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堀井On-Line
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2016年05月28日(土)
* 反省すれども、後悔せず (源信 往生要集) 何ごとも、実際にやってみないと判らないし、思いどうりにならない。 だから、その結果に振り回されない様に生きるしかない。反省は経験から得る ことが出来るが、後悔は変えることが出来ないため、割り切るしかない。 反省とは、起きたことに対して今後に生かせる点を経験として取り入れて、 同じ失敗をしないようにすることで、それは今に生かせる。 後悔は、起きてしまったことに対して、別の判断をしていれば別の結果が 得られたと思い悩むこと。変えられないことを思い続けることには意味がない。 思い悩んでいる人に、「その過去に立ちもどって、起こる前の時点に戻し、 あなたの思い通りの今を作り直せるなら、過去に戻りますか?」 これにイエスと答えられるか? 「過去さえ変えられたらうまくいく」という 強い思いは、これから先に対して、確信など持っていないことになる。 その時点で、考えられるだけ考えていれば、失敗をしても、限界まで努力を したのだからと割り切れる。何事も最善を尽くし、極限まで、努力をすれば、 不安も最小になる。 後悔は、その地点の、器の小ささ、自己能力の査定の 足りなさの結果に対しての思い。これは、「今の自分は、そのままでは受け 入れられない」と同じことになる。 吉川英治が、武蔵に、<われ事において後悔せず>と言わせた。後悔する なら、初めからしないことだ。命がけでぶつかれば、後悔も反省も無くなる。 <自分の人生、今さら後悔もあるまい、ご覧のとおり、そのまま結構> と、割切りざるを得ないと、いうこと。タメ息の「あ〜あ」の「あ〜」は、 諦念の意味という。 で、「あ〜あ!」 何度、口にしただろう。
・・・・・・ 5187,世間の捨て方 ー② 2015年05月28日(木) 『世間の捨て方』ひろさちや著 * 「がんばればよくなる!」の馬鹿馬鹿しさ 〜二つの愚問、「生きがいとは何か」「どうすれば幸せになれるのか」〜 この二つの愚問?を真面目に自問自答してきたが、これこそ、「世間の奴隷」 が発する問いかけ、という。「生きがいは、がんばれば出てくる」も似たもの? 我々は「幸せでなければならない」という考え方が、そもそもオカシイとは、 面白い切口である。 〜以下が、考えさせられる (P36)〜 ≪ 「永遠のものなどない」が仏教の基本的な考え方です。仏教では、この世 のすべては常に変化していると考え、どんな世の中も滅びるのは当たり前。 「日本は滅びない」と考えるほうが不自然なんです。『平家物語』の冒頭に 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とありますが、この「諸行無常」 ということばに、仏教の考え方が端的に表現されています。 「すべてのものは常ではない」、つまり「あらゆるものは永遠の存在ではあり えない」ということを述べているわけです。「永遠の存在がないとしたら、 この世の中は何なんだ?」と誰もが疑問に思うでしょう。そんな疑問に対して、 聖徳太子は「世間虚仮、唯仏是真」と述べています。「世間虚仮」の「虚仮」 というのは、字を見て分かる通り、「虚ろであり仮のもの」という意味。 「おれをコケにしやがって」という、あのコケの語源です。早い話が、わたし たちが生きている世間は「嘘偽り」だというわけです。そして、「唯仏是真」は、 ただ仏だけがまことであるという意味。これが仏教の基本線ですむ世間が虚仮 であるならば、世の中をよくしようなんて、思わないことが大切です。 ・・「いい世の中にしよう」なんて、仏教の教えに反する行為です。 世間は嘘偽りなんですから、それを良くしようなんて思わないことです。 『法華経』というお経では、この世の中は「火宅」であると記されています。 私たちの住んでいる全世界は火事になっているという。燃えているんだから、 さっさと逃げ出しなさいと『法華経』は教えているんです。「世の中を良く したい」という人にしてみれば「火宅だったら、それを消してやろう」という のでしょうが、それは馬鹿げています。大火事なんですから、消火活動なんて やっていたら焼け死んでしまうじゃありませんか。せっかく『法華経』がいい ことを教えてくれているのですから、それに従いましょうよ。問題は「自灯明」 です。お釈迦さまは、自分自身を灯明にしなさいと教えられたのです。これは、 自分に自信を持って歩めという意味だとも取れます。しかし、それよりも 「世間の奴隷になってはいけない」と解釈したほうがはっきりとします。 わたしたちはあまりにも世間のことを気にしすぎるきらいがあります。 世間の人の平均や流行に常にとらわれていて、自分が世間でどう評価されている かが気になって仕方がない。でも、世間なんていい加減なものだということは、 さきほど述べた通りです。「世間の奴隷になっていては、自分というものを 失ってしまうよ」とお釈迦さまはおっしゃりたかったのではないでしょうか。 人間は、つい「生きがいとは何か」「どうすれば幸せになれるのか」と自問 自答しながら暮らしてしまいます。でも、そうしたことを考えること自体、 世間の奴隷になっている証拠です。「幸せ」「生きがい」を求めるのは、 自分で手枷足枷をはめて、進んで奴隷の列に加わるようなものです。 つまらない常識にとらわれることなく、生きたいように生きたらいいんです。 勝ち組になったとか負け組になったというのは、単に世間の物差しで測った 結果に過ぎません。・・・ ≫ ▼ TVのコマーシャルや、番組の根にあるのは、コンプレックスの刺激が、 隠されている。健康食品、美容品、ファッション用品など、『世間では、 こういうのが流行しています。これを使って、カバーしましょう』と! その手段として、最近ではタブレットPCや、スマートフォンが普及した ため、逆に世間が、狭くなって、個々への締付けが日々、強くなっている。 世間虚仮も必要だが、その過剰は、世間体コスプレになってしまう。 ・・・・・・ 4822,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー4 2014年05月28日(水) * 産能大学に編入 ⑥ ジャスコを辞めるについて、その身勝手さに非常に厳しい(精神的) リンチ? 実家に帰った時には首はガチガチで、半病人状態。当然だろう・・ それをみた両親が、四国旅行に連れ出してくれた。親は有難いもので、後先、 両親三人と旅行をしたのは、最初で最後の経験。 坂出でみた瀬戸内海の夕景は 今でも心に焼きついている。その時の印象と心情をメモ帳に書いたが、ホテルの 部屋に忘れてきた。それを見た若い?女性が、感想を書き添えて送り返してくれた ことが思い出されてきた。 心が傷ついていた反面、それが夕景に共鳴できる 下地になっていた。 ⑦ その後、千葉の姉の家から東京の自由が丘にある産能大に通うことになる。 それまでの激務と、今度は何の束縛のない自由の中で、自分で自分を律する日々。 人間は独りでは生きられないが、まず独りになって自分を律する必要がある。 独りになるとは、考えるための第一歩。それが分からないと、集団に埋もれ、 何も考えないで一生を終えてしまう。20歳前半に、その両極端な二年を経験は、 私にとって大きな行蔵になっていた。この一年間は、過っての学生時代の 4年間を凝縮し、学び直すことにもなった。計算外の危機になった精神を 立て直すに、混乱した脳奥から湧き出てくる思いを紙に書き出し、整理する ことが第一歩になった。50歳半ばから13年間、こ随想日記を書き続けてきた ベースは、この一年間の独りでの心の血を掬いがあればこそ。文章に変換する しかなかったお陰である。書かなければ、狂ってしまうから、書くしかなかった のである。フィールドワーク(現場)の現象の中に隠れている道理を、言語化 する、当時の発想法のKJ法など、情報のカード化に関する書籍を読み、 実行する日々になっていた。経済社会をフィールドワークと見倣し、現象を 大きく分類し、科学するのに、この一年間は、有効に働いた。 ⑧ しかし、千葉郊外の「千城台商業用地の売出しの広告記事」を見たことが、 大きな副産物としてついてきた。それが二年後の千城台ビルの建設用地になる。 これについて、以前にも書いた。千葉県住宅地供給公社が、県の発展のため 住宅地を開発、販売する住宅地で、家付き娘の姉三人の一人が、そこに新築の 家を建て、住んでいた。そこから30分ほどに住む姉二人も、住宅地を購入し、 貸家を建てていた。そこで暇に任せて、購入希望者に対する抽選に応募した ところ、当選。その後、父親を説得、購入させた。ここの購入条件は二年半 以内に、建設すること。ということは、二年半後に、私が、ここで何かを 始めることを意味していた。その時は、そんなことなど、一切考えず、ただ、 抽選に当選すれば、半値で買える程度にしか考えていた。数年経って気づいた ことは、予定挫折が、人生で必要ということ。そのプロセスで、必ず副産物が 付いてくるという事を肌身で感じることが出来た。高度成長期も背景にあった 良き時代の真っ只中である。「捨石の節目時節の重要性」ということ! 決断は独りでこそ。 ・・・・・・ 4455, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー3 2013年05月28日(火) 『一日5分「簡単ヨーガ」健康法』ー番場浩之著 「一週間の実修メニュー」はメニューは以下のとおり。 シンプルだが、捩れ、反らし、伸ばしなどの要所をおさえてある。 * 1日目 "胸を開いて積極的に A・完全な呼吸法をする体位…40 B・背骨をねじる体位(腕で半円を描く)… * 2日目 "足腰を軽快に A・膝を回す体位……54 B・膝を伸ばして、足の指を活性化する体位: * 3日目 "身体の前後両面と、手指を開く A・胸と背中を開き、膝裏を伸ばす体位……66 B・手の指を開く体位ー72 * 4日目と背骨にいきいきと「気」を流す A・膝で半円を描く体位……78 B・上体を反らせて、背骨をねじる体位 * 5日目"胸と脇を開き、首の血行をよくする A・胸と脇を開く体位……90 B・首を腕ではさむ体位……96 * 6日目"身体の疲れを癒す A・背骨をねじる体位(腕を大きく回す)… B・上体を反らせる体位(腕を伸ばし) * 7日目 一週間の疲れを癒し、新しい一週間を迎えるために ▼ ヨガ教室では50分間に、以上を殆ど網羅したポーズをとる。 他にも椰子の木のポーズ、ワニのポーズとか色々あるが、50人定員のうち、 一〜二人を除けば殆どがリピーターで、回を重ねる度に難度を上げていく。 この本に縛られることもないが、まずは従うつもり。SJでのヨガはエアロビ 感覚で興味本位で参加していたが、これを自宅で実施したら少し本格的。 30分の早朝座禅は、ほぼヨガの瞑想と同じ。これに一か二つのヨガポーズを 取り入れれば、一寸したヨガの時間帯になる。次回から、上記の具体的な内容を 書きだしてみるが、実際に夜明けに、一人、ヨガを組むのもなかなか良い。 何気ないそれぞれのポーズに、千年、二千年の積み重ねがある。 問題は続けられるかどうか。ヨガ教室で15ヶ月続けたから自宅でも、 という気になれた。続けると何事も面白くなり、力になっていく。 4時起床で、早朝座禅とヨガね〜!冴え渡るが? ・・・・・・ 2012年05月28日(月) * 書斎はシェルター 私の書斎スペースは7畳ほどの仏間の一角である。一角といっても三分二を 占めている。リタイア以降、ここにパソコンを一台置いて、一日4〜5時間は 読書をするか、パソコンで随想日記の下書きを書いているか、iPadに向かって いる。腰痛持ちのためジッとしているのは一時間が限度、一時間に5分はお茶や トイレにいったりして節目を作っている。BGMにパソコンに入力した音楽を ステレオから流している。またネット・ラジオの音楽放送も時々流す。 朝の4時半〜6時、9時〜11時半、夕方1時間の合計5時間は書斎にいる。 途中、廊下をはさんだ前の寝室で寝転んでiPadで遊んだり、TVを見たり、 仮眠をしたりする。居間、書斎、寝室のバランスは丁度良い。外出は早朝の ポタリング、スポーツジム、図書館、SCが中心になる。書斎といえば、 iPadと、パソコンの中に書斎機能がある。静かに落ち着けるシェルターの 役目が書斎だが、あまり居心地が良すぎると、自閉症になってしまう。 iPadを持ち歩けば何処にいても同じ。小さな生活圏内では何処にいても 自分の居場所ができるのは非常に助かる。 * ギリシャを合わせ鏡にすると ギリシャは西欧哲学の発祥の地。そして現在、世界金融危機の発火点になろう としている。東の地からギリシャをみると、とんでもない事態に追い込まれて いるのが分かる。しかしギリシャと大して変わらないほど惨憺たるのが日本。 一年しか持たない首相が改革を錦の旗にして交代するが、いざ就任、実行段階 となると周囲から袋叩きにして、反対勢力が綺麗ごとを旗に権力奪取。 その繰り返しが代々続いている。覚めた目でみれば、その一連を分かってやって いるから始末が悪い。国民がグローバル化した世の変化を実感できないのが実態。 10年前に決断しておかなければならない国家規模のリストラが出来ないジレンマ に落ちている。その限界が、あと二年しかないというが、その行き先は、誰も 分からない。ギリシャ国民のユーロ圏に留まりたいが、耐乏生活はしたくない 国民感情は日本も同じ。右上がり経済の再来の幻想に、まだ浸っている。 最後はハイパーが吹き荒れるだろうが。 ・・・・・・・ 3715, 閑話小題 2011年05月28日(土) * フレンドリーの雀はメタボ 毎朝、信濃川に冬期間を除きサイクリングに行くようになって一年半になる。 10日ほど前に、いつものベンチのところでストレッチをしていると、一メール ほどのところに雀がきてジッとみている。外国では公園などで何度も人懐こい 雀には出会っているが、日本では珍しい。暫くすると、餌が貰えないと判断した のか飛んでいった。ところが昨日の早朝に、同じ場所で座って休んでいると、 雀が50センチもしない自転車のハンドルに止まって、こちらを見ている。 ポケットに何かと探したが、クリスクしかない。それを一粒、地面に投げたが、 パンや菓子屑でないと思ったのか、見向きもしない。よく見ると、普通の雀の 二倍近くもありコロコロしている。もしかしたら、雀ではないのでは?と、 見直したが、やはり雀である。恐らく誰かが餌付けをしているうち、他の人 からも餌を貰って太ったのだろう。 親しそうに近くにきて見つめられれば、 何か餌を与えたくなるのが人情。 その結果がメタボである。私も近々に、 餌を与えることになるだろうが。雀と鳩は、世界中、いたるところで見られるが、 その国々で、微妙に違う。餌によるのだろう。ところで最近、本当に雀の数が 少なくなった・・ 餌といえば、アイスランドに行ったときのこと。 ホテルの近くの公園を散歩をしていた時、野生の大ガンの群れの一羽に クラッカーを与えたところ、数十羽の群れが、私のところに押し寄せてきた。 恐ろしくなり無我夢中で逃げたが、その時の恐怖は!早朝の朝靄の中の出来事 が幻想的な思い出として残っている。 ・・・・・・・・ 3350, 新型インフルエンザの総括 2010年05月28日(金) 去年の4月に、メキシコで確認され日本に上陸して丁度一年が経ったが、 現在では話題にさえのらない。WHOに入り込んだ製薬会社の連中の煽動に マスコミが異常に騒ぎすぎた。一年経ってみれば日本だけが過剰反応。 街中の人がマスクをしている姿が異様だったが、それが世界のマスコミに 報じられた。その結果、毎年の冬季に発生する季節性インフルエンザの死者数 より少ない結果になったという、変な結果になってしまった。 医学者で 東京文化短期大学学長の中原英臣が産経の「正論」で、新型インフルエンザ の総括をしていた。 ・新型インフルエンザの想定が鳥インフルエンザに対していた為に、強毒性 の行動計画に大きく影響された。それが、感染者が一人でも出た時点でも 都道府県単位で学校を閉鎖をしたり、集会の中止がした。これが過剰反応 という受け止め方と、逆に、その結果、アメリカの26分の一、カナダの 10分の一の死亡率に収まった。 ・これは、日本政府がインフルエンザの症状があったら、 直ぐに受診する必要性を国民に訴えたこともきいている。 ・さらに日本人の衛生意識の高さが大きく影響している。他人に感染させない ためのマスク着用も大きく影響した。「うがいと手洗い」を多くの人が 積極的に行ったことも影響をした。 ▼ 以上だが、この過剰反応、近い将来必ず起きる猛毒性の鳥インフルエンザ の予行練習とみれば、決して過剰ともいえなかった。その時の教訓が、この 騒ぎの中に多く含まれている。これは国家の非常事態であり、自衛隊の役割が 大きく求められる。この騒ぎのお陰で30年近く毎年行っていた海外旅行を 急遽キャンセル、結局行かずじまいだった。これで大儲けをしたのは製薬会社。 現在でも、何か?大きな疑問が残っている。当時のマスコミの対応も異常 であった。マスコミも、このことを総括したのだろうか? ・・・・・・・・・ 2975, 縁は異なもの 2009年05月28日(木) 「縁は異なもの」河合隼雄 白州正子 対談集 河合 日本の芸というのは本当に習うのが大変ですよ。 ずーとやっていて、 しかも最後がどうなるかわからない。白州 研いで研いで、研ぎ抜いて。 それで90歳になって精神が現われる・・ 現われないかもしれませんから。 連載中の本に書いたのですが、読者からありがたい手紙をいただいたのです。 「よき細工は少し鈍き刀をつかうという」『徒然草』の一節についてで、 それまで私は「鈍き刀」の意味を「あまり切れすぎる刀では美しいものは 造れない」というふうに思っていたわけ。でも違ったの。その方は 「鋭い刃を何十年も研いで研いで研ぎ抜いて、刃が極端に 薄くなり、 もはや用に立たなくなった頃、はじめての真価が発揮される」という。 ここでいう「鈍き刀」というのは最初から鈍き刀というんじゃないんですよ。 本当に鈍い刀を磨いでもだめ。いい刀だから磨げる。しまいにはペロンペロン に柔らかくなるんですよ。兼好法師は「妙観が刀はいたく立たず」とも 書いているけど、やっぱり「立たず」なんて言葉は「鈍き刀」じゃ ダメなんです。それが良くわかったの。 ーー 白州正子の対談を何度か読んだことがあるが、河合隼雄もたじたじなくらい 言葉の剣先が鋭い。鈍き刀を磨いでも鋭くはならない。鋭い刀を磨いて磨いて 磨きぬいて鈍くなった刀こそ・・・ よき細工に使うことが出来るという。 言葉の奥底をみないと真の意味がつかめないというが、まあ、凄いことをいう。 芸道や能力のことを言っているのだろうが。
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2016年05月27日(金)
『生きる力ってなんですか? 』おおたとしまさ(著) 図書館で、『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの?』の第2弾を見つけた。 『生きる力ってなんですか?』のテーマなら、以下の筆者に負けない内容を 書くことが出来るような人生を生てきたつもり。大した事業ではなかったが、 亀のように、準備15年、実業30年、合計45年を生きた経験から言える 言葉がある。何の実態のない得体のしれない事業に、誰一人、助けてくれない。 そこで、まずは、助けてくれる社員を、集めるしかない。何も無いところに、 自分のイメージを計画に落として、それを「カ・タ・チ」に移行していく。 カ=神のカ、発想、着想。 タ=田圃のタ、枠組みつくり。 チ=血、エネルギーの投入。これを一人、こつこつ、作り上げていく実践が 「生きる力」として作動する。 〜アマゾンの内容紹介〜 ≪ 新学習指導要領のメインテーマ「生きる力」について各界の識者が語る。 「システムが存在しない場に自力でシステムを作り出す」 ・・・内田 樹 「手足がなくて幸運でした。自分の方法を編み出せたから」・・乙武 洋匡 「いやな会社はとっとと辞めろ。女は自分で稼げ」・・・・・・西原理恵子 「正しい生活のためにちょっとの工夫ができること」・・・・・C.W.ニコル 「自分だけじゃなく地球のことも考えられる力」・・・・・・・椎名 誠 「もめごとは肥やし科と異性を学ぶ科へどうぞ」・・・・・・・高濱 正伸 「エベレストに登ったのは生きる力を維持するためです」・・・三浦雄一郎 (「BOOK」データベースより) 「勉強ができるだけじゃダメ!」「じゃあ、何が必要なの?」「…」答えられない 大人のために、7人の識者が語りました。大人気シリーズ第2弾。親子で読んで 語り合えるように、子ども用のページと大人用のページに分け、ほとんど同じ 内容を、子ども用にはできるだけやさしく、大人用には詳しく書いている。 (カスタマー・レビュー) 生きる力をとは、最短距離で生き延びるための付け焼き刃のマニュアルを教え 込むことではなく、いかなる咄嗟の危機が差し迫って来た時でも、丸腰の状態 で平然と対処出来る能力のことであると思う。たとえ何度失敗したり遅れを とっても、その都度その道の先達に衒いもなく教えを請うて絶えず修正しながら、 晩年になってでも再起出来る復元力が必要であると思う。 政治家や教師が幼児化しているのは、子どもの頃に葛藤を避けたりケンカを しない様に教えられ、異質なものを受け容れずに大勢に迎合したり、従わない ものを無視して斬り捨てる教育を受けてきたからであろう。 この本ではそれぞれが小児期から老年期に至るまでの自分の現体験が綴られて おり、7人とも劣悪な家庭環境や劣等生から如何に人生の師を見つけて立ち直り、 独自路線を切り拓いていったかが簡潔に述べられており、子供よりもこれから でも教育されるべき大人に読んでいただきたい書である。 ≫ ▼ 現在の私の生きる力は、誰に頼まれた訳でもない、毎日の少し厳しい日程を こなすこと。どの時間帯も、充実をしているが、そうしないと、精神が大きく 揺らぐ可能性がある。 丸腰で異質なものとケンカをし続けなければならない のが「生きる力」である。 内田 樹の、「システムが存在しない場に自力で システムを作り出す」ことこそが、「人生の生きる力」である。そこには、 血と汗と涙がつまっている。
