堀井On-Line



4430,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −2

2013年05月03日(金)

         ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
   * ルート1 心が幻想だと理解する道(脳科学の道)
 信長が、幸若舞の演目のひとつの「敦盛」を好んで舞っていたが、そこには、
「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ・・」という詞章があり、織田信長がこの節を特に好んで
演じたと伝えられている。人生振り返れば全てが夢幻。 その辺りを以下のように述べている。
 ≪ 古くは進化論で有名なダーウィンが、感情は基本的に「幸福」「驚き」「恐怖」「怒り」「悲しみ」「嫌悪」「軽蔑」の
七つから成ると述べている。また、心理学者エクマンは、表情から見た感情には、「幸福」「驚き」「恐怖」「怒り」「悲しみ」
「嫌悪」の六つがあるという。軽蔑を感情に含むかどうかだけが異なるが、あとは同じ。「幸福」が感情だというと日本語では
やや不自然な感じがするかもしれないが、「ハッピネス」を「楽しさ」と訳さずに「幸福」と訳したと解釈すれば、違和感はない。
ちょっと驚くのは、ポジティブな感情は「幸福(楽しさ)」だけで、他の五つないし六つはネガティブな感情だという点だ。
ああ、人間のポジティブとネガティブは、なんて非対称なんだろう。いずれにせよ、恐怖=怖さ。人間は、怖いという感情を持つ。
ちなみに、恐怖に限らず、あらゆる感情の記憶はすべて大脳辺縁系に蓄えられているといわれる。このため、大脳辺縁系は心の
中心だという人もいるくらいだ。・・・ もし人間に感情が無かったら、人間社会は、ロボットの集団、ないしはアリの集団の
ように、ただ役割分担をし、ただ生きて死んでいくような、無機質な社会だったに違いない。・・・シマウマの群がライオンに
襲われたとき、一匹が犠牲になる。それはお布施と同じで、一匹の命をライオンに提供しているのだという。あたかもお布施の
ように思えるシステムが、種と種の間の調和のために成り立っていることは、進化の当然の帰結だと言うべきだろう。・・・
要するに、生物種は、個体の死へのセンチメンタルを超えたダイナミズムによって進化を遂げただけ。それだけのこと。≫ 
 ▼ 一人称の死は存在しない。死んだ瞬間、無になるからだ。あるのは二人称と三人称の死しかない。怖いというのも
  感情の一つなら、心=感情は幻想と理解すれば、死は恐ろしくないはず。固体の死への感傷を超えたダイナミズムが猿から
 人間に進化させたのだ。一人称の私の死など、真面目に考えることはない、ということ。死ねば幻想が抜けたゴミでしかない。
 逆に、夢幻こそ大事にすべきといえる。小説、映画、ドラマ、コミックも作者の創作という幻想。 だから面白い。
・・・・・・
4056, 個性など、どうでも良い。的を絞った意欲と根気だけ!
2012年05月03日(木)
  * どう騒いでも、われわれは集合体の一部なのだ     ー 「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より
≪ 結局のところ、なにをどうしてみたところで、われわれは集合体なのだ。なぜといって、純粋な意味で自分の所有だと
いえるものなぞわれわれはごくわずしか持っっていないのだから。われわれはみな、先人からも同時代人からも受け入れて
学ばねばならないのだ。どんな偉大な天才でも、なにもかも自分の内部にたよろうとしたら、大したことはできないだろう。(略)
 要するに、自分の内に持っているか、他人から得るか、独力で活動するか、他人の力によって活動するか、こんなことはみな愚問。
大事なことは、大きな意欲をもち、それをやりとげるだけの技能と根気をもつことだ。それ以外はどうでもいいことなんだ。 ≫  
                                         エッカーマン『ゲーテとの対話』
▼ 我々は何らかの形で人類の蓄えられてきた文化遺産の一分野にいるのであって、それから一歩も出ることが出来ない、
 ということになる。一歩出たところで、それも際の範疇でしかない。そう思えば、あくせくすることもない。
 そのことに気づきてしまえば、後は楽。個性とか、自分になるとかは、他と違うことをなしうる能力に求めがちだが、
 本当に必要なのは、強い意欲を持って、やり遂げるだけの根気。アランは『教育論』で、発明や、一般に天才とよばれて
 いるものについて、長い間の勉強のあとでなければ出てこない、と述べている。 個性など、その後の話でしかない。
 好きこそものの上手なりで、好きだからこそ、辛抱づよく続けることが出来る。それを誤って才能と誤解してしまう。
 一人一人が意欲をもち、やりとげる技能と根気をもち努力するしかない。他人と比較することもない。要は意欲と根気だけ。
 で、根気を持って、これ続けています。
 ・・・・・・・
3690, この随想日記も、まる10年か〜
2011年05月03日(火)
 今日で、この随想日記がまる10年になるが我ながらよく続いたと驚いている。10年は大きな節目、今後どうするかである。
これで自分の全てを出し切った思いがある。あけすけに脳内を公開しているようなものだが、これを続けたおかげで自分の中に、
一人の記者の目が出来たようである。その結果、世界の見方が変わってしまった。 いや世界そのものも大きく変わってしまった。
書き続けるために、常に数回分の文章を書きためておかなければならないプレッシャーは大きい。が、それを逆に楽しむ面白さもある。
「一度でも休むと、もう二度と書き続ける気力が無くなるのでは」という恐れが続ける後押しをしてきた。振り返って読んでみると、
ここで書いてきたことが私の限界線でもある。 一番のメリットは数年分の同月同日の文章を毎朝、読むことが出来ることである。 
過去の痕跡の文章を早朝、読み返しているから10年続いたのかもしれない。 それと、「何人かの知人が読んでくれている」
という実感があることである。 それと書き続けることで、否が応でも常に読書を自分に強要できることである。 
この10年で、私の人生の支柱の一つとして残すことが出来たのは大きな収穫である。 他にも、
・最後は、こういう結果としても、四十年近くの事業の起承転結と、・50回近い秘境ツアー、・そして10年間続けた随想日記。
・それと、好きな酒と肴を思い残すことなく、飲み食べたこと。  ・それと読書を十分にできたことなど、思い残すことはない。
 そうこう考えて、これから続けるかどうか、止めれば張りが無くなるし、続けるのもシンドイし・・・
  「力を半減して、当面、続ける」が、現在の答えか? 
・・・・・・
3325, やりたいことは三千五百万もあれば・・・
 2010年05月03日(月)
   ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) −2
  * やりたいことは三千五百万もあれば・・・
・「死ぬ時に、楽しい人生だった」と言えるには、したいことは全部やったと思えること。
・ そのための金額は普通の人なら三千五百万もあれば殆んど実現できる。
  葬式代は350万もあれば充分。自分で葬式の手立てをしておけば三分の一で可能。
 (120万を前提に葬儀屋を何社か呼んで手はずを組んでおくこと)
・ 「漠然とした不安感で貯めておいた金を、この世に置いて後悔だけを持っていく」
 これが日本の大部分のバカな老後の姿である。 要は、考えてないからである。
▼ 以上のことは大前研一でなくとも私でも思うことである。要は考えないからである。 40歳の時、良い悪いは別にして
「年間1000万は使い切る」と決心した。しかし当時、10歳前後の子供がいて大学を卒業するまで10数年は、それほど贅沢を
出来る金額ではなかったが、それでも年二回は家内と海外ツアーに行き続けることが出来た。海外旅行代は総額3千万前後だろう。
一点豪華主義?である。月にすると10万になるが、普段の生活で節約をしていたので、使いすぎたという感はなかった。
その御蔭か満足した後半生を過ごしてきたと思っている。 これまで46回のツアーに行ったが、これを、これから始めることは
時代背景と年齢を考えると無理。「べき時に、べき事を、べくすべき」を実行していて良かったと満足をしている。
したがって老後の心配は殆んどない?。三千五百万といえば大金である。しかし100万ずつなら何とか可能?家を売却して
貸家に入っても「やりたいことを、すべき」と思うが、いざとなると、これが出来ないのも分かる。それぞれの事情があるから、
これ以上は言えないか。 もし何とか可能なら40歳から100万×35年間で、不可能でもない?。 無理?なら、50万は?それも無理? 
月に4万の積み立ても無理? その前に、まず「自分は本当に何をしたいのか」考えなくてはならない! で、ないと
「漠然とした不安感で貯めておいた金を、この世に置いて後悔だけを持っていく」ことになる。そういう思いで、歳をとってから
秘境に来ていた人と出会ってきた。それを実感したので、迷いなく実行できたのである。ーそれがどうした?って、どうもしないが・・
くだらない自画自賛か! これから3500万か〜面白そうだが、老後資金を考えると?となる。 でも、その金が! 宝籤を買うか!
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2950,人はどうしてオヤジになるか?
2009年05月03日(日)
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』 内田樹著の《人はどうしてオヤジになるか》の問いかけが面白い。
 この文章を読みながら( 私は「オヤジ」かどうか?)を内省してみた。 オヤジといえば、オバサンである。
 現象に大きく左右され、考えることをしない両性化した生き物。オヤジも長年かけて自分でつくりあげる生き物である。
 常に自分の中で肥大化しようとしている化け物として、監視しておかないと・・・
  ー まずは、その部分から ー P・20
 人の誤解のうちに最も危険なものの一つは「不愉快な人間関係に耐える能力」を人間的能力の一つと思い込むことです。
その耐性はむしろ有害であり、命を縮めることの方向にしか作用しません。「耐える」人の場合は、「耐えること」が
自己の中心にあります。それ以外のことは「耐えること」のために総動員されます。「不愉快な人間関係に耐える」というのは、
人間が受ける精神的ダメージの中で最も破壊的なものの一つです。世の言う「中年オヤジ」というのは、この耐えることが
劇的に人格化されたものといってよい。 会社で上司の罵声に耐え、部下の暴言に耐え、クライアントのわがままに耐え、
満員電車に耐え、妻の仏頂面に耐え、セックレスに耐え、子供の軽蔑に耐え、巨額のローンに耐え、背広の綻びに耐え、
全身これ「忍耐」からできているのが「中年のオヤジ」という存在です。 人生のある段階で、(たぶん、かなり早い段階で)
不愉快な人間関係に耐えている自分を「許す」か、あるいは「誇る」か、とにかく「認めて」しまったのです。
そして、その後、「不快に耐えている」ということを自分の人間的な器量の大きさを示す指標であるとか、人間的成熟の証しとか、
そういうふうに合理化してしまっている。蟹が甲羅に合わせて穴を掘るように、人間は、自分でつくってしまったパターンに
合わせて不幸を呼び込みます。「不幸に耐えている自分」を「器量の大きい人間」と勘違いをしたら、もうその後の
「オヤジへの道」は一直線である。そういう人は不愉快な人間関係だけを選択し続けることになります。本当にそうなんです。
▼ 以上だが、八割の人は、この「耐え人」の人生を過ごしている?自分の人生を振り返って、一番良かったことは何か?と、
 考えた時に、「事業を立ち上げ、一度も営業赤を出さないで何とかやってこれたこと」(今年度からは??)
       (字数制限のためカット2010年5月3日)
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2586, 日本の貧困率 ワースト2
2008年05月03日(土)                ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…
先日、Wowowで観た映画『しあわせの力』という映画。ウィル・スミス演じる主人公が貧乏のどん底から成功者への階段を
上っていく内容だが、その大部分が「すべり台社会」を滑り落ちていく内容。 リアルで他人事に思えない内容である。
地下鉄のトイレや、教会の施設に並んで泊まったり、子供が一緒だから尚のこと引き込まれてしまった。
実話に基づいた内容だから、迫力があるのだろう。 黒人のセールスマンが収入が無くなり、奥さんに愛想をつかれ子供を
置いて出て行く過程など現実的である。そして、最後はホームレスになる。這い上がるのは無理という状況から主人公が
成功を掴んだ要因は、【息子への愛】と、どん底でも諦めない執念。何か身につまされる内容であった。 
人生で、何度もすべり台に立つ瀬戸際を経験した。一つの判断が致命傷になる、それが創業ということ。
 (字数制限のためカット2010年5月3日)
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2007年05月03日(木)
2221, 静岡で感じたとこ       ヾ(●´∀`●)GOOD MORNING!!
 去年、学生時代の友人が私のところに訪ねて来て、今年は私が静岡を案内してもらった(4月30日、5月1日)。
学生時代に30日間欧州旅行をした友人である。静岡は住みやすいと聞いていたが僅か2日間だけでも、その豊かさを感じ取った。
静岡市内を案内してもらった後に、車で一時間近くにある浜松市に行き、その後に焼津に行って、友人の地元の知り合いの
経営しているホテルに泊まった。その間に車の中から垣間見た世界は、東海ベルト地帯の豊かさである。
「日本は東京から名古屋までの地帯に富が一極化に集約されるのではないか」とさえ思えるような景気の良さと豊かさを感じとった。
車から見える家と車は新しく、街並みは奇麗に整備されており、静岡駅や浜松駅周辺は再開発など大きなビルラッシュで、
カナダの都市?のような活況と清潔感があり、「これが地域格差」「これが21世紀」を具体的に見せつけられた思いであった。
「新潟駅立体交差再開発の完成の姿を思い浮かべることができた」ということか。静岡県は「ヤマハ」「本田」「鈴木自動車」
それにトヨタの関連企業が数多揃っていて互いシノギを削っている。友人の実家が、トヨタ自動車のラジエーターを主に
つくっている会社で、友人は、その子会社の社長で、かなり鼻息の荒い状態だった。東海道ベルト地帯は永年かけた工場地帯の
集積がある上に、お茶の生産地があり、焼津などの漁港もあり、山梨などの後背地域もあって、それぞれが有効に連鎖している。
名古屋駅周辺を含めて、隔世の感があるほど活況があり、不景気はどこ吹く風という。
なるほど他とは格差がつくにはつく理由がある。それに引き換え、それ以外の日本は?・・・・
 ▼ そうそう、今日でHP開設、6周年になる、2200も毎日、この文章を書いたことになる。それと、もう一日に書ける限度の
 レポート用紙20枚分をオーバーする。6年前の文章をカットしなければならない。毎日、過去に書いた文章を眺めて自己満足をしていたが、
 オーバーのサインが出てきて、カットするのが非常に心が痛む。過去の自分(のエネルギー)を切り捨てるような気持になり、
 どれも捨てがたいのである。             (○´ω`○)ノ **SeeYou *(○´ω`○)ノ
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2006年05月03日(水)
1856, HP開設、5周年  ー1    \(^▽^*)おはようございます!(*^▽^)/
明日で、このHPを開設して、まる5年になる。旅行以外は、ほぼ?一日も欠かさず随想テーマ日記を書いてきた。
我ながら続いたことに驚いている。5年前のこの日を境に一変し、全て、このHPを中心に生活がまわるようになった。
一日、何らかのカタチで5時間以上?はパソコンに向かうようになった。5年前にパソコンの先生に事務所にきてもらい、
このHPを立ち上げた。さらに自宅近くのパソコン教室に三年以上通った!
・パソコンを自分の道具として使いこなせるようになりたい!
・HPを自分のネット上の部屋にしたい
・ネット・サーフィンでネット空間を飛び回りたいという思いがあった。


4429, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか 

2013年05月02日(木)

         ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
   * 死の恐怖を克服する七つの登山道とは
 人生で最大の難関が最期の死。ここには、死の恐怖を克服する著者の椎奨の七つの登山道が書かれている。
スッと、眠るように死にたいが、そうは簡単にいかない。 長生きすれば「死に損ない」と言われそうだし、癌で、あと一年、
数ヶ月と区切られ悶々と死んでいくのも厳しい。現に父親が、そうであった。一年間、傍にいたので、それが直に伝わってきた。 
砂漠の真只中に置かれたような生の渇望の乾きは残酷である。実際に、その立場に置かれて経験しないと分からないこと。
死の恐怖の克服法は知らないより、知っていた方が遥かによい。生への渇望の克服など無理といえば無理。肉体的に精神的にも、
のたうちまわって死んでいくしかないのが実態。だから恐れる。著者が死への登山道という表現は言い得て妙である。 
  ーまずは、7つのルートとはー
ルート1  心が幻想だと理解する道(脳科学の道)
ルート2  すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道)
ルート3  自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道)
ルート4  主観時間は幻想だと理解する道(主観的スケール思考の道)
ルート5  自己とは定義の結果だと理解する道(自他非分離の道)
ルート6  幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
ルート7  リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ(思想の道)
 ▼ 次回から、それぞれのルートの要点を書き出してみるが、最近読んだ、「宇宙は本当にひとつなのか」と、
  「宇宙は何でできているいるのか」(村山斉著)を読んで、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している
  可能性があると知り、単純だが、自分の人生も、死も、大した問題でないことを改めて知った。 これはルート3の、
  客観的スケール思考の道になる。 この7つのルーツの道を繋ぐと、
 ≪ 人間の心は、本来幻想。人の一生は宇宙的スケールでみれば、瞬時でしかない、直ぐ死ぬのも後で死ぬのも同じ。
  また微細な存在。知情意で捉えている時間も幻覚。自分という枠組みも定義で変わるもの。恐怖が幸福の対角にあるとし、
  その幸福という感覚も幻覚。ただそれだけのこと。≫ ということになる。般若心経そのものになる。だから、
  死に直面すると、写経を始めるのは効果がある。こう、まとめると、各ルートを歩くのが面倒に思ったが、よく読むと、
  道筋には含蓄に満ちた景色がある。目先の死を知ってから、それまでの一生分を生きるのだから、学び足りないのは当然。
・・・・・・
4055, 一個の人間の顔、それは一つの象形文字
2012年05月02日(水)           
                 ー 「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より
≪ 「一個の人間の顔、それは一つの象形文字だ。ある神聖な、明確なしるしだ。なかに魂の現在があらわれている。
 動物だってそうではないか水牛がものを咀嚼しているとき、その顔を見てみたまえ、鷲の顔を見てみたまえ、犬の顔を見てみたまえ。
一個の人間の顔の中にはっきりした意欲と決意とがあらわれているとき、それは一個のばらばらな意欲と決意という以上のものだ。
そういう顔をぼくの夢想の中のドイツ人は持っていた。どれも一息つくより短い夢の間にすぎなかったが。 むろんぼくは、
ぼくに向って吹きつけてきたその未知の人物の顔を必ずしもいつも見たわけではない。(中略) だがともかくそういうとき、
ぼくはそういった顔を内側から見たという気になったものだ。『 わたしはこういう人間だ 』と、それらの顔には書かれていた。
そして今ぼくはこの四ヶ月というもの、現実の人間の顔を見ているわけだ。 なにもぼくはかれらに魂がないなどというのではない、
魂の光は一再ならず閃き出るのだが、それがすぐまたふっと消えてしまうのだ。鳩小屋の鳩と同じことで、強と弱、近いものと遠くから
持ってきたもの、卑俗なものと高貴なものとの、永遠の入ったり飛び立ったりなのだ。 あるのはざまざまな可能性のそういった
落着きのない出入りだけ、そしてそこにはつねに、あの一つの偉大な、決して言葉に言い現わせぬ奥底の思想が欠けている。
立派な顔には必ずあるあの変らぬものが。・・・ ≫          ーホフマンスタール『帰国者の手紙』より
 ▼ 顔に責任を持て、と言われても今更だが、年齢を重ねた顔には責任を持たねばならない。
  特に、政治家の大事を成し遂げた顔は、大事の象形文字と見ることが出来る。『わたしはこういう人間だ』と、
  そのまま書かれているようだ。先年、亡くなった片岡球子の人物画の顔が良い。人間の顔が象形文字ということを
  知り尽くしているから、あのような顔がかけるのである。 顔は魂の表出、老いてきたとき、行蔵が、そのまま現れ出る。
    ・・・・・・・
3689, 自己を見つめる −12
2011年05月02日(月)
  * 世間とは        「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 
 世間についても、何度も取り上げてきた。特に絶対神を持たない日本では、右に倣えの世間的価値に同化することが善になる。
人生の最晩年になって、いかに、それが自分の壁になっていたことに気づいて慌てふためく。(それさえない人もいる)
世間から身を守るためには、やはり読書か、芸術や趣味などに専念するなどライフワークが必要である。 
世間を否定するのではなく、それと、心底で距離を置くことが必要である。 
  ー以下の、哲学的世間論も分かりやすい。
【 ー世間とはー 世の中の人が判断する仕方に従って判断する。大勢に準じた生き方のスタイルが、自分自身の生き方のスタイルに
なってしまう。 それ以外に自分の人生を考える余裕もすっかりなくなってしまう。 なにしろ、そうした自己喪失的な大勢順応の
暮らし方のほうが、気楽で、安心で、責任がなく、居心地がいいのである。 下手に逆らったり、別の道を選ぶと、世間から
締め出される危険性が忍び寄ってくる。 みんなと一緒のほうが安全なわけである。 したがって、誰も、真剣に自分のほんとうの
生き方の道などを考えてみようとはしない。 ハイデッガーは、こうした自己喪失的な世人のあり方を「頽落」と呼んだ。
そのときには、世の中の人は、いやな過去のことはどんどん忘れ、将来の成功のことをもっぱら予期し、現在の周りの出来事には、
最大の注意を払って、そこでの出番の成り行きに汲々となる。 そのとき世の中の人は、好奇心に動かされて、噂話や風評に打ち興じ、
物事の真相を曖昧にしたまま、仕事や趣味や遊びや気晴らしで、興奮した多忙な日々を送る。そうしないと、恐ろしい倦怠と、
ぞっとするような人生の深淵が眼に入ってきて、鬱陶しいのである。そうして、無責任で活気にみちた興奮と狂乱と日常的な
世界内存在の表面ないし前景を形作ることになる。・・・ 】
 − 世間とは、無責任で活気にみちた興奮と狂乱と日常的な世界内存在に生きている人たちをいう。しかし人間は、自分の存在の
根底を見つめたとき、投げ出された底なしの存在に、不安を覚えるもの。その気分の方が、人間の根源に潜む根源的気分であると、
ハイデッガーが看破した。 それは死にさらされた自己自身の存在の自覚とともに立ち上がってくるという。
その逆に、存在の根底から目を背ける人たちが世間の人である。我々は底なしの存在から目を背け現象に気持ちを集中させて
生きようとする別名、俗人ということになる。 俗人も悪くはないが。
・・・・・・・
3324, 「B層」という「IQ]が低い人々
 2010年05月02日(日)
 ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ーの中で、B層という言葉が印象的に残った。
 以前、小泉元首相が、≪一言メッセージ≫を国民にわかりやすくコメントしたり、郵政解散で自民党の内部分裂を
ショーにして選挙に大勝した。 これは、考えない「B層」に狙いを絞った戦略だったことを、この本で知った。
その後の民主党の大勝も、「腐りきった長期政権の自民党の破壊」という分かりやすい争点であった。
それにしても、小泉、安部、福田、麻生、鳩山という政治を家業とする二代目が、徹底的に日本を破壊してくれた。
創造の前の破壊なら、それも良しだが。どうも、そうでもない。アメリカの実質、日本の植民地化の政策が背後にある。
彼等二世の養成もアメリカの長期戦略の一つ? 恐ろしい限りである。
 ーウィキペディアによると 「B層」とは
2005年、小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社「スリード」が、
小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。その後、ポピュリズムに動員される国民層を揶揄する意味合いで
使われるようになった。  スリード社の企画書では国民を
「構造改革に肯定的か否か」を横軸、「IQ軸(EQ、ITQを含む独自の概念とされる)」を縦軸として分類し、
「IQ」が比較的低くかつ構造改革に中立ないし肯定的な層を「B層」とした。 主に主婦や教育レベルの低い若年層、
高齢者層を指すものとされる。 上記の企画書がネット等を通じて公に流布されたため、
資料中に使用された「IQ」(知能指数)の語や露骨なマーケティング戦略が物議を醸すところとなり、国会でも取り上げられた。
・「A層」=エコノミストを始めとして、基本的に民営化の必要性は感じているが、これまで、特に道路公団民営化の結末からの
  類推上、結果について悲観的な観測を持っており、批判的立場を形成している。「IQ」が比較的高く、構造改革に肯定的。
  *構成ー財界勝ち組企業、大学教授、マスメディア(テレビ)、都市部ホワイトカラーなど
・「B層」=現状では郵政への満足度が高いため、道路などへの公共事業批判ほどたやすく支持は得られない。郵政民営化への
  支持を取り付けるため、より深いレベルでの合意形成が不可欠。   「IQ」が比較的低く、構造改革に中立・肯定的。
  *構成ー主婦層、若年層、高齢者層など。具体的なことは分からないが小泉総理のキャラクター・内閣閣僚を支持。
・「C層」 構造改革抵抗守旧派。          「IQ」が比較的高く、構造改革に否定的。
  〜〜
 大前は、「B層という知の減退した人たちと一線を引いて、何とかA層に入りなさい!」というから辛辣といえば辛辣。
しかし、この日本の低たらくの現実がある。 ネット社会=情報化社会では、端末から価値ある情報が無限に引き出せる。
したがって彼の論旨も、ある意味で納得できる。 知能まで植民地の住人に落ちてしまったB層の比率の拡大? 
  周囲は、ほぼB層? ということは、私も? まあ、いいか!  で、A層とかいう幸せな方々、実はD層じゃないかい 
 (一番大事なことを考えない、見えてない、という意味で?) 上記の5人が、その証明。  闘い続けている点は認めるが!
 ・・・・・・・・
2949, スリルな瀬戸際だった日々
2009年05月02日(土)
 先日の4月28日に、無事に第二シングル・インの中のテナントが決まり、調印が終わった。そして午後にテナントの内装屋から
 電話が入り、「建物の用途変更は、お宅でして貰えるのでしょうね」という。     (字数の関係でカット2,008年5月2日)
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2585, 情報は1冊のノートにまとめなさい
2008年05月02日(金)
「情報は1冊のノートにまとめなさい 」
 −100円でつくる万能「情報整理ノート」 ー奥野宣之著
 (以下、字数制限のためカット2010年5月2日)
・・・・・・・・・
2007年05月02日(水)     ー遇然同日に、酒の話があった。面白いものだ2008年5月02日
 2220, 酒の話ー3  +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゜・:*☆  
酒の話は、ここで何度も取り上げてきた。酒には付き合い酒、祝い酒、涙酒、別れ酒、
怒り酒、迎え酒、寝酒など、色いろあるが、あるHPで酒に関する面白い文に行き当たった。
酒は下ネタと同じく時空を超えて万国共通であるためか人間の本質を知る上で身に沁みる戒めが多い。
特に私は!? 偶然の一致だが、三年前の今日、『酒について』というテーマで酒について、
書いていた。面白いものである。 それにしても、酒の失敗があまりにも多い!
  =====
*まずは『旧約聖書外典』である。『外典』は、『正典』としての「旧約」や「新約」聖書の成立の編纂で、
排除された文章をまとめたもので、酒に関する戒めのような実用的なものが多い。
これが2000年前の旧約聖書にあったのだから、酒は今も昔も人間を狂わせてきた魔物。
 ー『旧約聖書外典』(関根正雄編 講談社文芸文庫)よりー
大酒を飲むことで勇者を気取るな           酒で失敗した人は多いのだ
炉が鋼鉄をためすように               酒は酔っ払う人の性格をためす
酒はほどよく飲めば                 生命の力となる
酒なくして何の人生か                酒は人を幸せにするために作られた
時をえらんでほどよく飲めば             酒は心を楽しませ 愉快にする
だが飲みすぎれば苦い思いを味わい          怒りと復讐の心を生む
愚か者は酒によって憤り 自ら害を招く        酒は力を弱め ついには障害をうけるようになる
酒の席ではとなりの客と争うな            相客が楽しんでいるのを妨げるな
隣人をあざけったり                 借金の催促などをしてはいけない
====
また若山牧水「酒の歌」で『今まで自分のして来たことで多少とも眼だつものは矢張り歌を
  作ってきた事だけの様である。いま一つ、出鱈目に酒を飲んで来た事。』と酒の思いを述べている。
ー牧水の酒のうたー
(字数制限の関係でカット09年5月02日)
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2006年05月02日(火)
1855, ローマから日本が見える−9       (o´・ェ・`o)♪ぉはょぅ
ローマ街道を彼らローマ人は武器と考えた。そして、その武器を最大限生かした。
その武器を平時の時に常につくり続けていった。 (字数の関係でカット2,008年5月2日)   
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2005年05月02日(月)
 1490, 24歳の日記ー4  ー4月1日  1970年
一番大事なことは、誠実である。誠実さを持てば自ずから幸福につながる。言葉というものは自由な消費財と捉えられる。
しかも、その消費財を使う消費者は生産者を兼ねている。何か解ったような解らないような。父親に言われる、
「人間、自分が将来に希望を持てないようだったら死ぬべきだ!周囲に迷惑がかかる。死ぬなら今のうちだ」
 ー4月11日
10日間、両親と三人で四国に行ってきた。両親と三人で旅行するのは、今迄で初めてである。
考えていたより、素晴らしい旅行であった。 良い思い出になった。特に、香川の坂出の夕陽のオレンジ色の輝きは
生涯忘れることができない。生まれてみる初めて見た自然の輝きであった。瀬戸内海の景色の中の波の照り返す黄金の輝き!
学生時代に湘南で見た夕陽とは、また違った輝きであった。それと、両親と旅行することも二度とないだろう。 
かなり加熱していた頭を冷やすのに丁度良い。
 中原中也の詩「山羊の歌」の中の
ーあき・修羅街輓歌ーと、
ーみちこ・汚れてしまった悲しみにーが、今の自分を慰めてくれる。
 今の自分の心をそのまま表現している。 心の傷を消毒をしてくれる。 強くあらねば!
 ーーー 
  酔生
私の青春も過ぎた、 ―この寒い明け方の鶏鳴よ! 私の青春も過ぎた。
ほんに前後もみないで生きて来た…… 私はあむまり陽気にすぎた? ―無邪気な戦士、私の心よ!
それにしても私は憎む、 対外意識にだけ生きる人々を。 ―パラドクサルな人生よ。
 (以下、字数制限のためカット2010年5月2日)
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2004年05月02日(日)
 1125, 酒について (ああ、酒よ!)
「神はこの世を六日間で創り給うた。そして、第七日目には、二日酔いを与え給うた」というとおり、酒はよいことだけではない。
(字数の関係でカット2,013年5月2日)
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2003年05月02日(金)
 758、ある医師の夢
 10年近く半年〜一年に一度の定期健診ー人間ドックにいっている。その主治医と、いつの間にか懇意になった。
 先日検診に行くと、オホーツクの僻地に赴任することになったという。
   (字数の関係でカット2,011年5月2日)
・・・・・・・
2002年05月02日(木)
 394,「人生を変える至福の散歩」
昨夜、NHK でウオーキング特集を組んでいた。「人生を変える至福の散歩」というタイトルだった。
(以下、字数制限のためカット2010年5月2日)


4428, 前期高齢者になって、気づいたこと!

2013年05月01日(水)

  * 老人教育の必要性
 前期高齢者になって丸二年になる。丁度、会社も無くなり、年金暮らしに入り、丸裸の自分に直面、そこで改めて
自分の年齢に驚いている。まず気持ちが年齢についていけない。まだ50歳半ばというところ。
 数年前に親戚の法事に出たが、宴席で80歳位の人の愚痴が始まった。「後期高齢者という命名が人を馬鹿にしたようで
気に入らない」「免許書換えで、返納を考えるように暗にいわれた」とか。そこで、年寄りの愚痴ほど周囲を不愉快にする
ことを教わった。私の両親の愚痴を聞いたことはない。 肉体の衰えが精神に転化し顕れるのが愚痴。スポーツジムに
毎日通って腰痛は軽くなったが、何かしらイライラする頻度が多くなった。さしあたった心配事がないこともある。
 「前期高齢者」「後期高齢者」という命名は確かに失敗。例えば前期を「グリーン高齢者」、後期を「プラチナ高齢者」
ぐらいにする心遣いも必要である。歳を重ねるたび身体は重く、気持ちは暗くなり、身内や身辺の悪口、あら探しの
度合いが強くなるのが老化のようだ。 他人をみると分かるが、自分になると自覚できない。それもあるから年寄りは
意識して明るくなければならない。それと自立が出来てなかった人ほど老人の甘えが強い。 政府が音頭をとって、
地域自治体に「お年寄りの心得」とかいうセミナーの聴講を義務づければよい。 私など最も手のつけられない偏屈老人に
なりそうだが・・ 日本は世界の名だたる長寿国になったが、それに備える知識教育はされてない。 その以前に、
自立と教養の問題に行き着く。 御隠居学とか、余生の過ごし方のようなノウハウ本には、長年かけた準備が必要とあるが、
今日明日、そう簡単に良い老人への変身など土台無理の話。そこで、せめて「明るく自立した生き方を目指すべき。
老人になると、人生で培ってきた要素の格差が大きく出てくる。老いていく自分を自虐的に鳥瞰するのも面白いもの!
  ー たまたまだが、以下の内容が、丁度つながる。
・・・・・・
4054, 吹き来る風が私に云う
2012年05月01日(火)
  ー 帰郷 ー   中原中也
柱も庭も乾いてゐる 今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が 心細さうに揺れてゐる

山では枯木も息を吐く あゝ今日は好い天気だ
路傍の草陰が あどけない愁しみをする

これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと 年増婦の低い声もする

あゝ おまえはなにをして来たのだと・・・
吹き来る風が私に云う
  ーー
 この最後の二行が、現在の自分の心?でもある。 自分だけでない、晩年の人間から湧き出る言葉。
「あゝ、おまえは何をしてきたのだと・・・吹き来る風が云う」 ったく!お前という奴は!と、まともに人生を生きてくれば、
この言葉が出るのが自然。 秘境ツアーで、平々凡々に生きてきた人が病気で突然、死に直面し慌てて人生の余白を埋めに
来た人に出会ったことがある。 死線を彷徨った手術の後、壮大な景色に感動して夫婦して肩を抱き合い泣いている姿も見た。
ネパールで遠景のヒマラヤ連峰が一望できる丘であった。 パタゴニアでは初老の婦人が何気なく、「親のいう通り生きてきたが、
ハッと気づくと、先が無い。 私の人生で何もしてこなかった。このままでは死にきれない。この旅行は、その穴埋めにきた」と、
道すがら語りかけてきた。「・・・吹き来る風が云う」声で追われるように旅立ってきて、そこで何を感じたのだろう。 
 実は、この矛盾こそ実在。 生きてきた証である。 エッ 証文が束になっている? 誰が? ただ飄々と風がふく。
 ・・・・・・・・
3688, 自己を見つめる −11
2011年05月01日(日)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  愛の不在の人=肉親の愛情に恵まれなかった人を見抜くことは難しい。 両親の仲が悪い子供には往々に多いが。
 愛の不在の人は普段は分からないが、節目時に、それが表面化する。 人への憎悪と呪いが、そこで爆発する。
 これは誰々という訳でなく、全ての人の心の奥に巣くっている。 節目時は、傷ついている場合が多い。
 そのマイナーのエネルギーをプラスに転換するには、そのまま流される数倍のエネルギーを要する。
 しかし流される人は意志が弱いため、そのエネルギーが空回りをしてしまう。そして自爆になっていく。 
  以下の箇所も、充分、肯ける部分である。
  ー愛の不在ー
【 小さいときから、肉親の愛情に恵まれず、誰からも優しい扱いを少しも受けなかった人があったとすれば、多分その人は、
心の奥底に深い傷を抱いて、その後ずっと人生を恨みとおし、表面は穏やかであっても、おそらく心の底では、一生を通じてずっと、
他者に対して暖かい心をもつことができず、絶対に他人を許そうとはしないであろう。 小さい頃に親の愛情に恵まれなかった人、
また、周囲の人たちから嫌われ、いじめられ、除け者にされたと思っている人、さらに、長じてからも憂き世の労苦と意地悪な
世間にもみくちゃにされて、何の優しい愛の絆をも構築することができなかった人、そうした人は、その原因が何であれ、
その隠された心のなかで、人生を憎悪し、呪うことになるであろう。 そうした人は、自虐や他虐のふるまい方をする以外に、
人生への仕方をすることができなくなるであろう。 そのすさんだ心には、辛い人生に復讐する怨恨構の爆発だけが、
この世の慰めとなるであろう。 これは、ひとごとではない人生の最重要問題である。 こういう否定的な感情は多れ少なかれ、
誰のうちにも巣くっている心の病だからである。なぜなら人間は、どこにおいても、厳しい人間関係のなかに置かれ、
大なり小なり、この世の荒波にもまれ傷つ経験を免れがたいからである。】
 ▼ 無条件に親の愛をうけた人は、それが温もりとして性格を形成する。 逆の人は否定的感情に支配され、深く自分を傷つける。 
  それは誰も持っているが人により強弱がある。 普通の流れでは、それは出てこないが、節目時に暴風となる。それも家族全体が。
 ・・・・・・・
3323, 「なぜ・なぜならば」の極限としての自由
 2010年05月01日(土)
  『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著 −3
「理性の極限として自由に行き着く」とは、驚きだが納得できる。 そしてカントも自由が「創造的能力」と看破。
自由は第一原因であることから、当然の帰結である。  自分の真にしたいことを人生を通して貫き、
創造性を発揮することが自由であり、それが理念であり、そこに理性が働くことになる。
 *「なぜ・なぜならば」の極限としての自由  ーP・205 から
≪ 自由は第一原因である。原因は理由であり根拠であり、「なぜ」「なぜならば」であったから、第一原因としての自由は、
意外に思われるかもしれないが、「なぜ」および「なぜならば」の極限である。日常のことばの使用法からすれば、
「なぜ」は単なる疑問詞であり、「なぜなら」も単なる接続詞にすぎず、これらが自由とじかに結びつくことはない。
それを思えばよくよく意外な地点に到達したものである。しかし、「なぜ」「なぜならば」「理由」「根拠」「原因」、
そして「第一原因」と、一連の鎖を極限までたどってくると、おのずと「自由」に逢着せざるをえなかったのである。
これらの鎖の項は、いずれも理性のメタモルフォーゼ(変容・化体)である。理性は自由の最終的メタモルフォーゼである。
そして、自由はあの「なぜ存在するものがあって、むしろ無ではないのか」というライプニッツ以来の問いに対する、
考えられうる「なぜならば」の中で究極のものである。 その意味で、先にアプリオリな判断が、ライプニッツによる
十分な理由の法則の成長形態であることを確認したが自由はその成長の極致と言ってよい。
われわれ独自の定式で言えば、「なぜ『なぜ』なのか」という問いに対する究極の「なぜならば」でもある。
この背後に関しては、哲学はソクラテス以来の率直な「無知の知」をもって答える以外にない。
究極の「なぜならば」であるかぎり、そのさらに「なぜ」は少なくとも理性にとっては無意味である。
カント自身も、「なぜ」自由が可能なのかは、答えることが出来ないとした。自由が「なぜ」(理由=理性)の極限であれば、
理性にとってそれ以上の「なぜ」はあるはずがない。あえてその背後に踏み込もうとすると、理性の限界外に越権を犯すことになり
言葉が空転する。そこには、理性を満足させうる答えはない。 というのは、理性を満足させうるのは再び理性のみであり、
理性の限界外には「非理性」があるだけだからである。 ちょうど、鏡に万物が映し出されるが、しかしその中には何も
実在していないように。 非理性によって満足するものがあるとすれば、それはさしずめ「構想力」(イマージネーション)
であろうが、それを満足させることができるのも、やはり逞しい構想力であって理性ではない。・・・・
 たしかに自由は無からの創造に類似する。超時間から時間への作用である自由は、どこか神による無からの創造を思わせる。
カントも自由が「創造的能力」であることを、はっきり認めていた。 しかし、理性的存在者としての人間は、その自由ゆえ
自己の行為の創造者でありえても、世界の創造者ではない。≫
〜「よく遊び、よく学び、よく遊ぶ」これが創造的能力を発揮する! この「よく」が理性? 親、社会の刷り込みからの自由?
・・・・・・・・・
2948, 報道されないニュース
2009年05月01日(金)  
 ネットで「商業販売、過去最大24.0%減に」をみて驚いた。 大手の新聞記事を探したが見当たらない。
報道管制をしているのである? メーカーが40〜50パーセント減、流通・サービスが30〜40パーセント減、
と言われているが、あまり表面だった報道はされていない。ところが、共同通信社のHPに、この記事があった。
スーパー、百貨店などが24パーセント減とは、マスコミは間違っても報道はしないが、実際は、そんなところか?
日本は、とんでもない領域にあるということだ。 時間の経過と共にツルベオトシになっている。
これに豚インフルエンザときたら、5〜6月は大荒れになってしまう。即死の企業が多出するのは必然である。
*3月商業販売、過去最大24.0%減=卸の全業種マイナスに  4月28日11時1分配信 時事通信
  経済産業省が28日発表した3月の商業販売統計によると、卸売りと小売りを合計した商業販売額は前年同月比24.0%減の
  45兆0650億円となり、4カ月連続で過去最大の減少幅を記録した。自動車や半導体の輸出が不振で、卸売業販売額が
  29.2%減の33兆3420億円と急減したことが響いた。  卸売りは全業種でマイナス。 
*2月商業販売、過去最大21.5%減=卸、小売りの全業種がマイナス (2009/03/27-10:20)
  ≪字数制限のためカット 2011年5月1日≫
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2584, ただ、生命だけが‘びくびく’と生きている
2008年05月01日(木)
 ー「人生の答え」の出し方ー  柳田邦夫著 ー2
この本の「魂を揺さぶる言葉」という項目の中でー「いのちの初夜」 北條民雄著ーを取り上げていた。
ハンセン病のために隔離され疎外され、23歳で夭折した小説家・北条民雄の代表作「いのちの初夜」で、
古株の患者が新入患者である主人公に語る言葉の一部がある。 まず、その部分を書き写してみる。
 ーー
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち そのものなんです。
僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。 あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。
ただ、生命だけが‘びくびく’と生きているのです。 なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那(せつな)に、
その人の人間は亡びるのです。 死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では
決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。 けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、
全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復(かえ)るのです。復活そう復活です。 びくびくと生きている生命が
肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。
死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。
ひとたび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」・・?   「いのちの初夜」より
 ここからは、ー「人生の答えの出し方ーより??
・・ハンセン病になったとたんに、家族からも地域からも排斥され、社会的存在としての人間は抹消されてしまう。 
しかも、病気の進行によって、肉体は崩れて感覚器官もうしなわれていく。まさしく<生命だけが、びくびくと生きている>
状態になることを、北条は残酷なまでに表現している。<びくびく>という形容詞が情景と本質を正しく表現する決め手に
なっている。・・この作家が川端康成に出した手紙の中に次のような文章がある。
「この作品は書かねばならないものでした。・・僕には、生涯忘れることの出来ない恐ろしい気(ママ)憶です。
・・僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。」
 ーー
解)「人生の答え」など、あるわけがないと、この本を読むまでは考えていた。ところが、此処には、その答えがあったのである。
  この本の構想のメモには、
 <俺は俺の苦痛を信じる。如何なる論理も思想も信じるに足りない。 ただこの苦痛のみが 人間を再建するのだ。>
 とすざましいことをいっている。 人間は、死を直前に突きつけられると「生きる意味」に気づかされるのである。
 死を目の前に突きつけられると、自分が宇宙のチリの中の微粒子の、そのまた無に無限に近い存在に気づかされるのである。
 そして、そこから改めて現世に振り返って、そのことを考えている己を見つめ直すと生死の際でボウフラのように、ふわふわ
 している存在に大きな愛情を感じる。 著者のライ患者・北条は、そこで苦しみ苦痛こそ、崩れ去ろうとする人間性を 
 再建させてくれると悟り、 書くことに全てを捧げる。 それこそが、人生の答えの出し方である。 
 「その苦痛こそ、多くの人間の苦悩を救うことが出来る。それを書くという一点に全てを集中すること」
 それが人生の答であると、柳田邦夫は看破している。
 ・・・・・・・・・
2007年05月01日(火)  
 2219.平凡って幸せなの?         おはよう! (=゜ω゜)ノょぅ!
数日前の出勤前の朝飯の時に、家内が神妙な顔をして「平凡な生活って幸せなの?」と聞いてきた。私が読んでいた
「14歳からの哲学」(池田晶子)を、この数日の間、読んだ影響だろうと思ったが、待ってましたとばかりの
瞬時の私の答えといえば・・・
▼ 「もちろん、平凡ってのは幸せだと思う。何でもそうだが、平凡の生活も、非凡も、現象をどう受けとめるかだ。
脳には長年かけて作りあげた、絶対超越言明という、言葉の受け皿がある。その受け皿が<受け止め方>として、
自分の脳の中で、経験を分類・整理をするようになっている。だからマイナス要素の強い人なら、その受け皿の分類で
何ごともマイナスに選り分けることになるし、プラス要素の人ならプラスに分類・整理をするだろう。
だから、平凡な生活が幸せかどうかは、それぞれの人によって当然違ってくるし、他人がとやかく言う問題ではない。
平凡な生活という言葉だって、その人の受け皿の分類でしかないじゃないか。
その辺の連中は、自分で受け皿がしっかりできてないので、他人のことが気になって、その比較しか判断基準がないので、
平凡な生活が、幸せだとか、非凡の日々が如何だとか言いたがる。 要するに教養がないということ。」
何か、あまりにスラスラ出たので自分でびっくりした。ところで平凡って何だろうか?「平凡って何?」と検索をしたら、
面白い問題設定に、色いろな答えが次々と出てきた。「人間は深いところで生きているのに、驚いてしまった。
<平凡な生活に対する疑問>
毎日を平凡に生きている人間って、どうして生きているんでしょうか? はっきり言って僕は、そういう人間は
死んでしまってもいいと思います。毎日何も変化のない暮らしというのは最も最低な人間の生き方と思うのですが・・ 
みなさんはどう思いますか?        *この答えが、素晴らしい  これは次回のお楽しみ!
ーーー
2006年05月01日(月)
 1854, モーニング・ページ、7週間経過
毎朝、ペンが動くままノート・3頁に書き込む「モーニング・ページ」を始めて7週間経過した。
「8週間は読み返さないこと」と、あったので、ほぼ見てないが、あと7日で8週間になる。
MPの一週間の総括を始めるとまた変わってくるだろう。(週末に一週間単位に20分かけて一ページの総括をする)
7週間のMPの感想といえば、毎日が驚きに連続である。日記はその日の出来事を書くが、M・Pはただ頭に浮かんだことを
書き込むのだから、違ったものである。慣れてくると、何が出てくるか面白くなると同時に、気の重さは全く無くなる。
≪字数制限のためカット 2010年5月1日≫
・・・・・・・・・
2005年05月01日(日)
 1489, 男と女ー2
あるHPの「男と女」の格言が含蓄の深いものが多い。私の「my感想」を加えるてあるが、品位を疑われる内容もある。 
初めて読むときは、私の感想を見ない方がよい。それにしても、よく集めたものだ。そして男と女の本質をズバリついている。
   ≪字数制限のためカット 2010年5月1日≫
・・・・・・・・・
2004年05月01日(土)
1124, いま不幸と思っている人へ
 不幸論を書いたことがあるが、一般に自分のことを不幸と思っている人が多い。幸・不幸は、気分と解釈の問題でしかないと
割り切って考えないようにしてきた。躁の時は幸せ気分、鬱の時は不幸せ気分でしかないと。
 (字数の関係でカット09年5月1日)
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2003年05月01日(木)
757, ミスマッチ
(字数の関係でカット2,008年5月01日)
・・・・・・・・・
2002年05月01日(水)
 393, 倒産の後先
子供時の両親の話題はいつも「倒産、夜逃げ、自殺の話」であった。子供なりに刺激の強い話しであった為、記憶に鮮明に残っている。
(字数の関係でカット2,012年5月01日)


