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堀井On-Line
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2014年05月08日(木)
<世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> ー細野真紘(2014年の論点100) * 年金は安心!を、まとめると 年金は、あくまでも老後生活の補助金。あまり知られてないが、現役世代が圧倒的に多かった数十年間で、積立金が 120兆円もあり、それを取り崩していけばよい。 現在の年金の支払いは、現役世代の年金収入以外にも、税金からも 支払われている。巷で言われている、1970年の20〜65歳年齢対65歳年齢が8・5人対1で、2050年に1・2人対1としても、 今まで計画的に積み立てられてきた年金基金と、税金を加えればよいことになる。 楽観的だが、一理はある。 正社員の比率が減る中で、厚生年金に加入できる人が減っていることが大問題。今後、高度成長も望めず、国家の 体力が弱っていく中で、楽観視は出来ない。しかし、この年金制度が無かったとしたら、10年、20年先の若者は、大変。 最悪の想定で、両親2人と、その両親の親4人、合計6人の面倒を見るケースも、ありえる。 多くの紆余屈折を経て、 それなりのカタチになっていくが、悲観だけをしても何も得ることは出来ない。ここで取り上げてきた基本的知識を、 国民は、あまり知られていないようで、より丁寧な教えが必要のようだ。40年以上の厚生年金を夫婦してかけてきて、 手取り25万では、何か釈然としないが、それでも大きは生活の柱になっている。逆に、夫婦二人で、国民年金だけの 収入で手取り11〜2万では、生活保護にも満たない。 核家族化の中で、子供からの援助も当にできず、ハイパー インフレにでもなれば、アメリカの貧困層のように救済センターに食事のための行列も現実になりかねない。 私も、半年前までは、倒産など、思いもよらなかった。家内も、私の実家も、堅実な家柄だったので、厚生年金や、 万一の備えをしていたので、何とか生活の質を落とさないでいるが、一つ間違えれば、大変の事態になるところ。 生きていく上で、お金は健康とともに大切である。それから自由になるには、長年の時間をかけての準備と、 蓄積が必要。 老いれば尚の事、たかが年金、されど年金。たかがお金、されどお金である。それ以前の知識も・・ で、120兆の年金基金も、日本国債とアメリカ国債に化けているとしたら、どうなる? 国家あってこその個人である。 ・・・・・・ 4435, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −5 2013年05月08日(水) * ルート4:主観的時間は幻想だと理解する道 ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 ーまずは、この概要を主観的にまとめてみる。ー ≪ 客観的な「今」と主観的な「今」の違いからみると、客観的時間は、時間が一定速度で進むという前提に基づいている。 時間を秒、分、時間、日、月、年、ディケード(10年)、世紀といった絶対尺度で捉えるから、そのような結論になる。 客観時間は、一定速度で進む。それは、人がそのように定義したからに過ぎない。しかし、主観時間は、そのように 捉えるべきものではない。 主観的時間を考えるに、「今」を考えてみよう。「今」は、客観的には時間軸のある一点である。 客観的な今は時間の幅を持たない。どんなに短くても、時間が幅を持っていたら、それは今でなく、過去と未来になってしまう。 今とは、それが千分の一秒前と、千分の一秒後の間が、今になってしまう。 千分の一などどうでもよいと思いがちだが、 数学や物理の世界ではそれを認めない。ということは客観的今とは時間幅を持たない。 では、主観的な今とは何か。 「クオリアとして知情意を感じている、この今とは何か?」と問う以上、主観的な今は時間の幅を持っていると考えるべきだ。 ここに、時間的幅を持たない客観的な今と、時間幅を持つ主観的今。両者の定義は異なる・・・ 私たちの心は、「今」しか考えられない。過去を思い出したり、未来を想像できるが、それらを行うのも「今」だ。 私たち人間には、過去も未来もない。実は現在もない。 過去のことを思い出せるが、エピソード記憶に残っていることを 思い出しているに過ぎない。過去はクオリアではない。単なる記憶だ。その過去の体験のクオリアに戻ることは出来ない。 人間には「今」しかないのだ。・・・ 僕たちは「今しか感じられない機械」。今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、 あなたにとってのすべての時間なのだ。それだけだ。 主観的時間には、「死」なんてない。死ぬ瞬間は、もはや主観的な 「今」はない。死の直前には「今」を感じられるが、それは死の瞬間ではない。主観的には死はないのだ。生まれる前は 主観的には生まれていなかったのだから当然、時間は流れていなかったのだ。主観的な過去の時間は過去にさかのぼるほど 圧縮され、ついには物心ついたとき以前の時間は完全につぶれゼロになると考えるべきだ。未来も、先に行くほど圧縮される。 物心ついたときより前の時間がぺしゃんこにつぶれてゼロだったように、いつか死んだ後の時間もぺしゃんこのゼロだ。・・・ つまり自分が死んだ後の無限の時間、という想定も、過去と同様、見直すべきだ。 そんなのは無いのである。≫ ▼ 当たり前のことを論じているが、これが自覚できないのが人間。過去も未来もゼロ、現在も幻想。ただクオリアがあるだけ。 「自分が死んだ後も世界は無限に続く」ということが、間違いである。死ぬと同時に今も、過去も未来も、ゼロに潰れる。 「今」しかないのに、過去や未来にこだわる人間は奇妙な生きもの。過去は記憶に過ぎなく、未来は予測に過ぎない。ならば 可能な限り、嫌なことを忘れ、良いことを繰り返して思い出すよう努め、今だけを考えること。所詮、未来も、過去もない。 それで良いのだと。亡くなった両親を考えてみると、その道理が理解できる。死んだ後の時間はペチャンコに潰れている。 クオリヤを感じている今こそ、生きているのである。だったら、私たちも、この「今」を生きるべきである。 主観的時間が幻想としてもである。今しか活き活き生きることが出来ないのである。ケセラセラと今を活き切るしかない。 ・・・・・・ 4061, 我事に於て後悔せず 2012年05月08日(火) * 我事に於て後悔せず。 宮本武蔵「五輪書』より ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より この本で著者は、五輪書の武蔵の「我事に於いて後悔せず」を取り上げている。一流のプロなら、引退後の後悔などせぬはず。 後悔するのは腐った?のような人物がするもの。 ー 以下の部分は、その辺りを微妙に書いてある。 ≪ これをふつうは「われ事に於て後悔せず」と読む。小林秀雄は「わが事に於て」と読むほうがよかろうと言っていて、その意は、 「その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。別な道が吃度あるのだ、 自分といふ本体に出会ふ道があるのだ。 後悔などといふお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を 武蔵は語ってゐるのである」(小林秀雄『私の人生観』)と説明している。 自分の過去の行動についてあとから、あれは間違っていた、 などとそのたびに後悔するようでは、後悔というものを受け入れるようでは、ひとは本当の自己に出会うことはできぬ、というのだ。 小林秀雄は武蔵の言葉をかりてつまりはそれが言いたかったのだが、このことは今ぼくらの考えている「自己への忠誠」にあてはまる・・ ◎『自己に対する何という無礼だ、その決心をした時より今の自分の方が利ロだと、どうして思うのか。』スタンダール「パルムの僧院」 これぞ言葉の中の言葉だ、これほどにひとを励まし、自己への忠誠を元気づける言葉を、ぼくはほかに知らない。 武蔵の箴言は いささか道学者くさいが、ここには自己であることの純粋なよろこびがある。・・これはスタンダールの全作品に鳴りわたっている言葉。 ◎ ースタンダールはそのすぐ前で公爵夫人の性格についてもこう言っている。公爵夫人の性格には二つの特徴があった。 彼女は一度欲したことはあくまでも欲した。また一度きめたことはけっして論議しなかった。 ◎ ー彼女は偶然にまかせ、そのときどきの快楽のために行動してきた。しかしどんな行動に身を委ねる場合でも、断乎として行なった。 あとで冷静に返っても、けっして自分を非難しなかった。まして後悔しなかった。自己にたいする忠誠とはかくのごときものであるかと 若い日に讃嘆させられて以来、これらの言葉はそのときどきにつねにある内耳器官のごときものとなって、ぼくを導いてきた小説の 主人公ではないか、とバカにしてはいけない。 ≫ ▼ 小林秀雄に「無私の精神」という文章がある。実践家は、自我を押し通す人と思いがちだが、実は無私の人である。 彼は無私に徹しなければ物事は成就しないことを知っている。極限に立ってきた人は後悔などしない。そこで自分を押し殺し、 己を抑えるほど物事は大きく成就してきたことを知っているからだ。 後悔は、実践の中では後々、害になることもである。 ・・・・・・・ 3695, 自己を見つめる −17 2011年05月08日(日) 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 還暦もとうに過ぎ、更に65歳になったとたん、事業は、これ。 それは本格的な老いへの第一歩を踏み込んだ現象だろう。 歳には勝てない現実が誰にも待っている。それに対し抵抗を諦め、従うしかない。それが老いと著者はいう。 そして、それが恵まれた状態で向えようが、悲惨な状態であろうが、直ぐにやってくる死を前にすれば、誰も彼も大して 変わらないことは、今更言うまでもない。それぞれの年齢の老いの景色は変わっていくが、殺風景になっていく経験も 辛いものがある。 しかし、それでも、生きているだけでも有り難いと思えるうちは良いが。 * 老いについて ー� −P262 【 老いは、端的に言って、心身の変化や不調、障害や不全、病気や悩、生計の面での困難や窮迫、人間関係における亀裂や別離、 忘恩や裏切り、さらには長年の人生遍歴における事故や災害、対立や紛争などの側面の出現といった、ありとあらゆる不幸な事態の 顕在化という姿を取って、人生の暗い側面を表す顛末の様相を帯びながら迫ってくる傾向が強い。もちろん、明るく幸せな老年と いうものも存在するであろう。 けれども、老いは、もともと死の予感とも結びついて、悲惨な様相の影を本質的に内在させている。 老いは、総じて、誰もがそこから眼を背けたがる暗黒の象徴を含むものとして受け取られる面を含んだ現象であることは否定する ことができない。 実際、ショーペンハウアーも指摘したように、年を取って、生計に困り、病気がちとなったら、その人の晩年が 暗いものとなるのは必定である。したがって、誰もが、早くから、その点に留意して、自分を守る必要がある。 しかし、いくら 用意周到を心掛けても、予測しえない出来事の起きるのが人生である。 老いと高齢化の行く手は、誰にも予測することができない。 むろん、老いとともに円熟する人生というものも考えられる。しかし、人間は、受肉した自分自身を、自分自身の思いどおりに、 させたり、若返らせたり、あるいは好きな姿で老化させたり、終わらせたりすることはできない。 自己の自然的かつ社会的な 存在のうちには、自分の思いどおりにならないもの、いわば自己の根源的受動性が潜んでいる。自己は、自己を越えた宿命の定め 委ねられた側面を、その根底に抱えている。 いかに自発性に富み、能動的で、いわゆる勝ち気で、理性的な人といえども、 自分の老化と死を、自分の思いのままに支配することはできない。 人は、老化と死の歩みを停止させることはできない。 それどころか、老化し、瀕死の身となった自分自身を自己は、自分で処置することもできず、そこで自己の能力の限界に突き当たる】 ▼ 定年などを切欠に職を終える時期に、人は、老いの段階に入ったと認識させられる。特に定年制は、まだ活力のある逸材を含めて、 一律に世の中から排除する一種の姥捨てとして、世代交代の作用にもなる。姥捨ても見方の一つだが、現実には山中で悲観にくれる のも辛い。 二人称である親族、知人などの最期を傍でみていても、壮絶である。そこに向かって一日一日が歩みだした自覚を 持ったとき、本当の老いが始るのである。 起承転結でなく、起承転々というが、これが難しいはず。老いと向き合う時期に入ったか。 ・・・・・・ 3330, スモールハッピネスの「少年ジャンプ世代」 2010年05月08日(土) 「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) −3 * スモールハッピネスの「少年ジャンプ世代」 いまの日本を語る上で、以下のように著者独自の観点で世代を分けている。 ≪ 偏差値の次に指摘するのが「少年ジャンプ世代」である。この世代は「偏差値世代」より、さらに考えることが出来ない世代。 彼らが育った1980年代後半は、「少年ジャンプ」が部数的に大飛躍した時代で、1990年に入ると、実に600万冊以上も売れた。 その「少年ジャンプ」で描かれるのは、編集方針である「努力・友情・勝利」という、3つの要素の入った物語。 この3つの要素で1つの物語が完結をする。 しかし、その物語というのは、‘近くのラーメン屋の娘と仲良くなれたらラッキー’ というふうな世界である。 勝利は社会的な勝利ではなく、極めて身近な勝利である。小さな夢と身近な友だち、そして幸せ。 それもいいが、言い換えれば、「非常な内向き」ということになる。 このような、外向きでない人間たちがいまの日本の 働き盛りの中核を占めている。 これは憂うべきことで、日本だけの閉じられた世界ではグローバルは立ち行かなくなる。 少年ジャンプの世界は、最後は勝利である。 そこには、ものを考える余地がなくなっている。 2000年代に入ると、 その少年ジャンプが部数低落に歯止がきかなくなってしまった。主人公が努力している姿を見ても面白くなくなったなど、 色いろ分析されている。 この世代に続くのが、「ゲーム・キッズ世代」である。 ≫ ▼ 以上が要旨だが、国が衰退するときは、頭と尻尾から腐ってくる。 それにしても幼稚である。草食系は、アメリカと、 その手下の自民党、社会党、そして官僚の長期政策の結果だったのである。 ここで思い切った政策の変更を根底から変えなければならない時期に来ているが、果たして可能かどうか。 ・・・・・・・・・ 2955, マネーはなぜ暴走したのか? 2009年05月08日(金) * アタリの経済危機を考える NHKの連休の二日間のジャック・アタリのインタビューの内容が考えさせられた。 二時間近い内容を、頭に残っているまま思い切って要約すると、 《 この経済危機の大きな要素は、ベルリンの壁の崩壊である。これは人類3千年かけて望んできた (自由)と(個人)を最終的に獲得した画期的な大事件。その結果として、まずは経済のグローバル化が始った。 それが市場原理主義と情報化がマッチして世界の流れになってしまった。 しかし、それには絶対的なルールが必要であったが、アメリカの金融関係の連中が自分の利益を追求するあまり、 ルールのできる前に金融工学とかいう美名を楯に世界中に得体の知れない金融債権をばら撒いてしまい、 再起不能なほどの金融危機を起こしてしまった。 その結果、今後10年、20年、30年と、大きな津波が押し寄せることとなった。 第一の波は、アメリカ一極支配体制の崩壊(アメリカは、一極支配は捨てても、決して弱体化はしない。内向きになるだけ) 第ニの波は、多極支配体制への移行 第三の波は、グローバルな超帝国の波 ー市場そのものが帝国化して、国単位では規制不可能になる 第四の波は、超紛争の波 ーあらゆる武器が開発され、誰もコントロール不能になる 第五の波は、超民主主義の波 ー人々は利他主義に気づいて、その力が加速して結果として、プラスの流れが出る。 アイデアは他人に与えても減るものではなく、むしろプラスの相乗効果が出てくる。 世界の人は、自家用のヘリコプターを持っていても誰も賞賛しないが、持っている者を惜しみなく人に与える人を 賞賛するようになる。それこそ、人類が求めていたもので、合理的利他主義という。 紛争や、移動の簡易さで、 ノマドといわれる遊牧の民が増えていく。 ノマドにも三種類あって、?超ノマド=世界中を気楽に何処にでもいける人、 ー下層ノマド ーバーチャルノマド=誰もがなれるが存在してくる。 第一から第四の波は、多くの痛みが出てくるが、 その結果として、第五の超民主主義が出てくるというのが、 楽観的といえば楽観的だが、それはインターネットが 大きな役割を果たすことになるだろう。 こうして要約すると、この流れは当然起こって然るべきことと納得できる。 流れの背景は、やはり世界の人は「自由」と「個人」という言葉を獲得したのである。 その最も有効に働いたのが、 インターネット、携帯電話である。これは、どんな権力者も阻止できない流れとなってしまった。 ・・・・・・・・・ 2591, 日本壊死 2008年05月08日(木) 三年前なら、読み過ごしたが、サブプライムローン問題が大きく露出した現在では、この本の内容は決して 絵空ごとには思えない内容である。特に、ここにきて日本がアメリカの属国とう著者の論は、的を得ている。 彼の主張していることは、彼からすれば当たり前のことで、誰も現実を直視しようとしないだけなのか。 安部前首相、福田首相の姿を見ると、数年後の修羅場が目に見えるようである。 「日本壊死」ー新しき人目覚めよ 船井 幸雄, 副島 隆彦 (著) ー 表紙裏の説明文 アメリカ帝国主義とロックフェラー支配の終焉、1ドル60円時代の到来、ユーロの台頭、借金1000兆円国家・日本の 地獄絵図、財務省の重罪、預金封鎖と老人税の導入、行革が進まないワケ、脱米入亜の可能性、次世代国家を作る 新しい人たちの登場 …日本が歩むべき道を徹底討論。 *面白そうな部分を抜粋してみた。 ー副島隆彦 ・「米国債400兆円を買わされ、さらに毎年30兆円分買おうとしている日本」 (字数の関係でカット11年05月08日)
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2014年05月07日(水)
* 朝日新聞デジタル版 以前から、迷っていた朝日新聞のデジタルに加入した。現在のキャンペーン中に、申し込めば新聞代プラス500円の 追加料金で済む(平常は、千円)。別にパソコンで見る必要もないと思ったが気になっていた。 最低期間が半年で、 月初めなら、その月が無料で7ヶ月間なら、試してみる価値があると判断した。 で、三日経ったが、これが正解。 記事の一つをクリックすると、そこだけがクローズアップする。更にテキスト記事に転換可能で、スクラップも出来る。 間違いなく、新聞紙を手にとって見るより遥かに便利。 これがプラス500円ならお勧め。 朝食前後に、一度、全体の ページに目を通し、昼飯か、夕食時に、印象に残ったところを、いま一度、目を通していたが、スクラップは、ほぼすることは なかったが、これからはする! また、一日単位でタブレットなどにダウンロード出来るので、ネット環境が無く ても、持ち運び見ることが出来る。 また家庭内の他のパソコンからも、手軽に記事に目を通すことが可能である。 現在の私は、書斎と寝室にいる時間が多いため、何度も、気楽に、記事に目が通せるところが良い。実感で、読む時間が 今のところ、二倍になっているが、数ヶ月後には3〜4倍にはなるのでは? ページ一覧も可能で、一面、社会、政治、 経済・マネー、国際、スポーツ、カルチャー、オピニオン、などから、記事を拾うことが出来る。 紙面が、そのまま、 ビジュアル化して見ることも出来る。 その文字の大小も選択できるところも良い。紙の新聞を見た後に、気楽に読むのに 最適ということ。これまで30分読むか読まないかだった、iPadか卓上なら、プラス30分ぐらいは、読むのでは! 日中、居間と書斎と寝室のTVとパソコンの間を流離う身にとって、紙聞紙の持ち運びから解放されるのは、大きい。 加入を家内に告げると、まず大きく拒否反応を示したが、これは何時ものコース。一番、これを読むのは間違いなく、 本人になるが、それが分かってない、何時ものコース。今まで読まなかった、連載小説や、読者の声の、コーナーを 早速、読み始めている。新聞社も、紙面+デジタル版のカタチで生き延びようとするのでは。月刊誌も、店売りの他に、 宅配にして、デジタル版を100円+すればよい。それなら「新潮45」か、「文藝春秋」を購入するだろう。 それにしてもデジタル版は良い! 他に、雑誌の幾つかが読み放題の「ビューン」に入っているが、これも良い! ・・・・・・ 4434, サードマン現象とは 2013年05月07日(火) 母親が晩年になってから、たびたび「私には守護霊がいる。それは子供の頃に亡くなった父親。何時も私を見守ってくれ、 いざ何かあると、私を良い方向に導いてくれる」といっていたが、気持ちの問題だろうと聞き流していた。また先日亡くなった 将棋の米長邦雄が講演で、「何時も父親の位牌を布団に持ち込み、父に話かけていた」というのを聞いたことがある。 先日のNHK教育(PM7:00〜7:40地球ドラマチック)で、サードマン現象を再放映していた 。 これはジョン・ガイガー著「奇跡の生還へ導く人ー極限状況のサードマン現象)をインタビューなどで編集したもの。 で、その概要とは・・ ◎ 9・11の世界同時多発テロで、ニューヨークのワールドトレードセンタービルに旅客機が二機衝突した事故で、最後に 脱出した1人は、煙が立ちこめ瓦礫に阻まれた階段を下りられず、もうダメだと諦めかけた時、どこからともなく聞こえた 声に従い、突き進んで命を救われたとか。 ◎ 多くの登山者を飲み込んできたヒマラヤのナンガパルバットに初めて登頂したヘルマン・ブールを危機の中、励ました声。 ◎ アメリカ大陸からヨーロッパ大陸へ、人類初めての単独飛行をしたリンドバーグを支えた声。 ◎ アメリカの宇宙士が極度の緊張の合間の休みに神のような何かの存在を感じたとか。 生命の危険にさらされた苛烈な環境の時、自分を奮い立たせる声を聞く能力が備わっているというのが「サードマン現象」 といわれ、その「第三の人物」は、その極限状況を克服するために精神的な助けをしてくれる。 この現象は、かつて神や 守護天使とか守護霊として受け止められることも多かったが、現在、それを人間の生理的・心理的機構が生み出した幻だとも いわれる。過酷な極限状態において発動する右脳の原始的?スイッチという感じ。知らない誰かや父親、自分自身、守護天使、 などがそこに存在する感覚という。脳は危機的な状態や生命の危機が起きたり、体験すると「潜在的脳力」が働く。 私たち人類の先祖は過酷な自然の中で、獲物を狩ったり、果実を採取してきた。20万年前の人類の先祖は「サバイバル」の 極限の中で、恒に「サードマン現象」が起きていて、これらの遺伝子が先祖代々受け繋がられ、現代人にも存在していると、 考えられる。 