堀井On-Line



375, 「テーマ日記」を書き始めて一年

2002年04月13日(土)

あと一ヶ月でホームページに「テーマ日記」を書き始めて一年になる。
旅行を除けば一日も欠かさないで書いた。

何処までやれるか自身との闘いで始めた。
あまり苦しい事はなかったが、しかし気をとられたことは事実である。

気がついたら、370以上の文章を書いた事になる。
よく書いたものだが、内容はこんなもの。

あと1〜2年つづけたら殆ど内面を、いや底を尽くのではないか。
その後で底から真水が出てくるのではないか。
今現在もう底を突いているのではとは思えないでもないが。

テーマの種が尽き始めた事は事実だ。
大した事を考えてない自分が顕わになった。
本気になって第三者を意識して書き出して、プロの文筆家の能力に
今更驚かされる。それで食べているのだから当然といえば当然だが。

書くということと、内面で考える事とあまり違いはない。
内面を赤裸々に顕してしまう。
毎日書き続け公開していることは、とんでもない事かもしれない。

しかし今更そういう生き方をしてきて(^^ゞ−(;一_一)(+_+)(-_-;)
ー恥ずかしいことはない。
後どうしても過去の事考えたことに偏ってしまう。
人生の7割生きたのだから仕方ない。
自分史そのものだ。
自分史の先取りだが、自分史は早いほどいいという。





374, 主観と客観(喜劇と悲劇)

2002年04月12日(金)

以前も書いた事があるが?
「滑って転んだとする、その人は骨を折ったか、悲しいぐらいのいたみである。
たまたま横にいた人にそれが非常に可笑しく見えた。
前者にとって悲劇、後者は喜劇である。」

後者は同じ出来事を傍観している。他人事として見ている、これが喜劇。
前者はその滑った本人の目で書いている、これが悲劇だ。
後者は客観で、前者は主観である。

あれだけ苦しんだ事も、あとで笑い飛ばした時に気持ちが癒される。
何事も笑い飛ばしてみれば、どうっとことはない。
「早く忘れたい嫌な事は、笑い飛ばしてしまえ!」
というのが肯ける。

「喜劇と悲劇は紙一重」とは、視点を主観から客観に少し変えてしまう事だ。
「人を笑う前に自分を笑え」ともいえる。
特に日本人は「恥じの文化」ともいわれるように、他人に笑われる事を嫌う。
それだけ自立していないのと、多神教のせいもある。

逆に他人を笑っている自分は何だろう? 自嘲か軽蔑か、それとも同化か?
あまり他人を笑わないほうがいい!その他人に対する同化になってる状態だ。

考えてみたら、この二律背反だからこそ生きられるのだろう。


373, 何故マイナス思考になるのか

2002年04月11日(木)

ーこれは面白い問いかけだ。
経験を積むにしたがい、必ず失敗の経験を重ねていく。
そしてその失敗の経験が、マイナス思考を生み出す。
あれも駄目、これも駄目、全て駄目、一番悪いのはそういっている俺!

ある???会に行くと、マイナス思考の愛好会そのもの!
どうしたらあのような考え方が出来るかと不思議なくらいだ。
現実に溺れて(下と横だけを見て)???

子狐がいるせいもあるが。
この子狐不景気になってきたら急に元気になった。
周りが自分並に見えてきたためか。
ーマイナスに対するマイナスは拙いか?

いま一つがマスコミの毎日流される、事件の報道である。
事件はほとんどがマイナスの出来事である。
犬が人を噛んでも事件にならないが、人が犬を噛むと事件になる。
それは別にマイナスの事でないが、幸福な家庭からは事件は起きない。
それはニュースにならない。

めったに起きないマイナスを報道するのがニュースである。
それをまともに脳に流し込んでいるから、
いつの間にか頭はマイナスに侵されてしまう。
それに気づかないから、どんどんマイナス思考に落ちてしまう。

「あまり人を恨むな、恨んでいると知らないうちに主語が消えてしまう。
主語が消えた後、他の人達に主語が転化してしまう。」
という話を聞いた事がある。
「あまり恵まれてない状態の人や人生の人に近づくな!」というが、
この年になると実感する。

といってマイナス思考も必要である。
ただ冷静に見据えておかなくてはならない。

人は他人の不幸をどういうわけか好むという。
江戸時代の盲人が、それを看破していた。
目が見えない分だけ、人の気持ちが良くわかるという。
不幸の話をしている人の声が弾んであるという。
幸福の人の話をしている時は沈んでいるという。
他人の不幸を悲しみ、幸福を喜ぶことは意識して訓練しなくては出来ない。

いやその前に自分が幸せと芯から思えなくてはならない。
まずは考え考え考え抜いて、自分が幸せと気づかなくては。
それがプラス思考の第一歩。

以前にも書いたが、家内が「自分の友達の大部分が自分不幸と思っている。」
と驚いていた。「どうみても幸せの筈なのに、どうして?」
これなど、典型的なマスコミとか、周囲のマイナス思考に対する浄化装置を
身に付けてない典型の例だ。


372, 不安解消法

2002年04月10日(水)

