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堀井On-Line
| 5282,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー⑤ |
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2015年08月31日(月)
ーその時、言葉は私の「神」となるー(新潮45/6月号) 〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ * 言葉は自意識の申し子 著者の自我そのままの言葉が、直接、私の心に届いているのは、魂から発した 言葉だからである。 会社断念をして、何か後ろめたさを持つようになってから、 私の書く、随想日記の文章が、「自意識の私」より、「自我の私」へ、言葉の 比重が変わったためだろう? ネット上に公開すること自体が、実は、 「自意識の私」に縛られていることになる。「自我の私」がまる見えだが。 ≪ 我々はもはや引き返せない。他者の中で己を形作る「客体としての私」が、 「私」の大半を占めている以上、我々は自意識の地獄から抜出すことができない。 そして我々は、他者の中で生きるために「言葉」を発明した。 「言葉」は「自意識」の申し子である。他者を理解したい、他者に理解されたい、 他者と繋がりたいという必死の想いが「言葉」を生んだ。 「あなたに私の気持ちを届けたい」その祈りにも似た強い想いは言霊、となって 言葉に宿り、相手の心を揺り動かす。言葉とは本釆、そういうものであったのだ と思う。だからこそ言葉は神であった(ヨハネによる福音・第一章第一節)」のだ。 他者の中で生きていく時、私は言葉以外の武器を持てない。「空気を読む」という コミュニケーションも苦手だし、心にもないお世辞や社交辞令といった口先コミュ ニケも得意じゃない。言葉がなければ、私は人の世で生きていけないだろう。 だが、それは武器であるだけに、凶器にもなり得る。人の心に届けようとして 相手の心を突き刺してしまうことも多々あるのだ。が、そんな体当たり コミュニケーションも、そこに相手に対する好意や信頼があれば、より深い 人間関係を築くことができる。お互いに血を流しながら、まっしぐらに相手の 心の奥へと突き進んでいく。それが本気の言葉であればあるほど、我々は互いの 魂に触れ合うことができるのである。そこには嘘も悪意も存在しない。 だからこそ安心して胸襟を開くことができるのだ。そして本気の言葉が届き合い、 剥き出しの魂が触れ合った瞬間、我々は互いに対する深い理解と共感に満たされ、 以前よりももっと相手のことを好きになる。この人になら何を言っても大丈夫、 どんな自分を見せても受け容れてくれると、心の底から信じられる。 それが、私のコミュニケーションだった。もちろん、これが通用する相手は 限られる。だから私は友人が少ない。しかし真の友人なんてものは少数精鋭で いいと思っている。これからも私は本気の言葉を投げ続けるだろう。 私は、そのために生きると決めたのだ。私は自分が何のため生きているのか ずっと知りたかった。特に死に損なってからは、自分は何故生きているのかと 繰り返し自問した。答はまったく見つからず、生きているのが苦痛で、 「どうしてあの時に死なせてくれなかったのだ」と医者に当違いの恨みを 抱いたりもした。ところがそんな時に、思いも寄らぬ人の計報が入って、 私は激しく動揺した。自分は生きる理由もなく生きているというのに、 死んで欲しくない人が亡くなりてしまうという、この理不尽。人の生死には 道理も必然性もないのだ、と、つくづく思った。私は何者かに連れ戻された わけでもなければ、正当な理由のもとに生かされているわけでもない。 生きる理由なんかないのだ。それが耐えられないというのなら、理由は自分で 見つけるしかないではないか。諸君、こうして私は、自分の言葉のために 生きようと決めたのだった。何故なら私は、成り行きとはいえ、何十年も 言葉を生業としてきたからだ。もはや私には言葉しか残ってないからだ。 私にしか語れない私だけの言葉を、私はこれからも探し続ける誰かに届きます ようにと祈りながら言葉を綴る。その時、言葉は私の「神」、となるのだ。 ≫ ▼ 著者の「自我の私」の言葉である。成るほど、これなら万人の 心まで 届くだろう。それと、死線から戻ってきたが故の心の苦しみは、想像を 絶するほど厳しいから、その言葉そのものが、本人にとっても「神」になる。 ・・・・・・ 2014年08月31日(日) 4917,「個人から分人へ」 ですか! * 永遠の問い、「私とは何か」 平野啓一郎「私とは何か ―個人から分人へ」の久垣啓一氏の書評が解りやすい! ≪ この本の主張は、人間の単位を考え直すことだ。個人という意味で使っているindividualは、 これ以上分けられないという意味であるが、本当にそうか。そして本当の自分なるものがあるという 考え方が間違いのもとではないか、というのがこの本の問題意識である。平野は、人間は分けること が可能な存在であり、人間は対人関係ごとに複数の顔を持っており、一人の人間は複数の分人の ネットワークによって成り立っているという。 そして個性とは、その複数の分人の構成比率によって決定されるというのだ。 ・誰とどうつきあっているかで、分人の構成比率は変化する。その総体が個性となる。 ・自己の変化とは、分人の構成比率を変えるしかない。それはつきあう人間を変えることだ。 ・自分という人間は、複数の分人の同時進行のプロジェクトと考えよう。 ・自分探しの旅とは、欠落している新しい分人を手に入れて、新たな個性を創出しようとする行為だ。 ・私たちは、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている。 ・自分が気に入る分人を少しづつ増やしていくことができれば、自分に肯定的になっていける。 ・片思いとは、お互いの分人の構成比率が、非対称な状態である。 それが許せずに自分向けの分人を大きくしようと、異常な行動にでるのがストーカーだ。 ・分人主義は、人間を個々に分断させず、単位を小さくすることで、きめ細かなつながりを 発見させる思想である。 ・帰属するコミュニティが一つであることがアイデンティティであったが、今後重要なのは 複数の分人を使って複数のコミュニティに参加することだ。むしろ矛盾する複数のコミュイティに 参加することが大事なのだ。個人を複数の分人のネットワークとしてとらえると新しい視界が 開けてくる気もする。分けるというより複数のレイヤー(層)によって重層的に個人が形成されている と考えることもできる。ヨコに分けられているのではなく、タテにつながっているのではないか。≫ ▼ 「わたし」は、わ(我)の最小単位が、たし(足し)で加わって私になっている。だから、 人生を振り返ると、その時々の出会いとか、経験で、分人を増やしている自分が存在する。 創業には、その分人たる主体たる自分が、厳然と、そこに存在している。秘境旅行で、各地に 旅をしている自分も、旅行先に溶け込んでいる分人である。旅行を続けることは、旅先に溶け込んで いる分人を増やす行為である。個性とは、過去の経験の総体の構成比率とは、言いえて妙である。 自己の変化とは、付き合う人間を入替えることだ。それも、森の生活のうちである。 ・・・・・・ 2007年08月31日(金) 2341, 「私」とは何か? 〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●) 「狂人三歩手前」−中島 義道 (著) −読書日記 ー「私」とは何か?ー 「私」について、その構造について、過ってこの読書日記で書いたことがある。成る程と合点が いったが・・ 常に考える時、「私」は何々・・と一日、数百回も自問自答しているのに、その「私」とは 何ぞや?と考えたことがない。それを知っていると、いないとでは、思考の根本が違ってくる。 ー「私」が無になることーのコーナーの「私」についての説明が解りやすい。 ある哲学書で「私」についての説明があった。 {「いま・ここ」の主観を私とは言わない。 土手を歩いていて振り返った時、さっきの橋を歩いていた 主観が「私」として飛び出してくる。云々}と。成る程と思いつつ、解ったようで理解できない モヤモヤが残っていた。過去を振り返った時に「私」が初めて発生するということ?垂直に縦にある 「いま・ここ」の主観は、まだ私になってないということ? ところが彼は、この本の中で、その「私」を み砕いて解りやすく説明をしている。 −p.86 「いま・ここ」に存在するものを「私」だと思い込んでいるのだ。だが、そうであろうか? いま両肩から下に頭部を欠いた独特の身体が広がっているが、なぜこれが「私の」身体なのだろうか? そこに独特の感じがするから? だが、なぜその独特の感じが「私の」感じなのだろうか? こう問いつめていくと、この方向に答えは見いだせないことがわかる。「私」とは知覚とは別の独特の 作用によって端的にとらえられるものではないか? いや、そんな独特の作用など見いだせない。 「私」とは知覚しているときに、同時にそこに感じられるものではないか? いや、胃がきりきり痛い時に それと並んで独特の「私」という感じなどない。そもそも「私」とは作用の対象ではなく、作用の絶対的 主体なのではないのか?多くの哲学者はそう考えた。そして、それを「純粋自我」とか「超越論的統覚」 とか名付けた。だが人間としての「私」がそんな抽象的な発光点のようなものであるはずがない。 あれもこれも否定して、振り出しに戻ったわけである。ここで、別の視点から反省してみるに、 「私」とははじめから異なった時間における同一なものと了解されている。「私」とは過去のあの時も 同一の「私であった」者である。しかも、その同一性は二つの対象を見比べて判定するのではなく、 現在の側から一方的に過去のあの者を「私であった」者と判定するのである。 「私」は、過去と現在との関係において登場してくるのだから、現在の世界を隈なく探しても 見いだせないのは当然。過去自体はすでに消えている。過去の記憶だけが残っている。 現在の知覚される世界ではなく、過去の想起される世界を探究することによってはじめて 「私」は身を現わす。ここにきわめて重要なことは、過去のあの時に私が不在であっても 「私」の同一性は保たれるということだ。夢の場合で考えてみよう。夢を見ているあいだ「私」は 自覚されていない。「私」は、夢から覚め「私は夢を見た」と過去形で語る時にはじめて自覚される。 まさにその時、あれが「私の」夢であったことが忽然と了解され、遡ってあの時「私が」夢を 見ていたことになるのである。夢ばかりではない。この構造は広く普遍化できる。 「私」は仕事に没頭している時や、夢中でボールを追いかけている時や、ぼんやりもの思いに 耽っている時など、いわば消えている。しかし、あとから「私は〜していた」と語れる限り、 その時「私」は存在していたことになるのだ。夢中で小説を読んでいた。 ふと気がつくとあたりが薄暗く、電気をつけてみるともう三時間も経っている。 私は小説の内容を細部に至るまでありありと覚えている。 一体誰が読んでいたのか?ほかならぬこの「私」である。 ーーー 夢を例にした説明が、理解しやすい。夢見ているうちは「私」は成立してない。 じゃあ、夢の中で私は何々、云々といっているのは何だろうか?ただ夢の中で過去のことを 考えただけで何の問題は無いか!まだ夢の中で成立してない純粋何とかいう未成立の?が、 夢の中で成立した「私」として過去からの流れの何かを考えていた! ということになる、ただそれだけだ。 そういえば、また夜半にリアルな夢をみた ・・・・・ 2013年08月31日(土) 550, 51年前の小学校の写真にタイムスリップ 『長岡市の昭和』という写真集の広告の折り込みが、今月だけで二度も朝刊に入っていた。 それも、一枚目は表面トップに実家の商店ビルの写真で、二度目は、裏側に、何故か小学校五年時の クラスの集合写真。出版社に誰か同級生でもいるのかとネットで調べてみたが??7名の小さな 長岡市内の出版会社で、県内だけでなく全国の各市の昭和の街の写真集を出している会社。 団塊の世代以上を狙ったものだが、旧長岡市内の人たちに限定2000冊としても9990円で 売れるのだろうか?その方が心配になる。しかし他は、HPを見ると完売となっていた。 その小・中・高校時のアルバムが、引越しなどで紛失、同級会などで誰かが持ち込んだのを 見るしかなかった。で、51年の時空を超え、このチラシの集合写真を何度か見ているうちに、 当時のことが、次次と思い出してきた。 11〜12歳は、人間としての最終の熾烈な闘いがあって、そこで、ほぼ性格も能力も決まるという。 クラス内の力関係などで、誰かが常にターゲットにされる、あまり気持ちの良くない年頃。そのため 心の傷は深く残るもの。その最たるのが、まあ、書くのは止めておく・・ 自分も似たようなもの だったろう。手取り早く学歴からみると、慶応一人に、立教三人、あとは大学名は不明だが、数名、 卒業しているから、街中の小学校として並みというところ。学校の先生の子弟は新大付属小学校が ある。ここで目立つのは長岡青果市場の社長の息子で慶応と明治の教授をしたが既に故人に なっている人とか、土田塗装とか、何処かの中学校の先生とか、多種多彩。 女性の方は皆目分からないが、少し目立っていた三人が三人とも離婚? 死亡数は男20人中に4人。女性は分からない。 主任は非常に厳しいので有名な西沢先生。その後、多くの小学校校長を歴任し、 最後は何処か教育長をされた人で、定年時に400人が祝いに集まったという。20年近く前に、 私が経営していた新潟駅前ホテルに泊まって、古町を数軒、飲み歩いたことがあった。 せっかくなので、この数日、当時の記憶をたどっているが、51年の時空を超えて嫌な記憶を 中心だが幾らでも出てくる。太平洋戦争と長岡空襲の影響も色濃く残っていて、口に出さなかったが、 戦争孤児とか様々な問題を各家庭が抱えていたようだ。 そうこう振り返ってみると、子供の頃の 記憶から、繁華街で、父親の大きな影響下で、負けん気が強い遊び好きの生意気な子供だった。 今だ続いているが・・ 当時、家庭内で多くの問題があり、母親が倒れてしまい、住居が商業ビル 3Fから、歩いて7分ほどの駅裏に移転していた。その辺りから、やっと学業に目覚め始めてきた。 生活環境は本当に大事である。 ・・・・・・ 2012年08月31日(金 4175, 閑話小題 ー恐ろしい近未来がまっている * 恐ろしい近未来 南海トラフ地震の最悪の死者予測が32万人と政府が発表、マスコミが騒ぎ出したが、 もう一年以上も前から週刊誌で騒がれた記事と同じ内容。政府発表となれば違ってくる。 大手ゼネコンの含み笑いが聞こえてきそうだ。これは太平洋沿岸沿いには住めないということになる。 その地区の住宅地や商業地が暴落というより、ほぼゼロになってしまったことになる。 当事者は、まだピンとこないはず。 千年前の大地震の後に二回、17年内周期で大地震と大津波が 起こっている痕跡があるという。活断層が不自然に捩れていて、何らか次の大地震が起きる可能性が 大きい。決して非現実的予測ではない。これに関東直下型地震の可能性がある。 更に世界恐慌も遅かれ早かれ起こる。いや、すでに起きている? これでは、夢も希望も持てやしない。 この数年来、大卒の正規社員就職率が63パーセントで、三分の二も就職ができてない。 これが恐慌が吹き荒れる前で、この有様。数年先は、こんなものでないはず。 40数年前の私の卒業の時とはえらく違う。金の卵で、会社は選び放題。私の同期の男たちは、 殆どが一部上場の有名企業で、ハッピーリタイアをした。時代は大きく変わった。 * 田中真紀子が民主党党首に立候補 ? 久々に面白い話に驚いた。途中で立ち消えになるかどうか?だが、真紀子様が民主党党首の 候補の可能性が出たという。思わず失笑したが、それほど民主党は困っているということになる。 あの外相時の相応しくない姿を忘れてしまったのか。あの人物から誠意の何も感じられない。 一国を束ねる力量があるとは到底思えない。何が今さらだが立場が野党なら、最適の逸材か。 あの辛辣な口撃は溜まったガス抜きになる。国が衰えると、こうなる。 政治は、何でもありである。 床屋レベルの政治談義からみると、この世界的危機の中での、日本、米国、韓国、中国のトップ 交代による政治変動は非常に興味をそそられる。なるほど2012年問題は危ない要素に満ちている。 安倍自民党総裁、田中真紀子民主党党首、それに安倍に担がれた橋元首相。面白いがどうだろう? それと何時起こるかしれない南海トラフ地震と、関東直下型地震。 それと世界恐慌の可能性がある。20世紀前半に世界恐慌を挟んで二つの世界大戦があった。 このドサクサで一億以上の人たちが犠牲になった。それより大きな変動が、始まってしまった。 これから壮大なシネマのような世界が展開される。 ・・・・・・ 3810, 世の中の商売、すべからく代理・代行 2011年08月31日(水) 旅行代理店、保険代理店、会計事務所などのサービス業があるが、すべからく世の多くは 代理サービスの変形。家電商品も、その多くの製品は代理システム品。洗濯機、炊飯器、扇風機、 暖房機も、人間の労働の代理品である。20年前に「一世代前の人が、現在の生活をするには 200人の従者を必要とする」と聞いたことがあった。現在では数万人でも無理だろう。 車は馬車の代行であり、カメラは専属カメラマンの代行。 夕食の宅配は、主婦の仕事の 一部代行である。旅行代理店のパック・ツアー。その大ファンにとって、その恩恵は大きい。 アフリカのタンザニアや、ケニアのヌーの河渡りなど素人では絶対に無理だが、ツアーに参加 すれば誰にでも気楽にいける。スナックや、居酒屋も家庭内で満たされない料理や、お愛想、 気などの代行である。 この事業整理の一連も、弁護士事務所が会社が300万プラス個人が 50万、合計350万で、一括業務?委託。 一連の委託契約をすると、全ては弁護士の管理下に 入り、良くいえば債権者から守られる。逆に、一切の社会的信用はゼロ、前科者に近い後ろ指、 陰口の絶好の対象になる。また、最近通いだしたスポーツジムも、各種のエアロビがあり、運動の 指導をパッケージにしてある。それに従っていれば体質改善が合理的に出来る。その指導を多くの 会員を集めることで、パックにして、場の提供をしている。これも各自で行っていた個別運動の パッケージ化。 ところで、これまでの蔵書ベストの100〜200冊をデジタル化して、iPadに気楽に入れられたら、 よいだろうにと思っていたら、一万冊を入力してiPadに入れて持ち歩いているという人の本があった。 それは面倒と思っていたら、一冊100円で入力をしてくれるサービスがあった。とりあえず100冊を? と考えているが・・。 また、アマゾンに注文した本を、そのまま業者に本が直送し、スキャン してくれるサービス業者もあるという。デジタル本が、まだまだ普及してない中、これは良い 代行システムになる。情報化とデジタル化の時代、代理・代行システムは重要なキーワードになる。 それにしても、面白い時代である。各種代理システムをiPadを端末として、 如何に使いこなせるかが、これからのポイントのようだ。 ・・・・・・・ 2010年08月31日(火) 3445・秘・異郷の旅、よもやま話・・2 *初めての21歳の欧州旅行 ー1
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| 5281,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー④ |
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2015年08月30日(日)
