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堀井On-Line
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2009年09月14日(月)
「挫折」については誰かが考えているはず、と調べたら、ヤスパーがいた。 ヤスパーは、挫折を「自己に目覚めるきっかけ」として捉え、自分自身を乗り越える機会とみる。 人間は日常の生活に明け暮れで生きているが、それでは真に生きていることにはならない。 なぜ己が世界に生きているかを問い、自分のあり方を求めることが生きる出発点になる。 ところが、それを真正直に守ると最後には挫折が待っている。 人は最期は死ぬのである。 それを考えると生きている根拠がなくなり、行き着く先の挫折を「限界状況」とヤスパーはいう。 色いろの挫折を重ね、最後に「死」が厳然と待っているのは、身近な死が我われに教えてくれる。 しかし死を含めた多くの苦悩を通して、人間は真の自己である実存を自覚し、そこから苦悩を乗り越える 「超越」への基盤となる。しかし人間は死の戦いや苦悩を、実存の最終的なあり方と受けとめることが出来ない。 本来は、愛、永遠、無垢に惹かれる存在だからである。 ヤスパーは、《 実存は苦悩のうちに挫折しつつ、指し示す絶対者=包括者へと超越することが要求される。 その超越が促すのが「暗号解読」である。 それは一種の象徴で、有限な現実の存在が自らを越えて 絶対なる超越を指し示すのである。 芸術、思想、自然、歴史など、そうした暗号によって、 それを包括者へと超越せよ、という指示として受け取るのが暗号解読である。 》と、挫折=限界状況の先の アップスケールとして、自己に目覚めるきっかけとする。 人間が生まれ存在しているから挫折をするのである。 そして最後の挫折としての死を受け入れるプロセスが超越だったり、真に生きることであると指摘する。 人間は誰かに人生を代ってもらうことはできない。 限界状況をひとりで背負う、本質的に孤独な存在である。 だからこそ独りに閉じこもらず、自分の実存を他者に開示すべきとヤスパーはいう。 他者との交わりを通して、自分を振り返ることが、更に自分に近づくことになる。 実存に目覚めた人間同士の交わりを、「愛しながらの戦い」と呼んでいる。 人生を振り返ると、挫折から多くのことを得た。 その時に、新約聖書や、大本教の本に救われた経験がある。 超越者から救われていたのである。40,50歳代の峠越えは秘境旅行で大自然に出会うことで超越していた。 私にとって、大自然の懐が「暗号解読」の場所であった。 更に、多くの都市の美術館の名画などの作品がである。 「限界状況」の中に、そして、その向うの「超越」こそ、人間の生きている意味が隠されている。 挫折、そして苦悩こそ、人間を超越に運んでくれる。 そこで出会う感激・感動こそ超越状態である。 ・・・・・・・・ 2719, 嘘について 2008年09月14日(日)
社会に生きていくうえで、嘘をつかなければならない場面も往々にしてある。 その場その場で、ころころ変化する人物は直ぐに見抜かれて信用を失う。 「約束の時間を守るかどうか」で、まず評価されるのは、そこに言い訳と嘘が鮮明に出やすい。 後ろ向きの人は、言い訳から始る。そして小さな嘘を重ねる。 過去に何人かの長年行き来していた人と断交をしてきた。 その共通点が嘘が多い人である。 開いた口が塞がらないというほど、純朴に嘘をつく。 純朴を表面に見せて、次から次へと嘘を重ねる。 ある人を例に取ると「本人は嘘を言っていることに気づいてないだけ。 三歩ほど歩いたら全てを忘れる、 嘘など更々言っていない」のが真実。「私を信じて下さい」が、ある人物の口癖だが、そのことさえ自覚をしてない。 話を都合のよいように変えるのも、嘘の一歩手前の行為である。営業口で、きれいごとを並び立てているうちに 嘘の構築のプロセスを踏んでいることになる。考えてみたら、誰もが大同小異ではないか。他人のウソは見えても 自分のウソは気づかいないだけだ。所詮、世の中は全てが幻想、ウソも真実も大して変わらないではないか? と嘯くこともできる。嘘も方便で嘘も相手を傷つけないように気遣う場面も必要である。 鮮明に憶えていることがある。父親が、末期癌になり、あと一年と宣告され一年間実家で同居をしたとき、 そ知らぬ顔をして、父親の葬式のための喪服をつくりに行ったことがあった。 嘘も必要悪と己に言い聞かせ。 「末期かどうかは自分は聞かされてない!」という前提で、全ての言動をしなければならなかったのも辛い。 この時に、綺麗ごとだけでは生きれないことを、つくづくと知らされた。普段からウソの訓練も必要ということ? 私の場合は、後味の悪い他者への裏切りや、嘘は避けてきた。 結局は周り回って帰ってくる。 動機が純粋かどうかを、最終の判断基準にしている。 ただ、人間の窮したときの露骨な嘘こそ忌み嫌う。 自分の利益行為のために、綺麗ごとを当然のごとく並び立て、結果として尻尾を出している男かいる。 営業という仕事自体が綺麗ごとを並べ業績に結びつける要素が含まれる。 全てを営業成績を上げるため、生きるため、の手段にしなければならないのがプロと思わないと、やれない。 嘘をつかないで、相手をグサリと刺しまわっている「私」も大問題である。嘘を言う前に、まず真実を知らなければ! 真実も嘘も知らない手合いが多いから困ったもの。そうこう考えてみると、親の資質や、本人の教養度合いの低い人が、 ウソが多い人、ということになる。 まあ、娑婆は適当なウソで持っているところがあるが・・・ 後記)書いた後に気づいたが、ほぼ同じ文章を書いたことがある。
・・・・・・・・ 2007年09月14日(金) 2355, ギリシャとエーゲ海の旅 −1
この旅は、予測していた通り、ヨーロッパをメインに旅行している人が大部分で、秘境・異境派は一組もいなかった。 23名の参加者のうち、16人が夫婦づれ、6名が女性づれ、1人参加が1名。 平均年齢が大よそ60歳強で、私達にとって 丁度良いバランスの連れ合いであった。少し、お品の良い人種が多いのが特徴で、食事時の会話が大変であった。 (その辺は家内の得意とする分野!私は寡黙の人に変身した日々。)内容的には、クルーズではトルコのクシャダズと、 また乗り継ぎ拠点のエジプトでは、ピラミッドとエジプト考古博物館のオマケつき。盛りだくさんのスケジュールが 組まれていて10日間としては、内容が豊富であった。点数でいうと、100点満点といってよい。まずは今回のツアーの 「スケジュールと主な内容」を旅行代理店のクラブツーリズムのHPのスケジュール表をコピーしてみた。 ーーー (字数の関係でカット09年9月14日) ■空路、エジプト航空直行便にて帰国の途に 宿泊:(機中泊) 10日目 成田着 12:55 ーーー 以上である。次回は、その感想を書きます。 たまたま、数年前の今日、同じエジプトの旅行記が書いてあった。 面白い偶然である。 つづく ・・・・・・・・・ 2006年09月14日(木) 1990, 9・11から5年が経過 おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・
9・11同時テロから先日で丸5年が経った。 その日を境に世界が一変してしまった。 その認識度が、その人の時代感覚の度合いとみてよい。ユダヤ対アラブ戦争が発生、これが今後延々と続く 図式ができてしまった。アメリカはアフガンとイラクにアメリカが侵攻、政権を覆してしまった。 あの事件以来、国家としても個人としても弱肉強食がハッキリしてきた。 丁度その頃からインターネットが一般社会に根付いて、世界がさらにグローバル化した。 まだまだ、アメリカの時代は続くのだろう。石油と、世界通貨としてのドルと、圧倒的な軍事力と、英語が世界共通語が 歴然としてあるのだから・・たまたま未遂に終わったが、イギリスで大規模なテロ計画が直前で摘発された。 もし実行されたら、9・11に匹敵する大惨事になっていた。最近のアメリカのタイム誌の調査では、73%の人が 一年以内に米国でテロが起きる可能性があると考えているという。このテロをきっかけに、アメリカの大手の航空会社が 二社倒産した。 他人事ではない、ホテルの稼働率が9.11のテロを境に右下がりに転じ、それが現在でも続いている。 この事件を契機に何かが大きく変わったことは事実である。イスラム対ユダヤ・キリスト教の戦いが始まったのだ。 これは数十年、いや100年以上続くだろう。それに中国が絡むから、複雑な展開になってくる。その認識が一番ないのが、 島国の日本人だろう。グローバル化国際社会で、島国という閉鎖性は許されない。 おっもしろそうだから、イスラムでも入信してみよようか? ・・・・・・・・・ 2005年09月14日(水) 1625, 戦略的思考について−2
アインシュタインは、質問の力について、「もし自分が殺されそうになって、助かる方法を考えるのに 一時間だけ与えられるとしたら、最初の55分は適切な質問を探すのに費やすだろう」と述べている。 それだけ最適な質問には、莫大なエネルギーと力が秘められている。 その事態に対する『隠された質問』 を探しだしさえすれば、問題の殆どを解決したことになる。 それは思考についても同じことがいえる。 問答による思考発展として2500年前のギリシャで、ソクラテスの対話による教育手法が生まれた。 現在もソクラテスメソッドとして、主流の教育方法になっている。 18世紀にアメリカで大人数の教育が世界に伝わり、ソクラテスメソッドを破壊してしまった。 これは高等教育を普及させるのに役にたったが、個人の教育の立場ではギリシャ以前に立ち戻ってしまった。 その為に教育とは、生徒に情報ー知識を詰め込むことと考えてしまうようになったが、 教育という言葉の語源の『エデェカーレ』は、本来は‘引き出す’という意味がある。 古代から教育者が、生徒自身から持っている知覚や洞察力を引き出す方法で、ソクラテスによって名が 知れるようになったテクニックである。先生が鋭い質問を生徒に投げかけ、彼らの持っている知覚を試して、 説明するように仕掛けることである。これは闊達な対話を通して進められる教育形式である。 はじめに結論を言わないで、対話の中から結論を見出していく。 私が学生時代に武澤ゼミで訓練された「ケースメソッドーケーススタディ」は正にこれであった。 多彩な事例問題を毎週二回与えられ、それに対して先生とゼミ仲間同士が問答形式 (ソクラテスメソッド)で、ある結論に導いていく方法である。 与えられた(一枚の紙の)ケースに対して、はじめはアトラン. ダムに論じ合い、 最終的には全員で一定の結論を導くという方法である。 その効果は ・不確実性の内容の中で、的確な意思決定ができる ・自由な質問(ソクラテスメソッド)を使い、論理を引き出し問題を明確にしていくプロセスの学習 ・ロジック構築のプロセスの学習 である。 内容が「思考」に偏ってしまったが、戦略についてに戻そう。 戦略は鳥瞰としての絵図である。 その絵図の構図を練ることが戦略思考である。 それも地頭で考えることが戦略思考にとって最も要求される。 戦略とは、限られた資源を集中して最大の効率を図ること。 その為には、時流とその方向を見極めることが求められる。 わたしが最近ゲンキがないのは、デフレのすざましさを読み違えたことだ。 インフレ脳でしか考えてなかったことか!戦略思考など偉そうなことは書けない立場のはずだが! 冷静に鳥瞰しなくてはならない時期のおさらいである。
・・・・・・・・・ 2004年09月14日(火) 1260, 人生の基礎は10歳までに作られる!
人生は10歳での環境によって、ほぼ既に決まっている。中学校は選抜される前の最後の場である。 その時の成績が、その後の人生を殆んど決めてしまっている。以前にも書いたことがあるが、私の中学の同級では、 一番が慶応大学の教授、 二番が日本レコード協会の専務理事、 三番が自衛隊の幹部である。 反対に、成績が悪い方を見ると、具体的に??書かないほうが良い。それをより突き詰めてみると、 10歳の成績と環境まで遡ることができる。好奇心と向上心が潜在意識の中に如何育まれていたかである。 子供のころは「退屈をする時間」が有り余っていた。その時間の中ありあまる好奇心で大人の世界を見たり、 子供同士の世界の中で多くの試行錯誤を繰りかえしていた。初恋や、新しい遊びの発見、人間関係の駆け引き等々。 また大人の世界を子供の純粋な目でチャンと捉えていた。 ここで親が、その自由な時間を奪い取ったり、口出しをしたら、無気力な指示待ちの基礎が出来てしまう。 もう一つのチャンスは、大学時代である。 嫌になるほどの、自由な退屈な時間と、有り余った時間の中で、 自分の人生の「予行練習」と、「人生計画」を練り上げる。多くの分野の本を読んだり、多くの人と出会い議論するのは、 その知識を得る為である。クラブ、寮、ゼミの先輩、教授から、その準備期間に如何に多く教え頂くかで決まってくる。 その時に、如何に準備に集中したかで長い人生が決まってしまう。 「べき時に、べき事を、べくすべき」ということだ。10歳までは親の責任である。好奇心と、自主性と、 やる気を壊さないように導き出してやれるかだ。しかし,それだけでないのが人生だからこそ面白い。 反面教師として、それをのりこえる場合も往々にしてあるから。 いや無いか!
・・・・・・・・ 2003年09月14日(日) 893, 「バカの壁」ー読書日記−1
以前から気になっていた本だが、ついに買った。この人の本を多く読んでいたので立ち読み程度でよいと思っていた。 しかし金を出して、手にとって読むと真剣度と理解度が全く違う。人間は、本気になって知ったこと以外「バカの壁」 に囲まれている存在である。教養とはその「バカの壁」をいかに多く取り除いた状態の程度といってよい。 といってその壁は取り除けば取り除くほど、更に自分を取り囲んでいる多くの壁に気がつく。 この本では、「詳細を知らず、かつ知ろうともせずに上辺だけを見みて、わかっていると思いこんでしまう ことの恐ろしさ」を指摘している。「わかっている」という思い込みの怖さである。「人間は全てそんなものだが」 と書いた後、そこで「人間を解っているつもりの自分の壁」に気付いて驚くことが度々ある。 小さい世界から一歩も外に出たことのない住人は、この壁が頑強に取り囲んでいる世界が全てである。 その壁に囲まれている自覚すらないから更に恐ろしい。そういう壁が全ての人に存在している。 「知識と常識」「科学的事実と科学的推論」「意識と無意識」「脳と身体」「都会と田舎」等々は、 違うものであるという「二元論」の重要性を説いている。「ものごとには良い面と悪い面があるということを認識しよう。 それには実際に経験するのがいい」というのがテーマでもある。 一般に良いこととされる言葉-- たとえば「個性重視」,「効率化」,「景気回復」「人間性」なども,考えるとそうである。 「個性重視」...これは最近あまりいわなくなったが、我がままの人間とどこで線を引くのか 「効率化」..... 仲良しクラブも良いところがある?のではないか 「景気回復」... ハイパーインフレになっても良いから目先の阿波踊りが良いのかー景気回復が本当に良いのか 「人間性」..... いい訳に使う言葉に最適である 「物事は全面的に良いものではなく,良い面と悪い面があるものだ」と、「一元論」を否定し, 「二元論」を示唆している。 話せば分かる,という世の中にするためには,多くの人が「一元論」の考え 方から脱却し,「二元論」を受け入れることが必要としている。 以下は字数の関係でカット(2007年09月14日) −続く ・・・・・ 2002/09/14 眠れない夜に
眠れない夜にどういうわけか、こうすると不思議によく眠れる。 ・仰向けになり全身の力を抜く。 ・頭から額にかけて力を抜くー次に目とその奥、鼻と口、 首と肩、両手、両足と気持ちを その都度そこに集中して力を抜いていく。そうすると、自然に寝ていても何処かに力みが入っているのが分かる。 ・完全に力が抜けた状態で、一番楽しかったことを考える。私の場合海外旅行の大体3番目のあたりで睡眠に入る。 それでも眠れないで、過去に行った全ての「思い出し旅行」に3時間かけたことがあるが。それはそれで楽しい時間。 ・眠れないときは寝ようと考えず、眠れない状態で自然に任せることだ。 それでも眠れないのが不眠症だろうが。月に一度位は、夜半に目が覚め寝つけなかったりする。 でも苦にはならない。ポイントはマイナス思考の差し込む魔の時間にしないことだ。 これは注意していれば防げるのが不思議だ、訓練の結果だが。 ・羊の数を数えるとよいという説があるが、私の場合逆に疲れてしまう。 何かの本に面白い内容があった。 「アメリカの西部の砂漠の深い渓谷をイメージする。自分はインデアンのイメージで、騎兵隊の待ち受けている。 彼らは狭い渓谷に入ってきた。 その一人一人を狙い撃ちをする。一人一人が自分の銃で撃たれて死んでいく。 彼らはそれでも何処に潜んでいるのか、幾らでもいるのだ。それでも執拗に一人一人を撃ち続ける。眠りに入るまで。」 これをやるチャンスはまだないが、何か寝てしまいそうな感じだ。 寝付きのよいほうだが、不眠症の人の焦りも解る。不眠症の原因は、寝れない時間の過ごし方が下手ではないか? その時間を空想や過去の楽しい思い出を楽しめばと思うのも、当人でないからだ。
・・・・・・・・・ 2001/09/14 宗教戦争−3
[姉のメールに是非見てみろとホームページのアドレスが載ってました。 今回の事件の写真が載ってます。 http://www.tch.org/~russb/wtc/ ] 初めてエジプトに行った時の事を忘れられない。深夜にカイロに着き、ホテルで寝入った瞬間妙な音で目が覚めた。 丁度ラマダンの期間で早朝より街中コーランの祈りの声が流されるのだ。 何か異様な世界にきてしまったと感じた、強行軍で数時間の眠りの後直ぐ朝食。 レストランに行くと、ボーイ意がラマダンの為か苛苛していて皿を投げつけるように置くのだ。 バスに乗ったと同時に若い女性の日本の現地ガイドが曰く「この国に来たら、キリスト文明の感覚を全部すてて下さい。 ここはイスラムの世界ですから。腹を立てるだけ無駄な事、車に轢かれたら、轢かれたほうが悪いというのが この国の常識。私もこの国に来た初日にひき逃げを見て動転した。土産物屋やほぼ釣りは誤魔化す、 文句をいって取り返さない方が悪いという国ですから。はやく慣れてください。」なるほどとそこで身構えた。 しかし何回もそれをやられていると、怒りを抑えられなくなるほど露骨であった。 その中で逆に、いつの間にアメリカ文明にドップリ漬かっていることにきずいた。 ラマダンー断食ーの時期とはいえ街中、ある時間になるとあちこちで全員が頭をひれ伏している のは、日本人には全く考えられない姿であった。都合のいい事、悪い事総て‘アラーの神の 思し召し’それで済むのだ。全員でアラーといっていればそれは気分はいいだろう。 メッカでの数十万のイスラム教徒が一同に集まり祈る姿は、TVで見ても感激する。 それを信じて、共同意識で祈ったら恍惚になるだろう。このイスラムの神ラージXとユダヤとキリスト教の ラージXが同じだから始末が悪い。イスラエル人のラージXをマタイがローマ人や女性に解放してキリスト教をつくり、 マホメットがアラブ人に解放してイスラム教をつくった。ユダヤ教対アラブの戦いが旧約聖書(かなり大雑把だが) 新約聖書対コーランの闘いになったのだ。西欧社会の正義とアラブ社会の正義は全く違うのだ。 今まではイスラエル対アラブ諸国の図式が欧米対イスラムの闘いにに換ってくる (字数の関係上、カット08年09月14日)
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2009年09月13日(日)
* 小説の作り方
