夜、4時間の爆睡後、うとうとしたり、夢をみたり、急に頭が冴えわたったり、またぼんやりしている時の漆黒時間帯がある。 この孤独の3時間は、何ともいえぬ味がする。潜在意識と、顕在意識の際が混濁した時間帯で、時空を超えたフラッシュが 現れ出てくるが、決して楽しくない。老いとは、この時間帯の感覚が、昼夜続く孤独な老人になっていくこと。とすると! ・・・・・・ 4405, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −5 2013年04月08日(月) 四時限 宇宙人を目指そう 『隠居大学』 天野祐吉 * 隠居をすると自由になれる ー宇宙人を目指そうー お相手 谷川俊太郎 ここで、「人生はカマボコ形グラフ」とあるが、そうかもしれない。右下がりは以前、還暦だったのだろうが、今は古希か。 体力からみると、私は古希が目安。リタイアーをした後、スポーツジムに連日通いだしてから足腰は寧ろ、強くなってきた。 知能も、バイアスが取れてきた分、これも良くなった?ようだ。とに角、面白い。 ≪ 谷川: うん、それもあるし、ぼくは幼児に戻れるというふうに思っています。われわれ世代は高度成長の時期と 重なっているからか、人生についても右肩上がりのグラフで考えるくせがついていたんですよね。 けれど、やはり母の介護を経て、「老い」ということを身近に考えるようになって、鶴見俊輔さんらがいうような 「人生はカマボコ形グラフ」なんてことが、実感としてすごくよくわかるようになった。ある程度上がったら、 下がっていくのが自然なんですよ。それはさっき言ったように自由になったり、解放されたりすることも含めて。 天野: 下降ということは、嘆くばかりのことではない。 谷川: そう、人間の加齢を考えるとき、樹木の年輪にたとえて考えるのがわかりやすいと思っています。 中心に0歳の自分がいて、一歳、五歳……とだんだん経験とともに年輪が増えていき、いちぽん外側に現在の自分がいる。 だから、どんな年齢の老人のなかにも、0歳や三歳の幼児がいる。これは心理学でもそういう考えがあると思うんです。 そして、働き盛りの中年期を経ったら、今度は積み重ねてきた年輪が一枚一枚、はがれていく。つまり年をとればとるほど、 中にもともといた自分、幼児の自分に戻れるのではないかというのが、持論です。 天野: なるほど。年輪となる厚い木の皮は、たんに経験ではなく、社会的な制約というようなものでもあるんだ。 谷川: 中年期のひとだって、本当は幼児の自分を持っているわけです。そしてその部分は、本当はもっと自由になりたいと いつも思っているはずなんですよ。われわれのように詩を書くような人間は比較的自由に幼児の部分を出せますが、 会社組織のなかにいると、そうもいかないでしょう。だから会社が終わって飲み屋さんに行って、ママさんに甘えるという かたちで幼児性を解放しているんじゃないかと、ぼくはそうにらんでいます。 天野: なるほど(笑)。つまり幼児化、宇宙人化は、もともとできたことが下降したり変質したりするわけではなく、 むしろ、 自然な姿に戻っているということですね。≫ ▼ 「加齢を樹木の年輪にたとえて考えるのがわかりやすい」というのが言いえて妙。一番外の厚い皮が社会的制約、も面白い。 その樹皮を外してやるのが御隠居の第一歩。一度外すと、「遠き日は 年とるごとに 近くなり」になっていく。 振りかえると、してしまった後悔と、しなかった後悔がある。後悔あとに立たず、だが・・ 解放され自由になるのは良いが、 それを楽しめないと重荷になってくる。 私の知る限り3分の2。何故解る?顔に出ているもの。せめて楽しいふりをしたら。 ・・・・・ 4031,「人生の知恵」ノート ー3 2012年04月08日(日) ー 品格と、自分を高める言葉のノートより �◆ � * 人間的側面見せすぎない あまりに人間的と見られれば、軽く見られ尊敬を失う。グラシアンは、「中身が少々足りなくても、重々しい雰囲気を 出せれば尊敬を集めやすい」という。軽々しさは尊敬を失う。人は浅はかな者ほど人をバカにしたがる。バカに隙をみせるな。 * 余計な関わりは最小に 「人に干渉しないだけではダメで、人からも干渉されないこと」が原則。そのために「余計な関わりは最小に」。 * 人との距離を一定に保つ 苦境に陥ったときは同伴者がいることが大きな慰めになる。溺れる人を助けようとして、自分まで溺れることはない。 「星は空高く輝いているからこそ、まばゆい存在。 非凡であるには、節度が必要。なれなれしくしないことだ。 * 賢者ならどうするか? 「幸運を選び、不運を避けよう。不運はたいてい愚かしさの罰として与えられる。どんな小さな災いにもドアを開いてはいけない。 もっと大きな災いが忍び込んでくる。」 判断に迷ったら、賢者ならどうするかを考えよ。 現状を冷静に見ることができ、 的確な選択が可能になる。 これが知識から知恵への転換になる。 これは独りになりきることで可能になる。 * 品格を備える 品格は勇気、分別、賢明さ、王者の威厳にさえ勝る。何かを成し遂げるための近道であり、困難からたやすく逃げる道である。 「品格は言葉や行動の要である。品格がなくては美は精彩を欠き、優しさは形ばかりになる。 ▼ ここまで生きてきて、品性、品格について考えさせらることが多い。家内に何時も「あなたは品がない」と、暗示をかけられていた。 ところが数年前に「国家の品格」とかいう本で「品格」の付いた本がブームになった。「女性の品格」に「品格」の定義があった。 それが思いもよらず、殆どクリアーをしていたが、家内は??。 自主独立、陰口を控える、趣味を持つ、信念の確立の有無などで、 自己の確立が出来ているかが品性の土台との説。一般人は表面的にしか捉えない・・・ それにしても品性のない人が多い。 ・・・・・・・ 3665, 関係性が問題 2011年04月08日(金) カーラジオで「夫婦間のトラブル」について、その道の専門家が「夫婦間の問題は関係性にあって、一方的に相手が良い悪いとか、 自分が良い悪いという問題でない」と論じていたのが、いやに説得力があった。要は相性と、互いの立場のバランスなどの関係に 問題が存在する。 それでは夫婦間の関係性とは、そもそも何か! 二世帯同居の嫁姑の立場とか、マザコン夫とファザコン妻の 組み合わせだったり、長女の嫁と末っ子の夫の関係だったり(これは私になるが・・)色いろある。 互いが相手のマイナスを 見つめあうのでなく、互いの置かれた立場と条件を理解するしか手立てはない。恋人同士の関係は良かったが、夫婦の関係になったら、 破局をするケースが多い。 そして別れたと同時に、関係が良好になって、結婚と離婚を繰り返す芸能人が多く見かけられる。 リズとバートンとか! 無知からくるのだろうが・・ 関係が重なるとネットになっていく。ネットといえば、網目。そ れぞれ結び目で出来ている。その結び目が関係性である。 ー ネットで、関係の意味を調べてみると ー 【関係】1 二つ以上の物事が互いにかかわり合うこと。また、そのかかわり合い。「前後の―から判断する」「事件に―する」 2 あるものが他に対して影響力をもっていること。また、その影響。「気圧の―で耳鳴りがする」「国の将来に―する問題」 3 人と人との間柄。また、縁故。「あの人とはどういう―ですか」「友好―を結ぶ」「父親の―で入社する」 4 男女間の性的交渉。また、それをもつこと。「妻子のある男性と―する」 5 (他の名詞の下に付いて)その方面。そういう領域。「音楽―の仕事」「アウトドア―の雑誌」 ▼ 何ごとも、関係性の中で成立している。 触媒の中でこそ、自己は成立する。 ・・・・・・・ 3300, 平山郁夫の教養世界 2010年04月08日(木) 先日、何気なくTVをまわすと平山郁夫の絵と、彼の原爆体験などの逸話などを取上げていた。 原爆後遺症で一時は死も覚悟したなかで玄奘三蔵をテーマとした『仏教伝来』を描きあげ院展に入選した平山郁夫の作品には 仏教をテーマとしたものが多く、それがインドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の 西と東を結んだシルクロードへとつながっていった。 彼は東京芸大教授、そして学長になるが、何ともいえない風貌に 教養の深さを感じ取ることができる。この番組で、彼の逸話が印象に残った。「ある先生に、人の真似をしないこと、と教わった。 そのためには独自の世界を創り、それを表現すること。独自の世界を創るには、はば広い教養が必要である」と教えられ、痛感。 それから宗教、哲学、歴史など幅広い分野にわたり猛勉強をした。その裏づけがあるから、あのような絵が描けるのである。 この齢になって幅広い教養のベースが、その人なりであると、つくづくと感じ入っているため、尚のこと納得をした。 先日、TVを通して400年前の画家・長谷川等伯の絵を見たが、その中にある幽玄な世界に、等伯の魂を数百年の時空を超えて 感じとれた。絵の中に彼の独自の精神世界が全て込められている。独自の世界をつくり、その世界を表現することが最も重要なこと。 そのために幅広い知性と教養が必要といわれると納得できる。その結果、真・善・美という価値が自然に現れ出ることになる。 経験、そして知性を裏づけとした教養を考えると、何か心寂しい己に寒気がする此の頃である。 良い学校に行き、良い師に出会い、良い友人と語らう中で、教養のベースができるということか。 ・・・・・・・・ 2925, 中沢新一の『三位一体モデル』 −4 2009年04月08日(水) *「三位一体モデル」と「カ・タ・チ・モデル」の相似と違い三位一体のモデルを肯きながら読んでいて、 似ている思考モデルを思い出した。創造工学の故中山正和の創造思考法である。 ・カ= 神の閃き(神のカ)・タ= 田んぼのタで、カタチ取りをする・チ= 道のチ、血のチ、力のチで、エネルギーを注ぐ カタ=カ+タで、型をつくることになる。 カタ+チ=カタにエネルギーを入れて、カタチ(創造)にすること。 何かそっくりだが、彼がこの三位一体モデルから、このヒントを得たかどうかは分からない。 「三位一体モデル」は、父、子、精霊のうち、まずは子の設定をした後に父たる普遍と、増殖する精霊を考えるのが自然である。 しかし、それに対して「カ・タ・チ・モデル」は、カの閃きから、カタ、カタチ、へ発展していく考え方である。 そうすると三位一体の父たる「閃き」を纏めるに、「カ・タ・チ・モデルを使えば良い。 二つの思考法の合体である。 いや、ややこしくなるので類似した思考法があるというだけで良い。 カ=頭、タ=身体、チ=血液(循環器)・エネルギーということか? 思考法として、『起承転結』『カ・タ・チ・モデル』『正反合モデル』『曼荼羅思考法』『雑記ノート書き散らし法』などを メインにしているが、『三位一体モデル』が一つ加わった。次回は、この本の最後にあった、各職業の『三位一体モデル』 の実例を書き出してみる。 その一つだけを、まずは紹介してみる。 ー書籍の出版社ー 私たちの場合は、一冊の本ごとに「三位一体」があるといえます。 作家、作者が「子」であることは分かります。その作家に本を書かせた「動機」が、これが「神」なんです。 書いた人がいて、彼が書いたものがある。それを書かせたものがあるとしたら、それは「父」です。 何しろ、初めに「子」ありきで、一冊ずつ、みんなそうだとしたら、出版社は八百万の神々の集会所のようなもの。 ・・・・・・・ 2561, ウォルト・ディズニーがくれた夢と勇気の言葉 ー2 2008年04月08日(火) 創業のノウハウの全てが、ディズニーの全てに入っている。それが遊びという世界で万人が解りやすいから、 尚のこと心を打つのである。感動、そして共感が一つずつのイベントに入っている。その原点が、チャップリンの凝縮された ミッキーマウスから出発している。ディズニーのの世界は参加型バーチャルであり、夢の世界で幻想を楽しませる。 明るく、光にみちた世界に一時を過ごすのである。 ▼ ひとつ踏み出す、つまり、新しいことをやってみるということは勇気がいるけど、自分を信じて、思いきってやってみよう。 ひとつ踏み出さなくちゃ、何にもはじまらない。 解)その一歩の勇気、それが大きく人生を左右する。 その一歩も裏づけを十二分に持ってないと、逆の結果になってしまう。 ▼「人生の素晴らしい瞬間というのは、自分ひとりのためよりも、愛する者たちのために行ったことに結びついている。」 解)押し付けにならない程度のことだが。 ▼ 実は人々はお互い相違する点よりも共通する点が多いということを、伝えていく。 解)自分の中に、その共通点を見出していくのが教養? ▼ ただ、絶対に忘れてならない。すべてのはじまりが一匹のネズミだったということを。 解)ミッキーマウスが、チャップリンの漫画化ということも? ▼ 我々は何か人をひきつけるものが欲しくて、チャップリンのような切なげな様子を持つ小さなネズミを思いついた。 とにかく精1杯生きているちっちゃなやつ、というような、どこにいても人々がミッキーを見て笑い、共に笑い続けてくれる ことだけを求めた。 特に社会的象徴のような重荷を課したりしなかったし、社会の欲求不満を代弁したり、 痛烈な皮肉をしゃべらせたりしなかった。 ミッキーは人を笑わせる使命を与えられた小さな人格なのだ。 ▼ どこにいても人々がミッキーを見て笑い、共に笑い続けてくれることだけを求めた。 特に社会的象徴のような重荷を課したりしなかったし、社会の欲求不満を代弁したり、 痛烈な皮肉をしゃべらせたりしなかった。ミッキーは人を笑わせる使命を与えられた小さな人格なのだ。 解)笑わす使命を与えられた人格=チャップリン か? 気の毒じゃないか、そういうのは? いや、人に微笑を浮かばせることこそ、人間としての使命ではないだろうか。 ・・・・・・・・ 2007年04月08日(日) 2196, ファンタジー文学の世界へ ー2 オッ(*^○^*)ハ?ヨウ! 「 ファンタジー文学の世界へ」 ー読書日記 ーP57〜58 「シーズ・リーヴィング・ホーム」はビートルズの画期的アルバム『サージャント・ペーパーズ・ロンリーハーツクラブ・バンド』 の挿入歌である。イギリスの教育界では粋なことに、この詩について二年にわたる論争があったという。一方は「この詩は家出を 推奨しているので青少年に与えるべきではない」もう一方は「この詩こそ、現代家庭内の人間関係の疎外感を象徴している」 という肯定的なものである。教育界でこのような論争が起こるということは大変好ましいことである。ここには誰も悪人はいない。 ただ、人間の持つ自立願望(依存対象からの脱皮)に伴う絆(家族以外への愛情転換)にかけようとする一種の成長願望があり、 そこに向かおうとするパッションが、世代間における微妙な心の差異、そこから生じる疎外感の蓄積となっていく。 以下は、その挿入歌の詩を訳したものである。 ーー 「彼女は家を出て行く」(シーズ・リーヴィング・ホーム)ービートルズ 水曜日の午前5時 夜が白み始める頃 そっと寝室のドアを閉める書き切れない思いの残る手紙を残して 階段を下りてキッチンへ向う手にはハンカチを握りしめながら 裏口のドアの鍵を静かに回してみる 外へ出る とうとう自由だ 彼女は (あの子のために何でもやってきたのに) 出て行く(夫婦の生活などは犠牲にしてきたのに) 家を (欲しがるものは何でも買ってあげたのに) 彼女は家を出て行く 一人ぼっちで寂しかった 何年も何年も (さようなら) (字数の関係で中略2012年4月8日)
