堀井On-Line



4812,閑話小題 ーシネマ『それでも夜が明ける』

2014年05月18日(日)

   * シネマ『それでも夜が明ける』 ー評論
 一昨日はシネマの日。 今週は『それでも夜が明ける』を、みてきた。 評)90点
暗い内容だが、重厚で、アカデミー賞の作品賞をもらうだけのことはある。南部の奴隷が動物並みに扱われていた実態は、
それは酷い。中南米諸国のアスリストの身体能力が高いのは、奴隷としてアフリカから運搬船で送られる船中で、まず淘汰。
その後、過酷な肉体労働で生き延びた人たちから、さらに選び抜かれているため、異常に高い身体能力があるという。
当時の南部では、家畜として見ていたようだ。 
 インドのカースト制は、三千年前に西の方からやってきたアーリア人が、ヒンズー教を創りあげ、肌の色で階級を
つけた仕組みで、そのミックスを防ぐのが目的で、現在も、そのまま続いている。 白、赤、黄色、ねずみ色の順に、
見た目だけで階級が判断できる。その上に体格も、顔つきも、そのまま三千年の歴史が現れ出ている。
最下層は、牛以下で、車ではねても、そのまま立ち去ってしまう。 先進国、後進国の格差も、似たようなものか。
 3年前の節目時の日々は、『それでも夜が明ける』そのもの。 『闘い済んで日が暮れる』である。
ただ、面白みと味わいもあったが・・ 差別?、軽蔑の視線をモロに、受けてみて、「成るほど、こういうものか」という
逆視線と、経験したことのない怒りと、その対処法の知恵も出てくる。いちいち怒っていられないので、その場でイメージで
消去してしまう。 それで相手への憎しみも怒りも、その場限りで不思議なことに消えていく。 消去方法は?企業秘密。
で、再び怒りが出てきたら、その都度、小まめに消去する。10回もすれば、ほぼ消去。 百回なら大病、事故?
 何度も書くが、避難先の高台(現状)から、外海に押し寄せてくる大津波に、ただ、漫然としている人たちの姿が見える。
三分の二は助かるが、三分の一は、間違いなく飲み込まれる。危ない人ほど、自分は大丈夫とタカをくくっている。
 この映画の主人公のように、ある日、突然騙されて南部に売られ自由を失った主人公のように、突然、全てが失われる。
これは、社会的変動だけでなく、誰にでも起こる生老病死の問題もあるが。 国家としての行き先は、現在の韓国のように、
韓国内の企業の株式の8割が外国所有になって、民度は落ち続け、客船沈没事件とか、得体の知れない宗教団体の跋扈とか・・ 
 それでも、かの国の夜が明けている。 色いろ考えさせられた映画である。
・・・・・・
4445、早朝座禅
2013年05月18日(土)
             「早朝座禅ー 凛とした生活のすすめ」山折哲雄著
 この本を読んで直ぐに30分早く起きて、早朝座禅を取り入れてみた。まずは、今月一杯は続けてみるが、どうなるか。
今のところ抵抗感も、異物の習慣といった感もない。もう40年以上も朝起きの習慣化があった上に、その時間帯での全てが
カタチを変えた瞑想みたいなもの。朝の散歩やミニサイクリングは、移動座禅といってよいほど。 何故、今まで軽い気持ちで
早朝座禅か、瞑想を取り入れなかったのが不思議なくらい。 30年間の新幹線通勤の往復一時間が、瞑想に近いし、
夜半の4時間の爆睡後の一時半から4時半までの三時間は、瞑想に近い状態になるので、あえてその必要が無かったこともある。
しかし姿勢を正し、目を瞑り、思いに捉われないで、覚醒した気持で正座をするのとは違うのは、経験して初めて知ったこと。
  ーまずは、(内容ーアマゾン)よりー
< 現代ほど「人間関係」の重要性が説かれる時代もない。家族、学校、会社、それぞれにおけるコミュニケーションの
大切さが謳われる一方、疲れた人やうつ病は増え続け、自殺者は九年連続で三万人を超えている。著者は、疲れたときには
「群れ」から離れて「ひとり」になってみよ、という。毎朝、五分坐って、己の心と向き合う。正しい姿勢で、深い呼吸をする。
季節の風を胸元に入れながら、歩く。ときには庭にたたずみ、河原で風に吹かれる。
ひとり静かに自分自身や自然と向き合うことが、騒々しい人間関係の疲れを取り、豊かな人生を手に入れる最良の方法。
凛とした生活を送るために大切な身体作法を実践的に説く、山折流・人生指南の書。>
   =概要をマトメルと=
≪ 現代社会にあふれる‘うつ’の現象を分析し、
○過去に人生モデルが見つけられない程の高年齢化。 ○宗教的な感覚が欠如した口先だけの言葉の群れの氾濫。
それが、世の中に不安をもたらすモノノケとなり、うつを蔓延させている。 回復には、ひとりで静かな中で早朝坐禅をし、
モノノケから自由になり、歩く・泣く・眠るという3原則が大事とのこと。 宗教は非日常性。教会でもお寺でも、
日常の気持ちから離れ、心を改めて参拝します。 一方、俗人の日常は、非宗教です。宗教者とは違い、生活に宗教性は薄く、
実生活を営んでいきます。著者にとっては、この場は混ざり合っていて縦横に歩ける無境界地帯のよう。
早朝坐禅は、無念無想のために坐るのではなく、むしろ雑念妄想を吐き出させ、それ以後の1日をスッキリ生活させる為の手段。
またチベットの寺院の真似をして、呼吸さえ密やかにする坐禅中に、茶を喫するなどその自由闊達な動きは著者独自のもの。
頭の中に湧いてくる雑念をそのまま流れに任せ感じ、そのまま受け入れる。嫌な事でもいい事でも想像の中で、いろいろ出来る。
著者は「疲れたときには‘群れ'から離れ‘ひとり'になれ」と。そして自分の心と向き合って深呼吸をする。
人間が自分を不幸だと感じるとき、それは絶対的な不幸をいうのではなく、「幸福な他人」との比較による相対的な不幸に
ついて言っている。 あらゆる不満は他人と比較で生じると。≫
 ▼ 創業の第一歩は、「ひとりになること」から始まる。心にイメージした絵に向かい、ただ独り長年かけ準備をしていく。
  周囲が現在のことに無我夢中の中で、一種の宗教のように自分が目指す、創業に向かい一つずつ、パーツを集める。
  傍からみたら一種の狂人に近い心の状態。それでも続けていると、カタチが少しずつ現れてくる。問題は前進を止めないこと。
  その中で、心の芯に「ひとり」を保っていないと、現象に流され、群れに同化してしまう。  庭弄りとか、散歩、一人旅、
  読書など、「ひとり」になる切り口は幾らでもある。それでも、モノノケに縛られる。早朝禅か、瞑想の習慣は最も有効だが。 
  さて30分の野狐禅が身につくかどうか? 
・・・・・・
4071, 哲学で自分をつくる ー1
2012年05月18日(金)
               「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著)  
 実をいうと、この本、トイレに一年間以上、置いておき毎日読んでいたもの。これを手に取ると自分の本音を見透かされてようで、
切り口が素朴で日常的のため面白い。あまり知られてない、こういう掘り出しものが哲学書には数多ある。 
門前で野狐禅みたいなレベルで知識を弄んでいる輩(私)に、噛み砕いて教えを説かれているようである。
   ー内容ー
 ソクラテス、ニーチェ、ウィトゲンシュタインから、フーコー、ドゥルーズ、デリダまで、
19人の哲学者の思想・人生のエッセンスを、現代に生きるリアルな問いに置き換え、今を生きぬいていく方法を学ぶ。 
 (読者評価) 19人の哲学者たちの声に耳を傾けつつ、もう一度自分自身の頭で考えるということから始めてみよう。
確かに悩みや不安を宿命として受け止め肯定的に捉えるのは容易なことでは無い。しかしそのために考えることを生きていくことの
力とする哲学というものが存在する。もっと哲学という方法を、すなわち自分で考えるということの強度を信頼しても良いのではないか・・。
著者はそうした問題提起の下、それぞれの哲学者に成り代わって現代の読者との対話を試みるのである。しかし本書は哲学者を高みの
存在には置かない。また、昨今の入門書のようにデフォルメもしない。あくまでも彼らがそれぞれの時代を生きた一人の人間であり、
一人の生活者であったことに軸足を置いている。このニュートラルな哲学者の位置づけによって、それぞれの哲学者に瑞々しい生命力が
与えられ、彼ら哲学者と現代に生きる我々との問題意識が決して隔てられたものではないという親近感を得るのに役立っている。
  ーはじめにー の冒頭が、この著書の特徴と狙いを書いているー
【 あなたには、自分らしくありたい、人に認められたい、自分のことを分かってほしい、世の中で成功したい、幸せになりたい、
 金持ちになりたい、モテたい、死にたくない、もっと真っ当に生きたい、といった積極的な意欲があることだろう。 もしくは、
 とにかくモヤモヤしている、何もかもが信じられない、人づきあいが面倒、生きるのがつらい、何もしたくない、誰かなんとかして、
 といったような、消極的な感情もあるかもしれない。過去の哲学者たちがもし、今、ここにいて、21世紀に生きる私たちの、
 そういった悩みや葛藤を聞いたなら、はたしてどうなるのか。どのように聞きとり、どのようなことを語ろうとするのか。
「街の意見」をぶつけられた哲学者が応えるようなスタイルで本書は、書かれている。 本書は、あなたに「哲学する」ことを勧める。
 ここで言う「哲学する」とは、生きてゆくうえでの「思考の力を磨くこと」である。既存の哲学を単に解釈したり理解することではない。
 日常的に哲学的な問いかけを行い、生きることに役立てること、つまり哲学を使って「自分」をつくるということである。】
 ▼ 現代の我々にとっての疑問、悩みを歴史上の哲学者が答える形式は分かりやす。我々が日常で悩んでいることや考えていることは、
  全て過去の哲学者が考えてきた一部の悩みでしかない。19人は哲学者の中でも選りすぐりの人たち。彼らのいっている
  真理は現在でも、そのまま通じること。最近、気づいたことは、私の人生はニーチェに大きく影響されていたようだ。
  この生活者としての生の内面の疑問に19名が答える形式は哲学を身近に引き寄せる。残されて人生、とにかく考え続けるしかない。
  ・・・・・・・
3705, ジャズについて −4
2011年05月18日(水)
                 ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
 一九二〇年代に「ビッグ・バンド・スタイル(4人位のバンド編成が、15人を超える大編成)」が受けるようになった。
 その巨人が、あのデューク・エリントン。ジャズの世界を知れば知るほど、面白い。
  * ビッグ・バンド・スタイルの流行
【 ジャズの中心がその生誕地ニューオリンズからシカゴに移っていた二〇〜三〇年代、ニューヨークやカンザス.シティでは、
大編成によるビッグ・バンド・スタイルのジャズが流行した。トランペット奏者、サックス奏者、トロンボーン奏者がそれぞれ四人程度、
それにピアノ、べース、ドラム、ギター奏者が一人ずつの編成し、クラシックの楽団には比べるべくもないが、それでも、一五人を超える
メンバーからなるビッグ・バンドはニュー・ーオリンズ・ジャズの編成(一般的にはコルネットット、トロンボーン、バンジョー、ピアノ、
ベース、ドラム各一人)に比べればはるかに大規模だったし、現在でもトリオ(ピアノ、べース、ドラム各一が基本)か、カルテット
(ピアノ、べース、ドラム各一にトランペットかサックスが加わる)がジャズ演奏の主流であることを考えれば、大編成と呼んでもいいだろう。 
そのビッグ・バンド・スタイルを確立させたのは、フレッチャー・ヘンダーソン(一八九七〜一九五二)。しかし、ニューヨークの
黒人居住区であるハーレムのポールルーム(ダンスホール)やクラブを拠点に活躍したビッグ・バンドの巨人といえぱ、
デューク・エリントン(一八九九〜「九七四)をおいていない。 本名エドワード・ケネディ・エリントン(デュークは公爵という
意味のニックネーム)は、あとで触れるマイルス・デイビスに、「あらゆるミュージシャンは彼に感謝を捧げる日を持つべきだ」といわしめ、
フランスの作家ポリス・ヴィアンをして、小説の登場人物に、「かわいい女の子たちとの恋愛と、デューク・エリントンの音楽。
それ以外は消え失せたっていい。醜いんだから」と語らせた人物である。「A列車で行こう」「黒と茶の幻想」
「ソフィスティヶイテッド.レディ」「サテン・ドール」・・・。ジャズ・ファンならずとも耳にしたことがある名曲.名盤を数多く残し、
自らもピアン奏者であったが、彼の真の楽器は、自分の楽団そのものだったといっていい。アーム・ストロングと同じように時代や
国に影響を与えた彼は、アームのソロイストとは対照的に、優れたバンドリーダーであった。エリントンにとって、バンドのメンバーは
さながら絵の具のようであり、それぞれ個性という色を混ぜ合わせて、最終的には「エリントン風絵画=楽曲」に仕上げることに長けていた。】
 ▼ そうこうジャズについて知ると、学生時代に、こういう本があれば、もっとジャズ好きになっていた筈である。
  エリントンの70年の録音された「ニューオリンズ・スイート」は、その地と縁もゆかりもない彼が、ジャズの発祥の地に
  敬意を表したアルバムである。 アメリカ発の魂の歌とも言うことができる。
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3340, 感性・悟性・理性 ーカント
2010年05月18日(火)
 理性といえば、「純粋理性批判」のカントである。ーこの一冊で「哲学」がわかる!ー白取晴彦著ー の中で、
 認識についてのカントの考えを次のように書いている。
≪ 彼は、その中で「・・・我われの認識がすべて経験を以て始るとはいえ、それだからといって、我われの認識がすべて
経験から生じるのではない。 なぜなら、おそらく我われの経験認識ですら、我われが印象(直感)によって受け取るものと、
我われ自身の認識能力(悟性)が自分自身から与えるものとの結合真実であろうからである。」と述べている。
 では、この「我われ自身の認識能力が自分自身から与えるもの」とはいったい何なのか。 それは感性と悟性である。
・感性とは、見えている素材がいろいろな形で心に受容される能力というほどの意味。 感性は五感を通じて現われたもの、
 すなわち現象を捉えます。このとき、感性は時間と空間という内なる形式にしたがって現象を整理して見ています。
 時間と空間というこの形式は、人間の感性の中にあらかじめ備わっている先天的なものである。
・この現象から得た情報を整理して判断するためには、もう一つの理性、「悟性」がここで必要となる。
 悟性とは、大雑把にいえば、「理解する能力」です。 少し丁寧にいえば、能動的な思考・判断能力となります。
 さらにわかりやすくいえば、「現象に規則を与える能力」だといえます。 この結果、概念の骨格が一つずつ出来てきて
 それに肉付けをしたものがイメージになって出てくる。 受け取った概念はたとえていえば、骨格標本のようなもの。
 これに対応するイメージを生み出すのが、我われの人間の「心の内奥に隠された技術」すなわち構想力だといいます。
・我われは日常的なこと、目に見えることだけを知りたがっているわけではありません。「愛とは何か」「神はいるか」
 「何が善で何が悪か」といったことを知りたがる。 カントによれば、これら形而上の事柄に関しての担当は悟性ではなく、
 理性であるといいます。感性と悟性は現象まで扱い、それ以上のこと、すなわち現象の原理については理性が扱うのである。
 「霊魂は単一か否か」は昔からの馴染み深い疑問でした。 しかし、これこそ、という答えはありません。
 霊魂は現象として目に見えるものではない。しかし、理性はこれについて考えてきた。 つまり人間の理性は、感性や悟性が
 感知できないものについて、思考をめぐらすことが可能である。 しかし、カントは、そこで面白い結論を出したのです。
  すなわち、認識の限界を超えたことを思考すれば、必ずや二律背反に陥るということである。 
 二律背反とは、互いに矛盾するということ、互いに矛盾しながらも互いに反駁も出来ないことを言います。 
 どうして、こういうことが起こるのか。 感性も悟性も到達しえない理念について理性が考えても、その考えは
 認識できるものではないということです。  ≫
 ▼ カントの認識に関するエキスの部分を非常にわかりやすく噛み砕いてある。「・現象を時間と空間の中で対象として感性で捉え、
  ・悟性で、その対象を整理をし、・思考して(判断を加え)、・理性で原理を求める」 ということが認識としている。
    非常に分りやすいカントの認識論である。
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2965,世界はパンデミックに入ったのか! ―2
2009年05月18日(月)
 * パンドラの箱が開いた!
ついに国内に新インフルエンザの感染者が出て、そして拡大が始った。時間の問題ではあったが、これからは何処まで感染者が
増えるかの問題になる。感染者が増えていく過程で、菌が悪性化するから問題。予測どおりにゴールデンウィーク明けの10日足らずで、
日本も世界並みに感染が始った。問題は高校生であるところ、多くの生徒の間に感染している可能性がある。更に家族などから
ネズミ算的に感染してる可能性がある。 スーパーや電車など人混みの多い所は要注意。マスクは殆ど感染に効果がないというし、
よく手を洗うしか予防がない。ウガイは10分以内の菌にしか、効果がないという? しないよりは、良いのだろう。  
 (字数制限のためカット2011年5月18日)
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2601, 柏崎沖地震で原発が7基、停止しているが
2008年05月18日(日)
 去年、柏崎沖地震で7基の原発が停止をしたが、真夏の東京の電気を一時止めることも無く乗り切った。
これは、どういうことなのであろうか。 休止していた火力発電を急遽動かし凌いだといっても、原発の数は54基。
そのうち7基といえば大きい影響が出そうだが、それを乗り切ったという実績は大きい。単純に計算すると原発の発電電力が
占める割合が35パー。柏崎原子炉が大よそ15パーセントであるから、掛け合わせると5パーセントになる。
古い火力発電などを再開して、何んとか乗り切ったのである。2002年の統計だが、世界における総発電量(163215億kWh)
の16.2%が原子力発電所によるものであり、これは火力発電所の66.6%、水力発電所の16.5%に次ぐ。
世界でもっとも原子力発電所に依存しているのはフランス (78%)、次いでスウェーデン (46.3%)、ウクライナ (44.9%)、
大韓民国 (35.4%)である。2005年現在、日本における発電電力量の約35%、発電設備容量の約20%を担っている。
   (字数制限のためカット2012年5月18日)
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2007年05月18日(金)
2236, *閑話小題*                ・д・)ノ〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●)
ーまさか、貴方まで!?
 同級生のY君が病に倒れ、いきさつ上、私とM君が入院の合間に「Y君を励ます会」の幹事をすることになった。
他の同級生にもお願いして、連絡する名簿を振り分け、まず一番初めにK君に電話を入れた。
   (字数制限のためカット 2010年5月18日)


4811, Quirt <内向型人間の時代> ー2

2014年05月17日(土)