不安解消法

学生時代読んだ本だが、
カーネギーの「道は開ける」に書いてあった方法である。
記憶なので何処まで内容が正確か定かでないが書いてみる。

  ある不安があったとすると、
1、まずその不安な気持ちの対象を書き出す。
2、その不安のさらなる最悪の出来事を想定して書いてみる。
3、その解決方法を幾つか書き出してみる。
4、それが本当に起きるだろうかと、今一度自問してみる。
5、そのプロセスで不安感は消滅してしまう。

という内容だったように記憶している。
これを実行していく中で、不安症の性格がかなり修正された。

「まあその時はその時さ!」「何とかなるさ」
「考えても仕方ない事は、考えても仕方ないさ」が口癖になった。
不安を感じた時、それを直視すればそれは不安でなくなる。
それに対する方策を考えれば、それが不安そのものを解消する。
不安そのものが、手順を考えるプラス要素に逆転する。

実際にケニヤにはじめて行った時の不安は、想像以上であった。
添乗経験10年の女添乗員と家内がヒソヒソと不安そうに
ロンドンへの機内で話していた。
「ロンドンで降りようか」と。

実際タンザ二アやインドに行った時も「不安というプレッシャー」
が襲ってきたが、実際はその数百分の一でしかなかった。

その時時に、その不安を具体的に考え、その対処を具体的に考えていくしかない。
事業も然りであった。具体的に具体的に考えるしかない。
そして具体的に一つずつ解決していくしかない。

「それで済むような生易しい問題は、本当の不安でない」
という言葉が聞こえそうだが。

「直視できない問題だから大変なんだ、不安なんだ」
それももっともだが。


3 71,花見

2002年04月09日(火)

いつもこの時期、福島江と悠久山の花見に行く。
といって朝の散歩で行くのだが。
今年の桜は当たり年のようだ。

「散る桜、残る桜も散る桜」 毎年このことをおもいしらされる。
人間の人生の短さに例えて言っているのだ。
所詮自分の死もいずれ近くやってくる事を言っている。

京都の桜も素晴らしい。
それぞれの地区で素晴らしい桜の名所がある。
この時期の名物の一つである。

7年前私の従兄弟が桜の散際に自死をした。
桜が好きで毎年写真を撮っていたという。

なくなった後で、その時の写真を見せてもらった。
なくなった通夜の納棺の時、突風が吹いた。
納棺の桜吹雪である。背筋がこうりつく思いであった。
こういう事が実際あるのだ。
桜は人間の人生を見せてくれる。
その年も桜の当たり年だった。


370,なりきる

2002年04月08日(月)



散歩のときはウオーカーに、旅行の時はツーリストに、
会社に行けば会社の立場に、家に帰れば父親になりきる。
そしてなりきった立場で色々な自分を見てみる。

散歩の時、会社のことを考えたりして景色が見えなかったりする。
海外旅行でのケース。
今まで会社の役員をしていた人が、その役員の状態で来ていた。
奥さんがその人を、社会へのリハビリでこの旅行にきたといっていた。
かたっぱなしに同行者を皮肉っていた。
上から見下ろしている視線を引きずってきていたのである。

考えてみたら、なりきってない方が多いのではないだろか。
学生時代に学生になりきっていなかった自分。
必至で働いていたあの時期、その時はなりきっていた。
実際なりきれないで、失敗を重ねていくのが人生かもしれない。

同級会などで久々に会うと、時間を超え昔の自分にいつの間になっている。
花が「今花やってんねん」と主張していると、考え見ている自分。
その時は見ている人になりきっている?いやなりきってないか?
名優は端役をやっても光ると云うが、名優の名優たる所以はなりきることだ。

ところで自分は今、書き手になりきっているだろうか?


369,植民地経営

2002年04月07日(日)

植民地経営

西アフリカに行った時聞いた話しである。
方法として次の3つである。

1、直接統治
2、間接統治でそこの王族と手を組み統治
3、隣国に間接統治の王国に攻めさせ統治

大体がこの3つである。
まずはフレンドリーに入って行き、徐々に統治していく。

その前にキリスト教の宣教者を派遣して、内側から攻めていくのが常套手段だ。
秀吉がそれに気づき、キリスト教禁止令を出したのは賢明だった。

戦後の日本も戦犯の天皇や官僚をそのまま温存させたのも、
王族の間接統治を狙った為だ。
今の日本は王族を飾り物に、戦後から続く官僚の支配がそのまま続いている。
そして悲しい事に、間接統治をされていることに全員満足している。

この不況は「1986年のアメリカのバブル押し付け政策」の結果である。
そして、直接支配に今露骨に入ってきたのは周知の事実だ。

今回の9・11テロは、
この間接支配の露骨のアメリカ世界戦略に対するテロである。


368,リオのカーニバル

2002年04月06日(土)

いまTVをつけたら、NHKのハイビジョンで
「リオのカーニバル」をやっていた。
2時間があっという間に過ぎてしまった。
7年前に行った内容をコピーしておくが、本当に素晴らしい内容であった。