・・・・・・ 5186,修羅場の極意 2015年05月27日(水) 『修羅場の極意』佐藤優著 * カネがないのが最大の修羅場 月末の運転資金が足りないなどの資金繰りの修羅場を経験をしないで事業を 終えることができたのは不幸中の幸いであった。現在、中小・零細の三分一が、 資金繰りに追われる修羅場状態という。身近で、倒産時の修羅場をみてきたが、 正に阿修羅、いや獣のごとく!であった。そのため先年、知人が自殺に至った。 『修羅場の極意』の巻末の西原真理子と、著者との対談がリアル! ≪ 西原: 夫が病気になって思ったことですが、人間は必ず病気になる。 病気にならない夫も、潰れない会社に勤めている夫も、浮気しない夫も、 この世の中には存在しません。そのとき、専業主婦だったら家の中は 滅茶苦茶になる。夫が倒れて、自分に子どもを養う力がなければ、 家庭は修羅場になります。専業主婦は極めて危険な仕事です。 夫を治すために莫大なおカネがかかり、半年後にちゃんと死なせるため にも莫大なお金がかかりました。 最大の修羅場はおカネがないこと。 おカネがないと、たいていの人は獣になってしまいます。おカネがないと 男の子は泥棒に、女の子は売春婦になる危険性が高くなる。 自分の娘と息子がそんなことになったら、人生最大の修羅場と考えている。 それさえ避けられれば、ほとんどのことはどうでもいい。 佐藤: 西原さんの修羅場の対処法を整理すると、まず、最悪の状況を シュミレーションをしておく。それで、原因を理性的に分析して、 危険な芽をつぶしておこうということですね。 西原: 子どもを東大に行かせようなど高望みしない。いい子に育てようと いった漠然とした理想も描かない。最悪の危馨理から逆算するのであって、 上は想定していません。 佐藤: いいじゃないですか。東大を出て超有名企業に勤め上司の顔色ばかり うかがって、人間としての誠実さを失っていくようなエリートはいっぱい いますが、そんなふうになっても仕方ないのですから。 西原: そうですね。人に好かれる、何か言われてもはね返せる強さが身に つけばいいなと思っています。人に好かれるって一番の財産ですよね。 それと、女の子は他人の中傷とかにすぐへこんだりしがちですが、 それさえ気にしないで生きていける強度があればいいと思っています。≫ ▼ 普通の子女が金に困り売春する金額は世界共通で、その地域の一週間分の 給料分で、日本では4〜5万円が相場とか。対談相手の漫画家の西原真理子 は、夫の酒乱に悩まされ、末期ガンの夫を見送った手記は、日常生活の修羅場 そのものだったという。私も、事業をしている時、『起こってしまった難題に、 更に最悪を想定し、そこから対策を構築』していた。その積み重ねが、喩えば、 シェルターとか、避難ボートの準備だった。また、事業計画の段階で、最悪を 想定して、逃げ口を念入りに想定した。でも、こんな大津波(情報化社会)が やってくるとは、思いもよらなかったのが本音である。事業で、お金は、 空気と同じで、きれた瞬間が死(倒産)である。そこから逆算しての 安楽死が事業にはある。安楽死は、自分でしか決断出来ないため、悲喜劇が 繰返される。その三分の一の経験だけは、したくはなかった。父の口癖、 『金がないのは、首がないのと同じ! 万一を想定し、備えを整えるべし』 の実践が最後には救ってくれた。準備があれば、最悪を冷笑する視線が生じる。 『こんな面白いことはない!』という、自虐的な、地底からの視線である。 鼻声で、他人の不幸は蜜の味という何への、侮蔑・汚蔑の視線が面白い。 ところで事業生活45年の、どの部分を切りとっても、修羅場と天国。 商売、事業とは、本来そういうもの。 両方とも楽しむのがコツ。 ・・・・・・ 4821, 「事業人生を決心して45年」の語り直し ー3 2014年05月27日(火) * ジャスコ入社と、新井石龍禅師の一喝! � ジャスコ岡田屋に入社。幹部候補の特訓のためだが、そこは激烈な仕事量と、 売場と店の急速配転で、疲労困憊の極地。 知らぬが仏とは、このこと。そこは 戦場の真っ只中。自分を鍛えるには絶好の場所だが、実際は、3K、4Kの世界。 悪くいえば、当時の流通業は溜めの世界。それまでのアカデミックの世界とは、 真逆の環境。 まずは、四日市のジャスコ岡田屋本店の配送センターへ。ここが激烈な仕事量。 三ヶ月後には、日用雑貨のカーペットと絨毯売り場へ、その一ヶ月後に、神戸 のジャスコフタギの垂水店へ転勤。合併のための人事交流の尖兵である。 神戸の新興住宅地の駅前店。今度は日用雑貨売場に配転され、まずやらされた のが新兵を試す瀬戸物の叩き売り。店頭に問屋が持ち込んだ瀬戸物を自分勝手の 売価で売る。あのテキヤの瀬戸物の叩き売りである。 恥ずかしいのは一時間だけ、これがお客との駆引きが非常に面白い。 安く売れば売上高は上がらない。が、高くすれば売れない。相手が買う値で、 可能な限り売上を上げる。総売上の3割が店のマージンで問屋から入る仕組み。 「男はつらいよ」の寅さんが、露天で売っているのは、この方式。 その二ヶ月後が、これまでフタギに無かった靴売り場の責任者に。 これが面白いように売れた。嘘のような話だが、数値目標の20倍の売上。 その辺りから、目の回るような配転もあって、これで良いのか、自分が事業を 立ち上げるために、これで良いのだろうか?という疑問が湧き上がる。 そして、原点を見つめ直そうと、学生時代に卒論書きのため通っていた六日町の 禅寺「雲屯庵」に、4日間の休暇をとって坐禅のため行くことにした。 そこには一年前にも司法試験の勉強をしていた高橋さんが、そのままいた。 そして、新井石龍禅師との問答。私の『思いの他、世の中が厳しいことが 解りました!』に対し、禅師の『世の中は、いつの時代も変わらない。 厳しいと感じたのは、あんたが甘いだけの話。世の中のせいにしないこと』 の御言葉。ガッツンとやられた上に、たまたま慶應を卒業後にハーバード大の ビジネススクールに通っていた学生と、そこの修行僧と、高橋さんと私と夜半、 お茶を飲みながらの雑談に、私だけ、彼らの話についていけないのである。 何か根こそぎ、自分が全面否定されているような大きはショックで、迷いが更に 大きくなっていた。そして、今、学び直さないと、一生、後悔するのではと、 ここで退社をして、独りになりきる必要性を感じ、その4ヶ月後に退社を決意する。 しかし、考えてみれば、自分の身勝手で、勤務先など多くの迷惑をかけていた ことに なる。我ながら脂汗が滲み出てくる。事業創業とは、エゴ丸出し、馬鹿 丸出しのドンキホーテそのもの!漫画といえば漫画だが、何故か、後悔はない! ・・・・・・ 4454,一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー2 2013年05月27日(月) * まず「4つの呼吸」を理解しよう 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー番場浩之著 呼吸も座禅と同じく吸い1に対し、吐きが2。ここでは、呼吸量のコント ロールを取り入れている。その道の大家が言うのを、心を開いて学ぶのが筋。 スポーツジムのヨガ教室では、まだ、これは教えてない。 ーまずは、その辺りからー ≪「4つの呼吸」では、呼吸量をコントロールしながら、「意識して行う入息」 →「自然と行われる出息」を繰り返す。普段の生活では、呼吸を意識することも、 腹式呼吸と胸式呼吸を区別して行うこともほとんどないので、まず、お腹で たっぷりと呼吸することからはじめ、段階的に胸にも息を充たすようにして いきます。この呼吸がゆったりとなめらかであればあるほど、呼吸の波にゆらぎ の波動があらわれて、こころとからだの芯にに響くものとなります。 A・静かな呼吸 「静かな呼吸」では、丹田を意識して腹式呼吸をたっぷりと行います。ここでは、 胸の呼吸は行いません。鼻からゆっくりとおなかに入れ、2倍くらいの長さで、 鼻からゆっくりとなめらかに息を出していきます。普段の呼吸の40%位。 B・軽い呼吸 「軽い呼吸」は、「静かな呼吸」の要領でおなかにたっぷりと入れたのち、 胸郭下部を左右に開くようにして、胸にも息をみたします(胸式呼吸)。 胸とおなかをゆるめて、その2倍くらいの長さで鼻からゆっくりとなめらかに 息を出していきます。60%位の呼吸量。 C・深い呼吸 「深い呼吸」は、「静かな呼吸」の要領でおなかにたっぷりと入れたのち、 胸郭全体を上下・左右に開くようにして、ダイナミックに胸にも息をみたします (胸式呼吸)。胸とおなかをゆるめて、2倍くらいの長さで、鼻からゆっくりと なめらかに息を出す。 こののち「軽い呼吸」の入息と自然な出息を行い、 続いて、「静かな呼吸」の入息と自然な出息を行います。80%位。 D・各自の呼吸 最後に、「各自の呼吸」を行います。 「静かな呼吸」「軽い呼吸」「深い呼吸」がしっかりとした意識呼吸であるのに 対して、「各自の呼吸」は、「静かな呼吸」→「軽い呼吸」→「深い呼吸」→ 「軽い呼吸」→「静かな呼吸」を行ったあとをおさめる、ゆとりの呼吸のこと。 自然とおなかに入息、ゆっくり鼻からなめらかに出息していく、やすらぎの呼吸。≫ ▼「40、60、80、60、40%、フリーの呼吸量を繰り返す」、46864 と「への字」の形の呼吸と思えばよい。 私の場合は、さざなみ、中波、大波、 中波、さざなみ、引き波をイメージして呼吸量を、それにあわせる。 これなら何処でも練習出来る。22歳の座禅体験から始まり暫く休んで、 ここで早朝座禅、瞑想の再開。 悟りにほど遠いが、面白い。 ・・・・・・・ 4080, 老いの見本帳ーダークサイト −4 2012年05月27日(日) 「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日武彦(著) * 鼻白む出来事 ここで紹介されていた新宿の百貨店の地下のベーカリーでの出来事が、 どこにでもありそうなエピソードである。品性卑しからずの70歳すぎの老人が、 盆に乗せていた一斤のパンを落としてしまった。不思議なことに誰も、そのこと に気づいていないようだった。そこで、その老人は素知らぬ顔をして拾い、元に 戻して別のパンを乗せ変えた。著者は呆然と、それを眺めていたが不快感を 持ったという。正直に店員に話せば普通なら店の方も心得ていて、新しいパンを 取り替え、そのパンは奥に引っ込める。それが、外見に相応しくない品のない 行動に老いのイヤラシサを見せつけられてしまった。 私も雨の中、ある駐車場 から一般道に出るとき、溝の鉄板が外れてしまったことがある。大雨が降って いなければ元に戻すところだったが、誰も居ないことを良いことに、やり過ごした ことがある。その後の数年間、その近くを通るたびに自己嫌悪に陥った経験がある。 今回の倒産劇の中でも、そのことだけは注意をしたが、それでも幾つか悔いの 残る部分はあったが、可能な限り自分の良心に従った。もちろん、落城に付き ものの手の裏を返した身内や友人が数名いた。 後味が悪い切断は、一生ついて まわる経験則が無いのだろう? 品性もあるが。最後に残るのは自分の良心との 自問自答だけ。後足で砂を蹴った思いほど嫌なものはない。しかし実は返り矢で、 自分で気づいてないのが本当のところだろう。立場変われば、薮の中で、自分の 勝手の解釈を、それぞれがしているにすぎない。老化からくる偏執は、自分の 価値観の歪曲からくる決めつけの起因が多い。老化による精神の弱体の顕在化は、 そのへんから見えてくる。著者は、「老いは、それだけで、その人の在りようを、 偏屈で意地悪で寂しい老人と決めつけられ、それも安っぽい、底が浅い不良少年に まつわる物語にされてしまう」と述べている。社会的弱者になる、ということ。 だから、早く自覚をすべきということか。静かに、温かみを持って笑い、 独り読書か、音楽を聴いて、目立たない老人も悪くないが、意地悪ばあさん、 じいさんも割り切ってしまえば楽である。 最後は、やはり宗教頼み、 こんな私を神様、お助けください!か。 ・・・・・・ 3714, ジャズについて −9 2011年05月27日(金) モダン・ジャズの誕生 ー� ー 「音楽の本」三枝成彰著 より * マイルス・デイヴィスが生んだ 「クール・ジャズ」とは ? 【 そのチャーリー.パーカーのクインテット(五重奏団)でトランペットを 吹いていたマイルス・デイヴィス(一九二六〜一九九一)は、四九年から五〇年 にかけて伝説的なレコーディングをする。このレコードの発明(四八)からほどなく して録音されたこれらの曲を、レコード会社は『クールの誕生』というタイトル でまとめた。これは、その名の通り「クール・ジャズ」の誕生を告げたアルバム。 クラシックでは馴染みの楽器、チューバとフレンチホルンが加えられたこの レコード。 ここでのプレイでは、ビバップにはまだ残されていたドライブ感の あるビートやホットな音色はきれいに消え去り、かわりにビブラートのない繊細 な音色、明瞭で軽快なスウィング調のビートが生かされた。黒人音楽の伝統で あるブルース的な表現も極力抑えられており、その意味では、クール・ジャズは ビバップから‘黒っぼさ’を抜いた音楽、ともいえる。事実、その後のクール・ ジャズは、白人中心の展開を見せる。マイルス自身も白人のアレンジャーである ギル・エヴァンスや白人ピアニストのビル・エヴァンスなどとともに 「マイルス・アヘッド」「マイルストーン」「カインド・オブ・ブルー」など、 歴史に残る名盤を発表している。また、マイルスはそのキャリアを通じて、 モダン・ジャズの歴史に大きな足跡を残すとともに、つねに新しいアイデアを 提供し続けたアーティストであった。 ヘロイン中毒から立ち直った一九五六年 には、クインテットを結成してパートナーにジョン・コルトレーンを迎えている。 この頃のアルバムに「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」がある。 六〇年代後半には、テナーサックスのウェイン・ショーターやピアノの ハービー・バンコックらの新進とジャズの枠を飛び出す新しい方向を模索し、 その成果は六九年の「ビッチェズ・ブリュー」で開花することになる。 エレクトリック・サウンドの導入による、ロックとジャズの融合という果敢な 試みを成功させたこのアルバムは、伝統的なジャズファンの間では賛否両論を 巻き起こしたが、マイルスの名声をさらに高めることになる。七六年には一時 引退し、再びドラッグに手を染めたが、八一年に復活。彼の音楽はより ポピュラリティを増したものになり、ディスコでもかかるようになった。 日本のCMにも登場するなど、ジャズブァン以外にも広く名前を知られる栄光の うちに、九一年、六十五歳の生涯を閉じた。なお、四〇年代後半にニューヨーク においてマイルスによって起こったクール・ジャズは、朝鮮戦争で軍需景気に 沸くロサンジェルスなど西海岸にも飛び火し、ウエスト・コーストジャズなど と呼ばれるようにもなった。こちらも、中心は白人ジャズメンであった。 】 ▼クール・ジャズを要約すると、「ビバップから‘黒っぼさ’を抜いた音楽」 で、白人中心の展開を見せはじめた。ビバップにはまだ残されていたドライブ 感のあるビートやホットな音色は消え、かわりにビブラートのない繊細な音色、 明瞭で軽快なスウィング調のビートが生かされた。黒人音楽の伝統である ブルース的な表現も極力抑えられた。この辺になると、ジャズマニアの嗜好の 範疇になる。この辺を意識して、貰った千数百のジャズの曲を改めて聴くと、 それぞれのジャンルを想定しながら聴くと、また違って聞こえてくる。
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2016年05月26日(木)
* 雑念と小猿 SJのスタジオ・ヨガ教室に参加して、はや4年3ヶ月になる。 前半の二年は、週2回、後半は週3〜4回、参加しているが、既に 生活習慣の一つで、足腰のセルフ・マッサージにもなっている。 それにしても、50人の集団が一同に会したヨガは、その人数分、 気が集まり、少し疲弊した気を強くする働きがあるような。 イスラムのドームには、それがあるのでは? ヨガの目的は、瞑想をしている時の身体と呼吸を整えること。 そこには、どうしても小猿が、彼方此方に飛び回る。ジムののヨガで、 インストラクターが、時どきヨガや瞑想の本質について面白い譬え話をする。 『内側から次々に出てくる雑念は、自分の身に取り付いた小猿(気)の先。 惑わされないよう、自らを律してください!』という。成るほど、小猿は、 彼方此方飛び回り、ジッとすることなく遊びまわる。思い浮ぶ雑念とは、 小猿(気)が遊び回った先でしかない。猿に惑わされ、本来の自分を 冷静に見つめることが出来ぬまま一生を終えるのが人の常。 世には、小猿なら未だしも、大猿になって飼主を支配しているのが多い。 その大猿の群れが、彼方此方で猿芝居をしているのが娑婆世界。 猿は愛嬌があるが、服を着た猿どもは、どうもこうも! それより、猿にひかれた私?、貴方? お後が宜しい様で。 〜いつもの偶然だが、3年前にヨガについて書いていた。 ―――― 4453, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー1 2013年05月26日(日) スポーツジムのヨガに週二回参加して15ヶ月になるが、家ではやらない。 ジム内のフリースペースで常に数人がヨガやストレッチをしている。 半年前にストレッチマットを買って始めようかと考えていたが、何もしなかった。 丁度良いタイミングに、図書館でこの本を見つけた。100回以上のヨガで、 ここで取り上げているポーズの殆ど経験している。その中で、自宅用として 要約して、「どうですか!」と提示されたよう。 独り部屋でヨガをしている 姿も奇妙といえば奇妙。 ー著者からの内容紹介ー 動かすだけで、体に自然と力がみなぎり、元気になる!! 1日5分、1週間でマスターできるように、「息の出し入れ」「体の動き」 「気の流れ」の3大要素を、徹底図解。読んでいくだけでも、ヨーガの効果が 体得できてくる!私の師匠が長年提唱し続けてきたヨーガは、インドの伝統に のっとったうえで、体位法などの形のみに偏らない、呼吸を大切にして 「気の流れ」のあるヨーガでした。しかもそのエッセンス的ヨーガの中に、 伝統的に重要な行法をすべて濃縮した、極めて濃度の濃いものなのです。 本書で説くヨーガも、難解な体位などの実修は含まれていません。 「ヨーガ独得の呼吸法の解説」と、それを通して得られる「生命エネルギー、 気の獲得」そしてなによりも、こうした要素を簡単に 「1日5分、2種類の実修から」始められることが、大きな特徴となっています。 ●4つの呼吸 ●1日目 胸を開いて ●2日目 足腰を軽快に ●3日目 身体の前後両面と手指 ●4日目 背骨にいきいきと ●5日目 胸と脇を開き ●6日目 上体を反らせる ●7日目 1週間の疲れを癒し ●オーダーメイド・ヨーガ ●症状別のヨーガ 次回には、4つの呼吸法を紹介するが、なかなか良い。 ― 瞑想は釈迦も取り入れて悟りに至ったが、ヨガとして確立したのは、 後のようだ。 「まえがき」の冒頭で〜 ≪ ヨーガは、もともとインドの哲学や宗教のすべてに共通する宗教的な 実践法でした。仏教も例外ではなく、心を集中し統一するための実践という 意味で、ヨーガ(瑠雌)ということばが使われています。とくにインドの宗教史 のうえでは、グプタ王朝(4〜6世紀頃)の時代に『ヨーガ・スートラ』を根本 聖典とするヨーガ学派が成立し、ごれにもとついてさまざまなヨーガの流派が 出現しました。そのなかでも、12〜13世紀以後に発達した「ハタ・ヨーガ」 と呼ばれるものがもっとも重要で、現在行われているヨーガに直接的に影響を 与えています。「ハタ・ヨーガ」とは、肉体的な修練や呼吸の制御などによって、 心の集中、統一に適する身体と精神力を築き上げる方法です。ヨーガは主と して健康法として人々に受け入れられていますが、本来は真の意味での 心の安泰、あるいは真実の自分の発見という宗教的な目的をもった 行法であり、瞑想と深いつながりがある。≫ ▼「心を集中し統一するための実践法」で、心の安泰と、真実の自己発見が ヨガの目指すところ。ヨガの先生が言うには、「私の日常の行為の殆どが ヨガに繋がっている。歩いても座っても寝ても、靴を履く行為さえも」。 ・・・・・・ 5185,閑話小題 〜ヤマダ電機、46店舗閉鎖 2015年05月26日(火) * ヤマダ電機が5月末に46店舗の閉鎖 ≪ ヤマダ電機が5月末に閉鎖する46店舗のうち45店舗は郊外型で、 需要低迷が目立つ地域で事業を縮小する。一方、今年度の新規出店数は 15店舗と従来の半分程度に抑えつつ、目玉店舗として東京駅・八重洲口側に 新規出店する方針。増加傾向にある訪日外国人の需要を取り込む狙いがある。≫ というニュースが、先日、突然発表された。 以前も書いたが、郊外型店舗で欲しい商品を見て、実際に購入するのはネット。 確実に二割はお買得になる。ヤマダ電機の総店舗数は国内外あわせて4,401 店舗 もあるから、僅か一%あまりだが、発表後、一週間で閉鎖とは・・ 買ってはないが、目立たない「自転車用ヘルメット」をネットで調べたが、 思いもしなかった帽子に組み込む隠れヘルメットがあった。また、帽子に組み 込まれたヘルメットもあった。それらは、自転車専門チェーン店も販売してない。 情報化は、あらゆる業態の既存のシステムを根こそぎ破壊している。 * カースト制度 インドに行ったときに、まず疑問に感じたことが、『何故、カースト制度が 三千年も存在し続けたのか? 階級間の争いが起きなかったか?』であった。 それに対して、階級が高いアーリア人のガイドが曰く、『それぞれ階級には、 その下の階級が存在しているので、上からの差別を、そのまま下にするため、 バランスが取れている』と、平然と話していた。平等は分かっているが、肌の色、 人種、宗教上からして、アーリア人が、それ以下の人種と混血にさせないため、 つくり上げたヒンズー教。分かってはいても、階級を容認するしかない、という。 考えてみたら、自由、平等、博愛の理念は理想であって、現実は、その逆。 日本のような島国では、実質的なカースト制度が長年かけて構築されている。 笑い話?に、『平等の理想が困難なのは、みんなが自分より上位の人間との 平等を願うから!』がある。 なるほど、確かである。その希求は、思いの他に 強いものがある。そのため、下方ほど、他人の粗探しに精を出す「世間びと」 になる。が、それも、差別。『世間虚仮、唯仏是真』というが、せめて、自分も、 「世間びと」の自覚を。ところで、老いるたび、社会の隅に押しのけられていく? ・・・・・・ 4820,閑話小題 ー22年ぶりの車選び 2014年05月26日(月) * 22年ぶりの車選び 日常生活の中で、TV、パソコン、車の位置づけは大きい。 この年齢になれば、便利で、面白そうで、実利的であることが第一になる。 年金生活者ということがあるが、これが最後の車の買物?となると、大いに 迷いが出る。しかし、選定のための中古車センターまわりは、なかなか面白い。 22年間、乗っソアラの車検の見積で、修理費など30万といわれていた 経費がマフラーの交換が加わり、50万以上の見積になった結果、急遽、買替え を決め、先週、連日、市内と見附と三条の中古車センターをまわった結果、 メーカー直の販売所に比較的良い車があることを知る。まず、ソアラ・クラスの 三ナンバーの大型車か、普通車のセダンか、スポーツタイプかと判断に迷った。 まわって思い知ったのは、22年も乗っていた車より、どの車も、遥かに良い! ということ。「このソアラは当たり!」という思い込みが、過剰に縛られる ことになっていた。 日産とトヨタというと、先代のソアラと、その前のコロナを加えると、 35年以上もトヨタ車を乗ってきたため、トヨタ系を選びたくなる。 また、車は家内名義になるため、どうしても最安の選定に引っ張られる。 こういう時に、偉そうなことをいっても、森の生活とサバンナの年金生活の差 が出てくる。歳からして、あと?