堀井On-Line



4184, 閑話小題 ーつれづれに

2012年09月09日(日)

  * 元IBM社長が・・・
 ネット以外は、あまりマスコミでは流れなかったが、元IBM社長がiPhoneで女性の下着の盗撮をしたとか。
男は50歳までは多かれ少なかれ異常性欲者? たまたま超エリートが少し変わった趣味だったに過ぎない、という同情もある。
前科があったかどうかだが、その後、マスコミが騒がないのは悪質で無かったためか。超エリートが、その危険をかえりみず
盗撮をするスリルの快感は本人しか解らない。私など、最近、時どき深酒で、ある時間から記憶が無くなることがある。
「ハッとして起きてみたら留置場の中」なんてことがあっても不思議はない。ネットの写真じゃ、満足できないのは分かるが。
それにしても・・ これだから娑婆は面白い。常にデジカメを持って歩いているが、気をつけないと!
  * 「あと20年以上生きそうな感じがする!」には驚いた
 中学校の同級会で隣に座った男の言葉。私など不摂生もあり、あと5〜10年が限度と思い込んでいたので、実のところ驚いた。
飄々とた何か仙人を思わせる雰囲気を漂わせているが、この感じなら、さもありなんである。節制をしているから言える言葉。
そこで自分を振り返ると、どうみても十年以上は無理、せいぜい75歳あたり。 まず、そこを目標とすると、あと8年4ヶ月。
2021年1月15日である。何とか節制をすれば? しかし、現在の酒量からみて明らかに無理。毎日の晩酌が美味いのである。 
最近、20歳位の人を見ると、「私より50年以上も長く生きるんだ」という思いが先に立つ。 去年春の一連の出来事、人生の
側面からすれば、人生の整理に入るためにフリーハンドになるため。それにしても、その自覚は薄い。で、幾つまで生きたいのか、
自分に問うてみた。80歳である。そこまで生きるべく節制するか、一年一年、二倍濃厚に生きるかである。
それとも、80歳を目標に節制しながら二倍以上濃厚に生きるか? 濃厚に生きなくても、実際に濃厚だから、このまま?
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3819, つれづれに
2011年09月09日(金)
* ドル安がジワジワと景気に影響をしてくる時節に入った。 それと新米の問題が出てくる。
 もし県内の何処かで汚染米が出たら、全ての県内米に影響を与えることになる。
 ヒヤヒヤだろう、農業関係者は。 それと輸出業関係者もギリギリのはず。
* ドル安と同時に、ユーロも110円を割ってきた。
 ECもピッグス=PIGS(ポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインなど)を抱え、
 足元が揺らいでいる昨今、100円を割る可能性がある。これも数年前から、破綻すると言われていたことが。
 そのため、金(ゴールド)が一年で5割以上も値上りをした。 金が上がったというより、
 欧米を中心とした紙幣の価値が下がったため。 これは株式と国債が暴落につながってくる。 
* 9月、10月のある日、欧州か、アメリカ発の株式大暴落の可能性が大。
 日本国民は東北大震災で大打撃の現在、世界経済の変調の動きに鈍感。
 三年前の9・15、そして、十年前の9・11ダブルの津波の波が、いかに甚大なものか、
 イメージが出てこないのか。 大震災の直後、識者も今更騒ぎ立てることもできない。
* 恐らく現在も事業を続けていたら、売り上げは更に3~5割減の筈。資金ショートで、業者や給与も払えず倒産の頃。 
 悪い倒産の惨状は地獄。 地方経済は、その一歩手前。 世界の何処から火の手が上がるか、木、金曜日は要注意。
 ギリシャ国債の金利が20パー、ということは実質破綻である。欧州経済は、導火線に火がついた。
  { 何か、極度に悲観的のようだが、まだまだ言葉が足りない。 最悪に備えているかである。}
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3454,  つれづれに −政治談議 
 2010年09月09日(木)
* 民主党党首選挙について
前にも書いたが中長期的にみたら、やはり小沢がなるしかない。 管首相は選挙管理内閣で終わるべき。まず、その器でない。
それが役割以上のことをすれば、それは国害になる。左翼運動家上がりが、さらに過激派だった男を官房長官に据えれば、
舵取りを間違えることは誰の目に見ても明らか。 実質オーナーの小沢を首班指名をされた途端に手の裏を返すとは、
あまりに露骨で稚拙である。まだしも愚衆の目を欺く演劇なら分かるが、本気でやるとは思いもよらないこと。
それが、あの官房長官と財務長官の指名である。 それにしても、あの世論調査ってのは何だろう。 
現在の政治と内閣は「世論調査内閣」といってよい。 世論調査で政治の行方を左右するなど、亡国の極まりである。
100・250・500年スパンの世界的激変の時代に世論に動かされる舵取りなど、とんでもないこと。
タイタニックの船内の連中に海原の向こうの大波が見えるわけがない。 それを彼等の顔色に従って舵取りをするなど、最悪。 
船内で揚げ足を取りの経験しかない彼らに船の舵取りを任せた国民も問題あり。 間違いに気づいたなら、早く政界再編をして、
体制を作り変えないと国家破滅になる。それはアメリカにとっても、中国にとっても望ましいこと?自民も駄目、民主党も駄目なら、
それを解体して新しい枠決めをしなければならない。また政治家の二代目、三代目しか、政治の表舞台に出れないシステムも、
変である。明治維新後、学歴を自力で上り詰めれば、誰でも出世のチャンスが、日本を短時間に飛躍的に国力アップにつながった。
どうも、こうも、日本は気がつけば戦後65年で、頭から尻尾まで、腑抜けにさせられてしまった。
それでもネットでは小沢の支持が八割という。世論調査とかいうのは、どうも誘導されたマヤカシでしかないと考えた方がよい。
蓋をあければ、小沢が間違いなく勝つだろうが、それでも、この国の民度が異常な低下からみると、管首相の続投も有りえる。
その時は、間違いなく政界再編成しかない。いずれにしても、あと数日で大きく政治も動き出す。
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3079,不況景色 −12
 2009年09月09日(水)
 この御題目で書くのは6月1日以来で3ヶ月あまりになる。その前に「世界恐慌に入って、まる7ヶ月」というテーマ名で二回書いている。
「不況景気などを今さら書くことでもないだろう」だが、そこが生き物、ジワジワときている。9月に入って落ち込みが始った。
こういう先ぶれが居酒屋とホテルに最初に来る。 現場段階は十数兆のバラマキで何とか小康を保っているが、何が起きても不思議でない。
重体患者を緊急の大量輸血で持たせているようなもので、集中治療室にいる事態は変わりない。衆院選挙が8月末まで延びたため、
株の暴落や経済の大混乱が来年2月まで延期しただけのこと。まだ東海地区の輸出産業は、この数年間の好況の蓄積があるが、他の地方は
体力を使い果たし、大きく弱体化している。これに悪質のパンデミックでもなれば、大きな波乱が起きるのは必定である。 週に数回は、
通勤の帰りや、家内のお供にスーパーや、駅の専門店街によるが、実際に売れてない。TVのワイド・ショーで、「はしっこ食品」や
「訳あり商品」の特売などを特集をしていた。ハム、カステラ、魚などのスミの切り落としが半額から三分の一になるのだから客は殺到する。
そういえば最近、生ハムや鳥肉の燻製の『切り落とし』を、安さにつられて買ってしまうことが多い。 新潟駅前周辺の飲食街では、
潰れた店の後に出来るのは「ホルモン焼き肉屋」が目立つ。「安く、小じゃれて、腹が一杯になる」のが必要条件だが、時代が変わったもの。
 当社も、長期のミニ団体が何組かが途切れずに入っていたが、それが少なくなっている。 夏場の稼ぎ時は別腹と期待していたが、
この冷夏で結果は芳しくはない。 それでも9月下旬から10月にかけて国体があるので、数字は何とか例年に近い数字は作れそうだが、
甘くないことは事実。  町内会の役員の人から聞いた話だが、新潟市内の町内連合会が、急激な売り上げの悪化に、駅再開発計画を
改めて説明会を開いて聞いたという。 今さらであるが。(10年遅れである) これに北陸新幹線開通という2014年問題がある。
新潟県にとって大打撃になるが、それを誰も真剣に考えない。20年前に既に新幹線を新潟空港まで延長、その沿線に環日本海都市としての
機能をコツコツと造っておくべきだったことすら、誰も気づいていない。 飛行場の直接乗り入れも大きい要素だが、
「日本海に東京駅直結の新幹線の乗り入れ」が良いのである。 僅か5〜10キロの延長で済むのにである。 
そこに新幹線駅沿線のサッカー場と野球場をつくり、野外スポーツなどのレジャー施設を長年かけて造るべきべきだったのである。 
更に夢のある高齢者向けの施設と、本格的な中国人街もである。金沢が関西と関東を後背に新日本海都市創りを始めるのは目にみえている。
 不況景色から少し話が逸れたが。
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2714, 大相撲が面白い! −2
2008年09月09日(火)
 せっかく、面白くなってきたところで、北の湖は辞任。三重の海の武蔵川が理事長に選ばれた。
そしてロシア人二人は解雇。 当然のことである。起訴猶予になった若の鵬を含めた三人をロシア政府は急遽帰国させるだろう。
  (以下、字数制限のためカット09年9月9日)
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2007年09月09日(日)
 2350.ベナレス・・・6
 2,ヒンドゥー教とは
ヒンドゥー教は紀元前一五〇〇年頃に西方からインド亜大陸に移住してきたアーリヤ人が
信仰していた祭祀中心の宗教を核にして、先住民のもつさまざまな民間信仰を融合して発展してきた。
それ故・この宗教には開祖が存在しないが、そのかわり『バガヴァッド・ギーター』(神の歌)など、
人びとを宗教的な道に導く数多くの聖典が編纂された。 ヒンドゥー教は基本的には多神教であるが、
それらのうち主要な神のどれもが最高神と考えられるという独特な神観念を持っている。
   (以下、字数制限のためカット09年9月9日)
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2006年09月09日(土)
1985, ハイデッガー
       (。^0^。)ノオッ*^○^*)ハ〜 ヨウ             
10年来、トイレに常に哲学書が置いてある。そして一年に一度位の間隔で、入れ替えをする。
そして、普段も必ず哲学書のいずれかは私の鞄か机の横にある。歳を重ねた経験の裏づけが哲学の言葉を噛み砕いて
くれるようになった。哲学的大問題の「死」に向き合わなくてはならない歳になったこともある・・・
「首切り役人の日記」とか、このHPの随想日記で辛辣に死について書いている。哲学にしても宗教にしても結局は、
 ー人間いかに生きるべきか? そして最後の最後は、いかに死ぬべきか?ー ということだ。 あと何があるのか?
 もし知っていたら教えて欲しいもの! 『面白がって死ぬことだ!』という黒鉄ヒロシの言葉位か、面白かったのは!
「ヒーヒー悲鳴を上げてジタバタしている最後の自分の姿をみるのが何で悲しいの? 
こんな面白いことが何で?」彼ならでの言葉だ。冷静に自分を見ていなくては笑えない!
ハイデッガーは、「その死を意識的に見ないようにして日常をすごしている我われの姿を、そのまま直視。 
見ないようにしている死が、我われにマトワリついていて、それが不安という漠然とした心理になっている」と看破している。
彼は不安とは現存在として最も根本的な気分であるとし、現存在は世界内存在として理由もなくこの世界に投げ出され、
そのつど、何らかの気分に規定されていると・・ 日常性の中に埋没されて生きている非本来的あり方から、
本来的自己を呼び覚ますきっかけとなるのが不安であると・・とりわけ「死」の可能性の前にしての不安において、
現存在としての根源的開示がはじめて生起する。我われはいつか死ななくてはならない。「この私」の死を誰も変わってはくれない。
その死を痛感する時、人は日常から引き離され、単純化し、自分自身と対面せざるを得ない。
その死を見つめることによって、その可能性に「先駆」することによって、初めて本来の自分を取り戻すことができる。
おのれの実存をたえず知覚させてくれる気分として「不安」を考察した。恐怖と不安は違う。恐怖は対象を持つが不安は対象を持たない。
ハイデッガーは「私は何が一体不安なのか?」という問いをする。「私が存在そのものが不安なのである。」という。
「私がある」こと自体が不安の発生現場で、私の存在は「無」の中に沈みこんでいくのである。それが不安の時である。 
不安は人間そのものの根源的な性格なのである。 彼は「人間は、日常性の中に存在の本来性を忘れている」という。
われに現存するのは「他人の死」のみである。「死、それはまだまだ自分の番ではない!」と思っているから、生きていけるのだろう。
私が死を度々とりあげるのは、その死を直視することで、生とは何か考えるためであり、現存している自分を見つめるためである。
夕陽をみて人は、その太陽を自分に投影する。 一日の死である。そして、朝陽をみる、今日の生誕を感じる。そ
して、その夕陽のように沈んでいく。しかし、夕陽のように沈んでいく死だけでないのが、人生の妙味であるから面白いのである。
                        (。^0^。)ノホンジャ、マタ!  あの世で! いや明日!
 そういえば、明日とあの世は似ている。あると言えば在るし、無いと言えばないし!
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2005年09月09日(金)
 1620, 「仮想と虚妄の時代」
月刊誌の文藝春秋5月号の石原慎太郎の「仮想と虚妄の時代」ー援助交際と純愛ー が、現在の日本の現状と病巣を書きあらわしていた。
若者、いや現代人の携帯電話やインターネットの仮想と虚妄の実体と病理をえぐっていた。ITは確かに便利で効率は良くなったが、
人間の情緒などの一番大事な部分を失ってしまったと看破。ITは情報を提供してくれるが、人間本来の情念やエネルギーまでも伝えない。
そのため、リアリティと虚構の差が解らなくなってしまう。私の知人に、何かあると友人に携帯電話で相談する男がいる。
それも、いい歳をした大人?である。自分の頭の中で、「あれやこれやを考えること」ができない。思索を何度か繰り返した上で
相談するなら解るが、それを一切しない。いや出来ないのだ。本人を観察すると、彼は本を読んでいない。読書は著者との無言の対話である。
それを普段の生活の中でしてないから、内面の対話が出来ない。だから、何かあるとすぐ携帯電話で相談するしかない。
事態を多角的に見ることや深く掘り下げることなど、彼の世界には存在していない。
携帯は会話しか成り立たない。内面の対話をした上で、それを相手に投げかけをしあうのが対話である。
  ー石原はここで以下のように述べていているー
ー最近、問題になっているエンコーなどの新しい風俗の正当化(?)のために作られる言葉の醸し出すヴァーチャルなイメージは、
ことの本質を外れた価値判断を容易に導き出す。内質の空疎化とは想像力の枯渇であり、無個性化による自己喪失画一化であり、
人間としての尊厳の喪失の繋がり社会そのものの活力を失わしてしまうーと警告している。
現在、中高等学校の生徒の間で人気のある生徒の評価の指標が勉強やスポーツの能力ではなく、ただ携帯電話が鳴る頻度と、
いかに多くの連絡相手が登録されているかにかかっている現象は、人間関係における本質の変化を暗示している。こうした浅はかな
人間関係が何ももたらさないことを、彼等は解っていない。そんな交流の中では本気にお互いを預けあい頼り合うことができるだろうか。
 ーー
 そういう私も一日数時間もパソコンに向かい、家ではTVを3時間は見ている。情報の多くは、ITから得ている。
それから入ってくる情報は、実際のところ生の人間からも質も量も格段に上である。
だから困ったものである。この随想日記で書いている内容は、私の脳の多くの部分を占めている。
実際に会って話すより、より自分の言いたいことが顕わに書いてある。 といって、それが私の全てではないし、
誤魔化しも、虚構もある。やはり、情けの報せとして直接会わなければ伝わらないことがある。
 −−
 また、この中で触れられているホーキング博士の発言の部分が面白い。
石原慎太郎がホーキング博士の講演に行った時「地球ほどの文明を持った惑星は、どのくらいあるだろうか」という質問に
「二百万ほど」という答えがあった。それに対して、「それほどの数があるのに、どうして他の惑星の生命体を目にすることが
ないのだろう」と質問があった。 その答えが、「現在の地球ほどの文明を保有してしまうと、そうした惑星は自ら正当な
循環を狂わせ環境を破壊しつくし、文明の主体者たる生物は内面的にも極めて不安定な状況をきたして、彼らの惑星は宇宙の
時間の総体に比べればほとんど瞬間的に自滅してしまう」というという答えであった。終末論や環境論として興味深いものである。
ーー
以上が概要だが、情報化は基礎教養の蓄積があってこそ、
仮想と虚妄の世界に漂う現代人は、自分という存在さえ仮想と現実の境が無くなっている。
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2004年09月09日(木)
 1255, ダイエットに100万円賭ける ー2
  (以下、字数制限のためカット09年9月9日)


4183, 呪いの時代 ー3

2012年09月08日(土)