今見ている内容は当時に比べ、かなり豪華にかつ派手になっているようだ。
カーニバルは元々はヨーロッパで行われていた、キリスト教のお祭りである。
南米の農園に売られていった奴隷が、一年に一度のカーニバルに与えられる
休日に輪を作って歌い踊ったという。
普段でも彼らの楽しみは歌と踊りだけで、それが段々サンバに変わっていったという。
1888年に奴隷制度が廃止された時、彼らはリオに仕事を求めていった。

彼らはグループを作って踊っていたが、そのうち互いに競いだしたのが
リオのカーニバルの始まりという。
リオだけでも400のグループがあり、そのトップクラスと準トップクラスが
正式に会場で競う。

それぞれチームごとにテーマがあり、それによってストーリがある。
それにより、衣装や歌や踊りが決まってくる。
上位のチームにそれぞれのチームにスポンサーが付いているという。

それぞれ項目があって、厳格の審査のうえで順位が決まる。
去年から見ているが、ハイビジョンのせいもあるが素晴らしい。
一年は全て、カーニバルを中心に回っている。

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H0703ブラジル旅行記

 “行って吃驚!玉手箱”主観をこめて現地の実感を書いてみる。
カーニバルはリオディジャネロだけでなく、全国津々浦々の都市で行われており、
四日間全国がお祭りの為休みとなる。

その最も有名で世界的に知られているのがリオのそれなのである。
リオのカーニバルのランクがA・B・CとなっておりAランクが9チーム、
Bランクが15〜16チーム、Cランクは数十チームとなっている。

AとBチームが特設スタジオのメーン、ストリー850mを80分の持時間で
踊りながら行進する。そこは六万人の観客席があり、審判席で厳格に審査され、
その年の優勝等順位があらそわれる。

そのチケットは一般の人はほとんど入手不可能である。
我々のTV新聞等で目にするのはCチームが街頭で行進するものでしかなかった。

チームは四千名が1チームで構成されており、
それが約500名×8チームに細分化され、統一のコンセプトのもとに、
仮装が華やかにつくられている。

音楽も各チームごとに毎年新しいコンセプトのもとに有名作曲家が名誉をかけてつくる。
その作曲も採点の大きなポイントになるという。
一日6〜8チームが夜の七時より翌朝の七時まで延々と踊りの行進が続く。
観客席もその行進曲にあわせて半数以上が踊っている。

音響もすさまじく隣の人の声は全く聞こえない。
上位数チームが翌週の土曜日に優勝をかけて再び行進がおこなわれる。
優勝チームは10億以上の賞金がつき、かつ翌年に向けてのよいスポンサーが約束される。

その年の山車とか衣装は翌年に持ちこさずすべて破棄するという。
カーニバルをみていて“気”とか“色即是空”とか“禅の悟り”がすべて含まれており、
東洋的なこのような言葉が小さくみすばらしくさえ思えるくらいだ。

ブラジルの印象として残ったイメージとして、キーワードを書くと
“サッカー”と“サンバ”(カーニバル)と“森林”と“イグアスの滝”
そして“汚職まみれの国”である。さらに加えるなら“まずしさ”である。


367,「携帯TV電話」は究極の情報機器。

2002年04月05日(金)


5年前、マスコミで聞いた内容である。
それが今年から始まったのである。

「携帯電話」が我々の生活を劇的に変えた。
いや社会を変えてしまった。
空間の溝を取り払ってしまった。

それ以上に「携帯TV電話」が社会のありようを変えてしまうだろう。
これにそれぞれの場所にカメラが設置して、それにリンクすれば、
一瞬にして世界中の何処でも見ることが可能になる。

現在でもそのサイトが多くある。
これにデジタルTVをリンクさせれば、想像を超えた使い方が可能になる。
インターネットを使っていて、こんな時代が来るとは思ってもいなかった。
それが更に劇的な「携帯TV電話」が普及する時代とは驚きだ。

昨日もソニーの出井会長がNHKノインタビュウで、
情報機器の進歩により、この10年後は世界が劇的に変わっていると言っていた。

これに期待しすぎて、先行投資で電気メーカが苦境に陥っていることも事実だが。


366, 速読法

2002年04月04日(木)

先回も書いたが、速読法という本を読んでいて吃驚した。
一つ一つの語句に目を合わせるのでなくて、一度にページ全体を眺め、
フォトフォカス状態で文書を眺める。意識下でなく、無意識下で
その文書を取り入れてしまうものだ。

初め読んだ時、本当かと疑ったが、実際やってみて驚いた。
見開きの2ペジの中央に目を合わせ、それを4つかどの隅に全体の視野を
広げていき、ジッと10秒ぐらい見続ける。
そして再び、一ページ単位で中央に目を持っていき、それをまた意識を
そのページの隅に持っていき10秒ぐらい見続ける。

そして文章を読むと、通常の数倍の感覚で文章がスラスラ読めるのだ。
目そのものがスキャンの能力をもっているのだ。
もし疑うなら実際やってみればいい。

人間の脳力の凄さの一端をみたおもいだ。
一回めくる度に4秒をかければ、250ページなら20分かかるが、
かなりの情報が脳に記憶されるという。

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