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堀井On-Line
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2014年09月15日(月)
* 未知の外界に接し、子供のように興奮する! 『コトの本質』 松井孝典著 現在の毎日が、まさに〔未知の外界に接し、子供のように興奮する日々〕である。45年間の事業も、 その日々だったし、秘境ツアーも同じ。 現在も、その延長にあるためか、毎日が充実をしている。 ーその辺りからー ≪ 大学という環境で、私はいつもエネルギーが高い状態を保てます。歳をとると、普通は、 だんだんその状態から落ちていくわけです。安定した軌道上に落ちてしまって、変化がなくなってくる。 引退するときに、よく、刺激を受けなくなったとか、燃えなくなったとか、モチベーションがなくなった とかいいますが、同じこと。 私は、脳の内部モデルを更新していくということが、無性に楽しいわけ。毎日のように、 生命や地球、太陽系、銀河系、宇宙について、次々といろんな新しいことがわかるわけでしょう。 タイタンに探査機が軟着陸して、探査するとか、どんどん未知の現象が眼前に飛び込んできます。 それについてどう思うか、考えさせられているわけ。夢中になります。わくわくします。 子どもみたいなものです。 未知の外界に接して、興奮する日々を送る。本当は、そのような機会をより多く与えることが 子どもの教育にとって必要なことなのです。他と接することによっておのれを知る。 これが教育の基本です。いまの教育に欠けているのは、まさにその点です。 それが欠けているから、自分を持たず自分の頭で考えられない、ろくでもない子どもが育って しまうわけで、ほんとは、子どもというのはそういう環境下におくべきなのです。 外界と接し、境界を拡大することによって、自らを知るわけです。それが、おのれとはなんぞや を認識することでしょう。そのような経験を通じて自己ができてくると、初めて自分の頭で考える、 あるいは自分の意見というものがいえるようになる。さらに、どこまでこの意見は通用するのか。 それはここまでしか通用しないとか、いろいろなことを経験して、普遍性、あるいは世間を 知ったうえで、さらに深いレベルで自分の判断ができるようになるわけです。 成長するということは、ここまではわかっているという、外側の境界を、いつでも広げ続けていく ことですから、毎日が楽しくてしようがないはずです。新しい事象に接することで、その境界が 広がっていくわけです。ここだけの領域でしか通用しないことが、あ、ここでもそうなんだ。 さらにここでもそうなんだ。 ・・・≫ ▼ 著者の本を何冊か読んで、ここでも、紹介したことがあった。宇宙の彼方から逆照射の視点で 見直し、 地球をシステムとして捉える。そして、その一つとしての人間圏を改めてみると、 気がつかなかったことが、見えてくる。まさに、地球を支配しているサルが、その自然圏の資源を 使い放題で、破壊をしている。綺麗ごとを言っている私も、その恩恵を受けているサルにすぎない。 未知の外界は漆黒だが、光を当てると? ・・・・・・ 4565, 2050年の世界 ー6 2013年09月15日(日) 「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」〜英『エコノミスト』編集部 (著) * 第十九章 距離が死に、位置が重要になる 《 テクノロジーが距離を葬った。通信費は限りなく無料に近づき、様々なソフトウェアーでこれまで 以上につながるようになり、‘どこにいるか’がかってない程重要になる。》 これは10年前から 現在に遡って言えること。その何処かにいるのかさえ、重要で無くなる可能性がある。 大相撲やプロ野球の観戦も、現場より居間の大型TVの方が面白くなりつつある。 その意味でグーグルアースは、ますます重要な位置を占めてくる。 ー第十九章のまとめーより ・『エコノミスト』誌編集主任だったフランセス・ケアンクロスは一九九七年に『距離の死』という 本を書き、そのなかで通信費が技術革新で安くなり、距離は障害ではなくなると予言したが、 二〇一一年現在の時点でそれは現実になりつつある。 ・一九九七年には、アメリカと欧州の電話料金は、一分あたり平均で八一セント、 二〇一一年には、スカイプを使えば2セントですむようになった。 ・国際間のテレビ電話会議とも言える「テレプレゼンス」はすでに商業化されているが、 今後はそれが家庭に安価に進出していくだろう。 ・携帯電話に搭載されるさまざまなソフトで、距離はさまざまな分野で意味をなさなくなっている。 テキストメッセージで現金を移動させるモバイルマネーもそのひとつ。 そういうサービスで 最も成功した一例が、二〇〇七年にケニアで始まったM-PESAだ。 〔 *(M-pesa、エムペサ)とは、ケニアにおいて人口の約3割(1,300万人)が登録 するほど普及しており、銀行口座を持たない貧困層の金融システムへのアクセスを可能 にしたとして名高いSafaricom社のモバイルバンキング〕 ・典型的な発展途上国で百人あたりの携帯電話台数が一〇台増えれば、 GDP成長率を○・八ポイント押し上げる効果がある。 ・ウェブ空間上で、人の集えるソフトは、専制的な政府が集会の自由を圧迫しているときも、 それを迂回できる道を提供した。 ・距離が意味をなさなくなったことを利用し、各地域、各文化圏の労働力、技術力の特長を生かした 国際分業がやりやすくなった。そのぶん、どこで何をする、という位置が重要になってきた。 開発の得意なシリコンバレー、スペックをもとにプログラミングをするのが得意なインドの バンガロール、厳格な運用システムを創ることが得意なドイツ、といった具合である。 ・常時接続の世界により人々は互いに話すことに興味を失ったように見える。市場調査会社 二ールセンによると、アメリカでは携帯電話の加入者が自分の端末で話す時間は、 二〇〇七年からの四年間で、一カ月あたり一〇〇分以上短縮され、七〇〇分になった。 ▼ネット社会が世界を覆い尽くし、それが全てを変え始めているが、その行方は誰も知る由がない。 それが距離より、それぞれの立ち位置を重要にさせていく。家族や隣人より、ネットで継った 友人の方が優先されるネット社会が現にきている。 そうこう考えると、「自分」「私」の 哲学的問題も出てくる。 「ネットで継った私は何者だろうか?」「ネット社会とは何?」 ・・・・・・ 4190, 呪いの時代 ー8 2012年09月15日(土) * 草食系男子とは何だったのか 「呪いの時代」内田樹著 団塊世代の下の年代に草食系男子が多くなったようだ。今に限らず、私たちの年代にも 肉食系と草食系男子は別れていた。しかし中流階層が下流階層に移行している現在、 その比率が高くなってきた。この暗い世相の中では、男子も下を向いて草を食べているしか ないのだろう。50歳以下の男たちをみると、本当に多い。しかし自分が、この世代にいたら、 草食系になりざるをえないのも確か。長期的右下がりは、いかんともしようがない。 ー 以下の部分が面白い! ー ≪ 僕のゼミで、このところ年に二回も「草食系男子」を自由研究発表のテーマが取り上げる。 学生たちは、草食系男子と現にかかわり深い当事者のみなさんですから、その報告には 「現場を見抜いたもの」にしか語れない生々しいリアリティがある。ー以下、僕が彼女たちから 聴き取った情報の一部を開示したいと思います。 草食系男子の特徴は、とにかく「弱い」ということです。きわだった特徴は「すぐ泣く」、それから 物を決めるのが苦手。「どこに行く?」とか。「何を食べる?」とか訊いても答えられない。 できることなら女の子に全部決めてもらいたがる。身体的には細身・お洒落で・髪の毛の手入れと 美肌に関心が高い。かわいいしぐさ(胸の前で両手を組んで、口をとがらすとか、外見的には 哺乳類の幼生、なかんずくげっ歯類に通じる風貌をしている。 では、このような「草食的ふるまい」がもたらす生存戦略上の利点とは何でしょうか。 ある特異な社会的態度が集団的に採用される場合に、それは「生存戦略上有利である」という 無意識的な判断が下されたためと考えるのが合理的です。実際に有利であるかどうかはともかく、 有利であるという判断は下された。とりあえず誰でも思いつくのは、それが「弱い立場」にあることを 強くアピールすることによって、これ以上攻撃されることを抑止する機能を持つという仮説です。 僕も、この仮説には妥当性があると思います。 弱い犬が股間に尻尾を挟むのと同じように、 あるいはマウンティングをされるのを尻を向けて待つ弱いサルのように、「弱い」ポーズを 取ることで、これ以上の攻撃を予防することが出来ます。一種の「安全保障」として機能する。・・・ こういうことが可能になったのは、公的な「強いシステム」と、それに収奪され抑圧され管理 されている「弱い個人」という二元的な対立図式に置いて、常に「弱い個人」の個に正義があると いうチープでシンプルな物語を国民が選好したからである。草食系男子は、おもに性的関係の 局面で発揮されるが、とにかく傷つくことを恐れる。・・・≫ ▼ バラエテー・ショーに出てくる若いタレントを、ほぼ、こんなのばかり。私たちの年代から見れば 「女の腐ったような男」「人畜無害のヤサ男」。 疑似ホモ化である。逆に司会とか、キャスターは 肉食系を思わせる逞しそうな女が目立っている。これもグローバル化・情報化によるのだろう。 ・・・・・・ 3825, 生命保険について 2011年09月15日(木) 一昨日のNHKの連続ドラマで「生命保険」をテーマにした連続ドラマが始った。後で録画を見るつもりだが シビアな内容だろう。生命保険は名前のとおり命をかけた博打。 当たった時には、当人は娑婆にいないが、 残された人に保険金が支払われる。そのため胡散臭さが漂う。母親が生前、「自分には八百万の保険がかけてあり、 死ねば支払われる」と遺言書にあった。しかし、契約書では80歳で切れていた。母の勘違いというより、 保険屋が、そのことを言ってなかったようだ。私は「保険は体の良い組織的詐欺の要素を持ったシステム」 という持論があり、保険などかけたことはない。 ーある本に、その辺のことが分かりやすい説明があった。 【 生命保険の保険料は、男性の場合、十万人が一斉に生まれ、順次死亡して、百七歳で全員が死亡するという 前提で、毎年の死亡確率を出し、これを元に算出される。 四十歳の男性の場合、生き残っている九万七千 三百九十人中、年間に死亡するのは百四十四人。つまり、九万七千三百九十一人が払った死亡保障の保険料は、 不幸にも亡くなった百四十四人がもらい、その年は終わりということになります。十万人生まれた男性が、 半分の五万人を切るのは八十二歳。死なない限り払った保険料の元は取れない。】 「自分が死んだ後の身内のことを考え、保険に入っておく」という理屈は分からないでもないが、それをネタに 利益を得ようとする保険の仕組まれたシステムは、契約書に業者に有利に作られているのは、当然のこと。 火災保険は、万一を考えると必要だが、それで「も利益団体の言いなり」ということを考えておくべきである。 古来から金融の本質は、保険のあるという。だから、そこは、専門家でさえ知りえないほどの騙しが隠されている。 私が保険嫌いのため、家内は心配で、家内名義の給料を38年間預金をしていたことを、一年前に知った。 それが、この事態(倒産)の命綱になっている。 保険は、生々しい世界だが、この情報化のため、保険のオバサンの 多くが淘汰されつつあるという。 それと零細の業者も、ほぼ大手によって淘汰。 再編成もすざましいという。 何処も同じということだ。 ・・・・・・・ 3460, つれづれにー政治談議 −2 2010年09月15日(水) * 管首相の大勝利 民主党党首選挙、ここまでの大差で管首相が勝利するとは驚いた。これは日本経済にとって深刻な問題。 ある意味で致命的である。目先は分裂することはないが、半年、一年スパンでは再編に動きざるをえなくなる。 この結果、景気は円高、株安にシビアにふれてくる。 管内閣三ヶ月間で、彼が経済、外交音痴であることが判明。 当分の間、政権を担うとなると考えただけで鬱々たる気分になる。まず雪崩をうって景気が悪化、二番底、三番底 に向けて容赦なくふれてくる。円は80円、株は8千円割れが、当面の目安になる。我われに商売は直接、景気が 直接反映するから敏感になる。結果からみれば小沢の政界再編は現職与党の国会議員にとって、何時、解散があるか 分からないし、次の選挙の資金確保という大問題に直面する。 この歴史的危機でも国家天下より、御身大事を 優先するしかないのか。地方議員や、サポーターなどの票は、どうしても世論に左右されるのは仕方がないのか。 一番、怖いのは、小沢が政界から引退すること。しかし、直ぐに自分の出番が来ることを彼が一番知っている。 二人の演説を聞いていて、管首相の内容が国家のトップとして内容が乏しいのが渦中にいると分からないようだ。 過去と内側のことばかりで、方向性が乏しい。あれで、大きく小沢に振れないのだから、民主党の議員レベルの 質を問われて然るべきである。 無政府状態が当分続く。そして景気はますます悪化する。 これでは瀕死の日本経済のリンゲルも効かなくなる? ・・・・・・・・ 3085,時間リッチと時間貧乏 2009年09月15日(火) 新聞広告の雑誌の見出しに「時間リッチと時間貧乏」があった。 図書館で立ち読みをしたら、「TodoリストよりNotTodoリストつくり」。 「何をするかより、何をしないかをリストアップして実行せよ 云々」である。私事になるが、時間リッチを 自認している。月に数回の飲み会以外は一切の付き合いが無いに等しい。自分を育ててくれた学校の同級会、同期会 以外は、商工会、町内会、ライオンズなど、誘いもないし、行く気も無い。都合の良いことに、職場と住宅が新潟と 長岡に分かれているので新幹線の乗れば、そこで遮断できる。おまけに事業が装置産業ときているので、目先の判断は 人任せでも大きな支障がない。そのために20年あまりで、40回近い秘境ツアーに参加することも出来た。 おまけに早朝5時に起床、散歩や、読書、そして、この随想日記を書いたりもできた。 「戦略とは、何々をすることを決めるのではない! 何々をしないかを決めること」という言葉を著名な コンサルタントの先生の講義で、30歳そこそこで聴いたこともあり、時間に関してはリッチであった。 「で、時間リッチというわりに全然、人間的にリッチじゃないじゃないかい」と言われれば、返す言葉が無い。 しかし可能な限り世界の果てを見てきたという満足感はある。 そこで検索に「時間リッチ」と入れたら 面白いリストがあった。 その幾つかを抜粋してみた。 〜 時間リッチになる 〜 ・一週間は金曜日から。 金曜日に翌週の準備、月火水でmustを済ませ、木に検証反省。 ・やる気が出ないときはとりあえず動く! 動くからやる気が出る! ・楽する方法を考える ・自分の時間価値を意識する。「2735円」 ・スタートから完璧を目指さない。走りながら完璧を目指す。挑戦すると案外簡単、成果が出るもの。 ・失敗しても経験が残る。「武器を手に入れてから走るのでは遅い。走りながら武器を拾え」 ・今動かないとそのチャンスを他の人に持って行かれると考える。 ・時間はお金で買える。(セミナーは有料を) ・お金を殖やすため、モチベーションを維持するための先行投資を恐れるな ・時間をケチらない。「ながら作業」は「ケチ」。 一つの行為に2つ以上の意味を見いだす、 一つの行為をいくつかの目的のために利用するのが時間密度を濃くするということ。 ・忙しいときこそ勉強する。自分のために時間を使うという行為が安心感を生む。 ・仕事のできる人は仕事に遊びを取り入れ余裕がある。・そうねではなく魅力的ねと言われるように。 ・かきくけこ(簡単・興味・グレー時間・決断・行動)・嫌なことは朝一で片付ける ・隙間時間にやることリスト ・捜し物は時間の無駄 ・携帯時計よりアナログ腕時計。時間の量的感覚を身につける。 ー 以下は字数制限の関係でカット(2007年9月15日) ・・・・・・・ 2720,議論に絶対負けない法 −1 2008年09月15日(月) 「議論に絶対負けない法」 ―全米ナンバーワン弁護士が書いた人生勝ち抜きのセオリー ゲーリー スペンス 著 ある知人が訪ねてきて話しをしていたら、現在、トラブルに巻き込まれて裁判中という。 「500万〜1000万規模か、億単位なのか?」と聞くと「億単位」という。その人は30年来の付き合いがあって、 地元では大手クラスのトップ。大きな分岐点の経営判断のときは必ず相談に来て、何気ない応答にヒントを 得るようだ。その場ではヒントを得たふりを見せないが、後年になってヒントになったという。 今回は、裁判の係争の真っ只中、具体的な生々しい相談。「議論に絶対負けない法」という本を紹介した。 アメリカのナンバーワンの弁護士が書いた本で、拗れたトラブルであるほど、彼の一言一言が全て、問題を ヒント与えてくれるはずと、助言をした。私が、この本を読んだのは十年以上前。 問題を抱えていた時で、 本そのものがコンサルタントの先生のような役割を与えてくれ、非常に参考になった。 詳細は憶えてなかったが、スラスラ出てきた言葉は ・準備、準備、準備、それが全てである。 準備以外の秘訣など何もない。 ・それと構えである。 構えの構築を一つずつしていくこと。それが準備。 ・問題の中心点に向かって、自分の心を無にして集中すること。 そのためには、心の底から正しい!と信念が持てるかどうか自分の心に問うこと、そこが一番重要。 ・戦いを始めたからには、絶対に強気、攻撃的で攻めること。等々、それを言えるのは、10年前に貪り 読んだため。「その知人の相談は、再び目を通せ」というメッセージだろうと本を探したが無い、誰かに 貸したのだ。そこで早速アマゾンで中古本を買った。 10円+送料340円=350円。新書なら750円である。 そして再び目を通すと、なかなか内容があり、味がある。著者が魂を込めて書いてあるのが解る。 ー 次回から、面白そうな所を書いてみる。ー 十年前は、どうなった?かですか。構えを知ってか、相手が手を引いてきました! −つづく ・・・・・・ 2007年09月15日(土) 2356, ギリシャとエーゲ海の旅 −2 o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ
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2014年09月14日(日)
* 喜びの根源とは ー魂の響き! 『コトの本質』 松井孝典著 〈 我を絶えず外界と衝突照合させ、そこで内部モデルが一新されるときの快感はたとえようもない 〉 という著者の切り口が新鮮である。それが人生では、挫折とか転進などの節目に生じる アップスケール(脱皮)の時に生じる喜びになる。それと、壮大な自然の出会いの感動や、 芸術の強振の感激も同じである。 「この感動は人生の大きな節目になる!」という感動が、まさに新しい内部モデルである。 秘境先のリアルな光景に感動して、魂に刻みつけ、バーチャルになる一連が、私のライフワークの 秘境ツアー。 そのバーチャルと、TV番組の行先のバーチャルが重なって感動が蘇える。 ーその辺りからー ≪ リアルとバーチャルとか言いますが、とりあえずリアルと呼んでいるものが外界と考えて いいでしょう。 意識に拘らず在るもの、といってもいいでしょう。 内部モデル的に整理され ものが、バーチャルです。それは、リアルとは違います。それはモデルですから。 リアルというものをどう整理するか、というのは、内部モデルの在り方に関わります。 すっきり整理された内部モデルでは、背後にあるものがすべて見えます。 「ことが見える」という表現の中に、内部モデルのすっきり感があるわけです。 外界を投影した内部モデルの中で、めいりようで、リアルな外界の構造が、明瞭に位置 づけられるということです。 生きていくということは、交わるということです。我というもの、これは大脳皮質の中に 内部モデルとしてつくられるのですが、それは、外界と関わることによってつくられることになります。 外界と関わることで、内部モデルがつくられるわけですから、我という概念すらも他と交わらなければ つくられません。我、あるいは自分というものは、最初からあるものではないのです。 人間の生においては「我とはなんぞや」というところの我の概念が生まれてこなければ、 何も始まりません。外界、他と交わって、最初に生まれるのが、我という概念です。 他という認識があり、我という認識が生まれる。他と我。これはペアになっている概念です。 三歳くらいの幼児の脳の中で、外界という他を認識することが起きる、と考えられています。 他を認識したその瞬間に、それを認識している自分というものができます。 そういう段階から、絶えず外界を認識する作業を経て、その瞬時、瞬時につくられているのが、 脳の中にできている内部モデルなのです。我ができたあとは、まさに他と時々刻々関わる ことによって、内部モデルを構築していく作業が、生きるということになります。その瞬間、 その瞬間は、それまでに構築された内部モデルとその瞬間毎に入力される情報を照合させ、 修正したりしながら、内部モデルを変えているわけです。 そうやって内部モデルができ、 変容していく過程すべてが、生きるということです。私は、考えることを仕事としたいと思い それを続けているようなものですから、学生時代からずっと考えるということとは何なのか、 それを考え続けています。自分という対象を、外から見て分析すると、これまでに構築された 内部モデル、それが私の人生だと考えています。私というものをいいかえると、私の内部 モデルがそれであり、あなたというものをいいかえると、あなたの内部モデルがそれです。≫ ▼「外界がリアルで、それが、内部モデルに整理されたものがバーチャル」は、分かりやすい! 毎日書いている、この随想日記は、リアルをバーチャルにかえていることになる。 過去の文章を振り返ると、実感として納得する。リアルは消えるが、バーチャルは映像、 言葉としてリアルの一端を残す。だから、バーチャルを侮ってはいけない。 リアルとバーチャルは裏表。そのバーチャルは、書換え可能ときているから複雑になる。 ー偶然だが、以下の文章に続くー ・・・・・・ 4564,変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー1 2013年09月14日(土) 『変えてみよう! 記憶とのつきあいかた』高橋 雅延 (著) * 豊富な知識、旺盛な好奇心の必要性 ‘無意味なものを意味づけるために必要なものは何か。それは知識だ’が納得出来る。 ≪意味づけこそが記憶の秘訣であるということは、並外れた「記憶力」を示す工夫からも うかがい知ることができる。たとえば、どこかできいたことがあるかもしれないが、円周率を 何万桁も覚えているという日本人がいる。円周率は、小数点以下、無限に続く意味のない 数字の羅列だ。この円周率を一〇万桁以上も暗記しているのが、原口謹さんだ。 かつて私は、この原口さんと、五四歳のときに円周率四万桁の暗唱記録を打ち立てた 友寄英哲さんの記憶能力について調べたことがある。その結果、二人の基本的な記憶能力は、 同年代の人たちとそれほどちがいはなく、特殊な才能は何一つみられないことがわかった。 しかし、その代わり二人とも、日本人にはおなじみの、「語呂合わせ」を使う技能に長けていた。 つまり、何万桁もの円周率も語呂合わせで覚えていたのだ。語呂合わせは、端的に言えば、 数字の羅列のような意味のないものに意味づけすることだ。原口さんも友寄さんも、けっして 若いとは言えない年齢であるにもかかわらず、並外れた「記憶力」を示すのは、 二人が意味づけという記憶の秘訣を使っているからにほかならないのだ。 もちろん、何万桁もの数字の語呂合わせをつくり、それを完壁に覚えるまで繰り返した 努力を忘れてはならないのだが。では、無意味なものを意味づけるために必要なものは何だろう。 それは知識だ。知識が貧弱だと、深い理解はできない。逆に豊富な知識をもっていると、 まったく理解できないような事柄であっても、自分の知っていることとの類似点をみつけるなどして、 意味づけが可能になる。たとえば、難解小説を読むときに、作者の生育環境や交友関係などを 知っているとよく理解できることがあるが、これが知識による意味づけの一例だ・・ ここで重要なことは、知識が増えれば、その後新しい事柄に出くわしてもその意味づけが 可能となり、記憶に残る。ひいては、新たな知識として頭の中に加わるということだ。 つまり知識が増えるほど、新たな事柄の意味づけがより多面的にできるようになり、 知識に加わりやすくなる。よい循環が生まれるわけだ。逆に知識が乏しければ、新しい 事柄も記憶に残らず、いつまでも知識は貧弱なままという悪循環に陥ってしまう。 一六世紀から一七世紀にかけて活躍したベーコンは「知は力なり」と言ったが、まさに記憶に とって、知識は力なり」なのだ。