                        <内向型人間の時代> スーザン・ケイン著
    * 内向型人間は二流の性格特性か?
 外交型人間の代表といえば、特にイタリア、スペインなどの南欧の人たち。逆に内向的人間の代表はフィンランド人を
代表にした北欧の人たちからみて、季節要因と食料が大きく影響しているのが分る。黒夜の時節、15時になれば真っ暗に
なれば自殺率が高いのも当然である。冬期間に雪に閉ざされ、内向きになる秋田、新潟の自殺率が高いのと似てる。
外交型人間を理想とする価値観の中で、内向型人間は、一段も二段も低く見られるため、どうしても隠したがる。
  ーその辺りから抜粋ー
《 今日、社会が求める性格タイプはごく狭い範囲に設定されている。成功するには大胆でなければならない、
 幸福になるには社交的でなければならないと、教えられる。 私たちはアメリカを外向型人間の国家として見ているが、
それは必ずしも真実ではない。どの研究を見ても.アメリカ人の三分の一から二分の一は内向型である。言い換えれば、
あなたの周囲の人々のうち二、三人にひとりは内向型なのだ(アメリカが有数の外向型の国のひとつだとすれば、世界には
もっと内向型の比率が高い国々がある)。あなた自身が内向型でないとしても、家族や学校や職場に何人か思いあたるだろう。
もし三分の一から二分の一という統計に驚きを感じるのなら、それはたくさんの人が外向的のふりをしているからだ。
隠れ内向型は、学校の運動場や高校のロッカールームや大企業の廊下に気づかれずに生息している。なかには自分自身までも
すっかり騙していて、なんらかのきっかけで、たとえば、失業、子供の親離れ、遺産が転り込んで時間を好きに使えるように
なったなどで、ふと自分の本来の性格に気づく人さえいる。この本の内容を友人や知人に話してみれば、思いがけない人が
自分は内向型だと思っているとわかるだろう。
 多くの内向型がそれを自分自身にまで隠しているのには、それなりの理由がある。私たちは、外向型の人間を理想とする
価値観のなかで暮らしている。つまり、社交的で先頭に立ちスポットライトを浴びてこそ快適でいられる、そんな自己を
持つことが理想だと、多くの人が信じているのだ。典型的な外向型は、熟慮よりも行動を、用心よりもリスクを冒すことを、
疑うよりも確信することを好む。たとえ悪い結果を招くかもしれないと思っても、すばやい意思決定を優先する。
チーム行動を得意とし、グループ内で社交的にふるまう。私たちは個性を尊重すると言いながら、ひとつの特定のタイプを
賞賛しがちだ。その対象は「自分の存在を誇示する」のを心地よく感じるタイプなのだ。もちろん、テクノロジー分野の
才能があって自宅のガレージで起業するような人なら、一匹狼だろうとどんな性格だろうと許されるが、それはあくまでも
例外で、そういう特例として認められるのは大金持ちか、そうなると約束されている人たちだけだろう。
 内向性は、その同類である感受性の鋭さや、生真面目さ、内気といった性格とともに、現在では二流の性格特性とみなされ、
残念な性格と病的な性格の中間にあると思われている。外向型を理想とする社会で暮らす内向型の人々は、男性優位世界の
女性のようなもので、自分がどんな人間かを決める核となる性質ゆえに過小評価されてしまう。外向性はたしかに魅力的で
あるがゆえに、押しつけられた基準になってしまっていて、そうあるべきと、大半の人々が感じている。・・・ 》
 ▼ 戦国時代の、信長、秀吉、家康を、この性格分類からみると、信長と、家康は内向型で、秀吉は外交型になる。
  家系と、家族と、連れ合いなどの環境も、大きく左右してくるが、豊かさと、知識も多分に影響してくる。
 学生時代の、ある時期から、面白いように次々と小さな殻が壊れていった。その一つが、父親が私の牛小屋のような
 寮に来て、その見窄らしい生活に驚き、仕送りを二倍にしてくれた頃に、欧州旅行と、ゼミの影響もあって、外交型に
 自分が変化していった。当時、仕送りが二倍になるのは、日常が根こそぎ変わることでもあった。 ーつづく
・・・・・・
4444, 過去の意味は変えられる
2013年05月17日(金)
   * 過去は変えることはできないが、過去の意味は変えられる
 何気ないが心に響く言葉、「過去は変えることはできないが、過去の意味は変えられる」がある。
40年近い事業人生と、この結末を如何に受容するか。所詮は、人生も事業もバブルと、その崩壊過程の側面がある。
何事も始まりと終わりがある。その行蔵は残るが、変えることはことはできないが、意味は変えられる。 
それは、自分が何を目指すか、楽観的か悲観的か、などで意味の捉え方で変わる。過去の意味(価値)を変えることは、
未来と現在に対する考え方を変える。過去を結果に言い換え「結果は変えることはできないが、結果の意味は変えられる」
として、人生、事業を総括すると多くの視点が見えてくる。現在こうして存在していることは奇跡である。
全てがベストであったから今の私が、ここに存在している。(この宇宙、地球、人間など全てだが)
 それでは「過去の意味を変える」とは如何なることか。意味に近い言葉に価値があるので、意味=価値として考えてみる。
価値とは、その人にとっての優先欲求、優先順位でもある。ということは、何を目指しているかに行きつく。
過去の価値は、現在の価値で解釈が変わって当然、作り変えられ、加工される? 歴史が、時間と共に解釈が変ると同じ。
意味には真実も含まれるが、その真実もあてにならない。当人が信じていること、それが真実といわれるケースが殆ど。
 そこで、真実と意味を辞書で調べると
・【真実とは、虚偽の反語。本当のこと、偽りでないこと。歪曲や隠蔽や錯誤をすべて排したときに明らかにされること。
 漢字の意味は、事柄の中身を開いて見たときに、実(じつ)として充満しているもの ...】
・【意味とは、表現に対する「なかみ」。意図するところ。表現(結果)をさかのぼる真意、意図、目的。
 ある現象(行為・言語・その他)に添付される、ある種の上位概念。】とある。
真実も、意味も、言葉の解釈で如何様に変わる。あるのは現在しかないとすると、過去は記憶でしかない。
その記憶も曖昧ときたら、成り立つ基盤は在って無いようなもの。「過去の意味は、現在の解釈で如何様にもなる」ということ。
・・・・・・
4070, 主義とは、内に貫く一つの信条
2012年05月17日(木)
    * 勇ましい、高尚の人生こそ最大の遺物!     ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
 「金も、事業も、文学も、思想も、これをもって最大遺物ということが出来ない。その訳は、誰にでも残すことが出来る遺物でないから
 最大遺物ということが出来ない」と、内村鑑三は論じて、こう訴えかける。
『それでドウゾ、後世の人が我々に就いて此の人等は力もなかった。富もなかった。学問もなかった人であったけれども、己の生涯を
 めいめい持っていた主義のために送って呉れたと云われたいではありませんか。是は誰にでも残すことが出来る生涯ではないかと思います。』 
▼「内に貫く一つの信条」こそ、その人となりである。 私は、「人間として生まれたからには、人生を全うをすること」を信条にしている。
  一度だけの人生、自分で納得できてこそ。納得出来なかったとしても、それも人生だが・・・ 主義とは言葉の通り、その人の主たる義。
  内に貫く一つの信条を実践することが義である。他人の思惑など入り込む余地など、そこには微塵もないはず。 貫き通せば、勇ましく、
  高尚の人生が、そこに残る。しかし、人間は所詮、動物の進化系でしかない。 勇ましい、高尚の人生も、見方でどうにでも解釈はできる。
  そうとでも思わなければやってられないということ。やり抜くには刷り込みも必要である。その刷り込みを、いかに加工するかである。
    * 長い期間にわたって不幸なのは、その人が悪い!
  誰でも長い期間にわたって不幸なのは、自分が悪いにほかならない。 死も生も堪える勇気のない人も、
  抵抗しようとも逃げようともしない人、こういう人にはどうしてやればよいのだろうか。  ーモンテーニュ『エセー』より
 ▼ どこにでもいる、不平家。 勝手に不幸と決め込んでいるから始末に悪い。悪いことに親から相続しているため直しようがない。
  現実を全く疑い持たない一般にいう世間人間。いっけん純粋で素朴のため、世間幻想を現実と信じている。
  まともに思考をしたこともなし。 傍によらないことだ。不幸、幸福など、これまた解釈の仕方ひとつ。
  不幸の時期ほどベストのことが隠されている。ベストよりベターが良いモノと、信じているんじゃないのか、彼らは?いや、自分か?   
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3704,自己を見つめる −22
2011年05月17日(火)                
   * 死について ー�          「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  死に際し、結局は神に頼りざるをえないのが人間。絶対者への希求に行き当たるのである。 最後は絶対者の支えなしには、
 人間自身が、己を支えることが出来ないのである。私という主体が死という終わりに、根本態度として神様無しにはいられない。
【 神の子であるイエス自身が、ゴルゴダの丘で十字架に架けられたとき、「わが神、わが神、なぜわ私をお見捨てになったのですか」と、
大声で叫んだ。 西田幾多郎が、言ったように、有限性の極みのなかで、その逆対応的に、絶対者への希求が現れてくるのである。
もちろん、その絶対者をどのようなものとして思い描くかという立ち入った内実は、宗教的信仰によってさまざまであろう。
しかし、そうした観念の根底に、すべてを知る者としての絶対者という概念が潜むことだけは明らかである。なぜなら、この現実の悲惨を
すべて知り尽くし、その上で、さらに、それを裁き、審判し、あるいは、善き者を許し、嘉し、こうして、すべてについて、正義の秩序を
保持して、万物を支え、生かし続けるであろうところの絶対者というものの観念の根底には、その根本前提として、その者が、生起した
いっさいの出来事を見抜き、知り尽くし、記憶し、けっして抹消されることのない全知のなかにこれを映し出す働きを行うということが、
予想されているからである。万物を知り、そのあるべき秩序を保持し、それらすべてを見抜いて、審判と恩寵を与え、そのようにして、
それらを本当の意味で生かす根源的な働きを行うところに、絶対者の絶対者たるゆえんがあることを、誰もが理解しているからである。
そうした絶対者が、実際にどこかに、この世界の内にか、あるいはその外にか、確固として、人間を越えて、現実に存在するかどうかが、
問題であるのではない。そうではなく、むしろ死の限界意識および、それと連なる人間の悲惨という事態の自覚を介して、私たち人間に、
懐疑と絶望と憂悶のなかで、それと矛盾するかのように、こうした絶対者への希求が湧き上がってくるという、その抑えがたい
祈願の強靭な根源性そのものが問題なのである。 そこに、絶対者の観念の生まれ出る根源があるということが大切なのである。
言い換えれば、死の問題意識は、こうした絶対者の観念を生む土壌であるという根本事実が重要なのである。おそらくは、そうした
絶対者の観念は、私たち人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎないのかもしれない。 しかし、私たち自身のうちには、
時を越えた不滅の全知の存在を要請する根強い希求が、最後の時に至るまで、燃え盛っていることだけはたしかである。
それが、人間の生存とその努力を内面から支える根拠をなしている。 その根拠への確信が引き抜かれるとき、おそらく、人間の生存は、
その究極の意味と支えを失い、人間自身が、崩壊するであろう。 人間の生存の営為が無意味でないためには、その精進と努力の
いっさいを移ろうことなく見届け、意味づける絶対者の眼差しがどこかに存在しなければならない。 誰もが、みずからの心の奥深くに、
そうした絶対者の眼差しの影を宿している。そこに、人間の存在の、畏怖すぺき尊厳の最終根拠がある。
それは、死をも越えて光輝く人問の尊厳であり、人間をとおして瞬く絶対者の眼差しである。 ーP・291 】
 ▼「死の問題意識は、絶対者の観念を生む土壌であるということが重要なのである。 絶対者の観念は、人間自身の救いようのない
  現実意識の裏返しにすぎない」 絶対者の眼差しが人間には必要欠くべからざるである。大部分の凄惨な最後は、それを示している。
 ・・・・・・・
3339, 2011年新聞・テレビ消滅  −2
2010年05月17日(月)
               「2011年新聞・テレビ消滅 」ー佐々木 俊尚 (著)
 現在のマスメディア崩壊の原因の1つとしてメディアのプラットフォーム化の進展をあげている。
これまでは新聞社の社員が記事を書き、紙面をつくり、印刷し、それを販売店に届けた。
販売店も専売店としてネットワーク化されている。これを3つの層に分けて説明する(もとはグーグルの及川卓也氏の説)。
   その3つの層とはコンテンツ、コンテナ、コンベヤというモデル。
 ● コンテンツ=内容  ● コンテナ=内容を納める媒体 ● コンベヤ=媒体の流通経路  という形で説明している。
* これから旧来の新聞を分類すると、
 コンテンツ=新聞記事
 コンテナ=新聞紙に印刷された記事(新聞紙そのもの)
 コンベヤ=新聞販売店 となるが、
  インターネットでニュースを読む層が増えてきた今は、
 コンテンツ=新聞記事
 コンテナ=新聞紙、またはニュースサイト
 コンベヤ=新聞販売店、またはインターネット  と変化してきているとのこと。
*  テレビだと、コンテンツ=番組、 コンテナ=テレビ、 コンベヤ=地上波、衛星放送、CATV。
 これがコンテンツ=番組、コンテナ=ユーチューブ、コンベヤ=インターネット、という形に移行し始めている。  
   (字数の関係でカット 09年05月17日) 
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2964、「未婚社会」
 2009年05月17日(日)
  先日のNHKの特番「未婚社会」をみたが、収入に対して女性がシビアな現状に驚いてしまった。。
 長期停滞景気などの時代背景が、そうさせているのだろう。 最近は男性の収入も少ない。
 平均収入が200万円の男性が一番多いが、女性が男性に望む最低年収は400万円。
 20代の独身男性で年収400万円以上は4分の1しかいない。男の非正社員の既婚率は正社員の約2分の1。
 30歳になっても、この時勢では給料が右上がりにはならないなら、互いにミスマッチになる。セクハラを恐れて職場の女性に
 近付けない男性の声もあった。それなら男は自分の趣味に没頭するしかない。女性の魅力も情報化で減少する。 
 法的に縛った現行の結婚制度に対する反対もあったが、頭でっかちの感も。ドイツの新しい制度が紹介されていたが特徴として
 (1)減税あり、(2)お互いに貞操の法的義務なし、(3)一方的に「結婚」を解消化が可能。 日本とは背景が違う。 
  未婚者増加の原因は「草食系男性の増加?」と、背景にワーキングプアの拡大がある。 
  いま、この国の若者の置かれている状況は深刻。 情報化社会も、結婚を躊躇する要因になっている。
  ・女性の立場からみれば、豊かな社会がTVなどを通して入ってくる。そうすれば「金のない男と苦労覚悟で
   何で結婚しなければ?」と疑問を持つのも当然。
  ・男の立場からしても、「高慢な女性とワザワザ結婚するより、好きな趣味の世界を保っていたい」もの。
  私たちの時代は、男は30歳まで、女は20歳半ばまで結婚するという世間的圧力があった。
  しかし、現在では就職戦線が氷河期の中で、収入が大きな壁になっている。
  渡辺淳一が昨日のモーニングショーで、草食系の現代の若者に対して「欲情の作法」を語っていた。
  ・心を込めずに褒めろ ・テスティングをしろ(触れ、誘え)・片っ端から口説け 等々。
  いちいち真面目に考えずにチャンスをつくれということ。 しつこくする、のは違う。
  一時代前なら当たり前のことが、現在では教訓になる。男諸君、先日の週刊誌の見出しに「独身男は、9歳も早死にする」
  とあった。 理想が高いのは解るが、自分を見つめなおして見切りをつけなさい!ということ。 
   しないよりは良い。  いや、どうか? 過半数は破綻するから、どうともいえないか〜?
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2600, 一点集中力
2008年05月17日(土)
  「一点集中力 」伊藤 真 (著)
 図書館で見つけた本だ。今さらと思ったが、借りて目を通してみた。著者が東大在学中に司法試験に合格。
その後、受験指導を始めたところ、人気講師になり、95年に「伊藤真の司法試験塾」を開設して「伊藤メソッド」と呼ばれる
革新的な勉強法を導入して、司法試験短期合格者の輩出全国トップクラスの実績を不動にしていると、著者履歴に書いてあった。 
その彼の恐らく最も基本が一点集中主義なのだから、説得力のある本であった。表紙裏の紹介文は簡単にー何かを成し遂げる人は、
みな「一点集中力」を持っているーである。まだ憶えているが、小学校の5年生になった時、ある姉が勉強法を教えてくれた。
「いい点数をとりたかったら、一教科だけとにかく集中して一度良い点数をとってみなさい。そうすると、他の科目も良い
点数がとれるようになるから」であった。 そこで算数に狙いをつけて一番になってみた。そうしたら、他の科目も何時の間に
取れるようになった。これも一点集中だったのだろう。とにかく、やはり借りて読んでよかった。もし受験期の子供がいるなら、
迷いなく、この本を買って与えることを勧めます。 私自身の一点集中は、
・この7年間は、この随想日記を欠かさず書き上げること。
・秘境ツアーに行き続けること。
・良い習慣を少しずつでも付け加えること。それ以外で捨てること。
  私も一点集中ということに関しては、知っていたつもり。
「錐の先の一点集中のエネルギー」「レンズで太陽光を一点に集中し発火させる」等々
 戦略・戦術のまず第一歩である。それを兵法でといたのが「孫子の兵法」である。
 まあ自分の話は、この辺にしておいて、
ーこの本の印象に残った部分を抜粋してみようー
 (字数の関係でカット 12年05月17日) 
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2007年05月17日(木)
2235, 男は女のどこを見るべきか  ー2     (゚∇^*)オハヨ♪
                 ー岩月 謙司 (著)
 第四章 女性は記憶をかいざんする がなかなか面白い。この歳になり初めて知らなかった女性の心奥の魔性の一部を
垣間見た思いがする。一番身近な家内の心の内の未知を幾つか知って驚いた箇所があった。
なるほど男の知恵と女の知恵は大きく違う。まあ、それが良いのだろう。
 *記憶の改ざんについて*
特に記憶の改ざんについて、なるほど思い当たる部分があまりにも多い。 女兄弟や女性の職場にいたこともあり、
多くの特性を把握していたつもりであったが、所詮は男の立場の理解でしかなかった。
 (字数の関係でカット 09年05月17日)


4810,Quirt <内向型人間の時代> ー1

2014年05月16日(金)

                <内向型人間の時代> スーザン・ケイン著
    * 内向型人間かどうかのチェックリスト
  私は、あまり外交的ではない。だから、事業創業の人生を選んだのである。
 この書の冒頭にあった内向型リストで、○✖▽で、チェックしてみた結果、
 20のうち、13が○、✖が3、どうだろう?▽が4で、明らかに内向的人間である。
 家内は明らかに外交的人間と思っていたが、○が15に、✖が3、▽が2で内向的人間には驚いた。
 専業主婦ということもあるが、驚きである。  ー以下、左が私、( )が私から見た家内である。
  ーまずはチェックリストからー    日本人、特に地方、北国は8〜9割は内向的人間? 
○グループよりも一対一の会話を好む      ○  (▽)
○文章のほうが自分を表現しやすい       ○  (✖)
○ひとりでいる時間を楽しめる         ○  (○)
○周りの人にくらべて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味がないほうだ  ○  (○)
○内容のない世間話は好きではないが、関心のある話題について深く話合うのが好きだ。○ (○)
○聞き上手だと言われる           ○   (▽)
○大きなリスクは冒さない          ✖   (○)
○邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ  ○   (○)
○誕生日はごく親しい友人一人か二人や、家族だけで祝いたい  ○  (○)
○物静かだ」「落ち着いている」と言われる。         ○  (○)

○仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めない。 ▽  (○)
○他人と衝突するのは嫌いだ                 ▽  (○)
○独力での作業で最大限の実力を発揮する。          ○  (○)
○考えてから話す傾向がある                 ○  (○)
○外出して活動したあとは、たとえそれが楽しい体験であっても消耗したと感じる。 ✖ (✖)
○かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。     ✖   (✖)
○忙しすぎる週末よりも、なにもすることがない週末を選ぶ   ○   (○)
○一度に複数のことをするのは楽しめない           ▽   (○)
○集中するのは簡単だ。                   ○   (○)
○授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式の方が好きだ。  ▽   (○)
 ▼ 意外なことに、アメリカ人でさえ、2〜3人に1人は、内向的人間という。事業人生を30年以上、たずさわり、
  人との接触が多い仕事もあって、外交的部分も多かった?反面、嫌な場面へ行かないで済む、自由もあった。
 逆に仕事上、内向的姿勢も求められたこともあった。 家内の友人に、極度の内向型人間がいて、その話を度々、
 聞くことがあった。内向的にも、暗いのと、明るいのがいる。冷たいのも、温みがあるのもいる。
  携帯パソコンが一般に普及した中、情報選択と決断が重要になっているが、この時代だからこそ内向型人間の時代、
 というのも、説得力がある。ヨガブームというが、週二回、26ヶ月、参加して、成るほど、内向き、精神性の時代が、
 実感できる。 高齢者は、どうであれ、内向きになりざるをえない。 ーつづく
・・・・・・
4443, ヨガと座禅の違い
2013年05月16日(木)
 毎週二回、スポーツジムの「ヨガ」に参加して14ヶ月、百回はゆうに超えているが、回数を重ねるたび、身体も、
気持ちも解れていく。学生時代に野狐禅だが、六日町の雲頓庵で持ち込んだ卒論の種本を読みながら、合間に広い禅室で独り
座禅を組んだことがあった。ただシーンとした中、「直ぐにでも止めようか」という気持ちと戦いながらのたった独りの座禅は、
永平寺での一瞬気持ちを緩めれば、禅僧に叩かれる状況より辛い。誰もいないため、直ぐ止めたい誘惑との闘いになる。
 ヨガで仰向けになり全身を弛緩する「死者のポーズ」があるが、これは座禅の禅定に似ている。飛行機内の座席で、
耳栓をして姿勢を正し、次々出てくる思いを泡のように流していると、何かのゾーンに入ってしまい、10時間以上の
時間がアッという間に過ぎてしまう。ヨガは、瞑想で心を解すのが目的で、禅は、その状況から仏の悟りに近づくことにある。
  ーヨガと座禅の違いをネットで調た中で、納得にいった3つをコピーしてみるー
 《人は疲れたときに目をつぶる事がある。そこで何かを思い浮かべながら瞑想にふける。この繰返しがヨガという。
 このヨガはもともと「軛(くびき)」ということで、牛に車を曳かせる腕木を指した。これが次第に神の力に人間を
結びつけることを意味するようになり、その修行法として智慧、愛、行、瞑想が重視された。一般にヨガと呼んでいるのは、
このうちの瞑想による神人合一の方法である。このヨガは紀元5世紀ごろには「ヨーガ・スートラ」を根本経典とした
ヨーガ派が独立してさかえ、完全性をそなえたひとつの霊魂を最高神としてあがめた。このヨガの修行法が仏教にも
広く取り入れられてきた。それが坐禅につながっていく。》
 《 ヨガと坐禅は、まず姿勢を正して、呼吸や五感(眼、耳、鼻、舌、身)を整え、誘惑をさけ、精神統一するのは
 どちらも同じ。ヨガは、これによって初めて超自然的な力が得られ、対して禅は「禅定」に深くかかわり、静けさを求める。
禅とは(ジャーナ、禅那)という梵語の音写で、釈尊の悟りを追体験して”身心脱落”し仏の境地になりきり坐禅をすること。
禅は「無」を標誘し功徳や利益を求めない。ひたすら足を組んで坐禅をすること。ヨガは神人合一して身心の健康を増進させる。》
 《ヨガは、インドに古くからあり、ウパニシャッドと言われる古代インドの哲学書にも出てくるもので、瞑想や呼吸法、
 座法などによって心身を鍛える事で、心の動きを抑制する方法として古くから用いられた。 後に、ヨーガ学派という
哲学集団によって、解脱への実践方法として体系化されていったと言われています。そして仏教においても、このヨガは
悟りへの実践方法として用いられ、釈尊も、瞑想によって真理を悟ったと言われますし、「瑜伽行」という修行法として
確立されました。現代のヨガも、もともとはそのインド独特の修行法をアレンジしたものですから、仏教の修行とヨガとは、
出発点は同じであると言えるでしょう。違いと言えば、仏教における修行は、さとりを目指す為の方法であり、現代のヨガは、
心身の健康維持のためのもの、という点でしょうか。座禅とヨガとの関係についてですが、ヨガは、座法や呼吸法を盛り込んだ、
精神統一の方法でありますし、「禅」といいますのは、「禅定」つまり精神統一をし、真理を観察することであって、
「座禅」は座法や呼吸法を用いた「禅定」一つの方法ですから、根本的な部分で同じ要素を持つものと言える。》
 ▼ ヨガは座禅と出発点が同じ「座法」「呼吸」を盛り込んだ精神統一の方法に対し、座禅は精神統一を通して真理を
  観察するもので、少し意味合いが違っている。腰痛持ちの私にとって、週二回のヨガは腰痛緩和の自己マッサージ治療。
  私の腰痛は完治はないが、仲良くするのは可能。その方法がヨガの中に多くある。手軽なベストの場が見つかったもの。
   たまたまー「早朝座禅」山折哲雄著ーを見つけ読んでいるが、数日前から、30分早く起き、早朝座禅を取り始めたが、
  これが良い。4時から7時までは、正にゴールデンタイム。60年以上溜まった毒出し、矯正の時間でもある。
・・・・・・
4069, お金と神 ー2
2012年05月16日(水)
   * 「お金=信用」と、「神=信仰」は同じようなもの  〜�     ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より
 お金の本質に関して多くの本を読んで考え続けてきた。ここで、お金と神の本質を同定し分かりやすく書いている。なるほど、人は
心情的に多くの金を持ちたがるはずである。とはいえ、それは心情である。傍に迷惑をかけない範囲で、自分の好きなことに時間をかけて
使うべきである。通帳にあるのは単なる数字の羅列。その辺りの知識がないと必ず後悔する、それが人生である。 ーまずは抜粋ー
≪ 一方、お金はどうか。人は物やサービスという実体を消費して、生活している。経済は、それらを効率よく手に入れるため発達してきた。
多種多様な物欲と技能を持つ人びとが、それぞれの能力を最大限発揮して、生活を物的に豊かにするためには、自分の得意な物を作って、
他人が得意とする生産物と交換すればよい。それによって、自給自足では望めなかった生活永準を実現することができる。そのための
交換の場が市場であり、お金は交換手段として生まれ発達してきた。 物々交換では自分の欲しい物を相手が持っているとともに、
自分も相手の欲しい物を持っていなければならない。経済学で言う、交換における「欲望の二重の一致」である。このとき、誰でも普遍的に
欲しがる物があれば、交換手段として最適である。二重の一致が一重で済むようになり、いつでも自分の欲しい物と交換できるからである。
そのため、宗教が雷や山から始まったように、お金もはじめは、それ自体が安定した実用価値を持つ米や金銀などであった。
しかし、交換機能だけを考えれば実用価値などいらず、信用だけで十分である。持ち運びや保管には、かえって実体として機能は邪魔になる。
そのため、金銀の代わりに大銀行の金銀預り証が紙幣としての役割を持ち始め、20世紀に入ってからは金銀との交換性とも切り離されて、
純粋に交換手段の不換紙幣が定着した。しかし何の価値のない紙幣を流通させるのに、信じ込ませることが必要である。それが信用である。≫
▼ 金も、社会的価値として信用出来るから流通するのである。それ(交換手段としていた金)が、いつの間にか、将来の不安を解消する手段に
 すり替わってしまっていることに人は気づかない。 金は使うべき時に使うのが道理ということ。 何で人は、お金を残して死ぬのだろう?
 死後に残された金は、あくまで死の不安の遺物。しかし交換手段の額が大きいほど、自由になる幅が広くなることは確か。が、それも幻想。
 やりたいことをするのが自由である。何がしたのかをハッキリさせて使ってこそ金(自由)の効用が生きてくる。 貯めたは貯めたで、
 金に未練を持ったまま死んでいく。つくづく、人間は頭が変である。自分の好きなことをして行蔵として残せばよいものを。
 100億円遺した人と、100億円使い果たした人と、どちらが面白かったかをみれば分かること。人間両手に持てるのは2千万まで!
 ・・・・・・・
3703, ジャズについて −3
2011年05月16日(月)
       ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
 アームストロングとバイダーベックといえば、私が学生時代の1960年代後半は現役で、ラジオやTVで見かけていた。
当時の部屋にはステレオがあり、アームストロングのレコードを何枚か持っていた。 この著書で、彼が集団即興演奏を、
ソロ中心のスタイルに変えた役割を果たしたことをしった。 当時の、あのシワガレ声は、今でも脳裏に焼きついている。
近々、近くの図書館に二人のCDを探しにいくことにした。あると思うが・・・
【  * 〔 シカゴ・スタイルの中心、アームストロングとバイダーベック 〕
 ジャズといえば4ピートのリズムを刻むのが大きな特徴だが、それが確立されたのは一九二〇年代のことである。
この時代、腕の立つミュージシャンが集まったのがシカゴだった。シカゴを代表するジャズメンといえば、当時は若きコルネット奏者として
ニューオリンズからやってきたルイ・アームストロング(1901〜1971)である。 彼がジャズ史上に残した最大の功績は、それまでの
ジャズの集団即興演奏スタイルを、ソロ中心のスタイルに変えたことだ。他のミュージシャンもこの時期、同じ方向を目指していたが、
アームストロングの才能は圧倒的だった。1925年には自らのバンド「ホット・ファイブ」を結成し、やがて楽器をトランペットに持ち変え、
「ウエスト・エンド・ブルース」をはじめキラ星のごとくジャズ史上に輝く名演奏を残していく。 同時に、独特のしわがれ声に深い情感を
たたえたボーカルも評判となり、1926年の、「ヒービー・ジービーズ」では軽快なスキャットボーカルを初めて披露した。
30年代初めにはヨーロッパ・ツアーを敢行し、‘世界のサッチモ’となる。第二次大戦後はビッグバンド演奏をバックに従えた
エンターティナーとして、もはやジャズの枠にとらわれない活動を展開する。 もっとも、初期ジャズの優れたミュージシャンは、
黒人ばかりとは限らない。 1919年、アイオワ州ダヴェンポート。ドイツ移民の一家の次男坊が、ディキシーランド・ジャズの
レコード(兄貴の除隊みやげ)に夢中になっていた。やがて彼は、親兄弟の反対を押し切り、シカゴ周辺でコルネット奏者として
身を立てることになる。 この白人男、ビックス・バイダーベック(1903〜、93、)こそ、ルイ・アームストロ・ングに負けず劣らず、
多くの後進に影響を与えた天才ジャズメンである。 これこそ、白人ジャズマンの始祖である。ユニークなアーティストである
ライ・クーダーのアルバム『ジャズ』でも、、インナ・ミスト」「きらめき」と、彼が残こしてくれた美しい音楽を聴くことができる。・・】
  ▲ 歴史はクラシックと比べ、短いが、黒人の虐げられた歴史が背景にあるため、その奥行きは深い。
    その背景を、知って聴くと聴かないとは、雲泥の差が出てくる。特に日本の戦後は、アメリカ文化に大きな影響を浮けた。
    プロ野球に、ハリウッド、そして、ジャズにブルース。特に私の青春時代は、その最たるものだった。
 ・・・・・・・・
3338, 2011年新聞・テレビ消滅  −1
2010年05月16日(日)
  「2011年新聞・テレビ消滅 」 佐々木 俊尚 (著)
 プロローグからして、刺激的な内容である。
≪・・最初に言っておこう。2008年からアメリカで始った新聞業界の地滑り的な崩壊は、3年遅れの2011年、日本でも起こる。
 アメリカで起こった現象は、ほぼ日本で3年遅れで起きている。 それからして来年の2011年は、テレビ業界にとって二つの
 大きなターニングポイントの年である。アナログ波の停止による完全地デジ化と、情報通信法の施行だ。この二つの転回点によって、
 これまでの垂直統合モデルが剥ぎ取られ、電波利権はなんの意味をもたなくなり、劇的な業界構造転換の波へとさらされることになる。 
 何社かは破綻し、業界編成が起こるかもしれない。もちろんそれ以降も、企業としての新聞の一部は生き残っていくだろう。
 しかし、そうやっていきのびた新聞社やTV局は、もうマスメディアとはいえない別の存在になっているだろう。
 その先に何が待ち受けているのだろうか?≫
  ▼ この本を読んで尚のこと、日本でもかならず起きると確信してしまった。 現在、百貨店を見ればわかること。
 誰が5年前に伊勢丹が三越を、大丸が松坂屋を、ヨーカ堂が西武・ソゴウを、阪急が阪神を、救済合併をするとは 思ってもいなかった。
 さらに数年内に、さらに高島屋も含めた再統合が始る。 その後塵がマスコミ業界で始る。さらに、iPadなどのタブレット式パソコンの
 普及が、紙からの移行を劇的に早めることになり、それがフリー (限りない無料化)を推し進めることになる。 著者は、
「これはマスコミのぬるま湯体質とか金融危機が原因でもない。大規模スーパーやビールメーカーの価格決定権の喪失ことではない」という。 
 現在、日本いや世界で起こっている行き詰まりと原因が同じような気がする。 TV局の最も大きな果実であるTV広告はネットなどの
 プラットフォームに奪われる。コンテンツ企業としては現在の制作会社と同程度ぐらいまで縮小せざるをえなくなる。それでは、新聞社は?
 というと、無料モデルに呑み込まれ、コンテンツを有料化していくことが、ほぼ不可能になってきており、この業界の未来は最も暗い。 
 電子書籍のプラットフォームへと参戦する選択肢があるが、ここには、アマゾンやキンドルという強敵が控えている。     ーつづく
・・・・・・・・                                        
2963, ディズニーランドとディナーショー
 2009年05月16日(土)
 先日、地元長岡の300人のディナーショーについて書いた。
「直感的にディナーショーの会場の雰囲気がディズニーランドと感じたが何故?」と考えてみた。 ディズニーランドは遊園地。 
家族、友人が連れ立って浮世から離れ異次元の世界を楽しむ幻想の世界。その辺がディナーショーと同じと感じたのだろう。
女性達が最高の御洒落をし、仮想(仮装)を楽しむところが酷似している。ディズニーランドの御人形に自分がなってしまうところがミソ。 
その点では、ベニスの仮面舞踏会の方に近いか。一万円でディナー付きでショーを楽しんだ上に、互いの着飾った姿を楽しめるのだから、
これはこれで良い。それも小さな地方の街で、300人も集合したハレの世界である。最近、「共同幻想」という論を知った。
そこに「共同幻想、他幻想、自己幻想」というのがあった。全てが幻想でしかないなら、仮装をすれば良いのである。 
服装は、第二の皮膚というなら、可能な限り良いものを着ればよい。虚飾も、それまた「虚飾した自分」である。
全てが元々幻想でしかないのだから。ただ、解った上で幻想を楽しむことだ。人生は楽しめるうちに楽しんでおくこと。 
また、笑えるうちに笑っておくことである。 そう思えるようになったのは、歳をとったということだろうか?
聞くところによると、300人のディナーショーは、地元では珍しいという。あれだけの女性を集めるというと、色いろな
難しい点があるはず。あの人と同席は嫌だとか、隅は嫌だとか、女は難しい。ディズニーランドというより、ズーの世界に近い。
それも固定化された城下街のこと。 私の知らないことだが、キメの細かいカースト制度(身分社会)があるのだろう。
誰々は銀行の重役とか、お医者様の奥様とか、今はときめく新興ソフト会社の社長婦人とか。
その渦巻く社会のアッパーが凝縮した世界を「御伽話」として、現に見ることができたのである。
まあ、そういうこと。 ミッキーマウスは、チャップリンからきているというが・・・
・・・・・・・・・
2599, 楽天主義とは
 2008年05月16日(金)
こういう先行き不安定の時、せめて気持ちは楽天的でなければせっかくの娑婆、勿体ないではないかと思う日々である。 
そこで楽天主義を フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみた。
≪ 楽天主義とは、optimismの訳語のひとつ。哲学上では最善説と訳される。対義語は悲観主義。ライプニッツの予定調和を主張する
「最善説」に由来する。ライプニッツは、現実世界は可能なすべての世界の中で、最善のものであると考えた。
かれはまず想定可能なすべての世界を考える。しかし、このうち、内部に論理的な矛盾を孕む世界はそもそも現実化可能ではない。
そこで、この共可能的な事象の組み合わせからなる複数の可能な世界のうち、どのような世界が(神によって)実現されたかが問題。
(字数制限のためカット 2014年5月16日) 


4809,ある明治女性の世界一周日記

2014年05月15日(木)

                「ある明治女性の世界一周日記―日本初の海外団体旅行」野村 みち (著)
 何気なく、図書館内を彷徨っていたら、この本が目につき借りてきたが、現在の朝のNHKの連ドラの
「花子とアン」の、出身校の東洋英和女学校出身とあったことも借りる動機にもなった。そして、読んでみて、
面白いこと。ランダムに、どのページを開いても、その日その日の、本人の視線が、そのまま直に伝わる。
  ーAmazonの内容紹介よりー
「母親からの厳しい「良妻賢母」教育と共に、東洋英和女学校でキリスト教と英語という新しい教育を受けた
明治の女性、野村みち。豊かな感性と柔軟性で、真摯に、率直な心情を綴った世界旅行記。」
 ーレビューよりー
《 元横浜YWCA会長を務めた野村みちの「世界一周日記」。若い頃から洋行に憧れを持っていたことが書かれていた。
その「世界一周」は、1908年3月18日から96日間にかけて行われた。冒頭に旅のルートが掲載してあり、米太平洋郵船
会社のモンゴリア号で横浜港を出港し、ハワイを経由し、サンフランシスコ、ソルトレークシティ、シカゴ、ボストン、
ワシントン、ニューヨーク、英国ホワイトスターライン社のセドリック号で大西洋を渡り、ロンドン、パリ、ローマ、
ナポリ、ヴェネチア、ベルリン、サンクトペテルブルク、モスクワ、シベリア鉄道を利用してウラジオストック、敦賀に
帰ってくるという世界一周旅行です。一行54名、女性3人。
 筆者の夫は、横浜の実業家・野村洋三氏で、外国人相手の古美術商のサムライ商会を営んでいました。
本町通りにあったサムライ商会は横浜の古い写真集を見ていると必ず登場するようなエキゾチックでユニークな
外観をしています。258ページに写真が掲載してありますので。筆者の家族の写真や世界一周時の集合写真も掲載してあり、
文章だけでなく当時のイメージが理解できるようになっていました。旅行中の装いも和装で通す意味合いも書いてあり、
このあたりに聡明さが伺えます。アメリカのルーズベルト大統領との謁見や、パリで名バイオリニストのサラサーテの
演奏を聞いたことも記されています。
 巻末に番外編として「野村みちとは」と題する生涯を、北川原美乃さんが25ページにわたって紹介していました。
戦後すぐマッカーサーが占領下の日本で初めて接した民間人が野村夫妻だったことも書いてあります。そのような生き方を
貫いた女性であることが分かる書でした。》
 ▼ 100年前の96日間の世界一周日記、そこに女性が3人、加わっての旅行、それは大変だっと思われるが、幕末、
  明治初期の一女性の目で見た当時の、外国への視線が面白い。長年にわたり、多くの人が様ざまな経験をして記録に
 残されているのに、改めて感心する。情報端末がノートしかない時代に、その人の記録が逆に、生々しさとして、
 後世の者の心に訴える。横浜で外国人相手の古物商をしていたため、カルチャーショックは、さほど、無かったようだが、
 そうでなかったら、その参加自体してなかっただろう。
  ところで、居間の座椅子の横に、二年以上も、「世界の旅行記101」が置いてあり、毎日、数分間、読んでいる。
 2〜3ページに要約した101の旅行記が、それぞれ何人かが分担して書いてある。ところが、どれもこれも、重いため、
 せいぜい、一日、数分しか読めないが、それでも門前の小僧で、少しずつ、階段を下りるように、何とか読んでいる。 
 それらから比べれば、ツアーで内容が軽いが、それ故に、親近感がわいてくる。 世界は広く、それぞれが深い!
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4442, 閑話小題 ーリタイア後の幸せ度
2013年05月15日(水)
   * リタイア後の幸せ度
 退職後の幸せ度は、一番高いのは創業者、二番目は違う会社で勤めている人、三番目が、そのまま再雇用している人、
最後は、そのままリタイアした人、という調査結果がある。一番高いのが創業者は自分が、そうだから分かる。それも、
私のように会社を倒産させた人がいうと、強がりにように聞こえるだろうが、複雑な実感である。
挫折感より遥かに達成感が強いことは確かである。 自己完結してキレイサッパリするから。意外なのは、完全リタイア組の
幸福度が一番低いこと。長年かけたライフワークを持ってないためだろう。「自分が、まだ有用の存在でいたい」のか。
後は、解釈になる。収入の関係もあるのだろう。幸せの感じ方は様ざま。 鼻歌でスキップしていくしかない?
そのためには、少々のお金と、知恵と、意欲が必要である。一番の問題は、やはりお金に行き当たるのか。
   * 節目を超えたようだ!
 昨日、もう一つのブログ《バードウォッチ》に。「一月ほど前か、現在の自分と娑婆に対し、底知れぬ可笑しさを感じて、
知らずに独り腹から笑っていた。これで節目を乗り越えたようだ。こういうのをアップスケール(脱皮)という。独り万歳!
あとは、心置きなく流しの遊びの世界で我を忘れればよい。割り切るのに、やはり二年。節目としての4分割の最後のシリーズ。 
心の還暦になる」と書いた。50歳になった時が、これかと思ったが・・、もう一破壊が必要だったようだ。そして少し楽しめ!
ということになる。まだまだ重いし、最近、何事にも面倒が先に立つ。ただ、バイアスが日ごと取れて好奇心が強くなっている。
遊びに対して、まだまだ修行が足りないようだ。 「節目を打て」というが、なるほどである。
 (後記)ところで偶然だが、去年の以下の文章が、これに連動していた。面白いもの。決して傷は浅くないということか!