年しか乗れないから、可能な限り良いものか、 逆に安いものか、大きな迷いになったが・・ 何の制約もなければ、年齢を 考えても、トヨタのスポーツ車にするが、中古でも結構な値がする。 今更、遠出も、スピードも出さないため、考えた末に止めた。 で、決めたのが、トヨタの「マークXジオ」、走行距離57千キロの格安 のワゴンタイプ。一応スタイルも気に入った上に、実用的が判断基準。 オーナーは、もちろん家内。で、ますます頭が上がらない。産業廃棄物とは、 よく言ったもの。で、車選定も一歩手前の己と似たのを探し出す! ・・・・・・ 4079, 老いの見本帳ーダークサイト −3 2012年05月26日(土) 「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日武彦(著) * 第一章 孤独な人 孤独は、老人に一番、似合っている。老いれば老いるほど、人間は頑固に なると同時に、愛想がなくなり殻に篭るようになりがちになる。この章で紹介 している老人は、比較的強い人たちで孤独の世界にドップリとつかっている。 私も長く生きるほどに、この中の誰かに似た人になっていくのだろう。 いや、既にそうか?「長生きはしたいが、歳はとりたくない」という絶対矛盾 が誰の心にもあるのだろう。理想的老人は、孤独でなくてはならないようだ。 社会的にも、経済的にも弱者に追いやられ、孤立せざるをえないのが老人。 ≪ 菊蔵は、他人の不幸が嬉しいのではない。まだ自分と無関係にはなり きっていないがどんどん遠ざかりつつある「世間」で生じた惨たらしい 出来事が、孤身の自分の気楽さと寄る辺なさとをマゾヒスティックに際立たせて くれるから、「また、子供が落ちて死んでいないかな」などと思わずには いられないのである。 そこに孤独な晩年の鬱屈と醍醐味とがある。・・ わたしとしては心の深いところで共感したくなってしまう。わたしはこの章で、 自分の憧れる、あるいは好ましく思う老人たちを紹介してみようとした。 すると、どの老人も孤独な影を携えた人ばかりではないか。 老いに伴って、 心身の能力は衰えていく。もちろん人生経験を踏まえて円熟したり豊かになって いく要素もある。 が、おしなべて衰えは我々に違和感や困惑を与えてくる。 自分自身がマイナス方向へ変貌していくという実感は、孤独感に通じるだろう。 家族や友人に囲まれていてもなお、ある種の頼りなさや不安、無力感や孤独感 が、多かれ少なかれ付いて回るのではないか。 老人となることは、死に 近づくことでもある。また、馴染み深い人や大切な人がいち早く彼岸へ 旅立ってしまう機会も増えてくるだろう。死とは、おそらく究極の孤独である。 だからこそ恐ろしい。だからこそ祈りが求められる。孤独であっても、淡々と、 あるいは瓢々と、あるいはふてぶてしく生きていく老人たちに興味が向いて しまう理由には、そのように死への不安が伏在しているからなのかもしれない。 もちろん自身の孤独癖が大きく関与しているからでもあるのだが。≫ ▼ 友人や、連れ合いにも先立たれ、誰も見向きもしなくなった頑固一徹の 老人が長生きの果てに待っている結末か。逆に90歳半ばを超えて元気で、 あと10年は生きると仲間たちと運動している老人も、何か変である。年寄の 愚痴と、悪口、噂話ほど醜いものはないが、それは、孤独を更に際立てる。 とぼしい行蔵の棚卸も孤独を増すだけ。 人生の終え方は難しい。 ・・・・・・ 3713, ジャズについて −8 2011年05月26日(木) モダン・ジャズの誕生 ー� ー 「音楽の本」三枝成彰著 より * ビバップのキーマン、 チャーリー・パーカー 【 四〇年代に出現した、ビバップ・スタイル以後に続く流れを総称して、 モダン・ジャズという言い方もする。それほど、ビバップ・スタイルの出現 は革命的だったのだ。そのビパップの"スポーグスマン"的役割を担ったのが、 トランペット奏者デイジー・ガレスピー(一九一七〜一九九三年)。 「クレオパトラの夢」で有名なピアニスト、バド・パウエル(一九二四〜 一九六六年)も、のちのジャズメンに多大な影響を与えた (アルバム『バド・パウエルの芸術』『アメイジング・バド・パウエル』など)。 だが、最大のキーマンといえば、その飛び抜けた才能を死後になってようやく 正当に評価されたサックス奏者チャーリー・パーカー(一九二〇〜一九五五) があげられる。 ジャズという音楽において、ペルギー人が発明したとされる 管楽器サックス(サキソフォン)が果たす役割は、他の音楽に対して比較に ならないほど大きい。バリトン、テナー、アルト、ソプラノと四種類があるが、 いずれもジャズと切り離すことができない大切な楽器である。 このように ジャズにとって命ともいうべきサックスの演奏家として、あえて代表をあげる なら、のちに触れるジョン・コルトレーンとカンザス・シティ出身のこの チャーリー・パーカーをおいてほかはない。サックスを、それこそ自在にはね 回る鳥のごとく縦横無尽に操る早業から、‘バード’名称をミュージシャン仲間 につけられたパーカー。芸術肌のミュージシャンのご多分にもれず、彼は酒と 麻薬に溺れ、34歳の非業の死を遂げるが、ジャズに新し息吹を吹き込んだ 天災であったことは間違いない。 】 ▼ それぞれの楽器で、その時代のジャズを特徴づける奏者が出てきてきて いた。パーカーはサックスである。モダン・ジャズでのサックスの役割は 大きい。モダン・ジャズは、更にクールジャズへと変っていく。 ・・・・・・・ 3348, 閑話小題 2010年05月26日(水) * 何か凄い夢をみた! 一昨日の夜半に、変わった夢を二つ立てつづけにみた。これ以上の不愉快が ない夢をみた。これは不徳のなせること?もう一つが夜空の星雲をみている夢。 それが壮大なスケールで美しく今だかって見たことのないイメージ。 何かの宇宙映画の映像が頭の隅にあったのだろう。 神の目線のような、 夢でしか経験できない内的な経験である。もっと近づいて見ようとするうちに 夢が終わってしまった。 宇宙に浮いて立体的に星座の星をみている夢は初めて だが、こんなリアルで壮大な夢をみたのに驚いている。「アバター」や 「2012年」をシアターでみたのもあるか。3Dの映画やTVで、これに近いか、 それ以上の経験もできるのだろうが。脳の奥行きの深さを夢で知らされた 思いである。こんな夢をみるとは、お迎えが近いのかもしれないゾッとする 内的経験であった。内面は宇宙ということ? (字数の関係でカット2011年5月26日)
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2016年05月25日(水)
以下の内容は、【楽観的人生 箴言】で検索で探した箴言だが、 どれもこれも、新鮮な内容である。英国元首相のウィルソンの 『私は楽観主義者である。しかし私はレインコートを持っていく楽観主義だ』 など、例え話が分かりやすい。それは、「シェルターを備えた家」「避難ボート 付きヨット」の例えのように、設計段階から考えてあるもの。 商売人の家では、連合いに別立ての給与を支払い、通帳を別にして、連帯保証 をしない体質にしておく。 銀行の貸金の保全の技の一つに、長期と短期貸出し の両建てにして、経営が悪化した時に、短期貸出し金に、連れあいの連帯保証 を迫る。そして、次に子供、親類縁者、従業員の連帯保証に魔の手をのばす。 考えてみれば理不尽だが、貸す方からすれば当然のこと。 ≪ ☆ 待っているだけの人達にも何かが起こるかもしれないが、それは努力 した人達の残り物だけである。 〜エイブラハム・リンカーン(米国の第16代大統領 / 1809〜1865) :結婚も同じようなもの? ☆ 自分の夢に向かって確信を持って歩み、自分が思い描く人生を送ろうと 努めるならば、きっと思いがけない成功にめぐり合うだろう。 〜ソロー(米国の作家、詩人、思想家 / 1817〜1862) ☆ 神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。 ただ、挑戦することを望んでいるだけよ。 〜マザー・テレサ(カトリック修道女、/ 1910〜1997) :挑戦は、結果として経験と充足感が残る ☆ 安全とは思いこみにすぎない場合が多いのです。現実には安全というもの は存在せず、子供たちも、誰一人として安全とは言えません。 危険を避けるのも、危険に身をさらすのと同じくらい危険なのです。 人生は危険に満ちた冒険か、もしくは無か、そのどちらかを選ぶ以外には ありません。 〜ヘレン・ケラー(米国の教育家、著作家 / 1880〜1968) ☆ 他人の失敗から学びなさい。あなたは全ての失敗ができるほど長くは 生きられないのだから。 〜エレノア・ルーズベルト(米国のファースト レディ、人権活動家 / 1884〜1962) ☆ 生きるとは呼吸することではない。行動することだ。 〜ルソー(スイスのジュネーヴ共和国出身の哲学者 / 1712〜1778) ☆ あなたができると思えばできる。できないと思えばできない。 どちらにしてもあなたが思ったことは正しい。 〜ヘンリー・フォード(フォード・モーター創業者 / 1863〜1947) ☆ 人生は道路のようなものだ。一番の近道は、たいてい一番悪い道だ。 〜フランシス・ベーコン(英国の哲学者、法学者 / 1561〜1626) :悪い道には悪いのが屯している。良い道には良いのが屯している ☆ 危険を冒して前へ進もうとしない人、未知の世界を旅しようとしない人 には、人生は、ごくわずかな景色しか見せてくれないんだよ。 〜シドニー・ポワチエ(米国の映画俳優、黒人俳優の先駆者 /1927〜) ☆ 世間からいくら拍手喝采をあびようとも、結局、自分らしく生きていると いう実感が得られなければ、何の意味もない。 〜斎藤茂太(日本の精神科医、随筆家 / 1916〜2006) ☆ 人間には、必ず人生の転機を直感し、的確に判断できるかどうかを試さ れる時が何度かある。 〜アントニオ猪木(元プロレスラー / 1943〜) ☆ 人の生き方を一番よく表すのは、言葉ではありません。それは、その人の 選択なのです。選択とは、つまるところ、わたしたちの責任なのです。 〜エレノア・ルーズベルト(米国のファーストレディ /1884〜1962) ☆ 明日に延ばしてもいいのは、やり残して死んでもかまわないことだけだ。 〜パブロ・ピカソ(スペイン出身の画家、彫刻家 / 1881〜1973) ▲ 楽観的人生には、長年かけた防御策が必要である。万一の悲観を考え、策を 立ててない楽観など、真の楽観ではない。 思い切った挑戦も、十二分の準備が あればこそ。それを前提に、以下の箴言を読むと、その深みが見えてくる。 考えぬいた末の決断ならよいが、軽率な思い付きでは、それが、のまま直に 跳ね返ってくる。 博打で一番、効率が良いのは、万全の計画の上での創業。 その当たりは5%辺り。その博打?を、遊びまで高めれば、出来ないことが 出来る。 しかし引き時を誤ると・・ どの道、死んでしまえば同じ泡わわ〜
・・・・・・ 5184,世間の捨て方 ー① 2015年05月25日(月) 『世間の捨て方』ひろさちや著 常日頃から〈『世間』という妄想と、その害毒〉について何度も論じて きた。それを、この前書きで、そのまま、理路整然と書いてあった。 20歳で、創業的人生を選択した時から、悪くいえば「自己中心」の生き方に 徹してきた。大部分の人が、何か得体の知れない模範的良い人を求め、他人の 視線を気にして日常を過ごしていた。そんなものは、転勤か、転職をすれば、 何とことはなく過ぎ去っていく事象でしかない。そして、人生の最終になり、 その妄想に気づいて慌てふためく。いや、気づきもしない人が大部分だろう。 そして、やらなかった後悔、出来なかった後悔に涙する。 以前、取上げた、 ある担任の先生が私に吐露をした、「自分には人生が無かった!両親とも教員で、 自分も教員を半ば強制的に歩んできた。定年になった現在も、90歳になっても 健在だが、何事も無い人生ほど詰まらないものはない!」と、かなり強い 初老性鬱病の前段階。一番身近な親たる「世間」の犠牲者である。 〜まえがき〜より ≪ 「俺はどんな女も口説き落とせる」と豪語する男がいました。ところが 彼は、ある女性から肘鉄を食らった。「きみも失敗することがあるんだね」 と言う友人に、彼はこう言いました。「なあに、あれは女じゃなかった」 こういう人を世間では「自己中心」と呼ぶようです。 では、「自己中心」の反対は何でしょうか? わたしは、それは「世間中心」 だと思います。普段、わたしたちは「世間中心」で生きています。 無意識のうちに世間を気にしているのです。世間に気兼ねをしています。 子どものころから、わたしたちは、 「そんなことをすると、世間の人から笑われますよ」と・・ 「世間の人から褒められる人間になりなさい」「立派な人になりなさい」と 教えられてきた。つまり、世間の「期待」に応えることが求められていたのです。 しんどい生き方ですね。よく考えてみてください。世間の「期待」に応えると いっても、その「期待」が何なのか、あなたに分かっていますか? 企業が「期待」する模範社員は、おとなしくて、あまり自分の意見を言わず、 仲間と協調する人間でしょうか? それとも、独断専行的ではあるが、行動力 のある人間でしょうか? 場合によって違っています。とすると、あなたが 企業の「期待」に応えるためには、場合に応じて自分を変えねばなりません。 どう変えればよいのかさっぱり分からないままに、ともかく自分を相手に 合わさねばならないのです。 疲れますよ。そんなことをしていると、 人間失格になってしまいます。だから、世間を捨ててしまいましょう。 世間の「期待」なんかに応えなくていいのです。 だいたい優等生というのは、相手の「期待」に応えようとして、うじうじ 悩んでいる人間です。いままでの時代は、そんな人間がある程度幅を利かせて いたかもしれません。でも、これからの時代、世の中がどう変わるか、誰も 予測できません。とすると、優等生的生き方をしていてはだめなんです。 「世間中心」ではなしに、もっと大胆不敵に「自己中心」でいきましょう。 たとえば、学校の試験において、かりにあなたが不合格点をつけられたら、 「あんな問題を出すなんて、教師がまちがっている」と言えるぐらいの人間が いちばんいいのです。あなたが働きやすい場所でなければ、それは会社が悪い のです。会社の管理職は、あなたがもっと働きやすい組織形態に会社を変える 必要があります。そう思えるようになるのが「自己中心」の生き方です。 本当にお先真っ暗な時代です。こんな時代を生きるには、世間に気兼ね していてはだめですよ。だって、世間のほうがどうしてよいか分からず、 われわれに気兼ねしているのです。わたしは、いまの時代をそのように 読んでいます。本書において、わたしは自己流の時代の読み方に従って、 われわれの今後の生き方を考えてみました。これまで誰も言わなかった ことですから、きっとあなたの生き方の指針になると思います。・・ ≫ ▼ 母親が亡くなった財産分与の話合いの時に、姉四人が、私に 『何で特別に、アナタだけが、学生時代から、何ごとも自由に許されて、 したい放題。私たちは両親の監視下で、何にも出来なかった。あまりに 理不尽過ぎる。特に父親は厳しすぎた。しかし、あなたに甘い』と、 あたかも、私が父親であるかのような怒りをぶつけていた。厳しかった 父の姿を見てきたこともあり、両親を含めた「世間様」とは、心の奥で 一線を隔した内省的な性格になっていた。 で、このザマだが、自由に? 生きられた充実感は、何ものにも勝る。今日は、「ひろさちや」の過去分 の読書日記を、以下にコピーした。 改めて読んでも、納得する内容。 ―― 2007/02/15 2144, 「狂い」のすすめ −1 (~Q~;) おはよう〜〜ファ〜 サム! 閑吟抄の中の、「ちろリ ちろり ちんちろり ・・・一期は夢 ただ狂え」 を切り口に、世間に縛られないで 自由に生きなさい!と論じている。 まさに何時も、ここで書いていることである。 私にとって、今ひとつ物足りないところがあるが、団塊の世代の マニュアル人間が定年を迎えようとしている現在、丁度良い内容である。 人生に意味など無い、生まれ、飯を喰って、くそをして、死ぬだけだ。 あるのは「いま ここ」だけ! ーまずは、その概要からー ー読書日記 著者:ひろさちや :集英社 世間や常識の奴隷になるよりも「ただ狂え」。 狂者の自覚を持つことで見えてくることとは…。 人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、 自分を楽しく生きようと呼びかける。 ー表紙裏の内容紹介ー 今の世の中、狂っていると思うことはありませんか。 世間の常識を信用したばかりに悔しい思いをすることもあるでしょう。 そうです、今は社会のほうがちょっとおかしいのです。 当代きっての仏教思想家である著者は、だからこそ「ただ狂え」、 狂者の自覚をもって生きなさい、と言います。 そうすれば、かえってまともになれるからです。 人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく 生きましょう。「狂い」と「遊び」、今を生きていくうえで必要な術は ここにあるのです。 −面白そうな所を何箇所か抜粋してみた- *『人生に意味なんてありません。「生き甲斐」なんてペテンです。』 *「日本人は人生を知りません。人間らしく生きることができず、 エコノミック・アニマル、すなわち畜生の生き方をしています。 日本人は狂っているのです。」 *「上等の靴を履いてぶくぶく太った日本の子どもと、 裸足でやせたインドの子どもと、どっちがまともなんでしょうか!? そして、どちらが幸せでしょうか!? わたしたちの『常識』『物差し』は狂っていませんか!?」 *「ともあれ、遊牧民族は、敵と味方をはっきり分けて考えることができます。 だから楽なんです。ところがわれわれ農耕民族の末裔である日本人は、敵か 味方かわからない世間を相手にせねばなりません。それがしんどいのです。」 *「浄土経典である『大無量寿経』においては、 《人、世間の愛欲の中に在りて、独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る》 と言われています。この「独生・独死・独去・独来」が人間の本質なんです。」 *『わたしたちは、人間を商品価値、機能価値で測ってはいけません。 機能価値は相対的に変化します。 勤勉な人間の方が怠け者より機能価値が高いようにおもわれますが、 その機能価値は他者との縁によって一時的に付加されているものであって 絶対的なものではありません。 従って、人間の価値は、「存在価値」で論じられるべきであって、 その存在価値を測る物差しは、「仏の物差し」「神の物差し」 でなければなりません。それは目盛のない物差し「測らない物差し」 なのです。』 = 要約をすると= ー大多数である弱者が世間(=強者)の奴隷とならないためには、 世間(強者)が『常識』としている(それはしばしば強者の都合で変わる) ことがらを信用しないことである。 だがまともに闘おうとしても勝てっこないので、むしろ世間(強者)から 『狂っている』とみなされるようにすれば、世間(強者)も遠慮してくれるで あろう(いつ噛み付かれるか恐れるからだ)。 今の世間(強者)の方が狂っているのだから、その常識の中で 『狂っている』ということは逆にまともといえる。ーということだ。 少し強者でなければ実際は難しいがね! −今回はこの本の大筋の面白そうなところを書いたが、 次回は、狂ってみせる対象の世間様からのアップスケールについて、 主観を込めて書いてみる。世間はバカが多いからね! なら、もっとバカになっていればよいだけじゃないかい? そのままがバカだから、バカになることもないか! つづく ¥(*^_^*)\ バイバイ ――― 2006/02/02 1766, こころの羅針盤(コンパス) −1 −読書日記 三十篇の文章を、どれを読んでも深い心の世界に引き込まれる。 「私たちは羅針盤の針にしたがって航海しているわけではない。 行くべき場所へむかうために羅針盤を用いるだけだ。」 という言葉一つ捉えても、ハッとする内容が次から次へと出てくる。 その幾つかを抜粋してみる。 (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが? まずは、 「こころの震えを感じるとき」 ─まえがきに代えて─ 五木寛之 「人生いろいろ」という歌があったが、こころ模様もいろいろである。 「こころの羅針盤」というタイトルヘの感想もまた、各人各様だろう。 「こころ」という言い方がなあ、と苦笑する人もいるだろうし、 「こころ」に羅針盤なんていらねえよ、と、そっぽを向く人もいるにちがいない。 しかし、本のタイトルなど、本当はどうでもいい事なのだ。 「題名いろいろ」と、歌いとばしてもらっても一向にかまわない。 とりあえずここにギュウギュウづめになっている三十篇の文章を、 どこからでもいい、パッとぺージを開いたところから読みはじめてごらんなさい。
「人間いろいろ」「文章もいろいろ」、こんなに各人各様でいいのかしら、と、 あっけにとられる位に個性的な書き手のオンパレードである。 声に出して笑ったり、ため息をついたり、なるほどなあとうなづいたりと、 私自身、人生を三十回生きたような感じがした。 才気あり、含蓄あり、厭味あり、教養あり、風格ありと、 活字を読む楽しみこの一冊につきると言えば、 いささか香具師の口上めいてくる。 羅針盤の針は必ずしも一点を指すわけではない。 実際に磁石を使ってトレッキングしたかたなら経験がおありだろう。 震える針は揺れ動きながらも、最後は落ち着くところに収まる。 この三十篇の文章は、右へ左へと跳びはねながら、 最後は或る一点に読む人を導く。 それは「こころ」という実体など、じつはどこにもない、 という乾いた真実である。 私たちが「こころ」と信じているものは、存在する人間の影にすぎない。 ひとりひとりの性格や体型が異なるように、 その影も異なったかたちをしている。 私たちは羅針盤の針にしたがって航海しているわけではない。 行くべき場所へむかうために羅針盤を用いるだけだ。 ここに集められた文章のすべてに、その確かな意志がひそんでいる。