哲学研究者の、ブライアン・マギー著『哲学人』を、半年がかりで読んでいる。 なかなか難しいが、時どき解りやすい部分もある。分野の違う人の「小説の作り方」も、 小説作法の全くの素人からみると新鮮で解りやすい。 自分の欠けていた部分を満たす作業としての小説も、 読んでいる方も、書いている方も、リアルに感じるだろう。 自分の体験を補充するなら事実に近い 深みのある内容になって当然である。 まずは、その内容から〜 ーーー 《 私の希望は、相思相愛の果てしない追求だったが、そうした愛を経験したことは一度もなかった。 経験できなかった理由は、私が愛されなかったからではなく、愛さなかったからである。 行き場のない強烈な感情の内海は私のなかでせき止められ、誰かが愛してくれたときでさえ、表に現れることはかなわず、 自由に流れることもできなかった。そのため大きな不満が募り、激しい感情に支えられた衝動が蓄積され、 私はそのはけ口を求めた。 そこで思いついたのが、小説を書いてこの衝動をつぎこむことだった。 その小説のなかでは、大海のごとき感情があふれ出ると同時に癒され、私に欠けていたことが、ある意味で達成される。 それも想像のなかだけではなく、現実のもの、自分の外に存在するもののなかで、である。 私はこれを『ラブ.ストーリー』と名づけようと思った。 驚くべきことに、このタイトルはその時点では まだ使われたことがなく、少なくとも私の知りあいに過去の例を覚えている者はひとりもいなかったのである。 私の構想では、中心人物は最低でもふたり必要だった。 女と男がひとりずつ、これは当然である。 では、このふたりをどうするか? 単純に、彼らは恋愛中という設定にして、その愛を表現してみるのか? それだけを二、三百ページにわたって情熱的に語っていくのか? これをうまくやってのけることが想像できなかった わけではない。 私が、本来の私とは違う作家になれば、それも可能だったろう。 壮大な散文詩、淡々とした、それでいて、たゆまぬ愛の賛歌というわけである。ただし、作品自体がだれることなく 飛翔しつづけるためには、その勢いは単に力強いだけでなく、本質的に詩的でなければならない。 そしてこの場合、私の勢いに力はあるが、詩情はないとわかっていた。 この本の背後にある衝動は、何よりも まず心理的、感情的なものだった。 私が探していたのはリピドーのはけ口だったのである。 それに、私にとって自然なはけ口とは、叙情的であるよりむしろ劇的であるべきだろうと感じてもいた。 波乱に富んでいて、望むらくは力強いものでなければいけないのだと。 しかし、だとすれば本のなかで何か たいへんなことが起こらなくてはならない。 そして、このたいへんなことが本の内容に大きくかかわるのだとしたら、 恋愛関係に影響を及ぼすものでなければならないだろう。 さらに、それがささいなことでないとしたら、 重要なことでなくてはなるまい。いずれにしても、劇的な効果をあげるにはそうである必要がある。 考えれば考えるほど主人公たちの恋路を邪魔するもの、なんらかの障害でなければならないという思いが強くなっていった。 いわゆる三角関係についても、思いつくかぎりの可能性を検討してみた。だが、そのうちのどれかが読者の心を つかんだとしても、本来無条件であるはずの主感情に制限を設けることになってしまう。 それは避けたかったので、 別の登場入物を巻きこまずとも、彼らの恋愛にとって大きな現実の脅威となるものを考えてみた。 浮かんできたのは、重大な病気や事故というアイデアだった。 》 ーーー ここで、著者は「相思相愛」の経験が無かったと正直に告白している。 そのリピドーのはけ口を『ラブ・ストーリー』にしたのだと。 相思相愛?の恋愛結婚をした人は、 そのまま、脚色をすれば小説になる。 が、本当に面白いのは、著者の方だろう。 所詮は共同幻想、いや自己幻想、いや他幻想だから、『達成したことに何かを付け加えるより、達成できなかった 幻想の方が、むしろ新鮮味がある』と言える。 哲学人の書いた小説作用の切口もリアルである。
・・・・・・・・・ 2008年09月13日(土)
一昨日、「清水洋の経済セミナー・全3講ー有事に勝ち残る」を受講してきた。 4年前からのシリーズで、これで三回目である。30数名の参加者だが、行くたびに、講師の言うとおり、 経済が世界的にも国内的にも深刻度を増している。何時も暗い気持ちになって帰ってくる。 *印象に残っている順に書くと、 ・この5年間で、中小・個人を含めた30?の事業所が閉鎖。ここに来て更に悪化している。 (周りを見ていると、その通りになっている) ・ハイパーインフレは、もう間ちかに来ている。来年は食品がインフレになる。 5年〜10年先を想定して、金とか財政が優良な国家の債権などに、ヘッジをしておくこと。 国家破綻とは、ハイパーインフレになり、庶民の資産価値が激減すること。 ヘッジをしてあれば、六分の一になったら、逆に六倍の価値が上がることになる。 金は現在二千八百円だが、六千〜七千が目安だろう。他のヘッジとして、 カナダドルを持って、ケイマン諸島に預けておくとか、 ・不動産のビッグバンがおきている。地方銀行の隠れた不良債権が膨大にあり、これから表面化してくる。 ・変化は、ある日、一挙に起こる。 ・10年後のイメージとして、国家予算が370兆円、70兆円が国債の発行。(ハイパーインフレのため) ガソリン千円。 首都圏移転が本格化。 ・現在の夕張市の実情が、10年後の日本の姿。公共事業はゼロ。公務員の三分の一カット、給料の三分の一カット。 ・道州制は、早く導入されるだろう。そうしなければ、日本は持たない。官僚を解体するのに一番手っ取り早いからだ。 ・日本政府は、隠れ資産が膨大にある。まずは東京の霞ヶ関の土地と建物。 首都移転で、数百兆円など軽く捻出できるし、 ガソリン税などの特別目的税などの余剰の資金が国民の目から隠されている。 道路公団を民営化すれば膨大の株価から金が入るし、郵貯の株式も膨大な金額になる。 それもこれも、道州制と首都移転から派生する。 まだまだ、国家は多くを隠蔽している。 要は、これまでの固定観念を根本から変えること。グローバル、フラット化、情報が誰にでも手軽に入る時代になった。 それは根こそぎ社会を変えようとしている、ということ。 −−− 大まかに言えば、こんなものだ。 税務署が来て、明らかに理不尽なことをいう。 こと細かくメモを取っている。 もちろん、ここで後日に一連のヤリトリを公表するが、 彼らは、そういう官僚機構の末端である。 この国は狂っているとしか思えない。 取れる相手が3割しかないから、そこで理不尽なことをするしかない。 というより、世界的な混迷期に入ってしまったのだ。 知れば知るほど、この10年の変化が タダゴトではない。特に日本は一番マイナスに働くであろう。 明治維新の動乱など足元にも及ばない混乱が始ったのである。
・・・・・・・・・ 2007年09月13日(木) 2354, 閑話小題 ーギリシャ旅行より帰ってー 明日からギリシャ旅行についての感想を書くが、大まかの感想をそのまま書いてみる。 エーゲ海は想像していたとおり素晴らしい!エーゲ海ブルーとは成る程言いえて妙の言葉である。 旅行をして感じるのは、その対象の背後にある広大な景色である。ただ対象を見るのではなく、 それを支えている背景が対象を光らせている。ギリシャ本土は緑豊かな南欧?といった雰囲気であり、 トルコとイタリアに挟まれた微妙な立地がギリシャ文明の色合いをつくっている。 8千年から一万年前のあまり知られてない文明もあった。 ー安部辞任ー 18時過ぎに家に帰ってTVをつけると、阿部首相の辞任のニュースが流れてきた。 遅かれ早かれ辞任は避けられない事態であったが、最悪の時点の辞任である。 小泉・安部政権の末路ということか。 ここにいたって、小泉チルドレンが小泉の再登場を画策しているようだが、 数日以内に世論で潰されるのは目に見えている。それほど日本の世論は狂ってはいないし、それほど馬鹿なはずはない。 あのチルドレン達が滑稽というより、憐れに見えてくる。阿部は小泉の直後でなく、その次を狙うべき! という忠告を守らなかった。それが、この結果になったに過ぎない。アパの問題もそろそろ出てくるころだから、 これ以上は無理である。 既に小泉が潰してしまったのである。自民党を。 それにしても、今朝の新聞の安部に対する酷評は辛らつである。 ー朝青龍が帰国してなかったー 本場前の帰国条件でモンゴルに帰ったのに、やはり帰ってなかった。この本場所終了後に廃業の可能性が大きいのか? やはり新聞を見ていても彼のいない本場所はつまらない。でも無理だろう、出てきても誰も相手にしないからだ。 状況は、もう彼を受け入れる状態ではなくなっている。彼の精神が壊れたのではない、彼を受け入れる状況が 破壊されたのである。彼はそのことを知っているので、おかしくもなるのは当然である。 ー阪神が首位?− 帰りの飛行機の中で、新聞を見て驚いた。「阪神が首位」とあった。 でも、あとで新聞を読むと10日前は三位だったが2・5しか離れてなかったので 別に不思議ではない。 これで、面白くなってきたということか!
・・・・・・・・・ 2006年09月13日(水) 1989, 地元・中堅企業が二社倒産 (\ Y /)(\ Y /)オハヨウ! ♪ ー石橋組の倒産ー 一昨日の朝の新聞を見ると、柏崎のゼネコンの石橋組の倒産を報じていた。 公共事業の軸足をアパートの建売建設に移動しようとしていた矢先という。 新潟駅前に更地があるので、何回も営業から電話があった。「アパートを一括借りをするので建設をしないか?」 という話である。「この厳しい環境で20年~30年会社が存在するの?」とも聞けなかったが・・ 家内が柏崎出身ということもあり、石橋組のことはよく知っていた。 柏崎原発工事で潤っていた時期もあったようだ。60億の負債という。建設マフィアのシステムの崩壊で、 地方の公共事業で潤ってきた建設業は音を立てて崩壊を始めた。さらに公共事業が10年前に比べ60%も減ったというから、 よほど自力がないと生存できなくなってきた、ということ。 新潟県は、農業の自由化と重なって体力が激減している。 ーボン・オオハシの倒産ー 「字数の関係でカット09年9月13日」 ・・・・・・・・ 2005年09月13日(火) 1624, あるラーメン屋での、とある話
十年ほど前に家内が友人から聞いた内容だが、今でも鮮明に記憶している。どこでもあるような何げない話だが印象深い。 ー家内の友人がラーメン屋に入ってすぐに、貧乏学生風の男が一人入ってきて、ライスの大盛りだけを注文した。 ライスだけなので、すぐに運ばれてきた。すると、やおらラー油と醤油をライスの上に振りかけて無我夢中で 美味しそうに食べ始めたという。11そして食べ終えてお金を払って無言のまま出て行った。 その間、食堂にいた総ての人が一切食べていたものを口にせず、呆気にとられて見ていたというー たったこれだけの話だ。が、どういう訳か?その場面が目に浮かぶように憶えている。 さすがに学生時代に、その経験はなかったが。しかし何処でもありそうな内容である。 本人も、これだけ美味しいご飯は一生に一度?ではなかったのではないか。どんなご馳走より、美味かったはずだ! そういえば下の子供が、ご飯そのものが大好きで、新米の時期にオカズも無しに「美味い美味い!」 と食べていていたが。去年のこと、駅前でホームレスがベンチで駅弁を一人で食べていた。 その隣のベンチでひとり座っていたやはりホームレスが生唾を飲んで羨ましそうに見ていた。 それを横目に見ながらワザト勝ち誇ったように食べている姿が、人間の原点を見るようであった。
・・・・・・・・ 2004年09月13日(月) 1259, 「裏帳簿のススメ」ー読書日記 ー 岡本 吏郎 (著) 出版社: アスコム
この裏帳簿の意味は、けっして危ない脱税の裏帳簿ということでなく、 「役員賞与を目いっぱい取って、生活費の差額を別通帳にプールしておく、戦略的予備費のつくり方」、 要するに「副帳簿を作っておくべし!」という内容である。 我々中小企業の経営者は、こういう戦略的予備費を 持つという考え方は持っていないで、日々の資金繰りに追われているのが大部分である。 前書の「会社にお金が残らない本当の理由」では、 ・裏帳簿は絶対必要!その理由と作り方 ・決算書の数字はまったく意味がない理由 ・経営をするうえで知らない人が多い、たった一つの数字ー本当の数字 ・これに逆らったら、お金は貯まらない「ビジネス万有引力の法則」 ・間違った節約、正しい節約 ・会社が稼いだお金の本当の価値 ・資本主義の正体を知れば行動も変わる などを書いているが、 (字数の関係でカット2009年09月13日) ・・・・・・・・ 2003年09月13日(土) 892, 危険物取扱主任者講習会
先日の午前中「危険物取扱主任者」の3年に一度の法定で義務付けられた講習会に出席してきた。 主に、ガソリンスタンドやタンクローリーや、大型ビルや、ホテルなどの軽油や重油を扱う設備をおく事業所に 一人は必要な資格である。 この資格を取るには結構、試験が難しい? 一日4時間、2週間は集中しなくてはならない。 参考のために、宅建は夜間の講習会に5ヶ月通って、更に家で3時間平均 集中して勉強して、合否確率は50?である。 この講習会の参加は7回目になる。これに宅建の講習会が数年に一度あるから、大変といえば大変だ。 今回の場所は三条の地場産業振興会館であった。第三セクターの豪華な、しかし有っても無くてもどうでもよい箱物である。 5百人は入る大会議場で、空気と温度は最適に保たれていた。そのせいか、ほとんどの人が講師の話を真剣に聞いていた。 いつもは三分の一は寝ている人がいるのだが。帝国ホテルやパレスホテルの会場より快適なのだ。 こんなものは、新潟県に一つや二つでよいはずだ。どうなっているのか?これも補助金ばら撒きの箱物の典型だろう。 ホテルの場合は、全くといってよいほど注意することが無いので寝ていてよいのだが、 ガソリンスタンドの従事者の場合そうはいかない。何事もそうだが、関係ない話でも真剣に聞いていると結構面白い。 あれだけ硬い内容にかかわらずでだ。「何事も楽しんでやれ」と、思って聞いたからだろう。 危険物を扱っている事業所は年々減っているようだ。ガソリンスタンドの廃業が増えているためだ。 それに比べて事故は年々増えているという。何処も経費節減のため、人手が足りず事故につながっているという。 「何処も同じ秋の空」ということだ。 〜〜 硬い内容だったので、駄洒落を一つ ー空から鳥が落ちてきた・・・コトリ これじゃつまらないなら、私の創作連想駄洒落 ー空から人が落ちてきた ひとい つまらない?それじゃ ー空からストーカーが落ちてきた ー人〜か もっとつまらない? いい歳をして! 朝っぱらから
・・・・・・・ 2002年09月13日 勉強方ー速読法−2
10年近く前までは、構造やキーワードなど二の次にして、初めのページから読んでいた。 そして本は汚さないようにして、古本屋に売る気もないのに!本棚は途中で投げ出した本の山であった。 月に2〜3冊を買ってきて、半分ぐらい読んで投げ出し、ただ読んだという満足感で終わっていた。 読み返しも大してしなかった。 大きい転機は近くに地方にしては大型の図書館が出来たことだ。 読みたい本が山ほどあった。借りてきて少し読んで1〜2週間で返した。そして再び借りる。 通って借りているうちにとりあえず目次と前書き、後書きを読むようになった。 そして2年前より借りられる量が5冊から10冊に増えた。ポイントはギリギリ借りて、居間のTVの横に 積み上げておく事である。2年前に速読法に興味を持った、必然である。丁度図書館に5〜6冊あったのだ。 それが前回書いた概容である。10年前からみれば10倍以上の速度と量になっている。 随想日記を含めたホームページを開いてからは、書き出す量が10倍いや20倍以上になった。 やはり、第三者にさらけ出すということ大事だ。アウトプットがあればインプットの力も強くなる。 そういう意味で物書きは、長い時間の中で膨大の循環がなされている。 生活とプライドをかけて書いているから、当然に違うわけだ!インプットとアウトプット力は数十倍になった。 といっても、あくまで10年前の自分との比較だが、ブラックボックスとしての自身の処理能力の革新である。
・・・・ 2001/09/13 [143] 宗教戦争ー2
この事件はキューバ危機・ケネデ−暗殺・ソ連崩壊に位置ずけられるとんでもないテロである。 元大蔵省の榊原某と寺島実郎が言っていたのが一番本当だろう。 「恐慌とか株価が云云とかのレベルでない、とんでもない広がりの宗教戦争の本格的な始まりといってよい。」 世界中が今かたずをのんで、成り行きを見ている。株価の相場にしてみると、2000円の下げに値する出来事だ。 そうなると!もう違う頭の切り替えをしなくては。‘9月11日の前と後’というくらいの段差が出てくるだろう。 「彼らは世界恐慌を狙った!」と寺島実郎が言っていたが、戦略的に見るとふかい狙いだ。 我々の日常に関係ないといっていられない事態でもある。日本ももちろん巻き込まれるだろう。 ハイジャックの飛行機を4機同時に突っ込むなんて、考えられない事をするのが宗教の恐ろしさだ。 旧約聖書の世界に入りつつある。 「イスラム対ユダヤ・キリスト宗教の宗教戦争の参考の為、以前書いた文をコピーしていく」 ーーーーー ーH1105 イスラエル聖なる旅 この旅行は、四千年の旧約・新約聖書に出てくる歴史と出会う旅であった。 四国の面積とほぼ同じ中に、数えきれないほどのドラマがあった。 現地の日本人ガイドのシャワ−のような説明が新鮮かつ面白く驚きと感激の連続であった。 その為か帰ってきて、新約・旧約聖書をじっくり読む事ができた事が最大の成果となった。 関連を含めると十冊を前後二ヶ月たらずで読んでしまった。考えてみたら私の人生の転機の度に 必ず聖書か聖書関連の本があった。人生のもっと早い段階で、じっくり読むべきであった!。 旧約は先入観で固く難しそうであったが、読んでみれば何もむずかしくない、ただただ面白い!内容であった。 旧約はユダヤとユダヤ民族の歴史の書であった。また新約は出会い=イエスの心との出会いの書と言ってよかった。 印象の強い順に列記してみると、まずは何といってもエレサレムである。 イスラエルがそのまま凝縮されているといってよい。 四千年の昔から神の名と民族の誇りをかけ、 数え切れない戦いの舞台となった。そして現在も続いている。 この街を歩く事は世界の歴史の生き証人と出会い同行することかもしれない。 イエスが十字架を背負って歩いた悲しみの道=ヴィア・ドロロ−サ。 磔刑に処せられたゴルゴダの丘。最後の晩餐の部屋。イスラム教の重要な寺院=岩のド−ムとアクサ寺院。 (2008年09月13日字数の関係上カット) [1999.4.14〜4.24 -ryokou ]
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2009年09月12日(土)
以前から新入社員教育でST訓練を取り入れていた。 会話しか経験のない20歳前後の新人に、 基本としての対話を教えるもの。 この元となる書を四十年近く探していたが、先日、偶然ネットで見つけたのである。 「ダイアローグ 対立から共生へー議論から対話へ 」デヴィッド・ボーム (著), 金井真弓 (訳) ーである。 さっそく注文をしたが、前の会社を含めると30回前後の訓練をしてきた。 これは訓練をされる方より、指導するほうが勉強になる。 驚くのは若い人が、この訓練をすると見ちがえるほど変化する。 相手が何を言わんとしているかを把握して、今度は自分の考えを言葉にして相手に伝える基本中の基本である。 学生時代に武澤ゼミで一年間、15人位のグループでみっちり鍛えられ、更に金沢の新人教育で罵声の中で鍛えられた 経験から、見よう見まねで指導してきた。 そして30年近く、自分が一番得るところがあった。 相手の話の筋道を聞き取るのは当たり前と思うが、私の知るところ3割もいない?。 一度、自分の脳の中に言葉としてインプットして、こんどは相手に向けてアウトプットするのは、厳しい訓練か、 ハードな上司に鍛えられないと出来ないのだろうか? 哲学者の池田晶子が、その著書で 「対話とは、普遍の理性によって、個別の事柄について、その理非曲直を論じ合うことである。 それは相手が誰とかは関係なく、原則に貫かれるべきことである。」と述べている。 −そこでネット検索で「対話」を入れて調べてみるとー 対話(ダイアローグ)とは、「ダイア」(通る・流れる)と「ロゴス」(意味・言葉) を語源とするギリシャ語からきている。 そのため対話の基本姿勢としてつぎのようなことが大事となる。 ・徹底して言語化する。 言葉にして初めて存在する ・知識と経験を共有する。 言語化された意見・知識・経験は共有される (ただし、それ を持っているから優位な立場になるわけではない。言葉を個人から切り離すことが重要) ・「目的を持たずに話す」「一切の前提を排除する」など実践的なガイドを織り交ぜながら、チームや組織、 家庭や国家など、あらゆる共同体を協調に導く、奥深いコミュニケーションの技法。 ー以上だが、地頭が良いということは、自分の地言葉?(私の造語)を持って、真剣に現象と対話することである。 現象の背後にある構造を読み取ることである。これは難しいことだが、最後の最後は、これしかない。 それを対話の中から互いに引き出すのが目的である。 神との対話、本を通した著者との対話、 販売データーを通した顧客との対話、コンサルタントとの対話、知人との対話、等々、色いろある。 対話が出来ないじゃなくて、対話段差の違い? ということか? 人の話を聞こうとしない人、知ろうとも思わない人が多いが、それは「程度」ということ? この随想日記も、考えようによっては、対話をしているのだろう。 自分と、読んでくれている人と!