以前は450年前の先祖の堀井宗親という仮身を、現在は「地球の中心点」を擬人化した「球芯様」と、両親の 霊を話し相手にしている。それは自分の魂の仮身である。 この「球芯様」、最近は、ヨガの最中とか、夜半のベッドで 囁きかけてくる。それが、思いもよらない問いかけをするから、面白い。 また、幾つかの創業の時など、極限の状態に自分を置くと、 何故か異常な力が湧き出てくる。火事場の馬鹿力というか、底知れない力が自分の中心から立ち現れくる。原始的、動物的 知恵と力で身体も心も浮いたように勝手に動き出す。誰にも経験があるはずだ。 以前、家内が世田谷と同じ面積のある、 ポンペイの遺跡で、迷子になってしまった。それも日が暮れる直前。警察は来るは、遺跡のスタッフが総出で捜索に当たるは、 現地ガイドと添乗員は、青くなって駈けずりまわった中、色々あって本人は一時間先にあるホテルに何とか帰りついていた。 何かの折に書くが、いざとなると、異常な力が湧き出るということ。 サードマンを創って話相手も面白い、是非お勧め! ・・・・・・・ 4060, 要は、受け止め方である! 2012年05月07日(月) 人生、色いろ経験を積み重ねた後に過去を俯瞰すると、その行蔵はどうにでも解釈できる。 ついてなかった人生としても、 視点を変えれば、ついていた人生と脚色出来る。受止め方次第で過去も現在も、そして未来も変わってくる。 中村天風は 「全ての受け止め方を『積極一貫』にし、肯定的であれ!」と説いている。 人生は問題の山、その中心点が何か考えつくし 無心に立ち向かうしかない。 これからは、自分の人生を、どのように受け止めるかが人生の問題になってくる。 受け止め方を変えることは、行蔵の中の要素を仕分け直すことになる。それで、これからの人生の方向を変えることになる。 そのために記憶さえ変えるのが人間の業。 それは行蔵の要素をどのように解釈するかになる。そこでも知識の絶対量が必要になる。 分別ない人間の身勝手な解釈では、ますます歪になろうというもの。「運」があるか、ないかは、「運は自ら運ぶこと」と解釈すれば、 運そのものが意志の問題になる。運がない人は意志が弱いと解釈出来るというもの。 「人生に起こったことは無駄のものなし」と、 信じていれば、最悪のことも結果としてプラス材料になる。 そうこう考えると無知は、それだけで罪の原因になる。 知らなかっただけで、どれほど多くの失敗を重ねてきたことか。人類も私もである。初めから自分のミッションを明文化しておけば、 それが信念になり、途中経過の失敗も成功も、受け止め方がハッキリしているので、ブレが小さく済む。 おい方一つで、荷物も 軽くなると、同じ。これからの日本は坂を転げ落ちるように衰退する。そこで何が必要か? 教育制度の再構築と、憲法改正。無理? ・・・・・・・ 3694, 自己を見つめる −16 2011年05月07日(土) * 幸福について (不幸について) ー3 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 加えて、そうした無事安全な生活の場の確保に立脚して、更に誰もが、この世に生まれた以上、自分の生きがいがある。 ・・・ 略 しかし、そのためには、人は、その自己拡充を念頭において、たえず日夜、精励しなければならないであろう。 というのも生き甲斐の達成は、いろいろな面で課題や試練や困難や障碍に出会って、これを克服する努力の連続に置き換えられてゆくから。 格闘することなしに、人生の実りは結ばないというのが、この世の鉄則である。 実際、存分に生き抜いたという生き甲斐にみちた幸福感は、 それなりの自己集中や犠牲や断念や労苦の代償のもとでのみ、初めて獲得されるのである。 けれども、いかに精進したとしても、 非力で有限な人間には、完全な意味での幸福感はけっして与えられえないであろう。考えてみれば、生きているということは、 まだなすべきことを残しているということと同義である。なすべきことがなくなった人生は、死と同義である。生きるということは、 欠如の意識にもとづき、それを充足させるという運動と情熱において成立する。 その情熱は、充実に向けられている点では、たしかに、 憧れにみち、その実現状態を夢見ていて、幸福感に浸っているであろう。けれども、その意識が、目下は自分にその充実がいまだ 与えられておらず、また、あらゆる意味での完全な充実が人間には不可能であるという自覚に伴なわれたとき、それは、そのまま、 不幸な意識に転じるであろう。したがって、人間には、生きているかぎり、終息した絶対的安寧としての幸福感は、 与えられず、叶えられず、許されず、その意味で、人間は、終生、不幸であろう。・・・ 】 ▼ 不幸論という本もあるほど、人間の本質は不幸である。最後は死ぬことを、二人称の死の経験をして、洗脳されているためである。 その人によって大かれ少なかれ、不平不満や、神経質になり、我執をし、理屈を言い張る部分を持っている。それが膨張すると、 周辺に諍いをぶつけていくことになる。それが不幸の大きな要因になる。 そうこう考えると、不幸は体質もある。 それは血筋、家系にも関係してくる。どっちみち、一生の間には谷あり、嵐が襲ってくる。 それを乗り越えるのが、人生。 そのプロセスこそ人生である。 そう割り切ってしまわないと、冷静に立ち向かうことができなり、破滅が待っている。 ・・・・・・・ 3329, 草食系で何が悪い! 2010年05月07日(金) 昨夜のNHKのゴールデンタイムに、「草食系で何が悪い」というテーマで激論を交わしていた。 現代の若者と、社会の一線にたっている人たちの議論。 見ていて食い違いがあまりに大きい。 我が家も含めて、何処の家庭の親子の食い違いも、こんなものだろう。 現実世界の将来を見出せない若者、 現代の若者にはネットという別世界があり、自己実現がネットの中に存在しているのである。 なぜ現実世界の中の価値観に縛られなければならないのか? そこでは、明るい未来が抱けない、という彼らの立場もある。 とはいえ、彼らの相手は外国の同じ世代である。 それが現実世界の中で闘っている人たちには見えている。 アメリカの間接占領による「日本の植民地化政策による無能化の完成が、彼らの姿」である。 その自覚があるのかないのか。 アメリカの補佐が実は日教組であり、更にいえば自民党であり、官僚。 偏差値による選別教育の結果である。 ーまずは、NHKのHPから、この番組の紹介をコピーしてみるー * 日本の、これから「草食系で何が悪い 若者と語るニッポンの未来」 ー内容ー 車やブランド品、酒、海外旅行離れが進み、大人しくなった、内向きになったと言われる最近の若者たち。 彼らの本音は? 日本の進むべき未来について語り合う市民討論番組。 ー詳細ー かつての若者のあこがれ、車・ブランド品・海外旅行に、興味を示さない20代の若者たち。 「おとなしくなった」「内向き」「草食化した」などといわれ、欲がないように見えることから「悟り世代」といわれる。 一方でブランドものに頼らない、環境や社会問題に関心が深い、地元に愛着を持って昔からの友人と長くつきあうなど、 日本が「成熟」した証という見方もある。若者たちの本音は? 日本の未来について語り合う討論番組。 ―― 長年かかって完成した現代の草食系若者、そう簡単に動物系には変えることは不可能である。 韓国、中国、ベトナム、インドなどの若者の目の輝きと、日本の若者の目の輝きの差は、あまりに大きい。 彼らは、日本が一番豊かな絶頂期に生まれたが、大人に育つ過程が失われた20年といわれる時代背景の中で、 希望を持てと言われても、無理なのは分かる。 この数日、大前研一著の <「知の衰退」からいかに脱出するか?>の 読書日記を書いているが、まさに、大前研一と若者、の図式が、この番組に出ていた。10年、20年後の日本は暗い! ・・・・・・・ 2954、ハゲタカ 2009年05月07日(木) 連休の5月4,5,6日の3日にわたり、NHKで朝9時から二本ずつ「ハゲタカ」というドラマを6本放送していた。 日本のバブルの崩壊後にアメリカのハゲタカファンドに荒らされが、去年の9月15日のリーマンの倒産で、そのファンド そのものが崩壊してしまった。しかし、それまでは世界を荒らしまくった彼らの実態の一部をドラマを通し垣間見るようであった。 まずは、ー番組紹介ーから ニューヨークの投資ファンド運営会社社長・鷲津政彦は、バブル崩壊後、不景気に苦しむ日本に戻り、 瀕死状態の企業を次々と買収する。敵対するファンドによる妨害や、買収先の社員からの反発を受けながらも、 鷲津は斬新な再プランを披露し、業績を上げていく。 企業買収、再生の真実を克明に描いた問題作。 ▼ 三日間、このドラマと、その後のNHKスペシャルの「マネーはなぜ暴走したのか?」のセットに釘付けになって見たが、 多くの示唆が含まれていた。資本の論理からみてハゲタカが処理した企業が結果として、贅肉を削ぎ落として再生した方が むしろ良かった?という視点もある。小泉、竹中の金融改革の功罪をドラマ化をして考えさせられたということ。 外資の投資ファンドがハゲタカなら、日本の大手の勝ち残った大手銀行は互いの死肉を食い合うハイエナと例えることもできよう。 (字数制限のためカット 2010年5月7日) ・・・・・・・・・ 2590, イスラエルの話 2008年05月07日(水) 長男が、イスラエルから帰ってきたので、その感想を書いてみる。 ー今回のツアーからの概略(私のインタビューからの情報) ・ツアーの会社は、新日本トラベル(現在は合併でエヌイーオーに改名) ・総員23名。半分が一人参加。本人を除くと全員が40歳以上。70歳代の夫婦が三組。男女の割合が半々。平均年齢50歳位。 ・4月23日〜5月02日までの10日間コース。 ・添乗員は40代のベテラン女性。 現地ガイドは日本系のイスラエル人。 ・旅行の最中に日本人には一人も会ってないが、韓国人らしきグループを一組みた。 ・現時点で、年間のイスラエルの訪問客は8000人。 ・危機感を持つ場面は、ゼロ。しかし、ウズベスタン航空のサービスは最低。 帰りのテルアビブからウズベスタンへの飛行中に、かなり厳しい乱気流にあって死ぬ思いの経験。 ・一人参加のアップの加算を含めて、38万円。総額43万円。 ・満足度は100点。 ・テルアビブの飛行場と、エルサレムの街の緊迫感は、私から聞いていたほどではなかった。 ーー 以上だが、9年前の私の実感とほぼ同じである。9年前の場合は、これにアブラハムが十戒をつくったエジプトのシナイ山があった。 これは強烈な印象が残っている。 イスラエルはインパクトがあまりに強い。わずか四国の大きさの国土で、700万人の国が、 存在としては大きく位置を占めている。日本の大よそ二十分の一の国がである。 契約の概念はユダヤから出ている。 神様との契約が、いつの間にか人間同士の契約にすり替わったのである。ユダヤ人とイスラエル人は同一ではない。 一般的には、イスラエル人=イスラエル国籍を持っている人。ユダヤ人=ユダヤ民族。と思われているが、ユダヤ人は ユダヤ教を信じていて、両親のうち両方が何じゃらとか難しい決まりがある。「ユダヤ人は選民である」という教えが、 他の民族から忌み嫌われるのである。多くの決まりがあり、ユダヤ教徒は、それを厳格に守るのである。 旧約、新約聖書のような物語と、その舞台が、そのまま一致しているのはイスラエルしかないというが、異教徒?の目から見ると、 尚のこと、その特異性が、何とも新鮮で驚きをもってみることが出来るところである。 ー以下は私の旅行記である。 ーー ーH1105イスラエル聖なる旅 この旅行は、四千年の旧約・新約聖書に出てくる歴史と出会う旅であった。四国の面積とほぼ同じ中に、数えきれないほどの ドラマがあった。現地の日本人ガイドのシャワ?のような説明が新鮮かつ面白く驚きと感激の連続であった。 その為か帰ってきて、新約・旧約聖書をじっくり読む事ができた事が最大の成果となった。 関連を含めると十冊を前後二ヶ月たらずで読んでしまった。考えてみたら私の人生の転機の度に必ず聖書か聖書関連の本があった。 人生のもっと早い段階で、じっくり読むべきであった!。旧約は先入観で固く難しそうであったが、 読んでみれば何もむずかしくない、ただただ面白い!内容であった。旧約はユダヤとユダヤ民族の歴史の書であった。 また新約は出会い=イエスの心との出会いの書と言ってよかった。 ー印象の強い順に列記してみると、 まずは何といってもエレサレムである。イスラエルがそのまま凝縮されているといってよい。四千年の昔から神の名と民族の誇りをかけ、 数え切れない戦いの舞台となった。そして現在も続いている。この街を歩く事は世界の歴史の生き証人と出会い同行することかもしれない。 イエスが十字架を背負って歩いた悲しみの道=ヴィア・ドロローサ。磔刑に処せられたゴルゴダの丘。最後の晩餐の部屋。 イスラム教の重要な寺院=岩のド?ムとアクサ寺院。ユダヤ教徒にとって最も貴い嘆きの壁と広場、そしてダビデの塔。 旧市街を囲んでいる城壁は四千年の歴史の深さをそのまま物語っている。次はモ?ゼの十戒で有名なシナイ半島のシナイ山である。 深夜の二時に三時間かけて登って山頂からのご来光とシナイ山の山並み。そして、その麓にあるカタリナ修道院と、神の声をきいたという “燃える柴”。そして帰路にたちよったベトウィンの部落。そして、そこで飲んだ紅茶。“マサダの要塞”この旅行まで全く知らなかったが、 キリストが死んだ四十年余り後に、ローマ軍に追いつめられた熱心党員のユダヤ人九六七名がたてこもった自然要塞。 陥落の前日、 そこの指揮者ベン・ヤイルの演説の後、七名を除く九六〇人の集団自決のあった場所であった。 その時の詳しい内容が生き残った者の証言で残った(ヨセフスの“ユダヤ戦記”に生々しく残っている)。 =「奴隷にされる前に...自由の状態におもむこうではないか。」 =自殺を厳禁しているユダヤ教徒の集団自決であるからその意味が違ってくる。イエスの生まれたベツレヘムの岩の ほら穴の馬小屋と岩の飼葉桶。ユダヤ教エッセネ派の“死海写本”が発見されたクムラン洞穴。 一九四七年、近くを歩いていたベトウィンの少年が、洞穴で土器に入った巻物を発見。 壷に納められた六〇〇を越える巻物には、イザヤ書全巻や旧約聖書等々記されていた。 (字数制限のためカット 2011年5月7日)
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2014年05月06日(火)
<世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> ー細野真紘 (2014年の論点100) * 基礎年金と、厚生年金と、老後の預金 あくまで年金は老後生活の資金補助の位置づけ、とは知らなかった。まず、老後の預金に、基礎(国民)年金が加わり、 最後に厚生年金が加わる。これを40年にわたって、かけてきたかどうかで、既に老後格差が、ついてしまっている。 父親の代から、連れ合いに別立てで給与を与え、健康保険と厚生年金をかけるのが当然のように行っていた。それは、 私の知識・知恵ではない。 ー以下の部分は、年金を分かりやすく要約してあるー 《 ◎ まず国の年金は、大きく2種類があるのです。 1つ目が「自営業者」の「国民年金」です。中小業者は定年が ないため、60歳以降も収入を得ることができます。そのため、年金をもらうための保険料は(会社員などと比べると)安く なっていて、給料を預貯金に回せる割合が多くなっています。その老後にもらえる「国民年金」は満額で月6万6千円程度。 つまり「自営業者」のための「国民年金」は、「弁当」でいうと保険料を安くして、老後は最低限の「お米」だけ もらえる位置づけで、「おかず」については60歳以降に働いたお金で買ったり、それまでの貯蓄で買ったりできる。 ◎ その一方、「会社員」の場合は定年退職のため、定年以降は、収入を得ることが難しくなってしまいます。 そのため、会社員の場合は、現役時に(自営業者よりは多めに保険料を払うことで、国から「厚生年金」を死亡するまで 受けとれることになっているわけです。これは「弁当」でいうと、会社員は定年があるので、現役時に(自営業者より) 多めに保険料を払い、引退後に死亡するまで、国から「おかず付の弁当」をもらえるようにするものなのです。 その「厚生年金」は月16万円程度となっています。合計で22〜3万になる。ちなみに、公務員の場合も会社員と同じ定年制 になっているため、「共済年金」は「厚生年金」と同様に「おかず付の弁当」となっています(厚生年金と共済年金は 分ける必要性が乏しいため、一元化する方向に向かっています)。 ◎ 今では日本は「世界一の高齢化率」で、世界で最も65歳以上の割合が多い国となっています。そして、国の年金制度は 仕送り方式なので、「将来は年金がもらえなくなる」という声がよく聞かれます。 そこで、「現在の少子高齢化で、年金は破綻する」という論を考えてみましょう。まず、日本も含めて世界の先進国では、 基本的に国の年金は、個人が自分のため蓄える「積立方式」ではなく、現役世代が高齢世代を支える「仕送り方式」です。 そのため、テレビなどでは図表を使い、もっともらしく"年金破綻論"が展開されている。「今の年金制度は仕送り方式で、 2010年現在では現役世代2・6人で高齢者1人を支えている騎馬戦型が、高齢化のピークの40年後には現役世代1・2人で 高齢者1人を支える肩車型になる。こんな仕組は破綻する!」 これは一見、、もっともらしく思えますが、実は単純な 「ひっかけ問題」にひっかかっています。まず、国の年金制度は「仕送り方武」ではあるのですが、この「仕送り方式」にも 「ひっかけ問題」が潜んでいて、多くの人は「これまでの保険料が、すべて高齢者の年金に支払われている」と錯覚している。 ただ、現実に、そんなことになってなく、かっての現役世代が多かった時の保険料については、きちんと今後の年金の 支払いに備えて国が「年金積立金」として保有してあるわけです。そして、なぜ日本ではこのように極端な人ロ構成に なっているのか、というと、「団塊の世代」の存在などの特殊要因があるためで、そのため「年金積立金」も世界一の 水準にまでなっているのです。さらに年金の財源は、保険料だけではなく、あくまで「国の保険の仕組み」なので、 財源として「税金」も入っているのです。 》 ▼ ネットで積立残高を調べてみると120兆円あったが、問題は多くが日本の国債にばけていること。また、年金支払に 税金も含まれていることは、全く知らなかった。だから、さほど心配する必要がない? 私の場合、家内も厚生年金に 40年近く入れていたので、合計で税込で350万(税抜きで300万余り)。持出しが家内の預金から年間で??万に なるが、地方もあって生活には不自由はない。欲しいものや、旅行も、外食も、現役時代に十分、楽しんだため、 TV番組で追体験をしながら見ていれば充分。 中小企業者や個人営業の場合は、別立て預金は当然のことで、敢えて 言うことでもはない! でも、周辺で、してない人が多い? また、保険屋と証券屋に騙されていたことすら気付いて いない? 他人事ではないが。 今さら年金の話題に熱中するようじゃ、B層もいいところ? まあ、面白いが! ・・・・・・ 4433, 閑話小題ー次のグーグルの新製品が面白い 2013年05月06日(月) * 次のグーグルの新製品が面白い ニュースでグーグルの次世代端末「グーグルグラス」を紹介していたのをYoutubeでみたが、これは面白い。 メガネのフレームの上部だけの柄に超小型カメラがつけ、視線が、そのままネットの生中継で世界に配信される。 見知らずの人の視線が、そのままリアルで見れる面白さは格別。これは視覚のツイッター。「カメラ、ビデオ」と発音すると、 その機能が立ち上がり自動撮影するという。 これをグーグル・アースに繋げると、アフリカや南米のある地域をクリックし、 見たいシーンを打ち込むと、誰かの目線が現れ出てくるのだろう。ジンバブエのバンジージャンプが見たいといえば、 飛び降りる画面を生で見ることも可能に? 日本橋三越本店の客か、店員の目線のアクセスも可能になるはず。 日本で売り出されるのは来年辺りだろうが、これが当たり前になるとしたら、まさにSF世界。 いや現在もそうか。 他のメーカーも、こういう類の情報端末が出してくるはず。情報端末の進化は止まることはない! 良いのか悪いのか? * 何歳まで生きたいですか?の質問に ある調査で、「あなたは何歳まで生きたいですか?」の質問に、 60歳未満が8・5%、70歳未満が15・1%、80歳未満が31・1%、90歳未満が54・1%、100歳未満が60・9%、 百歳以上が僅かに9・3%という。更に150歳以上は6・5%。私なら、90歳未満と答えるが、酒の飲み過ぎで無理。 それにしても意外な結果。神様がいたとして、「幾つまで生きたいのですか?希望を重視しますから」と問われたら、 やはり90歳と答える。「寝たきりでも良いですか?」と問われれば、躊躇する。元気が前提、いや絶対条件になる。 死ぬまで10年間は、何らかの形の介護を要するというから、80半ば? これだけ面白い情報が手軽に入手できる時代、 出来るだけ長生きしたいが、「生老病死」の苦痛を考えるとどうだろう? 不摂生もあり、せいぜい7〜8年か。 ・・・・・・ 4059, つれづれに ーネット社会の現在 2012年05月06日(日) * 飲食店の漫画の棚 ーデジタル本の世界 喫茶店や中華料理店のランチの楽しみの一つに、本棚の週刊誌か月刊誌を読むことがある。 最近、店内に入ると、 iPhoneかiPadで、その店が契約したネット上の本棚にアクセスして色いろの雑誌を読むことが出来るという。 店は一月7000円を業者に支払えば店内のネットで雑誌が見放題になるとか。よく考えるものである。 前回、70冊の蔵書をデジタル化にするため業者に依頼したが、先日、久々に、そのHPを見たところ、デジタル化した本を 月980円で見放題のサービスを始めていた。 漫画が中心とあったので、契約はしなかったが、これも面白い企画である。 現在、私が契約しているのは、朝日新聞のデジタル版と、朝日、毎日の週刊誌など数十冊が読めるビューンである。 朝日のデジタル版は月1000円の加算。ビューンは月480円。 もちろん有料でアクセス出来るブログがあるが、 写真集のデジタル本に有料でアクセス出来るのがある。幾つか買ってあるが、次々に更新されているのが良い。 * スマートフォンと、タブレット 現在、スマートフォンが爆発的に売れているという。iPhoneが初めて売り出された時に買ったが、画面が小さすぎて、 インプットに戸惑って使いこなすことが出来なかった。そこで学んだことは、二代目以降の機種変更になってから購入すること。 それもあってiPadは、二代目のiPad2になってから買うことにした。スマートフォンが爆発的普及は、携帯電話が 世の中を変えたように、世の中を更に大きく変えるだろう。 それはゲームや、ブログ、ツイッターなど書き込みや閲覧の 端末にも使える。小ささが逆に便利な場面で有効になる。電車や、車の移動とか、昼休みに何処にでも持ち歩けるからだ。 何ども書いているが、現在、普通の携帯電話とiPadを使い分けている。 PCは居間のTVの前と、仏間の書斎コーナーに iMac一台ずつ、とiPad、合計三台を使っているが、その使い分けのバランスは非常によい。 これに読書とTVと、 ペットのインコとくれば、お宅そのもの。図書館と、スポーツジムと、早朝のポタリングと、週二日の近くの店のランチで 息抜きをしているのが日課。 