             「呪いの時代」内田樹著
  * 記号の過剰化      ー 第2章 「祝福」の言葉について ーより
 呪いは怒りや羨望、嫉妬などの要素が相まって内面に作りあげられた一種の記号と著者が指摘している。
しかし怒りの感情を言葉にし繰り返すうちに、その毒が己の脳を侵してしまう。鬱である。そこで医者から貰った
ハッピードラッグで目先、散らしている内はよいが、いつの間に、それが呪いの感情を更に強く苛んでいく。
呪文は記号のため、反復するうち、その人そのものになってしまい、自滅の道をひた走ることになる。
 次の箇所は、悲劇と喜劇の境い目としてみると、うなずける。
≪ なぜ、このようなニヒリズムが社会を覆うようになったのか。それについて考えてみようと思います。
 僕はそれを「記号の過剰」あるいは「過記号化」という枠組みで説明できるのではないかと思っています。
「呪い」は、その本質からして、記号的なものです。藁人形に五寸釘を打ち込む「丑の刻参 り」という古典的な呪いの
儀式がありますが、これ自体、きわめて記号的な行為です。生身の人間の心臓にではなく、代替物の藁人形に五寸釘を
打ち込むわけですから。メタファーとして行われる殺人が生身の人間の生き死にに影響を与えるという信憑が共有されて
いないとこの種の類感呪術は有効性を持ちません。つまり、藁人形が生身の人聞でないように、殺意や嫉妬、羨望や憎悪も
記号化されない限り呪いとして機能しない。忘れられやすいことですが、呪いが機能するのは、それが記号的に媒介された
抽象物だからです。具体的、個別的、一回的な呪いというようなものは存在しません。あらゆる呪いは、抽象的で、
一般的で、反復的です。それが記号的ということです。
 なまの現実が記号化されて、「情報」になるプロセスを「情報化」と呼びます。情報とは「なまもの」が加工され、
分類され、ラベリングされ、パッケージされたもののことです。「高度情報化社会」とは情報だけが行き交い、
「なまもの」に触る機会が失われた社会のことです。生きた動物が殺され、皮を剥がれ、血を抜かれれ、骨が切り離されて、
細切れになってパッケージされるという工程については誰も考えず、清潔な商品だけが売り買いされている。
 医療でも過情報化の問題は深刻なものです。当今の医師たちは、なまものとしての身体ではなく、「記号としての身体」
を診療している。『医療崩壊』の著者である小松秀樹さんが指摘されていましたが、今の診療室では、机上のパソコンの
ディスプレィに患者のカルテや検査数値が表示されます。患者が診察室に入ってくると、医師は患者を診るより先に、
まずディスプレイに表示されたさまざまの数値を見る。うっかりすると診療時間のうち、患者の顔を見ている時間よりも
ディスプレイを見ている時間の方が長いのです。 ≫
 ▼ TVのワイドショーは情報を提供するところ、情報化は「なまもの」とは違うため、それを扱う解説者は、
  記号としての言葉にして発信するするため、呪詛的な言葉になっていく。それを受け止める視聴者は、いつの間に、
  呪いとして、なまものを呪ってしまう。これが端的に出のが政治であり、政治家は手軽な呪いの対象になる。
  だから、島国日本の首相は、一年しかもたないのは、何ら不思議ではない。そして、その行き先は? 
 ・・・・・・
3818, 哲学人 ー��
2011年09月08日(木)                     
  * 精神と肉体ー 二元論       ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 
 ー まずは二元論についてのデカルトの誤りを、ライルが指摘している部分からー
【 ライルは二元論について『心の概念』で、私たちの誤用に的を絞って書いている。ライルの攻撃対象はデカルトである。・・・
二元論の生みの親をデカルトと特定したが、実際には二元論、もしくはそれに似たものは、原始時代から人間についての通説となっていた。
常にと言っていいほど、人は自分を、肉体と、肉体に宿る非肉体的な要素から出来ているとみなしてきた。そして常に時代によって霊、魂、
心と様々な呼ばれ方をしてきた、この非肉体的要素を、ある程度独立した存在として、また、そうなる可能性があると見てきたと言っていい。 
  私がかつて、この事実を挙げて異議を申し立てると、ライルはこう答えた。
「この間違いを最初に犯したのがデカルトだと思っている人はいないでしょう。要はデカルトがこの考え方をとても明確に打ち出したので、
デカルトの時代以降、これが教義もしくは定説なったということです。シェイクスピアも聖書も言っていませんが、デカルトは実際に
こう言いました。『私の心はひとつの実体であり、私の身体はそれとは別の実体である』と、それが事実であるかのような言い方なら、
それまでもされたことはありました。が、デカルトは確かに事実であると言ったのです」
 実を言うと私はそうは思わないのだが、それはさておき、精神という実体などないのだから二元論は誤りというのがライルの主旨。
  その著書で述べられている詳細な分析をもとに、ライルはこう書ている。 
 ≪ われわれ人間が行なっているのは、自分の行動と経験のある部分を精神的なものとして分類し、その他の部分とは異なる、
主体に帰属させること、そしてその主体を精神として物象化することである。 精神に関連する概念の使用法を入念に調査すれば、
そのようなことをする正当な理由はないということがわかり、さらには人間は単一の存在であり、行動と経験のただひとつの主体で、
アイデンティティも歴史もひとつしかないことが明かになる。 われわれはふたつの実体が神秘的に結びついたものではない。
これまでわれわれは、「カテゴリー錯誤」(ライルが哲学の世界に広く普及させた用語)を犯してきた。われわれは精神という概念を
一種類のものを意味するとみなしているが、実際は多種多様なものを意味している。 精神とは、独立して存在する実体であって、
なんらかのことをして経験をもつものと考えているが、通常はさまざまな行動形式のうちのいくつか(行為、気分、経験など)を総括する
言葉にすぎず、またこうした行動様式はどれも、正しくはひとつの主体に帰属させるべきなのだ。このカテゴリー錯誤がもととなって、
われわれが自分自身を想定する上で、そして考えたり語ったりする上で数多くの誤りが生まれている。これは哲学的誤謬の好例であり、
我われの思考の広大な領域はこの誤謬に犯されている。≫
 ライルの本は、いかにして言語分析派がこうした問題を解決するかを示す範例である。 P・106  】
▼ 「肉体が消滅した後、私(精神)はどうなるのだろう」という疑問そのものが、二元論である。
  デカルトが言わなくとも、大昔から天国か地獄に召されると言われている。肉体と精神と、あらためてデカルトが述べただけ。
  肉体が無くなれば、当然、精神とやらも消滅するのは、当たり前である。精神を指している一つに『言葉』がある。
 「生きているときに発した言葉。それは現在でも生きている」というが、それは、生前に発した言葉。死んだ後に、言葉は発せられない。
 ・・・・・・・
3453,, ニューカレドニアの休暇 −3
 2010年09月08日(水)
 夕飯でいったフランス料理、ベトナム料理、中華料理が、それぞれ美味しい。フランス領のためだろう。
特に天使の贈りものといわれる「海老」が美味い。 ベトナム料理、中華料理は日本的味付け。
それより新鮮な貝魚がふんだんに入っているからである。値段も、日本の居酒屋に少しプラスした程度である。
 ところで、オプションツアーで行った「天国にもっとも近い島」のニックネームで親しまれているイル・デ・バン島が良かった。
日本では、その称号は森村桂の著『天国にいちばん近い島』から、ロワイヨテ諸島のウベア島がそう呼ばれているが、実際はここ。 
数多くの種類の熱帯魚や珊瑚礁を、透明度の高い海水の中に見ることができた。この島は南北15キロ、東西13キロの大きさで、
島人口は約2,000人である。 珠玉のような島で、ニューカレドニアで是非とも行ってみたかったところ。
双発のプロペラ機で首都ヌメアから30分ほどのところにある。 行く先々の小さな湾の海岸線と海と空が美しい。
いまだ観光づれしてないハワイと考えればよい。ここに宿泊するツアーもあるが、値段は非常に高くなる。
 ニューカレドニアは日本人に特に好まれているようで、親しみやすい。 中国、韓国人の姿は、ここで一人も見かけなかった。
まずはハワイ、東京、欧州、オーストラリアなのだろう。この島を通して、日本の現状を現地のポリネシア人を通してみてしまう。
小さな島国で、フランスの占領に甘んじているが、日本も同じ被占領国。ドルとアメリカ国債という紙切れと小麦・大豆と、
汗水たらして作った商品と交換。 その紙切れは、20年〜30年単位で価値を数分の一に一方的に下げさせられている。
アメリカ、オーストラリアも、欧州人が現地人を虐殺して建国したところ。 現在も、その構図は同じである。
 マスコミを背後で操り、教育システムで骨抜きにし、官僚を洗脳、コントロールすることで、間接占領をしている。
フランス領の観光地で、気楽に避暑。それだけで、深く考えることもないが・・・・
・・・・・・・・
3078,富豪と金の使い道
 2009年09月08日(火)
 一昨日の日経新聞の最後の紙面(「私の履歴書」の隣コーナー)に「富豪と世捨て」というテーマで、
作家で法大教授の島田雅彦が書いていた。昔の富豪の身の処し方と使い方で、西行や千利休などを取上げていた。
井原西鶴の作品の中の‘世之介’は、現在では500億円位の資産で、生涯をかけて色事に追求し、
花魁を次々に身請けをしたが、それでも使い切ることが出来なかった。
 また日本人の昔の粋な生き方として、世捨てを紹介している。死を前にして身軽になることが含意されているが、
不祥事で失脚した時のリセットで、政治家などが清貧を気取る場合がある。その辺が人間の面白さである。
富豪は、その富のために悩みが多いが、人のためにそれを使うのが、一番の悩みを消す効果があるとする。
資本主義の覇者は資本主義によって滅びた物を復活させて、その罪を償う義務がある。失われた神仏を買い戻し、
廃れた神社仏閣を復活させたことなどである。 それが「歴史からの使命」と結論づける。 何代か続いてきた金持ちは、
その使い道さえ無頓着で淡々としている人が多い。金を使っての快楽など知れたもの? 金を気にしないで済む生活こそ豊かさ。 
で、金を気にしないで済む生活は、幾らか。 そう考えると、人様々である。 平均すると、家一軒があって、蓄えが一人あたり1000万で、
夫婦で年間収入400万ぐらい?  ところで、直接、両親の生き方をみてきて、合理的散在?を学んだ。
定額を見定めて、平均して使うことである。 持って彼岸にはいけないことを世間を見て得た知恵である。 
所詮は、蓄財は不安の裏返しの行為でしかない。 私の親戚に「清貧を自認した生きかた」をした人がいた。 
90歳後半で亡くなった時には、3千万近くの蓄財があった。その人の収入からみたら奇跡的ですらある。 
もし、年間300万を65〜75歳の10年間を使っていたら、面白かっただろうに思うのだが。 
私は、それを40〜50歳代後半の二十年間で使ったから、わかる。 といって、年間、150万なら散在ではない?
貯めるのも難しいが、それを後悔しないで散在するのは、もっと難しい。貯めるは努力、使うは芸術というが。 
 ところで、100億を10年で浪費で必ず使うことを約束して神様から貰ったと仮定して考えると面白い。
浪費というところがポイントだが、50億の船を買って世界中をまわったとして、年間5億×10年=50億のコストとみると、
大したことではない。 それなら世界の豪華クルージングの最高級クラスの部屋でサービスを受けた方が良いか? まあ、それも2〜3年。 
でも、面白そうだ。しかし「それが如何した」という内なる声も湧く。 そうこう考えると、一日を真剣に遊ぶ能力こそ重要ということか。
問題が山積みの中、ストレス解消のために遊びに使う散在こそ、価値があるということ?
しかし、富豪はそれを超えた世界があるのだろう。 経験しないものには分からないだけ?
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2008年09月08日(月)
 2713, コピペ
 先週のNHKの「クローズアップ日本」で、コピペを取り上げていた。「コピペ」とは
パソコンのコピーと、ペースト(貼り付け)の略語である。 なかなか考えさせられる内容であった。
  ーまずはNHKの番組紹介を、コピペしてみよう。
 * コピペ 〜 「ネットの知」とどう向き合うか〜
インターネットで見つけた文章をコピー&ペーストして、自分の文章にしてしまう"コピペ"。
ある大学では提出されたレポートの半数近くがコピペで作成されていたという事実が明らかになった。
夏休みには小中学生向けに開設された「コピペで書ける読書感想文」のサイトがアクセス数を伸ばし、
大人の世界でも、役所が募集したパブリックコメントに大量のコピペの「組織票」が提出されるなど、
コピペは今、社会全体に広がりつつある。 「コピペは人間の考える力を弱める」と批判の声が上がる一方、
「新たな知の技法」として肯定的に捉えるべきだとの意見もある中、私たちはネット上に広がる膨大な情報と
どう向き合っていくべきか考える。 (NO.2623) スタジオゲスト : 茂木 健一郎さん (脳科学者)
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以上が概要だが、コピーと、貼り付けは、デジタル社会では当たり前になっている。
私も、随想日記で書くネタがないときは、キーワードの検索で情報を集め、要点をコピーして、張りあわせもする。
そのプロセスで思い浮かんだことを書き込み文章の体裁を作り上げることもある。
学生時代のゼミの論文も振り返ってみれば、彼方此方の本から抜書きをしたものを繋ぎあわせたものだった。
 それだけで精一杯だった。随想日記を毎日書く目的は、自分の日々の情報を第三者に公開することで、
まとめ上げることだから、それでよい。せっかくだから、自分の脳を通して情報を濾過して公開をするようにしている。
そうしないと、何年後に自分の文章を振り返って読んでも面白くない。最大の読み手は明日(将来)の自分である。
自分の情念と苦労が見て取れる内容にしないと、後年に字数の関係でカッの対称になる。
実際に、毎日、(字数の制限がレポート用紙15枚分しかなく)カットしているが、自分を切り裂くようつらい。 
それだけ、汗水を流しているのである。 この番組で、コピペの反対派と、賛成派が出てきて話していた。
賛成派の野口悠紀雄は、情報化の時代に、どんどんコピペをして、そのプロセスで考えればよい。
時間節約になるし、効率よく情報を吸収すべき、という。反対派の人は、自分で考えることを放棄している。 
自分でジックリと考えることで、情報は身に付く。安易に情報を集め、張り合わせるのは、いかがか?という。 
両方とも分かるが、それぞれの人によるだろう。私は野口悠紀雄の説で、どんどん情報を吸収すべきである派である。
使い分けをすればよい。ネット上の日記のほかにもアナログの日記帳も書いている。自分の手で字を書くことも重要である。
これはコピペではないが、結構、レシートとか貼り付けている。
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2007年09月08日(土)
 2349.ベナレス・・・5
 ー多様なるインド世界ー
インドは日本のおよそ九倍にあたる三二九万平方キロメートルの面積を持つ。
これは西ヨーロッパの面積にほぽ等しい広さである。そこに現在十億を超す人びとが暮らしている。
多言藷・多民族の国家であることは言うを待たないが、宗教もまた多様である。
古代から育まれてきたヒンドウー教のほかに、仏教やジャイナ教が紀元前五世紀頃に相次いで生まれた。
紀元後ほどなくしてキリスト教が伝わり、ハ世紀には唯神アッラーを信仰するイスラーム教が本格的に到来した。
またヒンドウー教とイスラーム教双方の教義を批判的に融合したスィク教も十五世紀に興起する。
ヒンドゥー教と仏教は輪廻や解脱の思想を共有する、いわば兄弟のようなものである。兄たるヒンドゥー教は
古来からの儀礼やしきたりを守つてきたが、そのためさまざまな迷信や俗信をも抱え込むことになった。
一方、弟の仏教はそういう兄を理詰めで批判し、外の世界に広がっていったが、インドでは十三世紀にイスラーム教徒の
仏教僧院破壊を機に、すたれてしまった。仏教がインドで復活するのは二十世紀半ばのことである。インド亜大陸では
現在でも宗教問の争いが絶えないが、それは主として政治的不安定に起因する。庶民は心の底から平和を祈っているのである。
解)それにしても、3千年前にアーリア人がインドを征服した時に、地元民との混血が、自分達の存在を脅かすと
考え創った物語が三千年の時間をかけて白・赤・黄色・黒の人種の垣根をつくり、それぞれが交わることなく
現在に至っている。今でも露骨な人種差別ーカースト制度ーが社会を支配している。人間は平等です? 
そんなことは有りえない! それはあくまで奇麗事という、インドの社会が正直に露出している。
考えてみれば平等などあるわけがない。それを実現しようとした社会主義こそ、そのウソ、建前を知らなかったのである。
優勝劣敗は哀しいことに、世の習いである。
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2006年09月08日(金)
 1984, バイアグラ        おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・ ねむ              
6年前に、ある人からバイアグラ(精力剤)を飲んだ話を聞いた。グァム島に行ったおりに現地で買ってきて飲んだところ効果てき面とか。
当時は必要を感じなかったので聞き流していたが、この数年来、精力減退を実感するようになった。
精力減退の為か女性に興味がなくなってきたのには驚いた。この歳で感じすぎも困るが、何とも感じないのも・・ 
     (字数の関係でカット 11年9月08日)      
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2005年09月08日(木)
 1619, 閑話小題
ー書くとはー
この随想日記で、書くということは「自分に向かって語りかけている」ことである。第三者の目を利用して自分を駆り立てて書いている。
公開することは、日記を続けるためと、内容を落とさない手段である。日記の読者を巻き込んで自分に語ることである。
第三者の目を通して自分に納得しようとしている。第三者を意識しなくては、毎日これだけ書けるわけがないし、
意識すればこそエネルギーも出てくる。
・毎日書くこと、 ・第三者の目に曝した文章こそエネルギーがでる、
・一年~数年後の自分の目に対して恥ずかしくない文章にする、 ・新しい発見を自分に課せる、
・私自身の言葉で人生を彩ることが書くことである、 ・何のために書くというのではなく、書くために書くのである。
ー電波歯ブラシー
  (字数の関係でカット 09年9月08日)


4182, 呪いの時代 ー2

2012年09月07日(金)

          「呪いの時代」内田樹著
 呪いに対する言葉は祝福である。含めて世の中が右上がりの時は、何事もハッピー。しかし、世の中全体が右下がりになり、
暗い世相の中では一部の勝ち組を傍で祝福する人は少ない。羨望と嫉妬が、そこに生じてくる。特にこの情報化で、そのの事態が
生で伝わるから、呪いが社会全体を覆ってくる。その中でハッピーにいるには、「にもかかわらず祝う」しかない。
現に生きている、そのことを祝う諦念である。最後は生きている感謝しかないのである。今さら世を呪っても致し方がない。
  * 「このようなもの」でしかない自己の承認   ー 第2章 「祝福」の言葉について ーより
≪ 「生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりパッとしないこの「正味の自分」をこそ、真の主体として
あくまで維持することです。「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け入れ、承認し、けなげに
生きている姿を可憐と思い、一掬の涙をそそぐこと。それが「祝福する」ということの本義だと思います。呪いを解除する方法は
祝福しかありません。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け容れ、自分をだきしめ、自分を愛すること。多くの人が
誤解していることですが、私たちの時代にこれほど攻撃的なふるまいが増えたのは、人々が「自分をあまりに愛している」からでは
ありません。逆です。自分を愛することがどういうことかを忘れてしまったせいです。私たちはまず「自分を愛する」というのが
どういうことかを思い出すことから、もう一度始めるしかないと思います。≫
 ▼ 第二次大戦後、経済成長という僥倖に恵まれ「自由」が容易く転がり込んで来て、安手の「近代」を掴んでしまった。
 しかし、それが崩壊する中で、「全て他人が悪い、自分は悪くない」という他責的で未成熟な言説がメディアにより拡がった。
豊かさが急速に萎み、大多数がプアーになりつつある中、呪いの時代に思われるほど、惨めな社会になってきた。
「このようなものでしかない」自分を受け入れず、承認せず、祝福せず、自分探しという自分でない突っかい棒を求めて
彷徨っている社会。 わが国は平城平安の時代から呪いを基軸にして変転してきた。ここで急に「呪いの時代」がキーワードに
なったのではない。呪いがあればこそ古事記、日本書紀、源氏物語、平家物語、太平記、法隆寺、北野天満宮も正史に登場しなかった。
日本の文化文明の本源は、この呪いにある。だから一時でもよいから祝うしかない。お祭りは、そのためにあったといえる。
社会に出てからの読書習慣がなかったら、現在、世を呪い、過去を後悔し、人生そのものを否定しているはず。 娑婆娑婆!
 ・・・・・・
3817, 松下政経塾の野田が首相に
2011年09月07日(水)
   まずは松下政経とは何か? −知恵蔵2011ーによると
【 松下電器産業(パナソニック)の創業者・松下幸之助が、1979年に約70億円の私財を投じ、政治家育成塾として設立した財団法人。
神奈川県茅ヶ崎市の6千353坪の敷地には、寮棟・食堂・体育館の他、茶室やテニスコートも付設されている。入塾の応募資格は22〜35歳。
全寮制で3年間の研修を原則としているが、期間中に選挙に出馬することは半ば容認。ただし、最低2年間を修了しないと退塾扱いになる。
授業料などの費用はゼロで、逆に研修資金・活動資金が提供される。研修は、人間学・哲学・近代政治学などの講座と茶道・書道・剣道
などによる精神修練が中心。また、現地現場主義の下、自治体訪問、松下関連工場での実地作業、自衛隊体験入隊といったカリキュラムも
用意されている。過去30年間の卒塾生は237人で、このうち69人が政治家の道を歩んでいる。開塾後の10年間で当選した国会議員は、
1期生の逢沢一郎(自民党)だけだったが、新党ブームが吹き荒れた93年の衆議院選挙で、一気に15名の当選を果たした。
政経塾出身議員の評価は分かれるが、世襲議員が増える中、選挙に必要な3バン「地盤(地元の支援組織)・看板(知名度)・カバン(潤沢な資金)」
を持たない若者に政治家への道を開いている点で、政経塾の存在は評価されている。 現職の松下政経塾出身の国会議員は、衆議院議員が27名、
参議院議員が3名。*自民党では前述の逢沢一郎の他、元金融担当大臣の伊藤達也(5期生)、高市早苗(5期生)ら、
*民主党では元代表の前原誠司(8期生)や野田佳彦(1期生)、原口一博(4期生)ら、次代のリーダー候補が名を連ねる。
この他、神奈川県知事の松沢成文や横浜市長の中田宏など、自治体の長も輩出している(2009年7月時点)。 】
▼ 現在の日本に丁度良さそうな人物が、首相に選出された。それも、松下幸之助が憂国にかられ、つくりあげた人材育成機関出身。
 存在そのものは知っていたが、まさか34名も国会議員になっていたとは驚き。巷では、「人工栽培の頭でっかちのエリートの
 育成機関と」批判的だが、それでも公明党に次ぐ出身母体になっている。どうも、二、三代目が目に付く中で、 こういう機関も必要?
 卒塾生の43パーセントが、政治の道を歩いているという。 政治家は、一国を未来に導く仕事。
 「クールな頭脳と、暖かい心」を必要とする。それを3年か、4年の期間でベースをつくり上げることが良いことかどうか?
 二代目政治家と、どちらが良いというと考えてしまう。 やはり二代目より、まだましレベルか。現在議員は、貴族院化している。
 ・・・・・・・
3452, ニューカレドニアの休暇 −2
2010年09月07日(火)
 * ホェール・ウォッチング 
 オプション・ツアーの「ホェール・ウォッチング」に参加してみた。 家内はヨットに12時間も無理ということで、私一人の参加。 
20人乗りの2Fのヨット(1Fにトイレとベッド)に、日本人が私の他に中年ペアー。 他は白人系が15人を加えた18人。もう少し大きな
ヨットのつもりだったが意外と小さい。外海に出たと同時に、船は二メートルの波で大ゆれ。 案の定、気分が悪くなってきたが後の祭り。 
乗員も分っていて海水を入れたのを持ってきて、「あげろ!」という。そして胃を空にした。その直後に睡魔が襲ってくる。
ロビーの椅子に座ったまま二時間ほど寝たら気分は元に戻る。 船酔いを心配していたが、その時はその時と覚悟はしていたが、
何とかなるものである。そうこうして鯨の出産場に三時間後に到着。そこを40分ほどかけて通過している間に、5分位の間隔で、
鯨が空気を吸うために海面に出てくる姿をウォッチングすることができた。そこでテレビの撮影を過って見たことを思い出した。 
今回は10匹近く見ることができた。 鯨は、まず潮を噴き上げるので見逃すことはないが、潮を吹いて7〜8秒しか浮いてないので、
目を凝らしてないと見逃してしまう。 海も天気で大きく左右するが、天候に恵まれたこともあり今回のウォッチングは大当たり。
 また12時間も小型ヨットに乗船するのもワイルドな感覚で、南太平洋を堪能することができた。甲板から海に向かって足を突き出して
座って海を眺めボットするのも、気分は爽快である。また10秒ぐらいだったがイルカが二頭、ボートと同じスピードで泳いでいったのも印象的。
 さらに帰港前の20分ほど、タイミングよくサンセットにゆきあったが、南太平洋に浮かぶヨットと、赤い色合いのマッチが印象に残った。
一期一会、迷ったら直感を信じ躊躇をしないことだ。
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3077,SCが工期半年で完成とは、驚き
 2009年09月07日(月)
 長岡の自宅から500m先に、オープンモールの25店舗のSCが9月1日に着工、来年の3月8日にオープンと
現場の立て看板にあった。 それにしても半年とは驚いた。これから冬場の中で駐車場も含めてである。 
新造成地の更地で全てが平屋だから可能なのだろう。突貫工事になるのだろうが、見ものである。先月、近くで説明会があった。 
折込の通知によると、大和ハウスの総合企画で、三菱東京銀行系が資金調達とあった。 住宅地も数ヶ所売り出されているが、
坪27〜8万円、少し高いが環境からして悪くはない。 場所は長岡駅裏から直線道路一キロほど、自宅からは5分の場所。 
自宅の100m先にSCがある上に、長岡駅(12分)には一万坪の専門店街があるので生活環境は、ますます良くなる。
 そのSCから車で数分(一キロ)のところに家具のニトリ、家電のジョウシン、ホームセンターのコメリ、ディスカウント、
紳士服のアオキなど20店舗近い川崎のオープンモールのSCがある。店舗構成をみるとバッテングをさけて補完してあるのが分かる。 
店舗が重なるのは、原信と、蔦や。業種では中古ショップである。 二つのSCを買い回ると丁度良い店舗構成になっている。
 これまでは長岡の信濃川の向こうに比べて、川崎のSCだけでは、魅力が薄かったが、この二つを合わせて対抗拠点として、
周辺に店舗が自然発生的に出来ていく過程をみることになる。 長岡駅中専門店街は、年々、弱体化していくが、
駅前再開発も含めて大きく一変する。これも見もの。間違いなく大きく縮小していく市場の中で、再開発だけは止まらない。 
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2712, 大相撲が面白い!
2008年09月07日(日)
 若貴あたりから違う面で大相撲が面白くなってきている。マスコミを巻き込んで、北朝鮮のような瀬戸際のブラックジョーク的な
展開を示してきた。グローバルの流れと、人材不足をカバーするため、いち早く外国人に開放をした。 しかし国技とかいうが、
法的に全く根拠の無い曖昧な協会が実態だが、税金を払わない宗教法人と同じような扱いを受けている。相撲部屋はヤクザ世界に酷似、
縄ばり社会が寄り合っているだけ。部屋がそれぞれボクシングジムのように独立し、それが集まって大相撲協会をつくっている。 
だから,北の湖が言い訳をするのも一理ある。ボクシング協会が、個々の選手の薬物まで責任はないのと同じである。そんなことは、
どうでもよいが。 今回の土俵外の物語は、ロシアの三人の麻薬事件である。一月前までは、朝青龍を中心としたモンゴル人が
トラブルメーカーだった。それが一転してロシアの(麻薬)文化?への話題が移ってしまった。朝青龍かたなしである。
今回の物語は北の湖理事長の辞任のプロセスである。今回は、もう無理だろう?しかし・・
 昨日のニュースでは、期待をしていたとおり相撲協会が尿をすりかえたり、自民党の??あたりが天皇家への尻尾振りで、
政治的な圧力をかけてくるか、などなど漫画的な動きである。しかし、幾ら程度が低い彼らも、世界的にも注目を浴びているので、
腰が引けたのだろう。 日本のマスコミのロシア人兄弟に対する質問が甘い!「ロシア国家に対する代表として、宣誓できますか」
の質問をすればよい。もし、「もちろん、します!」と答えたら、帰国をして数ヶ月以内に行方不明になるだろう。
大相撲を国技としている限り、今後、中国、モンゴル、ロシア、東欧の国家戦略として日本バッシング戦略的対象になる。  
大相撲協会は、あまりに、軽く甘い。 私が敵対国の政治家なら、対日の攻撃対象にする。 
自国の強い力士に女とか薬を与え、マスコミに騒ぎ立てるか、日本の力士を徹底的に怪我をさせるようにもって行く。
それかモンゴルのように、三役力士を自国の力士で占有する。 その意味で、外国人に開放をしたと同時に、
旧来の国技という名を返上すればよかった。せめて日本の相撲のルーツのあるモンゴルと朝鮮だけに限定すべきだったろう。
それともモンゴリアンだけに。 しかし、現実は現実である。 国技とかいう名を返上、払うべき税金は払い、
横綱審議会など解散することだ。 天皇家も閲覧席などに座らないで、しかるべき警備をして一般席に座るべきだ。
 こういう不祥事も、人気取りの前座と考え、割り切っているのもよい。あくまで、格闘技の見世物でしかないのだから。
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2007年09月07日(金)
 2348.ベナレス・・・4
この街では私たちの世界と価値観が逆転しているとさえ感じられる。そしてその不思議さは、私たちが生きる社会への、
痛烈な批判なのかもしれない。朝夕、スワループさんの僧院では神への祈りがささげられる。
そこには路地に暮らす数多くの人が参加し、スワループさんが唱える経典の言葉を聞き、その後に繰り返し唱える。
集まってくる人びとの中には、たくさんの子供たちの姿もあった。かつてスワループさんがそうであったように、
聖地ベナレスに受け継がれてきた伝統が、また次の時代へと伝えられて行くことを感じさせる光景であった。
街が人を生み出し、人が街の営みを支えて行く。こうしてペナレスは聖地としての歴史を刻んできたのである。
(以下、字数の関係でカット、11年09月07日)
・・・・・・・
2006年09月07日(木)
 1983, 閑話小題    Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning
  ーウォーキングの道でー
(以下、字数の関係でカット、11年09月07日)
 ー紀子様、男子出産の意味ー
   (字数制限のためカット 2010年9月8日)       
・・・・・・・   
2005年09月07日(水)
 1618, 楽しく生きるー3
「楽しく生きる」にも、色いろある。「ドラックをやって、目先の快楽を追い求めて人生をボロボロにしてしまっても」と、
 いう意味で言っているのではない。目先の楽しみだけを求めると、長期的に問題がでる。何ごともバランスである。
前回書いた「楽しく生きる」精神科医・高橋和巳著の一部をさらに書き写してみる。
 ー人生の「動」と「静」を楽しむー
私たちの生活のあらゆる動きを生み出しているのは「欲求」。それは無限のエネルギーを生み出したりして人生の全体を創造している。
欲求が生まれ、動き出し、目的を達成すると、一つのサイクルが終わり、動きは止まる。すると、次の欲求が生まれ、
新しいサイクルが始る、この繰り返しが生命活動である。その生命の欲求サイクルが始るところが心の奥底の透明な「意識」である。
ただ私がそこに「いる」だけの場所である。欲求は心の奥底の何もないところ、無から生まれる。
「欲求」は、生まれるとすぐに自分を実現しようと動き出すが、欲求を生み出した「意識」はその動きに巻き込まれることなく、
いつも欲求から離れている。この「欲求」と「意識」が私と私の人生を動かしている。意識は動かない「静」で、欲求は動きまわる「動」。
楽しく生きるということは、欲求を満たす過程を楽しむことである。そのためには、いつも「動」と「静」の二つが私たちを
動かしているのを忘れないように。 いつも変わらない「静」があるからこそ、 「動」を楽しむことができる。
「動」の欲求と「静」の意識が対になって、この世の花を楽しませてくれる。楽しく生きる。 今、人生を楽しむ。
純粋の遊びこそが、遊びの真髄である。ー私には「会いたいもう1人の自分」がいる欲求とその成就は、本来、単純である。
このような欲求を邪魔をしている唯一のものは、私たち大人が身につけている「思い込み」である。この「思い込み」が、本来の
欲求不満を自分から隠してしまうのである。「思い込み」という間違った解釈を自分で与えることで、私たちは自分の欲求不満をそらす。
この自分の思い込みを解除することは、実はもう1人の自分に出会うことでもある。
思い込みが積み重なって出来あがる最大のものは、私たち自身の「自己像」についての思い込みであるからだ。
この思い込み、特にネガティブなイメージの取り除いて本来の自分に出会うことが、
「もう1人の自分に出会う」ことである。あったはずなのに気づかなかった素直な自分の欲求に気がつく。
素直な自分が嫌いな自分のすぐ傍にあったことに気がつく。人生は、その素直な自分の欲求を満たしていく時間である。
 ー以上が、この本の概要である。
 <自由とは、その周囲から植えつけられた「思い込み」からの解放である>
秘境ツアーに来ている人の中に多いタイプに、思い込みに気がつき、真の「自分探し」の人を多く見かける。
そのタイプを要約すると、ー親と世間の常識を信じて何も疑うことなく、何時の間にか歳をとってしまった。
ふと気がつくと、あと数年しか時間的に自分の残された人生しかない。このままでは、死ぬに死に切れない。
そのために捨て身で世界の果てに来て、自分の心の渇望を埋めようとしている。 もう少し早く気がつけばよかった。
余白はあまりにも短い! 等々である。「楽しく生きる」も、深い心の底からの欲求の充足でこそ意味がある。
その辺のカラオケで騒ぐ、軽いものをいっているのではない。 魂が入っていれば、それでもよいか?
・・・・・・・
2004年09月07日(火)
 1253, 死について再び考える
過去に死について多く書いてきたが、五十嵐恭一さんの死で改めて死について考えてみる。
毎晩、何気なく寝ているが、そのまま目が覚めないと仮定して、深い長い夢をみながら死んだとしたら、
その夢と現実とはさほど変わりはしないのではないか。 死んでしまえば、重油をかけられ燃やされ、
灰に帰す。骨は墓に入れられ、一年もしない内にほとんどの人から忘れさられる。
人生とは何なのだろうか?ー意味  その行蔵の中味は何か?ー経験
何を成しえたのか?ー達成     何を成しえなかったのか?ー挫折
それを成し得たとして、それが如何ということだろうか? 
人の苦しみ、喜び、快楽、達成とは何か? 精一杯生きたのだろうか?
  答えは無いと思うが、それでもヒントは以下の格言に多く隠されている。
ー生死の格言ー
・死者にたいする最高の手向けは、悲しみではなく感謝だ。   byレーントン・ワイルダー
・墓場は、一番安上がりの宿屋である。            byラングストン・ヒューズ
・僕が死を考えるのは、死ぬためじゃない。生きるためなんだ  byマルロー
・虎は死して皮を残し、人は死して名を残す。保険に入っていれば金を残す。 by吉行淳之介
・あたかも良く過ごした一日が、安らかな眠りをもたらすように、良く生きられた一生は、安らかな死をもたらす。 byダ・ビンチ
・命とは、セックスで感染した病気である。         byガイ・べラミイ
・誰でも死ななくちゃいけない。でも私はいつも自分は例外だと信じていた。 なのに、なんてこった。 byウィリアム・サローヤン
・立派に死ぬことは難しいことではない。立派に生きることが難しいのだ。  by映画『無防備都市』
・人間、死ぬときは死ぬのがよい。                    by白隠
・どのみち死なねばならぬなら、私は、なっとくして死にたいのだ。     by梅崎春生
・死は生の対極としてではなく、その一部として存在する。         by村上春樹
・昨日まで 人のことかと思いしが おれが死ぬのか それはたまらん    by蜀山人            
・死の恐怖は、解決されない生の矛盾の意識にすぎない。          byトルストイ
・不幸な人間にとって、死とは無期懲役の減刑である。           byアレクサンダー・チェイス
・死の持つ恐怖はただ一つ。それは明日がないということである。      byエリック・ホッファー
     (字数の関係でカット08年09月07日)
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2003年09月07日(日)
 886, 「ありがとうの言葉」ー8