・・・・・・・・ 2717, iPhoneその後 2008年09月12日(金)
購入をして45日になる。自宅と会社の事務所の机に上には、オールイン型のiMacのパソコンが置いてある。 また、8GのiPodもあるので、必要ないといえば必要は無いのである。 しかし、新しいもの好きな者にとって、これは身近に手を取ってみたいもの。 実際、現在も携帯電話に戸惑っている。 もちろん携帯電話機能は、既存の方が使いやすい。 デジカメ機能もデジカメの方が良い。じゃあ、何が良いのか?といえば、 携帯電話と、デジカメの多くの機能が付いた小さいパソコンを腰ベルトに付けておくことが良いのである。 ただ、それだけ。 携帯電話のように、時間の経過とともに身体の一部になるのだろう。 マスコミでは、思ったより、これが売れてないといわれ始めた。しかし時間がかかるだろうが、これは売れる。 多くのメーカーが、携帯電話を、このカタチに近づけてくるだろう。 これはハシリのマシーンで、これを出発点として進化を始めるだろう。 この欠点を並び立てることは幾らでもできる。 ・何であるが、中途半端である。 ・電池が、みるみる減る。 ・携帯電話としてはでか過ぎる。 等々。 恐らく、私のように携帯電話を使いこなせなかった中高年が興味を持つだろう。 現在、何でいま一つヒットしないのは、女・子供に行き渡ってないからだ。 彼らは、あまりに現在の携帯に適応しているのである。で、お勧め出来るかって?と言われると、 私のように趣味として割り切ればよいが、携帯電話を使いこなしている人は、1〜2年は様子をみても良いんじゃないですか、 である。でも、昨日のように東京にセミナーに出席した時に、小さなパソコンが腰についていると 何か奇妙な感じのことは事実である。 未来が現出しているオモチャ、と思えばよい。 それでは、携帯電話に戻しますかというと、いや、これがよい、ということ。 それが現時点の感想である。 使い出した初めは、携帯電話の方で良かったのに! と思うだろう。
・・・・・・・・・・ 2007年09月12日(水) 2353.ベナレス・・・9
12、母なる河ガンジス 日本の文化や精神性を象徴するのが富士山であるとすれば、インドのそれは間違いなくガンジス河である。 ヒマーラヤの山間部ガンゴーツトリー氷河に源を持ち、勢いよく南下して平地に達成するかがわかる。 日本では英語のガンジスの名で親しまれているが、インドではガンガーと呼ばれ、女神そのものもと考えられている。 神話によれば、バギーラタという王が先祖の犯した罪を浄めるため、神々に懇願し苦行を重ねた結果、罪障を洗い浄める 力を持つたガンガー女神が天界から地上に流れ下つたのだとされる。 それ以来、ガンガーはあらゆる人びとの罪障を浄め、 より良い再生をかなえてくれる聖なる河として崇められるようになったという。ガンジス流域から離れた場所で 儀礼を行う際も、その土地の水を入れた壺にガンジスの聖水(ガンガー・ジヤル)を一滴でも注げは浄められるというほど、 この水は霊力を持つと信じられている。ヒンドゥー教徒はこの河で沐浴するときには母なるガンガーに身をゆだねる 安堵感にひたリ、また、死んだときには母に抱かれてヒマーラヤに帰っていくことを願って、ガンガー女神に篤い信仰を捧げる。 ーー 解)死体を流す川での沐浴。そして、その近くで骨の中から指輪などの貴金属を川の中からあさっている人たちの姿。 なんともいえない悠久の流れがそれらを全て包み込んでいるようであった。 インド、特にベナレスは一度日本人は行ってみるべきである。 死はサシたる事ではないと思えるようになるから・・ ーーー 13、大いなる火葬場 ベナレスには「大いなる火葬場」という別名がある。ヒンドゥー教では浄・不浄を厳しく峻別する観念を持っているので、 ほかの都市では火葬場は人の眼に触れない場所にあるのが普通だが、ここでは人びとのもっともよく集まるガンジスの 岸辺の二か所に火葬場がある。 市街の中心に近いマニカルニカー・ガートはそのうちの大きい方で、二十四時間火葬の煙が途絶えることがない。 ここに運ばれてきた死者は、まずシヴァ神を祀るターラケーシュワル寺院のリンガのそばに安置される。 死者の耳にシヴァ神がターラカ・マントラ(救済の真言)を囁くことで、生前いかなる大罪を犯した者でも解脱できるという。 死者がガンジスの水に浸され、火葬の薪の上に載せられると、喪主が火を付ける。 遺骨は火葬場の仕事をするカーストの人たちによってガンジス河に流される。 ちなみに、子供と出家遊行者は奈毘に付されず、石の重しをつけて河の深みに沈められる。 子供はまだ十分に人生を経験していないから、また出家遊行者はすでに人生を超越しているからだといわれる。 ヒンドウー教徒は墓を持たないが、命日などには祖霊供養を欠かさない。また、遺族が遠方から遺骨を拝参してガンジスに流し、 バラモンに供養の儀式をしてもらつている光景も眼にすることができる。 ーー 解)まあ、私も自分の骨をガンジスに流してもらう遺言でも書いておこうか? 面白いじゃないか、自分も聖なる川に流されると思えば! 変な輪廻に巻き込まれるか? いや、大丈夫である。 それにしても、火葬場の街とは、凄い世界である。この街と、ガンジス川の火葬場と日の出は、実際に見てみないと、 その神聖さと、そこに漂っている死の匂いはわからない。とにかく、ここは一度見ておいた方がよいところである。
・・・・・・・・・ 2006年9月12日 1988, デジタル一眼レフカメラ −2 (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ 今回、「初心者用のデジタル一眼レフ」を買うについて、色いろ調べたが、結論として、 ・キャノンのEOSKissデジタルNと、 ・ニコンD200と、 ・ソニーのα100と、 ・パナソニック一眼L-1ーLUMIX に絞られた。 何ということはない、「ヨドバシカメラの売れ筋コーナーのエンド」に並んである順である。 さらに値段と、メーカーと、売れ筋を、インターネットで調べた結果、最後の選択はソニーというブランドと、千二十画素と、 手ぶれ補正機能と、CCDにゴミがつきにくいアンチダスト機能など、全て採り入れてあったソニーのα100に決めた。 パソコンやTVなどソニーの商品を買ったときに、記億媒体やソフトの共用の可能性も判断材料であった。 「ソニーが、デジタル一眼レフに参入する為の機種が悪いわけがない。 私のお勧めはソニーです。 そして現在は当店で一番売れてます!」これが、ヨドバシカメラの担当のお勧めの殺し文句である。 今回のケニア旅行で使って後悔をしなかったのだから、良かったのだろう。 コンパクトデジタルなら買え替えも気楽にできるが、一眼レフは少なくとも10年は付き合わなくてはならない。 望遠や広角レンズを徐々に買い揃える?ことなど考えると、慎重になりざるをえない。 型落ちの4〜5万円の5〜6百万ガソの一眼レフとも考えたが、ローンにすることで、思い切ってこれにした。 いつも安いものを買ってしまって後悔しているので・・・ 最近、冷蔵庫、コンポのステレオ、このカメラにしろ、買い替えをする時に、「冷蔵庫として最後の買い物かもしれない」と、 その度に思うようになった。 そうみるとシビアな感覚になるが、60歳過ぎの心象であろう。 洗濯機と、電子レンジが寿命間近かだが、その時も同じことになる。そう思いながら楽しんでいるだけだが・・ しかし、やはり・・・ さむ~ ○=(≧Σ≦)へっくし ・・・・・・・・ 2005年09月12日(月) 1623, 自民党大勝
予測どおり自民党が歴史的大勝をした。 反面、民主党が惨敗である。 これで自民・公明で三分の二を占め、郵政改革案は確実に成立することになった。 自民党の郵政反対派が34人のうち18人も当選したのが意外である。三分の一になると思っていた。 綿貫と亀井が当選したのも、地方の民度の低さをそのまま現していた。 この二人は落とさなくてはならなかったが。 これで、参院が法案を否決をすると面白くなってくる。参院の存在そのものが、無用になっているのは誰の目にも明らか。 コントロール機関であるべき存在が、害悪そのものでしかない。二院制度は激変の時代には、時間がかかりすぎである。 何回もここで書いているが、郵便局の存在価値が全く無くなってしまった。それを国民が知っている。 宅配便と郵便局のバイクのオジサン、どちらが合理的で社会の役に立っているか、誰の目にも明らかである。 『くちなしの花』の、「ゆうびんや(指輪)も まわるほど、・・・」ではないが、もう歌謡曲の世界の存在でしかない。 歌謡曲は必要だが、郵便局は不要である。それを誰も声高々に言えないことが、この事態を生み出してしまった。 今回の判断は当然の結果である。思い切った国家リストラをしろ!という国民の声である。 ただ自民党の体質がそれを許すかどうかは、大いに疑問がある。小選挙区制度のあるべき選挙の姿が現れた選挙であった。 まさか、ここまで大勝するとは思っていなかった。二大政党から、自民圧倒の「一大政党」の時代になってしまった。 時代は大きく変わる。 ・・・・・・・・ 2004年09月12日(日) 1258, 人生のセイムスケールとは?
最近、個人のホームページが、注目を始めているという。趣味を写真や文章で、個人のホームページに表現し始めてきた。 このHPもそうだ。10年も経てば、(あくまでも私にとってだが)膨大な資料館になる。 自分の情報基地を個々人が持ち始めて、ここにきて時間と供にカタチになり始めてきた。 ネットウエーブをしていると、最近思わず唸るようなものに多く行き会う。ほぼ毎日、新聞の死亡欄を見ているが、 自分の年齢の前後から下を見て、その数を数えている。今日は一人もいないとか、5人とか。大体15?である。 歳を重ねると間違いなく、その比率がドンドンあがっていく。山田風太郎の『人間臨終図鑑』に、 年齢別に亡くなった有名人と行蔵が分類してある。山田風太郎が既に先陣をつけていたことを知らないで、 2001年7月9日から実行していた人がいた。途中で風太郎の『人間臨終図鑑』に気がついて、その時から勝手に 二代目・風太郎として、その遺志を継いで、その後、こつこつと書き溜めて1200人以上になろうとしている。 この人の趣味のようだが、そのプロセスで多くの人の行蔵と魂を知ることが可能になる。実際始めたら病みつきになるだろう。 サロンに、このホームページのアドレスをコピーしておきます。とにかく面白い。 自分と同じ年齢をクリックすると、その歳で亡くなった人が出てくる。何か自分が情けなくなる感が、しないでもないが。 この作業は、膨大な時間とエネルギーを使う作業だ。好きでないと出来ない。 この人の最後の文章がよい ー「大きな物語」の喪失した現在、「小さな物語」の集積とネットワークによる 「終わりのない人生の森の物語」は、どこへ向かうのだろうか。ボクにはわからない。 ただ言えることは、この「おつとめ」をするためにボクは今生きている。 ーセイムスケール(空間のセイムスケール) 建築の世界では、新しい建物を計画する際、よく知られた古今東西の建物の平面図や立面図を同じサイズ、スケール(縮尺) で並べて空間の大きさや高さ、・・・ (以下、字数制限のためカット 09年09月12日) http://www009.upp.so-net.ne.jp/artrandom/samescale/index.html
・・・・・・・・・・ 2003年09月12日(金) 891, 9・11に思う
アメリカの9.11テロから2年が経つ。この日を境に世界が変わった。アメリカにとって、テロとの全面戦争に入った。 無条件に「テロ容認国家とテロ集団を破綻させる戦い」に全てのエネルギーを注ぎ込む決意をしたのだ。 100年戦争の突入である。まずはアフガニスタン、そしてイラクである。 いまイラクの戦後処理に手こずっているというが、そんなもの当初からの予定の範囲でしかない。 次は北朝鮮、そして中国。ロシア?とは取引済みのことは当然。 表面はポーズで和平交渉をしているが、戦争をするための一里塚でしかない。 まずは、兵糧攻めを徹底的し、戦争をせざるを得ない状態まで追い込む。 そして、戦争は至極当然に始まるだろう。その間にある日本は一番の標的になることは間違いはない。 私の9.11の出来事があった。丁度その時、私が居間のTVの前でうたた寝をして、寝室に行こうと していた時であった。就職をしたばかりの下の子供が帰省中であった。 寝室のTVで二人はその事件があったことを知っていたが、居間で私とチェンジのタイミング、 歴史的事件と解っていながら無視をして黙っていた。寝室から開放されて、居間にきたのに今更呼ぶことがないと。 翌日、初めてその事件を知ったが、二人はそんなことは全く知らぬ顔。 たまに帰ってきた子供と家内に怒ることも出来ない。これが私の9.11であり、家内の私に対する可愛いテロ?である! テロの後の一ヶ月は、ライブで見たか見ないかが話題の中心であった。 ライブで見たという話を聞くたび腹がたった。多くの人が見ていたのには驚ろいた。 今でも9.11になると腹が立つ。 昨夜その話をすると、「『ありがとう』を回数いっている割に くだらない事に拘っているのね」と軽くいなされてしまった。 まあいいか。 --今日から、一年前と二年前の同日の随想日記をコピーします。 暇だったら、読んでください。 三年日記帳のつもりで読み返す習慣をつけるためです。
・・・・・・・・・・ 2002/09/12 勉強方ー速読法
昨年から今年の前半は、ホームページ立ち上げとその為のパソコンの勉強であった。 今年の前半からは、「読書法と文章作法を中心とした勉強法」に集中した。 特に読書法の方法論が目から鱗という内容が多く、じっくり 身に付けるというより、いろいろな方法論の知識に気がいった。 しかし読めば読むほど、それだけ吸収力が確実につく!更に集中力とポイントの把握が飛躍的に付いた。 空の上から下の動物の群れをみる鷲のような感覚が強くなった。 共通の内容は大体がこんなものだ まずは前書き、後書き、目次を集中して読んで骨格を把握。−これは10年以上前から実施していたが。 ・キーワードをさがす。 ・図や箇条書きや太字のところを読む。 ・それが終わったら最後の章からポイントを探しながら、一とおり流し読みをする。 ・常に目次をベース基地にして各論を読む。 ・旅としての読書か、旅行としての読書かハッキリ分ける。 (読書そのものを楽しむのかーA、 知識を多く得たいのかーB) 両者の速読の仕方がまったく違う。前者ープロセスを楽しむにも早読法がある。 次がこの1年間に仕入れたポイントである ・目をスキャンに例えて、 一ページをなぞる、そして半ページをなぞる、 4~5行の段落でなぞってから2~3行ずつ飛ばし読みをする。ーー A、B両方可能 ・とにかくページをパラパラと何回も目を通す。 ーーB 目から脳に多くの情報が無意識で取り込まれるという。 ・間違っても、初めから終わりまでまともに読もうとしない。 ・段落の初めの2~3行を読んだあとは、流し読みをする。 ー大体が10~20行で段落になっており、一目で塊りは分かる。 その一割の2〜3行に大部分の情報が載っていることが多い。−−B 自分で発見した方法は ・折込をいれる。ー前書き、目次、後書き、項目、図、まとめ箇条書きに。大項目ほど折込を大きくする。 ・マーカーを引くより、ポストイットを縦に半分にきり、その部分の上に 貼り込む。 ・とにかく繰り返して読む。 一冊に重要なポイントは少ないと 割り切ってしまう。 −本より3~4つの最重要の部分のつまみ食いで十分と割り切る。 実際のところ本はまだまだ情報化とはいえ、まだまだ一番の情報の宝庫だ。 また合理的手段である。
・・・・・・ 2001/09/12 [142] 宗教戦争
今朝おきて初めてアメリカのテロのニュースを知る。 ・株を持っていなくってよかった! ・次に全面宗教戦争の可能性! ・そして恐慌の引き金にならなければよいが! まずそう思った。 3日前の日曜日TV映画で、イスラム系アラブ人によるニューヨークのある地区の無差別テロの 「マーシャル・ロー」というのを見たばかり。 さすがアメリカ映画と思ってみていた。 それは劇場公共の場を狙った無差別テロで、今回のテロに酷似していた。かなり迫力のある内容であった。 その桁違いの内容が現実に起きようとは思っていなかった。 21C最大のニュースと解説が言っていた。 厳重な警戒態勢の中で行われたのが重大だ。 今日から、戦争・恐慌も含め何が起こっても不思議でない。 数万でなく、数百万単位の死者の起きる戦争になる可能性がある。 恐ろしい事件だ。
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2009年09月11日(金)
我われは家と職場だけでは息がつけないので、行きつけの居酒屋やスナックをつくり、学生時代の校友会や、 気の合った飲み友達の会などの自分の世界を広げる。その他にもスポーツクラブやゴルフの会にも参加したりする。 それがレイ・オルデンバーグがいう「サードプレイス(第三の場所)」である。 「サードプレイス」とは 家(必要不可欠な第一の場所)と 職場(必要不可欠な第二の場所)に加え、 都市に暮らす人々にとっての「必要不可欠な第三の場所」を意味する。 オルデンバーグは「サードプレイス」の代表例として、 イギリスのパブ、フランスのカフェ等を挙げ、それらが自由でリラックスした雰囲気の対話を促進し、都市生活における良好な 人間関係を産み出す重要な空間であるとする。 その特徴を「インフォーマルでパブリックな営み」を促進する場としている。 インフォーマルとは社会的立場を脇に置くことであり、パブリックとは仲間がいて協調する場をいう。 第三の場は、年齢とか趣味で個々の組み合わせが変わってくる。 私のベースは、居酒屋・スナック+秘・異郷旅行+図書館・読書+早朝のウォーキング+新幹線通勤の車中などである。 誰もそうだろうが、私も学生時代から現在まで、第三の場所を直ぐに創る習性があった。 家が商売をしていて 大家族だったこともあり、自分の世界を創るしかなかったのである。但し中・高校時は、その余裕は全く無かったが、 その分、大学時代に一挙に爆発したようだ。 ところで8年前にパソコンを始めて、HPを開いてからネットが 第三の場所の一つに加えられた。 もしかしたら第四の場所? いや、第三の場所か??。 サルトルは、その一つとしてパリのカフェの一角で多くの友人とサークルを作り、オープンな議論をした。 そうこう考えていたら、人生でみると学生時代が第三の場所だったような気がする。 第一の場が両親の影響下の家庭、第二の場が自立後、そして第三の場が中間の学生時代である。 だから現在でも学生時代の友人と会いたくなるのである。 学生という身分でスポーツやゼミなどで日本中から集まった人たちと、酒を飲み、議論をし、旅行などをした。 第三の場所に父親に頭を押さえつけられた二世・三世が逃避しているケースが多く見られる。青年会議所、ライオンズなどである。 こういう時期に人間関係を形成する機会という見方もあるから否定は出来ないが、要は第一・第二・第三のバランス。 場所といえば、時間にも「第三の時間」という言葉が成り立つ。「第三の場所で過ごす時間」である。 時間と空間と具体的な内容ーTPOの問題と、それを受け止める心(立場)の問題が出てくる。 で、「第四の場所」を想定すると? 「絶対孤独の場」それとも「何かに夢中になっている場」か「忘我の読書」?