これまでのスリルとサスペンスのストレスが少ないのが、逆にストレスである。 ・・・・・・・ 3693, 自己を見つめる −15 2011年05月06日(金) * 幸福について (不幸について) ー2 「 自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 不幸は、その出来事の客観的説明の当否のいかんを越え、また、その人の主観的資質の鋭敏さの度合いのいかんを越えて、 その人に、いやおうなく襲いかかる絶対的事実である。 不幸は、その人の時間的歴史的な人生遍歴の過程のなかに突如、 痛苦を与える刑罰として立ち現れる、不可抗的な不倶戴天の敵である。不幸とは、その人を根底から震憾させる苦悩の化身である。 そうした不幸は、この世の中のいたるところで、不運、事故、災難、災害、病気、心痛、貧困、労苦、不遇、虐待、軋礫、失敗、 挫折、対立、不和、紛争、戦争などの種々様々な姿において、たえず出現の隙を窺っている悪夢である。したがって、不幸は、 ものの見方を変えることによって、消去したり、転換したりすることのできるような、たんに主観的な事柄では断じてない。 それは、深刻な苦難として、この世の中に、乗り越えがたい障壁の姿で、厳然と存在する。それゆえに、こうした不幸においては、 何よりも、その出来事が、その人にとって、この上なく不当で、許し難いものとして感受されるという点が大切である。 なぜ、自分は、このように、辛く、苦しい、耐えがたい悲惨や屈辱や困難を課せられねばならないのか、どうして、自分は、 このように、見捨てられ、罵倒され、除け者にされ、迫害される憂めに会ねばならないのか、と、いくら自問しても、 その理由が分からず、ただひたすら、苦悶し、絶望するところに、不幸と苦悩の本質があるのである。 そのことは、旧約聖書のヨブ記のなかに典型的に示されているとおりである。善人のヨブは、あるとき、理由もなく、 身の毛もよだつような苦難と不幸のすべてに襲われ、ついに、ヨブは、神を呪うほどの絶望と絶叫のなかに陥ってしまう。 こうしたヨブの心境こそは、この世の不幸と苦難に逢着したすべての人間が抱く感懐であり、苦悶であろう。・・・】 ▼ 人の間で生きている人間は、他者と自分とを比較し、色々憶測する傾向を持つ。 従って、大小種種の、不平不満、卑下慢心、 確執や争いが、あらゆるところに、絶え間なく起こる。 それは絶えず、出現を窺っている悪夢であるが、一度、檻から出たら、 本人とて抑えることが出来ない猛獣として暴れまわる。それが他虐になり、次に自虐として、深手を負うことになる。 ニーチェが度々引用したように「難破しながらも、よく航海したものだ」と授戒することが出来た人なら、直ぐに次の新たな 取り組みをすることができる。 しかし、意志薄弱者は、ただ恨む対象を探し、そこに執着し前進が出来なくなる。 その辺のことが理解できないのは、それまで生きてきた中で経験を消化してこなかったことに由来する。不幸は自分で招くこともある。 ・・・・・・・ 3328, HPを開設、10年目! 2010年05月06日(木) 一昨日で、このHPを開設して10年目に入った。旅行中も出発前に書きだめをして、会社の人に頼んで書き込んできたので、 ほぼ休んだことはない。 時どきスランプになるが何とか続けてきたが、書きあげる重要性が日ごと分かってくる。 一つのことを続けると、その習慣が自分自身になる。 ここまでくると、私の精神というより、魂の中核になる。 HPではレポート用紙で15枚分までの字数の制限があるので、数年前から毎日カットせざるをえないが、身を削るようで辛い。 それだけエネルギーが入っている。 第三者の目を意識しながら、自分の思いの倉庫(墓場?)として、その時どきの、 浮かんだ思い、習得した知識、面白そうな情報、潮流を書き出してきた。 あと一年で10年になるが、書きたいことは 書き出したつもり。 その時どきの時節のメルクマールとして、情報タンクとして非常に有効になっている。 また毎日、過去分の同月同日に書いた内容を読み返すことができるのが一番のメリット。 「書きだめをして何になるのか?」といわれても、返す言葉はないが、これが魂の中核なのだから、 中心点に向かって一日2〜3時間、気持ちを集中し続けている、それが全てである。絵、俳句など、それぞれ人によって違うが。 まず文章のテーマを考え、情報を集めて、書いて、何度か修正するプロセスが考えるということ。 いま書いている文章の読者は、未来の自分であり、過去から現在にいたる因縁ある人であり、新たな因縁のある人。 文章を書き、それを公開するのは恐ろしいところがある。 自分を曝け出してしまうからである。 今さら、仕方ないだろう! と、何度呟いたことか。 書き上げて、アップロードした瞬間に、見事なぐらいに内容を忘れてしまう。気持ちが入るほど、 そうなってくる。 したがて一年ごとに、その内容と出会うと、驚くことしばしば。 数年前の今日こんなことを考えていたのか、 こんな本を読んでいたのか、こんなことに出会っていたのか、等々に驚かされる。それは既に過ぎ去った過去の自分である。 (字数制限のためカット 2012年5月6日) ・・・・・・・ 2953,人はどうしてオヤジになるか? −3 2009年05月06日(水) * オバサン前段階のアラサーとアラフォー ―女の最後の輝く時ー 最近、アラサーとアラフォーという言葉がマスコミ上で目に付くようになった。40歳前後の女性を指して around 40を略してアラフォーという。日本的風土では働く女性は「仕事と結婚」の両立が大きな問題になっていた。 しかしこの世代は、男女雇用機会均等法のもとで社会進出を果たし、自由に選択できるようになった。 しかし、これが人生の転機を遅くさせ、大きな問題になっている。アラフォーはアラサーから派生した言葉。 アラサーとはaround 30を略した言葉で「30歳前後の女性」を指す。2005年の女性誌が使ったことから広まった。 彼女らは90年代中頃にコギャル文化を体験しており、団塊ジュニアに続く世代区分としてアラサーを用いるようになった。 それに次いで登場したアラフォーの概念で、1964年から1973年に産まれた人となる。40歳前後は、オバサン化するか どうかの瀬戸際である。もう一度女として花を咲かせるかどうかの?20年ほど前になるが、 ある大手の保険代理店の支店長が言った言葉が印象的だった。「女性の一番美しいのは40歳前後。 その年頃の女性は人生の分かれ道、何ともいえない色気が沸きあがっており、危ない時期でもある。 彼女らとは塀の上で仕事をしているので、一つ間違えると塀の向こう側に落ちてしまう」そういえば、スナックなどの アルバイト女性に、その頃の女性が目に付くが、なるほど色気が満ちている。しかし45歳を過ぎると同時に、 坂道を転げ落ちるのように変化するのも事実。 それにしてもアラサー、アラフォーとは、上手く命名したものである。 《そこのお嬢さん! 鏡ばかり見てないで(外装だけでなく)内装も手入れしておきなさい!》最近は、兄さんにも言えるが! ・・・・・・・・・ 2589, 日本の真実 2008年05月06日(火) 「ドル覇権の崩壊」と「連鎖する大暴落」の警告が、あまりに当たっているので、副島隆彦の「日本の真実」を、 アマゾンで買って読んでみた。「日本はアメリカの属国、日本の支配者層は、その傀儡の売国奴でしかない!」と、 辛らつに切り捨てている。 また、そう直視すると見えない真実が見えてくる。角栄や栄作など、隷属国家の悲哀を 一番良く知っているのだろう。角栄と、福田赳夫がアメリカに呼びつけられて、ある人物に大声で怒鳴れれている 現場の生々しい話を聞いたことがある。二人が震えていた姿が痛ましかったとか・・・ しかし、その御陰で、アメリカ型消費社会を享受することが出来たのである。 その毒饅頭のおかげで、脳までやられてしまったのが現在の日本の有様である。 ーまずは、その概要からー 「最高支配層だけが知っている日本の真実」 ー副島 隆彦 (著) ー表紙裏の「著者からのコメント」が面白い!ー 本書が提供するのは「日本の最高支配層の人間たちだけ」が知識と情報として占有し、隠し通し、一般国民には 絶対近づくことをさせなかった諸事実である。なぜ一般国民には大きな事実が知らされないのか? その理由は、現在の世界覇権国であるアメリカ合衆国の属国群のひとつであり、しかも属国の優等生として卑屈極まり ない現状にある私たち日本国の支配層の人間たちが、帝国からもたらせれる高度の情報と知識を独占することによって、 それら最高情報が生み出す価値を自分たちだけで享受し、そのことから来る圧倒的な優位性によって国内権力者層として 存在しているからである。だから、これらの秘密を公然と暴き立て、一般国民に知らせ、広めることが、私たちの日本国に どうしても必要なことである。そうすることで、一方で帝国から常に脅され、脅かされている現在の惨めな彼ら指導者たちと 一般国民の間に壁が消えて、日本人が一致団結して、国難に立ち向かうことができるのである。 「編著者のことば」より ー目次 (字数制限のためカット 2011年5月6日) ・・・・・・・・・ 2007年05月06日(日) 2224, 自分の居場所ヽ (★>з<)o○[ォハヨ]○o(>ε<☆)ノ 昔から、どの世界に行っても「自分の居場所のつくり方」は上手い方であった。 八人兄弟の末っ子と、商家の生活環境もあって、 大所帯の中で独りで自分の居場所を何時もつくっていたため。その条件が誰とも就かず離れずの間隔を幼児時期から身に着けていた。 人間は、両親との人間関係の相性が人間性のベースとなる。両親の愛情をたっぷり受ければ愛情に満たされた人間性になる。 両親の不仲の中で愛情が空回りになった子供は愛情不足になる。その不足を友人や恋愛相手に求めてしまい、 バランスが崩れてしまい、自己嫌悪になるケースが多い。その根本が、親への愛情に対する不平不満である。 愛情不足の人は、何時も自分の居場所に不安を感じとり、何処かに母の存在を求めて居場所の確保追われることになる。 (これは当人は気づいてない)その確保を探し求めても、所詮は虚構を求めているだけでしかない。 その解決は自分でしか出来ないが、「まあ、しょうがない!居場所は居直る心の状態しかない!」と自分の心の奥で悟るしかない。 (字数制限のためカット 2014年5月6日)
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2014年05月05日(月)
「よくもここまで騙したな これが[人殺し医療サギ]の実態だ! ーいのちを奪いながら金を奪うワンワールド支配者」船瀬 俊介 , ベンジャミン・フルフォード (著) 以下の内容紹介だけでも、この書の半分は言い尽くしている?あのベンジャミン。これぐらいでないと、面白くないが、 医者の世界では、今さらのこと? こういう視点も知っておいたほうがよい。 ー内容紹介ー 〜医療を殺人ビジネス化した者たちよ! 化けの皮はすでに剥がれている! ◎ がん患者1000人殺して一人前! ◎ 日本の内科医は1人平均1000人のがん患者を殺している ◎ 命を奪う、カネを奪う! 医者は完璧に白衣の殺人鬼、白衣の詐欺師! ◎ 日本の近代医学はどこをほじくり返しても詐欺とペテンと強盗と殺人だらけ ◎ 欧米医療というのは基本的に軍隊の医療 ◎ 足を切断や伝染病の治療には欧米医療はいいが、糖尿病とがんといった慢性病のときは絶対に関わらない方がいい ◎ 漢方も鍼灸も食事療法(ナチュロパシー)や整体療法(オステオパシー)も弾圧された ◎ マッサージもカイロプラクティックもサイコセラピーもホメオパシーも弾圧された ◎ 自然治癒力をサポートして病気を治す伝統的なテクノロジーは全部弾圧され、薬物療法だけが生き残った ◎ 伝統療法は、金融マフィアによって保険対象外にされた ◎ 強制的に保険料を取って、自分たちの息のかかった殺戮医療マフィアにだけおカネを回すシステム ◎ 医療の問題は上に行くとラムズフェルド、ブッシュ、ロックフェラーらに行き当たる ◎ 医者に金も命も投げ出す崖っぷち日本人よ! 今こそ、自分の脳を疑いなさい ◎ 薬漬け、検査漬けの放射線大量照射に生物兵器の毒物注入まで ◎ 抗がん剤は元々は廃棄に困った化学兵器の原料 ◎ 失敗する医者ほど儲かる /治す医者は失業 ◎ 医療は世にも不思議な失敗報酬の世界! ◎ 一番高い抗がん剤ペグイントロンは1グラム3億3170万円する ◎ マイクログラムまで薄めて使っても1回当たり何十万円、利益率は何万%にもなる ◎ 白血病はがんではない。 団十郎を殺した!?マイロターグという白血病の治療薬は、1グラム4800万円 ◎ マイロターグは投与した患者の90・5%が死ぬ! ◎ 輸血は人命を助けていない、むしろ殺している!? ◎ お年寄りが死ぬとわかるとここぞとばかりに点滴、投薬をやる香典医療というのがある。稼ぎどきならぬ殺しどき! ◎ 「現代医学の神は、唯一人しかいない、それは死神である」とベストセラー書籍『医者が患者をだますとき』の 著者ロバート・メンデルソンはいっている! だから病院が営業停止中には死人が減る!? ▼ 少し?過激に思えるが、何度か目を通すと決して過激ではなく、こんなものと気づくはず。医者にすれば、見送りの 手助けだが、患者からすれば殺人? 更に言えば、人間ドックや、健康診断が一般的に行われているのは世界で日本だけ。 先日、週刊ポストの広告見出しに、ー「血圧147は健康値」の怪奇ーがあった。 《 人間ドック学会が健康診断の基準値を大幅に緩和。他に「総コレストロール199ー>254」「悪玉コレストロール119ー> 178」「中性脂肪149ー>196」など、》 「これを元に、それまで飲んできた薬は何なんだ?」の疑問が起きて当然。 この変更だけをみても「健康人」を「病人」にして、薬漬けにする利権の闇が見えてくる。医療行政と製薬会社の利益のため、 一般国民が弄ばれている図式が透けてくる。昔、父親が高血圧で何時も気にしていたが、当時、年齢プラス90が目安と言う。 ところが、5年前に医師から聞かされたのが130。『これも、いい加減なので』と、言葉を加えていたが・・ で、健康センターで測ってみると125〜160の間で、平均すると140辺り。父から聞いていた数値からすると、私は158が目安。 140は少し高めだが、これで良しと思っていたが正解。これからして、医者は偉そうにしているが、詐欺、たかり、殺人集団? ・・・・・・ 4432,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −4 2013年05月05日(日) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 * ルート3:自分の小ささを客観視する道ー「1億7125分の1と、70億分の1」 今度は、時間――宇宙と生命の歴史1についてである。世界の人口からみれば、私は70億分に1。宇宙年齢からすると、 人の一生は1億7125分の1の存在でしかない。そう考えれば、深刻に自分の生き様など考えることはない。その自分の枠組も 勝手な定義でしかない。自分など何ということはない。 やっと、それが理解できるのが最期の最期とくる。 そのことが分からないから、「死ぬのが怖い」のである。 ー まずは、その辺りを抜粋してみるー ≪ すざまじく荒れ狂うひずんだ宇宙の中の、オァシスのような地球。光速で拡大することこそが普通である宇宙の中で、 あたかも静かに見える特殊で局所的な世界。そこに偶然生まれた人の命。なんとはかなく小さく特殊な現象であることか。 生命の誕生は、今から40億年前といわれている。 地球誕生から6億年経った頃。 霊長類が誕生したのは、6千5百年前。 現生人類であるホモ・サピエンスが出現七たのは25万年前。 中国その他で文明が誕生たのが今から6千年前(から9千年前)。 そういわれても、どれも大きな数字すぎて実感がわかない。 そこで試しに、137億年前のビヅグバンを、1月1日の午前零時、現在を一年後の12月31日の24時にたとえると。 つまり、宇宙の歴史を137億分の1に短縮してみると―― ・ビッグバンは、1月1日午前零時 ・地球誕生は、8月30日 ・生命の誕生は、9月15日 ・霊長類が誕生したのは12月30日午前6時26六分(新年まであと1日と約18時簡) ・原生人類のホモ.サピエンスが出現したのは12月31日午後11時50分 ・中国などで文明が生じたのが新年まで14秒前 ・人間の命は、80歳まで生きるとして、0・18秒。 宇宙の年齢の、1億7125分の1。 ちなみに、宇宙の直径が274億光年、人間の身長が170センチだとすると、人間の大きさは、宇宙の大きさの 1・44×10の25乗分の一というとてつもない小ささだ。それに比べ人間の一生は、宇宙が経た時の1億7125分の1。 時間の差は、空間の差よりもはるかに小さい。これは意外な気もする。1億7125分の1とは途方もなく小さいとお思い かもしれないが、地球の人口は70億人。あなたの心は、地球上にある人間の心の70億分の1に過ぎない。 一億7125分の1はそれよりも約四十倍も大きい。意外と宇宙の中での人間の一生も長いという気がしないでもない。 とはいえ、宇宙の年齢を一年にたどえると、人間の一生は0・18秒だ。≫ ▼ 前にも書いたが、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している可能性があると知って世界観が変わった。 上記のことすら、問題にならない。ケセラセラだが、当面、死ぬまでの生活もある。一日一回、このような壮大な 宇宙と、その中の自分を考えればよい。象を世界に、その皮膚の間に住む寄生虫、70億分の1の自分。その象も、 この宇宙からみれば、10の500乗の宇宙からみれば、チリですらない微細の存在。だからこそ、生きているうち! ・・・・・・ 4058, B層の暴走と価値の錯乱 2012年05月05日(土) 二年前の5月2日に ー3324, 「B層」という「IQ]が低い人々ー という文章を書いていた。(3日前の、ここにある) ところが昨日の産経新聞の一面の【賢者に学ぶ】「素人の暴走と価値の錯乱」で、このB層の人たちを取り上げていた。 選挙対策として、この層を的にして狙い打つには問題がない。しかし、彼らB層の価値観を押し付けようとする機運が、 全体を導き始めたため、社会が混乱を始めてきている。その危険な状況を理路整然と論じた問題提起が以下である。 【賢者に学ぶ】ー素人の暴走と価値の錯乱ー(哲学者・適菜収) 産経新聞 5月4日 ≪ ・・・19世紀ドイツの哲学者ニーチェは「神は死んだ」と言った。その意味は、西欧において 価値の根拠とされてきた 《神の視点=普遍的真理》を設定することが理論上不可能になったということだ。にもかかわらず、《神》は平等主義や民主主義といった 近代イデオロギーに姿を変えて私たちを支配している。その根底にあるのは「神との距離において人間は等価である」という信仰だ。 近代大衆社会はこうしたキリスト教本能をもつがゆえに、あらゆる格差、階層的なものを破壊する。 また、《本当に価値があるもの》 《偉大なもの》《美しいもの》は貶められ、《つまらないもの》《新奇なもの》《卑小なもの》が評価されるようになる。 その結果、芸術家気取りのゲテモノ、半可通、あらゆる領域における素人が権力をもつようになってしまった。 テレビの音楽番組では、芸術の対極にあるジャリタレが「アーティスト」と呼ばれ、ワイドショーでは有象無象の評論家が 専門外のトピックについて無責任なコメントを垂れ流している。 こうした価値の錯乱の上に成立するのが《B層文化》だ。 前回も述べたように《B層》とは平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で「マスメディアに 踊らされやすい知的弱者、ひいては「近代的諸価値を妄信する層」を指す。 この《B層》が現在消費者の主流になっている。 そこでは大企業のエリートがマーケティングを駆使し、大量の資本を投入することで《B層》の琴線に触れるコンテンツを量産している。 ・・・ ニーチェは言う。「畜群人間は、例外人間や超人がいだくのとは異なった事物のところで美の価値感情をいだくであろう」 畜群はまさに《B層》である。真っ当な価値判断ができない人々だ。彼ら《B層》は、圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を 社会に押し付けようとする。そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ。ありとあらゆるプロの領域、 職人の領域が侵食され、しまいには素人が社会を導こうと決心する。これこそがニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的な姿だ。 与党政府も素人に陥落されつつある。前防衛相の一川保夫は「(自分は)安全保障の素人」と誇らしげに語り、続いて防衛相になった 田中直紀は素人以前の「ド素人」だった。 閣僚から地方首長にいたるまで政治家の劣化が急速に進んだ背景には、 《偽装した神=近代イデオロギー》による価値の錯乱という問題が潜んでいる。 ▼ 恐ろしい末期現象に日本は置かれている。その一つにマスコミが流す世論調査がある。世論の大方を占めているのが B層の人たち。彼らは質問の内容で、どのようにも誘導可能。 政治のトップ判断の重要事案に、それを使い権力を駆使する。 その背後に、アメリカの巧妙な誘導が見え隠れする。B層が「近代的諸価値を妄信する層」なら、過っての?私も当然、その層。 この10年、哲学に目覚め少しは盲信から抜けてはきた、しかし森林は面白かったが・・で、サバンナでは?この蓄群が屯する。 ・・・・・・・ 3692, 自己を見つめる −14 2011年05月05日(木) * 幸福について ー1 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 私たちは、幸福であるとき、その幸福をあまり感じない。不幸になったとき、私たちは、初めて、自分に幸福が失われている ことを痛感し、深く傷つく。 幸福は、たいていの場合、不幸を介して、その姿を浮かび上がらせてくる失われた桃源郷である。 幸福は、不幸という現実のなかで、初めて見つめられる幻影、そして追い求められる夢、切なく慕われる理想である。 ダンテが歌ったように、「幸なくて 幸ありし日をしのぶより なほ大いなる 苦患なし」(山川丙三郎訳)である。 否定的な状況のなかで、肯定的な状況に憧れ、それでいてその達せられない悩みをかこつというのが、人間における幸福と 不幸の相貌である。 幸福と不幸は、離れ難く結びついている。 人間は、不幸の現実を直視しながら、嘆きと悲しみのなかで、 幸福を思うのである。 望みをもたない人間というものは、存在しない。 人間であるということは、何らかの願いを胸に抱き、 その実現を希求し、その願望の達成を欣求し、そのために励むということである。何らかの目的を定め、それに向けた自己拡充に おいて、その可能性から現実性への転換と具現を冀い、そのために熱い胸を躍らせるというのが、人間であることの根底を形作って いる。してみれば、現在の欠如状態から、いつの日にか将来の充実状態へと、恋いこがれる熱情は、人間にとって本質的である。 そうだとすれば、欠如状態としての不幸と、充実状態としての幸福の二つは、人間を構成する基本要因だということになる。】 