4427, 閑話小題ー 「人生−仕事=?」の質問

2013年04月30日(火)

   * 「人生−仕事=?」の質問
 「貴方の人生から仕事を差し引いた何が残る?」という問いかけ。 さしずめ私は屁理屈と、秘境ツアーの思い出と、
酒癖の悪さ、この随想日記の辺り。そして幾つかの建物。ところで人生の中で仕事はどれほど重要な位置を占めるのだろう? 
知らない人に出会ったとき、まず知りたいのは職業で、趣味は後になる。都会のセミナーや何かの同好会で、初対面の素性を
知りたいとしたら、まず職業と肩書きである。その後、学歴、出身地、趣味になっていく。それだけ職業は大きな要素である。
人生とは生まれて死ぬまでの生きた道筋。そこで職業は生活をしていくベースで、まずは、その確保が必要になる。
とすると、「人生=仕事+?」になる。「?」を思いついた順に書いてみると、金、教養、趣味、愛、夢、家族、仁、神、
自分の世界、情熱、世間体、などが出てくる。仕事の中に、それら集約されたものが含まれる。 私の場合、挫折を入れ、
「人生ー仕事=挫折」とし、置き換えると「人生=仕事+挫折」。人生から見れば「成功」と変わらない? 実際は上記の全て。
   * どうも人は、長期的思考が苦手のよう
 事業が長期的設備投資のため、常に長期的、中期的、短期的に分けて考える習慣が身についているが、どうも一般的には、
長期的思考が苦手のようだ。大家族の商家の末っ子で、姉兄が自分の3、5、7、9、12歳上のため、自分の将来が
垣間見れる位置にいた。商家は家庭が日常戦場の現場で、不安の真只中に置かれていた。そして一年一年、家族が同時に
歳を重ねながら変化していくのが刺激的であった。変化は残酷にも現状を破壊する。その中で、親の目が届かないため、
まず自分の身を守らなければならない。そうこうあり、全神経を身近な周囲に向ける癖がついてしまった。特に商売の
先行きが幼児ながら心配で、時代の成り行きには敏感であった。それが、そのまま現在まで続いている。では長期思考が
得意かというと、そうでない。そうならば、この結末に至らない。9・11テロの地方経済に及ぼす影響と、リーマンショックで、
売上が三分の一まで落ち込むとは想定外で、これである。過去10年の想定外の出来事を、これから10年先に想定したら、
誰もが竦むはず。楽観的だから人間は生きていけるが、対策はとって置くべき。特に、このアベノミクスには注意すべき。
この10年の延長上の大地震の頻発と、火山の噴火、更なる経済変動(恐慌)、北朝鮮の暴発、国境紛争を切欠とした戦争、
などなど、いつ何が起きても不思議でない。大変動を冷静に受け入れるしかないが、刺激的で、面白い時代でもある。
・・・・・・
2012年04月30日(月)
4053, 閑話小題
   * 自分の傷口の血で、他人の傷口の血を洗うな!
 その辺のシラミというより、人間というものは、他人の血の臭いを嗅ぎ付けると本能的に食いついてくる。
自分の傷口の血を相手の傷口に擦りつけたくなるのは本能のなせる業。結局、それは自分の傷を化膿させる。他人の不幸は密の味で、
シタリ顔をして評価が始まる。 その家系や過去の出来事をあたかも知り尽くした気になり、人物鑑定から始まり最後は嘲笑で終わる。 
それが共同幻想化をしていき化け物のように変異していく。 しかし実際の化け物は、それをつくり上げているシロアリ集団そのもの。 
 地方に痴呆が多いのも変化が少ないため。如何に何もしなかった、いや、出来なかった自分がマトモと言いたいのである。
逆に、それに縛られてしまっている自分たちの姿が見えなくなっている。老齢化社会とは、こういうことだ。
  * 4月29日といえば
 例年楽しみにしている天皇賞と日本柔道選手権も、ダークホースが優勝をした。それがGWの連休が始まりである。 梅も桜も散り、
鯉のぼりの時節になる。この数年来、信濃川沿岸近くの公園で鯉のぼりが多く上る。 初夏の到来である。 また季節の変わり目で、
軽い腰痛が出るが、トレーニングの為か何とか軽く収まっている。 積雪のため休んでいた早朝のミニサイクリングも、慣れてきた。
日本と世界経済も、何時、暴発するかどうかの緊迫の中、どうしてもマイナス思考になりがち。しかし、情報化の御陰で面白いことに
近づける。こういう時代、「よく見れば、なずな花咲、垣根かな」で、身近な楽しみを味わうこと。 TVの昔のドラマの再放送も、
ジックリ見るとけっこう面白いのが多い。だんだん、この生活に慣れてくると、味わい深くなっていく。御隠居とは、よく言ったもの。 
・・・・・
2011年04月30日(土)
3687, 節目どきに ー11
  * 今年の桜
 今年の桜も、悠久山もほぼ散ってしまった。私の主観でいうと、「福島江の桜は例年並み、悠久山は、数年に一度の咲き具合。」 
だったが、丁度みた時間帯などにもよる。しかし去年の写真を見ると同じようなものだから、主観的な要素が強いということか。
大震災で花見という雰囲気ではない。ボンボリも殆どなく、人影も普段の散歩程度しか見かけられなかった。
やはり、何かが変ってしまったようだ。
  * 居間を追われ
 数日前、家内に「居間を昼間、占拠されていると自分のいる場所がないので、仏間の一角の書斎コーナーに行くように」と
強く言われ憮然とした。 が、考えてみれば、その通り。そこで事務所から引き上げてきたパソコンの荷をほどき、机に移動、
ネットに結んだ。パソコンの設定が違っているため、SEをしている知人にお願いをして苦労惨澹の末、結ぶことができた。 
そうなってしまうと、そこが最適の居場所になり、家内からのシェルター?にもなっている。 中古でも良いから以前より、
ここにパソコンを、もう一台置いておけばという、欲目が出てきている。 それにしてもパソコンの存在は大きい。
「酒に、タバコに、そしてiphne」と言われる位に、スマートフォンの影響は大きいというが、納得できる。
  * 生活保護者受給者数が200万
 生活保護受給者が200万人となり、10年前に比べ8割も多くなっているという。さらに、この震災で大幅に増えるのは明らか。 
震災・原発事故の問題で景気は一段と悪化、生活保護受給者が数十万は増加するのは必至。 現在の生活保護費は3兆円を超えており、
今後4兆円になっていくのだろうが、予算の一割が生活保護費とは! この大震災の経済における影響は底しれぬ影響を今後、
もたらすことになる。それにしても、現在おかれている状況からみる日本は、あまりに楽観的である。
・・・・・・・
2010年04月30日(金)   
 3322、iPadについて
 iPadについて、「ウェブ進化論」著者の梅田望夫が、どのように見ているのか知りたかったが、
4月26日(月曜の産経新聞・一面)のコラムで以下のような感想を述べていた。
雑誌や、週刊誌の記者が実際に使ってみた感想と同じだが、同じことをいっても専門家の言うことは重みが違ってくる。 
私も使ってはいないが、ネットでデモの画面の内容をみて、「これは現在ある紙を媒体とした情報手段を叩き壊すだけでなく、
携帯電話や、iPodや、パソコンが生活様式を変えたより、大きなインパクトを与える革命的な存在になる」予感がした。
iPodやiPoneのソフトの下地にあるから相乗効果を出すはず。 書籍だけでなく新聞を、これを媒体として、
見るようになる。5年から7年で、本や雑誌の出版が1〜2割まで落ち込む可能性があるという。
 ■ 全てを“本”にするiPad   梅田望夫 (産経新聞)■
4月3日、米アップルがタブレット型コンピューター「iPad」を発売した。事前にネット注文していた私は
3日は外出の予定を入れず、自宅でiPadの配達を待った。そして、アップルストア開店から4時間遅れて中国から
フェデックスでiPadが届いた。 iPadは電子書籍端末としての期待も大きい商品だが、使ってみて私が直感したのは、
これは創業者ジョブズが昔から作りたかった「理想のマルチメディア・コンピューター」の姿そのものだ、ということだった。 
アップルの社名はもともとアップルコンピューターだった。しかし90年代に経営危機に陥り、携帯音楽プレーヤー
「iPod」の大ヒットなどで復活したあと、業態と合わせるために社名からコンピューターがはずれた。
しかしジョブズは執拗にコンピューターを構想し続けていて、いまiPadという製品に結実させたのである。
使い始めてしばらくして私は、ぜんぜん想像していなかった不思議な感覚を味わうことになった。
 「あれっ、本と雑誌と新聞とウェブサイトの区別がつかなくなってきたぞ」と。
昨年アマゾンが電子書籍端末「Kindle」を世に出したとき、人々は「本がまるで本であるかのように読める」ことに驚いた。
しかしiPadは、本や雑誌といった出版商品だけでなく、ウェブコンテンツであれ書類であれ、何でも読めるコンピューター。
しかも形状は電子書籍端末に近く、カラー画面上に指を滑らせるだけで、ウェブコンテンツにつきものの夾雑物をも取り除ける。
その結果、利用者に「本以外のすべてのコンテンツを、あたかも本を読んでいるかのように錯覚させてしまう」効果をもたらす。
「本がまるで本であるかのように読める」というのとは全く違うのである。 本も雑誌も新聞も、紙と印刷技術を前提にした
パッケージ商品である。 電子書籍とはこれまで、その「本という概念」を変えることなく電子化することを意味していた。
雑誌や新聞の電子化も右に同じ。 Kindleはその方向性に忠実な端末だ。
しかしiPadの登場は、逆に「本と本以外のあらゆるコンテンツの境界が揺らぐ感覚」を私たちに味わわせる。
そしてその揺らいだところに新しい技術が注入されれば、越境により新しいジャンルが創出できそうな予感に満ちている。
いまiPadにいちばん興奮しているのは、初期の利用者以上に、世界中の開発者やクリエーターたちだと言っていいだろう。 
iPadとは、ジョブズが仕掛けた「メディア産業全体に創造的破壊をもたらす時限爆弾」なのだ。
 iPadの米国での販売台数は発売から1週間で50万台以上と、事前予測を超える大ヒットとなった。
供給がまったく追い付かず、米国でもなかなか手に入らない。日本を含む米国以外での発売時期は1カ月延期されて5月末。
 〜〜
 【ツイッター、3D/TV、そして、これ。 よくぞ次から次へと21世紀的なソフト、マシーンが出てくる!】
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2009年04月30日(木)
 2947,全日本柔道選手権  ー2009年
 毎年、全日本柔道選手権は(壮絶の試合になるので)必ず見ている。そして毎年4月30日は(一昨年を除いて)
前日の試合の感想を書いてきた。それを読むと、それぞれの時代の有力選手の姿などが見えてくる。
今年は24歳の若手の穴井が優勝をしたが、決勝戦の棟田との試合は極限の中での勝負であった。
最後の最後に若さの力を振り絞った穴井が逆転勝ちをしたが、見ていて感動的だった。
 去年までの数年間は、井上、鈴木、棟田、石井が準々決勝の常連だったが、今年は井上と、石井が引退、
鈴木も準々決勝で敗退してしまった。 時代の変化が、そのまま現れていた。
この試合は体重別でないのが良いし、日本人柔道家にとって思い入れの深い選手権。
次の主役が穴井と準決勝まで勝ち進んだ高井が浮き上がった。 毎年のことだが死力を尽くしきった試合は心を打つ。 
また、今年勝った、穴井が優勝をして男泣きしていた姿が何ともいえない純粋さが現われていた。 
石井が去年のオリンピックの金メダルを取った後の引退騒動。 彼によって柔道そのものが汚されてしまった。
それが柔道界全体に後をひいたように感じたが。 石井の醜態は、柔道そのものを汚した反面、
世界は柔道から「ジュウドウ」への流れを、石井は適応してオリンピックで優勝をした実績は実績である。 
 ところで毎年書き続けてきた文章を一切に目にしないで見たままを書いているが、
自分自身を試合を通して合せ鏡をみているようで面白い。 大相撲もそうだが、一つのことを
書き続けることも、何か自分の心を見つめる良い機会になる。
 ー
この文章を書いた後で、これまでのものを読み返すと、「毎年書き続けた文章を目にしないで書いている」
など、同じ文言が書いてあったが、決まった言葉を疑問を持たずに繰り返す自分の枠を見せつけらる。
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2008年04月30日(水)
2583, 全日本柔道選手権
毎年、この大会を楽しみにしている。特に、オリンピックの年のこの大会は、異常な熱気に包まれる。
日本の柔道家は、オリンピックより、この選手権に勝つことを重要視している。
今年も、準々決勝から放送されたが、どの試合も熱気に満ちた劇的な試合が続いた。
特に、準々決勝の棟田・生田戦と、井上康生と高井戦が劇的な戦いであった。
それまでの全てをかけた男同士の極限の戦いということ。結果として石井と鈴木の三年連続決勝戦になった。
普通の人なら、この試合は凡試合で、後味の悪い幕切れと見るだろうが、私は違う。
 (以上、字数制限のためカット 2010年4月30日)
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2007年04月30日(月)
2218, 団塊格差は、かくもついたり      (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪    
『団塊格差』三浦展著   ー読書日記ー
2005年12月に、この著者の『下流社会』について書いたことがあった。
今度は『団塊格差』という本が書店に並んでいた。丁度、団塊の世代が今年から定年を向かえるのでタイミングがよい。
これもまた買うほどでないので、ネットで概要を調べてみた。 時代背景が良かったので、格差がついたとしても、
それぞれの立場で納得しているところが、見かけられる。総中流時代の中で、結果として格差がついても、
時代の恩恵は受けていた年代である。歴史的にみても、団塊の世代は日本の黄金時代の背景があった。
格差がついたとしても、それが如何した!でしかない。格差は、その子供たちに直接影響を受けるから、問題は子供である。
それが大きい!が、 しかし、どれが如何した!と言えば、それまでのこと。
 ーまずは、ネットで調べた内容からー
月刊誌『文藝春秋』との共同調査で、2000人の男女から得られた様々な数字を基に、
「団塊たち」の人生60年とこれからを考える
*貯蓄:   300万円未満ー29%、 2000万円以上ー19% 
*退職金:    なしー35%   2000万円以上ー28%
人生60年の棚卸しをしてみたら、実は団塊の世代にも大きな階層間格差が!
月刊『文藝春秋』との共同調査をもとに、所得、資産、仕事、結婚、定年、子育ての視点から現状を分析。
・女性にはもてたい43%、 ・不倫したことがある28%なども含まれている。
『下流社会』の著者が、団塊世代の格差をとらえている。
 ー団塊格差ー
1.リッチ・シニア層
  退職金は2000万円以上、充分な年金、ある程度の資産を保有。
  職業を持つ場合、実業家であれ、再雇用で会社従業員になるにしろ、収入のためより、社会貢献の一環として、好きで働く層。
  職業を卒業した場合は、ボランティア活動をしたり、趣味に生きたり、学問や研究をしたり、自分の好きなように、自由に、
  有意義にセカンド・ライフを送ることができる階層。
2.アクティブ・シニア層
  金銭的に不安があるため働かざるを得ないが、法制度の改正にうまく乗って、シニアになっても職業を得ている階層。 
  例えば、労働基準法の改正による、会社の雇用延長制度や再雇用制度を上手に利用して就職できている人々。
  健康で元気なうちは良いが、病気やケガで働けなくなると心配。
3.ワーキングプア・シニア層
  金銭的に不安があるのに、アクティブ・シニア層のように収入を得る職業に就くことも難しい層。
 ▼ 調査が浮き彫りになった団塊世代こととは何か。著者があとがきに記している次の一文が、それを端的に表している。
  (字数制限のためカット 2011年4月30日)
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 2006年04月30日(日)
 1853, 全日本柔道選手権      (☆-v-)。o○《Gооd Мояйiиg》○
毎年、4月29日は全日本柔道選手権が行われる。この数年来、このテーマで書いているが、前年度を全く読み返さないで書く。
その後以前の内容を読むと面白い。同じ日に同じテーマで書いていると、その時々の選手の力関係だけでなく、それを見て
書いている自分が見えてくる。別に柔道が格別好きということではない。一年に一度の大勝負の真剣試合だから面白いだけだ。
年末の全日本相撲選手権も同じである。この大会は、階級別でないのが面白い!
今年の大会は、前評判の選手が順当に勝ちあがってきたが、19歳の最年少、初出場の石井選手が初優勝をした。
決勝戦は優勝最有力の鈴木桂治選手が勝ちあがり、有力選手の中では伏兵の石井選手と対戦をした。最終まぎわまで
鈴木選手が一方的に攻めていたが最後の4秒前に、石井の捨て身の技で敗れてしまった。勝負とは面白いものである。        
もっと面白いのは、優勝インタビューで「自分は、この優勝より近くに行われる次の団体戦に焦点を合せているので、
気をぬかないようにします」と答えていた。聞きようによっては日本の全柔道人を馬鹿にした答えである。
何を自分が成し遂げたのか解っていなかったのだろう。大相撲の朝翔龍が、日本的儀礼を小馬鹿にして根こそぎ権威とやらを
叩き壊したのに類似している。それと、苗字に「井」という字がついている選手が多い。井上、高井、穴井、石井と。
(以上、字数制限のためカット 2012年4月30日)
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  2005年04月30日(土)
  1488, 全日本柔道選手権ー4
この数年間、4月30日には全日本柔道選手権について書いてある。今年も書かなくては気持ちが悪い。
毎年、同じ日に同じ対象を書き続けるのも面白いものである。昨日は、去年に続いて鈴木桂治選手が優勝をした。
(以上、字数制限のためカット 2013年4月30日)
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 2004年04月30日(金)
 1123, 全日本柔道選手権ー3
今年で3年連続で「全日本柔道選手権」について書く。日記を読み返してみても、この選手権はドラマがある。
なんといっても準決勝で鈴木と棟田のオリンピックをかけた勝負が伯仲をした面白い内容であった。
(以上、字数制限のためカット 2013年4月30日)
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 2003年04月30日(水)
 756, 全日本柔道選手権 ー2
去年も書いたが4月29日は講道館ルールでおこなわれる「全日本柔道選手権」がある。勝てば天皇杯をもらえる。 
(以上、字数制限のためカット 2012年4月30日)
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 2002年04月30日(火)
 392, 「全日本柔道選手権」ー1
4月29日といえばこれである。この面白さは体重別でない事だ。軽い体重の選手が結構勝ち抜く。
(以上、字数制限のためカット 2013年4月30日)