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2014年04月07日(月)
「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) * 「ぼんやり」と響き合う一文字 ー�� 響き合う一文字で、言葉の意味を考える方法もあるのだ。そして、以下の5文字がよい。 その最初が闇とは・・ 闇は人を思索の世界に誘う。「ぼんやり」とは、闇の世界で迷子になっている状態なのか。 その5文字は 1、「闇」―蛍と星とダークマター 2、「独」―独りでいること 3、「閑」―逆茂木に囲まれて 4、「怠」―「1日4時間労働」の夢 5、「懶」―心の余白 である。 ☆ まずは「闇」から 《 消えてはまた光って飛びつづけている。お前さんは、眠るのを忘れてしまったのか、恋人が見つけられず、そうやって ふらふらしていたのか、いつまで舞いつづけるつもりなのか、とらちもないことを思って見守っているうちに、蛍の光は ふっと消えた。力を出し尽くしてくたびれてしまったのかもしれないし、劇的なめぐりあいがあったのかもしれない・・・ 崖の上に何本かの椎の木が闇につつまれている。その梢の間に光るものがあり、一瞬、それもまた蛍かと思ったが、星だった。 蛍の光とは違って、星の光はずっと小さく、冷たい感じだった。 夜空の闇の広さを見ながら、宇宙ではやはり闇が主役なのだ という思いがわいた。ごく感覚的にいえば、銀河の壮麗さは、澄みきった大気に包まれた闇があってはじめて私たちの視界に 入るのだろうし、月を見る楽しさも透明な闇の濃さに左右されるはずだ。花火の豪華けん麗さをひきたてるのも真の闇で、 真の闇を失えぱ、花火はいくら塀を競っても人をひきつけない。蛍だって、闇があるからこそ光を放つことの意味が出てくる。 夜の景色の基調は、なんといっても闇なのだ。 ・・ いや、本音をいえば、私は光より闇、陽より陰、実よりも虚、 緊より緩、作為より無為、色よりも空などが、よほど、この世の仕組みをつくっているのに大切な役割を果たしているはずと 思っている。・・・ 》 ▼ ここで、宇宙を支配しているダークマター、ダークエネルギーを引合にだし、宇宙を本当の主役は暗黒物質とその エネルギーとして、考えると闇の大切が、人生論で「ぼんやりのたいせつさが」が、重なりみえてくる。そうである、 もっともっとボ〜っとするべきである。 ・・・・・・ 4404, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −4 2013年04月07日(日) * 第三時限 いい加減にしなさい ー「隠居大学」天野祐吉、お相手 赤瀬川原平 「遠き日は 年とるごとに 近くなり」 という句があるが、最近、特に感じているのは私だけでないだろう。 御隠居は日々この感慨を持ちながら人生を振りかえ鳥瞰し、残された一日一日を噛み締め味わう楽しみがある。 隠居生活は娑婆(雑多な日常)から隠れることであって、人生からの御隠れではない。起承転結の「転結」を 「転々」に変え、転がりながら最期を迎えること。 それもこれも、どうでもよいこと! ーその辺りを抜粋ー ≪ 天野: 力を抜いて自分をコントロールする上で、老人力は非常に重要な要素じゃないですか。 前回のゲストの外山滋比古さんは、忘れるということがいかに重要かという話をしてくれたんです。 第二の人生で定年まで、一生懸命詰め込んだような知識は、第二の人生で自由に生きるというときには 何の役にも立たない。そんなものは、思いっきりきれいに忘れてしまったほうがいい、というふうに。 赤瀬川: いらないものを捨てたら、キャパが広がりますしね。 天野: そう。頭の容積は決まっているわけだから、サラ地にして、新しい作物をつくりましょうという話をしていただいてね。 そのときにも赤瀬川さんの『老人力』のお話を思い出していたんです。老人は忘れっぽいということで世の中はいけないことの ように思っているけれど、そうではないんだと。たとえば、若い人は失恋なんかしたら大変で、その苦しみや悲しみを忘れる ことができなくていつまでもメソメソ悩む。でも老人は「忘却力」を身につけているから、すぐに忘れてしまうことができる。 赤瀬川: ええ、強い忘却力を持っていますね。 天野: そう、これまでマイナスイメージでしかなかった「忘れっぽさ」をそんな悪いもんじゃない、というふうに書かれていた。 あの本は、ものすごいベストセラーになったけれども、どういうつもりで買ったのでしょうね。老人はまだ社会に役に立つと でも思ったのでしょうね。 実際は違うのに。・・・ ボケたとかモウロクしたのが、老人力がついたとかポジティブに 書かれて悪い気がしないですよね。≫ ▼ 「神様(自然)は、老いの苦悩苦痛を和らげるため、忘却と鈍感さを与えて下さった」という解釈がある。老いて 今さら気ばんでも致しかたがないし、運命に従うしかない。忘却といえば、この随想日記。書き上げアップロードをした瞬間、 内容は勿論、テーマすら綺麗さっぱり忘れて、頭は翌日のテーマと内容になる。直後から次回分の書き直しを始めるからだ。 だから数時間後でも、その文に対し第三者になっている。 この最大の収穫は、過去に書いた同月同日分12年分の文章に出会う ことである。時空を超えた自分に毎朝出会うのも良いもの。また「(自)己の分」の限界も見えてくる。それを第三者に曝す のも自虐だが「所詮こんなもの」という諦観が出来る。「いい加減にしろ、先は短いのだから娑婆気を減らせ」ということ。 ・・・・・・ 4030, 一時停止 ー谷川俊太郎ー自選散文 2012年04月07日(土) 「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010 図書館で借りてきたが、直ぐにアマゾンで購入した。谷川俊太郎の詩集や特集の雑誌を何冊か、読んできた。 その散文集なら面白くないわけがない。谷川の詩も文章も、ストンと心に落ちて振動する。青年期に、谷川の著書を読んでいたら、 人生は変わってはず。 言葉を仕事にしている詩人の書いた文章は、分かりやすい。読み手の目線を常に意識しているためだ。 * 「青年という獣」1957年 ーより ≪・・生きているということと、生活しているということとの相違をもっともてっと早やく云えば、前者を非人間的、後者を 人間的と云って 差しつかいないだろうとぼくは思う。生きるとは、コスモスの中に生きることだが、生活するとは、人間の 社会の中に生きることだ。現代ではこの違いを理解する人は少ない。下手をすると、コスモスなどという言葉は野暮な言葉で、 悪くすると危険な言葉にされかねない。青年は意識的、無意識的にかかわらず、これに抗議する。青年は生きようとするもので あって、生活しようとするものではない。一見如何にソシアルに見える彼の行為も、その意味では本当にソシアルになり得ない ものだとぼくは思う。何故なら、人間以外のものになることを、いやいやながらでもあきらめてこそ、始めて人は人間になれる ものだからだ。人間は生活という唯一の現実によって人間になる。青年は生活以外のすべての夢によって青年になる。 青年は人間である必要はないのだ。彼は自分の夢を喰って生きる位の非人間的な強さをもつていなければならぬ。 倦怠はおそかれはやかれ彼を襲うのだ。その前に彼の肉体がまだ新しいうちに、青年は彼の役割を果さねばならぬ。 ビリイ・ザ・キッドは若かつた。彼は太陽や風や、残酷な青空や、愛らしい女を知つていた。彼はコスモスとその中の生命 とに気づいていた。彼は人間や、その生活などを知りはしなかった。彼が強かつたのはそのためだ。彼は死のもつ非人間的な 意味だけに気づいていた。死のもつ人間的な意味などに気をとられなかつた。彼の手が震えなかつたのはそのためだ。 そのためにこそ、彼は人間としても偉かつた。彼は人間を代表して、コスモスの真只中に立つてひるまなかつた。 彼は人聞を殺すことで、コスモスと戦つたのだ。≫ ▼ 創業は、全く経験のない思い込みの未知の生命体を創り上げること。それは「生きる」分野にある。それは創業という 獣的行為。生活のためであっても、それを創るには人間性を、普通の生活者の考えを、根こそぎ捨ててかからなければならない。 ここで、「青年は生活以外のすべての夢によって青年になる。青年は人間である必要はないのだ。彼は自分の夢を喰って生きる くらいの非人間的な強さをもつていなければならぬ。倦怠はおそかれはやかれ彼を襲うのだ。その前に彼の肉体がまだ新しいうちに、 青年は彼の役割を果さねばならぬ。」とある。新たな事業を始めよう決心した瞬間から、非人間的になる。獣にならなくては 創業など不可能。何時の間に獣から普通の生活者になっていた。地元の生活者の中の創業は獣の姿を曝すことになる。 本当の生活者になるのは、これから。 ・・・・・・ 3664, 閑話小題 2011年04月07日(木) * 駅やSC内のATMが閉鎖は 今だに駅やSC内のATMが節電を名目に閉鎖されたままである。これは間接的、現金引き出しの窓口規制そのもの。 支店、営業所内のATMは開かれているが数は僅か、不便そのもの。経済的側面からみたら、大震災と原発事故全体を 大地震とすると、大津波は本格的経済恐慌で襲いくる。電力と節約の呼びかけは、消費を冷やす効果は充分にある。 * スポーツクラブだけは盛況 家内がスポーツクラブに10年以上も行っているので、同行してみた。 驚いたのは平日の午前に関わらず、中高年の人たちで満杯だったこと。100人位に人たちがマシーンと共に 無言でひたすら運動していたことである。雰囲気は開放的で明るい。分かっていたら、前から通っていただろう。 「平日の10時から17時までの時間帯コース」の会費が大よそ6千円、10〜22時のフルコースだと8千円。 週に4日×4=16日が平均とすると、一日400円〜500円。 施設からみてそう高い感じはしない。 それより、歩いて15分のところに、公営施設の中に、大きなジムがある。これは、一回300円、3月で1800円。 以前、入会しそうになったが、止めたことがあった。 早朝のウォーキングか、サイクリングをしていたが・・・ ・・・・・・・ 3299,金融世界大戦 という捉え方 2010年04月07日(水) * 軍事戦争から金融戦争へ(兵器から債権へ) 経済評論家の田中宇が「金融世界大戦」という造語で、現在の金融恐慌の本質を説明している。 さらに「金融兵器」という恐ろしい言葉が加わったのである。これをアメリカ国内だけでなく、世界中に時限爆弾入り兵器 という危ないやつである。 何処かで爆発をすると、それは繋がっていて連鎖爆発をする危険なシロモノ。 「世界的な軍事戦争が出来なくなった代わりに、金融による世界覇権をめざした米英が、破壊兵器=金融債権を武器に世界制覇を 狙ったが、それが敢え無く破綻し、世界を恐慌に導いてしまった。 一時、世界経済を米英を親とした「ねずみ講」をつくり上げ、 世界中のものを紙切れで買い漁っていた実態が崩壊した。 これで世界中の貨幣制度の根底に大きなヒビが入ってしまった、しかし 大元のアメリカは破壊した金融機関やGMなどを国有化し、何とか体裁を保っているドルを注入し、立ち直りを図っている。 詐欺師は元もとの金や資源を温存しているから、ドルや債権の価値を徹底的に下げてしまえば、傷は最小で済む。しかし被害者は 輪転機を持っているわけでない、その負債を負わされ国家破綻、すなわちハイパーインフレで国民の金融財産の大部分が消滅する。 世界の国々はアメリカの、こうしたネズミ講の危なさを知らずにアメリカ国債や、アメリカの銀行が発行するCDOやCDSを 見境なく買ってしまったのである。 現在、各国が何とか金融破壊兵器を爆発させないように必死に持ちこたえているが、 これも時間の問題。 ユーロ圏か、アメリカか、中国から、その爆発が始るのは防ぐことは不可能である。 破壊兵器(債権)は、 世界中にばら撒かれ、連鎖して世界中を破壊する。 それはデフレスパイラルから、ハイパーインフレへの転換期に始る。 日本はアメリカの金融占領国の悲哀を株価暴落か、(一時的な円高の後?に)円安という形で日本を襲ってくる。 「気がつきゃホームでゴロ寝」で、IMFの管理国家として裸同然の国に落ちぶれることになる。アメリカは第二次大戦後、朝鮮戦争、 ベトナム戦争、冷戦、そしてソ連の崩壊後は、アフガン、イラク戦争と戦い続けている。 ところがソ連が弱体化を始めた1980年頃から、米英は軍事から金融戦争に軸を変え始めたのである。その一つがプラザ合意 から始る日本のバブルと、破綻である。 (字数制限のためカット 2012年4月7日) ・・・・・・・・ 2924,中沢新一の『三位一体モデル』 −3 2009年04月07日(火) 『三位一体モデル』中沢新一著 読書日記 * 煉獄の発明 キリスト教の資本主義にとって、都合の良い「煉獄」を発明した。中世にこれを発明したのは、実に都合の良い大発明にある。 それまでは天国と地獄しかなかった。しかし、この発明で、いったん地獄に落ちた人が煉獄に地獄から這い上がれば、 上から天子がやってきて、天国にむかえてくれますよ、と、こんなことを言い出したのである。こういう経緯を経て、 資本主義が動き出したのである。これは恐らく商人のために考えられたもので、動物の殺生などに従事していた職人たちも、 その恩恵にあやかった。それまでは彼等には、まったく救済がなかった。だから、生前、極悪非道の金貸し商人だった人が、 死後に、煉獄の山を苦労して登り、天国に行ったという話しがでっちあげられるようになった。こうした経緯を経て、 西欧州の資本主義が動き出した。ガシャガシャと動き出したのが13〜14世紀。それから、16,17世紀を経て、 19世紀にフル活動をするようになった。もし煉獄とうの考え方がなかったら、今日の西欧資本主義はなかった、といえる。 ようするに一神教である限り、資本主義の潜在力は抑えられてしまう可能性があった。発達を可能にしたのは、それに加え、 増殖の原理を飲み込んでいたからである。キリスト教は、西と東に分裂したが、東のギリシャ、ロシア、東欧のキリスト教圏では 資本主義は実現できなかったのも「三位一体」の理解法にあったのである。1990年代まで続いた東西対立の、 いちばん深い根っこの部分にも「三位一体」は関係している。さらには、現在のロシアの経済が何故あんなに混乱しているのか、 また、70?80年前に。その地に何故社会主義なるものができたのか。これも、この三位一体の歴史問題と関わってくる。 ▼ 煉獄という言葉を知ったのはロシアの文豪ソルジェニツゥインの『煉獄の中で』である。 地獄の一歩手前のところと解釈していたが・・・ ・・・・・・・・ 2560, ホモ・ルーデンス ー2 2008年04月07日(月) (*´∀`)」" おはよう☆彡 子供の頃、無我夢中で遊んでいた頃の楽しさ、あの時の無我夢中の気持ちが人生の中で大きな位置を占めていたのである。 人生の要諦、「よく学び、よく遊び、よく働く」のうち、一番満足度が高いのは、「よく遊んだこと」である。 ただし「よく」である??。 まずは遊びの本質と定義について書いてある部分を抜粋してみよう。 ー文化は遊びのなかにはじまるー 遊びは文化よりも古い。動物は人間とまったく同じように遊びをしている。遊びの基本的な要素のすべてが、 すでに動物の戯れのなかにはっきりとあらわれている。子犬が遊び戯れているところを観察してみさえすればよい。 子犬は一種の儀式めいた身振り、動作で、たがいに気を引きあったりする。相手の耳を血が出るほど噛んではいけないという 規則も守っている。まるで恐ろしく怒っているかのようなふりをして見せる。 もっとも重要なことは、子犬はこれらすぺてを明らかに嬉々として楽しんでやっているということである。 このように動物の場合と同様、人を夢中にさせる力、〈面白さ〉のなかに遊びの本質があり、〈面白さ〉こそ、人間にとって もっとも根源的なものである。人類が共同生活をはじめるようになったとき、その行動にはすべて最初から 遊びが織り交ぜられていた。 たとえば、人類の最初にして最高の道具である言語である。 言語によってものごとを表現したり、伝えたりするという行為はいつも遊びながら行われるのである。 どんな抽象の表現でも、その背後にあるのは比喩であり、いかなる比喩のなかにも言葉の遊びが隠されている。 *遊びを定義すると 遊びとは、ある限定された時間および空間のなかで行われる、自発的な行為もしくは活動であり、自発的に受け容れられた、 絶対的な拘束力を持つ規則に従っている。遊びの目的は行為そのものにあり、それは、緊張と歓びの感情を伴い、 また〈これは日常生活とは別のものだ〉という意識に裏づけられた、何ものかをめぐる闘争ないし表現である。 このような遊びが地球上のあらゆる地域に同じような形式や観念のもとに存在することが確かめられているが、 このことは、人間に遊びという機能が先天的に与えられているということの何よりの証拠である。 ▼ 日本文化の典型の、茶道とか、華道は、遊びなのか、それとも修養なのか? 前記の内容からしたら、遊びそのもの ということが出来る。ひと時の安らぎの茶のひと時を、茶道という文化に高めたのだから粋である。パソコンのインターネットも、 携帯電話も子供や若者の遊び心から飛躍的に普及した。ホモ・ハーベン(働き蜂人間)だけでは人生はつまらないだろうが、 仕事を遊びまで昇華させれば、良いだろう。 死を直前にした人間で、もっと働いておけば良かったと後悔する御仁は少ない。 もっと色いろなことをして楽しみたかった!という人が大部分である。 。・∀・)ノ ホナ! ・・・・・・・・・ 2007年04月07日(土) 2195, ファンタジー文学の世界へ ー1 *^○^*)ハ?ヨウサン! 「ファンタジー文学の世界へ 」ー主観の哲学のためにー 工藤左千夫著 (成文社) ー読書日記 一般的にファンタジーとは、夢 のような空想を元にした小説のことをいい、現代社会から、かけ離れた人物、 事実、世界観がテーマとなる。前回にも書いたが、ファンタジーには、二通りのジャンルがある。 ハイ・ファンタジー とロー・ファンタジーである。*ハイ・ファンタジーとは、社会構成・環境・文化など、世界観が 詳細に設定されたファンタジー小説のことです。 過去にも未来にも、世界のどこにも存在しない別世界を題材にしている。 *それに対しロー・ファンタジーは、現代を舞台にしたファンタジーで、ちょっとした不思議な世界を題材にする。 情報社会の中で合理的世界観から一歩はなれて、非合理的な世界を持つことで合理的社会を鳥瞰することも必要となる。 この本はファンタジー感覚の発祥と変遷について書いている。初期ファンタジーは、強烈な目的性を志向し、その通過儀礼を 特徴としている。 それに対し現代ファンタジーの傾向は、目的よりも存在論的視野を目指す傾向が強い、と論じている。 この本の面白そうなところを、幾つか抜粋してみよう。 (字数制限のためカット 2010年4月7日)
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2014年04月06日(日)
「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) * ぼんやりと過ごすために ―その時間と空間 ー次の問いかけ、ー「むだな時間」はむだか?ーの問いが考えさせられる。 まずはーアマゾンのレビューよりー 《 ミヒャエル・エンデの傑作「モモ」の主人公は「ぼんやりしている時間」を大切にする少女だ。・・・ エンデのその作品は、時間泥棒の「灰色の紳士たち」が、人々から「時間」を奪っていく物語だ。 むだだと思われる時間を奪われた人々の暮らしはどうなるか。それが「モモ」の主題だ。ぼやーっとしている時間は それこそ、むだそのものだ。効率至上主義者はそう言うだろう。むだな時間を幾ら重ねても何の稼ぎにもならない。 灰色の紳士たち、つまり時間泥棒たちは、人々の心に忍び込んでは「むだな時間」を節約し、その分を『時間貯蓄銀行』 に預けなさい」と誘う。銀行に預けられた時間は、すべて灰色の紳士たちが生存するために使われてしまう。 いわば詐欺そのものなのだが、人々は詐欺とは気がつかず、せっせとむだな時間を削っては、その分、自分たちの生活を 貧しくしてゆく。モモは何処からかふらりとその地にやってきた少女だった。土地の人たちの好意で、古い円形劇場跡の 一角に住まわせてもらう。少女は、夜空を眺め、夜空の発する「荘厳なしずけさ」をひたすら聴くのが好きだった。 モモにとっては、このぼんやりの時間はけしてむだな時間ではない。宇宙の静寂の中で時を過ごすと言うのは、 モモがモモらしく生きるための、大切な時間だった。夜空を眺める時間を持つことで、モモは「荘厳なしずけさ」 を感ずることが出来たし、何よりもそういう時間を持つことで、曇りのない目を持つことが出来、灰色の紳士たちの インチキを見破ることが出来るのだった。かなしいことに、私たち現代人は、夜空をしみじみと仰ぐ習性からしだいに 遠ざかっている。利潤、効率、管理、豪華さ、スピードとか、そういうものを生活の拠所とする人々が増え、夜空を 眺めるなんて無駄なことだ、と思う人が増えてきた。しかし、そのむだは本当にむだなことなのか。そういうむだが あるからこそ、生活はむしろ、ゆたかなものになっているのではないかとエンデは問いかける。》 ▼ 「モモ」の時間が、何か日本人の預金のように感じられる。それを狙った偽札が、米国と日本の国債の紙切れ。 国内に不安を押し付け、さほど多くない収入から、年金をかけさせ、預金をさせ、それと国債を交換するシステム。 その国債の価値の上げ下げの決定権も当然、彼らが持っている。金融工学などの言葉は詐欺工学と言い換えてよい。 おちおちしていると、全てを失ってしまう。豊かさには、お金など資産と、知識と、品性と、時間などがある。 その中で、一番に大事なことが、それぞれ平等に与えられた時間である。だから、ぼんやりすべきか?、ぼんやり してないで、有効に使うか? その人により違ってくる。ぼんやりの時間は、自然瞑想に近い心の状態ではないか。 『よく働き、よく学び、よく遊べ、しかし時どき、ボ〜ッとした時間を持って、それを味わいなさい!』ということ。 ・・・・・・ 4403, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −3 2013年04月06日(土) 『 隠居大学ーよく遊びよく遊べ 』 天野祐吉、お相手 * 第二時限 「ゆっくり急げ」 外山滋比古講師 ー人生二毛作の進めー 二期作と二毛作の違い、「二毛作は、ひとつの耕地で、一年で種類のちがう作物を二度栽培すること。 二期作は同じ作物を二度栽培をすること。人生においては、二毛作をすべし!」と、「ゆっくり急げ」が御隠居の要。 そのために、これまた長年かけた準備が必要になる。土壌は今さら変えることは無理。ならば移住するか、その土壌に 合った新しい作物を長年かけて用意しておかなければならない。 ーその辺りを抜粋するー ≪ 外山:わたしもそうですが、長いこと組織の従業員をやってきたサラリーマンの場合はですね、それまでの価値観を、 いっぺんひっくり返さないといけません。前半の人生ではだれかに仕えていた人も、後半の人生は自分が自分の大将になり、 自力で道を歩むための新しい志をかかげなければ。そういう意味で、この隠居大学というのは、たいへん面白い試みですね。 天野:あまり実践的でない大学ですが、気楽におしゃべりで、いろいろな隠居の楽しみ方を紹介する遊び場になればいいと 思っているんですよ。ところで、外山さんの『「人生二毛作」のすすめ』、すごく面白く読ませてもらいました。 二毛作っていうのは、ひとつの耕地で、種類のちがう作物を二度栽培することですよね。たとえば、春から夏にかけて稲を つくったら、二回目は大豆や麦なんかをつくる心つまり隠居の楽しみというのは二毛作目のようなものであって、 前半の人生と同じものをつくったんじゃあ面白みがないと。 外山:そうそう。人生も折り返し地点に来ると、価値観というものがおおむね逆になります。そもそも、前半で立てた 志というのは、学校出て就職したらある程度の方向が決まってしまうようないいかげんな志です。 わたし自身もそうでしたが、いちどエスカレしターに乗ったら、自分の力で歩かなくても成長しているような気になって、 それでは本当に生きてきたといえるかどうか。 天野:もし二毛作にチャレンジしなかったら、どうなるんでしょう。二期作というのかな。前半の人生と同じものをつくる。 たとえば、定年を迎えたけれど、嘱託社員として会社に残って、空いた時間で好きなことをするというような・・・。 世の中には、そういう隠居スタイルの人もいると思うんですけど。 外山:いや、それはエセ隠居です。高級官僚の天下りがいい例です。二毛作目をやるのは面倒くさいし、自信がないから、 とにかく一毛作の延長で行こうとしがみつく。そんな甘い考えではいい年寄りになれません。ゆといってもわたしもね、 少々まわり道をしたんですよ。大学で教師をしていたんですが、最初の勤め先を定年退職したあと、もう一度別の学校に 勤めに出た。これがよくなかった。 ≫ ▼ 私の長年の友人は、ほぼ二毛作の人生を過ごし三毛作の人もいる。転進すべき節目時に決断している。情報を持って いたのである。 逆に一毛作でハッピーエンドだったら、小さな畑で隣の田畑と比べるだけの水平の人生も、それも ご愛嬌。 価値観の転換など関係のないのも、これも人生。死んで三日も経てば、みな同じ。あるのは?永遠の虚空だけ! ・・・・・・ 4029, 「人生の知恵」ノート ー2 2012年04月06日(金) ー 品格と、自分を高める言葉のノートより ー * 情報や知識が少ない場面では 「何をするにしても、勝手が分からないこをやる時は安全な方を選ぼう。手堅いことは独創であることよりも大切である。」 これも人生を振り返ると、骨身に感じること。情報不足の時は、奇をてらえば、必ず失敗をする。 * あえて敵をほめること 敵を褒め、親切にすること。特に復讐のチャンスの時ほど、逆に寛容にすべき。その品格が求心力を生む。 ボクシングの勝者は観客を意識し敗者に対し、「良い選手だ」と必ず褒め称える。ファン対策のためだ。 人生は、闘争である。まともに生きていれば、罵られ、足を引っ張られる。しかし、決して愚弄してはならない。 憎い相手ほど、冷静に褒める。それが品格を高めることになり、敵を少なくし、求心力を生む。 * 放っておく術を知る 人間関係の諸問題は、さまざまな感情の暴風雨を引き起こす。そんな時は、港に退避し、碇(怒り)を下ろして乗り切ること。 殆んど時間が解決する。