ー「幸福は、不幸を介して、その姿を浮かび上がらせてくる桃源郷」は、言いえてる。 「幸福は不幸という現実を通して見つめられる幻影」である。時代背景があるが、若い時には「自分は間違いなく幸福になるだろう」 という変な確信があった。 大かたの青春時代は決して幸せとは言えない四苦八苦を過ごしている時期である。 その頃の幸せの願望は祈りに近い感がした。 ところが人生の終盤に差し掛かってくると、幸せの願望も失せてしまい、死の不安が 立ち現れてくる。 精一杯生きてきたのに、あの桃源郷の正体も見え隠れする。 先に逝った人たちの最期は、不幸に見えてしまう。 老いが進み、死が現実問題として迫ってきて、漠然とした不安が心を覆ってくる。その時に、過去の充実していた時の思い出に 逃避するしかなくなる。 その時、人生を生きてきた通りの老いと死が、自分を覆いつつむ。 これが自分の人生だったのかと! ・・・・・・・ 3327, 偏差値導入が日本人を劇的に変えた 2010年05月05日(水) 「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ー3 * 偏差値導入が日本人を劇的に変えた 大前健一は、改憲論者であると同時に新自由主義者である。また「安保闘争以降の偏差値による選別教育が日本人の愚民を 押しすすめる結果になった」と主張。 偏差値による選別教育の年代とは 現在の40歳代前半から20歳後半である。 ーまずは、その部分を抜粋してみるー 日本で、詰め込み教育、受験一辺倒教育、偏差値による選別教育が始ったのは1960年代後半の安保・大学紛争以後である。 今から考えると、あそこが分岐点であった。 あの紛争で、政府は、過激な学生運動に非常に強い危機感を持った。 ここで、国民教育を民化政策に転換した。その象徴が「偏差値教育」である。・・・・ 本来、人間の能力は自分で判断すべきである。自分のやりたいことは、その判断に基づいて自分で決めること。 ところが、日本の子供たちは、自分の能力の判断をする大切な時期を偏差値に支配された世界で過ごすため、 自分で自分を判断する力をなくし、やりたいことも自分ではなく、偏差値で決めることになってしまったのである。 こうなると本人も偏差値による数字を先生に言われることで‘予定調和’して、「自分はこの程度」と簡単に思ってしまう。 学校や塾で「この数値では、この学校は無理だ]と、繰り返し言われれば、目標を上にあげることなぞ無理になる。 これが、偏差値教育の持つ最大の弊害である。 これは工業化社会の確立を目指す政府には非常に都合のよい政策である。それぞれが、能力に見合った位置で仲良く 協力しあってやっていくことが必要とされるからだ。 こういう飼いならされたロボット人間が、大量に必要なのが、 工業化社会であって、そのために、偏差値による選別有効に働いた。これは、個人個人から意欲というもの、 アンビションを奪ってしまったのである。現在の40代前後の偏差値世代の人たちは、非常に従順なのが多い。 彼らは共通の思い込み「偏差値が高い=頭がよい」と子供の頃から植えつけられていて、そこから抜け出さないのである。 クラスメート、同級生といった狭い範囲で考えてみると、自分たちより数値の高い人が、マスコミに行ったり、 役所に行っているのを見て、彼らは偏差値が高いから頭がよい。だから、彼らの言うことは正しいと、勝手に思い込んでいる。 ▼ この年代が社会の中心になってきたのが、この日本の不況の隠れた真実である。 この年代の人たちと、この十年来、 ツアーなどで一緒になる機会が多かったが、前頭葉がゼロというほど思いざるを得ないと感じていた。 勝手に自分たちの階級を決め付け、それ以外には一切を無視をする。 無視なら、まだマシだが、否定をしてくる。 その後の年代を大前は、「少年ジャンプ世代」、「ゲームキッズ世代」と分けているが、それは次回。 ・・・・・・・・ 2952,スリルな瀬戸際だった日々 ―2 2009年05月05日(火) 前回の凍りついた二日間で思い出したことがある。 《まずは、以前書いた文章を御覧あれ!》 (字数制限のためカット2011年5月5日) ・・・・・・・・・ 2588, 閑話小題 2008年05月05日(月) * パペット パペットとは、手や指を入れて遊ぶことができるぬいぐるみのことをいう。 他には影の人物や国に操られる人間や国を指す。日本などは、ある意味でアメリカのパペットとである。 以前に「新潟県を活性化する会」を何度かやらされたことがあった。いい様に操られる猿回しのエテと気づいて、 さっさと役割を降りたが・・。3?4回まで!と始める前に約束をしたが、それを了解をしておいても、 「縛り付けをして役割から抜けられなくなるのが世の常」チャンと、そういう役割の英語「パペット」という 専門単語があったのである。それが仕事ならパペットとして納得するが。 地元のために発展を考える中小企業の社長という役の振り付けで、ボランティアだとか。 それを知っていて巧妙に役割に収めようというのも、その人の仕事なのだろうが、私は何の価値もない。 乗りかかる私も甘いが、いや三回ぐらいなら面白いと割り切っていたから、甘くはないか? それ以上は絶対にやらないこと位見抜けなかったのか? いや、見抜けないか? (字数制限のためカット2012年5月5日) ・・・・・・・・・ 2007年05月05日(土) 2223, HP開設、6周年 [○´・ω・]ノオハヨウ! 毎年のように、開設記念日に感想を書いていた。今年も二日遅れになるが書くことにした。 実のところ、全エネルギーを入れて書き続ていて複雑な気持ちがある。ネタ(テーマ)を選ぶだけで神経を 集中せざるを得ない。それと、ネタ切れになるので、何処かからネタを探してこなけかればならない。 しかし良寛の発句「焚くほどは風が持てくる落葉かな」の、落ち葉と同じように何時の間にか湧いてくる。 その感覚とスリルを楽しまないと続かない。考えつく全てを吐き出して何も書くことが無くなれば、 その境界の外に出ざるをえない。それが、この随想日記を書き続ける一番のプラスニなる。 書くために読む、書くために考える、書くために本を買う、そして借りる、そしてウソも吐き出す。 (字数制限の関係でカット2,010年05・05) ・・・・・・・・ 2006年05月05日(金) 1858, ローマから日本が見える ー10 ォ'`ョ━━(。・∀・)ノ゙━━ゥ★ この本を読んでいると史実を読んでいるというより、壮大な歴史小説を読んでいるようだ。 一人一人がそれぞれの立場をわきまえて役割をこなしている。当然、ローマに敵対する英雄もいる。 カルタゴの英雄ハンニバルである。まずは第5章のハンニバルの挑戦 の概略を抜粋する。 ー第5章 ハンニバルの挑戦 ー1 (字数の関係でカット2,008年0505)
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2014年05月04日(日)
<世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> ー細野真紘(2014年の論点100) * 年金の根本的誤解 これを読むまで、年金を根本的誤解をしていた。<「それで老後の生活は十分」というものではなく、あくまで 「老後の最低限の補助」という位置づけ>という。 そうすると、我われ国民が、ほぼ誤解していることになる。 我家も、家内の預金を取崩し、年金に加えて生活しているが、この根本の考えが間違いだった! ーその辺りからー 《 年金について、TVでよく次のような街頭インタビェーが出てきます。記者「あなたの年金で生活は十分ですか?」 年金受給者の主婦「いや、月5、6万円じゃあ全然足りない。だから、仕方なく預金を取り崩さないといけない状態だ」 このようなやりとりが、何の疑いもなく放送され続けているが、これに基本的な「誤解」があると気付いている人は どれほどいるのでしょう? まず、この記者の質問自体がおかしいが、そもそも年金というのは、「それだけで 老後の生活は十分」というものではなく、あくまで「老後の最低限の補助」という位置づけになっている。だからこそ 昔から人は、自分自身で貯金をするわけです。これは、特に、日本のような「低負担」の国では必然的な行動の結果です。 さらに言うと、インタビェーでコメントしている入も、誘導尋問に乗っかっておかしな発言をしています。 それは、そもそも貯蓄は「老後の備え」として貯めていたわけで「老後に取り崩す」というのは、極めて当然の行動のはず。 それなのに「国に感情をぶつける」ように答えてしまっているのです。なぜこの「矛盾だらけのテレビ報道」に対して、 これまで誰も疑問を抱かなかったのでしょうか? これは、一言でいうと「社会保障に関する教育の欠如」に尽きます。 つまり、教育が全く機能しでいないので、視聴者が判断できなくなってしまっているわけです。 では、どのように「国の年金」を捉えておけばいいのでしょうか。これは、日本の年金とは「老後に国から死亡するまで もらえるお弁当」だと捉えておくとイメージもしやすいし、根本的な誤解も減っていきます。・・・ 》 ▼ 弁当の飯とおかずの例えが,解りやすい。ということは、大部分の人たちは、老後は飯だけの生活が待っている ことになる。 ネットで中小企業の数を調べてみると、【 2006年で、420万社で我が国の企業数の99.7%を占め、 中小企業の従業者数は2,784万人で我が国の雇用の約7割を占めている。また、国民総生産の約2割を占める製造業においても、 2008年には、中小企業は48.4兆円と製造業付加価値額の約5割を占めている 】とある。そうすると、国民の多くの老後に、 決して楽ではない生活が待っているのが現実。それから考えると、少ない給与の中で2割は別途積立など蓄財が必要になる。 消費税の3%値上げや、インフレターゲットなど、国民にとって、実際には、聞捨てにならないこと! ーつづく ・・・・・・ 4431, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −3 2013年05月04日(土) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 * ルート2:直ぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道) 人はいずれ死んでしまう。直ぐか、そのチョッと先かの差でしかない。 で、悲観的になるか、楽観的になるか。 誰もが楽観的の方が良いと思うが、悲観も時に必要。ブラック・スワンが80年の人生のスパンに、必ず何羽かが舞い降りる。 思いもよらないことだらけ、これが人生。だからハリケーンや地震多発地帯の住宅ではシェルターが必要。それを人生にも 組み込む必要性がある。そのためにも悲観は必要。悲観のレールに楽観の列車で走れば良い。 ー箇所が面白い!ー ≪ 人生は絶望か、希望か?では、本質的には意味のない人生を、どう生きればいいのだろうか。以下の二つの方向性がある。 (1) どうせ人生は無意味なんだから、はかなく悲しい、と絶望に向かう生き方。 (2) 人生には定められた意味などないんだから、人生の足かせを取り去り、むしろ自由に人生をデザインして 軽やかにのびのび生きていこう、とう希望に向かう生き方。 (1)と捉えるか、(2)と捉えるか・・ あなたはもともとお金を持っていなかったとしよう。ところが何らかの理由で今は一万円をもっている。しかし何らかの理由で、 そのお金はなくなる。これをどう捉えるか。どうせお金はなくなるんだから、はかなく悲しい、と絶望するか、たまたま一万円 持っていると希望を持つか。これと同じだ。あなたはもともと生きてなどいなかった。ところが、何らかの理由で今は生きている。 しかし、いずれまた無に戻る。中島義道だったら「この世に自分の意志ではなく生まれさせられ、苦しみあえいで生きねば ならないから、はかなく悲しい」と絶望するかもしれない。 (1)型の捉え方だ。 しかし、見方を変えれば「なんと幸運なことに、何の因果か、たまたま、生きているかのような幻想を一的に手に入れた。 なんてラッキーなことか」 これが(2)だ。 つまり、人生とはあぶく銭。生まれる前には何もなかった。 ところが、何の因果か、宇宙ができ、有機物の塊が生物になり、それが進化して、人間になった。その中の一人として、 何の偶然か、あなたが生まれた。生まれたての時は、何も考えなかったが、脳が成長・学習して今に至った。 これがラッキーでなくてなんだろう。あなたにとって、宇宙史上最大のラッキーの一つだ。死刑というより、恵みだ。 信じられない、鮮烈な奇跡である。そんな奇跡を楽しまずして、この奇跡が再び失われてしまうことにフォーカスを 当て続けるなんて、もったいない。それよりも、この刹那の偶然を、大いに楽しもうではないかが、それが、(2)だ。 一万円を得たこの奇跡的な現在を喜ぶか、その一万円を失う未来を憂うか。その違いが(1)と(2)の違いだ。 (1)は、いま一万円を持っていることから出発しようとするから、失うことの絶望に向かう。それって近視眼的ではないか。 一万円を得たという既得権は、既得権。それは当然としておいておき、一万円の維持にフォーカスしている。 それよりも、人生をその始まりから俯瞰する視点に立ち、もともとゼロだったものが一万円になったこの人生のあぶく銭を 楽しもうではないか、というのが(2)だ。 視野が広い。 ルートと関連付けるなら、今一万円を持っていると思っているのは、 幻想だ。本当は持っていないのだ。誰かが「自由に使っていいよ」と言い、そっと貸してくれたのだ。このラッキーな一万円を、 幻想だと知りながら、ぱーっと使おうではないか。 そして、なくなったら、なくなったとき。くよくよしたって仕方がない。 もともと持っていなかったのだ。・・・ ≫ ▼「要は生のラッキーを楽しみ、死の恐怖を超越すべし」からすると、この辺りを理解してないと人生を誤る。 それを教えるのが親の務めである。必要なのが教養。 生まれたときからの環境などが備わっているかどうかもある。 幸せな家系は幸せに、不幸な家系は幸せになる傾向が強い。26歳で千葉で、34歳で新潟駅前で創業を決意をした時、 特に新潟駅前の時は、500%の成功するだろうという確信があったが、兎にも角にも、何にも知らない業種。土地の時価を 含めて当時の私の能力からして、やはり博打。魂が震える思いである。で、自然考えたのが、上記のこと。 「せっかく与えられたチャンス。もし失敗しても、全てを失っても後悔はしない」と! だから現在、さばさばしている。 万一の備えはしていたこともあるが・・ 人生も、「ご覧のとおり、そのまま結構!」と、開き直りか。 日々是口実! ・・・・・・ 4057, 随想日記も12周年 2012年05月04日(金) 11年前の5月4日にHPを開設してから連日、ほぼ休まずに掲載してきた。旅行時は知人に頼んで書きだめしたのを当日ごとに アップしていた。12周年を期に気楽に休むつもりである。休み癖をつけると続かなくなる心配が逆に、ここまで続けることが出来た。 内容はともかく、「自分に納得できる文章にすること」を心掛けてきた。毎日、同月同日分の10年分を読み返しているが、手を抜いた 文は少ない。 大相撲、全日本柔道選手権、新年とか殆んど欠かさず同日に、同テーマの感想を読むと不思議な奇妙な感覚になる。 読んでいると、変わらない自分と、変わってしまった自分に気づくことがある。 ここまで書きためると自分自身の墓場そのもの。 飾ろうにも飾ろうとしている自分が現れ出る。従って正直に書くことになるが、それが人を大きく傷を付けてしまう。言葉の力は大きい。 大まかに、「読書日記」「過去の思い出」「現在の社会現象と分析」「つれづれに」「箴言」「新たに知った言葉」などに分けられる。 「書くということは、書き続ける自分を維持するための行為」ということに気づいている。思いを、印象を、書き出すということは一度、 脳から文として出し、吟味することになる。書く行為そのものが考えることになる。毎日、読み返し11年分の自分に出会っているが、 そこに自分の小さな歴史をみている。 もし書いてなく、完全忘却をしたら、元々、何も無かったのと同じでは?と思うことさえある。 実家の事業を5年足らず携わった時、気持ちの余裕が無かったこともあり、写真も、日記も殆んど残っていない。書き残していたら 面白い断片が数限りなくあった。大変だったが自分の力が十二分に発揮できた時期だった。このシリーズは心底では自分に120点。 だから逆に書き残さなかったのが良かったとも言える。 おいおい、その時のことを書くつもりだが・・・また人を傷をつけるのか? 毎日、書き出す習慣も慣れてくるとゲーム感覚になる。 ネタ切れの際(きわ)に常に立っているスリルと苦痛が逆に面白味を増す。 ・・・・・・・ 3691, 自己を見つめる −13 2011年05月04日(水) * 運命について ーp226 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 ハイデッガーの言い方に従えば、私たちは存在の真理の「呼び求める促し」の中に立たされていることになる。 私たち人間は、そうした運命的なものの呼びかけに聴従せざるをえない、あり方を、根底に宿し、 それに聴従することによって初めて、真に生きることを果たしうるものというように捉えていった。 ・・・自己と歴史の由来を、その根源から聴き取って、それをその将来と結びつけることによって初めて、人間は、 自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り当てることができるようになると説かれたわけである。ここに、現代における 優れた運命思想の一つがあると言っても過言ではない。 ハイデッガーによれば、私たちは、この世の中に生きるときに、 予期しえない形で「降りかかってくる」、さまざまな「偶然」の出来事にさらされているのである。ということは、 人間は、出来事の出現をすべて見通し、それを支配することのできる神ではないということである。 人間は、非力で、無力なのである。しかし、それでいて、人間は、自分なりの情熱と威力において、 自己の本来的存在の証を立て、それを刻み残そうとする。 そうした覚悟のうちで初めて、立ちはだかる宿命的な 困難と格闘しながら、人間は、真の存在の呼びかけを、運命の声として聞き取りつつ、それに聴従して 本来的に実存しようとするのである。 ここに、優れた運命思想があることはたしかである。 】 ▼「運命」について、考えさせられる内容である。( 存在の真理の「呼び求める促し」に立たされ、運命的なものの 呼びかけに聴従せざるを得ない、あり方を、根底に宿し、それに聴従することによって、真にいきることを果たしえる) これが運命に従って生きるということである。これが本来的に実存しようとすることである。それぞれ天命、宿命、運命がある。 その中で、運命は自分で切り開いていくもの。 自分で真の存在の呼びかけを聞き取り、聴従し、実存しようとすることである。 そうこう考えると、運命に対する見方が変わってくる。 自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り当て、前に進むことが 運命に従うことになる。 それとて下記のような虚無的見方からすれば、些細なことでしかないが。 ・・・・・・・ 3326, 人みな骨になるならば ー12 2010年05月04日(火) この著書は、蓮如上人の「白骨の御文章」と「般若心教」の視点から、当たり前と信じている日常の思い込みを一つずつ取上げ、 その根拠を潰している。 何かにとらわれり、行きづまった時に、この書は、それが如何に取るに足らないことかを諭してくれる。 葬式や法事で参列者全員がこの「白骨の御文章」を読経することがある。死を第三者でなく自分に当てはめて考えさせるためである。 そこで改めてネットで検索して、コピーしてみた。 ー蓮如上人の「白骨の御文章」ー ≪ それ、人間の浮生なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。 されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。 一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。 我や先、人や先、今日をも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。 されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。 既に無常の風来りぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて 李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。 あわれというも中々おろかなり。 されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、 はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。≫ ー以上だが、父の生前の口ぐせ、「死んでしまえば(生きている方からすれば)それまでよ!」である。 あるのは、いま、ここ、だけである。過去の、あの時も、現在も、「いま、ここ」しかない。 一期一会である。 それぞれが、いま、ここ、で生きている。そして、それも、確かに存在していると感じるが、実は幻想。 自分の感覚という器官が能作しているだけである。 夢・幻でしかないのである。 で、確認で酒を飲む、のか! ・・・・・・・・ 2951,人はどうしてオヤジになるか? −2 2009年05月04日(月) * 女はどうしてオバサンになるか? 「人はどうしてオヤジになるか?」というなら「女はどうしてオバサンになるか?」を考えてみたくなる。 ーそれではオバサンとは、どういう人なのだろか?ー 《30代後半から40歳前後の大きな境目として、女を捨てると同時に恥じらいを捨て「怖いものがなくなった」存在で、 特に徒党を組むと非社会性が露出する。 お婆ちゃんといわれる前に、それまで内に圧縮されていたエネルギーが非社会的行為として 露出する歪んだ「突然変異の一時的生きもの」である。彼女?を見ようと思ったら、デパ地下とか、ホテルのランチバイキングに行くと 徒党を組んだ姿が見られる》 ところで、秘境旅行に行くと、必ずといってよいほど「離れオバサン」が参加している。 これが恐ろしい存在である。具体的に書くのを憚るほど唯我独善。 今回は、そこまでは書かないでおく。 逆に40歳前後までに、女としても人間としても自分を見つめ、「個」としての自分を確立し、責任を持って生き、 自信に満ちた態度を持てる女性を「マダム」という。それに対しオバサンは自己管理ができないで、集団化した第三の性化した存在。 (以下は字数の関係でカット。2012年05月04日) ・・・・・・・・・ 2587, 幸福大国ブータンから、幸せとは何かを考える 2008年05月04日(日) 国民の97%が幸福と実感し、自殺者ゼロの国、40年前には国土の5割以下だった森林面積が、現在は7割以上に回復し、 経済成長ではなく「国民総幸福」を国の指標とし、独自の「豊かさ」を目指すブータンという国がある。 数年前にTVのドキュメントで見て気になっていたが、図書館で、この国の第四代国王王妃が、その国の素顔と ブータン人の死生観などを書いていた本を見つけ早速読んでみたが、何とも心の豊かさが滲み出ている内容であった。 ブータンの幸せ指数世界一だが、物資や食料の欠乏は、心の貧困には繋がらない証明になる。 (以下は字数の関係でカット。2011年05月04日) ・・・・・・・・・ 2007年05月04日(金) 2222, 平凡って幸せなの? ー2 ♪ヾ(*'ー')*'ー')*'ー')/" オッハヨウ! 平凡って幸せなの?という、何気ない家内の質問に、「そういえば、平凡など考えたことがないし、 平凡の日々を過ごしていながら、平凡を嫌って生きてきた自分に気がついた。」というのが本音である。 しかし過去を振り返ると、平凡な日々のなかにこそ人生の真実があったように思える。 しかし、これも縦に立ち上がっている、問題の陰に隠れてしまって記憶には残らない。 記憶に残らないということは、無に等しいと思いがちになってしまう。ただ合せ鏡で平凡の生き方をしている人を見ると、 やはり?とも、思ってしまうが。「平凡とは?」と検索をしたら、面白い質問に行き当たった。 まずは、その部分を・・・ <平凡な生活に対する疑問> 「毎日を平凡に生きている人間って、どうして生きているんでしょうか? はっきり言って僕は、そういう人間は死んでしまってもいいと思います。毎日何も変化のない 暮らしというのは最も最低な人間の生き方と思うのですが・・みなさんはどう思いますか? 」 ▼ この答えが、面白いので後にコピーしたが、平凡は一番身近の問題であり、過去には多くの人が名言を残している。 ところで平凡って何だろうか? 非凡とは何だろうか? 考えてみたら非常に難しい問題である。 「死んでしまえばよい」でなく「死んだも同然」と言えば良いのだ。「死んでしまえばよい」でなくては「釣り質問」 にはならないか? ところで、若い時に「こんな生活を送っていて良いのだろか? もっと良い生き方が在るのじゃないか」と何時も思っていた。 今でも、「二度とない人生、悔いのない一日を過ごすよう心がける」が、 私の信条の一つである。これも「平凡の人生を否定する言葉」ではないか。 平凡に対する、テーゼ・アンチテーゼとして、自分で何時も問答をしなければならない問題である。 ==== *投票でベストアンサーに選ばれた回答 (字数制限のため、中間カット 2010年5月4日) ーー 以上だが、なかなか含蓄がある答えが多い。平凡、非凡を何を持っていうのかという問題にもなるが、王陽明に影響を受けた 我が長岡藩の河井継之助は「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ屁もこけ。 (字数制限のため、中間カット 2012年5月4日)