・・・・・・・・・ 2716, 東京について 2008年09月11日(木)
家内は東京大好き人間。 私は好きではないが、少なくとも住みたいとは思わない。 大都会は確かに情報が集まり、面白いかもしれないが、何か豊かさの方向を間違ってしまったように思える。 私は日本の中央の東京の反対側の日本海の都市で、職は新潟市、住いが長岡市である。 のんびりしているが四季の変化が激しく、地方特有の時間がユックリ流れている。そこには色いろな人生を、 活き活きと生きている人が多い。また夜になれば、そそくさと家に帰り、家人とノンビリと過ごせる。 私が千葉で事業を始めて二年後、家の事情で実家のある長岡に帰ろうと決意した時のこと、 仕事上で知り合った友人がいった一言「何で、その歳で都落ちをするの?」である。 その人は、やはり私の故郷の近くの出身者である。 Uターンを都落ちという言葉に驚いた。 あの雑踏の、ビルや車だらけの無機物の塊の、何処がよいのか? という見方は地方から見た感想になる。 それぞれの生きてきた過程もあるから一概には±を軽々しくは言えないが。長男が、半年前に帰省してきて最近勤め始めた。 そして、Uターンの人を評して曰く、「あの人は○○という会社の落ち武者」 自分を落ち武者と思っているから、 いうのだろうが、落ち武者とはそれなりの仕事を成し遂げた武士だろう?と。都会礼賛が何処かにあるからだろう。 確かに、お金と能力があり、長年住み慣れれば、大都会も良いのかもしれない。学生時代を含めると首都圏に8年居たが、 都会だから良いというより、青年期に都会に居たのが良かっただけ。石原慎太郎がオリンピックを東京へ、 とバカみたいなことを言い始めた。選挙対策上言っているのだろうが、あまり賛同できない。 これ以上、東京を酷くするつもりか?である。 それより誘致されることはないだろうが。 20年近く前に、リクルートの企画で、Uターン、Iターン希望者の集団会場で面接をしたことがあった。 もう十数年間、羽田にラッシュアワーの中を通っているが、人間的な営みはゼロ。 とにかく、この無機質の生活から抜け出したい」代々木の駅周辺で生まれ育って大学の職員をしているが、 この小さな世界から抜け出したい。この息苦しさは地方の人にはわからないだろう」等々・・・ 東京都内と東北六県の人口が同じという。どちらに住みやすいか、ジックリと目をすえれば分かるだろう。 都会にいると、それが分からなくなるのだろう。 といってノンビリし過ぎるのも刺激が無さ過ぎるが。 この歳になり、自分の人生で何が最も恵まれていたのだろうかと、振り返ることが多くなった。 そして結論は、ゆっくり流れている時間と、大らかな自然環境(食べ物も含め)と、情緒豊かな人間である。 海外の旅行先で、ある都会(名古屋)の中年に差し掛かった女性が不思議そうな顔をして 「新潟で、何を楽しみに生きているの?」と言われたことがある。恐らく、自分の世界以外の想像がつかないのである。 「私などツアーだけで、???万使い、飲み代は、それ以上。近くには何箇所も桜の名所もあるし、毎週末にはな〜 何処かのスナックで遊び呆けている。自分の創った会社に行けばな〜難しそうな顔をしてな〜、判子を押して帰ってくるし、 子供は二人いてな〜東京で働いているし〜、 痴呆症にかかった母親を5年半もみてな〜、その母が亡くなった後に 何処にもある財産のことでトラブルになってね〜。 小学校、中学校、高校の同級会はな、年に三度もあってね〜、 HPを持っていてな〜、・・・」って言うわけにもいかず、逆に「本当に退屈で退屈で、困ったものです」 と、同調してしまった。いずくも住めば都ということ! どの世界にも勝手に地獄を作っているのがいるが。
・・・・・・・・・・ 2007年09月11日(火) 2352.ベナレス・・・8 6、輪廻と解脱の思想
輪廻と解脱という考えは、ウパニシヤッド聖典(奥義書)の中に最初に現れた思想である。 過去の善悪の業(もともとの意味は行為)が現在の果報を生じ、現在の業が未来の果報を招くというように、 われわれの生死は繰り返し続いていく。古代の思想家の大半は、このような輪廻の世界に存在すること自体を 苦であると考え、いかにして輪廻の束縛から解放されるか、すなわち解脱できるかを最大の問題とした。 彼らにとつて解脱とは、自我の本質とされるアートマン(我)が宇宙を成り立たせている 根本原理、すなわち万有に遍在する力であるブラフマン(梵)に合一することである。 しかし、庶民一般にとつてはこのような思想はいささか難しく、普通は死後天界におもむくことと考えられている。 現在の生が過去の生の結果であるという考え方は一見宿命論的に思えるが、輪廻の大海で生死を繰り返すのも、 またその連鎖を断ち切つて解脱を獲得するのもすべては自己の行為にもとついている。 いわば執看を離れた努力主義精進主義こそが、ヒンドゥー教徒にとっての理想的な行動原理となつている。 解脱は日々の正しい行いの蓄積によつてこそ達成さる。 ーー 輪廻と解脱。まあ、解りやすい因果応報の内容である。この位の制約をつけておかないと、 征服者の支配はインド大陸の中では不可能なのだろう。宗教による縛りとは考えたものである。 これで3000年支配してきたのだから、奇跡といえば奇跡である。
・・・・・・・ 2006年09月11日(月) 1987, デジタル一眼レフカメラ−1 おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・ ー字数制限のためカット09年09月11日ー ・・・・・・・・ 2005年09月11日(日) 1622, 戦略的思考について
「戦略」については、書いたことがあったが・・。不況の真っ只中に、それに対して戦略的な手をうってきたのか というと、問題がある現在?あまり偉そうなことも書けないが。まあ、いいだろう!理屈は理屈である。 戦略的思考とは、「自分に対する質問と、その答え」であり、その飽くなき繰り返しの中での練り上げのプロセスをいう。 質問に、その大きな要素が含まれている。 ー私の手帳に「戦略的質問」がポストイットに書いて貼ってある。(どの本から書き抜いたか憶えていないがドラッガー?) ・現在おかれている事態は何だろうか? -What ・それは何故そうなったのですか? −Why ・現在うっている手は、本当によいのだろうか? ・そのためには何故を何回質問しましたか? ー最低5回繰り返しまたか? ・それは、『自分の強み』を生かしたものですか? −その自分の強みとは何ですか? ・今後、どうなっていくのですか? 以上であるが、なかなか良い含蓄のある内容である。貼ってから、自分で自問自答したかといえば、ほぼしていないが。 「自分のおかれている事態は何だろう?」という質問を考えてみると、全てに、根本問題が噴出してくる。 この歳になれば、誰も似たりよったりだろうが。そして、この問題の答えがそう簡単に見つかるわけがない。 問題に対して『正中心一点無』なって自問自答を、し続けるしかない。 ーつづく 以前書いた『戦略について』をコピーしておきます。 ーーー 「戦略について 」 ー少し難しい問題を定義してみる しかし一番大事な問題である。 ・時代の流れを認識して ・限定された資源を ・自己の強みを認識して ・集中して投下を決めるー選択 その為に ・戦略を良質な情報に触れて、じっくり考える事。 決済、権限を委譲する事。 ・戦略を考える基本は他人と違う事,自己の強みに集中する事。。 ・旧習を壊す事 ・戦略を考えることに集中する事。 ・ひたすら、1人で考える事。 戦略とは −キーワード ・長期的ー継続し続ける ・革新的−革新の継続 ・集中的ー革新ポイントへ集中し ・統合的ー集中のために要素を揃える ペガサスクラブの4C主義も同じ チャンス ー機会の開発 チャレンジ ー挑戦 コンペテテーションー闘い チェンジ −変化し続ける その為には 4S主義をとる スペシャリゼーション −特殊化 シンプリフィケーション −単純化 スタンダデゼーション ー標準化 セグメンテーション ー限定化 人生もまったく同じである。 ・自分の持っている材料から、自分の課題とチャンスをさがす。 ・その中から課題と最重要な重点課題を見つける ・そこより戦略を構築ー自動的に戦術を具体的に見つける ・実施をするー習慣化をする。 ・継続して執拗に この結果がライフワークの構築となる。 今朝家内から聞いた話、 −自分の知人の知り合いが定年になり、家にいるが何もしないという。 犬の散歩とTVゲーム以外に。 私の答えーその人実は何もできないんじゃないか? 家内ー実は私も同じ意見なの。私ー指示待ちで、誰も指示してくれないだけじゃないか? 私ならー年単位、月単位、週単位、日単位で日程を立てる。中心は週単位を最重要にする。 その計画に考えて考えて考え抜く。これが戦略である。その為に本屋と図書館に通う。 時には東京の神田の本屋を回る。そしてパソコン教室に行き、インターネットのやり方と ホームページの作り方を勉強する。幾らでもあるが。まあいいか、人は人の生き方があるだろうから。 理屈の割りに大した人生でなかった?そういえばそうだ!
・・・・・・・ 2004年09月11日(土) 1257, オーストリア旅行記ー4
ーパプスブルク家の人たちのことを書いてみる。 パプルブルク家は、オーストリアを統治した640年の間、多くの人たちで 時代時代を彩った。日本の徳川幕府の二倍の間、よく続いたものだ。 主な名前をあげてみると ・パプスブルク家の基礎を固めた「ルドルフ1世」−13世紀 ・プラハの王城で閉塞して芸術を愛でた「ルドルフ2世」−16世紀半ば ・近代オーストリアの基礎を作った辣腕女帝の「マリア・テレジア」−18世半ば ・実質最後の皇帝「フランツ・ヨーゼフ1世」 ・ヨーゼフ皇帝の皇后で、悲劇と美貌の伝説をうんだ「エリザベート」 などをあげる事ができるが、 マリー・アントワネットの母のマリア・テレジアと、エリザベートをあげてみる。 ーまずは、エリーザ・べト。 19世紀の欧州で最も美しいと称えられ、「シシィ」の愛称でも知られた。 彼女のことをロシアの提督は「すべての士官は老いも若きも皆、エリザベートに恋をしてしまった。 比類なき美しさと、近寄りがたい品格を持ち、いかなる時も皇妃としての威厳を備えている」と述べたという。 彼女はたとえ礼儀作法を習わなくとも、品格を生まれつきもっていた。 エリーザ・ベトは子供の頃から、芸術に関心を持ち、絵画や語学、作詞などに才能をしめした。 しかし誰もが羨むような皇妃として生活は、幸せではなかった。愛する子供達は、生まれると同時に姑である 大公妃ゾフィに取りあがられ、一日に一時間、監視付にしか会わせてもらえなかった。 そして、その姑の溝はますます大きくなり、自分の中に閉じこもるようになり、乗馬や作詞などにのめり込んでいった。 その中で、彼女がとりわけ愛したのは旅であった。彼女は自分の美をも深く愛し時には栄養失調になるほど食事制限をした。 そのような生活の中に、突然不幸がおこった。息子の皇太子のルドルフが若き男爵令嬢と心中事件をおこして、 自らの命を絶ってしまった。この時から、彼女は公式の時だけでなく、常に喪服を着るようになる。 そして、あてども無い旅がより頻繁になる。しかし62歳になった年に、彼女はあっさり暗殺されて劇的な生涯が 閉じられてしまう。王宮には二人のヨーゼフ1世とエリザベートの肖像画が大サロンに飾られてあった。 そこは、永遠な二人の魂が漂っているようであった。
・・・・・・・ 2003年09月11日(木) 890, バックナンバー 4
最近の傾向として、読書日記と映画日記が多く占めるようになっている。 ネタがなくなると、図書館や本屋で「何か読書日記として書くに適当な本」を探している自分に気が付くことが度々。 一瞬で消え去る考えや気持ちを( ..)φメモにする習慣を身に付けた効果も大きい。 旅行先で撮る写真に似ている。またバックナンバーのテーマを見ているだけで、内容の80?を思い出す。 ー字数制限のためカット09年09月11日ー ・・・・・・・ 2002年09月11日(水) 516,デフレと流通大乱
夏季の土日・祭日の午後の散歩はダイエーに行く。店内を3〜40分歩いて帰ってくると、1時間の散歩コースに丁度よい。 クーラーもきいているし面白いし。それにしてもお客が少ない。商品はそんなに悪くはない。 ただこれはという商品はヨーカ堂と比べると少ない。ニーズ商品は悪くはないが、ホット商品が少ない。 でも安いし、面白い事は確かだ。家内もダイエーとヨーカ堂と専門店の特売を使い分けている。 それにしても消費物価が信じられないくらい安いのに驚く。300円、500円クラスで面白いぐらい良い商品がある。 これでは洗濯屋が悪くなるはずである、洗濯代の方が高くつくのだ。 誰もわかっていることだ。 「バーミアン」というスカイラークが展開を始めた中華料理屋も、ここに来てやっと本物になり始めてきた。 イタリヤ料理の「サエゼリア」の価値に近づいている。 とにかく安い、味はまあまあだが価値は充分感じる。 チェーン店評論家?として、この2つと、マクドナルド、家具のニトリ、ユニクロ、無印良品、100円ショップ、 しまむら、吉野屋、居酒屋の一部に、日本にも本物が出始めてきた。デフレに強い業態で、 ロアーポピュラープライス専門店グループだ。それにしても大手GMSのチェーンの盛衰が凄い。 ・西武流通、ダイエーグループの実質解体。 ・長崎屋、マイカルーニチイ、ヤオハン、九州最大の寿やの倒産。 ・百貨店だが,そごうの倒産。 総合店が苦戦している構造になっている。本来GMS(ゼネラル・マーチャンダイジング・ストア) は専門部門を束ねたものであるはずだが、組織がそれについていけないのだろう。 アメリカでは、10年前の雄であったK−マートが倒産。今はウオールマートの時代だ。西武流通グループから 西友を買い取って日本に乗り込んでくる。ジャスコとイトーヨーカ堂が合併しても太刀打ちできない相手だ。 ジャスコは、この3年間荒利をこのままにして人件費を20?減らすという。 正社員は3年間殆んど入れないという。それも可能かどうか???実際は不可のはずだが?? ところが下げたとしても、20?以上人件費の比率がウォールマートより高いという。 創業者の元会長が「あと3年で準備ができないときはジャスコも危ない」と、警告を発している。 流通は渦中でなく、横でウオッチングしていると面白いが、渦中で働く人は阿修羅の世界だろう。 デフレが更にこれに拍車をかけているからだ。 時代の変わり目だ!!
・・・・・・・・ 2001年09月11日(火) [141] (日本的)カースト制度−3
まず地方のカースト制をさらに書く! 地方の平均的なプチブルをみてみると、資産が大体5億が目安。 老舗が10億が上クラスの老舗企業。個人の年収が2000〜3000万。会社も3000〜一億あたり。 この辺りが地方カーストの上部になる。それも7〜8年つづけているかが基準となるそこに地銀の頭取を 頂点としているのが面白い。お医者さんに、坊主に校長先生。会計士に弁護士、後はどうでもいい。 母が面白い話を聞いた。嫁に来た時に父に聞いたそうだ。母「この家は金持ちなの?」 父「う〜ん’7万ある。」 その時代の長岡の基準で5万が金持ちだったそうだ。72年前の話だ。1万倍か5000倍かというところか。 そうするとやはりそんなとこか。話を元に戻す。日本の官僚とその体制の官僚社会主義者の崩壊の話。 その大本が大蔵省、その次が外務省その次が通産とか。大蔵官僚が今までの日本的社会主義体制の大要。 先日書いた長期国策銀行ー日本勧業銀行、潰れた長期信用銀行を頂点とした銀行ピラミッドができている。 都銀、地方銀行、第二地銀、あとは信金ーとつずく。テリー伊藤が革命的な本書いた。 「大蔵に検察は手を入れることができない。予算を減らされるから。」検察はカースト制度を当然と信じていた。 しかしよくみたら犯罪の巣窟であった。それが先年のの大蔵官僚の大量逮捕になった。 そして今外務官僚に対象が移った。ほとんどが内部告発である。さすが外務、キャリアは捕まってない。 いまは情報機器が発達している。精巧なカメラやパソコンで直ぐに検察マスコミに送られてしまう。 ソ連の社会主義崩壊と一緒だ。あれは情報手段を一般大衆が手に入れたため始まった。 これからますます混乱は当分続く。
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2009年09月10日(木)
一昨日、従姉妹の通夜に参列をしてきた。 地元の米屋に嫁に行ったが、小姑が多くいて難儀をしていると聞いていた。 「この世に、今時にこんな厳しい嫁の環境があるのだろうか」と思われるほどの重荷を背負っていたようだ。 その10日ほど前に、長岡のグリーン・ホテルの先代社長が先月27日に亡くなったと死亡広告にあった。 一度、当方の事務所に来たことがあったが、創業時にホテル業についての話を聞きに行った事があった。 暗い顔をした気難しそうな人だった。 「自分の兄弟二人が、新潟駅前でホテルをしているのを知らないね」と言われ、 それさえ知らない無知を恥じた記憶がある。 三条、柏崎、長岡三棟、東京の上野近くで6棟を建て、 子供たちに一棟ずつ与えるのが夢だったというから、それはそれで・・。 ところで、身近な知り合いと、第三者の中間の立ち位置の「二・五人称の人」が死を考えるに最適という。 第三者と第二者=知人と中間の立場の立場の死から多くのことが見えてくる。知っている程度の人である。 「死ぬ=無になる」、という論理の矛盾(無になる〜無には成りようがないー無いものに何故なる?)という 池田晶子の言葉の通りに、死という言葉のイメージが刷り込まれる立ち位置にあるのが2・5人称の人である。 10歳の頃、親戚の葬式に親と出席した時に思ったことがある。 「何で、人は周囲の眼を気にして好き放題生きないのだろうか?」と。 子供ながら凄い疑問を持ったのである。 そのうちに、その疑問を忘れてしまったが、次の疑問は父親の死に接した時である。 死の瀬戸際から、逆に「生きる輝き」を逆噴射して見つめた視点である。 死に際で、「あと、せめて三年、生きたい」という生への渇望の言葉を聞いた。それが日々強くなっていった。 その時に「人間は生きているそのことだけでベストである」ことを肌で感じ取った。 そのためか、父親が亡くなってから全く人生観が変わってしまった。「一日一日を生ききること」が 人生から与えられた責務と思うようになった。 知人の死だけでなく、身近な人の死も多く教えてくれる。 生老病死 苦集滅道 とは よくいったものだ。 般若心経をパソコン画面に貼り付けておこうか!