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4068, 疲れたら憩がよい、彼等もまた、遠くにはゆくまえ!
2012年05月15日(火)
   * 挫折について            ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
≪「人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか」
(太宰治・〈走れメロス〉)という科白もある。これなぞは負の体験こそ人間に正当な自負心を与えうる唯一の立脚点ではないかと、
負をプラスに転化しているのだ。・・・たえず自分の弱さや、醜さや、愚かさを思い知らされているというが、それがしかし、
自分というものを知る第一歩なんだ。そして自分の悩みを知ることを通じて以外にどうして他人を知ることが出来るのだろう。
その点からいえば君の悩みは、まだ浅すぎるかもしれない。自分はもっともっと悩むべきだ、と考えてみる必要があるかもしれない。
「ひょっとして、人間が愛するのは、太平無事だけではないかもしれないではないか? 人間が苦痛をも同程度に愛することだって、
ありうるわけだ。いや、人間がときとして、恐ろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることも、間違いなく事実である。」
(ドフトエフスキー「地下室の手記」より) ・・・世に文豪と呼ばれるほどの人びとの書いたものを読めば納得できよう。
彼らが作品に描いてみせた人間的苦悩の深さは、とても凡人には耐え難いほどだが、そういう深い苦しみ苦悩を通じてこそ彼らは、
その反対に光り輝く美や愛や幸福やを、あれだけ深く生き生きと感じることができたのだった。・・・
「疲れたら憩がよい、彼等もまた、遠くにはゆくまえ!」(尾崎一雄「痩せた雄鶏」) おそらく挫折して世に出れなかった日々、
尾崎さん自身、この言葉を自分に言い聞かせ、じっと耐えていたのだろうと思う。 ≫
 ▼「死ぬほど苦しんだと言い切れる自覚がプライドの立脚点」には考えさせられる。負の体験を現在しているが、
  これをプラスに転化にするには、結果から、原因を徹底的に見つめなければならない。まだ、悩みが足りないのは分かっている。
  しかし、盛んだった日々の光りがあれば闇もあって当然と思ってしまう。幸せも、不幸も解釈次第。死んでしまえば、全てチャラ!
  だから人生は面白い。負の節目が挫折になるが、プラスの節目もある。しかしマイナスの節目ほど次のステップには効果的である。
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3702, 自己を見つめる −21
2011年05月15日(日)
  * 死について ー�                  「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)  
【 元気旺盛のただなかで、突如、不治の病を宣告された人は、初めは死を、不条理な運命として呪誼し、憎悪し、拒否するが、
次第にやがて、その苛酷な宿命を受容して、死を覚悟し、承認するようになるという心理学的研究も存在する。
人間が死と立ち向かう心理的状況は、種々様々である。 死を迎え入れ、その定めを覚悟し、その準備を整える用意は、
憂き世の終末に向けて身辺を整理することを含む。 そこには、種々雑多な俗世間的な事柄が絡みつくが、それらはみな、
老境の責務だとも言える。 ありうべき介護や臨終、葬儀やさまざまな後始末、それらをすべて、何らかの仕方で見越しながら、
誰もが、終末に身構えざるをえないのが、死にまといつく憂き世のしがらみである。
 たいていの日本人なら、死んだら、草場の蔭から子孫を見守り、お盆には憂き世に帰り、生者と交わることを望み、しかし
やがて年月が経てぱ、往時茫々、すべては諸行無常のなかに消え去ってゆくのがこの世の定めだとして、それを、詮方ないことと
心得る諦念を、心中密かに保持しているであろう。 あるいは、永遠の生命の流れとしての浄土に、自己が繋がり、久遠の仏性に
救い上げられるという強い信仰をもつ人もあるかもしれない。 さらにはまた、西洋からの宗教思想の影響のもとで、死に際して、
神の恩寵と審判が下され、裁きが行われるという終末観を抱き、神に救済されることを祈って、日夜、信仰と精進に励んで生きる、
敬謙な人々も存在するであろう。 死という終わりに直面する私たちが抱くさまざまな不安や、懐疑や、憂悶や、希望や、希求や、
欣求には、果てしがない。 
 それらの種々の想念と気遣いのすべては、いかに人間が、死の影のもとに、蜉蝣のような自己の身の上を、儚いながらも、
充実した有意義なものとして構築して生きようとするかという、胸痛む事実を、告知している。人間は、徹頭徹尾、
死の影のもとに生きる存在者なのである。 この憂悶にみちた現実が、人間の生存の真実である。】
 ▼ 結局は、大部分の人にとって壮絶な死に際が待ち構えているが、敢えて知らないふりをし、日々の細事に気を紛らわせるしかない。
  それも、物心とも準備を怠ってきた人は、ただ動転し、目先を辛うじて生きるしかない。その結果、事故や、争いに巻き込まれ、
  老醜を曝す結果となりがちでなる。それは、家系とか、持っている体質にも関係してくる。やはり人の死は大方悲惨と覚悟をすべき。
  問題は、当の本人が、それに独り直面し、ギリギリの極みの中で、苦痛の中で最期を向かえ、意識が消えていくことである。
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3337, サイバーとは超格差社会
2010年05月15日(土)
 ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著)  ー8
 * サイバーとは超格差社会
  ー まずは、その部分を抜粋してみる ー  P−236
 私は過去のコラムで「サイバーとは超格差社会」と書いたが、一方でこれは持たざる者、立場の弱い者に大きな恩恵を
もたらすものだとも考えている。 その格差といえば情報と知恵の差である。仮に判らないことがあっても質問できる双方向性。 
実はこれこそがサイバーの最大の特徴でもある。そこから自然にコミュニティが生まれ、互いのノウハウを交換しあうことによって
更に自らを高めることができる。電子町内会の誕生である。 こうしたことも、かつてなかったスタイルの「恩恵」であろう。
サイバー社会の格差を埋めるのもまたサイバーなのである。 この事実に我々はもっと注目すべきだ。
なのに現状、インターネット上の最大の産業がポルノ、またはポルノまがいのコンテンツになっているのは情けない話である。
「あらゆる技術は軍事目的で開発され、ポルノ目的で広まる」ともいうから(写真もビデオも、もちろんインターネットもそう)、
ある程度は仕方がないことなのかなとも思う。 しかしインターネットが我々の身近なものに降りてきて10年あまり、
そろそろ次の段階にステップアップすべきなのではないか。
 「次の段階」、それは前述したように人々が学び、情報武装して賢明な市民となり、甘言を弄する政府の嘘を見抜き、
健康で文化的な生活を生涯に渡って維持することである。 そして、そのためにこそサイバーを有効活用することだ。
サイバー社会が人に恩恵をもたらすものである限り、私はそこを自らの事業ドメインとして関わり続けていこうと考えている。
 ▼ 現在、サイバーに対してマイナーの視点で論じる傾向があるが、負け犬の遠吠えでしかない。
弱い立場の者に大きな恩恵をもたらすが問題は知恵である。 知恵と才覚があれば、その中で格差を埋めることが可能である。 
そのためには哲学の基礎も必要になる。 哲学をもってネットを使えるかどうかで、その差は大きく左右する。
考えないでネットにハマッタら、底なしのバカ?になる。 HP・ブログに10年前に気持ちを集中してなかったら、
良し悪しは別にして現在の世界観とは全く違っていたはず。これからiPadと簡易ブログのツイッターが爆発的に普及した時に、
この蓄積は何ものにも変えがたくなる。 知らないうちにサイバーに移動していたことになる。
    ますます情報=通貨の度合いが強くなる。恐慌も含めて、こんな時代が見れるとは思ってみなかった!
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2962,若者たちは今 −2
2009年05月15日(金)
 −若者が危ない!ー
いつの時代にも「今時の若者は」と言われてきたが、少し前の経済週刊誌に「現在の20歳代が危ない」という特集があった。
その特徴として、
・上昇志向なし             ・10歳代で「失われた10年」を経験
・二年で3割離職            ・20歳代前半の43パーセントが非正規社員
・親との同居率6割           ・職場に不満は過半数
・海外志向のない若者が半数    ・あまりモノを買いたがらない 等々である。
 今さらだが、彼らには弱肉強食の意識が欠落、若いときに辛い体験をして、それをバネにして上を目指そう
という気持ちが欠落している。韓国、中国などの若者に比べて、全く人生に対する姿勢が劣っているようだ。 
例の「ゆとり教育の犠牲者」なのである。 こういうマイナスの回転に引きこまれた世代は、何処までもマイナスが
ついて回るのだから、気の毒といえば気の毒。我われの世代が逆にプラスの回転だったから、それが鮮明に見えるのである。
  (以下、字数の関係でカット11年05月15日)
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2598, 中国の地震について
 2008年05月15日(木)
中国の地震は、死者行方不明は十万人以上の可能性も出てきた。産経新聞が行方不明9万人と報道していたが、
まだ真偽は解らない。中越、中越沖地震がマグネチュードが6・8、今回の中国の地震が、7.8 。 
震度が一違うと32倍というから、いかに大きな地震だったか!が推測できる。
32年前の文革真っ只中に24万人の死者の地震があったというから、日本の最近の地震とは規模が違う。
この地震もも、マグネチュードが7・8だったという。最近は誰もがデジカメか携帯電話のカメラや、ビデを撮ってしまうから
情報管制は難しい。連日、生々しい写真が出始めいる。スマトラ沖地震と、ミャンマーのサイクロン、そして、
この地震と大規模の災害が続いている。それも中国にとって華やかなオリンピックの聖火リレーの最中に。
  (以下、字数の関係でカット09年05月15日)
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2007年05月15日(火)
2233, しお壷の匙  ー2        (´∀`σ)σ オハYO!
この中の「銭金について」の上司の言葉と、本人の動揺が面白い! 「学生気分が抜けない頭でっかち」を注意された時の
カルチャーショック。誰もが一度通らなければならない精神的脱皮の時である。働くとは何か?金を稼ぐことである。
生きるためである。そして、その中に生甲斐を見出していくことである。一度、徹底的に自分を破壊して、金を稼ぐプロとして
再生しなければならない。これが三年目にくるか、十年目にくるか、それぞれ違うだろうが。
  ーまずは、その部分を抜粋してみるー
「・・ある日、私は上司に呼ばれ、きみはまだ学生気分が抜けていないんじゃないか、お世辞、お愛想の言い方がへただ、
と注意された。突然のことに当惑していると、上司は自分の机の抽出しから一冊の本を取り出し、いきない「これは何だッ。」
と呶鳴った。見れば、それは私の本だった。当時、新潮文庫の一冊として上板された、プラトーン・田中美知太郎訳
「ソークラテースの弁明」であった。私は己れを慰めるためにそれを書店で求め、通勤の往き帰りに電車のなかで読んでいた。 
上司はそれを私の机の中から取り出し、咎めているのだった。「俺はお前が週刊誌を読んでいる姿、見たことねえぞ。
これは何だ。こんなもの読みやがって。こんなもの読んでて、金に頭を下げられると思ってんのか。人間の心は捨てろ。
そうすれば、どんなことだって平気で出来る。人におべんちゃらを言うことだって、人を騙すことだって平気で出来る。
俺たちは人に頭を下げることによって、飯を喰ってんじゃねえぞ。金に頭を下げることによって、喰ってるんだ。
いいか。お前はその屈辱にもよう堪えん男じゃないか。金に頭を下げることのありがたさを知ったら、どんなことだって出来る。
屈辱に堪えること、それがお前の喰う飯の味だ。お前だって、金なしには飯が喰えん男じゃねえか。
その金は誰からもらうっているんだ。おう、どんな別嬪も便所へ行ったら、パンツを脱いでしゃがむんだ。
人間の心を捨てろ。いいか。」 ・・・  私にあっては、この小事件は大きな意味・価値を持っていた。
  (以下、字数の関係でカット11年05月15日)
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2006年05月15日(月)
1868, ブログは社会革命ー 2   おはよ?!(*^ワ^*)i


4808,閑話小題 ー年寄りの愚痴

2014年05月14日(水)

   * 年寄りの愚痴
 親戚の法事で、いつも愚痴を言っている一回り少し年上の人がいる。今回も、前回同様に酒が入ると愚痴が始まった。
今回は「昔は良かった!」から始まり、山本五十六の家系の話から、掛軸の絵の知識の披露と、延々と講釈が続いた。
年を重ねると知らぬ間にクドくなるのは、自分も同じ? 長く生きてきたためだろうが、これは合せ鏡で、自身を思いやる
しかない。酒もまわっていたため、私も二度「本当に昔が良かったですか?」と、クドく話に割り込んでいた。
 愚痴は、老人性うつ症の特徴の一つの現れ。 そこでネットで検索してみると、
《 65歳以上の高齢者が全人口の23.1%(平成22年)を占める高齢社会になって、当然ながら老人性うつ病も増えてきた。
高齢者のうつ病には若年層で発症するのと比べると、いくつか特徴があります。若年期、壮年期に発症する場合には患者の
口数は少なくなり、行動はむしろ不活発にみえますが、高齢者の場合では逆によくしゃべり落着きのない印象を与える。
若年期のうつ病では身体的な症状を強く訴える場合は、仮面うつ病と診断されますが、同じように老人性うつ病でも身体の
不調を訴える傾向があります。うつ病を発症していなくても老年期には、個人差はあるにしろ変化を嫌い、意欲を失い、
適応力の低下、周囲への関心の喪失という行動的、心理的な面でいろいろな変化が起きやすい時期です。
特に注意したいのは、老化に伴って性格が変わっていく点です。 一般的傾向をまとめてみますと、
①自己中心的になる  ②疑い深くなる  ③何にでも口や手を出したがる  ④保守的になる
⑤自分の健康を必要以上に心配する  ⑥愚痴が多くなる  ⑦感動しなくなる          
⑧気分や気持ちの切り換えがスムーズにできなくなる  ⑨ストレスにうまく対応できなくなる ・・・》
▼ 肉体的衰えが、精神の衰えを加速し、それがウツ症状をきたす要因になる。週に5日は運動ジムに通い、
1〜2時間のミニサイクリングをしているので、何とか落ちこみそうな気持ちを保っているが、この楽しみと、
週一の映画館通いと、自宅のドラマや映画の鑑賞と、この随想日記を書上げる面白味が無ければ、おそらく、
ウツ症になっているはず。先ほどの9つの老人の傾向、どれもこれも、日々、強くなっている現象である。
これが連れ合いにも起こり、その矛先が自分に向かってくるため、二重、三重苦になる。で、愚痴が深くなる。
しかし、老いてからの連れ合いの喪失は、それより遥かに厳しくなる。そして、攻撃先を探し出し・・・
意地悪ばあさん、じんさんになっていく。 「転がる石には苔がつかない」で、転げまわるしかないのか?
・・・・・・
4441, 四つの時間
2013年05月14日(火)              
   * 四分割の時間割         「早朝坐禅―凛とした生活のすすめ 」山折 哲雄 (著)
  宗教学者の著者が、この本で勧めている生活が奇しくも私の時間割と酷似していて驚いた。
 �デカルトの時間、�イエスの時間、�ブッダの時間、�涅槃の時間、の四分割だが命名がユニークでよい。( )は、私。
�のデカルトの時間は、早朝座禅と読書や執筆などに充てる時間。(4時半〜6時にブログに掲載する文の添削と完成、
 そしてアップ。6時過ぎから7時20分がミニ・サイクリングになる。そして朝食、新聞、風呂で9時になる)
�のイエスの時間。著者が会社勤めをしていた時は、仕事に集中。あたかもゴルゴタの丘を十字架を背負い歩くような時間。
(9時過ぎから12時近くは書斎で、読書か、翌日のブログに掲載する文章の下書きなど音楽を聴きながら、独り沈潜する)
�のブッダの時間。午前中に集中した緊張から解放された時間。(一時間ほどTVを見ながら昼飯した後、スポーツジムへ。
 正午から15時が目安になる。帰りに図書館かスーパーか蔦屋に立ち寄り15時半位に帰宅)
�の涅槃の時間。仕事も終わり、疲れきってしまい、後は晩酌をしたり野球中継をみたり。そして、熟睡。
(私の涅槃の時間は16時から21時になるが、TVの前で、野球、大相撲、録画のドラマか、書斎で読書、そして晩酌)
早朝、午前、午後、夕刻・夜の四分割になるが、書き出してみると価値の高い順に坂を下りるように世俗化するのが見てとれる。
この四分割、人生にも当てはめることが出来る。0〜19、20〜39、40〜59、60歳以上の、20年一区切り。 か、25年一区切り。
こうみると、どうも私は��が混同していたようだ。ゴルゴダの丘も大変だったが。そして、涅槃の時節に御隠居で、納得。
 4分割を更に8分割すると「時間割」になるので、曖昧に二つ分けておくと良い。成るほど、老後への長期間の準備が必要だ。
・・・・・・
4067, つれづれに ー悲観的すぎるのか
2012年05月14日(月)
 先日、一年半ぶりに木鶏クラブの会に出席した。この会の何人かは、私のブログを見てくれているが、自分でも気にしていた、
「最近の世界と日本経済の私の見方が悲観的過ぎるのでは」と指摘をされた。読者の多くは、「一年前に会社を潰したため、悲観的に
なっているだろう」と予感をしていたが、案の定。その指摘に対して、「自分の事業の資産デフレと価格デフレの実情を実際に見て、
右下がりの移動年計グラフを10年間にわたって見てきた裏ずけがある。世界の株価の総額が4千兆円というが、その十数倍=6京円の
不良債権が銀行、企業、政府の金庫の中に隠されている。これは、何かのキッカケで現れ出る日がくる。私の事業に早めに来たので、
会社をたたんだが、これから世界恐慌というカタチで、大荒れになるのは当然の理。決して、悲観的過ぎないと・・
日本政府の財政を見れば分かるはず、この有様をみて、悲観的に思わないほうが変である。」等々、の話になった。
フランスも、ギリシャも、今回の選挙で、国民は緊縮政策に「ノー」の答えを出した。 綺麗事をいい国民におもねいた野党の毒入りの
饅頭の政策に傾いてしまった。それと現在の民主党と自民党の一部の連中の、囁きは同じ。 10年前、5年前に、現在の事態を予測して、
警告を発した人は、当時は変人扱いをされていた。5年先から現在に戻ってきて、警告を発したら、私が言い続けてきたことなど、
大甘の論になると確信している。5年後は世界恐慌の渦中にあり、銀行閉鎖とか、食料の配給もありえる話。5年前、リーマンショックや、
東北大震災と原発事故を想像できただろうか。両者とも、500年とも千年に一度の大事件である。目先の応急処理で平静を保っているが、
株式の大暴落やハイパーインフレなど大クラッシュが起きて当然。 リーマンショックという大地震は起きてしまったのである。
その後の津波は1〜2年以内に押し寄せてくる。ただ、時間の問題でしかない。地方経済は半値八掛が現実。現場は沈黙しているが。
 ところで移動統計グラフとは、月単位とすると、毎月、去年の翌月から今月までの年間の売上合計をとりグラフ化したもの。それをみると、
一年単位の趨勢が見えてくる。この右下がり傾向が10年以上も続いているのが地方の現状。 それで6〜7割減といえば・・ 
一番先に現れるのが駅周辺のホテル、居酒屋、タクシー業界。 さらに携帯、パソコンなどの情報化が、消費者のシビアな選択を加速、
競争を激化させている。その結果としてデフレが拍車。この中で供給サイドの体力は大きく削ぎ落とされている。 悲観的になるわ〜
 ・・・・・・・
3701, ジャズについて −2
2011年05月14日(土)
            ー 三枝成彰著「音楽の本」より
【 * スピリチュアル、ブルース、ラクタイム……ジャズのルーツは黒人音楽。 ニューオリンズのブラスバンドだけがジャズの
母体となったわけではない。二百年にわたるアメリカ黒人の悲惨な奴隷生活の中から自然に沸き起こってきた‘魂の歌’の営々たる
蓄積が、今世紀初頭にジャズという人種の垣根を超えた新しい大衆音楽として花開いた、ともいえるだろう。
 そうした‘魂の歌’が、ワーク・ソング(労働歌)であり、スピリチュアル(黒人霊歌)であり、ブルースだった。
ワーク・ソングとは、その名の通り、長く単純な肉体労働の最中、少しでも気を紛らせるために、あるいは仲間主体となって
その苦行を乗り切るために歌った歌のことである。リーダーが即興で一声うなると、それ応じて全員がコーラスで応じるスタイルだった。
これは、たとえばかって日本の酒つくりで、極寒の酒造りの中で杜氏たちが作業中に歌った‘元摺り歌"などにも通じるものがある。
 ワーク・ソングはなにも黒人特有のものではなく、世界のいたるところでかつては見られた労働者の風習だったといえるだろう。
スピリチュアルは、西洋キリスト教の賛美歌などに影響を受けた黒人独特の宗教歌で、これは教会音楽を経由し、ゴスペルという形で
現代に継承されている。
 ブルースについては、他のページでも融れるが、奴蒙の身分から解放された黒人ひとりひとりが、差別や貧困に苦しむ私生活の哀歓を
個人的な感情を込めて歌ったものといっていいだろう。そして、そのブルースが持っていたミとシの音撰半音下がる「ブルーノート」と
呼ばれる音階構造は、とりわけジャズの発生に大きな影響を及ぼした。
 また、黒人とクレオールの融合は、ラグタイムというリズミカルな音楽を生んだ。ラグクイムはクラシックと同じように楽譜遍りに
演奏されるピアノ音楽で、即興性を大切な要素とするジャズとは直接の共通点はないが、十九憧紀後半から二十世紀初頭にかけて
流行した音楽で、これもまたジャズの源流となった音楽の一スタイルであることは間達いない。いずれにせよ、一方には
黒人の魂の歌やリズムがあり、他方には、クレオールからもたらされたといってよいラグタイムとブラスバンドがあった。】
 ▼ ジャズのルーツはブルースやワーク・ソングなどの二百年にわたるアメリカ黒人の悲惨な奴隷生活の中から沸き起こってきた
 ‘魂の歌’の営々たる蓄積が背景にあると知って聞くと、また違って聞こえてくる。特にブルースが、ジャズの発生に大きな
  影響を及ぼしていると、この本で知った。ジャズに奥底には、黒人の差別と貧困の長年の哀歓がある。
  その辺を捉えて聴くと、今まで何気なく聴いていたリズムの奥にあるスピリットを少しは感じるようになった。
 ・・・・・・・
3336, 2010年6の月、500万人が夜逃げする
 2010年05月14日(金)
 昨日の朝の書籍の新聞広告をみていると、「2010年6の月、500万人が夜逃げする 」ー水澤 潤著 が目に入った。
  (以下、字数の関係上カット2011年5月14日)  
 ・・・・・・・・
2961,300人のディナーショー
 2009年05月14日(木)
昨夜、地元の長岡駅近くのグランドホテルで福沢恵介ディナーコンサートに参加してみた。前夜の知人と福沢恵介さんとの
ガーデンパーティに招かれ楽しいひと時を過ごし、是非参加してみたくなったのである。 私らしからぬことだが・・・
これもライフレッスン!9割が50歳〜60歳代の中年の女性で、一割が和服姿。隣に昨夜、一緒だった同級生の席。
私の顔見知りが数人はいたが、ほぼ見知らぬ人ばかり。ところが、隣席の同級生が、あれは何処どこの誰、これは誰と教えてくれると、
正しくディズニーランドにいるよう??。歳をとってきたせいか、面白おかしく姿を正視することができた。 オバサンの
ファッションショーの趣きも! 武士の紋付・袴には胸に二つ、背中と袖に三つ家紋が付いていたが、あれは正しく家を
背負っていることを意味していた。 それと同じことが現在でも罷り通っているようだ。 家に縛られた閉鎖社会である。
同級生に「あんたも、大変だね。こういう社会で商売をしているのだから。よくノイローゼにならないね」と思わず言ってしまったが。
「いや、これが長岡。外部の人が長岡では中々、仕事をするのは難しい」とか。コンサートは、福沢恵介さんのギターの弾き語りで、
熱のこもった素晴らしいショーだった。一人で300人の観客を自分の歌の世界に引き込むのだから、大変な仕事である。
ところで、同じテーブルの前の席の女性二人、歌っている最中に平気でオシャベリをしていた。私に睨みつけられても、
隣の女性に「注意」されても、平気で話し続けていた。何処かの老舗の??。歌の半分は彼女らの声のバックグランド。 
途中から慣れて気にならなくなってしまったが、家内に聞いたら、かなり酔っていたとか。 まあ、ディズニーランドだから、
それもご愛嬌だが、オバサマは凄い。この二日間は、普段は経験できない楽しい貴重な体験をしてみた。 
・・・・・・・・・
2597, みんなのたあ坊の哲人訓 ー1
2008年05月14日(水)
「みんなのたあ坊の哲人訓」さんりお 辻信太郎著     ー読書日記
図書館で見つけた小型版の絵本のような本である。子供向けに サンリオの社長が選び抜いた言葉と、割り切ってみると
違った風合いがある。どれもこれも、耳にこびりついている言葉だが、子供向きにと思うと改め新鮮に思える。
何を今更というより、子供に道理の一部を伝えようという気持ちが伝わってくる。
今日は、100のうちの50までの印象に残った言葉を書き写してみた。
この中でも一番、好きな3つの言葉は
「虹だって15分続いたら人はもう見向かない」(ゲーテ)
「失敗の最たるものは、何ひとつ失敗を自覚しないことである」(カーライル)
  (以下、字数の関係上カット2,010年5月14日) 
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2007年05月14日(月)
2232, しお壷の匙      ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ
 車長吉の本の評価は、それがどうした?とみるか、驚きの目でみるか?二つに分かれる。
私は「で、それがどうした?」という視点が強い!内容は事実をそのまま写生的だが、
何処にでもある話である。 人はそれぞれの人生を生きているのである。
 ー面白そうなところを抜粋してみた。
   (以下、字数の関係上カット2,008年5月14日)       ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ


4807,閑話小題 ーボケの始まり?