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2014年05月03日(土)
* 苦悩の時間的推移 この節目の一連の精神的苦痛の実感は 「 ①痛いー> ②痛・哀しいー> ③痛・気持ち良い(痛みに慣れる)ー> ④痛・面白い(立場を客観視できる)」へと変化している。 もちろん七転八倒をした上のことだが・・ 私のすぐ上の姉の連れが20年前に亡くなった時に、葬儀の席で、一まわり以上年上の従姉妹が、姉に 『私の経験からみて、三年で哀しみは消えるよ!』と慰めていた。 時間が解決する『時間薬』である。 青年期からの節目(挫折)の苦痛の経過を振返ると、大よそ上記の経過をたどったが、大たい次の障害への取組で、 それらが消えていった。前向きに生きることが、如何に重要かである。 そして、最後に、その痛いが無くなり、 「ああ、面白かった」だけが残るなら、ハッピーリタイアよりは良い? 肯定的に捉えれば、それを境に全く違った 新世界が開けることになる。その世界からみると、節目前の自分が、何とも滑稽に思えるもの。新しい自分の再生が、 何とも奇妙な感覚である。「泣いても笑っても同じ空」で、笑ってきたが、泣きが不足していたのだろう、私には。 母親から聞いた話が耳に残っている。『小姑の虐めに、耐えられず実家に帰ったところ、母に〈シッカリしなさい! 一番辛い時が人生で一番、良い時なのよ〉と、励まされた』と。見方によれば、この3年間が、私の人生で一番良い時? といえば、思い当たるフシもある。いや、サホド辛くもなかった?どうだろう? 少なくとも、人生で一番、内省できた ことと、解放感があったことは事実。 本当に精神的苦痛なんど、あったのだろうか? それからも、解放された? 成るほど、人間は少しハンデを負って、《痛》が、頭に残っていた方が良いのかもしれない。どの道、10年後には、 8.9分は存在していないのだから。苦悩も、解放も、知的欲求も、感動も、感謝も、至高体験も、生きている今のうち。 ・・・・・・ 4430,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −2 2013年05月03日(金) * ルート1 心が幻想だと理解する道(脳科学の道) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 信長が、幸若舞の演目のひとつの「敦盛」を好んで舞っていたが、そこには、 「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ・・」という詞章があり、織田信長がこの節を特に好んで 演じたと伝えられている。人生振り返れば全てが夢幻。 その辺りを以下のように述べている。 ≪ 古くは進化論で有名なダーウィンが、感情は基本的に「幸福」「驚き」「恐怖」「怒り」「悲しみ」「嫌悪」「軽蔑」の 七つから成ると述べている。また、心理学者エクマンは、表情から見た感情には、「幸福」「驚き」「恐怖」「怒り」「悲しみ」 「嫌悪」の六つがあるという。軽蔑を感情に含むかどうかだけが異なるが、あとは同じ。「幸福」が感情だというと日本語では やや不自然な感じがするかもしれないが、「ハッピネス」を「楽しさ」と訳さずに「幸福」と訳したと解釈すれば、違和感はない。 ちょっと驚くのは、ポジティブな感情は「幸福(楽しさ)」だけで、他の五つないし六つはネガティブな感情だという点だ。 ああ、人間のポジティブとネガティブは、なんて非対称なんだろう。いずれにせよ、恐怖=怖さ。人間は、怖いという感情を持つ。 ちなみに、恐怖に限らず、あらゆる感情の記憶はすべて大脳辺縁系に蓄えられているといわれる。このため、大脳辺縁系は心の 中心だという人もいるくらいだ。・・・ もし人間に感情が無かったら、人間社会は、ロボットの集団、ないしはアリの集団の ように、ただ役割分担をし、ただ生きて死んでいくような、無機質な社会だったに違いない。・・・シマウマの群がライオンに 襲われたとき、一匹が犠牲になる。それはお布施と同じで、一匹の命をライオンに提供しているのだという。あたかもお布施の ように思えるシステムが、種と種の間の調和のために成り立っていることは、進化の当然の帰結だと言うべきだろう。・・・ 要するに、生物種は、個体の死へのセンチメンタルを超えたダイナミズムによって進化を遂げただけ。それだけのこと。≫ ▼ 一人称の死は存在しない。死んだ瞬間、無になるからだ。あるのは二人称と三人称の死しかない。怖いというのも 感情の一つなら、心=感情は幻想と理解すれば、死は恐ろしくないはず。固体の死への感傷を超えたダイナミズムが猿から 人間に進化させたのだ。一人称の私の死など、真面目に考えることはない、ということ。死ねば幻想が抜けたゴミでしかない。 逆に、夢幻こそ大事にすべきといえる。小説、映画、ドラマ、コミックも作者の創作という幻想。 だから面白い。 ・・・・・・ 4056, 個性など、どうでも良い。的を絞った意欲と根気だけ! 2012年05月03日(木) * どう騒いでも、われわれは集合体の一部なのだ ー 「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より ≪ 結局のところ、なにをどうしてみたところで、われわれは集合体なのだ。なぜといって、純粋な意味で自分の所有だと いえるものなぞわれわれはごくわずしか持っっていないのだから。われわれはみな、先人からも同時代人からも受け入れて 学ばねばならないのだ。どんな偉大な天才でも、なにもかも自分の内部にたよろうとしたら、大したことはできないだろう。(略) 要するに、自分の内に持っているか、他人から得るか、独力で活動するか、他人の力によって活動するか、こんなことはみな愚問。 大事なことは、大きな意欲をもち、それをやりとげるだけの技能と根気をもつことだ。それ以外はどうでもいいことなんだ。 ≫ エッカーマン『ゲーテとの対話』 ▼ 我々は何らかの形で人類の蓄えられてきた文化遺産の一分野にいるのであって、それから一歩も出ることが出来ない、 ということになる。一歩出たところで、それも際の範疇でしかない。そう思えば、あくせくすることもない。 そのことに気づきてしまえば、後は楽。個性とか、自分になるとかは、他と違うことをなしうる能力に求めがちだが、 本当に必要なのは、強い意欲を持って、やり遂げるだけの根気。アランは『教育論』で、発明や、一般に天才とよばれて いるものについて、長い間の勉強のあとでなければ出てこない、と述べている。 個性など、その後の話でしかない。 好きこそものの上手なりで、好きだからこそ、辛抱づよく続けることが出来る。それを誤って才能と誤解してしまう。 一人一人が意欲をもち、やりとげる技能と根気をもち努力するしかない。他人と比較することもない。要は意欲と根気だけ。 で、根気を持って、これ続けています。 ・・・・・・・ 3690, この随想日記も、まる10年か〜 2011年05月03日(火) 今日で、この随想日記がまる10年になるが我ながらよく続いたと驚いている。10年は大きな節目、今後どうするかである。 これで自分の全てを出し切った思いがある。あけすけに脳内を公開しているようなものだが、これを続けたおかげで自分の中に、 一人の記者の目が出来たようである。その結果、世界の見方が変わってしまった。 いや世界そのものも大きく変わってしまった。 書き続けるために、常に数回分の文章を書きためておかなければならないプレッシャーは大きい。が、それを逆に楽しむ面白さもある。 「一度でも休むと、もう二度と書き続ける気力が無くなるのでは」という恐れが続ける後押しをしてきた。振り返って読んでみると、 ここで書いてきたことが私の限界線でもある。 一番のメリットは数年分の同月同日の文章を毎朝、読むことが出来ることである。 過去の痕跡の文章を早朝、読み返しているから10年続いたのかもしれない。 それと、「何人かの知人が読んでくれている」 という実感があることである。 それと書き続けることで、否が応でも常に読書を自分に強要できることである。 この10年で、私の人生の支柱の一つとして残すことが出来たのは大きな収穫である。 他にも、 ・最後は、こういう結果としても、四十年近くの事業の起承転結と、・50回近い秘境ツアー、・そして10年間続けた随想日記。 ・それと、好きな酒と肴を思い残すことなく、飲み食べたこと。 ・それと読書を十分にできたことなど、思い残すことはない。 そうこう考えて、これから続けるかどうか、止めれば張りが無くなるし、続けるのもシンドイし・・・ 「力を半減して、当面、続ける」が、現在の答えか? ・・・・・・ 3325, やりたいことは三千五百万もあれば・・・ 2010年05月03日(月) ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) −2 * やりたいことは三千五百万もあれば・・・ ・「死ぬ時に、楽しい人生だった」と言えるには、したいことは全部やったと思えること。 ・ そのための金額は普通の人なら三千五百万もあれば殆んど実現できる。 葬式代は350万もあれば充分。自分で葬式の手立てをしておけば三分の一で可能。 (120万を前提に葬儀屋を何社か呼んで手はずを組んでおくこと) ・ 「漠然とした不安感で貯めておいた金を、この世に置いて後悔だけを持っていく」 これが日本の大部分のバカな老後の姿である。 要は、考えてないからである。 ▼ 以上のことは大前研一でなくとも私でも思うことである。要は考えないからである。 40歳の時、良い悪いは別にして 「年間1000万は使い切る」と決心した。しかし当時、10歳前後の子供がいて大学を卒業するまで10数年は、それほど贅沢を 出来る金額ではなかったが、それでも年二回は家内と海外ツアーに行き続けることが出来た。海外旅行代は総額3千万前後だろう。 一点豪華主義?である。月にすると10万になるが、普段の生活で節約をしていたので、使いすぎたという感はなかった。 その御蔭か満足した後半生を過ごしてきたと思っている。 これまで46回のツアーに行ったが、これを、これから始めることは 時代背景と年齢を考えると無理。「べき時に、べき事を、べくすべき」を実行していて良かったと満足をしている。 したがって老後の心配は殆んどない?。三千五百万といえば大金である。しかし100万ずつなら何とか可能?家を売却して 貸家に入っても「やりたいことを、すべき」と思うが、いざとなると、これが出来ないのも分かる。それぞれの事情があるから、 これ以上は言えないか。 もし何とか可能なら40歳から100万×35年間で、不可能でもない?。 無理?なら、50万は?それも無理? 月に4万の積み立ても無理? その前に、まず「自分は本当に何をしたいのか」考えなくてはならない! で、ないと 「漠然とした不安感で貯めておいた金を、この世に置いて後悔だけを持っていく」ことになる。そういう思いで、歳をとってから 秘境に来ていた人と出会ってきた。それを実感したので、迷いなく実行できたのである。ーそれがどうした?って、どうもしないが・・ くだらない自画自賛か! これから3500万か〜面白そうだが、老後資金を考えると?となる。 でも、その金が! 宝籤を買うか! ・・・・・・・・ 2950,人はどうしてオヤジになるか? 2009年05月03日(日) 『疲れすぎて眠れぬ夜のために』 内田樹著の《人はどうしてオヤジになるか》の問いかけが面白い。 この文章を読みながら( 私は「オヤジ」かどうか?)を内省してみた。 オヤジといえば、オバサンである。 現象に大きく左右され、考えることをしない両性化した生き物。オヤジも長年かけて自分でつくりあげる生き物である。 常に自分の中で肥大化しようとしている化け物として、監視しておかないと・・・ ー まずは、その部分から ー P・20 人の誤解のうちに最も危険なものの一つは「不愉快な人間関係に耐える能力」を人間的能力の一つと思い込むことです。 その耐性はむしろ有害であり、命を縮めることの方向にしか作用しません。「耐える」人の場合は、「耐えること」が 自己の中心にあります。それ以外のことは「耐えること」のために総動員されます。「不愉快な人間関係に耐える」というのは、 人間が受ける精神的ダメージの中で最も破壊的なものの一つです。世の言う「中年オヤジ」というのは、この耐えることが 劇的に人格化されたものといってよい。 会社で上司の罵声に耐え、部下の暴言に耐え、クライアントのわがままに耐え、 満員電車に耐え、妻の仏頂面に耐え、セックレスに耐え、子供の軽蔑に耐え、巨額のローンに耐え、背広の綻びに耐え、 全身これ「忍耐」からできているのが「中年のオヤジ」という存在です。 人生のある段階で、(たぶん、かなり早い段階で) 不愉快な人間関係に耐えている自分を「許す」か、あるいは「誇る」か、とにかく「認めて」しまったのです。 そして、その後、「不快に耐えている」ということを自分の人間的な器量の大きさを示す指標であるとか、人間的成熟の証しとか、 そういうふうに合理化してしまっている。蟹が甲羅に合わせて穴を掘るように、人間は、自分でつくってしまったパターンに 合わせて不幸を呼び込みます。「不幸に耐えている自分」を「器量の大きい人間」と勘違いをしたら、もうその後の 「オヤジへの道」は一直線である。そういう人は不愉快な人間関係だけを選択し続けることになります。本当にそうなんです。 ▼ 以上だが、八割の人は、この「耐え人」の人生を過ごしている?自分の人生を振り返って、一番良かったことは何か?と、 考えた時に、「事業を立ち上げ、一度も営業赤を出さないで何とかやってこれたこと」(今年度からは??) (字数制限のためカット2010年5月3日) ・・・・・・・・・ 2586, 日本の貧困率 ワースト2 2008年05月03日(土) ヾ(´∀`o)+。才ノヽ… 先日、Wowowで観た映画『しあわせの力』という映画。ウィル・スミス演じる主人公が貧乏のどん底から成功者への階段を 上っていく内容だが、その大部分が「すべり台社会」を滑り落ちていく内容。 リアルで他人事に思えない内容である。 地下鉄のトイレや、教会の施設に並んで泊まったり、子供が一緒だから尚のこと引き込まれてしまった。 実話に基づいた内容だから、迫力があるのだろう。 黒人のセールスマンが収入が無くなり、奥さんに愛想をつかれ子供を 置いて出て行く過程など現実的である。そして、最後はホームレスになる。這い上がるのは無理という状況から主人公が 成功を掴んだ要因は、【息子への愛】と、どん底でも諦めない執念。何か身につまされる内容であった。 人生で、何度もすべり台に立つ瀬戸際を経験した。一つの判断が致命傷になる、それが創業ということ。 (字数制限のためカット2010年5月3日) ・・・・・・・・・ 2007年05月03日(木) 2221, 静岡で感じたとこ ヾ(●´∀`●)GOOD MORNING!! 去年、学生時代の友人が私のところに訪ねて来て、今年は私が静岡を案内してもらった(4月30日、5月1日)。 学生時代に30日間欧州旅行をした友人である。静岡は住みやすいと聞いていたが僅か2日間だけでも、その豊かさを感じ取った。 静岡市内を案内してもらった後に、車で一時間近くにある浜松市に行き、その後に焼津に行って、友人の地元の知り合いの 経営しているホテルに泊まった。その間に車の中から垣間見た世界は、東海ベルト地帯の豊かさである。 「日本は東京から名古屋までの地帯に富が一極化に集約されるのではないか」とさえ思えるような景気の良さと豊かさを感じとった。 車から見える家と車は新しく、街並みは奇麗に整備されており、静岡駅や浜松駅周辺は再開発など大きなビルラッシュで、 カナダの都市?のような活況と清潔感があり、「これが地域格差」「これが21世紀」を具体的に見せつけられた思いであった。 「新潟駅立体交差再開発の完成の姿を思い浮かべることができた」ということか。静岡県は「ヤマハ」「本田」「鈴木自動車」 それにトヨタの関連企業が数多揃っていて互いシノギを削っている。友人の実家が、トヨタ自動車のラジエーターを主に つくっている会社で、友人は、その子会社の社長で、かなり鼻息の荒い状態だった。東海道ベルト地帯は永年かけた工場地帯の 集積がある上に、お茶の生産地があり、焼津などの漁港もあり、山梨などの後背地域もあって、それぞれが有効に連鎖している。 名古屋駅周辺を含めて、隔世の感があるほど活況があり、不景気はどこ吹く風という。 なるほど他とは格差がつくにはつく理由がある。それに引き換え、それ以外の日本は?・・・・ ▼ そうそう、今日でHP開設、6周年になる、2200も毎日、この文章を書いたことになる。それと、もう一日に書ける限度の レポート用紙20枚分をオーバーする。6年前の文章をカットしなければならない。毎日、過去に書いた文章を眺めて自己満足をしていたが、 オーバーのサインが出てきて、カットするのが非常に心が痛む。過去の自分(のエネルギー)を切り捨てるような気持になり、 どれも捨てがたいのである。 (○´ω`○)ノ **SeeYou *(○´ω`○)ノ ・・・・・・・・・ 2006年05月03日(水) 1856, HP開設、5周年 ー1 \(^▽^*)おはようございます!(*^▽^)/ 明日で、このHPを開設して、まる5年になる。旅行以外は、ほぼ?一日も欠かさず随想テーマ日記を書いてきた。 我ながら続いたことに驚いている。5年前のこの日を境に一変し、全て、このHPを中心に生活がまわるようになった。 一日、何らかのカタチで5時間以上?はパソコンに向かうようになった。5年前にパソコンの先生に事務所にきてもらい、 このHPを立ち上げた。さらに自宅近くのパソコン教室に三年以上通った! ・パソコンを自分の道具として使いこなせるようになりたい! ・HPを自分のネット上の部屋にしたい ・ネット・サーフィンでネット空間を飛び回りたいという思いがあった。
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2014年05月02日(金)