ーその時、言葉は私の「神」となるー (新潮45/6月号) 〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ * 言葉は原罪から生まれた 他人からみた私を意識する「自意識」過剰が果たして罪なのか。 二つの私、「自意識の私」と「自我の私」の両者が頭の中で、常に問答をする。 老齢期では、「私の人生、果たして、これで良かっただろうか?」と。 良かったのだろうか? 人間は生きている限り、原罪を犯すもの。 老いて、その原罪を見つめて悔悟する。知識を持つことは原罪なのか? 知恵を持つことが原罪なのか。他者=世間の目を神のごとく信じるのは、 プラ・マイの両面を持つ。 最後は、自分の自意識で、どう受け止めるか? 死線を漂い、社会復帰をする中で思った心の奥底は深いもの。〜その辺りから ≪ ああ、諸君。「自我の私」として唯我独尊で生きるのと(もちろん、孤独は 感じない。もとより孤独という概念がないからね)、「自意識の私」として 他者と繋がりながら傷つけ合いながら生きるのと、どちらが幸福なのだろうか? 少なくとも心肺停止前の「自我の私」で生きていた私は、多幸感に満ち満ちて いた、他者のいないたったひとり楽園に住んでいて、寂しさも不安も感じず、 その中でぬくぬくと微笑んでいた。周りの人々から見たら、それは呆けた抜げ殻 であったようだが、本人はそんなことちっとも気にかけず、ふわふわと漂い 幸せに生ぎていた。・・心肺停止の後に生ぎ返って、目覚めた私は自意識も取り 戻していた。肉体が回復すればするほど、自意識も回復し、他者との関係に 悩まされるようになった。特に例のMXTVの降板以降は、人と会うのが嫌になって 完壁に引きこもった。社会に拒絶された気分になってひどい孤独感に苛まれ、 誰にも必要とされない自分にはもはや何の価値もないと苦しんだ。 おそらく「自我の私」であったなら、そのような苦しみは味わわなかっただろう。 「孤独」も「自分の価値」も、他者との比較や承認から生じる相対的な概念である。 他者を通して自己を確認するから、他者から拒絶されることが自分の存在まで 脅かすのだ。自己の存在の絶対性を疑いもしない「自我の私」は、仕事を失って 経済的な不安を感じることはあっても、それを己の存在意義の問題とは捉えまい。 そうやって考えると、我々の苦しみの原因は、ほぼ「自意識」に起因している ように思える。 我々は「自意識」を持つべきではなかったのか。エデンの園で 幸福に暮らしていたイヴに蛇が勧めた「知恵の実」は、やはり禁断の木の実で あったのか。「自意識」を持つことで我々は他者の目に裁かれ続け、他者に 見捨てられる不安に怯え、大きな苦しみを背負うこととなった。だから聖書は それを「原罪」と呼んだのか。「自意識」は「罪」であったのか。 犬や猫は鏡に映った自分の姿を「私」だと認識しない。鳥にいたっては、鏡の中の 自分に向かって求愛のダンスを踊るらしい。彼らには己を客体視する能力がない。 彼らにとっての「私」は、ほぼ百%「自我の私」である。彼らは幸せなのだろうか。 他者にとっての客体ではなく、「私」という主体としてのみ生きていくことは、 どんな苦しみも生じさせないのだろうか。いや、待て。「苦しみがない」ことを 「幸せ」と考えていいのだろうか? 苦しみば確かに幸福感とは程運いものでは あるが、我々は「甘美な苦しみの自意識」というものも知っているではないか。≫ ▼「起こってしまったことは変えられなくとも、受止めかたは変えられる」と いうが、これも、「自意識の私」を「自我の私」への変換ということ。 「他者を通した自己の確認」を超越して、己の原罪を見つめることが必要である。 そこまで自分を追詰めないと、内なる二つの問答が、蒟蒻問答になる。 ・・・・・・ 2704、共同幻想を抱いていただけ? 2008年08月30日(土) 松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」である。 一万年前に農耕牧畜を始めて、「人間圏」を作り上げてきた。そして右肩上がり 人間圏の拡大が共同幻想だったことを、人類は宇宙に出て地球を俯瞰して初めて 知った。資源が有限であり、農耕以来、環境破壊を続けてきたことも、これ以上 の人間の欲望を拡大できないことも知った。 ー著者の松井孝典は、次のように人間圏の危機を述べている。 ≪ 欲望のカタチは所有であり、人間は地球という大地を「所有」すると、 錯覚していたのである。これが人類の「共同幻想」というのである。 共同幻想は、これだけでなく、貨幣は未来永劫に交換可能とか、神様の存在とか、 人間の命は地球より重いとか、民主主義、市場主義経済とか、自由平等とか、 人間を規定する概念すべてといってよい。21世紀の人間圏にとって、その崩壊 の引き金になる最も高いシナリオは、これらの共同幻想が多くの人に幻想と認識 されたときである。 その一つがインターネット。インターネット社会は、 個々人を主体化し、情報が個人に拡散する。 情報が拡散するということは、 社会が均質化していくことになるが、共同幻想という面で理想的かも しれないが、宇宙からの視点から見れば、人間圏のビッグバンになる。 それは秩序も構造も、情報もあってない、混沌とした社会になる。》 そこで、共同幻想とは何かを知るためにネットで調べてみた。 ー以下は共同幻想についてのウィキペディアのコピーであるー 共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。 日本の思想家である吉本隆明が用い、有名になった言葉。吉本は、自分の 共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、ただ手垢が ついているから使いたくなかったと述べている。 吉本隆明は、著書 「共同幻想論」で人間関係は3種類に分類されると提唱。 ▼ 自己幻想 = 個人と個人の関係。 ー芸術がこれに当たる。 他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。 ▼ 対幻想 = 個人と他者とのプライベートな関係。 〜家族・友人・恋人がこれに当たる。 ▼ 共同幻想 = 個人と他者との公的な関係。 ?国家・法律・企業・組合が これに当たる。宗教は、個人の内面に収まっている限りは自己幻想に当たるが、 教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想に当たる。 この分類は効果的であり、 世界を正しく見るうえでこの3つの幻想領域を混乱、混同させないことが大事 であると主張する。これらはそれぞれ独自の法則で動いているのである。 例えば、吉本は心理学者のフロイトはリビドーと言う対幻想性を、社会領域まで 無条件に拡大して採用しようとしたところに誤りがあると批判する。 また、1人の人間もこの3つの領域でそれぞれ違う顔を持っている。 * 職場にいる顔と、* 家庭にいる顔、* 1人でいるときの顔や行動は、 それぞれ違うのである。外弁慶、内弁慶という言葉があるように、冷酷な 独裁者や軍人が家庭内では優しいよき父親であったり、逆に職場では物静かな 男が家庭内では暴力的な暴君として振舞うなどということは、充分ありえる。 吉本隆明は、共同幻想の世界では、個人が幽霊としてしか存在できないと主張。 例えば、「今は企業の危機だから、粉骨砕身働け」との企業幹部の檄は、 労働力を売りに来ているに過ぎない個人としての労働者の立場と矛盾する。 〜〜〜 以上だが、 松井孝典の二冊の本は、大きな衝撃であった。 地球学という視点で、自分を振り返ると、大いなる共同幻想の中で蠢いていた 小さな生命でしかないことだ。 太陽の惑星の一つの地球、その大気圏の中の、 物質圏の、生物圏の、人間圏の、極東圏?の中の小さな島国の、北陸圏の、 新潟圏の中の、何でしかない私。地球の外から俯瞰すれば、そういうことである。 そして共同幻想を何の疑問を持たないで抱いていた存在である自分を振り返り、 「何?何だったのか?」と根こそぎ、人生観がぐらついている。 恐らく身近に死を感じ取った時に、直感的に感じる恐怖心の向こうに見える 宇宙的な俯瞰の視線は、織田信長が舞ったという敦盛の「人生50年、下天の 内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」 を彷彿させる。
・・・・・・ 4916,一度、死んでみましたが 2014年08月30日(土) 『一度、死んでみましたが』神足 裕司著 * 重介護5のスーパー闘病記 平々凡々の日々を当たり前のように過ごしているが、実は、これが最上で あることに気づくのは、失ってから! あと一年余りで、平均すると同年齢 の男の過半数は介護生活、5年後には寝たきりに、10年は死んでしまう。 TVや、西原の漫画に度たび出ていた神足裕司を、この数年見かけなかった。 実は三年前にくも膜下出血で倒れ、重介護度5でリハビリ生活の中、 去年12月に、不自由なベッドで書いた『一度、死んでみましたが』という スーパー闘病エッセーを出していた。コラムニスト復帰の第一弾の本を、 偶然、図書館で見つけ、借りてきた。脳の大手術で、現在も殆ど動くことが できず、寝たきり。ここで、介護、寝たきりとか、言っているが、この書を 読むと、さほど遠くない未来に似たような事態になる可能性が十分にある。 50歳半ばから還暦辺りにかけて、友人、知人が次々と、半身不随になったり、 癌で死んでいるが、どれもこれも、最期は壮絶な状態。これは、その実況 中継のような闘病エッセーで、ベッドの中の苦闘が、そのまま伝わってくる。 本の題名が『スーパー闘病エッセー! 一度、死んで見ましたが』 HONZ http://honz.jp/36901 の書評が、要点の7〜8割は押さえている。 「その時から、それまで生きてきた一生分を生きることになる」と言うが、 そう信じさせられる内容。 ーアマゾンのレビューの、息子のレビューより ≪ はじめに、家族という立場にあるものからのレビューであることをお許し いただきたい。本が手元に届いてからも、私はなかなか本を開く気に なれなかった。怖かったのだ。父の、つまりはこの本の筆者の状態はもちろん 百%ではない。ページを繰っていけば、彼がこれまで積み上げてきたものが、 私の前に立ちはだかる者としての彼が、崩れ去ってしまうのではないか、 そんな恐れを抱いていた。杞憂だった。そこにあったのは、私にはとても 紡ぎ出せない「凄み」のある言葉の数々。いや、もしかしたらこれは、 以前の筆者にも書けなかったのかもしれない。薀蓄をちりばめ、変幻自在の 修飾語を用いながら、ページを埋め尽くすのが豊穣な表現だとするならば、 この本はそれには当たらないかもしれない。むしろ、そのような表現は 全てが余白へと沈み、筆者にとっての瞬間の全てがこめられている。 少なくとも筆者の生きる「世界」において、その瞬間、それ以外の表現は あり得なかったのだろう。切り詰められた音の数。他の人が弾いたら、 ミスタッチだと思われかねないフレーズ。彼の憧れたジャズピアニストを 思い出す、なんていったら笑われるだろうか。 ・・ 病気は誰にでも訪れうることだ。「病気」とはなんなのか、「家族」 とは「友人」とは、そして「生きること」とは何か。誰しも考えたことのある テーマについて、文章を書いているその瞬間の筆者にとっての虚飾のない、 研ぎ澄まされた言葉が胸に迫ってくる。深刻なテーマに思われながら、 どこかにおかしみを含んでいるのは筆者のコラムニスト魂だろうか。 くも膜下出血、高次脳機能障害の患者・家族の方はもちろん、今立ち 止まって「これから」について考えたい方には、ぜひお勧めしたい一冊です。≫ ▼ こうなるか、癌で壮絶死をむかえるか、今の私に出来ることは、日々を 味わうしかない。どのみち、少し早いか遅いだけ。それでも奥さんが優しい 人のようだが・・ 本人は、このスーパー闘病記を、自分の愛読者に読んで もらうことが、慰めのようだ。私のエッセイ『事業人生を決心して・・』 の続編として「その後、脳溢血で倒れてと、この事態になった」と 吾が身に例えて読むと、他人事でない内容である。 ・・・・・・ 4549, 六韜三略 2013年08月30日(金) 学生時代に、守屋 洋著『六韜三略』と海音寺潮五郎著『孫子』を読んだ時 の面白さと驚きは今でも憶えている。純朴で、欲と欲の争いに立たされる前の 学生時代に読んでいたため、社会に出てから丁度良い手引き書になっていた。 この思想を通して人間をみると、その心底が透き通って見えるようで、 世俗が幼稚に思えてくる。 ー当時の感想はー 《人間は欲で動いているが、それを隠して綺麗ごとを並びたてる社会的動物。 それを前提に一切を無にして諸現象を一度、疑ってみること。そして冷静に 本質を捉えること。利害対立の場に立った場合は、よりシリアスに徹すべし》。 そう割り切ると、誠意の外面の奧に隠された心底が手に取るように見て取れた。 これに学生時代のゼミの(現象の)事例研究が叩き込まれていれば、アウト サイダーになるのは自然。人生に戦略的である必要性を、この書で実感。 人生への鳥瞰の視線でもある。 ーネットで、『六韜三略』を検索するとー 《「六韜」は文韜、武韜、竜韜、虎韜、豹韜、犬韜の六篇からなることによる。 「韜」は弓袋( 秘訣)。「略」は機略の意味。「三略」は、上略、中略、 下略の三篇からなることによる。 二つとも「太公望の兵法」であるから、 主張を統一して判断すべしというスタンス。もう一 つは内容である。 『六韜』が兵法のうち戦略・謀略を担っているのに対し、『三略』が政治思想、 軍事思想を担っている。『三略』はリーダー、『六韜』はマネージャー の書 ..》 《 劉邦の軍師となって漢の国の柱石となる張良が、若い頃、行きずりの老人 から「明朝5時、ここに来い」と命じられた。言われたとおりその場所に 行くと老人はもう来ていて、「年寄りを待たせおって。また明日だ」と言って 去った。 翌朝、今度は3時に行ってみると、また老人は待っていて 「まだまだだ」と同じように去る。 張良は意地になって「今度は絶対に 待たせない」と徹夜して老人を待った。すると老人はニコニコと笑って六冊の 書物を渡し、「よく勉強して世のためになれ」と肩を叩いた。 『六韜』は「虎」「竜」を始めとした六巻の兵法書で、「虎の巻」の語源。 『三略』は、前・中・後の三巻からなる兵法書で、『六韜三略』は 中国はもちろん日本の戦国大名の兵法書としても親しまれた。》 《 中国の兵書、六韜と三略の2書。前者は太公望呂尚、後者は黄石公の 撰述と伝え、併称して韜略の書という。 いずれも後世の偽書であるが、 宋代、『武経七書』のうちに組み入れられ、中国古兵法の教科書として広く 読まれてきた。・六韜は周の文王・武王の問いに対し、呂尚が経世済民の術、 富国強兵の策を説くもの 》 ▼ これを参考に黙し対処したら、これほど難しい相手はいない・・ この書を通すと、面白いように物事が透けてくる。心静かに、これを読み 続ければ、その中の原理原則が己を導いてくれる・・ 学生時代に、 この二書を読んでいたので、いざこざの真只中で、対峙した人の言葉を一度、 突き放し、疑い、静かに自問自答する余裕が出来ていた。問題は、その都度 「正中心一点無の心境で道理は何かを考える」しか解決は出来ない。 ・・・・・・ 4174, 閑話小題 ー電機メーカーの苦境 2012年08月30日(木) * 電機メーカーの苦境 日本の電機各社が苦境に陥っていると、マスコミを騒ぎ出している。 この原因が、あのエコポイント。電機メーカーにとって、神風になり大きな 利益を確保したが、その間に韓国などのメーカーが主力商品に力をつけ日本が 太刀打ち出来なくなっていた。数年前まで、薄型TVで勝ち組だったシャープ が死に体で倒産の危機になり、同じく恩恵を受けたソニーとパナソニック、 東芝、日立の各社が数千億の赤字というから尋常ではない。世界に名立たる 日本のブランドが、今や苦境に立っている。耳を疑うが、これが現実である。 現在、同じことが自動車で行われている。 どうしたというのだろうか。 中小企業救済法も今となれば、良かったのか悪かったのか? しかし、産業の 不振は日本に限ったことでない世界的な流れ。スマートフォンとタブレットPC、 この中に、電話、テレビ、パソコン、デジカメ、ビデオ、全ての機能が入って 同じ位の値段なら電子機器が売れなくなるのは当然。日本のメーカーが、 専用機種に目を奪われている間に、マックや韓国メーカーが、ここに集中 していたのである。日本のメーカーは決定的なミスを犯してしまった。 10年前、5年前なら考えられない事態が、目の前に起こっている。 * 地元経済は、ますます悪化 先日、3ヶ月ぶりに自宅に送付されてきた一連の書類を持って弁護事務所に 行き弁護士と30分位、世情話になった。中越地区の景気状況は、来春の 「中小企業特別救済立法」の打ち切りに向けての動きが顕著になっており、 その上に刈羽原発の休止にともない関連の5千人の従業者のうち3千人が、 この秋に整理される。更に小千谷にある大手の工場も雲行きが怪しい。 それらから景気は一段と悪化しているという。一線から退くと生の情報は 殆んど入ってこなくなる。必要がないからもあるが。この9月から12月にかけ、 リーマンショック並みの一大イベントが発生する可能性が大と見ているが、 その前兆の波か、それとも思い過しなのか? 景気は一段と悪化の道を たどっているようだ。 ・・・・・・ 3809, つれづれに 2011年08月30日(火) ▼ 収まる所に収まった民主党党首 最後の最後まで、誰が民主党党首に選出されるのか分からないギリギリの選挙。 しかし、海江田と野田の二人の決戦となれば、どちらが相応しいかはTV画面が 正直に語っている。しかし小沢一郎と鳩山が後盾の海江田が勝つのではと予測 されたが、党員も、その歴然とした差に、野田に雪崩をうっていったようだ (立候補者の一人が最後の最後に野田支持に回ったのが勝因ともいうが)。 その前にも、彼の立候補の政策を聞いたが、至極自然なもので、他が悪すぎた こともあり、一人光っていた。 【 二年前に政権についたが、国民からは期待はずれの結果しか出せなかった。 次の選挙まで残された期間は二年。それまでに捨て身で、この国難とマニフェスト を達成しなくてはならない。大震災の国難を乗り切るためには、 野党との 大連合を考え、かつ党内融和も必要。また赤字の国家財政と、大震災を乗り切る ためには増税もやむをえない】 この当たり前のことを当たり前に述べているに過ぎないが、現在の与野党も 含めて、これをいうと世論受けしないとか何とかのジレンマに陥っていた。 小泉も含めて、この数代の首相の中で、一番真っ当であってほしいものである。 菅首相の直後では、やりやすいだろうが、この日本の政治と経済の惨状下では、 それもどうか?まさか、海江田とか、あれ、ではね。これで当分は、少しは 政治不信は小さくなるだろうが(いつも最初は期待感でそうだが)・・ この国の体質は、この20年で、あまりに劣化した。 ▼ あれから5ヶ月 あれから5ヶ月になる。 事業期間三十年のうち、初めの10年が登り。 次の10年間はバブル崩壊の日本経済の混乱の最中、逆に積極策に出て客室を 増やした(これが、今回の倒産の間接原因になる)。最後の10年の始まりが 9・11で、二度の中越大地震、三年前のリーマンショックの直撃、とどめが 半年前の東北大地震。その中で一番の打撃が、リーマンショック。 この影響は、まだまだ序盤で本格的津波=大恐慌は、この秋口からアメリカから 世界、そして日本に吹き荒れること必定。この二十年、日本の政治は混乱を極め 国家の態をなさないほど疲弊してした。それと比例して、この今回の倒産。 (字数制限のためカット 2015年8月30日)
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| 5280,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー③ |
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2015年08月29日(土)
ーその時、言葉は私の「神」となるー 中村うさぎ 〜心肺停止になって考えたこと!(新潮45/6月号) * 二種類の私と、純粋な自我 死に際を経験すると、傍目に縛られすぎてきた自分に気づかされる。 そして、裸の己を直視し、それを言語化し、それに従うことが、自分の真実を 生きることと、著者は悟る。 死線を漂うと、虚無の彼方から、宇宙の向こう 側から、小さな世界に縛られている自分を客体化する視線を持つ。 その実体験から得た、重層の心の構造を、醒めたタッチで解体する。 ≪ 心肺停止の数日前に私は別人格になっていたらしい、という話を以前に 書いたと思う。 ・・誇大妄想的な発言を真顔でしてみたり、「魂が抜けて 言葉だけ残った空っぽの中村」になっていた。あの時の私はいったい何者だった のだろう、と今でも時々考える。あの頃の私は別人になっていたわけではなく、 自意識とかいうものを一切失い、純粋な「自我」のみになっていたのでは。 私が「私」と言う時、そこには二種類の「私」が混在しているように思う。 ・ひとつは「他者から視られている私」という「客体としての私」で、 ・もうひとつはデカルト言うところの「我思う、ゆえに我あり」的な 「主体としての私」である。 「客体としての私」は「自意識」に支配されており、 「主体としての私」は「自我」そのものだ。たとえぼ「世界を救う」などと いった壮大にして荒唐無稽な使命感を私が意識の底に抱えていたとしても、 それが他者の目にどんなに愚しく狂気じみて映るかを知っている「自意識の私」 は決して人前でそのような発言をしないし、何とか己の意識下に無理やり、 その人格を封印してしまうだろう。だが当時の私は、そのような他者の視点で 己を視るというスキルが崩壊していて、頭に浮かんだことを自意識の検閲なしに ぺらぺらと喋っていたのだった。まさに「我思う、ゆえに我あり」だ。 私が思考し、私が語るから、私は「私」の存在を実感する、という感覚。 そこに他者は介在しない。他者を通して自己確認することもない。 私という主体を中心に世界は存在し、自分の存在価値など問う必要もない。 「価値」などという相対的な概念が最初からないのだ。なんと単純明快な 世界だろう。アダムとイヴが他者の目を気にして己を恥じたり隠し立てしたり することもなく、素っ裸で歩いていた「エデンの園」そのものではないか。 「自我の私」のみで生きるということは「エデンの園」に戻るということである。 他者の評価に怯えることもなく、己の存在価値だのに悩まされることもなく、 獣のように天衣無縫に生きられる楽園の生活。が、その代わり、社会性は著しく 失われる。自意識が高度に発達した現代社会で、このような人間は生ていけない。 生きていくことを許されない。 ≫ ▼ 先日、一番上の義兄の葬式に参列した。地元の名士?の中で、精一杯、 背伸びをして生きた人だった。表面的な人付き合いに生きるのも、それは それで、一つの生き方である。それぞれにとって、中味は別として、それが 全世界である。ただ、自意識に支配されている、「客体として私」を、 「主体としての私」が、見つめ、「自意識過剰」を「自我」がコントロール する基盤が必要となる。それが教養である。「独り」を「独り」で楽しめる 素養は、家系を含めた長年の蓄積が必要となる。城下町は、それは有り余って いる筈だが、変化を嫌う体質が、「独り」の世界を小さく変質させてしまう。 ・・・・・・ 4915,閑話小題 ー宝塚歌劇団「ブスの25か条」 2014年08月29日(金) 宝塚歌劇団には「ブスの25か条」なる教訓が舞台裏に貼ってあるという。 右側の⇒は、私が真逆にした「美人の25か条」。 これはスターの内的要素の骨格である。 「ブスの25か条」 「美人の25か条」 1.笑顔がない ⇒ 常に笑顔で 2.お礼を言わない ⇒ 前回のお礼の挨拶から 3.美味しいと言わない ⇒ 美味しい、嬉しい、楽しい、幸せを口癖に 4.精気がない ⇒ 精気を満たす 5.自信がない ⇒ 自信を持てる何かを持つ 6.愚痴をこぼす ⇒ 愚痴は言わない 7.希望や信念がない ⇒ 希望と信念を持つ 8.いつも周囲が悪いと思っている ⇒ 周囲のお陰様に気づく 9.自分がブスであることを知らない ⇒ 自分の程度をわきまえる 10.声が小さくイジケている ⇒ 声が大きく溌剌としている 11.なんでもないことに傷つく ⇒ 何ごともケセラセラと楽天に 12.他人に嫉妬する ⇒ 他人の美点を凝視する 13.目が輝いていない ⇒ 何ごとにも興味をもつ 14.いつも口がへの字の形をしている ⇒ 笑顔を心がけて、口元を上げる 15.責任転嫁がうまい ⇒ 元は此方、そのまま結構の心がけ 16.他人をうらやむ ⇒ 人を賛美する 17.悲観的に物事を考える ⇒ 楽観的に、そのためには教養を 18.問題意識を持っていない ⇒ 常に問題意識を持つことを心掛ける 19.他人に尽くさない ⇒ 人の役にたつ生き方を 20.他人を信じない ⇒ 信じられるだけの知識を持つ 21.人生においても仕事においても意欲がない ⇒ 積極一貫の心かけ 22.謙虚さがなく傲慢である ⇒ 謙虚に、注意を常にもつ 23.アドバイスや忠告を受け入れない⇒アドバイス、忠告を聞き、受け入れる 24.自分が最も正しいと信じ込んでいる ⇒ 唯我独尊の人から学ぶこと 25.存在自体が周囲を暗くする ⇒ 光り輝くよう、自分を磨き続けること ▼ 老いるとは、人間としてブスになっていくプロセス? 無知で我ままなら、 誰もがブスの要素が多くなる。とすると、これは戒老録にもなる。タカラ ジェンヌが光り輝いて見えるのは、内側からの輝きを心掛けるため。物理的 貧困と精神的貧困は「貧すれば鈍す」で、『ブス』になりがちになる。 それと無知!これを常に自覚していないと、左側の要素が増えていく。 タカラジェンヌのミニスターを、まず彼女たちは演じることから始まる。 そして大スターの道をめざし、日々、努力をする。 幸せへの道しるべ!である。 ・・・・・・ 4548, 2050年の世界 ー1 2013年08月29日(木) 「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 英『エコノミスト』編集部 (著) * 2050年までを見通すことで現在を理解できる 何気なく図書館の返却コーナーで手にとった本だが、英『エコノミスト』 誌の各ジャーナリストが20の分野で予測。これが面白いが限界も見て取れる。 この激動の時代に、40年先の予測など所詮は無理な分野もあるが、人口趨勢 など予測可能な分野もある。だから面白い。 