・・・・・・・・・・ 2715, 「要素還元論」と「二元論」 2008年09月10日(水)
島田雅彦・対談集「無敵の一般教養」の松井孝典の対談で 松井孝典が、考える方法として「要素還元論」と「二元論」を解りやすく手短にまとめていた。 ーまずは、その箇所である。 〜〜 【物事を深く理解しようと思うと、考える枠組みをよりシャープに細かくとっていかないと、 解くべき問題を設定することすらできない。 それがわれわれの脳の仕組みと合っているのかもしれない。 だから、時代とともに、より細かく対象を分け、より細かい領域で物事を明らかにしてきた。 それが要素還元論です。 しかも自然と人間とを分ける。考える主体と認識される客体を、とりあえず分けなければ思考はスタートしないわけで、 それが二元論でしょう。 現代を生きる人は、これまでの教育でそれを徹底的にたたきこまれているわけ。 「わかる」とは何なのかについて、それ以外の「わかる」ということは考えられないわけです。 ぼくは今、地球学とかアストロバイオロジーとかで、二元論と要素還元主義の枠を超えて、 昔のようにとりあえず現代の知の体系のすべてを認識しましょうということを主張しています。 何か新しい方法論が出てこないと、「生命の起源と進化」という問題は解けないと思うからです。 そういう過激な認識を持っているわけです。 とりあえず、二元論と要素還元主義に対抗する方法論として、 「システムと歴史」という見方で、もう一回すべてを見直そうとしています。 宇宙も地球も生命も人類も文明も全部一緒に論じようとしています。 数学は言葉です。経験しない現象を語れることばが数学なんです。宇宙の始まりは過去のことで我々は経験しえない。 そういう現象を語るためには数学以外に語ることばがない。いわゆる言語はすべて経験によって意味が裏付けられている。 そういう種類の以外のことばを持たない限り語れないでしょう。】 〜〜以上である。 なるほど、こういう思考の捉え方があるのには驚いた。 「帰納法、演繹法」発想法として「KJ法」、「テーゼ、アンチ・テーゼ、ジンテーゼ」とか、 情報収集の中での発火(発想)方式などあるが、「要素還元法」「二元法」も、上記の中でしていたことである。 この年齢になって初めて初歩的な知識を得ることの、何か恥ずかしいような、無知の再確認をさせられているようである。 それに加えて、松井教授は、「システムと歴史」という考え方を提示している。これは宇宙、地球システム、人間の歴史、 個人の歴史、全てに当てはめて考えることができる。要素還元法、二元法の限界を、一度「システムと歴史」という 視座に入れて考えると、限界を超えることができるという。「システムと歴史」の意味が理解できなかったが、 人間の歴史、個人の歴史に置き換えて考えてみたら理解できた。「システムと、これまでの始まりとプロセス」ということ。 「数学は言葉です。経験しない現象を語れることばが数学なんです。宇宙の始まりは過去のことで我々は経験しえない。 そういう現象を語るためには数学以外に語ることばがない。いわゆる言語はすべて経験によって意味が裏付けられている。 そういう種類の以外のことばを持たない限り語れないでしょう」など、非常に新鮮に驚かされたことばである。 そうこう考えると、中学校時代の教科書の内容は、全ての基礎であった。 昨日、図書館で「やりなおし教養講座」-村上陽一郎著 を借りてきた。学校を卒業して、平均2〜3時間は、 本を読んできたが、これで、この様だ。カントがいうに、「犬は犬の理解しか出来ないように、 人間も人間レベルしか理解できない」 というと、私は私レベルしか、理解できない!ということ。 悲しいかな・・・やはり、よい大学に入り、よい会社、機関に入り、レベルの高い人に接し続けないと、駄目?か。 本が呼びかけてきても、気づかないのも、そういうこと? 今更か〜 ・・・・・・・・ 2007年09月10日 べナレスー7
3、 多くの化身を持つヴィシュヌ神 インドには石造りの壮大な寺院から路傍の祠にいたるまで、様々な神様が祀られている。 それらの中で現在最も信仰を集めているのが、ヴィシュヌ神とシヴァ神である。 (字数の関係でカット08年09月10日) ーーー 解)ユダヤ教とキリスト教の関係と、ヒンドゥー教の関係が似ている。 何でもそうだが、必ずその母体があるものである。特に、厳格なものから、弱者の立場に立ったものが・・・ ーー 4、破壊と再生をもたらすシヴァ紳 ヴイシュヌ神と勢力を二分するシヴァ神は、もともと暴風の神であったものが民間信仰と融合し、 次第に破壊と再生を司どる最高神となつた。 (字数の関係でカット08年09月10日) ・・・・・・・ 2006年09月10日(日) 1986, 事業百訓・・・?
H0901 事業百訓 480 準備!そこから魔法がはじまる。 準備とは創造する喜びだ!。 準備とは人生を苦労して前進する事、悩みながら生きていく事。 ...並はずれたIQを持っているが、準備をするほど賢明ではない人よりも、 力強い議論の準備をととのえている普通の人になりたい。準備とはあくまで“心の底”の栄養だ!。 (ゲ−リ−・スペンス=議論に負けない法) 481 楽しい顔で食べれば、皿一つでも宴会だ!。(ロ−マの詩人=プルデンチウス) 482 集中する為には自分なりの結論が出るまで誰にも相談しない。 自分の中で決めてから相談するのはいいのですが、迷っている時に相談すると、集中力が半減する。 徹底して1人で考える、思いついたら考えを書きためて、それをファイルしておき、それをよみかえして 書き足して事業のデザインをしていく。 その間ある結論が出るまで人には一切相談しない。(セコム・飯田会長) 483 経営者の条件(成果を上げる事) ?自分自身を管理する。 ?その為に“自分の仕事”は何か?問うてみる。 ?問題設定が本当に正しいか?。 ?重要な資源は“時間”である。 ?優先順位をつけて“努力”を集中する。 ?仕事のアクセント“強み”の上におく。 ?問題より“機会”を追求する。 ?地平線のかなたを常にみる。(長期視点) (P・F ドラッガ−) H0903 事業百訓 484 道中は宿屋よりも、いつもよい 485 それぞれが一番苦しいのです。としたら自分に与えられた神からの苦しみの形が 一番相応(ふさわ)しいのだと受諾するほかないでしょうね。私はきっと反抗するでしょうが。(曽我綾子) 486 完全という言葉が不完全なのだ。(ホロビッツ) 487 私たちに課せられているのは、肉体を持って生きている事に感謝し、 その範囲で毎日の生活を楽しみながら創造的に生きていく事。あの世からの魂のメッセージを見ること ?“強欲を克服しなさい。” ?“課題を解きなさい”という最低条件に加えて ?“明るく前向きに生きなさい!。” ?“笑う事は心の栄養です” ?“あなたらしく生きなさい”というメッセージが多く含まれています。 このような強欲を克服することと、生活を楽しむ事を両立させる事こそ魂が教えてくれる “人生の目的の一つ”なのです。 (生きがいの創造−飯田央彦) 488 覚悟にまさる決断なし! 489 人生をあまり深刻に考えるなかれ、そこから生きて脱け出ることが出来ないのだから。(E・ハーバード) 490 失敗はセイコウがもと? (一言絶句−より)
H0903 只今・戦闘中!
母が痴呆症になり丸三年が過ぎた。 安っぽいヒューマニズムや一時的な情愛など “今の現実・現状の前に吹き飛ばされる!。家庭内は子どもを含めて毎日、毎晩が戦闘である。 週に一度は一晩に十数回起こされる。朝起きると寝る前より疲労している状態である。 親と子といえども正常人と異常人の戦いである。異常と正常が蛍光灯のように混合するから更に問題が深く複雑になる。 母自身も正常なときに“今の私の齢になりこの経験をしてみなくては、この辛さをわかってもらえない!” というのも身にしみるから歯がゆい。遠くにいる姉達が時々きて、忠告、助言をしてくれる、 それが一面しかとらえてもらえず心臓を貫く位、一言一言が痛い! でも口先介入だけの甘さが“中途半端な傍観者”として“怒りの嵐の対象になる。 でもこの行き違いは痴呆看護の大部分に生ずるトラブルで、ごく普遍的な事という! 年齢的風景の為か知人、取引先の人にも七人も同体験者がいる。”母を十年介護・見送った。 近親者のトラブルは当然あった。……そして娘が介護士になった。この苦痛は同居介護した人間でなくては絶対わからない。 “実父を十年介護。自分の中にこんな優しさがあるとは…自分がうれしかった。” “自分の近くに住む実姉が姑を完璧に看ておくった! 今自分の家庭に来て、看護について口を出す! おそらく貴方の場合よりつらいのでは?” 等等、まだまだあるが書けない位すざましい! こんな事表現していいのか憚るが、心の中である姉に対してナイフを突き刺すイメージを持ったり、 妻に対しても“絶対に亡くなったら離婚してやる?”等・思ってしまう。 それだけ追いつめられてしまうものだ。今まで帰宅拒否症候群というのが私には理解できなかった。 本当はうれしいはずの金曜日の夜、帰宅するのが本当につらい!月曜日は朝、会社に飛び出ていけるのが救いである。 妻にはそれがないだけ辛いはずだ! でも、すばらしい事も当然ある!家の中が暖かい! 赤ちゃん、幼児がいる家のそれである。 本人は天使そのものである。家より火が吹き出しているようだ。 それと子供達が何も言わずに私達以上に母の介護をしてくれる!子供に教えられるとはこの事である。 (ボツにしていた原稿だが母が亡くなり半年、供養も含めてあえてだしてみた)
H0903 図書館の効用 (字数の関係でカット08年09月10日) 十年位前に自宅の近くに公立の図書館ができた。はじめは月に一、二度位、通っていたが、今では週に一、二度はいく。 図書館で借りる良さは買うほどでもないと思う本を読める事にある。 そう思った本ほど、むしろ読書のジャンルに巾ができる為に良い本にあたる。 いやそれよりも絶対量を手に取れる為であろう。 「“図書館の天使”がそこにおり自分の捜し求めている本に導いてくれる」という欧米の諺がある。 その信じられる現象に何度もあった。 今まで全く興味のない分野で、何気なく手にとり、その世界にひきこまれた事も図書館ならではである。 ーーー H0903 “カルト教団”その一考察 カリスマを持った強烈な教祖が、地上天国をうたいあげ“聖なる集団”?をつくりあげる。 サドがマゾ集団を束ねるプロセスを踏む。一人の主体者が多数の従属者タイプを集め価値基準を植込み、自己判断力を断つ。
その為には“霊力”と“性”をもつ教祖様を分母に、分子には地上天国とかいう共同体という甘い価値基準を仲間社会を与える。 そして、それが地上天国と言うイメージの商品そのものである。今、問題になっているオウム教は、そのカルトの典型である。 ブラジルで聞いた貧民に対するカルト教団の“あの世の住宅販売”=この世で住宅は持てないなら、 せめて天国の住宅を買っておくべし!といって貧民より金を取り上げる。 その日本版があのオウムであり、今の罪式僧侶のタカリである。 フロイトが“性”的部分を潜在意識でとりあげ、ユングが“聖”的部分でとりあげているが、 カルト教団は、その潜在意識の一番深い奥を見抜いて商品化をする為、 その部分で無知な理科系大学生など、すぐひっかかってしまう! 集団の肥大化による“霊と聖”の露出化で自滅していくのが、漫画的、幼稚園児的で面白い。 −−− H0905 事業百訓 491 人間はすでに「なにものか」(本質)として存在しているのではなく、 常に「なにものかになろう」として自己を世界に投げ出す自由な存在(実存)である。−サルトル− 492 本当の敵というものから際限ない勇気がおまえの中に流れこむ。 −カフカ− 493 昨日の自分は許しても、今日の自分は許すな!。 494 私の落語は噺を聴いてもらうのではのうて、自分の楽しいな、 うれしいなという気持ちを伝えるものだと思います。 −桂 枝雀− 495 心は天と自分をつなぐパイプだ。 この結び目がしっかりしている限り、宇宙からの無限のエネルギ−が 注ぎこまれ弱気になることはない。 496 我々は単数の生を生きずに、複数の借りものの生を生きている。 それに気づいて“しまった”と思った時にはもう遅い。−高橋 義孝− 497 “自分がいいと思うように真面目にやって、お客がアクビをして帰ったら仕方がない。 家へ帰ってカミサンの前で一席やってごらん。カミサンも聞いてくれなければロウソクの前でやってごらん” と教えたそうだ。信じた通りやり、お客の喝采を気にするなという円朝の信念のあらわれだ。 ーーー H0905 魂が万代橋の上を彷った話 第2新館の役所の検査の直前の話である。 担当の設計士が顔をひきつらせ青い顔をして言うには、“今回の検査はパスしない!...” 一瞬耳を疑ったが、次の瞬間頭の中は真っ白、地獄の底へつきおとされた思いであった。 “それが本当であれば、あの建物は単なるゴミの山、そして私は?、会社は?...”パニック状態である。 それも夕方の飲み会の直前である。まあ明日の話として、頭も冷やすという事も含めて、 そして焼け酒という事で浴びるほど飲んだ。その夜は満室という事で事務所の長椅子に仮眠した。 恐らくそこが不安定という事と、頭がパニック状態という事と、酔いを含めて妙な夢になってしまった。 魂が身体より抜け出し、さっきまで飲んでいた古町より万代橋まで、目線が5m位の高さでプカプカ浮遊しているのである。 “ああ自分は浮いている。それも魂が”という感覚であった。そして目が覚めて!魂が浮いていたのはたしか夢か! でもあの話は本当である!それも夢であってほしい!”と念じた事を今でもはっきり覚えている。 その2〜3日後に設計士の思いこみでしかない事がはっきりしたが、本当に長い氷つくような時間だった。 ーーー H0905 私を生かして下さい! <H8.7.24の日記より> 今朝、病院に日課どおり母の様子を見にいくと、母が私の事を担当医と勘違いをしたらしく “先生、私を生かして下さい!”と両手で拝まれた。本能的な生への執着の言葉である。 何とも言えない気持ちになってしまうと同時に、その言葉の重みに圧倒されてしまった。 死の間際にあっても、“生”への執着のことば、そして死の不安を自覚している事実である。 “これでよい、いやこれだ!”生きる事への執着こそ人生で一番大事の事と思い知らされた。 それにしても、あの担当の若い医師には呆れる思いだ。人間の生き死にを扱っているのに何もわかってない! 目の前の病気をなおそうとして母体そのもののことを考えていない!。 薬は反面、毒である事を!。 これが今の医療の大問題の一面なのだろう。彼等は技術者であって医師・医者ではない。 それが若いから許されていいのだろうか?。自分は判ったつもりでいるから始末が悪い!。 これから何年もの経験を重ねるうち今の誤りを気づくのだろうか? ーーー H0907 養老の瀧1122号店、店長の日々 (字数の関係でカット09年10日) ーーー H0909 ギアナ旅行記 (字数の関係でカット08年09月10日)
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2009年09月09日(水)
この御題目で書くのは、6月1日以来で3ヶ月あまりになる。 その前に「世界恐慌に入って、まる7ヶ月」というテーマ名で二回書いている。 「不況景気などを今さら書くことでもないだろう」だが、そこが生き物、ジワジワときている。 9月に入って落ち込みが始った。 こういう先ぶれが居酒屋とホテルに最初に来る。 現場段階は十数兆のバラマキで何とか小康を保っているが、何が起きても不思議でない。 重体患者を緊急の大量輸血で持たせているようなもので、集中治療室にいる事態は変わりない。 衆院選挙が8月末まで延びたため、株の暴落や経済の大混乱が来年2月まで延期しただけのこと。 まだ東海地区の輸出産業は、この数年間の好況の蓄積があるが、他の地方は体力を使い果たし、 大きく弱体化している。 これに悪質のパンデミックでもなれば、大きな波乱が起きるのは必定である。 週に数回は、通勤の帰りや、家内のお供にスーパーや、駅の専門店街によるが、実際に売れてない。 TVのワイド・ショーで、「はしっこ食品」や「訳あり商品」の特売などを特集をしていた。 ハムや、カステラ、魚などのスミの切り落としが半額から三分の一になるのだから客は殺到する。 そういえば最近、生ハムや鳥肉の燻製の『切り落とし』を、安さにつられて買ってしまうことが多い。 新潟駅前周辺の飲食街では、潰れた店の後に出来るのは「ホルモン焼き肉屋」が目立つ。 「安く、小じゃれて、腹が一杯になる」のが必要条件だが、時代が変わったものである。 当社も、長期のミニ団体が何組かが途切れずに入っていたが、それが少なくなっている。 夏場の稼ぎ時は別腹と期待していたが、この冷夏で結果は芳しくはない。 それでも9月下旬から 10月にかけて国体があるので、数字は何とか例年に近い数字は作れそうだが、甘くないことは事実。 町内会の役員の人から聞いた話だが、新潟市内の町内連合会が、急激な売り上げの悪化に、 駅再開発計画を改めて説明会を開いて聞いたという。 今さらであるが。(10年遅れである) これに北陸新幹線開通という2014年問題がある。新潟県にとって大打撃になるが、それを誰も真剣に考えない。 20年前に既に新幹線を新潟空港まで延長し、その沿線に環日本海都市としての機能をコツコツと造っておくべきだった ことすら、誰も気づいていない。 飛行場の直接乗り入れも大きい要素だが、「日本海に東京駅直結の新幹線の乗り入れ」 が良いのである。 僅か5〜10キロの延長で済むのにである。 そこに新幹線駅沿線のサッカー場と野球場をつくり、 野外スポーツなどのレジャー施設を長年かけて造るべきべきだったのである。 更に夢のある高齢者向けの施設と、 本格的な中国人街もである。 金沢が関西と関東を後背にした新日本海都市創りを始めるのは目にみえている。 不況景色から少し話が逸れたが。
・・・・・・・・ 2714, 大相撲が面白い! −2 2008年09月09日(火) ぉは(σ。ゝω・)σYO!! せっかく、面白くなってきたところで、北の湖は辞任。三重の海の武蔵川が理事長に選ばれた。 そして、ロシア人二人は解雇。 当然のことである。起訴猶予になった若の鵬を含めた三人をロシア政府は急遽 帰国させるであろう。立場は外国人労働者でしかないから、場所が始る前に大使館員に付き添われて国外退去ということか。 ロシアにとって、三人の言動はロシアにとって国辱ものである。これは世界的なニュースになるからだ。 この事件発覚以来、北の湖と貴闘力の二人の親方の言動は最悪であった。 ウヤムヤにして責任回避をしようとしたのが見え見え。本人達に否定をさせたままロシアに帰ってしまえば、 それで済むと思ったのであろう。これで、二人とも今まで築きあげてきた社会的基盤は無くなったに等しい。 事件として、角界から二人を追放すべきレベルの事件、これで終わらないだろう。次は、今場所の開催の問題である。 理事長が辞めましただけでは済まない大問題。それもこれも、見るものからしたら面白いストーリーが続く。 身の潔白をはらすための突然の検査、北の湖理事長も、自分の弟子が!と夢にだに思ってなかったのだろう。 理事長と一部理事は検査を知っていたというから、まさか自分の弟子がやっていたとは・・・ TV映像でみるロシアの兄弟は明らかに確信犯の顔になっていたが。 これで当分、皇室も大相撲観覧は当分の間は無理だろう。対策として外国人力士の規制まで、いくのだろうか? 大相撲も朝青龍と、貴乃花問題、リンチ殺人、マリファナ事件と、地に落ちたものである。 来年に入ると、再び朝青龍が何か問題を起こすだろう。この男、何でもありだから。 まあ楽しみである。ところで他にいないのだろうか、吸っている力士? 幕下以下の力士も検査をやればよい。 恐ろしくて、やれないか! ところで、あの弁護士、論理を聞いていると、頭が悪そう! あんなものなのか? 見てるほうからしたら、今場所は、是非、開催して欲しいもの。 白けた中の大相撲を、これまた白けた目で見るのも、面白いだろう。 (6年前の今日、下に貴乃花のことが書いてあった。 それからみて、如何に朝青龍が 日本の大相撲を汚したかが見えてくる。そして、このロシア三人組である) しかし、今のほうが、ずっと面白いのは、どういうこと?? (*´з`*) それは理事長まで出演しているからである。 ヾ(^ω^*)
・・・・・・・・・・ 2007年09月09日(日) 2350.ベナレス・・・6 2,ヒンドゥー教とは
ヒンドゥー教は紀元前一五〇〇年頃に西方からインド亜大陸に移住してきたアーリヤ人が 信仰していた祭祀中心の宗教を核にして、先住民のもつさまざまな民間信仰を融合して発展してきた。 それ故・この宗教には開祖が存在しないが、そのかわり『バガヴァッド・ギーター』(神の歌)など、 人びとを宗教的な道に導く数多くの聖典が編纂された。 ヒンドゥー教は基本的には多神教であるが、 それらのうち主要な神のどれもが最高神と考えられるという独特な神観念を持っている。 ブラフマー神(梵天)・ヴィ・ンユヌ神、シヴァ神がそれぞれ世界の創造・維持・破壊を司るという三神嫡体の概念も 生み出されたが、ブラフマーは相対的に地位が下がり、現在ではシヴァとヴイシュヌ・それに宇宙の根源的力を 象徴する女神信仰が盛んである。根本的な教義としては・暴人にもなじみが深い驚と輪廻、解脱の思想が説かれるが、 宗教的な営み(ダルマ・法)とともに、実利(アルタ)と性愛(カーマ)も人生の目的とされている。ヒンドゥー教は禁欲的な 審や修薯たちだけのための宗教ではない。一般の人びとが幸福に暮していくための必要な欲望は認めているのである。 〜〜 5、ヒンドゥー教の聖典 (以下、字数制限のためカット09年9月9日) ーーー 解)むげに否定することは出来ないが、それにしても酷いものである。 当時のアーリア人の何とも嫌らしい意図が露骨といえば露骨である。 支配のための宗教などが、このように露骨なカタチで残っている不思議。 それが地球上にあるのだから、何とも言いようがないのである。 明治憲法も、似たようなものだが。それと、葬式で食べている現在の坊主!