4181, 呪いの時代 ー1

2012年09月06日(木)

              「呪いの時代」内田樹著
 なかなか時代の特質を捉えた面白い本である。バブルと、バブル崩壊を経た後、日本は20年以上も下降曲線をたどっている。
経済大国と言われたのも遠い過去になりつつある中、人々は、その環境の中で互いに呪い、怒りをぶつけあっている。
そして中流社会が崩壊を始め、総下流化社会になりつつある。そこでは互いに呪い、一部勝ち組を呪う時代になっている。
呪いは人間としての悪い意志、否定的な情動であるが、その核心部分には他者の全面否定と破壊と殺意が内蔵されている。
自己崩壊は他者への憎悪となり自他とも傷つけるだけでない、未来へ希望と友愛を損傷する。「呪いの時代」は、言い得て妙である。
  * まずは、第一章 呪いの時代より
≪「呪い」は今や僕たちの社会で批評的な言葉づかいをするときの公用語になりつつあります。「弱者」たちは救済を求めて呪いの
言葉を吐き、「被害者」たちは償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義の人」たちは公正な社会の実現を求めて呪いの言葉を吐く。
けれども、彼らはそれらの言葉が他者のみならず、おのれ自身へ向かう呪いとしても機能していることにあまりに無自覚のように
思われます。20年ほど前、まだ僕が学会というところに顔を出していた頃までは、学会発表後の質疑応答で、「あなたは…の論文を
読んでいないのではないか」とか「周知の…についての言及がないのはなぜか」といった、「そこで論じられていないこと」を
持ち出して、「こんなことも知らない人間に、この論件について語る資格はない」と切り捨てる態度に出る学者が沢山いました。
僕はそういう「突っ込み」を見るたびに、どうして彼らは「自分の知っている情報」の価値を高く格付けする一方、
「自分の知らない情報」が知るに値しないものだとあれほど無邪気に信じていられるのか、その理由がよくわかりませんでした。
僕たちは誰でも自分の知っていることの価値を過大評価し、自分の知らないことの価値を過小評価する傾向にあります。
だから、学者にとっていちばん最初の仕事は、自分の所有する学術情報を適切に評価することであるはずです。
でも、「君は『こんなこと』も知らんのか」と気色ばむ学者たちは「こんんなこと」が議論の始点でなければならない理由について、
ほとんど説明責任を持ていないようでした。・・・・ 学者というのは「知識を持つ人間」ではなく、「自分のもつ知識についての
知識を持っている人間」のことだと思います。ですから自分の知っていることは「知るに値すること」であり、自分が知らないことは
「知るに値しないこと」だと無反省的に信じ込める学者のことを僕は端的に「学者の腐ったようなやつ」と呼んでいました。
しかし、学界だけの固有種であったこのタイプの人々が今ネット上では異常増殖しているように僕には思われます。
ディスプレイに向かって、グーグルでキーワード検索をしながら、個別的なトピックについてのトリヴィアルな情報を入手すること
それ自体は愉快なことですし、誰の迷惑になるわけでもありません(僕だって大好きです)。けれども、そうやって自分が仕入れた
知識の価値を「知識についての知識」というメタレベルから吟味する習慣を持たない人にとっては、どれほどトリヴィアルな
情報を収集しても、それは学的には無価値だということは忘れない方がいいと思います。≫
 ▼「呪い」は、恐ろしい結果をもたらす事例を、あまりに多くみてきた。特に、人生に恵まれてない人のそれは酷いもの。
 起こった現象しか見えないため、その背後の原因を突き詰める能力が無いのである。呪いは、そこに羨望が含まれている。
 そのため周囲の全ての人が対象になるから始末が悪い。国会の有様は、正に呪いの政争である。呪いの政治は破壊しかない。
・・・・・・
3816, iPadを買った ー3
2011年09月06日(火)
  手元にきてから二週間、iPadにますます虜になっている。パソコンが大好きだがアプリをイマイチ使いこなせなかった。このお陰で、
アプリを比較的簡単にダウンロードして気楽に使えるようになったことが大きい。 更にゲームをパソコンで遊んだ経験が殆どなかった。
そこで、まず無料のゲームで子供心に立ち返って遊んでいる。「自分の人生がゲームそのもの、敢えてする必要もない」と決めつけ、
受け付けなかったこともある。 このところ一日、2時間は熱中している。まずは無料の小学校低学年?レベルのもの数種類だが、
始めると止まらない。 まあ、いい歳をして幸せなことだが、面白いのは面白い!
 先日、初めてデジタル雑誌をAplleから購入をしてみた。 『 最新 iPadアプリ 特選700』である。
「成るほどiPadを買ったことで、iBookが購入出来た」と一人感心。 そこで気づいたのは、目次から一瞬で項目のトップに切り替わること。
それとitunesの音楽とは逆に、ページの下に次々と、各ページのイメージがスクロールをすると現れてくる。 雑誌をパラパラと捲るのと
同じことが可能である。 また、最後に読んだところが、次回にiBookを開いた時に自動的に開く。 最近の録画は、最後にみたビデオの
部分が自動的出てくるのと同じ。 さらに字の大きさが親指と人差し指二本で拡大・縮小できるのも便利である。 何よりも何時でも、
何処でも、気楽に見れるのがよい。 その点はiPodに数千曲入力してある感覚と同じ。
「アプリあってのiPad」が、この本の副題にあるが、PCでアプリを充分に活用できない者にとって、「iPadあってのアプリ」になる。 
それぞれの有り難さは違って当然。 私には「iPad 様様」のよう。 初めて携帯電話を手にしたのに匹敵する。 問題は自分に
ピッタリのアプリを如何に探し出し活用できるかである。 無線で、平面で、本の大きさのため、画面にピアノや太鼓の画面を表示し、
作曲したり、演奏をしたり、車の運転席で道路を疾走するする画面のゲームも現れている。それもネット上で誰かと競技も可能。
TVとDVDのコントローラー機能も組み込まれ、ネットでコントロールしたり、iPadに録画できるようになるだろう。(もう、あるかも?)
 ・・・・・・・
3451, ニューカレドニアの休暇 −1
 2010年09月06日(月)
 去年はブタインフルエンザ騒ぎで予約をしていたクロアチア・ツアーを急遽キャンセルをした。
その後、あの騒ぎは薬品メーカー(WHOに入りこませた役員)が薬品を売るための詐欺紛いの扇動と後になって気づいたが後の祭り。
恐慌二年目も加わり、25年間、毎年行き続けた海外旅行が途切れてしまった。そして今年は恐慌三年目、経済的状況は二番底に向け動き出した。 
さて、どうするか迷った。毎年9月以降に大きな事件が起こる傾向があるので、最終タイムリミットは9月初旬まで。 近くで、安く、
目だないツアーを絞って盆明けになって探した。グァム島はありきたり、バリ島は家内が嫌。 オーストラリアはイマイチ。
そうこう調べてると南太平洋の中で「7日間で8万弱のニューカレドニア」を探しあてた。 ワンフライト8時間で、滞在型で、
エネルギーが最小で済むところとあいなった。しかしホテルの一ランク上に上げたり、現地で4回のオプションツアーに参加したりで、
二倍近くになってしまった。それでも15万である。 振り返ってみて、オプションは2回で十分で、あとはホテル近くの海岸線の木陰で
日干しをしたりして、のんびりするのが正解。 二度と来ないと思うと可能な限り動きたい気持ちに勝てなかったのである。
私の基準の採点では80点。 フィジーが90〜95点とすると少し低いが、私の避暑的時間の過ごし方になれてなかったこともある。
 フィジーと違って、ここはフランス領ニューカレドニア。 四国ほどの面積に25万弱の人口が住んでおり、小さな多くの島が
点在している。 ニッケルを主とした鉱山資源が豊富。 フィジー、タヒチなど年中、常夏な気候に対し、5度ほど寒い冬がある。
この時期は丁度冬と夏の境目。冬で20度、夏でも25度というから、やはり常夏である。 大まかにポリネシア系の現地人が4割、
フランスなど白人系が3割、アジアの移民が3割の比率で、フランス支配感が強い国で、地中海のフランス領の小島にいるようである。
その点、フィジーは小さいながらもポリネシアの独立国でありポリネシアの人間的特性が前面に出ている。料金はフィジーが5割高くなる。  
南太平洋に行くなら、何処の国の領地か、独立国か調べた方がよい。 植民地は白人支配が前面に出ている。
現在、世界は一部の白人が支配している厳然たる事実がある。 インドのカースト制度は、三千年かけたアーリア人による身分制度で、
裏づけにヒンズー教で心まで支配するシステムになっている。一神教のユダヤ、キリスト教も、ほぼ同じ手法で、侵略の尖兵として、
キリスト教で洗脳しながら乗り込んでいく。 そして世界を牛耳っている。 ここで、日本がアメリカの金融被支配国が表面化してきた。
それだけでない、軍事も支配されている現実がある。 バカではないかというほどの人の良さが小さな島国の運命である。
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3076,120年の物指し
 2009年09月06日(日)
 週刊朝日の記事ー 平成維新「次の100年が始った」が面白い。
  ーまずは民主党の大勝の長短の4つの物指しを要約
一、麻生の一年足らず政権、永田町の政治記者レベルの内容。今後、民主党が、
  そのレベルとして参院選挙まで、いかに実績を積み重ねることができるか。
二、次は、四年前の小泉劇場の大勝で、今度の選挙のように逆ぶれで民主党に政権が転がり込んできた。
  4年後の衆院選挙も同じ道をたどることになるかどうか。
三、小選挙区制度ができて15年で、ここでようやく政権交代が実現した。1993年の国会は、「政治改革国会」と呼ばれ、
  翌年には小選挙区比例代表制を含む政治改革関連4法が成立。今後15年で二大政党の交代システムが出来るかどうか。
四、120年という物指しで、これが最も本質的な物ざし。明治憲法ができて120年になるが、この間の政治は実は官僚に従属してきた。
  今度の政権は120年の「中央集権国家」を廃絶して新たに「地域主権国家」を樹立しようというのである。 自民党も「地方分権」
  といい、その具体策として「道州制度」を導入しようとしているが、あくまで「中央集権国家」が今後とも続くという前提である。
  その官僚主導体制とその中核である財務省による徴税・国債管理・予算分配の「財政中央集権」も続くということであり分権といっても、
  うやむやにされることは目に見えている。これに対して民主党は、国民生活に密接な権限と財源を基礎自治体に渡してしまうもの。
  ▼ 以上だが、その15年間、延命を繰りかいした自民政権があまりに狡猾であった。それも120年続いた流れで、国民が
   騙されていたことが露出してしまったのである。二度とあの威信は戻ることはない。 あとは民主党の自滅を待つしかない。
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2711, 臨死体験を経験できるヘルメット
 2008年09月06日(土)
何の知識無しで初めて幽体離脱を経験したときの驚きを今でもリアルに憶えている。
それを契機に、キュープラ・ロスや、立花隆の臨死体験などの本を読み、その経験の意味を知った。
ところが最近になり、アメリカでパーシンガー博士の開発したゴッドヘルメットと呼ばれるものがあり、これ装着すると万人が
体外離脱できるという。博士はてんかんの治療で、脳を電極で刺激する手術を400例以上やっていて、その手術の際に側頭葉の
シルビウス溝と呼ばれる、右耳の上を電極で刺激すると、体外離脱がおこることを発見した。これで体外離脱した意識が、
遠くのものを見てきて、現実と一致したり、霊が他人の体をジャックしたイメージも起こるという。
これまでのように脳を開いて直接電極を押しあてたりせず、電磁気で脳を刺激して、反応を見る研究が盛んのようだ。
体外離脱とは、脳の中の幻覚ではなく、アストラル体のような意識が、抜け出している状態ともいわれる。
実際に体外離脱の経験者に装着したところ、同じような経験をしたという。それまで一部霊能者とか、そういう体質を持った人だけしか
経験できなかったことを、科学者は誰にでも体験できるようにする。 何年もしないうちに、家電の店頭で並ぶかもしれない。 
これを被って気が向いたら幽体離脱をするのも面白いだろう。そういえばアルファー波を発生させる器械を買ったことがあった。
またマリファナを吸ったと同じ気分になるCDのセットも買ったことがあったが、少し酔ったような気分の状態になる。
私は酒に酔いの方が好きだが。他のTPOSが面白いだけであるが・・・恐らく、これを被っても、私の経験した幽体離脱の緊迫した
感覚とは違うだろう。色いろな状況の中で独りで、誰にも言えない奇妙な体験だから神秘的なのであって、ヘッドギアの器械で
幽体離脱をしても、味も素っ気もないだろう。しかし、面白そうである。前に書いたことがあるが、欧州の帰りの飛行機の中での夢。
「自分の身体が突然にフワフワ空に向かって上昇していく、電信柱が下に見えてきた辺りで恐怖心が出てくる。
夢から早く覚めて布団に身体を戻さないと、我に返った。 ところが、そこは飛行機の中で、身体が地上に在るはずなのに逆に、
その遥か上を猛スピードで移動している。 そこには、飛行機も、シートも、周囲の人たち消えて、独り宙を移動している」
身体が凍りつくとは、このことだろう。 恐らく、死ぬ瞬間とは、あの感覚になるのでは? 絶叫をしそうになったが、ギリギリ
抑えることができた。人間は大地の上で生きているのである。 死ぬと、大地から離れるのである。
幽体離脱で元の身体に戻ってこれないで、狂ってしまうケースもあるというし、自分が外に出ている間に、
動物か彷徨っている霊が入り込む場合が往々にあるという。 オウム教が騒がれていた頃、ニュースなどの映像で、
ヘッドギアをしている信者の姿を見かけたが、あれがゴッドヘッドだったのか? 集団維持の手法や典型的カルトの教えは
否定されるべきだが、宇宙からの視点とか、こういう幽体離脱の手法は、なるほどと感心する。
脳はまだまだ未知の世界である。脳は3?しか使われておらず、10?も使えば天才になれるという。神様(自然)は何を脳にさせよと
したのだろうか。我われ凡人は、パソコンなど、道具を有効に使ってせめて5〜6?を使えるようにすればよい筈だが?
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2007年09月06日(木)
 2347.ベナレス・・・3
出家した兄に対する妹の思いがそのまま伝わってくる。
出家をした目線がなかなか興味をそそられる。
 P-126
兄の品々を懐かしそうに見せてくれるサルラーさんの振る舞いは、まるで、亡くなってしまった兄弟の遺品を
大切に保管する遺族のようであった。実際、出家遊行僧とはすでに死んだ存在であるとされている。
サンニャーシーとなる際に、ガンジス河の岸辺で白い団子を流すという一つの儀式が行われる。白い団子は通常、
先祖の供養に流すものであるが、それを自らのために流すのである。つまり、死者となる自分を自分で弔い、
世俗の生活に別れを告げるのである。出家を志した今、スワループさんの生活の場は限られたものになった。
 (字数制限のためカット 2010年9月6日)
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2006年09月06日(水)
1982, ある首斬り役人の日記 −3
           Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning    −読書日記   
   215、1602年9月14日
  ゲオルク・ブラウン、マンスフェルト出身。  彼は蜂蜜・胡椒入りケーキ職人で、流れ者の剣客であった。
  旅の道連れだった青年から13ターラを盗み、その代わりに石を入れておいた。
  その後、コペンハーゲンでも同じ青年からまたしても8グルデンを盗んだ。その他にもある車夫から車を盗んだ。
   229、1604年10月13日
     字数制限のためカット      (+>∀<+)ノ ホンジャ!
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2005年09月06日(火)
1617, 楽しく生きる−2
大不況の中、毎日を楽しく生きることができれば、これにこしたことがない。
図書館で借りた「楽しく生きる」精神科医・高橋和巳著が、なかなか含蓄のある内容であった。
ー概要をまとめてみた。 (時間をかけて書き写すだけの価値は充分にあった)
 ーー
 人の欲求が新たな希望へと向かう心の軌道とは?
欲求の生起ー>否定ー>欲求不満ー>絶望(対象喪失ー>茫然自失ー>否認ー>怒りー>自失−>怒りー>自責)
−>抑うつー>悲しみー>孤独の自覚ー>諦めー>新たな希望の獲得ー
この過程のどこに「私」はいるのか考えてみようと提起している。望みが叶わないといって絶望や諦めを恐れる必要はない。
人の心は絶望や諦めを超えることで、孤独の中の本当の自分と出合い、自分が何を望んでいたのか、欲求の全体構造を明らかにする。 
そして、その先にある新たな希望へと導く。挫折から、諦め、そして孤独の底から、新しい自分に出合い、新たな希望を創っていく
中から、真の楽しみ方を見出していくのである。何を考えても埒があかない。どう望んでも解決が見えない。
そんなときには、一度すべての欲求から離れるしかない。自分の心、身体、他人や環境のあらゆるものから離れて、
濁流や、澱みや流れの全体を見渡せる場所に自分を置く。そこで自分を作り直す。そこで、もう一人の自分に自分に出会う。
我われがあらゆる欲求から離れることができるとすれば、それは時間が止まったときだけだ。 時間は二つの場合に止まる。 
絶望の中と、満足の中で。欲と向き合う、そして自分を満たして、自分から離れる
< 諦めて得た楽しみ >
 追いつめられて見つけたもの、孤独と正面から向き合って心の安らぎを得ることである。それは、世間的な色・金・名誉を断念することで
 初めて可能になった心の安らぎ。その引き換えに諦めを得たのである。 諦めは怒りへの固執を解く。諦めは生まれてから長く
 慣れ親しんできた自分の外界の世界への固執も解く。もう、表象の欲に振り回されることもなく、静かに居られる場所を持ったのである。
 人の精神が新しい世界に飛躍する時は、静粛に一度立ち戻らなくてはならない。静粛の中で起こることは、古い欲求構造の破壊と
 新しい欲求の誕生である。
ー 雅ー欲を楽しむという意味
(以下、字数の関係でカット08年9月6日)