5〜10年先を予測したければ、40年先を考えてみればよい。 ーアマゾンの内容説明ー 〈 2050年日本のGNPは韓国の半分になる。 グローバルな一流誌英エコノミスト誌が、総力をあげ、科学、政治、人口、 経済、女性、などの20の分野で2050年までの世界を予想 〉 まずは‘はじめにー「2050年までを見通すことで現在を理解できる」’の冒頭 ≪ 世界人口が10億人になったのは、18OO年ごろのことだが、それまでに 人類は20数万年の歳月を費やしている。ところが、 60億人から2011年の 70億人に違するまで要した時間はわずか10数年。このような変化に驚くほどの 速さで展開する大規模な変化は―メガチェンジーと呼ぷにふさわしいもの。 実際、わたしたちはメガチェンジに囲まれている。技術は信じられないほどの スピードで拡散しており、ネットや携帯電話の進歩は言うに及ばず、現在では コンピューターから大量の情報を入手したり、フェイスプックやツイッター などのソーシャル・ネットワークを通じて、大量情報を受信したり、発信する ことが可能である。また、世界経済は私たちの目の前で着々とアジアへ 重心を移している。このような変化はどれも、人々の生活と、企業の戦略と、 国家の政策と、地球の将来展望に深遠な影響を与える。 ー本書は2の重要な目的を持っているー ☆ 第一の目的は、人々の健康から財産まで、あらゆる側面から世界を変革 するトレンドを特定し探求することだ。本書では、身の周りの話題をひとつ ひとつ論じてみたい。この手法を採用すれば、わたしたちは、ヘリコプター から地上を見下ろすように、俯瞰図を掌握することができるだろう。 ☆ 第二の目的は、第一の目的で確認したトレンドにより、2050年の世界が どのように形作られるかを予測することだ。一見すると、これは非常識なほど 大きな野望かもしれない。 ダン・ガードナーが自著「専門家の予測はサル にも劣る」で論じた、人類の歴史には百パーセントデタラメな予言が のらべられている。1914年、英国人ジャーナリストのブレールスフォードは、 「近代国家間の国境の線引きが最終決定されたことは、政治的にはこれ以上 ないというほど確実である。私見を述べると、今後、既存の六大国間で戦争は 勃発しないだろう」と記した。第一次世界大戦が始まったのはその直後。 米国経済学者のフィッシヤーが「わたしの予想では、これから数カ月の間に株式 市場は大幅に上昇する」と予言したのも、1929年の株価大暴落が起きる1週間前。 果たして人間が未来を知ることは可能なのか? あすの天気を予想するのさえ 難かしいのに40年後の世界をどうして描き出せるのか? おそらくこの四十年の あいだに、わたしたちはブラック・スワンの詳れを絶えず目撃させられるはず だとはいえ、未来を予測してみる価値はある。奇妙だが、2050年を予測する ことは、来週や来年を予想することよりも簡単。実際、ナシム・タレブも 一世代以上先の予測を好んでいる。 長い年月で「今日において脆弱な ものが壊れて消える」からだ。》 ▼ 次回から、めぼしい部分を抜粋しながら考えてみる。40年前といえば、 文化大革命が終盤を迎えていた頃。そこで、現在の中国を予測できたか? その十数年後にソ連の崩壊、東欧の共産圏の消滅。日本のバブルと崩壊。 その10年後の9・11テロ、7年後のリーマンショック、その3年後の東北大震災。 それより、世界中の人々が形態パソコンを持ち、ネットで繋がるとは誰が予測 できただろう。40年後に存在しなくとも、どんな時代か考えるだけで面白い! ・・・・・・ 4173, 木を見る西洋人 森を見る東洋人 ー2 2012年08月29日(水) * 二つの違った未来観 ! 「木を見る西洋人 森を見る東洋人」 ニスベッド著 ー西洋と東洋の認知の違いはなくなるかー フクヤマとハンチントンの二人の政治学者の未来観こそ、西洋と東洋の違い。 20世紀に入ってから、哲学が、決して西洋が文明的に優れているのではない という構造主義の考え方が主流になってきている。しかし時代は木も森も、 そして、地球環境も同時に見ていかなければならない時代になってきている。 3・11震災がもたらした原発事故が、それを我々に突きつけた。この対立は、 避けることは出来ないが、何とか、それを抱えて未来に向うしかない。 ー まずは、その部分から ≪ 今、二つの非常に異なった未来観が、多くの領域の社会科学者たちの間で 戦わされている。ひとつは政治学者のフランシス・フクヤマが唱えた未来観で、 世界の政治経済システムが一極に収束し、それに伴って価値も一極化していく ことを予測するもの。もうひとつは今後とも多極化が続くことを予測するもの。 フクヤマは著書『歴史の終わり』で、資本主義と民主主義が勝利をおさめた今、 面白い出来事を生み出すような切迫した力はもはや存在しないと述べている。 片や政治学者のサミュエル・ハンチントンは、世の中が今度とも多極化を 続けると予測している。社会が収束に向かうというフクヤマの視点とは大きく 異なり、ハンチントンは世界が『文明の衝突』を迎えようとしていると断言。 東アジア、イスラム、西洋といった主要な文化集団における価値観や世界観の 違いは調整不可能であり、したがって対立は避けられない。 「民族の対立と文明の衝突が生じつつある中にあって、西洋文化の普遍性を 信じる西洋人たちの信念には、3つの問題点がある。その信念が誤りだという こと、道徳に反するということ、そして危険だということである」 言うまでもなく、経済や政府のかたちがどこでもみな同じならば、 人の心の中はどこへ行っても同じだろう。逆に、文明の衝突が避けられない ならば、思考の習慣は多極化を続けるだろう。 ・・ フクヤマの未来観は、多くの西洋人、特にアメリカ人の視点を代弁している。 アメリカ人は、誰もが根はアメリカ人か、そうでなければ、これからアメリカ人 になると思っている。・・今やどの国の人たちも、ジーンズとTシャツを着て、 ナイキの靴を履き、コーラを飲み、アメリカ音楽を聴いて、アメリカ映画と TVを見ている。 逆にハンチントンによれば、世界の文化が西洋の文化に同化し つつあるという考えは、近視眼的かつ自民族中心主義な発想にもとずく幻想。 社会は互いに違っており、今後の国際紛争は、過去に見られた経済的あるいは 政治的な対立よりむしろ、文化的対立を発端にしていると考えられる。・・・≫ ▼「東洋と西洋の混血が現時点の日本」と仮説を立てると、日本の混乱が見える。 和魂洋才という言葉が、それをあらわしている。情報化の進展で世界がグローバル 化された現在、決して否定出来ないこと。要は和魂を常に意識すべき。これは日本 だけでない。トルコがイスラム教国に関わらず欧州よりの国家体制を作っている。 矛盾があっても乗り越えてである。いずれにしても、あらゆる人種をかかた世界が ネットで情報が共有された現実がある。それゆえの混乱は激しくなるのは当然。 ・・・・・・ 3808, 哲学人 ー⑧ 2011年08月29日(月) ● 社会主義〜 妄想的理想社会への逃避 ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 残念ながら、学生時代から社会主義・共産主義に対して本能的に、その虚偽を 見抜いていたつもりだった。それも、思いこみでしかない。しかし経済も社会も、 国家単位の計画で成立するはずがない。 「経済は個々の競争原理の弱肉強食の戦いの中から優勝劣敗で進化する。 その歪を国家がコントロールすべきで、役人がたてた計画経済で、ことが上手く 進むなどありえない」という単純な考えから抜け出れなかったのが本当だったが。 ここで、マギーは、学生時代に「資本論」に大きな影響をうけたと述べている。 人生で夢中になった一ダースに満たない本の一冊に「資本論」を上げている。 しかし、社会主義国家が本当に成立するかどうか、疑問を持ったと、述べる。 【 * ー 資本論を、二週間ひたすら読む ー 二学年めの復活祭の休暇中、私はオックスフォードに見つけた下宿屋にこもり、 二週間は朝も昼も晩もひたすら 『資本論』を読みつづけた。じっくりと読み進め、書いてある内容について考え たくなったら、いつでも本を置いて好きなだけ黙想し、散歩をしながら重要な 一節について思索したり、夜にはべッドのなかでもこの書物について思いを めぐらせたりする。そんなふうに夢中になった本はそれが初めてだったし、 生涯を通じてもその数は一ダースに満たない。 プラトンの『対話編』、『新約聖書』、ヒュームの『人性論』、カントの 『純粋理性批判』、ショーペンハウワーの『意志と表象としての世界』、 『ウパニシャッド』、力ール・ポパーの『開かれた社会とその敵』、 アインシュタインの『一般相対性理論』ぐらいだろう。こういった本が私を 変えてくれた。これはつまり、こうした書物に感化された考え方をするほど 夢中になったということであり、もし読んでいなかったとしたら、いまのような 人間になっていたとは思えないということである。誰であれ、そんなふうに 言える本はめったにあるものではない。 私の場合、戯曲家、で同じことが あてはまるのは、少なめに見積もるとシェイクスピアひとり、作曲家は七、八人 といったところだろう。もちろん、読書や観劇や音楽鑑賞の蓄積が、その人の 考え方や人格にじわじわと影響を及ぽし、自覚できる変化を自我に生じさせた 張本人と特定できる作家は、少数である。ここに挙げた書物の半分はドイツ語圏 の作家によるものだが、この事実(作曲家の大半もその地域の出身であり、 時代も同じであるという事実を加えてもいいのは、私の精神生活がどんなもので あるかを示唆している。『資本論』の大半を占めているのは、英国の産業革命の 歴史である。にもかかわらず、私の考え方はマルクスに多大な影響を受けている。 その影響は、彼の著作を吟味するにつれて薄れていったけれども、けっして 消えはしない。私はそうなることを望まないし、マルクスの提示する洞察には 不変の価値があると思っている。彼は偉大な作家であり、大人物でもある。 その怒りと裁断は厳しすぎ、エホバめいたところがあるとしても、である。 『資本論』は退屈でわかりにくい大冊だなどという考えがどうして出てくるのか。 私には、その厚さにうんざりした人たちがこしらえた、読まないための口実と しか思えない。『資本論』は名著である。 世界史上、指折りの影響力をもつ 書物であるのは確かである。 】 ▼ ソ連の崩壊と、中国の実質、社会主義的計画経済の放棄は、それは理想で あって、現実にはそぐわないことを立証した結果になった。そこに起こった のは、役人の特権化と汚職の氾濫であり、狂った独裁者の誕生であり、国家経済 の疲弊である。熾烈な競争経済の中でしか経済は発展しないことが、数千万の 餓死などの犠牲者を出し証明された。まだ残存は残っているが。 ・・・・・・・ 3443, 最近の昼飯事情 2010年08月29日(日) * まさか昼飯がパン食になるとは! 最近の昼飯は外食から事務所内で駅のベーカリーのパン食に切かえた。 時どき弁当もあるが、どうも冷えた弁当は部屋で食べるにはそぐわない。 レンジでもあれば別なのだろうが。それもインドのナンのようなもので パセリと海老か、唐揚げを包んだものがラップに巻かれている。 若い女性が好みそうなやつで、それだけのコーナーがある。以前は、他に カレーパンなど二個だったが現在では一個にバナナ。この歳になると、味は 美味しく、サッパリして、腹に持たないものを求める。とすると女性向きに つくられたものが丁度良い。30年近くのランチャーも卒業で、お部屋で ヒッソリとパン食。 なれると外食が馬鹿馬鹿しくなる。 駅内にある スーパーの弁当コーナーを見ると、300円弱から400円辺りが中心。 月に3〜4回は買うが、何かイマイチ。駅のベーカリーにイートインの コーナーがあり、コーヒー付きで400円位である。近くのマクドナルドなどと 競合しているが、殆どが女性客。早い時間から客席は半数以上は埋まっている。 最近、長岡駅内にも出展したが山崎パンの直営店という。最近、ほぼ同じものが 地元のスーパーに見かけられるようになった。スーパー原信が、地元の ベーカリーチェーンを買収して、自社店舗内に出店している。土日のどちらか 一日の早朝7時に毎週行って、焼き上がりのパンとコーヒーを飲むのが 楽しみの一つ。昼にパン食に切り替えてから体重が1〜2キロほど痩せたが、 これで20歳半ばの体重に戻った。歳相応になったということか。 それより、ランチを食べに行くのが面倒になったということ。 (字数制限のためカット 2015年8月29日)
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| 5279,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー② |
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2015年08月28日(金)
ーその時、言葉は私の「神」となるー 中村うさぎ著 〜心肺停止になって考えたこと!(新潮45/6月号) * ナルシシズムと自己愛と、自尊心 下の文章の初めの10行は、この数年の私の状況と気持ちそのもの。 状況からみて、人間の弱さを知っているためもあって、うつ病に陥らないため、 毎日の生活習慣を良好に保たなければ、自己愛も、自尊心も地に落ち、粉々に なってしまう。全身全霊で日々を過ごさないと、あのゾンビのような魂の抜け 殻になってしまう事態は、むしろ、ベストである。 なるほど、 女無頼漢作家の言葉だからこそ、説得力がある。〜その辺りから〜 ≪ 読者諸氏は私の文章を読んで「最近の中村は躍起になって自己肯定しようと しているな」と思っていることだろう。そのとおりである。私は今、崩壊した ブライドを必死になって立て直し、なんとか生き続けている。 何しろ「おまえなんかいらない。おまえになんか価値はない」と言い渡されて しまったのだから、私の自己評価は地に堕ち、生きる意味も理由も見失ったのだ。 それでも今後行き続けるためには、なんとか自分の人生の価値を再確認し、 生きる理由を見つけ出さなくてはならない。「私は生きてていいのだ」と自分 を納得させなくてはならない、そうでなければ私は死の誘惑に負けてしまう。 人はナルシシズムゆえに己を見失うものであるが、自己愛や自尊心といったもの を失っては生きていけない。この「ナルシシズム」「自己愛」「自尊心」の違い については私なりの定義がある。 ・まず「ナルシシズム」の語源は、ご存じのように、ギリシャ神話の美少年 ナルキッソスで、彼は水に映った自分の美しさに恋い焦がれて死んでしまう。 そう、これは「愛」ではなく「恋」なのだ。我と我が身に陶然と惚れ込んで、 正しく自分を見られなくなってしまう。我々が恋人に自分の幻想を投影し、 相手の本当の姿を正しく見られなくなるのとまったく同じ構造である。 ゆえに「ナルシシズム」とは「自分に恋すること」だ、と私は定義ずる。 ・では、「自己愛」とは何か。「ナルシシズム」が「自分に恋する」ことなら、 「自己愛」とは文字どおり「自分を愛する」ことであろう。となると「恋」と 「愛」、の違いが、そのまま「ナルシシズム」と「自己愛」の違いになる。 「恋」が己の幻想に目を眩まされて盲目となる状態であるのに対して、「愛」 はより客観的な視点を持つ。相手の欠点も、きちんと見えていて、そこも含めて 愛するのだ。それは寛大さや公正さを含んでいる。したがって、「愛」は「恋」 よりも利己的ではなく独占支配的でもない。この「恋」と「愛」は非常に混同 されやすい感情である。たとえば「母性愛」の言葉で表現されている感情は、 私に言わせれば必ずしも「愛」ではない。盲目的で排他的な母性愛はもはや 「愛」ではなく「恋」に限りなく近いものであり、「ナルシシズム」の延長 線上に位置するものだと感じる。このように紛らわしく似て非なる存在である 「ナルシシズム」と「自己愛」をきっちりと分けて考えると、おのずと我々に とって必要なものは何であるかが明確になってこよう。 我々はナルシシズムから極力脱却しようと試みる一方で、正当な自己愛を 失わないよう気をつけなくてはならない。自分をしっかりと見つめ、その弱さも 醜さも受け容れて愛すること…それが自己愛のあるべき形であろうと私は思う。 己の弱さや醜さを受け容れられずに目を背けたり美化したり、逆に激しく憎悪 したりするのは、すぺて「自己愛」ではなく「ナルシシズム」の仕業だ。 自分嫌いは自分好きの裏返し、と、私は以前、子ども向けの自著で書いたが、 自分を憎んだり嫌悪したりする気持ちはじつはナルシシズム過多の証なのだ。 理想の自分、幻想の自分に恋するあまり、現実の自分を受け容れられない。 このようなナルシスティックな自分嫌いは、己の価埴を貶める行為であり、 いつまでたっても正当な自己評価には至らな仏のである。 ・次は自尊心について考えてみたい。自尊心とほ、これまた文字どおり、 目分を尊重する気持ち」である。誰かに不当に賠められたりした時に傷つく のは、この「自尊心」だ。「不当に」と言った、のは、それが正当な批判で あれば、自尊心は傷つかないからである。自尊心はナルシシズムではなく、 公正なる自己愛によって裏付けられる。他人「批判されてカーッとなるのは ナルシシズムだ。自己愛は、それが正当な批判でなければ謙虚に受け容れ、 的外れだと感じれば冷静に反論する。ただ、批判ですら根も葉もない誹謗中傷 に関して、それがたいてい陰口という形をとるために反論する機会すら与え られず、自尊心が深く傷つく羽目になる。私はずっとナルシシズムによって 盲目⊂なることを恐れ、その一方で正当な愛を培おうと努力してきた。 それが成切したとはいわないが、少くともその切口の区別は常に意識していた し、拙いながらも己の弱さや醜さと対時し、受け容れようと心がけてきた。≫ ▼ 「ナルシシズム」が、異常に強い女性を身近で見かけるが、それが、 その人を。そして傍の人を、傷をつけていることに気づかない。 「ナルシシズム」は、「自己愛」「自尊心」と似ているため、混合してしまう。 その危険性に、無頓着過ぎることが、大きな悲劇を呼びよせることになる。 ・・・・・・ 4914,閑話小題 ー代々木ゼミナールの7割の校舎が閉鎖 2014年08月28日(木) * 代々木ゼミナの7割の校舎が閉鎖 「代々木ゼミは、三大予備校の1つとして浪人生を中心に多数の生徒を集め、 全国に校舎を展開してきたが、少子化に伴う受験生の減少などで、29の校舎 のうち7割以上に当たる22の校舎を閉鎖する方針を決めた」というニュースが 数日前に一斉に流れたが、 隔世の感がする。 ーネットによるとー 《 ・ピーク時には41万人の予備校生が、今では6万人。近年は大学全入時代 に入り、浪人生の数も減少している。不況が続いた中で家庭でかけられる 教育費が非常に少なくなって、浪人をすることにブレーキがかかっている。 ・大学入学者の浪人生の割合は1985年の約4割から約1割に減少。その上に、 1990年の85%が予備校依率存が、現在では30%まで下落している。 ・1980年代の半ば頃から生徒数が減少,90年代以降,その速度がさらに高まった。 1990年では14万2千人だったのが,2000年には4万9千人に,2011年の2万4千人に 至っている。ピークの1977年を基準とすると,予備校生の数はおよそ10分の1に。 ・大学進学率は1966年に16.1%だったが76年には38.6%、今では50%と大幅に 上昇、受験戦争という言葉も登場するほど大学進学は当り前になり、予備校は 急成長を遂げた。中でも代々木ゼミナール・駿台予備校・河合塾は三大予備校。 ◎河合塾は理系の国公立、◎駿台予備校は特に難関国公立大学、 ◎代々木ゼミナールは私立文系の大学受験を中心に浪人生向けの大学受験指導 をしてきたが、そこに市場の規模が大幅に縮小したことが大きな要因である。》 ▼ 今では私立大学の45%が定員割れ、浪人をする必要が無くなった。 ネット活用で自宅浪人も可能なことや、東進ゼミのような『衛星放送ゼミ』で、 地方各地でも一流講師の授業が聞けるのも大きなマイナス要因である。 私の事業で、売上が3分1に驚いた現象より劇的である。20年前に、新潟に 代ゼミが進出した直後に、新潟予備校が倒産したが、今度は、その代ゼミが 時代の潮流に直撃したことになる。校舎は転用可能のようだが、不動産業として 生き残れるか、どうかである。次にくるのは専門学校の類。崩壊過程が既に 始まっている?・・ グローバル化、情報化による「隠れた大恐慌」が 引き起こしている「中産階級総崩壊」の、一象徴である! ・・・・・・ 4547, 閑話小題 ー海外ツアー48回のフラッシュ 2013年08月28日(水) * 秘異境ツアーからのフラッシュ 突然、思いもよらない過去の記憶が飛び出すことを「フラッシュ」という。 アメリカのTVドラマ『LOST』で、陸の孤島に墜落した登場人物の素性を表現 するのに各人の「フラッシュ」を利用していたが、巧い技法と感心した。 秘異郷ツアーの中では、次次と思いもよらない経験をする。しかし、その都度、 それを解釈をしている余裕がない。それが長い年月を経て、フラッシュとして 記憶の奥底から飛び出てくる。それはツアーだけではないが。還暦を過ぎた頃 から、バイアス(固定観念)が溶けてきたこともある。家内とは40回近くともに 旅行をしてきて、旅先の記憶が共有している。BS/TVなどで毎日のように 行先の何処かが放映されていて、それを録画で夕食時に見ているが、そこで多く の記憶が蘇ってくるため、番組が行き先の追体験になる。出来る時に、出来た ことに感謝している。『秘境旅行ーフラッシュバック』をテーマに書くつもり。 * 消費税の増税の是非 消費税を上げれば、その分、国民にとって実質所得ダウンになる。 それに2%のインフレターゲットとすれば、年金生活者など低所得者に大きな 負担が被ってくる。それも生活消費財から上がるから深刻な問題である。 しかし財政事情からみたら、消費税は上げざるを得ない事態。上げるも地獄、 上げないも地獄なら上げるしかない。現在の年金の収入では、月に10万円持ち 出しだが、今月から家内の年金が数万円アップで持ち出しは少しは減るが。 当初の予定は、敷地内の貸家の家賃収入で収支ゼロの予定だったが、古屋は敬遠 されて、2年間も空家状態。で、この二年半で、大きな買物はiPadを買っただけ。 自転車も、パソコンも、自動車も限界に近づいているが、それでも充分に使える。 家の中は要らないゴミの山。実際のところ、欲しいものは殆どないから不思議。 で、消費税増税の是非の話に戻すと、株式と国債の暴落を待って、一度、根本 から精算するしかないのは、誰の目にも明らか。今の日本では改革の断行は 無理の中、外国へのポーズとしても、増税は99%は、やってくる! ・・・・・・ 4172, 木を見る西洋人 森を見る東洋人 2012年08月28日(火) * 認知科学者は間違っていた? 「木を見る西洋人 森を見る東洋人」ニスベッド著 最近になり「自分が理解していることは、言葉で説明すれば相手は理解して くれているはず!」が、私の思い込みに気づいた。人間は知りうる範囲で理解 しているだけだが、自分が理解している範囲とは違うのである。 「自分が真実と思っていることと、真実は違う」のである。真実と思っても、 思い込みのことがあまりに多い。