そのことが感じられたとき、震える私たちの「こころ」は、 それぞれの一点にむけて収斂するにちがいない。 ここにあるのは、そのような力を秘めた見事な文章ばかりなのである。 ー評ー 作家は、どうしてこのような上手い文章を書けるのか、 その博識に驚かされ、ただ感じ入るだけだ! つづく ―――― 2015/02/15 真の友人 ー楽しく生きる一日一話 〜③ * 真の友人 【本日「いいかげん」日和 】ひろさちや (著) 私に真の友人がいただろうか? 学生時代からの友人が存在するし、 仕事での付合いから、気心が知れた人が何人かいる。そういう人は、年に 一度か、数年に一度しか会わないが、それで十分。この随想日記は、一方的 に、友人にトッテオキの情報を知らせる感覚で書いている。 その意味で、 ビュアーは私と会っていると同じ? しかし残念ながら、知人で同じ感覚で ブログを書いている人はいない。今ではソーシャル・ネットワークもあるが、 何か参加する気になれない。 ー以下のドイツ人の友人観に同感するー ≪ ある日本人がドイツ人に尋ねられた。 「あなたに友人はどれくらいいますか」 日本人は、『さあ、百人か二百人くらい……」と答えたが、 それを聞いてドイツ人は驚いたという。 ドイツでは、その人のために自分を犠牲にできる人 ――自分が何も言わなくても、自分をわかってくれる人―― この二つの条件が満たされて、はじめて「友人」と言えるそうだ。 だとすれば、百人も二百人も友人がいるわけがない。 ドイツ人が驚くのも無理はない。 わたしたち日本人は、いささか「友人」を安売りしているのではないか…。 簡単に友人ができる、友人をつくれる、と思い込んでいる。 だから、自分に友人がいないとさびしくなる。 しかし、真の「友人」というものは、一生に一人得られるか否か、 といった存在なのだ。そう考えると、いま自分に「友人」がいなくても 悲しむ必要はない。これから死ぬまでのあいだに、真の「友人」に めぐりあえぱいいからである。きっとチャンスはあるであろう。 ≫ ▼ 以前、トーク番組で、『私には友人がいません!』といってのけ、 周囲が一瞬、静寂になった、のが印象的だった。これを公然と言放つには 強さが必要である。20歳時に、両親の後姿から、創業を決意した時から、 自ら友情を求めない孤独業、一種の自閉症になっていた。といえ、友人は 存在していたが。 創業を決意して見えるのは、自分の卑小、無能だけ。 しかし、今さら後には退けない袋小路で、その都度、友人ができていった。
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2016年05月24日(火)
* 都知事の変節 都知事、公私混同で窮地にたっているが、知事以前の過去分を含めて、 ここまで表だってしまい延命が可能かどうかの瀬戸際まできたようだ。 バラエティーで、司会が、「たけし」に、<都知事になりませんか>と、 ふると、<俺がなったら、汚職のやり放題> と、両手で懐に向けて放り 込む身振りのジョークが真に迫っていた。 やり直しをしても、たけしの 弟子の、元宮崎県知事が出てきて、間違えなったりするよりマシだが。 石原慎太郎にしろ、猪瀬にしろ、都知事の絶大な権力は、我身の分際を見失う 力があるようだ。 * 思いのままに 大相撲も終わって、今週末から、伊勢志摩サミットが始まる。 オバマ大統領の送別会的サミットだが、オバマを二期させたのが間違い だと悟ったアメリカ国民は、トランプを、大統領に選ぶ可能性がある。 <世界は既に「大恐慌」と、「欧米のキリスト教と、ISなどイスラムとの 宗教戦争」に既に入ってしまった> と仮説をたてると、アメリカは、 強硬派のトランプを選択、という流れが起きる可能性がある。 アジアは、<天気晴朗なれど、波高し!> だが。 * 何かお店が大変みたい! 家内が言うに、「スーパーとか、ショッピングセンターで、日々、 不況が深刻なっているのを感じる!」という。 今朝の、朝刊の地元版に、 新潟に本社を置く「ウオロク」の社長が心筋梗塞で急死、との記事があった。 長岡の「原信」と一騎討ちだが、規模、システムから見て、「ウオロク」は、 不利に見えていた。 その中での急死、正しく戦死になる。 リタイア前から、年金暮らしになると、経済の動きに対して疎くなると、 聞いていた。そして、その立場になって、まる5年になるが、まさに、そう。 気楽で良いが、週に一度、酒と肴をスーパーで買う以外に、世間との接触が 無い上に、他の買物はネット上で済ませてしまう。 老兵は、静かに、 ひっそり生きるべし! ということか。 それも慣れれば、それでよい。
・・・・・・ 5183,TPPを考えるに 2015年05月24日(日) 『読書脳』立花隆著 * TPPは、アメリカが世界の富を吸い上げる戦略の要! ここで、反対の立場からのTPP入門書を紹介している。 「TPPこそ、アメリカ主導の、アメリカンルールで囲いこんだ地域経済を 太平洋周辺に作らんとする、ブロック経済そのものの発想。」と談じている。 日本国家として、それを分かっていても、中国との地政学上、その枠外に 出ることは不可能。その上に、現政権は、保守本流で、アメリカのポチなら・・ 日本は70年前にアメリカに敗戦、現在に至るまで、軍事、経済と間接支配を されており、そのブロックからの脱出は不可能! =アマゾンの紹介より ≪ 世の中、TPPへの参加をめぐって賛否両論がわきたっているが、もうひとつ 議論の焦点がよくわからんと思っている人への、最良の入門書が、E・トッド 他十一人の著者による論集『自由貿易という幻想』。 これは賛否両論を要領 よくまとめたどっちつかずの入門書ではなく、「反対」の立場から、なぜ反対 すべきかを、多くの論者がさまざまの論拠から明らかにした党派性ある入門書。 非常に説得力がある。TPP参加を「第三の開国」と唱える人々は、自由貿易を アプリオリに善とし、保護貿易をアプリオリに悪とする考えにとらわれ、 保護貿易は世界経済をブロック経済化し、世界恐慌に通じる道だとするようだが それは正しくない。TPPこそ、アメリカ主導の、アメリカンルールで囲いこんだ 地域経済を太平洋周辺に作らんとする、ブロック経済そのものの発想。 その目的は、双児の赤字に悩みつづけ、ドル価値を落してきたアメリカが、 その囲い込みをテコに再浮上をはかろうとすることにある。 年の大統領一般教書演説で明らかにされたように、「アメリカは、2014年 までに輸出を二倍にし、もって自国の雇用を増やすという戦略」を持つ。 「そのための戦術は、第1に為替の誘導であり、第二に非関税障壁の破壊である。 いずれも、八○年代のプラザ合意や日米構造協議以来、アメリカの伝統的な 経済戦術」。考えてみれば、ドルと金の交換停止(ニクソン・ショック)は、 「史上最大のアメリカによる債務不履行宣言」といってよい。 その後、世界の通貨制度は、「ドル"準金本位制からドル基軸.変動相場制 に移行した」が、それは、金の裏付けを失ったドルを、「超大国アメリカの 軍事力と消費市場の巨大さを背景に流通させる」というシステム。それに よって「アメリカは一種の中央銀行としてドルの発行で特権的な利益を享受し、 貿易赤字を気にする必要がなくなったばかりか世界経済を通貨と金融の面で 自由に操作」できるようになった。その後のアメリカは、実体経済の弱さを 「自国に残された唯一最強の商品であるドルを駆使して打開しようとする国」 になってしまった。その結果招かれたものは、「世界経済の金融化」と、金融 資本を国家の壁を越えてスムースに動かすことを可能にする「グローバリ ゼーション」。その果てに出てきたTPPの推進は、「吸血鬼よろしく、アメリカ ができる限り世界の富を吸上げて瀕死のドルに輸血するための策」と見てよい≫ ▼ 欧州経済共同体(EEC)をなぞった「太平洋経済共同構想」の通貨統一を 除いた経済圏なら、日本の農林業や、金融業は、更にアメリカ支配が強まる。 特に、日本の金融資産は骨の髄まで毟り取られることになる。 韓国の現状が近未来の日本である。国民の7割が国外移住希望という国に! ・・・・・・ 4818,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー1 2014年05月24日(土) 自分史的物語など、都合の要素だけを切り取り、繋げあわせた絵柄。 私の場合、こういう結果だからこそ、歩んできた道筋の要所要所の現象、決断 などの語り直しの絵柄も面白くなる? 実感としては、「この結果こそベスト?」 と、「そう都合良く思うしかない詭弁?」という気持ちを含め、断片的に語って きた物語の「語り直し」になる。 傍から見れば珍妙な己の姿を、この結果 なればこそ、自覚できる。隠れテーマは「この喜劇の創りかた」あたり。 ここで書く内容は、今まで書いてきた断片的な事象、内的体験の再編になるが、 視点が変わると新たな記憶が蘇ってくる。そのため殆ど書いてないことに 気づいてきた。語り直しは、あまり気持ちの良くないが、書き続けるうちに、 新しい視点が多く出てきている。自分とは、それぞれの記憶の総合体だが、 その記憶そのものを変える作業は、極度の神経の集中が必要になる。 < 「事業人生を決心して45年」の語り直し > * 学生時代編 ー前編 ① 事業創業の人生を目指そうと決心し、準備15年、創業から30年の独り 語りを始める。漠然と自分の将来は、流通業と漠然と考えていた20歳の時、 「キリスト教倫理」の夏休みに、『これからの人生設計』のテーマのレポートが 宿題に出された。そこで、それまで真剣に考えたことがなかった自分の将来に ついて考えてみた。 その内容といえば、『 父親のような創業を幾つか挑戦 してみたい、過酷としても、事業創業の人生を生きたい! 』と。 その時から、人生が変わっていった。そこで当時の授業カリキュラムの内容を 改めて見直すと、前半二年の教養課程が、人生の土台になる学問。後半二年が、 そこから選択できる専門課程が整然と組込まれており、これから生きていくため のカリキュラムが合理的に組まれていたことを知る。 哲学者エリクソンは、 学生時代や、病気療養の期間を、「心理・社会的な猶予期間」とし、より自分 らしい人生を選ぶために必要な時間として前向きにとらえている。 人生を振り返ってみて、大学の4年間や、その後の放浪が、自分の生きる 目標を明確にするため必要であったことは、体験上、充分に理解出来る。 そのレポート作成で、漫然と生きてきた自分に気づくことになる。 その時、真剣の考えた分、ノンビリしている同期生より、二年早く将来設計 に気づいたことになる。卒業半年前になって、慌てている人が過半数?はいた。 それから読書も、友達付き合いも全く変わっていった。 自然と、クラブの合気道と、寮生との距離が離れていった。 ② その頃から、遊び半分、アルバイト半分で、学生寮の先輩が鳩山一族 の政治団体「友愛」が経営する『友愛山荘』を任されていた軽井沢の山荘に 手伝いに行くようになっていた。先輩の寮生と二人、そこの手伝いに誘われて 掃除とか、料理をしながら連休とか夏休みなどに、山荘生活と、軽井沢の世界 を楽しむようになった。そこは、鬱蒼とした森林の中の別荘地。その世界を 憧れる若い女性と、金持ちが集まる別天地である。こういう世界の住人になる には、それなりの力を持たなければと実感することになる。それにしても、 早朝の朝靄の小道の散歩は格別! 世界には一部の裕福層と、その他が存在 することを肌身で知ることになる。それより何が楽しいかといえば、夕食後の ミニ・パーティ。紅茶と御菓子で、フォークソングを歌い、踊る。 それも御客は若い女性ばかり・・ ・・・・・・ 4451, しまった! ー1 2013年05月24日(金) ーしまった! 「失敗の心理」を科学するージョゼフ・T・ハリナン(著) 人間の認識の甘さは今さらいうまでもない。カントのコペルニクス的転換、 「人の認識は対象に従うのではなく、認識が対象を決める」。それを知識として 知らないため、思い込みに縛られ、人は多くの失敗を重ねてきた。 更に失敗から学ぼうとしないから始末が悪い。その上、失敗に対して 意識的にも無意識的にも話を作りかえる。 まずはー内容紹介ーより人間はなぜ、まちがうのか」というテーマについて、 面白くてネタになるトピックを「これでもか」というぐらい集めて分析した本。 たとえば・・・・・・ ★ レントゲン技師は、画像に写っていた悪性腫瘍の9割を見落とす? ★ トップレスダンサーの収入は、彼女の月経サイクルに左右されている? ★ 黒いユニフォームのチームは、ペナルティーをとられる可能性が高くなる? ★ 人間は、誤りを犯しそうなときは、むしろ「行動を起こさない」 という誤りを犯すほうを選ぶ? ★「セックスした相手の数」を、男は女の四倍も多めに答えたがる? ★ 医師の八四%は、同業者がメーカーからの贈与に影響されていると考える。 だが、自分が影響されていると考える医師はわずか一六%しかいない。 ★ 人はなんらかの形で自分が不正をしていないことを証明すると、 その後の作業でもっと不正をしやすくなる。 ★ 映画を「あとで見る」人は高尚な作品を、「いま見たい」人は 大衆的な作品を選ぶ。 ★ キャッシュローンを勧める通知書に女性の写真を載せるだけで、 利率を五ポイント下げたのと同じ効果が期待できる。 ★ 予備選名簿の一番目に載った候補者は、得票に三ポイント上乗せできる。 ★ 投資家は、金曜日の経済記事には月曜日の記事ほど注意を向けない。 ★ 人間は、印象の操作など特定の目的のためには平気で話をつくり変える。 ★ 無意識につくり変えた話でも、二度三度と繰り返すうちに、 いつしか「記憶」そのものになってしまうことがある。 ★ 一般的に、男は自分を持ち上げるために、女は他人を持ち上げるために 嘘をつくことが多い。 ★ 社会的地位や学歴、収入は、全体の幸福度にわずか三%しか占めていない。 ★ 人を単純作業に従事させるためには、お金の力がものを言う。 だが、たいていの行動では、人間は総じて金銭的動機には左右されない。 (ゆえに、行動経済学はあまり役に立たない?)など、興味深い話がてんこ盛り。 ▼ 人は思うほど完全な存在でないが、しかし周囲は人が完全であるかのような 前提で動いている。私が学生時代のゼミで多くのことを学んだ中の一つに 「会社組織は完全な存在でなく、個人の将来まで考えてくれない。 独自で学び続けなければ知識や能力は得ることが出来ない」ということ。 キャリアは自身でつくり上げるもので、与えられるものでない。実際のところ、 成功の背後には失敗の累積がある。問題は致命的な失敗をしないこと。 そして、失敗から学び取ること。人生を振り返って、今になって真の失敗は 何だったか気づくことが、あまりに多い。 ・・・・・・ 4077, 哲学で自分をつくる ー4 (ソクラテス) 2012年05月24日(木) 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」瀧本 往人(著) * 魂に磨きをかける 第一章 しったかぶりはもうたくさん 〜ソクラテス ー� ≪ 死刑を宣言された際、つまり自分の死に対し、「死を恐れることは、 死のことがよく分かってないのに分かった気になる」に等しいと、ソクラテス は考えた。死について何も分かってないのに「死を恐れる」などということは 愚かしい、誰も死を知っている者はいないのに、なぜ恐れるのかと問いを発する。 命がけで期待された弁明の機会もアテネ市民の将来を憂いる。そして死刑判決を 受ける。 ・・無知をハッキリさせることは「汝自身を知れ」に通じる。 自分が何も知らないことを自覚し、より一層真理を追究する態度は、単に、 汝自身を「知る」ことでなく、魂の鍛錬という「実践」であり、自分がよく 生きるための問いである。魂を磨くことは、ただ漠然と、自問自答するので はなく、他者にかかわる中で、他者に問いかける中で磨かれるものである。 ソクラテスが探そうとしたのは「真理」であって、ソクラテスらしさでない。 探し出すには、相当の鍛錬、実践が必要とされた。自分の魂を磨くには、 命をかけて真理を追究しなくてはならない。他者が嫌がることでも、問いかけ を行わなければならない。この対話、営みは「パレーシア」(真実を語ること) と呼ばれている。彼の対話術は、自らの主張を他者に受け入れてもらうための 技術ではなく、「相手に問いかけること」そして相手の主張を「聞くこと」 に主眼があった。そもそもこの「無知の知」の重要性は、この「聞くこと」 のための手法にあった。何かを知っているから語るのではなく、何も知らない から、分かってないからこそ、相手から引き出そうとする。 パレーシアの原点は、そこにある。それゆえ、その原点は、密接な一対一の 関係が必要である。この対話は、自分が主役として振舞うのでなく、相手の話を 引き出すように行われる。それゆえ相手はソクラテスに導かれながら自分に ついて語ることになる。重要なのは、自分が語ることができる「ロゴス」(論法 と言葉)が、自分の生き方と確固たるつながりがあることなのである・・ ≫ ▼「吟味されることのない人生など生きるに値しない」というソクラテスの 言葉が好きである。要は、味わい尽くしてこそ人生である。対話は他者だけ でない、自分の経験に対してもおこなうべきである。そのため老後という期間が 人生に与えられている。老後を如何に過ごすか?と問われれば、「それまでの 人生に対しての自己問答を通して、魂に磨きをかけること」が答えになる。 それは死を間近にした真剣勝負である。だから面白いのである。 魂に磨きをかけるとは、そう甘いものではない。 ・・・・・・・ 3711, ジャズについて −6 2011年05月24日(火) ー「音楽の本」三枝成彰著より ー1935年、2ビートから 4ビートへー「スウィング」の時代ーP192 * 「スウィング・スタイル」の立役者ぺニー・グッドマン 【 デューク・エリントンに、「スウィングしなけりゃ意味がない」という、 よく知られたタイトルの曲がある。 一九二九年の金融恐慌に始まった大不況 がようやく回復の兆しを見せてきた三五年頃、ジャズの中心地となっていた ニューヨークで、スウィング・スタイルのジャズの時代を迎える。スウイング・ スタイルのジャズとは、ビッグ・バンドによる躍動感あふれるダンスのための ジャズといってもいいだろう。ジャズのリズム的特徴の4ビートにある。従来の 2ビートから4ビートに移行したのも、このスウィング・スタイルの特徴であり、 心地よい揺れるような感じ(スイング感)がこれによって生まれた。 立役者は白人のペニー・グッドマン(一九〇九〜一九八六)。彼は、一九三四年 に不況のあおりで自分のバンドを解散せざるをえなかったフレッチャー・ ヘンダーソンから、そのビッグ・バンド・スタイルの編曲を丸ごと"買い受け" たのである。そしてそれに洗練を加えることによってダンス音楽としてのジャズ に新たな味わいをもたらした。そもそもジャズは、誕生当時からダンスホールや クラブで演奏されることが多かったように、ダンス音楽の側面を持っていた。 ジャズが鑑賞のための音楽になるのは、その後のことである。 グッドマンは、より速いテンポ、短いフレーズの繰り返し、軽快で歯切れの よいタッチの演奏で、それをスウィツグ・ジャズ・スタイルとして確立させた。 グッドマンのあとには、トミー・ドーシー楽団やグレン・ミラー楽団といった 白人ビッグ・バンドが続いた。 やがてこのスウィング・スタイルでのコンポ (八人くらいまでの小編成楽団)も人気を集めた。彼らはニューヨークの五二番街 に集中していた小ぶりなクラブでもっぱら演奏したので、五二番街は 「スウィング・ストリート」と呼ばれた。スウィングを担ったジャズメンは 白人が多かったものの、だからといって、ジャズが「黒人による不良っぽい ワイルドな音楽」から「白人による健全でスイーツ音楽」へと変質したわけ ではない。むしろ、スウィングから次のビバツプの時代を経て、ジャズが黒人 だけの音楽から、白人を含む音楽へと広がりを持ったと認識すべきであろう。】 ▼ ここでジャズは、元もとダンス音楽の側面があり、スウィングの流行後に、 ジャズ音楽鑑賞として進化したとは知らなかった。それも、あのべニー・グッド マンがスウィング・ジャズの立役者とは。 あの恐慌の半ばで・・・ それと、学生時代に持っていた少ないレコードの中にグレン・ミラー楽団と べニー・グッドがあったことを、この書を読んでいて思い出した。
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| 5547,子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 〜 ③ |
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2016年05月23日(月)
『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 』 おおたとしまさ(著) 学び続けることとは、コンテンツ(意味、知識)を増やし続けることになる。 情報端末の進化により、誰も簡単にコンテンツを増やすことが可能になって いるが、問題は知恵を使って人類にどれだけ加工できるかである。 既成の 価値観から、いかにして自由になるかが、学び続けなければならない理由に なるが、そのために既成の価値観とは如何なるものか、知っておく必要がある。 〜要点の抜粋〜 (ネットより) ・「お金なんかいらない」という人と,「勉強以外のしかたでお金をかせぐから, いいよ」という人たちは、そもそも学校に来る理由がありません。(内田樹) ・特に大切なのは「あいさつすること」「約束を守ること」「ものを大事に すること」の3つ。これを忘れていると,どんなにがんばっても 「クレジット」が失われていくよ。 (藤原和博) ・想像力とは他者に対する思いやりであり,愛です。そして,想像力を身に 付けるには勉強が必要です。勉強が足りないと愛のない人間になってしまい ます。 (瀬戸内寂聴) ・せっかく勉強の機会が豊富にあるのにろくに勉強をせず,心の栄養失調に なっているのにその自覚がない人は本当のバカですよ。でも実際,心の 栄養失調に陥っている人は想像力も向上心もありませんから自分がバカに なっていることに気付けません。これは悲劇ですよ。だから子どもの うちにしっかり勉強させておいたほうがいい。 (瀬戸内寂聴) ・だいたい成績にこだわるのは親のほうでしょう。勉強していい成績を 取らないといい学校には入れない。いい学校に入れないといい会社には 入れない。いい会社に入れないと自分の老後が安心できない。 全部親のエゴですよ。 ・「型破り」をするためにはまず型を自分のものにしなければならない ということです。 (板東眞理子) ・脳のクセや周りの人たちが押し付けてくる既成の価値観という束縛から 逃れることが自由になることであり,そのために勉強しなければならない のだと私は考えています。(福岡伸一) ・頭の回転が速いとか臨機応変な対応ができるとか,発想が豊かだとかいう人 に対して「地頭がいい」という表現がよく使われますが,単に地頭がいい だけでは彼らを「教養のある人」とは呼びませんよね。単に多くのことを 知っている「物知り博士」や「クイズ王」みたいな人も「教養のある人」 とは呼ばない。「知識の時間軸を持っている人」のことを「教養のある人」 と呼ぶのだと私は思います。(福岡伸一) ・短絡的な目的のために勉強するより,本質的な勉強をしているほうが, 結果的に進学の面からも有利であるといえます。(茂木健一郎) ・心理学者のミハイ・チクセントミハイが「フロー理論」の中で提唱する 考え方も同様です。成功してお金持ちになるという目標を立てている人が, その目標を達成したら幸せになれるのかといったらそうでもない。要する に「プロセスの中にしか幸せはないんだ」ということです。(茂木健一郎) ・自分の頭で計算することで「数覚」と呼ばれる数に対する感覚が研ぎ澄ま されます。「数覚」があるのとないのとでは物事の見え方は絶対に変わって くるのです。(茂木健一郎) ・命というのは契約書を書いてどこかからもらってきたものじゃないでしょう。 気が付いたら生まれていただけのことでしょう。だったらもともと自分の ものなんかじゃないはずですよ。(養老孟司) ・自分で考えるクセが付いている子はそういう疑問が浮かんでも親には 聞かないでしょうね。「あ,これはもう答えのない問題なんだな」って 直感的にわかるでしょう。(養老孟司) ・人生に正解や目的があって最短距離を歩むのがいいのなら,生まれたら すぐに死ねばいいということになる。(養老孟司) ―――― ▼ <目標を達成したら幸せになれるのかといったらそうでもない。要するに 「プロセスの中にしか幸せはないんだ」> に共感する。振返ってみて、 創業の準備期間の15年間が、幸せだったか、事業経営の30年間が、幸せだった というと、「その45年間の全てが幸せだった」が実感。結果がどうであれ、 プラモデルつくりと同じで、そのプロセスを楽しんでいたことが、充実感に つながっていた。ハイデッガーの世人(責任回避と平均的を疑いも持たず 求める人)の逆を実行していたため、充実感が残ったのである。そのためには、 まず学び続けなければならない。これ、「日々是口実」(日々是好日)ですか。