4180, 復讐するは我にあり

2012年09月05日(水)

 『復讐するは我にあり』は、キリスト教の言葉で、”我”というのが神様(イエス)のこと。復讐はまた新たな
復讐を呼び”憎悪の連鎖”が生まれてしまう、それを断ち切るために復讐は神に預けて神の裁きにまかせると言う意味。
この言葉を知らしめたのは、第74回直木賞を受賞した佐木隆三の小説で、5人を殺害した西口彰事件を題材にした作品
【復讐するは我にあり】。 1979年に映画化したストーリーとは、≪ 昭和38年。当時の日本はたった一人の男、
榎津巌に恐怖していた。 敬虔なクリスチャンでありながら「俺は千一屋だ。千に一つしか本当のことは言わない」と
豪語する詐欺師にして、女性や老人を含む5人の人間を殺した連続殺人犯。延べ12万人に及ぶ警察の捜査網をかいくぐり、
78日間逃亡したが、昭和39年に熊本で逮捕され、43歳で処刑された。≫ である。
 この「復讐は神に預けて神の裁きにまかせること」の意味を知って以来、怒り心頭になると、この言葉を呪文のように唱え、
気持ちを収めてきた。逆に、私の逆鱗で多くの人の心を傷をつけてきたが、それ故に何倍も返り矢で傷ついてきた。その時も、
この言葉の意味を痛いほど実感した。年齢を重ねるにつれ、この言葉の重みを感じている。 要は因果応報で、報いは一番、
当人が受けているから、あえて怒りの感情に支配されることもない。怒りの感情は、相手を毒する以上に自分を害する。
復讐となれば更に毒が自分に向かう。とはいえ、家族が殺されたり、致命的な裏切りの怒りは癒しのしようがない。
この言葉を唱えるしかないことになる。 逆に祝福を積み続けた人に神は幸運を与える。「積善の家に福来る」である。
しかし、この言葉こそ、ニーチェは弱者の怨念の原因となるという。領土を奪われた国民が『復讐するは我にあり』と信じ、
他力に頼ろうというしたら、国は滅びる。人を恨めば穴二つ、という格言があるが、復讐は長期的潮漬けにするしかない。
「江戸の仇を長崎で討つ」ということ。グローバル化は弱肉強食の世界になっていく。怨念が世界に満ちることになる。
 ・・・・・・
3815, 哲学人 ー⑨
2011年09月05日(月)
                     ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
  * ー経験の裏側には、常識ではまったく感知できない真理と現実が数多くあるー
 人生の比較的前半で、経験、そして現象の裏側に一般では感知できない真理と現実があることを、垣間見てきたつもり。
 私たちは表側の一部だけの事象を見て判断している。知りえる範囲でしか見えない。旧約聖書の世界の創世の物語は7千~8千年前。
 当時は、そこまでしか想像が出来なかったのである。それも我々が住む地球が球形で、宇宙に無限に近い星があることも分るはずがない。 
 現在の我々は、現象の中にある真実を知ろうともしないで日常を流れている。 その範囲のイメージ内でしか生きるしかないのである。
  以下の部分が、その辺のことを明快に表現している。
【 現代科学によって明らかにされつつあるように、日常の世界における、そのときどきの経験の裏側には、常識ではまったく感知できない
 真理と現実が数多くある。 それはしばしば人を愕然とさせるうえに、直観に反したものであることが少なくなく、真実であると
 わかったところで、とうてい納得できない場合もある。  例を挙げると、
・私たちの周囲にあるどの物体も、分子と原子から成立しており、その原子を構成する素粒子の一部は不規則に運動している。これらは
 すべてエネルギーに変換可能なのだが(あらゆる物体は力に満ちた空間である)、こうしたことは常識的なものの見方とは全く相容れない。
・私たちのまわりの空気は、テレビやラジオの微量の電波など、情報を運ぷ見えない波動に溢れており、
 そのほかにも数々の分析可能の属性を有している、という事実にしても同様である。 
・私たちは巨大な球体の表面で暮らしており、その球が表面上では時速千六百キロで自転していると同時に、空間を驀進しているといった、
 ごく基本的な事柄でさえ、(私としてはどうしても言っておきたいのだが、猛烈に)直観に反しており、真理であるとわかっていても
 見たり触れたりすることはできない。この事実はあまりに常識はずれであるため、これを最初に発表した人々は、いまからほんの
 数百年前のことだというのに、ふざけた空想家か危険な嘘つきとして糾弾され、そんな途方もない嘘を人々が信じたとしたら、
 あらゆる真の宗教と(それゆえ)真の道徳にとって害になると非難されたほどである。
このように、常識は私たちの置かれている状況を適切に解き明かすどころか忠実に説明してくれそうもないということを、
私たちは事実として知っている。さらに、特殊および一般相対性理論によって明らかになったもろもろのことや、量子物理学によって
明らかになったもろもろのことが示しているように、私たちがじかに触れている物理的環境は、近年まで人間には想像もつかなかったほど
奇怪であり、あまりに常識とかけ離れているため、どれだけ聡明な研究者だろうと、こうした問題を理解するのは至難のわざ。
このような状況のなかで常識的な世界観の擁護を試みても、やる前から結果はわかっている。この試みはきわめて想像力を欠いた
アナクロニズムと蒙昧主義にほかならない。それは最も粗悪な時代錯誤なのである。 なるべく失礼にならないよう控えめに述べるなら、
常識的な世界観は思慮の浅い人々の形而上学にはなりうるだろう。ラッセルは、それを「野蛮人の形而上学」と呼んだ。ラッセルの言葉で
私が何よりも頻繁に引用してきたものは、つぎに挙げる『哲学の諸問題』(『哲学入門』社会思想社)の一節の最後の文である。
「……そうなると常識はも、もう役に立たなくなり、私たちは物理的対象の本性について、五里霧中におちいりざるをえない。
そこで物理的対象を正当な理由で心的なものとみなせるとしたら、ただ奇妙に思われるというだけでそういう説を否定することは
正しいはずがない。物理的対象に関する真理は、奇妙であらざるをえない」 】
 ▼ 歳を重ねると、軽くなっていくか、重くなっていくかである。私の知る限り、教養を積んできた人ほど軽くなっていく。 
  生きてきた月日の出来事が所詮は粟粒、チリの様に消え去っていく事象でしかなかったことを知っているからである。
 ・・・・・・・
3450 秘・異郷の旅、よもやま話 -7
2010年09月05日(日)
 * アフリカに魅せられて
 私がアフリカに興味を持ったのは、私の高校時代の友人がケニアのサファリから帰ってきて、
その写真を見せてもらったことに始る。100枚以上の、ライオンや象、ヌー、そしてチーターの写真が数多くあった。
それだけの写真が、その男が実際に写真に撮ってきた事実が受け止められないのである。
そこには、バルーンから動物を撮った写真もあった。 なんで一回のツアーで、これだけ多くの写真が撮れるのだろか?
実際に彼が撮った写真だろうか? 狐に摘まれる感覚であった。 どれもこれも、これまで見たことのない活き活きした
野生動物のエネルギーが写真から溢れ出ていた。丁度、カナダのロッキーに行って、大自然に魅せられたばかり。
なら、アフリカの大地と、野生動物が次のターゲットとして良いだろうと考えた。 
しかし、17〜8年前にケニアのサファリというと、大きな抵抗感がある。
とはいえ、あの写真を見せられた上には、行かない訳にはいかない。そして、初めてケニアのマサイマラの平原にサファリカーで
乗り入れたのである。 平原をしばらく走っていると、遥か彼方に、動物が走っているのが見えてきた。事前知識は全くないので、
期間中にせいぜい数匹のライオンか、シマウマを見れれば儲けもので、テレビで撮影された動物は、普通は見れないものと、
信じきっていた。それが、シマウマが走っているのである。そして、その後は、次々と、ヌー、ガゼルの姿を見ることができるのである。
現地のドライバーが、無線とか、行きあう仲間同士で、何処にライオンの群れがいるとか、チーターがいるかを連絡しあっている。
そして、夕刻に像の20頭位の群れが一列になり寝ぐらに帰っていくのに出くわした。 夕陽の中に、黙々と隊列を組んで進む姿が
何とも絵になっている。そして、翌朝は、早朝サファリである。この時の参加者が4名に添乗員が一人。我われ夫婦に、
40歳ぐらいの中年の男の一人参加が、二人のため、ペースは我われ夫婦になってしまう。 これほど、都合の良いサファリのツアーは
今だかってない。どの場面をとっても、強烈な印象が残っている。 最初のサファリは、誰にとっても、そうらしい。
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075, 父は疲れてしまったのです!
 2009年09月05日(土)
 * 民主308議席の衝撃 ー朝日新聞ーオピニオン高橋源一郎 9月4日
 朝日新聞のオピニオンのコーナーの高橋源一郎の「父は疲れてしまった」の例えが言い得て妙。
  ー概略とは
《 今回の政権交代は、自民党が古いタイプの家父長で、国民がその「妻」、民主党が自民党から生まれた「子」
と考えとわかりやすい。 要するに「熟年離婚」なんですね。「妻」である国民は、「夫」の自民党に何度も裏切られても、
なかなか別れることができない。 離婚など出来ないと思い込んでいたからです。「夫」も、浮気をしても喧嘩をしても
「妻」は自分のいうことを聞く、過半数は取れると思い込んでいた。両者とも「離婚」という発想がなかった。
でも、05年の選挙で、投票で政治が変えられると気づいてしまった。それなのに定年に近づいた「夫」がまだ威張っている。
そこで「妻」は離婚届を突きつけた。 一方で自民党も、実は離婚を無意識で望んでいた?。 一種の自殺願望。
小泉が自民をぶっ壊すといい、安部、福田の二代の総理が政権を投げ出した。 もう死にたいという自殺願望である。
半世紀以上も政権にいたことで金属疲労を起こし、当人たちは、もうやめたいと思うようになった。
国民は「戦後」的な関心を失っているのに、自民党だけが旧言語で話している。
彼等はそのことを体感としてわかっていても、あまりにずれていて、自分ではどうしようもない。
「子」である民主党は、自民党から脱皮した形で生まれた政党。だから、いち早く「戦後」から脱皮できたのです。
自民党の大物議員に「小沢チルドレン」の女性をぶつけたのは、「家父長的な老人と若い自立した女性の戦い」
という構図を見せつけたかったからです。 民主党は、この選挙が過去と現在の戦いということを知っていた。
「いま」や「変化」を掲げて、「現在」という時空間に適応したからこそ、大勝できたのです。
自民と民主党は、いわば違う時空間に存在している、だから、「現在」の中での価値の争いとはなりにくい。
恐らく、自民はこのまま自壊していくんじゃないか。 民主党は、自民党という「父」を敵にすることで結束してきた。 
一度「父殺し」が成功してしまえば、兄弟げんかが始まり、分裂しかけない。それをどう防ぐかが大きな課題になる。》
 = 作家とはいえ、全く上手い例えを思いつくもの。ギリシャ神話のオディプスの父殺しを、持ち出すとは。
このように一度、殺されてしまえば、父への思いは何だったのか?、ということになる。
森、安部、福田、山崎拓などの権威が元に戻ることは無い。 「自民党パージ」である。
社会党の残党が隠れ住んでいるが、これらも森、山崎拓と同じ穴の狢。 
一度、分裂した後に再編成のプロセスが必定だが、少し勝ちすぎたのが時期を遅らせてしまう。
 自民党という父は疲れただけでない、殺されてしまったのである。困ったのは、本人たちが解ってないこと。
 ・・・・・・・・・・
2710, 今東光の話題
 2008年09月05日(金)
 以前に、今東光の毒舌の味と凄みについて書いてある本を紹介したが、インターネット上の検索で見つけた
「極道辻説法」の一部抜粋してみる。自分の年齢が、この人物の年齢に近づき、若い人に対する視点が似てきたのに
驚いているが、今東光の足元すら届いていない己との距離も見えてくる。
今の時代が、この馬鹿な質問者よりもレベルが下になっているのか?。
彼が現代の日本に対して曰うとしたら、こんなものだろう!
「この馬鹿野郎!手前ら、ここまで成り下がったのか、エエ〜! アメ公の毒饅頭をまだ食べてんのかよ〜!
ブチ殺すぞ、この野郎。 頭と尻尾から腐るというが、あのパンダのようなキャスター上がりのようなオナゴが
次の首相に立候補だと、何をぬかしあがるか。馬鹿野郎! 面を見な、面構えがなってないじゃねえかよ、わかんねえのか!
程度の低い二代目が続けて首相だと、あいつらに国家が任せるしかない、日本がよ哀れでしか思えね〜よ。たくも〜!
どれもこれも腑抜けた奴ばかりじゃねえかよ、あの中曽根も、まだ生きてやがる!それもしたり顔をしてよう。
今度は、吉田茂の孫かよ、そして何をするかとみたら、またバラマキかよ。なんなもの。
一度な〜、明治維新のことを考えてみなよ。 今の日本の危機は、あんなものじゃねえんだ。解ってんか!」
大体こんなものか。 今度、今東光を私の脳に呼び寄せて娑婆批判をしてみる。「今東光語る」とかいうシリーズで!
  ー「極道辻説法」etc よりー
(以下字数の関係で中間カット2009年9月05)
(相談者)「親友はどのようにしたら出来ますか?」
 (回答) 「そういうことを質問するテメエぐらいバカはいねえんだよ。
      なぜテメエがだよ、テメエ自身がいい友達になってやるっていう覚悟をしないんだよ。」
(相談者)「男の生きがいとはなんですか?」
 (回答) 「男の生きがいってもんはな、生きてて満足だっていうのが生きがいだよ。とぼけたこと言ってんだコノヤロウ」
(相談者)「人間はなぜ人を好きになるんですか?」
 (回答) 「じゃあ、なぜ嫌いになるんだい? オレなんかやっぱり人間好きだもんな。
      人間が好きだからこう文学も絵も書けるんで、嫌いだったら出来ないよ。しかし、人間には欠点がある。
      逆にこの欠点があるからこそ愛せるんだよ。欠点がなかったら神様や仏様みたいなもんで、これは彼岸の人だ」
(相談者)「人生とは何ですか?」
 (回答) 「いい言葉を教えてやろう。それは「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という言葉だ。
      遊んで遊んで遊び尽くせば何かに突き当たって掴むものがある。何もやらない戯無よりも、
      たとえ失敗しても傷心の方がはるかに貴いものなんだ。空々寂々たる人生なんて糞食らえと思うべし」
(相談者)「仕事が忙しくて友達ができない」という悩みを抱えた22歳の左官に
(回答) 「オレはおめえの言うこと聞いてて、もっとも情けなくなるのは、どうしてそんなに友達が欲しいのかっていうことだ。
      友達なんて要りゃあしないよ。自分が立派になりゃあ、向こうが友達になってくれと来るんで、友達なんてものは、
      いくらたくさん持っていたところで、いざとなって役に立つっていったら、一人もいないもんだ。
      友達なんてものはそんなもんでね。バカこくな!  (中略)
      何もつまらん女をひっかけたり、友達作ってストリップを見に行ったりせずとも、ひたすら壁を塗りまくれ!
      金を使うひまがないんならなお結構な話じゃないか。 塗りまくって金を貯めまくりゃあ、
      いくらでもいい嫁をもらえるじゃねえか。  何をぐだぐだ言いやがる。しっかりせえ!
(女に嫉妬する男に対して)
(回答)  その女、オレに紹介せい。なかなか面白そうな女じゃないか。
      結婚なんてさせちゃあいかん。てめえもヤキモチ焼くようじゃ、そんないい女とする資格なんかありゃあしねえ(中略)
      糞ったれ野郎!彼女が美しければ美しいほど、ボーイフレンドはいるだろうし、 てめえなんぞはもう脈ねえよ。
 ・・・・・・・・・・
2007年09月05日(水)
 2346.エーゲ 永遠回帰の海ー2
この本を読むまでエーゲ海の周辺に無数の遺跡があることを全く知らなかった。
ギリシャ本土はもとより、エーゲ海に点在する島々に、そして対岸のトルコのアナトリア地方に数知れないほどの遺跡がある。
素晴らしい神殿があっても、その由来が全く解らないために、神殿A,B,C,Dなど記号で呼ばれているものもある。
序章の中で、シチリアのセリヌンテ神殿群を訪れた時のことを、以下のように書いている。「なぜそんなにまでして
遺跡を見て歩いたのかと問われると答えるのは簡単でない。ほんものの遺跡と自分自身で出会った事のない人に
その理由を説明するのは、ほとんど不可能に近い。」
「遺跡=滅びた跡。そこに必ず、繁栄と栄華ののち、その時代の大戦に敗北して破壊され滅亡した都市の歴史が刻まれてる」
「知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。
歴史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料の中に遺されている歴史。
それらはすべてフェイクである。最も正統な歴史は、記録されざる歴史、
語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか。」
「いま自分の前にあるこれらの神殿。これだけの見事な神殿が、これだけ立派に保存されているのに、
この神殿がいかなる神殿であったか、誰も知らないのだ。記録された歴史などというものは、記録されなかった
現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。
宇宙の大部分が虚無の中に呑みこまれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑みこまれてある。」
「時間は一つの方向に不可逆的に流れるものではない。円環をなしているのだ。
時が円環であるなら、初めもなければ終わりもない。過去は同時に未来で、未来は同時に過去である。
現在は永遠に過ぎ去りゆく一瞬ではなく、永遠そのものである。
現在はすでに過去に無限回くり返されたことがあり、未来においても無限回くり返される。
人はまさにこの現在の一瞬において、過ぎ去りゆく時を生きているのではなく、永遠を生きている。」
人気(ひとけ)のない海岸にある遺跡で、黙ってしばらく海を眺めていると、
これが永遠なのだということが疑問の余地なく見えてくるような気がするという。
他にも、シチリアのセリアンテ神殿群、トルコのペルガモンの大劇場、ディディマのアポロン神殿、
エフェソスの大劇場・アルテミス像、聖山アトス、リキアのサルコファガス、ヒエラポリスのネクロポスなどがある。
・・・・・・・
2006年09月05日(火)
 1981, 歩行とダンスー2