4426, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー9

2013年04月29日(月)

           「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲著
   * 日本人は実は会社が大嫌い
 これまで年功序列と終身雇用の日本的システムこそが人々を幸福にすると信じて疑わなかった。が、実はサラリーマンは
昔から会社が大嫌いでガマンして働いていただけ。それが出来たのは高度成長でパイが拡大していたため。 バブル崩壊で
景気が落ち込むと、日本的雇用制度が虚構の上で成り立っているのが露呈してきた。 著者は、ここで、
《 大卒内定率が50%を下回るのも、3人に1人が非正規雇用になるのも、中高年のサラリーマンにうつ病が急増するのも、
 日本人がアメリカ人の2倍(イギリス人の4倍)の割合で自殺するのも、すべて、機能不全を起こした日本的システムから
 生じる同根の現象》という。誰が好きこのんで年功序列の終身雇用のラインにいるのではない。それなりの理由があるため。
  ーその辺りを抜粋してみるー
≪ バブル最盛期の1980年代後半に行なわれた、仕事の満足度に関する日米比較調査がある。おそらくほとんどのひとは、
 日本と米国のデータがすべて逆になっていると思うだろう。この調査結果は衝撃的で、私たちの「常識」を根底から覆す。 
カリブォルニア大学と南カロライナ大学によるこの調査は、日本の厚木と米中西部イソディアナポリス地区の製造業七業種の
労働者それぞれ4千人あまりを対象とした大規模なものだ。彼らは日本と米国の仕事観に際立った違いを明らかにした。
* 結局のところ「いまの仕事にどれほど満足ですか」との質問に対し、満足との回答は米で34%、
 日本はその半分の17・8%。不満は米ではわずか4・5%に対し、日本はその三倍の15・9%にのぼる。
*「あなにの友人にこの会社であなたのような仕事を希望したら、あなたは勧めますか」の質問には、
 米では63・4%が友人に勧めると答えたのに対し、日本はわずか18・5%だけだ。
 逆に勧めないと答えたのは、米が11・3、日本が27・6%だ。
*「いまあなたが知っていることを入職時に知っているとしてこの会社のいま一度、この仕事につきますか」の質問では、
 「もう一度やりたい」との回答は米ではじつに69・1%、日本は23・3%と三分の一にすぎない。
 二度とやりたくない」は米ではわずか8%、日本は39・6%と回答者の四割にものぼる。
*「いまの仕事は、入職時の希望と比較して合格点をつけますか」に対しては、合格点は米33・6%に対し
 日本はわずか5・2%にすぎない。否定にいたっては米の14・0%に対し、日本は62・5%と過半数を超える。
もういちど繰り返すけれど、これは雇用崩壊が騒がれるようになった最近の調査結果ではない。80年代は日本企業が
世界に君臨し"ジャパン・アズ、ナンバーワン"と呼ばれた時代であり、一方のアメリカでは、家族経営を信条としていた
IBMやコダック、AT&Tなどの大企業が次々と大規模なリストラに追い込まれていた。それにもかかわらず、アメリカの
労働者のほうが日本のサラリーマンよりもはるかに仕事に充実感を持ち、会社を愛し、貢献したいと思っていたのだ。≫
 ▼ アメリカの平均的家庭はプロテスタントで、働くことの価値の宗教的裏づけがある。日本にあるのは、儒教と
  朱子学の勤勉と、藩への滅私奉公の意識ぐらい。それもアメリカの占領政策により、骨抜き。特に私は従属が大嫌い。
  そのため会社に入らないで済ませるため、自分で会社を作る道を選んだ。振り返ると、それが正解? 調査結果の内容は、
  国民の民度の問題でもある。これでは経済の荒波が来れば、ヘチャルわけ。使われるのも大変だが、使う方はモット大変。 
* これらの質問の逆を考えて、何人肯定出来る? 日本人と同じ比率? 肯定肯定、絶対肯定!と、感謝の言葉を繰り返す日々。
・・・・・・
4052, 閑話小題 
2012年04月29日(日)
   * ゴールデンウィーク
 ゴールデンウィークといっても、現在の私には関係ないし、敢えて人混みの中に外出をすることもない。
一般社会では、まとまった休暇は、この時期しかないのが世の習い。大多数が行楽地に出かけたりするのを見ると、
似たように動きたくなるのが人情。 ところで、現在通っているスポーツジムが、この期間にオール・オープンのサービスを
打ち出してきた。年中休みの私にとって有難いことである。 例年、ゴールデン・ウィークは昼か夜、隔日ごとに外食するのが慣い。
今年も何の予定も無し、サンデー毎日と同じ感覚である。 5月の連休をゴールデンウィークとは、良い命名である。
  * 見切り千両
 撤収の決断のキーワードは、「見切り千両」である。 以前より節目では「見切り千両」をキーワードにしてきた。
見切りこそ生物的本能が生かされる。攻撃の判断と、撤退の判断、この二つが決断の要。 そのためには経験と知識の蓄積が必要。
攻撃の決断より、撤退の決断は遥かに難しい。 遅かったきらいもあるが、この時しかなかったのも事実。
  * 秘境の写真集とドキュメント
 趣味に、秘境・異郷の写真集とTVドキュメントを楽しむことがある。(最近、秘・異郷ツアーに行ってないので写真で我慢もあるが)
最近は、もっぱらiPadで写真集にアクセスして見ている。 やはり一度、訪れたところが主になる。 一度行ったところは、
それぞれの目線により対象が違って見え新たな発見があり、その延長の旅を続けているような気持ちになる。その点でiPadは便利。
常に身近において置けるのでチョッとした豆時間(隙間時間)に、開き見ることが出来る。質も大事だが、量をこなすことも必要。 
多いほど、より対象により近づいていける。 現地で全身で情報を吸収すれば、その後、情報は磁石のように吸い寄せられてくる。
今ではネットから簡単に入手出来る。 世界は面白いことで満ち溢れている。 やはり行動しなければ、そして知識を満たさなければ!
 ・・・・・・・
3686, 自己を見つめる −10
2011年04月29日(金)
   * 孤独と愛について、       「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 【 ー孤独の深さー 二ーチェによれば、落ち着いた人間の心のうちには「深い泉」があって、そこに石が投げ込まれても、
 その底に達するには時間がかかるという。そうした人は、端から見れば,反応の遅い、退屈な人と見えるのだが、
 そうした人こそは、外からの刺激を深く受け止めて、よく考える人なのである。 そうした人は、孤独のなかで熟慮する。
   西田幾多郎は、かつて、こう歌った。
  ー わが心 深き底あり 喜も憂の波も とどかじと思ふ ー
  と。 心の深い奥底は、そこに、すべての知情意の作用も、憂き世のあらゆる出来事も、みんな呑み込まれて、沈殿してゆき、
 いわば底知れぬ深淵のまま、自己を支える存在の根底としてどよめいている生命の大海、ないしはその尽きることのない
 源泉なのである。その心の奥底を孤独のなかで見つめつつ、自己を照らす根源的なものと面座する自己意識の極限こそは、
 自己の知を越えて、自己の存在そのものと融け合うであろう。】
 【 ひたすら、いのちを慈しみ、優しく幼子をかき抱き、愛情の限りを尽くして、子らのために献身する母性というものの記憶が、
 人間における愛の心の象徴的原点を形成することは否定できないように思われる。なぜなら、そうしたものがあったからこそ、
 人類はこれまで、そのいのちの営為を継続して、存続することができたからである。おそらく、愛の根源は、象徴的には、
 そうした母性を介して人間に植えつけられるところの、無償の贈与、そのひたすらな献身のうちにあるであろう。
 いのちあるものに恵みを与え、それを慈しみ、見守り、育て、その無垢の胎動を大切にし、その侵すことのできない
 尊厳を守護しようとする、いのちへの優しい気遣い、その存在の絶対的肯定、それが愛であると言ってよい。
 そうしたいのちの見守りの働きが、さらに拡大されて生きとし生けるすべてのものに及ぼされて、あらゆるものを
 その存在意義において許し、承認し、助け、生かし、守護し、見守り、育て、養い、その存在の至福を祈念する働きのすべてが、
 愛という語によって含意されることになろう。そこに、万物を生かすところの神の愛といった観念も成り立つ。
 もちろん、そうした愛に、さらに厳しさも加えられてこそ、万物の生成が初めて可能になるという観念も、やがて成立する。
 シェリングの世界観などはその典型である。】
 ▼ 孤独と、そこに潜む愛の問題は人間の本質に根ざしている。 「母の愛を介して人間に植えつけられる無償の贈与は、
  その献身の中にあり、それが心底で象徴的原点を形成する」ことは、誰もが体験的に知っている。その量と質が、人間性を
  決めてしまう。特に幼児期の両親の絶対愛が、人生の原点になる。絶対量の少ない人は多い人の温みの起因を知ることがない。
 ・・・・・・・
3321, 「知の衰退」からいかに脱出するか?  −1
2010年04月29日(木)
 ー「『知の衰退』からいかに脱出するか? 」 ー大前研一 (著)
 大前研一は、図書館や書店で手に何度か手に取るが、何か読む気がしなかった。しかし現在の日本の行き詰まりなどをみるにつけ、
「日本が変、それも異常なほど変である!」と思っていた矢先に、グローバルの世界の中で「茹で蛙の日本」を徹底的に非難している
内容をみて、読んでみることにした。 保守的な人からみたら、眼を剥いて怒るような内容が次から次へと出てくるが、
現実に中国や韓国の若者たちは、眼を輝かせて必死に勉強している割合が日本の若者に比べて圧倒的に多い現実がある。
 高度成長期の時代なら、解るが、低成長の時代に生まれ育ちデジタルの時代の中で、情報だけは豊富にあり、
偏差値でランク付けを子どもの頃からされた若者の立場もわからないでもない。しかし、だからダメと諦めてかかっては、
どうもこうもならない。 これからのビジネスマンに必要な三種の神器は、「IT」「英語」「ファイナンス」というのも、
初めは??と思ったが、21世紀には、当たり前といえば当たり前のこと。 特に、ファイナンスを挙げているのは良い。 
最後は、この辺である。 日本の若者の相手はネットの先の、世界の高IQ化した若者である。
だから、日本の低IQ化した相手を無視して、自分の得意とする分野でユニークなスキルを磨くことを勧めることこそ、
若者の道筋である。 「現在の日本の低IQ社会の一員になってはならない」ということ。 だから、私の知人の子弟が
数人、高校から外国に留学をさせているのをみかける。「寂しくないか?」と聞くと、毎日ネット電話で顔を見て話しているので、
全く感じないという返事。 それと、外国に行っていると金銭感覚が、鋭くなるという。
そうこう考えると、著者のいう三種の神器を身に付けさせるために行かせているようだ。
・・・・・・・・
2946,タレント知事をどうみるか? ー2
2009年04月29日(水)
  佐高信は、タレント知事を完全に否定している。 
ー反対する理由はー
「タレント、つまり人気商売は常に多数に寄っていく宿命だ。だから知事に一番向かないのではないか。
 多数の人気に自分を預けていて、自分の意見がありそうで、ない。例えば、東国原知事の国政への転出騒ぎがその象徴だ。
『みなさんが許すなら』という言い方だった。 自分に信念があって不人気でもやるということではなく、
 人気に寄りかかっている。 橋下知事も反発を受けることを断行しているように見えるが、常に多数に乗っかっている。
 政治家や行政マンに必要な信念があるようで、実はない」
ー知事に必要な条件とは何かー
「弱者の痛みが分かること。過疎を切り捨てない人。この逆をやった政治家が小泉純一郎氏だ。
 全体的に政治家の『小泉純一郎化』が進んでいる。タレント知事も同じ人気者路線に乗っかっている。
 喝采(かっさい)を浴びた小泉氏のまねをして県民に受けている。 政治や行政の本来の使命である『公共』という概念が
 忘れられるというか“殺される”と思う」 タレント知事は人気を利用した発言力が役立ってはいないか
ーPR係として雇えばいいだけー  
  (以下、字数の関係でカット2010年4月29日)
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2582, 柳田邦夫の2.5人称の視点
 2008年04月29日(火)
 ー「人生の答え」の出し方ー柳田邦夫著 ー1
柳田邦夫著ー「人生の答え」の出し方ーに「2・5人称の視点」という言葉があった。その意味を噛締めてみると、
成程と合点がゆく良い言葉である。学生時代のゼミで、色いろな人間関係の実例を取り上げ、それぞれ原因を探り、
解決策を討論する事例研究を一年にわたり徹底的に鍛えられたことがあった。この本を読みながら気がついたことがある。 
それは事例研究から学んだことは、一人称、二人称、三人称、そして一・五人称、二・五人称の視点の訓練をさせられたこと。
 ーその二・五人称とは何か?を大筋書いてみる
一人称は、自分、 
二人称は、あなた、家族など身近な人、
三人称は、専門家、役人、ジャーナリスト等、客観的に見る人。他人事とみる視点。
三人称は「事態を客観的に見る良さがあるが、悩んでいる、落ち込んでいる一人称、二人称からは冷たく見えてしまう」
そこで、三人称の人も二人称に歩み寄り、同時に二人称に埋没しない「2.5人称の視点」を持つべきだと。
1人称、2人称の視点だけでは感情に走って冷静な判断が下せなくなる。といって他人事としての3人称の視点であれば、
冷たく突き放す見方が優先する。求められるのは、1人称と2人称を考慮に入れつつ3人称的な冷静な判断を下せる、
2.5人称の視点が、柳田邦男さんの「2.5人の視点」である。冷静・客観的な、それでいて人間性豊かな
かかわり合いを持てる人間こそ2・5人称の視点を持った人、ということだ。二人称に限りなく近づくが、
どっぷりと二人称になると、冷静な判断かつ正しい処置ができなくなる。そうすると「1.5人称の視点」「0・5人称の視点」
「4人称、5人・・・称の視点」と考えてみた。1・5人称の視点は、夫婦、親子、兄弟間のこととか・・0・5人称の視点は、
自分の中の神の目の視点とか、良心の視点とかである。 ーそれにしても、0.5、1・5、2・5とは面白い切口である。
思いやる心、温かい心、慈悲、感謝、感激、愛する心などなどということか。
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2007年04月29日(日)
 2217, ネットカフェ難民 
   ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ
今年になってから、インターネット難民という言葉を見かけるようになった。駅前で宿泊業をしているので、
こういう現象に敏感になる。当ホテルにもビジネスホテル難民?が数年前までぺアで1〜2組、入れ替わり立ち代り
宿泊をしていた。12?の部屋に3?10年の長期滞在になるが、身なりはシンプルで、キチットしている。
水商売で色いろの事情があるようだ。もちろん警察にはマークされるが、犯罪にはつながってない。
今年になってから、急にネットカフェ難民という言葉が目立ってきた。
  (以下、字数の関係でカット2,010年4月29日)
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2006年04月29日(土)
 1852, ローマから日本が見えるー8   才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
二つのネットワークのうち、まずローマ連合と、その成り立ちとは?
ーローマ連合とは、その成り立ちー
 *ローマ連合は大きく分けて、 5つの要素で構成されます。
(以下、字数の関係でカット2,008年4月29日)
 ーー 
以上であるが、これは大手企業グループの資本金の比率などの構成に酷似している。学者などはローマ連合を類推して、
その合理性を導き出しているのだろう。現在の政治経済に、そのまま当てはまることが多くある。    ー つづく
                ヾ(^ω^*) バイバイ!
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2005年04月29日(金)
 1487, 郵政民営化と自民旧守
郵政民営化は、至極当然の流れである。しかし、反対派との猿芝居で殆ど骨抜きになったが、国鉄の民営化より
先にしなければならないことであった。この旧守派の連中のトップで反対しているのが、トナミ運輸のオーナーで、
前の橋本派(恥元派)の現在の実質トップの綿貫という男。自社の利益を守るための反対であるのは自明である。
郵政が民営化されると、一番困るのが運輸会社である。もう政治とか何とかいっている以前の話である。
 (以下、字数の関係でカット2011年4月29日)
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2004年04月29日(木)
1122, 「ライフ・レッスン」ー8
 ー怒りのレッスン
・怒りは文字通り腹部でつきあわなくてはならない。そのこつを身につけるには、眼をとじて、片手を胃のあたりに当てるとよい。
脳でなくからだを使うというかんたんな動作が、そのとき感じていることを知るのに役立つ。自分の感情とつきあう習慣は、
現代社会ではほとんど知られていない。現代人はからだで感じるということを忘れている。
わたしたちは理性と感情を分けようとする。理性に支配させることに慣れすぎているで、感情やからだのことは忘れてしまう。
・怒りは、うけた傷に自分がなんの対処もしていないことを知らせるシグナルである。その傷は現在進行形の苦痛だが、
怒りはだらだらと長びく苦痛になる。傷をためこみ、それに注意を向けないでおくと、怒りは成長をする。
わたしたちは怒りを多くためこみ、やがて傷の分類ができなくなって、最後には自分に怒りがあることに
さえ気づつかなくなってしまう。怒りの感情とともに生きる事になれてしまい、それが自己の一部と思いはじめる。
その怒りがアイデンティテーの一部になる。
だから、わたしたちは、自己のアイデンティテーと古い感情とを分ける作業を分けなくてはならない。
 ー感想ー
怒りっぽい性格のためか、このレッスンを過去の人生で多くしてきた。 怒るには怒るだけの理由がある。
また、その怒りによって適切な判断ができたことが多かった。怒りは、その感情の高まりによって自分の世界を他者との間に
一瞬ラインとして見ることができる。怒りの感情を抑圧することで対処しようとする人が多い。その必要はないのだ、
といって怒ってばかりいるのは問題だが。はなしは変わるが、去年の同日の随想日記の内容が偶然の一致で「怒る技術」であった。
面白いものである。怒るということからのレッスンが全く足りないのか? 方向違いを知らしめようとしているのか? 
じっくり考えてみる必要がある、特に私の場合は。怒りの背後にあるものの一つに「恐れがある」という。 なるほどそうかも知れない。
怒ってみて初めて、その正体がわかることもある。 怒りを溜め込むと憎しみになる。憎しみのヘドロを溜め込むなら怒って、そのつど
吐き出すことも必要なこともある。憎しみのヘドロでドロドロの人が、あまりに多い。そのヘドロを他人に投げつけるから始末が悪い。
 (以下、字数の関係でカット2,009年4月29日)
・・・・・・
2003年04月29日(火)
755, 「怒る技術」ー読書日記
タイトルが面白そうなので買ったが期待したほどの内容ではなかった。私が怒りっぽい人間でこの技術を
経験上身につけてきた事もある。 著者と同じ年齢で闘争的であることもあってか合点することが多かった。
(以下、字数の関係でカット2,013年4月29日)
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2002年04月29日(月)
 391, 休日の風景
休日の一日の典型の日が昨日であった。
時系列に書くと
・5時に目が覚める、30分位 うとうと


4425, 閑話小題 ー今時のプレハブ住宅は二ヶ月で建つ

2013年04月28日(日)