複雑な問題を解決できるのは「時間」か、強い権力だけと知るべき。 「低俗の人たちが起こす問題の嵐を静めるには、何も手を出さず、自然に収まるのを待つこと。一度、退くことがベスト。 * 見かけも重視すべし 信用は金を出しても買えないが、外見は僅かな投資で整えられる。 正義でさえ、正義に見えなければ、それにふさわしい 敬意を受けられない。きちっと見抜ける人は、見かけで騙される人よりずっと少ない。清潔な服装を着るだけでなく、時計も靴にも 高級感のあるものを選んで、いつも磨きをかけることが必要。話す言葉も、少し保守的に、謙虚さを装うべきである。 第一印象は僅かな投資で良くすることができる。それが信用の土台になる。 * 感情の波を乗り越える 感情は、常に理性を踏み越える。常に冷静な態度を保てる賢明な仲介者を間に入れれば良い。激情にかられたらその場を離れる。 * 失うもののない人と争わない 人物を選ぶこと。 危ない人は、いつの間にか悪い情報のタネにする。 * 言葉はやわらかく、態度はやさしく 「言葉を使えばたいていのものは買うことができ、不可能を可能にできる」言葉の力と恐ろしさを知って、用心深く、 やさしく使うことが、品格を作り上げる。 ▼ このブログの公開が恐くなってきた。「本当のことは休み休みに言え」が、社会。この箴言は現在の私への諌めの内容ばかり・・ ・・・・・・・ 3663, 9・11、9・15、それをしのぐ3・15 −2 2011年04月06日(水) この大震災と原発事故の3・11が、9・11と9・15を超える歴史的事件の仮説の上で、この今後の行末を考えてみる。 それだけ大きな事象なら、これから生じる問題は想像するだけで恐ろしい。 * 9・11の結果、アメリカのアフガンへの攻撃、イラクのフセインへの攻撃で数十万人を殺害し、新しい政権を確立をした。 このテロは、白(白人系宗教)対、赤(アラブ系イスラム教)の対立が表面化した事件で、文明の衝突である。 * 9・15は米英の金融支配の崩壊であり、世界経済を根底から破壊を始めたばかり、それだけでない500年の欧米的価値観を 根底から変える歴史的大転換の大事件である。。 * これに対し3・11は、東北の太平洋岸で100年来の最大規模の地震と大津波を発生し、沿岸の原発に直撃。 その結果、放射能汚染が日本の国そのものを崩壊するかどうかの瀬戸際に陥っている。その上に、世界に汚染を拡大させる 可能性もある。 さらに世界の原発推進の流れを根底から変えようとしている。 事実の中には、真実と虚偽が混ざっている。TVで「風評に気をつけて下さい!」と、政府筋がコマーシャルを流している。 しかし政府の流してきた情報こそが虚偽?で信用ならないことを国民は熟知している。 ネットで、政府より国民の方が 情報を素早く得ているのである。 政府が「原発は絶対大丈夫!」といい続け、それを信じてきた純朴の住民が最大の被害者。 あの歴代の保守系の政治家と官僚の連中に騙された結果が、この様である。 それを今さら「風評に気をつけてくだい!」 といわれても、誰が信じるかである。 地震発生と原発事故の発生して数日後に「本州全滅!」と、ある筋から聞いたときは、 それでも心の何処かで「まさかだろう」と思っていた。しかし日々刻々、入ってくるニュースを見ていると、「もしかしたら?」でなく、 その仮説?の上で、原発事故の行き着く先を考えなければならない。「首都圏の官僚の子弟は、遠くの親戚に疎開を始めている」とかが、 決して風評で軽々しい、とは思えない事態。「外国人が、早々、列をなして国外に逃亡した行為と、大多数の人たちが、 風評として見逃している情報の方が正しい」という仮説を立てて自分の中で立てておくべきである。 私たちの年代は、充分生きたが、若い人、子供は気の毒である! ・・・・・・・ 3298, 一年の重み 2010年04月06日(火) 図書館で久々に小林正観の「人生を楽しむための30法則」を見つけ借りてきた。例の「ありがとう」教の本を書いた人。 それで一番ありがたかったのは、彼だろう。それはいいとして、何げなく目を通していると、以下のような面白い内容があった。 (字数制限のためカット 2012年4月6日) ・・・・・・・・ 2923, 中沢新一の『三位一体モデル』 −2 2009年04月06日(月) 『三位一体モデル』中沢新一著 −読書日記 *「霊」は何か? ここでいう霊とは、英語でスピリッツ、ドイツ語でいうガイスト、日本語で霊(たま)という。 語り得ない「神」とか「霊」をどう表現するか興味を持って読んだが、神を三位一体モデルとして、「父」「子」「精霊」と 構造的に分解している。一つの見方だが、それを思考法として利用したり、この世界を理解するには有効になる。 その一つの「霊」を、ひとことで「増えていくもの=増殖するもの」としている。「父」たる普遍的なことを、現実の姿として 「子」キリストなどの現象とし、霊(増殖するものとして)を使って世界中に布教していく便利な存在?である。 この霊を組み込んだキリスト教が、<増殖>現象を自分の中に抱えこんで世界に爆発的に布教していくことになる。 それが西欧資本主義の出発点になるのである。ここが、イスラム教と、もっとも深い対立点になる。 * イスラム教との「増殖」をめぐる対立とは?イスラム教は、キリストが神の「子」という点、そして増殖原理である 「霊」を唯一神の中に組み込むという点については、絶対に認めない。イスラム教にとって、神と人間のあいだに立つ媒介する 存在など、あってはならない。イエスなど、ただの預言者でしかない。 ただひとつの神に霊を組み込むなどということは、 絶対にありえないこと。なぜなら、霊は「増殖現象>を起こすなど、唯一の神アッラーは増え得ないからである。 イスラムにとって、アッラー自体は変化しない。しかしキリスト教徒は、じつに微妙なかたちで、「増える」という原理を 組み込んでしまった。イスラムにとって、「神の本質が増えるとはどういうことなんだ」ということになる。 キリスト教は、増殖という現象を内部に組み込むことによって、その後の奇跡的な勢力拡大の基礎をつくっていったのである。 ▼ 結局は、キリスト教は欧米人の世界からの略奪行為の尖兵として、情報機関として建前として使われてきたのは自明だったが、 ここで、その宗教の歪みの部分を解明している。この世界恐慌も、その崩壊の一つとみてよい。 霊を増殖するものという見方は初めてである。 ・・・・・・・・・・ 2559, 印度放浪 ー3 2008年04月06日(日) ー語録ー2 人間の身体を見ていて神々しいと思ったのは、一ぺん沈んで浮かんできた水葬体だね。水葬にしていったん沈むんだけど、 沈んだあと底につかないのはそのまま浮かばないで流れ浮かばないで底についたのは必ず浮かんでくるんだ。 そうやって浮かんできた時の顔とか身体というのは、不純なものがいっさい流れたような美しいものなんだね。 半眼微笑の仏像そっくりな場合すらある、それが二、三日経つとだんだん膨らんできて、中の血管の血がバッーと表に出て、 まるで不動明王や五大明王みたいに赤黒くなる。それからまた血が引いて漂白されたようになって行く。 水に投げられたひとつの死体をずーっと見ていると、人間のもっているすべてが見えるよ。 日本でも死ぬ時に、これは単なる比喩的な言いまわしだろうけどさ、死ぬ時に一回苦しんだか二回苦しんだか、 三回苦しんだかで、その人の生前にもっている業みたいなものが出るということを言うじゃない。 それとは違うけど、水葬死体も人間のもっている生前のことを全部見せてくれるような気がするね。 解)日本人は死体を特別に大事に考えている影響が40年前の著者に残っているようだ。 こういうのを読むと、さっさと重油をかけて焼いてしまうのも良いと思う。その方が余程ドライである。 ーー 犬が水葬体を食っているのを見て、法華経に出てくるクンパーダカをふっと想像したんだ。クンバーダカ鬼は架空の 生きものだから見たことはないが、そういう感じがしたんだ。広角で撮ろうと死体を食っている中洲の犬に近づいたら、 そこにいた一匹が逃げたんだ。それが遠くから十二、三頭を連れてきた。砂けむりを舞い上げてね。僕がエサを取って しまうとおもったのか、全部がうなりながらにじり寄ってくるんだよ。人間を喰っている犬ににらまれたんだから、 かなり危機感を持ったね。眼を離して逃げたらワーッと襲われてやられるとおもったから、こっちも動けない。 川の中洲だから人間は誰もいない、助けも呼べない。カメラを持って投げつけるような恰好しながら、 それでもこれを投げたら壊れるからやめとこうとおもったりしながら、投げるものを探したわけね。 そのへんは写真にも写っているように頭蓋骨とか骨がけっこうあるんだ。で、犬の目から目を離さないように しながらゆっくりとしゃがんで、頭蓋骨を四ツくらい集めてこれをかかえて投げるかっこうをしながら、頭蓋骨もったまま 少しずつあとずきりをして川の中に胸まで入ったんだ。犬は向うでウロチョロしている。 奴に向けて力いっぱい投げつけたんだ。暫くするとあきらめて、また向うの死体を喰いはじめてくれたんだね。 こちらは川づたいに三脚のあるとまでやっと辿り着いてね、これでやっと安心して、この三脚を持てぱこれ殴れるから 何となく大丈夫だと思ったわけ。これは後で考えると、地獄で何かしていたような気がするんだ。 解)インドでないとこういう経験は出来ない。宗教で、かくも文化が違うかが理解できる。 ベナレスのガンジス川の底には骨が重なっているというが。その骨についている貴金属をあさっている子供もいる。 ーー インドはね、撮りすぎるとダメなんだ。インドってのは撮れちゃうから。まわリ三六〇度ぐるりと一回転して三十六枚押したら、 一本フィトストーリーができてしまう。だからインドへ行った人の写真ってのはみんな同じになる。写りすぎるってことは、 全部撮ってもダメということなんだね。インドは「何を撮らないか」というマイナスの作業でしか自分の視点が出てこないのね。 加算とかブラス信仰の社会から行うた人からは、撮らないということも表現であるという発想がなかなか生まれない。 解)これって写真だけでなく、全てにいえることじゃないですか。 ・・・・・・・・・・ 2007年04月06日(金) 2194, 大人のファンタジー読本 おはよう!♪? ヽ(´π`)ノ ー読書日記 ー未知なる扉をひらく180選ー 出版:マックガーデン この本の副タイトルが、そのまま当てはまる内容である。1Pか2Pに一つの小説の概要が書いてある。 その概要だけで大きくイメージが広がるから不思議である。わずか数分の間、ユックリと読んでいるうちに日常を超えて ファンタジーな世界に引きずりこまれるのである。この本は10年前のパソコン通信の時代からあったネット上の仲間が出会い、 ネット上の語らいからつくり上げた本。180選を45人が要約した共同執筆で10年がかりのエネルギーが入っている。 1P~2Pの要約の中に好きな人の魂が詰まっているから、要約というエキスに引きずりこまれるのだろう。 これこそ現代の本と云えよう。「エネルギーを使わないで、いつ読んでも現実を忘れられる本がないか?」と言われれば、 間違いなくこの本を勧める。何せ一ヶ月間新幹線の列車の中で読み続けていた本である。初めは図書館で借りて読んだが、 アマゾンでさっそく発注をした(中古本だが)。 (字数制限のためカット 2011年4月6日)
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| 4769,閑話小題 ー高速道路のサービスエリアで高額品が売れる訳 |
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2014年04月05日(土)
* 高速道路のサービスエリアで高額品が売れる訳 先日のモーニングショーで、「何故、高速道路のサービスエリアで高額品が売れる?」をテーマにしていた。 これは長距離移動で車中に束縛された反動で、そのストレスを発散しようとする無意識のはたらき?を二組の 男女学生5人で試みるもの。 まず一組目に郊外で散歩させ、その後、寿司屋で自前で、寿司の松竹梅を注文させた ところ、一人だけが松を選び、他の4人は竹と梅を選んでいた。もう一組には、目だけ空いた仮面を被って同じように 散歩をさせ、同じ寿司屋で注文をさせたところ、全員が松を注文をしていた。 この結果、ストレスが高額品を 選ばせる証明と結論づけていた。 10年ほど前の話だが、新潟の、ある親睦会で、知人が大きは手術後、暫くし出席を したおりに、「退院して、何が無性にしたくなったか、分かりますか?」と、全員に問いかけてきた。 「驚いたのは、買物! とにかく何か買いたくなる衝動には、我ながら驚いた」と。 成るほど、ストレス解消には 買物が良いようだ。 女無頼作家の中村うさぎは、重度の買物症候群をネタをエッセイ風に書いている。 殆どが買ったままの袋詰め状態で、家に置いたままと宣う。 それが高額のブランド品のため、借金地獄。 その実録の迫力の吸引力はすざましい。以前からムシャクシャすると、スーパーか、百円ショップで買物をするが、 お陰で、机周りと居間は、得体の知れない小物が溢れている。成るほど、百均はミニ・レジャーランドである。 * ローリングストーンに苔ははえない 「転がる石には苔が生えぬ」とは、同じ場所にとどまらない石には、苔も生えない事象を肯定的にとられている。 私は今まで、頭も身体を動かしていれば病にならないなど、マイナスにとらえていた。 本来は英国の諺で 「A rolling stone gathers no moss.」で、「職業や住まいを転々とする人は成功できない」という意味で使われるが、 米国では「活動的にいつも動き回っている人は能力を錆びつかせない」という意味で用いられる。この違いは、 イギリスは保守的、アメリカは改革的な考え方をするためである。 類義語では、「度々植えかえる木は根が張らない/ 使っている鍬は光る/転石苔を生ぜず/流れる水は腐らず」などある。