(字数制限のためカット、以降は、ブログーバードウォッチにコピーしておきます)


4179, プライドと自尊心と虚栄心

2012年09月04日(火)

 * 「プライドが高い」「誇り高い」「自尊心が高い」の違いは?
言葉のイメージとしては良い順に ・自尊心がある ・誇り高い ・プライドが高い になる
 ー 哲学者の池田昌子は、このへんのことを解りやすく説いている。 (ー14歳からの哲学ーより)
≪「自尊心がある」はプラスを含んだ言葉で、「プライドが高い」は自分の弱さをカバーするための防御する気持ちである。
自分がしていることを自覚できるのは、それについて考えられる精神を所有している人間だけ。精神は自分を自覚する。
精神としての自分を自覚する。そこで精神にとって精神よりも大事なものはないと知る。なぜなら、精神としての自分にとって
何が大事かを考えることを知ることができるのが、まさに精神だからだ。自分を大事にするとは、つまり精神を大事にすることである。
「自尊心」とは、自分を尊ぶ、自分を愛するということの、本当の意味がこれだ。自尊心を持つことと、プライドがあるということは、
間違いやすい。誰も自分が大事で、プライドがあると思っていれば、他人に侮辱されても腹が立たないはずだ。なぜなら、自分で
自分の価値を知っているなら、他人の評価は気にならないはず。もし腹が立つなら、自分の価値より他人評価を価値としているからだ。
それは自尊心でなく、虚栄心だということになる。≫
▼ 自尊心は『本当に自分を尊く思える心』。プライドとは全く違う。人から否定的な事を言われたり、弱い自分がさらけ出されても
 自尊心が高ければ、心は揺らがない。自尊心が低いと、他人の評価を気にしてプライドと言う虚勢で弱い自分をカバーする。
 プライドの高さは虚勢の高さに他ならない。自分を尊び、価値ある存在と信じる自尊心とは違う。そのため自尊心の低い人ほど
 プライドが高くなる。年齢をかさねるにつれ、それが小さくはなるが、女子と小人は、その壁がますます高くなっていく。
 誇り高いというのはプライドと意味は似ているが、虚勢の高さはプライドほど高くはない。自尊心とは自分に自信があって生まれる。
 プライドは、自信がないための防御の柵をいう。無知蒙昧のカラ元気。 居るよ、こういう人!地頭が悪いというか、底がない? 
 何か、自分のこと?と思い知る。プライドも自尊心もズタズタ?が現在の私だが、ことの本質(世界恐慌)をみれば極当然のこと??
 と、プライドの心が囁き出す。そして、そのプライドの壁の上から、そこに来ている恐慌の大津波を眺めている日々というこか。 
 ・・・・・・
3814, リタイヤの生活は退屈か?
2011年09月04日(日)
 良かったのか悪かったのか、10代半ばから常に受験、就職、事業などで、常に追い立てられて生きてきた。 
しかし思いもよらずに? ここで追い立てられてきた人生から50数年ぶりに解放された! のが、現在である。 
その前のイメージは、本音でいえば味も素っ気もないのでは? と思っていた。
しかし、その立場になって分かったことは、「それはそれなりに充実している」ことである。
 10年かけてネットに重心を移動していたこともあって、気持ちに余裕がなければ、こうはいかないのだろう。
事業の結果がこうとしても、これだけ世界規模の経済震災や自然災害が次々と生じれば、諦めもつくもの。
現在の状態を抵抗なく受け入れている自分に驚いている。 逆に、何だったのか、この10年は?と、疑問も生じてくる。
止めようもない右下がりの落ち込みに、対処療法しか手の打ちようがない日々も辛いもの。6年前に大手銀行からの
会社売却の話があったが、これは「生きたまま銀行系列のホテルに、ただ同然に持っていかれるレベル」の案件。
あれから6年間も持続した分、実質な回収とも解釈ができる。 反面、倒産は避けられたかもしれない。
それに関しても後悔は全くない。 目先の資金繰りの綱渡りは、事業人生で一度も経験したことはなかった。 
半年後には給料、退職金の大部分も、取引先の支払いも、(資金繰り表から逆算して)不能になるのがハッキリしていた。
そのため目先資金の余裕のあるうちにと、会計事務所、弁護士、私と役員で相談の上に、少し早目の整理に入った。
それが打撃を最小限で終わらせたことになる。 そうはいっても会社の死は、そう生易しくはない。 
 当分はiPadに集中。 最適なアプリを画面上に配置することと、新しい何かにチャレンジすることである。 
10数年前に亡くなった母親の老後の様々なチャレンジを身近にみていた。その辺にヒントが隠されているようだ。 
「良い人生、悪い人生ではなく、充実している人生」がキーワードになる。
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3449 秘・異郷の旅、よもやま話 -6
2010年09月04日(土)
  *初めて経験した大自然の懐
 広大な大自然に初めて唖然としたのが、カナダのロッキーの懐に入って時である。トロントと、ナイアガラの滝をみた後に
ロッキーを巡るコースのため、その途上のバスの中で寝入ってしまった。そして目を開けると、何かこれまで見たことのない
山々と渓谷が続いている。「これは、まだ夢の中。それにしても、リアルな夢じゃないか」と思っていた。しばらくして、
これが夢ではない現実に気づいた。これは何処かの星の異次元の世界としか考えられなった。
(その後、これと同じような異次元の世界を数多く見ることになった) そして、次から次へと想像を遥かに超えた光景が、これでもか、
というほど現われてきたのである。 「これまでの人生と、これからの人生という境になるほど、この感動は大きい」という言葉が、
溢れ出てきた。これをキッカケに大自然に魅せられ、世界の秘境・異郷の大自然の世界に引き寄せられるようになった。
 大自然には、
・「山脈」「湖」「滝」「川」「氷河」「密林」といった山脈系
・「海・海岸線・島」「クルージング」という海系
・そして「平原・草原」「サファリ」「砂漠」の平原系がある。
 目的別に分けると、リゾート、探検、遺跡探索などの知識収集、そして祭りなど、分かれる。
 どれが一番というのは一概にはいえない。どれもこれも、素晴らしいとしかいえない。
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3074,立花隆の緊急寄稿ー「自民党の破滅」
 2009年09月04日(金)
 週刊誌は図書館か昼飯時の喫茶店以外は読まないが、週刊文春の新聞広告が面白そうなので買って読んでみた。
 特に立花隆の緊急寄稿「自民党の破滅」に興味があった。 
 副題が「小選挙区制度の罠」で、民主308議席、自民党119議席の結果について書いている。 
  ーその概要といえばー
「日本はいつから「政権交代」を叫ぶだけのドブ板選挙で大勝できる、貧しい政治文化の国になってしまったのか。
 ぶっ壊されたつつあるのは自民党だけでない。日本国そのものなのだ。」というのが主旨である。 
小選挙区制度にしたことと、派閥を無くしたことが大きい。そのために都(県)議会並みの小さな選挙区では
ドブ板選挙活動を基礎にするかどうかで勝負が決まる。その結果、そこで育つ政治家のスケールが小さくなってしまう。
小選挙区制度になってから出てくる国会議員の人間的スケールが都議会議員並み。 国会議員レベルで、
国政を安心して任せる人格識見の持ち主が殆ど見られない。 これまでの中選挙区制度では、派閥があり、
そこで政治家を大きく育てるパドックの役割があった。 そこで政策力、リーダーシップ、そして政治家として
の日常のふるまい方を学んだ。自民党の中で、派閥の領袖は自派には総理総裁候補が多くいると自慢できた。
それが自民だけでなく民主党も、人材が払拭してしまった。
 自民党が「責任力」をスローガンにしたのは呆れるしかない。 せっかく総理大臣になったのに、その職責を
充分に果たせずに任期途中で政権を放り出すことを二度三度も続けた政党は、無責任の極地にあるというべきだ。
こういう中で、GDPの170パーセントの長期債務をいったいどうするのか。 両党とも、これをどうするか、
一回も真剣な議論が聞こえてこない。 小泉は「自民党をぶっこわす」と宣言して、伝統的な集票システムなど様々な
システムを壊したが、それが遠因で自民党の大敗につながった。 選挙の当座だけ尤もらしいことを並べ立てて、
あとはTVを通じてプロパガンスを並び立ててしまえば、大勝を博すことが可能というのを05年の小泉郵政選挙が示した。
今回の選挙も大して変わらないのではないか。最大の心配なことは、自民党の「ぶっこわれる過程」に巻き込まれる形で、
「日本のぶっこわれ過程」がはじまってしまったのではないか、ということだ。
民主党を含む日本の野党には、口先だけの尤もらしいことの経験があっても、責任政党として国政を担ったことはない。
その経験が無いことを自覚して、一歩一歩を薄氷を踏む思いでいかないと、日本を本当に破滅させてしまう可能性がある。
 −−
 以上だが、自民党も一度政権を離れてしまえば、「何で、こんな党に政権を預けていた愚かさ」に国民は心底から
気づくことになった。そうこう考えると、政界再編成は近い将来必ず起こる。もちろん自民党は解党をしてだが。
民主が政権を取ったところで、800兆の借金が消えるわけでない。ますます、借金が増えるのではなかろうか!
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2709, アメリカのコーヒー戦争
 2008年09月04日(木)
不景気が外食産業を直撃している。アメリカではスターバックスが苦戦している一方、マクドナルドが好調という。
数年前までは、マクドナルドのコーヒーは不味くて飲めたものではなかったが、最近は格段と美味しくなった。
スターバックスのコーヒーが4杯ドルに対して、マクドナルドが1ドルと4倍も違う。そのため不景気とガソリンの高騰で、
コーヒー好きのアメリカ人は低価格のMcにながれているようだ。二年前の株価を見ると両者とも35ドルと拮抗していたが、
現在ではスターバックスは、その半値、Mcは2倍になり、4倍の開きが出来てしまった。 
皮肉なことに、売価が逆の倍率になってしまった。4倍といえば、味が大して変わらなければ、Mcに流れるのは当然のこと。
そこでMcは低プライスのコーヒー専門店チェーンにも乗り出した。日本国内でも、不況の煽りで、スターバックスと
ドトールも売り上げが前年割れをしており、それに対しMcは売り上げを伸ばしている。通勤途中の長岡駅周辺にスターバックス、
Mc、Uccコーヒー、ドトールがあるが、 最近、Mcとドトールには客が多く、コーヒーの値段が400円以上のUccと、
スターバックスは客が少ない。 また新潟駅と長岡駅にパンとコーヒーに絞ったカフェテラスがあるが、両者とも好調。
この20年来、個人経営の喫茶店がほぼ消滅した。ところが新潟の事務所の真前にコーヒー専門店が二年前にできた。
それ以来、週に1〜2度はランチを食べに行くが、基本に忠実なコーヒーを出してくれる。
コーヒーは、良い豆を使って、基本に忠実に出し続けることが要求される。その維持がなかなか難しい。
この不景気の中、身近なランチや、コーヒーから節約をするもの、安いコーヒーに流れるのも仕方ない。
自動のコーヒー販売機のコーヒーがプロ並みに美味しいのに行き当たった。コインを入れてから、コーヒーを炒って出す?ので、
時間が4分ほどかかる。月に一度新潟駅の至近距離にある専門店ビルの地下のイオン内にあるカフェテラスの自動販売の
カプチーノが美味い。月に一度は行ってパンとコーヒーを飲んでいるが、目当てはカプチーノである。Sサイズで150円、
Lサイズで200円だが、充分満足できる昨夜のニュースで、昼飯に弁当持参が復活していると報じていた。
何か、身につまされる思いである。でも、暗い感じでないのが救いであるが・・・
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2007年09月04日 
「エーゲ 永遠回帰の海」 −1          −読書日記
  * 作者: 須田 慎太郎, 立花 隆 情報社
ポルトガルか、秋の紅葉のカナダか迷っていた時に、この本を読んで、今年の旅はギリシャ・エーゲ海の旅を思いたった。
(次男が「ギリシャに行って良かった」と言っていたのもあるが・・)面白いもので、いざ決定すると、写真も文章が
違ってみえてくる。 三日間のエーゲ海のグルージングとギリシャ本土の遺跡をまわると、また違って見えてくるが、
それもまた楽しみである。世界の遺跡の主だったところを見てきたが、遺跡の真只中に立つと何とも不思議な感覚になる。
数千年前に住んでいた人たちの気配を感じるのである。生活の跡に立っているのだから、当たり前といえば当たり前だが。
初めにハッとしたのはエジプトの遺跡群をまわった時である。行く先々、感動と驚きの連続であった。
遺跡を造った皇帝の意志と、当時の人達の息づかいが伝わってくる。生々しいのが2000年前に一瞬のうちに埋没した
イタリアのポンペイの遺跡。火山灰がパッケージになったため、殆ど完全に近い形で街と、店舗と、住宅がそのまま残っていた。
また死者の体を包んだ灰の中が空洞で残っていて、そこに石膏を入れた「人間の型」が気味が悪いほどリアルに並んでいた。
そこに立っていると、タイムマシーンでポイと瞬間移動してきたような気持ちになってしまうのである。
この本は立花隆と写真家の須田慎太郎が、1982年に40日かけて行ったギリシア、トルコ取材をもとに出来た本である。
(出版までに20年以上を要した理由については本書にその経緯が記載されている。)写真家の須田氏の美しい写真と、
立花氏の紀行文がなかなかよい。ゼウスと人間の女の混血児であるディオニュソスの不完全な不死性と、イエスの復活神話や
「一粒の麦もし死なば」という教えとの相似性。 アジアの地母神信仰がギリシアのアルテミス信仰に変容し、それが
さらにキリスト教のマリア信仰に姿を変えたこと。新約聖書「ヨハネ福音書」の「初めに言(ロゴス)があった。
言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。」
というくだりが、新プラトン主義哲学のロゴス論を下敷きに書かれたことなど・・。ギリシアの神々は、一神教である
キリスト教の成立や普及過程において、形を変えてしぶとく生き残っていったということが、この本を読むとよく分かる。
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2006年09月04日(月)
1980, ある首斬り役人の日記 −2  \(^▽^*)おはよう         
               −読書日記
 HPで「首切り」と検索したら、イラクの首切りの生々しい映像が出てきたのには驚いた。
 さすがに首切りの場面は見なかったが・・ 更に、次の内容があった。 
  ー日本の首切り役人のことを書いた内容であろう。
罪を犯したある男が首切り役人に首を刎ねられる羽目になった。この男は最後の最後まで抵抗し、たとえ首を切り落とされても
執念でお前を末代まで恨んで、祟ってやると罵った。首切り役人は「そう思うのなら切り落とされた首で自分の草履をくわえてみよ。
それが出来たならお前の言葉を信じよう」と言った。 刎ねられた首はコロコロと転がり、男の言ったように草履をパクッとくわえた。
その形相の凄まじいこと、この世のものとも思えなかったという。周囲の人々はこの様を見て怖れおののき、これは祟りがあるに
違いないと感じた。事実その後、そんな噂が広まった。ところがこの役人はこれをせせら笑って「そんなことがあるわけがない」
と気にしなかった。 あまりの自信に何故怖くないのかと尋ねると、「あの男は最後の怨念を草履をくわえるということに使い切った。
だからもう私を恨むことは出来ないのだよ」日本では「首切り浅右衛門」が有名である。事実は、小説より奇なり!である。
 ▼ 298の項目からなる書の中から、印象的な項目を抜粋してみる。 
 38、1579年8月6日
  ハンス・ビューヒュナー、ーファレンバッハ出身。  ゲオルク・ガーブラー、ー シェーンフェルト出身。
  ミュッヘル・ディーテリヒ、 ーベルニッツウィン出身、別名・辺境伯。三名とも泥棒。 打ち首の上、車裂きにした。 
  哀れなのは辺境伯の妻。 哀れな引き回しの罪人を見ようとして、その中に自分の夫を見てとった。
  彼女は夫の首っ玉に抱きついて、口付けをした。自分の夫が捕らわれ、そのような一味であったのを知らなかったのだ。
  ーこれを読んでいると、数百年前の欧州の片田舎で起こった悲劇が目に浮かんでくる。大悪人の処刑を見ようとしたら、
  まさか自分の夫とは!立場が一瞬にして大逆転をしてしまった悲劇は、ドラマのようである。
 82、1584年7月7日  バイエルシュタインの妻アンナ、ニュルンベルク市出身、
  別名モーザー・アンネラ。彼女は夫ある身なのに、いかけ屋という名の父親や息子といかがわしい行為に耽った。
  そのほか同じように妻ある男や若い職人たち21人といかがわしい関係を持ち、彼女の夫がそれを助けた。
   その件で立ったまま打ち首の刑に処した。  その夫はムチ打ちの刑を受けた。
   彼は聖ペトロ教会の彼女の墓近くの石塀に、白墨で次の文句を書きつけた。
   相手の親父も息子も、女房と同じ目にあわせてくれ。とりもちの男にもそうしてやれ。
   あの世に皇帝と王様を呼び出して、いかなる処刑も行われないよう訴えてやる。
   私、哀れな夫は罪もないのにここに居合わせた。  さらば、お休み。
   ーこの夫の嘆き、無念の文ーこころを処刑人が書き取っていたのも、何かドラマ仕立てである。 
   女房は打ち首、自分はムチ打ちの刑。それに引き換え、相手の男達は何も罰せられない矛盾を嘆いている。
 87、11月17日
  フライの妻アンナ、ニュルンベルぐの織物縫い工の妻。彼女は以前、夫があったが、アムプロジウスと称する
  刀鍛冶職人との間に子供を生んだ。この子は二歳の男児であったが、彼女は修道院近くの泉に、
  この子を投げ込み、溺死させた。その後、彼女は穴牢獄に入れられたが、当地にて打ち首の刑に処された。
    ー次も、幾つかの日記を書き写してみる。         ー つづく (。・ω・)ノ☆゜+.バイ!

  =字数制限のためカット、以下はヤフーのブログにこぴーしておきます=2012年9月4日=


4178, 事実と真実と真理について

2012年09月03日(月)