* 何かが変?なのは、自分? それとも巷の常識? 先日取り上げた【「道徳」を疑え!〜自分の頭で考えるための哲学講義ー小川仁志著】の中で、イギリスの哲学者 フランシス・ベーコンの「イドラ(本当のことを隠してしまう臆見)を取り上げていた。 彼によると、人間には四つのイドラがあるという。 《・一目は「種族のイドラ」です。これは人間という種族に固有のイドラで、感情や感覚によって知性が惑わされることに よって生じる。人間は自分が主張する立場に箇執し、その点からしか物事を判断できない。 ・二つ目は「洞窟のイドラ」。あたかも狭い洞窟に考えが入り込んでしまったかのように、個人の狭い事情により 生じる思い込み。その人の受けた教育、影警を与えた人物、読んだ本などが原因で、狭い考えに入り込んでしまう。 ・三つ目は、「市場のイドラ」です。これは言語によって生じる思い込みです。あたかも市場で聞いたうわさ話を信じて しまうがごとく、人は言葉のもつ力に弱いものです。いまは市場より、インターネット上に氾濫する言説が原因になる? ・四つ目は「劇場のイドラ」です。それぞれの都合の良い物語を疑おうとしないで信じてしまうことをいう。》 :この結果、世間とかいう、ほぼ嘘で固められた常識を疑うことなく信じる九割以上の人達がつくられ、現に存在する。 この方々は、殆どのイドラが全存在。 覆い隠されている真実の世界の存在など想像すら出来ないため、厄介そのもの。 彼らには、「嘘もほどほどにしろ」より、「本当のことは、ほどほどに」と、対応するしかない。何故なら、本当の ことは、イドラの世界からは見ることが出来ないから。本来、人間は共同幻想の中にしか生きることが出来ない存在。 とすると、変なのは社会と、その中で生きる、私たち(個々人)になる。問題は、それを常に自覚できるかどうかが、 境目になる。 リーマンショックから、一段と世の中が変になっている。ところが何故か、それを覆い隠している何か、 恐ろしい力。それが何だろう?「世界恐慌は静かに浸透しているが、誰も声高に言わない。いや、言えない」のだろう。 石ころの大小を言っている自分も、その中の砂利でしかない。結論は、「私も、一般常識とも、変!」 ということ。 ・・・・・・ 4429, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか 2013年05月02日(木) * 死の恐怖を克服する七つの登山道とは ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 人生で最大の難関が最期の死。ここには、死の恐怖を克服する著者の椎奨の七つの登山道が書かれている。 スッと、眠るように死にたいが、そうは簡単にいかない。 長生きすれば「死に損ない」と言われそうだし、癌で、あと一年、 数ヶ月と区切られ悶々と死んでいくのも厳しい。現に父親が、そうであった。一年間、傍にいたので、それが直に伝わってきた。 砂漠の真只中に置かれたような生の渇望の乾きは残酷である。実際に、その立場に置かれて経験しないと分からないこと。 死の恐怖の克服法は知らないより、知っていた方が遥かによい。生への渇望の克服など無理といえば無理。肉体的に精神的にも、 のたうちまわって死んでいくしかないのが実態。だから恐れる。著者が死への登山道という表現は言い得て妙である。 ーまずは、7つのルートとはー ルート1 心が幻想だと理解する道(脳科学の道) ルート2 すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道) ルート3 自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道) ルート4 主観時間は幻想だと理解する道(主観的スケール思考の道) ルート5 自己とは定義の結果だと理解する道(自他非分離の道) ルート6 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道) ルート7 リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ(思想の道) ▼ 次回から、それぞれのルートの要点を書き出してみるが、最近読んだ、「宇宙は本当にひとつなのか」と、 「宇宙は何でできているいるのか」(村山斉著)を読んで、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している 可能性があると知り、単純だが、自分の人生も、死も、大した問題でないことを改めて知った。 これはルート3の、 客観的スケール思考の道になる。 この7つのルーツの道を繋ぐと、 ≪ 人間の心は、本来幻想。人の一生は宇宙的スケールでみれば、瞬時でしかない、直ぐ死ぬのも後で死ぬのも同じ。 また微細な存在。知情意で捉えている時間も幻覚。自分という枠組みも定義で変わるもの。恐怖が幸福の対角にあるとし、 その幸福という感覚も幻覚。ただそれだけのこと。≫ ということになる。般若心経そのものになる。だから、 死に直面すると、写経を始めるのは効果がある。こう、まとめると、各ルートを歩くのが面倒に思ったが、よく読むと、 道筋には含蓄に満ちた景色がある。目先の死を知ってから、それまでの一生分を生きるのだから、学び足りないのは当然。 ・・・・・・ 4055, 一個の人間の顔、それは一つの象形文字 2012年05月02日(水) ー 「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より ≪ 「一個の人間の顔、それは一つの象形文字だ。ある神聖な、明確なしるしだ。なかに魂の現在があらわれている。 動物だってそうではないか水牛がものを咀嚼しているとき、その顔を見てみたまえ、鷲の顔を見てみたまえ、犬の顔を見てみたまえ。 一個の人間の顔の中にはっきりした意欲と決意とがあらわれているとき、それは一個のばらばらな意欲と決意という以上のものだ。 そういう顔をぼくの夢想の中のドイツ人は持っていた。どれも一息つくより短い夢の間にすぎなかったが。 むろんぼくは、 ぼくに向って吹きつけてきたその未知の人物の顔を必ずしもいつも見たわけではない。(中略) だがともかくそういうとき、 ぼくはそういった顔を内側から見たという気になったものだ。『 わたしはこういう人間だ 』と、それらの顔には書かれていた。 そして今ぼくはこの四ヶ月というもの、現実の人間の顔を見ているわけだ。 なにもぼくはかれらに魂がないなどというのではない、 魂の光は一再ならず閃き出るのだが、それがすぐまたふっと消えてしまうのだ。鳩小屋の鳩と同じことで、強と弱、近いものと遠くから 持ってきたもの、卑俗なものと高貴なものとの、永遠の入ったり飛び立ったりなのだ。 あるのはざまざまな可能性のそういった 落着きのない出入りだけ、そしてそこにはつねに、あの一つの偉大な、決して言葉に言い現わせぬ奥底の思想が欠けている。 立派な顔には必ずあるあの変らぬものが。・・・ ≫ ーホフマンスタール『帰国者の手紙』より ▼ 顔に責任を持て、と言われても今更だが、年齢を重ねた顔には責任を持たねばならない。 特に、政治家の大事を成し遂げた顔は、大事の象形文字と見ることが出来る。『わたしはこういう人間だ』と、 そのまま書かれているようだ。先年、亡くなった片岡球子の人物画の顔が良い。人間の顔が象形文字ということを 知り尽くしているから、あのような顔がかけるのである。 顔は魂の表出、老いてきたとき、行蔵が、そのまま現れ出る。 ・・・・・・・ 3689, 自己を見つめる −12 2011年05月02日(月) * 世間とは 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 世間についても、何度も取り上げてきた。特に絶対神を持たない日本では、右に倣えの世間的価値に同化することが善になる。 人生の最晩年になって、いかに、それが自分の壁になっていたことに気づいて慌てふためく。(それさえない人もいる) 世間から身を守るためには、やはり読書か、芸術や趣味などに専念するなどライフワークが必要である。 世間を否定するのではなく、それと、心底で距離を置くことが必要である。 ー以下の、哲学的世間論も分かりやすい。 【 ー世間とはー 世の中の人が判断する仕方に従って判断する。大勢に準じた生き方のスタイルが、自分自身の生き方のスタイルに なってしまう。 それ以外に自分の人生を考える余裕もすっかりなくなってしまう。 なにしろ、そうした自己喪失的な大勢順応の 暮らし方のほうが、気楽で、安心で、責任がなく、居心地がいいのである。 下手に逆らったり、別の道を選ぶと、世間から 締め出される危険性が忍び寄ってくる。 みんなと一緒のほうが安全なわけである。 したがって、誰も、真剣に自分のほんとうの 生き方の道などを考えてみようとはしない。 ハイデッガーは、こうした自己喪失的な世人のあり方を「頽落」と呼んだ。 そのときには、世の中の人は、いやな過去のことはどんどん忘れ、将来の成功のことをもっぱら予期し、現在の周りの出来事には、 最大の注意を払って、そこでの出番の成り行きに汲々となる。 そのとき世の中の人は、好奇心に動かされて、噂話や風評に打ち興じ、 物事の真相を曖昧にしたまま、仕事や趣味や遊びや気晴らしで、興奮した多忙な日々を送る。そうしないと、恐ろしい倦怠と、 ぞっとするような人生の深淵が眼に入ってきて、鬱陶しいのである。そうして、無責任で活気にみちた興奮と狂乱と日常的な 世界内存在の表面ないし前景を形作ることになる。・・・ 】 − 世間とは、無責任で活気にみちた興奮と狂乱と日常的な世界内存在に生きている人たちをいう。しかし人間は、自分の存在の 根底を見つめたとき、投げ出された底なしの存在に、不安を覚えるもの。その気分の方が、人間の根源に潜む根源的気分であると、 ハイデッガーが看破した。 それは死にさらされた自己自身の存在の自覚とともに立ち上がってくるという。 その逆に、存在の根底から目を背ける人たちが世間の人である。我々は底なしの存在から目を背け現象に気持ちを集中させて 生きようとする別名、俗人ということになる。 俗人も悪くはないが。 ・・・・・・・ 3324, 「B層」という「IQ]が低い人々 2010年05月02日(日) ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ーの中で、B層という言葉が印象的に残った。 以前、小泉元首相が、≪一言メッセージ≫を国民にわかりやすくコメントしたり、郵政解散で自民党の内部分裂を ショーにして選挙に大勝した。 これは、考えない「B層」に狙いを絞った戦略だったことを、この本で知った。 その後の民主党の大勝も、「腐りきった長期政権の自民党の破壊」という分かりやすい争点であった。 それにしても、小泉、安部、福田、麻生、鳩山という政治を家業とする二代目が、徹底的に日本を破壊してくれた。 創造の前の破壊なら、それも良しだが。どうも、そうでもない。アメリカの実質、日本の植民地化の政策が背後にある。 彼等二世の養成もアメリカの長期戦略の一つ? 恐ろしい限りである。 ーウィキペディアによると 「B層」とは 2005年、小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社「スリード」が、 小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。その後、ポピュリズムに動員される国民層を揶揄する意味合いで 使われるようになった。 スリード社の企画書では国民を 「構造改革に肯定的か否か」を横軸、「IQ軸(EQ、ITQを含む独自の概念とされる)」を縦軸として分類し、 「IQ」が比較的低くかつ構造改革に中立ないし肯定的な層を「B層」とした。 主に主婦や教育レベルの低い若年層、 高齢者層を指すものとされる。 上記の企画書がネット等を通じて公に流布されたため、 資料中に使用された「IQ」(知能指数)の語や露骨なマーケティング戦略が物議を醸すところとなり、国会でも取り上げられた。 ・「A層」=エコノミストを始めとして、基本的に民営化の必要性は感じているが、これまで、特に道路公団民営化の結末からの 類推上、結果について悲観的な観測を持っており、批判的立場を形成している。「IQ」が比較的高く、構造改革に肯定的。 *構成ー財界勝ち組企業、大学教授、マスメディア(テレビ)、都市部ホワイトカラーなど ・「B層」=現状では郵政への満足度が高いため、道路などへの公共事業批判ほどたやすく支持は得られない。郵政民営化への 支持を取り付けるため、より深いレベルでの合意形成が不可欠。 「IQ」が比較的低く、構造改革に中立・肯定的。 *構成ー主婦層、若年層、高齢者層など。具体的なことは分からないが小泉総理のキャラクター・内閣閣僚を支持。 ・「C層」 構造改革抵抗守旧派。 「IQ」が比較的高く、構造改革に否定的。 〜〜 大前は、「B層という知の減退した人たちと一線を引いて、何とかA層に入りなさい!」というから辛辣といえば辛辣。 しかし、この日本の低たらくの現実がある。 ネット社会=情報化社会では、端末から価値ある情報が無限に引き出せる。 したがって彼の論旨も、ある意味で納得できる。 知能まで植民地の住人に落ちてしまったB層の比率の拡大? 周囲は、ほぼB層? ということは、私も? まあ、いいか! で、A層とかいう幸せな方々、実はD層じゃないかい (一番大事なことを考えない、見えてない、という意味で?) 上記の5人が、その証明。 闘い続けている点は認めるが! ・・・・・・・・ 2949, スリルな瀬戸際だった日々 2009年05月02日(土) 先日の4月28日に、無事に第二シングル・インの中のテナントが決まり、調印が終わった。そして午後にテナントの内装屋から 電話が入り、「建物の用途変更は、お宅でして貰えるのでしょうね」という。 (字数の関係でカット2,008年5月2日) ・・・・・・・・ 2585, 情報は1冊のノートにまとめなさい 2008年05月02日(金) 「情報は1冊のノートにまとめなさい 」 −100円でつくる万能「情報整理ノート」 ー奥野宣之著 (以下、字数制限のためカット2010年5月2日) ・・・・・・・・・ 2007年05月02日(水) ー遇然同日に、酒の話があった。面白いものだ2008年5月02日 2220, 酒の話ー3 +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゜・:*☆ 酒の話は、ここで何度も取り上げてきた。酒には付き合い酒、祝い酒、涙酒、別れ酒、 怒り酒、迎え酒、寝酒など、色いろあるが、あるHPで酒に関する面白い文に行き当たった。 酒は下ネタと同じく時空を超えて万国共通であるためか人間の本質を知る上で身に沁みる戒めが多い。 特に私は!? 偶然の一致だが、三年前の今日、『酒について』というテーマで酒について、 書いていた。面白いものである。 それにしても、酒の失敗があまりにも多い! ===== *まずは『旧約聖書外典』である。『外典』は、『正典』としての「旧約」や「新約」聖書の成立の編纂で、 排除された文章をまとめたもので、酒に関する戒めのような実用的なものが多い。 これが2000年前の旧約聖書にあったのだから、酒は今も昔も人間を狂わせてきた魔物。 ー『旧約聖書外典』(関根正雄編 講談社文芸文庫)よりー 大酒を飲むことで勇者を気取るな 酒で失敗した人は多いのだ 炉が鋼鉄をためすように 酒は酔っ払う人の性格をためす 酒はほどよく飲めば 生命の力となる 酒なくして何の人生か 酒は人を幸せにするために作られた 時をえらんでほどよく飲めば 酒は心を楽しませ 愉快にする だが飲みすぎれば苦い思いを味わい 怒りと復讐の心を生む 愚か者は酒によって憤り 自ら害を招く 酒は力を弱め ついには障害をうけるようになる 酒の席ではとなりの客と争うな 相客が楽しんでいるのを妨げるな 隣人をあざけったり 借金の催促などをしてはいけない ==== また若山牧水「酒の歌」で『今まで自分のして来たことで多少とも眼だつものは矢張り歌を 作ってきた事だけの様である。いま一つ、出鱈目に酒を飲んで来た事。』と酒の思いを述べている。 ー牧水の酒のうたー (字数制限の関係でカット09年5月02日)
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2014年05月01日(木)
朝日新聞(4月22日) 耕論「消費される物語」 * 二つの大震災は「自然と文明」の大きな物語に開かれる機会だった! 私の人生のテーマは、「創業と事業を遊ぶ」だったが、それもブラック・スワン(思いもよらない震災クラスの事象) の何羽かの出現で終りを遂げたが、結果に対して挫折感は殆どない。むしろ、自分の手で息の根を止めることが出来て、 良かったと手前勝手に思っている。で、これも、物語。物語とは手前勝手の筋書きでしかない。無事にリタイアをして、 事業を次に送ったとしたら、閉じられた一つの物語だが、私の結末は、破壊により開かれた物語になる。 ものは考えようである。 しかし、物語には節操が必要である。 ーその辺りからー 《 ー忘れられる節操ー 将来への不安がのしかかってなかで、私たちは小さく閉じたきな物語の方向に開かれる 身近な物語に癒やされているわけです。最近は作曲家を話題にするときに、作品と関係のない事柄が全面に出てくる。 女性の研究者の話題でも、メディアは研究の内容関係ないファッションや趣味などを大きく取り上げる。それが節操のない ことだという了解がなくなっている。 STAP細胞を発見したのが、30歳の女性ではなく、さえない中年の男性ならこれほど 社会的な関心を持たれることはなかった。本筋と関係ない過剰な物語がつくられることで、スタップ細胞について、 よりよく理解できたかというと、そうではない。 物語は自ら完結する性質があります。つまり物語の外を遮断して閉じているということですが、この閉じた物語を あえて開いて、外にまなざしを向けるのが人間の進歩というものだったと思います。 けれども、物語を外に向けて開くことなく、心地よい物語を作っては消費して、飽きたら捨ててまた新しい物語を作る。 その繰り返しでは社会の進歩はありません。阪神と東日本の大震災は、「喪失と癒やし」といった小さな物語として 消費されてしまいがちですが、本来「自然と文明」という大きな物語の方向に開かれるいい機会でした。人間の文明など、 自然の力で一瞬にして押し流されることがある。そう気づいた以上、「私たちとは何者か」と語りなおすことによって、 内向きの物語が外に向かって開かれる可能性があったのですが。結局、「復興」という美名を冠したあまたの物語に のみ込まれてしまっています。 私が小説家として目指しているのは「閉じない物語」。いろいろな人間、価値観が混じりあって混然一体となった 空間です。いたるところに破れ目や出口がある。あえて完結はしない、大団円やオチがない物語が理想ですね。》 ▼ 地元の城下町・長岡に戻ってきたとき、「アッ危ない!」と思った。『閉じられた孤島の世界があって、 この価値体系に飲み込まれると自分の一生が潰されてしまう。とにもかくにも、距離を置くこと。自分の世界を つくり、第三者をいれないこと!』であった。こう割り切ると、これほど面白い世界はない。で、今回も、その 距離のおかげで、比較的、冷静にいられる。「目くそ、鼻くそを笑う」というが、そんなもの、「ドくそ、目くそ、 鼻くそ(を)、笑う」でしかない。逆に「ドくそ、目くそ、鼻くそに笑われる」と、割り切ればよい。所詮は、共同幻想で しかないのだから。挫折を個人にとっての大震災と喩えると、その人を取り囲んでいる地球の、そして身近な 「自然と文明」に、気づき、開かれる機会になる。この東北大震災も、リーマンショックも、日本人に、いや、 人類にとって、「文明の行方の方向性を、根本から考え直せ」になる。私も、この結果を含めて人生の意味を考えると、 森の生活から、サバンナの生活に移行し、早く馴染め! ということか。 これからして、{『東京オリンピック』は、明らかに愚行そのもの!} いや、{オリンピックは文明の象徴、 これで良い!}と意見が分かれるが、私は、せっかくの再生のチャンスを潰す象徴!の方が、正しいと思うが・・ ・・・・・・ 4428, 前期高齢者になって、気づいたこと! 2013年05月01日(水) * 老人教育の必要性 前期高齢者になって丸二年になる。丁度、会社も無くなり、年金暮らしに入り、丸裸の自分に直面、そこで改めて 自分の年齢に驚いている。まず気持ちが年齢についていけない。まだ50歳半ばというところ。 数年前に親戚の法事に出たが、宴席で80歳位の人の愚痴が始まった。「後期高齢者という命名が人を馬鹿にしたようで 気に入らない」「免許書換えで、返納を考えるように暗にいわれた」とか。そこで、年寄りの愚痴ほど周囲を不愉快にする ことを教わった。私の両親の愚痴を殆ど聞いたことはない。 肉体の衰えが精神に転化し顕れるのが愚痴。スポーツジムに 毎日通って腰痛は軽くなったが、何かしらイライラする頻度が多くなった。さしあたった心配事がないこともある。 「前期高齢者」「後期高齢者」という命名は確かに失敗。例えば前期を「グリーン高齢者」、後期を「プラチナ高齢者」 ぐらいにする心遣いも必要である。歳を重ねるたび身体は重く、気持ちは暗くなり、身内や身辺の悪口、あら探しの 度合いが強くなるのが老化のようだ。 他人をみると分かるが、自分になると自覚できない。それもあるから年寄りは 意識して明るくなければならない。それと自立が出来てなかった人ほど老人の甘えが強い。 政府が音頭をとって、 地域自治体に「お年寄りの心得」とかいうセミナーの聴講を義務づければよい。 私など最も手のつけられない偏屈老人に なりそうだが・・ 日本は世界の名だたる長寿国になったが、それに備える知識教育はされてない。 その以前に、 自立と教養の問題に行き着く。 御隠居学とか、余生の過ごし方のようなノウハウ本には、長年かけた準備が必要とあるが、 今日明日、そう簡単に良い老人への変身など土台無理の話。そこで、せめて「明るく自立した生き方を目指すべき。 老人になると、人生で培ってきた要素の格差が大きく出てくる。老いていく自分を自虐的に鳥瞰するのも面白いもの! ー たまたまだが、以下の内容が、丁度つながる。 ・・・・・・ 4054, 吹き来る風が私に云う 2012年05月01日(火) ー 帰郷 ー 中原中也 柱も庭も乾いてゐる 今日は好い天気だ 縁の下では蜘蛛の巣が 心細さうに揺れてゐる
山では枯木も息を吐く あゝ今日は好い天気だ 路傍の草陰が あどけない愁しみをする
これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる 心置きなく泣かれよと 年増婦の低い声もする