   * 今時のプレハブ住宅は二ヶ月で建つ
 5年程前に裏隣の古い貸家が壊され二軒の住宅が建った。そして三軒目のプレハブの着工が、この4月10日に始まった。
その知らせに、完成が二ヶ月後のの6月10日とあった。以前は、住宅は最短で半年から一年だったが、今時のプレハブは
工期が二ヶ月とは驚き。 まず基礎工事に二週間。 次に外壁工事で、周囲に足場をつくり、柱を建てていく。
この連休が終わるころまでに外壁まで完成し、内装に一ヶ月かけて完成のようだ。
 最初の二軒は貸家で、その借り手は両方とも既に居なくなり、一軒は空いたまま。表通りの方は小さな小物雑貨店だったが、
夜逃げ。その後、ファッション衣料店だが、私の感覚では、この入り込んだ立地で商売が成り立つのかさっぱり分からない。
で、三軒目の住宅の着工。 子供の頃近くに建前があると父に手を繋がれ見に行ったもの。それより、2〜3歳にかけて
実家の店兼住宅のビル建設の最中にあった。住んでいる家を近くにあった300m先の公会堂の前に曳いていき、空いた
ところにビルを建設をしたが、幼児ながら、毎日、父と建設現場に行ったときのトキメキが、今でも忘れられない。
その幼児体験が、ビル建設マニアになったのだろう。 新築は夢があってよい。
  * 目的に合わせて人集めをするのではなく
 もう十数年経つが、ドキッとした言葉があった。《 起業では、何かをしようと適材を集めるのでなくて、優秀な人材を
確保してから、何をするか、どうするかを考えるべし 》 まず有志が集まって、何の事業を始めるところから考えるのが
理想なのだろうが。 創業というと、一人の強力な個性が必要になる。 黒澤監督の「7人の侍」は、盗賊から村を守るため、
かき集められた浪人が、圧倒的多数の盗賊と闘う。これは目的に合わせた人集めの典型。このことは、教養についてもいえる。
何かのために知識を得るのではなく、知識のための知識のベースが、まず必要。それが教養である。大学も4年のうちの
二年間が一般教養、あとの二年間が専門課程になっている。人生を振り返ると、本当に必要な知識は、哲学、文学、倫理とか、
経済の基礎知識であった。教養課程は、その導入知識を広く教えてくれる。大都会と地方の差は、そういう人材が身近にいるか、
いないか。40数年の独学では限界があった。 「限界は誰でも到達するが、問題は、その先!」の意味を実感する日々。
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4051, シングルイン、31年間の総括 ー10
2012年04月28日(土)
   * つれづれに ー あれから一年
 去年の3月30日17時に会社を閉鎖して一年余りになる。激しく落ち込むと覚悟はしていたが、思いのほか平静の日々を過ごすせた。
会社経営から開放され現在でも宙に浮いたようで、長年、重荷を背負っていたことに改めて気づいた次第。 日が経つにつれて、
前倒しの決断をして本当に良かったと実感している。 しかし世界も日本も国債と株価も何とか持ち堪えている。 早ければ、
去年の11月、遅くとも今年末と思っていた 辛うじて4月末現在、何とか維持し現在に至っている。 世界の銀行と政府、企業の
金庫の中に六千兆円の十倍の6京円の不良債権が塩漬けになっている。 何時、それが表面化するか時間の問題でしかない。
 一番早く表面化しそうなのが欧州だが、日本も、中国も、何が起こっても不思議でない。日本は福島原発事故も解決したわけでなし、
かつ原子炉54基すべてが、止まったままである。 更に政変含みの状態。 年末の米国と韓国の大統領選挙まで持ちこたえるのか。
会社名義のホテルと駐車場抵当物件の処分が終わり、個人住宅も家内が買い取って全て終了した。ホテルも今までのホテル名で再稼働を
始めたという。有難いことである。 普段の生活が、もう少し手持ち無沙汰で暇を持て余すと思いきや、全く、それはない。 
 反面、倒産は倒産、犯罪者に近い目で蔑視される事実に驚いた。一般債権は、ほぼゼロ。社員への退職金の満額支払いは出来なかったが、
国の一部たて替えを含めると平均八割近く支払ったが、残債は残った。 一般債務分で補填すべきだったか? 30年間の担当だった
経理事務所の担当が言うには、「本当にキツイのはこれから」という。 その意味が、まだ分からないが、差別?蔑視からくる世間様の
何なのだろうが・・ 今のところ「シラミ!」の10回の呪文で、気持ちの処理が可能。 自分を含めシラミはシラミ。
 スポーツジムと、iPad、シネマ通いと、図書館の御蔭で何とか精神を保っている。 好きなことだけが出来るからである。
アウトサイダーに徹してきたのも、結果として良かった。小さな襞(地域)の中で、煩わしい因縁社会に組み込まれない生き方が、
ここにくると楽。 一歩、年金生活に入ると景気とか社会に対する温感が鈍くなる。 景気は最悪の筈だが、直接の悲鳴が聞こえない。
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3685、 自己を見つめる −9
2011年04月28日(木)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 孤独については、これまで何度も書いてきた。結局、人間は独りでは生きられないのである。
しかし孤独は、世間とかいうのがある限り必要である。私の出身校の「長岡高校」の校是が「和同」の精神である。
和して同ぜず。 和せ、同じになるな!である。これは、それぞれが孤独を守る中から生じてくる。
ここで孤独について、ニーチェの体験を指摘している。 孤独の素晴らしさを「私の故郷」の良さに譬えているのは言いえて妙。
  ーまずは、その部分をー
【 ー孤独の大切さー ニーチェはかつて、孤独を「私の故郷」と呼んで、その至福にみちた優しさを讃えた。
孤独が終わるところ、そこに「市場」が始まり、世間の大人物や大俳優たちの騒々しさが耳を圧し、毒をもった蝿たちの
うなりが聞こえ、小人物たちの刺が私たちを突き刺す。そうした騒がしい市場を離れ、海辺に出て、高い品位をもって沈黙し、
岩陰にそびえ立つ大きな樹木を見よう、とニーチェは誘う。その樹木のように、静かに耳を澄ましながら、存在の声を聞こう、
とニーチェは促す。そのとき、ニーチェは、「孤独」の素晴らしさを、「私の故郷」と呼んで、その声が、なんと優しく、
また至福にみちて、自分に語りかけてくるか、ということを打ち明ける。ニーチェは、そのとき、あらゆる「存在」が、
「言葉」となって自分に開かれてくると言い、存在の内奥の秘密を宿した言葉の小箱が、一気に開かれ、ありとあらゆる生々流転が、
その秘儀を語り始めようととするかのようだ。 このニーチェの体験は、すべての人間の体験だと言ってよい。
言い換えれば、孤独とは、そこで私たちが本当の自分を取り戻し、改めて純粋に、自分自身と世界の人間のすべてを見直し、
存在の真相に触れ直す瞬間なのである。実際、私たちは、物事のほんとうの姿が何であるのかをよく熟慮しようとするときには、
世間や俗事の雑音を一旦は遮断しなければならないことをよく心得ている。たとえば、他の人々と大勢で、がやがやわいわい騒いで
いるときには、私たちは、ほんとうに自分らしく純粋に物事を見直し、考え直し、正しく事態を把握する余裕や冷静さを
持つことができない。 人間は、それほどまでに非力なのである。 】
▼ 世間や俗事の雑音を一旦、遮断するため孤独になるために、古典などの世界に浸ることが最も手短である。
 それか、一度自分の住んでいるところから外に出て、純粋に物事を考え直し、冷静さを保つことが必要である。
 宇宙の塵でしかない己を自覚すること、しかし、その塵の素晴らしい存在である一度だけの人生を自覚するためにも。 
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2010年04月28日(水)
 『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著  −2 
* 理性は絶対を求め、「理念」を生みだす  
学生時代の問い「理念の意味は何か?そして、その理の意味は?」が、40年以上経った現在、その答えを見つけたのである。
何か微妙な感覚である。 理念が理性の「何故?何故?」を徹底した問いの極限というから、眼から鱗である。
  ーまずは、その部分を抜粋して考えてみる   P−24
≪ 理性的とは、「なぜ?ーなぜならば」という仕方で物事に筋道をつける能力である。それも、どこまでも道筋をつける能力である。 
というのは、「何故?ーなぜならば」の関係は原則的に一組でほ終わらないからである。一つの「なぜ?.」にいったん「なぜならば」
と答えても、その答えに対して再び「なぜ?」と問いうるし、そのまた「なぜ?」へとさかのぼりうる。 理由のそのまた理由……、
原因のそのまた原因……、という具合にである。そのようにして、「どこまでも」ということは、「徹底的に」という意味になる。 
そして「徹底的に」ということは、究極に迫るということ、すなわち、最後には「極限」にいたるということである。 
それは、理性が推理の能力であるということと表裏一体である。 ある物事(結果)の理由や原因には、そのまた理由や原因がある。 
すなわち、いったん「なぜ? なぜならば」の推理が開始されるや、その鎖は原理的にどこまでもさかのぼる。ということは、
理性は原因のそのまた原因、そのまた原因のさらにそのまた原因、等々の果てに、必然的に究極原因を求めざるをえなくなる。
要するに、理性は極限に迫らざるをえないのである。 いわゆる「理を通す」とは、そういうことである。・・・・
・・(中略) 冷めた言い方をすれば、理念は理性固有の本性や関心から理性自身によって生みだされ、現実社会に合理的な脈絡を
つけるために、現実社会のかなたに「投影」された像に他ならない。 それは現実社会を合理的に読みとくためには、
はなはだ有効であり、それどころか不可欠でさえある。 ところが、ひとたび投影され現実世界と融合した像は、いつしか
現実世界の一部はおろか、その全体として実在するかのように、うっかりと思われてしまう。 ちょうど、熱心な観客が映画の
スクリーンの中に、あたかも実在の世界があるように思い込んで、感動したり憤慨したりするように。 このように、
理念は「功」と「罪」の両面性を持っている。 この両刀論法、すなわちパラドックスの原因とオーバーラップする。
この理性の両面性事態がまさしくパラドックスである。 このパラドックスこそ、アンチノミー(二律背反)に他ならない。 
その理性が意志をコントロールし、決定をする。 ≫
 ー以上だが、我が社の理念とか、私の理念とかで、使うが、まずは理性から考えていかなければならない。
 そうすると、やはり何故、自分は目指すのか、そして、何を目指すのか、その根拠(理性=理由)を明確にし、
それを突き詰めたのが会社理念となっていく。 それが個人としての私の行動指標なら、その根拠の明示が必要になる。
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2945,タレント知事をどうみるか? ー1
 2009年04月28日(火)
最近、一時なりを潜めていたタレント知事がマスコミで注目を浴びている。青島幸男、横山ノックなどで選挙民は、
その正体を見てあきれ果てたはずだったが、再び田中康夫、東国原、大阪の橋元知事、直近では森田健作が千葉県知事になった。
田中にしろ、橋元、東国原知事も、現在見るところ、最大限にタレントの経験を生かしているようだ。産経新聞のオピニオンという
コーナーで、その功罪を浅野志郎と佐高信が論じていた。浅野は、タレント議員を肯定する立場で、佐高は否定する立場である。 
まず浅野は「知名度で圧倒的有利なのは言うまでもない。外に対する発言力に長けている。マスコミに面白がられて目立つことも悪くない。
また政治的未経験について、「ほとんどの知事は政治未経験者だ。これは決してマイナスでなく、むしろメリット。僕は国家公務員を
23年7カ月間務めたので、知事になったとき行政についてはお手のものだったが、大きな改革や新しい発想をする時はマイナスになる。
『センス・オブ・ワンダー』、つまり驚きを感じる心が必要だ。東国原知事や橋下知事は県(府)庁に入って驚きの連続だったと思う。
 (字数制限のためカット2011年4月28日)
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2581, 連鎖する大暴落 -3
2008年04月28日(月)         才ノヽ∋?_φ(゚▽゚*)♪
この本の「まえがき」に「アメリカがいよいよ暴落する。・・・少しだけアメリカから離れましょう。
自分の財産を守りたかったら、ここで『損切り』を敢行すべきである。
 (字数制限のためカット2011年4月28日)
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2007年04月28日(土)
2216, 中村うさぎ               才八∋ウ_〆(∀`●)
  「女殺し借金地獄」 ー読書日記
書き写しながら、何でこんな文章を自分が?時間を潰していて、果たしてよいのだろうか?
と自責の念にかられる内容である。男には、こういう文章はかけない?ものである。
アル中の、買い物依存症の、バカ女が、それを売りに捨身で文章にして、生計をたてているだけの本でしかない。
それもブランド買いの世にも哀れな気の毒な底の浅さを売りに!その哀れな女のサガが共感を得るのだろうが・・。
(字数制限のためカット2012年4月28日)
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2006年04月28日(金)
1851, ローマから日本が見えるー7     才ノヽ∋?_φ(≧ω≦*)♪    ー読書日記
 千年以上にわたって広域の多民族を支配し続けたシステムの根幹とは驚くほどの合理的、かつシンプルで、
それぞれの民族にとってもプラスでなければならない。そこは突き詰めた組織の経験則の宝庫のはず。
その秘密が、『組織のローマ』の中で解明されている。時間をかけて写すだけの価値は充分にあった。
過去より現在の方が果たして進歩しているのだろうか? 宗教は人間にとってプラスだったのだろうか?
それは神のみぞ知る?である。著者はローマ帝国史を読んでいる時には、自分が皇帝になったつもりで
読むと良いといっているが・・・ しばし、皇帝になるのも良いものだ!
 ーーー
 第4章 『組織のローマ』、ここにあり
前章で述べた「リキニウス法」で、100年にわたる貴族と平民の対立は解消へと向かう。
この決断が、驚くべき決断であり、どの社会でも起こりえる階級対立は『取りこみ方式』で解消しようと
したのはローマのみであった。その選択が結果として正しかったのは、その後のローマ史が明らかにしています。
僅か100年前にケルト人によって、あわや滅ぼされそうになった民族がイタリアの覇者になれたのは、
貴族と平民の融和政策であった。平民の中から優れた人材を集めて、その人材を元老院を中心とした
統治体制の中で活用していくやり方を、今日の表現に変えると、「組織力」という一語に集約される。
 ー二つのネットワークー
歴史家リヴィウスをして『アレクサンダーをも退けたに違いない』といわせたローマの組織力は何も、共和制度だけに
負っていたわけではない。リキニウス法以後のローマには、同時代の他の国の持ってない二つの大きな武器がありました。
・一つは、モノや人を動かす上でのネットワークとしての道路網。
・もう一つは、ローマを中心とする、国家間のネットワークとしての「ローマ連合」。
この二つのネットワークの力で、ローマはイタリア半島の覇者になり、その後には地中海の覇者になるのです。
実はこの二つが同じコインの裏と表になるのです。別の言い方をするならば、
・道路網がハードウェアなら、
・「ローマ連合」がソフトウェアであった。
歴史家プルタルコスは、ローマが他を圧して大きくなった理由として次の一言に要約しました。
「敗者さえも自分達に同化させる彼らのやり方ぐらい、ローマを強大化に寄与したことはない」
この美徳はロムルスの時代にすでにサビーニ族との同化において現われていたが、それが王政から共和制に
移行した後も変わることがなかった。
  ー次回は、その「ローマ連合」の内容である」   ーつづく   o(▽^*)ノ~~=バイ?バイ♪  皇帝諸君!
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2005年04月28日(木)
 1486, 男と女
男と女を語らせるなら、「オカマ」が面白い。その話が面白くて一時オカマバーにかよったもの。
あからさまな女の本音を聞かせてもらえたり、突如、男に変身?する身の変わり方が絶妙である。
 (字数制限のためカット2013年4月28日)
 ーその一部を抜粋してみるー

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2004年04月28日(水)
 1121, 平均寿命100歳!
新聞を読んでいたら、「今世紀後半に平均寿命が100歳になるとなるかもしれない」とあった。
 ーその概要を書いてみるとー
 (字数制限のためカット2010年4月28日)
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2003年04月28日(月)
 754, サエゼリアで思うこと
 サエゼリアのことは、よく事例として書くが更に書く。先日の新聞でスパゲッテーを何割か値下げを発表した。
 (字数制限のためカット2010年4月28日)
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2002年04月28日(日)
 390, 因縁と果報
因は直接原因、縁は間接原因。 果は直接結果、報は間接結果。 嫁を求めている男が、ある知人の家に遊びにいて、
妹を見初め結婚をした。因が嫁を求めていたである。縁がタマタマ遊びに行ったーこれが間接原因である。
(字数制限のためカット2013年4月28日)


4424, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー8

2013年04月27日(土)