2014年05月13日(火)

    * ボケか?
 先週の土曜日、親戚の法事で駅まで歩いた後、タクシーに乗って寺まで行ったが、誰もいない。そこで、住職の自宅
玄関で聞いたところ、翌日の間違い。その前日、もしかと思い、案内を見直して日曜日と確認したが、その勘違いを確認した
ことも忘れてしまっていた。 こういうのが呆けの初期症状? 家内に厳しい冗談?で、「施設に入れなくては!」と、
馬鹿にされ「他人に言わない方が良いよ」とまで、言われる始末。 それにしても、ハガキを見直しても、間違えてしまう
迂闊さに、我ながら信じられない思いである。帰り道、履き慣れない靴のため靴擦れの脚を引きずりながら、反省のため
30分の道のりを歩いて帰ってきた。 休憩のため駅東のマックに入ってハンバーガーを食べたが、それが何ともいえない味。
緊張感欠如だろうが、後々考えたとき、これが、ボケの始まりだった、でなければよいが。
   * カラオケは、森の生活だからこそ?
 スナックに行っても、カラオケをほとんど歌わなくなった。店内に客が連れと二人だけでも、歌う気がしないのである。
やはり仕事の憂さとか、張り合いの中でこそ、歌に張りも気持ちが入るというもの。ゴルフはやらないが、これも現役時代
のプレーが、定年後より遥かに面白いとか。 年齢もあるが、秘境ツアーも以前ほど行きたいと思わない。これも、仕事の
合間に何とか都合をつけて、浮世のストレスを秘境旅行のストレスで消すからこそ張り合いがある。 今は今の楽しみが
あるのだから、それは、それで良いとしなくては。
   * カラスの糞かけ
 またまた偶然の一致だが、法事から帰ってきた玄関で、カラスの糞が、目の前50センチ前に落ちてきた。
これまで、一度は命中、あと一度が、以下の前年の同月同日に書いたのを含めて、三度目になる。
それより、よりにもよって一年前に書いていたとは面白い偶然である。 私には、この手合いの偶然があまりに多い。
その瞬間、「今回は、カラスに狙われた」と直感したが・・。 最近、一羽のカラスがペットのインコの鳴き声に惹かれて、
自宅の周辺に屯している。何か、法事とか、葬式に、よく起きる不思議な現象の一つ?だろうか。ー以下をご覧あれ!ー
・・・・・・
4440, 閑話小題 ーカラスの糞かけ
2013年05月13日(月)
* カラスの糞かけ
 数年前になるが、自宅近くを自転車に乗っていた時、カラスが低空で私の二mほど先に糞を落としていった。
問題は、これは果たして私を狙ったのか偶然か、毎朝近くを通る度に考えたことがあった。
ところが、一昨日の朝日新聞の朝刊のコラムで、四コマ漫画の「ののチャン」が、専門家に質問する形式で、
「カラスの糞かけは、意図したものかどうか」を取り扱っていた。よくあることだから、取り上げたのだろう。
答え手は、「あくまで偶然で、カラスにとって何ら利益にならない」と、ゲーム説や、カラカイ説には否定的だった。
専門家といっても、私のように三十年以上、毎朝、散歩やミニサイクリングでカラスを観察していた訳でない。
で、私はゲーム説である。 長岡大橋の手すりで、カラスが5羽並んで私が自転車の通りすがりで至近距離に近づいても
逃げない「度胸ためしゲーム」をしていたことを、ここで書いたことがあった。また散歩中の小型犬を、至近距離で、
威嚇して遊んでいるのを見たことがある。犬の飼主も、それを面白がって見ていたが、明らかにバカにして遊んでいた。
 話は変わるが、昨日の午後、帰宅をすると、隣の空地で5羽のカラスが入り乱れて空中戦をしていた。よくあることだが、
昨日は違っていた。その二組が同時に地上で激しい乱闘を始めたのである。初めは車内で見ていたが、決着がつかないので、
車庫に車を入れてから門の角から隠れてみていたが、その間7〜8分。鳴き声を聞きつけた他のカラスが数羽が駆けつけ、
騒然とした中での激しい乱闘はなかなか見もの。上下に体勢が入替わり互いの身体をワシヅカミしてツツキ合っていた。
よく再び飛びたてたもの。身体からみて若いカラス同士の縄張り争い。最近、一羽が我家の庭に度々来ているが、
その中の一羽だろう。

・・・・・・
4066, つれづれに ースポーツジム、その後
2012年05月13日(日)
   * スローヨガ
 このところ、スポーツジムのスローヨガに参加している。連続参加が勘違いで14回で途切れたが、これまで18回参加した。
ヨガのポーズは腰と背骨の矯正に絶好である。大よそ30〜40人が参加しており、火・木曜日の午後の週二日である。
平日の午後、これだけの人数が一同、暗闇の教室でヨガをするのも奇妙な感覚である。慣れるのに7〜8回はかかったが、
慣れてしまえばしめたもの。60×120センチのマットの上で色々のポーズをとるが、ヨガの先生曰く、「ヨガでは、
このシートが全宇宙と思って、自分独りと思って下さい!」  一回、50分だが、あっという間に、時間が過ぎてしまう。
始まると周囲の人が意識から消えてしまうのがよい。 シートの中の自分と先生の世界が、それぞれ出来てしまう。 ところで、
専門のヨガ教室だったら幾ら?と値踏みをしてみたが、一回、千円の価値は充分ある。 週二日、月に6回(二回、休む?)として
6千円になる。 これだけでSJの会費の元が取れることになる。時間帯もあるが、9割が中年女性である。
   * 昨夜は、新潟で飲み会
 何?から一年以上経ち、そろそろ蟄居閉門も明けつつある。とはいえ新潟駅前で事業をしていた手前、会場は敷居が高い地区。
一般債権が無いが、気分的には近寄り難いことは確か。「あの野郎、沼垂で赤ら顔をして飲んでいた」と、言われそうだが・・・
27〜8年前に、月刊雑誌「到知」に惚れ込み、新潟市周辺の愛読者の同好会「木鶏クラブ・新潟支部」を立ち上げた。
私自身は12年ほど前から、会から遠ざかっていたが、現在でも続いているが、有難いことである。最後に行ったのが
一昨年の忘年会、去年は時が時だけに一年の喪?が明けた今回、参加した。その前に、新潟駅構内にある家電のジョーシンと、
ビックカメラに行寄ったが、土曜日もあって客で溢れていた。 長岡と新潟の勢いの差は駅に出るが、あまりに大きい。
泊まろうと思ったが、22時半の最終新幹線で帰ってきた。 昔の仲間との邂逅は良いものだ。
   * 自転車専門大店
 昨日、新潟駅近くのイオン直営の自転車大店に行ってみた。100坪位の店舗にビッシリ自転車が並んでいたが、やはり
電動アシスト自転車が主流。 開店直後で、まだ軌道に乗ってないようだが、時代から見て時間をかければ良くなるはず。
まだ価格帯が10万円あたりだが、4〜5万円が爆発的に売れる分岐点だろう。 店長曰く、「電気代が月に20〜30円」。
一回分なら分かるが、こんなに安いとは知らなかった。電動アシスト自転車に乗って二年半になるが、本当に良いと実感している。
道具一つで、自分の生活圏の広さが全く変わってしまう一事例である。ヨガもそうだが、ポタリングを習慣にしてしまえばよい。
  ・・・・・・・
3700, ジャズについて −1
2011年05月13日(金)
 ジャズ1000曲がパソコンに入ったため、常にBGMとしてジャズを聴こえてくる。これに慣れると、もう無しには
 いられないから不思議。そこで、ジャズとは、そもそも何?と知りたくなって本棚をみると、三枝成彰著「音楽の本」があった。
 そこに丁度、私が知りたいことが、そのまま書いてあった。 面白いものである。
【 「黒人の民族音楽と白人のヨーロッパ音楽とが融合し、その結果、黒人を中心としたブラスバンドから生まれたポピュラーミュージック」
  「遅れて拍子を打つ黒人独特のバック・ビート(四拍子の一拍目、三拍目におくアクセントを二拍目・四拍子目にずらして演奏する)を
 リズムに持ち、即興演奏を生命とする音楽」 ジャズという音楽を簡単に説明すれば、こういうことになるであろう。
 さて、そのジャズは二十世紀の初頭、アメリカ南部の港町ニューオリンズで生まれるのだが、ここは十九世紀はじめにアメリカが
 購入するまで、スペインとフランスが交互に統治していた地域だ。そこには、フランスやスペインの白人と、西アフリカをルーツとする
 奴隷として連れてこられた黒人、そして、その混血である「クレオール」が生活していた。 
 クレオールはおしなべて教育水準が高く、ヨーロッパに留学をしたり、ビジネスで成功するなど、ニューオリンズではエリート層に
 入っていた。ところが南北戦争を受けて奴隷を解放せざるを得なくなった南部白人層の不満は、黒人ばかりかクレオ一ルへも向けられ、
 クレオールも人種差別の対象となる。
  一方、ニューオリンズの黒人たちは、奴隷解放後、主に音楽に仕事を求めた。南北戦争に敗れた南軍軍楽隊の楽器を古道具屋で
 安く手に入れた彼らは、祝祭パレードや葬儀の行進などで演奏するブラスバンドとして活躍。とりわけ、葬儀の際のブラスバンド行進は、
 ニューオリンズ名物として伝説化されている。埋葬へ向かうときには悲しげな曲を、墓地から戻るときには死者の魂が天国に
 迎えられるように明るい曲を。ジャズ史上最も有名な曲の一つである「聖者の行進」は、そんな時代に生まれた曲だ。
  こうしたブラスバンドには、どのグループにも何人かのクレオールがいた。白人社会から締め出された彼らは、同じ被差別層である
 黒人たちと一緒に仕事を始めたのである。音楽の素養があるクレオールは、楽譜の読めない黒人に西洋音楽の技法の手ほどきをする。 
 黒人はアフリカの祖先から脈々と受け継がれている生来のリズム感覚を持っていた。それが融合し、ジャズの生まれる下地が
 できあがったのである。「ニューオリンズ(ディキシーランド)−>スウィングー>ビパップー>クールー>ハード・バップー>フリー」
 これがクラシックの歴史を振り返ると「バロックー>古典ー>ロマンー>近・現代」といった流れで見るように、誕生から
 百年を経過したジャズのスタイルの変遷も、こうした流れで見るのは一般だ。 】
  ▼「ニューオリオンズ」という地域と「黒人」、そして「クレオール」という人種に行き着くのである。
  20世紀の初めの頃、怪しげな下町の酒場で、即興として、古道具屋から安く手にいれた黒人たちがバック・ビートのリズムで始った。  
  あのアルカポネの時代に全米に、それが瞬く間に広がっていった。やはり、その背景を知っているといないとでは・・
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3335, 閑話小題 ーつれづれなるままに
 2010年05月13日(木)
  * ゴールデンウィークの異変と、連休明けの異変
 このゴールデンウィーク、道路も街も賑っていたが、この5〜6年で様変わりをした。10年前までは車の旅行客が夕方になると
殺到していたのが、ピーク3日間でギリギリ満室か9割がやっと。それも高校の剣道大会とバスケットの大会がベースで
一棟埋まっていた上で、これである。不景気もあり消費者が合理的になったのである。 その行動パターンのケースとして
・連休の間に日帰りを二回するとか、一泊で四国まで行って来たとか、高速道路の料金千円をフルに利用するもの。
・東京まで早朝のバス代2500円×往復で5000円で行って来たとか、周辺ではいかに安く済ましたかが話題の中心。
 それがブログやツイッターで話題になれば、直ぐに伝わる。 これも恐慌と情報化の影響である。
ところで毎年の恒例で、連休明けに一時的だが宿泊が減る。さらに6月に入ると二段目の落ち込みになる。
覚悟をしていたが、今回も予測どおりの落ち込みである。 数年前の、このブログにも落ち込みの現象を書いているが、
それが、ますます大きくなっている。 年末年始明けと同じような数字だから恐ろしい限りである。
  * 民主党のおぞましさ
 思わず現政権の官僚の言葉に耳を疑った。一国のトップが外国と約束をした「5月末までの決着」を、
ここにきて「延期」と言い出したからだ。 国際間で、それが通ると思っている無知・幼稚さに、ただただ呆れる。 
これからみても政権末期である。これまた、一年も政権維持が出来ないことになる。これで4人連続である。
鳩山首相も、血筋も知性?も一級だが、やはり政治は阿修羅の世界で一寸先は闇の世界である。 長年かけた
アメリカの実質日本占領下で出来てしまった体質の中では、思い切ったことが出来ない事情もあるが。
  * 「Youtubeが面白い」のに気づく
 息子に「Youtubeが面白いよ」と言われてから一年以上経つが、殆んどみることがなかった。
ところがデジタルビデオカメラを購入しアップをキッカケにして時々見るようになったが、これが面白い。
それより、自分が現実にアップして初めて注目をするのだから、頭が固くなってしまったということ。
特にペットとか、動物の世界の思わぬ出来事の遭遇の映像には驚いてしまう。
これまではTVで、月に一度位でみた衝撃映像が、ここでは幾らでも出てくる。 情報格差も大きくなるわけだ。
 ・・・・・・・
2960,藤を見るかい
 2009年05月13日(水)
 「藤を見るかい」の招待を受けて、昨日の17時過ぎに長岡郊外の友人の別荘に行ってきた。
 (字数制限のためカット 2010年5月13日)
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2596, 金融鎖国
2008年05月13日(火)
            ー読書日記ー   (朝´∀`){♪Good Morning♪}
「連鎖するドル大暴落」「ドル覇権の崩壊」の二冊を立て続けに読んでショックを受け、
それでは、その著者が以前に書いた本が、何処まで当たっているか見てみようと、
「金融閉鎖」と「日本壊死」を図書館から借りてきた。そして、その7?8割は当たっていた。数年前に本屋で手を取ってみたが、
気になってはいた本であった。読めば読むほど、先行きに対して不安になってくる。やはり、その2008年になったのである。
石油が120ドルという、とてつもない暴騰をし、世界経済が根本からおかしくなり始めたのである。
穀物や油が高騰を続ければ、世界経済は大混乱をするのは時間の問題である。物は売れない、原価は止めの無い高騰。 
企業は成りゆかなくなり、倒産、そして失業者が溢れかえる。資源を狙って隣国同士が戦争とマイナスの連鎖が続くだろう。 
現時点では、金融閉鎖は無いにしても、アメリカのドルの暴落、債権の暴落等で金融鎖国的の事態もありうるというのも肯ける。
悲しいことに日本は、その直撃を受けるのである。
 ー概略をまとめてみたー
「金融鎖国」ー日本経済防衛論 副島 隆彦 (著)
     (字数の関係でカット 09年05月13日)
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2007年05月13日(日)
2231, 男は女のどこを見るべきか      (ヾ(´・ω・`)ノオハヨウ(o´_ _)o)ペコッ
  ー岩月 謙司 (著)  ちくま書房
 「女性は男性のどこを見ているのか」の著者・岩月謙司の女性論である。こういう女性論は探せば幾らでも在りそうだが、
 比較的少ない本である。彼の論によると「男は女をあまり理解していないが、女の方は逆に男と較べると段違いに
 理解していて、理解できないのは、男の強い性衝動位のもの」という。男と女の違いより、共通していることのほうが多いが、
 極限状態のときに本質的な違いが浮かび出るという。雄と雌でしかないのを、割り切ってしまえばよいが、
 割り切れないから面白いドラマがあるのだろう。
ー概略をまとめてみるとー
女性の思考法の特徴を
1、自分の快・不快でものごとの善悪を決める
          ー女性が感じる快は、自然の法則に合っていることが多いが・・。
2、社会的配慮が苦手ー自分を守り、自分を愛してくれる人が一人いれば社会を敵にしてもよい
3、二分法的な発想 ーゼロか100かという二分法の発想
4、数の論理    ー「みんながしている」という数の論理で動いている、それで安心してしまう
このような発想で生きていると、多くの人から愛される人間になり、結果として、
愛を多くため込むことになります。女性は「愛の貯金箱」にたとえる事が出来る。
人を愛するということは、
「人の悦びが我がことのように悦び、悲しみも我がことのように悲しむことです。
人の幸福を願い、不幸を悲しむことです。」
慈悲深い人になるのです。その愛情の大きさは、男の数十倍?数百倍もあるのです。
男とは桁が違うのです。それ故に、素敵な女性は女神であり、慈悲深い天使です。
・男性は理論から感情を構築し、女性は感情から理論を構築する傾向にある。その感情も小さくできており、
 大きな感情を理解できない。大きな感情を持っている人は、小さな感情は理解でたとしても、
 小さな感情の人は大きな感情の人を理解できない。だから始末の悪いことがある。
・気まぐれ(個人的感情)による約束反故は(彼女らにとって)正当な理由になる。
 (字数制限のためカット 2010年5月13日)


4806,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー3

2014年05月12日(月)