あゝ おまえはなにをして来たのだと・・・ 吹き来る風が私に云う ーー この最後の二行が、現在の自分の心?でもある。 自分だけでない、晩年の人間から湧き出る言葉。 「あゝ、おまえは何をしてきたのだと・・・吹き来る風が云う」 ったく!お前という奴は!と、まともに人生を生きてくれば、 この言葉が出るのが自然。 秘境ツアーで、平々凡々に生きてきた人が病気で突然、死に直面し慌てて人生の余白を埋めに 来た人に出会ったことがある。 死線を彷徨った手術の後、壮大な景色に感動して夫婦して肩を抱き合い泣いている姿も見た。 ネパールで遠景のヒマラヤ連峰が一望できる丘であった。 パタゴニアでは初老の婦人が何気なく、「親のいう通り生きてきたが、 ハッと気づくと、先が無い。 私の人生で何もしてこなかった。このままでは死にきれない。この旅行は、その穴埋めにきた」と、 道すがら語りかけてきた。「・・・吹き来る風が云う」声で追われるように旅立ってきて、そこで何を感じたのだろう。 実は、この矛盾こそ実在。 生きてきた証である。 エッ 証文が束になっている? 誰? ただ飄々と風がふく。 ・・・・・・・・ 3688, 自己を見つめる −11 2011年05月01日(日) 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 愛の不在の人=肉親の愛情に恵まれなかった人を見抜くことは難しい。 両親の仲が悪い子供には往々に多いが。 愛の不在の人は普段は分からないが、節目時に、それが表面化する。 人への憎悪と呪いが、そこで爆発する。 これは誰々という訳でなく、全ての人の心の奥に巣くっている。 節目時は、傷ついている場合が多い。 そのマイナーのエネルギーをプラスに転換するには、そのまま流される数倍のエネルギーを要する。 しかし流される人は意志が弱いため、そのエネルギーが空回りをしてしまう。そして自爆になっていく。 以下の箇所も、充分、肯ける部分である。 ー愛の不在ー 【 小さいときから、肉親の愛情に恵まれず、誰からも優しい扱いを少しも受けなかった人があったとすれば、多分その人は、 心の奥底に深い傷を抱いて、その後ずっと人生を恨みとおし、表面は穏やかであっても、おそらく心の底では、一生を通じてずっと、 他者に対して暖かい心をもつことができず、絶対に他人を許そうとはしないであろう。 小さい頃に親の愛情に恵まれなかった人、 また、周囲の人たちから嫌われ、いじめられ、除け者にされたと思っている人、さらに、長じてからも憂き世の労苦と意地悪な 世間にもみくちゃにされて、何の優しい愛の絆をも構築することができなかった人、そうした人は、その原因が何であれ、 その隠された心のなかで、人生を憎悪し、呪うことになるであろう。 そうした人は、自虐や他虐のふるまい方をする以外に、 人生への仕方をすることができなくなるであろう。 そのすさんだ心には、辛い人生に復讐する怨恨構の爆発だけが、 この世の慰めとなるであろう。 これは、ひとごとではない人生の最重要問題である。 こういう否定的な感情は多れ少なかれ、 誰のうちにも巣くっている心の病だからである。なぜなら人間は、どこにおいても、厳しい人間関係のなかに置かれ、 大なり小なり、この世の荒波にもまれ傷つ経験を免れがたいからである。】 ▼ 無条件に親の愛をうけた人は、それが温もりとして性格を形成する。 逆の人は否定的感情に支配され、深く自分を傷つける。 それは誰も持っているが人により強弱がある。 普通の流れでは、それは出てこないが、節目時に暴風となる。それも家族全体が。 ・・・・・・・ 3323, 「なぜ・なぜならば」の極限としての自由 2010年05月01日(土) 『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著 −3 「理性の極限として自由に行き着く」とは、驚きだが納得できる。 そしてカントも自由が「創造的能力」と看破。 自由は第一原因であることから、当然の帰結である。 自分の真にしたいことを人生を通して貫き、 創造性を発揮することが自由であり、それが理念であり、そこに理性が働くことになる。 *「なぜ・なぜならば」の極限としての自由 ーP・205 から ≪ 自由は第一原因である。原因は理由であり根拠であり、「なぜ」「なぜならば」であったから、第一原因としての自由は、 意外に思われるかもしれないが、「なぜ」および「なぜならば」の極限である。日常のことばの使用法からすれば、 「なぜ」は単なる疑問詞であり、「なぜなら」も単なる接続詞にすぎず、これらが自由とじかに結びつくことはない。 それを思えばよくよく意外な地点に到達したものである。しかし、「なぜ」「なぜならば」「理由」「根拠」「原因」、 そして「第一原因」と、一連の鎖を極限までたどってくると、おのずと「自由」に逢着せざるをえなかったのである。 これらの鎖の項は、いずれも理性のメタモルフォーゼ(変容・化体)である。理性は自由の最終的メタモルフォーゼである。 そして、自由はあの「なぜ存在するものがあって、むしろ無ではないのか」というライプニッツ以来の問いに対する、 考えられうる「なぜならば」の中で究極のものである。 その意味で、先にアプリオリな判断が、ライプニッツによる 十分な理由の法則の成長形態であることを確認したが自由はその成長の極致と言ってよい。 われわれ独自の定式で言えば、「なぜ『なぜ』なのか」という問いに対する究極の「なぜならば」でもある。 この背後に関しては、哲学はソクラテス以来の率直な「無知の知」をもって答える以外にない。 究極の「なぜならば」であるかぎり、そのさらに「なぜ」は少なくとも理性にとっては無意味である。 カント自身も、「なぜ」自由が可能なのかは、答えることが出来ないとした。自由が「なぜ」(理由=理性)の極限であれば、 理性にとってそれ以上の「なぜ」はあるはずがない。あえてその背後に踏み込もうとすると、理性の限界外に越権を犯すことになり 言葉が空転する。そこには、理性を満足させうる答えはない。 というのは、理性を満足させうるのは再び理性のみであり、 理性の限界外には「非理性」があるだけだからである。 ちょうど、鏡に万物が映し出されるが、しかしその中には何も 実在していないように。 非理性によって満足するものがあるとすれば、それはさしずめ「構想力」(イマージネーション) であろうが、それを満足させることができるのも、やはり逞しい構想力であって理性ではない。・・・・ たしかに自由は無からの創造に類似する。超時間から時間への作用である自由は、どこか神による無からの創造を思わせる。 カントも自由が「創造的能力」であることを、はっきり認めていた。 しかし、理性的存在者としての人間は、その自由ゆえ 自己の行為の創造者でありえても、世界の創造者ではない。≫ 〜「よく遊び、よく学び、よく遊ぶ」これが創造的能力を発揮する! この「よく」が理性? 親、社会の刷り込みからの自由? ・・・・・・・・・ 2948, 報道されないニュース 2009年05月01日(金) ネットで「商業販売、過去最大24.0%減に」をみて驚いた。 大手の新聞記事を探したが見当たらない。 報道管制をしているのである? メーカーが40〜50パーセント減、流通・サービスが30〜40パーセント減、 と言われているが、あまり表面だった報道はされていない。ところが、共同通信社のHPに、この記事があった。 スーパー、百貨店などが24パーセント減とは、マスコミは間違っても報道はしないが、実際は、そんなところか? 日本は、とんでもない領域にあるということだ。 時間の経過と共にツルベオトシになっている。 これに豚インフルエンザときたら、5〜6月は大荒れになってしまう。即死の企業が多出するのは必然である。 *3月商業販売、過去最大24.0%減=卸の全業種マイナスに 4月28日11時1分配信 時事通信 経済産業省が28日発表した3月の商業販売統計によると、卸売りと小売りを合計した商業販売額は前年同月比24.0%減の 45兆0650億円となり、4カ月連続で過去最大の減少幅を記録した。自動車や半導体の輸出が不振で、卸売業販売額が 29.2%減の33兆3420億円と急減したことが響いた。 卸売りは全業種でマイナス。 *2月商業販売、過去最大21.5%減=卸、小売りの全業種がマイナス (2009/03/27-10:20) ≪字数制限のためカット 2011年5月1日≫ ・・・・・・・・・・ 2584, ただ、生命だけが‘びくびく’と生きている 2008年05月01日(木) ー「人生の答え」の出し方ー 柳田邦夫著 ー2 この本の「魂を揺さぶる言葉」という項目の中でー「いのちの初夜」 北條民雄著ーを取り上げていた。 ハンセン病のために隔離され疎外され、23歳で夭折した小説家・北条民雄の代表作「いのちの初夜」で、 古株の患者が新入患者である主人公に語る言葉の一部がある。 まず、その部分を書き写してみる。 ーー 「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち そのものなんです。 僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。 あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。 ただ、生命だけが‘びくびく’と生きているのです。 なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那(せつな)に、 その人の人間は亡びるのです。 死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では 決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。 けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、 全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復(かえ)るのです。復活そう復活です。 びくびくと生きている生命が 肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。 死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。 ひとたび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」・・? 「いのちの初夜」より ここからは、ー「人生の答えの出し方ーより?? ・・ハンセン病になったとたんに、家族からも地域からも排斥され、社会的存在としての人間は抹消されてしまう。 しかも、病気の進行によって、肉体は崩れて感覚器官もうしなわれていく。まさしく<生命だけが、びくびくと生きている> 状態になることを、北条は残酷なまでに表現している。<びくびく>という形容詞が情景と本質を正しく表現する決め手に なっている。・・この作家が川端康成に出した手紙の中に次のような文章がある。 「この作品は書かねばならないものでした。・・僕には、生涯忘れることの出来ない恐ろしい気(ママ)憶です。 ・・僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。」 ーー 解)「人生の答え」など、あるわけがないと、この本を読むまでは考えていた。ところが、此処には、その答えがあったのである。 この本の構想のメモには、 <俺は俺の苦痛を信じる。如何なる論理も思想も信じるに足りない。 ただこの苦痛のみが 人間を再建するのだ。> とすざましいことをいっている。 人間は、死を直前に突きつけられると「生きる意味」に気づかされるのである。 死を目の前に突きつけられると、自分が宇宙のチリの中の微粒子の、そのまた無に無限に近い存在に気づかされるのである。 そして、そこから改めて現世に振り返って、そのことを考えている己を見つめ直すと生死の際でボウフラのように、ふわふわ している存在に大きな愛情を感じる。 著者のライ患者・北条は、そこで苦しみ苦痛こそ、崩れ去ろうとする人間性を 再建させてくれると悟り、 書くことに全てを捧げる。 それこそが、人生の答えの出し方である。 「その苦痛こそ、多くの人間の苦悩を救うことが出来る。それを書くという一点に全てを集中すること」 それが人生の答であると、柳田邦夫は看破している。 ・・・・・・・・・ 2007年05月01日(火) 2219.平凡って幸せなの? おはよう! (=゜ω゜)ノょぅ! 数日前の出勤前の朝飯の時に、家内が神妙な顔をして「平凡な生活って幸せなの?」と聞いてきた。私が読んでいた 「14歳からの哲学」(池田晶子)を、この数日の間、読んだ影響だろうと思ったが、待ってましたとばかりの 瞬時の私の答えといえば・・・ ▼ 「もちろん、平凡ってのは幸せだと思う。何でもそうだが、平凡の生活も、非凡も、現象をどう受けとめるかだ。 脳には長年かけて作りあげた、絶対超越言明という、言葉の受け皿がある。その受け皿が<受け止め方>として、 自分の脳の中で、経験を分類・整理をするようになっている。だからマイナス要素の強い人なら、その受け皿の分類で 何ごともマイナスに選り分けることになるし、プラス要素の人ならプラスに分類・整理をするだろう。 (字数制限のためカット 2014年5月01日)
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2014年04月30日(水)
* 4月29日の午後は、寝室でTV三昧 4月29日の祝日は、毎年、全日本柔道選手権のTV観戦をしているが、昨日の午後は、これに加えて、 巨人・ヤクルト戦、サッカーの新潟アレビレックス戦、映画のアーカイブを、寝室にこもり一人で同時に見ていた。 どれもこれも面白く、伯仲した思わぬ展開が続いていた。 特に残念だったのが、巨・ヤ戦。九回の表、エース 菅野が完投勝利直前の三対一から、思いもよらぬ選手から逆転スリーランを打たれてしまった。 このところ、 負け続けのヤクルトが気の毒に思い、急遽、ホームランを願ったところ、それが通じてか、逆転をして、会場は騒然。 ところが、その時、「逆転サヨナラホームラン」と、勘違いをしてしまい、チャンネルを全日本柔道に変えてしまたが、 そこでも熱戦が繰り広げられ、決勝で21歳の無名の伏兵が、優勝候補を破って優勝をした。 その思わぬ結果に、 本人は何と「優勝候補に自分の名前が一切、取り上げられなかったのが悔しくて、それを晴らそうと優勝を狙ったいた」 と、いう。「自分が優勝など思っていませんでした」と、答えると思っていたため、耳を疑ったが、本人には、 「優勝できる手応えが元もとあった」と、言いたかったようだ。 アーカイブの映画も、いずれの試合も面白かった。しかし、夕方のニュースで、巨人が9回裏に更に逆転サヨナラで 勝利したと知り、一番面白い場面の観戦が出来なかった勘違いに、我ながら驚いた始末。 我ながら、平凡な、 ありきたりの、軽い御隠居になったものだが、それは、それで、気に入っている。見方によれば、TVで頭をやられた、 バカなヤツになる。 それでも、朝、4時に起きて、随想日記を書き上げ、信濃川の大橋と土手を一周し、午前中は、 読書とパソコンに向かった上だから、と自分に言い聞かせているのだから、真面目というか、硬いというか・・・ で、今朝は小雨で、ポタリングは無理?かどうかと、空を見上げ、ため息をついている。 ・・・・・・ 2013年04月30日(火) 4427, 閑話小題ー 「人生−仕事=?」の質問 * 「人生−仕事=?」の質問 「貴方の人生から仕事を差し引いた何が残る?」という問いかけ。 さしずめ私は屁理屈と、秘境ツアーの思い出と、 酒癖の悪さ、この随想日記の辺り。そして幾つかの建物。ところで人生の中で仕事はどれほど重要な位置を占めるのだろう? 知らない人に出会ったとき、まず知りたいのは職業で、趣味は後になる。都会のセミナーや何かの同好会で、初対面の素性を 知りたいとしたら、まず職業と肩書きである。その後、学歴、出身地、趣味になっていく。それだけ職業は大きな要素である。 人生とは生まれて死ぬまでの生きた道筋。そこで職業は生活をしていくベースで、まずは、その確保が必要になる。 とすると、「人生=仕事+?」になる。「?」を思いついた順に書いてみると、金、教養、趣味、愛、夢、家族、仁、神、 自分の世界、情熱、世間体、などが出てくる。仕事の中に、それら集約されたものが含まれる。 私の場合、挫折を入れ、 「人生ー仕事=挫折」とし、置き換えると「人生=仕事+挫折」。人生から見れば「成功」と変わらない? 実際は上記の全て。 * どうも人は、長期的思考が苦手のよう 事業が長期的設備投資のため、常に長期的、中期的、短期的に分けて考える習慣が身についているが、どうも一般的には、 長期的思考が苦手のようだ。大家族の商家の末っ子で、姉兄が自分の3、5、7、9、12歳上のため、自分の将来が 垣間見れる位置にいた。商家は家庭が日常戦場の現場で、不安の真只中に置かれていた。そして一年一年、家族が同時に 歳を重ねながら変化していくのが刺激的であった。変化は残酷にも現状を破壊する。その中で、親の目が届かないため、 まず自分の身を守らなければならない。そうこうあり、全神経を身近な周囲に向ける癖がついてしまった。特に商売の 先行きが幼児ながら心配で、時代の成り行きには敏感であった。それが、そのまま現在まで続いている。では長期思考が 得意かというと、そうでない。そうならば、この結末に至らない。9・11テロの地方経済に及ぼす影響と、リーマンショックで、 売上が三分の一まで落ち込むとは想定外で、これである。過去10年の想定外の出来事を、これから10年先に想定したら、 誰もが竦むはず。楽観的だから人間は生きていけるが、対策はとって置くべき。特に、このアベノミクスには注意すべき。 この10年の延長上の大地震の頻発と、火山の噴火、更なる経済変動(恐慌)、北朝鮮の暴発、国境紛争を切欠とした戦争、 などなど、いつ何が起きても不思議でない。大変動を冷静に受け入れるしかないが、刺激的で、面白い時代でもある。 ・・・・・・ 2012年04月30日(月) 4053, 閑話小題 * 自分の傷口の血で、他人の傷口の血を洗うな! その辺のシラミというより、人間というものは、他人の血の臭いを嗅ぎ付けると本能的に食いついてくる。 自分の傷口の血を相手の傷口に擦りつけたくなるのは本能のなせる業。結局、それは自分の傷を化膿させる。他人の不幸は密の味で、 シタリ顔をして評価が始まる。 その家系や過去の出来事をあたかも知り尽くした気になり、人物鑑定から始まり最後は嘲笑で終わる。 それが共同幻想化をしていき化け物のように変異していく。 しかし実際の化け物は、それをつくり上げているシロアリ集団そのもの。 地方に痴呆が多いのも変化が少ないため。如何に何もしなかった、いや、出来なかった自分がマトモと言いたいのである。 逆に、それに縛られてしまっている自分たちの姿が見えなくなっている。老齢化社会とは、こういうことだ。 * 4月29日といえば 例年楽しみにしている天皇賞と日本柔道選手権も、ダークホースが優勝をした。それがGWの連休が始まりである。 梅も桜も散り、 鯉のぼりの時節になる。この数年来、信濃川沿岸近くの公園で鯉のぼりが多く上る。 初夏の到来である。 また季節の変わり目で、 軽い腰痛が出るが、トレーニングの為か何とか軽く収まっている。 積雪のため休んでいた早朝のミニサイクリングも、慣れてきた。 日本と世界経済も、何時、暴発するかどうかの緊迫の中、どうしてもマイナス思考になりがち。しかし、情報化の御陰で面白いことに 近づける。こういう時代、「よく見れば、なずな花咲、垣根かな」で、身近な楽しみを味わうこと。 TVの昔のドラマの再放送も、 ジックリ見るとけっこう面白いのが多い。だんだん、この生活に慣れてくると、味わい深くなっていく。御隠居とは、よく言ったもの。 ・・・・・ 2011年04月30日(土) 3687, 節目どきに ー11 * 今年の桜 今年の桜も、悠久山もほぼ散ってしまった。私の主観でいうと、「福島江の桜は例年並み、悠久山は、数年に一度の咲き具合。」 だったが、丁度みた時間帯などにもよる。しかし去年の写真を見ると同じようなものだから、主観的な要素が強いということか。 大震災で花見という雰囲気ではない。ボンボリも殆どなく、人影も普段の散歩程度しか見かけられなかった。 やはり、何かが変ってしまったようだ。 * 居間を追われ 数日前、家内に「居間を昼間、占拠されていると自分のいる場所がないので、仏間の一角の書斎コーナーに行くように」と 強く言われ憮然とした。 が、考えてみれば、その通り。そこで事務所から引き上げてきたパソコンの荷をほどき、机に移動、 ネットに結んだ。パソコンの設定が違っているため、SEをしている知人にお願いをして苦労惨澹の末、結ぶことができた。 そうなってしまうと、そこが最適の居場所になり、家内からのシェルター?にもなっている。 中古でも良いから以前より、 ここにパソコンを、もう一台置いておけばという、欲目が出てきている。 それにしてもパソコンの存在は大きい。 「酒に、タバコに、そしてiphne」と言われる位に、スマートフォンの影響は大きいというが、納得できる。 * 生活保護者受給者数が200万 生活保護受給者が200万人となり、10年前に比べ8割も多くなっているという。さらに、この震災で大幅に増えるのは明らか。 震災・原発事故の問題で景気は一段と悪化、生活保護受給者が数十万は増加するのは必至。 現在の生活保護費は3兆円を超えており、 今後4兆円になっていくのだろうが、予算の一割が生活保護費とは! この大震災の経済における影響は底しれぬ影響を今後、 もたらすことになる。それにしても、現在おかれている状況からみる日本は、あまりに楽観的である。 ・・・・・・・ 2010年04月30日(金) 3322、iPadについて iPadについて、「ウェブ進化論」著者の梅田望夫が、どのように見ているのか知りたかったが、 4月26日(月曜の産経新聞・一面)のコラムで以下のような感想を述べていた。 雑誌や、週刊誌の記者が実際に使ってみた感想と同じだが、同じことをいっても専門家の言うことは重みが違ってくる。 私も使ってはいないが、ネットでデモの画面の内容をみて、「これは現在ある紙を媒体とした情報手段を叩き壊すだけでなく、 携帯電話や、iPodや、パソコンが生活様式を変えたより、大きなインパクトを与える革命的な存在になる」予感がした。 iPodやiPoneのソフトの下地にあるから相乗効果を出すはず。 書籍だけでなく新聞を、これを媒体として、 見るようになる。5年から7年で、本や雑誌の出版が1〜2割まで落ち込む可能性があるという。 ■ 全てを“本”にするiPad 梅田望夫 (産経新聞)■ 4月3日、米アップルがタブレット型コンピューター「iPad」を発売した。事前にネット注文していた私は 3日は外出の予定を入れず、自宅でiPadの配達を待った。そして、アップルストア開店から4時間遅れて中国から フェデックスでiPadが届いた。 iPadは電子書籍端末としての期待も大きい商品だが、使ってみて私が直感したのは、 これは創業者ジョブズが昔から作りたかった「理想のマルチメディア・コンピューター」の姿そのものだ、ということだった。 アップルの社名はもともとアップルコンピューターだった。しかし90年代に経営危機に陥り、携帯音楽プレーヤー 「iPod」の大ヒットなどで復活したあと、業態と合わせるために社名からコンピューターがはずれた。 しかしジョブズは執拗にコンピューターを構想し続けていて、いまiPadという製品に結実させたのである。 使い始めてしばらくして私は、ぜんぜん想像していなかった不思議な感覚を味わうことになった。 「あれっ、本と雑誌と新聞とウェブサイトの区別がつかなくなってきたぞ」と。 昨年アマゾンが電子書籍端末「Kindle」を世に出したとき、人々は「本がまるで本であるかのように読める」ことに驚いた。 しかしiPadは、本や雑誌といった出版商品だけでなく、ウェブコンテンツであれ書類であれ、何でも読めるコンピューター。 しかも形状は電子書籍端末に近く、カラー画面上に指を滑らせるだけで、ウェブコンテンツにつきものの夾雑物をも取り除ける。 その結果、利用者に「本以外のすべてのコンテンツを、あたかも本を読んでいるかのように錯覚させてしまう」効果をもたらす。 「本がまるで本であるかのように読める」というのとは全く違うのである。 本も雑誌も新聞も、紙と印刷技術を前提にした パッケージ商品である。 電子書籍とはこれまで、その「本という概念」を変えることなく電子化することを意味していた。 雑誌や新聞の電子化も右に同じ。 Kindleはその方向性に忠実な端末だ。 しかしiPadの登場は、逆に「本と本以外のあらゆるコンテンツの境界が揺らぐ感覚」を私たちに味わわせる。 そしてその揺らいだところに新しい技術が注入されれば、越境により新しいジャンルが創出できそうな予感に満ちている。 いまiPadにいちばん興奮しているのは、初期の利用者以上に、世界中の開発者やクリエーターたちだと言っていいだろう。 iPadとは、ジョブズが仕掛けた「メディア産業全体に創造的破壊をもたらす時限爆弾」なのだ。 iPadの米国での販売台数は発売から1週間で50万台以上と、事前予測を超える大ヒットとなった。 供給がまったく追い付かず、米国でもなかなか手に入らない。日本を含む米国以外での発売時期は1カ月延期されて5月末。 〜〜 【ツイッター、3D/TV、そして、これ。 よくぞ次から次へと21世紀的なソフト、マシーンが出てくる!】 ・・・・・・・ 2009年04月30日(木) 2947,全日本柔道選手権 ー2009年 毎年、全日本柔道選手権は(壮絶の試合になるので)必ず見ている。そして毎年4月30日は(一昨年を除いて) 前日の試合の感想を書いてきた。それを読むと、それぞれの時代の有力選手の姿などが見えてくる。 今年は24歳の若手の穴井が優勝をしたが、決勝戦の棟田との試合は極限の中での勝負であった。 最後の最後に若さの力を振り絞った穴井が逆転勝ちをしたが、見ていて感動的だった。 去年までの数年間は、井上、鈴木、棟田、石井が準々決勝の常連だったが、今年は井上と、石井が引退、 鈴木も準々決勝で敗退してしまった。 時代の変化が、そのまま現れていた。 この試合は体重別でないのが良いし、日本人柔道家にとって思い入れの深い選手権。 次の主役が穴井と準決勝まで勝ち進んだ高井が浮き上がった。 毎年のことだが死力を尽くしきった試合は心を打つ。 また、今年勝った、穴井が優勝をして男泣きしていた姿が何ともいえない純粋さが現われていた。 石井が去年のオリンピックの金メダルを取った後の引退騒動。 彼によって柔道そのものが汚されてしまった。 それが柔道界全体に後をひいたように感じたが。 石井の醜態は、柔道そのものを汚した反面、 世界は柔道から「ジュウドウ」への流れを、石井は適応してオリンピックで優勝をした実績は実績である。 