原口さんも友寄さんも、会って話をしたときに一番強く感じたのは、 もっと新しいことを知って、知識を増やしたいという、旺盛な好奇心をもち続けているということだった。 つまるところ、彼らの記憶力の秘訣である多面的な「意味づけ」は、旺盛な好奇心あっての ものだということなのだろう。 》 ▼ 12年以上も随想日記を書き続けて、これにエネルギーを費やしていることに疑問を 持たないことはない。反面、この御陰で人一倍の旺盛な好奇心を持ち続けている利点がある。 さらに記憶媒体になる上に、公開することで、情報と知識のギブ・エンド・ギブにもなる。 印象に残った読書内容を感想と共に「起承転結」でパックにすることで、自分の知識として 残すことが出来る。 知識が増えた分、新しい事柄や知識に出くわした時、その意味づけが 深くなり、記憶に残る。少しキツイが、私にとってベストの習慣になっている。 続ければ続けるほど、自分の底の浅さに愕然とする。 ・・・・・ 4189, 呪いの時代 ー7 2012年09月14日(金) 「呪いの時代」内田樹著 * 婚活も、「適職イデオロギーの刷り込み」の一種 ー第5章「婚活」と他者との共生ー ここで著者は、「ほぼ全ての結婚は、最後は『失敗だったな』と思うもの!」と断言する。 家庭内離婚を含め過半数が破綻しているのは知っていたが、ここで殆んど全部というから驚きである。 知人などから、こっそりと、『失敗だった』という愚痴を聞くと、禁断の秘密を知ってしまったと思ったが、 全部が、そういうことなら話は別。 実際に暮らして分かる相性もある・・ ーその辺からー ≪ 婚活もイデオロギー的洗脳によってエンドレスの願客を作り出すというビジネスモデるにおいては就活と同じ。 就活における「適職イヂオロギー」にあたるのが、「運命の赤い糸で結ばれた宿命の配偶者幻想」です。世界の どこかに私だけに宿命づけられた一人の配遇者がいる。その人に出会わなければならない。出会いさえすれば 永遠の幸福が約束される… この赤い糸イデオロギーは幼児期からさまざまな物語を経由して、子どもたちに 植え付けられます。この幻想から自由であることはきわめて難しい。そのイデオロギーに悼さすかたちで 結婚情報産業が呼びかけます。 ≪「この世の中に、あなたにだけ約束された人がいます。あなたはまだその人に出会っていません。何故でしょう? それは『出会い』が足りないからです。私たちが、その出会いを提供しましょう。もちろん有償」・・・ ≫ 「あらゆる結婚は(と申してよいでしょう)「これは失敗だったな」という後悔を当事者たちにもたらします。必ず。 だから、ご心配には及びません。 僕たちは配属者の選択において、必ず間違いを犯します。 そして、後になって「なんで、こんな人と結婚しちゃうたんだろう……」と空を仰ぐことになる。・・・ そうですよね。頭に血が上ると「この人こそ世界でたった一人の私だけのための人だ」というような夢想に酔うが、 普通はあまり継続しない。「では、結婚しましょう」ということになり、両家の親族に挨拶に行き、新居の家具を 買いに行き、式の段取りをしているうち、「ほんとにこの人でいいのかなあ」という懐疑の念が兆してくる。 「赤い糸イデオロギー」は平たく言えばただの夢想ですから、現実の「やすり」でこすられるとポロポロと 剥落してくることは避けがたい。何となく「マリッジ・プルー」になっているうちに新婚旅行に行き、そこで いびきをかいて寝る夫や、トラブルが起きるたび「あなた、なんとかしてよ」ときいきい叫ぶ妻にうんざりし、 婦りの飛行機の中では口もきかないというようなことが起こる。 いや、これは「あなたの場合」じゃなくて、 ほとんど全て(95%くらいの)夫婦についてなさていることなんですから、ほんとうは少しも心配するには及ぱない≫ ▼ これを読むと、社会の見方と人生観が一変する人もいるはず。とはいえ、やはり夫婦というシステムは、 一部動物と人類が作りあげてきたもの。やはり、結婚と、その後の我慢はしておくべき。 身も蓋も無い話だが、そういうこと。 ・・・・・・ 3824, 閑話小題 2011年09月14日(水) * スポーツジムに通って半年、その効果は? 月に一〜二度位しか休むだけで半年間ほぼ皆勤でスポーツジムに通っている。スポーツジムの休日の金曜日と 日曜日は市の公民館の中のスポーツ施設に行くが、変化があって、これはこれでよい。お陰で体調は、非常に 良くなった。足腰が、この数年来、重くなってきたが半分以上は元に戻ってきた。健康ジムの「イージーライン」 というプログラムに参加しているのが良い。12人一チームで、若い女性のインストラクターの掛け声で、 全員が互いを意識しながらやるため、手抜きは最小になる。特に初めと終わりのストレッチが、非常に良い。 ここが要と、入念に足腰の関節部分に気持ちを入れる。このストレッチを早朝のミニ・サイクリングの途中の 土手のベンチの横で休憩の合間にもやるが、いま一つ気合が入らない。 あの場でやるから良いのである。 二年前に、酷い腰痛になってから、居間や書斎の椅子に、低反発クッションを、寝床には低反発枕と低反発 クッション、居間には腰痛用の健康機器を入れたため、腰痛は最小に収まっていた。そこに更に、健康ジム通い、 体には良いはずである。また健康ジムそのものが持つ明るい雰囲気が良い。ここで痛感したことは、足腰に大きな 重圧がかかっていること。それを一日に数度、丹念に揉み解す習慣は最重要事項になる。 歳を重ねると 足腰の弱体化から自然に猫背になっていく。これが、良くない。前かがみの老人は不健康に見える。 「老化すると、人は老人になる」というが、老齢期に人生のそれまでのツケが一挙に老い被さってくる。 そこで、まずは足腰と、頭の老化は人一倍、気をつけないと・・・ 成るほど、老いるとは、辛いことだ。 * 老老介護 先日、近くのチャンコ鍋チェーン店に久々に食事に行ったところ、案内された小座敷の隣に80歳過ぎの 老夫婦の先客がいた。少し妙な直感がしたが、別に気にはとめてなかった。 しかし私たちが入店した時には 食事が終わっていたのに、私たちが帰る直前まで、そのまま御茶を飲みながら周りの客の話を聞いている 雰囲気が伝わってきた。それは別に問題ないが、家内がセルフ・サービスのコーヒーを取りに行ったところ、 帰りかけで入り口にいた御婆さんが、家内に「足が痛くて歩けないんだけど、どうしたらよいですか?」 と話しかけてきたので、家内は戸惑い「私には、どうにもならないんで、店の人に御願いしたらどうですか」と、 少し冷たく答えたという。連れもいるのに見知らずの人に訴えること自体が変で、明らかに痴呆症が半分 入っている風とか。私も腰痛を持っているので、その酷いときの辛さは痛感するので(痴呆が入ってなくとも) 誰彼なく言いたいのも分かる・・・ 長生きは有難いが、そこに精神的、肉体的苦痛の代償を自然は与える。 老いただけ、無念が増す、ということか。 本気で「来年は存在ない」という思いで、一日一日を生きる 時節になってきた。 あの人は誰かに愚痴を聞いて欲しかった?のか。長生きはしたいが、老いたくはない。 この矛盾が老いの問題になってくる。 ・・・・・・ 3459, 今日の民主党党首選は? 2010年09月14日(火) 昨日のヤフーの私のブログに 《小沢と管の民主党党首選が明日に行われるが、順当なら小沢だろう。選挙は水物だが、連中が真っ当ならでの話。 真っ当でないのが、衆院選で当選している可能性があるから、外れるかもしれないが・・ そこまで程度が低くない? 政治には、それほど期待してないが、この数年間は無政府状態。 国しか我われの身を守ってくれない。 だから恐慌の現在、特に注目せざるを得ない。 小沢も、確かに変である。当選したら、バッシングの嵐。 短命でも良いから、政界再編成を早く実現し、出来たら病気で倒れた方がよい。》 と書いた。 今日、その民主党の党首選が行われる。小沢からみたら、むしろ負けた方が良い。 その方が首相の立場で再編するより、やりやすいはず。 だから党首選に立候補して、接戦をすること自体が目的。 その圧力が選挙後の力関係にも影響してくる。そうこう考えると勝敗に関係なく、接戦に持ち込んだことで既に 勝負があったことになる。 それより民主党の代議士が真っ当かどうかの方に興味がある。 何でマスコミが、 その予測で管首相に一方的に傾くのか?不思議である。アメリカの間接的圧力がある?と、穿った見方もある。 ネットでは8割が小沢を支持しているというが、その乖離は何故起きるのか。 (字数の関係上、カット11年09月14日) ・・・・・・ 3084,挫折を考えてみようか 2009年09月14日(月) 「挫折」については誰かが考えているはず、と調べたら、ヤスパーがいた。 ヤスパーは、挫折を「自己に目覚めるきっかけ」として捉え、自分自身を乗り越える機会とみる。 人間は日常の生活に明け暮れで生きているが、それでは真に生きていることにはならない。 なぜ己が世界に生きているかを問い、自分のあり方を求めることが生きる出発点になる。ところが、それを 真正直に守ると最後には挫折が待っている。人は最期は死ぬ。 それを考えると生きている根拠がなくなり、 行き着く先の挫折を「限界状況」とヤスパーはいう。色いろの挫折を重ね、最後に「死」が厳然と待っているのは、 身近な死が我われに教えてくれる。 しかし死を含めた多くの苦悩を通して、人間は真の自己である実存を自覚し、 そこから苦悩を乗り越える「超越」への基盤となる。しかし人間は死の戦いや苦悩を、実存の最終的なあり方と 受けとめることが出来ない。 本来は、愛、永遠、無垢に惹かれる存在だからである。 ヤスパーは、《 実存は苦悩のうちに挫折しつつ、指し示す絶対者=包括者へと超越することが要求される。 その超越が促すのが「暗号解読」である。それは一種の象徴で、有限な現実の存在が自らを越えて絶対なる超越を 指し示すのである。芸術、思想、自然、歴史など、そうした暗号によって、それを包括者へと超越せよ、という 指示として受け取るのが暗号解読である。》と、挫折=限界状況の先のアップスケールとして、 自己に目覚めるきっかけとする。人間が生まれ存在しているから挫折をする。そして最後の挫折としての死を受け 入れるプロセスが超越だったり、真に生きることであると指摘する。人間は誰かに人生を代ってもらうことはできない。 限界状況をひとりで背負う、本質的に孤独な存在である。だからこそ独りに閉じこもらず、自分の実存を他者に 開示すべきとヤスパーはいう。他者との交わりを通して、自分を振り返ることが、更に自分に近づくことになる。 実存に目覚めた人間同士の交わりを、「愛しながらの戦い」と呼んでいる。人生を振り返ると、挫折から多くの ことを得た。その時に、新約聖書や、大本教の本に救われた経験がある。超越者から救われていたのである。 40,50歳代の峠越えは秘境旅行で大自然に出会うことで超越していた。私にとって、大自然の懐が「暗号解読」 の場所であった。 更に、多くの都市の美術館の名画などの作品がである。「限界状況」の中に、そして、 その向うの「超越」こそ、人間の生きている意味が隠されている。挫折、そして苦悩こそ、人間を超越に運んでくれる。 そこで出会う感激・感動こそ超越状態である。 ・・・・・・・・ 2719, 嘘について 2008年09月14日(日) 社会に生きていくうえで、嘘をつかなければならない場面も往々にしてある。その場その場で、ころころ変化する人物は 直ぐに見抜かれて信用を失う。「約束の時間を守るかどうか」で、まず評価されるのは、そこに言い訳と嘘が鮮明に出やすい。 後ろ向きの人は、言い訳から始る。そして小さな嘘を重ねる。過去に何人かの長年行き来していた人と断交をしてきた。 その共通点が嘘が多い人である。開いた口が塞がらないというほど、純朴に嘘をつく。純朴を表面に見せて、次から次へと嘘を重ねる。 ある人を例に取ると「本人は嘘を言っていることに気づいてないだけ。 三歩ほど歩いたら全てを忘れる、嘘など更々言っていない」 のが真実。「私を信じて下さい」が、ある人物の口癖だが、そのことさえ自覚をしてない。 話を都合のよいように変えるのも、 嘘の一歩手前の行為である。営業口で、きれいごとを並び立てているうちに嘘の構築のプロセスを踏んでいることになる。考えてみたら、 誰もが大同小異ではないか。 (字数の関係でカット2014年9月14日)
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2014年09月13日(土)
* たけしの品格 『パワレルな知性』鷲田清一著 北野たけしの品格について、が面白い! たけしは、「この男はダメ!」がキャラ。 人間はすべからく、ダメな人間だが、それを良い人間、有能な人間のコスプレをしているだけ。 コスプレが、コスプレを笑っているのが娑婆。 これが分かってないから、世の中、他人が、 歪んでみえる。 「歪んだのが歪んだのを歪んでいる」と今さら言うのが間違いの元。 「たけしは、それを剥いだ 有りのままを笑いで剥き出すことで、己の品格を表現している」は、褒めすぎ? ーその辺りからー ≪ 最後は言語学者らしくこう締める。 「『品格のある日本語』というのは、借り物ではなく、 じぶんが一番よく知っている言葉で語られるものですよね。方言なんかはとても品格がある」。 つまり「品格」について語るその地声に言い及ぶところに、金田一の衿持が現われでているとおもう。 じぶんについて語る言葉が信用できるかどうかは、語られるじぶんに対してどれほどの距離が とれているかにかかっている。「離見の見」などと高尚なことを言わなくてもよい。何かについて 語るとき、そのように語っているじぶんがどこから語りだしているのか、それについての明確な 意識をもっているかどうかに、その言葉の真はかかっている。何かについて語るとき、 いつもどこか断片的であって、語りつくさない。語りだすのは否応もなくつねに地上のどこか からであって、語りつくすというのは、じぶんがこの地上のどこでもないある特権的な場所に いると錯覚することである。 それこそ品格に欠けることである。 これに対して、北野武は、品格から外れることに自己の品格を賭けるという、それこそ 綱渡りをしてきた。いきなり北野はいう。「どうしようもない人」、これがじぷんにとっての 最高の誉め言葉だと。「人から、『あこがられている』と言われると、失望させないように自らを 律したりするじゃない? そういうのが大嫌いで、頼むからあきらめてくれって。 『この人はだめだ』って言わせるためにわざわざ変なことをやる。『どうしてそういうことをするの』 って言われるのが一番好き」。北野もまた、この世の価値序列から外れるところに「品格」を見る。 「みんな社会的立場上、言えない部分があるけれど、俺の場合、お笑いというジャンルが 隠れみのになっていて、意外に好きなことを言っちゃっている」。 たしかに、「トツプには立ちたい」けれど、そしてそれは「すごく下品」なことだけれど、同時に、 「何をやっても勝てない相手がいる」ことは身に沁みている。だからちゃらんぽらんと見えるほど、 いろんなものに手を染めてきた…。 首尾一貫していないこと、立派な「先輩」と見られたらすぐに それを裏切ること、つまりじぶんを模倣しないこと、そういう囚われのなさに肩肘張らない自由を見る。 ここにもなるほど、みずからへのクールな距たりがある。その距たりを構えずにほのめかして、 北野は最後にこうつぶやく。「いつも何か考えているけれど努力して考えているわけじゃない。 魚に『アンタ、いつも泳いで偉いね』とは言わないじゃない?」 じぶんが壊れる…。 そういうあぶない場所にじぶんをもってゆきながら、かろうじて身を持す、ぎりぎりのところで みずからを揺さぶることのない人に、「品」はぜったいに訪れない。… ≫ ▼「まあ、お笑いの、たけし、だから!」という免罪符を取ってしまっているから、今さら誰も 非難できない。 こうなれば、好き放題、言い放題である。週刊誌も、『たけしに愛人!』など、 今さら誰も興味を示さない。昔の芸人は、こういう人が多かったというが・・・ いつも、あぶないところに、自分を置いてきたので、いやに、同感する。じぶんが壊れる直前に、 常に身を翻してきたが、実際のところ、既に壊れていたのでは? 〜ところで、三年前の一連のイベントからこの方、ギリギリ生きてこなかった人格に? あまりに多く出会った! ・・・・・・ 4563, 2050年の世界 ー5 2013年09月13日(金) 「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」英『エコノミスト』編集部 (著) * 予言はなぜ当たらないのか (第二十章) ー まずは要約部分よりー ・今から四〇年前になされた予言をみると、悲観的なものばかりで、その殆どが外れている、 ・なぜ、そうした予言が外れるかと言えば、理由はふたつある。良いニュースは目立たず、人々の記憶に 残りにくいからだ。 悪いニュースだけが残り相互に連関する認知のバイアスが人間にあるので、 そういう予言をすることが受け入れられる。 ・もう一つは人間が対策を講じることを無視するからだ。 ・資源が枯渇する、食料が枯渇するというのは終末予言の典型的だが、「技術革新」よる「低価格化」を無視している。 ・グローパル化による国際分業により、人々は、かってより遥かに安い値段で必要なものが手に入るようになった。 ・1950年代には、平均賃金の人がハンパーガー1個の代金を稼ぐのに三〇分かかったが、今では三分だ。 ・技術が人間の生活水準に作用するのは、技術が発明されたときではなく、 何十年ものちに手ごろな価格の技術になったとき。 ・バイオテクノロジーの発展によりその応用物が低価格化する。たとえば幹細胞をさまざまな臓器に発展させる 技術は、移植医寮そのものを、低価恪化させる。また、癌治療もバイオテクノロジー技術の発見によって、 癌ワクチンや遺伝子組み換えウイルスを体の必要な場所に送るという治療を大衆化させる。 ・第二次大戦以来、全世界のGDP成長率がゼロを下回ったのはたった一年。 それは2009年で、マイナス0・6%の成長率だった。 ・先進国ではさまざまな形で実際に、森林面積が増えるなど環境は良化している。いまの新興国が 先進国なみの経済水準になる二〇五〇年までに、これまで損なわれた環境が腹興するようになるだろ。 ▼ 予言はなぜ当たらないのか? その状況で対応する「技術革新」が出てくるからだ。その中で情報機器と、 バイオテクノの革新は、予測不能である。現に過去40年をみると肯けること。 人間には、長期楽観、短期悲観が 経験を通して認知バイアスとしてある。それが目先、悲観的な見方が受け入れられる。 40年前の予測が悲観的 過ぎたというのも大いに疑問である。ソ連は崩壊、米国も、衰退の坂を転げ落ちている。そして日本は、 20数年前のバブル崩壊から現在にわたって惨憺たる事態。40年後を考えると、さらに酷くなるのは現在の状況を みれば分かること。「現時点で予言不能の未来が待っている」ことだけは確か・・ バーチャルと現実が混合した世界だろう! 今もそうか? ・・・・・・ 4188, 呪いの時代 ー6 2012年09月13日(木) 「呪いの時代」内田樹著 *「適職イデオロギー」の刷り込み ー第5章「婚活」と他者との共生ー 「適職イデオロギーの洗脳」の切り口は面白い。そのため?まず3年もしないうちに3分の1が夢やぶれ辞めていく。 それだけでない、その後も、その影に追われることになる。歌の文句ではないが「自分を待っている職があるはず」と。 そんなものは、あるはずはない。現実は、そんな軽い若者を拒否をする職場だけ。 そのため転々と幻影を求めてサマヨウしかない。私たちはコマーシャルで、知らないうちに無防備に不安と劣等感と 無知を煽られ多くの洗脳を受けている。 ーその辺りからー ≪ 就職活動を始めるに当たって最初に叩き込まれるのが「適職イデオロギー」です。就職情報産業の営業マンが やってきて、大学2年生を購堂に集めて「空気を入れる」ときに彼らはこう言います。「ひとりひとりには、 この広い世界のどこかに、ただひとつだけ適性に合致した天職がある。この一年余りで、諸君は自分に適正に合致した この職業にであわなくてはならない。そのために捧げうる就活に全エネルギーを当時なければならない」と。 学生たちは驚きますけれど、だいたい根が素直な子たち、たちまち、この「適職イディオロギー」に染め上げられる。 △ そして、「自分が適職に出会えないのは、自分の何であるか知らないからだ」ということと、 △「世の中にどのような職業があるのかについてまだ十分に知らないからだ」 という2種類の「情報」不足によって説明されるということに、うっかり頷いてしまう。 そうして適性試験を 受けたり、目を赤くして就職情報誌に見入ることになるわけですが、もちろんこれらの情報は無償ではありません。 かの「適職イデオロギー」を宣布してまわった営業マンの会社が課金して販売しているまわるのですから、 この段階で、「なんとなく家業継ぐか」とかいう「ゆるい」就職観はきびしく排斥されます。 そして、私たちは「ほんとうに『こんな仕事』に就いていいのだろうか」という不安から逃れられなくなります。 就活中ももちろんですが、実際に内定をもらったあとも不安が鎮まらず、さらに就活を続ける学生がたくさんいます。 最初に内定をくれたところはそれだけ「ご縁」があるということなんだから、そこでいいじゃないかと僕は学生に 相談されると答えるのですが、僕のそういう場当たり的な就職観に説得される学生はほとんどいません。 ・・・就職情報産業にとって、「適職イデオロギー」を深く内面化した若者はエンドレスの顧客です。 「この職場に骨を埋めよう」と覚悟をしているわけでないのだとしたら、「いつか出ていきたいが、今は出て いけないので我慢してここにいる」という「腰掛け」的な就労態度をありありと示すことになる。 「はやく出ていって『ほんとうに私の適正に合った仕事』がしたい」という切ない思いは更につのる・・・ 仕掛けになっている。就職情報産業は、このビジネスの洗脳によって決して自由になれない人々を量産することで 利益をあげることを自覚しておいた方がいいと思います。・・・≫ ▼ 幻影を求めてさ迷う若者に、更に就職産業屋は顧客として利益を貪ることになる。気が付いた時には、 立派なフリーター。社会は、彼らを便利な部品として使いまわす。グローバル化で人件費が抑えられる中で、 ひ弱な若者は火の目を見ることはない。 これと酷似しているのが婚活である。結婚相手と、就職先も幻影で しかないことが自覚できない若者。 それは次回に。 ・・・・・・ 3823, 閑話小題 2011年09月13日(火) * 『哲学人』の感想文を連載は、二年前に一度書いていた。 驚いたことに昨日に気づいたことだが、二年前に、この下巻のー小説の作り方ーについて取り上げていた。 難しかったのだろう、それっきりで終わっていたが、それ自体を忘れていたのは迂闊だった。無意識のリベンジ だったことになる。分類に検索で調べたが見落としたようだ。それにしても、思いもよらなかったので驚いた。 成るほど、さすが哲学者が実践した小説作法は実に分かりやすい。(下にコピー) それにしても、 ブライアン・マギーの教養のレベルに驚かされる。さすが英国である。 * 初めての書くテーマのネタ切れ この10年間、ここで一応、起承転結を成している?文章を書き続けてきた。 最低でも2つの仕込み文はあったが、今回、初めてゼロになってしまい、それ自体をネタに書いている。 現在の読書感想文の『哲学人』が、私にとって難しい。しかし、何とかギリギリで理解出来るから、なお疲れる。 さらに、iPadにエネルギーを大部分取られていることも重なっている。 ひとつテーマを書いても、ウェブ上では、 それより遥かに素晴らしい情報が満ち溢れている。そこをネットサーフィンしていた方がより広く深く世界を みることが可能である。それでも自分が10年間エネルギーを入れたサイトをiPadで何時でも見れるのは悪くは ないと、何とか気持ちを保っている。有料、無料を含めて、iPhone・ipadのアプリは10万以上あるというが、 その一端を次々にダウンロードして使ってみるが、その都度驚きの連続になる。別に、声高に、これは凄い! という必要もないし、これに近いモバイル携帯電話で既に普及している。何を今さらといえば、それまでのこと。 話を戻すが、書くネタが無くなるほど本音で書くので、読む方は面白いというが・・ 何も書けない焦りは 何とも言い難い。この辺が限界の際が見えてくる。書き続けるのは大変だが、その分、張り合いにもなる。 ・・・・・・ 3458, 9・11から9年 2010年09月13日(月) あれから9年になる。こと自社からみたら、この日をもって右下がりになり、現在も続いている。2004年から 少し持ち直してきた矢先に今度は2008年9月15日のリーマンショックを契機にした100年、250年に一度の世界恐慌。 あの日から世界も日本も変わってしまった。まことしやかなアメリカ陰謀説がある。時間の経過と同時に信じる ようになってきている。為替と株式で大儲けをした輩がいた現実がある。更に、この事件をキッカケに兵器業界は 大儲けをした。