・・・・・・・ 2006年09月09日(土) 1985, ハイデッガー (。^0^。)ノオッ*^○^*)ハ〜 ヨウ 10年来、トイレに常に哲学書が置いてある。そして一年に一度位の間隔で、入れ替えをする。 そして、普段も必ず哲学書のいずれかは私の鞄か机の横にある。 歳を重ねた経験の裏づけが哲学の言葉を噛み砕いてくれるようになった。 哲学的大問題の「死」に向き合わなくてはならない歳になったこともある・・・ 「首切り役人の日記」とか、このHPの随想日記で辛辣に死について書いている。 哲学にしても宗教にしても結局は、ー人間いかに生きるべきか? そして最後の最後は、いかに死ぬべきか?ー ということだ。あと何があるのか?もし知っていたら教えて欲しいもの! 『面白がって死ぬことだ!』という黒鉄ヒロシの言葉位か、面白かったのは! 「ヒーヒー悲鳴を上げてジタバタしている最後の自分の姿をみるのが何で悲しいの? こんな面白いことが何で?」彼ならでの言葉だ。冷静に自分を見ていなくては笑えない! ハイデッガーは、「その死を意識的に見ないようにして日常をすごしている我われの姿を、そのまま直視。 見ないようにしている死が、我われにマトワリついていて、それが不安という漠然とした心理になっている」と看破している。 彼は不安とは現存在として最も根本的な気分であるとし、現存在は世界内存在として理由もなくこの世界に投げ出され、 そのつど、何らかの気分に規定されていると・・ 日常性の中に埋没されて生きている非本来的あり方から、 本来的自己を呼び覚ますきっかけとなるのが不安であると・・ とりわけ「死」の可能性の前にしての不安において、現存在としての根源的開示がはじめて生起する。 我われはいつか死ななくてはならない。 「この私」の死を誰も変わってはくれない。 その死を痛感する時、人は日常から引き離され、単純化し、自分自身と対面せざるを得ない。 その死を見つめることによって、その可能性に「先駆」することによって、初めて本来の自分を取り戻すことができる。 おのれの実存をたえず知覚させてくれる気分として「不安」を考察した。 恐怖と不安は違う。恐怖は対象を持つが、不安は対象を持たない。 ハイデッガーは「私は何が一体不安なのか?」という問いをする。「私が存在そのものが不安なのである。」という。 「私がある」こと自体が不安の発生現場で、私の存在は「無」の中に沈みこんでいくのである。それが不安の時である。 不安は人間そのものの根源的な性格なのである。 彼は「人間は、日常性の中に存在の本来性を忘れている」という。 われに現存するのは「他人の死」のみである。 「死、それはまだまだ自分の番ではない!」と思っているから、生きていけるのだろう。 私が死を度々とりあげるのは、その死を直視することで、生とは何か考えるためであり、 現存している自分を見つめるためである。夕陽をみて人は、その太陽を自分に投影する。 一日の死である。 そして、朝陽をみる、今日の生誕を感じる。そして、その夕陽のように沈んでいく。 しかし、夕陽のように沈んでいく死だけでないのが、人生の妙味であるから面白いのである。 (。^0^。)ノホンジャ、マタ! あの世で!いや明日! そういえば、明日とあの世は似ている。あると言えば在るし、無いと言えばないし! ・・・・・・・・
2005年09月09日(金) 1620, 「仮想と虚妄の時代」
月刊誌の文藝春秋5月号の石原慎太郎の「仮想と虚妄の時代」ー援助交際と純愛ー が、現在の日本の現状と病巣をそのまま書きあらわしていた。 若者、いや現代人の携帯電話やインターネットの仮想と虚妄の実体と病理をえぐっていた。 ITは確かに便利で効率は良くなったが、人間の情緒などの一番大事な部分を失ってしまったと看破。 ITは情報を無限に提供してくれるが、人間本来の情念やエネルギーまでも伝えない。 そのため、リアリティと虚構の差が解らなくなってしまう。私の知人に、何かあると友人に携帯電話で相談する男がいる。 それも、いい歳をした大人?である。自分の頭の中で、「あれやこれやを考えること」ができない。 思索を何度か繰り返した上で相談するなら解るが、それを一切しない。いや出来ないのだ。 本人を観察すると、彼は本を読んでいない。読書は、著者との無言の対話でもある。 それを普段の生活の中でしてないから、内面の対話が出来ない。だから、何かあるとすぐ携帯電話で相談するしかない。 事態を多角的に見ることや深く掘り下げることなど、彼の世界には存在していない。 携帯は会話しか成り立たない。内面の対話をした上で、それを相手に投げかけをしあうのが対話である。 ー石原はここで以下のように述べていているー ー最近、問題になっているエンコーなどの新しい風俗の正当化(?) のために作られる言葉の醸し出すヴァーチャルなイメージは、ことの本質を外れた価値判断を容易に導き出す。 内質の空疎化とは想像力の枯渇であり、無個性化による自己喪失画一化であり、 人間としての尊厳の喪失の繋がり社会そのものの活力を失わしてしまうーと警告している。 現在、中高等学校の生徒の間で人気のある生徒の評価の指標が勉強やスポーツの能力ではなく、ただ携帯電話が鳴る頻度と、 いかに多くの連絡相手が登録されているかにかかっている現象は、人間関係における本質の変化を暗示している。 こうした浅はかな人間関係が何ももたらさないことを、彼等は解っていない。 そんな交流の中では本気にお互いを預けあい頼り合うことができるだろうか。 ーー そういう私も一日数時間もパソコンに向かい、家ではTVを3時間は見ている。情報の多くは、ITから得ている。 それから入ってくる情報は、実際のところ生の人間からも質も量も格段に上である。 だから困ったものである。この随想日記で書いている内容は、私の脳の多くの部分を占めている。 実際に会って話すより、より自分の言いたいことが顕わに書いてある。 といって、それが私の全てではないし、 誤魔化しも、虚構もある。やはり、情けの報せとして直接会わなければ伝わらないことがある。 −− また、この中で触れられているホーキング博士の発言の部分が面白い。 石原慎太郎がホーキング博士の講演に行った時「地球ほどの文明を持った惑星は、どのくらいあるだろうか」という質問に 「二百万ほど」という答えがあった。それに対して、「それほどの数があるのに、どうして他の惑星の生命体を目にすることが ないのだろう」と質問があった。 その答えが、「現在の地球ほどの文明を保有してしまうと、そうした惑星は自ら正当な 循環を狂わせ環境を破壊しつくし、文明の主体者たる生物は内面的にも極めて不安定な状況をきたして、彼らの惑星は宇宙の 時間の総体に比べればほとんど瞬間的に自滅してしまう」というという答えであった。終末論や環境論として興味深いものである。 ーー 以上が概要だが、情報化は基礎教養の蓄積があってこそ、 仮想と虚妄の世界に漂う現代人は、自分という存在さえ仮想と現実の境が無くなっている。
・・・・・・・・・ 2004年09月09日(木) 1255, ダイエットに100万円賭ける ー2
本人に「どうして、そのダイエット方法を知ったのか」の問いに、「インターネットの検索で調べた」という。 そこで早速、インターネットで「グレープフルーツ・ダイエット」で検索を入れてみた。 色いろのHPがでてきた。 それによるとグレープフルーツに含まれるクエン酸 がダイエットに効くようだ。 糖の分解酵素を抑制して脂肪をつきにくくし、新陳代謝を促すという。またダイエット効果のほか、疲労回復、 エネルギー生成にも重要な働きをし、ガン予防、抗酸化作用、脳梗塞予防などにも効果があるとか。 クエン酸はもともと体内で生成されるのですが、現代人の多くが不足気味。 これにトマトやバナナやリンゴや生野菜を組み合わせて、なるべく肉食をしなければ、5〜7?はすぐ痩せそうだ。 インターネットで検索をすれば「レシピ」がすぐ出てくるので、興味のある人は是非検索をしてみるとよいだろう。 「ダイエット」と検索をすると他の多くの方法が出てくる。グレープフルーツを三食食べるのが億劫なら、 ジュースを飲むという手もある。冷蔵庫には、リンゴジュースと、ブドウジュース、オレンジジュースが交互に 入っているが、グレープフルーツは無かった。スーパーの特売で1000mlが最近では88円で売っていることもある。
・・・・・・・ 2003年09月09日(火) 888, バックナンバー 2
バックナンバーを見ながら、今まで書いてきた随想日記を総括してみる。まずは読書日記や映画日記の感想文。 あの時、あの本を読んでこんなことを考えていたのかがリアルにわかる。日記は未来の自分に対して書くものだ ということが、一番わかりやすい事例といえる。 映画もそうである。感想文を書いてないと、単なる娯楽で終わってしまうものが多い。 それはそれでよいが、文章化をきっちりしていると、自分のメルクマールとなる。 また映画日記を書き続けていると、映画の見方が変わってくるのが解る。その世界に意識的に飛び込みと同時に、 冷静な目が養われているのだ。日記としての追悼文も姉と両親には書いていたが、親戚や友人の場合も 書いた方がよいことに気がついた。故人に対して一番の供養になる。 こうして書いていると、いかに毎日つまらないことに振り回されている自分に気がつく。 それをいつの間にか鳥瞰してしまう作用が書いていて解る。人が見ていたら、こんな面白いものはないのではないか。 他人の内面の棚卸と陳列変えと改築を傍観しているようなものだ。また誤字なども冷静に見れるからだ。 一番面白いのは実は自分だが。
・・・・・・・ 2002年09月09日(月) 514,大相撲−貴乃花のこと
昨日は貴乃花が8場所ぶりの出場で館内が異常な雰囲気であった。 土俵に上がった瞬間、これは闘える身体ではないと感じた。 昨日は辛うじてかったが、今場所乗り切れる確立は5分かそれ以下だろう。 元横綱が2場所休むと土俵に上がるのが恐ろしくなるといっていた。 かなりの緊張感が館内に漂っており、他の力士まで異様な盛り上がりをみせていた。 兄弟子の貴ノ浪まで次の対戦で武蔵丸に勝ってしまった。前回の優勝の時の怪我で、引退の状態であった。 協会の一人横綱では都合が悪いという状態で、ここまで引き伸ばしてきたのは誰の目にも明らかであった。 館内にはいる待合では、凄い気合の入れようであった。 アフリカで100メートルのバンジージャンプの飛び降りる直前の10分前は、丁度あの状態であった。 あの極限状態が見ているものの心を打つのだ。勝負審判をしている父親が勝った瞬間、泣きそうな顔に見えた。 そういえば、貴乃花が千代の富士に勝った時の事を思いだした。 今の彼の頭に、その時のことが去来するのはいつの事か!相撲取りは現役がすべてだ。
・・・・・・・・・ 2001年09月09日(日) [139] カースト制度−1
インドに行ったときそのカースト制の現状かいま見た。4つの階級、その中に500以上の更なる階級があるという。 白、赤、黄色、黒色とみれば、直ぐ階級がそのままわかる。3000年前、侵略してきたアーリア人(白)が その維持のため、宗教を創った。そして人種が混ざらないカースト制度をつくり、その階級を3000年維持してきた。 彼らはその理屈はわかっている。ただ3000年かかった、その積み重ねからくる体質はどうにもならない、 人種の差を作ったしまった。 日本にもそのカースト制があるという。今崩壊しつつある、体制がカースト制そのもの。 学生の時、すぐそれを感じ取った。そのカースト制だ。但し学生は大学の優劣だけで済んだ。都会ではそれが露骨だった。 1、どこの大学を出て、 2、家柄はどの程度で、 3、収入はいくらか、 4、地方出か都会か。 大体これで決まる。それでまずその連中が友達友人になっていく。 ガールフレンドももちろんその範囲。金持ちの友人が、カースト制度者であった。 こういう考えがこの世にあると初めて知った。学校でまず露骨の差別、次に家柄、 そして能力、地方かどうか、女性なら容姿と、その一つでも80以下は眼中にない。
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2009年09月08日(火)
一昨日の日経新聞の最後の紙面(「私の履歴書」の隣コーナー)に「富豪と世捨て」というテーマで、 作家で法大教授の島田雅彦が書いていた。昔の富豪の身の処し方と使い方で、西行や千利休などを取上げていた。 井原西鶴の作品の中の‘世之介’は、現在では500億円位の資産で、生涯をかけて色事に追求し、 花魁を次々に身請けをしたが、それでも使い切ることが出来なかった。 また日本人の昔の粋な生き方として、世捨てを紹介している。死を前にして身軽になることが含意されているが、 不祥事で失脚した時のリセットで、政治家などが清貧を気取る場合がある。その辺が人間の面白さである。 富豪は、その富のために悩みが多いが、人のためにそれを使うのが、一番の悩みを消す効果があるとする。 資本主義の覇者は資本主義によって滅びた物を復活させて、その罪を償う義務がある。失われた神仏を買い戻し、 廃れた神社仏閣を復活させたことなどである。 それが「歴史からの使命」と結論づける。 何代か続いてきた金持ちは、その使い道さえ無頓着で淡々としている人が多い。 金を使っての快楽など知れたもの? 金を気にしないで済む生活こそ豊かさである。 で、金を気にしないで済む生活は、幾らか。 そう考えると、人様々である。 平均すると、家一軒があって、 蓄えが一人あたり1000万で、夫婦で年間400万ぐらい? ところで、直接、両親の生き方をみてきて、合理的散在?を学んだ。 定額を見定めて、平均して使うことである。 持って彼岸にはいけないことを世間を見て得た知恵である。 所詮は、蓄財は不安の裏返しの行為でしかない。 私の親戚に「清貧を自認した生きかた」をした人がいた。 90歳後半で亡くなった時には、3千万近くの蓄財があった。その人の収入からみたら奇跡的ですらある。 もし、年間300万を65〜75歳の10年間を使っていたら、面白かっただろうに思うのだが。 私は、それを40〜50歳代後半の二十年間で使ったから、わかる。 といって、年間、150万なら散在ではない? 貯めるのも難しいが、それを後悔しないで散在するのは、もっと難しい。貯めるは努力、使うは芸術というが。 ところで、100億を10年で浪費で必ず使うことを約束して神様から貰ったと仮定して考えると面白い。 浪費というところがポイントだが、50億の船を買って世界中をまわったとして、 年間5億×10年=50億のコストとみると、大したことではない。 それなら世界の豪華クルージングの 最高級クラスの部屋でサービスを受けた方が良いか? まあ、それも2〜3年で飽きる。 でも、面白そうだ。 しかし「それが如何した」という内なる声も湧く。 そうこう考えると、一日を真剣に遊ぶ能力こそ重要ということか。 問題が山積みの中、ストレス解消のために遊びに使う散在こそ、価値があるということ? しかし、富豪はそれを超えた世界があるのだろう。 経験しないものには分からないだけ?