            「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲著
    * 私たちが何故不幸か、進化心理学が教えてくれる
  チンパンジーからして、実は平等も格差も遺伝子に刻印されている。この矛盾が、人間を不幸にしている。
 能力も、女性の容姿も、生まれながら大きな差がある。それを克服するには、一生を要するが、それを失うには数年、
 いや、数ヶ月で済む。女性が連れ合いの選択にシビアになるのは当然、それで人生の大半が決まってしまうため。
 だから二段階上の相手を必死に探す。それをシンデレラコンプレックスという。しかし殆どが夢幻の幻想で終わる。
 だから神様は、男の性欲を過剰に与えて、仮装の相手に惑わさせるようにした。で、男は一生、その付けを払わされる。
 平等欲求と格差の遺伝子を同時に与え、不幸になるように創られたのは、神様の仕業。だから幸福など気の迷い。
  ーその辺りから抜粋してみるー 「不幸なのは人類の宿命で、私や貴方だけでない!」と割り切るしかない
≪ 二頭のチンパンジを真ん中をゴフス窓で仕切った部屋に入れ、片方にキュウリを与えるとすごくおいしそうに食べる。
ところがもう一方のチンパンジーにバナナが与えられると、いきなり怒り出して、手にしていたキュウリを壁に投げつける。
さっきまであんなにうれしそろだったのに。霊長類学者のドゥ・ヴァールは、こうした観察結果から極めて重要な発見をした。
平等はチンパンジーにとって、けっして譲ることのできない「基本的猿権」なのだ。 ぼくたち人間も、「平等」に強い
こだわりをもっている、人種差別で沢山の血が流れるのも、バックパッカーがぼったくられたことに延々と文句をいうのも、
同じ人間として平等に扱われていないと感じるからだ。でも平等が遺伝子に刻み込まれた生得的な価値観でなぜ世の中は
格差社会になるのだろうそれは、「格差」もまたぼくたちの遺伝子に刻印されているからだ。
 初対面の二頭のチンパンジを四角い机に座らせ、どちらにも手が届くところにリンゴを置くと先へと互い取り合う。
負けけがつづと威嚇の表情を見せるが、喧嘩にはならない。互いに先取者に所有権があることを認めているからだ。
 ところが同じことを何度も繰り返すうちに、どちらか一方がリンゴに手を出さなくなる。からだの大きさなどさまざまな
特徴から二頭の間で自然に序列が生まれ、いちど階層が決まると、下位のチンパンジーは上位者にエサを譲るようになる。
保育園や幼稚園でも、子どもたちを集団で遊ばせるとごく自然に階層が生まれ、リーダーが決まる(とくに男の子の場合、
この傾向は明瞭だ)。サルやヒトには、相手と自分の関係を測り、無意識のうちに支配したり従ったりする強力なちからが働く。
 人間の耳には、五〇〇ヘルツより低い周波数は意味のないハミング音としか聴こえない。ところがぼくたちが会話をすると、
最初はハミング音の高さがひとによってまちまちだが、そのうち全員が同じ高さにそろう。ひとは無意識のうちに、支配する
側にハミング音を合わせるのだ。 声の周波数分析は、アメリカ大統領選挙のテレビ討論でも行なわれている。
一九六〇年から二〇〇〇年までの大統領選挙では、有権者は一貫してハミング音を変えなかった(すなわち相手を支配した)
候補者を常に選んできた。わざわざ選挙などやらなくても、討論のハミング音を計測するだけでどちらが勝つかはわかって
しまうのだ(ドゥ・ヴァール『あなたのなかのサル』) ≫
 ▼ 誰もが不幸になるよう設計されていると思えば、少々の怒りや悩みは解消される。だいたい幸・不幸は一時的感情。
  だから格差を容認するため「公平」という考え方を作り上げた。ここでチンパンジーに平等の意識が「基本的猿権」
 としてあるのに驚いた。数十、数百万年かけてつくられたのだろう。小・中・高校、大学に進学する度に選択されていく。
 上に進むたびに格差された自分の上下左右が鮮明に見えてくる。平等、自由、博愛、これは理念、現実は逆ということも!
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4050, 一時停止 ー8
2012年04月27日(金)                
   * 「好き」という言葉が好きだ      「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
 ≪ ・・・ ぼくは生きる上でいちばん大切なのは、好きになる気持ちだと思っているだ。好きになるのに理由はない。
  「好き」はじぶんのからだとこころのもっとも深いところからわいてくる。 むりして好きになるわけじゃない、自然に
  好きになる。好きになる気持ちは人間に、そしてほかの生きものにも、はじめからそなわったすばらしい能力だと思う。
   何かを、誰かを好きになること、じぶんが生きているこの世界を(それがときにどんなに苦しく悲しいものであれ)好きになること、
  そしてこれがけっこうむずかしいんだけど、じぶんじしんを好きになること。じぶんがきらいじゃ、ほかの人を好きになれないし、
  生きているのがつらくなる。はじめきらいだと思っていたものや人が、知っていくにつれてだんだん好きになるってことだってある。
  ぼくは「好き」ということばが好きだ。     (母のひろば482号一 二〇〇四年) ≫
 ▼ 人生の早い段階で好きなことを見つけ、続けることは大事なことだが、それぞれの年代ごとに、蛇の脱皮のように、好きなことを
  変えることも必要である。それは男女の出会いに対していえること。 節目ごとに好きな対象が変化するものと、一貫して好きを
  貫くか、である。「 好きと嫌いじゃ どれほど違う 命ただやる ほど違う 」という都々逸があるが、それほど好みは根源から
  湧き出るもの。 反面、「好きになるまで取り組んだことを突き詰めれば、奥底好きになれる」こともある。好きという言葉は、
  人生の鍵を握っているようだ。現在の自分が好きになれるか? 特に、人生の晩秋に差し掛かった時期の自分が、どうだろうか?
 「日々、面白い!」と思えるかどうかが目安。ここまでくれば、「突き抜けた自分を好きと思うしかないか!」自嘲的自己肯定か、最期は。
   ・・・・・・・
3684, 自己を見つめる −8
2011年04月27日(水)          
  * 仕事について     「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 第二の人生に入って一ヶ月足らずになる。 今月から仕事・事業人生から無職のリタイアの人生に入った。
人生の大部分を仕事を通して幸福・不幸の波の中で泳いできた。仕事は人生の核であることは間違いない。
社会の中の存在意義が仕事を通して証明される。そこで表現した中に自分が見えてくる。仕事、趣味、そして学びは人生の三本柱。
人生のプロセスで、その重心が変わってくるが、男は家族を作り、養っていかなければならない。
だから仕事の比重はのしかかってくる。とはいえ、三本柱の一つだが・・・
  ーこの本の中の仕事に関する部分を抜粋して考えてみるー
【 したがって、社会に応えてなんらかの役割を果たし、世間に寄与することができるということは、人間の自己意識にとっては、
自己の存在の意味を確認することのできる最も直接的な答えであり、また喜びであることは、疑いようのないことだからである。
もちろん、そうした仕事における労苦のうちには、失敗や挫折、困難や事故、予期せぬ妨害や災害、さらには競争や不運など、
実にさまざまな心労の種が含まれていて、人生の現実が容易ならぬものであることが、誰にでも、ひしひしと実感されてくる。
人生における懐疑や煩悶、疑心暗鬼や気欝は、多くの場合、仕事をめぐるトラブルや、そこに絡んでくる陰湿な人間関係に起因する
ものであることは、否定することができない。けれども、そうした暗欝な影にもめげずに、自分の関与する仕事の有意義性を確信して、
少しでも前進し、実りある人生行路を切り開こうとする人にとっては、やはり、仕事を措いて、人生の実質上の道程は考えられない
ことになるであろう。そして、もしもその人が、強い信念の持ち主として、どんな障害にも屈服せずに、この世界では善が勝ち、
道徳的な世界秩序が実現してゆくはずだと確信することができるならば、たしかにヒルティも述べたように、その人にとっては、
仕事を通じた人生の意味と幸福が、力強く確認され、労働の喜びが増すであろう。】
 ▼ 「人生における懐疑や煩悶、疑心暗鬼は、仕事をめぐるトラブルや、それに絡んでくる陰湿な人間関係に起因する。」
 しかし、それを乗り越えて仕事を成し遂げることこそ、その醍醐味がある。とはいえ、経済震災や、自然震災は、その全てを
 飲み込んでしまう。これほど大激震だと諦めがつくが。これも人生。人生の多くを事業を通して多く学び、楽しんだことも確か。
 まあ、面白かった! 
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3319, 理性の「理」は、理由の「理」
2010年04月27日(火)
   『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著
 学生時代に理念、理性の「理」の意味は何だろうと疑問に思い、ゼミの人たちに聞いてみたが、納得する答えがなかった。
そこで字づらから、王の里で、真理の大元と一人合点をした。ところが、先日図書館で借りてきた
『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著に、カントの「純粋理性批判」中の「理」が解りやすい。
 《 理性の「理」は、実は理由の「理」にほかならない、と述べている。 欧州の古典語であるラテン語で「理性」を意味する 
「ラテオ」は、同時に「理由」を意味する。理由とは、「なぜならば〜」と表現されるもので、物事の「根拠」、
 物事を「根拠付ける」働きを意味する。さしずめ「なぜならば」と答える能力が理性であると言ってよい。
 20世紀のハイデッガーは、理性と理由、理性と根拠が同一であることを際だたせて、次のように述べている。
「理性とはラチオのことであり、すなわち根拠の能力。理性は物事を基礎づける根拠である。根拠は純粋理性の理性的根拠以外にない」
 ところで、この「なぜならば」といきなり、切り出すものはいない。それを誘導するものがある。それは「なぜ?」という問いである。
「なぜ?」と問われて、はじめて「なぜならば」が発せらるのである。・・・ 》
 ▼ 以上だが、理性的とは「なぜならば」と答える能力である。と同時に「なぜ?」と、問う能力である。
 分かっているようで、分かってなかったようだ。そうすると、常に「なぜならば」と「なぜ?」を、考えている人が
 理性的ということになる。人は「なぜ『なぜ』と問うのか?の答えは、「人は根拠となる物事の基礎を把握したいため」である。
「なぜ?」「なぜならば」と、言っている限りは、理性を使っていることになる。 ということは、根拠=原因を知りたくなる
 根本的な探究心のため何か驚いたり、知らない現象に出会うと、その背後にある原因を探したくなり、「なぜ」と問うのである。
  認識に経験論と合理論があるが、合理の理性から物ごとを認識をするという場合、経験が直接的に認識するのに対して、
 合理の理性で把握するのは間接的に認識する、ということになる。  −つづく
 ・・・・・・・
2944,ブラックアウト
2009年04月27日(月)
 ーブラックアウトについてネットで検索をしたら、以下のようにあったー
blackoutは、飲酒中やその直後に自分の行ったできごとについて、翌日に一部の記憶がなくなるアルコール性記憶喪失をいう。
例えば、飲んでタクシーで帰ったが、友人に乗せられたまでは覚えているが、その後はまったく記憶がないなどである。
社交飲酒家でも認められるが、アルコール依存症者ではしばしば認められる。ブラックアウトの出現はアルコール依存症の入門切符。
▼ 「元スマップの草薙剛が、ブラックアウト?で逮捕された」と報道された。深夜三時ごろに全裸で騒いでいるところを
 逮捕されたもので、何と猥褻罪という。深夜に素っ裸で公園にいたところで誰に見られた訳でなし、やりすぎではないかと
思うのは私だけではないはず。有名人でなければ、これだけ騒ぎになるわけでなし、酔っ払い保護センターもあるし、騒ぐほうも騒ぐほう。
(字数制限のためカット2012年4月27日)
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2580, 閑話小題
2008年04月27日(日)       \(⌒∇⌒)/おはよ?!
 ー哲学と思想の違いー
池田晶子著の「暮らしの哲学」で 「哲学」と「思想」の違いについて次のように書いている。
『「哲学」と「思想」の違いは「哲学」とは考えることであり「行為」である。
それによって導き出された言葉なり文章なりの結果が「思想」である。だから「哲学する」とは言うけれど「思想する」とは
言わない』と。 解りやすい説明である。「哲学は考えること。思想は思いこむこと」 というと、何か違うような気がする。
 人の考え、思い込んだことを言語化したもので、貼り付けることが出来るのが思想で、考える行為が哲学ということ。
一般的には、哲学も思想も同じように論じられているから、話がややこしくなる。
ここの差異をハッキリさせおくと、哲学・思想書関連の本を読んでも整理がつく。
 ー何でも半分ー
 (字数制限のためカット2010年4月27日)
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2007年04月27日(金)
 2215, 買い物依存症の女   ^O^ノ  オアヨーン
海外ツアー、それも秘境に行く人は、心に大きな負担を持った人が多い。ある年代になれば誰もが何らかの問題は抱えている・・
特に刺激を求めてアフリカ、中近東、シルクロード、南米などに行く人は人生の究極を求めている人が多い。
その中で、「買い物依存症」の人が何人もいた。明らかに病的の、「やり手?ブランド嗜好の金ぴか中年女」である。
(以下、字数の関係で中略2009年4月27日)
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2006年04月27日(木)
1850, 2008年、日本は大きなクラッシュに? ー1        おはよ?!(*^ワ^*)i
 昨日、池袋で開催された『資産防衛セミナー』での第一声の講師の言葉が「平成20年に、日本は大きなクラッシュになる!』である。 
そして「その対策を、具体的手順にふむべき時期がきている」という。二年半前に同じ講師で同じテーマのセミナーに参加したが、
再び参加してみた。5回も参加している人もいるという。その衝撃的な内容は絶望度をましていた。景気回復など論外。 
現在の日本の事態は生やさしいものではないという。本屋で数年前まで悲観的な表題の本が平台に積まれていたが、
最近は見かけなくなってきた。 少し温かい微風がふいているからだ。この講師の話を聞いていると、その絶望的な話は不変であった。 
2~3年以内のクラッシュも、あながち有得ない話ではない。
 ー印象的に残った部分を列記するとー
・金(ゴールド)など現物に替えておけ、グラム6000円も有得る(現在2000円)
・ハイパーインフレはもう始まっている
・銀行閉鎖も最悪の場合ありうる(その場合は貸し金庫も閉鎖される)
・金利が5~10?を覚悟をしておいたほうがよい
・日本はアメリカの植民地国家
・三井住友銀行の貸し手に対しての、脅しもどきの取立て現場の生々しい話
これからの日本の混乱の生々しい予測と現状の内容である。 現在は明治維新時、第二次大戦の敗戦時、と同じ有事の時。
それを明確に意識をして、ことに当たるべきだという。思い切った決断しか、これからの時代は生き残れない!ということか。
私が感じているより、遥かに事態は深刻のようだ。日本は、これから何処に漂っていくのだろうか?
「日本という国は、潰れない。ただ、国民の財産を根こそぎアメリカ資本に持っていかれるだけだ!
 その防衛は、それぞれの自己責任で防衛するしかない!」が印象的であった。   ー つづく    ε(´',_c')зβyё        
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2005年04月27日(水)  
 1485, 24歳の日記ー3
 3月31日 1970年
昨日、最終的に実家の会社の一員になることが決定した。恐らく三年後あたりが目途であろう。
それまでに、自分の力をつけなくてはならないのだ。もう許されないのだ、いい加減な姿勢は。
息苦しい感じがしたが、それでもハッキリとしたものが見えてきた。これからは、衣料店だけでなく他の事業も
考えなくてはなるまい。もう、サイは投げられたのだ。これから大事なことは、「自分を自分の相談相手にすることだ」
この時期は二度とない大事な時期である。足元を見つめなおして一つずつこなしていかなくてはなるまい。
ー私の現在思っている言葉の定義を、そのまま書いてみようー
・「贅沢」とは、他人の目を意識をして、そのために意識や金や物を使うことなのか。
・「生きがい」とは、自分の価値を明確にして、その追求をするプロセスの一瞬に感じる満足感
・「言葉」は大事な要素である。しかし、それは行為にあとに出てくるもの。
 その行為は、生きた言葉、生きた人間そのものである。
・「神」とは、真善美の理想形として人間が創りあげたXである。
・「真」とは、ものごとの本筋・本質をいう。
・「決断」とは何だろうか?その裏づけになる理論と、その後の行為が肉付けされて達成に至るものだ。
・「善」とは、道徳のいや、価値の側面である。道徳は社会の中の規範であるが、その社会の規範は過去のものでしかない。
・「誠」とは、裏切りを知りながらそれを乗りこえて生きることである。
・「美」とは、美を感じる心が無くては。美を感じる心とは、対象のバランスを
  自分の中のバランスとして受け入れる感受性である。それは、真善においても同じだろう。
・「克己」とは、自分の壁を乗り越えること。人に勝つ前に、自分に勝たなくては!
・「価値」について、それぞれの社会の固定化された欲求?
 それとも目標? 外部に価値を見出すべきではない。そうなった時は自分に迷いのあるときである。
・「力」とは何か、人間がただ頼れる一つのエネルギー?
 今の自分は自分自身を信じて自分の足で立つことだ! 見えない未来に向かって。    おやすみ!
 ー2005年4月27日5時半ー 記
 よくぞまあ、35年前にこんな難しい?ことを書いたものだ。 難しいことというより自分の頭の中の言葉を引っ張り出して
 曝しているのが有効である。深くは考えないで、その時に気ままに日記に書いたものだが言葉の重要性に気づいたのだろう。
 この一年で情報と言葉の「切断」の重要性にも気づいた。カレーライスをつくるのにそれぞれ素材を目的に合わせて切断する。
 情報や言葉も同じであることに。この一年ほど、自分の一生にとって有意義な年はなかった。
 一見、無駄に見えたが基礎の再構築だったようだ。常に社会と一線を引くスタンスが、この一年で身に付いた。
 姉夫婦が、小さな城下町の価値観の世界を全世界と信じて疑ってない姿を身近で観察できたこともある。
 内海にいる魚は海そのものがどういうものか知ることがない。陸に上がって海そのものを見ることができない。
 まして、自分が内海にいることも知らない。 人間全てにいえることだが。
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 2004年04月27日(火)
 1120, 「ライフ・レッスン」ー7
  ー時間のレッスンー
・時間のなかで、すべてのものは変化する。内面も変わり、外面も変わる。 外観も、内的自己も変化している。
  (字数の関係で中略2009年4月27日)
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2003年04月27日(日)
 753, 孤独について考えてみた
 自分の強みは何だろうと考えてみた。「孤独に強い事」である。あまり人といなくとも平気である。
若い時の都会の生活や勤めの時代に鍛えられたことと、8人兄姉の末っ子だったこともある。一人でいつも遊んでいたという。
(字数の関係でカット2011年4月27日)
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2002年04月27日(土)
 389, どういう時代に?
  今年来年はどういう年になるだろうか?
  (字数の関係でカット2011年4月27日)


4423, 老後の不安で天引き預金、の良し悪し

2013年04月26日(金)

 両親を近くでみていて、お金について多く学ぶことができた。 それにして、このザマ?  で、まあ、聞いて! 
額は小さいとしても、三十年近く給与の範囲で使い切ってきた。また増築も含めてビル建設八棟と古ビル購入で35〜6億は
つかった。土地仕入れを含めたビル建設の面白さは何にも変えがたい。これらを現在も所有していればオーナーだが、
手から離れれば、使い果たしたことになる。大金持ちがヨットに、車に、別荘に、買物に35億使ったのと、35億のビル建設の
道楽?と大して違わない。それらを所有していようがいまいが車と同じ。ある期間を過ぎれば下手に所有してない方が良い。 
 父が死ぬ直前いっていた言葉が今でもハッキリ残っている。『数千万の貯金通帳の数字と、この紙に書いた数字と何処が違う。
何にも違わない。買い集めた骨董が倉庫にあるが、これも同じ。二度と箱を出さないものばかり。あるのは持っているという
満足感だけ。だから、使える時にしっかり使っておくべき。 金は商売を楽しんだ後のカス。カスを目的にするから失敗をする。
そのカスで自分を飾り立てたりしないこと。』と。
 それでも、茶道を楽しむため新たに自宅を建て、茶道具を中心にした骨董品集め楽しんでいた。しかし、無駄と、見栄の
ための出費はしてなかった。その家を建てること自体、見栄でもあったが。 それを見ていたこともあり、40歳過ぎから
収入は家内への給与分以外の全額は、使うようにしていた。酒、海外旅行、投資の失敗位だが。しかし秘境旅行などは10年、
20年続けると、なかなか良い思い出が蓄積されていく。それもあって現在、あまりしたいことはないし、金もさほど欲しいと
思わないし、買いたいものもないし、遣り残した思いも少ない。 
 で、仮りに徹底した節約をして年に400万ずつ30年、毎年積み立てをしていたとする。30×400=1億2千万。
投資で二倍として2億4千が残る。しかし長期的事業の個人保障で万一のことが発生すれば、この程度の額は数年でゼロ。
ということは、その範囲で、その時節に使っておいて正解だったことなる。人間は収入減に比例し支出を落とせないのは、
現在の日本国家を見ればわかる。そこで「別名義で一割程度は積み立てをしておくべき」ということになる。
 その長年かけて積み上げた金も信用も、失うのは一瞬。これは事業と同じ。あの世に持っていけるのは行蔵だけ。
こつこつ貯めるのと、こつこつ使って楽しむことの両立は難しい。何と金は使えるうち。後悔先に立たず、である。 
その辺を巧妙に仕掛けてくるのが保険屋と株屋。長年のスパンで積み上げた金を、彼らは狙ってくる。
 都会の年金暮らしのリタイア組みは、収入の7〜8割しか使わず、残りを預金しているとか。その殆どが亡くなった後、
子供に相続される。老後の不安で使うことが出来ないため。彼らは理詰めで考えないで、ただ不安に流されているだけ。
その不安は、「今・ここ・私」が確立されてないため生じている。 まず、それに気づくこと。
直ぐに泣く時が来るなら、今、笑うしかない! 腹から笑えるのは訓練で出来る。笑うから可笑しい。人生、笑って何ぼ!
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4049, 一時停止 ー7
2012年04月26日(木)                  
 * 公共広告「あなたが大切だ」について  (ふくろう通信一2008年春) 「一時停止」谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪  命は、たいせつだ。 命を、たいせつに。 そんなこと、何千何万回言われるより、
   「あなたが、大切だ」 誰かがそう言ってくれたら、  それだけで生きて行ける。
 不思議ですね。このコピーは不特定多数に向けられた言葉なのに、まるで誰かが私に向かって言っているかのように感じられる。
この短い文章の中で「命は大切とい一般論が、「あなた」という、ただ一人の人間に向けられた言葉に変換されたからでしょうか。
コピーに添えられた写真の少女は、もう何かを訴えかける元気もなく、孤独で病的な表情でこっちを見つめています。
この少女にとっては、一対一で自分と向き合ってくれて、自分のことを本気で気に向けてくれる誰かが言う「あなたが大切だ」
という言葉が、「魔法の言葉」なのではないでしょうか。
「元気になる魔法の言葉」は、もしかすると本や雑誌やテレビ番組の中にも見つかるかもしれませんが、何よりも身近な人の
言ってくれたこと、書いてくれたことにひそんでいるのではないかと私は思います。たとえば大切な人と別れなければならないとき、
別れの悲しみと苦しみが深ければ深いほど、どんな言葉も自分を元気づけてはくれないし、慰めてもくれないと思いがちです。
でも、もう言葉が何の役にも立たないと感じられたときにも、私たちのこころとからだの奥底で言葉はもがきながら生きています。
だから言葉にならない自分の悲しみ、苦しみが言葉になったとき、私たちは元気になるきっかけをつかむことができる。 
同じように、誰かが苦しみ、悲しんでいるとき、私たちはその人のこころとからだにひそんでいる言葉と共振する言葉を探します。
それはとても微妙で繊細な作業ですから、場合によっては言葉を探さずにただ黙ってその人のそばにいて、その人を抱きしめる
だけのほうがいいこともあるでしょう。辞書には載っていない「魔法の言葉」は、変幻自在ですから。   ≫
 ▼ 本を読むということは、書き手の意図を、自らに対する言葉に切り替える作業でもある。 一人も「あなたが大切だ」と、
  言ってくれなくても、著書を通して書き手から、私にとって自分自身が最も大切だと受け止められれば良いのではないか。
  とはいえ、それが出来る人は僅かとすると、やはり直接、誰かに言われたいもの。幼児期に両親から愛情を多くそそがれた人は、
 「あなたが、大切だ」という気持ちがシッカリと根付いて、その人の人生の土壌になる。 両親の愛情は大切である。
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3683, 自己を見つめる −7
2011年04月26日(火)
                 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  昔ほど、生甲斐という言葉を言わなくなったが、そのかわり、「好きなことを見出し楽しめ」というようになった。
 生き甲斐は、それなりの覚悟と追求のエネルギーを要するが、「好きなことはを楽しむ」には、それほどの重さはない。
 生き甲斐について、著者は以下のように納得できる説明をしている。
  * 生き甲斐の探究
【 私たちは、この世の中を生きるとき、なんらかの形で、生き甲斐を求めている。生き甲斐のない人生を好んで求める人は、
 考えることができない。 生きるということは、みずからが、そこに意味を見出し、なんらかの有意義性の成り立つことを
 信じることのできる道程を発見して、そこに自分の人生の基盤を据えて、自己の時間的な生成過程と、振幅を含んだ多様な遍歴の道を、
 辛苦や労苦を越えて、歩み進もうとする覚悟にもとづいて初めて成立する。 それを可能ならしめるものが、生き甲斐にほかならない。
 むろん、その生き甲斐という問題は、さまざまな局面を含んでいて、けっして単純ではない。 けれども、生きる意味を信じ、
 自分の人生を肯定できる道程を発見し、そこで自分の人生の充実を図って生きる、という構造を含まないような人生設計や
 人間活動というものは、人間の生き方として、考えることができない。意味や有意義性は、ディルタイがすでに指摘したように、
 私たちの生を構成する最も基本的なカテゴリーなのである。 そうした生き甲斐とは、それを最も強い形で言い表せば、
 自分の死に場所を発見することと同じだと言えるであろう。 その道を突き進んで、その果てに自分はもう死んでもよいと
 言えるような生き方とその内実を発見したときに、その人は自分で自分の人生の充実を図って生きる、こういう構造を含まないような
 人生設計や的活動というものは、泰然自若、自己であることに安らうはずである。 たしかに、「人生、いたるところに青山あり」
 である。 しかし、ほんとうに死んでもよいと思える場所と生き方を、最終的に見出すことは、けっして容易ではない。
 何人も迷いを免れがたいもの。けれども、人間は、最後には、自分を捨て、そこに自分を埋めてもよいと覚悟できる人生の
 住処を求めている。】
 ▼ 「生き甲斐とは、自分の死に場所を発見することと同じ。その道を突き進んで、自分はもう死んでもよいといえる生き方と、
   その内実を発見したときに、泰然自若、自己であることに安らう」は、納得する。 本当に自分の好きなことを見つけ、
  全霊を傾けて自分のエネルギーを叩きつける時に、生甲斐が生じる。 それがない人生は、空虚な喪失感が付きまとう。
  しかし生甲斐は、そう簡単に得ることはできない。極限の中にこそ、生じてくる。生甲斐を感じているときが、自分の心の芯に
  いる時であり、自分である時である。家族の為に我を忘れて必死に働いている時、振り返ってみた時に、生き甲斐を見出すのである。
  そこには、意味も意義も充分にある。 全身全霊をかけて対象に取り組んでいる中に生き甲斐が生まれてくる。
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3318, 悲しみ、苦しみは人生の花
 2010年04月26日(月)
 「悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花咲かせ、楽しむことの発見、
  これはあるいは近代の発見と称してもよろしいかも知れぬ。」これ坂口安吾の言葉である。
 それなら喜び、楽しみは果実というところか? 60数年の人生を振り返り肯定的に眺めれば、そうかもしれない。 
 私の実感は、悲しみ、苦しみ人生のレッスン=学びである。 近代の発見とは、目標の発見と解釈できる。 
 また花咲かせるとは、目的、目標の達成である。 目的達成のプロセスこそ人生の花というのも肯ける。「花も嵐も踏み越えて」
 という歌の文句があるが、人生とは挫折を乗り越えてこそ、その先の喜びも大きくなるもの。「悲しみ、苦しみは人生の花!」は、
 なかなかいえない言葉だからこそ、心に響くのである。 自分の子供に先だたれた親に、この言葉が当てはまるのだろうか。
 それも運命と割り切って受けとめることも人生なのだろうか。 「災い転じて福と成す」これが人生の真髄というが。
  大きな時代のウネリの中でこそ、味わいたい言葉である。 過去を振り返ると、一番のどん底の時ほど、周囲の人の苦しみや
 悲しみに対して鋭敏になり、優しい言葉をかけていた。 その時ほど多くの人と心が通いあっていた。 言い換えると
「どん底の時期は人生の花の時期」。「一番苦しかったけれど、一番楽しい時だった」と、気づくかどうかである。 
 私の場合は「人生、面白かった〜!」が実感だが。「喉ぼと過ぎれば熱さを忘れる」で、それなりに人生、色いろある。
 「人生、当たり!」と自己暗示するしかないか〜 
「悲しみ、苦しみは人生の花」と、心の底から思えたら、それは一種の悟りだろう。   あれが花?
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2943電動式ステッパー
2009年04月26日(日)
 スーパーやホームセンターで、「自力式のステッパー」を見ていたが、知人が毎日使っているが、非常に良いとは聞いていた。 
ところが電動式ステッパーを家電店でみつけたので売り場で使ってみたが、なかなか良い。 足の部分が勝手に動くものだが、
しかし13万円もする。数ヶ月前に電気ウエーブ・マッサージを見つけたが、12万円もする。そこでネットで廉く小さいのを探したら
1万4千円のものがあった。さっそく買って使っているが、これが大当たり。 朝晩使っているが腰と胃腸と血流に非常に良い。 
 それなら電動ステッパーも廉い簡易式のがあるはずと「電動ステッパー」と検索を入れたら、アマゾンやビックカメラのネットで、
29800円のものがあった。さらに価格ドット・コムで調べたら最低価格が7665円(送料別)があったので、さっそく注文した。
   (字数制限のためカット 2011年4月26日)
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2579, 連鎖する大暴落 -2
2008年04月26日(土)              (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
 サブプライム問題は、予測できることであった。だから、逆張りも出来たはずだが、それも振り返ってみればの話。
オバマが大統領になると断じているところが面白い。民主党は(クリントンは新鮮味がないので)オバマとしても、
共和党のマケインとは互角だろう。しかし民主、共和党が10年ごとに交代することに話がついている、というのも肯けること。
この本の通り、日本がアメリカの属国と割り切ってみると、日米関係が改めてシビアに見えてくる。
世界中の物資を、ドル、アメリカ国債などの紙切れの偽札モドキで交換しているに過ぎない。
特に日本などは、それで高い兵器を言値ねで買わされているのだから哀れなもの。この本を読むと、ドルが60円台、
株が3000ドルも、なんら不思議ではない。ー前著同様に、この目次だけでも内容が充分に要約されている。
[目次]
第1章 私の予言はなぜピタリと的中したか
 ・サブプライムローンの破綻はすでに2007年の5月にははっきりしていた
 ・アラン・グリーンスパンFRB議長は2005年に警告を発していた 
 ・ニューヨークもこれから三ヶ月ごとに大暴落していく
 ・返せそうもない人々に無理矢理お金を貸し付けたのがサブプライム  
第2章 大暴落がこれから3カ月ごとに襲い来る
 ・専門家と称する詐欺師たちが金融の八百長をやってきた
  (字数制限のためカット 2011年4月26日)
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2007年04月26日(木)
2214, 中国人移民の話       <(_ _)>  オハヨウゴザイマス            
 去年、新宿周辺を知人の車で案内してもらった時、青梅街道などに韓国人商店街や、中国人商店街が出来ていたのには驚いた。
アメリカをはじめ、何処の国の首都には中国人街がある。 朝鮮人街も時には見かけるが、日本人街は殆ど見かけない。
中国人街を見るたびに、中国人の海外居住者は何人いるのだろうか?という、素朴な疑問を感じていた。
 ー先日の毎日新聞に中国人の移民の記事があった。
 それによると、海外在住移民の数が3500万人!  こんなもの?と思ってしまった。
 シンガポールや、インドネシアが果して入っているかどうかは、この記事には無かったが。 
総国民の3%が多いか、少ないかだが。「イタリアのミラノ市で、移民と警官隊が衝突」という見出しであった。
これによると、ミラノでは1平方?の地区に500軒以上の店がひしめき、20年前の500人のミラノ在住中国人が13000人と、
26倍も膨れ上がったという。イタリア人は欧州でも働かない国民性で、中国人の「勤勉・活気」に妬みと軽蔑の気持ちが強く、
互いの軋轢が出てきている、という。 その横の関連記事として、中国人の移民の実態のレポートがあった。
その内容を要約すると、
・大陸出身中国人は、151ヶ国に3500万人              ・2000年から2005年間だけで、アメリカへの移住者が35万人。
・カナダ在住中国人は1988年の3万人から、2002年に30万人に激増。  ・日本では、韓国、フィリッピンについで28000人
・観光などの旅行により中国本土からの出国者は昨年で3450万人で、2001年の3倍近く拡大したという。
 旅行先では、「世界中には、何処にいってもネズミと中国人はいる」と言われていて、飲食街では殆んどの都市で
中華料理店を見かける。それが、また美味しい店が多いの。(日本料理は外れが多いが、中華料理店は外れは少ない)
いずれにしても、世界の人口の2割を占めていて、バラバラの国民性が携帯などでネット化すれば、侮れない存在に
なっていくだろう。人口が多いほど、個人の存在が小さく思われがちだが、逆に個性的でなければ、生きていけない。
没個性的な日本人とは、相性が悪いのは致しかたがないことである。     Σ( ̄∇ ̄|||  バイ!           
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2006年04月26日(水)
1849, ローマから日本が見える?6      ≡≡≡⊂[ォ][ハ][ョ][ゥ]っゝд・)っ
第三章 共和制は一日にしてならず
 ー王から執政官へー
紀元前509年、尊大なタルクィニウスを追放し、王政を廃止するに至った中心人物はルキウス・ユニウス・ブルータス。
これより460年後にカエサルを暗殺したマルクス・ブルータスとは血縁は全く無い。王を追放したブルータスは、ローマ市民を集めて
「今後一切、ローマ人はいかなる人物であろうとも王に就くことを許さず、いかなる人物もローマ市民の自由を侵させない」
と誓わせた。ーここからが面白い!ブルータスが考えたのが、「執行官」という最高指導者である。
王と同じく、市民集会で選ばれて、ローマ内政の最高権力を握ると同時に、有事では指導者として軍隊を率いる。
とはいえ、アメリカの大統領とは違い、当時は実際に最前線で指揮をとるのが常であった。このような大きな権力を与える一方、
執行官が将来の王にならないように歯止めをかけた。その制度とは「執行官はかならず市民集会によって二人選ばれ、
その任期を一年とする」ということであった。これでは王のように振舞えないと考えた。 しかも、執行官を二人にすることで、
更に保険をかけた。二人の執行官には上下がなく、それぞれに拒否権が与えられていた。 しかし、これには弱点もある。 
任期が一年なので、長期の政策ができなくなる。そこでブルータスが考えたのが、元老院の機能の強化であった。
100人の元老院を三百人に増やした。 当時、三百人まで増やすということは、殆どの有力者を網羅することになった。
                   まあ、茶でも!~~旦_(-ω-`。)
    (字数制限のためカット 2012年4月26日)
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2005年04月26日(火)
1484, 24歳の日記ー2         
  ー1970年3月22日
朝11時に、実家の店に手伝いに行き、17時まで手伝う。よく売れるのに驚かされる。
今日、大鵬を見ていておどろいてしまった。再起不能といわれながら、努力で再起をして優勝をしたのだ。
 (字数制限のためカット 2010年4月26日)
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2004年04月26日(月)
1119, 北朝鮮の怪?
 今回の北朝鮮の大爆発の事件,何か不可解な事件である。数百メートルが瞬時吹っ飛んでいたのに、
どうして電線から引火をしたのが解るのだろうか?組織的な大掛かりのテロ?
(字数制限のためカット 2012年4月26日)
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2003年04月26日(土)
752, SARSの不安
 もしアルカイダーか北朝鮮のテロなら!と考えると、背筋がゾッとする。
発生源が特定しているからまだよいが、そうでなかったらテロと疑われパニックになるところであった。