今まで国や文化や肌の色や宗教によって世界観 が変わっても、人間がものを考えるために用いる道具は同じと誰も疑わなかった。 「ものごとを知覚したり、推論するために用いている道具は同じである。 論理的に正しい文章は、日本語も英語も中国語であれ、正しいことに 変わりはない。だが、もし、それら全てが間違っていたとしたら、認知科学の 大前提を覆ることになる。」と、いう。 緑の原野で、何を見て、何を信じてきたのだろう。 ー以下の部分は、その部分ー ≪ ヨーロッパ人の思考は「対象の動きは(それが物体であれ、動物であれ、 人間であれ)単純な規則によって理解可能である」との前提で成り立っている。 西洋人は物事をカテゴリーに分類することに強い関心をもっている。なぜなら、 分類することによって、今問題となっている対象にどの規則を適用すればよいか がわかるからである。また、問題解決に当たっては形式的な論理規則を適用する ことが有効だと信じている。これに対して、東アジア人は対象を広い文脈のなか で捉える。アジア人にとって、世界は西洋人が思うよりも複雑であり、出来事を 理解するためには常に複雑に絡み合った多くの要因に思いを馳せる必要がある。 形式論理学はほとんど問題解決の役には立たない。実際、論理にこだわりすぎる 人間は未熟だとみなされることもある。私は心理学者として、これらの主張が 革命的な意味をもっていると感じた。もし彼らが正しければ認知科学者は 間違っていたことになる。つまり「人間の認知はどこでもみな同じ、ではない」。 人文・社会科学諸分野の研究者たちは、明確にそれと言わなかったが、実は 思考の本質について非常に重要な主張を行っていた。 第一に異なる文化の人々は、世界の本質についてそれぞれの根本的 メタフィジックスな信念、彼らなりの「形而上学」を有している。 第二に、それぞれの人々に特徴的思考のプロセスには大きな違いがあること。 第三に、そうした思考プロセスは、世界の本質についての信念に合致したもの であること。言い換えれば、人は自らの世界観に合致した方法で世界を 認知するということである。 注目すべきことに、社会の構造や人間観というものは、それぞれの社会に生きる 人々がもつ信念体系や認知プロセスと非常によく合致しているように思われる。 アジア社会は、集団や周囲の他者との協調を重んじる傾向があると言われる。 こうした特質は、アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向を もっていることや「出来事は極めて複雑なもので、その生起には多くの要因が 関係している」と信じていることと合致。これに対して西洋社会は、個人主義的 でお互いの独立性を重んじる傾向があるとされる。こうした西洋人が特定の事物 を周囲の文脈から切擁して観察する傾向をもっている。≫ ▼「アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向をもっている ことに対して、西洋社会は、個人主義的でお互いの独立性を重んじる傾向が あるとされ、西洋人が特定の事物を周囲の文脈から切り離して観察する傾向を もっている。」ことより、「気を見る西洋人、森を見る東洋人」という本の題名 になっている。同じ森林を見ても、これだけ思考の仕方が違ってくる。 また一神教の欧米と多神教の東洋人とは、同じ現象でも受け止め方が違って当然。 それと、好き嫌いという感情で違ってくる。「世界についての考え方は根本的に ひとつである」 大前提が違うとすると、文明の相克はあって当然。 争いは永遠に続くことになる。 ・・・・・・ 3807, iPadを買った ー2 2011年08月28日(日) iPadを買って六日になる。これはブログ、電子書籍、ネット新聞、メールなど 「閲覧用と割り切って使う」のと「ゲーム」に適している。ゲームやアプリを取り 入れ「自分の面白空間を創造する手みじかで持ち運び可能な電子基地」になる。 これまでのPCを固定電話に喩えると、これは携帯電話、それもモバイル携帯に 一挙に進化したもの。もし迷っているようだったら、買うことを勧めます。 モバイル携帯のiPhoneは私には合わなった。これは、それが大型化しただけ? と躊躇したが、実際に手にして私にも使えるシロモノ。まずよいのは画面を横に スクロールすると、ページが次々と切り替わる。これがアイコンの分類によい。 一ページ目に、元もとiPadについていたアイコン。 二ページ目には、気に入ったブログ。 三ページ目には、ダウンロードしたソフト。 4ページ目は、ゲーム等々に分けることができる。これが使う立場から扱い易い。 そしてゲームやアプリなどを、それぞれのページに溜め込むことができる。 現在のパソコンのセカンドとして、閲覧とゲーム専用に割り切るとネットに 繋がる時間が圧倒的に増える。ノートと同じ薄型で、無線のため、持ち運びが 手軽で、これまでと格段にネット世界が広がる。パソコンのある机に縛られて いたのが、そこから開放されるのは大きい。先ほど述べた携帯電話が固定電話 から人々を解放したと同じで、一度開放されたものは元に戻ることはない。 その意味で、これは革命的進化といえる。モバイルPCはあったが、キーボードで 操作であった。しかし、これは直感的に画面上のタッチ操作になっている。 iPhoneと、どこが違うかのか?というと、まず画面の大きさである。 手帳とノートの差といえば、分かりやすいだろう。講習会や授業で手帳に 書き込む人はいない。誰もがノートである。電子ノートと思えばよい。 iPhoneは携帯電話にパソコン機能をいれたもの。これは電子ノートパソコン であり、画面の大きいわりに移動時に嵩張らない。週刊誌や新聞も、あと数年も しないうちに大部分が、これを通してみることになる。もうひとつ、Youtubeが ワンタッチで直にみれる。こうなると、文字情報の伝達から画像、映像に手段が 移動していくことになる。ということは、情報が圧倒的に個人間で増加していく。 年内は私に最適なアプリ探しがテーマになるのだろうが、それにしても面白い ものが出てきた。これにツイッターの映像公開となり、これにネットTVと きたからには、政治も、経済も、一般消費者の変化に対応出来なって当然。 ネット世界が我われを覆ってきた。 ・・・・・・・ 3442, 我が家に新しいTVが −3 2010年08月28日(土) 新しいTVに切り替え二週間になる。画面の鮮明さは説明が難しいほど。 時間が経過しても驚きは消えない。ボクシング、プロ野球、歌謡番組、演奏会、 大自然などの旅番組などの現場の臨場感がこれまでと違う。 剥き出しのエネルギーが、これらから直に伝わってくるからである。 その結果、それ以外のワイドショー、バラエティー、中途半端なドラマなどを、 ほぼ見なくなった。マシーンが逆に視聴者の選択を変えてしまう現象である。 それと対象をリアルに変えてしまうのである。米国の本格的な映画も、これまで と違った迫力が画面に出るので面白みが倍増してきた。そうこう考えると、 やはり大したしろもの。現場で人間が見える対象より、デジタル加工した方が、 より鮮明になる領域に入ってしまった。これに3Dの立体化された映像が 加わったり、スーパーハイビジョンが本格的に放送されたとしたら、世界各地 に実際に行ってみるよりTVで見た方が良く見えるということになる。 (現に、ある領域では達しているが)その一端を垣間見ているのである。 実際には現地でみる360度の視界で、五感で体感するものにかなうはず はないが、視覚・聴覚の世界で数倍鮮明に映し出される世界は違う。 まだ地デジがアンテナの関係でまだ映らないが、これが入ると本来の多くの 機能が加わる。それが凄い。(8画面を同画面で見たり、地デジ8チャンネルを 26時間録画したり・・)高機能TVというより、未来の先取りのTVという 感である。 テレビなどバカが見るもの!は間違いない事実。しかし自分が 行った旅先の映像が、より鮮明に画面に映し出され、深く浸かることが可能。 面白い機能のひとつが、テレビのセンサーが室内の照明や室外からの陽光を読んで、 画面を修正する「おまかせ」がある。 テレビは、それぞれの家庭の居間で 毎日、顔を突き合わせるもの。そのため、メーカーは、そのシェアが即、 会社の力をあらわす。そのため、いずれも総力をあげ商品作りをしてくる。 一歩出遅れた東芝がプライドをかけたエネルギーが伝わってくる。
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2015年08月27日(木)
〜「読書の腕前」岡崎武志著 ー読書日記 〜 * 独りの楽しさと、読書 半世紀近く、早朝と午前中の読書の時間は、私にとって至福の時間である。 これに30年まえからウォーキング(7年前から自転車散策に変更)が、15年 前からネットが加わった。これと秘境ツアーの蓄積が、人生の財産である。 読書に関しては10歳までの習慣化が必要と言われるが、その割りに、 底が浅いのは、20歳辺りで、ようやく面白みを知ったため。〜その辺りから〜 ≪ 「いまの日本には楽しみがあふれているのに、楽しみ方が下手だ」 谷川俊太郎の『「ん」まであるく』というエッセイ集のなかにある言葉だ。 たしかに、余暇というと多くの人が、ゴルフへ行く、家族でディズニーランド へ出かける、ショッピングセンターへ買物に行き、ついでに食事もする、 というかたちで時を過ごす。それが悪い、と言うのではない。しかし、 あらかじめ用意された場所や装置がないと、時間がつぶせないというのでは、 「楽しみ方が下手」と言われても仕方がないだろう。このことを、もう少し、 谷川の文章に添って考えてみたい。 ー続けて、こんなふうに言う。 「文学、芸術に関する限り、私たちは楽しさよりも先ず、何かしら 〈ためになること〉を追うようだ。楽しむための文学を、たとえば中間小説、 大衆小説などと呼んで区別するところにも、自らの手で楽しむことを卑小化 する傾向が見られはしまいか。感覚の楽しみが精神の豊かさにつながって いないから、楽しさを究極の評価とし得ないのだ」と。 ここ数年のベストセラーリストを眺めていると、自己啓発本がつねに上位を 占めている傾向に気づく。多くの人がいまの自分に満足できず、なにかを変えた がっているようだ。スキルアップを図り、それを仕事に結びつけて出世したい。 本もそのため「役立つ」なら読む。そういう気持ちがリストから透けて見える。 出世を願う気持ちを否定することはできない。しかし、本一冊を読み、いきなり 自己を変革しようというのはあまりに安易だ。そして、なにか「ためになる」 ことがないと、本に手を出さない姿勢もいびつだ。それもこれも、「本を読む」 ことのほんとうの楽しさを知らないから、いつまでたっても即効性を願う本 ばかりに手を出してしまうのである。 本は栄養ドリンクではない。 「つつしむことのできぬ精神はひよわだ。楽しむことを許さない文化は未熟だ。 詩や文学を楽しめぬところに、今の私たちの現実生活の楽しみかたの低の浅さも 表れていると思う」と、谷川は言う。また楽しみはもっと孤独なものであろう、 とも。恋人と、あるいは大勢の仲間といっしょに音楽を聴いたり、映画を観たり するのは楽しい。しかし、その瞬間だって、その楽しさを腹の底から感じる のはいつだってひとりの自分なのだ。 いつも誰かといっしょでないと不安で仕方がない、ひとりでいるのはみじめ。 だからケータイやメールで他人とつながって生きている。こうして孤独、という 言葉を恐れるあまり、自分ひとりで感じることのできる力をないがしろにしたら どうなるか。「ひとりじゃいられない病」にかかってしまい、いつの間にか、 伸び切ったゴムのように魂は弛緩してしまうだろう。 『教養とはつまるところ自分ひとりでも時間をつぶせる』ということだ。 それは一朝一夕にできることではない。「働き蜂たちの最後の闘いは、膨大な 時間との孤独な闘い」 そう書いたのは中島らも(『固いおとうふ』双葉文庫)。 「教養」という、うさんくさく実体のない言葉を、なんとうまく表現している。 「自分ひとりでもうまく時間をつぶせる」人のことを「孤独な人」とは言わない。 なぜなら、その人の時間はきわめて充実しているからだ。私はつまるところ、 「孤独」を克服し、たったひとりで自分の内面を深めるのは「読書」以外にない、 と考えている。 また谷川は前掲書のなかで、自分だけが感じる「楽しさ」を ちゃんと見つめることが「成熟」だと言っている。≫ ▼ 今では、ネットサーフィンという遊び方もある。逆に、誰とでも気楽に、 「ツイッター」や「リンク」で結びつくことが可能だ。それと、自己啓発本に 偏っていたこともある。『教養とは自分ひとりでも時間をつぶせる』という点 では、充分、教養があるはずだが、それが浅いと実感するのは、10歳までの ベースがないため。その割切りをしておけば、読書の楽しみは増えるはず。 それよりも、現実社会があまりにも面白い!ということか。 ・・・・・・ 4913,世界の美しさをひとつでも多く見つけたい ー5 2014年08月27日(水) 『世界の美しさをひとつでも多く見つけたい』石井光太著 この著書を読んでいて思い出したのが、以前に取上げた、 <京大工学部の新宮教授の「幸福の4階建て論」説。 (古今東西の幸福論を読み漁った結果) 4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。 3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する。 2階:獲得した「快」を永続させる。 1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。> 『世界の美しさを一つでも・・・』の著者・石井浩太は、それが壮絶であるほど 余計なものが剥ぎ取られた人間の泣きたくなるほど、その美しさが浮上るという 説に重なる。このルポも、時代の要請なのだろう。 ーまずは、その辺りを抜粋ー ≪ なぜ過酷で壮絶だったりする現場に赴くのか。それは過酷な現場であれば あるほど、「人間の美しさ」が見やすいからです。良心、善意、優しさ、強さ といったものです。暗い場所であればあるほど、光はより明るく輝きます。 それと同じで、悲しくてつらい世界だからこそ、人の優しさやたくましさがより 鮮明に浮き上がる。 たとえば、マドウと薬草売りの関係が、ニューヨークの 高価な私立病院の個室でくり広げられるお金持ちの病人と専属看護師のそれだと したらどうでしょうか。高級病院の専属看護師は、コルカタの薬草売り同様に お金持ちの病人を必死に励まそうとしているかもしれません。しかし「高額な お給料をもらっている」「最新の医療を受けている」という事実があることで、 専属看護師の善意は見えにくくなります。コルカタの路上で人間が裸同然で うごめくように生きています。良し悪しは別にして、余計なものが一切ないから こそ、薬草売りのマドウに対する善意がはっきりと目に見えるし、それが 泣きたくなるほど温かな行為として感じられる。そして、薬草売りとしての 美しさが鮮明に浮き上がるのです。私は先ほど「人生観が変化するような感動 を見つけ出したい」というようなことを書きました。過酷な現場へ向かうのは、 そのためなのです。厳しい状況の方が人間の美しさがより輝いて見えるので あれば、必然的に向かう先もそこになります。過酷な現場を見たいから行く のではなく、より多くの人間の輝きを発見できるからこそ赴くのです。・・≫ ▼ 幸福の4階建て論に疑問が残っていたが、これを読んで、成るほど合点が いった。著者が、この論を知っていたかどうかは知らないが、克服できない 不幸も、見方を少し変えると、こうも違って見えてくる。3年前の節目も、 実際に経験をしてみて、それまでとは社会と人間が違って見えてきたのに 驚いている。死を悟った時とか、克服できない苦難や悲しみの中にこそ見える 様ざまな感動が、人生観を変える。逆に、ただ、思い込みの壁で、物事が全く 見えてない人と、過っての自分の姿が見えてくる。漆黒の闇の中こそ光は輝く! ふと気づいたが、4F説の、1階が壮年までの生、2階が老年、3階が病気、 4階が死ぬまでの葛藤?で、屋上は死、自分から解放された無限世界! (一言多いが)平屋もマンションもある・・・ ・・・・・・ 4546,閑話小題 ー小学、中学校の同級会で、どうしてるの? 2013年08月27日(火) * 小学、中学校の同級会で、どうしてる? 数ヶ月前になるが、家内が真剣な顔で、「中学の同級の女子会に初めて出席 するけど、会社を興し、ワンマンで好き放題のアナタが、話題が合わないはず なのに、何時もどうして時間を過ごしているの?」と、聞いてきた。 それに対し「殆ど毎年、出席して30数年、慣れがある。相性の悪いのは近くに 来ないし、最初の30分さえ過ぎれば『場』が出来るので、それまでの我慢。 早めに酔ってしまうのがコツだが、気を許さないで悪意の話に乗らないで、 ただ黙々と酒を飲む。話題が合わないのは当り前と割り切っている」と。 「それにしては、毎回、いそいそ行くじゃない」というので、 「小中高校の集まりは魂の故郷。合う合わないでない。魂の故郷の温もりを 味わうだけで充分良いもの」と。地元受験高校から、女子短大を卒業して、 実家の取引先である上場メーカーのオフィスで、丸の内勤め二年をした後、 結婚先は実家同様、お手伝いがいて(10年前まで)、今だTVドラマと、 現実の境目が分からない人が、40年、柏崎の世界で地道に生活している人と、 この年齢で出席してかみ合う訳がない。 で、家内が柏崎から帰ってきて、 「どうだった?」に 「・・・・・」。何があったか黙して語らず。 時間が経つと出たくなるのが同級会、それが魂の領域であるため、 が分からないようだ! で、暫くしてから「二度と行かない!」 * ビデオカメラから覗いたロス市警警官の日常 先週の金曜日に上映時間が変わっていたため見れなかった 『エンド・オブ・ウォッチ』を、昨日午前に見てくる。 (番外は、年に2〜3回はある)ロス市警のコンビの警官の勤務をリアルに 浮かび上がらせている。その手法が、車の中のビデオカメラと二人の警官が 胸に遊びで付けた?小さなビデオカメラで映し出す手法。それが臨場感があり、 ロス警官の日常勤務に観客を引きずりこむ。更にギャングにも、グループの 一人が悪ふざけでビデオカメラで撮影している設定をしてあり、その目線も 重なっている。それがリアルで、次の瞬間何が起きるか恐怖が先にたつ。 観客目線より、主役と脇役それぞれの役割目線のアングルが良い。 ロスのサウス・セントラルでは、年間10万件、5分に一度の割に事件が 起こっている全米最悪の地域。 特にメキシコ系と黒人系のギャング争いを リアルに映し出しているが、それが恐ろしい限り。その中で、二人の警官の 生々しい、ビデオレポート風の映画とすれば・・ Googleが、眼鏡フレームに ビデオカメラを付けたものを実験販売をしたが、映画も、個人目線の映像が 交差する物語が多く出てくることになる。これは、そのハシリということか。 Youtubeのようなサイトから、面白映像が溢れかえる流れが激しくなる。 次にどのような端末が出てくるか、楽しみである。 ・・・・・・ 4171, 閑話小題 ーつれづれに 2012年08月27日(月) * つれづれに このところ尖閣諸島、竹島や北方領土に、中国、韓国、ロシアが意図的に 仕掛けてきている。現在の首相がレイムダック状態で、組みやすいタイミング とみてだ。しかし日本にとって、沖縄米軍基地問題の中、その存在を考えるに 丁度良い問題。関連している各国全てが良い上に、国民の目をそこに引きつけて くれる。もう直ぐに、中東で決定的な何かが起こすための目先の意図的な小競り 合いの要素がある。 中国は権力の移行期における軋轢が起こっている上に、 景気は減速。韓国は、現大統領の側近が収賄などで次の選挙に立候補さえ出来ず、 失職後に恒例の暗殺か、自殺?か、逮捕劇が待っている。極東も不安定状況に なってきた。 アメリカの穀物が異常気象で干ばつというニュース。 深刻なら経済が一挙に際どくなる。一昨晩のBS/TVで、欧州の経済不況の現場を 特集していた。スペイン移民が住宅ローンの破綻で、家の明け渡しのトラブル とか、アルゼンチンにUターンをしている事例とか、深刻な内容。 5年、10年後の日本の状況である。 * iPad導入、一年 去年の8月25日にiPadを購入して一年になる。当初の熱は冷めたが、 使い勝手が良いこともあり、今では必需品である。居間と書斎に卓上型のiMacを 置いているが、居間のPCは家内が専ら使って、そこで私はiPadを使っている。 TVに飽きたり、コマーシャルの間、ネット・サーフィンをしたり、本のチョイ 読みが専らである。気楽に自由空間を飛びまわっている感覚が良い。 電動アシスト自転車が三年、未来型TVが二年、iPadが一年。 それぞれ大きく日常の生活を変えてくれた。 新しいツールが、 日常を大きく変えている。 馬鹿になっているだけだが! ・・・・・・ 3806, 哲学人 ー� 2011年08月27日(土) * 歴史の知識が、物事の理解の仕方に及ほす影響 ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 【 歴史の専攻に費やした五年間(パブリック・スクールでの二年間と大学での 三年間)は、一般的な遺産をひとつと、個別的な遺産をいくつか残してくれた。 一般的な遺産として私の頭のなかには、古代ギリシャかち現在までつづく西洋の 歴史に関する概略的な知識が残った。こうした知識は習得に数年間の研究を 要するので、当然たいていの人は、いや、高学歴の人でさえもっていない。 物事の理解の仕方へのこの知識の影響は根深いらしく、私の考え方には、対象が 音楽であれ、演劇であれ、政治であれ、哲学であれ、ともかく決まって歴史的な 側面が認められる。私にはあらゆるものを、その成り立ちや今後の展開といった 観点から眺める傾向がある。また、過去の人物をより広い文脈に置く傾向もある。 そうやって、その人々が住んでいた社会の様子や、彼らが活動していた当時の 状況、その時代にはまだ起きていなかったこと、彼らが知リえなかったことなど を認識するのである。さらに私は、現実が絶えず変化しつづけることを踏まえ、 ‘現在には特別扱いすべきところなどない’とわきまえている。 いま起きていることには特別な重要性がある、そう思いこんでいる人が大勢いる ようだが、私はそうではない。過去全体がいまへとつながっているのであって、 かつてのどのいまとも同じように現在は一時的なものであり、ときに総体として の過去のなかの一瞬にすぎなくなることを私は知っている。過去、現在、未来を 問わず人は誰しも、複雑で途絶えることのない大きな歴史の流れのなかの任意の 時点に人生をはめこまれるのであり、その歴史の流れは絶えず変化し、各個人の 死後もつづいていく。その流れのなかに、ほかと比べて特権的な時点などなく、 ほかより多少なりとも絶対的な時点もない。こうした思いが私の骨の髄まで染み こみ、芸術と知的生活のどちらに対する態度にも行き渡っている。】 ▼ ついつい我々は、「自分の生きてきた時代を特権的かつ絶対的な時点」 と思い込んでしまう。それが自分が生きてきた時代という理由だけで・・ しかし過去を振り返れば、長い歴史の中の一コマでしかないは明白である。 従って、日本史や、世界史を何度でも読み返し、自分の置かれた時代を冷静に 見つめるため、地球儀と世界史の本を身近に置いておくべきである。 グーグルアースとは別に。 ・・・・・・・ 3441, 政治談議 2010年08月27日(金) * 小沢一郎が、民主党党首に立候補 日本の歴史始って以来の危機の時期に、小沢が立候補を決断をした。 この恐慌を乗り越えるには、自民党、民主党という枠を超えた大連合しかない。 その断行は待ったなし。管首相以下の三人が政権運営維持、難局に対処出来る など考えられない。面白いもので、小沢が立候補のニュースをみた直後、 月刊誌の「現代・プレミアムーノンフィクションと教養」を手に取ると、 週刊文春などの編集長などをいていた花田紀凱が小沢一郎批判をしている文に 行き当たった。田中角栄直伝の集金システムの手法は、そのまま続いている。 ここで、1993年、小沢が新生党を結成した時に立花隆が朝日新聞に痛烈な 批判の文章を取上げていた。 (字数の関係でカット09年8月27) ・・・・・・・・ 3066,ウワサを考えてみる −2 2009年08月27日(木) 「うわさ」をもう一歩掘り下げて考えるために「オレルアンのうわさ」と 「和服美人局のうわさ」を対比してみる。似ているところは、バックにある 犯罪組織の臭いと、性的な危うさ、そして「ユダヤ人経営者」=「女好き経営者」 への虐め。違うところはオレルアンが若い女性の間の噂だったのが、長岡は街の 酔い客である。前者は根も葉もないデマだったと後で判明したが、後者は ファジーのままで終焉したこと。「うわさは愚者に始って、賢者で終わる」 というが、冷静になれば風評ということが分かるはず。 人は「事実より、 信じたいことを信じる」傾向があり、心の闇に符号することには更に強くなる。 「悟りとは、平気で死ぬことでなく平気で生きること」というが、うわさなど 一々気にしていたら自分の世界を小さくするだけである。特に地方では小さい 世界を更に小さくしてしまうことになり、生き辛くなる。 女性週刊誌は芸能人 の「うわさ」(とくに下ネタ)を商売のネタにしている。芸能人も売名のため、 自分の方からネタを売り込む場合もある。「火のないところに煙がたたない」 というが、うわさをたてられた当人が火ではなくて、うわさを好んでする 「劣化した連中の口が火元」になるから、複雑になる。 中世の頃にあった 「魔女狩り」や、第二次大戦の東京大空襲直後の「朝鮮人狩り」とか、デマが 真実と信じられ殺害にまで至る。今では「2チャンネル」のサイトが、その機能 を果たしている。人間の心の弱点には「自分の心の不安を言葉に言い換えた物語 を信じてしまう傾向」がある。それをついたのが新興宗教、占い師である。 週刊誌の記事は売らんがために、不安のネタを見出しにし、あらゆる手法を使う。 それを額面どおりに受け止めるのも問題だが。この選挙のキャンペーンにも、 不安を煽って物語をつくり、自分を解決の主役にしている輩を多くみかける。 それを選挙民が求めているいるのだから、虚像でもよいから演じるのは当然、 といえば、その通りだが。