・・・・・・・・ 2713, コピペ 2008年09月08日(月)
先週のNHKの「クローズアップ日本」で、コピペを取り上げていた。「コピペ」とは パソコンのコピーと、ペースト(貼り付け)の略語である。 なかなか考えさせられる内容であった。 ーまずはNHKの番組紹介を、コピペしてみよう。 * コピペ 〜 「ネットの知」とどう向き合うか〜 インターネットで見つけた文章をコピー&ペーストして、自分の文章にしてしまう"コピペ"。 ある大学では提出されたレポートの半数近くがコピペで作成されていたという事実が明らかになった。 夏休みには小中学生向けに開設された「コピペで書ける読書感想文」のサイトがアクセス数を伸ばし、 大人の世界でも、役所が募集したパブリックコメントに大量のコピペの「組織票」が提出されるなど、 コピペは今、社会全体に広がりつつある。 「コピペは人間の考える力を弱める」と批判の声が上がる一方、 「新たな知の技法」として肯定的に捉えるべきだとの意見もある中、私たちはネット上に広がる膨大な情報と どう向き合っていくべきか考える。 (NO.2623) スタジオゲスト : 茂木 健一郎さん (脳科学者) 〜〜 以上が概要だが、コピーと、貼り付けは、デジタル社会では当たり前になっている。 私も、随想日記で書くネタがないときは、キーワードの検索で情報を集め、要点をコピーして、張りあわせもする。 そのプロセスで思い浮かんだことを書き込み文章の体裁を作り上げることもある。 学生時代のゼミの論文も振り返ってみれば、彼方此方の本から抜書きをしたものを繋ぎあわせたものだった。 それだけで精一杯だった。随想日記を毎日書く目的は、自分の日々の情報を第三者に公開することで、 まとめ上げることだから、それでよい。せっかくだから、自分の脳を通して情報を濾過して公開をするようにしている。 そうしないと、何年後に自分の文章を振り返って読んでも面白くない。最大の読み手は明日(将来)の自分である。 自分の情念と苦労が見て取れる内容にしないと、後年に字数の関係でカッの対称になる。 実際に、毎日、(字数の制限がレポート用紙15枚分しかなく)カットしているが、自分を切り裂くようつらい。 それだけ、汗水を流しているのである。 この番組で、コピペの反対派と、賛成派が出てきて話していた。 賛成派の野口悠紀雄は、情報化の時代に、どんどんコピペをして、そのプロセスで考えればよい。 時間節約になるし、効率よく情報を吸収すべき、という。反対派の人は、自分で考えることを放棄している。 自分でジックリと考えることで、情報は身に付く。安易に情報を集め、張り合わせるのは、いかがか?という。 両方とも分かるが、それぞれの人によるだろう。私は野口悠紀雄の説で、どんどん情報を吸収すべきである派である。 使い分けをすればよい。ネット上の日記のほかにもアナログの日記帳も書いている。自分の手で字を書くことも重要である。 これはコピペではないが、結構、レシートとか貼り付けている。
・・・・・・・・・・ 2007年09月08日(土) 2349.ベナレス・・・5 ー多様なるインド世界ー インドは日本のおよそ九倍にあたる三二九万平方キロメートルの面積を持つ。 これは西ヨーロッパの面積にほぽ等しい広さである。そこに現在十億を超す人びとが暮らしている。 多言藷・多民族の国家であることは言うを待たないが、宗教もまた多様である。 古代から育まれてきたヒンドウー教のほかに、仏教やジャイナ教が紀元前五世紀頃に相次いで生まれた。 紀元後ほどなくしてキリスト教が伝わり、ハ世紀には唯神アッラーを信仰するイスラーム教が本格的に到来した。 またヒンドウー教とイスラーム教双方の教義を批判的に融合したスィク教も十五世紀に興起する。 ヒンドゥー教と仏教は輪廻や解脱の思想を共有する、いわば兄弟のようなものである。兄たるヒンドゥー教は 古来からの儀礼やしきたりを守つてきたが、そのためさまざまな迷信や俗信をも抱え込むことになった。 一方、弟の仏教はそういう兄を理詰めで批判し、外の世界に広がっていったが、インドでは十三世紀にイスラーム教徒の 仏教僧院破壊を機に、すたれてしまった。仏教がインドで復活するのは二十世紀半ばのことである。インド亜大陸では 現在でも宗教問の争いが絶えないが、それは主として政治的不安定に起因する。庶民は心の底から平和を祈っているのである。 解)それにしても、3千年前にアーリア人がインドを征服した時に、地元民との混血が、自分達の存在を脅かすと 考え創った物語が三千年の時間をかけて白・赤・黄色・黒の人種の垣根をつくり、それぞれが交わることなく 現在に至っている。今でも露骨な人種差別ーカースト制度ーが社会を支配している。人間は平等です? そんなことは有りえない! それはあくまで奇麗事という、インドの社会が正直に露出している。 考えてみれば平等などあるわけがない。それを実現しようとした社会主義こそ、そのウソ、建前を知らなかったのである。 優勝劣敗は哀しいことに、世の習いである。
・・・・・・・ 2006年09月08日(金) 1984, バイアグラ おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・ ねむ 6年前に、ある人からバイアグラ(精力剤)を飲んだ話を聞いた。 グァム島に行ったおりに現地で買ってきて飲んだところ効果てき面という。 当時は必要を感じなかったので聞き流していたが、この数年来、精力減退を実感するようになった。 精力減退の為か女性に興味がなくなってきたのには驚いた。この歳で感じすぎも困るが、何とも感じないのも・・ このHPを開いてから、朝方に気持ちが随想日記に集中!精力減退の一番の原因と思われる。それだけエネルギーをとられるが、 やはり歳からくる衰えだろう。知人に聞くと、結構その悩みを持っている人が多い。ある友人が数年来、常用していて 「効果が絶大」という。そこで一年前に、彼から10錠ほど調達してもらった。(一錠1500円・・)しかし何か不自然な気がして 一年間、一錠も飲まなかった。先日、そのバイアグラを思い切って飲んでみた。効果は? 飲んでから5時間ほどしてから 効果が出てきた。なるほど、こういうものか納得をした。「10年前の状態に戻った」というのが実感である。 飲んだ時間から24時間、その効果は持続した。その結果「一年前買ったときに飲んでおけばよかったのに」と後悔?をしている。 あるスナックのアルバイト・ホステスにバイアグラの話をしたところ、「お客に一錠もらい飲んでみたが、 欲情がでるとかの現象は起きなかった。 男と女は違うのでは?それと、女性用のものもあるみたい」と言っていた。 精力が溢れているようだから、同じということか。二年ほど前に、マカという精力剤を通販で買って飲んだことがある。 毎日、二錠ほど4日ほど飲むと、効果があるようだが・・・私の場合は殆ど効き目が無かった。 ただ、身体全体に精力が溢れるという感じはあったが・・バイアグラは、泌尿器科に行けば貰える上に、保険が利くという。 それを貰いに泌尿科に行く気力もない。これは、ネット上に書く内容?ではないが・・・ 品位の問題だろうが、今さらである! 精力減退は年齢を感じる! そして虚無的になる。 まあ、助かった! もう40数年前のことになるが、父親が、私と同じ年齢の頃、「九竜虫」という小さな虫を菓子箱の中に飼っていて、 生きたまま飲むと精力がつくと一年ほど飲んでいた。 あれは効いていたのだろうか? ヽ(●´ω`●)ノ。バイ! ・・・・・・・・・ 2005年09月08日(木) 1619, 閑話小題
ー書くとはー この随想日記で、 書くということは「自分に向かって語りかけている」ことである。第三者の目を利用して自分を駆り立てて書いている。 公開することは、日記を続けるためと、内容を落とさない手段である。日記の読者を巻き込んで自分に語ることである。 第三者の目を通して自分に納得しようとしている。第三者を意識しなくては、毎日これだけ書けるわけがないし、 意識すればこそエネルギーも出てくる。 ・毎日書くこと、 ・第三者の目に曝した文章こそエネルギーがでる、 ・一年~数年後の自分の目に対して恥ずかしくない文章にする、 ・新しい発見を自分に課せる、 ・私自身の言葉で人生を彩ることが書くことである、 ・何のために書くというのではなく、書くために書くのである。 ー電波歯ブラシー 電動歯ブラシを10年位前に買ったが、あまり使わなかった。そのため電波歯ブラシに興味があったが、買わなかった。 ところが、TV・ショッピングでのコマーシャルを見て欲しくなって買ってみた。 送料込みで8千円半ばの値段である。(実際に買ったのは価格ドット・コムで調べたところだが) そして使ってみた。思ったより数倍は歯垢がとれる。電波の振動により、歯垢が飛ばされるような感覚で取れる。 これは、いけそうである。歯医者だけは行きたくないので、寝る前にしっかりと歯を磨き、その上に「モンダミン」 の水溶液で歯ぐきの間を注いでいた。そのためか、この5年間は全く歯医者にはいってないが。歯医者は大変だろう! ー自公圧勝?ー 昨日の産経新聞の一面トップで「自公圧勝・300席をうかがう!」と、あった。 勝ちすぎも困る。あの郵政族の露悪な政治家の面が良くない。それに民社党も一緒に括られた。 あまり勝ちすぎると問題である。また、利権亡者が悪さを始める。 しかし郵便局の役目は、とうの昔に終わっていることは明らかである。消滅しても誰も困らない。 メールと、コンビニ、そして電子決済の時代に、あの郵政の利権屋が堂々と出て来ること自体がお笑いである。 民社の岡田某が総理?何を寝ぼけを・・・ 政権交代はよいが、あまりにも民社には基盤がない。 それでも、政権交代が良いが、とにかく郵便局は次善でも民営化しなくては。
・・・・・・・・ 2004年09月08日(水) 1254, 自信喪失症に悩む韓国人
日経新聞の「地球回覧」の「自信喪失症に悩む韓国人」が考えさせられた。 日経新聞のソウル支局長の手記だが、なかなか鋭く現在の韓国事情を書いていた。 少しキーワードを変えると、現在の日本の地方の現状に酷似している。 ー概略を書いてみるとー 「景気や庶民の暮らしや考えを聞くにはタクシーの運転手が一番」。 駆け出し記者時代にそう教えられたが、 最近では、話をしないようにしている。景気やニュースの話になると「こんな酷い状態は初めてだ」と興奮状態になる。 「スリル満点の運転で悪名高いタクシーが暴走しかねない。 ー現在の韓国は以下の状態である。 ・韓国経済は今年も5?の成長率を見込むが、牽引役はサムスンなど一握りの輸出関連企業だけ。 内需不振が長引いて、景気は1990年代後半におきたIMF危機の時より悪い。 ・イラクで「死にたくない」と絶叫しながら、韓国人人質が殺されたり、 ・中国の政府系機関が古代国家「高句麗」を、中国地方民族政権と主張したり、 ・アテネオリンピックで、サッカーやマラソンで期待のメダルが取れなかった。 (字数の関係でカット 09年9月08日) ・・・・・・・・ 2003年09月08日(月) 887, バックナンバー -1
今まで書いてきた、テーマ随想日記のバックナンバーである。バックナンバーをクリックして内容を読めるソフトもあるが、 手間がかかるため今のソフトを使っている。書初めの頃は、サロンのコーナーと混同して空のものが幾つかあるが、 「宗親日記」が別にあるから、総数はこんなものだろう。それにしても、よく書いたものだ。 「間違い字」が所々見られるが、殆ど内容を忘れているので再度読んでも新鮮に思える。 それだけエネルギーを入れてきたのも事実である。とりあえず1千項目の目標は年内で達成する。 「自分史」であると同時に、「遺書」にもなる。まだ見ぬ子孫の眼も意識して書いている。 書いていて、初めの頃は戸惑っていたが、今は面白くさえある?習慣化が一番の要点である。 言葉にまとめることの重要性が書き続ければ続けるほど解ってくる。 そのうちに自分の心の構造が見えてくる。そして、その構造の建替えさえ可能になってくる。 社内報で旅行記や事業百訓を書いていた頃は、他の人の文章のドロボーもしたが、今はほとんどない? ー文章術などに「初めは他人の文章を盗め!」と、あった。プロなら問題ありだが、素人が上達する一番手取り早い方法だ。 書き続けていて、作家や学者の文章の深さや味がより理解できるようになった。 しかし随想とは「その人しか書けない文章にこそ、味わいと良さがある」という。 過去の文章を時々読んで見るのも楽しみである。(年一に丁度よい)誤字、意味不明を見つけて自嘲することを覚悟で。 「引き出し」の『バックナンバー』のコーナーを「その他・バックナンバー」から今日、独立させた。 ここに載せようとしたが原稿用紙20枚以内でないと拒否された。残りは明日載せるつもりだが。 可能な限り載せてみるが、『引き出し』コーナーで見てください。
・・・・・・・・・ 2002年09月08日(日) 513, 入試はクイズゲーム?
「入試にしても、資格試験にしても、暗記とか理解を捨ててしまえ! ーゲーム、パズルゲームゲーム、クイズゲームと割り切ってしまえ!」というある文章を見て固まってしまった。 「ゲームや遊びの類と割り切ってしまったら、真っ当に受験勉強をしないはずだ。 クイズゲームの能力のレベルを上げたいなら、過去のクイズゲーム(問題)の質問と答えを徹底的に調べて、 その傾向とか癖の調査を楽しめ!その為の準備を遊べ!」要するにゲーマーになってしまえということだ。 何事も遊びに昇華した時に能力が飛躍する、入験がそうだと。自分で試合を創れる男をゲーマーという。 ゲームとは「目標を決め途中に難関を置き、それを乗り越えながら達成するプロセスを第三者か、 自分自身と競う事を楽しむ事」という。 あるレベルを超えると、これが一番重要になる。 自分が事業を始めたとき、そうだった。自分の練り上げた計画を実行というプロセスを楽しむゲームと いう要素があった。そこまで計画を自分で内省した。 「計画お宅」といってよかった。 評論家がそれを非難した文を読んだことがある。「遊びで事業をしている馬鹿がいる!」とか、これは第三者の目。 そこまで練り上げると遊びになっているのが解らないのだ。いやそのはるか下のレベルの人を言っているのか? その差も解らないレベルの批評というと、その批評に対しても、同じレベルの目線という理屈になる。 高校時代に不思議に思っていた「同じ勉強をしてどうして全く違うのだ?」 それが40年経ったいま初めて気づいた浅はかさである。でも実際社会にでた時から、 実践でそれをやってきたから後悔はないが。あの受験の時の優秀?の人はゲーマーだったのだ。 まあ、それだけではないと思うが。本当にしたい事、なりたい仕事があったから必至に勉強したとかが本当のところだろうが。 パズルゲームか、あれは!!?クイズ??馬鹿馬鹿しいともおもえない。誰も教えてくれなかった、その事実を。 愚直に挫折をしながら、独り知恵を絞った事も事実である。それが力を創ったことも確かだ。 でも事業で両親から、その遊びかたを教わっていた!遊びになるまで集中しろ、継続しろ、努力しろという事だ。 彼らはそれを受験勉強で知っていたのだ・・・??人間はその人の範囲のレベルしか力はつかないものだ。のっけから、 真剣に望めば逆に能力が湧き出る。秘境旅行も「旅行道?というものがあるならば地球の何処を埋めていこうか?」 というゲームになっている?!!ところでこの随想日記はじつは危ないゲームになっている。毎日のネタさがしと、 その内容の構築がゲームでもある。全くの無の状態から探し、材料の構築はスリルでもある。
・・・・・・・・ 2001年09月08日(土) [138] 夢についてー10 ー今まで見た夢で印象に残っている夢をかいてみるー
・海岸線に飛行している夢ーこれは自己実現に対し欲求不満が原因らしい ・谷の間を飛行している夢ー最高の気分 ・お城の天井裏に姫と家臣が隠れ住んでいるイメージ ・白熊に追われ港のヘリに立っているイメージ ・長岡の大手通の店ー子供のころの3階の部屋の夢 ・どこかの町でトイレを探している夢 ・大学の時代いた寮の部屋の夢ー葬式の式段に自分の写真が飾ってある夢 ・5歳のころ一番上の兄が死んだとき白馬に乗って天に昇っていく夢 ・母が白い巡礼の服を着てーそれも7〜8歳の姿を、亡くなった不運の一生だった 叔母が見ている夢ー母の生前の10年前の頃 ・あまりに鮮明に見えるので確認のためもう一回みるとピンボケになっていた夢 ・お寺みたいな屋敷を入っていくと廊下があり、その向こうに池がある、その池が幻想的である夢
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2009年09月07日(月)
長岡の自宅から500m先に、オープンモールの25店舗のSCが9月1日に着工、 来年の3月8日にオープンと現場の立て看板にあった。 それにしても半年とは驚いた。 これから冬場の中で駐車場も含めてである。 新造成地の更地で全てが平屋だから可能なのだろう。 突貫工事になるのだろうが、見ものである。 先月、近くで説明会があった。 折込の通知によると、大和ハウスの総合企画で、三菱東京銀行系が資金調達とあった。 住宅地も数ヶ所売り出されているが、坪27〜8万円、少し高いが環境からして悪くはない。
場所は長岡駅裏から直線道路一キロほど、自宅からは5分の場所。 自宅の100m先にSCがある上に、 長岡駅(12分)には一万坪の専門店街があるので生活環境は、ますます良くなる。 そのSCから車で数分(一キロ)のところに家具のニトリ、家電のジョウシン、ホームセンターのコメリ、 ディスカウント、紳士服のアオキなど20店舗近い川崎のオープンモールのSCがある。 店舗構成をみるとバッテングをさけて補完してあるのが分かる。 店舗が重なるのは、原信と、蔦や。 業種では中古ショップである。 二つのSCを買い回ると丁度良い店舗構成になっている。 これまでは長岡の信濃川の向こうに比べて、川崎のSCだけでは、魅力が薄かったが、 この二つを合わせて対抗拠点として、周辺に店舗が自然発生的に出来ていく過程をみることになる。 長岡駅中専門店街は、年々、弱体化していくが、駅前再開発も含めて大きく一変する。これも見もの。 間違いなく大きく縮小していく市場の中で、再開発だけは止まらない。
・・・・・・・・ 2712, 大相撲が面白い! 2008年09月07日(日)