30年前からは、身体と脳をフル回転させて、 ウツ病とか、ガンの予防対策にしていたが・・ ・・・・・・ 4402, 自分の世界の自覚 ー世界内存在 2013年04月05日(金) * 象の皮膚の皺につく寄生虫 「知的余生の方法」渡部昇一 10年位前に、何か哲学書の中で、象の皺を全世界、そこにつく寄生虫を人に喩えた「世界内存在」の説を知った。 寄生虫は、全体の象の姿を知ることが出来ない。だから旅行や小説などで時空を超えて象の皺から出てみないと・・ この随想日記でも度々、世間とかいう枠組の批判に、この喩えを使ってきた。 ーその出所が、ここに詳しくあった。 ≪ 象の皮膚の皺につく寄生虫は、自分がくっついているその皺だけが自分の全世界で、象がどのような形をしている 動物かも知らないーというようなことを言ったのは仏の哲学者ルコン・デュ・ニュイユイ。このように虫の立場から 見る世界とか、鳥の立場から見る世界とか、人間以外の動物の目から見る世界という「視点の転換」を教えたのは J・J・ユクスキュルというドイツの動物学者である。哲学史でどう取り扱われているかは詳しくは知らないが、 人間の思考法を大転換させる業績だと思う。・・・(略) ここから類推すると「人間は世界内存在である」という場合の「世界」は、人間の五官が認知できる世界ということになる。 縦、横、深さの他に時間を入れてもせいぜい四次元の世界である。五次元や六次元の世界がどのようなものであるかは想像も つかない。音も光も人間が五官で羅できる周波数の範囲は限られている。それは象の皮膚の皺の中の寄生虫には星が存在せず、 梅の香りが存在しないようなものでないか。人間は五官の世界内に閉じ込められている。これから逃れる方法がない。 この状況を「人間の世界内脱出不可能性」というらしい。・・・(略) 人間は、象の皮膚の皺の中に住む寄生虫とは違う。人間は自分が五官の世界内に存在していることを知りながら、 そこから脱出しようという努力をしたり、脱出することを祈ったりするからである。そしてそれに成功している人もあると 主張する人もいる。それがオカルトである。オカルトとは、つまり五官と時間の囲い込みを超越しているという意味である。 どの宗教の神様も人間の世界内に閉じ込められてはいない存在だ。だから有難いのである。 神様とはいかないまでも、超能力があるという人もある。ある宗教家には私の前世がわかるという。私の霊魂は在原業平と ベンジャミン・フランクリンのそれだったという。二人とも私が好きな人であり尊敬する人でもあるから悪い気はしないので、 それを信ずるわけでないが、有難く承っている。こういう認識の仕方は、人間の世界内存在の状況を完全に超越している 普通の人間は、解剖学的制限の下にある。これが哲学的に言えば「世界内存在」の実体である。だから解剖学者はオカルトの 世界を認めない人が多い。人間はいくら解剖をし、すぐれた顕微鏡や検査法を用いても、その存在は認めらないからだ。≫ ▼ カントが同じようなことをいっていた。人は5感の範囲でしか、経験の範囲内でしか認識できない。認識できた範囲を、 対象に貼り付けているだけ。「知っている範囲しか、知り得ない!」当たり前のことだが。これが自覚できないのが問題。 カナダのロッキー、テーブルマウンテン、ケニアの大草原、カラコルムハイウェーなどなど、どれもこれも、 想像を遥かに超えた世界であった。問題は、帰国し日常に帰った時、象の皺の世界が逆照射し見え、元に戻れないこと。 ・・・・・・ 4028, シングルイン、31年間の総括 ー8 2012年04月05日(木) * 3・4の法則 あるコンサルタントの先生から教わった「へ」の字の「3・4の法則」がある。 「上手くいった新店でも、そのままだと3年上りで、下り4年になる。4年目から右上がりを続けるためには、二年から 新たなへの字=革新をつくり続けないと4年目から下りに入り7年で死に体になる。 この法則からすると、ホテルの場合は 長期物件もあり12年上りで、下り18年とみると、確かに、その通り。 事業とは時流の先取りを事業化をしてバブリ、 最盛期から空気の抜けたように萎んでいくのが自然の姿。 新潟駅前シリーズの事業も創業10年目にソ連・東欧の崩壊と、 日本経済のバブルが崩壊した。それからしてバブル崩壊の数年以内にホテル事業を売却すべきだったことになる。 終戦直後に生まれ、右上がりの時代に少年・青年期を過ごした体質からして無理か。 バブル崩壊が日本にとって、 衰退期へ大断層だったのを読みとくことが出来なかったのである。 偉そうに書いているが、これが私の限界。 バブル崩壊時に郊外型ビジネスホテルを考えたが、実際は、駅前の280室を500室に増加の戦略ミスの選択をした。 それが18年の下り坂の節目。 1985年のプラザ合意で米国にバブル政策を強いられ、その結果のバブル崩壊で 日本は致命的打撃を受けた上に、10年後の2001年の9・11テロと、2008年のリーマンショックである。 私の事業も日本経済と全く同じ運命を推移してきた。 人生も7年か8年で一節。 前半上りで、後半下りである。 その辺りを人生計画に嵌め込めば良いが・・ 女が7年、男8年というが、振り返ると、大方あてはまる。 同じ体質を保つに不断の改革が必要というのが、「3・4の法則」だが、失敗するには、それなりの理由がある。 ・・・・・・ 3662, 閑話小題 2011年04月05日(火) * 大相撲の八百長処分 大相撲の八百長処分が発表され、23人の力士と親方が事実上、角界から追求。 幕内6人、十両9人というから、影響は大きい。私が知る限り現親方も含めて9割が日常的に八百長が行われていたみるのが順当。 「今さら何が八百長?、何で自分だけが」と追放された力士は合点がいかないのは当然のこと。まだまだもめるはず。 日本的談合社会の縮図が、そのまま現れた事件。 結果からいうと、情報化が、それを許されなっていたことを察知して 談合システムを変えるべきだったが、伝統を重んじる古い体質が、それについていけなかったことになる。 今後も大相撲が続く限り、この問題は続くはず。伝統芸能の一環として、目くじらを立てすぎるのも問題あり。 * 都知事選挙TV討論をみて 日曜日の朝7時半の「新報道2001」をみて、現知事と他の候補のレベルの差に驚いた。 一同に集め議論をさせると、その差異から、それぞれの質が見えてくる。 石原慎太郎が良いということでなく、 他が東京都知事としての素質がないのが、議論の中身から感じ取ることができた。恐らく、石原がたたなかったら、 あの方々の一人が、選出されると都政は滅茶苦茶になると危機感を持ったフィクサーが、石原の引退をとどめたのだろう。 この大震災の中で、他の誰に都政が任せられるというのか? 一応、日本の首都の首長を考えると・・・ ・・・・・・ 3297, 不思議現象の正体を見破る ー2 2010年04月05日(月) * 手品師 ユリゲラーの超能力 ユリゲラーも、当時からマスコミに、その正体が暴露されていた。それは後として、私より一歳齢下のイスラエルの ユリの経歴に興味をそそられた。1946年12月30日、テルアビブに生まれた。少年期に両親が離婚、キブツに入れられ、 色いろあって、15歳でスパイ組織に加わり、2年間の訓練を受ける。そして21歳の1967年にイスラエル兵として 第三次中東戦争に従軍し、戦場で負傷してリハビリのキャンプに送られて療養生活に入るが、そこで、シュトラング (通称シュト)と知り合い、本格的なマジックの練習を取り組み、初めは友人の誕生パーティーなどで演じていたが、 後には、クラブのショーなどに出るようになる。得意な演目は「ツゥー・パースン・テレパシー」と呼ばれるもので、 目隠しをしたユリ・ゲラーに悟られぬように一人の観客が黒板に数字を書き、全員が確認したところで跡形もなく消してしまう。 すると、ユリ・ゲラーがおもむろに目隠しを外して、観客に数字のイメージを念じるように要請する。 つまり観客が念波をユリ・ゲラーがとらえて当てようというわけ。 そこで、お客に念じ方が足りないとか、色いろけしかける。 やがて、おもむろに「5でしょう」などと、当てる。 何とことはない、観客席に居るシピが「はなを触ったらといった暗号に 基づいて信号を送っていただけの話。 あまりに単純のため劇場の支配人にまで見破られたが、それでも止めようとしないので、 裁判沙汰までなっている。 有罪の判決で、営業停止になったが、今度はアメリカからプハーリクなる超心理学者がきて、 ユリのショーを見て「超能力」と信じ込んでしまった。 さあ、これが大変な切っ掛けとなった。 彼はユリをアメリカに連れ帰って、スタンフォード研究所でテストを受けたが、これが、いかに杜撰だったようである。 相棒のシュトが、明らかに巧妙に信号を送ったかが、その結果からして窺える。 その実験は中途半端で中止された。 しばらくはスプーン曲げなどで世間を、アッといわせたが、アメリカのTV局も考え始めた。 プロのマジシャンと相談してカメラ・ワークを緻密に設定し、ユリ・ゲラーの側にマジシャンを監視役に立てたところ、 彼の売り物の超能力は全く起きなかった。 これは英国と同じ結果となった。 ユリは成功すると、サスガ超能力者、 失敗すると、体調次第で念の集中が上手くいかないこともある、とされるようになった。 アバタもエクボである。 ユリが1974年に日本に上陸、TVに出演した。(私も、その番組を見ていたが・・)まずはスプーン曲げで仰天させた。 当時のマジックにはスプーン曲げなどの演目がなかったので、日本人もすっかり騙された。 その後、日本の少年Sも、 その超能力があると、一世を風靡したが、後に週刊誌のストロボ撮影を通じて、トリックが暴かれた。 何とことはない、投げる瞬間にスプーンを絨毯に押し当てて曲げてから投げていたのである。 ー つづく ・・・・・・・・ 2922,中沢新一の『三位一体モデル』 −1 2009年04月05日(日) 『三位一体モデル』中沢新一著 −読書日記 図書館で何気なく借りて、目を通したところ面白い本である。特に、キリスト教とイスラム教の違いと、その争いの元を 解りやすく書いている。三位一体とはキリスト教の考え方で、西欧の考え方でもあり『父』『子』『精霊』を指す。 それぞれの円が三つ重なりあっている図を想像すれば良い。 ・『父』は 物事の基本になる普遍的なこと。哲学や理念などが含まれる。 ・『子』は 『父』のベースを具体化する存在。 ・『精霊』は 子の働きにより、増殖するコントロール不能な物もの。(販促、宣伝など資本主義の増殖を助ける役割を担ってきた) この3つがバランスよく配置されることで物事の意味や本質が捉えられ、すべての問題はこのバランスをみると理解出来ると言う。 会社をみると『父』は理念や社会還元、『子』は会社そのもの、『精霊』は販促や生産活動。 『父』の不在が、会社を迷走させることになる。社会問題の多くは、社会の父たる規範が無くなっていることから始まる。 『精霊』はキリスト教社会の中で不可欠なもの。 イスラム社会では『精霊』にあたるものがない。偶像廃止も、 この辺からきている。(お金でお金を生んでだめ<株>はいいらしい) そのためにイスラムの銀行は利子がつかない建前をとっている。 資本主義の『精霊』に頼る経済はイスラム世界にとっては 『堕落』そのもの、『9.11テロ』でニューヨークのWTC(経済のシンボル)に突っ込んだのも、その攻撃行動という。 この本は100ページも満たないが、多くの示唆が含まれている。 ーつづく ・・・・・・・・・ 2558, 爪もみ療法 2008年04月05日(土) ある本を読んでいたら、「爪もみ療法」という聞きなれない健康法があった。そこで早速ネットで調べてみたら、 以下のようにあった。 【爪もみのやり方】 ・爪の生えぎわの角を反対側の手の親指と人さし指で両側からつまんで揉みます。 ・一カ所を十秒ずつ、症状に対応する指は二十秒ずつ、揉みます。 ・以上を一日に二から三度行います。 ・少し痛いくらいの強さで刺激する。 ・薬指だけを揉むことは避ける。(薬指は交感神経を刺激する指のため。他の四本指の刺激と一緒に行なう) (字数制限のためカット 2010年04月5日) ・・・・・・・・・ 2007年04月05日(木) 2193, やまあらしのジレンマ オッ(*^○^*)ハ?ヨウ! ショーペンハウエルの「やまあらしのジレンマ」の話が面白い。 ーまずは、その内容からー あるところに二匹のやまあらしがいた。冬の朝、寒いので二匹のやまあらしは互いに暖めあおうとして身を寄せあった。 しかしあまりに近く身を寄せあった二匹のやまあらしは自分の体に生えているハリで互いに傷つけてしまった。 そのため二匹のやまあらしは相手から離れたが、また寒くなった。そこでふたたび二匹のやまあらしは身を寄せあったが、 また互いに相手を傷つけてしまう。このように二匹のやまあらしは離れたり近づいたりを繰り返し、「最適の距離」を見いだした。 ▼ この寓話は、我々の心は「寒さ」と「痛み」のジレンマの中でしか「最適の距離」を見いだすことができないことを提示している。 やまあらしのトゲとは、人間の自我(欲望や、社会的立場、感情)をいう。青年期は自我の一番強い時期、だから青春期の恋愛は、 トゲとトゲの刺しあいになり、愛しあうほど傷つけあうことになる。その繰り返しの中から、お互いの最適な距離感を身につける ことになる。青年期は、傷つきやすい時期でもある。その傷の癒しを他の対象に求め、そこで更に深く傷つくのがあたり相場。 癒しを他に求めること自体が次の傷をつくる準備をしていることになる。そのこと気づかないのが若さからくる無知。 孤独は人間の本質的なことであり、それをしっかりと自覚していないと、傷口がどんどん広がり、化膿していく。夫婦関係にも 言えることである。トゲとトゲの差し合いを今だしているが、互いの皮膚が30数年の結果、痛みを殆ど感じなくなってしまった。 適当の距離感とは、=あまり親密にならないこと!である。 青年期に女性も友人も、ある距離に近づくとトゲが全身から出るのを感じた。 あれが、自我だったのだ。今もそうだが! トゲは必要である!自己を守るためにも。しかしトゲの先は丸くしておかなければならない!