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| 5277,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー① |
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2015年08月26日(水)
ーその時、言葉は私の「神」となる (新潮45/6月号) 〜心肺停止になって考えたこと! * 人生の価値とは何か 生死の境目で、彼女(中村うさぎ)は大きく変わった? 『何を成し遂げたかでなく、如何に生きたか』というが、実は人生は、 『何を成し遂げようとして如何に生きたか』である。ただノンベンダラリ という生き方も、あるとしても。同じ人生なら、何かを目指し、問題解決を し尽くし、燃焼した生きかたを私は選ぶ。女無頼派作家が心肺停止で見えた ことは・・ 挫折、問題こそ価値の源ということ。 〜その辺りから〜 ≪ 我々はそれぞれが自分なりの方法で己を表現しながら生きている。 そもそも「生きる」こと自体が表現なのである。どう生きたかを見れば、 その人物の価値観や世界観がわかる。生きていく過程でどんな選択をしたか、 何を大切にし、何を捨てたか。その選択や行為によって形作られていく人生 こそが、その人の作品なのだ。 むろん、本人が作りたいと望んだ作品と出来上った作品は、似ても似つかぬ ものになっていることもあるだろう。さまざまな要因によって人生はその形を 変え、思いも寄らない方向に転がっていったりするからだ。 それゆえ多くの者は、人生の後半において「こんなはずじゃなかった」と 臍を噛む想いに打ちのめされる。だが、それでもその人生は、「私の作品」だ。 不可抗力的な外的要因で捻じ曲げられても、そこで我々が下した判断や選択は、 まぎれもなく我々自身のものだからだ。ままならないことも含めて、「人生」 である。そして、その「人生」は、よくも悪くも、我々自身を見事に反映して いるのだ。 私の人生は、私そのものである。 このように考えると、「いかに生きるか」という問題が我々にとってどれだけ 重要であるか気づかされる。組織内や世間の評価を得ることに血道をあげようが、 世間に背を向けて自分だけの世界を作り上げようが、それは各人の自由であるが、 その目標のためにどんなことをしたのか、己の中のどの欲望を優先したのか、 その欲望を自分自身がどこまで明確に把握していたのか、そこが問われることに なるのだと思う。 己の人生を「いかに生きるか」に、我々は責任を取らねば ならないのだ。・・(略) どんな人生であろうとその人にとってはかけがえ のないものであるし、何の業績も残さずとも本人か精一杯生きれぱ、そこに必ず 価値が生ずる。問題はその人が何も考えずにだらだらと生きたか、己や他者や いろいろなものと格闘しながら悩み苦しみ葛藤を繰り返して生きてきたか、だ。 たとえ挫折や失敗ばかりの人生であったとしても、その挫折や失敗は絶対に 無駄ではないのだ。そう、そこには必ず意味も価値もある。 「何を為し遂げたか」という結果ばかりに目を奪われて「どう生きたか」という 過程を見落とすと、この世の多くの人の人生は無価値という結論になる。 何事かを為し得る人間など、ほんのひと握りだからだ。そのような価値観で生き ていたら、「結果を出さなきゃ自分には価値がない」という強迫観念の虜となり、 己の人生を正当に評価できなくなるのではないか。若い人の悩みを聞いていると、 多くがこの強迫観念に取り葱かれていて、「何者かにならなくちゃ」 「何事かを為さなくちゃ」と焦っている。まあ、若いうちはそういう悩むのも ひとつの過程と思うが、彼ら彼女らにいずれは気づいて欲しい。 何者にもなれない人生、何事も為し遂げられない人生にだって価値はある、と。 人生は結果ではなく、そうやって答を探して長い長い旅をする、あなたのその 足取りこそが貴重なのであり、その過程の積み重ねがあなたにしか生きられない この世で唯一無二の人生を形作っていくのだ、と。≫ ▼『ご覧のとおり、そのまま、結構!』を、4年前の事業断念時に自分自身に 対して言い聞かせていた。バブル崩壊が、どれだけ大きな経済敗戦だったかを 見抜けなかったことが、ある。 盤石と信じていた事業が根こそぎ崩壊するのも、 一瞬の出来事。更に同時進行の情報革命も、大きな要素に加わる。 これに9・11テロ、リーマンショック、3・15大地震なら、仕方ない。 面白かったから、まあいい、と思えるのは、何とか避難が出来たから。 『総括として、面白かった!』という実感は、何ものにも代えがたい。 ・・・・・・ 4912,世界の美しいさを一つでも多く見つけたい ー4 2014年08月26日(火) * 現場の壮絶! 内容は 題名とは程遠く、映画や小説でさえ描写できない現実の凄みがある。 デジタル機器の進化で、生首を刎ねる写真や映像などがネットで流される。 臨検など今では無理。それにしても、このルポは、凄惨で、これが現実である。 ーその辺りからー ≪ 話を聞いてわかったのは、LRAの兵士たちのあまりに残忍な行動でした。 彼らはまず戦力を増やすために村を襲い、食糧や金品を略奪します。 そして村人の中から子供を選び出し、彼らに銃を突きつけて自分の親や兄弟を 殺害させる。「この場で親の首を切れ。そうしなければ、おまえを殺すぞ」 そう脅して無理やりやらせるのです。家族を殺した子供は、村で生きていく ことができません。兵士はそんな子供たちを連れ去り、部隊の兵士にする。 家族を殺させるのは、子供を村と決別させ、殺人マシーンにするべき通過儀礼 のようなものなのです。子供たちは部隊に入った後、全員が従順に兵士として 生きるわけでありません。途中で逃げ出したり、命令に従わなかったりする こともあります。そんな時、ゲリラ兵は見せしめのために裏切った子供たちの 鼻や耳、それに唇を切り取ったりします。人間には見えないような容貌にする ことで恐怖心を植え付けるのです。おそらくこうした事実だけ見れば、私は LRAのゲリラ兵を「鬼南のような兵士」として描き、彼らにつかまって兵に させられた子たちを「悲劇の被害者」として描いたはずです。でも、さらに 調べていくにつれ、違う側面があることもわかってきました。 LRAの子供兵の中には、誘拐されて兵士になった子以外に、自分の意思で自ら 兵士になった子もいるのです。貧しい農村で一生暮らすことが嫌になり、銃を 持って略奪をして暮らしをしたいと思っている子供、銃で人を殺して出世する ことがカッコイイと思って参加する子、もともと反社会的な人格を持っていて、 それがエスカレートして、兵士になることを望んだ子供がいるのです。・・≫ ▼ これに匹敵する残虐行為に、ドイツのナチと、カンボジアのポルポトに よる数百万単位の大量殺戮がある。北朝鮮も一歩内部に入れば、このような 弾圧が現在進行で行われている。中国文化大革命では1千万〜5千万人が虐殺 されたが、詳細は隠されている。25年前に桂林に行った時の現地添乗員が 『文化大革命時には、この辺りは死体の山だった。それが全国の各村で同じ ように・・・』と、何気なく話すのを聞き耳を疑った。当時は、日本国内では タブーで、現地であればこそ聞けた話。 島国で、海で外界から守られ、 平和ボケの日本。グローバル化は、その平和を儚くも砕いてしまう。 憲法を変えるのは当然のことだが・・ この国では無理? 〜 また偶然だが、以下の二年前の随想日記に続く! 〜 ・・・・・・・・・・・ 4170, 金正日の料理人 2012年08月26日(日) * 若きドン様の親の敵討ちは残酷! 何気なくTVをみていたら、北朝鮮の金正日の元料理人が出ていた。これが 漫画的ドラマ仕立。その男が、「金正恩に招待され北朝鮮に行ってきた内容」 で、金正恩や、そののファミリーと食事をした写真があった。 父・金正日を 裏切り逃げ帰った過去全てを水に流してくれた温情深い現在のドン様に感激 している、という筋書き。その日本人は現地に妻と二人の子供を残してきたが、 正恩の計らいで残留家族と対面した。ところが、「料理人の長男が、再会した 二週間前の夜半に苦しみだし、両手を三回突上げ絶叫し、亡くなった」という。 心臓発作だった。 『呼び出しに応じたのを確認したと同時に、長男を毒殺し、家族に会わせて、 その事実を知らしめ、今度は長女を殺す、という脅しをかけ、北朝鮮の メッセンジャーを暗に強要している』のは誰の目にも明らか。その後、妻と娘 を残して帰国し、TVに出演したのだが、その筋書きをキャスターに指摘されると、 「そうであっても、それでよいと思っている」という返事。北朝鮮に愚弄されて いる姿が、そのまま出ていたが、陰湿で残酷な仕打ちのドラマ仕立。 リアルで現在進行中のため、料理人が翻弄されている姿が痛々しい。 独裁国家のドン様を裏切り愚弄すると、このザマになるという残酷ショー。 これは北朝鮮が茶の間に直接日本愚弄のメッセージをしてきたことになる。 逆にみれば、この程度の連中でしかない。マスコミが、料理人を抹殺するか、 パンダとして利用するか、パンダ利用になるのだろう。現地の家族が本当に 存在していたのか、そう持ちかけられたのか、本人の作り上げた物語なのか、 色いろの仮説がたつ。コミック漫画の悲劇、喜劇? くさい話だけは確かだが。 ・・・・・ 4545, 閑話小題 ー夏対策 2013年08月26日(月) * 暑さ対策! 居間、寝室では扇風機で冷をとるのが基本。しかし30度を超えるとクーラー を付けるが、今年は、その頻度が多い。扇風機の場合は、補助として保冷剤の 入った首巻きを三つ冷凍庫で冷やし一時間ごとに入れ替える。これが効果がある。 更に先日、寝室用に保冷枕を購入し使い始めたが、これも良い。 冬生まれもあって夏の暑さには特に弱いが、それでも、いざとなればクーラー があるという余裕があるから出来るのだろう。 * 業種店が、新規出店? 車で二分ほどの三沢のSCの運動ジムに週五日通っているが、道路一つ隔てた 敷地に2Fの建物の鉄骨が立ち上がってきた。3〜4ヶ月前に「地元のスポーツ店 が、東バイパス出口に出店!」という新聞記事を見ていたので、着工と同時に、 これでは?、と思っていたが、先日に家内から、それが地元スポーツ店と 知らされた。地元のスポーツ店も典型的な業種店。自然消滅は時間の問題と 見ていたが、それが新規の出店とは意外! 家内が言うには、「近くに高校や 中学が多いので、運動着やスポーツ用品が学校単位の需要があるのでは?」。 家内の方が、よほど世情に詳しい。全国チェーン店が捨てた(地元しか手に 入らない)インサイダー営業が存在している、ということ? としても、 私には疑問が残るのは、私がアウトサイダーのため? それとも、幾つかの SCの重なっている郊外の一等地で、大手のスポーツチェーンに囲まれ苦戦。 その原因が業種店の限界と知らず、スポーツ店の無店地帯の東バイパス地区に 移転で起死回生を図るためなのか?としたら・・ 最悪のケース。 常識的にみれば破滅行為!しかし、街中から移転して20年?近く、ブランド物に 的を絞り、営業では学校関係に地道な営業努力の結果、二店目の出店に至った? と、考えるしかない。立地センスは最適だが、黒鳥の舞降りる中で、どうなる? 毎日のように、窓から見えているので書いたが・・ 更に最悪のケースは、 順調な数字を上げていて、移転でなく拡大としての二店目の場合。 恐ろしいのは二店目の甘い計画。 ・・・・・・ 3805, 哲学人 ー� 2011年08月26日(金) * 学生時代の恩恵 学生時代の恩恵は、現在でも大いに実感している。もしも学生時代に一度、 頭を粉々にしてなかったらと思うと・・ マギーは、ここでイギリスのエリート 学生の内面を正直に書いている。哲学と芸術の長い歴史が大学にあり、そこの プログラムを学生はこなしているのである。都市には、美術館があって歴史的 名画を身近に見ることができる上に、コンサートも子供時代から親から連れて 行ってもらっている。 教養のベースが、風土の中に染み付いているのである。 ー「哲学人」ブライアン・マギー著よりー 【 結局、大学が知性という面で私にしてくれたことの中で一番肝心なことは、 知的価値が芸術的価値とは独立して存在しているということ、そして、知的 価値に関心を持つように仕向けてくれたことである。 一年目には、理知的で 気の合う仲間の中に、他にもまして知的な価値に傾倒している人がいることを 知ってカルチャーショックをうけたことである。彼らとの交流のかなで、 そうした価値を自分なりに受け入れられるようになるに三年目まで待たなければ ならなかった。そのおかげで、知的価値は私にとって欠かせないものとなり、 私の人生と考え方に色褪せることのない彩を添えてくれた。 ちなみに、私はこのような経験をしたおかげで、一部の聡明な人々に対する 理解を深めることができたのではないかと思っている。それは、さまざまな 理由から大学教育を受けたことがなく、そのためにこういだ経験をしていない 人々についてである。そういった人々がどんなものの見方をするか私はわかる つもりだし、彼らの身になってみることもできる。 ひょっとしたら自分も 同じ立場になっていたかもしれないからだ。 正式な教育は、世界というものが 個人の見解や意識や関心や想定の単なる拡張ではないという考えを育むよう 仕向けてくれる。これは正式な教育が授けてくれる最大の恩恵である。 当然のことながら、こうした教育は他者の助けなしにできない。他者は私たち 個人をしばっている拘束をまぬがれているからである。けれども、ここから 導かれるのは、独学の者は生半可な教育を受けた程度にしかなりえないという、 残念だが逃れようのない事実である。 オックスフ・オード入学当時の私の 考え方にはっきりいって欠けていたもののうち、最も重要だったのは、その後の 経過を考えると、哲学ということになる。 人間の関心事の中で最も価値が あって大切なものとして、哲学は確かに偉大な芸術に近い水準に達しているし、 その理由も似通っているように思う。どちらも、人間が到達しうる最も高い レペルで真理を探究する活動である。どちらも物事の本質を、つまり存在の 根源的な神秘を探ろうとしている。それを果たせないとしても、人間の理解 に限界があるせいにすぎない。ショーペンハウアーが述ベているように 「芸術家が具体的に行なっていることを、哲学者は抽象的に行なっている。」 哲学者は自分の意見を概念で表現するよりほかなく、そして概念というものには どうしても一般性がつきまとうため、哲学は芸術ほどの深みには到達できない かもしれない。だがその一方で、哲学にはできても芸術にできないことがある。 アイリス・マーギックは「よきにつけ悪しきにつけ、芸術は哲学より深い ところに達する」と語ったが、哲学には芸術よりすぐれた面がいくらかはある という意味ではそのとおりであるし、全体としては芸術に及ばないという 意味でもそのとおりである。】 ▼ 芸術と哲学が教養のベースであるのは今さらだが、マギーの、このような 文章を読むと、より芸術に触れておくべきだったと実感する。 芸術作品は、 作者の魂そのもの。それぞれの時代が生み出した人物が全霊を捧げて、作品の 中に魂を入れ込んだ名作である。それに直接触れ、感動するのが一番、人間の 魂を高めることになる。そのためには時間をかけて対象と向き合うしかない。 ・・・・・・・ 3440, 再び、死について考えてみる ー4 2010年08月26日(木) * 死を喩えると 死を喩えると、旅と、眠り、とされる。 「死ぬ」が旅と、眠り、に 喩えとされることは、プラトン『ソクラテスの弁明』の一節にある。 ー「つまり死ぬということは、次の二つのうちの一つなのです。あるいは 全く何もない.無」といったようなもので、死んでしまえば何も少しも感じない といったものなのか、あるいはまた言い伝えにあるように、それはたましいに とって、ここの場所から他の場所へと、ちょうど場所をとりかえて、住居を移す ようなことになるかなのです。そしてもしそれが、何の感覚もなくなることで あって、ひとが寝て、夢ひとつ見ないような場所の、眠りのごときものである としたならば、死とは、びっくりするほどの儲けものであるということになる。 ・・・・また他方、死というものが、ここから他の場所へ、旅に出るようなもの であって、人が死ねば、誰でもかしこへ行くという、あの言伝えがが本当とする と、これより大きい、どんな善いことがあるのでしょうか、裁判長諸君。」ー 葬式で、「故人は旅立たれました」というが、夢なら醒め、旅なら帰って くるのが前提にある。永遠の眠りというと、そこで夢を見る可能性がある。 無に帰した者が夢の見ようがない。あくまで心象風景でしかないのが、これで わかる。 最近、ブラックホールに喩えることがある。その人の全てが、 その中に吸い込まれ、再び戻ってくることはない、という意味で、喩えとして 科学的風である。 ブラックホールは生命を終えた星が爆発をして、その重圧で 空間の歪が生まれ、穴が開いて異次元?の時空に周辺のものを吸い込んでいく。 これを死に喩えることは、これはこれで、説得力がある。最近、ホワイトホール も、存在も云われるようになってきた。何処かの歪から何が噴出している空間の 存在。それは生命ということになる。 面白いのが、死の喩えを、生そのものに している説がある。 これまでの死の喩えのは、生のうちで経験される現象=旅、 眠る、去る、失う、等々である。それらは再び我われの元に帰ってくる可能性 がある。死は絶対性であるから、「死ぬ」に永遠性が現われてくる。そうすると、 永遠に眠る存在になる。こんなそんなで、結局、死は喩えると分かりやすそう だが、生きている人間の論理というのが露出するだけ。同じ動物の牛に喩えると、 先ほどの喩えは不自然である。死も、生きていることも、幻想でしかないなら 喩えでイメージするのも良いではないか。 少し、眠たくなってきた。 (字数制限のためカット2011年8月26日)
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| 5276,閑話小題 〜静かなる恐慌が表立ってきたか |
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2015年08月25日(火)