          「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
   * 自分も、人生も、記憶がつくりあげる
 記憶は、その痕跡として、自分でアレンジすることが出来るため、その蓄積としての記憶は、その人自身が作り上げた
要素が大きく加わっている。その時点での、自己対話としての内的世界が重要になる。そして、その記憶もである。
時間の経過とともに、その記憶も修正されていく。
《 記憶は自己の同一性の基礎となっており、私たちの性格や生きかたに大きな影響を与えている。しかし、たとえそうだと
 しても大多数の人は、記憶など自分の過去に起こったできごとの痕跡にすぎないと言うだろう。 これから未来へ向かって
生きていこうというのに、今さらどうしようもない過去の痕跡にかかずらっている時間はない、と。しかし本当にそうだろうか。
 先ほどのTさんの話の中には、未来に向かって生きるためにもやはり、記憶が重要なことを示唆する一幕がある。
記憶喪失のために八年間の記憶をすべて失ったTさんは、当初、何とかしてその記憶を取り戻そうと焦っていた。
母親はそんなTさんに、誰もが三六五日すべての記憶があるわけではないのだから、過去にこだわるよりは、今から何かを
始めればよいと言ったそうだ。しかし、それに対してTさんは、「今まで何をしようとしていたのかを知らなければ、前に
進むことができない。それを知らなければ生きている意味がない」と言ったという。
 このことに関連して私が思い起こすのは、戦後四〇年目におこなわれた当時の西ドイッのヴァイツゼッカー大統領の演説だ。
ヴァイツゼッカー大統領はこの演説の中で、第二次世界大戦のナチスドイツによるユダヤ人虐殺について深く謝罪すると同時に、
「過去は神でも変えられぬ」という台詞で、過去を変えることができないことを強調した。しかし、だからといって過去を
封印しようというのではなく、彼は「過去に亡目になる者は現在に目を閉じることになる」と続け、過去を知り、それを
現在に生かすことの大切さを訴えかけたのだ。基本的には、私たちの記憶もこれと同じではないだろうか。自分の記憶を
みつめることで、それを現在に生かすことができ、記憶は未来への航海へと漕ぎ出す原動力となるのではないだろうか。》
 ▼ 記憶といえば、日記に書かれていたかどうかで、大きく違ってくる。だから、ネットや、日記帳に、書き込んでいる。
  そして、毎年の同月同日分を読み返しているが、なるほど、自分の加工が大きく入っている。それが「自分」という
 ことになる。ということは、それぞれが自分史を生きているのである。今さら書く事もないが、より足取りを確かに
 するためには、書いておいた方が良いのだろう。改めて、何気なく繰り返し思い出している記憶が、実は、自分が大きく
 加工したものでしかないとすると、やはり共同幻想、幻覚の中で生きているだけということが、少しは自覚できる。
 最近、ブログで過って行った先の写真をネットからコピーし、ブログに載せているが、これが、当時の記憶を彷彿させる。
 これも、当時の記憶の再生と、再体験になる。行ってなければ、注目もしないだろうし、どんな写真より、当時の感動の
 方がはるかに良い。過去の再生と体験と同時に、新たなる未来のためにも、常に、記憶の手入れが必要になる。
・・・・・・
4439, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー9
2013年05月12日(日)
             ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
  ー これまでの7つの登山道を更に簡略すると、次のようになる(後書きより)ー
・ ルート1は、心は幻想だと理解する道。
 脳神経科学の知見から考えると、意識される今は幻想だ。今とは、未来や過去が調整されて今だと思わされているに過ぎない。
 自分が主体的に行っているとリアルに感じる意思決定も、そうしていると 思い込んでいるだけだ。
 僕たちは「生きていると錯覚しているだけだ」と考えざるを得ない。
・ ルート2は、すぐ死ぬことと、あとで死ぬことの違いを考える道
 所詮はいつか死んでしまう、ということから人生を考えると、今死んでもあとで死んでも同じよなものだ。
 人生は死刑のようなもの。だが、それは、悲観的なものではない。生まれてきた奇跡を、この宇宙的ラッキーを、
 ポジティブに捉えようではないか。死ぬことが悲劇なのではなく、生きていること自体がすばらしい奇跡なのだ、と。、
・ ルート3は、宇宙サイズの視点に立って、自分の小ささを客観視する道。
 百三十七億年前にできて、直径二百七十四億光年のサイズを持つ巨大な宇宙。この宇宙スケールから見ると、何て人間は
 小さいことか。しかも、地球上に七十億人もうごめいている人間。あなたはその中のたったの一人に過ぎない。
 全体から見ると、あなたが自分の死にこだわることは、極めて部分的な些細なことに過ぎない。
・ ルート4は、主観時間は幻想だと理解する道。
 客観的な時間は、百三十七億年にわたって、一秒ずつ確実に時を刻んできたかもしれないが、主観的な時間は、それとは異なる。
 過去と未来は圧縮され、生死のところで長さがゼロになる。しかも、それは幻想だ。あなたの過去は記憶の中にしかないし、
 あなたの未来は想像上の産物だ。あなたには今しかない。あなたは、今しか感じられないのだ。時間などない。
 だから、あなたの主観時間に、死の入り込む余地はない。
・ ルート5は、自己とは定義の結果だと理解する道。
 自分がいて、生きていて、考え、行動し、いずれは死んでいく。そう考えるのは、近代西洋流に、自と他、生と死、主体と客体、
 能動と受動といった二項対立図式でものごとを捉えているからに過ぎない。それが正解ではなく、ものごとを考えやすいように、
 そのように定義しているだけだ。「自分」を定義するから自分があるかのような認知が行われ、「死」を定義するから死を
 恐れている気がするに過ぎない。もともと、世界は単に全体として世界であるだけであって、自分も死もないのだ。
・ ルート6は、幸福学研究からのアプローチ。
 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の目を気にしない傾向。
 これらを満たすのは、自己を捨て、無我・無私を実践できる達人の生きかた。・・・ここに到達した人は、
 持続的な至福を感じることができる。逆に、持続的な至福を感じられる人は、達人の域に到着することができる。・
・ ルート7は、リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ。
 そこには、リラクゼーションからでも座禅からでも、念仏からでも達することができる。いや、ルート6のいずれからでも
 到達することができると言うべきだ。 何しろ、もともと同じ山を登っていたのだ。 登頂した先は、同じところ。
 死を恐れない境地。それはそのまま、生を満喫出来るところ。昔の人は、科学技術の知見がなかったから、仏教哲学に
 よってしかそこに到達できなかったのかもしれない。しかし、現代人には科学技術がある。脳科学の知見は意識が幻想だ
 という事実を僕たちに突きつける。
▼ <私たちの心は幻想でしかない。137億年の時空の自分は小さな存在、そこでの主観時間は幻想。それを感じている
 己も定義でしかない。そこでは、他の人との比較に目を奪われることなく、深くリラックスをしていれば良い>が活きるコツ。
 ひたすら今を活き活き、楽しめばよい。背中に羽をつけた天使のようになるに、まだ重い。せっかくサバンナに出てきたのに。
・・・・・・
4065, お金と神 ー1
2012年05月12日(土)
   * 「お金=信用」と「神=信仰」は似ている 〜�      ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より
 お金とは何だろう?と長年考え続けてきたが、お金と神との同定の視点が面白い。両者ともバーチャルの信頼で成り立っている。
 一部の支配者が神の信託に、紙幣の信託の類似性をみて発明したのが金で、両者とも共同幻想の最たるもの。 ーまずは、抜粋から。
≪ お金と神は似ている。一般に、お金とは汚いもの、神とは聖なるものと言われる。いずれも実体のないバーチャルなものなのに、
人びとの行動に大きな影響を与える。適度に使えぱ人々に安心と幸せをもたらすが、行きすぎれば人生を狂わせる。宗教が狂信者を生んで
世界を恐怖に陥れるように、現代におけるお金への強い執着は、人々に購入を控えさせ、不況を生み自分たち自身を失業に追い込んでいる。
 ◎ 宗教とは、リアルな物欲が生む煩悩から逃れるために、人間が頭の中に作ったバーチャルな世界である。
 それはときとしてリアルな物より人間行動に強い影響を与える。純粋にバーチャルな神という概念をそこまで高めるのに、人間は多くの
過程を経てきた。はじめ神は嵐や雷、山や川など、自然物や自然現象と結びつき、それらのリアルな脅威や恵みが、直接の畏敬の対象だった。
その後、徐々に抽象化されていく過程では、多くの装置を必要とした。装置とは、大伽藍であり、宗教画や彫刻であり、神話や経典である。
それらを使って人びとに極楽浄土や天国を信じさせ、信仰に導いた。この段階ではまだ、宝石や黄金、美しい花や天女など、極めて世俗的な
妄想を抱かせている。しかし、宗教の抽象化はこれに留まらい。禅宗に至っては、脳内での世俗的な快楽や美しさへの想像さえ否定する。
すべては無であるという禅宗の経典、般若心経では、直接的な物欲だけでなく物への妄想さえ捨て去ることにより、心の平安を得ようとする。
これによって宗教は完全にリアルから切り離され、バーチャルな観念へと昇華きれる。
 ◎一方、お金はどうか。     ーつづく  ≫
 ▼ お金の亡者は、金を神のように崇める人をいう。 世の中の9割方の問題が金で解決出来る代物なら神様より頼れる紙切れである。
  神が共同幻想なら、それを信じている世界では通用するが、通用しない世界では、紙切れの存在でしかない。信じばこそ、
  そこに価値が出るもの。その価値を生み出すための装置の重積で、妄想から信仰に昇華させていく。資本主義における神こそ、
  お金である。アメリカのドルと国債こそ、神に近い存在であった。それも今や、そのカラクリ(欧米の資本主義)が崩壊しつつある。
 ・・・・・・・
3699, 自己を見つめる −20
2011年05月12日(木)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 * 死について ー�       ーP・283
【 死の壁に突き当たって打ち砕かれ、この世での自己の赤裸々な実存の現実へと跳ね返されて、そこで、みずからの過去を背負い、
あるべき将来を目指し、現在の状況のなかに立って、熟慮し、行為し、人生の道を切り開いていって、自己と他者と世界と存在の
すべての意味ある本質充実を達成すべく格闘して生きるよりほかにないが、それが人間が生きるということである。 それはまた、
人間が生きつつ死ぬということであり、さらには死につつ生きるということである。したがって、この世で生きる自己の存在の根底には、
こうした死の存在論的概念が深く食い入っている。死を抜きにして、自己はなく、人生はなく、この世の生存はない。 
無にさらされたものとしてのこうした人間的自己というその必然的運命の自覚の上に初めて、具体的な医学的現象としての死の諸相も、
位置づけられうる。 自分が、癌で死ぬのか、事故で死ぬのか、成人病の悪化で死ぬのか、老衰によって天寿を全うするのか、
それは誰にも分からない。しかし誰もが、この世に生まれてきた以上は、医学的な具体化を伴って出現する死に早晩さらされることを自覚し、
自己の無化を心得つつ、終わりある自己の人生を深く銘記し、心の奥底でその覚悟を整え、その孤独な最期を密かに見つめながら、
いままさにこの世のさまざまな営為に携わって生存の努力を重ねているのである。 こうした意味で、明るい現実の根底には、穴が穿たれ、
虚無の風が吹き上げていると言ってよい。 そこには、暗い無の深淵が、底なしの無気味さを湛えながら広がっている。
自己の存在の根底には、無が潜んでいる。考えてみれば、自己がこの世に存在する以前に、元来、自己は、どこにもなく、無であった。 
いま、自己は現世のなかの活動に浸って、一見確固たる実在感を覚えている。しかし、無常のこの世は、うたかたのように過ぎてゆき、
再び自己は、存在の無のなかに沈み込む。 無としての存在の大海のなかに、ひととき浮かび上がって、浮き草のように漂い、
必死にもがいて、確固たる存在を築きえたかに思った自己存在は、やがてまた、無の大海に呑み込まれてゆく。 
ハイデッガーが言ったように、死は、無の枢である。そこには、人間には窺い知れない存在の秘密が隠されているとも言える。
誰もその奥を覗き込んだ者はいない。 さりながら、かつて、エジプトのザイスの神殿に、帳で隠された女神が祀られていたが、
その帳を取り除けることに成功したある人物がそこに見たものは、不思議なことに、当の自分自身だったという。
へーゲルやノヴァーリスが語るこの意味深い言い伝えに従えば、存在の深淵を覗き込んで見出されるものは、実は、当の自分自身である。
・・・その意味でも、死を含んだ、無としての存在が、人間の真実であり、それ以外にどこにも存在の真理はないと言わねばならない。】
 ▼ 最後の章は死である。死は、ドーナツの穴と類推すると、面白い。穴はあって、ない。ドーナツの形状が穴を形づくっている。
 永六輔が「色即是空の色がドーナツで、真ん中の穴が、空」といみじくも言っていたが、人間存在を色とすると、自己の存在の根底に
 潜みこんでいる死は、その穴のようなもの。ドーナツを食べてしまえば、その穴も無くなってしまう。
 また、ハイデッガーの「死は、無の柩」も考えさせられる。無など元もとないのに、それを敢えて柩という著者のセンスが面白い。
 ・・・・・・・
3334, 「ウェブ2.0」時代の大前流「情報活用術」
 2010年05月12日(水)
  ー「知の衰退」からいかに脱出するか?    ー 大前研一 (著) ー7
   * 「ウェブ2.0」時代の大前流「情報活用術」
 ー まずは、その要点部分を抜粋し考えて見る ー (P 230)
≪ 今の若い世代から40代、50代の世代に至るまで、情報収集・管理・活用が下手になった。
これは「○×式教育」の弊害である。答えはあらかじめ用意されている、しかもそれは「○か」「×か」という世界で育つと、
そもそも答えを探すところからわからなくなっている。 手探りで失敗を繰り返しながら答えを導き出すという習慣がない。
そして、よしんば答えを得たとしても、それが正解であるか間違いであるか検証する方法もしらないのである。
 だから、初めから「新聞やテレビの情報は正しいものだ」という前提で、そこにある情報を収集し、それを覚え込もうとする。
これが間違いである。 こんなことをすると、昨日の夕食に何を食べたか思い出せないように、情報は体外にそのままストンと
流れ出て終わりである。 なぜ、体内に残らないのかと言えば、それは、本当に自分の血となり肉となる情報でないばかりか、
せっかく取り入れた情報でも自分で加工しようとしないからだ。 情報といいうものは、加工しないことにはなんの価値も
生み出さない。 いくら収集しても放置してしまえば、そこから何も生まれない。 従って、手に入れた一時情報の意味を考え、
時に疑い、ストックした情報と照らし合わせて、栄誉のある情報だけを吸収して自分の中に取り込み、あとは捨てる・・・
  ≪字数制限のためカット 2012年5月12日≫
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2959,閑話小題
2009年05月12日(火)
 * 金メダルを取れる人
「金メダルを取る人は、トップレベルの才能のある人は逆に取れない」という。トップレベルの人を目標に背中を追っていた
「三番手、四番手の人」の方が、努力をするからである。一番手の才能の人は、そのこと自体の有難さが分からないから努力を
しなくなり、こぼれていく。その重なりの中で、結果として金メダルの道を歩くことになる。必死に努力した方は、その努力に
愛情を持っているから、心の芯になってしまう。ここに金メダルと、途中で挫折する才能のある人の差が出る。
何か亀とウサギの御伽話のようだが、人生の深い示唆があるような話である。 二代目が大成しないのと同じか!
 * 物語をつくる
毎日、随想日記を書き続けて、あと40日ほどで3千回になる。随想日記も考てみれば「小さな物語」である。 
物語とは、テーマの設定と筋書きつくり。文章作法の起承転結という筋書きの中で、味付けをしなければならない。
その上に魂を込めない限り読むものの魂に響いてはこない。そうそう毎日、魂を込めるのも並大抵ではない。
一年ごとに見つめる自分の目も怖い。しかし一度、物語にしてしまえば、記憶パッケージ化したことになり、
魂の記憶として長期間残ることになる。
 * エーゲ海クルーズと吉田類の酒場放浪記
 ≪字数制限のためカット 2011年5月12日≫
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2595, 閑話小題
 2008年05月12日(月)
 * シティーバンクが41兆円の資産売却の意味すること
ニュースでシティーバンクが総資産の2割にあたる41兆円を売却すると報じていた。ということは、サブプライムローンで
同額位の損失をしたと考えてよいだろう。それが、世界全体の10~20%と見ても200~400兆円の損失と考えても
不思議ではない。シティだからこそ、それを売却して支える力があるから良いが、殆どの金融機関が無理だろう。
  ≪字数制限のためカット 2010年5月12日≫
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2007年05月12日(土)
2230, 人生張っています                ー読書日記
  それでは特に凄いウンコ話を抜粋してみた。オカマのマツコとの対談は、あまりにも凄いので掲載はひかえる。
(字数制限のためカット 2014年5月12日)


4805,閑話小題 ー倒産よもやま話 ー⑥

2014年05月11日(日)

   * 当事者の隠れた心理とは
 其の辺の視線から度々、思うことは、当事者の心理まで解ってないということ。ホテル建設の準備と立上げほど
面白い仕事はないのでは? 実感として、そのトータルと、一応軌道にのせた時に、その金額分の元を既にとった
実感がある。これは事業創業と同じであるが。 クルーズが好きで、趣味が興じて、その設計から建設まで、造船会社と
打ち合わせをし、造りあげた船が10年、20年後に難破して命からがら助かったとする。その時に、誰かが、「惜しかったで
すね!」と言われた気持ち?が、こんなもの。 「いや、これだけ楽しんだから、未練も悔しさもない!海から引退する身に
とって、下手に中古品として残っているより、この方が危険な遊びより解放されて、むしろ良かった」が本音。 第三者は、
難破して命からがら救われた、姿しかみてない。しかし、当事者は、その辺りが周辺の視線とは全く違う。
 これも、救命用具と救命舟を用意して、命からがら助かった?からこそ、言えるのだが。 で、ボートしか乗ったことが
ない人ほど、その時に勝手な揶揄をすることになるが、その面白さが、何ものにも代え難いことは知る由もない。
人は、それぞれ、頑固な岩場の小さな洞窟内のことしか、知りえない。それは、あくまで、大小の大きさの差でしかないが。
 私の身近な人の心理が、こんな心理もあった?ということを、自分が経験して初めて知ったこと。
両親の生き様の後ろ姿から、「人生には、何が起こるかもしれない、だから、その時々の楽しみは、その時に、味わうこと
を、子供ながら学んだ。それにしても、9割以上?の何も考えない人たち、何をしているのだろう。年金生活に入っても、
収入の二割は漠然たる目先に不安のため、預金をしていて、死期が迫ってから、この世に、したいことをし得なかった無念と、
預金を残して死んでいくのだから、恐れ入る。 で、「そのお金もない、したいこともない、無念もない!で、どうした!」
 これはこれで、おめでたいこと。これも、目くそ鼻くそを笑う範疇でしかないが! 王陽明もあるが、論語もあるか?
 
・・・・・
4438, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー8
2013年05月11日(土)
             ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
   * ルート7 リラクゼーションと東洋的思想からのアプローチ(思想の道)
 「いい湯だな」と「悟り」は同じこと。両者とも「リラックスの極致=悟り」ということ。
 笑いは緊張とリラックス(弛緩)の間に生まれ出る。喜劇やお笑い番組の束の間に悟りがあるのか?
お笑い芸人が果たして悟りをひらいているのか? という疑問が出てくる。しかし「深いリラックス」が、悟りと笑いにある。
早朝のミニサイクリングで信濃川の土手を音楽を聴きながら、深呼吸をしている時の気持ちは悟りの心境である。
深くリラックスをしてないと、自分が壊れてしまう恐れもある。逆に悟りに近い心境は自ずからリラックスの状況を求める。
 −その辺りを抜粋ー
≪ 先ほどの達人の境地や禅僧の姿はこれに通じるものがある。自分を磨くことによって至ることのできる境地。
 これに対し、リラックスの境地は、「世界を貫く原理原則を知った」状態とは異なるように思えるかもしれない。
しかし、そうだろうか。リラックスの境地は、我欲や悩みやその根源である身体の不自由さから解放された境地だ。
心が無であること、あるいは、幻想であることを、体で理解した境地だ。
「ああ、世界での幸福なあり方とはこういうものか」と体で理解した境地だ。そう考えれば、リラックスの境地は、
「世界を貫く原理原則を知った」ことと等価ではないだろうか。「体で理解」する点が、禅宗の「不立文字」とも関係している。
先ほど述べたように、禅宗では、悟りの境地は言葉では言い表せないものだと考える。右で述べた、体で理解した境地とは、
まさにこのことだ。
 頭で理解したのではない。体で理解したのだ。体で、世界を貫く原理原則がわかった、と実感したのだ。
よって、リラックスの境地は禅宗の悟りの境地と同じものだ、と体で理解しさえすれば、同じものなのだ。
ただ、古代仏教では、禅宗とは違って、悟りの境地を論理として理解しようと考える。これはどう捉えるべきなのだろうか。
僕はここにも矛盾はないと考える。矛盾か矛盾でないか、自己か他者か、実在か幻想か、論理か感性か、頭か体か、
という対立図式を超えるのが仏教哲学の論理だ。・・・・ 
 〜(略)湯船につかって、「あ〜あ、きもちいい〜」と思う瞬間。これは大金持ちでも、貧乏人でも同じ。
育ちも実績も関係ない。欲も悩みもない。何も考えない。ただ、「あ〜あ、きもちいい〜」に集中している。
実は、あっけないことに、これが、「リラックスの極限」=「悟り」だ。 あらゆる欲を超越し、過去も未来も超越し、
静かで満ち足りていて、心の安らぎと平和を享受している。悟りや涅槃の定義にぴったり一致する。
 そうはいっても、リラックスの境地と悟りが同じとは ーしかも、よりによって、風呂の「あ〜あ、きもちいい〜」と
悟りを同一視するとはー あまりに突飛で不謹慎な考えだ。そう思われる方も少なくないかもしれない。が、そんなことはない。
期せずして、あるチベット仏教のアメリカ人僧侶は、悟りとは深いリラックスだと述べていた。≫
 ▼ 起業を決意してから45年間。三つのブラックスワンで、この結末。オセロで、白石が全て黒に変わったようなもの。
  しかし、人生にとってベストと数ヵ月後に気づいた。50歳の節目時に、「還暦までに、それまでの人生を圧縮して生きる」
 と決意して、その通り実行してきた。しかし、まだ何かが足りなかった。そこで気づいたのが、悟りが全く足りなったこと!
・・・・・・・
4064, 思想とは
2012年05月11日(金)                   
   * その人の思想とは一つの行為である    ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
 ≪ ――自分に実感がなければ、ひとを掴めるはずがない。
    心の底からほとばしって、聞いているみんなの心を
    ひたむきな感動で引っ張ってゆくのでなけりゃだめだ。
    今日も明日も机にへばりついて、膠で接ぎ合わせたり、
    他人の賞味したお余りでこった点をこしらえたり、
    掻き集めた灰のなかから 貧弱な火を吹き起したりするのでは、
    子どもや猿どもには感心してもらえるかも知れん――
    それがきみらのお望みならばだ。しかし、真実、良心から出たものでなければ、
    けっして心に達するものではない。       (ゲーテ「ファウスト」)
  そういう声を聞くと、心を打たれると同時に、なるほどこの人はそういう人かと、そこにたしかな一個の存在を認めるだろう。
  この人物には思想がある、と。すなわち思想とは、つまりその人が断乎としてそのように考え、そのように生きる、その生き方の
  言葉や行動にあらわれたもの、ということになる。自分の生き方の全部を賭けた言動だけが、思想の名に値するのだ。
  そこから小林秀雄の、次のようなはげしい断定も出てくる。≫
 ≪ ――精神の状態に関していかに精しくても、それは思想とは言へぬ、思想とは一つの行為である。 (小林秀雄『私の人生観』より)
  口で言うのならどうにでもなる、とよく人はいい、これはとくにわが国では支配的で、政治家の言口葉などはその標本のようなものだが、
  そんなふうに言葉=意見を弄んでいる者は、ついに真の自己に達することはできないだろう、というのである。なぜなら、ひとは自分が
  しんから正しいと考えたこと(それはその人の生き方から出た必然の思想である)を口にする時、己れの全存在を賭けてそれを言うのであり、
  それが周囲に認められ、あるいは否認されることで、己というものを知るのだから。≫
 ▼ 11年間、ここで書き続けてきた効用は、この実感がないことは逆に、書けないということ。だから出来事に直面したときの実感を、
  その場で文章化して頭に残して置いて、記憶に残す習慣が出来てしまった。写真家は、シャッターチャンスを待つが、その間、頭の中で、
  その場の光景の実感を文章化しているという。写真に添えられている文章は、だから写真を引き立てる薬味になる。 思想とは、真実、
  良心から出たものでなければ、心に達しないのである。心にとどくのは、自分だけの頭で考え、経験し、感じた実感である。
  読書日記より、書くネタがなく仕方なく捻り出した「閑話小題」、「つれづれに」のテーマの方が面白いと言われるゆえんである。
   ・・・・・・・
3698, 自己を見つめる −19
2011年05月11日(水)
                 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  人生は、難しい。老いの時期に、それまで生きてきた過程で問題処理を誤って置き去りにしてきた過去が吹き出てくる。
 これは万人に言えることだが、肉体の衰弱と、精神の衰弱が、それに加速させていく。特に、現在、これまでの家制度が崩壊、
 老後は、親子が支えあうシステムは消えようとしている。その中にあって、自分(の世界)を長年かけて作っておくしかない。
 しかし、「こんなはずではなかった、まさか!」が、人生である。 誰の身にも形を変えて、突然現れ出る。 
  * 老いについて ー�    ーP272
【 こうして不動の英知を得た、落ち着いた老年は、死を覚悟しながら、自分なりの人生のまとめを試み、知恵を磨いて、認識を深め、
 哲学的知性を研ぎ澄ます恰好の時期となる。 キケロが言ったように、無分別は青春につきものであり、反対に、分別こそは、老熟に
伴ってようやく熟成する。 およそ、知性を錬磨して、労作や仕事に励む老年には、老化は寄りつかないのである。老年になって恵まれた
晴耕雨読の田園生活こそは、人間に幸福をもたらす。自然のなかで草木を慈しみ、書籍を読んで知性を鍛える田園生活は、人間に精神の
安らぎを叶えさせる。あらかじめ美徳善行の想い出を蓄えることに努力を傾注して、精神的に満ち足りた円熟した老年にとっては、こうして、
時きたってこの世を去るのは望ましいことである。自然の摂理に従い、生命に定められた限界に従って、従容と死に赴くのは、
人の使命だからである。 セネカの説いたように自然の定めに従い、それに即して自己を形成することが、何よりも大切であろう。
心身を健全に保ち、見識を蓄え、運命の贈り物は活用しながら、しかしその奴隷にはならずに、乱されない自由な心と剛毅な精神において、
不屈の力をもって、公正に生き、道義を守り、克己心強く、高潔に、そして調和をもって優美に、善行に励むことのうちに、人生態度の
基本が据え置かれねばならないと、セネカは捉えた。 人間は、老境においてこそ、いよいよ、こうした人間のあり方に熟慮を傾けて、
人生の実りを念頭に置きながら、自己自身に相応しい生き方の拡充努め、最期の時に、備えなければならないであろう。】
 ▼ 長生きはしたいが、老醜は曝したくない。この溝が老年の大問題になる。他人のドブ沼は垣間見ることはできても、自分になると! 
 「生まれ活き、老い、その結果、長く生きている分、多くの病を経験して、最期は死んでいく。これが人生。」
 そう、綺麗には人生を終わることはできようがない。事業も同じ。綺麗に引きたいは妄想。これからが、本番、長い日々が待っている。
 清く、正しく、美しい人生もあるのだろうが?? これほど詰まらない人生もないだろう。 それは私の偏見か?
 ・・・・・・・
3333, 「○」と「×」の標識の間を漂流している国民
2010年05月11日(火)
 ー「知の衰退」からいかに脱出するか?ー大前研一 (著)  ー6
* 「○」と「×」の標識の間を漂流している国民
 ここで小選挙区制度の欠陥を大前はシビアに指摘をしている ーそれをダイジェストに、まとめてみたー
≪ 2005年9月に「郵政選挙」で自民党は歴史的大勝を果たし、2007年7月では「年金選挙」で自民党は大敗し、
民主党が大勝した。そして去年の9月には衆院選挙でも、自民党は惨敗をきした。 2005年の郵政選挙は、
「郵政民営化に」賛成か、反対かの二者択一の選挙であった。年金選挙は、国民は民主党に勝たせたいという訳でなく、
年金の不祥事に自民党に「ノー」を突きつけた選挙。これも二者択一の選挙であった。 この二つの選挙で言えるのは、
争点が単純化できれば選挙は勝てることを証明した。さらに言えば、「国民は複雑なことは考えられない。
単純なことしか通用しない」ことが、二つの選挙で証明されてしまった。その時点で、郵政3事業はその歴史的役割を終え
廃止すべきであった。 道路公団も整理・廃止すべきものであった。小泉元首相は、歴史にも逆らったことをやり国民のための
ものでなかった。 改革と称し、その政策をほぼ官僚に丸投げし、つぶすべきである道路公団や郵政を生きながらえさせたのだから、
ほとんど詐欺。しかし国民詐欺行為を国民は認識していない。現在の日本国民は「〇」と「×」の標識の間を漂流しているに過ぎない。 
標識の間を漂流しながら、本当の答えは求めてもいないし、求める方法も知らない。 さらに、求めるための正しい質問もしていない。
これが日本国民の「知の衰退」の実態である。≫
▼ 現在の民主党政権の政策を国民が支持したのではない。 あくまで、自民党の長期政権にノーを突きつけただけ。
 しかし連立の社民党や民主党内の隠れ元社会党の輩が、この時とばかりに時代遅れの社会主義政策を本気にやりだしたから、
 とんでもない事態になっている。 これこそ、○×の標識の間を政策が国民と共に漂流している姿である。
 それでは自民党に政権を戻せば、間違いなく土建屋的利権を復活してくることは目に見えている。
 国家衰退は、全てがマイナスに働く。 どう立て直すのか、当分の間は迷走するしかないのか。
 ・・・・・・・・
2958,人はどうしてオヤジになるか? ー4
2009年05月11日(月)  
 * 時たま見かける恐ろしいオナゴ
 アフリカ旅行で、イスラエル旅行で、そしてetc..見かけた「離れオバサン」。
「離れ○○」の離れとは、アフリカで恐れられている水牛である。 群れから少し離れて一匹で居る「離れ水牛」で、
人間やジープを見ると見境なく襲ってくる凶暴な奴。 現地人が一番、恐れている水牛である。 一人参加か、時に二人参加だが、
その場合は一人は小使いのように隷従している。とにかく唯我独尊我。自分のペースを他の人に強要し、自分の旅行自慢をするが、
他人の話は一切聞こうとしない。もし従わない場合は喧嘩腰で攻撃してくる。 その恐ろしいこと。兎に角、その毒は強烈である。
独身のため夫婦・親子連れは目の仇になる。 アンハッピーだから癒しに来るのだろうが・・・
 独りの強さ、弱さを知り尽くしているから、どうもこうもならない。 「ヌーの河渡り」のツアーに参加した時には、
何と三人もいたが、常連で徒党を組んでいた。 親分肌の50代後半の独身オバサンは、毒の塊。10年は経つが、
今でも忘れることができない。老いた母親がいて婚期を逸したと他のオバサンが教えてくれたが。
アフリカ専門ツアーの代理店に申し込みの電話をした時に、受付の女性が「何か歯に挟まったイワクがありそうな雰囲気」
(えっ参加するの!)の意味を、アフリカのサファリカーの密室で初めて知った。 面白い旅行には何かにマイナスがある。
旅行をしていると、その人の人生の一端をみることになる。 不幸な状態?は、その本人が作り出した我慢のなせる業。
人生を60年以上生きてきて思うことは、如何なる場合でも貧してはならないこと。 《貧すれば鈍する》ということ。
《鈍すれば貧する》も真実。 《鈍》は何とか努力で克服できるが? どうも、そうでもなさそう? 結局、オヤジと同じで、
「我慢の人生を生きている」からである。「でも、多かれ少なかれ人は我慢の人生を過ごしているんじゃないか?」 
もちろんお釈迦様が看破したとおり、四苦八苦の娑婆の中で過ごすのが人生である。但し、努力や知識で少なくすることが可能。
それが教養ということ? 何か教養が足りない人生を過ごしてきたようだが?? オヤジ度と、オバサン度の高いのは、大嫌いなだけ。
「ちょっと!離れオバサンなど、アフリカなど行かなくても何処にもいるよ!」 そうか・・。アフリカにぴったりなだけ!
・・・・・・・
2594, 最高の人生の見つけかた
2008年05月11日(日)
 昨日、「最高の人生の見つけ方」という映画を観てきた。期待した通りの内容で、「それ以上でも以下でもない」
というのが感想。死を宣告された末期がんの最後の死に様を軽妙に扱っているところが良い。
   ーまずは、その内容を主観的にまとめるとー
 ーーガン末期の病室で知り合った70歳位の二人が、人生の最後の‘やりたいことリスト’を紙に書いているうちに、
   意気投合して、それに基づき、残りの人生を生き生きと駆け抜けるストーリーである。
一人は
 ・哲学的、思索的でクイズ番組が大好き人間。
 ・頭が良いが、妻が妊娠した為にやむなく学者志望を諦めて自動車整備工になった人。
 ・妻一筋。浮気など無縁で、自分より家族を優先する。
いま一人は
 ・理論より行動の実践型で、仕事が趣味で一代で千億円という財産を作った。
 ・プレイボーイ。結婚も3回したが、今はひとり。何より自分優先。
この対極にいる2人が同じ境遇で病院の同室に入ったことから物語は始る。そして、その対極のある二人が、互い補完をしあって
人生の最後を過ごす。原題は「棺おけリスト」。 棺おけに入る前に、やりたいことを書き出す。
真面目な前者のリストの一部は「荘厳な景色を見る。 赤の他人に親切にする。 涙が出るほど笑う」
大金持ちのリストは「スカイダイビングをする。 ライオン狩りをする。世界一の美女にキスをする」などなど。
最近は、かなり際どいドキュメントがあるので、より軽いタッチの内容にホッとした。
▼ 「棺おけリスト」という言葉がよい。20歳前後に作っておいたほうが良いだろうが、差し迫らないと直視しないことである。 
哲学は、その根本問題から問いを立てている。社会的な成功や達成など、「やりたいことリスト」の達成から見れば
些細なことでしかない、という事実を軽く表現しているところが良い。 それは人生の余白を埋めるリストでもある。
死は、この137憶光年の宇宙空間の外にでること。 本人にとっては消え去る、なぞというほど甘くはない。
生まれる前のことなどと気休めを考えても仕方が無い。同じようなことだが? 私の墓には 「死んでしまえば、それまでよ」
と書くつもりである??  父親の口癖だった言葉だ。まあ、このHPも墓のようなものだが。
・・・・・・・・・
2007年05月11日(金)
2229, 人生張っています ー2
 (σ・з・)σオハYO!!
   『人生張ってます』  ー読書日記
 対談を終えてのインタビューの感想がまた面白い!
≪以下字数制限のためカット2010年5月11日≫