・・・・・・ 5182,人生相談という気晴らし! 〜⑨ 2015年05月23日(土) 『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 悟りが在りや無しや? 世には、「悟り」を真面目に求める人がいるものだが、私の答えを正直に いえば、「自分が、つくづくバカを悟ること」「体裁を過剰に求めないこと」 と、「自分に対し、あまり誠実でないと自覚すること」である。それは悟り の問題というより、「自覚」の問題だが。 世界の果て(秘境)で、想像を 遥かに超えた絶景に出会った感動の瞬間が、悟りに近い? これは自分が実感するしかないが。 ≪ Q: 「悟り」の世界はただの夢なのでしょうか? 私は五十六歳の主婦です。三十年ほど前、結婚して心のバランスを崩した ことがきっかけで、精神世界に関する本を読み漁り、悟りという煩悩に支配 されない境地に憧れるようになりました。それから、さまざまな講演や参禅会に 参加したりしましたが、今でも悟りなどとはほど遠く、つい感情的になったり、 主人に嫌味を言ってしまいます。以前と何一つ変わらず、同じところを堂々廻り しているような気がします。最近はいっそ、悟りなど無いと言われたほうが 気が楽だとさえ思ったりします。本当に悟りというものはあるのでしょうか。 それとも、元々ない夢を追い求めていたに過ぎないのでしょうか。 何か手がかりをいただけると幸いです。 A: 〜自分で一生かかつて確かめてみるしかないでしょう〜 今回の相談も「いらいらする」ものですね。大体、哲学者ごときに 「悟り」が在るか無いかを聞いても、まともな答えが返ってこないことぐらい わからないのでしょうか? 同じように、神はいるのか、善悪の基準はあるか、 真理はあるのか-…、といった問いに、ハキハキ答えてしまう哲学者は、 正真正銘のニセモノです。では、哲学者はこうした問いに対して何もできない かというと、そうではない。 哲学特有の領域を指し示すことはできます。 あなたはすでにわかっているかのように「在る」とか「無い」という言葉を 使っていますが、じつはその意味は皆目わからないのだ、ということを あなたに気づかせることです。「悟り」が「在る」としても、それはコップの ように、空間のように、数字のように在るわけではない。では、「どのように」 在るのか、もしかしたら「無い」のか、と問えば、まず論理学的法則から決め られるのでないことは確かです。「悟り」は別にそれ自体として矛盾している わけではないのですから。また、物理学などの科学を持ち出して決定できる わけでもない。現代科学のすべての成果をもってしても、意識については わずかにも説明できない。「見える」ということ、私が私の手を「上げられる」 ことさえまったく説明できません。このことを話すと話が長く(千倍くらい) なりますので、いまはやめます。疑いなく、「悟り」とは意識に関すること ですから、科学者をはじめ、その体験をしたことがない人が「外から」アレコレ 詮索しても仕方ないのです。言いかえれば、あなたが本当に確かめたかったら、 実際あなた自身で確認してみるしかないでしょう。あなたがいままでどの ような修行をなさったのか知りませんが、そんなに気になるのでしたら、 自分で一生かかって確かめてみるしかないのです。しかも、最後まで わからなくて、そのまま死んでいくかもしれないのです。本当に心の底から 出た問いなら、それでもかまわないはずですし、そもそも他人から「手掛かり」 を得ることでは満足できないはずです。そうしないで、安直に答えを求めて いるあなたにとっては、悟りなんか「無い」と割り切って「気が楽」になった ほうがいいのではありませんか? ≫ ▼ 悟りとは、現象を、色即是空、空即是色と直感できたような一瞬の感覚? ネット辞書によると、《悟り(さとり)とは知らなかったことを知ること、 気がつくこと、感づくことを言い、覚りとも書く。宗教上の悟りは迷妄を去った 真理やその取得をいう。サンスクリットでは日本語の「理解」「気づき」 「通達」などの意味に相当する単語はある。》とある。悟りで、恐ろしいのが 「死期」だろう。それから死ぬまで、生きてきた分の人生を生きるというが。 ということは、「死期を悟り、それを受け入れる葛藤を通して得られる心境? ・・・・・・ 4817,いま、一人前の条件 2014年05月23日(金) 朝日新聞の(耕論)「いま、一人前の条件」=規範ない、寅さんのつらさ」 ノンフィクション作家・高野秀行が面白い。 私が一人前として自立できたと 感じたのは27歳の時。父が亡くなり、最初の事業を千葉で立上げと同時に結婚。 その時、石油ショックが起きて、ただ無我夢中の日々だった。両足に鉄の下駄 を履き(結婚生活)、背中には創業という重い荷物を担ぎ、よろよろと坂道を 登っているような日々だったが、これが私の独り立ちであった。 以下の内容は、世界における「一人前の条件」だが、やはり結婚が大きな 目安のようだ。 ーその全文をコピーするー 《 早大の探検部以来、外国人が入らないような辺境も含め、世界60カ国 以上を旅してきました。その経験を踏まえて言えば、 ・先進国以外の大部分の地域では、結婚しているかどうかが「一人前」の 一つの大きな基準。20歳過ぎても独身だと、 何か特別な理由、特殊な 事情があると思われます。正確には子供が生まれて完全に一人前という 感じでしょうか。 ・かって半年ほど住み込んでいたミャンマーの少数民族の村では、子供が できて初めてその人の土地がその人の名を冠した「○○の畑」と呼ばれて いました。一人前になることは、財産を含めて地域社会から認知を受ける という意味でもあります。 ・長年、無政府状態が続いたソマリアの取材を続けていますが、ここでは 「大人」という言葉に、成人という意味に加え、「偉い人」「長老」という 意味があります。長老はだいたい50歳以上、10人の集団に2、3人の割。 人望や財力、教養があり、何か問題が起きた時に「あの人に相談しないわけ にはいかない」というような存在です。氏族内のトラブルや他の氏族との 争いでは、交渉の窓口になり、決定権や責任を持ちます。前例をもとに 物事が決まる社会なので、年を重ねることは知識と経験をもつ貴重な データベースということになり、尊敬されます。私はいま47歳ですが、 日本も私が子供の頃はアフリカやアジアの発展途上国のように、結婚して 家庭をもって初めて一人前扱いされるという感覚が一般的だったと思います。 ・最近は日本を含めた先進国で、年寄りの経験値の意味が薄れてきています。 情報技術を駆使できる若い世代が圧倒的に知識量が多い。従って社会的に 年寄りが尊敬されることもなければ、年をとるメリットも感じられなく なります。何歳から何をすべきだ、この世代はこうあるべきだという 決めつけがなくなり、多様なライフスタイルが認められるがゆえに、単純に 一人前とはこういう人といえなくなっています。例えていうなら、今の日本 は山田洋次監督の映画「男はつらいよ」シリーズで、社会規範にとらわれず、 気ままに旅を続ける「フーテンの寅さん」が急増している社会です。 寅さんが増えると少子高齢化がさらに進み、社会が回っていかない。 同時に本人もつらい。規範がない社会では自分でそれを作らなければ ならないからです。特に日本人は自分で自分の価値観を作ることが苦手。 でもいったん自由になると、なかなか過去の価値観には戻れません。 「一人前とはこうだ」というモデルを強要しない社会は、 「自由はつらいよ」ともいえるんじゃないでしょうか。 * 高野秀行 66年生まれ。早大探検部時代にコンゴを探検し 「幻獣ムベンベを追え」 でデビュー。》 ▼ 私の人間としての一人前は、三年前の節目時。「なるほど、自立する とはこういうことか!」という感覚。 家庭持った時点の自立は社会の中の 承認だが、リタイアー後の自立は、社会の束縛?からの、自立になる。(>'A`)> いや、超越の方が正しい。真の孤独を味わうべき時に、自立できないで アタフタしている姿がイジマシイ :((゙゚'ω゚')): ・・・・・・ 4450, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー10 2013年05月23日(木) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 人生の大問題は死期が迫り、もう先はないと悟った時の恐怖である。 脳溢血や事故で即死なら別だが、誰もが最期の最期に行き当たる大問題。 だから著者の言葉は平易だが、どれもこれも深い。死を扱っていると同時に、 如何に生きるかの問題でもある。この年齢になると誰も明日にでも突きつけ られる可能性のある。だから「死を解決する登山道」という。初めは軽い 気持ちで読んでいたが、読むほどに哲学の総論を読んでいるようになる。 ーここまで書ききれなかった印象的部分を抜粋してみるー ・切腹を辞さないほどの死の覚悟を常に持つということは、欲の超越、 自我の超越、生死という二項対立の超越だ。 ・むしろ21世紀は、世界が日本化し、日本も日本思想に戻っていく時代 なのではないかと思う。もちろん、ここでいう日本思想とは、明治に回帰 したいという現代保守主義ではない。もっと前からの日本思想の原点は、 無我・無私の心、静かな達人の心だ。 ・自己保存本能を超越し、何の因果かこの世に生まれてきたことに感謝し、 今この一瞬に集中してこの幻想としての自己の存在という奇跡を心から 祝福する気持ち。悩みや我欲を超越し、世界を愛し、自分が世界と一体で あることを喜び、それ以外に何も要らないし、もちろん手にも入らない ことを理解する境地。身体で、感性として理解する境地。 ・死本来の恐ろしさとは、無で「ある」ことでなく、なぜか いったん存在してしまったものが無に「なる」ところにある。 ・感覚ではなく心の中の何かに向けられるクオリアを、志向的クオリアという。 「死が怖い」という感じもクオリアだ。「怖さ」のぞっとした感じが心の中 からわき上がってくる。 ・人間として生まれ落ちて以来身に付けているこのいきいきとしたクオリア。 これを失いたくないということが、死にたくないということと、根本的な 意味では同義なように思われる。このかけがいのないクオリアは、あろう ことか幻想。本当はないのだ。脳の無意識の計算がやっていることなのだ。 ・知情意のクオリアは結びつけ問題を解くためにあるのか? 僕たちが 生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんてなかった。何もなかった。 無だ。ところが何の因果か、僕たちは、たまたま知情意のクオリアという 幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから、生きている感じがしている。 ・僕は「意識は体験を記憶するために作り出された機能だ」と考える。 僕たちが生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんかなかった。 何もなかった。無だ。ところが、何の因果か、僕たちは知情意のクオリア という幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから生きている感じが している。しかし、ほんとうは人間もロボットと同じ自動機械なのだ。 ・そもそも、自分が、自由意志や自由な知覚を持っていると思うから、 死にたくないと思うのだ。 ▼ 知情意のクオリアも、心の中の何かに向けられる志向的クオリアも、 幻想でしかない。実際にそうなのだから、「死ぬのが怖い」というのは 幻想そのもの。半世紀以上以前の中学校の頃、ひとり死を考えて、底知れぬ 恐怖を覚えていた時を考えれば、その恐怖感は、幻想でしかないことが分かる はず。間近に迫った死を覚悟した時から死ぬまでの間に、それまで生きてきた 全人生を生きる、という。その時に「これは幻想でしかない」と、思えるのか。
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| 5546,子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 〜② |
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2016年05月22日(日)
『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 』 おおたとしまさ(著) 子供はこんなテーマの本を手にしない。手にするのは親など大人たち。 とすると、[子供偏]だけでなく、親向けの勉強の必要性を説く[大人編]があって、 至極当然である。私のようなリタイア後のシニアに、最後の総仕上げも含めて、 学ぶべきことは数限りなくある。せっかく地球上に、「遊び、学び、働き」に 来たのだから、総括の仕上げが必要である。この歳になっても、相も変わらず、 頼まれもしない、このような文章を書き続けている。しかし、今のところ 止めたいと思わないのは、テーマを探し、文章構想をたて、書上げるプロセスで、 多くの考える時間を得ることが出来るから。「考える」ことが、己を己たらし めしている実感があるため。死ぬまで学び続ける姿勢そのことが最も大事である。 [大人編] :荒俣 宏 動物だって勉強している/ 人間は一人で生きていけないから勉強する/ 人間は生き残るために知的欲求を発達させた/ 「やってみたい」こそが「コンテンツ」集めの最強の動機/ 「コンテンツ」が増えれば勉強はラクになってくる/ マイペースで勉強するのがいちばん身に付く/ 親のアドバイスが子どものストレスになるジレンマ :瀬戸内寂聴 勉強しないと「心の栄養失調」になる/ 子どもの得意なことを見つけてやるのが教育の第一歩/ 「先生は尊敬すべき人」と教えるべき/ 子どもはテストの点でなく親の顔を気にしている/ 1行でも印象に残る文章を見つければ立派な読書/ :坂東眞理子 「人はパンのみにて生きるにあらず」/ グローバル社会の処世術を身につけるには/ 自分が今ここにいるのは自分の努力のおかげだけじゃない/ 裾野が広くなければ高い山にはならない/ 型を破るためにはまず型を覚える/ :福岡伸一 「脳の水路付け」から逃れるために/ 勉強には人類の文化史が折りたたまれている/ 教養とは知識の時間軸を持つこと/ 「小さな問い」に一つ一つ答えていく/ 大人になれないサルが「大きな問い」を発明した! ?/ 「センス・オブ・ワンダー」が人生を豊かにする/ 科学と技術は違う。教育と職業訓練は違う :藤原和博 成長社会から成熟社会への移行/ 情報処理力から情報編集力へ/ 勉強と遊びの両方が必要/ クレジットをためれば自由になれる/ クレジットを希少性に投資するリターンは大きくなる/ :茂木健一郎 知恵を得る以上に価値のあることは存在しない/ 「フロー」のサイクルができれば子どもは勝手に勉強する/ 知識や教養は高性能な脳内ネットワークを形成する/ 今こそ日本の教育のベストシナリオを描くチャンス/ 親がすべきは、子どもの「学ぶ本能」が起動するきっかけづくり :養老孟司 昔なら「くだらないころ聞くんじゃない! 」でおしまい/ 「くだらないころを聞くな」と「そういうもんだ」は違う/ 「勉強したくない」というのが本当のメッセージかも/ 好きなことを突き詰めればすべての学問に通じる/ 山道を登り始めればさらに先が見たくなる/ ―――― ▼ 世の中には、「心の栄養失調」の病人?の多いのに驚かされる。 私自身、どうだろう。 倒産という形で事業生活を終えた私の人生は、 <この結果なればこそ、「五目並べ」の白の石目が一挙に黒に変わって しまったことで、過去の白を黒として問い直せ!>ということになる。 成るほど、どれもこれもが面白可笑しく、それらの事象が変わってくる。 視点の変化で、「大人は、なぜ勉強しなくてはならないの?」が、そのまま 我が身に突き刺さってくる。人生を洗いなおすために、学び直すために、 この結果はベストだったことになる。 福岡伸一氏の《教養とは知識の時間軸を持つこと》からすれば、この随想 日記を書きつらね、同月同日の内容を毎日、読み返す行為は、ベストになる。 15年分の同月同日の時間軸で、自分を省みる勉強になっている。 「シニアになっても、何ゆえに学ばなければならないの?」の答えは、 「あなたの現状そのままが、答えになっている!」 「自由になるため、心の平安のため、広く深く遊ぶため、後悔しないため!」 で、これもまた、以下の文章に繋がっていく。 ・・・・・・ 5181,アウシュビッツの回想 2015年05月22日(金) 『読書脳』立花隆著 * アウシュビッツの奇跡的幸運(地獄に仏) 二ヶ月前のNHK/BSのアーカイブで、ある女性の奇跡的生還を扱っていたが、 これも似たケース。奇跡的幸運が重ならないと、この過酷の状況下で生延びる ことなど出来ようはずがない。 ≪「シモーヌ・ヴェーユは驚くべき女性だ」と書くと、日本では社会思想家の シモーヌ・ヴェーユを思い浮かべる人が多いかもしれないが、私が言及している のは、もう一人のシモーヌ・ヴエーユだ。フランスで最も有名な女性政治家。 一九七四年シラク内閣で保健大臣になったのを皮切りに、歴代の内閣で保健大臣 をつとめ、フランスに人工妊娠中絶法を導入したことで知られる。一九七九年 には、第一回欧州議会で直接選挙による初代議長に選出されてもいる。 だが彼女を何より有名にしているのは、ドイッがフランスを占領している最中、 ユダヤ人身分証偽造)に問われて、ゲシュタポに逮捕され、アゥシュヴィッツに 送られながら、奇跡の生還をとげたこと。彼女の腕には、いまでも囚人番号の 入れ墨がある。シモータ・ヴェーユ『シモーヌ・ヴェーユ回想録』は自ら筆を とってその数奇な人生をふり返ったもので、フランスでは〇七年に発売されるや たちまちベストセラーになった。政治家になってからの話も面白いが、圧巻は 第二章「罠」と第三章「地獄」。逮捕劇とアウシュビッツ時代を語ったくだり。 【アウシュヴィッツに着くとすぐに、その場で囚人の仕分けが行われた。彼女 は十六歳だったが、見知らぬ人の耳打ちで「十八歳」と申告し危くガス室送り をまぬがれる。子供、老人、身障者など労働に適さないと判定された者は、 その場でガス室送りのトラックに乗せられたのだ。「親や子どもがどこへ 行ってしまったのか(略)カポー(女看守)に尋ねる人がいると、彼女たちが 窓から見える死体焼却炉の煙突とそこから上がる煙を指し示していたことを 私は覚えている。(略)死体焼却炉の煙は休みなく煙をはき出していた。 堪え難い匂いが立ちこめていた】 読んでいくと、彼女が生きながらえたのが 不思議に思えるくらい地獄の生活がつづく。収容所の娼婦あがりの女監督官に 気に入られて「あんた本当にかわいいねえ、ここで死なすにはもったいないよ。 別のところへ行けるようにしてあげる」「でも母と姉が一緒だからいいです」 と断ると、「じゃお母さんとお姉さんも一緒に」と、本当に三人そろって、 アウシュヴィッツから別?収容所に移され、仕事も調理担当に代えてくれる というウソのような話が本当に実現した。その女監督官がなぜそんな特別の ことをしてくれたのか、理由はよくわからない。その頃かわいい女囚に同性 愛的サービスを求めて特別の便宜をはかる女看守もいたが、それ的な要求も なかったという。それから間もな-戦争が終り、女監督官は英国の手で 逮捕され処刑されてしまったので、その理由がいまでもわからないという。 本書には若いときのヴェーユの写真もおさめられているが、確かにガス室で すぐ殺すには惜しい容貌だ。≫ ▼ アウシュビッツといえば、フランクルである。12年前に、彼の本を 集中して読んだが、人生への絶対的肯定に驚かされた。こういう極限の中で 奇跡的に生延びている人の共通点がある。それは、この状況下から生延びて、 家族か、友人たちと楽しい時間を過ごす具体的イメージを持っている人という。 【人生に何かを求めるのでなく、人生が私に何を求めているかを問うべきだ!】 が、特に印象に残っている。女監督官は、ただヴェーユが可愛いという理由 だけでなく、光る何かを見出したのだろう。そして、その後、彼女は光った のである。肯定的イメージ化と、信念こそが、人生で最も必要ということか。 ―― 2003/09/19 《V・E・フランクル》について 十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。 そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。 人生の調度まがり角であったためであろう。 その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。 彼の「意味」発見のための3つの問い 「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」 「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。その人は、どこにいるのか」 「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」 この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』 『満たすべき意味』を発見するための手がかりになると、 フランク心理学では考えている。
特に以下の分析には深く納得をした。 ー自己超越のための3つの意味(価値)ー 1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味 =仕事・子育て・学問・芸術 ー力への意志 2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味 =自然・芸術・愛 ー愛への意志 3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで 得られる価値・意味ロゴスの覚醒=対象との一体化 ※自身が何らかの喜びに満たされていること ー知への意志 人生には発見されるべき価値や意味がある (1)意志への自由 (いかなる境遇でも自由意志を持つことができる) (2)意味への意志 (意味と目的を発見し充足するのは人間の努力である) (3)人生の意味 (創造・体験・態度生きる姿勢の中に意味を見出す) ー生きることは価値判断(学習)と選択の連続である