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2014年04月04日(金)
* 「ぼんやり」礼讃 『ぼんやりの時間』辰濃 和男 (著) 受験期に「ぼんやり」していたら、一生を棒にふることになるし、弱肉強食の世界では生きていけない。 逆に、ひたすら人生を戦いにくれるのも、問題が残る。時代が世界的大不況に入って、ひと握りの人たち以外は、 決して物質的に豊かになれない時代。だからこそ大部分の者にとっては、「のんびり」生きる方が良い。 ここで、 リタイアーを向かえた人は、思い切って舵を変えなければならない。これまで否定的だった「のんびり」こそ 礼讃するに値する時節到来ということ。 ーその辺りから 《 ・・・なにはともあれ、自分でぼんやりしてみるのがいちばんだと思う。小さな公園のベンチでもいい。 コーヒー店でもいい。鎮守の杜の木洩れ日のなかでもいい。外に出るのが面倒なら、家のなかでもいい。とにかく、 ぼんやりを体験してみること、まずはそこから始めたい。一番いいのは風の吹き抜ける静かな場所に坐り、背を伸ばし、 肩の力を抜いてみることだろう。深呼吸をする。坐っていても、立っていても、深呼吸のやり方は変わらない。 深呼吸は息を吐くことに重きをおく。吐いて、吐いて、さらに吐く。細く長く吐ききるまで吐く。あなたのからだは まだまだ硬い。ゆったりとした気分になり、さらに肩の力を抜いてみる。下腹たんでんの丹田を意識する。 深い呼吸をしながらぼんやりしていることが、あなたにとって快い状態になればしめたものだ。ときには、静寂が 皮膚にしみこむのを体感することができるかもしれない。静寂のなかでぼんやりするとの気持ちよさを味わうことが できれば、それは至福への道の一歩になる。近所に、緑のゆたかな大きな公園があれば、なおさらいい。 そういうところは、きっとあなたの好きな木が何本かあるはずで、好きな木の前に立ってぼんやりする時間をもちたい。 「ぼんやり」という言葉と「貴い」という言葉は、ふつうあまり結びつかない。しかし串田は、それを手品師のように 鮮やかに結びつけている。その結びつけ方があまりにも鮮やかで、あまりにも自然なので、私はすんなりと合点した。 よく考えてみれば「ぼんやり」と「貴い」を結びつけるのは、相当の力技かもしれない。串田の数々の文章を読み、 それらはみな、長い黙想のなかで湧き水のように流れでてきたもの、という感じを私はもっている。・・・ 》 ▼ ヤフーのブログに、現在、ネットで拾ったフィジーの写真を載せている。 地域柄、何ごともおおらか。 挨拶がハワイの『アロハ』のように『ポレポレ』。こんちは、さよなら、ありがとうなど、全て、この一言で済む。 大柄で、スローテンポで、陽気で、こころ優しく、ぼんやりしている。 先進国が優れている!が、戯言と、 直ぐに教えてくれる。自然の豊かさと思いやりが人間の貴品をつくっている。3月半ばの15時からポタリングを再開した。 途中で5分ほど信濃川の土手で休憩しているが、早速、10分間に延長、「ぼんやり」してみたが、なるほど、気分は良い。 が、5分過ぎると、そわそわ、その後の5分が長く感じた。今度は、バスタオルを持って、ベンチで延び延び寝てみたい。 信濃川の土手で、春うららの中の転寝は、気持ちが良いに決まっている。他人様の転寝を見ていたが、自分に置き換える 知恵が全く無かっただけ。 スポーツジムのマッサージルームで、毎日、20分間、ボッケっとしているが、確かに リラックスする。生きているうち、元気なうち、ぼんやりできるうち、である。 最後は、痴呆症でぼんやり? ・・・・・・ 4401,フランクル ーつれづれに 2013年04月04日(木) * フランクル 昨日、何気なく昼、NHK/Eテレをまわすと、≪フランクル“夜と霧”−終−第4回「苦悩の先にこそ光がある」≫を 放送していた。 フランクルの著書は何冊か読できたが、いずれも大きな感銘を受けた。 ー内容をNHKのブログでみると、 【 フランクルは、生きる意味は自ら発見するものであり、苦しみは真実への案内役だと説いた。最終回では、フランクルの 言葉に支えられながら生きてきたという、姜尚中さんをスペシャルゲストとして招く。姜さんは「与えられた運命を引き受け、 それをバネにすることで成長が生まれる」と言う。先行きの見えない不安が広がっている今、わたしたちは生きる希望を どのように見いだすべきなのだろうか。「夜と霧」から考える。】とあった。メモを取ってなかったので、少し文言は変わるが、 《 ◎ 成功、失敗は左右の水平軸に分けられるが、縦線の上に意味、下には絶望・苦悩を置いて縦横の立体で捉えるべき。 ◎ 砂時計で上の砂が真ん中の細い管を通って落ちて、下に溜まる。上の部分が未来、細い管の部分が現在、下が過去になる。 私たちは下の過去に重きをおかないが、苦悩などを含め必死に生きた管(現在)を過ごした過去は、充分に価値があり、 その人そのものになる。 ◎ 苦悩とは、人間を成熟させて真実の自分を呼び覚まし、生きる意味を成就させるチャンスそのものになる。 ◎ 人生に期待するのでなく、人生の方が私たちに期待している。》が、印象に残った。 フランクルといえば、ー自己超越のための3つの意味(価値)ーが、まず挙げられる。 1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味 =仕事・子育て・学問・芸術 2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味 =自然・芸術・愛 3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで得られる価値・意味 =極限状況の中での尊厳ある態度 また、ー人生には発見されるべき価値や意味があるーとして 1・意志への自由 (いかなる境遇でも自由意志を持つことができる) 2・意味への意志 (意味と目的を発見し充足するのは人間の努力である) 3・人生の意味 (創造・体験・態度など生きる姿勢の中に意味を見出す) の3つを上げている。 フランクルは、「生きるとは価値判断(学習)と選択の連続である」という信念が一貫してある。 よく遊び、よく学び、よく働く、ことだ。 それに私の考えを加えれば、喜怒哀楽を開放してやることだ。 ・・・・・・ 4027, シングルイン、31年間の総括 ー7 2012年04月04日(水) * デフレの直撃 ホテル物件は直ぐに相場の半値八掛で買い手が現れ、ホテル名をそのまま引き継ぎたいというので快諾した。 せめて名前が残れば有難いこと。 結果としてはオーナーのリストラ。 ある人が、「ホテルの買い手がいるんですか?」と 聞いてきたので、「‘やれる’と、‘やれると思う’は別物」と答えた。 「この30年の数字と経験から無借金でプラマイゼロ」 と思っても、「やれる!」と思う人が現に出てきた。三年間持ちこたえるかが目安だが、道路買収の時期が問題。無借金なら、面白い? 私なら絶対に手がけない。これも「私の思い」。 経営環境が厳しくなると長所にも想えた4棟分割が合理化の妨げになっていた。 分かれている長所は、在庫過剰になった時に棟ごとの業態変更が可能。現に長期滞在型への業態変更と、二棟の1F部分のテナント化は 思惑どうりになった。しかし棟が分かれ中途半端の規模は、総人件費の削減と、諸経費削減に不利になっていた。 デフレも、資産デフレの直撃が大きい。 土地の相場が、30年前の3分の一以下、土地購入値の3〜4分の一は、厳しい。 インフレであれば、半分も返せば8割以上返済したようなもの。今回の資産暴落は、返済総額より遥かに実質借入が増加の結果となった。 この物件を半値八掛で買った新しい事業者が更に絞り込んだコストで、既存のホテルに対抗するために更に価格を下げて、市場に挑んで くれば、一段のデフレが進む。 資産も半値八掛で資産デフレの材料になる上に、価格の下げ圧力になる。 デフレスパイラルである。 しかし、光熱費は原油高で二倍、人件費も高騰、金利高なら、スタグフレーションになりざるを得ない。 恐ろしい限りである。 何度も書いているが、本当に恐ろしいのは,その後のハイパーインフレ。これが恐慌の本体である。その境目が、今年になる。 ・・・・・・・ 3661, 9・11、9・15、それをしのぐか3・11 2011年04月04日(月) この3・11災害は、2001年のイスラム教徒によるテロの9・11、そして現在も進行中の2008年の9・15をしのぐ歴史的出来事である。 地球温暖化の中で原子力発電が容認され、世界中が原発建設を競争するように計画・建設されている潮流での惨事である。 思いもよらない「震度7、マグネチュード9の大地震と大津波、そして原発事故と放射能汚染」である。リーマンショックで既に 日本経済は崩壊を始めていた上に、これ。今年から来年にかけて経済動乱が予測されたが、3・11の衝撃で、日本の存続の根底を 揺るがすだけでなく、地球規模の危機になってしまった。 10年前の9・11事件は、欧米とアラブの文明の衝突が露出し、それ以降、 世界が変わっていった。そして2008年9月15日のリーマンショックは、米英の金融支配の構図を根本から破壊してしまった。 今年から来年にかけて、世界規模の経済動乱に入りかけていた矢先に、こともあろうか、日本発の歴史的大惨事である。 これは人類史上に残る歴史的大事件であり、これまで人類が営々と積み重ねてきた文明を否定する象徴的事態である。 それも66年前に日米戦争で原爆を二回も落とされた国で起こった惨事である。20年前に経済バブルがはじけ、右下がりが続いて、 去年になて経済力を中国に抜かれ世界第三位に落ちてしまった。 今世紀に入って僅か10年の間で大事件が三回も起こっている。 9・11、9・15、そして3・11の惨事である。これは9・11、9・15の歴史的大事件をしのぐ大惨事が日本で起ったのである。 当然ながら国内は情報コントロールをされているが、日本人は無防備に、そのコントロール下にある。入手できる範囲の情報で、 あとは自分の勘を頼るしかない。そして、その勘にしたがって、判断をするしかない。原発事故と放射能汚染は、日々一刻と進んでいる。 その結果は? この国は大震災の日をもって、それ以前、以降といわれるほど、根底が変わってしまったのである。被災民は、全国民! ・・・・・・・ 3296, 不思議現象の正体を見破る ー1 2010年04月04日(日) 「不思議現象の正体を見破る」 安斎 育郎 (著) ―超能力や心霊現象に、人はなぜ騙されるのかー ー内容ー (アマゾンより・・・) 現在までに報道されたり紹介されてきた不思議現象(超能力、超常現象、予言など)のトリックと、それを鵜呑みにしてしまう 心理状態を解説した書。同氏の他の著作と重複する事例・内容も多いが、本書では、不思議現象が存在するという根拠にたいし、 そのトリックを説明することで、それらすべてがいかに信憑性がないか(あるという証明になっていないか)を示している。 世界的に有名な事例を紹介しており、それらがすべて単純なトリックであることに改めて驚く。 圧巻は、漠然とした詩が、 大事件と簡単に符合し、いかにも予言であるかのように曲解して読み取ることが可能かを示した点である。 例として、枕草子の記述を深読みすると、一文一語が普賢岳噴火にぴったりと符合する!このことからも、ノストラダムスの詩が 後世の歴史的事実と多少符合しても、それが偶然以外の何ものでもないことを暗示している。 現に、世紀末には何も起こっていない。 ▼ ユリゲラー、イギリスのミステリーサークル、コックリサン、念写など、その嘘を一つずつ解明している。 ユリゲラーも、 ミステリーサークルも、念写などをTVで取上げなくなった。これはブログなどの情報化のためである。 もし、信じていると言えば誰かが知っているカラクリを教えてくれる。それだけでない、TV局そのものが問題視され、 ディレクターは外される。この本で知ったが、イギリスのミステリーサークルも真実が明らかになっていた。 <二人の老いた絵描きが、「夜中に麦畑のキャンパスに描いた作品」だったと白状していた。二人はL字型の棒を持って、実際に デモンストレーションもやってみせた。いやにイギリスの麦畑ばかり、という理由が、これである。