(字数制限のためカット 2011年4月26日)
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2002年04月26日(金)
388, 温度差
3~4年前の将棋の米長棋士の講演会で聞いた話だが、丁度北海道拓殖銀行がつぶれた直後で彼の講演がそこの主催で入っていた。


4422, 糞袋の内と外

2013年04月25日(木)

              「糞袋の内と外」石黒 浩 (著)
 「世界の中の自分は時に不自由であるが、世界を飲み飲んだ自分は自由なのである」という新聞広告にひかれて、
アマゾンで、この本の内容紹介を読んでみた。まだ発刊して間もないこともあり、レビューも何もない。
パソコンとネットの機能から、逆に人間の脳の機能を逆照射した哲学を読んだことがある。 ロボット工学者が、
人間の形を持ったロボットの視点から人間を見つめると、また違った何が見えてくる。 まずは ー内容紹介ーより
≪ 人間は感覚器が集まった糞袋。しかしその糞袋は、自分が自分であるということを確認する手段を持たない。
 CNNの「世界を変える8人の天才」のひとりに選出されたロボット工学者、石黒浩。最先端のテクノロジー開発を通し
 人間の本質を見つめる中で、「生きるとはどういうことか?」「人間とは何か?」という問題を常に問い続けている。
 【人間を「糞袋」と捉えることで、どのような答えが浮かび上がるのだろうか? 】約2年間にわたって発信してきた
  ツイートをもとに考察を深め、いま本当に伝えたいメッセージを丁寧に綴った、渾身のエッセイ。≫
▼ 「人間は感覚器が集まった糞袋」と、「世界を飲み込んだ自分は自由なのである」という意味について考えてみる。
 まず「人間は感覚器が集まった糞袋」を、「人間は考える製糞器」であると言い替えると、動物とロボットと
 際立って違うところは、動くエネルギーが動植物系と電気かガソリンの違いになる。人間の燃えカスは、一度、
 糞袋に溜められて排出される。 
  人間は世界を飲み込んで(環境を直感して主体的に)動くところが違う。それも自由度が高いほど人間度が高い、
 ことになる。自由こそ人間たる要素である。世界を知り、そこで方向を探し出し、常に環境の変化に対応し、殻を破り
 続ける糞袋が人間の本来の姿。だから、身近に飛行機、自動車、自転車、パソコンなどの身に合ったツールやシステムを
 使いこなし、自由度を高めることが必要。優秀なロボットを創ることで逆照射をして、人間の本質を探る切り口は新鮮。
 人間の肉体を内と外面をシビアに捉え完成に近づける過程から見えてくる姿は、哲学でいうところの「他者」と
 「自分」の関係を考える上で面白い。この工学者は、自分の姿のロボットをつくり、生身の自分から見つめている。
 第三者が触ったり、殴ったりした時に何かを感じるはず。これは自己承認や、他者承認の問題に似ている。ロボットから
 見たら糞袋に過ぎない人間の肉体。ロボットのように、第三者からの指示やプログラムでしか動けない哀れな糞袋が、
 あまりに多い。そういう私の貧弱なプログラムこそ最も稚拙! 後悔先に立たず。自分を腹から笑えるだけ、まだましか。
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4048, 一時停止 ー6
2012年04月25日(水)
  * 人間は大文字で書かれた矛盾      「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 唐突なようだが・シモーヌ・ヴェイユのことばを孫引きさせてもらう。
(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在するものであり、実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。
矛盾とは必然性の如何を試すものである)(存在の奥深くまで体験された矛盾、それは我々の身も心も引き裂く。それが十字架である) 
自己弁護のためにひくにしては、これらのことばがあまりに痛切であることは感じてもらえるだろう。私は十字架にまで到達できる
人間ではないけれども、せめて矛盾をかいま見る地点にまでは行きたいと思う。矛盾の一方に身を置けば、たしかにそこにも悲劇は
待っていよう。作家の自殺のいくつかはそうした場所で行われたのではないかと私は想像する。だが矛盾そのものを生きることは
―それは私には想像もつかない。 ヴエイユの言う矛盾は、いわば大文字で書かれた矛盾であり、人間そのものと言っていいと思うが、
そのことが、つまり究極には矛盾しかないのだということが、私に勇気を与える。私の出会うもろもろの小さな矛盾も、最終的な矛盾と
構造的に結ばれているに違いない。ひとつの矛盾を解決し得たと思うとき、それがすでにもうひとつの矛盾のはじまりになっている。
その無限地獄にこそあるいは書くことに第一原因がひそんでいるのかもしれない。――その辺でやめておけ。おまえにはそんなことまで
論ずる資格はありはしない。どうしてそんなに大仰でこわばった口しかきけないのだ。 おまえの内なる自然の荒廃はその口のききかた
からもあきらかだよ。見栄をはって、もっともらしい愚痴を人に聞かせる暇はもうないそ。 (一九七二年) ≫
▼【 ヴェイユの(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在であり、実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。
  矛盾とは必然性の如何を試すものである)】が良い。人生を総括すると、矛盾の塊である。しかし、その矛盾こそ実在であると知れば、
  人生を、そのまま受け取ることが出来る。「矛盾は人間そのもの」とすれば、自分だけでなく他人を受け入れることも出来よう。
  激しく生きるほど矛盾は大きくり、その重圧に潰されながら生きていくことこそ人生の味わいを深くする。人間は矛盾だらけか〜
 ・・・・・・
3682, 節目どきに ー10
2011年04月25日(月)
  * スポーツジムなど行ってみるまでは別世界だったが!
 スポーツジムに通いだして三週間になる。行くまでは別世界と思っていたが、今では生活に組まれた日常になってしまった。
ジムのシステムで、色々なプログラムがあって自分にあったものに参加出来る。 その一つに「イージーライン」がある。 
6つの機器を円座になって12人のメンバーが参加、輪の真ん中にインストラクターが音楽に合わせて全員を誘導していく。 
一つ置きにステップ台があって、大手を振って上がったり降りたりして息抜きをする。25分間が一コースだが、
これをベースにして、ランニングマシーンや、他の機器を使う。 最後は小さな暗い部屋に6台ある電動マッサージの一つで
30分ぐらい疲れをとる。 他にもプールや風呂もある。 私の場合は滞在時間は90分である。 そこに行ってきただけで、
気晴らしになる。私が選択したのは「金曜日が休日、日祭日は参加できないコースで、時間帯は10〜17時。その時間帯なら、
何時間もいてもよい。30坪位のサロンもある。 金曜と日祭日は、車で5分ほどの近くの市営スポーツ施設に行っている。
ここは三ヶ月で1800円。昼時には数人しかいないのがよい。とにかく健全な日常を維持しないと! 
  * ウォーカーの数が激減
 晴れている日には早朝、毎日、信濃川の土手にサイクリングに行っているが、ウォーカーの数が激減している。
初めは気のせいかと思っていたが、そうでもない。 原発事故による放射能に対する警戒のためだろうか。
ウォーキングでこれだから、行楽が大打撃になるのは仕方がない。ホテルは、どの業態も惨憺たるで、私も早々見切って倒産した。
特に温泉街が酷いとTVで騒いでいる。 あの草津温泉では95パーセントがキャンセルで、死活問題になっているとか・・
「新潟の月岡温泉の一番大きいホテルは二棟のうち一棟が休館。オープンしている棟も、一番上の階しか電気がついてない」とか、
「長岡の奥座敷の蓬平温泉街は、客がほぼゼロ」、という噂が漏れ聞こえてくる。日本国家始って以来の危機の一現象である。
  まだピンときてないのが日本の平和ボケした大部分の人だけ。まだ、他人事としてしか受け取ってない?
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3317, つれづれに ー閑話小題
 2010年04月25日(日)
  * 無理をするな、素直であれ! か〜
「無理をするな、素直であれ。すべてがこの語句に尽きる。この心がまへさえ失わなければ、人は人として十分に生きていける」
は、種田山頭火の言葉である。 この年になってこそ、その意味の深さが理解できること。それが許されない事態が
次から次へと起こるのが人生である。で、最後に落ちついた時に、この言葉が出てきて、そして一人納得する。
これを真正直にして生きればホームレスか、引きこもりになる可能性が高い。現に山頭火は放浪の乞食。
私なら「自然体で、力まず、目を逸らさず、真正面に向き合うこと、それも正直に」と言うところか。
  * 人生は放浪
 山下洋輔がいみじくも言った「旅とは帰ってくるものだ。だから、人生は旅だ、などという言葉がぼくには分からない。
どこに帰っていくというのだろう。むしろ、人生は放浪だ、といってくれたほうがよい。 帰るあてがなく、行きっぱなしだ。」
 還暦を過ぎると、この言葉が身に沁みる。 自分に植え付けられている死のイメージが虚空に帰すからだ。 
死んでしまえば、それまでよ」と口癖だった父の言葉を思い出す。 引越し先で、全てを忘れる当てのない渡り。
  * 人間原理とは ーウィキペディアによると
《 人間原理とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。"宇宙が人間に適しているのは、
そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから"という論理を用いる。 これをどの範囲まで適用するかによって、幾つかの種類を
見つけることができる。人間原理を用いると、宇宙の構造が現在のようである理由の一部を解釈できるが、これを自然科学的な
説明に用いることについては混乱と論争があり、未だ多数には認められていない。》
 何か無理があるように思える考えである。人間原理の人間を自分に置き換えてみると分かりやすい。もっとも、優秀な奴は、
これに近い自分原理を持っている。それが自分のステートメントだが、人類が、自分に当てはめると一神教みたいになってしまう。
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2942,閑話小題
2009年04月25日(土)
 * 県内景気 最悪の雨
(字数制限のためカット 2012年4月25日)
 * 柏崎刈羽原発が、5月連休明けに再開だと?
  (字数制限のためカット 2011年4月25日)
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2578, 連鎖する大暴落 −1
2008年04月25日(金)
『 連鎖する大暴落 』 副島隆彦著  読書日記
 この本は「ドル覇権崩壊」の続編といっていいが、決して劣ってない内容である。恐らく、この二冊で著者の論が
見直されるだろう。ジュンク堂に行ったら彼の本が十数冊あった。どれも悲観・際物的な内容だが、「ドル覇権の崩壊」が
具体的になった現在になれば、どれも納得するしかない。欧州はイギリスのロスチャイルドが19世紀を支配し、
20世紀になってアメリカのロックフェラーが石油を背景に世界を支配。
  (字数の関係でカット09年4月25日)              つづく
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2007年04月25日(水)
2213, 白い雲に乗って ー3    (・_・) ノ オハヨウ!
お風呂に入った直後の22時過ぎにクラッシック音楽を聴きながら就寝する。就寝30分後に爆睡を4〜5時間した後、
午前の3〜4時に一度目が覚める。そして冬時間の起床時間が5時半、夏時間は5時に起床する。起床前の2時間が
半睡状態の時間になる。その時間が、ある意味でゴールデン・タイムになる。夢をみたり、夢と現実の塀の上を遊ぶ?のである。
以前、書いた「白い雲にのって」は、半覚醒で子供時代に立ち返った内容を書いた。夢のような、魂の故郷を漂った白昼夢の
世界の描写である(いや白朝夢か)。白い雲に乗ったイメージで当時の思い出の世界に入ると、記憶がドンドン出てくる。
脳の奥行きの深さに驚いてしまう。ある意味で夢と同じぐらい深い脳の領域に思える。50〜60年前の赤ちゃんから
幼児の記億の世界は、魂の世界。殆んど忘れてしまった、古い古い記億の痕跡への旅である。
立ち返って気がついたのは、それからの人生の激しい時代の記億より、ず〜と刺激の強い世界の思い出である。
白銀色の毎日が新鮮な経験のシャワーを浴びているようで、愛情に包まれた夢のような日々であった。
ドラマをみているような、自分そのものが舞台劇の小さな子供の役者を担っていた。初めての大きなショックが、
柏崎の親戚の近くの海を初めてみた時である。それまでは近くの公園の池しか見たことがなかった。
海のコバルト・ブルーを見たときの驚きは現在でもはっきり憶えている。それと、舟と漁師の姿と磯のカオリも記億に鮮明に
残っている。よほどショックだったのだろう。ところで、私が生まれたのは第二次大戦の終戦の5ヶ月後の1946年1月15日である。
越後長岡の東神田で産湯をつかり、長岡駅から100?先の繁華街の四つ角の大手通の四つ角に三月後に戻ってきた。百日風邪になり、
「もしかしたら駄目かもしれないと医者に言われた」と父は口ぐせのように言っていた。
私の名前は八人兄弟の末で「八郎」というが、実際は九人目で、もう一人2歳で亡くなった兄がいた。 
父が42歳、母が38歳の時の子供である。そのためか、特に父親にはペットのように特別愛されて育った。 
16歳、14歳、年上の兄と、その下に姉が4人、その下にすぐ上の兄がいて、最後に私という構成であった。
(2~3歳違いで、双子、年子は一人もいない)終戦直後で両親は大家族の生活維持のため人に、一倍働かなくては
ならない条件があった。産まれてから10年間の長岡の繁華街の真ん中の生活は刺激の強い環境にあった。
東神田から大手通に連れてこられた生後三ヶ月後の記憶が残っている。リンタクに乗せられて、大手通の家に行った記憶である。
そこでは、「福ちゃん」という喫茶店をしていたが、一年もしないうちに止め、衣料品店に転業をした。
そして2歳になった頃に、その店兼住宅を丸太を下にいれ、転がしながら、近くの公会堂の前に引きずっていき、
仮店舗を開きながら4F建のビルを建築した。 個人名義のビルは国内で始めてと市役所で言われたとか?その記憶が一つ一つ
記憶として残っている。人生を振り返って一番楽しい日々といえば、10歳までの大手通のビルの立ち上げから、店の開店、
そしてそこで起こった悲喜交々も日々だった。 本当に刺激的な日々だった。        ヾ(@⌒▽⌒@)
ーーーー
2007/02/18  
 2147, 白い雲に乗って ー2    b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
先日のつづきの夢をみた。半分は覚醒をしていたのかもしれない。前回の夢が契機になって当時のイメージが
ドンドン出てくる。如何いうことなのだろうか?それは57年前の世界そのものである。
その世界から此方をみている感覚と、此方の感覚の間にある塀の上での微妙な世界に立っているようだ。    
ーー
白い雲に乗って再び、その世界(4歳)へ行ってきた。そこは前回よりリアルな当時の世界があった。
中央保育園の面接があるというので、目新しい服を着せられて、母の手に引かれて「同じぐらいの小さい子が多くいるところ」
に行った。そこは家から10分ほど歩いた小さな小路にあった。面接のオジサンがニコニコしながら、色々なことを聞いてきた。
母に前もって聞いていたので、驚くほど上手く答えた。 恐らく入れるだろうと思った。家(店)に帰った後、三輪車に乗って
前の安栄館というビルの同じくらいの友達のところに行った。最近できた大きなビルのところの子だ。何か遊んでいると楽しい!
その数日後に場面が変わり、幼稚園の合格のしらせがきた。手紙を待っていたが、何時までたってもこないので、
お母さんが「落第したのかもしれないけれど、そんなことがないはずだが・・」と言う。
ガッカリしていたところ、合格の葉書がやっと届いたが、凄く嬉しい。クリスマスの飾り付けのため、二番目の姉の恭子と
近くにツリーの飾りを買いに二人で行った。大きな雪がフワフワと降っている。ツリーに吊るす色いろなものを二人で選んだ。
小さな家とか、星とか、動物とか、人形などがあった。それを袋一杯に買って家に帰って3Fの食堂で飾り付けをした。
ラジオのクリスマスの音楽を聴きながら、それを他の姉たちと飾りつけた。ツリーの電飾がいやに奇麗だ!
こんな楽しい気持ちは初めてと喜んでいる自分を誰かがみている。あれは誰だろう? 翌日の朝、枕元に箱に入った
サンタの贈り物があった。雪が、ドンドン降っていて窓の下は雪で埋まりそうだ。突如、周りを見渡すと誰もいない
空間になってしまった。何処に行ったのだろう、皆は! 白い靄がかかり、その中で恐ろしさが襲ってきた。
目をつぶって白い布団を被った。目が覚めると、そこは寝室の布団の中であった。   (o ・д・)ツ  バイ!
・・・・・・・・・
2007/02/10  
 2139, 白い雲に乗って ー両親の思い出
夜半に幻想的な夢をみた。小さな白い雲があった。それに乗ると、ふかふか浮いて異次元の世界に引き込まれた。
そこは4歳の頃の世界におりたようだ。すべてが鮮明な蘇った当時の世界が浮かび上がってきた。
両親がいて、兄達と姉達、そして多くの従業員がいた。そこは越後長岡の十字路のど真ん中にある
  当時の私にとって大きなビルの中。一階が店、二階に事務所と倉庫があり、三階に家族の住まいと台所、
四階には従業員と姉達の部屋があった。白銀に輝くファンタジーの中に包まれていた。
三階の住まいに猿のタロー、そしてタマという茶色の猫がいて、そこでラジオから童謡とか歌謡曲が聞こえていた。 
店には若い女店員が多くいて、ぼくを「ハッちゃん」と頭を撫ぜてくれている、正に当時の真っ只中にいた。
コロという生まれたばかりの白黒の小犬を運一・兄が拾ってきた。そして三毛猫のタマとコロがジャレている。 
その空間には何時も緊張感がただよっていた。燕が飛んできて窓に当たって死んでしまった。初めて死をみた瞬間だ。
いやに首の下の赤い色が印象的だ。そこを出たところには大きな通りがあり、多くの人が歩いている。
小さな三輪車で駅の方に行くと右手に小さな公園があり、その脇に池があり小さなスイッカスが水上を泳いでいた。
そうだ、ここは公会堂の裏にある小さな山の上に神社が祭ってある公園である。周りを見渡すと植木の展示会が開かれていた、
多くの植木鉢がところ狭しと並んでいる。その先に大きい広場があった。それは阪之上学校の運動場。
何時も遊んでいる近所の子がいたので声をかけると、スーと消えた。夢をみているのだろうか?いや、夢のはずがない。
ぼくは間違いなく、ここにいる!ズットここにいるのだ。何で、ぼくはズ~ットここにいるのだろうか?
 忘れたが何か遠い遠い旅をしてきたようだ。何の旅だったのだろうか、僕はどこにいってきたのだろうか? 
そこで、無性に悲しくなり大声で泣いてしまった。泣いても泣いても、あの遠くのズット向こうの世界は戻れない!
《字数制限のためカット 2013年4月25日
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2006年04月25日(火)
1848, ローマから日本が見えるー5        
・・・・・・・・・
2005年04月25日(月)
1483, 桜咲くーつれづれに −2
・・・・・・・・・
2004年04月25日(日)
1118, 寝るほど楽はなかりけり
・・・・・・・
2003年04月25日(金)
751, 不思議ーシンクロニシテー
《字数制限のためカット 2010年4月25日》
・・・・・・・・・
2002年04月25日(木)
 387, 習慣ー極限
  (字数制限のためカット 2011年4月25日)