ー私が読んだ本は以下であるー ・「夜と霧」:ドイツ強制収容所の体験記録 V・E・フランクル 霜山徳爾(訳) みすず書房 1985年 ・「それでも人生にイエスと言う」 V・E・フランクル 山田邦男・松田美佳(訳) 春秋社 1993年
・「宿命を超えて、自己を超えて」 V・E・フランクル山田邦男・松田美佳(訳) 春秋社 1997年
・「<生きる意味>を求めて 」 V・E・フランクル 諸富祥彦(監訳) 上嶋洋一・松岡世利子(訳) 春秋社 1999年
・「フランクル回想録:20世紀を生きて」 V・E・フランクル 山田邦男(訳) 春秋社 1998年
・「フランクルに学ぶ 」 斉藤啓一 日本教文社 2000年
・「どんな時も、人生に‘YES’と言う 諸富祥彦 大和出版 ・・・・・・ 2003/09/20 《V・E・フランクル》について 十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。 そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。 人生丁度まがり角であったためであろう。 その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。 彼の「意味」発見のための3つの問い 「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」 「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。 その人は、どこにいるのか」 「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」 この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』 『満たすべき意味』を発見するための手がかりになると、 フランク心理学では考えている。 ーー 『夜と霧』(みすず書房、1971年新版) 収容所での体験を描写することによって語っているのは 「人は変えようのない運命に直面したときでも、それに対して取る゛態度゛ というのは自ら選ぶことができる」という真実です。精神的自由、すなわち 環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態の下においても、 外的にも内的にも存しつづけたということを示す英雄的な実例は少なくない のである。強制収容所を体験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは 優しい言葉、あちらでは最後のパンの一斤を与えて通って行く人間の姿を 知っているのである。そしてたとえそれが少数の人数であったにせよ ――彼等は、人が強制収容所の人間から一切を取り得るかもしれないが、 しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の 最後の自由、をとることはできないということの証明力をもっているの。 「あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、 収容所内の毎日毎時がこの内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。 その内的決断とは、人間からその最も固有なもの――内的自由――を奪い、 自由と尊厳を放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所 囚人に鋳直そうとする環境の力に陥るか陥らないか、という決断なのである。」 生きていれば、誰しも避けがたい苦悩に直面するわけですが、そういった ときに、「どのような゛態度゛を取るのか」というコトが問題となってくる のだと思います。変えられない運命に絶望しニヒリズムに陥ることや、責任を 転嫁して他者を恨むこと、現実逃避のために自暴自棄になることは簡単 だけれども、フランクルは、そういった態度は人間としての自由と尊厳を 放棄した態度だと言っているのだと思います。
「〜生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味を もっているに違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命 も死もそうである。苦悩と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである。 一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命をそれが彼に課する苦悩とを 自らに引き受けるかというやり方の中に、すなわち人間が彼の苦悩を彼の十字架 としていかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況に あってもなお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が 開かれているのである。」 変えようがない事実そのものをそのまま認識し、 そこから自分はどうするのか、何が出来るのか、といった自らの可能性を考える 態度。それは、苦しみを受け入れ、苦しみに耐えながら、苦しみと共に生きて いこうとする態度。人はこのような苦悩を正面から受け取る態度を取ることに よって初めて、その苦悩を乗り越え、自己をさらなる高みに引き上げることが 出来るのだと思います。ここで、苦悩の持つ意味・価値が創り出されるのでしょう。 フランクルは、このように苦悩を超えることによって生み出された価値という のは、他の価値とは次元の違うものであるとしています。彼は、それは如何なる 外的状況(例えば、傍から見れば「失敗」であったり「不幸」であったり「悲惨」 であったりするような状況)に関係なく得るコトの出来る価値だと述べる。 このように、苦悩を自己の飛躍へと転化することというのは、きっと誰にでも 可能なことなのだろう、とわたしは思います。わたしたちの苦悩が収容所での 経験を凌駕するほどの悲惨なものでないのなら、この、人間が運命に対して挑む ことの出来る唯一のやり方、「事実を受け入れ、そこから生きていくという姿勢 を取るコト」は、わたしたちにも可能だろうと思うのです。フランクルも本の 中で、このような態度を取ることが出来た人が過去において一人でもいたという 事実そのものが、「人間がその外的な運命よりも内的にいっそう強くありえる」 ということの証しとなると述べています。 わたしたちはともすれば、自分を取り巻く様々な運命的な制限(生まれや能力、 容貌、環境などなど)に落胆し、成す術もなく空虚な気分になりがちですが、 しかし、これらの変えようのない事実をしかと受けとめ、その苦しみに塗れ ながらも、どうにかして何かをしていこうという姿勢こそが、わたしたちを 内的な成長へと導いてくれるのだとフランクルは言っています。収容所の中で さえ、そのような偉大な所業を成し遂げた人間がいるのなら、現代に生きる わたしたちに出来ないはずがないでしょう。全ての苦しみをかかえる人が、 それぞれ立っている場所から自己と自己に与えられたモノを見つめることに よって、それぞれの意味を見出し、苦しみを乗り越えることが出来るはず。 わたしはそう思っていたりします。「真の運命を正しく耐え、率直に苦悩する ことは、それ自身、行いであり、まさに人間に許される最高の成就であり 業績である。」 (『神経症の理論と治療』より) ----------- 「夜と霧」からの抜粋 ー内面化と内的豊かさー 人間が強制収容所において、外的のみならず、その内的生活においても、 陥って行くあらゆる原始性にも拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい ”内面化への傾向”があったということが述べられなければならない。 元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的 繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛では あるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。 なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な 豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。”かくして、そしてかくして のみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人間よりも、収容所生活を よりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。” 若干の囚人において現れる内面化の傾向は、またの機会さえあれば、芸術や 自然に関する極めて強烈な体験にもなっていった。そしてその体験の強さは、 われわれの環境とそのすさまじい様子とを忘れさせ得ることもできたのである。 〜中略〜 あるいは一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、 スープ匙を手に持ったままバラックの土間にすでに横たわっていた時、一人の 仲間が飛び込んできて、極度の疲労や寒さにも拘わらず日没の光景を見逃せ まいと、急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。 そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃えあがる雲を眺め、 また幻想的な形と青銅色から真紅色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な 変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の 掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまあだ燃える空が映っていた。 感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に 「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞こえた。 ー運命としての苦悩を受け入れるー かかる人々は、著しく困難な外的状況こそ人間に内面的に自らを超えて 成長する機会を与えるものだということを忘れているのである。 収容所の外的な困難さを内的な試練の試みに変える変わりに、彼等は現在の 存在を真面目に受けとらず、それをある重要でないものに貶め、過去の生活に 思いを寄せることによって現在の前では目を閉じるのが最も良いと考える。 ところで具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、人間はこの苦悩のなか にも一つの課題、しかもやはり一回的な運命を見なければならないのである。 人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ一人 一回だけで立っているという意識にまで達せねばならないのである。 何人も彼から苦悩を取り去ることはできないのである。 ”何人も彼の変わりに苦悩を苦しみぬくことはできないのである。 ”まさにその運命に当たった彼自身がこの苦悩を担うということの中に 独自な業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。 ー【フランクルに学ぶ(日本教文社,斉藤啓一】ー ・『 人間など,いくら優秀でも大したことはできない. 真に偉大な業績は,宇宙の力を借りて行う.』 ・『 人間は近くに,神は遠くに幸福を見る. 【2016年5月22日字数制限のためカット】
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| 5545,子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 〜① |
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2016年05月21日(土)
『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 』 おおたとしまさ(著) * 子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 〜① 人生の黄昏時に思うことは、<もっと世界のことを知っておきたかった、 もっと様々な経験をしておけば良かった>である。そのベースは、子供の頃に、 つくってこそ、可能になる。 ということは家庭環境の家系も大きく左右する。 学生時代を終えようとする時、それまでの知識不足に気づき、それから半世紀 近く、読書を続けてきたが、ベースの絶対的質量の不足をカバーできなかった? ようだ。 「10歳までに、人生が決まってしまっている」というが、図書館で 見つけた、この本。子供向きの本かと思っていたら、熟年向きでもある。 5年前、会社を早々、整理をした結果、「この男、あまり頭の良くない!」と、 陰口で言われたのだろうが、一番、実感しているのが当の本人。正に10歳まで に決まっていた。 <子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの?>の答えが、 私の人生そのもの。その時点で、人生は既に決定済み。 「事前の一策は、事後の百策に勝る」の「策」が学び(勉強)であり、 事後の百策では、子供の時代の学び不足に追いつかない。ただ、その自覚が あるだけ少しはまし? 〜まずは、アマゾンの内容紹介の [子ども編]より ☆ 荒俣 宏 人間は動物よりも多くを勉強して生き残った/ お父さんお母さんが言うことも1つ2つは聞いてみよう/ きらいな勉強は好きなことに無理やり結び付けよう ☆ 内田 樹 大人も勉強する理由を本気で考えたことがない/ 生き延びる力を身に付ける/ どうやって仲間と支え合うのかを学ばなければ/ 勉強するのは「自分のため」じゃない ☆ 瀬戸内寂聴 勉強しないと心の栄養失調になる/ テストの点数は気にしなくていい/ 得意なことに気付くと勉強が楽しくなる/ 本からも「心の栄養」は得られる/ ☆ 坂東眞理子 子どものころに勉強の習慣と土台をつくろう/ 勉強がつまらないなら100点を取ろう/ どうしようもないことをやり過ごすことも学ぼう/ 勉強するのはお金のためだけじゃない ☆ 福岡伸一 勉強すれば「思いこみ」から自由になれる/ 人類の歩んできた道を自分の足でふみしめる/ たった十数年で3000年以上分のおさらいをする/ 「大きな問い」は「好きなもの」の形で現れる/ ☆ 藤原和博 人生とは経験値をためるゲームのようなもの/ 「最強装備」は遊びから手に入れる/ 「最強装備」があれば「究極の力」が手に入る/ クレジットをためればためるほど自由になれる ☆ 茂木健一郎 勉強することとは自分をかがやかせること/ 勉強を続けるコツはマイペースを保つこと/ 学校を利用する気持ちになれば勉強は楽しくなる ☆ 養老孟司 「そんなくだらないことを聞くんじゃない! 」/ 勉強とは「山道を登る」みたいなこと/ 好きなことを思い切りやれば勉強が必要になる/ 「答え」を知ることよりも考えることが大事 ―― ▼ 一言一言が、どれも身に覚えのあること。幼児なりに、言葉から 何かを察知する言語能力が必要である。やはり、両親、特に父親の幼児 教育がベースになる。人生の「最強装置」から得た経験値は、遊びにあった。 「もっと稼いでおけば良かった」でなく、「もっと遊んで楽しんでおけば 良かった」が、最後の最後に残る。結局、何か心の底から楽しめるシステム を、見つけ出しおくことが必要であり、それが子供時代の学びから生じる。
・・・・・・ 5180,私はガス室の『特殊任務』をしていた 2015年05月21日(木) * ガス室の中の、断末魔の地獄絵 『読書脳』立花隆著 ー私はガス室の『特殊任務』をしていたーショロモ・ベネツィア著を、 『読書脳』立花隆著で紹介をしていたが、その内容は極めて凄惨である。 ガスを吸った瞬間死ぬのではなく、15〜20分の間、のたうちまわるのだ。 そこで生残った特殊任務部隊員(囚人)の証言が生々しく記されている。 ≪「人体組織の抵抗力で目が眼窩から飛びだした人もいました。 身体じゅう出血している人もいれば、自分や他人の排泄物で汚れている人も いました。恐怖とガスの効力で、犠牲者は身体のものを全部排出することが 多いのです。(略) みんな苦しんで死んでいました。普通の人は、ガスが注入 され、はい終わりと考えるでしょう。でも、なんという死か!…。よく見ると、 お互いにしがみついて、少しでも空気をと、みんな必死だったんですね。 床に落ちたガスから酸が発散するので、みんな空気がほしくなる。 そのために、最後のひとりが死ぬまでみんな互いの上をよじ登ろうとする」 その言葉通りまるで運動会の棒倒しのように、天井の空気穴めがけてもがき あい手足をひっぱりあい重なりあいながら人間ピラミッドを作るようにして 死んでいた。その一体一体が苦悶の表情を浮かべている。ガスの注入から全員 の死亡まで15分〜20分だった。断末魔の悲鳴が徐々に弱くなり、無音になる のを待って、特殊任務部隊(囚人)が中に入り、からみ合った死体を一体 一体引き離し、焼却炉に運んだ。遺体の口を開き、金歯をしている者からは 金歯を抜いた。ガス室の中に入ることを許されたのは、特殊任務部隊員だけ。 彼ら自身も三ヵ月ごとにガス室で処分され、秘密が保持された。生き残り 数十人だけがガス室の中で起きたことを証言したが、あまりのおぞましさ故に、 その詳しい実情はこれまであまり表に出なかった。 本書は2007年に仏国で 出版されると大ベストセラーになり、世界15ヶ国以上で翻訳されている。 これを読まずにアウシュヴィッツに行っていたら、私も東大生と同じように、 ガス室や焼却炉の残骸を見ても、犠牲者の髪の毛の山や遺品の山を見ても、 本や映画で見たのと同じと思い、ショックを受けなかったかもしれない。≫ ▼ 多くが糞尿を垂れ流し、断末魔の苦しみの中で死んでいく姿が、そのまま 描写している。個々では、どこかの病院の一室で毎日あることだが、それが 集団となると地獄絵そのもの。20世紀は、集団殺戮の世紀で、一億近くの 人たちが抹殺された。21世紀の現在も、北朝鮮や、中近東で、こうした 殺戮が現に行われている。恐ろしいが、これが現実である。ー以下も御覧あれ! ―― 2015/03/15 ホロコーストを生き延びて * 囚人番号A26188〜ホロコーストを生き延びて〜 〜15年3月11日 水曜 午後6時〜6時50分〜 先日、大相撲が終わり何気なくまわしたチャンネルが、この番組。 当時の凄惨な収容所や、殺された人たちの写真と共に淡々と語る老婆 へニアの話に、我を忘れ見入ってしまった。転々としたどの収容所でも、 奇跡的に助かり生き延びた内容は、想像を絶した生き地獄。 途中で、 この番組を数年前に見ていたことに気づいた。 ポーランド、ソ連を 中心に500〜600万人が虐殺されたホロコーストは残酷の極み!何度見ても、 その悲惨さに驚愕をする! 〜NHKのHPの、その紹介記事から〜 ≪ 1939年のドイツによるポーランド侵攻は、ある少女の運命を狂わせた。 靴工場を経営する父と母、3人の兄弟と幸せに暮らしていたヘニアは、 マイダネク強制収容所、「シンドラーのリスト」の舞台として知られる プワシュフ強制収容所、アウシュビッツ強制収容所、終戦時のベルゲン・ ベルゼン強制収容所と、4つもの収容所を転々とし、偶然と機転、そして 時には他人に助けられて奇跡的に生き残ったのだ。 現在南アフリカで静かに暮らす彼女は、ホロコーストを知らない若者が 増えていることに危機感を抱き、今まで夫や息子にも話さなかった悲惨な 過去を明らかにすることを決めたという。目の前で日常的に繰り返された ナチスの残忍な行為の数々、アウシュビッツ解放前に強いられた“死の行進”、 家族の行方―ホロコーストを生き延びた“囚人A26188”ヘニア・ブライヤー が、壮絶な体験のすべてを語る。≫ ▼ 20世紀といえば、スターリン、毛沢東、ヒトラー、ポル・ポトなどが、 大量殺戮を重ねた世紀。彼らは国内や隣国の人民を1〜2割も殺戮した、 というから、平和ボケした日本では想像すら出来ない事態。 現在も、 北朝鮮が同じような状況にある。社会主義も資本主義も駄目というなら、 何が良いのか? その上、情報機器が飛躍的に進化する中、政治体制が、 それを持った大衆をコントロールするのは至難の業である。その行着く先は 混沌とした世界。そして極端な原理主義が、世を覆い、同じような大量殺戮 の世が再び、生じる可能性が出てきた。人間は本当に進化したのだろうか? ・・・・・・ 4815,尊厳死は必要か ー1 2014年05月21日(水) 尊厳死について、多くの身近な人たちの最期をみて、これは正しい! という答えが無いことを前提に、司法は可能な限り介入すべきではないと思う。 回復の見込みがなくなった時に治療の中止を認める、尊厳死法案が検討されて いるが、これは当然のこと。人生の終わりに、どうすれば尊厳は守られるのか、 当人にとって大問題である。この3月末にとり上げた、 「そんなに長生きしたいですか 1〜7」の内容に通じるところがある。 ◆ 深く悩み納得するのが先 ー① <映画監督・周防正行> ー朝日新聞 オピニオン〜耕論ーより 《「患者に良かれ」と思い、治療をやめたお医者さんが、告発される。 一度つけた呼吸器は外せない。そんなことがあるのなら、何らかの法律が 要るんだろうなと漠然と思っていました。でも、2012年に公開した映画 「終(つい)の信託」をつくるため終末期医療を調べるうち、「待てよ」と 感じるようになりました。死の迎え方は、人がどう生きてきたかと同じように、 一律ではない。経済的な理由から治療をやめざるをえない場合もあり、 社会システムの問題でもあると気付いたのです。取材してわかったのは、 食べられなくなった時に栄養を直接いれる胃ろうをつけた家族も、つけな かった家族も、どちらも「正しかったのか」と悩んでいること。そこに正解 はなく、あんなに考え、話し合って決めたのだから、という思いがせめてもの 救いになるのでは。その質と量によって納得するしかないんですよね。 今の医療現場では、患者や家族と医師らの間で信頼関係を築きにくい。 お互い忙しく遠慮もあるのでしょう。患者や家族がいつでも、これからの ことや不安を相談できる人が病院にいる態勢づくりが、大事だと思う。 患者と医師を結びつけてくれる窓口のような存在がいると、患者や家族は 深く考え、きちんと悩めるようになるのです。この人が望む道は何なのか。 共通認識を持ち、それを実現するのが「尊厳ある治療」なんじゃないかな。 まずはそれが大事。