  * 「真実」と「事実」の違い
 事実の中にある真実とは、そもそも何かという素朴な問いかけがある。 以前、自宅に電話の苦情があった。
「さっき、お宅の犬に突然に飛びかかられた。子供のヒモが外れたのは分かるが、危険過ぎないか。腹の虫が収まらないので、
電話をした」と御立腹の様子。ところが家には子供も犬もいないので、「何かの間違いではないですか?」というと、「御宅の
前のアパートに住人で、駐車場から突然、飛びつかれた」という。そこで「電話番号を間違えたのでは?」というと、
「間違いない」と、押し問答。後で分かったことだが、自宅奧の貸家の住人が、何時の間に犬を飼っていたのである。それなら、
勘違いをするのは分かる。アパートの住人は裏に、もう一軒、家が存在しているなど知るよしがない。事実は、我家の駐車場から
飛び出してきた犬が突然、飛びかかったのである。その現象の事実は、そうだが、真実はこうである。今回の倒産劇で、B層、
C層レベルの創作話が多く流れたようだが、誰も好意的解釈などするはずがない。
 ー 以下は、、ネットで、「事実と真実」を検索してみた内容である ー
≪●「実際に起こった事象『事実』に対して、それを個人、または集団の心理、または理解を通して視られるものが『真実』である」
 ● 事実と真実の違いは、5Wのうち「いつ、どこで、だれが、何を」について言うのが事実です。
  表面には現れない「なぜ?」を見つけるのが真実を見つけるということ。 真実を追求するというのは、事件や問題の
  背後にある何故そうなのか、を見つけること。
 ● 真実・・・嘘のないこと、本当のこと
   事実・・・現実に起きたこと  本来なら、「真実」=「事実」にならなければならないが、そうはならないことが多く、
 「多くの人間は見たい現実しか見ない」。 真実とは「見た人が見たい現実をみているもの」、 事実は一つだが真実は
 人の数ほどある。 真実はそれを口にする人の価値観と切っても切り離せない。 「事実」は人間の外部にあるものだが、
 「真実」は人間の内部にあるもの。「客観的事実」という言葉はあっても「客観的真実」という言葉を聞かない。
 問題は、人の認識がそういうものである以上、はたして、「事実」を「事実」として認識できるのか?という問題が生じる。
 そうなると、「真実」というのは本当にあるのか?という疑問も生じてくる。≫
▼ 寺山修司の言葉に「真実の最大の敵は事実である」がある。真実は、事実の中にある、それぞれの解釈でしかない場合が
 多いからである。世間では「事実の最大の敵はウワサである」になる。それがウワサがB級層では事実になってしまう。
 教養とは、そのへんを見分ける知識の蓄積をいうが、とにもかくにも考えない人が多い。ひと事ではないが。そういえば、
 学生時代のゼミで、ケーススタディを一年間、してみた。次回分のケースのプリントを渡された内容を10人ずつ二グループに
 分かれて議論して、それを持寄り20人の円座を組んで再び議論する。提出された問題の中の答えとの誤差を、更に議論する。
 半年も月4回もしているうち、その誤差が無くなっている。事実=現象の中の真実、真理を見通す能力の訓練だったことになる。
 ・・・・・・
3813, 無知の涙
2011年09月03日(土)
 * 問題は悪意より無知から生じる――ハンロンの剃刀
  ー「ハンロンの剃刀」とはー
「無能で説明できる現象に悪意を見出すな(愚かさによって充分に説明できることを悪意のせいにすな。)」
  頭にきた行為が愚かさで説明できれば、必要以上に悪意を想定するな!ということ。
この定理を知ると、不満やトラブルに遭遇した時に、相手が本当に悪意に基づくものか、無知や愚かさからくるものか、を
間をもって判断できる。 そうすれば、その大部分が無知からきていることを知る。 しかし現実に厄介なのは、悪意より
無知からくる方で、無知の自覚がないから始末が悪い。 「知らぬが仏の恐ろしさ」を、他者に、あまりに多く見てきた。
いや、それ以上に過っての自分を振り返ると無知の涙を経験してきた。今もか。 人生は無知から生じる問題を解決するプロセス。 
大体のことが、この法則で(少なくとも他人への)怒りをなだめることができる。それで問題は半減する。 
「本来、人を理解するのは至難のわざ」である。 自分さえ分からないのに、他人のことなど分かるわけがない。
その他者に悪意を見出しても何にもならない、という道理は納得できる。 一番怖いのは、無知の善意。あとで、悪意がついてくる。
 ー「ハンロンの剃刀」をネット検索で調べるとー
【 ハンロンの剃刀とは、オッカムの剃刀の代用品である。あくまで代用品なので、切れ味はそれなりである。 
しかし、その切れ味の悪さは単に研磨屋の腕が悪かったり、粗悪な鋼を使ったりしているためであって、別に悪気があった訳ではない。
もちろん穿った見方をすれば「腕を磨いておかないのは研磨屋の怠慢すなわち悪意である」とか 「素材に良質な鋼を用いないのは
商業倫理に悖る卑劣な行為」とか言えないこともないが、そう何でもかんでもバッサリと切り捨てないのが優しさと言うもの。
要するに「無能な(≒悪意はない)んだから、許してよ」という体のいい言い訳。「無能で説明できるなら、それに悪意は存在しない。】
 何かドッキとする言葉。 無知蒙昧を、一々取り合わない、腹を立てるだけロスということ。出来たら、孤高でありたいが・・無理。
  ・・・・・・・
3448・秘・異郷の旅、よもやま話・・5
2010年09月03日(金)
 * ツアーあれこれ ー4
・パック・ツアーに参加するか。・旅行代理店に行って窓口の担当に旅行の目的をいい、行程を組んでホテルや飛行機の手配をしてもらうか。
・旅行先の現地のパックを探してもらい飛行機の搭乗券と組み合わせるか。・それらをネット上で、全て予約を組むか。
・それとも、飛行機だけを予約して、現地に行って出たとこ勝負で、 ホテルとか行き先を決めるとか、旅行にも色いろな方法がある。 
 人見知りをする私にとって、パック旅行は最適なシステムである。 旅行パックシステムは欧米から発展してきたもの。 
全国から同じ目的を持った者がチームを組んで旅の目的を達成する。 その最適パッケージを代理店が企画販売するのがパックツアー。 
激しい競争の中で、パッケージの商品は年々、改良されていく。 その進化したシステムを如何に合理的に使うかである。 
インテリと称す何?が時々、パッケージ・ツアーを罵倒している文章に出くわすが、彼等はそのシステムの合理性を知らない。
これがなければ、「ケニアでヌーの河渡り」や、タンザニアのセレンゲッティーの草原で、チーターの狩りなど見れる訳がない。
それを可能にするには、10倍近い金額と期間が必要になる。 それ以前に、そんな気持ちになれない。
南米のべネゼイラのテーブルマウンテンに、地元のインディアンが先導するボートに乗って奥地にいき、キャンプをし、飛行機で上空を旋回し、
エンゼルフォールの滝の下から1千Mの滝を見上げることなど出来るわけがない。 南アフリカで、ボツナワとザンビアの国境の橋の上から
100mの高さからのバンジージャンプなど出きようがない。代理店は普通のパック商品では生き残れないから、各種のパッケージを開発する。
特に中小は、自社の強みが何かを探し出して、それを売りにする。ケニア・タンザニアを専門にしたり、イスラエルだったり、アマゾンだったり。
それをパッケージにして、可能な限り格安に売りに出してくる。面白いところでは、ツアーのベテランを狙って、秘境・異郷のツアーに、
かなり厳しい教育の入った自前社員を組み合わせた一ランク値段の高いパッケージを売っている代理店もある。
それも、ランクがあって特Aの客層狙いだったり、A狙いだったりする。特Aの団体を時どき見かけるが、人相からして違う? 
一度、パタゴニアのツアーで参加したことがあるが、成程である。
 ・・・・・・・・・
3073,飲み屋横丁考
 2009年09月03日(木)
 このところ重い内容が続いたので、飲み屋横丁考でも・・・
飲食街は幾つかの飲み屋横丁と、飲食ビルの組み合わせから構成されている。飲食街そのものは50年〜60年の長年の歴史の上に成り立つ。
その飲食街も、この不景気と生活様式の変化で存続そのものが揺らいでいる。東京は銀座、新橋、六本木、新宿など地区で、客層が分けられるが、
一般的には、年齢、客単価、一次会、二次会など目的などで大まかに分かれている。 この数年は地元・長岡で飲む時は、殿町の一角にある
3メートル通路両側に8軒が並んでいる横丁の二軒で飲む機会が多い。 ところが先日、行きつけの隣の店に新たに入ってみた。
 これで8軒のうちに6軒目に入ったことになる。
・先日開拓した「笑いキャラ」の店である。30〜40歳代の客層の店という。
(そこで、その横丁の各店の話題をしていたら、5軒の店が年代別の客層で分かれているのに気づいた)
・私が通っている店は、50代後半から60代後半のカラオケを売りにしていた名物店。
・もう一軒の行きつけは医者や夫婦が何組が常連の店で50〜65歳前後の店。 
・極めつけは70歳後半から80歳代の店がある。 ママは当然80歳前後。知らない人が入ったら驚く。
・それにフィリッピン人と、韓国人がママの店が一軒ずつある。
・残りの二軒は入ってないが、何かの違いがあるのだろう。
自然に店舗構成がそうなったところが絶妙である。基本として高い店は行かないので少し離れた横丁である。
そこだけで店を替えていれば十年間は持つことになる。 吉田類の「酒場放浪記」という番組があるが、店の中より、最寄駅から
周辺の商店街などを歩くことから始る。背景から客を知るのである。大きな飲食店ビルは、オーナーが意識的にテンポ構成をするのだろう。
そういえば数年前に、地元で最高級?のスナックビルが倒産した。 この御時勢、そうだろう。
・・・・・・・・・
2708, 政局の話
 2008年09月03日(水)
福田首相の辞任表明で、政局が動き出した。私は政治に対しては関心が薄く、なるようにしかならないというスタンス。
どれもこれも、大した人物はいない。 ただし、ここまで国が行き詰まると、無関心ではいられない。
これまでの日本人は、どういう訳か自民党の仕掛けに弱い。麻生を目先立て、何とか政権を維持しようとするが、負けるだろう。
もしそう判断すれば、小池百合子を首班に立て、小泉を行政改革大臣担当副首相として、捨て身の作戦の可能性がある。
しかし参院との捩れを解消するためにも、一度は野党に政権を譲って国民の声を聞くのが筋。民主党も、直ぐにボロが出て、
政界の再編成になること必定。本来はアメリカ大統領選挙の結果を待って、アメリカが民主党なら日本も民主党、共和党なら自民党にすべき。 
現状は自民党政権が政権を持ち続けること自体に問題。見ている分には面白いが、日本の置かれた現状があまりに厳しい状態。
民主党が政権をとって、日本を一度解体して日本合衆国を作り変える位の改革が必要である。日本に巣くっている官僚を解体して、権限を
8州に委譲することだ。*北海道、*東北6県、*新潟、群馬、長野、石川、富山、福井の中部州、*東京、埼玉、千葉、神奈川の関東州
*静岡、愛知、山梨、紀州の何県かに飛騨と、岐阜県など名古屋州、*大阪、京都、兵庫の関西州、四国と広島、岡山などの中国・四国州、
そして*九州・沖縄州である。そして政治形態はアメリカをソックリに真似ればよい。 現在の日本には無理だろうが・・
しかし、待ったなしのところまで来ているのに、日本人そのものがアメリカの実質統治の戦略で、骨抜き。
日本の政治家で気骨のある男がいないものか。小泉は批判はあるとしても世界のグローバル化に対応する方向づけをした。
現在は「アメリカ一極から、中国・インド・ロシアと多極化する世界に対応する方向付け」をしなければならない。
その意味では日本は歴史的に見ても大きな転換期にある。その点で麻生は選挙管理内閣レベルの繋ぎ役。阿部、福田と、
麻生と、二代目。 それも、一人として選挙で洗礼されてない。麻生は衆院解散後に否認されるのは当然の成り行きである。
「御前に何が出来るのか?前任者と比べてみればドングリか、それ以下!」の、一言で終わり。
「御前様、直ぐにバラマキを始めただろう! 哀れなものだ。」は追加。
 政治談議を、このように書いてみると面白いものだ。   それにしても危ない!
・・・・・・・・・・
2007年09月03日(月)
 2344, 糖尿病について    オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァ踊♪
昨日の朝日新聞の朝刊のトップページに「糖尿病は万病のもとーアルツハイマー発症4・6倍、ガン死亡3・1倍」が出ていた。
アルツハイマー発症4・6倍、ガン死亡3・1倍、脳梗塞と心筋梗塞が約二倍というから、本当に恐ろしい病である。
年一度の検査の際で、インシュリンの点滴を受けている部屋を覗くことがあったが、いつも多くの人がいるのに驚かされる。
そこで、どの位の人がなっているのか早速、検索ー キーワード「糖尿病患者の人口比」で調べてみた。
 日本の人口比では6%(ちなみに肥満の多いアメリカでも6・6%)。
5年前の調査になるが、糖尿病が強く疑われる人の数は740万人、その可能性がある(糖尿病予備軍の数は880万人といわれている。
40歳から74歳の中高年男性の32.2%、女性の31.5%が糖尿病有病者か予備群と推定される。その割りに、周辺ではあまり持病の人は少ないが、
敢えて自分から名乗らないからか。糖尿は親からの遺伝が多いと聞いていたが、今回の検索で「両親が糖尿病だと子供は50?が遺伝し、
片方が糖尿だと25パーが遺伝する」という。私も家内も、両親とも糖尿の系ではない。 また親戚が糖尿病という話は聞いたことはない。
酒好きなため糖尿に関しては気にかけている。殆ど砂糖とか、甘い菓子は口にしないし、酒のツマミは肉類はさけて、魚類や酢のものを
注文するようにしている。それと、ウォーキングも欠かさない。「糖尿になりかけたが、通勤の片道30分を徒歩通勤に切りかえたら直った」
という話を聞いたことがあるが、糖尿病になると直ることは絶望的ともいう。糖尿になってしまうと10年以上は寿命が短くなるということか。
死亡原因の間接的な病であるため目立たないが、しかし恐ろしい病である。 糖尿病治療は食事療法・運動療法・薬物療法の三本柱という。
その大きな要因である生活習慣の改善には食事療法と運動療法が特に重要という。そのために、医師の診療・指導を受け、正しい食事と
運動を生活に定着させることだ。その糖尿病予防には一にもニにも肥満解消が大きな比重を占める。 最近、ストレスのためか?
急に太ったあの人、大丈夫か? 私も実はってなことはないのか?? これだけ酒を飲んできたんじゃ・・ ホナナァ☆|∀・`@)気をつけて!
・・・・・・・・・
2006年09月03日(日)
1979, 冷蔵庫を20年ぶりに買い換える       (\ Y /)(\ Y /)オハヨウ! ♪
昨日は、20年使った冷蔵庫が寿命に近づいたので新しい冷蔵庫を買いに行く。あと10~20年使うと思うと慎重になる。
確か20年前に買ったときの値段が13万円。そして今回買ったのが同じ値段の13万円であった。
買ってきて見比べると比べようもないほど良くなった。色いろあって、三回も(往復30分以上かかる)家電に通う。
買うのも楽しみのうちの一つだが・・ 100台近くある冷蔵庫の展示品の売れ筋ナンバー3に気持ちを集中し、一番高い商品群と比べると、
自ずとヒントが見えてくる。当然のことだが、機能や外見に手が加ったぶんだけ値段が高い。要は値段に比例しているだけだ・・・
家電の白物(冷蔵庫・洗濯機・レンジ)は頻繁に使うので、メーカーも神経をつかっているのが解る。結局買ったのは、
その店の売れ筋?・2 のものだった。 二十年前に冷蔵庫を買い換えた時に感じたことは
・それまでと段違いに大型になったことと、・ドアが両開きになったこと、・冷凍庫が大きくなったことである。
今回は、
・一番上にあった冷凍庫が一番下に移動していたこと、・ドアの半開きの防止の機能がついたこと、
・独立の多くの引き出し増えて分類コーナーが増えたこと、・冷蔵庫が出すノイズがホボなくなったこと、
・電気消費量が段違いに少なくなったこと、
・ステンレスなど、カラフルになりデザインが良くなったこと、
・ドアがワンタッチで開くものもあった。 等である。
20年前の、ほぼ同じ機能の冷蔵庫が半額でしかないが、電気消費量と、ノイズが少なくなったこと等をみると
4分の1のダウン?まあ、どうでもよいか? 帰ってきて、他の家電のチラシと、パソコンで価格ドットコムで
値段をチェックした。価格ドットコムは約5~7パーセント安いが、説明料と配送料金を加味すると、それも納得できる。
余談になるが、ついでにパソコン売り場に行ってみたが、パソコンが更に進化?していた。
液晶TVにパソコンが付いているという感覚になった。 更に、驚いたのが、ソニーのVAIOの前に立ったら、
勝手にカメラ機能が自分の顔を写して、大きなテロップで流れ出した。
一瞬なにが起きたのか、目を疑ってしまった。恐らくインターネット上でも可能なのだろう。
稼ぎさえあれば、結婚など別にすることもないという、若い人たちの気持ちが解らないでもない!
こと家電売り場を歩いていると。   家電売リ場は夢があって好きなのだが・・・
 まあ、モーニングコーヒーでも!( ^-^)_且~~~


4177, 哲学で自分をつくる ー6 (デカルトー②)

2012年09月02日(日)

            
  第二章 まだ自分をさがしているのか?(ーデカルト― ②) 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」瀧本往人 (著)  
   * まずは、「感覚」「現実」「数学」を疑うことから
 確かに間違いなくある五感と、現実。 デカルトは、まず、それを疑った。現実と思っているのが実は夢でないかと。
確かに感覚で捉えても、錯覚ということもある。 まず、感覚と現実をデカルトは疑った。なる程、デカルトは近代哲学の祖である。
ここから、まず疑うのが知性、理性の出発点。 膨大の情報化の真っただ中で、このへんの事を、よく分かってないと、その洪水に
流されしまう。いわゆるB層の人々になってしまう。割り切ってしまえば、それも良いが。哲学で自分をつくろうとしているのだから、
現実も、感覚も、まず疑うことから出発しないと・・ あの人たち?のようになる   ー その辺の記述を抜粋してみる
【◎ 最初に疑ったのは、「感覚」である。一般的には、自分が見たもの感じとったものは絶対に正しいと考えたくなるが、デカルトは
 これに依存してはならないとした。 なぜなら、見えているもの、感じているものは、しばしば「錯覚」を起こすからである。
 ・・・要するに自分からの確信は世界を正確にとらえているとはかぎらない、ということである。逆に、この錯覚にさえ気をつければ
 自分の感覚もあてになる、とも言えるが、デカルトは、どんな場合も間違いなく依拠できるもの、条件なしのものを追求しているので、
 感覚には依拠できないとする。
◎ 次に疑いにかけたのは「現実」である。実は第一の疑いである「感覚」とこの「現実」とは重複した部分がある。
 実際に見ているものは、「感覚」でもあり、「現実」でもあるからだ。だが、自分が今、経験していること、つまり感覚も含めて
 把握していることが「リアル」だ、というイメージならば、「現実」を疑うデカルトの意図は少し明確になるだろ。
 この「現実」に対してデカルトは、もしかすると、今現実と自分が思っているものも夢なのではないか、と疑ってみた。 
 夢なのか現実なのか、その見定めができない、ということである。こでもやはり、自分が夢を見ていないということが証明されれば
 問題はなくなるのだが、むしろデカルトは、その根拠を必要としているので、確かなことではないとみなした。
◎ そして第三に、デカルトは数学を疑う。彼は最も擁護したいものを一度懐疑にさらしたことになる。数学的な真理は確かに、その
 体系においては真理が成立しているかのように見えるが、新たな真理が発見されてしまうと、今まで信じてきたものもあっけなく
 崩れることがある。デカルトはここで、数学を特権視せず世の中に多々ある約束事と同様のものとして、不確かなものとみなす。
 このようにしてデカルトは、用心く、私たちが最も依拠するであろう「感覚」「現実」「数学」にそれぞれ落し穴があると強調する。
 つまり、特に確からしいと思われているものさえ不確かなのだから、「すべてのものごとは不確かなものなのだ」ど判断するのだ。】
▼ 般若心経の「色即是空」の、色が現象であり、受想行織が感覚になる。それらの全てが、即、空であり、あてにならないと
 デカルトは看破したのである。まず常識を疑うことが第一歩だが、それを疑っている自分の感覚を疑ってかかることこそ必要である。
 緑の原野からサバンナに出てみて、「あの原野での出来事は何だったのだろう?」と、振り返ると、何も疑問を持たないで同じ行動
 パターンを繰り返していた自分が見えてくる。そして、現在も同じようなことをしている。根こそぎ、否定すべきことが出来ない。
 それをするには常に死を意識しなくてはならない。しかし、目を背けている弱い自分が、ここにいる。
 ・・・・・・
3812, 世の中、すべからく代理・代行  −2
2011年09月02日(金)
  国会議員、地方議員も間接民主主義による、国民や地域社会の代理・代行業になる。
・セブンイレブンなどのコンビニは、車や徒歩で10分以内の住民が、買ってから10分以内に消費するニーズを満たす代行の店。
 土地持ちのオーナーに全国区レベルの情報とシステムの提供で、互いの利点を生かしあっている。
・配送業が供給過剰のため熾烈な競争に入ったが、その中で一部業者は逆に成績を伸ばしていった。 家電なら、TVやDVD、
 冷蔵庫、洗濯機などの配達先の取り付け作業を家電店に代わって請負うのである。パソコンもしかり。
 運送業者が電器の取り扱い経験者を運転手として雇えばよいのである。
・スーパーの流通センターから各店の配達も、最終店出し直前まで請負う。
・先日、寿司の宅配専門で伸びている業者が、東京の山の手の有名店の宅配だけを専門に請負う会社運営をTVで放映していた。
 売り上げの4割を店から分けぶんとして貰う。 それでも有名店の店舗運営の経費からみても、採算がとれるという。
・代理出産もあるが、ここではやめておこう。
・その中で面白いのが結婚相談所である。これは昔からあったが、最近はネット時代。一番、微妙な部分を考慮に入れた仕組みづくりが
 ポイントのようだ。 料亭などが、最近では料理教室をつくり、そこに男女を集めて出会いの機会を提供する。
 中高年や、エリートだけに絞り込んだコースとか、外国人との結婚を求めている男女とか・・・
・面白いのでは、ゴーストライターがある。有名人や成功した社長に代わり一代記や、人生訓などを書く。
 ケネディ、オバマ大統領にも名ライターがいたが、あくまで影の身である。
・戦国時代、江戸時代の大名にも名筆の書き手がいた。 それは、それで専門職は必要である。 
激しく時代が変わる中で、一人で何もかもは不可能、その中で、いち早く、変化のニーズを察知して、その代理・代行のシステムを
提供する必要性がある。 デジタル化とネットによる情報化が別世界を新たに出来つつある中で、代理・代行がキーワードになる。