この現象をプラズマ物理学の 立場から研究したミーデンは真面目に、この現象は世界各国に出現したと主張、彼だけでなく色いろな人が多くの原因を唱えた。> 彼らは二人の老人に騙されたのである。こんな調子に、過去の不思議現象の正体を暴いているから、読んでいて飽きない。 次回は、あのマジシャンのユリゲラーを、今さらだが、オサライをしてみよう。 彼はマジックを超常現象として ショーアップしていただけだが、注目されればされるほど、その稚拙な手法がコミック的。 ・・・・・・・・ 2921,不況景色 ー10 2009年04月04日(土) * 上野動物園が入園300万人を切る 一昨日のニュースで、上野動物園の入園者が60年ぶりに300万人を割ったと報じていた。前年より妬く60万人減というから 20パーセント減になる。パンダが死んで居なくなったことと、この不況が直撃という。9月半ばから4〜5割減ということになる。 家計面で節約対象になったようだ。また、オーケストラの公演が個人や一般企業の寄付の激減で大赤字に転じていると報じていた。 恐慌状況の中、なかなかオーケストラを聴こうという気になれないのも分かる。 * 金融サミットで 金融サミット「20G」が開催され、首脳宣言が採択されたが、何か首を傾げた。公式とは違う決定もなされたのだろうが・・・ (字数制限の関係でカット2012年04月4日) * 4月に入って、更に悪化 去年の11月後半から、金融危機の影響が経済の現場に深刻に現われてきた。今回の経済危機の第二波である。 そして第三波が、この4月に入って襲い始めてきた。 予測はしてが、やはり現象として直面すると凍りつく。 ただし政府が、三月決算を乗り切るため思い切った緊急融資を上から押し込んだために、とにもかく平穏を保っている。 しかし、決算の結果が表面化する5月になると一挙に現象に現れてくることになる。 ・・・・・・・・・ 2557, 印度放浪 ー2 2008年04月04日(金) この本に著者・藤原新也の《語録》というコーナーがあるが、深い言葉が次々と出てくる。40年前の25歳の言葉だから恐れ入る。 印度という国が、彼の精神を育てたのか、元々持っていた素養なのか。読んでいるうちに、いつの間にか自分と比べている。 そして、小さな世界の中で小さな習慣に甘んじている自分が浮かび上がってくる。比べること自体がおかしい。その一部を抜粋してみる。 ーインドへの準備はとういうものだったんですかーー 二つある。捨てること。それに準備しないこと。僕の場合はね。学校。アパート。家具。本。捨てて支障のないものは全部捨てたり、 売り払ったりしたんだけど、そうしてみると、案外ほとんど自分の身の回りのものに切実に必要なものは、歯ブラシぐらいのも のってことがわかる。 さっぱりしたよ。 準備しないってのはね。情報を一切入れなかったことだね。旅の目的地に関する。 (字数制限の関係でカット2009年04月4日) ・・・・・・・・・ 2007年04月04日(水) 2192, 人生とナメクジの線 オッ(*^○^*)ハ?ヨウ! 「キャリア」の語源は、ナメクジが這った後に残る線という。思わず噴出してしまったが、人生もナメクジの這った跡の線と思えば、 何も深刻ぶることはない。這っていく前には線は見えないが、後ろにはまるで道のように跡が残り、その跡が進むべき方向を示して いるようでもある。我われが、明日を考える時に、やはりナメクジの跡の線と同じように歩んできた自分だけの線を振り返る必要がある。 ナメクジの優劣や跡の線など、それが如何したとみれば、悩みの殆どは消える。そういう喩えをみると、さらに展開をしたくなる。 そこで思いつくのが、家付きのナメクジ?、そうカタツムリである。家が無いカタツムリをナメクジとみれば、我われの持ち家など 持つことはない。これでは話が面白くないので、「塩という世間を這いまわり自分の身体を溶かしながら生きるのが人生」 と考えると尤もらしい言葉になる。 ひろ さちや著のー「狂い」のすすめーの中にあった一節を思い出した。 * そこを抜粋すると * 「カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる」私たちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。 そういう殻を背負ったカタツムリが旅をするのは、そうした殻を捨てるためです。殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。 そうした気持ちの旅こそ、最高の旅である。たとえば、インドの貧困だって、貧困を悪いものだとみるカタツムリでなく、 貧困もよいものじゃないかというナメクジの目でみることができれば、素晴らしい旅になるはずです。 インドの子供の裸足を見て「かわいそうに・・」と思うかもしれませんが、「裸足のどこが悪いんだ、上等の靴を履かされて、 重い鞄を持って塾通いと、裸足でのびのびと遊んでいるインドの子供と、どちらが幸福なんだ・・・?」とね。 ▼ 土手を歩いていると、よくカタツムリが道を横断している。しっかりと、その跡がついているのだが彼らとて大変である。 雀とカラスの丁度良い餌になったり歩行者に踏むつぶされ、線が横断途中で途切れているのを見かける。 お悩みの諸君!悩んでいる自分をナメクジと鳥瞰した喩えで笑えるなら、もう半分は悩みは解決しています。
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2014年04月03日(木)
* 書斎は、自分の壺中! 3年前のリタイアで、まず考えたのが自分の居場所。それまで仏間の一角に本棚と机を置いていたが、 ほぼ座ることはなかった。家では居間で、早朝に起きて、本を読むか、ノート型パソコンでブログを書いていた。 仏間の一角は、あくまで、そのための予備コーナーの場でしかなかった。また、通勤の新幹線の往復一時間の座席も、 大事な読書空間になっていった。高速の移動空間は、脳にとって最適だが、この様。 更に会社の事務所も、訪れる人も 少なく、ここも書斎空間になっていた。しかし、リーマンショックで、リタイア時期が三年早く到来してしまった。 一挙に失われた会社の事務所と新幹線の時空間が必要になって、倉庫と仏間の一角に移動することになる。 もともとあった机と書棚に、サイドテーブルを設置し、事務所のパソコンと、ミニコンポ小型書棚を移動した結果、 そこは私の最適空間になっている。今では、早朝に2〜3時間、午前9時半〜12時まで、平均5時間はいる。 ここは心の落ち着く自由空間で、我ながら気にいっている。音楽をバックグランドにて、自由気ままに、読書をし、 ブログを書き、ネットサーフィンをし、瞑想をしたり・・・ 男には趣味に没頭できる空間が必要である。 先日、図書館で文庫本のコーナーで偶然、『ミニ書斎をつくろう』杉浦 伝宗 (著)を見つけた。立読みだったが、 「書斎が無理なら、ミニ書斎をつくりなさい」には、全く同感である。私の空間は、仏間の半分の、2m四方の4平米 だが、著者の目安は1・3m四方。 私の一歳下の団塊世代が、一斉に停年になって家に入っているが、問題が居場所である。 著者は狭小住宅を手がける建築家で、1畳・1万円の予算から、階段下や寝室の一部などの空きスペースを書斎化する アイデアを提示している。 流し読みで、面白いと思ったのが、「ミニ書斎は壺空間」。自分独りのシェルターの確保こそ、 粗大ゴミと蔑まれる我身の守るため必要なことである。もう一つ、電子書斎があれば、その空間は更に良いものになる。 オタクもいいところだが!「大不況には本を読む」(橋本治著)を、借りてきた。ネットの検索に、「ミニ書斎 写真」 と入れたら、面白いものが多くあった。 私のミニ書斎と共に、ヤフーブログに載せたが、理想的な良いものが多くある。 ・・・・・・ 4400, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −2 2013年04月03日(水) 『 隠居大学ーよく遊びよく遊べ 』 天野祐吉、お相手 横尾忠則 * 第一時限 ー猫の自由に学ぼう 横尾忠則 横尾の『猫の自由に遊ぼう』が面白い! 気の向くまま、飼主に気兼ねすることもなく、自由気ままに時間を過ごす。 これを御隠居と二重合わせにしている。専業主婦の家庭は、亭主が犬型で、主婦が猫型に自然になっている。家内をみると、 つくづくと猫の生き方を見て取れる。亭主は会社で赤くなったり青くなったり。しかし、猫型の主婦は、給料を持ち帰って くれれば、我関せず。 亭主は、リタイアー後も猫になりきれず、切れた首輪をつけたまま外をうろつく。 元何某の 肩書きなど何にもならない。リタイアをして新しい環境に直ぐに適応するために、長年かけた準備が必要になる。 以下の対話は、なかなか面白い。 ≪ 天野: 猫型人間とか犬型人間とかいうが、誰にでも心の中に両方を養っているじゃないかと。子供の頃は、 だいたい猫型の方が偉そうにしているが、大人になって組織の中で働くようになると犬の方が成長していく。 横尾: 猫は、僕にとってアーティストの見本です。猫は妥協しないし、犬みたいに尾っぽを振らない。 自分に忠実で、他人に忠実でない。アーティストは自分以外に忠実になっていけないのです。 天野: ぼくの場合ですと、二〇年前にふっと気がつい。自分の内側をのぞいてみたら犬ばかり肥大していて、 猫は息も絶え絶えになっていった。動物虐待もいいところだなあと思って、それから犬的部分の猫に栄養を 与えるようにして。そして猫が元気を取り戻してきたら次第に「なんで真面目に働いでばかりいたんだう。 こんなことのたために生れてきたのか?」という思いがどんどん強くなってきたんですね。そして、これって、 多くの隠居候補の人に気持ちに近いと思う。世の中のルールに従うことも、あるいは働くことも大切なんだけど、 でも隠居生活を送る上では、猫の自由をもう一度学びなおす必要もあってよいんじゃないか。 それで『猫の自由に学ぼう』を隠居大学の校訓その一にしたいと思ったんです。≫ ▼ 私の中の犬猫は、首輪をつけたままの野良犬と野良猫。一応、自由に放飼いをしていたが、何時も喧嘩ばかりで、 札付きの嫌な奴である。どうも酒を飲むと、表立って出てくるから困ったもの。 青年期までの猫、成年期の犬、 そして老年期に猫に戻るという説が何とも珍妙である。両者とも野生動物を人間に都合の良いよう改良されたもの。 「犬は家につき、猫は人につく」というが、今さら男は新しい人間関係の構築は難しい。縦社会で生きてきた男達は、 横社会には向いていない。家では嫌われ、紐のきれた首輪をしたまま街中を彷徨うか、猫を被るしかない。誰?それ! ・・・・・・ 4026, 「人生の知恵」ノート 2012年04月03日(火) 4年前に、図書館からグラシアンの「賢人の知恵」という本を借りてきて、ここで書き始めたが、一回限りで終わっていた。 少し読んで、いま一つピンとこなかったので途中で止めていた。ところが先日、図書館でー本当に役立つ「人生の智恵」ノートー というグラシアンの他の訳書を見つけて読んだ。 今回は、言葉の一言一言が納得出来た。 現役を退いたこともあるのだろう。 グラシアンの経歴は、『雄弁な伝道師として圧倒的な名声を得るが、1657年、サラゴサでの聖書学の教授の地位を追われる。 逮捕され、追放されたタラソナという村で一年後に没した。』とある。これで、この人物の処世術が生くさすぎることが分かるが、 内容は、現在も納得するものが多い。“善人が損をするのは善良だからではなく、世間を見る目が甘いからだ。”など、 伝道師にしてはシビア。人間は、真面目に生きているわりに、次から次へと、問題が生じてくる。 何故だろうか、 智恵が足りないのである。グラシアンは、「高邁な知識だけで人生は乗り越えられない。日常生活に適応するのが重要とまでは いわないが、最も必要。使えない知識より、今日使える術こそ真の知識である。」という。 ここで人生と事業を振り返ると、多くのことが改めて見えてくる。 ー 以下は、人間関係を良くする言葉のノート ー 1 愚か者とはつきあわないー愚か者ほど優秀と思っている。指導するだけ徒労。ー互いに思っているからすくわれる? 2 誠実になりすぎない ー蛇の悪知恵と、鳩の誠実さを使い分けよう。