4421, さっさと不況を終わらせろ

2013年04月24日(水)

         「さっさと不況を終わらせろ」ポール・クルーグマン (著)
   * アベノミックスの理論的背景は、こんなもの!
 安部政権の経済政策の大元が、この本ではないか? しかし非常に危険と思うのは私だけでないはず。
国力が無い国が、これを実行したらハイパーインフレになり国家破綻になってしまう。強者の手法ならよいが。
そこで、日本は強者か、弱者なのか? 腐っても鯛(資源、軍事、金融、世界共通言語、農業などが出揃っている)の
アメリカとは立ち居地が違うと懸念するが。まあ、ジャブジャブの結果、どうなるか見物である。
   ーアマゾン内容紹介ー
 いま最も信頼できるノーベル賞経済学者がついに叩きつけた不況打破への最終解答!  リーマンショック以降、いまだに
好転の兆しを見せない世界経済。では、各国政府と中央銀行、そしてわれわれが本当になすべきこととは――? 
いま最も信頼できるノーベル賞経済学者が、ついに叩きつけた最終解答。
  * (本書「訳者解説」より)      ー日経「エコノミストが選ぶ」2012年経済図書第2位
≪ 本書の主張はきわめて単純明快。いま(2012年)はまだ、りーマンショック以後の不景気が続いていて回復していない。
 そして失業者の技能や労働市場での価値の低下から、その害が一時的なものではなく、長期的な被害になりつつある。
 だから景気回復策をきちんとやろうということだ。 そしてその手法も明快。
【 前書きよりー 昔ながらのケインズ的な財政出動をやろう。赤字国債を出して、大ものを一気にやるべきだ。
 そして中央銀行はそれを金融緩和で徹底的に支援すべきだ。それに伴う財政破綻だの金利上昇だのは、悪しき
 固定為替制度の下にある、ユーロ圏のスペインやイタリアのようなかわいそうな国以外は、全く心配する必要はない。
 以上のきわめてシンプルな主張をまとめたのが本書となる。】 ・・・(略)
【 あとがきよりー 本書を読んで、一人でも多くの人が現状の各種政策の愚かさに気づけばとは思う。財政出動しようよ。
 かなり手遅れとはいえ、復興まともにやって、教育やインフラ補修にどんどん予算だそうよ。そして予算つけるだけでなく、
 ちゃんと消化しようよ。必要なら予算執行の細かい基準とか緩めようよ。日銀は、すでにやっている国債引き受けを
 もっと認められた枠いっぱいにやろうよ。それ以外にも、自分たちの保身だけでなく、日本の人々のことももっと考えてよ。
 そして増税なんて今やることじゃないでしょうに!  そういうことを理解してくれる人が、少しでも増えてくれれば──  
 こう書きながらも、それがどれほどはかない望みかは、知らないわけじゃない。それでも、一人でもそうしたごく基本的な
 部分を理解できる人が増えることで、日本経済の未来はすこしはよくなるはずだ、とぼくは信じている。 報われない
 信仰かもしれないけど…そのために、本書がごくわずかでも役立つことがあれば、大いなる幸せだ。―山形浩生(訳者) ≫
 ▼ これで不況が終わるのだろうか?本当に! ハイパーインフレになった時、銀行閉鎖かデノミを実施すればよいのは
  分かっている。現状がすでに待ったなしの事態からみれば、それでよいのか? PIIGSとは違い、自国通貨で
  インフレを起すから大丈夫とかは、このグローバルの金融の世界で果たして通用するのか? そのツケは、社会的
  弱者にまわってくるので、現在の選挙システムでは、政権そのものが持たない一年内閣が、続く。 ということは、
  ハイパーによる自滅が4^5年先と見るのが道理。顔色だけは良い麻薬漬患者? あっそう、アベグロ劇場の始まり!
・・・・・・・
4047, 一時停止 ー5
2012年04月24日(火)
           「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 魂という言葉
≪ フランスのアランという哲学者は、「一つの身体の運命に結びつけられた精神が魂(AME)というものである」と定義した。
 同じフランスの現代の前衛的文学者たちの中には、魂などという語はもう使えないと言っている人たちもいるらしい。
彼とって人間は魂という言葉ではとらえることが不可能なほど、細分化され抽象化された存在なのだろうか、だがぼくにとっては、
魂という言葉はまだ或る現実的な手ごたえをもってる。 肉体なしでも成立するかのように使われる精神という言葉とちがって、
魂には人間の肌のぬくみが感じられるんだ。精神はたしかに個人の肉体を離れて、その死後もかずかずの書物や芸術によって伝えられてゆく。
だが魂は、個人の肉体の死後むしろゆきどころを失って宙にただようもののように思える。「詩人の魂」という歌があったっけ。
たしか歌の歌詞は忘れられても、そのメロディは人々に口ずさまれて残ってゆくというような歌だった。 
 自分はいったいどこから来て、どこへゆくのか、自分がたかだか百年に満たぬ人生を、この無限の宇宙の中の地球と呼ばれる星の上で
過すことに、どんな意味があるのか、そんな疑問にとらえられたことのない人間はいないだろうか、そして決して本当の答を得ることが
できないそんな疑問に、精神は或る仮の答えを出すことが出来る。たとえば、いまのぼくは、自分にこだわるより、むしろ我を忘れて
自分を超えた他人の世界にかかわってゆくことことに、あるべき生きがいを見出そうとしていると言えるかもしれない。・・ ≫
 ▼ アランの魂について、「一つの身体の運命に結びつけられた精神が魂」という定義が分かりやすい。 キリスト教徒は、
 「魂は人間の不滅の本質であり、魂は死後に 報酬か懲罰を受ける」と信じている。 私の魂の解釈は、「心は毎日変わるが、
 魂は、その心を支えている生まれてから死ぬまで一貫した幹である。感激は心の響きだが、感動は魂の振動」である。
 秘境の大自然の中で何度も魂の振動を経験した。それが感動である。全身全霊で何かに没頭したときに魂が現れ出てくる。
  ・・・・・・・
3681, 逆説を考える
2011年04月24日(日)
 考えるときの一つに、正反対の説を立てる方法がある。「逆も真である」を試してみると、考え方の幅が広がってくる。 
とはいえ、逆説を正面から考えたことはなかったので、その意味を取り上げてみる。 学生時代のゼミの教授が、中根千恵の
「日本社会は縦社会=蛸壺社会」という説に対し、「横社会=資格社会」という説を立てられた。
「日本社会には武家社会の影響が残っており、殿様、家老、家臣、家では家長、嫁、婿、長男、末っ子、という資格社会ではないか。
蛸壺というが、どの世界でも、その資格で評価されるではないか?」という逆説に驚いてしまった。 
それを切欠に、逆照射の見方を常に持つようになった。
   ーYahoo辞書によると、 ー逆説とはー  
1 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現。「急がば回れ」など。
2 ある命題から正しい推論によって導き出されているようにみえながら、結論で矛盾をはらむ命題。 逆理。 パラドックス。
3 事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、その結論に反対する論拠を容易に示しがたい論法。 
  ゼノンの逆説が有名。逆理。パラドックス。
   ー広辞苑」によると
「衆人の予想に反した、一般に真理と認められる説。また、真理に反しているように見えるがよく吟味すれば真理である説」。
  逆説といえばマックスウェーバー著の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
 資本主義といえば「自分の利益の為に利益を追求する」ことだが、マックスウェーバーは資本主義は「プロテスタント」は
「禁欲」「勤勉」の基本理念から出発したと主張。「禁欲」を目的とした「プロテスタンティズム」は「勤勉さ」を旨とする
「合理的」生活態度を形成した結果、「計画的・合理的」に企業経営を行おうとする精神が形成されたという、逆説は
 資本主義社会の大きな精神的支柱になった。
▼ 「逆も真なり」という諺が昔から日本にあったが、両者とも成立する確信で考える入口になればよい。
考えるための一番の近道だが、正論を把握した後でないと単なる歪みになってしまう。 
 ・・・・・・・
3316, 人みな骨になるならば ー11
2010年04月24日(土)
 * 神とは ?
 虚無主義の著者の宗教観がシビア。 この辺が、明るい乾いた虚無主義者の真骨頂である。
大方の人は、以下の論に近いのだろう。 アブラハムがつくりあげた超越的存在の神、そしてユダヤ教、
キリスト教、イスラム教の内輪もめ。 これが、現在の世界の宗教戦争を引き起こしている。
  ーまずは、その部分を抜粋してみるー
 神という言葉を使うと近代以後の知識人は懐疑的になったり警戒したりするものだが、それは「神」という概念の内包(意味)
に関して伝統的なイメージをひきずっているためである。もともと「神」などという超越的観念は、それを思っている人によって
勝手にイメージされてきた。 中世の農夫にとっては雲の上にいる白髭の老人であり、現代的な信者にとっては、「宇宙に偏在する、
形のあいまいな意志そのもの」である。 どこかの原住民にとっては自分と同じような腰蓑をつけているオッサンかもしれない。 
このように、信者たちが各自勝手に想像しているのが絶対者なのだ。ある意味で、このような多義的になんとでも解釈できる
教義を備えていない宗教は、レベルもニーズも様々な多数の信者を引き寄せることができないらしい。だから近代以降のインテリたちは、
神を否定したがる。確かに、そんなシロモノは実在しそうもない。 ただ、そうした多様なイメージのむこうに共通項として
「それ以上の審級が存在しないような超越的かつ絶対の存在にして運命の決定者」を想定することはできるだろう。
それが人間臭い愛や怒りや嫉妬や気まぐれをもつかどうかは、各信者の想像力の限界を示すだけである。
むしろ、その人間の程度を知りたければ、その人物が信じている神の特徴を教えてもらえばよい。
神のイメージは、たいていその信者の願望と恐れを投影したものだからである。 
そこで、ここにいう「神」とは「宇宙を統べるなにか」以上のものではない。そんなものが実在するかどうかはひとまず措く。
もしそうしたものが存在するならば、それとの相談なしに将来を誓うことは人間の分際を越えていることになる。
そして、そうしたものが存在しないなら、ますますわれわれの生や将来にはなんの保証もない。
 〜〜
「その人の程度を知りたければ、その信じている神の特徴を知ればよい。神のイメージは、その信者の願望と恐れを
 投影したものである」は、言いえて妙である。 人間が言葉を持ったが故の不安と不幸をカバーするため、
 未知の存在の畏敬としての神は、必要である。しかし、それでしかない。
「その人物の程度といえば、連れ添いを知ればよい!」というが、これは当たっているか?これとは関係ない。
  神については黙するしかない、ということか。最後は、神様助けて、というしかないのが人間である。
 ・・・・・・・・
2941,ナチが愛した二重スパイ
2009年04月24日(金)
 「ナチが愛した二重スパイ」  ベン マッキンタイアー著
 新幹線通勤の往き帰りの車中で一ヶ月かけて読んだが、これが何とも面白い。第二次大戦末期、ロンドン暗黒街の
 チャップマンは、ナチのスパイとなる。しかし「二重スパイ」として、ベルリンに偽情報を送っていた実録もの。
 ロンドンの当時の札付きの泥棒、ジゴロの生々しい犯罪と、監獄暮らしなどが詳細に書かれている。
 現在の犯罪者も似たようなものだろうから、我われ小市民とは全く異質の存在である。
 肯定的にみれば「何もしないで一生終わるより、よほど思いのまま生きることも必要では?とさえ思わせるほどである。 
 札付きの犯罪者がその経験を生かして二重スパイになって国家のために大きな働きをすることになるから、皮肉といえば皮肉。
 pー234に 著者は、二重スパイのチャップマンを次のように分析している。
 【 二重スパイのチャップマンの話は、地味なスパイの話とは違う。スパイ小説なら、あり得ないこととして拒否される
 内容である。主人公は悪党であるが、悪党としては決して敗残者ではない。彼の犯罪歴は、軍隊脱走から猥褻行為へ、
 女から脅迫へ、強盗から金庫爆破へと段階的に進んだ。あとになると彼の報酬は多くなり、最初はつまらぬことに手を染めたのを
 恥じているのは疑いない。この男の本質は己惚れで、自ら評価するところでは大物で、暗黒街のプリンスのような存在である。
  (字数の関係でカット09年4月24日) 
・・・・・・・・・
2577, フロー体験 ー2
 2008年04月24日(木)
 ー まずは、要点を書き写してみる。ー
我々が幸福であるかどうかは、世界の大きな力に加えることのできる統制によるのではなく内側の調和による。
肉体的生存が外部環境に依存している以上、外部環境を支配する方法を学び続けることは確かに必要である。外部環境を支配するとは、
すでに経験して解るように、我々が個人としていかに喜びを感じるか、または世界めカオスをどのように減少させるかに関しては、
それほど役に立たない。カオスを減少させるためには、意識そのものを支配すること学ばなければならない。
 ーフロー体験の構成要素が存在すると、
 次の8つを挙げている。
1. 明確な目的(予想と法則が認識できる)
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
3. 自己に対する意識の感覚の低下、活動と意識の融合。
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
7. 状況や活動を自分で制御している感覚。
8. 活動に本質的な価値がある、だから活動が苦にならない。
フロー体験は外面的報酬とは隔離され、ひとつの活動に深く没入し、その経験それ自体が楽しいので、
純粋にそれをするために多くの時間や労力を費やすことができる状態をいう。
したがってフロー体験は、悲しい、辛い、煩わしい、妬ましい、腹が立つ、焦るといったネガティブな
感情とは隔絶した、うれしい、楽しい、歓喜に満ちた十全感、充足感、楽観、自己効力感をもたらしてくれる。
   (字数の関係でカット09年4月24日) 
・・・・・・・・・・
2007年04月24日(火)
2212, 宇宙的自己?が語りかけてきた ?        (。・8・。)ノ おはよう!
 *一昨日の朝方の夢*
10年近く前に亡くなった母の夢を時々みるが、一昨日の夢が不思議な夢だった。晩年の母は5年半ほど痴呆症だったが、
夢の中の母は平常の状態。 不思議に思い、「如何したら呆けないでいられるのか?」と聞いたら、
「何を経験しても、その都度ごとに文脈としてまとめることよ、また、一つ一つの要素をキッチリと言葉にしておくことよ。」
と諭すように答えた。そして、家の宝として、小さな仏像を5~6個持ってきた。さらに家にある大きな封書を持ってきた。
神聖な昔から家にある「書置き」のようだ。そこで目が覚めた。普段の自分の世界から一歩抜け出た不思議な感覚であった。
‘遥か遠い向うの世界からの魂の呼びかけ’のような、‘宇宙的自己としての母の自己が、地上の私に直に語りかけてきている’
ようであった。 現に毎晩、私が寝ているところが、母が30年以上寝ていた処である。「魂とは何なのだろうか?」不思議で
不思議で仕方がない。 誰もが持っている、不死の何かなのだろうか? あの夢に出てきた母とは誰なのだろうか?
自己の創り出した(記憶の底から出てきた)母のイメージだろう。夢も考えてみたら不思議である。犬も夢をみるというが、
自分の無意識がつくり上げた物語である。以前は不思議な夢を多くみたが、最近はめっきり少なくなった。
モーニング・ページに起きざまにみたばかりの夢の内容を書いている。そのまま、大学ノートに書きなぐるが、
生々しい夢を書くのも面白いものである。モーニング・ページの大きなコーナーになっている。
内容は他愛もないが、それでも時どきハッとするような深い内容がある。夢と魂とは何か結びついているんじゃないのか?
と時どき思う。それも身近な母や父などの夢は、特に!ところで母が持ってきた、あの封書の中味は何だったのだろう?
母の残した、「詩」だろうか?それとも家を守りなさいというサイン?
あのイメージは、家筋としての記録である。家系としての筋道? 胡散臭いが!    ホンジャ  (~▽~*)/
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2006年04月24日(月)
1847, 安楽死についてー2        (’0’)d おっ w(゚Д゚)w ハァ?
昨日の随想日記の過去分(2002年4月23日)に、安楽死について書いてあった。(あとでコピー)
数日前の毎日新聞のー記者の目 ーで安楽死について取り上げていたが、鋭い論評であった。
私は積極的安楽死論であるが、この記者も安楽論のようだ。両親や親戚の叔母などの死際を身近に見ていて実感したことは、
激痛を伴う終末の延命は無意味であり、カタチを変えた拷問の容認である。
  (字数の関係でカット09年4月24日)           ヾ(^ω^*) バイ
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2005年04月24日(日)
1482, ラジウム岩盤浴ー2
スモールビジネスとして岩盤浴経営も増加しつつある。新潟市内にも、先日郊外に開店をした。
数年前に流行したアカスリブームや、足マッサージに似ており、一時的ブームも可能性も充分考えられる。 
三〜四年が目安であろう?料金は一回600円?1500円。 天然ミネラル風呂と併設されているところもある。
女性の利用が9割ということもあり、女性専用のところが多い。最近は男性も利用者が増えつつあるという。
取引先の社長が、この岩盤浴に興味を持って岩盤温泉サウナを準備をしていたが、開店直前に失火で全焼してしまった。
(字数制限のためカット 2010年4月24日)
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2004年04月24日(土)
1117, 「ライフ・レッスン」ー6
 ー罪悪感のレッスン
・罪悪感は自己の判断に根ざしている。自分が何か悪い事をしてしまったという意識である。
  (字数制限のためカット 2013年4月24日)
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2003年04月24日(木)
750, ある人生
 先日親戚の葬式で、故人の息子の一人に30年ぶりにあった。2歳年下で、中学を卒業したと同時に日本橋の蕎麦屋に
勤めにいった。といっても出前持ちである。
  (字数制限のためカット 2013年4月24日) 
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2002年04月24日(水)
 386, 宗教的タカリ
オウム教はとんでもない犯罪行為をしたが、一つだけよい事を、いや結果的に良いことをした。
(字数制限のためカット 2013年4月24日)

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