 ・・・・・・・
3447.秘・異郷の旅、よもやま話・・4
 2010年09月02日(木)
* 初めての21歳の欧州旅行 ー3
 初回の欧州旅行で、帰国して半年間は自失呆然状態であった。 自分の心が粉々に粉砕されてしまったようだ。
カルチャーショックである。今から思うと、これが良かった。両親から受け継がれていた小さな世界の価値観が
根こそぎ壊れたのである。それと「自分は東洋の小さな島国・日本の黄色人種」という目線を得たことである。
これをキッカケとして、根こそぎ自分を変えなければ学生時代の4年の自由時間を与えられた価値がないと気づいた。 
それと社会、世界は、不平等で格差であること。世界には豊かな人種と国家があり、反対に貧しい人種と国家が満ちている。
その中で生きていく自分を作る基礎を学生時代に培わなければと、気づいたのである。とにかく世界は広く、深い一端をみた。
 話は戻るが、ロマンチック街道から見た、川添に展開するお城と、景色。それと、早朝にスイスに霧の中から見えたレマン湖と
スイスの渓谷の美しさに言葉を失ったことを思い出す。 毎日にように、これまで、想像すらできない光景を、これでもか、
これでもか、と見せられるのだから・・ 当時、中高年の人で、あまりのカルチャーショックで精神の異常をきたす人が多いと聞いた。
現在のように、写真に、テレビの旅番組に、ニュースに、映画の背景として過剰に入ってくる時代ではない。 私のように、
中高校の白黒の小さな写真でしか見たことがないものを、次から次へと見れば、感動の蓄積で、脳が変になって当然である。
 幕末の獅子たちで、当時、欧米渡航経験があるかないかで、動乱の中で大きく、その後を左右したというが、
当時の彼らは欧米の社会を驚愕の目で見てきて近代国家の絵図を描いたのである。時代も、スケールも、全く違うが、
それでも21歳での経験として、大きな財産になっている。
 ・・・・・・・・・
3072,コカコーラのビン
 2009年09月02日(水)
最近、歴代のコカコーラのコマーシャルをまとめたDVDが発売され話題をよんでいる。
それぞれのCMに出演しているタレントと、その時代背景が織成すミニ物語が、そこにある。
目隠しをして、ファンタとコークの飲み比べをすると、ファンタのほうが美味しいと答える人が多い
という実験結果がある。 CMと、ビンのカタチのイメージの洗脳が、そうさせているのだ。
「コークのビンはグラマー女性の全身を模ったもので、理想的なスタイル」という。
 ーその創製の逸話を偶然ネットで見つけた
【 1923年、アメリカのある町にケップマン・J・ルートという青年がガラスビンを作っていた。 かっこよく、しかも中身が
多く入っているように見えるビンはないものかと考えていたある日、恋人がふらり、仕事場へ入ってきた。 いつもより色気がある。
タイトスカートをはいていた。 このスカートは膝のところが細くなって歩きにくいのが欠点だが、ヒップの線が美しく出る。
彼は、それを元にしてコカコーラ用のビンを作って、社長のところに出かけていった。
「スタイルがよく、握り心地も良い。すべらないビンのプランができました。」 社長は気に入ったが素知らぬ顔をした。
3日目、ルートはビンとコップをもってまた出かけていった。「社長、このコップとこのビンでは、どっちが容量が多いと思いますか」
「そりゃ、ビンに決まっているさ」 青年はコップの水をビンに注ぎはじめた。コップの水が入りきらないうちにビンは、一杯になった。
(う〜ん) 契約は即座に成立した。 ケップマン青年の得た金は300万ドルから600万ドルだといわれている。】
 以上だが、米国でグラマー女性がコーラと供に看板に書かれた絵を見たことがある。
「何でグラマーな女性にセクシーさを感じるか?」というと、「騎馬で攻めた男が片手で女を持ち上げやすいのが、腰が括れていた女」
だから、という。 本当のような嘘のような話だが。 コーラも、括れていて持ちやすい。
ところでコーラの原料のコークは麻薬のコークじゃないのか? 薄けりゃ害にならない?
 何か飲みたくなるのは、そのせいか? それに刷り込みでもされれば・・・水に麻薬を混ぜて数十倍の利益をだしているのだから、
ドエリャイ儲けになる。 あの地元の超大物(故人)がコーラの日本の販売許可の見返りに数パーセントの利権を得ていた、とかいう
噂があったが、本当かウソか? 「ありゃ、コークを原料とするから駄目」と言われりゃ、出すしかないのは分かる。
 ・・・・・・・・・
2707, うつ病について
 2008年09月02日(火)
 精神病や精神症について、何度か書いてきた。 誰もが、何らかの精神症は持っているし、その一歩手前の経験をしているはずだ。
(まともであればだが)言うか言わないかの差だろうが、家系や、性格もあるから極々軽い人もいるのだろう。青年期と、
老年期は誰もが躁鬱気質を持っており、乗り越え方は、それぞれある。私も神経症など多くありすぎて説明するのも大変だが、
それを気にしなくなったのは、50歳過ぎた頃だろうか。私を知っている人は想像すらできない神経症を一人静かに?乗り越えてきた。
青年期のうつ病的な体質も、神経過敏症も、視線恐怖症も、現在では殆ど消滅をした。
誰もが、何らかの深刻な神経症を持っているのを実感したのは、40歳を過ぎてからである。
60歳ー還暦頃から、少し鬱っぽい日々が多くなっている。もしかしたら、この時期になる初老性鬱病の触りかもしれない。
しかし、私の場合は、絶対に?重症にはならない確信がある。 まあ、明日のことは分からないが。
北欧には白夜の反対の黒夜があり、一日の日照時間が数時間しかない。その冬の時期に起こるうつ病が深刻と旅先で聞いた。
「季節性感情障害」といい、大半は女性がなり、家系もあるという。
治療には、特殊の明るい光線を一日三十分当てると症状がかるくなる場合が多いとか。
元々、エデンの園はアフリカと古人類学者の説があるが、その反対の冬の黒夜は病気を誘発するのだろう。
日本で最も自殺の多いのは秋田県。北欧と同じく冬の時期が長いのが自殺を誘発するというのも肯ける。
ハワイやフロリダで波の音を聞き、パイナップルやオレンジでも食べ、踊って歌っていれば鬱などなりようもない。
私は一月生まれもあり、冬の時期が嫌いではない。むしろ好きであるが、美味い餅を食べ、熱燗で鍋をつつき、
コタツでDVDの面白い映画を見て、熱い風呂にユックリ入っていればマイナスな気分になろう筈がない。
しかし鬱病の恐ろしさを周辺で見聞きしている。無線のチューニングのように、周囲のマイナス、
過去のマイナスを拾い上げ自分の中に蓄積していく。人生の様さまな後悔のネタが次々と思い浮かんできて、
その海に溺れ、もがくようになる。そして深い深い鬱の闇に己が沈没してしまう。 それが鬱病である。
その数歩手前の精神状況が殆どの老齢者の心のうちというから恐ろしい。そういう連中が寄り沿うと、人間は後退をしていくのが
リアルに見えてくる。他人事ではない、まったく。とにもかくも、腹から笑える場所を幾つか持てるかである。
私が鬱にならないという自信があるのは、毎朝の散歩があるからだ。これを始めて25年ほどになるが、朝の陽光と、新鮮な空気と、
鳥と虫の鳴き声と、川のセセラギが身体にも精神に良いからである。さらに土日の笑いの時間の設定である。 
それと毎日一度の仏前の祈りと、般若心経である。それを実行していても、どうも少し欝っぽいのは、そういう時期のためだろうか?
過去のマイナーの記憶がフラッシュのように飛び出してくる。 それが、歳をとったということか?
 欝的気分も日常の塩味として、必要であるが。           -ω-)..。oо○(゜+。鬱々゜+。)
・・・・・・・・・・
2007年09月02日(日)
 2343, ポスト・モダン主義とは          (o゜▽゜)o オハョ〜 ゴザマス!
最近は、あまり以前のような大物?が、居なくなった。 これは時代の変遷のためである。 
高度成長期の、田中角栄とか、小佐野賢二とか、堤義明とかいうのは、存在しえなくなったのである。 
存在したところで、「それが何じゃい!」と誰も仰ぎ見たりはしない時代になったのである。
解りやすい事例として、イチローが大リーグで超一流の選手として認められたところで、
「ああ、そういう人がいる、凄いな~」で、それはそれはご立派なことで!と、頭に過ぎってお終い。
それより、それぞれが自分の好きなことを見つけ、それぞれの楽しみを求める時代になったのである。
それは考えてみれば当たり前。それだけ、社会が成熟したということだ。第二次大戦後、マッカーサーが
日本を占領したとき言ったのが、「日本人は10歳の子供」である。欧州から見れば、そんなものかも知れない。
といって、西欧が未開の原始人より文化が進んでいるということではない。
モダン=大きな成功とやらを求めた時代は終わったのである。これを解りやすく書いたある本があった。
『世界をよくする現代思想入門』高田明典著である。 情報化社会は、ポスト・モダン主義をますます加速させる。
日本は、いや世界は、9・11が現象として大転換期と日となる。その意味で、あの男ービンラディンは歴史に残る。
アメリカ現大統領は、「アメリカの凡庸・親子大統領の息子」として歴史に留める。
私が生きた戦後のアメリカ大統領では、その意味ではカーターと肩を並べる??の人物。 その程度ということだ。
  この本の一部を抜粋してみるー  P-158
   ーーーーーーー
20世紀を特徴づける概念として「大きな物語」があります。
私だちの社会は、二十世紀前半(モダン)の社会において、「大きな物語」を信じて突き進んできました。
その大きな物語とは
・「理性・知性によって社会は必ず理想郷へと近づいていく」、
・「科学は、私たちを幸福にしてくれる」というものであり、
・「勉強すれば社会的に成功して幸福になれる」であり、
・「お金持ちになることが、人間の幸せである」などなどの「物語」であった。
 二十世紀前半においては、多くの人たちがそれを「信じて」いたが、
一九七〇年代以降、そのような「大きな物語」を信じられなくなるような出来事が多く発生し、私たちの心の中に
「不信」が発生しました。科学は私たちの社会を「幸福にする」どころか、むしろ「不幸にする」ものでもある。
知性や理性によっては「理想郷の実現」はできそうもない、ということです。
そのような状態を「ポスト・モダニティ(ポストモダン状況)」と呼ぴます。
そのような「大きな物語への不信」の中で、芸術表現はいったい「何ができるのか」ということを考えたのが、
ポスト・モダニズムのそもそもの端緒でした。 なぜなら、それまでの「表現制作物」の多くは、
「その社会や文化が信じている価値の表現を行う」ということを、その駆動原理としててきたという側面があるからです。
「大きな物語」が崩壊した今、「何を表現すればいいというのでしょう。


4176, グローバル化の真実

2012年09月01日(土)

     『 終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか 』水野 和夫 (著)
 なかなか面白い本である。  ーアマゾンの書評の中で解りやすいのをコピーしてみたー
≪「自由とはドルとエネルギーの消費である」と言われたアメリカが覇権国である時代はもう終わった。
 しかるにアメリカはグローバリゼイションという名の〈米による世界経済征服計画)方策でその命を永らえさえようとしている。
(そこには様々なきしみとともに大きな亀裂も生じる)成長を至上命題とする近代資本主義は限界に来ている。
 今行われようとしている景気回復は誰のための景気回復か立ち止まって考える必要がある。それはいわゆる株主
〈言い換えれば上位1%の富裕層)のための景気回復ではないのか。働くものを幸福にはしない。このままでは景気は回復しても
 労働者の賃金は下落する。(一億総中流というほんの少しの間の日本のキラメキは戻ってこない)
 アメリカは金融化で世界経済を支配しようとしている。しかしそれがうまくいかないことはもう証明されている。≫
≪ 水野氏の議論の核心は昨今の世界経済危機が、16世紀以降近代資本主義の構造を前提に反復された景気循環の一齣ではなく、
 こうした構造自体の終焉を示すより根源的事態であるという視点に他ならない。これに匹敵する歴史の根源的危機として
 水野氏が参照するのが、中世封建制経済から近世資本主義経済への過渡期に当たる16世紀である。
 16世紀と21世紀は、氏によれば、数々の点で相似的関係に立つ時代である。 こうした相似性は
1.それぞれの構造において経済が極限を迎えてしまった結果、投資効率が極端に落ち類を見ない低金利に陥ってしまったこと、
2.こうした危機的状況の打開のため前者においては「陸から海へ」、後者においては「海から陸へ」という世界軸の大転換が生じたこと、
3.かかる転換の途上で前者においては地理的空間の拡張、後者においては仮想的空間の拡張とそれに伴う超法規的収奪が、
 それぞれスペイン/アメリカという旧体制維持の世界帝国建設のため実行されること、
4.こうした世界帝国はその反動制故に解体を余儀なくされ、その残骸の上に新世界が現出されること等々に確認されるという。
 21世紀における'1.から'3.への過程は天然資源の希少化に由来する大量生産/大量消費型経済モデルの失速とそれに代わる
 情報・金融革命に基づく仮想空間への資本主義の突出により可能となるが、帝国を支えるかかる空間上の高収益は人件費の流動化
 即ち〈搾取〉により初めて実現する。だがこのことこそ、近代という時代を構成した資本主義と民主主義の幸福なる結婚という
 神話のおわりを明らかにする。「ルールを破ることを許される者と、それが許されない者との徹底的不平等」に基づく
 新自由主義を通じ国家は、前者の後者に対する「搾取」を「規制緩和」を通じ実現する手段に過ぎなくなった。
「労働は、資本にすり寄った国家に裏切られたのである」。グローバリゼーションの本質を、16世紀に起きた同質の変化と
 対比させることによって明らかにしようとする。≫
 ▼ ここで著者は、「グローバル化の真実を、「アメリカ金融帝国システムを中心と、その周辺を結びつけるイディオロギー」
  と、看破している。グローバリゼーションの事実とは、「ヒト、モノ、カネの国境を越える自由な移動」である。
  そして、帝国主義国=アメリカ金融帝国は世界中の従者から「規制緩和」を強要し、「搾取」をする、これが実態であると。
  その手始めが1985年のプラザ合意である。日本は、ここからバブルとバブル崩壊のプロセスを歩み、アメリカに搾取された。
・・・・・・
3811, 閑話小題 ー老いと病について −1
2011年09月01日(木)
   ▼ 血圧について
 酒好きの私が、これまで血圧を意識したことは全くなかった。年に一度の半日検査では、「少し高めで高血圧の入り口にある。
出来たら酒は止めた方がよい」と、いわれ続けてきた。それでも、「毎日の運動を意識的にして続けているので大丈夫」と、判断していた。
最近、二箇所の運動ジムに通いだしたが、両方とも血圧測定器が置いてあるので自然に、毎日のように検査をしている。
だいたい145〜155である。そこでネットで調べてみたところ140からが高血圧の三段階の初段階とあった。
医者にいわれ続けてきた通り。 両親とも高血圧体質で数値をいつも気にしていたので、年齢プラス80〜90が高血圧の境目、
という記憶がある。 65歳として、やはり145〜155が境目になる。 ということは年齢からして、少しは考えなければならない。
晩酌で少し飲みすぎが原因は分かっている。 食事は20年以上前から、肉食を避け魚料理にし、御菓子など甘いものは、ほぼ口にしない。
また塩分も最小にと心がけてきた。 運動も30年近く、早朝に散歩か、最近はサイクリング。 5ヶ月前からは、ほぼ毎日のように
運動ジムに通っている。 反面、晩酌に酒一合から二合と、350mlのノンアルコールの缶ビール1本を欠かさず飲んでいる。
死ぬならガンと思っていたので、血圧に対して少し認識が甘かったようだ。
 昨夜のNHK番組の「ためして合点」で、高血圧と認知症対策のマッサージを紹介していたが、そろそろ一歩踏み込んだ血圧対策を
しなくてはならない時期にきたようだ。 今さら遅いか? まだ遅くないか? ネットや、社会、世界の断層の狭間を目の当たりにし、
健康で長生きをしたい欲が出てきている。 まだ娑婆に未練? が残っているか。
やはり、振り返ると、60歳までが人生の良いところ。 ーべき時に、べき事を、べく、すべきーとは、良くいったもの。
 「 若気のいたり、とは若気のいたりが、むしろ無かったこと!」と今東光が、いみじくも言ったが、その通り。
 「 チョットチョット、あの老人、現実に溺れすぎて、恋もしたことが無いんだって! 」というのも、ある。 血圧と何の脈絡がある? 
かというと、血圧など気にする時節に「人生を充実して活きてこなかったことに、後悔する」からからだ。チロリ・チロリ・チンチロリか〜
 ・・・・・・・
 3446.秘・異郷の旅、よもやま話・・3
 2010年09月01日(水)
*初めての21歳の欧州旅行 ー2
 デンマークの初めての夜はレストランのバイキング料理である。当時の日本にはセルフ形式は全くなかった。
それより、自分が食べたいだけ皿にとってよい、とうのが珍しく、不思議な感覚であった。
 そして、スウェーデン。夏のせいか、金髪の若い女性が裸足で、超ミニスカートで、街を闊歩している。
その美しさが街並みにマッチしているのに驚いた。 また郊外にある古城の絵に出てくるようは美しさ。
それと高台からみた高原の輝く景色。それが次々と続いて出てくるのである。
 そしてロンドンに。中学校の教科書の小さな写真でしか見たことのないバッキンガム宮殿、そしてロンドン市内には、
シルクハットをかぶって歩く風格ある紳士。 パブに入って飲んだビールの美味さ。 重厚なパブの雰囲気も異次元の世界へ
タイムスリップをしたような感覚であった。 そこで仲間数人酔ってしまい、子供時代以来、腹の底から笑った経験をした。
こんな楽しく高揚をしたことは今だかってなかった。もう、その世界に入ってしまったのである。
これを何度か経験すると、チョッとしたキッカケで同じ気分になれる。これが人生を楽しさという面で非常に豊かにしてくれた。
元もと実家で商売をしていて、年に一回、家族、従業員、取引先など5〜60人が、年末に飲めや歌えやのドンチャン騒ぎをしていた
回路があったが、ロンドンで仲間と騒げば面白みが格段と上がる。それで酒席が好きになり、ハメがきかなくなってなっていった?
 パリのシャンゼリゼ通りと、凱旋門、エッフェル塔。歴史的な積み重ねが、そのまま、街並みに出ている。そのシャンゼリゼを、
独りで歩いたことが今でも記憶に鮮明に残っている。歩行者の、ほぼ全員が白人。
その中で、東洋人の自分に違和感を初めて覚えたということ。
・・・・・・・・・
3071,衆院選挙の各新聞の論評から
2009年09月01日(火)
  各新聞の衆院選挙の結果の論評をみたが、なるほど要点を突いている。
 ーまずは印象に残った箇所から
・麻生首相は保守本流を強調し過去の実績を訴えたが、戦後の日本を作ってきた自民党は「腐ってもタイ」でなく、
「腐ったタイ」としか見られなくなった。(毎日新聞)
・麻生が任期満了まで解散できなかったのは、郵政民営化などの構造改革の総括ができない自民党が
 国民に顔向けができないという方が正確だ。(毎日新聞)
・小泉を引き継いだ浮世ばなれした三代目が三人が「売り家と唐様で書く三代目」の巻き添えに
 されるのではという危機感を国民が感じ取ったのでは。(日経新聞)
・タダ、今回の結果も、ローマ帝国時代の「パンとサーカス」を庶民に与えて手なずけたのと、
 似ている。パンは子供の手当ての支給とか年金の値上げや、高速道路の原則無料化。
 サーカスは、政権交代という危機のスリル。 (産経新聞)
  以上だが、今回の選挙は、あくまで自民党の自壊の要素が大きい。
    (次数制限のためカット 2011年9月1日)
 ・・・・・・・・
2706, 現代とはいかなる時代か
2008年09月01日(月)
人類の現時点を俯瞰してみると、人間圏が限界に達してしまったことと、
インターネットという人類文明史にとって大きな情報手段を手に入れた、という大きな分岐点に立っている。
著者はアポロの月面着陸が地球史・生命史という時間スケールでも、特記すべきことと見ている。
4億年前に、生命が初めて海から陸に進出した事件に匹敵するという。現代は宇宙から地球をみなければ
ならない時代になってしまったのである。グーグルアースも地球だけでなく天体飛行のできる機能がついている。
我々は何時の間にか、その立ち位置に置かれてしまったのである。
 ー以下、要点を抜粋したー
「地球システムの崩壊」 松井孝典著         −読書日記   −2
  *現代とはいかなるじだいか
1969年、人類は地球上の生命としては初めて、地球の重力圏を突破し、月面にその足跡を印した。
人類としての記念すぺき最初の一歩を印したアームストロング船長は、 その歴史的瞬間に立ち会った気持ちを、
次のように述べている。「これは一人の人間としてはほんの小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」。
この言葉ほど、現代という時代の特徴を、簡潔にして明瞭に伝えるものはない。
 アメリカの文豪ノーマン・メイラーもまた、この高揚した時代の気分を次のように残している。
「二〇世紀はアポロー1号の打上げをもって終った」。それは地球史、生命史という時間スケールでも、特記すべき事件。
今から四億年前、生命が初めて海から陸に進出した事件に匹敵するからだ。 地球の重力圏を突破することの哲学的意味は、
宇宙から地球を見る視点を獲得することにある。それは地球が、他の太陽系天体と同じくひとつの天体にすぎないことを、一般の人にも、
画像としてはっきりと確認させてくれるが、しかし一方で、地球が他の太陽系天体と、異なる天体であることも認識させてくれる。
 その雲の変化や、季節による大陸の地表変化は、大気と海との複雑な相互作胆あるいは生物圏の存在を示唆し、
地表が、その領域を構成するいくつかの構成要素間の、相互作用による動的な平衡状態にあることを語っている。
専門的な言い方をすれば、それは地球がひとつのシステムであるということだ。
 また、夜になると地表を覆う光の海は、この天体に、高度に発達した知的生命体、あるいは文明が存在することを、
灯台からのシグナルのように宇宙に向かって発信している。従って、「現代とはいかなる時代か」と問われれば、
「我々の存在が宇宙から見える時代、あるいは我々が宇宙を認識しはじめた時代」といっていいだろう。
それはまた、我々が大脳皮質に外界を投影し、内部モデルを構築するーそれが認識ということだが、
その認識の時空を拡大することで、ギリシャ以来の学問のゴールである普遍性について、具体的に語りはじめた
時代といってもよい。宇宙からの視点を得るとは、俯瞰的、相対的、普遍的視点をもつということと同じである。 
その結果、「我々は初めて、我々とは何か、どこから来てどこへ行くのか」という根源的な問いに真正面から
向き合うことができる。その詳細を議論するには、宇宙や地球や文明について、いくつか基本的な認識を
確認しておかなくてはならない。
〜〜
何度も書くが、これはコペルニクス的な人間観の転換でもある。また、その視点が最重要になる。
月面着陸が地球史的にみて、これほど大きな出来事だったとは知らなかった。そして宇宙の彼方から地球を改めて
みた時に地球システムの中に、自然の中に人間という知的生物がいて、生物を支配しているのである。
それだけでなく、自らを創りあげた地球システムを破壊始めたのである。それが自滅とわかっていても自分自身どうすることも
出来ない事態に入ってしまっている。この知的生物とやらは、知を得たがゆえに消滅していくのである。
正しく「アダムとイブが禁断のりんご食べたこと」が、これに当たるのだろう。
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2007年09月01日(土)
2342, 「ある」ことと「あった」こと          お|* ̄O ̄|は
 『狂人三歩手前』 ー中島義道著
ー「ある」ことと「あった」ことー
理屈っぽくなるが、「ある」とは「あった」があるから「ある」のである。「あった」があるから、その想起で現在が「ある」。
「私」も現在から過去を振り返ったとき、「私」が発生するのと似ている。現在は過去にかこまれているのである。
かって旅先で暴漢に襲われて記憶を無くしてホームレスになって、そして立ち直っていく男の物語の映画をみたことがある。
これこそ自己喪失である。そこに記憶も生活基盤を無くすことの恐ろしさを見た。それは「あった」があるから「ある」という説明に、
解りやすい物語であった。その映画を見て、人生は「ある」ということと、「あった」ということで成り立っており、
その両者を大事にしなくてはならない!と実感をした。過去は消せないのである。
   ー以下は『狂人三歩手前』から・・・
世界についてでも、私自身についてでもいい、物体についてでも、心についてでもいい、われわれは
現在の知覚を基準にして、何らかの客観的対象が「ある」とみなしがちである。
(以下、字数の関係でカット09年9月1日)
ーー
非常に解りやすい、深い内容である。これを歴史に当てはめてみても、成り立つことである。
遡れば、ビッグバンがあったから、現在があるのである。
(その説が正しければだが)ありえない事が起こったのである。そして、現在、私が世界を生きている!
これは偶然か、必然か?そしてビッグバン以前は何だったのか? これを考えるのが哲学の一歩である。
            バ━━ヾ(′ω`●)ノ━━イ
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2006年09月01日(金)
1977, 三回目のケニア旅行ー2 (≧∇≦)オハヨウ~ゴザイマス!
 10年前には日本人観光客が一万人だったが、現在では十万になってしまった。以前はケニア旅行といえば珍しい存在であった・・
また首都のナイロビからマサイマラへの道路では以前はあまり車が走ってなかった。しかし現在では対向車が絶えることなく走っていた。
 話は変わる。 マサイマラでの出来事。サファリカーが5~6台終結しているところに若い雄ライオンが二匹寝ていた。
ところが何分経っても寝たままなので、その場を去ろうとすると、突然隣の車が二台が交互に、そのライオンの鼻先に
車を突進、寝ているライオンを飛び跳ねてしまった。若い現地の運転手が笑いながらからかっているのだ。
初めてみるシーンである。自然動物に対して絶対してはならない行為と、ただ驚いてしまった。後ろの席にいた若いツアー仲間の女性が、
それをみて突然泣き出してしまった。 彼女の気持ちが痛いほど理解できるが・・考えてみれば、現地人にしてみればライオンなど
野良猫のようなもの。もし抗議したとしたら「観光客こそサファリーカーで勝手に排気ガスを撒き散らして、奇麗事を言うんじゃない!」
というのが本音だろう。ただ、長い年月を通して、動物とサファリカーはお互いに危害を加えない暗黙の了解を作ってきた。
その意味でやはり問題だろう。今回の旅行でアフリカが遠い存在から、ごく近い存在に感じ取ることができた!
それにしても7年前のヌーの河渡りの印象が、あまりにも強烈過ぎた。
野生のライオンや、豹を見ても感激しなくなった!もうサファリは最後か!いやタンザニアがある。
まだまだ、深いアフリカは!添乗員から、マリが面白い!と聞いた。
地方経済がもっと回復してくれば大手を振ってもっと出かけるのだが・・絶望的か!もう年一で充分だが・・    
                  (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが?        バイバイ!
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2005年09月01日(木)
1612, ハワード・ヒューズ
 ー字数の関係でカット(08年9月01日)
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2004年09月01日(水)
1247, さよなら!五十嵐恭一さん
 −五十嵐恭一さんへの弔文
友人の五十嵐恭一さんが8月21日の夜半の11時過ぎ、長岡西病院で亡くなった。 享年57歳であった。
その日はオーストリアの旅行の為、日暮里に前泊していたので、旅行から帰ってきた翌日の30日になって初めて、
その事実を知った。朝日新聞系の「朝日広告」の営業で、高校の後輩ということもあって、公私の付き合いがあり、
私の弟分であった。かなり激しい躁鬱症で、間接的だが私がカウンセラーとコントロール役をしていた。支局長までなったが、
その病のため平社員に降格された。それでも過去の経験を買われて、そのまま同じ職場で仕事を続けていた。
盆暮れを含めて年数回、20年以上飲み続けていた。 アポ無しで事務所で直接来ても、
抵抗感を持たせないキャラクターがあった。気持ちが純粋で、面白いミニ情報を多く持ってきてくれていた。
三年前から、唇に腫瘍ができ、それが原因で転移して末期癌になっていた。 この5月に自宅に見舞いに行ったところ、
苦痛に呻いていたのをみて、末期医療の長岡西病院のビハーラ病棟への入院を勧めた。
(躁鬱病の重症の時も、私が入院を勧めると、直ぐに従った。)自宅への見舞いの三日後に、即入院をした。
そして最後に見舞いに行ったのが、亡くなる10日前であった。一緒に見舞った人が、五十嵐さんの知人で、
先に亡くなった人の名をあげて「私も直ぐに行くから、彼らと待っていてくれ!」と慰めた。
ところが、「まだ、早い!」と絶叫をしたのをみると、マダマダ生に未練があったようだ。
死ほど、自分と他人の差が大きいものはない。苦痛は想像を超えていたようで「24時間の拷問にあっているようだ」
といっていた。奥さんに苦痛の為[殺してくれ!]と、懇願したそうだ。 私の身辺で多くの末期癌の壮絶な死を見てきたが、
彼のそれは悲惨で見るに耐えないほど激しく厳しいものであった。本人しか知らない想像を超える辛さがあったのだろう。
オーストリアの旅行先で、行く先々の観光地で、バスを降りると雨が降ってきた。
そして、バスに乗ると雨が止む。 それが三度目に、虹が出たとき、「ああ、五十嵐恭一は亡くなった?!」と、
思ったのが事実と知った時、なるほど、彼らしく自分でお知らせをしてきたのだと思ってしまった。
知人縁者の死は、自分の死でもある。しかし自分の中では、より身近になって何時までも生き続けることを実感する。
さようなら、五十嵐恭一!そして、ありがとうございました!  ご冥福を!