良い医療かどうかって、患者や家族がいかに納得できる かにかかっている。コミュニケーションがうまくとれないとだめなんです。 ・・・ つづく 》 ▼ 医療現場では、各個人の尊厳死に至るまでのフォローする仕組みなど 出来ていない。あとは、医療経営に有利な延命治療か、家族の都合によって 生かされるか、殺されていく。病院を監獄と看做すと、病室は獄内、身体に つけられたチューブは鎖、看護婦は刑務官になる。そこでは、拷問のため 生かされた人たちの苦しみの悲鳴が聞こえてくる。チューブを外し、死なす 尊厳死は犯罪として禁じられている。しかし、当人も、家族も、それを望む なら、拷問のような苦痛の人を死なせることも、必要になる。それを法律で 禁止すること自体に問題がある。縁者の死際では、殆どが医者の手で、呼吸を 止めているが、その前段階に、本人や家族の希望で延命を認めるべきだが、 色いろなケースがあるから一概に断じることが出来ないのが末期医療。 今までは他人事だったが、今では近い将来の問題になってしまった。 ・・・・・ 4448, 屋根裏に誰かいるんですよ −2 2013年05月21日(火) 「屋根裏に誰かいるんですよ―都市伝説の精神病理」春日 武彦著 「幻の同居人」をネットで検索すると、日本老年精神医学会学会での 「幻の同居人」に関する考察で、医師の深津亮(埼玉医科大学)が講演で、 以下のような発表をしていた。 1.はじめに = 超高齢社会を迎えた我が国の社会構造は劇的な変化が もたらされている.高齢者は社会的に孤立を余儀なくされており,このような 孤独な環境は 種々の喪失体験を増悪させ,特有の妄想反応や誤認症候群を生じる 母胎となる.「幻の同居人」もその様な症状の一つであり,「自分の家の中に だれか知らない人たちが住み込んでいて,さまざまなかたちで自分を苦しめる」 という妄想と定義されている.「幻の同居人」はRowwan EL が1984 年に 「自分の家の中にだれか知らない人が住み込んでいて,さまざまなかたちで 自分を苦しめる」と訴える女性例を報告したことをもって嚆矢とされている. 「幻の同居人」は「天井裏や,床下に住んでいる」,「留守にすると部屋に 入ってきて,いろいろなものに触っていく」などと訴えられる.さらに自分 の行動がその同居人に監視されていると確信していることがある. Rowan の報告例では,知的機能の低下や感情障害が明らかではなく,思考, 感情,精神運動の障害や退行などの脳器質性障害を示す徴候も認められない ことから遅発性パラフレニーにみられる被害妄想とされた. 2・「幻の同居人」はどのような精神症状か?=「だれかが自分の家に 侵入して,物を盗んでいく,部屋を汚す,嫌がらせをする」などの住居(家) に関する被害妄想は遅発性パラフレニー,遅発性統合失調症,接触欠損性妄想症 などにも認められる.高齢者では少なからず見出される.我が国においても, 同様の症例は,報告されている. 精神症状はいかなるものか,幻覚か, 実在性意識か,あるいは想像上の友達などとの鑑別が必要と思われるが, 必ずしも明確でない。 3.「幻の侵入者」か「幻の血縁者」か? = 確かに「幻の同居人」は, 本邦の高齢者にも稀ならず見出される.Terada S らは前述の「幻の同居人」 の特徴を分析して,「幻 の侵入者」と記載した.我が国では,このほかに 父,母,祖父,祖母,子供などの血縁者が現れることがある.外部から 侵入するのではなく被害的でも敵対的でもないことが多い. むしろ親密で友 好的協調的な懐かしい血縁者であり,特に小さな子供の場合も 少なくない.これらは「幻の血縁者」と呼ぶことができるかも知れない. この様なタイ プの同居人が比較的よく見出されることが我が国の特徴のように 思われる.また妄想性誤認症候群,鏡像現象やTV 現象を伴うことも稀ではない. 4.「幻の同居人」の発現機構 = このような精神症状は加齢による さまざまな変化や社会文化的背景をもとに出現していると考えられている. 精神機能の解体過程,退行などによ ってゲマインシャフト的世界,しかも 日本的な農村共同体への回帰とみることができよう.「幻の血縁者」に子供が 現れることは,遠野物語のザシキワラシ 伝説とも相通ずることを示唆している. ▼ 以上だが、この「屋根裏に誰かいるんですよ」で、< 身体の一部を 失っても、脳機能は、それがあたかも存在するように感じ取る働きをする。 それに似た働きに近いのでは>は納得できる。作家の佐藤愛子本人が、色いろな 場所で、これに近い経験をしているが、作家なら、冷静に精神の衰えと看破する はずだが、どうだろう。知人の夫人の場合は、高齢者の孤立、種種の喪失体験 などによる精神不安定が見て取れる。老化による精神機能の解体過程に出てくる 妄想ということ。私にもサードマンが頭の中に同居しているが、これは自分で 意識的に作りあげた対自。ちょっと違うか。 ・・・・・・ 4074, 屋根裏に誰かいるんですよ 2012年05月21日(月) 「幻の同居人」―都市伝説の精神病理 春日 武彦 (著 ーアマゾン 紹介文ー まず、その奇妙なタイトルが目を引く。しかし本書は、そのタイトルから 受けるコミカルな印象とは異なり、精神科医である著者が、現代社会における さまざまな精神病理を、きわめて冷静に考察したものである。 ある日、 ひとりの老女が、「自分の部屋に勝手に人が入ってきて困る」と訴える。 その侵入者は、彼女の部屋にある日用品などを盗んでいったり、ちょっとだけ 位置をずらしていったりするという。しかし、姿は見えない。まるで、 「座敷わらし」などの妖怪のしわざとしか言いようがない不可解な話を、 老女は真剣に語る。表題となっているこの症例は、「幻の同居人」と呼ばれる。 このような症例は、多数報告例があるらしい。患者たちは、脳に器質的な異常が 認められるわけではなく、精神的にも問題ない場合が多い。「妄想の突飛さと 当人の穏やかな常識人ぶりとのあいだに乖離が生じているときには、精神医学は たちどころに歯切れが悪くなってしまう」と著者は言う。それがこの症例の複雑 さと奇妙さとを物語っている。本書は、現代社会においても、妖怪と出会うと いったような「非日常」的な現象が、たちあらわれる瞬間があることを示唆する。 精神科医が語っているだけに、いっそう説得力がある。 ▼ ある亡くなった友人の奥さんが数年前、急に事務所に訪ねてきて、世間話の 後に何気なく「最近、家に侵入者が時々入ってくるが、生前、主人が何か言って ませんでしたか」と言う。「侵入者とはとんでもないこと、どういうこと?」 と吃驚して聞きなおすと、「自宅の屋根裏に侵入者がいて、彼方此方、徘徊して いる。」という。よくよく聞いた後、「貴女は魔界に一歩踏み込んだようですね。 ご主人からは、それについて聞いたことはありません。」と答えた。 警察に相談して屋根裏を調べてもらった時の写真を何枚か出して、「私には、 侵入者が見えるが,貴方は見えませんか」という。 私には全く見えなかったが、 その辺から、何か精神的に追い詰められているのだろうと思い始めた。 その後、ご主人と共通の複数の知人から彼女の同様の話を聞かされた。 本人には、実際に屋根裏に何かがいるのだろう。彼女は初老で、独り暮らし。 佐藤愛子が、似たような現象を経験している。それと同じかどうか私には 分からない・・・
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| 5544,閑話小題 〜悪口は泥棒より悪いって知っていた? |
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2016年05月20日(金)
ー「泥棒と悪口と、どちらが悪いか」三浦 綾子(作家) 『人間学入門』(致知出版社)より * 「泥棒と悪口と、どちらが悪いか」 以前、この道理を知ったとき、そこまで悪口が罪悪とは思ってなかったこと もあって、驚いてしまった。大家族の中で育ったためか、本能的に、悪口や、 他人の誹謗中傷を言うことがタブーか知っていた。一番立場の弱い末っ子が、 まず身につけるしかない自己防御のなせる業である。それが、進級、進学に つれて、育った環境などにより、弱者に対する虐めや、悪口を言う人の比率が 増えていった。 学校、職場、一般社会も、階層があって、そのコントロール として、誹謗中傷と悪口が、大きな働きをしていた。 それを筆者がズバリ、 泥棒より悪口が、悪いと断じるから・・ 〜その辺から ≪・時折、講演で話すんですが、「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」。 私の教会の牧師は「悪口のほうが罪が深い」と言われました。 大事にしていたものや、高価なものを取られても、生活を根底から覆される ような被害でない限り、いつかは忘れます。少しは傷つくかもしれませんが、 泥棒に入られたために自殺した話はあまり聞かない。だけど、人に悪口を 言われて死んだ老人の話や少年少女の話は、時折、聞きます。 「うちのおばあさんたら、食いしんぼうで、あんな年をしてても三杯も食べる のよ」と陰で言った嫁の悪口に憤慨し、その後一切、食べ物を拒否して死んだ、 という話があります。 ・それと、精神薄弱児の三割は妊婦が三か月以内に強烈なショックを受けた時 に生れる確率が高いと聞いたことがありますが、ある妻は小姑に夫の独身時代 の素行を聞き、 さらに現在愛人のいることを知らされた。 それは幸せいっぱいの兄嫁への嫉妬から、そういうことを言ったのです。 この小姑の話にちょうど妊娠したばかりの妻は大きなショックを受け、 生まれたのは精神薄弱児だったそうです。 恐ろしい話です。私たちの何気なく 言う悪口は人を死に追いやり、生まれてくる子を精神薄弱児にする力がある。 泥棒のような単純な罪とは違うんです。 それなのに、私たちはいとも楽しげに 人の悪口を言い、 また、聞いています。 そしてああきょうは楽しかった、 と帰っていく。 人の悪口が楽しい。これが人間の悲しい性です。 ・もし自分が悪口を言われたら夜も眠れないくらい、怒ったり、くやしがったり、 泣いたりする。 自分の陰口をきいた人を憎み、顔を合わせても口をきかなくなる のではないでしょうか。 自分がそれほど腹が立つことなら、他の人も同様に腹が 立つはずです。そのはずなのに、それほど人を傷つける噂話をいとも楽しげに語る。 私たちは自分を罪人だとは思っていない。 罪深いなどと考えたりしない。 「私は、人さまに指一本さされることもしていません」。 私たちはたいてい そう思っています。 それは私たちは常に、二つの尺度を持っているからです。≫ ▼ これを読んだのは、20年前になる。元もと、噂話や、他人の中傷誹謗に 興味がなかったが、大家族の中では、第三者の話題はタブーに近かった。 学生時代も、殆ど、批評はすれど、批判をしないのが通り相場。いい大人が、 悪口など、男が廃るという空気があった。しかし、自分が人を使う立場になると、 飴と鞭のムチを、知らず知らず使いだしていた。知人に噂話を売りにした人が 何人か存在するが、耳を塞ぎたくなるほど聞くに堪えない。長年、かかって顔が 暗く澱み、声まで変質している。あれ、万引き常習者になるが、これも悪口か・・ ―――― 2016/04/07 愛と孤独 ―池田晶子の言葉 〜⑤ 『幸福に死ぬための哲学 ―池田晶子の言葉 ー』池田 晶子(著) < 孤独の味わい方 > * 他人の悪口が気になる人へ 《 人間には、自分の中の気になるものを、自分の外に見つけ出すという妙な 癖があります。自分の中のそれが気になるからこそ、他人の中のそれが気に なるのですね。 よくあるでしょう、誰かの悪口を言っているその人が、 自分が悪口を言っているその人にそっくりだということが。つまり、人間は、 自分の中にあるものだけを他人の中に見る。裏返せば、人間は、自分の中にない ものを、他人の中に見ることはできない。当然ですよね、だって、ないものは、 ないんだから。ないものは、気になるはずがないんだから。 》〜『人生は愉快』 ☆ 時間薬の効果で言えることだが、5年前の会社清算の一連が、当事者と しての内なる記者の目線でみえた現象の面白さは格別であった。 プラモデルの趣味の人に、それが壊れたとて、喪失感は少ない。それは、 楽しんだ結果でしかないから。所詮、悪口とは、その人間そのものの影! ―――― 2003/11/25 965, 悪口についての一考察 悪口については、随想日記の中では何回も書いている。 しかしテーマにしたことは無い、一番イヤなテーマであるからだ。 昨日、新聞を見ていたら‘メジャー’ヤンキ−スの松井は中学校二年生以来、 悪口を言ったことがないという。(所詮は勝ち組が言っているから注目 している部分もあるが) それでは「私の場合は如何だろうか?」と考えてみた。 本音でいうと 可能な限り言わないようにしている。その為には嫌いな人のいる場には 極力行かないようにしている。例えば、ライオンズとか商工会議所などである。 痴呆名士志向の子狐的人間である。 地方で頑張っている人はこういう 傾向が強いから始末が悪い。自分より肩書きや収入が多い人間には媚び へつらい、下の人間には尊大な人だ。 仕方ないのは解っているが。 「お前の姿でもある」といえば、そうかもしれない。 人間にとって自分は善人であり他人は悪人なのである。 自分を理解しろと必死になるが、嫌な人を理解しようとはしない。 それは、怠惰という無精者に過ぎないことに気づいていないからだ。 〜辞典には ー悪口は「他人について、劣っていると(事実に反し、また実際以上に) いう言葉」とある。 ー陰口は「その人のいないところで、いう悪口」と書いている。 悪口とは事実に反してと書いている。 週刊誌などは、それで持っているいるようなものだ。 大衆の一番弱いところを狙っているのだ。 辞書のとおりならば、悪口の経験のある人は虚言罪で天国の門は間違っても 叩かれないことになる。 ☆ 思いつくまま「悪口」について頭に浮かんだことを書いてみる。 ・「悪口はドロボーより悪い!」と曽野綾子の本にあったが、まったく 曽野(その)とおりである。ドロボーは人を殺さない、しかし悪口は時に 人を殺す。 ・悪口は結局は、自分の事をいっているに過ぎない。 したがって根は深い。ただ自分で気がついてないのだ。 悪口はその人の歪んだ心象風景といってよい。 ・悪口にも色いろある。 本人に面と向かっていう悪口と 陰でいう悪口がある。 ・宗親(居酒屋おやじ)「馬鹿野郎!これで俺等居酒屋が、 商売でもっているんだ!でも酷いもんだよ! サラリーマンの悪口は耳を塞ぎたくなるより、 『その対象の奴より、言っている本人を張り倒したくなるよ!! まあ、そうでもしなくては精神のバランスが保てないのだろうがね』 ー続く ーーーー 2003/11/26 966, 悪口についての一考察 −2 どんなに憎んでも、面と向かって言ってはいけない言葉があると。 しかし、悪口は楽しいのである。これが人間の悲しい性である。 4~5年前にある泥酔の高校の同級生二人に呼び出されたことがあった。 片っ端から知人の悪口を言っていたが、私を呼び出す前までは私の悪口を 言っていたのがミエミエであった。そして「人の悪口は楽しい!」といって いる姿に唖然とした。そう、こう書いているこの文章も、彼らの悪口だが。 私の場合、こと人間の真髄に関しては何を話しても悪口になってしまう。 虚飾などどうでもよい?見えるのは裸の猿の狂った姿である。 大学のたまたま入った学部が社会学部であった。早くいえば人間学である。 人間関係の網の構造を瞬時に洞察する訓練を受けているから始末が悪い。 さらに、こういう社会学的な本が好きで40年近く読み続けているから 知らないうちに外部化しているのだろう。 表面的な付き合いの人間には、全てが悪口に聞こえるはずだ。 同級生のスナックのママに説教をされたが、その道の専門家いやアマチュア ということは知らないようだ。 ところで悪口という概念は、なんの思想も持ち得ない。 ー怒れば、ストレス解消・精神衛生などという隠れみので、自己のプライド など微塵もみせず?に罵詈雑言をいい続ける。 ー気分の良い時は調子よく聖句などを持ち出してきて、 「悪口はいけません」とのたまう。 この二面性を持っているのが人間の姿である。 悪口の後で「仕方ないさ、人間だもの」と繰りかえす。 ー悪口をいま思い出せる言葉を羅列してみるとー 「服のセンスが悪い」「だらしがない」「カスが人間をまとっていうような奴」 「子狐のような奴」「屑どもめ」「仕事が出来ない」「気がきかない」 「痴呆迷死」「ミス何々ー失敗ばかりする女」「ダニ」「自民党のような奴」 「たかり」「くそったれ」「共同便所のような女」「東京ガス」 悪口はまるで無尽蔵である。 嫉妬心・怒り・敵意・ねたみ・憎しみ・優越感・軽薄など心の底に 渦巻いているドブから発するガスである。 ー インターネットで調べた内容をコピー ー 「悪口をやめよ 」 ヤコブ4:11〜12 箴言26:17〜28 マタイ5:21〜24 ー皆川尚一牧師ー 悪口をやめよ! 兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、 自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。 もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者である。 しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、 救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、 いったい、何者であるか(ヤコブ4章11〜12節)。 「兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない」(11節)。 ここで「悪口を言う」(カタラロー)というギリシャ語は「逆らう」(カタ) という語と「言う」(ラロー)という語が合わさって出来た合成語で、 「逆らって言う」とか「反対して言う」という意味です。 しかし、この語の使い方は、面と向かって相手に逆らって言うのではなくて、 今そこにいない人の悪口を言う場合に使われます。 だから日本語では「陰口をきく」とか「中傷する」とか「ざんげんする」とか 言います。顔と顔を合わせて相手に反対したり、悪口を言ったりする場合には、 相手の人は自分の考えを説明したり、自分のやり方を弁明したり、相手に 反論したりできますから、ある程度公平だと言えるでしょう。しかし、今そこ にいない人のことを悪く言う場合には、言われる人は弁明できず、反論も 出来ませんから、悪いうわさは毒ガスのように人から人へと伝わります。 二、三人のヒソヒソばなしやいわゆる井戸端会議からゴシップが流され、 話に尾ひれがついて、あること無いことが発展して人の名誉が汚され、信用が 失われ、せっかく築かれかけた良い人間関係が壊れていくのです。だから陰口 ほど質(たち)の悪いものはありません。 しかし、クリスチャンになってもこの悪い行いは、なかなか改まらない 人が多く、このために教会の親しい交わりが汚されるので、使徒ヤコブは、 特にクリスチャンお互い同士が陰口をきかないで、愛の交わりを育てるのに 心を配って行こうと呼びかけているのです。そこで大切なことは陰口をきく のは恐ろしい罪だということを認識する必要があります。 それは「神の律法に違反する罪」と「神の大権を犯す罪」の二つです。
・・・・・・ 5179,人生相談という気晴らし! 〜⑧ 2015年05月20日(水) 『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 信念に生きることは割りに合わない! 信念に生きると、当然、摩擦が起きる。それをバネに信念の芯を強めるか、 修正するしかない。信念を貫いた人生には充実感が残る。 ≪ Q: 先の暗い人生でも生きるべきでしょうか? 私は58歳の零細自営業者です。同世代の先生なら説明する必要はないと 思いますが、学生時代から頑迷に反体制を信条として、就職や年金とは無縁の 生活を送ってきました。そのことに後悔はありませんが、困ったことに働ける 年齢を越えて生きのびそうな予感がするのです。いまさら、官にたよって生活 保護を受けるなんて恥ずかしくて出来ませんし、この歳になって信念を曲げて まで生きる気もしません。自殺は解決手段ではないと読んだことがありますが、 私はこれから到底よくなるとは思えない苦渋の日々を寿命が尽きるまで生き なければならないのでしょうか。あるいは、何としても生きるべきでしょうか。 その理由があるのでしたら教えてください。 A: 「信念」を生きるとは割の合わないものです これも同じようなご相談で、一見どう答えていいか難しそうですが、 私の回答は至極簡単です。自分の「美学」があなたにとって何より大切なこと でしたら、これまでせっかくがんばってきたのですから、国家の面倒を今後も いっさい辞退して、潔くホームレスになってしまってはいかがでしょうか? そして、どこまでも自分の美学を全うして死ぬことです。 私が法学部を捨てて 哲学に身をささげようとしたときは、先生から「自殺率は高いですよ」と 言われました。33歳で誰も待つ者のいないウィーンにひとり私費留学した ときも、ドクター論文が書けなかったら戻ってはこれない、死ぬしかないと 思いました。 たとえ誰もほめてくれなくとも、いやバカだ、アホだ、と罵倒 されても、それがあなたの「生き方」なんですから、それでいいではないですか。 本物の「信念」とはそういうもの、そういう割の合わないものです。 だから(場合によって)感動的なのです。ソクラテスが最後の最後で脱獄して しまったら(そういう誘いは多かったし、それは可能であった)、弟子のプラトン はじめ彼のことなどすっかり忘れてしまっていたことでしょう。単なる 「合理的な爺さん」で終わっていたことでしょう。とはいえ、私は自分の信念を 貫き、ついに毒杯を仰いだソクラテス的生き方を賛美し勧めるつもりは毛頭ない。 もうひとつの合理的な爺さん的生き方もなかなかいいのではないか、と思って います(私だったら迷うことなく脱獄します)。つまり、昨日までの反骨精神など きっぱり捨てて、たったいまからは国家や政府あるいはボランティア団体から すべての「援助」を貪欲にむしり取るのです。あらゆることを巧利的かつ合理的 にとらえなおし、「豊かな」老後に備えるのです。あっという間に変身する 生き方も、なかなか颯爽としていいものですよ。こちらは、ソクラテス型に 対して、ホッブズ型とも言えましょう。俺が人々と暗黙の社会契約を結んで 国家を承認したのは、自分にとって利益があるかぎりであるから、国家が俺に 死刑を請求したら、さうさと逃亡するのが当然だ、という考えです。 どうです、なかなかさっぱりしていていいでしょう? ≫ ▼ 「功利的、合理的に生きる」という信念もある。サッサと事業断念を して「合理的爺さん」で終え、「節目を打った」と独り嘯いても、 「お前さんのそれは『日々是口実』でしかない」「これが私の生き方だから」 という「口実」が湧き出る。こと信念については、独り呟き続けるしかない! ・・・・・・ 4814,Quirt <内向型人間の時代> ー3 2014年05月20日(火) <内向型人間の時代>スーザン・ケイン著 * ‘誰からも好かれる人’の興盛 毎日が淡々として、読書、スポーツ、TV鑑賞、パソコンに明け暮れる日々。 