アメリカでは戦争は公共事業といわれ、不況にとって手っ取り早い毒薬と同時に、回復剤になる。 第二次世界大戦は1929年から世界恐慌から立ち直る大きな契機になった。 アメリカの誘導によって日本が ハワイ急襲をしてしまった。そうこう考えると、アメリカは恐ろしい国。イラクの攻撃のキッカケとなった 大量破壊武器所持疑惑も、実際には存在してなかった。戦争を仕掛けるためにCIAが捏造したことが後になって 判明した。日本のバブルもアメリカによる日本国内の内需拡大の強制による。その結果の日本のバブルのピークを 待って株式の暴落を誘導を図った。そして下がりきった株と不動産を買い捲ったファンドが、大儲けをした。 好き放題に日本の資産をいじくりまわし、収奪を繰り返しているアメリカに日本は成す術がない。歴史的にみて、 その後の2008年9月15日のリーマンショックと同じレベルで、2001年9月11日の事件は語られるはず。 アメリカ崩壊への二つの大事件として。 これを必然的事件とみると、何か底知れない深いウネリを垣間見れる。 20世紀的なものの崩壊の必然の事件としてである。そして、この火の手が10年20年かけて世界を焼き尽くす。 日本のバブル崩壊後、山一證券が倒産したのが、7年後。大手銀行が3つになったのが10年後である。 この世界恐慌も、10年20年の時間で世界を大きく変えていく。現在はデフレ、ハイパーインフレが襲ってくる。 グローバル化は、世界をフラット化する。日米欧は、その他の国と変わらないレベルになりざるを得なくなる。 9年でネットも、携帯電話も、テレビも、劇的進化をしてきた。それが、世界をフラット化を進めている。 これから10年、世界は、その動きを更に大きくするだろう。 面白いと同時に、恐ろしい10年になる。 ・・・・・・・・ 3083, 哲学人 −1 2009年09月13日(日) * 小説の作り方 哲学研究者の、ブライアン・マギー著『哲学人』を、半年がかりで読んでいる。 なかなか難しいが、時どき解りやすい部分もある。分野の違う人の「小説の作り方」も、 小説作法の全くの素人からみると新鮮で解りやすい。 自分の欠けていた部分を満たす作業としての小説も、 読んでいる方も、書いている方も、リアルに感じるだろう。 自分の体験を補充するなら事実に近い 深みのある内容になって当然である。 まずは、その内容から〜 《 私の希望は、相思相愛の果てしない追求だったが、そうした愛を経験したことは一度もなかった。 経験できなかった理由は、私が愛されなかったからではなく、愛さなかったからである。行き場のない強烈な 感情の内海は私のなかでせき止められ、誰かが愛してくれたときでさえ、表に現れることはかなわず、自由に 流れることもできなかった。そのため大きな不満が募り、激しい感情に支えられた衝動が蓄積され、私はその はけ口を求めた。 そこで思いついたのが、小説を書いてこの衝動をつぎこむことだった。その小説のなかでは、 大海のごとき感情があふれ出ると同時に癒され、私に欠けていたことが、ある意味で達成される。 それも想像のなかだけではなく、現実のもの、自分の外に存在するもののなかで、である。 私はこれを『ラブ.ストーリー』と名づけようと思った。驚くべきことに、このタイトルはその時点では まだ使われたことがなく、少なくとも私の知りあいに過去の例を覚えている者はひとりもいなかったのである。 私の構想では、中心人物は最低でもふたり必要だった。 女と男がひとりずつ、これは当然である。 では、このふたりをどうするか? 単純に、彼らは恋愛中という設定にして、その愛を表現してみるのか? それだけを2~3百ページにわたって情熱的に語っていくのか? これをうまくやってのけることが想像できなかった わけではない。 私が、本来の私とは違う作家になれば、それも可能だったろう。壮大な散文詩、淡々とした、 それでいて、たゆまぬ愛の賛歌というわけである。ただし作品自体がだれることなく飛翔しつづけるためには、 その勢いは単に力強いだけでなく、本質的に詩的でなければならない。そしてこの場合、私の勢いに力はあるが、 詩情はないとわかっていた。 この本の背後にある衝動は、何よりもまず心理的、感情的なものだった。 私が探していたのはリピドーのはけ口だったのである。それに、私にとって自然なはけ口とは、叙情的であるより むしろ劇的であるべきだろうと感じてもいた。波乱に富んでいて、望むらくは力強いものでなければいけないのだと。 しかし、だとすれば本のなかで何かたいへんなことが起こらなくてはならない。 そして、このたいへんなことが 本の内容に大きくかかわるのだとしたら、恋愛関係に影響を及ぼすものでなければならないだろう。 さらに、それがささいなことでないとしたら、重要なことでなくてはなるまい。いずれにしても、劇的な効果を あげるにはそうである必要がある。考えれば考えるほど主人公たちの恋路を邪魔するもの、なんらかの障害で なければならないという思いが強くなっていった。いわゆる三角関係についても、思いつくかぎりの可能性を検討 してみた。だが、そのうちのどれかが読者の心をつかんだとしても、本来無条件であるはずの主感情に制限を設ける ことになってしまう。それは避けたかったので、別の登場入物を巻きこまずとも、彼らの恋愛にとって大きな 現実の脅威となるものを考えてみた。浮かんできたのは、重大な病気や事故というアイデアだった。 》 ーーー ここで、著者は「相思相愛」の経験が無かったと正直に告白している。そのリピドーのはけ口を『ラブ・ストーリー』 にしたのだと。相思相愛?の恋愛結婚をした人は、そのまま、脚色をすれば小説になる。が、本当に面白いのは、 著者の方だろう。所詮は共同幻想、いや自己幻想、いや他幻想だから、『達成したことに何かを付け加えるより、 達成できなかった幻想の方が、むしろ新鮮味がある』と言える。 哲学人の書いた小説作用の切口もリアルである。 ・・・・・・・・・ 2008年09月13日(土) 一昨日、「清水洋の経済セミナー・全3講ー有事に勝ち残る」を受講してきた。 4年前からのシリーズで、これで三回目である。30数名の参加者だが、行くたびに、講師の言うとおり、 経済が世界的にも国内的にも深刻度を増している。何時も暗い気持ちになって帰ってくる。 *印象に残っている順に書くと、 (字数制限のためカット 2014年9月13日)
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2014年09月12日(金)
* 多文化共生社会の礎を築く力、とは 『パワレルな知性』鷲田清一著 討議をし、物ごとの両義性をわきまえた対話(ダイアローグ)の中から、考えを変えていくことこそ、 多文化共生社会に必要となる。そのためには、「聴く力」と、人の気づきを「待つ力」が必要という。 自分の殻を自覚し、それを壊しつづけるため対話を続けること! ただし真当の対象と! ーその辺りからー ≪ 「多文化共生」とは、外国人との共生にかぎったことではない。たとえば、現代においては、 さまざまな専門家の知見はきわめて先進化し、細分化されているため、専門家と一般市民の 間には「異文化」といってよいほどの間隔がある。医療、地域環境、食の安全の問題など、 どれをとっても、最先端の専門家の知見は、素人が聞きかじっただけではわからないほど 高度化している。 だからこそ、専門家と非専門家のコミュニケも、じつは「多文化共生」の課題の 一つなのである。 そのために不可欠なのは、対話である。 ただし、それは「ディベート」ではなく「ダイアローグ」としての対話。 ディベートとダイアローグの違いについて、平田オリザが、次のようにわかりやすく教えてくださった。 < ディベート(討論)においては、対話の前と後でじぶんの考えが変わったら負けだ。 逆にダイアローグでは、対話の前と後でじぶんの考え方・感じ方が少しも変わっていなかったら、 対話をした意味がない> と。すべてを白と黒で割りきり、正しいことと間違ったことを峻別 しなければ気が済まない思考スタイルの持ち主は、異なる文化や思想をもつ相手とディベートは できても、ダイアローグはできないだろう。 ただし、ここでいう「ダイアローグを通じて考えを変える」とは、無節操に自説を曲げることではない。 じぷんの考えを絶対視せず、別の視点、他者の視点からも考える複眼的な柔軟さをもつこと、 ひいては、物ごとの「両義性」をわきまえ、一つの単純な見方に凝り固まらないことである。 そして、これからの多文化共生社会を生きてゆくうえで、ダイアローグとしての対話をする能力は 必須のカになってゆくだろう。その能力をそなえた人こそ、唯一これからの時代の「熟成した市民」 なのである。 では、真の対話力を鍛えるために何をすればよいか。抽象的な言い方になるが、 「聴くカ」と「待つカ」を鍛えることから始めるべきだとわたしは考えている。いまの社会の評価制度に おいては、人の話を聴くこと、人の気づきを待つことは、能力として評価されない。 しかし本来、「聴く」ことも「待つ」ことも、広義のホスピタリティ(人をもてなす)の中核をなす 大切な営みであるはず。それは一言でいえぱ(他者に)「時間をあげる」ということ。》 ▼ ゼミの教授がそうだった。まず、自分で考えること、人の意見を聞くこと、気づきを待つこと。 真なる知恵は、内側から涌き出るまで、それに気づくまで、考えて考えて、悶絶をした後でこそ 出るもの。決断の前にしなければならないことと同じ。「聴く力」は、人だけでなく、読書を通して 著者のいわんとする意を聴く力もある。更に心の奥底の声を聴く力も、それにあたる。 知恵は、パワレルの知性の礎から生まれ出る。 ・・・・・・ 4562, ポタリ、ポタリ、ポタリかな! 2013年09月12日(木) 4月〜11月の8ヶ月間、毎朝一時間、4年続けて雨の日以外、合計一万キロ以上も 乗り続ければ、自らをポタリスト(ポタリング=自転車散歩)と宣言してよいだろう。 4年前になるが、「電動アシストのMTB(マウンテンバイク)が、格安で、スポーツチェーン店から 通販サイトで売り出される」という新聞記事を読み買うことにした。 そして乗って仰天! ママチャリを年に1〜2度しか乗ったことのない私が、その日を境に、冬季間と雨天以外は、 ほぼ毎日12キロは乗っている。 自転車で15分の距離に信濃川があり、二つの大橋を 一周して帰ってくると丁度一時間、早朝の運動に最適である。ある本に、「江戸時代に舟に 車輪をつけた陸舟車というのが試作されたのが第一号」とあった。 さしづめ電動アシスト自転車を舟とすると、エンジン付きカヌー。 手で漕ぐか、脚でペダルを踏むかの違いになる。 この自転車に出会うまでは、 自宅から300M先にある栖吉川の土手を30年近くウォーキングをしてきた。 ところが、道路拡張工事で散歩道が数年間も交通ドメになったタイミングに、電動アシストの MTBを購入。一気に、4キロ程先の信濃川まで行動パターンが広がった。 電動アシストのうえ、MTBの車種が良かった。 軽くて、小さくて、小回りがきいて、6段変速ギア。 変速ギアのついたスポーツ自転車も一度も乗ってないうえに電動アシストである。驚くのは当然である。 東京在住の学生時代のゼミの後輩がカヌーの愛好家で、数年前、車にカヌーを積んで新潟にきて、阿賀野川 河口と、寺泊の浜辺で同乗させてもらったことがある。それもヨットカヌー。彼の別荘が川口湖にあり、長年、 乗りこなしていた。羨ましいと思ったが、今さら私には無理。 そこで、スポーツ自転車を陸のカヌーとみたて、 電動アシストにすればよい。早朝、電動アシストの力を借りて、信濃川の土手を飛ばすのも快感。 乗っていると、自分がいかに軽く小さい存在で、空中遊泳をしているような感覚になる。現在のものも限界に 近づいてきたので、消費税のアップ直前の来春2〜3月に、もう一台を買う予定にしている。クロスか、 折りたたみのMTBか、電動のついてない10数万の高級車か? それまで半年間の選定が楽しめる。 これを購入すると胸を張って、「古いMTBと、クロスバイクの二台を持っているポタリスト」と宣言ができる。 車やオートバイで高級車といえば数百万だが、自転車では、30〜50万も出せば超高級車、十数万なら 高級車になる。ーブログ内の検索で、以下のような文章があったが、時間の経過とともに内容が濃くなっている。 一つのキーワードで検索で過去分を拾うと、書き遺した価値が味わえる。 肌で風を切ると、頭が冴えてくるのも良い。 低空の飛行艇のようにも・・・ 少しオーバーか! ・・・・・・ 2013/07/29 スポーツ自転車の勧め! ー4 * マウンテンバイク 「自転車で痩せた人」高千穂 遙 (著) 私が現在乗っているのがマウンテンバイク。 舗装されてない山道などを走るため、特徴は丈夫かつ軽快さである。 ただ値段の安さに惹かれ買ったが、私の毎朝のコースからみて、これがベスト。小さく軽いのがよい。 ーそこで、ウィキペディアで調べると、以下のとおりー 《 1970年代後半にアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ郊外のマリン郡で、ヒッピー達がビーチ クルーザーや実用車などに太いタイヤをつけ、急勾配の山を下りタイムを競った遊びが始まりと言われている。 同時期に北カリフォルニアでも同じ遊びが発生していた。初めは手作りだったが、一つのジャンルの大量生産で 一般に広がっていった。 マウンテンバイクの定義は、【 荒野、山岳地帯等での高速走行、急坂登降、段差越え などを含む広範囲の乗用に対応して、軽量化並びに耐衝撃性、走行性能および乗車姿勢の自由度等の向上を図った 構造の自転車のこと。舗装路でも広く利用されており、用途によって様々な形態が存在する。】である 》 ▼ 以上だが、MTBはポタリングに手軽な自転車で、軽快さが良い。それとママチャリと同じく、普段の生活でも 使えるマルチのところがよい。親が、このタイプを少年用に買うことが多いこともあり、HCの自転車売場では、 丈夫でない見た目だけMTB風のチャリが並んでいる。そのため愛好家は「モドキ」とか「ルック車」などと呼んでいて、 良いイメージはない。その見分けはデザインで直ぐ分かる。また「悪路走行禁止」と書いてあるのもある。 私のようなスポーツ車初心者に向き。 まずは軽く小回りがきき、乗りこなしがスムースが入口になる。 次は、クロスバイクにするつもりだが、折畳み式も捨てがたい。 スポーツジムと、家でパソコンか、TVか、 読書になりがちな生活の中で、これはソロで出来る手軽な趣味になる。 早朝に加えて午後からのポタリングの 習性も悪くはない。それと現在、ジムや、図書館への移動に使うことも考えてよい。趣味としてポタリングにすると なると、違った切り口が出来てくる。それより、まず事故に気をつけなくては。これまで色々なマウンテンバイクを 見て、デザインが違うとしか思ってなかったが、実は、使用目的が違っていたのである。 ―― スポーツ自転車の勧め! ー3 ー2 ー1は、 字数制限でカット(バードウォッチにコピー) ・・・・・・ 2013/06/25 電動アシスト自転車に乗って、はや4年 電動アシスト自転車を乗って3年8ヶ月になる。ーまずは、その時の文章より ー3131,期待どおりの電動自転車 2009年10月31日(土) ≪ 注文をしていた電動自転車が一昨日届き、昨日の朝、さっそく試乗した。自宅は長岡駅裏から徒歩10分にあるが、 長岡駅前から歩いて20分のところにある大手大橋まで12分で着いた。信濃川を渡ったところのジャスコに15分、 ユニ系SCのアピタまでは20分。そして、その先にある長岡大橋から駅前近くまで戻って、家に着いたのが50分後。 万歩計をみると2500歩になっていた。50分というと5500歩になるから、半分近くになる。 疲れは、ウォーキングと同じぐらい。 これまでは月に一〜二度ママチャリに乗るぐらい。一日一万歩を目指している ので、自転車にはほとんど乗ることはなかった。そのためスポーツタイプで、6段切り替えで、かつ一対二のアシストの 自転車を乗った驚きは大きい。一対二のアシストというと、人が一の動力をかけると二倍の加速がかかる。 自転車は発進時の加速と、登り坂に力を要するが、その時にペダルに力が二倍加わるのは、何か異様な感がする。 コースは線路の下をくぐる地下道の登りとか、信号待ちの後の加速とか、大きな橋までの登り坂とか、起伏がある。 そのストレスがゼロで、平らの道路でペダルをまわす時の加速も三分の一で済むのだから、非常に楽である。 ところで、通販で注文して送られてきた電動自転車を組み立ててくれた長男が「すぐに、盗まれるよ!」という のも分かる。小型のためボックスカーに、簡単に乗せる事が可能だからである。一年ほど前に、家内に電動自転車を 買おうかどうか相談したら、「友達が買って直ぐに盗まれてしまった。あと数年先がよいと思うよ」といって、 買うのを止めた経緯もあった。スーパーや、駅前などは当分は置けないが、その時はその時。≫ ▼ これを書いた翌日から25年続けていた早朝ウォーキングを、ポタリング(ミニサイクリング)に切り替えた。 同じ一時間で、コースは東バイパスから、長岡大橋を渡って、日赤前の土手を通って、大手大橋から、土手を走り、 長岡大橋に戻り、同じコースを逆コースで帰ってくる。 冬期間(12〜3月)と雨天を除くと、ほぼ毎日、乗っている。 大よそ、年に200日として7百回以上、一日、14キロで1万キロ、地球を半周も走ったことになる。 スポーツチェーンのネット販売で59800円で買ったが、中国産だが私にとって大当たり。現在は値下げで49800円。 もうボロボロだが、何とかあと一年使って買換えるつもり。まず故障するのはブレーキと、蓄電池周りの固定器具。 パンクは三月に一度ぐらい。来年には、一ランク上のナショナルのものを買うつもりだが・・ 自転車には、シティ、クロス、ロード、マウンテンタイプなどがある。 私のは車輪の小さなマウンテンタイプ。 来年の購入予定はナショナルのクロスタイプのもの、どうなることやら。iPodで音楽を聴きながらの早朝 サイクリングは良い。雨が降ると溜息が出るほど。最近の週末は天気の具合をみて、昼も同じコースを走っている。 ・・・・・・ 2013/03/27 閑話小題 −つれづれに * 先週から早朝の信濃川一周のポタリングを始めたが、ほとんど散歩する姿はないのは寒いためだろう。 分厚い手袋と耳あてをし何とか寒さを凌いでいるが、日々暖かくなっている。慣れてしまえば最上の習慣である。 毎日15キロ、一年200日として三千キロ。三年間で9千キロ走ったことになるが、自転車はボロボロになって当然。 リチウム電池は、当初一回の充電で二日持ったが、劣化で一日が限度。この買換は一年後の予定?だが、持つか? あと一年で4年で一万二千キロ、地球の4分の1周を走ったことになるのだから良しとするか。 * 一昨日、カラスの交尾をみた。ポタリングの何時ものコースの通りの脇の花壇にいたカラスに、 小さなカラスが舞い降りてきて尾っぽを向けて羽根をそば立てて小さくうずくまった。そこにオスが・・ メスからの求愛である。これで春の訪れを知るとは・・・ ・・・・・・ 2012/08/21 つれづれに * 大手大橋にて 先週土曜日の早朝、何時ものようにポタリング(ミニ・サイクリング)の大手大橋で、ヒキチャリをしながら 歩いていると、後ろから声をかけたれた。車椅子に乗った隻手の男性で、恐らく交通事故で右腕を根元から切断、 下半身麻痺で自走式車椅子である。私の電動アシスト自転車に興味を持ち声をかけてきた。電動アシスト自転車が 如何に良いか説明すると、自分の車椅子が電動切替え式で、背後に電動モーターがついていて時速6キロという。 何度か薄暗い中、かなりのスピードで走っているのを見たことがあった。人それぞれの運命と人生がある。 ところが昨日の朝、いつものコースの信濃川の土手を走行していると、屋根つきの休憩所で30歳前後の男女二人が、 その電動の車椅子を畳んでいた。本人は不在で、まさか聞く訳もいかないし、そのまま遣りすごしたが。 その前に何か(熱中症とか?) あったのだろう。ポタリングを始めて4年目になるが、続けていると色いろある。 そういえば、雀が少なくなった。去年の大雨で河川敷の雑草地に水が使ったせいだろうか。 燕も少なくなった。多いのはカラスだけ。 ・・・・・・ 2012/06/15 閑話小題 * 自転車のパンク 4〜11月まで八ヶ月間、毎朝一時間もポタリングをしていると、年に二回はパンクをする。 たまたま土砂降りの時にパンクをし、ズブ濡れで自転車を引いて帰って来たこともある。それも付きものと 割り切っている。一回のパンクの修理代が千〜千二百円で、店によって違う。 昨日もパンクをしたので 近くの自転車屋で修理をした。世間話に、市内の自転車屋の数を聞いたところ、「百軒あった店が今では 三十軒になってしまった。4kのため次世代が店を継ぎたがらない」という。店売りの自転車はHCや、 スーパーが大量販売するため、価格競争に負け、修理だけとか。 パンクの修理時間は平均、20分。 それで千二百円は悪くないが、私の見立てでは一日4〜5人。奥さんがパートなら兼業商家なら何とか? ・・・・・・ 2012/04/14 閑話小題 * ポタリングを再開 早朝のミニ・サイクリング(ポタリング)を再開した。冬期間を除いた4月〜11月の間、一時間かけ 信濃川の二つの大橋を一周する。6時過ぎから7時過ぎにかけての時間帯だが、何とも清々しい。電動アシスト 自転車の効能で、午後の二時間のスポーツジムを加えると、三時間も運動している。 平坦な習慣の組み合わせ のためかアッという間に一週間が経ってしまう。 電動アシスト自転車の使用目安を5年と決めているので、 半分使え終えたことになる。電動自転車は、お薦めである。手段(自転車)が、目的(朝の運動)を変えてしまう (ウォーキングからポタリングへ)典型的事例になる。これからはスマートフォンとタブレットPCの普及が、 ビジネスや生活パターンを根こそぎ変え始めているが、手段の進化は、人間生活を間違いなく良くしてくれる。 ・・・・・・ 2011/11/08 閑話小題 ー自転車からの風景 * 焼鳥屋、鳥梅 私の幼稚園の頃の、一番初めの友達が、近くの焼き鳥屋の息子であった。 幼稚園の一年間と、小学校の二年の三年間である。ある日の午後、そこに遊びに行くと、今から思うと 焼鳥の串さしの仕込みを、御父さんがしていた。子供なりに、仕事の場には近づいてはならないことは知っていた。 ところが手招きをして、その一本の焼き鳥を差し出してくれた。 そして、食べて驚いた。その美味いこと。 ガムのようで噛んでも噛んでも、噛み切れないが、その味わいと香りは、今でも強烈な記憶として残っている。 その後、成人になって長岡にUターンをしてから1〜2度、飲みにいったことがある。私の幼馴染は何があったか 分からないが、店から引退し、姉さんと、奥さんが店に出ていた。その店の前を二月ほど前に早朝のポタリングの 帰りに通ったら、店の看板が無くなっていた。そこで、姉さんらしき女性が、店の前で掃き掃除をしていた。 そこで、長岡の夜の博士と自認している?人に、聞いてみたところ、「この春に閉店したが、その閉店の日に 行ってきた。姉さんも高齢と不景気で止め時と言っていた」という。 それにしても、幼稚園時代の記憶の原点の一つの店が閉店とは、時代の変わり目である。 ・・・・・・ 3777, ポタリング 2011年07月29日(金) 最近、面白い言葉ーポタリングを知った。 −ネット辞書によるとー 【 ポタリングとは、自転車でぶらつくことを意味する和製英語で、観光名所などに自転車を用いる「 散歩」的なサイクリングをいう。 散走とも言う。サイクリングの一種で、散歩程度に軽く走ることをいう。】 中高年のオジサンが、行く当てない風にママチャリに乗っているのとは、チト違うようだ。毎朝、ウォーキング 代わりに、信濃川まで一時間、自転車で散走をしているが、サイクリングというには違和感があったが、適切な ポタリングという言葉があった。「ちょっとポタリングしてくる!」なら、丁度よい。自転車は野球帽を少し 深めに被っていれば目だたないし、人は気に留めない。また電動アシストなら、エネルギーは普通の自転車の 三分一か、五分の一で済む。 近くのSCや図書館に気楽にいけるのも良い。この御陰で生活が一変した。 イメージとして、サイクリングは、中・長距離の場合に使い、目的は自転車に乗る方のニュアンスが強い。 またツーリングは、長距離で、自転車で旅行をする場合につかう。 東京など密度の濃い都会の二時間の散策なら、かなりの場所に行くことが出来る。 現在、早朝の信濃川の ポタリングが主だが、今度は午後などに折りたたみ自転車を車に乗せて日本海沿岸をポタリングするのも面白そう。 そうこう考えると、周囲に面白いことは、山ほどある。ただ気づいていないだけである。ベストの敵はベターというが、 その通り。それにしても「ポタリング」という語感がよい。 これから少し与太るで、「ヨタリング」という 言葉も浮かんでくる。陰鬱の時、少し与太らないとやってられない。 でも、自重の時期である。 で、自転車でヨタルしかないか。 少し離れた場所のポタリング用に、もう一台、安い折りたたみでも買うか? でも、車で一時間で何処かあるのか考えると?