4804,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー2

2014年05月10日(土)

          「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
   * ある逸話
   ー‘あとがき’に、以下のような逸話があった。まず、その抜粋からー
《 「サザエさん」の原作者の長谷川町子のマンガで、小学一四年生のときに読み、今なお覚えている作品がある。
 それは、一人の男の人生をめぐる、良い神様と悪い神様の話だ。何の不自由もない家に、玉のような男の子が生まれた。
これを知った悪い神様は、どうもこれがおもしろくなく、この男の子の人生を惨たん憺たるものにしようとシナリオを練る。
そして、「男の子の身には次々と不幸が起こり、紆余曲折をへて船乗りとなった挙句に猛烈な嵐に遭遇して、最後は絶海の
孤島に流れ着き、そこで人生を終える」というシナリオをつくりあげた。はたして、男の子の身に次々に不幸が襲いかかる。
しかし、良い神様がそれに気づいて彼を何度も助けたために、彼は幸せな人生を送ることになる。ところがその臨終の場で、
彼は自分の人生を振り返って、本当に不幸な一生だったと言い出すのである。そして、自分の夢は船乗りになって、
どこかの島で人生を終えることだった、と述懐して息を引きとるのだ。二人の神様は、人間とはよく分からないものと
言って去っていく。これが私の人生の原点である。幸せな人生とはあくまで本人が決めることであり、まわりがとやかく
言う問題ではない。もとより、記憶のざまざまな性質や、生かしかたを知ったからといって、幸せになれるわけではない。
もとより、記憶の様々な性質や、その生かし方を知ったからといって、幸せにはなれない。ただ、知らないよりは、知って
おいたほうが、みすみす損をしないだろうと思われるだけだ。・・ 》
 ▼ 何か、現在の複雑な気持ちの解釈に、大きなヒントになる内容である。 3年前の節目の数ヶ月前までは考えられない、
 「まさか、自分が!」が、正直な気持ち。しかし、現在に至って、これが私の物語の終わりには、丁度良いのでは?とか、
 こういうのも面白い?とか、何でまた?等、色いろ複雑な気持ちが入り組んでいる。 絶海の孤島ではないが、結末が
 ハッピーエンドより、せっかく創業をしたのだから、倒産の終わりの方が、この筋書きとして面白い?とか、この物語の
 解釈がある。これが私らしいというか、何だろう? 要は、30年間、転身しなかった結果でしかないが。ストーリーの
 面白さは、これで充分。「ああ、面白かった!」と、言えるだけでも有難い。 神様は、丁度良いオチをつけたようだ。
・・・・・・
4437, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー7 
2013年05月10日(金)
               ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
   * ルート6 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
 《 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の目を気にしない生き方。
それを満たすのは、自己を捨て、無我、無私を実現する達人の生き方。欲にも、生死にも、他人との争いごとに拘らず、
達観して静かに生きる姿勢。ここに達成した人は、持続的至福に達することが出来る》 これが、幸福学の結論。
 現在の状況を冷静にみると、「これが人生、で、もう一度同じ人生を歩みたい」という現在の心境と同じ。
  ー他人と比較しないことによる幸せこそ、人生の要諦。 その辺りよりー
≪ 幸福学とは、要するに、幸せに効く主観的な要因は何か、を明らかにする研究だ。
その結果、僕たちの行ったアンケートの範囲では、幸福の要因は大きく四つの因子に分けられることがわかった。
・一つ目は、自己実現や自己能力に関する因子。目標を持っているか、直近の目標と将来の目標に一貫性があるか、
     自己統制感が高いか、自尊心が高いか、など。
・二つ目は、つながりに関する因子。他人に対して親切か、様々な出来事に感謝しているか、多様な知人がいるか、など。
・三つ目は、楽観因子。楽観的か、ポジティブか。
・四つ目は、他人と自分を比べない因子。他人と自分を比較しない傾向が高いか。
 ここでは、四つ目の因子に注目しよう。 すなわち、「他人と自分を比べないことによる幸福」について。
 自分を他人と比較しない人には、長続きする幸福が訪れると考えられる。千五百人への調査結果も、それを表している。
つまり、千五百人の回答者のうち、他人と自分を比較しない傾向が強い人は幸福である比率が高く、他人と自分を比較する
傾向が強い人は不幸である比率が高かったのだ。
 自分と他人を比較しない人々には二つのタイプがあると考えられる。他人を見ないタイプと、自分を見ないタイプだ。
前者は、自分だけを見て他人を見ないタイプ。周りのことを気にしないマイペースタイプだ。 我が道を行くから、
周りなど関係ない。場合によっては、独りよがりだったり、わがままだったりするかもしれない。
自分は幸せでも、他人には迷惑をかけている「自分勝手」タイプかもしれない。後者の自分を見ないタイプは、
逆に、世界は見るが自分を見ないタイプ。何が欲しい、こうなりたい、などの自我の欲求があまり強くないから、
他人と自分を比べることにそもそも興味がない。悪くいえば向上心や競争心がない。なすがまま、自然のまま、だ。
 たとえば、武道の達人をイメージしてみていただきたい。茶道、華道、座禅などでもいい。 凛として、姿勢がよい。
何かあっても、動じない。静を以て動を制す。普段は静かだが、実は相手を倒す力を秘めている。無駄に力んだりせず、
相手の力をすっと利用して、自分の思いどおりに世界を動かす。しかし、私利私欲はない。判断は大局的。全体が見えている
緊張感のある空気を醸し出すが、自分のためには怒らない。思考の対象は常に世界だ。世界のために行動する包容力。
名声を得ていたり、人望が厚かったりするが、決して自慢などしない。 もちろん、他人と自分の比較などしない。≫
 ▼ どうも世の中、嫉妬と苛めの糸で哀れなほど。私住む城下町は長年の柵で、雁字搦めの蛸壺社会。
  8割以上が地元出身者で占められ、それが全社会。学校関係者以外は殆ど付き合いがないが、垣間見えてくる世界は
 箱庭のようで面白い。知識を持たない人の無意識の科学は、身近の人との比較しかない。不幸になって当然。
 それも私の主観による思い込み。「横を見ないで、縦(今、ここ、自分)を見て生きる」と割切ってしまえば、良いが。
・・・・・・
4063, 本当は怖い抗うつ剤 ー2
2012年05月10日(木)
   * うつ病になったら、どうしたらいいのか。      { 浜松医科大名誉教授 高田明和 }
  倒産の惨劇を身近で見ていたので、二年間は落ち込むのは避けられないと判断。 最小にするためスポーツジム通いと、
 打ち込める対象を加えることを考えた。一つ間違えると欝に伴う暴発か、破滅になっていく。それがiPadとシネマと
 蔵書の再読と、世界の潮流の鳥瞰などを、逆に徹底的に楽しむことであった。それと、中村天風の「積極一貫」の思想書を、
 身近に置いて何度も何度も読み返した。二年にまだ一年あるが、一息ついた後半の方が危ないのかもしれない。
 その私が予防策でとった方法がそのまま、治療法として研究されていた。運動と、考え方、受け止め方をプラスにすることだ。
≪うつ病の治療法として確立しているのが「運動」である。体を動かすことが精神によい影響を与えることは様々な研究で示されている。
 第二は「ものの考え方」である。私たちは競争社会に生きている。競争とは相手に勝つことを目的とする。もし負ければ落伍者になる。
 一度敗北すると、将来がないように思うのだ。さらに大事なことは、どのような分野にあっても自分より勝れた人がいるという事実。
 例えば野球にイチローがいて、ゴルフには石川遼がいるのと同じようなものだ。努力は大事だが、自分が及ぼないからといって
 自分を責めていたら人は決して心の幸せは得られない。・・・堀口大學は自身の『座右の銘』という詩で「暮らしは分が大事です。
 気楽が何より薬です そねむ心は自分より 以外のものは傷つけぬ」と詠んでいる。自分以外とは社会的ランクのことである。
 今の自分のランクを受け入れ、それでよいのだとする以外に心は楽にならないのだ。禅では「不思善 不思悪」といって、思い出さない
 ことをもって最も尊いとする。といって、無理のことなら、思い浮かんだら、しばらく放っておいて手を出すな、必ずその思いは
 消えると、禅では教えている。 実際に、どのような思いも5秒で消える。・・・ ≫
 ▼ 「どんな思いも5秒で消える」は、言いえて妙である。出るのは仕方がないが、なるべく、そこで切るように心がければよい。
  全ては二年で落ち着くし、目先は五秒のフラッシュで出てきた思いの延長を考えないこと。特に寝付けない布団の中での苦悩の嵐は、
  訓練で最小にすることが可能。 そのためにiPodを枕元に置いている。最近は、ほとんど夜半、使うことはないが、音楽は効く。
・・・・・・・
3697, 自己を見つめる −18
2011年05月10日(火)
  * 老いについて ー�    〜P270「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
【ショーペンハウアーが言ったように、そうした老年の実りが熟するためには、まず何よりも、人は、健康と生計の維持に、早くから
留意して、みずからの人生設計を築き上げる努力を怠ってはならない。生計もままならない病気がちの老年は悲惨の一語に尽きるから。 
そうではなしに、比較的健康に恵まれ、また、なにほどかの金銭を蓄えた老年は、少なくとも社会生活全体の安寧が保たれた条件下
では、むしろ静かで、平穏な人生の実りの時期になるであろうと、ショーペンハゥアーとともに人は言うことができるかもしれない。 
生の本能の激しい渇望も静まり、社会的責務もいちおう果たし終えた、比較的自由な老年は、自己を振り返り、世界を見つめ、
知性の働きを純化させて、洞察と実りを結びうる最良の時期だと、たしかに言えるであろう。
 しかし、そのためには、人生に対する過剰な期待や野心に惑乱された、思い込みの激しい混乱した想念から解き放たれて、
冷静にこの世の営為をその真相において見つめる知恵の魂が熟成してこねぽならない。ショーペンハウアーが言ったように、
人生の表側だけでなく、裏側もすっかりよく眼のなかに入った老境においてこそ、初めて、人生の虚妄と空しさが会得され、
所詮はいかなる人生も五十歩百歩であるという事態が得心されてくる。 そうした人生の有限性への徹底した悟りが、老境の
平静さを築く基底とならねぼならない。実際、誰しも、老年とともに、そうした悲愁にみちた諦念を学び取るものであろう。
 老年になって、やっと人は、自分の人生を変えた大きな出来事が、そっと気づかないうちに自分に忍び寄ってきて、
自分を支配するに至ったことを理解する。 自分の周りの人々が、ほんとうは何者であったかが、ようやく分かるのは、
老年になってからである。 老境に至って、ようやく、自分の歩いてきた人生が、その意味と射程において、誇張も、卑下もなく、
ありのままに見つめられ、自己の人生の限界と特性、その意味と無意味とが、過不足なく凝視される萌芽が生い育ってくる。
この世の中の名誉や名声や栄誉などが当てにならず、他者の身勝手な憶測に依存した評価に過ぎないことも、すべて見抜かれている。】
 ▼ 新潟で事業を事業を立ち上げた時、近隣の土地のオーナーの老人に建築確認の判を貰うため交渉をしたときに、心底、驚いた。
 自分の優位の立場を利用して、自分の人生の鬱憤を晴らしている姿が老醜そのものに思えた。これは沼垂界隈の特性と当時は思ったが、
最近分かったのは、実は老人全般が持っている性癖ということである。内面を見つめる力のない人は、その鬱憤を外に向けるしかない。
それを長年かけて培ってきたため、心の底には、怒りと憤りが底なしの泥沼のように深く蓄積され毒ガスのように湧き出ている。
そのガスの対象を次々と探し出し、他虐、そして自虐として爆発を始める。それが老醜である。 老年は、その道を一歩ずつ
歩いていると割り切った方が良い。そうすると、長生きは、ほどほどということになる。 それにしても老醜という奴は、である。
 ・・・・・・
3332, 全然人種が違う「携帯世代」
2010年05月10日(月)
 ー「知の衰退」からいかに脱出するか?ー 大前研一 (著)  ー5
 * 全然人種が違う「携帯世代」
 この7〜8年で、ブログと携帯電話が、我われの生活を激変させたといってよい。携帯電話とブログが、これだけの機能を持つとは
驚異的といえば驚異的である。さらに、ミニブログのツイッターと、iPadなどが爆発的普及を始めようとしている。
第二次大戦後の電話とTVの普及から始った情報革命がデジタル化などで、人類そのもののあり方を変え始めた。
情報端末によって、その世代の性格、能力まで既定をするほどになっている。で、次は携帯電話世代である。
 ー まずは、その部分を抜粋してみる ー
 ゲーム・キッズに続く世代が、この章の冒頭で述べた、いわゆる「ケイタイ世代」である。この「ケータイ世代」は、
これまでの日本人とは、また全然人種が違う。 この世代の特徴をひとことで言えば、彼らは私たちの見えないもの、
私たちの見ていないようななものを空想できるカは持っているが、まったく無欲だということである。 
たとえば彼らは「モバオク」や「モバゲータウン」を平気で信頼して、モノを売り買いしたコミニティを形成したりしている。 
これは上の世代からすると、ある意味信じられないことだ。 ここまでサイバー空間を無条件に受け入れることは、おそらく、
私たちにはできない。 10年前に携帯電話が普及し始めたころ、誰が、ここまで携帯が進化し、私たちの日常生活に入り込むと
考えただろうか? それが、いまやメール、ネットアクセス、テレビ視聴、ゲーム、写真、動画の撮影や交換、スケジュール管理、
ショッピング、切符予約・購入、決済など、全てがケータイで済む時代になった。 前記した「モパオク」だが、
これは2004年にディー・エヌ・エーが立ち上げた携帯電話からのオークションサイトで、売りたいものをケータイで撮り、
DenAのサイトに送るシステムである。現在では1日1600万のべージビューがあると言い、その利用者の6割以上が女性という。
また、その後導入されたケータイゲームサイト「モバゲータウン」は1日2億ページビューがあるというから驚く。 
忘れてはならないのは、この携帯文化は日本特有のものということである。外国は、せいぜいチケットやメールくらいである。
 〜〜
 さらに、これが進化してパソコン機能まで付いたモバイル携帯電話に変化を始めてきた。それと兄弟的機能を持った
iPadが次の主役になるのは間違いない。現在の5〜10歳の子供たちは、ツイッター・iPad世代と、
後々になっていわれるだろう。 「情報機器からみる世代分類」というテーマを立つ。それは、後のテーマにする。
  いずれにしても、別世界が出来てしまったのである。
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2957、世界はパンデミックに入ったのか!
 2009年05月10日(日)
新型インフルエンザの拡大が、警戒「5」に入ったが、近々に最悪の「6」が宣言される可能性が出てきた。
今のところ鳥インフルエンザのような猛毒ではないが、世界中に拡大していく中で猛毒に進む可能性が大。
 ≪字数制限のためカット 2011年5月10日≫
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2593, 閑話小題
2008年05月10日(土)
*地元スーパーの社長の死
地元長岡のスーパー原信の社長が亡くなったと新聞で報じていた。40数年前にセトモノ屋をしていたが、先代と供にスーパーを立ち上げ、
一部上場までもっていった。20年ほど前に胃癌になったと聞いていた。享年73歳。チェーン理論を教える「ペガサスクラブ」のセミナーで
よく、顔を見かけていた。30年ほど前に会計事務所の所長の紹介で会ったことがあった。40過ぎの温和な人という印象が残っている。
スーパーを立ち上げた直後に私の父親のところに創業を供にした先代の父親と、衣料品の仕入れ先とか、産地とかを聞きにきたと
父から聞いたことがある。 ・・・私には関係ないことだが。 何時も人様が亡くなると思うことだが、仕事の質量より、どれだけ
人生を楽しんだかを推し量る。 あまり楽しい人生ではなかったように思えたが、それは私の想像でしかない。 
しかし、生きていることが90%、それをフルに利用して多くを学び、楽しむことを加えれば99%の価値がある。他人様の死は、
そのことを自戒させてくれる。弟と供に途中まで会社を伸ばしていたが、子息が大学から卒業する辺りを狙って追い出したのは驚いた。
その前後に、弟と故人は二人とも癌で倒れた。 そして大よその20年後に鬼籍に入ったのである。
その弟の方が余程、人生を味わったと思われる。 
≪字数制限のためカット 2011年5月10日≫
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2007年05月10日(木)
2228, 「多財布」家計
     ヾ(?o?o)ノ 【ぉはょぅ?】
 先日の日経新聞に、「総働き家族」“富山にはなぜか富がある!?”という記事があった。(日経新聞07.05.04朝刊1面)
ーまず、その記事を要約すると、
 *日本一豊かな家計の秘密は「総働き家族」の風土と環境・・
   ▼「平均月収」71万円=日本一      ▼「消費支出」40万円=全国二位
   ▼「こづかい月額」4万5千円=日本一   ▼「平均預貯金残高」569万円=全国七位
  その秘密は一家の「多財布」という。 (*'-'*)ヾ(*'-'*)ヾ(*'-'*)ハ
女性の常用雇用率は全国一位の66%で、全世帯の6割近くが共働き。 日本では家計に占める世帯主収入の割合が82%だが、
富山では62%。配偶者や他の世帯員の収入が異常に大きい「多財布」家計になっている。富山の女性は働くのが 当たり前で、
家にいると『体が弱い』と思われる。子供は姑が見て、働けば旅行など楽しみも増えるという考え方。
富山は三世代同居が世帯の2割もいる。日本型家族制度という昔ながらの伝統が、逆に女性の社会進出を支えている。
化学や金属加工など産業が盛んなことも女性が働く風土を育てている。富山市は昨年「運転免許証を返上すれば2万円給付」
という制度を始めた。対象は65歳以上だが、市が高齢者と若者の住まいの交換を仲介する。
高齢者は車が必要な郊外の一軒家を出て中心市街地に引っ越し、空いた家は子育て世帯に貸す。所得に応じ月1万円の補助も出す。
 ▼ 以上のことからみて、県民性が堅実な働き者家族で、これからの日本の家庭のモデルともいえよう。
私の知人に夫婦で都合、年収1600万の人がいる。長男で家を継いでいるので家賃やローンもないので、
非常に豊かそうだ。 下手をすると、本社の重役より豊かな生活を送っているようだ。
以前、ある知人から「サラリーマンの三ランク」を聞いたことがある。
・家持ちの人(親から家を受け継いでいる人)で、妻がキャリアの収入の多い人か資産家娘で、二つの条件が揃っている人。
・二番目は、そのどちらかの一つの条件の人。
   (字数制限のためカット 2014年5月10日)