* 株価、世界同時安が ここで、世界は静かな世界恐慌に既に入っていると、くり返し述べてきた。 リーマンショック以来、アメリカのドルの供給量が三倍。円は二年前の二倍に なったが、ドルの為替値は、変わらず。円は、三分の二になった。 こういう歪な不自然なことには自然淘汰が、起こって当然である。 その発火点が中国か、ギリシャか、日本か、北になるのかだったが。 「暴落しそうな企業は、株式市場での売買停止が可能」とは、知らなかった。 これでは、国内外の投資家は、引くのは当然である。私のHPの内部検索で、 去年春に、以下の内容が出てきた。我ながら真面目なものだ。 ≪ 2014/02/10 閑話小題 〜時どき、10年前から現在を振り返えり〜 * 時どき、10年前から現在を振り返えって見えてくるのは! 株式のチャート見るように、その時どきから、5、10年間を振り返えると 思いもよらない事件に遭遇していることが分る。では2004年2月〜2014年2月 まで、何が起きたか?を調べると想像を絶することばかり。 先の10年間は、 これらより遥かに大きな自然災害と経済震災に遭遇することになるが、 これだけは起きてから分かること。 時系列であげると! ・2004年に、中越地震とスマトラ沖地震、 ・2007年に、中越沖地震、 ・2008年には、ミャンマーでサイクロンで死者・行方不明は13万4千人以上。 5月12日- 中国で四川大地震発生。M8.0、累計で4千万人以上が被災し、 6万9千人が死亡。米国でリーマンショックが発生。 ・2008年9月15日 − リーマンショック ・2009年1月20日 - バラク・オバマがアメリカ合衆国建国以来、 初の黒人大統領とし第44代米国合衆国大統領に就任。 ・2010年には、チリとハイチで大地震。ハイチでは30万以上が死亡。 ・2011年に、東北大地震で2万人近くが亡くなり、福島第二原子炉が破壊された。 チュニジアのジャスミン革命が各国に波及し、アラブ各国で独裁政権に対する デモに発展。エジプトでムバーラク政権が崩壊、リビアでNATOが軍事介入し 半年間の内戦の末にカダフィ政権が崩壊した。(アラブの春)アルカーイダ の最高指導者とされるウサーマ・ビン・ラーディンが、パキスタン・ アボッターバードにて米国の特殊部隊との銃撃戦の末に殺害される。 ▽ 東北大地震の直後、私の事業もあっけなく消滅。 時系列でみると、 10年前に、こんな予測をしても誰も信じない。が、現実には次々に起きている。 とすると、2014/02〜2024/02年は、さらに大きな自然震災、経済災害があるはず。 それを前提に対策を立てておく必要がある。まさか地元の中越地区に二度も、 大地震があるなど思いもよらなかった。いま考えられるのは、首都直下型地震、 南海トラフ地震、富士山の噴火の可能性が高い。また静かな世界恐慌?が 表立ってくるのも自然の成りゆき。その中で、情報革命が劇的に進んでいる。 パソコンがスマフォや、タブレット型に収まるとは、当時は考えられないこと。 次の10年は、メガネ型、腕時計、ジャケットなどの身体の一部になる装着式。 危険な大震災の可能性と、反面、面白い時代になる。ブラックスワンがいるが、 大部分はホワイトスワン。 私個人としてのブラックスワンは、「死」。 5分5分、いや6分が到来? で、その日のための予習を楽しんでいる。 一応、やりたいことは、やり終えた実感は、小さい範囲としても、気が楽。 それも吹っ飛ぶのだろうが。 ≫ 〜以下は、2015年8月25日・記 ▼ 後記)中国のバブル経済の崩壊は、世界恐慌が表立ってくるのか、どうか? 見ものである。一線に立っていれば、由々しき出来事に夜も眠れない? 昨日の夕方、NHK:BSで、『中国の製造業崩壊現場』を、再放送をしていた。 人件コストアップのため、カンボジアに工場移転をしたところ、カンボジアも 人件費が高騰し、人民レベルの質の問題もあり、当てが外れたという内容。 中国経済と、その株式市場の崩壊の影響は、リーマンショックとは、 レベルが違う! 一年、二年かけて、世界の株価が、現在の半値か、 3分の1の可能性もある。目先は、一時的には平成を保つとしても・・ ・・・・・・ 4911,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー50 2014年08月25日(月) * 総括の総括 ー小さな物語のまとめー HP内検索で調べてみたら、2年半前の春先に『事業生活39年の総括』 『シングルイン、31年間の総括』と、二つ似たようなテーマで7〜10回 シリーズで書いていた。しかし、それを全く忘れて、これを書き続けた。 45年と、6年〜14年間延びた分、今回は準備期間の15年間を重点的に 書いてある。(重なりが多いが) 無事、ハッピーエンドで事業が終わって いたら、在り来りの成功物語でしかないし、この3つのシリーズは書くことは なかっただろう。この結果なればこそ物語を再編成をしなければ、45年間を 受け入れることが出来なくなるためだ。創めるまで、こんな準備をし、半狂乱? になって全てを注ぎ生きてきた。それぞれの場面には、それぞれ多面性があり、 重く、複雑な問題が、次々と生じてくる。 時には、直ぐにでも投げ出し、 逃げたくなるような、ドロドロしたものが覆いかぶさる。しかし、重みに 耐えているうちに、それは何時の間に解消していることが多い。そこに必死に 立向かっていた自分が間違いなく、いた。この物語を語らずには、死ぬに死ね ない思いがある。これは誰の人生でも同じ。 書き残すか残こさないかである。 書き残せば、遺言にない、かつ自分への弔辞にもなる。 『ご覧の通り、そのまま結構!』で、これ以上でも以下でもない自分の姿が、 そのまま現れ出ている。私生活では、読書、ウォーキングかポタリング、 事業、秘境ツアーが大きく占めている。 素晴らしい仲間に恵まれ、何とか、 ここまで辿り着いたが、結果は?? それでも、悔いは少ない。 10数年前のつくった辞世の句?『有難う 面白かった 悔いは無し』がある。 「遊び、学び、働き、ぼんやり(中空)」と分け自己満足度を総括をすると、 遊びー80点、学びー80点、働きー40点、ぼんやりー80点。平均で70点。 甘いのは分かってはいるが! バブルと、その崩壊に対する認識の甘さが、 働きの自己評価を大きく下げてしまった。それもひとつの小さな小さな物語。 手がけたホテルを一つの生命体とすると、「新しい経営陣と、前オーナーと 管理者の総入れ替えと、借金の6割カットのリストラ」になる。 新潟駅再開発で、二つのホテル棟が買収が予定されているため、何とか、 それまで持ちこたえれば採算に合う?という思惑があればこそ、新オーナーは、 決断したのだろう。問題は、経営母体の体力になる。私は、20年かけて、 衰弱をしたが。このシリーズ、今回が一つの区切り。あとは、「つれずれに」 で、書き加えていくつもりである。結局は『珍獣』止まりだったが、こんなもの! 別記)『分類』の中の「行蔵ーこんな経験をしてみた」の中に、3つの総括 シリーズが収めてある! 一番、楽しんで読んでいるのが私とすれば、 幸せなこと。癒し、というより何だろう、これ。 ムンクの『叫び』? ・・・・・ 4544, ヨガの瞑想と死者のポーズ 2013年08月25日(日) * ヨガに参加して一年半、経過したが スポーツジムのスタジオでのヨガ教室に週2回、1回につき50分間、 参加をして一年半になる。ジムの盆暮の特別休暇以外で休んだのは7〜8回位 とすると、140回は参加したことになる。毎回、50人の定員はほぼ満席で、 30分前までに行き、参加の予約チップを確保しなければならない。 で、二回は遅れて不参加の事があった。火曜と木曜日の午後で、30代半ば? の女性インストラクターは、それぞれ別。私の見立てで能力、人気も同程度? 2人ともヨガが大好き人間で、それに負けないほど、教えること自体が楽しくて 仕方がないようだ。40坪位のスタジオに50人が一同でヨガをする様は異様 の光景。正面には全面カガミがあり、見た目は100人の姿が視界に入るから、 なお迫力がある。横60センチ、縦120センチ位のフィットネスマットの上で 百種類のポーズのうち、一回につき10数種類はする。そこで言うのは、 「周りの人の視線は無視してください。 マットの上は、それぞれの全宇宙。 独りの世界の入って下さい。他人ではなく自分と向き合って下さい。」と。 スタジオはカーテンで外の光が遮られ、照明を落とした薄暗い中、チャンドラ などヨガの空気にピッタリの音楽が流れ、数分でヨガ世界に引き込まれる。 そこで、直ぐに家で取り入れたのが、瞑想と、死者のポーズである。 死者のポーズは、仰向けの瞑想と思えばよい。仰向けになって。両目を閉じ、 両腕と両足は少し大の字気味に開き、全身の力を抜いて、チャンドラの音に 気持ちを向け、戦場の死者のように横たわるイメージを持つ。 毎回、最後の5〜10分は仕上げに行うが、これが疲れを取ってくれる。 ここで感じるのが「大人数の中の、ひとり」。気持ちの集中で、殆ど他人を 気にすることがなく半睡状態になる。それは、一時間の睡眠の効果に当たる。 仏壇前の、早朝の瞑想は30分、死者のポーズは、やはり午前9時〜20分間、 行う。夜半に目が覚めた時に、大の字になって、気持ちをヨガをしていると 思えば、それをしていることになる。問題は、呼吸を小波、中波、大波が 岸辺に打ち寄せるイメージですること。何事もそうだが、続けること。 この二つだけでなく、他にもヨガのポーズがチョットした仕種の中に入る。 居間でTVを見ている合間に大の字の姿勢で、両手、両足を目一杯伸すとか、 歩いている時に背筋を伸すとか・・・ ・・・・・・ 4169, 老年行動学 ー5 2012年08月25日(土) * 老生自覚 「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一 (著) ≪自らの老いを自覚することを「老性自覚」と呼び、老性自覚には 「内からの自覚」と「外からの自覚」あります。 △ 内からの自覚には、物が見えにくくなったり耳が遠くなったりする 「五感の能力低下」、しわや白髪が増える、歯が抜けるなどの「身体的徴候」、 もの忘れが増えたり、計算が遅くなったり、根気がなくなったりする 「精神的な減退」などがあります。 △ 一方、外からの自覚には、子どもの成長や孫の誕生、配偶者や友人の死、 定年退職、他者からの老人扱いなど、「社会的なできごとや経験」があります。 このような老性自覚は、「老い」にネガティブな意味だけでなく、ポジティブな 意味も感じていた時代には、当たり前のこととして、自然に受け入れられていた のかもしれません。しかし今は、そうではありません。第1章で述べたとおり、 現代人は老いを感じると、暦年齢を主観年齢に合わせるべく、アンチエイジング に励みます。また、身体の状態も75 歳〜80歳ぐらいまであまり下がらずにきて、 最後の数年でガックと落ちるのが今の老人です。日本人の場合、介護が必要に なるのは平均して寿命の1割、7年間か8年間程度なのです。つまり現代の日本人 には、極端にいえば老年期がなく、壮年期のあと直ぐに死と向かい合う時期が やってくるのです。このことは「死に対する準備ができない」ことを意味します。 老性自覚を自然に受け入れ、心も体も徐々に老いていった時代には、 自身が老人になることや死ぬことを、自然に受け入られたのだと思います。≫ ▼ 人は脳卒中や心臓発作などで病院に運び込まれたり、死に直面する病気に 直面し逃げ場のない状態に追い込まれた時や、自信を失ったときにガックと 老いるのである。老人は自分が失敗したことで自信を失うのではなく、周囲が、 それを繰り返し指摘することで生きる気力を失うことが多い。だから周囲は、 これに気づく必要があるが、現実は甘くはない。少くとも服装と言葉と運動量は 注意しておく必要がある。「一年後は無いかもしれない!」を常に意識しているが ・・それでも一期一会の気持が甘くなる。仏壇に祖父の遺影があるが、私より 10歳若い57歳時だが、80歳近くに見える。目先を精一杯生きるしか ないが、果たして死に際、冷静でいられるのだろうか? 充分生きたので静かに逝きたいが、所詮、無理。 ・・・・・・ 3804, iPadを買った 2011年08月25日(木) タブレットPC、来年春のiPad3が出てから買おうかどうか迷っていたが、 思いたったが吉日で、三日前に購入。去年から八月に買うと決めていたが、 この春先の騒動で、それどころではなかった。ここで気持ちも落ち着いて きたことと、「iPadバカ」というタイトルの本を読んだのがキッカケとなった。 そこで実際に手に取ると、成るほど面白い。感想として、これはモバイル携帯 が大きくなったというより、無線のタッチ式タブレットパソコン。 パソコンでゲームをしたことは皆無だが、今度はゲームなどソフトを ダウンロードして、使いこなしてみたい。タブレット(バインダー)で 持ち運びが簡単で、無線であることが、これまでと違った感覚。ベッドや車内 などで、気楽にウェブ上の新聞やニュース、ブログなどを見ることができる。 パソコンの前に座り、電源をオン、ヤフーのHPにアクセス・・ 等々を、 タッチだけで出来るので手軽にネット世界に入れる。しかも板状で、何処へ でも持っていける。 まだ使い始めて数日なので、門前から一歩を踏み込んだ ばかりだが、これは日常の必需品になる。初期投資がゼロ円、ランニング・ コストが5千円が高いか安いかは、その人によるだろうが、新聞を止めて 少し生活を切り詰めれば何とかなる?少し重いのが気がかり。あとは本を 自動的にめくり、スキャンしてくれる器械でも出現すれば良いが。 新聞・雑誌がタブレット式パソコンなどの端末の出現で淘汰されるといわれて いるが、実際に手元に使ってみて、その流れになると確信。先日、近くの ステーキチェーンでランチの写真を撮っていたら、フロアーの女性が来て、 「写真を何に使うのですか?」と、聞かれた。(HPに写真が多く掲載されて いるので、競合店の視察とも思ってもいないはず)「ブログに、気に入った ランチを時々載せているので、これも」と答ると、暫くして再びやって来て、 「店長がブログを見たいので、ブログ名を教えてもらえますか」という。 少し躊躇したが、教えたところ、厨房の辺りから、「出てきた出てきた」 と小さな声。モバイル携帯で早速、何人かで見ているようだった。 そういう時代になったのだ。 薄型タブレット、無線、ツイッターなどで、 誰でも直ぐに情報が繋がると、現実社会の上にネット社会が覆いかぶさる 時代が現実に、こういうカタチでやってきた。 面白い時代である。 ・・・・・・・ 3439, 「うち」と「そと」という、考え方 2010年08月25日(水) 日本人の考え方として、「うち」と「そと」を区別する。 「そとの人」に対し「うちの人」の話をするときには、その人に敬称をつけない のが一般である。元もと「家」の単位をベースにして、その内側を「うち」と いい、一歩出ると、「そと」とする。家の玄関は鍵をしめて用のある人以外は、 あけない。節分には、「鬼はそと、福はうち」と、豆をまく。 江戸時代の藩制度の名残で、属している組織の帰属を第一にする考え方は現在も 続いているといってよい。朝礼、社員旅行などは、うちを固める儀式。 日本的な名残。それが人間関係の中でも、考え方として色濃く残っている。 「この人は、うち側の人で、友人。うち側でない人は、そとの人で、知人」 とする。裏切られたり、騙されると、あっさりと、心の中で、そとの人に分別 してしまう。 面白といえば面白いが。一般的に、家族と、信頼している友人、 そして会社の同僚が「うち」になる。それ以外は「そと」と単純明瞭。 これが個人主義の欧米人からしたら不思議なようだ。欧米は一神教。 ビック鶸と「私」の関係が「うち」で、その神の前で永遠の愛を誓った連れ添い、 そして、二人の間の子供と「うち」が拡大して、「家庭」が存在する。しかし、 日本の「うち」は、多神教をベースにして「家」に、 まず帰属して、その内側が「うち」で、外側が「そと」になる。 私自身を振り返ると、この二分法で知人、友人、同僚を振り分けていた。 一度、信頼を失った相手は、そとの人と、二度と、心を開くことはない。 特に、卑しさを見せつけられると我慢が出来ない。 そういえば、「タテ社会の人間関係」で、中根千枝が《日本社会の人間関係は、 個人主義・契約精神の根づいた欧米とは、大きな相違をみせていて、まず「場」 を強調し「ウチ」「ソト」を強く意識する日本的社会構造に、どのような条件が 考えられるか》を論じ、タコツボ社会が日本的特質と指摘している。 その考え方そのものが、私の造語になるが「タコツボ思考」ということか。 自分を省みると成る程、いやに納得できる。ウツボが徘徊している中でタコは タコツボに入って、最後は人間に食べられてしまう。「うち」と「そと」の間の 「にわ」か「うちにわ」を日本人は昔から取り入れて自然を取り入れていた。
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2015年08月24日(月)
* 義兄の葬儀にて 一昨日は、15年前に亡くなった一番上の姉・正子の連れあいで、私にとって 義兄にあたる故人の葬儀に出席。 去年の11月末に、20数年前のガンが転移 したのが発見されたが、手遅れで、抗癌剤の治療などを受けていた。 享年87歳。出席者は60〜70人で、御斉は25人。 千葉の姉三人の代表として一番下の姉が出席、私は地元の親族代表で出席。 本葬だけで帰ってくる予定だったが、前夜半、不眠で睡眠薬二錠を飲んだ効果 が昼になって効いてフラフラの状態の姉に付添いを頼まれ、急遽、御斎に出席。 姉とともに中座をして骨拾いをしてきた。遺体はゲッソリ瘠せており、末期の 苦痛は酷かったという。これだけは、誰も通らなければならない道。 婿取り娘の長女の連合いで、城下町の価値観の中では、派手な社交人。 夫婦して、あれだけ楽しめば、波乱万丈だが、満足いく人生だったろう。 ご冥福を! 父方の従兄弟と、兄姉の親族の不幸は、15年ぶりになる。 結局、その後、姉を駅近くの従兄弟の家に報告がてら立寄り、 結局、自宅に着いたのが18時過ぎ。 * 北朝鮮が、またも 北朝鮮、何時ものコースの大言壮語で、何か有耶無耶の尻すぼみ。 今週中は、危ないが、北が総攻撃をしたら、3〜7日で、壊滅するのは 軍部は分かっている。状況から見て、金王朝の壊滅が早いのでは? 側近を銃殺するしか?手段がない、若きドン様、当人の粛清は秒読み? あの太り方は、糖尿の可能性が強い。こうなれば、三文スパイ小説レベルの 策謀を少し捻ればよいだけ。あの地雷、北側の軍部の一部が、政権打倒を 目指し、交戦を狙ったとみることも可能。そろそろ終わりの始まりか? これに加え、中国発の世界の株式の暴落がおきそうな空気も出ている。 秋口にかけて、不穏な危ない空気が世界を覆うのか。 ・・・・・・ 4910,ホントに大事なお金の話 −6 2014年08月24日(日) * つれづれに ーあと二割の収入が足りない あらゆる年収の人に「収入は足りてますか」と質問すると、ほぼ全ての人が 「足りてない」と答え、そこで、「あと、どれ位」と聞くと、どの人も決まって 「あと、二割は欲しい」と答えるという。私も、年金暮らしに入り、あと二割が 足りてないため、この実感が強い。これには意味がある。 その収入ごとに、全額を使う消費構造が出来上がっていて、常に不足感が出る 仕組みになっている。老後?のため、逆に二割を預金をするというから、日本人 は悲しい貧乏性である。 地球上には一日一ドルで生活をする最貧民が二割、 12億人も存在する。数日前、TVのニュース番組内で、知的障害のある夫婦の 収入が合計10万円で、時々、ご飯と味噌汁だけの食事場面が映し出されていた。 驚いたのは「生活保護を受けいれ条件を満たしているが、自立をして生きたいため、 頑張っている」という。知的障害があっても、人間の価値としては、ハイレベル である。2食にして、卵、御飯、味噌汁だけとしても? 家内には、年金生活者 の自覚が足ない!と言われるので、最近、机上のダイアリーに、毎日の出金メモ とレシートの貼り付けを始めたが、これはコントロールには良い。それでも、 やはり切迫感が乏しい。御隠居生活に入って気づいたのは、知識としてのお金に 興味があっても、金欲は格段に少なくなったこと。一通りの経験をしてきたので、 何かが欲しいとか、したい渇望は少ないため。 としても、やはり「あと、 二割は欲しい」もの。たかがお金、されどお金、である。お金が自由の塊と すると、全ての人が、二割の自由が足りてないことになるが、その自由を縛って いるのは、個々の固い先入観と思い込み。それに気づいてないから始末が悪い! 「何時までもあると思うな親と金」である。 ・・・・・ 4543, 「ひとり」には、覚悟から生まれた強さがある ー4 2013年08月24日(土) * アルコール依存症のケア 「ひとり達人のススメ」山折哲雄著 私は軽いアルコール依存症?、いや軽くないのかもしれない。医者通いは ないが、酒の上での失敗は多々ある。今では缶ビール一本と、缶のウィスキー の水割一本が晩酌の定番。そのうちの一本がノンアルコールビールだったが、 何時の間にか、ウィスキーの水割に変わってしまった。最近、ガラスの御猪口 でビールを飲み始めた。少しでも胃の負担を少なくしたいため。 その話を 酒友に話すと、「酒で身体を壊した知人が、舐めるように飲んでいる」という。 ここに依存症ケアで、成るほどと感心させられた内容があった。 ーその箇所を、抜粋してみるー ≪さきほどの鈴木先生は、心療内科に通ってくる患者の中にアルコール依存症 の患者がおおかった。先生は、定年で退職すると、アルコール依存症の会の 人々のケアを始めたのです。彼は使命感みたいなものを持っている人だったと 思います。私より2〜3歳年上で、戦時中は海軍に入っていた。 若い頃より軍人経験があり、それから僧堂にも通っていたと聞きました。 座禅の修行をかなり積み重ね、その延長線上に、断食というブラクティスも あったのでしょう。 ・・アルコール依存症の会とは月に一回の食事会で、 参加者は十人ぐらいと聞いています。食事会には約束事があって、それぞれが 自分の夕食として駅弁を買ってくる、そして一合のカップ酒も準備する、 ということでした。アルコール依存症だから全く酒を飲ませないというのは、 本当の治療に繋がらないそうです。 重要なのは、一合のカップを二時間、 三時間かけ、ちびりちびりやること。時間をかけて一合飲むと、酔いませんが、 体にアルコールはわずかずつ入る。みんなで語り合いつつ、ゆっくり飲むんです。 当然、駅弁の中身もゆっくり食べざるをえないでしょう。そうして飲み食いに 時間をかけ、カップ酒も弁当も空っぽになると散会する。なかなか趣きある 集会ではありませんか。この食事会、十人集まってはいても、ひとりひとりが 自分と向き合う時間になっているように私は思いました。みんなとし喋りつつ、 一合の酒の飲み方、駅弁の食べ方を自分で考えで、調整しながら、 自分と向きあっているんですね 》 ▼これはアル中患者のリハビリには最適だろう。まずは晩酌の飲み方から 始めるべし!ということ。ところで、晩酌を御猪口用のミニグラスで飲み 始めたところ、ビールと、缶の水割の味わいが深くなり、更に美味く感じる ようになってしまい、少しでも量を減らそうという魂胆は消滅してしまった。 書物や映画などで、アル中の重症患者の症状を垣間見るが、それは酷いもの。 自分のこととなると分からないが! アルコールは、薬物が水分になっている だけの気違い水。一時でも、狂いたいのは分かるが・・ 当面は、一本は ノンアルコール厳守にすべきか! 緩慢なる自殺のための薬物であるのは 分かっているが、どうも、適度の良い心地の誘惑には・・ ・・・・・・ 4168, あなたが大金持ちではない10の理由 2012年08月24日(金) 「あなたが大金持ちではない10の理由」ドナルド・トランプの著 アマゾンのネットサーフィンで見つけた不動産王ドナルド・トランプの著書 「あなたが大金持ちではない10の理由」が面白い。耳が痛いが・・ まず基本的な考えは「お金持ちになりたいなら、お金を持つ前からお金持ち のように思考しなくてはならない」である。まず金持ちであるかのように 考え振舞うことから始めよ、である。そう振舞ってもダメなのはダメだが・・ ー「あなたが大金持ちではない10の理由」ーとは ① 休みをとらなくちゃいけない・・・と思っている 「休みをとりたいなぁ」と思ったらその仕事はあなたに合っていない。 まず自分が好きになる仕事を選ばなくては! ② 睡眠とらなくちゃ・・・と思っている 著者は一日4時間しか寝ない(午前1時〜午前5時)。 寝る間を惜しむほど仕事に打ち込むことが基本。 ③ 集中力に欠けている 「私は相手が二、三語話しただけで次に何を話すかがわかる。 それが出来れば会話をリードできる」 相手に集中する能力。 ④ テクノロジーに頼り過ぎ メールでは感情を伝えられない。電話したり、直接相手に会うこと。 ⑤ 相手の期待値を考慮していない賞賛や驚きは相手の期待値により変わる。 相手の期待を知って初めて効果があがる。 ⑥ 仲間に頼りすぎている 最後は一人。「どんなことでも自分でできる!」と思い、自分でやるべきこと をやらなくては何も進まない。