自分が騙したことがないから、直ぐ騙される。 3 第一印象にとらわれない ー人の心は多面的。一面だけで判断しない。 4 口に合わない料理をすすめない ー相手の好みを知ること。自分の好みは相手の好みとは限らない。 5 突飛なふるまいをしない ー突飛な振る舞いは、欠点として相手はみる。 6 もろい人間とつきあわない ーもろい人間は自分勝手な心が強い。被害者意識が強く、人は悪意の塊と思う。 7 不幸な人ともつきあわない ー走り続ける成功者は不幸な人と関わる余分な時間はない。 8 他人の欠点に慣れる訓練をする ーこれは訓練で慣れる。 9 多数派とともにある賢者たれ ー周囲に合わせるのは良いが、品位を忘れない。少数派の愚者もいるが。 10 友人であり続ける努力をする ー長く付き合える友人は見定めること。 11 賢者を見つけ助言を求める ー相手を見定め、助言を求めるのは、思慮深さの証である。 12 認められなくてもがっかりしない ー必要なのは厳しい自己評価。 13 会話は慎重に、そして楽しく ー会話は雄弁さより慎重さが大事。相手に合わせよ。 14 親切をおまけにつける ー親切は費用対効果が高い。相手より先にするのが技。 15 相手の急所を見つける ー殆どの人が求めているのは快楽。その急所を見つけよ。 ▼ 品位のない人間は最後の裏切りの切り口で、本姓が分かる。 見上げても見下げても、全て自分の範疇。 ・・・・・・・ 3660,音信不通だった友人から連絡が! 2011年04月03日(日) * 5分の差で助かった 学生時代の友人の奥野和夫さんから、昨日の午後に電話が入った。安否を知るために、 宮城県亘理町の住所先に葉書を出していた。それが昨日になって本人の手元に届き、電話をくれたのである。 彼の話の概要とは! ≪ 妻が病院に行くのに付き添った後、自宅に帰ってきて、たまたまTVを見ていたら、激しい地震が襲ってきた。 それが長い時間にわたり続いたが、急にTVの画面が変わって6メートルの津波が押し寄せるという緊急の内容。 直ぐに6Mより10Mに変わったのをみて、着のみ着のままで自動車で高台の方面に向かった。しかし、道路は 渋滞で前に進まない。そこで機転をきかせ農道に回ったが、そこも渋滞。その間に余震が激しく前に進めないほど。 それでも何とか高台に辿り着いた後の5分後に大津波が襲ってきたという。 その後、避難所に行ったところ数百人の 先客がいて寝れる状態ではない。そこで車の中で一晩過ごしたが、着の身着のままで逃げてきたため、寒がきつい。 暖房もガソリンが無くなるので、一晩中、5分ごとにエンジンをつけたり、止めたりして過ごした。朝までの時間が非常に 長く感じた。水洗トイレは、ボランティアの中高学生が水を近くの川から次々と運んでいた。命は助かったが・・・ 妻が病のため、避難所では悪化の可能性がある。 ふと30分の所に前の会社の先輩が住んでいるのを思い出し、 そこに9日間、避難させてもらった。そのうちに群馬の実家の兄に連絡がついて、車でガソリンを新潟県経由で持って きてもらい、何とか兄のいる実家にたどり着いた。最近になって道路が復旧してきたので、自宅を見てきたが、 1Fが海水の泥で滅茶苦茶のため、廃材処理の手続きをしてきた。命一つでも助かっただけで充分! 火災保険に入っていたが、地震保険には入ってなかった。 ≫ ー以上が、彼の15分間の電話内容だが、一つ判断を間違えれば助からなかったようだ。住所の亘町荒浜は 仙台飛行場の南下に位置し、阿武隈川の河口にある。 終の住処を、そこに選んだことに羨ましさを感じていた。 それが、まさか・・・ それでも命が助かっただけでも喜ばなければなるまい。他人ことではない、まさかまさかの日々。 ・・・・・・・・ 3295, 果たして、日本は財政危機が訪れるか? 2010年04月03日(土) 昨日の朝日新聞の ーキーパーソンーのみずほ証券の高田創氏への 「先進国最悪の借金、財政危機は起きますか?」のインタビュー形式の内容が、時が時だけに注目して読んでみた。 ー その内容を私の主観でマトメテみた ー 日本の国債残高が2010年度で637兆円に達する見通しだが、「先進国で最悪の借金体質」といわれる中で、 国債発行余力を探った。 (字数の関係でカット2012年4月03日) ・・・・・ 2920,私は嘘しか言いません 2009年04月03日(金) ー養老孟司が、対談で次のようなことを述べていていた。 《 数年前に亡くなったユングなどの研究者の河合隼雄が真面目な話をする時に「私は嘘しか言いません」 と言っていたそうです。これは考えてみたらシミジミと効いてくるセリフです。つまり「私は嘘しか言いません」 というのが本当だと既に嘘をついている。河合さんは、この言葉に「言葉など当てになりませんよ」という意味を 込めていられるのだと思いますよ。》 なるほど、面白い。 哲学に似た問題提起があった。 「クレタ人の嘘」である。 ー『クレタ人は嘘つきだ』が真ならば,クレタ人が発した『クレタ人は嘘つきだ』自体が嘘で, クレタ人は嘘をつかないことになり,『クレタ人は嘘つきだ』が真という仮定と矛盾する。 もし、『クレタ人は嘘つきだ』が偽ならば、クレタ人は嘘をつかないことになる。 つまり、『クレタ人は嘘つきだ』が真となってしまい,『クレタ人は嘘つきだ』が偽という仮定と矛盾する。 『クレタ人は嘘つきだ』の真偽がいずれであると仮定しても、矛盾が起こる。ー 言葉の何とも妙なところだが・・ 「私は嘘をいいません、信じてください!」の口癖の人がいた。 これほど好い加減な言葉はないが、言うほうも言うほうだが、騙される方も騙されるほうだ。騙している方も騙されている方も、 ボケ漫才のように気づかないから始末が悪い。それなら「私は嘘しか言いません」の方が良い。それも哲学的ときているから面白い。 しかし、それでは世界が回らない。詐欺師は「嘘しか言わない」からこそ、その奥にある言葉の意味を知っている。言葉は共同幻想、 そして仮想を創りあげる。それに己が気づかないから問題は拗れるのである。「私は嘘を言いません」と真面目に言う人がいるが、 「私は嘘しか言いません」を悪用するとどうなるか? 「私は嘘を言わないように心がけている。嘘を言った分、何倍も自分に 跳ね返ってくるし、自分の中に残る」これは、私の基本だが、一般も同じだろうか? 嘘も方便だが・・・冗談のつもりの嘘で何度も大失敗をしたが。 ところで本当(真実)って何だろう? ・・・・・・・・・ 2556, 印度放浪 ー1 2008年04月03日(木) 『印度放浪』 藤原新也著 朝日文庫 写真家の文章は何故もこのように対象を、そして対象に映った気持ちを上手く表現出来るのだろうか。 言葉の一言一言が詩のようでもある。以前、買って目を通したが、長男がインドへ行ったのを機会に読んでみた。 文庫本になっているが、半分以上がカラー写真で、40年以上前に書かれたものとは思えない。 表紙を開くと、すぐ次のページに、この一行だけが書いてあった。 ー 歩むことに、ぼく自身と、ぼく自身の習ってきた世界が虚偽に見えてきた。ー そして、その二ページ後に、 ーぼくは歩んだ。 出会う人々は、悲しいまでに愚劣であった。 出会う人々は、悲惨であった。 出会う人々は、滑稽であった。 出会う人々は、軽快であった。 出会う人々は、はなやかであった。 出会う人々は、高貴であった。 出会う人々は、荒々しかった。 世界は良かった。 《旅》は無言のバイブルであった。《自然》は道徳であった。《沈黙》はぼくをとらえた。 そして、沈黙から出た言葉はぼくをとらえた。良くも悪くも、すべては良かった。ぼくは全てを観察をした。 そして、わが身にそれを《写実》してみた。 ▼ 40歳になって15年ぶりにこの旅をふりかえった著者が「なぜインドに行ったのか」の質問に言葉がつまり、 その若者の後の影に、過去の自分を投影する。 (若いときの自分について) 青年は何かに負けているようだった。たぶん青年は太陽に負けていた。 そして、青年は大地に負けていた。青年は人に負け、熱に負けていた。 青年は牛に負け、羊に負け、犬や虫に負けていた。青年は汚物に負け、花に負けていた。 青年はパンに負け、水に負けていた。青年は乞食に負け、女に負け、神に負けていた。 青年は臭いに負け、音に負け、そして時間に負けていた。 青年は、自分を包みこむありとあらゆるものに負けていた。 疲れたその青年の目は表情を失っているかに見えたが、太陽にいられて眩く白熱する、 目の前の地面を、ただぼんやりと見つめ返すだけの意思をわずかに残していた。・・・・ ・・・なんか知らんけど目茶目茶に何でもかんでも、負けにいったんじゃないかなぁ。最初の頃は。 (字数の関係でカット2012年4月03日) ・・・・・・・・・・ 2007年04月03日(火) 「定年以降の生き方」を考える 才八∋ウ_〆(∀`●) 今年から、大量の団塊の世代が定年を向かえる。 その第一期生が、この4月から正式に大量に会社から(悪くいえば)放りだされる。「組織」から離れて「個」として、 どのように自立(自律)するかが問われる。「孤独」「孤立」した時に、自分と如何に付き合っていくかが真に問われるのが、 これからの人生である。それまでの組織内での相互依存関係の環境が、自分自身への依存になるから厳しい。 宅上犬が「明日から家の外で暮らしなさい!」と翌日から屋外に放り出されるのと同じ。勤めていた会社の価値観は、 他では全く通用しないしないことに、そこで初めて気づく。鑑札のある首輪があるうちは、誰も温かく向かえてくれるが、 首輪が外されてしまえば、誰も相手にしない。その時ただ一人茫然とするしかない。そこで手っ取り早く 「定年退職者の溜まり場」にソソクサと出かけても、「自己を持たない濡れ落ち葉同士の葉っぱ」の絡み合いになるのは、 当然の成り行き。 そこにいるのは自分と同じ「虚しさ」を埋めにきているゾンビばかり。「人生とは何か」を考えたことの ない人は、自我の先の自己が希薄である。そこでは自我と自我のぶつかり合いになるだけ。ここではゾンビの話ではなく、 定年退職後の生き方を問おうとしているのである。面白いので、つい話がそれてしまった。 還暦になる前に10~30年かけて ライフワークを確立すべし!ということ。今さら言っても仕方がないが・・ 面白いから話を続けよう。 そこでは即席でもよい、「楽しい」と思えることをやること。その「楽しい」が何かも解らないから始末が悪いときている・・ 何時間やっても疲れないものを探せばよい。 それも解らない? じゃあ、愛玩動物ーペットが好き?なら、飼えばよい。 もういる。もし犬を飼っているなら、さらに小鳥を飼えばよい。もし持ち家があるなら家を売って、その資金で旅行三昧を すればよい。その覚悟がなければ、家の中でウジウジすればよい。二度とない人生、最後は楽しみ尽さなければ。 定年後は、年金の他に10万円の収入が理想という。年間120万円あれば、海外の安いものなら夫婦で二回は行ける。 せっかく死が貴方の後ろから追いかけてくる歳になったのだから、その死への恐怖と危機を借りて、他人からの目や、 プライド、見栄など、一度無視することである。死の前では、そんなものは霞でしかない。限られた時間を自分の奥底の 声の通り生きなくては何の意味もない。死ー無という絶対的な宇宙からみたら自分の存在なぞ無いに等しい。 だから一度独りになって、ジックリ多くを考えるべきだ。図書館があるでしょう、図書館が!それと身近にいくらでも自然が! 美術館も、いや百貨店もある。それに気づくには独りになりきることしかできない。誰かに言われそうだ。 シツコイ!同じことばかり書いている、と。定年の時期なので、ついついアウトサイダー的人生観は、これから必要になるから? (別の声)そういうけどね、今さら如何すればよいんですか、路頭に迷ってしまっているのだから、致し方ないのです。 ただ、朝起き、飯喰って、ボーッするのも、良いじゃないですか。それしか出来ないのだから。何で好きなことを探さなければ ならないのですか? こういう生活が好きなのだから、ただ比較しているだけじゃないですか。ウジウジして生きる、 ナメクジの人生もあるのですよ。人生、人生というけど、ナメクジのはった跡を言っているだけじゃないですか。そんなもの!
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