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2014年09月11日(木)
* 人間の持つ二重性 『パワレルな知性』鷲田清一著 「ひとりの人を理解するまでには、少なくとも1トンの塩をいっしょに舐めなければならない。」と、 須賀敦子に諭したイタリア人の姑の言葉が、古典や人とのつき合い方についての根本を示している。 人間は、40億年の生命の進化の歴史を背景に持つ複雑怪奇な生きもの。 自分の中にあるグレーソーンに多くの何かが隠されている。 ーその辺りからー ≪ ・・白黒つけられないこと、グレイゾーンにあることこそ、じつは大きな意味をもっているのでは ないかとおもってきた。「噛みきれない想い」を抹消しないこと、それが思考の次のステップの火床に なるのではないか、と。そのことを日常のさまざまな局面で確かめてみたかった。 わたしは子どもの頃から、物ごとを見るとき、表面上の意味とは反対の意味を背後に透かし見る 癖があった。その癖の源となったのは、幼少期のある体験である。 わたしは、京都の下京区という下町の生まれである。お寺が多く。そこを通り抜けると島原という 花街があるという土地柄で、わたしは子どものころ、若い修行僧や芸妓さんとよく道ですれ違った。 修行僧は冬でも裸足に草履履で、服装もきわめて簡素で、逆に、芸妓さんはきらびやかなきもので 着飾っていた。子どものころのわたしは、「お坊さんは寒いのに可哀相やなあ」とおもい、 「芸妓さんは優雅やなあ。おいしいもの食べて、きれいなきもの着て」とおもったものだ。 しかしその後、そうした表面的な印象とは逆の面が見えた出来事があった。 ・一つは、祖母から「お寺さんは貧相な格好に見えるけど、わたしらが知らん『浄土』という、 この世にはない幸福を知ってはるんよ」と言われたこと。 ・もう一つは、芸妓さんがお座敷に出る前に地味な洋服姿で銭湯に行き、帰り道にお宮に参って 「早う故郷に帰れますように」と祈っている姿を見たことである。 貧相の極みに見えた修行僧の心にはこの世ならぬ幸福があり、豪奢の極みに見えた芸妓さんの心 には寂しく哀しい想いがあった。わたしはそのことを知って、「物ごとって、見た目だけやないんやなあ。 わからんもんやなあ」と、世の中に対する見方が少し変わった気がした。 わたしが哲学の道に進んだのも、子どものころから身についた‘物ごとの裏側を見透かす 癖'が遠因となったのかもしれない。・・・ ≫ ▼ 実家が衣料小売商をしていて、4階建ビルの3Fに4〜10歳まで育ったため、日常が戦場真只中! その上に両親を含めた10人家族と、住込み従業員が4Fと2Fに同居していた。更に猫と、猿と、 犬が、同居とくれば、まさしく小説の世界。そこで、子供ながらに、様々な不条理の場面を見てきた。 子供でも、裏と表が分かるのである。そこでは、まずは自分を自分自身で守るしかなかった。 その中で、姉たちは、成績優良だったから、いま考えると不思議である。その末っ子となれば、 「沈黙こそが金」を身につけざるを得なかった。全てがグレーゾーンで、裏も表も、斜めも、底もある 生々しい世界で、娑婆そのもの。それが、その後の社会経験の中で、危険な場面を乗越える ノウハウになっていた。 直感的リスク管理が、幼児時代に身についていたことになる。 人間科学を学び続けて知ったことは、『人間の持つ多重性』である。 幼児、少年時代の、 この体験の上に、学生時代の寮生活と、武澤ゼミの「ケーススタディ」が加わっていた。 今回の節目の一連の構えを備えていたのも、それらの蓄積があればこそ。人間の持つ多重性の 奥底を知ればこそ。 で、この結果、この様だから、何を言わんか。 それにしても、見え過ぎるのも、面白い反面…?奇妙なもの! 後記)ところで、読み返してみたところ、私の内容の方が中味が濃い? いや、丁度よい? 悪い? ・・・・・・ 4561, 2050年の世界 ー4 2013年09月11日(水) 「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 英『エコノミスト』編集部 (著) 本書は(第一部:人間とその相互作用)(第二部:環境、信仰、政府)(第三部:経済とビジネス) (第四部:知識と科学)それぞれ5章の合計20章から成る。人間、宗教と政治、経済、知識と科学の、4つ括り。 次回からは後半ほど面白いため、20項目の一番最後から⑳⑲⑱⑰と逆向きに取り上げる。ーまず目次からー (第一部:人間とその相互作用) ① 人口の配当を受ける成長地域はここだ ② 人間の病気の将来 ③ 経済成長がもたらす女性の機会 ④ ソーシャル・ネットワークの可能性 ⑤ 言語と文化の未来 (第二部:環境、信仰、政府) ⑥ 宗教はゆっくりと後退する ⑦ 地球は本当に温暖化するか ⑧ 弱者が強者となる戦争の未来 ⑨ おぼつかない自由の足取り ⑩ 高齢化社会による国家財政の悪化をどうするか (第三部:経済とビジネス) ⑪ 新興市場の時代 ⑫ グローバリゼーションとアジアの世紀 ⑬ 貧富の格差は収斂していく ⑭ 現実となるシュンペンターの理論 ⑮ バブルと景気循環のサイクル (第四部:知識と科学) ⑯ 次なる科学 ⑰ 苦難を越え宇宙に進路を ⑱ 情報技術はどこまで進歩するか ⑲ 距離は死に、位置が重要になる ⑳ 予言はなぜ当たらないのか ▼ これを見ていると、人口の推計以外、どれもこれも、この程度ではない?と・・ 日本一つ取り上げてみても、40年前の1973年は高度経済成長の真っ只中で、 石油ショックで茫然自失。12年後にバブルが発生、5年後にバブル崩壊。そして、失われた 20年を経て、リーマンショックと東北大震災。 現在は1000兆円の借金を抱えている。 明らかに10年後は国家破綻国の可能性が大。まして、40年後は・・・ それでも、叩き台として想定するのは必要である。最終章の「予言はなぜ当たらないのか?」 の答えは、 「土台無理のテーマ」。情報化によるグローバル化で、世界が平準化していく 結果は、誰も想定出来ないだろう。 ・・・・・・ 4186, 閑話小題 ーヨーカ堂の正社員削減 2012年09月11日(火) * オスプレーを一番必要としているのは日本じゃないかい? 政府がトラフ地震の被害情報を発表してから、次の大震災に対しての被害想定が表立ってきた。 道路が寸断された災害地に対する緊急の救済にヘリコプターが一番有効に働くが、短距離しか有効に働かない。 問題は中距離からの輸送である。そうオスプレーのような中距離の大量空輸が可能な緊急輸送手段こそ必要になる。 被害地の近くに飛行場は無いのである。問題は数千、数万の命に関わる問題、危ないとかいっている場合でない。 尖閣列島などの領土問題でもしかり。もし戦闘になった時に最も必要になるのは中距離輸送。 オスプレーの着陸は、 別に住宅密集地にする必要がない、問題はコース。ヘリ機能はコースを如何ようにも変えられる。 こういう意見は、この国では口に出せない。出せば袋叩きになる。何かがおかしい! * ヨーカ堂の正社員削減 ヨーカ堂が現在の正社員8600人を4,000以上削減すると発表し、パート比率を90%に引き上げるという。 それだけ、経営状況が悪化しているということだ。 ヨーカ堂グループは、セブンイレブンを持っているので、 グループとしての経営体質は良いが、その発生の元のGMSの業態のヨーカ堂店舗を多く抱えている。 それが正社員比率を一割まで減らすというから驚き。 店舗も一割削減するため均衡縮小になる。 情報機器が高度化しているため、それほど店舗レベルの質の低下は避けられるのだろう。 地元の長岡駅前のヨーカ堂は、私と家内の目からみて死に体の店。ファッション、雑貨に買いたくなる商品が皆無。 ・・・・・・ 3821, 哲学人 ー� 2011年09月11日(日) * ウィトゲンシュタインの『論理哲学考』 ー「哲学人」ブライアン・マギー著より ー まずは、以下の箇所である。 【 オックスフォードでは、しきりとこの本「論理哲学考」が参照されいたけれど、学生は読むように 勧められていなかった。これを理解するには、論理学の技術に習熟する必要があったからである。・・・ 私はこの本に取り組む準備はできていると感じた。 おそらく、このような本だと知ったときほど驚いたことは、 あとにも先にもないのではないだろうか。オックスフォードでは『論理哲学論考』は常に論理実証主義の基礎をなす 文献として挙げられていた。ところがきちんと読んでみると、その中心テーマは論理実証主義のほぽ対極にあった。 論理実証主義者は、世界に関するあらゆる真理探究を科学に同化させる傾向があり、その結果、科学を律する基準 によってすべての真理探究活動を判断し、科学的発言に適用されるルールによってすべての発言の妥当性を判断した。 観察か経験により立証されるものしか、世界について知ることはできないのであり、確実な論拠を提出できるものしか、 有効に、もしくは正当に語ることはできない。だが重要な事柄はすべて、少なくとも原理上は語ることができるはず。 そして曲がりなりにも語ることができるものは、明確に語りうるだろう。『論理哲学論考』は、こうしたこととは 正反対に、きわめて重要なもののほとんどはまったく語ることができず、言葉を使ってもせいぜい示すことができる だけと言いきっていた。それは示されうるとしても、語ることはできないのだ、と。 また、「論理哲学諭考』は 科学をあまり評価していなかった。命題言語が有効なのは、経験や分析に基づく真実、すなわち事実と論理にかわる 事柄を表現する場合にかぎられる。それ以外の分野では、役に立つというよりむしろ誤解を招きやすいので、 有益というよりむしろ有害となりやすい。このため、私たちにとってきわめて重大な意味をもつ問題はどれも その範囲の外にあることになる。倫理・道徳・価値観に関する疑問・人生の意味に関する疑問、自我や死の本質に 関する疑問、全体としての世界の存在に関する疑問は、観察にも論理にも解決できない。したがって命題言語が 扱えるものではなく、強引に命題言語で処理しようとすれば、行き詰る結果となる。】 ▼《『論理哲学論考』は、きわめて重要なもののほとんどはまったく語ることができず、言葉を使ってもせいぜい 示すことができるだけだと言いきっていた。それは示されうるとしても、語ることはできないのだ、と。 また『論理哲学諭考』は科学をあまり評価していなかった。命題言語が有効なのは、経験や分析に基づく真実、 すなわち事実と論理にかわる事柄を表現する場合にかぎられる。それ以外の分野では、役に立つというより むしろ誤解を招きやすいので、有益というよりむしろ有害となりやすい。》 上記の中で、この部分は非常にシビアで、 したり顔で小理屈を述べている学者風の人を一言で切り捨てている。これは哲学の否定でもある。語りえないことを、 哲学は求めていることになる。論理実証主義者と言語哲学者たちが、この『論理哲学考』を全く誤解していたことになる。 *「論理は考えられるもの」の範囲を定める。 * 語りえないものには沈黙を * 言語は「写像形式」によって 世界につながっている。 言語はものや出来事を写し取って名前をつけたもの * 言語が対象に意味を持たせる =言語ゲームの始まり、である。「言語が語れることだけが思考できる範囲」と言うが、私として、 「解釈できる範囲が思考できる範囲」であって欲しいが。 ・・・・・・・・ 3456, 渥美俊一氏死去 −2 2010年09月11日(土) 一回の追悼文で終わる予定だったが、何か言い足りないので更に書く。 7月21日に亡くなったが、どういう訳か死亡記事を見過ごしてしまった。知人に聞くと日経新聞に小さ 載っていたという。氏の業績から言えば、より大きく取り扱われてよいのだが、既に時代が変ってしまったか? 所詮はスーパーの神様でしかないのか。早くいえば、流通先進国アメリカをウォッチング、そっくり真似をし、 日本の遅れている流通経路に新しいバイパスを創りなさい、ということである。「大量生産、大量消費の間に、 大量流通の仕組みつくりを、それぞれの立場で、新業態をつくること、それをロマンとして志すべし」は、 高度成長期には正しいことであった。その時期、ジャスコ、いとはん(その後、北陸ジャスコ)に勤ていたので、 濁流の渦で色いろな現象を目の当たりに見てきた。そしてバブル崩壊。以降、今度は激しい生存競争に晒される。 その中で、長崎屋、マイカル、ダイエー、西武流通グループなどが次々と姿を消していった。 大手で残ったのがジャスコ=イオン、ヨーカ堂だけになってしまった。その二社も最近、変調をきたしてきている。 (字数制限のためカット 2011年9月11日) ・・・・・・・ 3081, 第三の場所 2009年09月11日(金) 我われは家と職場だけでは息がつけないので、行きつけの居酒屋やスナックをつくり、学生時代の校友会や、 気の合った飲み友達の会などの自分の世界を広げる。その他にもスポーツクラブやゴルフの会にも参加したりする。 それがレイ・オルデンバーグがいう「サードプレイス(第三の場所)」である。 「サードプレイス」とは 家(必要不可欠な第一の場所)と 職場(必要不可欠な第二の場所)に加え、都市に 暮らす人々にとっての「必要不可欠な第三の場所」を意味する。オルデンバーグは「サードプレイス」の代表例と して、イギリスのパブ、フランスのカフェ等を挙げ、それらが自由でリラックスした雰囲気の対話を促進し、 都市生活における良好な人間関係を産み出す重要な空間であるとする。 その特徴を「インフォーマルでパブリックな営み」を促進する場としている。 インフォーマルとは社会的立場を脇に置くことであり、パブリックとは仲間がいて協調する場をいう。 第三の場は、年齢とか趣味で個々の組み合わせが変わってくる。 私のベースは、居酒屋・スナック+秘・異郷旅行+図書館・読書+早朝のウォーキング+新幹線通勤の車中など。 誰もそうだろうが、私も学生時代から現在まで、第三の場所を直ぐに創る習性があった。 家が商売をしていて 大家族だったこともあり、自分の世界を創るしかなかったのである。但し中高校時は、その余裕は全く無かったが、 その分、大学時代に一挙に爆発したようだ。ところで8年前にパソコンを始めて、HPを開いてからネットが 第三の場所の一つに加えられた。 もしかしたら第四の場所? いや、第三の場所か??。 サルトルは、その一つとしてパリのカフェの一角で多くの友人とサークルを作り、オープンな議論をした。 そうこう考えていたら、人生でみると学生時代が第三の場所だったような気がする。第一の場が両親の影響下の家庭、 第二の場が自立後、そして第三の場が中間の学生時代である。だから現在でも学生時代の友人と会いたくなる。 学生という身分でスポーツやゼミなどで日本中から集まった人たちと、酒を飲み、議論をし、旅行などをした。 第三の場所に父親に頭を押さえつけられた二世・三世が逃避しているケースが多く見られる。青年会議所、 ライオンズなどである。こういう時期に人間関係を形成する機会という見方もあるから否定は出来ないが、 要は第一・第二・第三のバランス。 場所といえば、時間にも「第三の時間」という言葉が成り立つ。 「第三の場所で過ごす時間」である。 時間と空間と具体的な内容ーTPOの問題と、それを受け止める心(立場) の問題が出てくる。で、「第四の場所」を想定すると? 「絶対孤独の場」 それとも「何かに夢中になっている場」か「忘我の読書」? ・・・・・・・・・ 2716, 東京について 2008年09月11日(木) 家内は東京大好き人間。私は好きではないし住みたいとは思わない。大都会は確かに情報が集まり、面白いかも しれないが、何か豊かさの方向を間違ってしまったように思える。私は日本の中央の東京の反対側の日本海の都市で、 職は新潟市、住いが長岡市である。のんびりしているが四季の変化が激しく、地方特有の時間がユックリ流れている。 そこには色いろな人生を、活き活きと生きている人が多い。 (字数制限のためカット 2010年9月11日) ・・・・・・・・・・ 2007年09月11日(火) 2352.ベナレス・・・8 6、輪廻と解脱の思想 輪廻と解脱という考えは、ウパニシヤッド聖典(奥義書)の中に最初に現れた思想である。 過去の善悪の業(もともとの意味は行為)が現在の果報を生じ、現在の業が未来の果報を招くというように、 われわれの生死は繰り返し続いていく。古代の思想家の大半は、このような輪廻の世界に存在すること自体を 苦であると考え、いかにして輪廻の束縛から解放されるか、すなわち解脱できるかを最大の問題とした。 彼らにとつて解脱とは、自我の本質とされるアートマン(我)が宇宙を成り立たせている根本原理すなわち 万有に遍在する力であるブラフマン(梵)に合一することである。しかし、庶民一般にとつてはこのような 思想はいささか難しく、普通は死後天界におもむくことと考えられている。 現在の生が過去の生の結果であるという考え方は一見宿命論的に思えるが、輪廻の大海で生死を繰り返すのも、 またその連鎖を断ち切つて解脱を獲得するのもすべては自己の行為にもとついている。いわば執看を離れた 努力主義精進主義こそが、ヒンドゥー教徒にとっての理想的な行動原理となつている。解脱は日々の正しい 行いの蓄積によつてこそ達成さる。 ーー 輪廻と解脱。まあ、解りやすい因果応報の内容である。この位の制約をつけておかないと、 征服者の支配はインド大陸の中では不可能なのだろう。宗教による縛りとは考えたものである。 これで3000年支配してきたのだから、奇跡といえば奇跡である。 ・・・・・・・ 2006年09月11日(月) 1987, デジタル一眼レフカメラ−1 おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・ ー字数制限のためカット09年09月11日ー ・・・・・・・・ 2005年09月11日(日) 1622, 戦略的思考について 「戦略」については、書いたことがあったが。不況の真只中に、それに対して戦略的な手をうってきたかというと、 問題がある現在?あまり偉そうなことも書けないが。まあ、いいだろう!理屈は理屈である。 戦略的思考とは、「自分に対する質問と、その答え」であり、その飽くなき繰り返しの中での練り上げの プロセスをいう。質問に、その大きな要素が含まれている。 (字数制限のためカット 2014年9月11日)
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2014年09月10日(水)
* 専門主義と、教養 『パワレルな知性』鷲田清一著 人生を振返ると、あらためて教養の必要性を感じる。仕事や、目先の事象に影響する 経験や知識でない純粋に知っておくべきことがある。古典文学、芸術、音楽、大自然の 景観に感動することや、世界の果てから、あらためて現在の自分を振返ることも、 教養である。その積み重ねが、複眼で問題を見ることを可能にする。 見識が狭いと、その枠内でしか考えることが出来ない。 ーその辺りからー ≪ 学者や、専門家は、ながらく、みずからの知的努力を一つの専門領域に絞り、 専門外の領域に対しては、越権行為としてみずから禁じてきた。逆に、専門外の意見は、 受け入れようとしなかった。しかし情報化の時代に、そんな態度はとれなくなってきた。 ・・・協同するプロたちにとって、組む相手はいずれも、じぶんの専門領域からすれば アマチュアだということだ。とすれば、ほんとうのプロというのは他のプロとうまく共同作業が できる人のことであり、彼らにじぶんがやろうとしていることの大事さを、そしておもしろさを、 きちんと伝えられる人であり、そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けることの できる人だということになる。一つのことしかできないというのは、プロフエッショナルではなく、 スペシャリストであるにすぎない。 このことが意味しているのは、ある分野の専門研究者が真のプロフエッショナルで ありうるためには、つねに同時に「教養人」でなければいけないということ。「教養」とは、 一つの問題に対して必要ないくつもの思考の補助線を立てることができるということ。 いいかえると問題を複眼で見ること、いくつもの異なる視点から問題を照射することが できるということである。このことによって一つの知性はより客観的なものになる。 そのためには常日頃から、じぶんの関心とはさしあたって接点ない思考や表現にふれるよう、 心懸けていなければならない。じぶんの専門外のことがらに対しいつも感度のいいアンテナを 張っていること、そう、専門外のことがらに対して狩猟民族がもっている感度の良さが必要である・・≫ ▼ 穴を深く掘ろうとしたら、間口を広くしなければならない。その間口の広さが、知識の幅になる。 ここで、スペシャリストとプロフェッショナルとの違いが分かりやすい。そのために、人の話を聞くこと、 本を読む、何事にも興味を持つ、一流のものに接する、とにかく変化する、など長年かけた習慣が 必要になる。情報化の時代、専門主義では大波に一瞬で流されてしまう。それにしても 我が教養の少なさを実感する。これも自覚できるか、出来ないかの違いでしかないが! 高学歴ほど、それが分からないから始末が悪い! 知れば知るほど、知らないことが 多いことに気づくはずなのに、である。知れば知るほど、膨大な未知の世界の存在に 気づくはずなのに、である。 専門分野も、掘り下げれば下げるほど、専門外の知識が 必要になって然るべきだが? 掘り下げが中途半端だから、視野狭窄になる? ・・・・・・ 4560・横尾 忠則の老人論 ー3 2013年09月10日(火) 「猫背の目線」横尾 忠則 (著) * コスプレの公開制作が面白い! コスプレとはアニメやゲームなどの登場人物やキャラクターに扮する行為を指す。 画家が、自分の描く風景の登場人物のコスプレで公開制作とは面白い。これまで色いろな 職種を経験してきたが、制服を着た当初はコスプレのような感がした。それも数日で 同化するから不思議。それは事業も同じで、無我夢中で取り組んでいるうち、 その機能になってしまうもの。人生もコスプレのように、服装も心も身体も全身仮面で 時節ごと付け替えているに過ぎないのではないか。