人に頼りすぎると仕事の遂行が遅くなる。 ⑦ 成功グセをつけていない 一つの成功は次の成功を呼び込む。まず実際に行動を起こし何かを 成し遂げる。著者は「彼の触ったものは黄金に変わる」評判がある。 ⑧ 意思決定がいいかげん 「意思決定は恋人を決めるときと同じように」。多くの人が意思決定を 「一目ぼれ」のように扱っていることを嘆く。会議で他人の意見を聞くのは 「あの子のことをどう思う?」と聞いているのと同じ。 意見を聞きつつ、 注意深く意思決定を進めること。 ⑨ 家族とうまくいっていない。 家族はもっとも重要。 家族と良い関係が、基本中の基本。 ⑩ 好奇心をもっていない 成功者は何にでも興味を持つ。興味はイノベーションにつながり、 成功の鍵。起きていることすべてに興味を持つこと。 ▼ 今さら金持ち云々など、関係ないが、それでも道理は面白い。 上手くいっている人は上記はクリアーしている。会社を創業し軌道に乗せるに、 ほぼ上記をカバーしないと不可能だが、それも震災ひとつで、パーである。 お金は、お金を意識しないで済む程度が一番よいという。年齢にもよるが、 一般的に100万ドルか、一億円が目安。 ・・・・・・ 3803, 哲学人 ー⑤ 2011年08月24日(水) ここでもテーマにした吉本隆明の「共同幻想」という言葉がある。 その典型が国家である。その元になっているのが、ウパニシャッド。 また信長が好んで舞ったといわれる部分の敦盛の歌詞 《 思へばこの世は常の住み家にあらず 草葉に置く白露、水に宿る月 よりなほあやし 金谷に花を詠じ、栄花は先立つて無常の風に誘はるる 南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて 有為の雲にかくれり人間五十年、 下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬものの あるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ・・》 所詮は、幻想のようは儚い一生を鳥瞰した歌詞。 マギーは、ウパニシャッドを簡潔にまとめてあり、分かりやすい。 * ウパニシャッドとは ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 【15、6歳のころ、世界の偉大な宗教の経典を集めた「世界の聖典]という 本を学校の図書館で見つけ、読んでみた。この本の中で、唯一、私の想像力 を心底かき立てたのが『ウパニシャッド』。驚いたことに次の記述があった。 「ー人間の知識と経験の全領域はイメージだけで成り立っており、そのイメージ は流動的であって、永遠不変の存在を持たないのだが、それに対して実在する 現実は、永遠に存在するものであるけれども、我々は直接それを知ることが できず、それを明確に把握することもできないー」。 私は自分の考えが目の前のページに、それも数千年前の昔の書物に載っている のを見て愕然とした。そこには、さらに、私の思いもつかない説明まで書かれて いた。それによれば、「私たちの心には無数の多様なイメージが浮かぶが、 そのイメージを去来させているのは、個々とのイメージと同数の、直接触れる ことのできない対応物ではなく、あるひとつの大きなものである。 私たちは個人として生まれたときから分化し、死ぬと再びそこにとけこむ。 突きつめると、実際には、その大きなものしかない。互いに相容れることなく 個々に分離しているのは、イメージだけである。また、イメージはあくまで イメージであって、主観的ではかないものである以上、そしてとくに、 人間には生来、イメージを独立して存在する事物と混同する傾向がある以上、 イメージを幻想とみなすのは、しかるべき理由があることになる。 分離した個々の事物、人間を含む個々のあらゆる事物は、してみると現像という ことになる。現実には万物はひとつ」 ・・・私には、この見解は確認できない ように感じられたのである。たとえこれが真理であったとしても、そのことを 知るすべが見当たらなかった。 とはいえ、この見解は、ある重大な事実を 痛感させてくれた。私は自分でも気づかぬうちに、ー存在しているものは基本的 に私たちの考えていることに「似ている」、すなわち多種多様なものが存在して いると想定していたー のだが、この想定には根拠がないことが明らかになった。 考えてみれば確かに、現実の本当の姿はどういうものかをめぐるいかなる意見 にも根拠がないように思われる。】 ▼ 過去を振り返ると、実際あの時の経験は記憶とていて残っている。 その対象も物理的に残っているものもある。しかし時間は、記憶も、物理的残存 しているものも、容赦なく変えてしまう。そうすると、残っているのはイメージ。 そうこう考えると、ブラフマンの存在こそ、そこから発生し、そこに戻っていく という考えに、ついつい・・ 夢幻でしか!と。恋愛など、性欲がつくりあげた イメージのダンスでしかない。ダンスが終わったら・・ 類推は、いくらでも出てくる。 ・・・・・・・ 3438, 腰痛について 2010年08月24日(火) 腰痛について何度か書いたが、《下にコピー》 去年も二回書いている。 この一年、日常的な腰の重みはあっても、顔をしかめるほどの腰痛はない。 一年間何もないのは近年には記憶がない。 低反発マットと、海老反りマシーン による背筋伸ばしと、立振動バイブレーション・マシーン効果がでているようだ。 四足だったサルの祖先を持つ人間が、両足で立って歩くようになったのが、 腰痛の原因。特にディスクワークで椅子に座る時間が長い人とか、 立ち仕事の過剰が腰に負担をかけるのが原因。 日常的に心がけることは、 ・なるべく歩くように心がけること(一日1万歩を目安にする)、 ・普段の姿勢で胸を広げアゴをひいて頭を背骨に上に置くようにし、 ・前かがみの時は、屈まないようにして膝を曲げるように心がけ、 拾うときは腰から上は立てたまま膝を曲げる。 ・右手でものを拾うときは、反対の左足を必ず前にだすこと ・電車の座席や、喫茶店、居酒屋で座席に座る時に、足を組まないこと ・腰の冷えに充分気をつけること、また夏の冷い飲物の過剰摂取による 内臓の冷えも危険 ・常に自分は腰痛持ちであることを意識をし、腰痛を目覚めさせないように、 注意をすること ・季節の変わり目には、腰痛になる前から腰痛ベルトを事前にすること などなど、ある。 腰痛と、嫁姑問題は、人類の永遠のテーマのようだが、予防の習慣で、 ある程度は押さえ込むことは可能。腰痛の御かげで、早朝の散歩の習慣を 25年間も続けることも出来たし、姿勢は良くなった。その結果、全身の 血の巡りは良くなった。 まずは嫌わないで腰痛と仲良くすること。 ―― 3063,閑話小題 2009年08月24日(月) * 日本文理高校が決勝だと 日本文理高校が、あれよあれよという間に決勝戦まできた。 国体開催の一月前ということもあり是非とも優勝をしてほしいもの。 今日は県内は大きな盛り上がりになるはず。昨日は県岐阜には勝てないと 踏んでいたが、まさか勝つとは。過去に準々決勝が最高だったから、新潟県 にとっては大快挙である。地元の予選では対戦相手とは段違いの力だったが、 ここまで来るとは思ってもいなかった。彼らナインも監督も同じだろう。 新潟県は、このところ二度の大地震が続き、景気も最悪の事態の上に、 この天候で稲作も期待できない。 優勝でもしたら国体までのつなぎになる。 たまたま今日は飲み会が入っているので、酒の味が美味くなる。 * 新インフルエンザの恐怖 商売が商売だけに、この新インフルエンザで日本中に蔓延した最悪の事態 も考えなくてはならない。半年も客が誰も泊まらないこともありうること。 そうすると「 」考えても仕方がないことだが、現実に有りえることである。 この恐慌?の中で、更に日本経済は壊滅状態。特に地方経済は体力が消耗 しているので深刻の事態になる。ビジネスホテルは直撃を受ける。 新潟国体の特需を計算に入れていたので、もし大幅の縮小となると大問題。 困ったものである。支配人の近所の親しくしている家の子息が新インフルエンザ になったとか。タミフルを飲んでホボ直ったというが、現実に身近に感染者が 出てきたのである。 お盆で海外旅行から持ち帰った菌と、帰省などの国内旅行 でばら撒かれた菌が、10日の潜伏後で表面化する。更に来週から学校が始ると、 密室の教室内で大蔓延するのは火を見るよりあきらか。一ヵ月後には、 日本中が新インフルエンザで大問題になっている可能性がである。 新潟国体の縮小も充分に有りうること。これからは一日一日が、スリルと サスペンスの日々になる! そうこう考えると、恐慌も重なった大津波の 本体が押し寄せてきたというのか。 数ヶ月先も読めなくなってきたが、 それが日本の現実か。 高校野球の優勝かどうかより、直撃を受ける本体 の方が大問題である。 不安と不機嫌の日々がつづく。
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2015年08月23日(日)
ークオリア再構築〜島田雅彦:茂木健一郎、対談集ー 森の生活(現役)からサバンナ(御隠居)に移動して、過去を振り返ると、 分岐点の判断に対しての後悔が出てくる。現場では、取り返しのきかない ことや、逆に適切な判断などが、思いやられる。 しかし、現在の私は、 その多くの過ち、成功の結果の現れ。だからこそ面白い。鋭い対話集である。 * 取り返しのつかないことやってしまう現場 ー島田雅彦 ≪ たった一度の過ちが運命を大きく左右する。 タイムマシンで原始時代に出かけ、美しい花を一輪摘んで、現代に戻ったら、 世界は滅びていた、という話があるが、人生も同じだとしたら、身がすくむ。 過去を振り返る時、いくつもの転機があったことに思い至る。たとえば、 妻に浮気がばれた夫は、あの時、携帯電話を机の上に置いておかなかったら、 隠し通せたのに、と考える。大きな契約を逃したビジネスマンは、あの時、 話題を政治に振らなければよかった、と後悔する。事故に巻き込まれた人は、 あの時一本早い電車に乗っていれば、避けられた、と嘆く。 しかし、誰もが占い師ではないのだから、今この瞬間の行為があとで取り返し のつかない事態になると予測することはできない。運命は刻刻変わるので、 その瞬間に正しい未来予測を立てても、五秒後には変わる。まさに、一歩、 一歩が命懸けである。占い師を過信するものは痛い目に遭う、と相場は 決まっている。細木数子もそれを認めるだろう。 ともあれ、時間は無情に先に進む。 迷っている暇はない。 人も歩けば、過ちを犯す。 だが、諦めを知る人には救いもある。 人生にはオプションがあって、挫折すなわち死ではない。 凡庸な人生を振り返る者より恥多き人生を振り返る者の方が回想は甘い。 輝ける栄光の人生には同じだけ恥に満ちている。英雄も凡人も今際の際 では平等だが、凡人にはこんな思いもある。 どうせ滅びるんだから、もっと過ちを犯しておくんだった。 ワルハラの城は炎上し、ライン川は氾濫する。 きっかけはスワッピングと裏切られた妻のヒステリー。 戦争も革命もそのきっかけは感情のもつれだったり、指導者の勘違いだったり。 英雄がしゃしゃり出ようが、凡人がのらくらしようが、歴史は痛くも痒くもない。 愚か者が英雄になり、売れない画家が独裁者になり、アル中の狂信者が大統領に なり、田舎のモテない男が億万長者になるのだから、歴史は長い目で見れば、 万人に平等だ。≫ ▼「輝ける栄光の人生には同じだけ恥に満ちている」が、 「暗い凡庸の人生にも、多くの光が満ちている」。凡庸の人生も、 輝ける人生も、振り返ってみれば、遠くから見れば、砂利の一つでしかない。 とはいえ、人生は生きているうちにある。 ・・・・・・ 4909,世界の美しさをひとつでも多く見つけたい ー3 2014年08月23日(土) 『世界の美しいさを一つでも多く見つけたい』石井光太著 * 「小さな神様から、小さな物語へ」 著者は、東北震災の地で、苦しんでいる被災民それぞれの「小さな物語」 を見つけ出す。起こってしまった現実に対し、自分を納得させる物語でしか 救われないのである。 ーその辺から(P222)よりー ≪ 「私は、夫が家にいた私を心配してもどってこようとして被災したのだと 思っでいます。夫は私を助けようと命を落としたのだと考えたいのです。 消防団員からすれば、「町のために死んだ」と考えた方が死を受け入れやすい はずです。しかし、奥さんからすればそう考えるより、「自分を助けようと 死んだのだ」と思った方がどこか納得できる。「小さな物語」が落としどころ となって前を向くことができるようになるのです。 ―夫は町のために死んだのではない。自分を助けるために家に帰ろうとし 流されてしまったんだ。私は彼女がそう自分に言い聞かせながら生きていこう とする姿を見て、こみ上げる感情を抑えきれなくなった。彼女にとって、 この物語がどれだけ大切なものであるか。それは闇に閉ざされた海に灯る灯台の ようなものです。この光があるからこそ、彼女は闇の中を進んでいけるのです。≫ ▼ 数ヶ月かけ書いてきたー「事業人生を決心して45年の」の語り直しーが、 これに近い。書くべきことでないが、自らを保つため書いてきた。いや、 このブログが、毎日の「小さな物語」。「死んで3日も経てば、300年前に死んだ と同じこと」というが、書き残こせば、痕跡になる。成るほどブログは墓場。 毎朝、過去の10年以上の同月同日の文章に目を通すが、これは過去の自分自身 への墓参りでもある。 ・・・・・・ 4542, 閑話小題 ー種銭の話 ー3 2013年08月23日(金) * 種銭は、まず一億が目安 日経新聞の『私の履歴書』で、誰かは忘れたが、「事業の種銭は一億円。 そして次は三億。何はともあれ、その金額を用意すること。」と語っていた 言葉が記憶に残っている。20数年前のことだが、その間にデフレもあり現在 でも通じる金額。「富裕層=ミリオネア」が金融資産1億以上というから、 これがロットしての目安のラインとみてよい。ミリオネアが、世界では1千万。 日本で190万人が存在するというから、一世帯あたり2・46人とすると、467万人、 総人口1億2600人として、37世帯に一軒が1億円の現金を持っていることになる。 「40軒弱の世帯が一億の現金を、その70倍の2700世帯に一軒が10億の現金を 持っている」と、家内の反応をみたら、「そんなにいるはずがない!」と 取合わない。 地方の最もマイナーの経済地域にいることもあるが、大学の 友人を見ると、有り得ること・・ 33年前の私の創業時の手持ち金額が1億。手持ちの土地が1億で、合計2億。 それに1億8千の借入で、総計3億8千が、最初のホテルの投資額。これが創業 としてのロットとすると、こんなもの。 ホテルは創業は華々しいが、一度、 投資をすると20年〜30年かけ回収する地味な装置産業。結果からして、10年を 節目で売却、転身すべきであった。その辺りが私の限界である。事業年齢から みて30年経過後の老衰死。 残ったのは、家内名義の自宅と、家内名義の 幾ばくかの預金と、何とか人並みに過ごせる?二人分の厚生年金分。 子供が本気で事業を望めば、自宅を売却して何とか・・ だが、子供も家内 にも、「家のために」「自主独立のため独立」とかいう気が全くない。 それより世界恐慌の本番に向け、下手に事業などしない方が得策。ところで、 100億、いや10億の現金があったら、何をしたいか? 今さら、何もない! 50歳代までに遣り尽くした感があるので、今さらハワイかシンガポールへの 移住するのも面倒。京都か、軽井沢近辺に住みたいとも思わない。 あとは人生をスキップしながら、適当に生きていければ充分。 世界恐慌の最中、衰退する地方も面白いと思えばよい。 ・・・・・・ 4167, 老年行動学 ー4 2012年08月23日(木) 「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす」佐藤 眞一(著) * 「長寿者は少食」という、間違った思い込み 両親をはじめ、若い時から老齢の人との接点が多く、人生を充分に生きた 人たちのエキスを得ることができた。最期は脳梗塞やガンなどで亡くなった。 それぞれが壮絶で、生きた人生のとおり死んでいったが、死んでしまえば、 それまで。身近で知る限り、80歳から一年一年、急激に体力が落ちていく。 中年まではメタボにならず、老齢期に入ったら、逆に痩せ過ぎない方が良い。 長寿の人は、小食というより肉にしろ魚にしろ何でも食べる人が多く、食事を 楽しみにしている。愚痴は少なく、明るく何事にも興味を持つ性格が共通。 それと孤独の人は認知症になりやすいという。人の接点が少なくなり、 それが存在理由を小さくし、内に篭もる。それが認知症を進める。一般的に 男の方が定年後、横の関係が出来てないため孤立傾向になりやすい。 妻に先立たれると、孤立する傾向が強くなる。そこで個食が孤食になり、 その寂しさからアルコール依存症になっていく。 一度、アルコール依存症 になると、倒れるまで飲まないと気が済まない状態になる。その結果、孤独死。 孤立する原因に、時どき新聞ネタになる「ゴミ屋敷の住人」の主がいる。 老人の判断基準で分別が出来なくなり、苦情などでゴミを捨て辛くなり、 その結果、家はゴミの山になり近所との軋轢が出てしまう。この傾向は全国的 にエスカレートしている。私も、家内に先立たれたら直面する可能性がある。 自分の年齢と、その自覚の差異が7歳もあるのが問題の一つ。精神の老いに 生活が追いつけなくなる問題である。 もう一つ70歳を過ぎると免許証の 返納を勧められる。しかし本人にとって最後の砦を失うことになる。 危ないという自覚がないから、尚のこと。歳をとり日常生活でイライラする ことが多くなるほど、車の運転は自己効力感が強くなり、貴重な楽しみになる。 それを取り上げると、気力も何も無くしてしまう。いずれに、直面することに なると思うと暗くなるが、今日一日を精一杯生きていくしかない。 老人化も、冷静にみれば面白いもの。生きているだけ儲けもの? ・・・・・・ 3802, 哲学人 ー� 2011年08月23日(火) * 驚きを忘れた人々 (P/29より) 【 あらゆる意味とあらゆる目的がこの世界のなかにあリ、価値と道徳は人間に よってつくられる、つまり、価値と道徳は社会的・歴史的に形成されるのである。 真実はミステリアスであるとの意見を『彼ら』は理解できず、それゆえ人間の 経験の意味するところは私たちの理解を超えているのかもしれなといった意見を、 まわりくどい戯れ言(その正体はやはり宗教的なもの)とみなした。 私にとってこの態度のどこがいちばんなじみにくく、理解しがたかったというと、 それは私たちが存在していることに、というより、なんらかのものが存在して いることに驚異(あらゆるものが奇跡にほかならないということ)を感じる 感覚が欠けているという点である。 結局のところ、深く考えなくても、 子どもくらいの思考力さえあれば、私たちの経験のきわめて一般的かつ基本的な 特徴すら私たちは自分では気づいて当然なのに、私がいま述べているような人々は その点を見抜けなかったらしい。ある種の常識的なものの見方がほぼ正しいという ことを自明だととらえているようだが、私にとって自明だったのは 「常識は正しくない」ということだった。あっという間に不可解さと自己矛盾の 泥沼に嵌ってしまうからである。さらに正直に言うと、「『彼ら』は常識的な 世界観を否定することをばかげているとみなしたけれども、私からすれば、 それを容認することこそばかげていた。彼らの見解は、その基盤を顧みない あいだしかもちこたえ代物だった。はなはだ浅薄であったばかりか、支えとなる ものはなく、ぽっかりと宙に浮いていたのである。『彼ら』の見解の根本を 問いただしても、そうした疑問はことごとく退屈で的はずれなものとして 退けられた。世界や経験のさまざまな基本的特徴は、人間の推理力ではとうてい 理解できそうにないという事実に注意を向けようとすると、彼らはこの事実を 逆手にとって、問題を提起することを封じこめた。彼らの望みは、理解できる 事物の領域に自分の人生を閉じこめることだった。最初に挙げたクルーブと比べ ると、わずかながら深遠で批判的でもあったが、結局、両者の態度には多くの 共通点があったのである。大人になるにつれて、世界にまつわる驚異の念にひたり、 世界が差し出す解決できそうにない問題(とくに、時間、空間、物体の知覚、 物体の本質などに関する問題)にのめりこんでいったおかげで、私はまわりの 人たちからやや孤立することになった。こうした問題を語りあえる相手が 見つからなかっただけではない。そんな問題をもち出せば変人扱いされかねない ことを思い知らされたのである。人づきあいをしなかったわけではなく、 人生のほかの局面ではとても社交的な人間だった。昔から友人はいたし、 17歳になって恋愛もした。 パーティが大好きで、熱烈な音楽愛好家にして、 芝居通でもあった。それでも、経験のきわめて形而上学的な次元に心を奪われて いることは、たとえ日々そうした問題に取リ岨んでいたとしても伏せておくべきだ と知った。そんなふうに孤独感を覚えながらも、この問題に取り組んだのは、 なんといってもこの問題が圧倒的に重要であったからだ。私たちの本質や、 私たちが暮らしている世界の本質にとって根本的であるのに、こうした問題に 何故誰も魅了されないのか理解できなかった。頭の良い人なのに、何よりも 重大な問題に暗黙のうちに禁じられているには、何とも奇妙に思われた。 】 ▼ ここで、マギーは「 私にとって自明だったのは、常識は正しくない ということだった。あっという間に不可解さと自己矛盾の泥沼に嵌ってしまう からである。さらに正直に言うと、彼らは常識的な世界観を否定することを ばかげているとみなしたけれども、私からすれば、それを容認することこそ ばかげていた。彼らの見解は、その基盤を顧みないあいだしかもちこたえ 代物だった。」と、述べている。常識は、殆ど正しくないことは、今さらだが、 あえて事を荒立てることもない。私も常識とやらは、ほぼ間違えていると、 この年齢で実感する。考えてみれば「あの人は常識人」ほど侮蔑の言葉はない。 大部分である常識人のいうことを、まともに聞いてきた人生、何だったのだろう。 ・・・・・・・ 3437, 64歳の現時点で、感じること! ー2 2010年08月23日(月) * あと5ヶ月で65歳になるが 65年の人生を振り返ると、月並みだが長いような短いような感じだが、 決して長くはない。アッという間である。家庭に恵まれていたし、時代背景にも 恵まれていた。 満足度は70、いや80点である。明日の金が無くて呆然とした ことも無かったし、人間関係で悩むことも比較的少なかった。また事業を四十年 近く、やれたことが良かった。また装置産業を選択したため、自由時間に恵まれた のが良かった。好きな秘境ツアーも、私の環境=条件内では最大限に楽しむことが できた。 好きな本も充分に読むことができた。 好きな箱物(ビル)造りも、 小規模だが増築を含めると8棟を立ち上げることができた。もっと事業を大きく できたチャンスがあったが、恐慌になった現在、それが良かったかどうか。 第二次世界大戦の終了から、米ソの対立、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中国の 文化革命、そして、ソ連と東欧の崩壊、日本の高度成長、バブルと、崩壊、 そして失われた20年という長期停滞。