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4175, 閑話小題 ー恐ろしい近未来がまっている

2012年08月31日(金)

  * 恐ろしい近未来
 南海トラフ地震の最悪の死者予測が32万人と政府が発表、マスコミが騒ぎ出したが、もう一年以上も前から週刊誌で騒がれた
記事と同じ内容。しかし、政府発表となれば違ってくる。大手ゼネコンの含み笑いが聞こえてきそうだ。これは太平洋沿岸沿いには
住めないということになる。その地区の住宅地や商業地が暴落というより、ほぼゼロになってしまったことになる。 当事者は、
まだピンとこないはず。 千年前の大地震の後に二回、17年内周期で大地震と大津波が起こっている痕跡があるという。
活断層が不自然に捩れていて、何らか次の大地震が起きる可能性が大きい。決して非現実的予測ではない。 
これに関東直下型地震の可能性がある。更に世界恐慌も遅かれ早かれ起こる。いや、すでに起きている?
 これでは、夢も希望も持てやしない。この数年来、大卒の正規社員就職率が63パーセントで、三分の二も就職ができてない。
これが恐慌が吹き荒れる前で、この有様。数年先は、こんなものでないはず。 40数年前の私の卒業の時とはえらく違う。
金の卵で、会社は選び放題。私の同期の男たちは、殆どが一部上場の有名企業で、ハッピーリタイアをした。時代は大きく変わった。
  
  * 田中真紀子が民主党党首に立候補 ?
 久々に面白い話に驚いた。途中で立ち消えになるかどうか?だが、真紀子様が民主党党首の候補の可能性が出てきたという。。
思わず失笑したが、それほど民主党は困っているということになる。 あの外相時の相応しくない姿を忘れてしまったのか。 
あの人物から誠意の何も感じられない。一国を束ねる力量があるとは到底思えない。何が今さらだが立場が野党なら、最適の逸材か。 
あの辛辣な口撃は溜まったガス抜きになる。 まあ国が衰えると、こうなる。 政治は、何でもありである。床屋レベルの政治談義
からみると、この世界的危機の中での、日本、米国、韓国、中国のトップ交代による政治変動は非常に興味をそそられる。
なるほど2012年問題は、危ない要素に満ちている。安倍自民党総裁、田中真紀子民主党党首、それに安倍に担がれた橋元首相。
面白いが、どうだろう? それと何時起こるかしれない南海トラフ地震と、関東直下型地震。それと世界恐慌の可能性がある。
20世紀前半に世界恐慌を挟んで二つの世界大戦があった。このドサクサで一億以上の人たちが犠牲になった。
それより大きな変動が、始まってしまった。 これから壮大なシネマのような世界が展開される。
・・・・・・
3810, 世の中の商売、すべからく代理・代行 
2011年08月31日(水)
  旅行代理店、保険代理店、会計事務所などのサービス業があるが、すべからく世の多くは代理サービスの変形である。
家電商品も、その多くの製品は代理システム品である。洗濯機、電気炊飯器、扇風機、暖房機も、人間の労働の代理品である。
20年前に、「一世代前の人が、現在の生活をするには200人の従者を必要とする」と聞いたことがあった。現在では、
数万人でも無理だろう。 車は馬車の代行であり、カメラは専属カメラマンの代行。 夕食の宅配は、主婦の仕事の一部代行である。
 旅行代理店のパック・ツアー。その大ファンにとって、その恩恵は大きい。アフリカのタンザニアや、ケニアのヌーの河渡りなど、
素人では絶対に無理だが、ツアーに参加すれば誰にでも気楽にいける。スナックや、居酒屋も家庭内で満たされない料理や、お愛想、
色気などの代行である。 この事業整理の一連も、弁護士事務所が会社が300万プラス個人が50万、合計350万で、一括業務?委託。
一連の委託契約をすると、全ては弁護士の管理下に入り、良くいえば債権者から守られる。 逆に、一切の社会的信用はゼロ、
前科者に近い後ろ指、陰口の絶好の対象になる。 また、最近通いだしたスポーツジムも、各種のエアロビがあり、運動の指導を
パッケージにしてある。それに従っていれば体質改善が合理的に出来る。 その指導を多くの会員を集めることで、パックにして、
場の提供をしている。 これも各自で行っていた個別運動のパッケージ化になる。
 ところで、これまでの蔵書、ベストの100〜200冊をデジタル化して、iPadに気楽に入れられたら、よいだろうにと思っていたら、
一万冊を入力してiPadに入れて持ち歩いているという人の本があった。それは面倒と思っていたら、一冊100円で入力をしてくれる
サービスがあった。とりあえず、100冊を?と考えているが・・。 また、アマゾンに注文した本を、そのまま業者に本が直送し、
スキャンしてくれるサービス業者もあるという。デジタル本が、まだまだ普及してない中、これは良い代行システムになる。
情報化とデジタル化の時代、代理・代行システムは重要なキーワードになる。 それにしても、面白い時代になったもの。
各種代理システムをiPadを端末として、如何に使いこなせるかが、これからのポイントのようだ。
 ・・・・・・・
2010年08月31日(火)
 3445・秘・異郷の旅、よもやま話・・2
  *初めての21歳の欧州旅行 ー1
 どの旅行が一番良かった?と聞かれても、答えられない。半分、いや三分の二以上が、それに当たるからである。
ショックの段差が大きかったのは、初体験の学生時代の一ヶ月間の欧州旅行。見るもの、聞くもの全てが驚きの連続。
当時は、やっとカラーテレビが普及し始めたばかりで、欧州の映像など殆んど目にしたことはなかった。
モナリザや、ミロのビーナス像、パリの凱旋門などは中学か高校の教科書の小さな白黒の写真でしか目にしてなかった。
それが突然、目の前に本物が次々に現われるのだから、驚き唖然とするのは当然である。
 まず飛行機乗って、夕飯にヒレのステーキが出てきた。まだ憶えているが、牛肉に細い糸が巻き付いていた。
生まれてこのかたヒレステーキなど、食べたことはなかった。 そのためか、その味の美味しいこと。
次に初めての海外に降り立った地はデンマーク。そこは、私が今だ見たことがなかった明るい空と緑の中に街がある御伽の
国に思えた世界があった。人種が違うのである。金髪の大柄な男女。空の色が違うのである。そして、林や森のグリーンが、
違うのである。考えてみたら、日本全国の自然さえ見てなかったのである。それが、いきなりデンマークの空とグリーンと、
北欧人を目の当たりにするのだから。一挙に御伽の国の真っ只中に降り立った時の驚きは新鮮であった。自分の精神を
正常に保つだけで精一杯であった。 当時、海外旅行に出る人は、まだ20万人でしかなかった。現在の100分の一である。
 だから、出発前から気持ちが高揚していた。
 ・・・・・・・・
3070, 衆院選挙の結果をみる
 2009年08月31日(月)
 終わってみれば、マスコミが発表をした最終の予測調査の通り。週刊誌では週間朝日の最終予測の307が一票差で、
完璧に近い予測。森元総理が落選するかどうかに注目をしていたが、残念ながら?当選、その反面、太田公明党首が落選した。
今回の特徴は元総理など多くの実力者が落選したことだが、これは歴史的転換への時代の要請である。
色いろな意味で歴史に残る選挙になった。 自民が国民から大きく離反した結果のオウンゴール(自滅点)。
民主党は私の事前の予測の325には及ばなかった。 私の周辺では殆ど自民党を支持する人はいなかった。
 あと講釈で言えば、自民の三代の首相が解散のタイミングを何回も逸し、自民党を粉々に崩壊させたことになる。
もう二度と元の自民党に戻ることはない。 海部元首相や派閥の領袖などの大物が消えたことは最大の収穫。 
権力も失ってしまえば、磐石に見えた彼らも虚構でしかなかったということ。アメリカの政治体制の変革に続いて日本も大きく
舵を切ることになった。当然といえば当然の流れである。自民党も振りかえると決してマイナスだけではない。
プラスの面も多かったが一度、旧態依然の官僚支配の体質の根本的な改革をしろ、という天の声である。
それにしても自公の大物等がよくも雁首を揃えて落選したもの。 これで経済に続いて政治も動乱に入った。 
面白くなったと他人事のように言っていられないのが、現在の日本の危機状態である。
幸福党の教祖様は、この結果を予測もできなかったのか? 元もとは布教活動の宣伝活動だったのか?
我が区の真紀子様、大恥の結果だったが、これが地元感情である。それにしても素朴な人が多く残っているもの。
次は、新政権の組閣の顔ぶれに興味が移る。 法務大臣が誰になるか面白い。検察のゴミ掃除をどうするかだ。
 これで日本も良きにつけ悪きにつけ大きく変わる。 あまり期待はしてないが、期待できない自民よりは良い。
 ・・・・・・・・・
2008年08月31日(日)
 2705, 酒の話
ここでも、何度か酒の失敗について書いてきた。しかし楽しい酒はこれまた格別よい。致命的な大失敗をしても仕方が無いと割り切れるほど、
酒は日常の制約や退屈さから解放をしてくれる。「酒はモラルの休暇」とは、よく言ったもの。世界の人たちは酒の少々の失敗は認めてくれる。
歴史を振り返っても、どの社会でも飲めや歌えの大騒ぎを許容する祭りや行事があり、その日のことは、大目にみられてきた。
ただ酒で抑制が解放されてしまい、殺人や、思ってもいない浮気や、失態も起こる。
「しらふの人間が心の中で思っていることを、酔っ払いはベラベラと話してしまう」ことが、酒の一番の欠点だろう。
そういう不節制にも教育的?価値もあるという。 少し無理はあるが、直接跳ね返ってくる身近な事件?になるからだ。
あまりに真面目くさった人生も、これまた面白くも可笑しくもない。 下戸の人は、酒を飲んで大騒ぎをしている高揚した楽しさ、
至福を知らないまま生涯を終えるのである。 普段の生活の中に自分を解放する夕時の一時の時間として一般的には、どの世界もアルコールは
日常の生活に入りこんでいる。どの街にも飲み屋街が繁華街にあり、多くの人が頻繁に出入りする。スペインにはバールが何処にいってもある。 
値段の安い西欧居酒屋である。 そこには、誰もかしこも入り浸っている。
長い歴史の中で、出来上がった庶民の娯楽施設だが、そこで家族や友人同士が夜遅くまで話し合っている。
カフェテラスのように店の前にも席があって、多くの人が親しそうに話しをしているのを見ると、奇異な感じがする。
バイロンは「理性があるからこそ、人は酔わねばならない。人生で最高のものは、けだし酩酊なり」と、いっている。  
  酒に十の徳あり(酒には十種の長所がある)という。
 百薬の長、 寿命を延ばす、 旅行に食あり、 寒気に衣あり、 推参に便あり、
 憂いを払う玉ぼうき、 位なくして貴人に交わる、 労を助く、万人和合す、 独居の友となる。
酒は、つらい日々ほど、その時間だけは美味い酒で楽しい最高の気分になれる。 辛い日々の酒こそ、美味い味わいが残る。
一時的に天下を取ったような気分に慣れるのである。 達成感など実際の喜びを感じるには長い年月と、汗と涙が必要となる。
しかし、酒は酔いという作用で、その喜びを与えてくれるのである。 だから、恐ろしいのである。
 まあ、よくぞ、これだけ、酒で失態をしたものだ。 しかし、その時々に本当に美味い酒を飲んできた。
これが、もしかしたら、人生で一番の価値あることだったかもしれない。 たまには大騒ぎをするのも良いじゃないですか、
ということだが、「御前の場合は、それさえなければ、な〜」と何度言われたことか。 そして自戒しとことか! 
でも、私から、それを取ったら毒の無い河豚みたいなもの。  棘の無いバラ、それともノンアルコールのビール?
(以下、字数の関係でカット11年8月31日)
                 
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2007年08月31日(金)
2341, 「私」とは何か?        〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●)
  「狂人三歩手前」−中島 義道 (著)       −読書日記
   ー「私」とは何か?ー
「私」について、その構造について、過ってこの読書日記で書いたことがある。
成る程と合点がいったが・・・ 常に考える時、「私」は何々・・・と一日、数百回も自問自答しているのに、
その「私」とは何ぞや?と考えたことがない。それをキチッと知っていると、いないとでは、思考の根本が違ってくる。
 ー「私」が無になることーのコーナーの「私」についての説明が解りやすい。
  ある哲学書で「私」についての説明があった。
{「いま・ここ」の主観を私とは言わない。 土手を歩いていて振り返った時、さっきの橋を歩いていた主観が
「私」として飛び出してくる。云々}と。成る程と思いつつ、解ったようでもう一つ理解できないモヤモヤが残っていた。
過去を振り返った時に「私」が初めて発生するということ?垂直に縦にある「いま・ここ」の主観は、
まだ私になってないということ? ところが彼は、この本の中で、その「私」を噛み砕いて解りやすく説明をしている。
  −p.86
「いま・ここ」に存在するものを「私」だと思い込んでいるのだ。だが、そうであろうか? いま両肩から下に頭部を欠いた
独特の身体が広がっているが、なぜこれが「私の」身体なのだろうか?そこに独特の感じがするから?だが、なぜその独特の感じが
「私の」感じなのだろうか? こう問いつめていくと、この方向に答えは見いだせないことがわかる。「私」とは知覚とは別の
独特の作用によって端的にとらえられるものではないか? いや、そんな独特の作用など見いだせない。「私」とは知覚しているときに、
同時にそこに感じられるものではないか?いや、胃がきりきり痛い時にそれと並んで独特の「私」という感じなどない。
そもそも「私」とは作用の対象ではなく、作用の絶対的主体なのではないのか?多くの哲学者はそう考えた。
そして、それを「純粋自我」とか「超越論的統覚」とか名付けた。だが人間としての「私」がそんな抽象的な
発光点のようなものであるはずがない。あれもこれも否定して、振り出しに戻ったわけである。
ここで、別の視点から反省してみるに、「私」とははじめから異なった時間における同一なものと了解されている。
「私」とは過去のあの時も同一の「私であった」者である。しかも、その同一性は二つの対象を見比べて判定するのではなく、
現在の側から一方的に過去のあの者を「私であった」者と判定するのである。「私」は、過去と現在との関係において登場してくる
のだから、現在の世界を隈なく探しても見いだせないのは当然である。過去自体はすでに消えている。過去の記憶だけが残っている。
現在の知覚される世界ではなく、過去の想起される世界を探究することによってはじめて「私」は身を現わすのである。
ここにきわめて重要なことは、過去のあの時に私が不在であっても「私」の同一性は保たれるということだ。
夢の場合で考えてみよう。夢を見ているあいだ「私」は自覚されていない。
「私」は、夢から覚め「私は夢を見た」と過去形で語る時にはじめて自覚される。
まさにその時、あれが「私の」夢であったことが忽然と了解され、遡ってあの時「私が」夢を見ていたことになるのである。
夢ばかりではない。この構造は広く普遍化できる。「私」は仕事に没頭している時や、夢中でボールを追いかけている時や、
ぼんやりもの思いに耽っている時など、いわば消えている。しかし、あとから「私は〜していた」と語れる限り、
その時「私」は存在していたことになるのだ。夢中で小説を読んでいた。
ふと気がつくとあたりが薄暗く、電気をつけてみるともう三時間も経っている。
私は小説の内容を細部に至るまでありありと覚えている。一体誰が読んでいたのか?ほかならぬこの「私」である。
ーーー
夢を例にした説明が、理解しやすい。夢見ているうちは「私」は成立してない。じゃあ、夢の中で私は何々、云々と
いっているのは何だろうか?ただ夢の中で過去のことを考えただけで何の問題は無いか!まだ夢の中で成立してない
純粋何とかいう未成立の?が、夢の中で成立した「私」として過去からの流れの何かを考えていた!
 ということになる、ただそれだけだ。 そういえば、また夜半にリアルな夢をみた  グッ。・:*:☆w(´・з・`)バァイ
・・・・・・・・・
2006年08月31日(木)
 1976, 充実した人生
  おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・  時差ぼけだ〜
先日の新聞広告の「男の品格」という紹介文で「自分の一生が幸福だったかどうかは、男にとっては大した問題ではない。
だが充実していたかどうかは大きな問題だ」という内容があった。ところで私の場合はどうか、考えてしまった。
幸福度は70~80点? 充実度は、どうだろう? どうしても知人との比較対象になってしまう。その充実度は外的なものになってしまう。 
それでも、やはり80点か? 幸福度は気持ちの問題だから、その本人次第だが充実度は? やはり過去の人生の密度に関係してくる・・・
密度は濃かった?、それとも淡白だった?のだろうか・・・ところで「充実したか」と、「幸福」を置き換えて、
「人生は充実していたかどうかは大して問題ではない、だが、幸福と思えるかどうかは大きな問題だ」という理屈も、成り立つのでは?
充実をした人生を送ってない人も多いから、その見方も大事じゃないかと??     ( ̄ω ̄;)!!
全て解釈ー受け止め方、そう言葉・言葉でしかない。 どう考えても充実した人生を送ってない人が、自分は充実した人生を送ったと
勝手に思い込んでいる人もいるし、充実した人生を送ってきた人が、自分は充実した人生を送ってこなかったと思い込んでいる人もいる。
だからよいのだろう!人生は。  充実した人生か〜 やはり大事なのだろう! ところで充実した人生とは?
・感動・感激・感謝の詰まった人生
・自分の夢を追い求め、そのプロセスで自分の力を出し切った人生
・自分の好きなことをやり遂げた人生
・燃焼しきった人生
・よく遊び、よく学び、よく働いた人生  というところか!!    ( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪
 美味い酒を飲んで、美味い飯食べて、上さんで満足して、ニコニコしていて、
充実した人生のことなど我関せずで人生を終えるのも良いのだが・・・
ところで充実している時って充実感など意識してないものである。食べている時満腹感がないのと同じこと。 
感動・感激、そして達成感などが、溜まった状態をいうからだ。不幸のときに充実感はない!
しかし充電をしているのだから、空の状態。下手に充実感など持たないほうがよほどよいのでは?とも考えられる。
まあ、いいか! この旅行の直後のためかイヤニ充実感がある! 気功をすれば、 早朝の散歩も、 
気の充実はできる。 それで充分といえば、それまでだが・・・     ホンジャ(。・ω・)ノ☆゜+.バイ!

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horii86 [HOMEPAGE]