化粧と服装も、自分が主役のTPOSに 合わせたコスプレ? ギャルとか、キャバクラ嬢の見なりは、その典型・・ ーその辺りの箇所からー 《 1980年代にさしかかった頃、グラフィクデザインから画家に転向したが、当初アトリエが なかったため美術館のスペースで絵を書く事が多かった。それもただで場所を提供してくれる ところはなく、「貸してあげるが公開制作にしてくれないか」という条件が出された。 絵は本来アトリに独り籠ってかく孤独な作業なのに人前で描くということは考えても いなかったので、果たして描けるかどうかに頭を痛めたが、やってみると意外と抵抗なく、 むしろスイスイ描けることに我ながら驚いたものだ。 それ以来アトリエができるまであちこちの美術館で公開制作を行ってきた。 人前で描くことは確かにプレッシャーになったり、ストレスの原因を生むが慣れてしまえぱ平気。 背後の観客から、集中する僕に突き刺さってくるのがヒシヒシとわかる。こんな想念がぼくの 中でエネルギーに変換されてより創造的になることを発見した。 この場合の創造というのは無私になること。不思議なことに雑念が去来しなくなるのである。 そう言う意味で座禅に近いのかもしれないが、座禅とて雑念に振り回される場合が多い。 その点、公開創作の方が「私」意識が薄れるのである。それはは考えるということと描く ということが一体化されるからだ。おまけに描くスピードが早くなり、手と心が同化して いくのがよくわかる。だから時には一日で150号大の作品が描き上がることさえある。 観客がこちらの一挙手一投足を固唾を飲んで見ているのが体に伝わるので、思わず 手を休めるのを忘れ描き続けてしまう。このことが描きてであるぼくを解放する。 公開制作の味を占めたぽくは最近また続づけるようになった。しかもコスプレによって制作する。 公面制作で描く絵は、ぼくが近年描き続けている「Y字路」である。 そこで道路で作業している現場の人たちと同じ格好で絵を描くことにした。街でよく見かける ー幅の広いズボンにベスト着用、頭にはタオルを巻いてーとこんな風景をよく見かけるでしょう。 つまり鳶職スタイルである。他の学芸員も道路工事の関係者の役回りになってもらう。 最初は観客は度肝を抜かれ、ギョッとした顔になって、次はケラケラ笑う。それも一瞬、 こちらが真剣に絵を描くものだから、あとは会場は水を打ったようになる。 よく仮面効用というが、コスプレはまさに全身仮面になり、人格も他者になるわけだから 不思議な解放感に襲われ、その結果、実に自由な気分になるのである。 そして描く行為そのものも絵と同じように作品化されてしまう。だから観客はパフォーマンスを 鑑賞することになる。制作の休憩時間に美術館のレストランにこの格好で入っていくと、 まずお客は場違いなものを目にしたわけだから、なんとも当惑した顔をする。 われわれに向ける視線には明らかな拒否反応の色が見える。「作業着のままでよく、 ソフィスティケイトされた美術館のレストランに入ってくるわね」という視線を投げてくると同時に 「レストランの人たちは何もいわないのか」と。ぽくがコスプレしていることがわからないのだけど。 そんな反応をぼくは実は楽しんでいるのである。これも仮面の効用で、普段体験できない 経験にほくは悦に入っているというわけだ。》 ▼ それは、自分自身にも人間そのものにも当てはまる。両親合作の心身を「魂らしい自分の芯」 が、コスプレ? としての自分を見つめ続けている。さすがに横尾忠則である。描き手の目線を、 その環境の一人として、まず服装から当事者になってしまう。そして観客も、 その場の一人として引き込んで、作家のイメージの世界に誘導する。 ・・・・・・・・ 4185, 呪いの時代 ー4 2012年09月10日(月) 「呪いの時代」内田樹著 * 脊髄反射的その場のつくろい ー 第3章 「後手」に回る日本 ーより 島国の閉鎖的社会では、問題を荒立てないために「その場のつくろい」も必要である。 しかし、情報化社会では、それは許されるものではない。現在の日本の政治は、毎年、首相を交換させることで、 その場のつくろいをしているに過ぎない。それを国民が求めているから首相は、問題解決の痛みを敢えて 強いることをしない。そして一年もしないうちに引きずり下ろされる。ー以下の部分は、その理由を端的についている。 ≪ 日本の政治家とアメリカの政治家の違いというのは、武道で言うと、アメリカは基本的に「先手」の人であり、 「日本は後手」の人ということ。欧米では、とりあえず国家が行くべき道というか、実現すべき国家像という ビジョンがあり、それが国民的規模で共有されている。日本には、そんなものはありません。終戦時に、それがなかった。 とりあえず「アメリカ人が日本がかくあるべしと考えていること」をもって国是とした。「自分で与えた憲法の理念と 背馳する命令が出せるほどの強大な国家には従属するしかない」という経験則が存在したということです。 それが日本の国是です。アメリカに従属する。 ・・相手が次に打ってくる一手に最適対応すべく全神経を集中すること。 どれを武道では「居着き」と言います。物理的には足の裏が地面に張りついて身動きならない状態ですが、構造的に 「負ける」ことです。日本の政治が三流であるということはそういうことです。政治家個々人の資質がどうこうでなく、 構造的に負けているのです。国家像が描けない、統治原理が語れない、外交戦略が起案できないというのは個別的な 知性の問題でなく、日本人全員が罹患している国民的な病です。・・・ ≫ ▼ 現在、日本が直面している問題は、まさに上記のことによる。数十年に渡って、間接的米国隷属国家として、 当然、と言えば当然で、これしか出来なかった。上司と部下の関係である。アメリカには建国の精神がある。 独立宣言書である。何かあると、ここに立ち戻って、立て直す。問題があるのは、それから軌道がそれたと理屈づけ 軌道修正をしてきた。明治維新も、太平洋戦争の敗戦も、アメリカの圧力で変化を余儀なくされた。それに日本人の 特質もあり、後手という守りしか手が打てなかった。 現在の領土問題も、これから起因して周辺各国から遊ばれている状態。 つづく ・・・・・ 3820, 哲学人 ー� 2011年09月10日(土) * 現実と経験と言語は一緒ではない ー「哲学人」ブライアン・マギー著より ー まずは、「現実把握は、言語的分類次第で決まる」という部分から ー 【 言語が経験を構成するというのである。この見解についてジョーン・サールが、明快に述べている。 ≪ 私は言語が現実をつくると言っているのではありません。とんでもない。むしろ、私が言おうとしている のはこういうことです。何を現実とみなすか ーどういうものをグラス一杯の水として、一冊の本として、 一脚のテープルとしてみなすか、どういうものを同じグラスとか違う本とか二脚のテープルとみなすかー は、 私たちが世界に押しつけるカテゴリーしだいなのです。そして、こうしたカテゴリーはたいてい言語的なものです。 それだけではありません。世界を経験するとき、私たちは経験そのものを形成する際に役立つ、言語的なカテゴリーを 通じて世界を経験しているのです。 世界はもとから物体と経験に分かれて存在しているわけではありません。 何を物体とみなすかは、もともと私たちの表象体系の一機能の結果であり、経験のなかから世界をどう知覚するかは、 その表象体系に影響を受けているのです。 言語を世界に適用することを、いわばみずから独立自存する物体に ラベルをつけることだと想定するのは間違いです。私の考えでは、世界は私たちが分類するとおりに分類される のであり、事物を分類する主な方法は言語によるものなのです。現実の把握は、言語的なカテゴリーしだいなのです。≫ この考え方はいまなお、哲学者ばかりか、文学や言語学をはじめとする他分野の専門家たちによって、さらには、 一部の社会学者や人類学者たちによって唱えられている。「何を物体とみなすかは、もともと私たちの表象体系の 一機能の結果であり、経験のなかから世界をどう知覚するかは、その表象体系に影響を受けている」という点について、 私もサールに賛成したいし、誰もが同意しなくてはならないだろうが、私としてはこれをカント哲学的な意昧に 解釈したいと思う。 ただし、その表象体系に含まれるカテゴリーが基本的に、もしくは第一に言語という性質を もつとする点は認められない。考え方としてはわかる。 わからないのは、そしてこれまで一度として理解できた ためしがないのは、どうしてそんな考えを抱けるのかということだ。というのも、それは私の直接の経験によって 真っ向から否定されるように感じるからである(この点に関して私が特殊であるとは思えない)。】 ▼ 事業が、この結果(倒産)で終わった。総括は頭を冷やした来年早々にするつもりだが、それが、この30年の 構成の提示になる。創業10年、中間期10年、最後の10年、そして最後に、どのような終わり方をしたか?、 その時の断面は、どうだったか。それを、どういう切口で分類し、評価するかである。30年、人生の事業生活の 大部分を注ぎ込んだ、この結果は? 要は、倒産で終わったということ。その視点を失うと、総括は不可能になる。 炎上している世界経済と、ネット社会の移行の中で日常が音を立てて変化している。その中で、言語的分類の 枠組みを立て直すことが、まず求められる。「3つの震災が何もかも飲み込んだように見えるが、実は情報化の 潮流に飲み込まれたのが真の理由だったのか?」これも言語的分類。分類は分析の第一歩。そのプロセスが総括。 そこで価値(意味)を自ら下げることもない。今までの価値観のコペルニクス的転換の時。ここの小テーマが 「現実と経験と言語は一緒ではない」である。 当然、この小テーマが問題になる。「言語は、それを構成する」だけ。 消滅してしまった事業の総括。ただ、それだけだが・・あと講釈でしかない、だから冷静に見つめないと。 意思決定から45年である。 ・・・・・・・ 3455, 渥美俊一氏死去 2010年09月10日(金) ペガサスクラブの主催者で、日本リテイリングセンターの渥美俊一氏が亡くなった。チャーンストア時代の大きな 転換期の目安になる。そこには、桜井たえ子という渥美先生の片腕の女史がいるが、彼女がペガサスを支えることが できるかどうか? 昭和30年半ば大手スーパーや専門チェーンの創業経営者のほとんどが渥美先生の元に終結、 成長・拡大し、そして消えていった。現在でも流通界におけるカリスマ的指導者、亡くなる直前まで講義を続けていた。 氏が主宰していた「ペガサスクラブ」の指導は厳しいのは衆知のこと。日本の高度成長を流通面から支えた貢献は多大。 バブル崩壊後は、ダイエー・マイカル・西武流通グループの倒産が象徴するように、チェーンストア理論が必ずしも 有効に機能しない側面が表面化し、これまでの勢い失っていった。最近ではユニクロのように、ペガサスに創業当初 から属さない成長チェーンも出現してきている。 学生時代、大学の近くの書店で月刊誌の「販売革新」を手に取り、 渥美俊一が「ペガサスクラブ」を立上げ、ダイエー、ヨーカ堂などのチェーンのコンサルタントをしていることを知る。 そして「チェーンストアへの道」という10巻シリーズのチェーンストアつくりの戦略、手法が書かれている理論を 貪り読んだ。そして、それをベースに卒論「流通革命」を書いた。それもあってジャスコの創業一期生として入社。 そうこうあって渥美先生には、大きな影響を受けた。そして現事業の立ち上げでは、その裏づけとしての理論的 背景にチェーン理論があった。 セミナーだけで、50〜60回は出続けた。 その費用は、長岡市郊外の二つの 土地転がしで直ぐに元は取れた。立地論から、バイパス沿いの若い土地の短期転売で利益を得て、その正しさを確認した。 しかし20年前にバブルが弾けた彼の理論は、時代とはかけ離れたものとなってしまった。 「バランスシートの右と左を拡大しながら店数を増やしなさい。それも町のバイパス沿いのヘソ(要所)を見つけ、 自店舗を建てることで価値をあげ、それを担保に拡大出店を続けなさい」という理屈である。 またアメリカの流通事例を見せるため店舗見学ツアーを組んで、2、300人と連れて行くのである。 私も二度、参加したことがある。大量生産、大量消費の時代、流通システムが全く旧態だった日本に、新しい バイパスとして、スーパーや、総合量販店、専門店を、チェーン化で、販売経路の拡大戦略を指導してきたのである。 彼は死ぬ直前まで、「日本の流通は未完である」と、その指導の手を緩めることがなかったのは、 やはり経営コンサルタントとしては、超一級だった証である。 ご苦労様。 ご冥福を! ・・・・・・・ 3080,再び死について考えてみる 2009年09月10日(木) 一昨日、従姉妹の通夜に参列をしてきた。地元の米屋に嫁に行ったが、小姑が多く難儀をしていると聞いていた。 「この世に、今時にこんな厳しい嫁の環境があるのだろうか」と思われるほどの重荷を背負っていたようだ。その 10日ほど前に、長岡のグリーン・ホテルの先代社長が先月27日に亡くなったと死亡広告にあった。 一度、当方の事務所に来たことがあったが、創業時にホテル業についての話を聞きに行った事があった。 暗い顔をした気難しそうな人だった。「自分の兄弟二人が、新潟駅前でホテルをしているのを知らないね」と言われ、 それさえ知らない無知を恥じた記憶がある。 三条、柏崎、長岡三棟、東京の上野近くで6棟を建て、子供たちに 一棟ずつ与えるのが夢だったというから、それはそれで・・。ところで、身近な知り合いと第三者の中間の立ち位置の 「二・五人称の人」が死を考えるに最適という。第三者と第二者=知人と中間の立場の立場の死から多くのことが 見えてくる。知っている程度の人である。「死ぬ=無になる」、という論理の矛盾(無になる〜無には成りようがない ー無いものに何故なる?)という池田晶子の言葉の通りに、死という言葉のイメージが刷り込まれる立ち位置にある のが2・5人称の人。10歳の頃、親戚の葬式に親と出席した時に思った「何で人は周囲の眼を気にして好き放題 生きないのだろうか?」と。子供ながら凄い疑問を持ったのである。そのうちに、その疑問を忘れてしまったが、 次の疑問は父親の死に接した時である。 死の瀬戸際から、逆に「生きる輝き」を逆噴射して見つめた視点である。死に際で「あと、せめて三年、生きたい」 という生への渇望の言葉を聞いた。それが日々強くなっていった。その時に「人間は生きているそのことだけで ベストである」ことを肌で感じ取った。そのためか、父親が亡くなってから人生観が変わってしまった。 「一日一日を生ききること」が人生から与えられた責務と!知人の死だけでなく、身近な人の死も多く教える。 生老病死 苦集滅道 とは よくいったものだ。 般若心経をパソコン画面に貼り付けておこうか! ・・・・・・・・・・ 2715, 「要素還元論」と「二元論」 2008年09月10日(水) 島田雅彦・対談集「無敵の一般教養」の松井孝典の対談で 松井孝典が、考える方法として「要素還元論」と「二元論」を解りやすく手短にまとめていた。 ーまずは、その箇所である。 (字数の関係でカット14年09月10日
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2014年09月09日(火)
* カフェという集い −③ 『パワレルな知性』鷲田清一著 カフェといえば、TV番組の中にカフェ方式をとったのを幾つか見かけることがある。 特に日曜日に多いのは、休日の居間をカフェに見立て、気楽に一週間分のニュースを異種の 人たちの対話を通して楽しませるため。関西系の『そこまで言って委員会』や、 『サンデーモーニング』や、『笑点』が、それである。知らないうちに、視聴者が、その場に居るような 感覚になってしまう。 そこでは、テーマを提示して、異種の業界の人たちに議論を面白おかしく 進行させ、楽しませるキャスターの役割が大きな要になる。 レギュラーには、それぞれ 役割があって、本人も、それをわきまえ対話に参加する。バラエティ番組も、その傾向があるが。 視聴者の多くが、非専門家を前提に、各種専門家の議論を楽しませるのだから、出演者たちは 大変のはず。グローバル化とは、「多文化共生」になること。 カフェに似た文化に、イギリスならパブ、スペインならバールになる。バールは、イタリア、 スペインなどの南ヨーロッパで軽食喫茶店、酒場のことをいうが、一日、一回は立寄り、誰かと 話す文化が深く根付いている。特に大都会は「異文化、多文化共生」の傾向が強くなる。 しかし、情報化の時代、世界中がネットで結ばれ、異種の価値観が交差する中、逆に、 自国の文化を知っていなくてはならない。情報化だからこそ、カフェや、酒場などで直接、 異質の人との対話の中から、知見を得ることが重要になっていく。 フィリピンパブとか、ロシアンパブの痴的会話?でなく、あくまで知的対話が前提になるが・・ 最近、喫茶店が見直されてきたが・・ ・・・・・・ 4559, グレートジャーニーから見えてきたことは ? ー3 2013年09月09日(月) * 平等こそが生き延びてきた知恵! しかし欲望が人間を変えた 実験によると、チンパンジーは平等に非常に敏感。これに仲間内の力関係が絡むので、 集団は非常に複雑でデリケートで、その研究から人間の本質が垣間見ることが出来る。 平等原理はアマゾンなどでは生きていくために必要なこと。極限の生活で生きていく上で、 常に分かち合うのが合理的であるからだ。しかし、文明の進化?が、社会的階級と富の独占を 生み出し、さらにグローバル化が、それに拍車をかけている。 ≪ たけし〕 関野さんはいろんな未開地に行っていますが、人食いとかカニバリズムは 見たことがありますか。 関野〕 うーん、少なくとも、僕は見たことがないですね。 たけし〕 「人食い人種」とか言うじゃないですか。アマゾンやニューギニアで、 そうした風習はなかったのかな。 関野〕 例えばマヤとかアステカで生贄の人間から心臓を取ったりしたことはあったけれど、 それを食べたかどうかは分からない。生贄にする人間は、誰でもいいわけではなく、 強い戦士でないといけない。 勇気をもらうとか、そういう意味があるんです。しかし、アマゾンで 生き延びるために相手を殺して食べるということは、過去にも僕はなかったと思っています。 理由は、アマゾンの奥地で僕たち日本人はすぐに餓死するかもしれないが、彼らは餓死する ことはあり得ない。・・・ たけし〕 パリ・ダカールで日本人ドライバーが地元の子どもを撥ねてしまい、慰謝科として 何十万円か払ったら、次のレースから子どもを放り投げようとして侍つている奴がいたらしい。 そういうバカなことが起きてしまう。 関野〕 結局、欲望が人を変えてしまう。食料や資源は40年以上も前にローマクラブが声明を 出しているのに、経済が絶対的に右上がりでなければいけないと思ってしまうのは、やはり 欲望のせいでずよね。欲望が膨れ止がることによって、一部の人たちたけが富を独占しようと しているのが現代の社会です。アマゾンの人たちと暮らすと、すごく平等なんです。 僕は人間が誕生した時に平等でないと滅ぴていたと考えています。 なぜかというと、 まず弱かったということが挙げられます。太古の人類は採取・狩猟で生きていたと思われて いたんですけれども、最近は二本足で立って歩くようになった時は、 狩猟なんかできなかったと見ている。】 ▼ レヴィ=ストロースの構造主義などがある。アフリカや南米で残っている「未開人」の地に 何千年も変わらない社会がある。そこは彼らにとって意味のある極めて合理的な社会である。 決して、西欧が文明の最先端にいるのではないのである。その社会の特徴は平等。 文明社会は変化の積み重ねの結果の産物たが、未開社会は一切変わらぬ「静かな世界」が 続いてきた。そこは冷めた日常があり、美しさがある。変化はエネルギーを要する。 その熱い社会の方が優れているという進歩史観に促われてきたが、それを根こそぎ覆す説こそ 見直す時である。特に地球資源の枯渇でエネルギー問題が出ているからだ。 私も含めて戦後から、このかた、欧米に追いつき、追い越せで必死に生きてきた。 そしてバブルの崩壊から、失われた20年から、30年に入りつつある。ここで、考えるべきは、 未開社会にある「冷たい社会」のシステム。 ここに至って何が「東京オリンピック」である。 あれは、追いつき、追い越せの、高度成長期の残物でしかない。 「最後の止めが、これ!」ということが、見えてきた。とんでもない劇薬であり最後のトドメ。 年寄の冷水(酒)か? 「いいじゃないか、いいじゃないか、ヨイヨイヨイヨイ」ということ。 先がない私たちには、これでよいが? 「それでは、落選した方が良かったのか?」と、 問われれば、どうだろう? どのみち、大して変わらない?なら、踊るか! ・・・・・・ 4184, 閑話小題 ーつれづれに 2012年09月09日(日) * 元IBM社長が・・・ ネット以外は、あまりマスコミでは流れなかったが、元IBM社長がiPhoneで 女性の下着の盗撮をしたとか。男は50歳までは多かれ少なかれ異常性欲者?たまたま 超エリートが少し変わった趣味だったに過ぎない、という同情もある。前科があったかどうかだが、 その後、マスコミが騒がないのは悪質で無かったためか。超エリートが、その危険をかえりみず 盗撮をするスリルの快感は本人しか解らない。私など、最近、時どき深酒で、ある時間から記憶が 無くなることがある。「ハッとして起きてみたら留置場の中」なんてことがあっても不思議はない。 ネットの写真じゃ、満足できないのは分かるが。 それにしても・・ これだから娑婆は面白い。 常にデジカメを持って歩いているが、気をつけないと! * 「あと20年以上生きそうな感じがする!」には驚いた 中学校の同級会で隣に座った男の言葉。私など不摂生もあり、あと5〜10年が限度と 思い込んでいたので、実のところ驚いた。飄々とた何か仙人を思わせる雰囲気を漂わせているが、 この感じなら、さもありなんである。節制をしているから言える言葉。そこで自分を振り返ると、 どうみても十年以上は無理、せいぜい75歳あたり。 まず、そこを目標とすると、あと8年4ヶ月。 2021年1月15日である。何とか節制をすれば? しかし、現在の酒量からみて明らかに無理。 