ところで毎年書き続けてきた文章を一切に目にしないで見たままを書いているが、 自分自身を試合を通して合せ鏡をみているようで面白い。 大相撲もそうだが、一つのことを 書き続けることも、何か自分の心を見つめる良い機会になる。 ー この文章を書いた後で、これまでのものを読み返すと、「毎年書き続けた文章を目にしないで書いている」 など、同じ文言が書いてあったが、決まった言葉を疑問を持たずに繰り返す自分の枠を見せつけらる。 ・・・・・・・・ 2008年04月30日(水) 2583, 全日本柔道選手権 毎年、この大会を楽しみにしている。特に、オリンピックの年のこの大会は、異常な熱気に包まれる。 日本の柔道家は、オリンピックより、この選手権に勝つことを重要視している。 今年も、準々決勝から放送されたが、どの試合も熱気に満ちた劇的な試合が続いた。 特に、準々決勝の棟田・生田戦と、井上康生と高井戦が劇的な戦いであった。 それまでの全てをかけた男同士の極限の戦いということ。結果として石井と鈴木の三年連続決勝戦になった。 普通の人なら、この試合は凡試合で、後味の悪い幕切れと見るだろうが、私は違う。 (以上、字数制限のためカット 2010年4月30日) ・・・・・・・・・ 2007年04月30日(月) 2218, 団塊格差は、かくもついたり (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪ 『団塊格差』三浦展著 ー読書日記ー 2005年12月に、この著者の『下流社会』について書いたことがあった。 今度は『団塊格差』という本が書店に並んでいた。丁度、団塊の世代が今年から定年を向かえるのでタイミングがよい。 これもまた買うほどでないので、ネットで概要を調べてみた。 時代背景が良かったので、格差がついたとしても、 それぞれの立場で納得しているところが、見かけられる。総中流時代の中で、結果として格差がついても、 時代の恩恵は受けていた年代である。歴史的にみても、団塊の世代は日本の黄金時代の背景があった。 格差がついたとしても、それが如何した!でしかない。格差は、その子供たちに直接影響を受けるから、問題は子供である。 それが大きい!が、 しかし、どれが如何した!と言えば、それまでのこと。 ーまずは、ネットで調べた内容からー 月刊誌『文藝春秋』との共同調査で、2000人の男女から得られた様々な数字を基に、 「団塊たち」の人生60年とこれからを考える *貯蓄: 300万円未満ー29%、 2000万円以上ー19% *退職金: なしー35% 2000万円以上ー28% 人生60年の棚卸しをしてみたら、実は団塊の世代にも大きな階層間格差が! 月刊『文藝春秋』との共同調査をもとに、所得、資産、仕事、結婚、定年、子育ての視点から現状を分析。 ・女性にはもてたい43%、 ・不倫したことがある28%なども含まれている。 『下流社会』の著者が、団塊世代の格差をとらえている。 ー団塊格差ー 1.リッチ・シニア層 退職金は2000万円以上、充分な年金、ある程度の資産を保有。 職業を持つ場合、実業家であれ、再雇用で会社従業員になるにしろ、収入のためより、社会貢献の一環として、好きで働く層。 職業を卒業した場合は、ボランティア活動をしたり、趣味に生きたり、学問や研究をしたり、自分の好きなように、自由に、 有意義にセカンド・ライフを送ることができる階層。 2.アクティブ・シニア層 金銭的に不安があるため働かざるを得ないが、法制度の改正にうまく乗って、シニアになっても職業を得ている階層。 例えば、労働基準法の改正による、会社の雇用延長制度や再雇用制度を上手に利用して就職できている人々。 健康で元気なうちは良いが、病気やケガで働けなくなると心配。 3.ワーキングプア・シニア層 金銭的に不安があるのに、アクティブ・シニア層のように収入を得る職業に就くことも難しい層。 ▼ 調査が浮き彫りになった団塊世代こととは何か。著者があとがきに記している次の一文が、それを端的に表している。 (字数制限のためカット 2011年4月30日) ・・・・・・・・ 2006年04月30日(日) 1853, 全日本柔道選手権 (☆-v-)。o○《Gооd Мояйiиg》○ 毎年、4月29日は全日本柔道選手権が行われる。この数年来、このテーマで書いているが、前年度を全く読み返さないで書く。 その後以前の内容を読むと面白い。同じ日に同じテーマで書いていると、その時々の選手の力関係だけでなく、それを見て 書いている自分が見えてくる。別に柔道が格別好きということではない。一年に一度の大勝負の真剣試合だから面白いだけだ。 年末の全日本相撲選手権も同じである。この大会は、階級別でないのが面白い! 今年の大会は、前評判の選手が順当に勝ちあがってきたが、19歳の最年少、初出場の石井選手が初優勝をした。 (以上、字数制限のためカット 2014年4月30日)
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2014年04月29日(火)
朝日新聞(4月22日) 耕論「消費される物語」 * 自己完結せず外へまなざしを 作家・高村薫 毎日、一文章を書き終える自己完結に精一杯で、内々に凝り固まっている現状を批判するに、丁度良い内容のようだ。 それも、13年間にわたって、束縛されてしまっている自分にである。 ーその辺りからー 《 ■「我々の社会」という物語が揺らいでいるため、物語は過剰な作られ方をしているー 人間の社会があるところには必ず物語が誕生します。原始時代でも自分たちの集落とその外を分ける物語があったはず。 日本で「古事記」や「日本書紀」が編纂されたのも、律令国家が確立して自らの国史を欲したから。つまり、物語は人間が 生きていくうえで必要なものなのです。私たちの国、私たちの王、家族、これらはすべて物語です。 物語の特徴は、 自分たちが見たいもの、好ましいものを取り入れる一方で、見たくないもの、不都合なものは排除することができる ところにある。つまり虚構です。私たちは物語という虚構を消費しながら生き、社会は虚構に支えられて維持されている。 ですから、今日さまざまな物語が次々と作られているのはそれほど不思議なことではありません。 ただここへきて、その物語の作られ方が年々過剰になっているのは「私たちの社会」という物語が揺らいでいるからです。 例えはグローバル世界では、人やモノの自由な往来が国境をなくしてゆくだろうと予想されていたのに、実際には世界の あちこちで「私たちの国」という物語が不安定になって、その穴埋めのために過剰な物語が生まれています。 ナショナリズムの台頭もその一つです。社会不安が増したり、経済状況が悪化したりして、人ぴとが自信や幸福感を失うと アイデンティティーも揺らぎます。それを補うために、ことさら物語を増幅させているのが今の世界です。 これまでと大きく方向性の異なる安倍政権が誕生したのは、新しい物語を語ってくれそうだという朋待が有権者にあるからで、 それが高い支持率の正体かもしれません。 日本では、戦後続いた経済的な繁栄という物語が崩れた後、社会をまとめる物語がなかなかできません。1990年代以降は、 心の余裕がなくなつて、物語がより内向きになっています。人は誰でも、より心地よい物語の方に惹かれます。社会にはかって、 本筋を外れてはならない暗黙の了解というか、節操があったと思います。明るい未来が見えているときには、外に向かって 積極的に開いていくことができたのですが、それが出来なくなってしまった。》 ▼ 13年間で、5千近い文章、物語を書き続けてきたが、これが私を、更に内向けにしていた。これで、都合の良いように 物語化して、都合の悪いことを排除していたのである。混沌とするほど、それが大きくなっていくのを、冷笑して、 改めて読み返すのも、また、都合の良い物語である。小さく、小さく、自己完結をしていただけだったのである。 その知識を加えて、これからの文章を書いていくしか、現在の私には術がないが。自己完結するから、次に進むことが 出来るともいえる。そういえば、単調な自己完結した日々を繰り返している現状を、改めて考えてみようか? 読者の一部には、これが見えていたのだろう。 今さら、自分は自分でしかない!と、思わなくては、ボキッと折れる。 ・・・・・・ 4426, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー9 2013年04月29日(月) 「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲著 * 日本人は実は会社が大嫌い これまで年功序列と終身雇用の日本的システムこそが人々を幸福にすると信じて疑わなかった。が、実はサラリーマンは 昔から会社が大嫌いでガマンして働いていただけ。それが出来たのは高度成長でパイが拡大していたため。 バブル崩壊で 景気が落ち込むと、日本的雇用制度が虚構の上で成り立っているのが露呈してきた。 著者は、ここで、 《 大卒内定率が50%を下回るのも、3人に1人が非正規雇用になるのも、中高年のサラリーマンにうつ病が急増するのも、 日本人がアメリカ人の2倍(イギリス人の4倍)の割合で自殺するのも、すべて、機能不全を起こした日本的システムから 生じる同根の現象》という。誰が好きこのんで年功序列の終身雇用のラインにいるのではない。それなりの理由があるため。 ーその辺りを抜粋してみるー ≪ バブル最盛期の1980年代後半に行なわれた、仕事の満足度に関する日米比較調査がある。おそらくほとんどのひとは、 日本と米国のデータがすべて逆になっていると思うだろう。この調査結果は衝撃的で、私たちの「常識」を根底から覆す。 カリブォルニア大学と南カロライナ大学によるこの調査は、日本の厚木と米中西部イソディアナポリス地区の製造業七業種の 労働者それぞれ4千人あまりを対象とした大規模なものだ。彼らは日本と米国の仕事観に際立った違いを明らかにした。 * 結局のところ「いまの仕事にどれほど満足ですか」との質問に対し、満足との回答は米で34%、 日本はその半分の17・8%。不満は米ではわずか4・5%に対し、日本はその三倍の15・9%にのぼる。 *「あなにの友人にこの会社であなたのような仕事を希望したら、あなたは勧めますか」の質問には、 米では63・4%が友人に勧めると答えたのに対し、日本はわずか18・5%だけだ。 逆に勧めないと答えたのは、米が11・3、日本が27・6%だ。 *「いまあなたが知っていることを入職時に知っているとしてこの会社のいま一度、この仕事につきますか」の質問では、 「もう一度やりたい」との回答は米ではじつに69・1%、日本は23・3%と三分の一にすぎない。 二度とやりたくない」は米ではわずか8%、日本は39・6%と回答者の四割にものぼる。 *「いまの仕事は、入職時の希望と比較して合格点をつけますか」に対しては、合格点は米33・6%に対し 日本はわずか5・2%にすぎない。否定にいたっては米の14・0%に対し、日本は62・5%と過半数を超える。 もういちど繰り返すけれど、これは雇用崩壊が騒がれるようになった最近の調査結果ではない。80年代は日本企業が 世界に君臨し"ジャパン・アズ、ナンバーワン"と呼ばれた時代であり、一方のアメリカでは、家族経営を信条としていた IBMやコダック、AT&Tなどの大企業が次々と大規模なリストラに追い込まれていた。それにもかかわらず、アメリカの 労働者のほうが日本のサラリーマンよりもはるかに仕事に充実感を持ち、会社を愛し、貢献したいと思っていたのだ。≫ ▼ アメリカの平均的家庭はプロテスタントで、働くことの価値の宗教的裏づけがある。日本にあるのは、儒教と 朱子学の勤勉と、藩への滅私奉公の意識ぐらい。それもアメリカの占領政策により、骨抜き。特に私は従属が大嫌い。 そのため会社に入らないで済ませるため、自分で会社を作る道を選んだ。振り返ると、それが正解? 調査結果の内容は、 国民の民度の問題でもある。これでは経済の荒波が来れば、ヘチャルわけ。使われるのも大変だが、使う方はモット大変。 * これらの質問の逆を考えて、何人肯定出来る? 日本人と同じ比率? 肯定肯定、絶対肯定!と、感謝の言葉を繰り返す日々。 ・・・・・・ 4052, 閑話小題 2012年04月29日(日) * ゴールデンウィーク ゴールデンウィークといっても、現在の私には関係ないし、敢えて人混みの中に外出をすることもない。 一般社会では、まとまった休暇は、この時期しかないのが世の習い。大多数が行楽地に出かけたりするのを見ると、 似たように動きたくなるのが人情。 ところで、現在通っているスポーツジムが、この期間にオール・オープンのサービスを 打ち出してきた。年中休みの私にとって有難いことである。 例年、ゴールデン・ウィークは昼か夜、隔日ごとに外食するのが慣い。 今年も何の予定も無し、サンデー毎日と同じ感覚である。 5月の連休をゴールデンウィークとは、良い命名である。 * 見切り千両 撤収の決断のキーワードは、「見切り千両」である。 以前より節目では「見切り千両」をキーワードにしてきた。 見切りこそ生物的本能が生かされる。攻撃の判断と、撤退の判断、この二つが決断の要。 そのためには経験と知識の蓄積が必要。 攻撃の決断より、撤退の決断は遥かに難しい。 遅かったきらいもあるが、この時しかなかったのも事実。 * 秘境の写真集とドキュメント 趣味に、秘境・異郷の写真集とTVドキュメントを楽しむことがある。(最近、秘・異郷ツアーに行ってないので写真で我慢もあるが) 最近は、もっぱらiPadで写真集にアクセスして見ている。 やはり一度、訪れたところが主になる。 一度行ったところは、 それぞれの目線により対象が違って見え新たな発見があり、その延長の旅を続けているような気持ちになる。その点でiPadは便利。 常に身近において置けるのでチョッとした豆時間(隙間時間)に、開き見ることが出来る。質も大事だが、量をこなすことも必要。 多いほど、より対象により近づいていける。 現地で全身で情報を吸収すれば、その後、情報は磁石のように吸い寄せられてくる。 今ではネットから簡単に入手出来る。 世界は面白いことで満ち溢れている。 やはり行動しなければ、そして知識を満たさなければ! ・・・・・・・ 3686, 自己を見つめる −10 2011年04月29日(金) * 孤独と愛について、 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 ー孤独の深さー 二ーチェによれば、落ち着いた人間の心のうちには「深い泉」があって、そこに石が投げ込まれても、 その底に達するには時間がかかるという。そうした人は、端から見れば,反応の遅い、退屈な人と見えるのだが、 そうした人こそは、外からの刺激を深く受け止めて、よく考える人なのである。 そうした人は、孤独のなかで熟慮する。 西田幾多郎は、かつて、こう歌った。 ー わが心 深き底あり 喜も憂の波も とどかじと思ふ ー と。 心の深い奥底は、そこに、すべての知情意の作用も、憂き世のあらゆる出来事も、みんな呑み込まれて、沈殿してゆき、 いわば底知れぬ深淵のまま、自己を支える存在の根底としてどよめいている生命の大海、ないしはその尽きることのない 源泉なのである。その心の奥底を孤独のなかで見つめつつ、自己を照らす根源的なものと面座する自己意識の極限こそは、 自己の知を越えて、自己の存在そのものと融け合うであろう。】 【 ひたすら、いのちを慈しみ、優しく幼子をかき抱き、愛情の限りを尽くして、子らのために献身する母性というものの記憶が、 人間における愛の心の象徴的原点を形成することは否定できないように思われる。なぜなら、そうしたものがあったからこそ、 人類はこれまで、そのいのちの営為を継続して、存続することができたからである。おそらく、愛の根源は、象徴的には、 そうした母性を介して人間に植えつけられるところの、無償の贈与、そのひたすらな献身のうちにあるであろう。 いのちあるものに恵みを与え、それを慈しみ、見守り、育て、その無垢の胎動を大切にし、その侵すことのできない 尊厳を守護しようとする、いのちへの優しい気遣い、その存在の絶対的肯定、それが愛であると言ってよい。 そうしたいのちの見守りの働きが、さらに拡大されて生きとし生けるすべてのものに及ぼされて、あらゆるものを その存在意義において許し、承認し、助け、生かし、守護し、見守り、育て、養い、その存在の至福を祈念する働きのすべてが、 愛という語によって含意されることになろう。そこに、万物を生かすところの神の愛といった観念も成り立つ。 もちろん、そうした愛に、さらに厳しさも加えられてこそ、万物の生成が初めて可能になるという観念も、やがて成立する。 シェリングの世界観などはその典型である。】 ▼ 孤独と、そこに潜む愛の問題は人間の本質に根ざしている。 「母の愛を介して人間に植えつけられる無償の贈与は、 その献身の中にあり、それが心底で象徴的原点を形成する」ことは、誰もが体験的に知っている。その量と質が、人間性を 決めてしまう。特に幼児期の両親の絶対愛が、人生の原点になる。絶対量の少ない人は多い人の温みの起因を知ることがない。 ・・・・・・・ 3321, 「知の衰退」からいかに脱出するか? −1 2010年04月29日(木) ー「『知の衰退』からいかに脱出するか? 」 ー大前研一 (著) 大前研一は、図書館や書店で手に何度か手に取るが、何か読む気がしなかった。しかし現在の日本の行き詰まりなどをみるにつけ、 「日本が変、それも異常なほど変である!」と思っていた矢先に、グローバルの世界の中で「茹で蛙の日本」を徹底的に非難している 内容をみて、読んでみることにした。 保守的な人からみたら、眼を剥いて怒るような内容が次から次へと出てくるが、 現実に中国や韓国の若者たちは、眼を輝かせて必死に勉強している割合が日本の若者に比べて圧倒的に多い現実がある。 高度成長期の時代なら、解るが、低成長の時代に生まれ育ちデジタルの時代の中で、情報だけは豊富にあり、 偏差値でランク付けを子どもの頃からされた若者の立場もわからないでもない。しかし、だからダメと諦めてかかっては、 どうもこうもならない。 これからのビジネスマンに必要な三種の神器は、「IT」「英語」「ファイナンス」というのも、 初めは??と思ったが、21世紀には、当たり前といえば当たり前のこと。 特に、ファイナンスを挙げているのは良い。 最後は、この辺である。 日本の若者の相手はネットの先の、世界の高IQ化した若者である。 だから、日本の低IQ化した相手を無視して、自分の得意とする分野でユニークなスキルを磨くことを勧めることこそ、 若者の道筋である。 「現在の日本の低IQ社会の一員になってはならない」ということ。 だから、私の知人の子弟が 数人、高校から外国に留学をさせているのをみかける。「寂しくないか?」と聞くと、毎日ネット電話で顔を見て話しているので、 全く感じないという返事。 それと、外国に行っていると金銭感覚が、鋭くなるという。 そうこう考えると、著者のいう三種の神器を身に付けさせるために行かせているようだ。 ・・・・・・・・ 2946,タレント知事をどうみるか? ー2 2009年04月29日(水) 佐高信は、タレント知事を完全に否定している。 ー反対する理由はー 「タレント、つまり人気商売は常に多数に寄っていく宿命だ。だから知事に一番向かないのではないか。 多数の人気に自分を預けていて、自分の意見がありそうで、ない。例えば、東国原知事の国政への転出騒ぎがその象徴だ。 『みなさんが許すなら』という言い方だった。 自分に信念があって不人気でもやるということではなく、 人気に寄りかかっている。 橋下知事も反発を受けることを断行しているように見えるが、常に多数に乗っかっている。 政治家や行政マンに必要な信念があるようで、実はない」 ー知事に必要な条件とは何かー 「弱者の痛みが分かること。過疎を切り捨てない人。この逆をやった政治家が小泉純一郎氏だ。 全体的に政治家の『小泉純一郎化』が進んでいる。タレント知事も同じ人気者路線に乗っかっている。 喝采(かっさい)を浴びた小泉氏のまねをして県民に受けている。 政治や行政の本来の使命である『公共』という概念が 忘れられるというか“殺される”と思う」 タレント知事は人気を利用した発言力が役立ってはいないか ーPR係として雇えばいいだけー (以下、字数の関係でカット2010年4月29日) ・・・・・・・・・ 2582, 柳田邦夫の2.5人称の視点 2008年04月29日(火) ー「人生の答え」の出し方ー柳田邦夫著 ー1 柳田邦夫著ー「人生の答え」の出し方ーに「2・5人称の視点」という言葉があった。その意味を噛締めてみると、 成程と合点がゆく良い言葉である。学生時代のゼミで、色いろな人間関係の実例を取り上げ、それぞれ原因を探り、 解決策を討論する事例研究を一年にわたり徹底的に鍛えられたことがあった。この本を読みながら気がついたことがある。 それは事例研究から学んだことは、一人称、二人称、三人称、そして一・五人称、二・五人称の視点の訓練をさせられたこと。 ーその二・五人称とは何か?を大筋書いてみる 一人称は、自分、 二人称は、あなた、家族など身近な人、 三人称は、専門家、役人、ジャーナリスト等、客観的に見る人。他人事とみる視点。 三人称は「事態を客観的に見る良さがあるが、悩んでいる、落ち込んでいる一人称、二人称からは冷たく見えてしまう」 そこで、三人称の人も二人称に歩み寄り、同時に二人称に埋没しない「2.5人称の視点」を持つべきだと。 1人称、2人称の視点だけでは感情に走って冷静な判断が下せなくなる。といって他人事としての3人称の視点であれば、 冷たく突き放す見方が優先する。求められるのは、1人称と2人称を考慮に入れつつ3人称的な冷静な判断を下せる、 2.5人称の視点が、柳田邦男さんの「2.5人の視点」である。冷静・客観的な、それでいて人間性豊かな かかわり合いを持てる人間こそ2・5人称の視点を持った人、ということだ。二人称に限りなく近づくが、 どっぷりと二人称になると、冷静な判断かつ正しい処置ができなくなる。そうすると「1.5人称の視点」「0・5人称の視点」 「4人称、5人・・・称の視点」と考えてみた。1・5人称の視点は、夫婦、親子、兄弟間のこととか・・0・5人称の視点は、 自分の中の神の目の視点とか、良心の視点とかである。 ーそれにしても、0.5、1・5、2・5とは面白い切口である。 思いやる心、温かい心、慈悲、感謝、感激、愛する心などなどということか。 ・・・・・・・・・・ 2007年04月29日(日) 2217, ネットカフェ難民 ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ 今年になってから、インターネット難民という言葉を見かけるようになった。駅前で宿泊業をしているので、 こういう現象に敏感になる。当ホテルにもビジネスホテル難民?が数年前までぺアで1〜2組、入れ替わり立ち代り 宿泊をしていた。12?の部屋に3?10年の長期滞在になるが、身なりはシンプルで、キチットしている。 水商売で色いろの事情があるようだ。もちろん警察にはマークされるが、犯罪にはつながってない。 今年になってから、急にネットカフェ難民という言葉が目立ってきた。 (以下、字数の関係でカット2,010年4月29日)
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