4803,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー1

2014年05月09日(金)

        「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
   * 自分も人生も、記憶がつくりあげる
 この本の感想文を書いていた昨日、9年前〈2005年05月08日(日)1496, いま・現在について−4 〉に、
記憶について書いていたことに気づいた。 よくある偶然の一致だが、ーまずは、その内容からー
《 「記憶のない男」ーDVDレンタル
 レンタルDVD で観た「記憶のない男」が、「いま」と「私」を考える上で面白い内容であった。
  ー知らない街に仕事を捜しに来て、暴漢に襲われて記憶を全て失った中年男の物語ー
 それぞれの人の「いま」は、それぞれの過去を背景を持っている。過去が記憶喪失で失われた場合、
その人の「いま」は無いに等しい。ストーリーでは、そこまでは表現しつくしてはいなかったが。
しかし、その空白を「いま・現在」という現実の中で、必死になって埋めようとする主人公の心を、静かに淡々と
映し出していた。過去の想起がなければ、[私]は存在しないに等しい。動物に[私]はない。それは想起ができないため。
もし自分が過去の記憶を無くしたら、「いま」という感覚は希薄になる。 青年時代の日記を偶然倉庫で発見。それを、
悪趣味的に、この随想日記で露わにした。その過去の「いま」を、思い出すほど、現在の「いま」との重なりが見えてくる。
そして現在の「いま」がより濃く深くなっていく。それは現在が過去より成立しているためである。
過去や、未来より、「いま」が全てだと考えがちだが、過去も未来も重要であることを教えてくれた映画である。
 {「いま」を人間の手とすると、過去と未来は人間の身体}と例えると解りやすい。手は手としては存在し得ない。
手はあくまで身体の一部でしかない。記憶喪失とは、「手そのものしか自分を感じ得ない」ということ。
身体全体が失われた感覚は想像しただけで恐ろしい。そこ(いま)には、「私」は無いに等しい。
[いま]に集中するということは、過去と未来に対して「楔」を打つことである。
楔を打つことは最も重要な行為である。しかし全体の構造を考えて打たなくてはならないのである。
今上の人生、来世のことは考えない方がよいのか? それとも、来世のために今生を生きるか?
やはり「いま」に全てを傾けるべきである!? 「どうせ死んでしまう」のだから。 》
▼ 人の記憶は、そのまま、その人の過去になる。その記憶がスッポリと無くなれば、その箇所の過去が消えたのと同じ。
 リタイア後は、過去と向き合う時間が多くなる。それは自分と向き合うことである。 問題は、その過去の解釈、受け
止め方になる。それを、ここで延々と書いているが、その受け止め方は、過去の蓄積の上の知識と経験のベースで決まる。
その記憶との付き合い方を、この書が変えようというのだから、面白くないはずがない。  ーつづく
・・・・・・
4436, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −6
2013年05月09日(木)
               ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
   * ルート5: 自己とは定義の結果だと理解する道(自他不分離の道)
≪ー自己という概念を取り去ってみるとー 意識は身体をコントロールする主体ではなく、世界を観測し世界と相互作用する
 身体Aという媒介の動作をモニターする装置に過ぎない。僕たちの心は、そもそも、どの身体に宿ってもいいのではない。
一つの身体に、一つの「こころという幻想」がセットになっているだけ。ただそれだけのことだ。どんな人間にも、心は一つ。
あなたの心は、よくSFにあるようにコンピューターに乗り移ったり、オカルトのように身体を抜け出したりできるものではなく、
脳の計算によって作られた単なる擬似体験劇場に過ぎないのだ。そう考えれば、特に身体Aを「自分の身体」と捉える必要はない。
 ・・・ 本書を読んでいる「クオリアA」は「あなたの心」ではない。何かを感じているだけの存在だ。たまたま、これまでは
「あなたの身体」と呼んでいた「身体A」と接続されていて、「身体A」が世界と相互作用した結果を観劇しているだけだ。
つまりクオリアAから見ると、身体Aもそれ以外の世界も同じくクオリアAの観劇対象なのであって、所有物ではない。
もはや身体と外界、自己と他者、主体と客体、という分け方は意味を持たない。意味としてつながり合って相互作用しているのみ。
クオリアAが観劇できる範囲は、身体Aの五感が情報取得する範囲まで。つまり、身体Aは、移動式観測装置だ。
これまでの世界で、あなたと他人の同意とか共感とか呼んでいたものは、身体Aを介した他者の自己化だ。
いや、自己の他者化と言うべきか。自己という概念はないので、主客合一、自他非分離と言うべきである。≫
≪ー私とは、仮構された「自己」というシステムでしかないー もちろん、この楽しく生き生きした世界を観劇できなくなる
 ことはとても残念だが、それだけだ。「私の死」ではなく、「一つの観劇システムの終了」だ。つまり、仮構された「自己」
という概念を解体してみると、「死ぬのが怖い」という概念は存在できない。「死ぬのが怖い」という概念は、「自己」という
幻想に付随して作り出された幻想に過ぎないのだ。比喩的に言えば、身体Aとは窓だ。一つの窓を通して世界を見る装置だ。
世界は、いろいろな身体を通して見られていた。また、世界では、それらの身体によるインタラクションも行われていた。
これからも今までと同じように、行われていく。おびただしい数の身体たちによつて。違いは、おびただしい数の身体の中の
たった一つであるところの身体Aが機能を停止した、ということだけだ。それに伴い、役目を終えた、身体Aを介した世界観測者
であるクオリアAもまた役目を終えた。ただそれだけ。  もう「つ、強調しておくと、身体Aと世界は一体だ。
身体Aは、世界とつながっている。世界は、身体Aとつながっている。つまり、元来「自分」と呼んでいたものは世界である、
世界は「自分」だ。本来、自己と他者の境界はない。境界を定義するからあるように見えるだけだ。したがって身体Aの喪失は、
世界の一部の喪失に過ぎず、世界から見ると髪の毛や爪を切るようなものだ。≫
 ▼ 自己は定義の結果とすると、精一杯生きてきたこと自体が何だったのだろうか?そこで立ち現れた世界が自分になる。
  ご隠居の身になった現在、私など死のうが生きていようが、どうでもよいこと。今まで「自分」と呼んでいたのが実は
  世界だったということ。入江の洞窟と外海が繋がっていて、洞窟の周辺を自分と思っていたが、外界を含めた
  世界が自分と考えると納得する。己の行蔵を振り返ってみれば、そのことがよく分かる。今の自分も世界ということも。
  そうこう考えると、何?この俺は! になる。ただ気楽に死ねばよいだけ、プシュと。 ボチボチ気楽にいけばよい。
・・・・・・
4062, 本当は怖い抗うつ剤 ー1
2012年05月09日(水)
 数ヶ月前に抗うつ剤(ハッピードラッグ)の恐ろしさについて書いたが、ある雑誌に浜松医科大元教授の抗うつ剤からの脱却の
レポートがあった。親戚・縁者にも鬱病に苦しんでいる人を多くいる。青年期に何度か挫折体験をしたが、宗教系や精神論の本で、
独りで克服してきた。去年の挫折?は、早朝のミニサイクリングとスポーツジム通いで運動量を増やし、毒が溜まらないようして
乗り越えた。iPadにエネルギーを集中したことと、シネマ通いも効果があった。 また身近な縁者の倒産劇を手助けしたことで、
情報を得ていたこともある。節目は可能な限り綺麗に?を、心がけたことも毒を最小にしたようだ。 私の知人に気楽に精神科の
通院を勧めたが、大丈夫だろうか。 抗うつ剤が多く使われ出した頃から、自殺者が激増し始めた統計がある。要はドラッグ患者に
仕立てられているのでは? という疑問が出ていた矢先の、医学者の実体験の内容である。 恐ろしい限りである。
  ー 大まかにまとめると ー          { 浜松医科大名誉教授 高田明和 }
≪ 厚生労省は2013年から、今まで4大疾病として扱われてきた、脳卒中、急性心筋梗塞、がん、糖尿病に精神疾患を加えることを決定した。
 厚労省が08年に実施した調査によると、精神疾患の患者は323万人と糖尿病の患者数237万人を上回っている。 自殺者の数は13年運続で
3万人を越えている。 私たち家族は米国における9年の生活を切り上げて、1975年に浜松に帰ってきた。子どもたちは日本語を話せず、
家族ともども激しいカルチャーショックを経験した。それは強度のうつ状態を引き起こした。 その時の体験は、『本当に「うつ」が治った
マニュアル』に書いた。 薬は便わなかったが1年後に、私が言霊療法と呼んでいる言葉を使い考えを変える方法と、坐禅で劇的に
うつから脱却できた。その後30年くらい何の問題もなかったが、70歳のころ、何度か海外出張後に時差ボケが治らず、医師に相談すると、
睡眠薬と抗うつ剤パキルスを処方された。 最初は眠れたが次第に寝付が悪くなり、これは睡眠薬の依存かと思って中断したところ、
ひどい不安と不眠を体験した。パキシルで不安が解消されたので、自分がうつ病になり、パキシルが効いたのかなと不安になった。 
しばらくしてパキシルを中断すると、再度不安と不眠に襲われた。そのころ、欧米でパキシルの離脱症状(車酔いのような気持ち悪さ、
顔の発汗、血の気を引いたような症状)が問題になっていたので、抗うつ剤から逃れようと、二週間薬なしで済ませた。
自分は病気でないと繰り返して、何とか頑張った。 抗鬱剤は効果より副作用の方が大きいのではないかと、疑問が生じたのである。 
実際には抗うつ剤の効果はブラシポ効果(暗示)が多いこと、抗うつ剤を一度服用してしまったら、止めるのが至難である。・・≫ 
 ▼ 抗うつ剤の恐ろしさは、それは麻薬そのものであること。 一度、依存をしてしまうと、切れると禁断症状が起こることだ。
  そして服用をしているうちに段々、強い抗うつ剤でないと効果がなくなる麻薬の禁断症状と同じである。 初めは、気楽に
 医者の処方薬を飲んでいるうちに麻薬中毒になってしまうことだ。 薬のため、精神のバランスを崩した男をみたことがある。
 狂ったような怒り方は、狂人そのもの。長年積み重なった鬱憤が麻薬で爆発するから、知らない人は、呆然となる!  ーつづく
  ・・・・・・・
3696, 閑話小題 
2011年05月09日(月)
   * ジャズ、1000曲
 私の知人がジャズマニアのSE。 先日、パソコンの不具合をみてもらった折、「自分の持っているジャズが1万曲あるが、
そのうち1000曲をあげるよ」と言われた。そして先日、その記憶媒体を通して私のパソコンに入力をしてもらった。
その結果、私の書斎コーナーのパソコンと、それに伴ないiPodには、一挙にジャズが1千曲が加わった。
先日、事務所から引き上げてきたステレオをパソコンと繋いでiTunesで聴けるようにしたため、部屋はジャズ喫茶のようにBGMが
常に流れる空間になっている。 ジャズなど知らない私でも、自分の好みのリズムのジャズを選んで聴いている。それが、読書や、
この随想日記の下書きをするBGMに非常によい。 自分の居場所を昔から作るのが好きだったが・・ 
本人は、ネットラジオと図書館の貸し出しのCDからコピーした曲というが、フリーの時代は、こういうことである。
  * 問題は高速道路と新幹線が引っかかるため?・・
 政府が、汚染地域を拡大出来ないのは、広げると高速道路、次に新幹線の福島駅に引っかかるためではないか?と言われている。
もしアメリカの基準の80キロにしたら、新幹線と高速道路が不通になり、東北六県が大打撃になりかねない。
この原発事故の今後を考えると暗澹たる気持ちになる。海水汚染と、それに伴なう雨などで関東圏も、やられる可能性も充分にある。
それほど、この事故の根は浅くない。既に関東圏の不動産の暴落の噂が週刊誌などで騒がれ初めてきた。もちろん、地元の新潟県も
影響してくるだろうに。放射能測定器が6万から8万円で売られていて、飛ぶように売れているというが・・・
 ・・・・・・・
2010年05月09日(日)
3331、「ゲーム・キッズ世代」は、まだ見込みがあるが・・
 「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ー4
   *「ゲーム・キッズ世代」は、まだ見込みがある
 ーまずは、「ゲーム・キッズ世代」の部分からー   Pー262
「少年ジャンプ世代」に続くのが「ゲーム・キッズ世代」である。「任天堂キッズ」「プレステキッズ」と言ってもいい。…
ただし、このゲーム・キッズというのは、その世代の主流ではない。「少年ジャンプ」に熱中するよりはゲームに熱中した世代
ということでこう命名しただけだ。 この世代の先端は、すでに三十代半ばになろうとしている。この「ゲーム・キッズ世代」は
私が見たところ、「少年ジャンプ世代」よりはマシである。ゲーム・キッズ世代は子供のころから、ロールプレイングゲームを
やってきた世代だけに、とにかく、何かをしてやろうという挑戦するメンタリティをもっている。ロールプレイングモデルの
いいところは、少なくとも勇気を持って「新しいドアを開ける」「未知の世界に通じる洞窟に入る」などの選択をしなければ、
物語が進まないことである。とはいえ、この世代は粘りがない。ゲームの展開が思わしくなくなるとすぐに、‘ゲームオーバー’
させたくなる、つまり「オールクリアーしたい」と思ってしまうのだ。・・・・ この世代で活躍している人間を見ると、たとえば
アメリカやインドに負けないIT人材が輩出されている。彼らは日本のゲーム産業をつくった世代であり、「ウェブ2・0」の適応力は
この世代が一番高い。彼らはネットの世界を通じて世界観を確立、これを本格的に利用した初めての世代である。
したがって、現在のサイバー社会に対する感覚は、世界でもトップクラスである。これは自明のことで、たとえば、ここで30歳と
45歳を比べてみれば一目瞭然である。30歳の多くは、12歳ごろからパソコンを始めているから、パソコン歴は15年以上になる。 
つまり、人生の半分以上を、パソコンといっしょに暮らしてきた。一方の45歳は、30歳ぐらいでようやくパソコンを始め、メールを
使い始めたのがここ7、8年。 ワードでの文書作成やネット検索などを経て、最近4、5年でようやくエクセルやパワーポイントを
使えるようになったレベルだ。この両者のどちらが、いまのビジネス社会に対応できるだろうか? こう考えてみると、いまや若い
人間が年上の人間の「先輩」になる下克上の時代であることがわかる。 IT化によって古いスキルは廃れ、どんどん新しい
スキルが必要とされている。
▼ それぞれの年代別の特徴が入りこんでいるから複雑だが、漫画からゲーム・キッド、そしてパソコン、携帯と、IT化が、
それぞれの世代の性格を微妙に変えている。この次の世代が携帯である。それは次回になるが、ここでは、まだ書いてないが、
ブログ、ツイッター世代、そしてiPad世代という括りも出てくるはずだ。
 ・・・・・・・・
2956,マッピングする視点
 2009年05月09日(土)
ある本に「マップする視点」という言葉があった。グーグル・アースが出来てから
《誰もが何時でも、宇宙からの写真を気楽に見ることが可能になった。》気楽にマッピング出来るのである。
「秘境ツアーにはまって世界中を憑かれたように何ゆえに行ったのか」というと、ストレスの発散であった。
軽い痴呆症の母と同居して、ストレス発散をしないと家庭が壊れるという危機感を持ち、家内と年に2〜3度、
秘境旅行に行くことで何とか乗り越えることが出来た。 自分の存在を異質空間に移動して実感として
マッピングすることで、その時点の「今、ここ、自分」を括弧にいれ、旅行のストレスと相殺することだった。
遠くから「極限に近いストレス」の生活を眺めることによって乗り越えようとしていたのだ。
アフリカや南米の遠くからマッピングする視点を、自分たちの支えにしていたのである。
 これが空間的なマッピング体験である。
▼ 次に哲学に凝ったのである。初めは「ソフィー世界」など軽い哲学史から始めた。同時に哲学書入門。
学生時代には体験が少ないため、さっぱり解らなかったことも、経験の積み重ねで解ることが多いのが哲学である。
  ≪字数制限のためカット 2012年5月9日≫
・・・・・・・
2592, 日本の国民皆保険は世界に誇るシステム!
2008年05月09日(金)
 文芸春秋の4月号に、「日本の国民皆保険は世界に誇るシステム!」とあった。当り前と思っていた日本の健康保険が進んでいる
事実を初めて知った。年間33兆円に上る国民医療費は、対GDP比でみるとOPEC30ヶ国中21位と高くない。
しかし、その質的レベルからみると世界に誇れるシステム。
それぞれの国によって、多くの規制があり、日本のように彼方此方の医者に気楽に行けないという。
 ーまずは、その部分を書き写してみたー
 医療技術、たとえばがん治療は世界でも最高の水準を誇っている。しかし一方で、納得できる治療を受けられずに
複数の病院を渡り歩く「がん難民」もあふれている。06年に近藤正晃ジェームス東京大学特任准教授らが、
がん患者1168人に対して行ったアンケート調査の結果、「治療説明時に不満、または治療方針決定時に
不納得を感じたがん患者」が53?を占めた。これを日本のがん患者128万人にあてはめれば、68万人が
「納得できる治療を受けていない」ということになる。保険証一枚あれば、いつでも、どこでも、誰もが平等に
医療を受けられる「フリーアクセス」を、日本の患者は当たり前に享受しているが、これはどこの国にでもあるものではない。
1961年に始まったこの目本の「国民皆保険」は、じつは世界に冠たる医療制度なのである。
  ≪字数制限のためカット 2011年5月9日≫
・・・・・・・・・
2007年05月09日(水)
2227, 人生張っています ー1 
      (*´・ω・)ノおはよー         ー 読書日記                   
「中村うさぎ」については、もういい加減にしろ!と思いながら、図書館で見つけると、つい借りてしまう。
エゲツナイ!の一言である。「人生張っています」は露悪という言葉など、はるかに超えている。
「無頼の女たち」5人と語った対談は、互いの最悪を引き出したエログロものである。
こういう話は、世間様の枠から遥かに出ていて中途半端なお笑いより面白い!
花井愛子、岩井志麻子、マツコ・デラックス、西原理恵子とくれば「たしなみ」など、ありえるわけがない。
「はみだし者」の世間の価値観におさまらないオバケのような妖怪女が普通人の「常識」と違う「異世界」
の話を展開している。 ≪字数制限のためカット 2010年5月9日≫  

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