毎日の晩酌が美味いのである。 最近、20歳位の人を見ると、「私より50年以上も長く生きるんだ」 という思いが先に立つ。去年春の一連の出来事、人生の側面からすれば、人生の整理に入るために フリーハンドになるため。それにしても、その自覚は薄い。で、幾つまで生きたいのか、自分に 問うてみた。80歳である。そこまで生きるべく節制するか、一年一年、二倍濃厚に生きるかである。 それとも、80歳を目標に節制しながら二倍以上濃厚に生きるか? 濃厚に生きなくても、 実際に濃厚だから、このまま? ・・・・・・ 3819, つれづれに 2011年09月09日(金) * ドル安がジワジワと景気に影響をしてくる時節に入った。 それと新米の問題が出てくる。 もし県内の何処かで汚染米が出たら、全ての県内米に影響を与えることになる。 ヒヤヒヤだろう、農業関係者は。 それと輸出業関係者もギリギリのはず。 * ドル安と同時に、ユーロも110円を割ってきた。 ECもピッグス=PIGS(ポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインなど)を抱え、足元が揺らいで いる 昨今、100円を割る可能性がある。これも数年前から、破綻すると言われていたことが。 そのため、金(ゴールド)が一年で5割以上も値上りをした。 金が上がったというより、 欧米を中心とした紙幣の価値が下がったため。 これは株式と国債が暴落につながってくる。 * 9月、10月のある日、欧州か、アメリカ発の株式大暴落の可能性が大。 日本国民は東北大震災で大打撃の現在、世界経済の変調の動きに鈍感。 三年前の9・15、そして、十年前の9・11ダブルの津波の波が、いかに甚大なものか、 イメージが出てこないのか。 大震災の直後、識者も今更騒ぎ立てることもできない。 * 恐らく現在も事業を続けていたら、売り上げは更に3~5割減の筈。 資金ショートで、業者や給与も払えず倒産の頃。悪い倒産の惨状は地獄。 地方経済は、 その一歩手前。 世界の何処から火の手が上がるか、木、金曜日は要注意。 ギリシャ国債の金利が20パー、ということは実質破綻である。欧州経済は、導火線に火がついた。 { 何か極度に悲観的のようだが、まだまだ言葉が足りない。最悪に備えているかである。} ・・・・・・・・ 3454, つれづれに −政治談議 2010年09月09日(木) * 民主党党首選挙について 前にも書いたが中長期的にみたら、やはり小沢がなるしかない。 管首相は選挙管理内閣で終わるべき。 まず、その器でない。それが役割以上のことをすれば、それは国害になる。左翼運動家上がりが、さらに過激派 だった男を官房長官に据えれば、舵取りを間違えることは誰の目に見ても明らか。実質オーナーの小沢を首班指名を された途端に手の裏を返すとは、あまりに露骨で稚拙である。まだしも愚衆の目を欺く演劇なら分かるが、本気で やるとは思いもよらないこと。それが、あの官房長官と財務長官の指名である。ところ、あの世論調査ってのは何。 現在の政治と内閣は「世論調査内閣」といってよい。 世論調査で政治の行方を左右するなど、亡国の極まりである。 100・250・500年スパンの世界的激変の時代に世論に動かされる舵取りなど、とんでもないこと。 タイタニックの船内の連中に海原の向こうの大波が見えるわけがない。それを彼等の顔色に従って舵取りをするなど、 最悪。船内で揚げ足を取りの経験しかない彼らに船の舵取りを任せた国民も問題あり。 間違いに気づいたなら、 早く政界再編をして、体制を作り変えないと国家破滅になる。それはアメリカにとっても、中国にとっても 望ましいこと?自民も駄目、民主党も駄目なら、それを解体して新しい枠決めをしなければならない。 また政治家の二代目、三代目しか、政治の表舞台に出れないシステムも、変である。明治維新後、学歴を自力で 上り詰めれば、誰でも出世のチャンスが、日本を短時間に飛躍的に国力アップにつながった。どうも、こうも、 日本は気がつけば戦後65年で、頭から尻尾まで、腑抜けにさせられてしまった。それでもネットでは小沢の支持が 八割という。世論調査とかいうのは、どうも誘導されたマヤカシでしかないと考えた方がよい。 蓋をあければ、 小沢が間違いなく勝つだろうが、それでも、この国の民度が異常な低下からみると、管首相の続投も有りえる。 その時は、間違いなく政界再編成しかない。いずれにしても、あと数日で大きく政治も動き出す。 ・・・・・・・・ 3079,不況景色 −12 2009年09月09日(水) この御題目で書くのは6月1日以来で3ヶ月あまりになる。その前に「世界恐慌に入って、まる7ヶ月」 というテーマ名で二回書いている。「不況景気などを今さら書くことでもないだろう」だが、そこが生き物、 ジワジワときている。9月に入って落ち込みが始った。こういう先ぶれが居酒屋とホテルに最初に来る。 現場段階は十数兆のバラマキで何とか小康を保っているが、何が起きても不思議でない。重体患者を緊急の 大量輸血で持たせているようなもので、集中治療室にいる事態は変わりない。衆院選挙が8月末まで延びたため、 株の暴落や経済の大混乱が来年2月まで延期しただけのこと。まだ東海地区の輸出産業は、この数年間の好況の 蓄積があるが、他の地方は体力を使い果たし、大きく弱体化している。これに悪質のパンデミックでもなれば、 大きな波乱が起きるのは必定である。週に数回は、通勤の帰りや、家内のお供にスーパーや駅の専門店街によるが、 実際に売れてない。TVのワイド・ショーで、「はしっこ食品」や「訳あり商品」の特売などを特集をしていた。 ハム、カステラ、魚などのスミの切り落としが半額から三分の一になるのだから客は殺到する。そういえば最近、 生ハムや鳥肉の燻製の『切り落とし』を、安さにつられて買ってしまうことが多い。新潟駅前周辺の飲食街では、 潰れた店の後に出来るのは「ホルモン焼き肉屋」が目立つ。「安く、小じゃれて、腹が一杯になる」のが 必要条件だが、時代が変わったもの。当社も、長期のミニ団体が何組かが途切れずに入っていたが、 それが少なくなっている。 夏場の稼ぎ時は別腹と期待していたが、この冷夏で結果は芳しくはない。 それでも9月下旬から10月にかけて国体があるので、数字は何とか例年に近い数字は作れそうだが、 甘くないことは事実。 町内会の役員の人から聞いた話だが、新潟市内の町内連合会が、急激な売り上げの悪化に、 駅再開発計画を改めて説明会を開いて聞いたという。 今さらであるが。(10年遅れである)これに北陸新幹線開通 という2014年問題がある。新潟県にとって大打撃になるが、それを誰も真剣に考えない。20年前に既に新幹線を 新潟空港まで延長、その沿線に環日本海都市としての機能をコツコツと造っておくべきだったことすら、誰も気づかない。 飛行場の直接乗り入れも大きい要素だが、「日本海に東京駅直結の新幹線の乗り入れ」が良いのである。 僅か5〜10キロの延長で済むのにである。そこに新幹線駅沿線のサッカー場と野球場をつくり、野外スポーツなどの レジャー施設を長年かけて造るべきべきだったのである。更に夢のある高齢者向けの施設と、本格的中国人街もである。 金沢が関西と関東を後背に新日本海都市創りを始めるのは目にみえている。 不況景色から少し話が逸れたが。 ・・・・・・・・ 2714, 大相撲が面白い! −2 2008年09月09日(火) せっかく、面白くなってきたところで、北の湖は辞任。三重の海の武蔵川が理事長に選ばれた。 そしてロシア人二人は解雇。 当然のことである。起訴猶予になった若の鵬を含めた三人をロシア政府は 急遽帰国させるだろう。 (以下、字数制限のためカット09年9月9日) ・・・・・・・・・・ 2007年09月09日(日) 2350.ベナレス・・・6 2,ヒンドゥー教とは ヒンドゥー教は紀元前一五〇〇年頃に西方からインド亜大陸に移住してきたアーリヤ人が 信仰していた祭祀中心の宗教を核にして、先住民のもつさまざまな民間信仰を融合して発展してきた。 それ故・この宗教には開祖が存在しないが、そのかわり『バガヴァッド・ギーター』(神の歌)など、 人びとを宗教的な道に導く数多くの聖典が編纂された。 ヒンドゥー教は基本的には多神教であるが、 それらのうち主要な神のどれもが最高神と考えられるという独特な神観念を持っている。 (以下、字数制限のためカット09年9月9日) ・・・・・・・ 2006年09月09日(土) 1985, ハイデッガー (。^0^。)ノオッ*^○^*)ハ〜 ヨウ 10年来、トイレに常に哲学書が置いてある。そして一年に一度位の間隔で、入れ替えをする。 そして、普段も必ず哲学書のいずれかは私の鞄か机の横にある。歳を重ねた経験の裏づけが哲学の言葉を噛み砕いて くれるようになった。哲学的大問題の「死」に向き合わなくてはならない歳になったこともある・・・ 「首切り役人の日記」とか、このHPの随想日記で辛辣に死について書いている。哲学にしても宗教にしても結局は、 ー人間いかに生きるべきか? そして最後の最後は、いかに死ぬべきか?ー ということだ。 あと何があるのか? もし知っていたら教えて欲しいもの! 『面白がって死ぬことだ!』という黒鉄ヒロシの言葉位か、面白かったのは! 「ヒーヒー悲鳴を上げてジタバタしている最後の自分の姿をみるのが何で悲しいの? こんな面白いことが何で?」彼ならでの言葉だ。冷静に自分を見ていなくては笑えない! ハイデッガーは、「その死を意識的に見ないようにして日常をすごしている我われの姿を、そのまま直視。 見ないようにしている死が、我われにマトワリついていて、それが不安という漠然とした心理になっている」と看破している。 彼は不安とは現存在として最も根本的な気分であるとし、現存在は世界内存在として理由もなくこの世界に投げ出され、 そのつど、何らかの気分に規定されていると・・ 日常性の中に埋没されて生きている非本来的あり方から、 本来的自己を呼び覚ますきっかけとなるのが不安であると・・とりわけ「死」の可能性の前にしての不安において、 現存在としての根源的開示がはじめて生起する。我われはいつか死ななくてはならない。「この私」の死を誰も変わって はくれない。その死を痛感する時、人は日常から引き離され、単純化し、自分自身と対面せざるを得ない。 (以下、字数制限のためカット14年9月9日)
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2014年09月08日(月)
* カフェという集い −② 『パワレルな知性』鷲田清一著 カフェといえば、30年も経つが、『致知』という月刊雑誌を知って購読するうちに、 全国に愛読者の同好会があるのを知り、新潟支部を立ち上げた。今では年に一回参加しているが、 30年も続くとは驚き。全く知らない新潟で、肩書きを横にした同年代の人たちとの出会いの場、 一種のカフェのような集いの場を求めたため。とはいえ、当初は半分が営業ネタを探して 参加する人が過半数はいたが、それも良しだった。 ところで、学生時代の寮がまさにカフェのようなものであった。今でいうシェアハウス。 大きな屋敷の一角に、平屋で、4畳半と6畳の和室が25室、「く」の字に並んでいて、 角が炊事場と洗濯場で、両端がトイレ。廊下は土間で、あたかも馬小屋のようだった。 各部屋には鍵が付いているが、私生活があってないような。それが寮というものだが。 炊事場やトイレの行き帰りなどに、どこかの部屋の前にサンダルが幾つか並んでいると、 つい顔を出し、お茶などを飲んでいる輪に入る。そこでは、読んだ本や、政治経済、 現在進行形の恋愛の話題が中心になる。寮生は全国各地の出身者で、早大の学生が 半数を占めていた。 雰囲気は、まるで「住込みカフェ」のようで、なにもかも参考になることばかり! その上に、それぞれの大学の親友が遊びにくるため、その輪は更に大きくなる。 そこで、軽井沢の山荘でのアルバイトとか、留学や、海外旅行の情報が、ごく当り前に 交されていた。それに加えて、大学では、クラブ、ゼミ、欧州旅行の仲間と、クラスの友人の 網目が出来ていて、広いコモンルームや、中庭、学食で誰かと話をしているかであった。 学生だからこそ、自由に様々の人と邂逅しえたのである。 現実社会に入ると、組織や、地域の社会の、それぞれの立場があって、自ずと人間関係に 制約があるが、学生時代は、それぞれの思惑は最小で済む。それと、高度成長期真っ只中の 恵まれた環境があった。 『カフェの集い』の視点で、人生を振返ると、やはり最終の学生時代が最も良かったことになる。 プライベートの時間が持てなかった『青雲寮』に、当時、不満もあったが、この環境が最良だったことに、 これを書いていて気づくことになった。 この寮生活で、それぞれの私生活で垣間見た姿から、 <人間には、教養とは別に、想像を超えた、善良と邪悪が混在した人が存在する> ということを、知ることになる。そして、実社会に出てから、その多くを己の中で見ることになる。 秘境ツアーなども、これに似たところがある。全国から集まった見も知らない人たちと1〜2週間、 親密な時空を共有する。その多くは、ツアー慣れをしているので、直ぐ胸襟を開くが、それぞれが 様々な情報の宝庫のため、そこはツアー・カフェそのもの。かって長屋の御隠居は、横丁カフェの主。 私の友人に、喫茶店に入浸って?半世紀以上、その人自身が、カフェみたいな人がいる。 いや、居酒屋? 問題は、そこが教養ある知的会話?であるかどうか! 共通した価値観と、それぞれの全く違った価値観を備えた人との出会いこそ、カフェの集いの 面白さになる。 とすると、このブログ、『居間の一人カフェ』になる。 時々、塩昆布茶もあるが。 ・・・・・・ 4558, 東京が、2020年の開催地に決定! 2013年09月08日(日) 5時20分に、次次回のオリンピック開催地が発表された。 その2時間前の3時に何時ものように目が醒めたため、布団の中で瞑想モードに意識を持っていき、 「私が神としたら、3都市の何処を選ぶだろうか?」と考えた。 その結果はイスタンブール。 5時からのTVの特別番組の選定会場で、まずマドリッドの落選。あとの残ったイスタンブールと 東京の二者択一の中で、東京が決定された。 「そんなことをしている場合じゃないだろう!」 が、気持ちにあったが、いざ発表となると「東京」と願うのが人情。 以前から、「2020年の75歳が死に時」と思っていた。その年が、これで東京オリンピック開催の 年になったのである。一回目は昭和39年、18歳の年。 二回目は生きていれば75歳。 現実は、世界も日本も2020年までは、大きな試練が山のように待ち構えている。 福島第一原発の汚染処理、世界恐慌の対応、国家財政の破綻、国境問題等々がある。 トルコか日本?の二者択一というと、選ぶ方は、原発汚染への不安より、中東の政治的不安定と、 欧州危機を考えると、安全、安定面から、今回は極東の安定した都市の「東京」を選んだ。 これで、「2020」と「東京オリンピック」が、キーワードとして浮上、国家として明るい目標が出来た。 オバマがシリア攻撃を示唆したのもトルコにとってマイナスになった。タイミングをみていた? 日本のような島国では、一つ明確な目標があれば元気が出るが、大きな問題が残っている。 南海トラフ地震と、東京直下地震、富士山噴火の可能性である。 福島第一の汚染に 目を向けさせたのは戦術としては良かった。実際問題は、これらを考えると二つの都市の危険さと 遜色はない。 国内の政治面では、予想される混乱の中で、国民の目をオリンピックに向けさせる ことが出来る。今日を境に大きく空気が変わるだろう。今日は目出度い日になる! ・・・・・・ 4183, 呪いの時代 ー3 2012年09月08日(土) 「呪いの時代」内田樹著 * 記号の過剰化 ー第2章 「祝福」の言葉についてーより 呪いは怒りや羨望、嫉妬などの要素が相まって内面に作りあげられた一種の記号と著者が指摘している。 しかし怒りの感情を言葉にし繰り返すうちに、その毒が己の脳を侵してしまう。鬱である。そこで医者から 貰ったハッピードラッグで目先、散らしている内はよいが、いつの間に、呪いの感情を更に強く苛んでいく。 呪文は記号のため、反復するうち、その人そのものになってしまい、自滅の道をひた走ることになる。 次の箇所は、悲劇と喜劇の境い目としてみると、うなずける。 ≪ なぜ、このようなニヒリズムが社会を覆うようになったのか。それについて考えてみようと思います。 僕はそれを「記号の過剰」あるいは「過記号化」という枠組みで説明できるのではないかと思っています。 「呪い」は、その本質からして、記号的なものです。藁人形に五寸釘を打ち込む「丑の刻参 り」という 古典的な呪いの儀式がありますが、これ自体、きわめて記号的な行為です。生身の人間の心臓にではなく、 代替物の藁人形に五寸釘を打ち込むわけですから。メタファーとして行われる殺人が生身の人間の生き死に 影響を与えるという信憑が共有されていないとこの種の類感呪術は有効性を持ちません。つまり、藁人形が 生身の人聞でないように、殺意や嫉妬、羨望や憎悪も記号化されない限り呪いとして機能しない。 忘れられやすいことですが、呪いが機能するのは、それが記号的に媒介された抽象物だからです。 具体的、個別的、一回的な呪いというようなものは存在しません。あらゆる呪いは、抽象的で、 一般的で、反復的です。それが記号的ということです。 なまの現実が記号化されて、「情報」になるプロセスを「情報化」と呼びます。情報とは「なまもの」 が加工され、分類され、ラベリングされ、パッケージされたもののことです。「高度情報化社会」とは 情報だけが行き交い、「なまもの」に触る機会が失われた社会のことです。生きた動物が殺され、皮を剥がれ、 血を抜かれれ、骨が切り離されて、細切れになってパッケージされるという工程については誰も考えず、 清潔な商品だけが売り買いされている。医療でも過情報化の問題は深刻なものです。当今の医師たちは、 なまものとしての身体ではなく、「記号としての身体」を診療している。『医療崩壊』の著者である 小松秀樹さんが指摘されていましたが、今の診療室では、机上のパソコンのディスプレィに患者のカルテや 検査数値が表示されます。患者が診察室に入ってくると、医師は患者を診るより先に、まずディスプレイに 表示されたさまざまの数値を見る。うっかりすると診療時間のうち、患者の顔を見ている時間よりも ディスプレイを見ている時間の方が長いのです。 ≫ ▼ TVのワイドショーは情報を提供するところ、情報化は「なまもの」とは違うため、それを扱う解説者は、 記号としての言葉にして発信するするため、呪詛的な言葉になっていく。それを受け止める視聴者は、いつの間に、 呪いとして、なまものを呪ってしまう。これが端的に出のが政治であり、政治家は手軽な呪いの対象になる。 だから、島国日本の首相は、一年しかもたないのは、何ら不思議ではない。そして、その行き先は? ・・・・・・ 3818, 哲学人 ー� 2011年09月08日(木) * 精神と肉体ー 二元論 ー「哲学人」ブライアン・マギー著より ー まずは二元論についてのデカルトの誤りを、ライルが指摘している部分からー 【 ライルは二元論について『心の概念』で、私たちの誤用に的を絞って書いている。 ライルの攻撃対象はデカルトである。・・・ 二元論の生みの親をデカルトと特定したが、実際には二元論、 もしくはそれに似たものは、原始時代から人間についての通説となっていた。常にと言っていいほど、 人は自分を、肉体と、肉体に宿る非肉体的な要素から出来ているとみなしてきた。そして常に時代によって霊、 魂、心と様々な呼ばれ方をしてきた、この非肉体的要素を、ある程度独立した存在として、また、そうなる 可能性があると見てきたと言っていい。私がかつて、この事実を挙げて異議を申し立てると、ライルはこう答えた。 「この間違いを最初に犯したのがデカルトだと思っている人はいないでしょう。要はデカルトがこの考え方を とても明確に打ち出したので、デカルトの時代以降、これが教義もしくは定説なったということです。 シェイクスピアも聖書も言っていませんが、デカルトは実際にこう言いました。『私の心はひとつの実体であり、 私の身体はそれとは別の実体である』と、それが事実であるかのような言い方なら、それまでもされたことは ありました。が、デカルトは確かに事実であると言ったのです」 実を言うと私はそうは思わないのだが、 それはさておき、精神という実体などないのだから二元論は誤りというのがライルの主旨。 その著書で述べられている詳細な分析をもとに、ライルはこう書ている。 ≪ われわれ人間が行なっているのは、自分の行動と経験のある部分を精神的なものとして分類し、 その他の部分とは異なる、主体に帰属させること、そしてその主体を精神として物象化することである。 精神に関連する概念の使用法を入念に調査すれば、そのようなことをする正当な理由はないということがわかり、 さらには人間は単一の存在であり、行動と経験のただひとつの主体で、アイデンティティも歴史もひとつしか ないことが明かになる。 われわれはふたつの実体が神秘的に結びついたものではない。 これまでわれわれは、「カテゴリー錯誤」(ライルが哲学の世界に広く普及させた用語)を犯してきた。 われわれは精神という概念を一種類のものを意味するとみなしているが、実際は多種多様なものを意味している。 精神とは、独立して存在する実体であって、なんらかのことをして経験をもつものと考えているが、通常は さまざまな行動形式のうちのいくつか(行為、気分、経験など)を総括する言葉にすぎず、またこうした行動様式は どれも、正しくはひとつの主体に帰属させるべきなのだ。このカテゴリー錯誤がもととなって、われわれが 自分自身を想定する上で、そして考えたり語ったりする上で数多くの誤りが生まれている。 これは哲学的誤謬の好例であり、我われの思考の広大な領域はこの誤謬に犯されている。≫ ライルの本は、いかにして言語分析派がこうした問題を解決するかを示す範例である。 P・106 】 ▼「肉体が消滅した後、私(精神)はどうなるのだろう」という疑問そのものが、二元論である。 デカルトが言わなくとも、大昔から天国か地獄に召されると言われている。