ますます内向的人間になっている。私の年齢と、時代が、そうさせていると いう実感がある。一般的に、外交的人間の評価が高いが、実際に生きる上で、 内向的か外交的が良いのかは、その人自身の問題になる。誰からも好かれる タイプは、時代によって大きく変わってくる。特に、現在、何が外交的か、 内向的かの根本から定義を変えなければならない。 ーその辺りからー 《 社会学者のウィリアム・ホワイトは1956年の「組織のなかの人間」で、 親や教師がどのようにして内気な子供を矯正しようとしたかについて述べている。 「ジョニーは学校にうまくなじめません。 担任の先生が言うには、勉強の ほうはまあまあなのに、社交性の面がはかばかしくないとのことです。 友達はひとりか二人だけで、どちらかといえばひとりでいるのが好きだそう」 ある母親がホワイトにそう話した。そうした教師の干渉を親は歓迎すると ホワイトは書いた。「少数の変わった親を別にすれば、たいていの親は学佼が 子供の内向酌な傾向など偏挟な異常を直そうとすることを歓迎している」 親がそういう価値観を持つのは、思いやりがないせいでも鈍感なせいでも なかった、たんにわが子に「現実の世界」と向き合う準備をさせようとした だけだ。成長して大学に入った職に就けば、わが子は集団のなかで上手に 立ちまわらなければならない。大学の入試担当官が求めているのは、特別な 学生ではなく、外向的な学生だった。1940年代後半に、ハーバード大学の ポール・バック学長は「繊細で神経質」や「頭でっかちな」学生よりも 「健康的で外向的な」学生を入学させるべきだと言明した。1950年には、 エール大学のアルフレッド・ウィットニー・グリスウォルド総長が、理想の エール大生は「しかめ面の専門家ではなく、円満な人間だ」とした。さらに、 ホワイトがある学長から聞いた話は印象的だ。「学生たちの推薦状を読んで いると、大学が何を望んでいるかだけでなく、四年後に企業の採用担当者が 何を望むかまで考慮するのが常識になっているのを感じると総長は語った。 『外向的で活動的なタイプ』が好まれるそうだ。『つまり理想的なのは、 平均してして八十から八五点の成績を取り、課外活動に熱心な学生である。』 『抜群の成績』でも性格が内向的な学生はあまりこのまれないという。 この学長は20世紀半ばの理想的な従業員は沈思黙考ではなく、セールスマン 的な性格を持った外交型であることを適確に把握していたわけだ。・・・ 要するに、科学者の仕事は研究するだけでなく、販売を手助けすることでも あり、相手に調子を合わせる態度が必要になってくるというわけだ。 》 ▼ 地方から上京してきて、都会育ちの洗練された外交的人たちを知った時の 驚きは、はかり知れないものだった。暇さえあれば、的確な間合いで、ダジャレ を言い、笑いを取る。それに比べ、地方出身者は言葉が重く、無口な人が多い。 ジョーク、ダジャレで、その場を明るく和やかにするセンスはゼロ。 更に内向的になっていくか、身につけるか分かれる。 私の場合、まず カーネギーの『人に好かれる六原則』の一つずつを身につけるしかなかった。 1、相手に誠実な関心を寄せる。 2、笑顔を忘れず前向きに。 3、名前を覚え、意識して名前を呼ぶようにする。 4、聞き手に回り、聞き上手になる。 5、自分ではなく相手の関心を話題にする。 6、その人を心から大切に思う気持を伝える。 これを半年〜一年かかって身につけた結果、多くの友人に囲まれるように なった。 しかし、仮面に嫌気をさして、直ぐ止めてしまった。何故、自分を 偽るのだろう、相手中心の話題ばかりで、自分を抑えなくてはならないのか!と。 人付き合いが良くなった反面、自分を抑えすぎて、日々、息苦しくなっていた。 その後、所属した武澤ゼミの影響もあった。
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| 5543,閑話小題 〜お金に窮したことは一度もなかった |
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2016年05月19日(木)
* そういえば、お金に窮したことは一度もなかった! 〜お金についての考えは人生に対する考えと同じ〜 用心深い性格もあるが、事業人生の中で、お金に窮したことは一度もない。 両親、特に父親は、お金に対して厳しい人で、見栄や、無駄金、死に金、 小銭の扱いに常に目を光らせていた。普段の生活は徹して節約をし、外食や、 ブランド物趣味には、極端に厳しい姿勢であった。しかし、書籍の購入には、 一切、何もいうことがなかった。 学生時代、上京をして寮に住んでいた時の仕送りも、ギリギリの生活費しか 送ってくれなかったが、ヒモジイ思いをすることが無かったのは、節約が 身に付いていたため。当時の学生時代は、家庭環境に関係なく、殆どの人が、 似たようなギリギリの送金。カナダの学生は、それが首相の子供であっても、 アルバイトで生活費を稼ぐのが暗黙の習性という。 その節約も、21歳の「欧州一周旅行」で、全てパーに。 「使ってこそお金の価値が現出する」と信じるようになっていた。 父が、末期ガンで死期を悟った時に、身近で実感したことは、「お金は、持って 旅たつことが出来ないこと」。 結婚直後からは、「稼いだときに、1〜2割を 別立てをして、残りは、使い切る」と、方針を変えた。それもあって、より遊ん でおけば良かった、という後悔はない。死んだ瞬間、お金は一切、必要なくなる。 また、お金が無くて呆然とした経験が一度も無かったことが良いのかどうか。 健康面を除いた娑婆の苦しみの中で、「金の不自由」が、一番、辛いという。 現在、家内名義の家では少し肩の狭い思いをしているが・・ 他人事ではないが、一般的に、熾烈な事業の中で、万一の場合の用心深さが あまりに無さ過ぎるのではと思うのは、老いのなせる業か。 <お金について> を書くと、あまりにシリアスになるが、なればこそ、 自分を見つめる合せ鏡になる。そこには、欲が、そのまま露出している。 それは健康に対していえることだが、70歳を過ぎたから、死を従容と 受け入れたいものだが、現実となると? ――― 面白いもので、偶然だが,9年前に「お金」について書いてあった。 ・・・・・・ 2237, お金の正体 −1 2007年05月19日(土) 「お金の正体」 ー日下公人著 (((。・-・)从(・-・。)・゜ 「生・死」と「金」の話題は尽きることは無い。 特に「金」に関してはもういいや!と思うが、それでも次々面白い道理に出あう。 しかし、どれを読んでも面白いのは、金が欲の集約でもあるからである。 この本を図書館で手に取ったときは、あまり内容のない本に思えたが、 実際読んでみると、面白い本である。 「お金の正体」はつきつめると 「その人が求めている幸せは何ですか?」ということになる。 幸せとは何ですか?は、これも単純で解りきったように思えるが、実は深い問題である。 私が好きな「幸せはアルコールのようなもの」とか、軽く扱われない大きな問題である。
以前にも何度か書いてきたことたが、 父が死を覚悟した時にジッと私の顔をみて、数千万円の数字を紙に書いて 「この数字と銀行預金の同じ数字と何処が違うのだ?」 と深刻な顔をして私に問いかけた。 「事業という楽しみの後に残ったカスがお金である!」が父の口ぐせだったが、 それでは、そのカスも紙に書いた数字でしかないことに気づいたのだ。 「実際に使えないなら現状なら、無いに等しい」といいう言葉を加えた。 しかし両親は、そのカスを更に楽しんで使っていた。 それ以上を求めること自体は、少し求めすぎのように思えたが、 それでも逝く直前に割り切れない何かが心が残った。
その時、何かを伝授してもらった。 「仕事を遊びまで高めること、そして、そのカスとしてのお金を、 仕事とは別の趣味を見つけ楽しむこと。それも楽しんだら、 大らかな気持ちで余韻を楽しむこと」である。
金を哲学的に考察すると、交換手段としてのルール(価値尺度)でしかない。 それでは目的はというと「魂の充足と自由」である。 「金」を通して(物や事で)魂の充足をしているうちに、目的と手段が混同し、 その混同が生き方を誤らせてしまっているのが現代の傾向である。 金という手段で「魂の充足と自由」をやり取りしているうちに、 金が魂と同類に思えてしまったのである。 だから価値尺度の通帳を見てニヤニヤしているうちに死に直面してしまい、 「金」が果して何だったのだろうかと錯乱してしまうのである。
ところで私の父親の迷いは何だったのだろうか? その謎解きをしてみよう! 事業を楽しんで当時として、地方では財をなした。 そして、以前の家業の骨董屋の因縁で「骨董」の収集と、「国内旅行」を楽しんだ。 更に豪邸をつくった、そしてその8年後のある日突然死を宣告された。 目の前には、当時の数千万の預金と、幾つかの土地屋敷がある。 「それでも残ったこれは(資産)自分にとって何だろうか?」という疑問である。 死を直面して、混乱をしたのである。
父は事業も趣味も充分に楽しんだ。 そう、魂の充足はしたのである。 ところが、何かが欠けていたのである。 それは哲学的思考である。それも、難しい哲学ではない。 それで充分幸せであった!という心の安定を裏づける確信ができなかったのである。 「それでは完全燃焼などあり得るというのか?」という哲学的な答いが 出来なかったのである。
父の姿をみていて「哲学の基礎だけは教養として身につけておかなければならない」 ことを教えてもらったのである。
ー以前、書いた一部を紹介してみるー ーーーーーーー H0903 お金について 誤解を恐れずに、いや覚悟の上に書いてみる。 これほど重要なモノについて誰も直視しない。 触れたがらないのはその本質があまりにも“現金”だからである!。 ズバリお金は“自由の塊”である。 世界の大部分のモノが引換に手に入る!人の心さえも。 それほど強力な魔物である。
それに支配された時、その人の奴隷使いにも変身してしまう。 反対に上手に使えば従順な召使いになる。 父がよくいっていた “お金がないのは首のないのと同じ位つらい、 その苦労はこの世で一番の苦労だ!。” “お金で奇麗事を言う奴が一番お金に汚い人だ!” “生き金は使え、死に金は使うな!” “お金の楽しみの(うまくいった仕事の)結果のもの。” “それは使わなくては紙に書いた絵でしかない。” “金・金・金!!とどのつまるところ、それだ、それ位重要である。 お金に窮してはじめてそれと気ずく。 それを誰も直視しようとしない。 世の中その為に首を吊り、人を殺しもする、盗みもする。 それを認めた上で、それにとらわれるな! とらわれない為にはお金を貯めろ!”。
父の考え方は決して間違っていないと思うし一つの見方だ。 でもお金に対して奇麗な人であった! ーーーーー ヾ(´Д`、)マタネ ・・・・・・ 5178,閑話小題 〜日本の将来に疑問 2015年05月19日(火) * 後世への恥さらし 〜歴史的汚点の結果に ・大阪都構想は、僅差で否決され、これで維新の党は消滅をする。 これは既存政党丸がかりで「維新の党」を潰したと同じ。後々、 この否決は、日本の没落の象徴として位置づけられる。大阪市民がノー という選択をしたことは、間違いなく、日本の将来に暗雲をもたらす。 本気になって日本を変える気持ちが無いという選択である。 ・ある批評家が、ブログで、「大阪市政廃止は、何の合理化にはならない」 と、したり顔で論じていたが、この問題は、「日本を本気で変えていく気が ありやなしか」の突破口の杭になるかどうかだった。東京オリンピック開催を 選択した上に、この有様。これが日本の現状である。それにしても、日本の 既成政党が、こぞって、反対したとは、何をか言わんである。この結果の、 マイナス効果は、大阪だけでなく日本を痛めつけるだろう。 ・私が橋下を代弁すると、『仕方がない、この結果の評価は歴史が証明する。 それにしても、この既成政党の全てが総がかりで反対とは、世も末。 これだけ、内側の市長と、県知事の立場で内部告発をしても、市民、府民が 理解できないとは思いもよらなかった。何が地方再生だ。その前に、大阪を まな板に上げ、徹底的に合理化をすべきだろうに。 これでは、生活保護の 対象者は大阪に殺到する。彼らは、この甘さを享受したいからだ。 無念だが、仕方がない!』 ・これもそうだが、気持ちの悪い空気が覆い始めている。 こういう時に、 大地震と噴火が得てして起きる。バブル崩壊の数年後に淡路・神戸大地震が、 リーマンショックの4年後に東北大震災が起きた。恐らく近い将来に経済の クラッシュが起き、その数年後に大震災の可能性が・・(逆もあるが) 何か、自分の死の不安を重ねている? ようだが。 ・・・・・・ 4813,閑話小題 ー高齢者の三割が認知症とは 2014年05月19日(月) * 高齢者の三割が認知症とは 先日の朝日新聞の社会面に「認知症徘徊 不明届け一万人」の記事があった。 その中で「65歳以上の高齢者のうち462万人が認知症で、軽度認知障害が 400万人もいると推計される」とあった。高齢者が人口に占める割合が 23〜4%からすると、高齢者が3000万人。その中の862万とすると、 三割が軽度を含めた痴呆症になる。前期と後期高齢者では、二倍以上は違って くるから、80歳までに4分の1、それを超えると、過半数は認知症になる。 そして徘徊で不明になるのが年に一万人というから、深刻な問題である。 それからして、長寿を願うのは実は考えもの。独り住まいの高齢者が増加 している中、本人も周囲も深刻な問題である。「健康診断などしないで自然死も 選択の一つ」も、理解出来る。胃瘻で一度、管につながれると、簡単に取り払う ことが出来ない。生かして拷問しているようでもある。 死ぬも地獄、生き延びる も地獄。老いて死ぬのも大仕事である。これを書いたためか、自分が認知症に なって呆然と佇んでいる夢をみた。脳は面白いものである。その夢とは、 <店頭で、ハンバーガーとコーヒーを注文するが、商品がなかなか来ない。 それを(どういう訳か中年男)の店員に言うが、何も答えない。ところが後で 入ってきた若い男が目の前のチケットを取って、カウンターに並んでいる。 私が店のシステムの要領を得ないで財布を持って勝手に立っていたようだ。 仕方がないので、店から出て、他のテイクオフの店に行くが、店内の座席は、 二人以上でないと座れないという。どうも自分が認知症で、街を彷徨っている ことに気づいた>ところで、目がさめる。何か恐ろしい夢だが、認知症とは、 こんなものと自分自身に知らしめる内容である。そうこう考えると、可能な 限り医者に行かないで、自然にまかせることも選択の一つである。いざ、余命 一年、半年と告げられると、その恐怖は、はかり知れないのは父親の姿で知った。 傍らに一年いて、その恐怖感が直に伝わってきた。それも、激痛が死にたくなる ほど激しくなっていく。死にいくのは、簡単なことではない。そのため認知症を 神様が与えた自然の業わいとも言える。マダラボケになるから、本人も、周囲も 地獄になる。 生きているうち、元気なうちである。以下の内容も、その類? ・・・・・・ 4446, 屋根裏に誰かいるんですよ 2013年05月19日(日) 「屋根裏に誰かいるんですよ ―都市伝説の精神病理」春日 武彦著 数年前になるが、既に亡くなった知人の奥さんが会社の事務所に訪ねてきて 言うに、「誰かが留守に家に入りこみ、困っている」と切り出してきた。 それも会話の中で何気なくである。「ちょっと、待ってください。聞き捨てに ならない話で、もう一度、本当に侵入していたのですか」と聞きなおすと、 現在も屋根裏に隠れていると、写真を数枚だし、ここですと言う。 私の目には見えなかったが、本人には見えるという。「警官に来てもらい 見たが、何も見つからなかった。が、私には隠れているのが分かる。ところで、 うちの主人が生前、そういう話をしてませんでしたか? 貴方にはシックス センスがあると聞いてましたが、この現象をどう思いますか?」と真剣な眼差し。 「恐らく貴女は、魔界とか何か違う世界に取りつかれたと考えるしかありません。 そういう話は一度も本人から聞いたこともありません」と答えた。その話を、 その人の共通の知人に話すと、「実は私の家に訪ねてきて、全く同じ話をし 写真を見せてくれたが、何も見えなかった。他にも訪ねてまわっている」 とか。本人は60歳前後で、老女というには、まだ若い。 ーアマゾンの内容説明ー 精神科医である著者が、現代社会におけるさまざまな精神病理を、きわめて 冷静に考察したものである。ある日、ひとりの老女が、「自分の部屋に勝手に 人が入ってきて困る」と訴える。その侵入者は、彼女の部屋にある日用品などを 盗んでいったり、ちょっとだけ位置をずらしていったりするという。しかし、 姿は見えない。まるで、「座敷わらし」などの妖怪のしわざとしか言いようが ない不可解な話を、老女は真剣に語る。 表題となっているこの症例は、 「幻の同居人」と呼ばれる。このような症例は、多数報告例があるらしい。 患者たちは、脳に器質的な異常が認められるわけではなく、精神的にも問題ない 場合が多い。「妄想の突飛さと当人の穏やかな常識人ぶりとのあいだに乖離が 生じているときには、精神医学はたちどころに歯切れが悪くなってしまう」 と著者は言う。それがこの症例の複雑さと奇妙さとを物語っている。 ▼ 当時は、この本の存在を知らなかった。 子供達の巣立った家で、 当人は深夜怯えているのだろうが・・ 想像しただけで、背筋が寒くなる。 当人にとって感じるのだから!私も一時期、女性の幽霊?を見たり、幽体離脱 をしたり、面白い経験をしたことがあるので、当人が真剣になるのは分かる。 ・・・・・・ 4072, 南直哉 恐山菩提寺院代の話 2012年05月19日(土) 昨夜の18日、BSフジ・プライムニュースに恐山菩提寺の南直哉(じきさい) 院代が2時間近く出演し、「生きる」ということ、「死」について、説いていた。 最近、「恐山」出版されたようだ。東北震災で家族を亡くされた人が多く訪れて くるというが、行方不明の場合、縋る思いで恐山に救いを求めるのは分かる。 院代とキャスターの問答の中で多くの鋭い指摘があった。 ・恐山は感情の器。 ・死は観念、生は感覚。 ・「やりすごす」ことの重要性。(なんとかやっていける方法がくるまで待つこと) ・人間には存在が認められた経験が必要。最初の動力になる。 子供の頃に、その基盤を両親がつくるが、それが壊れてしまっている。 ・自殺は選択の問題。まず生きることを選択すること。転んでも起き上がる ことが大事、自殺したくならないような人生は本来の人生でない。 ・あの世があるか?の質問に対し、「その前提に、死後の世界がある、という 認識がある。」その前提は何か?と逆に問う。 ・最近さかんに「心の時代」というが、どんな時代にも、その時代を生きた人 には心があったのであって、いまさら、この時代だけを「心の時代」と言うのか? 「心の時代」と声高にいう人たちは、そう言うことで、「心の時代」という商品 を作っているではないか?等々だが、訪問者が色いろの遺物を持ち込んでくる。 その中に花嫁姿の人形が年に十数持ち込まれる。10年もすれば百以上になるが、 捨てるに捨てられないという。毎年、その人形に拝みにくる家族がいるからだ。 その花嫁人形も、特注のものばかり。院代の話の奥行は深い。東北大震災で 奥さんがお産のため実家に帰っていて、亡くなられたヤンキーっぽい若い人 の話が、涙を誘う。ただ独りで来たが、哀しみが感じられなかったという。 哀しむまで心が追いついてないのだ。本当の悲しみは時間とともにやってくる。 あっという間の二時間だった。30年前に行った恐山は、強烈な印象である。 山鳴りと、硫黄の臭いと、老人が多く入っていた硫黄風呂。あちこちに 置かれていた遺品。そして、イタコと涙ながらに話している人たち。 目の前に広がる白っぽい小さな湖。哀しみの感情の器である。 ・・・・・・・・ 3706, 自己を見つめる −23 2011年05月19日(木) ー 他者について ー 「自己を見つめる 」渡邊二郎(著) 幼児の頃から、「自分」は、他者の呼びかけによってカタチづくられていく。 一般的には、「他者」は、自分以外の人や、生物、そして物を総称して呼ばれる。 二人称の「汝」と「我」の出会いと対話から生じてくるのが他者である。 【(* 対人関係の葛藤の海 ーp186) 二十世紀になって、たとえば ブーバーなどを中心として、多くの思想家によって二人称の「汝」と向き合った、 「我と汝」の出会いと対話の関係が、人間存在の根本事実として、改めて 強調されるようになったのも当然である。とりわけ、人間関係が稀薄になって ゆく機械的現代文明社会のなかでは、「我汝関係」の豊かな拡充が緊急の課題 として重視された。ブーバーなどは、汝の奥に、永遠の汝の面影さえ予感して、 神の前に立つ自己の存在の確認を、汝との出会いの延長線上に設定するほど。 こうした我汝関係の思想は、十九世紀前半のフォイエルバッハあたりから始まる とも言えるが、とりわけ現代において強調された重要な問題意識である。 さりながら、そうした他者のうちに、たとえば、サルトルは、むしろ逆に、 鋭く私の秘密を握って、私に対して支配力を行使しようと隙を窺っている、 油断のならない「まなざし」を予感した。したがって、そこでは、自他の関係は、 永遠に自由をもった者同土の「相克」が宿命となる。調和的な共同主観などは 幻想であり、むしろ、個別の体人同士の峻烈な争いと闘いが、対人関係の根本 事実と見なされるわけである。 ヤスパーも、人間関係において、やはり、 争いを、不可避の個別的限界状況と捉えていたことは、すでに述べた。 ・ つまり、一つには、人間関係の根本には生存競争という非情な争いが、 一皮剥けば、いたるところに隠れ潜んでいることが、すぐに露呈してくる からである。実際、人間関係の深刻な極限的状況においては、食うか食われる かの、生死を賭けた争いの火花が噴出してくることは、誰もが覚悟している。 また、平凡な日常生活の場面においても、いろいろな局面で、先着順や成績順 や業績順や体力順によって、岐路が分かれ、自他の運不運の差が顕在化して、 憂き世での浮沈が結果としてくる。 ・ さらに二つには、自己と他者は、相互に協力し合いながらも、 「愛しながらの争い」において、互いにたえず、本心を確かめ合おうとし、 公明正大さをめぐる人間的吟味の鋭い眼を、相互に向け合う。すなわち、 自他は互いに、相手が、どれほど誠実であるか否かを、いつも気懸かりの 種とする。つまり、他者を、その誠意や裏切り、欺朧や正直、傲慢や謙虚、 忘恩や怠慢などの点で、吟味して、他者が真に信頼の置ける人物であるか否か、 人は不断に確認しようとする。・・・ 】 ▼ ソクラテス、デカルト、カントの三者の考えは、みな「私」を拠り所 にして他者や世界と立ち向かっていたと感じていた。しっかりした「自分」 があってはじめて他人と接しることができると考えていたようである。しかし、 19世紀初めに生きたヘーゲルは、この考えに根本から批判する。 (字数制限のためカット 2016年5月19日)
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