ニューヨークの9・11テロと、 アフガン・イラク戦争。そして、極めつけがアメリカ発の大恐慌である。 それが今後、10〜20年と色いろなカタチで、20世紀的なものや、文化の 破壊がすすむ。65年の人生で、半分以上は成長期の時代を味わってきた。 特に20代、30歳代は、高度成長期にあたっていた。もう日本が、これだけの 右上がりに成長を謳歌する時代は二度とこない。そうこう考えると本当に良い 時代背景だった。情報化社会の到来で、劇的変化を始めた時代の入口を生きている。 その変化は想像を遥かに超えている。毎日が驚きと、感動と、おののきの日々。 それにしても知らないことが多すぎる。 ・・・・・・・ 3062,階級社会だと! −2 2009年08月23日(日) 上流階級?の人が落ちぶれた時に、階級の存在をシビアに知ることになる。 その時のハビトゥス(その人の習慣をつくりあげている文化構造)の崩壊の プロセスを身近で何人か見てきた。その崩壊は人間性の崩壊になる。 階級社会にとって必要なことは、その入れ替えの弾力性である。弾力性が 無くなれば階級社会が自滅することを経験的に知っているからである。 時間軸の長短から考えれば誰もが成上がりでしかない。イギリスは階級制度 のハッキリした国であるが、その入れ替わりには長年の経験上、当然のように 受け入れるシステムになっている。新しい価値をつくりあげれば、その価値 の創造者として認める。日本でも明治時代の伝統で、家柄より学歴を優先する 社会的システムができている。日本の最も優れた文化資産である。 (字数制限のためカット 2011年8月23日) ・・・・・・・・・ 2697, 散歩について 2008年08月23日(土) 散歩の習慣と効用については何度か書いてきた。1月から3月半ばを除けば 毎朝、豪雨でない限り歩いている。もう25年ほどになる。年々少しずつだが 歩数は減っているが、それでも毎朝一時間弱は歩く。 日本人の歩行は、 この三十年で激減しているという。30年前で7000歩が現在では 6000歩弱に、車通勤では、4000歩も歩かない。江戸時代には日本には 散歩という概念がなかった。車がないので、何処に行くのにも歩いていたから、 敢えて歩く必要も無かったようだ。それでも、現代人と比べると3倍から5倍は 歩いていたという。西欧人のように、「楽しみのための目的なしの歩き」に名前 を散歩と名をつけたのは、勝海舟であった。氷川清話には、散歩の話がところ どころ出てくる。散歩の語源は、漢方の言葉で、漢方の内服薬を飲んだあと、 その薬を早く吸収させるため歩くことを意味していた。勝海舟は、外国人が 生活の中に散歩を取り入れているのを見て、心身の健康の効用を看破した。 私にとって、散歩のない日々は考えられないほど、日常生活の一部になっている。 大雨で歩かなかった翌日など、身体から毒素(恐らく活性酸素だろう)が抜けて いくのがわかる。それと、脳の活動が活発になるのも分かる。これを続けて いると鬱病などなる訳がない。早朝に、陽光にあたりながら、鳥の声と、川の せせらぎの音を聞きながら、深呼吸をして歩いていれば、マイナス思考など 出ようがない。最近はiPodでアルファー波のタップリ入った音楽を聴く習慣も 取り入れた。哲学の小道が京都になるというが、決まった道を、他のことを意識 しないですむ道という。ソクラテスではないが、プラトンなどと問答しながら 歩いたのは、脳が活性化するためである。散歩を健康のためとか、考えるため、 というのでは長続きはしない。あくまで楽しい日課の一つとして取り入れて、 スキップするような気持ちで歩くことだ。最近80歳過ぎの少し痴呆症の入った 年配の人が散歩をしている。道に立って、来る人来る人に手を上げて親しそうに 話しかけている。 (字数制限のためカット 2012年8月23日)
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2015年08月22日(土)
「読書の腕前」ー◆_崎武志著 ー 読書日記 〜 * 本は「即効性のない」メディア 倉庫内の書棚で見つけて再読しているが、HP内の検索によると、 2008年1月31日に一回だけ、書評を書いていた。(後にコピー) 当時、熟読はしてなかったことは、読書日記が一回で終わっていた ことでわかるが、この本、改めて精読すると、なかなかの内容。 ここで、著者は「人間の土台は、『読書』がつくる」というが・・ それにしても、半世紀以上の読書を続けてきた割に、人間としての土台が、 軟弱なのは、20歳までの読書の絶対量が、あまりに少なかったためと、 自覚をしている。 〜その辺りから抜粋〜 ≪ 本というのはじわじわ効いてくる。あるいはそのときには気づかなくても、 後になって考えると、ちゃんと効果があった、とわかる。または、効き目が なくとも、いつのまに溶けて、静かに体内に吸収されてしまっている。 本とはそういうもの。だから、「本というのはもともと不便なもの」だと 北上はいう。 注目すべき発言である。ところが、現代は「不便」を嫌う。 効率や至便性を重んじて、極力「不便」を切り捨ててきた。 その点、本は、いやでも読む場所を固定し、そこに自分の肉体を釘付けにし、 いくばくかの時間を費やさなければならない。「読む」という意志も必要だ。 「不便」なことこのうえない。「そこに便利なものを求めてしまったら、 ものの中身が変質してしまうという怖さがあるでしょう」 北上は非常に重要な ことを、静かに主張している。なぜ、そんなに急ぐのか。なぜ、とりあえずの 結果や答えを求めようとするのか。仕事のことでは、大切なことかもしれない。 しかし、それは本の役目ではない。「あらすじ」だけ知って事足れりとした のでは、その本と出会うチャンスを永遠に放棄してしまったことになる。 本を読んでいる時間が惜しい? いや、ほんとうに惜しいのは、 読書の時間を失ってしまったことのほうだ。 『だれが「本」を殺すのか延長戦』で、デザイン評論家の柏木博と対談した 佐野は、こんなことを言っている。「幻想かもしれないけれど、僕は本という ものは、時間の流れを一瞬で止めることができるメディアだと思うんです」 われわれは否応なく時間によって動かされている。現代に生きる以上、 それから逃れることなどできない。画家のクレーは「人間という動物」を 「血でできた時計」と定義した。われわれはまるで、血という電池で動いて いる時計、なんだと。 読書はそんな時間の流れに逆らう行為である。 視覚と脳を通して、読めない人にとりては記号や模様にしかすぎない文字を、 速やかに解読し、心と身体になじませていく。こうした奇跡のような行為は、 文字通り、時間を忘れて没頭しなければできない。天体の運行も、この地球上 のすべての時計の針も止め、ひとところにじつとして、ただ本のなかを流れる 時間だけに身を委ねる。そんな至福の時間を放棄して、「あらすじ」だけで 答えを求めて何になるというのだろうか。 〜p18・19 ≫ ▼ 人間を、「血で出来た時計」とは、いい得て妙である。 大学に入るまでは、試験勉強に追われ?面白いと思える純粋な読書習慣は、 あまりに少なかったが、20歳・30歳代は、一日、2〜3時間、40歳代は4時間、 50・60歳代は5時間は、読書に時間を当てていたが、ノートや手帳に記録する 習慣がなかったことが悔やまれる。 50歳半ばから、この随想日記に書き残して きたが、それまで大学ノートに、せめて1〜2ページの読書録、備忘録を書いて いたら、格段に豊かな知識の相乗効果があったはず。知識の蓄積の量と質は、 直ぐに露出するから怖い。 〜つづく ―――― 2008年1月31日 「読書の腕前」ー 面白そうなところを何箇所、書き写してみた。 なかなか含蓄のある読書論であり、何度も肯いてしまった。 ーー 川面に多くの舟が漂っている、私たちはひとりひとりが違う舟に乗って 流されている。中には錨を下ろしている舟がある。 川の流れを時の流れ、舟を人生にたとえたらいいだろうか。そして、 本を読んでいる時間は、動かぬ舟の中で、川の流れを感じるようなものだ。 川は永遠に流れていく。水がある限り、流れることをやめようとしない。 そんな悠久の流れを、ひととき止めたりを舟の中で感じる。 本を読むということは、そういうものだと思っている。 ―ー 寝床で読む、喫茶店で読む、電車で読む、バスで読む、食事中に読む、 トイレで読む、風呂で読む、眼が覚めている間中ずっと読む。 ーー 飯島耕一が 「何もつよい興味をもたないことは /不幸なことだ /ただ自らの内部を / 目を閉じてのぞきこんでいる。/ 何にも興味をもたなかったきみが / ある日/ ゴヤ のファーストネームが知りたくて/隣の部屋まで駈けていた。」 「生きるとは / ゴヤ のファーストネームを/ 知りたいと思うことだ」 ーー 読書に費やしたこれまでの膨大な時間を、もっと別の有意義なものに 置き換えられなかったのか。そんなふうに悔やんだことは一度もない。 一度もない、といま気づいたことに驚いている。 ほんとうに、一度もないのだ。そうして生きてきたのだ。 だから、明日からも同じように生きていく。 ー― 「本を読むことで得る大切な収穫の一つは、他者を知ることだと思います。」 色川武大 「読書の楽しみの一つは、私にとってこの他人を生きること、 他人になれる喜びかもしれない」 遠藤周作 「僕は本を読む労働のための忍耐力をつちかったのである」 大江健三郎 本は膨大な人間のモデルを提供してくれる。しかも、相手の忖度を気にせず、 思うまま、自由にそのモデルと触れ合うことができるのだ。 ーー 田辺聖子が読書論の中で、 「もし出世と引き換えに何をとるか、ということになったら、それは何か」と、 同年代の友人たちと、あるとき話題になった。さまざまな意見が飛び出した。 いい女房を持つ、硬骨に生きる、世間を捨てて山頭火になる・・。 しばらくして、誰かがしみじみ言ったことに、みんながうなる。 「出世せんでもええ、毎日読みたい本を読んでたのしく暮らせたらええなあ・・」 ^^^^^^ 以上だが、今のところ読書が人間にとって、一番良い習慣である。 最近はインターネットというトンデモナイ手段が出てきたが、 それでもジックリと他者と対話が出来るのは本である。この本も、直ぐに アマゾンの中古本を発注したが、まだまだ面白い箇所が多数ある。 バイ(´・ω・`)ノ ーつづく ・・・・・・ 2333, ホッファー −2 *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ! 4908,世界の美しさをひとつでも多く見つけたい ー2 2014年08月22日(金) 『世界の美しいさを一つでも多く見つけたい』石井光太著 * 小さな神様見つけ方〜◆〜蠎蠅諒弧で大切にしている神様を見出す! 人生は妄想によって生み出した「小さな神様」に頼って生きるしかない過酷 の旅でもある。それが過酷であるほど、しがみつくしかない。 宗教の原点が、そこにある。 ーその辺りから抜粋ー 《 ムンバイの売られたレンタルチャイルドでさえ、マフィアを心の拠り所 としている。これまでの旅で出会った人たちも同じでした。 たとえば、 ヨルダンのナイトクラブで会ったイラク人売春婦は男性客を不安に怯える自分 を支えてくれる大切な人と見なしていたし、バングラデシュの公園で暮らして いた少女は変質者の男性を一緒にいてやさしくしてくれる大人と見なしていた。 みんなそれぞれ闇の中で何かしら心の拠り所をつくり上げ、それにすがり つきながらがむしゃらに生きていたのです。人間は絶望の底につき落された時、 懸命に光を見出そうとします。それは、救いを求める人が神にすがる行為に 通じるものがあります。「貧困に生きる人々が苦しみの果てで生み出すのは 神様のようなものだ」といえるはずです。もちろん、ここでいうのはキリストや お釈迦様のような存在ではありません。教義を有する宗教における神ではない。 ただ、個入にとっての救い主という意味では、同じような存在であり、私は それを「小さな神様」と呼ぶ。マレーシアであった兄妹の彼女は、誕を垂れ流し、 会話もできないほどに精神を病んでしまっていた。そこで兄は妹を連れて祖国の スーダンを離れ、知り合いを頼ってマレーシアに辿り着いた。コタキナバルで、 兄は妹にリハビリを施していました。心の闇を吐き出すために絵を描かせ、 静かな公園へ連れて行って気晴らしをさせたりしていた。 私はそんな二人と 何度か話をしたのですが、妹が妙なことをいいだしたことがありました。 こんな話でした。「スーダンの故郷には、私のことを待ってくれているやさしい 人がいるの。兵隊さんなの。私は彼と結婚するつもり。だから、国に帰りたい」 どうやら彼女を拉致監禁した武装組織の兵士と婚約をしているということでした。 なぜ自分をつかまえてレイプをした側の男性とそんな関係になったのでしょうか。 兄はその話題について詳しく説明しようとしませんでした。ことの真相を知った のは、しばらく経った日のこと。その日、私たち三人が暮らしている安宿へ 赴きました、そこで兄から妹が語る「婚約者」について・・・ それは彼女が作り上げた妄想でした。(略)・・・そうやって生み出された 個人のごく小さな希望や幸福が「小さな神様」となる。私は他者を見つめる際に 大切なのは、相手がどんな小さな神様を抱いているかを知ることだと思います。 その人にとって希望だとか幸せだとかいったものは「小さな神様」に集約されます。 それを発見することが、その人の価値観に寄り添って物事を考えることにつながる。 ・・それでは、小さな神様を見つけるにはどうすればいいのでしょうか。 決して難しいことではありません。 一言で表せば、「自分の文脈で勝手な 価値観を押し付けるのではなく、相手の文脈で大切にしている物を探すこと」 その人が何を小さな神様と見立てるかには、きちんとした理由があります。 何かしらの文脈で小さな神様ができ上がっているのです。従って、その文脈で 考えさえすれば、ちゃんと小さな神様が何であるか、つまり何を幸せとして いるかが見えてくるはずなのです。》 ▼ いかなる惨状の中でも、必ず希望を見出して生き抜く人間の生命力、 そこには、惨状だからこそ、浮かび上がってくる小さな神がいる。 そこでは、世界がひっくり返るほどの感動、美しさが見えてくる。 それが、著者が伝えたいこと。 ところで、私の小さな神様は何だろう? ・・・・・・ 4541, 「ひとり」には、覚悟から生まれた強さがある ー3 2013年08月22日( * 宗教の伝統的な実践による心の治瞭 「ひとり達人のススメ」山折哲雄著 私が学生の頃、親戚が末期ガンと知らされ、その苦しみ恐怖から逃れるため 『写経』に没頭し亡くなっていった。この本で、死の恐怖を克服する実践に 『写経』と『散歩』を上げている。『散歩』には遍路や巡礼が含まれる。 早朝の散歩で、吐く息に身体の毒を、吸う息は大自然の霊気を入れ込む イメージすれば、身体に良いはずである。 ーまず、その辺りを抜粋ー 《 三十代で、絶食によってわが身体とは何かを考えるようになった私は、 体と心の関係に強い関心を持ち始めていました。そして四十代に入ると、さらに 興昧深い出会いが待っていたのです。さまざまな経緯があり、私は母校である 東北大学の文学部に宗教学の助教授として迎えられることになり、東京から東北 に戻りました。当時の母校の医学部には、最近亡くなられた鈴木仁一先生という 心療内科の助教授がいらしゃった。心の病がからんで、どの科でも回復の望めない 患者が、心療内科の鈴木先生のもとへ送られていました。彼は患音の心の病を治療 する、今でいう心身医療の専門家でした。その鈴木先生がやっていたのが絶食療法。 もともと戦前の東北大医学部では、女性のヒステリを治す治療法として絶食療法が 行われ、基礎が出来上がっていた。その診療法で女性のヒステリーの60%近くが 治ったという結果もある。先生は、その絶食療法を中心に治療している。ただ、 絶食療法は、誰でも有効というわけでない。どういう人が効くかというと、 意志の強い人だと、いっておられる。そこで思い浮かんだのが山頭火。 山頭火のような修行ができる人間というのは意志も意地も強かったはずです。 意志の弱い、普通の人は、なかなか絶食療法ができない。 私が「死ぬきは断食で死ぬよ」と言ったら、賛成する人もいるが、 「それは思った以上に大変なことだよ」と、反対する人もけっこういます。 やはり食を断つということは並大抵の覚悟ではできないのです。 それでは 意志の弱い人には、どういう治療をほどこすのかを尋ねると、「写経」という 方法あると先生言下に言われた。それから「散歩」とも。俗世の欲望を捨てる ための修行のひとつに「とそう」というものがあります。「行脚とそう」 ともいう。これは徒歩で修行のために諸国を遷ることです。お遍路も含めて 巡礼というものは、みんなこれに入るでしょう。けれども写経や散歩はいろんな レベルのものがあって誰にでもできるので、人それぞれに応じたことを薦めます。》 ▼ もうダメと悟ったら、断食を考える。無理なら、四国のお遍路に出るか、 身体が動ける範囲で近くを歩き回る。 天候の具合で、疲れて家に居るときは、 写経を書いて過ごす。それも終わりに近づいたら、点滴などを拒否し、可能な 限り、食を絶って、自然死を待つ。そのぐらいしか出来ないが、身内に今のうちに 伝えておくこと。 死に時には死ぬ覚悟が必要!以下の、去年の文章が丁度よい 内容である。老いの準備から、死に準備の移行である。 あと一年数ヶ月で「古希」になる。 ・・・・・・ 4166, 老年行動学 ー3 2012年08月22日(水) 「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一(著) * 長寿の人の共通点 ーわがままに生きる 「憎まれもの世にはばかる」ではないが、歳をとると因業になる。 先がないので抑えていた我がままが表だつ。 長寿の共通点が「わがまま」。 わがままと因業は紙一重。 ー その辺りをまとめてみた。 【 日本には100歳をこえる人は4万8千人いる。50年前には153人 しかいなかったというから300倍以上。10年前で1万人をこえたという から、僅か10年で5倍である。人間の寿命の限界は、フランス女性の122歳。 100歳以上の人に対し医学や遺伝子の様々な研究が行われていて、心理学研究 では、ある程度共通した性格ががわかっている。男性の場合は、性格が几帳面で、 自分を曲げないで、日課がほぼ決まっていて、生活がきちんとした人。 女性の場合は、明るくてわがまま。ちょっと強引だが、周囲の人を幸せにして くれる‘大阪のオバチャン’みたいの人。男女とも「わがまま」の人が長寿。 「自分勝手」とは、少し違うが、我が強い人である。「わがまま」の意味は、 「自分が決めたことを、自分の思うようにできている」で、誰かが元気がない時、 その人が喜びそうなことを、積極的に動く人。それは「自律できている」こと。 自律を保つことで幸福度を高く保っている人ということになる。アメリカの 心理学者が、面白い実験をした結果がある。 ≪ 三匹の犬を一緒につなぎ、電気ショックを与える。 一匹目は、電気ショック を与えたら、鼻でパネルを押すと電気ショックを 押すと止むようにし、二匹目は、一匹目が押した時に、電気ショックが止むが、 自分では何をしない。三匹目には何もしない。これを繰り返した後に、 それぞれを仕切に分けたボックスに入れて、電気ショックを与えると、 二匹目の犬は、すぐに飛び越えられる低い仕切りでも、うずくまっただけで、 逃げようとしなかった。この犬の状態を「学習性無力感」と呼ぶ ≫ 】 ▼ 何か勤め人根性が染み付いて、退職後に誰も指示しないため無気力になる 大方が二匹目の犬に近い? 身につまされる人が多いだろう。身近な人に似た ような人がいるが、人生は誰も同じようなもの? わがままな二代目か、婿取り 娘が果たして長生き?かというと、そうでもない。それぞれ気苦労がある。 ライフワークを続けること自体が、わがままになるが、10年20年が必要。 今からでも遅くはない。 ・・・・・・・ 3801, 哲学人 ー 2011年08月22日(月) 『哲学人』 ブライアン・マギー著 ー読書日記 ー 第一章 子供のころの記憶 〜時間に始まりと、終わりはあったのだろうか?〜 【 何かが存在するためには、その何かは「ほかのものとは違う何らかの個性」 を備えていなければならない。つまり、その何かは「異なるもの」も存在して いなければならないのであり、その「何かに限界がなければならない」のである。 したがって、いまあるものに終わりがないということはありえず、いまあるもの に始まりがないということもありえない。私は始まりのない時間も終わりのない 時間も不可能であると確信するようになった。かといって、始まりや終わりが あるという可能性をつかめそうにないわけでもなかったが。さらに、似たような 問題が空間に関して存在することにも、私はすぐに気づいた。いまでも覚えて いるが、ロンドンからイングランド中部のマーケット・ハーボロに 疎開していたころ(確か十歳か十二歳の頃だった)。公園の芝生に横になって雲 一つない青空をずっと奥まで見通そうとしながら、こんなふうに考えたことがある。 『 もし僕が空のなかにまっすぐ、昇ってそのまま突進んでいってたら、 どこまでも進んでいけたっていいはずだ。でも、そんなことはできない。 どうしてできないのか? きっと最後には終わりみたいなものに突きあたるから だろう。だけど、どうして?最後に何かにぶつかるのだとすると、その何かは 空間のなかにないといけないんじゃないだろうか。そして、その何かが空間に あって、空間ももっとあるとすると、その向こう側にも何かがあることになる んじゃないか。ただ、そうすると限界がないことになるけれど、終わりのない 空間なんかあるはずない。終わりのない時間がありえないのと同じである。』 こうした問題にしきりと頭を悩ませた末、私はこう考えるようになった。 最大の間違いは、自分に想像できないものがあるはずはないという仮定にある のだろう。 考えられることと、実際にありうることとは違うのかもしれない。 結局のところ「つぎはどうなる? そのつぎは? そのつぎは? そのつぎは? 」 と、ずっと問いつづけていれば、確かにある意味では、永遠につづいていく ものがあると考えることはできる。しかし、その永遠につづくものは考え られるだけで、実際には存在しないということも、当たり前のような気がする。 無限というものは、考えることはできても、存在することはありえない。 たとえば星の敗が無限であることなど実際にはありえないように・・。 それとも、自分は落とし穴かち抜け出そうとしているのに、いままた落ちつつ あるのだろうか? ともかく、真相がなんであれ(考えられるものが存在できず、 考えられないものが存在できるとしても)、それは自分が現に抱えている問題を 解決する役には立たないだろう。 時間に始まりがあるのかないのかについて、 それは真相を教えてくれないからである。いったい、このふたつのうちどちらが 本当なのだろう? 】 (字数制限のためカット 2015年8月22日)
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