肉体と精神と、あらためて デカルトが述べただけ。肉体が無くなれば、当然、精神とやらも消滅するのは、当たり前である。 精神を指している一つに『言葉』がある。「生きているときに発した言葉。それは現在でも生きている」 というが、それは、生前に発した言葉。死んだ後に、言葉は発せられない。 ・・・・・・・ 3453,, ニューカレドニアの休暇 −3 2010年09月08日(水) 夕飯でいったフランス料理、ベトナム料理、中華料理が、それぞれ美味しい。フランス領のためだろう。 特に天使の贈りものといわれる「海老」が美味い。 ベトナム料理、中華料理は日本的味付け。 それより新鮮な貝魚がふんだんに入っているからである。値段も、日本の居酒屋に少しプラスした程度である。 ところで、オプションツアーで行った「天国にもっとも近い島」のニックネームで親しまれている イル・デ・バン島が良かった。日本では、その称号は森村桂の著『天国にいちばん近い島』から、ロワイヨテ諸島の ウベア島がそう呼ばれているが、実際はここ。数多くの種類の熱帯魚や珊瑚礁を、透明度の高い海水の中に 見ることができた。この島は南北15キロ、東西13キロの大きさで、島人口は約2,000人である。 珠玉のような島で、ニューカレドニアで是非とも行ってみたかったところ。 双発のプロペラ機で首都ヌメアから30分ほどのところにある。 行く先々の小さな湾の海岸線と海と空が美しい。 いまだ観光づれしてないハワイと考えればよい。ここに宿泊するツアーもあるが、値段は非常に高くなる。 ニューカレドニアは日本人に特に好まれているようで、親しみやすい。 中国、韓国人の姿は、ここで一人も 見かけなかった。まずはハワイ、東京、欧州、オーストラリアなのだろう。この島を通して、日本の現状を現地の ポリネシア人を通してみてしまう。小さな島国で、フランスの占領に甘んじているが、日本も同じ被占領国。 ドルとアメリカ国債という紙切れと小麦・大豆と、汗水たらして作った商品と交換。 その紙切れは、 20年〜30年単位で価値を数分の一に一方的に下げさせられている。アメリカ、オーストラリアも、欧州人が 現地人を虐殺して建国したところ。 現在も、その構図は同じである。マスコミを背後で操り、教育システムで 骨抜きにし、官僚を洗脳、コントロールすることで、間接占領をしている。 フランス領の観光地で、気楽に避暑。それだけで、深く考えることもないが・・・・ ・・・・・ 3078,富豪と金の使い道 2009年09月08日(火) 一昨日の日経新聞の最後の紙面(「私の履歴書」の隣コーナー)に「富豪と世捨て」というテーマで、 作家で法大教授の島田雅彦が書いていた。昔の富豪の身の処し方と使い方で、西行や千利休などを取上げていた。 井原西鶴の作品の中の‘世之介’は、現在では500億円位の資産で、生涯をかけて色事に追求し、 花魁を次々に身請けをしたが、それでも使い切ることが出来なかった。 また日本人の昔の粋な生き方として、世捨てを紹介している。死を前にして身軽になることが含意されているが、 不祥事で失脚した時のリセットで、政治家などが清貧を気取る場合がある。その辺が人間の面白さである。 富豪は、その富のために悩みが多いが、人のためにそれを使うのが、一番の悩みを消す効果があるとする。 資本主義の覇者は資本主義によって滅びた物を復活させて、その罪を償う義務がある。失われた神仏を買い戻し、 廃れた神社仏閣を復活させたことなどである。 それが「歴史からの使命」と結論づける。何代か続いてきた 金持ちは、その使い道さえ無頓着で淡々としている人が多い。金を使っての快楽など知れたもの? 金を気に しないで済む生活こそ豊かさ。 で、金を気にしないで済む生活は、幾らか。 そう考えると、人様々である。 平均すると、家一軒があって、蓄えが一人あたり1000万で、夫婦で年間収入400万ぐらい? ところで、直接、 両親の生き方をみてきて、合理的散在?を学んだ。定額を見定めて、平均して使うことである。 持って彼岸にはいけないことを世間を見て得た知恵である。 所詮は、蓄財は不安の裏返しの行為でしかない。 私の親戚に「清貧を自認した生きかた」をした人がいた。90歳後半で亡くなった時には3千万近くの蓄財があった。 その人の収入からみたら奇跡的ですらある。もし、年間300万を65〜75歳の10年間を使っていたら、面白かった だろうに思うのだが。私は、それを40〜50歳代後半の二十年間で使ったから、わかる。 といって、年間、 150万なら散在ではない? 貯めるのも難しいが、それを後悔しないで散在するのは、もっと難しい。 貯めるは努力、使うは芸術というが。 ところで、100億を10年で浪費で必ず使うことを約束して神様から貰ったと仮定して考えると面白い。 浪費というところがポイントだが、50億の船を買って世界中をまわったとして、年間5億×10年=50億の コストとみると大したことではない。 それなら世界の豪華クルージングの最高級クラスの部屋でサービスを 受けた方が良いか? まあ、それも2〜3年。でも、面白そうだ。しかし「それが如何した」という内なる声も湧く。 そうこう考えると、一日を真剣に遊ぶ能力こそ重要ということか。問題が山積みの中、ストレス解消のために 遊びに使う散在こそ、価値があるということ?しかし、富豪はそれを超えた世界があるのだろう。 経験しないものには分からないだけ? ・・・・・・・・ 2008年09月08日(月) 2713, コピペ 先週のNHKの「クローズアップ日本」で、コピペを取り上げていた。「コピペ」とは パソコンのコピーと、ペースト(貼り付け)の略語である。 なかなか考えさせられる内容であった。 ーまずはNHKの番組紹介を、コピペしてみよう。 * コピペ 〜 「ネットの知」とどう向き合うか〜 インターネットで見つけた文章をコピー&ペーストして、自分の文章にしてしまう"コピペ"。 ある大学では提出されたレポートの半数近くがコピペで作成されていたという事実が明らかになった。 夏休みには小中学生向けに開設された「コピペで書ける読書感想文」のサイトがアクセス数を伸ばし、 大人の世界でも、役所が募集したパブリックコメントに大量のコピペの「組織票」が提出されるなど、 コピペは今、社会全体に広がりつつある。 「コピペは人間の考える力を弱める」と批判の声が上がる一方、 「新たな知の技法」として肯定的に捉えるべきだとの意見もある中、私たちはネット上に広がる膨大な情報と どう向き合っていくべきか考える。 (NO.2623) スタジオゲスト : 茂木 健一郎さん (脳科学者) 〜〜 以上が概要だが、コピーと、貼り付けは、デジタル社会では当たり前になっている。私も、随想日記 で書くネタがないときは、キーワードの検索で情報を集め、要点をコピーして、張りあわせもする。 そのプロセスで思い浮かんだことを書き込み文章の体裁を作り上げることもある。 (字数制限のためカット 2014年9月8日)
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2014年09月07日(日)
* カフェという集い −① 『パワレルな知性』鷲田清一著 『カフェ』について、が面白い!ー 学生時代は、このフリーの立場での交わりが良い! ≪ このところ市中では「カフェ」という催しが盛んである。「カフェ」といっても喫茶店のことではない。 「サイエンス・カフェ」とか「アート・カフェ」といった類の、小人数でおこなうディスカッションの会である。 市民が三々五々集まり世情について自由に論議し、その議諭を活字化するあのジャーナリズムの 原型ともいうべきものを生んだ、英国の「コーヒーハウス」にちなんで、そう名づけられたらしい。 じつはわたしも15年ほど前から「哲学カフェ」なるものを、町なかの集会所で、あるいはお寺の一室を 借りて、そしてときにじっさいに喫茶店でもやってきた。何について議論するかは、集まった顔ぶれで その場で決める。そしてテーマに即して、だれかがまずじぶんの経験を、そしてその解釈を語り だしたあとは、それを糸口に延々三時間から五時間、あれこれ話しあう。 ルールはかんたんで、 :たがいに名を名乗るだけで所属も居住地も明らかにしない、 :人の話は最初から最後まできちんと聴く、 :他人の著書や意見を引きあいに出して長々と演説をしない、この3つである。 わたしはもう籍を離れているが、大阪大学の臨床哲学研究室では、かつての同僚や大学院生 たちが個々にそれを拡げ、通算すると、もう数百回になると聞く。ある日、もっとも年配の参加者が 最後にぽつりと話したことばが忘れられない。司会をしていた大学院生がまとめに窮しているときに、 その、老人が口をはさんだ。「まとめんでいい、知り合いでもない孫のような歳の子とこんなに 『家族とは何か』ということをまともに話しあったというだけで満足や」。・・・ ≫ ▼ 人生を振り返ると、20歳代の経験がベースになっている。視点が固まる、それまでが分かれ目! それに10歳までの実家の店舗での生活もある。 今から考えると、様々な人間が集まり、その生態が、 あからさまに露出していた。『花子とアン』の主人公ではないが、「朱に交われば赤くなる」である。 そこで、如何にオープン状態で、書籍と、様々な人と触れ合うか、その質と量で、人生は決まってくる。 そこで大きな知的劣等感を得たのが、私にとって、最大の収穫。以来、半世紀近く独学をしてきたが、 私には器の大きさが足りなかった。更に『酒量』『一言』が多過ぎた! ・・・・・・ 4557, グレートジャーニーから見えてきたことは ? ー2 2013年09月07日(土) * 携帯電話が、世界を変えている 「新潮45ー6月号」 ーたけしvs・関野吉晴の対談ーより 旅番組などで、ケニアなどの僻地でマサイなどが携帯電話をしているのを見かけて驚いたことが 何度かあった。 携帯電話の電波環境が出来ているためだが、さほどインフラに資金がかからない のだろう。考えてみれば、僻地ほど濃密な繋がりと日々の生活情報が必要である。 苦労して僻地についた先で、携帯電話をしている姿を見たらガックとするはず。 ーその辺りが具体的に書かれているー 【 たけし〕ところで、そういう極限の地域で暮らしている人たちの生活って今も昔と変わって いないのですか。 関野〕昔は自分たちが食べていくために自給的生活とか狩猟採集で暮らしていた人々が、 換金可能な作物を作っている。 現金収入を得ないと生活ができなくなっている。 特に最近はグローバリゼーションがアマゾン、シペリア、 アフリカとか、どこまでも進行しています。 特にすごいのは携帯電話ですね。携帯で全てが変わります。たけし〕 それはどういう意味でですか。 関野〕携帯電話は世界を変えていますよ。アマゾンには、僕が四十年前からつき合っている 先住民の部族がいます。 最初会った時は、大人たちは腰巻きだけつけて、子どもは素っ裸でした。 そんな村でも三十年前に学校ができた。 それは小学佼しかないから、中学校に行くようになると 町の寄宿舎に人る。高校生にもなると、皆な携帯を持ってる。村に帰ってくると電波は通ってませんが、 携帯でダウンロードした音楽は聴ける。そうなると若者は伝統音楽ではなく、 ロックを携帯で 聴くようになる。文明人に近いほうがステータスが高いと思うと伝統音楽に目を向けなくなり、 どんどん文化が変わっていく。アマゾンの奥地でさえそうなるのですよ。」 たけし〕 あっという間の変化ですね。 関野〕 ここ数年、フィリピン、マレーシア、インドネシアの海域で淘賊がいっばい出る ところがあるんですけど、 そこにパジョという家船生活をしている漁民がいるんです。 たけし〕 確か百万人ぐらいいるとか。 関野〕それは海岸縁に杭を打ち込んで家屋をつくって住んでいる人たちも含めての数字です。 わずかに家船で陸に家を持たない人たちがいて、その人たちのところに僕は「泊めてください」 と言って、一緒に暮らしていた。ちょうど僕が訪ねた頃に彼らの生活にも携帯電話が入ってきたんです。 たけし〕 2004年から、日本人の祖先が日本列島に到達するルートを辿る「新グレートジャーニー」 (〜2011年)を始めていますが、それに挑戦していた時のことですね。 関野〕 はい。南方から船で海上を渡ってきた日本人の祖先のルートを辿ろうとしたんです。 風の関係で航海で暫なくなると、パジョの人たちのところに通っていました。彼らにとっても 携帯はすごい役に立っている。 家船が十数隻あって、夜は集まってくるんですが、昼間は別々に 魚を穫りに行ったりして行動している。その時に、海賊がいるかいないか、携帯があれば安全か どうか確認できたりするわけです。 たけし〕 海の上で電波が届くわけですか。 関野〕 沿岸から五キロまではアンテナがあれば届きます。 たけし〕海の漂流民がそうならば、砂漠のペドウィンはどうなんだろうね。】 ▼ これは、僻地だけでない。都会の社会的弱者にも携帯が普及。弱者が結びつけば、強者に変身する。 中国など多くの社会的矛盾を抱えた国家は、ある日突然、この矛盾への暴発が起こることになる。 そこにパソコン機能が入ったスマートフォンの普及は、世界を根底から変えようとしている。 貧富の格差は、情報の格差から生じるが、それが均質化されていくとしたら、格差は一部を除いて 是正されていく。ただし、それは世界平準に近づくため、G8は、G20の国々の平均値に、 G20は、世界200ヶ国の平均レベルになっていく。日本にとって、それは貧乏への茨道! ・・・・・・・ 4182, 呪いの時代 ー2 2012年09月07日(金) 「呪いの時代」内田樹著 呪いに対する言葉は祝福である。含めて世の中が右上がりの時は、何事もハッピー。 しかし、世の中全体が右下がりになり、暗い世相の中では一部の勝ち組を傍で祝福する人は少ない。 羨望と嫉妬が、そこに生じてくる。特にこの情報化で、そのの事態が生で伝わるから呪いが社会全体を覆ってくる。 その中でハッピーにいるには、「にもかかわらず祝う」しかない。現に生きている、そのことを祝う諦念である。 最後は生きている感謝しかないのである。今さら世を呪っても致し方がない。 * 「このようなもの」でしかない自己の承認 ー 第2章 「祝福」の言葉について ーより ≪「生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりパッとしないこの「正味の自分」をこそ、真の主体として あくまで維持することです。「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け入れ、承認し、 けなげに生きている姿を可憐と思い、一掬の涙をそそぐこと。それが「祝福する」ということの本義だと思います。 呪いを解除する方法は祝福しかありません。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け容れ、自分をだきしめ、 自分を愛すること。多くの人が誤解していることですが、私たちの時代にこれほど攻撃的なふるまいが増えたのは、 人々が「自分をあまりに愛している」からではありません。逆です。自分を愛することがどういうことかを 忘れてしまったせいです。私たちはまず「自分を愛する」というのがどういうことかを思い出すことから、 もう一度始めるしかないと思います。≫ ▼ 第二次大戦後、経済成長という僥倖に恵まれ「自由」が容易く転がり込んで来て、安手の「近代」を掴んだ。 しかし、それが崩壊する中で、「全て他人が悪い、自分は悪くない」という他責的で未成熟な言説がメディアにより 拡がった。豊かさが急速に萎み、大多数がプアーになりつつある中、呪いの時代と思われるほど惨めな社会になってきた。 「このようなものでしかない」自分を受け入れず、承認せず、祝福せず、自分探しという自分でない突っかい棒を求めて 彷徨っている社会。わが国は平城平安の時代から呪いを基軸にして変転してきた。ここで急に「呪いの時代」が キーワードになったのではない。呪いがあればこそ古事記、日本書紀、源氏物語、平家物語、太平記、法隆寺、 北野天満宮も正史に登場しなかった。日本の文化文明の本源は、この呪いにある。だから一時でもよいから祝うしかない。 お祭りは、そのためにあったといえる。社会に出てからの読書習慣がなかったら、現在、世を呪い、過去を後悔し、 人生そのものを否定しているはず。 娑婆娑婆! ・・・・・・ 3817, 松下政経塾の野田が首相に 2011年09月07日(水) まずは松下政経とは何か? −知恵蔵2011ーによると 【 松下電器産業(パナソニック)の創業者・松下幸之助が、1979年に約70億円の私財を投じ、政治家育成塾として 設立した財団法人。神奈川県茅ヶ崎市の6千353坪の敷地には、寮棟・食堂・体育館の他、茶室やテニスコートも 付設されている。入塾の応募資格は22〜35歳。全寮制で3年間の研修を原則としているが、期間中に選挙に出馬する ことは半ば容認。ただし、最低2年間を修了しないと退塾扱いになる。授業料などの費用はゼロで、逆に研修資金 ・活動資金が提供される。研修は人間学・哲学・近代政治学などの講座と茶道・書道・剣道などによる精神修練が中心。 また、現地現場主義の下、自治体訪問、松下関連工場での実地作業、自衛隊体験入隊といったカリキュラムも用意 されている。過去30年間の卒塾生は237人で、このうち69人が政治家の道を歩んでいる。開塾後の10年間で当選した 国会議員は、1期生の逢沢一郎(自民党)だけだったが、新党ブームが吹き荒れた93年の衆議院選挙で、一気に15名の 当選を果たした。政経塾出身議員の評価は分かれるが、世襲議員が増える中、選挙に必要な3バン「地盤(地元支援組織) ・看板(知名度)・カバン(資金)」を持たない若者に政治家への道を開いている点で、政経塾の存在は評価されている。 現職の松下政経塾出身の国会議員は、衆議院議員が27名、参議院議員が3名。 *自民党では前述の逢沢一郎の他、元金融担当大臣の伊藤達也(5期生)、高市早苗(5期生)ら、*民主党では 元代表の前原誠司(8期生)や野田佳彦(1期生)、原口一博(4期生)ら、次代のリーダー候補が名を連ねる。 この他、神奈川県知事の松沢成文や横浜市長の中田宏など、自治体の長も輩出している(2009年7月時点)。 】 ▼ 現在の日本に丁度良さそうな人物が、首相に選出された。それも、松下幸之助が憂国にかられ、つくりあげた 人材育成機関出身。存在そのものは知っていたが、まさか34名も国会議員になっていたとは驚き。 巷では、「人工栽培の頭でっかちのエリートの育成機関と」批判的だが、それでも公明党に次ぐ出身母体になっている。 どうも、二、三代目が目に付く中で、こういう機関も必要?卒塾生の43パーセントが、政治の道を歩いているという。 政治家は、一国を未来に導く仕事。「クールな頭脳と、暖かい心」を必要とする。それを3年か、4年の期間で ベースをつくり上げることが良いことかどうか? 二代目政治家と、どちらが良いというと考えてしまう。 やはり二代目より、まだましレベルか。現在議員は、貴族院化している。 ・・・・・・・ 3452, ニューカレドニアの休暇 −2 2010年09月07日(火) * ホェール・ウォッチング オプション・ツアーの「ホェール・ウォッチング」に参加してみた。家内はヨットに12時間も無理ということで、 私一人の参加。20人乗りの2Fのヨット(1Fにトイレとベッド)に、日本人が私の他に中年ペアー。他は白人系15人 を加えた18人。もう少し大きなヨットのつもりだったが意外と小さい。外海に出たと同時に、船は二Mの波で大ゆれ。 案の定、気分が悪くなってきたが後の祭り。乗員も分っていて海水を入れたのを持ってきて、「あげろ!」という。 そして胃を空にした。その直後に睡魔が襲ってくる。 ロビーの椅子に座ったまま二時間ほど寝たら気分は元に戻る。 船酔いを心配していたが、その時はその時と覚悟はしていたが、何とかなるものである。そうこうして鯨の出産場に 三時間後に到着。そこを40分ほどかけて通過している間に、5分位の間隔で、鯨が空気を吸うために海面に出てくる姿を ウォッチングすることができた。そこでテレビの撮影を過って見たことを思い出した。今回は10匹近く見ることができた。 鯨は、まず潮を噴き上げるので見逃すことはないが、潮を吹いて7〜8秒しか浮いてないので、目を凝らしてないと見逃す。 海も天気で大きく左右するが、天候に恵まれたこともあり今回のウォッチングは大当たり。また12時間も小型ヨットに 乗船するのもワイルドな感覚で、南太平洋を堪能することができた。甲板から海に向かって足を突き出して座って 海を眺めボットするのも、気分は爽快である。また10秒ぐらいだったがイルカが二頭、ボートと同じスピードで泳いで いったのも印象的。さらに帰港前の20分ほど、タイミングよくサンセットにゆきあったが、南太平洋に浮かぶヨットと、 赤い色合いのマッチが印象に残った。一期一会、迷ったら直感を信じ躊躇をしないことだ。 ・・・・・・・ 3077,SCが工期半年で完成とは、驚き 2009年09月07日(月) 長岡の自宅から500m先に、オープンモールの25店舗のSCが9月1日に着工、来年の3月8日に オープンと現場の立て看板にあった。 それにしても半年とは驚いた。これから冬場の中で駐車場も含めてである。 新造成地の更地で全てが平屋だから可能なのだろう。突貫工事になるのだろうが、見ものである。先月、近くで 説明会があった。折込の通知によると、大和ハウスの総合企画で、三菱東京銀行系が資金調達とあった。 住宅地も 数ヶ所売り出されているが、坪27〜8万円、少し高いが環境からして悪くはない。 場所は長岡駅裏から直線道路 一キロほど、自宅からは5分の場所。 自宅の100m先にSCがある上に、長岡駅(12分)には一万坪の専門店街が あるので生活環境は、ますます良くなる。そのSCから車で数分(一キロ)のところに家具のニトリ、家電のジョウシン、 ホームセンターのコメリ、ディスカウント、紳士服のアオキなど20店舗近い川崎のオープンモールのSCがある。 店舗構成をみるとバッテングをさけて補完してある。店舗が重なるのは、原信と、蔦や。業種では中古ショップである。 二つのSCを買い回ると丁度良い店舗構成になっている。これまでは長岡の信濃川の西に比べて、川崎のSCだけでは、 魅力が薄かったが、この二つを合わせて対抗拠点として、周辺に店舗が自然発生的に出来ていく過程をみることになる。 長岡駅中専門店街は、年々、弱体化していくが、駅前再開発も含めて大きく一変する。これも見もの。 間違いなく大きく縮小していく市場の中で、再開発だけは止まらない。 ・・・・・・・・ 2712, 大相撲が面白い! 2008年09月07日(日) 若貴あたりから違う面で大相撲が面白くなってきている。マスコミを巻き込んで、北朝鮮のような瀬戸際のブラック ジョーク的な展開を示してきた。グローバルの流れと、人材不足をカバーするため、いち早く外国人に開放をした。 しかし国技とかいうが、法的に根拠の無い曖昧な協会が実態だが、税金を払わない宗教法人と同じ扱いを受けている。 相撲部屋はヤクザ世界に酷似、縄ばり社会が寄り合っているだけ。部屋がそれぞれボクシングジムのように独立し、 それが集まって大相撲協会をつくっている。だから,北の湖が言い訳をするのも一理ある。ボクシング協会が、 個々の選手の薬物まで責任はないのと同じである。そんなことは、どうでもよいが。 今回の土俵外の物語は、 ロシアの三人の麻薬事件である。一月前までは、朝青龍を中心としたモンゴル人がトラブルメーカーだった。 それが一転してロシアの(麻薬)文化?への話題が移ってしまった。朝青龍かたなしである。 今回の物語は北の湖理事長の辞任のプロセスである。今回は、もう無理だろう?しかし・・ 昨日のニュースでは、期待をしていたとおり相撲協会が尿をすりかえたり、自民党の??あたりが天皇家への 尻尾振りで、政治的な圧力をかけてくるか、などなど漫画的な動きである。しかし、幾ら程度が低い彼らも、 世界的にも注目を浴びているので、腰が引けたのだろう。 日本のマスコミのロシア人兄弟に対する質問が甘い! 「ロシア国家に対する代表として、宣誓できますか」の質問をすればよい。もし、「もちろん、します!」と答えたら、 帰国をして数ヶ月以内に行方不明になるだろう。大相撲を国技としている限り、今後、中国、モンゴル、ロシア、 東欧の国家戦略として日本バッシング戦略的対象になる。大相撲協会は、あまりに、軽く甘い。私が敵対国の政治家なら、 対日の攻撃対象にする。自国の強い力士に女とか薬を与え、マスコミに騒ぎ立てるか、日本の力士を徹底的に怪我を させるようにもって行く。それかモンゴルのように、三役力士を自国の力士で占有する。その意味で、外国人に開放を したと同時に、旧来の国技という名を返上すればよかった。せめて日本の相撲のルーツのあるモンゴルと朝鮮だけに 限定すべきだったろう。それともモンゴリアンだけに。 しかし、現実は現実である。 国技とかいう名を返上、 払うべき税金は払い、横綱審議会など解散することだ。 天皇家も閲覧席などに座らないで、しかるべき警備をして 一般席に座るべきだ。こういう不祥事も、人気取りの前座と考え、割り切っているのもよい。 あくまで、格闘技の見世物でしかないのだから。 ・・・・・・・・・・ 2007年09月07日(金) 2348.ベナレス・・・4
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2014年09月06日(土)
* 価値の遠近法 『パワレルな知性』鷲田清一著 鷲田清一の「価値の遠近法」が面白い! ーネットによるとー ≪ 「価値の遠近法」は、あらゆる事象・物事を次の四つに分けること。 ① 絶対に必要なもの、失ってはならぬもの ② あってもいいけどなくてもいいもの ③ なくてもいいもの ④ 絶対に不要なもの、あってはならないもの 彼は、これが上手に仕分けられる能力を「教養」と呼び、その重要性をいろいろ示す。 「価値の遠近法」は、それぞれ自身の価値観を明示的にする効果がある。 四つに仕分けることで、「何を大切にしたいのか」を自らに問い掛けることになるからだ。 自らの価値観を知ることは、自己理解の最も重要な要素。当然、人によって仕分け方は違うため、 自らの仕分け方と他者のそれを比較し、違いが起きた理由を探ることで、他者を理解する きっかけになる。 「価値の遠近法」を実践していくと、ある「真理」に気づくという。 「大事なものほど、仕分けづらい」「重要なものほど、答えがない」という真理である。 いま大きな社会問題になっている原発推進の是非を問う論争が、まさにこれ。 推進派と即時廃止派、さらには漸減派、一旦凍結派等々、議論が百出する。 「何を大切にしたいのか」を巡る論争には、唯一絶対の正解などない。 さらにこの問題を突き詰めてみると、わたしたちは、正解が見えないものに、とりあえずの解を 出さないと前に進めないことにも気づく。 私たちは、不確定要素に満ち、偶然に左右され、先行き不透明な問題に囲まれ生きている。 わからないもの取り囲まれて、わからないままベストの解を出すことを迫られている。 国の経済政策も、企業の経営戦略も、個人のキャリアも、構造は同じなのだ。 こういう問題に直面して、「価値の遠近法」を使って、よくわからない問題を仕分けていく時に 必要なポイントについて、「ようわからんけども大事!という勘がはたらくか」 「わからんことに囲まれていても、なんとか切り抜けていく」野性的な思考が必要という。≫ ▼ <「右下がりの時代」は、社会が‘まとも’になっていくためには悪いことではない。 右上がりの時代には次に何を手に入れようかと考えていたわけだが、下がっていく時代には 「何をまずあきらめるか」を考えざるをえない。私のいう「価値の遠近法」を、嫌でも頭に入れて おかなければならない>とあるが、老いていくことは、不要なものを捨てていくこと。 「価値の遠近法」の④、③、②と、一つずつ捨てて、①に絞ること。そのために教養が必要になる。 今さら遅いかどうかは、その人によるが・・ 「お金は、②、いや、①?」 ―――― 4556, グレートジャーニーから見えてきたことは ? ー1 2013年09月06日(金) * 追われ追われて南米最南端 「新潮45ー6月号」ーたけしvs・関野吉晴の対談ーより 冒険家が人類の移動の跡を辿って見えてきたのは、「人類の弱者が、より悪い環境の地に 追い込まれて、その繰り返しの究極の地が南米最南端パタゴニアであった」ということ。 アフリカから追われ、その移動先で落ち着くと、その中の弱者はまた弾き出される。その積み重ねが、 アフリカから南米の最南端までの人類の軌跡であった。その過程で生き延びる知恵こそ、 弱者の知恵になる。その過程で彼らは進化したかというと、そうではない。北アフリカと欧州に留まり 闘い続けた人間が、文明の基礎を作りあげていった。逆に、エスキモーとか、南米インディアンは、 逃げることで、生き延びていった。弱者には逃げるしかない。 この切り口で人類の歴史を鳥瞰してみると面白い! 僻地の人間は、そのためか優しい。 ーその辺りから抜粋ー 《 たけし〕しかし、六万年前に人類がアフリカから移動していって、世界中に広がったルートを 逆に辿る発想は面白いけど、ずいぶん無茶なことをしましたね(笑)。 関野〕 確かに逆ルートは無理があります。やっぱり人類は逆ルートで移動しないことが、 やってみると分かります。 全部、逆風なんですよ。例えばべーリング海峡を渡るときに、 風速5〜10Mのいい風というのは西から吹く。 僕はアラスカからシベリアに行くわけですから、 東風が欲しい。しかし、東風は風速15M以上になることが多い。 たけし〕どうしてアフリカで生まれた人類が全世界に移動したと言われているんですか? 関野〕研究者によって意見が違っていて、僕は最初、「あの山を越えたら何かあるんだろうか」 という好奇心、あるいは「あの山を越えたらもっと獲物がいて、いい暮らしが出来るんじゃないか」 という向上心で心で動いていたと思っていました。もしそういう好奇心とか向上心とか、いわゆる 進取の気性に富んでいたなら、一番遠くまで行った人たちの末裔のはずです。 たけし〕そういうことになります。 関野〕ところが行ってみたら逆でした。南米最先端に行った人は一番弱い人なんです。 そこでは狩猟生活もできない。ホタテとかカニをとって生活をせざるを得ないんです。 どうしてそんなところに移住してきたのだろうと考えてみると、弱いからじゃないか。 例えば、あるところが住みよいとなれば人ロが増えていきますよね。 たけし〕 そうなると誰かがふき飛ばされる人が出てくる。 関野〕ええ、誰が出ていくかが問題になる。強い人出ていきません。そこで、はじき出された人が フロンテアに行くわけです。滅びてしまう人も多いと思いますが、そこでバイオニアになれた人が 生き残れる。 創意工夫を働かせて適応した人が「住めば都」に変えてしまう。そこでも人口が増えると、 また弾き出される人たらが出てくる。だから、日本は弱い人の吹だまりだと思う。それ以上、 東に行けないわけですから。 たけし〕日本人がもともと弱い人間の吹だまりだというのは面白いね。 関野〕それはイギリスも同じですね。もっと西に行けない。ところが、いいか悪いかけ別にして、 日本はアジアを制圧しようとしたし、イギリスは世界を制覇しようとした。だから、もともと 弱いといって、いつまでも弱いわけしでない。弱いから逆にいろんな知恵を使うわけです。 元もと人類はその誕生のときから、弱いから知恵を使って生きてきた。 》 ▼ 強みは、弱者の苦労から湧き出る知恵から生まれる。決して野心を持って挑んだ訳ではない。 弱者の知恵こそ、力になる。弾き出した方はといえば、変化適応能力が無くなり弱者になっていく。 何処かの国か、地域そのもの。脱皮できない蛇は死ぬ。 ・・・・・・ 4181, 呪いの時代 ー1 2012年09月06日(木) 「呪いの時代」内田樹著 なかなか時代の特質を捉えた面白い本である。バブルと、バブル崩壊を経た後、日本は 20年以上も下降曲線をたどっている。経済大国と言われたのも遠い過去になりつつある中、 人々は、その環境の中で互いに呪い、怒りをぶつけあっている。そして中流社会が崩壊を始め、 総下流化社会になりつつある。そこでは互いに呪い、一部勝ち組を呪う時代になっている。 呪いは人間としての悪い意志、否定的な情動であるが、その核心部分には他者の全面否定と 破壊と殺意が内蔵されている。自己崩壊は他者への憎悪となり自他とも傷つけるだけでない、 未来へ希望と友愛を損傷する。「呪いの時代」は、言い得て妙である。 * まずは、第一章 呪いの時代より ≪「呪い」は今や僕たちの社会で批評的な言葉づかいをするときの公用語になりつつあります。 「弱者」たちは救済を求めて呪いの言葉を吐き、「被害者」たちは償いを求めて呪いの言葉を吐き、 「正義の人」たちは公正な社会の実現を求めて呪いの言葉を吐く。けれども彼らはそれらの言葉が 他者のみならず、おのれ自身へ向かう呪いとしても機能していることにあまりに無自覚のように 思われます。20年ほど前、まだ僕が学会というところに顔を出していた頃までは、学会発表後の 質疑応答で、「あなたは…の論文を読んでいないのではないか」とか「周知の…についての言及が ないのはなぜか」といった、「そこで論じられていないこと」を持ち出して、「こんなことも知らない 人間に、この論件について語る資格はない」と切り捨てる態度に出る学者が沢山いました。 僕はそういう「突っ込み」を見るたびに、どうして彼らは「自分の知っている情報」の価値を 高く格付けする一方、「自分の知らない情報」が知るに値しないものだとあれほど無邪気に 信じていられるのか、その理由がよくわかりませんでした。僕たちは誰でも自分の知っている ことの価値を過大評価し、自分の知らないことの価値を過小評価する傾向にあります。 だから、学者にとっていちばん最初の仕事は、自分の所有する学術情報を適切に評価する ことであるはずです。でも、「君は『こんなこと』も知らんのか」と気色ばむ学者たちは「こんんなこと」 が議論の始点でなければならない理由について、ほとんど説明責任を持ていないようでした。・・・・ 学者というのは「知識を持つ人間」ではなく、「自分のもつ知識についての知識を持っている人間」 のことだと思います。ですから自分の知っていることは「知るに値すること」であり、自分が知らない ことは「知るに値しないこと」だと無反省的に信じ込める学者のことを僕は端的に「学者の腐った ようなやつ」と呼んでいました。しかし、学界だけの固有種であったこのタイプの人々が今ネット上 では異常増殖しているように僕には思われます。ディスプレイに向かって、グーグルで キーワード検索をしながら、個別的なトピックについてのトリヴィアルな情報を入手すること それ自体は愉快なことですし、誰の迷惑になるわけでもありません(僕だって大好きです)。 けれども、そうやって自分が仕入れた知識の価値を「知識についての知識」という メタレベルから吟味する習慣を持たない人にとっては、どれほどトリヴィアルな情報を 収集しても、それは学的には無価値だということは忘れない方がいいと思います。≫ ▼「呪い」が、恐ろしい結果をもたらす事例を、あまりに多くみてきた。 特に、人生に恵まれてない人のそれは酷い。 起こった現象しか見えないため、 その背後の原因を突き詰める能力が無いのである。呪いは、羨望が含まれている。 そのため周囲の全ての人が対象になるから始末が悪い。国会の有様は、正に呪いの政争である。 呪いの政治は破壊しかない。 ・・・・・・ 3816, iPadを買った ー3 2011年09月06日(火) 手元にきてから二週間、iPadにますます虜。パソコンが大好きだが、イマイチ使いこなせかった。 このお陰で?アプリを比較的簡単にダウンロードして気楽に使えるようになったことが大きい。 更にゲームをパソコンで遊んだ経験が殆どなかった。そこで、まず無料のゲームで子供心に 立ち返って遊んでいる。「自分の人生がゲームそのもの、敢えてする必要もない」と決めつけ、 受け付けなかったこともある。このところ一日2時間は熱中している。まずは無料の小学校低学年? レベルのもの数種類だが、始めると止まらない。 まあ、いい歳をして幸せなことだが、面白いのは 面白い! 先日、初めてデジタル雑誌をAplleから購入をしてみた。 『 最新 iPadアプリ 特選700』である。「成るほどiPadを買ったことで、iBookが購入出来た」 と一人感心。 そこで気づいたのは、目次から一瞬で項目のトップに切り替わること。 それとitunesの音楽とは逆に、ページの下に次々と、各ページのイメージがスクロールをすると 現れてくる。 雑誌をパラパラと捲るのと同じことが可能である。 また、最後に読んだところが、 次回にiBookを開いた時に自動的に開く。 最近の録画は、最後にみたビデオの部分が自動的 出てくるのと同じ。 さらに字の大きさが親指と人差し指二本で拡大・縮小できるのも便利である。 何よりも何時でも、何処でも、気楽に見れるのがよい。Podに数千曲入力してある感覚と同じ。 「アプリあってのiPad」が、この本の副題にあるが、PCでアプリを充分に活用できない者にとって、 「iPadあってのアプリ」になる。それぞれの有り難さは違って当然。 私には「iPad 様様」のよう。 初めて携帯電話を手にしたのに匹敵する。 問題は自分にピッタリのアプリを如何に探し出し 活用できるかである。 無線で、平面で、本の大きさのため、画面にピアノや太鼓の画面を表示し、 作曲したり、演奏をしたり、車の運転席で道路を疾走するする画面のゲームも現れている。 それもネット上で誰かと競技も可能。 ・・・・・・・ 3451, ニューカレドニアの休暇 −1 2010年09月06日(月) 去年はブタインフルエンザ騒ぎで予約をしていたクロアチア・ツアーを急遽キャンセルをした。 その後、あの騒ぎは薬品メーカー(WHOに入りこませた役員)が薬品を売るための詐欺紛いの 扇動と後になって気づいたが後の祭り。恐慌二年目も加わり、25年間、毎年行き続けた 海外旅行が途切れてしまった。そして今年は恐慌三年目、経済的状況は二番底に向け動き出した。 さて、どうするか迷った。毎年9月以降に大きな事件が起こる傾向があるので、最終タイムリミットは 9月初旬まで。 近くで、安く、目だないツアーを絞って盆明けになって探した。 グァム島はありきたり、バリ島は家内が嫌。 オーストラリアはイマイチ。そうこう調べてると 南太平洋の中で「7日間で8万弱のニューカレドニア」を探しあてた。 ワンフライト8時間で、 滞在型で、エネルギーが最小で済むところとあいなった。しかしホテルの一ランク上に上げたり、 現地で4回のオプションツアーに参加したりで、二倍近くになってしまった。それでも15万である。 振り返ってみて、オプションは2回で十分で、あとはホテル近くの海岸線の木陰で日干しをしたりして、 のんびりするのが正解。 二度と来ないと思うと可能な限り動きたい気持ちに勝てなかったのである。 私の基準の採点では80点。 フィジーが90〜95点とすると少し低いが、私の避暑的時間の 過ごし方になれてなかったこともある。 フィジーと違って、ここはフランス領ニューカレドニア。 四国ほどの面積に25万弱の人口が住んでおり、小さな多くの島が点在している。 ニッケルを主とした鉱山資源が豊富。フィジー、タヒチなど年中、常夏な気候に対し、5度ほど寒い 冬がある。この時期は丁度冬と夏の境目。冬で20度、夏でも25度というから、やはり常夏である。 大まかにポリネシア系の現地人が4割、フランスなど白人系が3割、アジアの移民が3割の比率で、 フランス支配感が強い国で、地中海のフランス領の小島にいるようである。 その点、フィジーは小さいながらもポリネシアの独立国でありポリネシアの人間的特性が 前面に出ている。料金はフィジーが5割高くなる。 南太平洋に行くなら、何処の国の領地か、 独立国か調べた方がよい。 植民地は白人支配が前面に出ている。 現在、世界は一部の白人が支配している厳然たる事実がある。 インドのカースト制度は、 三千年かけたアーリア人による身分制度で、裏づけにヒンズー教で心まで支配する システムになっている。一神教のユダヤ、キリスト教も、ほぼ同じ手法で、侵略の尖兵として、 キリスト教で洗脳しながら乗り込んでいく。 そして世界を牛耳っている。 ここで、日本が アメリカの金融被支配国が表面化してきた。それだけでない、軍事も支配されている現実がある。 バカではないかというほどの人の良さが小さな島国の運命である。 ・・・・・・・・ 3076,120年の物指し 2009年09月06日(日) 週刊朝日の記事ー 平成維新「次の100年が始った」が面白い。 ーまずは民主党の大勝の長短の4つの物指しを要約 一、麻生の一年足らず政権、永田町の政治記者レベルの内容。今後、民主党が、 そのレベルとして参院選挙まで、いかに実績を積み重ねることができるか。 二、次は、四年前の小泉劇場の大勝で、今度の選挙のように逆ぶれで民主党に政権が転がり込んできた。 4年後の衆院選挙も同じ道をたどることになるかどうか。 三、小選挙区制度ができて15年で、ここでようやく政権交代が実現した。1993年の国会は、「政治改革国会」 と呼ばれ、翌年には小選挙区比例代表制を含む政治改革関連4法が成立。今後15年で二大政党の 交代システムが出来るかどうか。 四、120年という物指しで、これが最も本質的な物ざし。明治憲法ができて120年になるが、この間の政治は 実は官僚に従属してきた。今度の政権は120年の「中央集権国家」を廃絶して新たに「地域主権国家」 を樹立しようというのである。 自民党も「地方分権」といい、その具体策として「道州制度」を 導入しようとしているが、あくまで「中央集権国家」が今後とも続くという前提である。 その官僚主導体制とその中核である財務省による徴税・国債管理・予算分配の「財政中央集権」も続く ということであり分権といっても、うやむやにされることは目に見えている。これに対して民主党は、 国民生活に密接な権限と財源を基礎自治体に渡してしまうもの。 ▼ 以上だが、その15年間、延命を繰りかいした自民政権があまりに狡猾であった。それも120年続いた流れで、 国民が騙されていたことが露出してしまったのである。二度とあの威信は戻ることはない。 あとは民主党の自滅を待つしかない。 ・・・・・・・・・ 2711, 臨死体験を経験できるヘルメット 2008年09月06日(土) 何の知識無しで初めて幽体離脱を経験したときの驚きを今でもリアルに憶えている。 それを契機に、キュープラ・ロスや、立花隆の臨死体験などの本を読み、その経験の意味を知った。 ところが最近になり、アメリカでパーシンガー博士の開発したゴッドヘルメットと呼ばれるものがあり、 これ装着すると万人が体外離脱できるという。博士はてんかんの治療で、脳を電極で刺激する手術を400例以上 やっていて、その手術の際に側頭葉のシルビウス溝と呼ばれる、右耳の上を電極で刺激すると、体外離脱が おこることを発見した。これで体外離脱した意識が、遠くのものを見てきて、現実と一致したり、霊が他人の体を ジャックしたイメージも起こるという。 これまでのように脳を開いて直接電極を押しあてたりせず、電磁気で脳を 刺激して、反応を見る研究が盛んのようだ。体外離脱とは、脳の中の幻覚ではなく、アストラル体のような意識が、 抜け出している状態ともいわれる。実際に体外離脱の経験者に装着したところ、同じような経験をしたという。 それまで一部霊能者とか、そういう体質を持った人だけしか経験できなかったことを、科学者は誰にでも体験 できるようにする。 何年もしないうちに、家電の店頭で並ぶかもしれない。 これを被って気が向いたら 幽体離脱をするのも面白いだろう。そういえばアルファー波を発生させる器械を買ったことがあった。 またマリファナを吸ったと同じ気分になるCDのセットも買ったことがあったが、少し酔ったような気分になる。 私は酒に酔いの方が好きだが。他のTPOSが面白いだけであるが・・・恐らく、これを被っても、私の経験した 幽体離脱の緊迫した感覚とは違うだろう。色いろな状況の中で独りで、誰にも言えない奇妙な体験だから 神秘的なのであって、ヘッドギアの器械で幽体離脱をしても、味も素っ気もないだろう。しかし、面白そうである。 (字数制限のためカット 2014年9月6日)
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