若貴あたりから、違う面で大相撲が面白くなってきている。 マスコミを巻き込んで、北朝鮮のような瀬戸際のブラックジョーク的な展開を示してきた。 グローバルの流れと、人材不足をカバーするため、いち早く外国人に開放をした。 しかし国技とかいうが、法的に全く根拠の無い曖昧な協会が実態だが、税金を払わない 宗教法人と同じような扱いを受けている。相撲部屋は、ヤクザの世界に酷似、縄ばり社会が寄り合っているだけ。 部屋がそれぞれボクシングジムのように独立し、それが集まって大相撲協会をつくっている。 だから,北の湖が言い訳をするのも一理ある。ボクシング協会が、個々の選手の薬物まで責任はないのと同じである。 そんなことは、どうでもよいが。 今回の土俵外の物語は、ロシアの三人の麻薬事件である。 一月前までは、朝青龍を中心としたモンゴル人がトラブルメーカーだった。 それが一転してロシアの(麻薬)文化?への話題が移ってしまった。朝青龍かたなしである。 今回の物語は北の湖理事長の辞任のプロセスである。今回は、もう無理だろう?しかし・・・・ 昨日のニュースでは、期待をしていたとおり相撲協会が尿をすりかえたり、自民党の??あたりが 天皇家への尻尾振りで、政治的な圧力をかけてくるか、などなど漫画的な動きである。 しかし、幾ら程度が低い彼らも、世界的にも注目を浴びているので、腰が引けたのだろう。 日本のマスコミのロシア人兄弟に対する質問が甘い!「ロシア国家に対する代表として、宣誓できますか」の質問をすればよい。 もし、「もちろん、します!」と答えたら、帰国をして数ヶ月以内に行方不明になるだろう。 大相撲を国技としている限り、今後、中国、モンゴル、ロシア、東欧の国家戦略として日本バッシング戦略的対象になる。 大相撲協会は、あまりに、軽く甘い。 私が敵対国の政治家なら、対日の攻撃対象にする。 自国の強い力士に女とか薬を与え、マスコミに騒ぎ立てるか、日本の力士を徹底的に怪我をさせるようにもって行く。 それかモンゴルのように、三役力士を自国の力士で占有する。 その意味で、外国人に開放をしたと同時に、 旧来の国技という名を返上すればよかった。せめて日本の相撲のルーツのあるモンゴルと朝鮮だけに限定すべきだったろう。 それともモンゴリアンだけに。 しかし、現実は現実である。 国技とかいう名を返上、払うべき税金は払い、 横綱審議会など解散することだ。 天皇家も閲覧席などに座らないで、しかるべき警備をして一般席に座るべきだ。 こういう不祥事も、人気取りの前座と考え、割り切っているのもよい。あくまで、格闘技の見世物でしかないのだから。
・・・・・・・・・・ 2007年09月07日(金) 2348.ベナレス・・・4
この街では私たちの世界と価値観が逆転しているとさえ感じられる。そしてその不思議さは、私たちが生きる社会への、 痛烈な批判なのかもしれない。朝夕、スワループさんの僧院では神への祈りがささげられる。 そこには路地に暮らす数多くの人が参加し、スワループさんが唱える経典の言葉を聞き、その後に繰り返し唱える。 集まってくる人びとの中には、たくさんの子供たちの姿もあった。 かつてスワループさんがそうであったように、聖地ベナレスに受け継がれてきた伝統が、 また次の時代へと伝えられて行くことを感じさせる光景であった。 街が人を生み出し、人が街の営みを支えて行く。こうしてペナレスは聖地としての歴史を刻んできたのである。 スワループさんは月に数回僧院を離れ、寺院やほかの僧院の儀式などに呼ばれ、 祈りをささげに行くことがあるという。多くの場合、その交通手段はボートである。 数千年間続いてきた伝統の道に身を投じようとしているスワループさんは、この街をどう見ているのだろうか。 ここで両親を茶毘に付し、また二年前から現世での生活を捨てるという視点からこの街を見つめ続けてきた彼は、 ベナレスの街並みが見えるガンジス河の上で、こたえてくれた。 「私にとって、この街は特別なところです。この街はすべてが本物なのです。 私は『死』のあり方だけを言っているわけではありません。この街で暮らす人びとは、 とても生き生きと活力に満ちて生きています。それがベナレスの力だと思うのです。 みんな対岸から朝日が昇る光景が好きだと言いますが、私は日暮れ時のべナレスがいちばん好きです。 太陽が街の中心に沈んで、この街にエネルギーが注がれる気がするのです」 「すべてが本物である街」ベナレス。スワループさんが言うように、この街に太陽が沈む光景は、 確かに陽の力が街に与えられるような荘厳なものであった。人生の最期を家族と過ごす館「ムクティ・バワン」 に通い出してから二十日が経っていた。その間四人の人が亡くなられ、希望通りマニカルニカマトへと運ばれて行った。 ------ 解)ベナレスも当たり前のことかも知れないが、やはり現地のあの雰囲気を実際のところ味わってみないと、 その意味は理解できないだろう。それだけの迫力と、深さを感じ取ることはできる。 あれだけ、あの地で死ぬことを欲していれば、死そのものの恐怖は逆に消滅してしまうだろう。 その意味では、宗教の力を直接的に感じる場所と言える
・・・・・・・ 2006年09月07日(木) 1983, 閑話小題 Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning
ーウォーキングの道でー 先日の土曜日の9時過ぎに土手でウォーキングをしていると、小学校の運動場で運動会が開かれようとしていた。 開会式のようで、マイクの声が聞こえてきた。 ところが中学生の声で、「何々中学応援団団長何某!」その後に、 小学生の女の子の声で「何々小学校応援団長何某!」と、宣誓の最後に締めくくった。 今どき、中学校と小学校の合同の運動会か?と、思いつつ通り過ぎながら見ると小学生しかいない。 中学校の応援団が、運動会の高学年の応援指導をしていたのである。 学生服を着て、頭に長い鉢巻をした10人ぐらいの中学生が大声で、高学年の生徒の前で応援の手ふりをしていた。 何とも微笑ましいが、生徒のほうはピリピリしているのが伝わってきた。 運動会全体がしまっていたようだ。 小さな集団に小1のグループがあった。幼稚園の集団と間違ってしまうほど、幼さが残っていた。 ー紀子様、男子出産の意味ー 「朝生TV]のテーマではないが、紀子妃の男児出産で、次の次の天皇継承問題が更に複雑になってきた。 過去の女系天皇の場合、結婚をしてない女性が天皇になっていた。 直径の血を薄めないためだろう。 しかし、この時代まさか結婚をしない訳にはいかない。天皇制を緩める意味で、女系天皇とその子供の天皇継承を 認めるのもよい。しかし紀子妃の男子出産で、次の次の天皇は紀子妃の男児に継承される可能性が大になった。 そうすると、次の天皇を皇太子が辞退ということもあり得る。 雅子様もそれでノイローゼが軽くなるだろうが、その判断は皇太子本人の意思?になる。 こういう直後に、意外と雅子妃の懐妊があるもの。どうなるか、時間が経たないと解らないが・・・ 雅子妃もホッとしているのは、間違いないだろう・・・ ー関敬六という喜劇俳優が亡くなったー 関敬六といえば、TVが出始めの頃から脱線トリオの一員として、 由利徹、八波むとし、南利明等とトリオを組んで 茶の間を笑いに包んでいた。また谷幹一と渥美清と三人のコントを今でも思い出す。 何とも人間味溢れた役者であった。 新聞に、その彼の訃報が出ていた。男はつらいよにも、端役としてテキヤ仲間としてでいていた。 これで渥美清も含めて、全て亡くなったことになる。 一つの時代の終わりを告げているのだろう。 (。・ω・)ノ☆゜+.バイ! ・・・・・・・ 2005年09月07日(水) 1618, 楽しく生きるー3
「楽しく生きる」にも、色いろある。「ドラックをやって、目先の快楽を追い求めて人生をボロボロにしてしまっても」と、 いう意味で言っているのではない。目先の楽しみだけを求めると、長期的に問題がでる。何ごともバランスである。 前回書いた「楽しく生きる」精神科医・高橋和巳著の一部をさらに書き写してみる。 ー人生の「動」と「静」を楽しむー 私たちの生活のあらゆる動きを生み出しているのは「欲求」である。 それは無限のエネルギーを生み出したりして、人生の全体を創造している。 欲求が生まれ、動き出し、目的を達成すると、一つのサイクルが終わり、動きは止まる。 すると、次の欲求が生まれ、新しいサイクルが始る、この繰り返しが生命活動である。 その生命の欲求サイクルが始るところが心の奥底の透明な「意識」である。 ただ私がそこに「いる」だけの場所である。欲求は心の奥底の何もないところ、無から生まれる。 「欲求」は、生まれるとすぐに自分を実現しようと動き出すが、欲求を生み出した 「意識」はその動きに巻き込まれることなく、いつも欲求から離れている。 この「欲求」と、「意識」が私と私の人生を動かしている。意識は動かない「静」で、欲求は動きまわる「動」である。 楽しく生きるということは、欲求を満たす過程を楽しむことである。 そのためには、いつも「動」と「静」の二つが私たちを動かしているのを忘れないように。 いつも変わらない「静」があるからこそ、 「動」を楽しむことができる。 「動」の欲求と「静」の意識が対になって、この世の花を楽しませてくれる。 楽しく生きる。 今、人生を楽しむ。 純粋の遊びこそが、遊びの真髄である。 ー私には「会いたいもう1人の自分」がいる欲求とその成就は、本来、単純である。 このような欲求を邪魔をしている唯一のものは、私たち大人が身につけている「思い込み」である。 この「思い込み」が、本来の欲求不満を自分から隠してしまうのである。 「思い込み」という間違った解釈を自分で与えることで、私たちは自分の欲求不満をそらす。 この自分の思い込みを解除することは、実はもう1人の自分に出会うことでもある。 思い込みが積み重なって出来あがる最大のものは、私たち自身の「自己像」についての思い込みであるからだ。 この思い込み、特にネガティブなイメージの取り除いて本来の自分に出会うことが、 「もう1人の自分に出会う」ことである。あったはずなのに気づかなかった素直な自分の欲求に気がつく。 素直な自分が嫌いな自分のすぐ傍にあったことに気がつく。人生は、その素直な自分の欲求を満たしていく時間である。 ー以上が、この本の概要である。 <自由とは、その周囲から植えつけられた「思い込み」からの解放である> 秘境ツアーに来ている人の中に多いタイプに、思い込みに気がつき、真の「自分探し」の人を多く見かける。 そのタイプを要約すると、ー親と世間の常識を信じて何も疑うことなく、何時の間にか歳をとってしまった。 ふと気がつくと、あと数年しか時間的に自分の残された人生しかない。このままでは、死ぬに死に切れない。 そのために捨て身で世界の果てに来て、自分の心の渇望を埋めようとしている。 もう少し早く気がつけばよかった。余白はあまりにも短い! 等々である。 「楽しく生きる」も、深い心の底からの欲求の充足でこそ意味がある。 その辺のカラオケで騒ぐ、軽いものをいっているのではない。 魂が入っていれば、それでもよいか?
・・・・・・・ 2004年09月07日(火) 1253, 死について再び考える
過去に死について多く書いてきたが、五十嵐恭一さんの死で改めて死について考えてみる。 毎晩、何気なく寝ているが、そのまま目が覚めないと仮定して、深い長い夢をみながら死んだとしたら、 その夢と現実とはさほど変わりはしないのではないか。 死んでしまえば、重油をかけられ燃やされ、 灰に帰す。骨は墓に入れられ、一年もしない内にほとんどの人から忘れさられる。 人生とは何なのだろうか?ー意味 その行蔵の中味は何か?ー経験 何を成しえたのか?ー達成 何を成しえなかったのか?ー挫折 それを成し得たとして、それが如何ということだろうか? 人の苦しみ、喜び、快楽、達成とは何か? 精一杯生きたのだろうか? 答えは無いと思うが、それでもヒントは以下の格言に多く隠されている。 ー生死の格言ー ・死者にたいする最高の手向けは、悲しみではなく感謝だ。 byレーントン・ワイルダー ・墓場は、一番安上がりの宿屋である。 byラングストン・ヒューズ ・僕が死を考えるのは、死ぬためじゃない。生きるためなんだ byマルロー ・虎は死して皮を残し、人は死して名を残す。保険に入っていれば金を残す。 by吉行淳之介 ・あたかも良く過ごした一日が、安らかな眠りをもたらすように、良く生きられた一生は、安らかな死をもたらす。 byレオナルド・ダ・ビンチ ・命とは、セックスで感染した病気である。 byガイ・べラミイ ・誰でも死ななくちゃいけない。でも私はいつも自分は例外だと信じていた。 なのに、なんてこった。 byウィリアム・サローヤン ・立派に死ぬことは難しいことではない。立派に生きることが難しいのだ。 by映画『無防備都市』 ・人間、死ぬときは死ぬのがよい。 by白隠 ・どのみち死なねばならぬなら、私は、なっとくして死にたいのだ。 by梅崎春生 ・死は生の対極としてではなく、その一部として存在する。 by村上春樹 ・昨日まで 人のことかと思いしが おれが死ぬのか それはたまらん by蜀山人 ・死の恐怖は、解決されない生の矛盾の意識にすぎない。 byトルストイ ・不幸な人間にとって、死とは無期懲役の減刑である。 byアレクサンダー・チェイス ・死の持つ恐怖はただ一つ。それは明日がないということである。 byエリック・ホッファー (字数の関係でカット08年09月07日)
・・・・・・・・・ 2003年09月07日(日) 886, 「ありがとうの言葉」ー8
昨日の散歩で何回『ありがとう』をいえるか試してみた。8500回であった。 今日は1万回に挑戦をしてきたところだ。1万回は2時間以上ふるに言い続けて初めて可能になる。 言い続けるにしたがって、忘我の境に入っていくのがわかる。7000~8000回が、その入り口であった。 回りが全く遮断され「ありがとう』の言葉に一体化してしまう。カウントを間違わないように指先に集中するのがポイント。 そうしないと、すぐに何かを考えてしまうからだ。右指を十単位、左指を百単位で折ってカウントをする。 カウントも、時間で計る方法と、距離で計る方法がある。今の私には指折りが最適のようだ。 慣れてきたら時間か距離の計測に変るつもりだ。散歩の歩数は、初めは万歩計であったが、今は時間で計っている。 散歩に「ありがとう」を言い続けるのが一番良いようだ。 この随想日記を読んで一番初めに反応してきた、ある社長は一日平均6000回言っているという。 また彼が紹介した知人の数人が、「幸せの宇宙構造」を10~20冊買って周囲に配っているという。 ありがたいことだ。反対に一週間の約束で貸して、2ヶ月以上経った今も返してこない人もいる。 「ありがたい」と思えば約束を守っているはずなのに。読んでないのか、馬鹿なのか。 「貸したら帰ってこない」と思わなくてはならないのは解っているが。 「幸せの宇宙構造」を読んで、『ありがとう』を言い始めて3ヶ月が経つ。気持ちが安定をしたことが何よりの成果である。 それと、人に対して寛容になったようだ??? ミニ瞑想を繰り返しているようでもある。 否定語は相変わらず使っているが、すぐに「ありがとう」という言葉で消してしまうのが良い。
・・・・・・・ 2002年09月07日(土) 512,パンプローナの牛追い祭り
今朝9時半より、衛星TVで今年のサン・フェルミン祭を放映していた。 もし神様が一日だけもう一度同じ日を与えてくれるといったら、4年前のこの祭りの最終日を間違いなく選ぶだろう。 今年は例年になく多くの負傷者が出た。今日の番組は毎朝の牛追いに絞った8日間の内容の為、 毎年放映される中でも特に迫力があった。 初めから最後まで手に汗を握る内容であった。 この祭りはヘミングウエーの「日はまた昇る」で舞台になり世界に一躍知られるようになった。 この期間ー7月上旬の8日間、町中の人が白い服に赤の腰巻の布を巻き、赤いネッカチーフをつける。 パンプローナの出身者の多くが帰ってくるという。毎朝6頭の闘牛とそれを先導する虚勢牛6頭の合計12頭が闘牛場に 向かう街の道路に放たれる。毎日異なるドラマを生みながら熱狂を8日間重ねていく。その6頭の闘牛が毎日おこなわれる。 4年前その最終日の闘牛をみたが、会場が異様な熱狂に包まれていた。その牛の前を走るエニシエロが、勇気試しになる。 19世紀半ばからこの祭りが始まり、闘牛とか牛追いは途中からその祭りに加わった。 ーユーラシア旅行社でいくと、市役所広場の前の4階の部屋からファイナルギャザリングと牛追いが見れる。 4年前の「北スペインの旅」−より抜粋ーの内容をコピーしておきます。 ーーーーー (以下、字数の関係でカット、09年09月07日)
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2009年09月06日(日)
週刊朝日の記事ー 平成維新「次の100年が始った」が面白い。 ーまずは民主党の大勝の長短の4つの物指しを要約 一、麻生の一年足らず政権、永田町の政治記者レベルの内容。今後、民主党が、 そのレベルとして参院選挙まで、いかに実績を積み重ねることができるか。 二、次は、四年前の小泉劇場の大勝で、今度の選挙のように逆ぶれで民主党に政権が転がり込んできた。 4年後の衆院選挙も同じ道をたどることになるかどうか。 三、小選挙区制度ができて15年で、ここでようやく政権交代が実現した。1993年の国会は、 「政治改革国会」と呼ばれ、翌年には小選挙区比例代表制を含む政治改革関連4法が成立。 今後、15年で二大政党の交代システムが出来るかどうか。 四、120年という物指しで、これが最も本質的な物ざし。明治憲法ができて120年になるが、 この間の政治は実は官僚に従属してきた。 今度の政権は120年の「中央集権国家」を廃絶して新たに 「地域主権国家」を樹立しようというのである。 自民党も「地方分権」といい、その具体策として 「道州制度」を導入しようとしているが、あくまで「中央集権国家」が今後とも続くという前提である。 その官僚主導体制とその中核である財務省による徴税・国債管理・予算分配の「財政中央集権」も続く ということであり、分権といっても、うやむやにされることは目に見えている。 これに対して、民主党のものは、国民生活に密接な権限と財源を基礎自治体に渡してしまうもの。 ーー 以上だが、その15年間、延命を繰りかいした自民政権があまりに狡猾であった。 それも120年続いた流れで、国民が騙されていたことが露出してしまったのである。 二度とあの威信は戻ることはない。 あとは民主党の自滅を待つしかない。
・・・・・・・・・ 2711, 臨死体験を経験できるヘルメット 2008年09月06日(土)
何の知識無しで初めて幽体離脱を経験したときの驚きを今でもリアルに憶えている。 それを契機に、キュープラ・ロスや、立花隆の臨死体験などの本を読み、その経験の意味を知った。 ところが最近になり、アメリカでパーシンガー博士の開発したゴッドヘルメットと呼ばれるものがあり、 これ装着すると万人が体外離脱できるという。博士はてんかんの治療で、脳を電極で刺激する手術を400例以上やっていて、 その手術の際に側頭葉のシルビウス溝と呼ばれる、右耳の上を電極で刺激すると、体外離脱がおこることを発見した。 これで体外離脱した意識が、遠くのものを見てきて、現実と一致したり、霊が他人の体をジャックしたイメージも起こるという。 これまでのように脳を開いて直接電極を押しあてたりせず、電磁気で脳を刺激して、反応を見る研究が盛んのようだ。 体外離脱とは、脳の中の幻覚ではなく、アストラル体のような意識が、抜け出している状態ともいわれる。 実際に体外離脱の経験者に装着したところ、同じような経験をしたという。 それまで一部霊能者とか、そういう体質を持った人だけしか経験できなかったことを、科学者は誰にでも体験できるようにする。 何年もしないうちに、家電の店頭で並ぶかもしれない。 これを被って気が向いたら幽体離脱をするのも面白いだろう。 そういえばアルファー波を発生させる器械を買ったことがあった。 またマリファナを吸ったと同じ気分になるCDのセットも買ったことがあったが、少し酔ったような気分の状態になる。 私は酒に酔いの方が好きだが。他のTPOSが面白いだけであるが・・・ 恐らく、これを被っても、私の経験した幽体離脱の緊迫した感覚とは違うだろう。 色いろな状況の中で独りで、誰にも言えない奇妙な体験だから神秘的なのであって、 ヘッドギアの器械で幽体離脱をしても、味も素っ気もないだろう。 しかし、面白そうである。 前に書いたことがあるが、欧州の帰りの飛行機の中での夢。 「自分の身体が突然にフワフワ空に向かって上昇していく、電信柱が下に見えてきた辺りで恐怖心が出てくる。 夢から早く覚めて布団に身体を戻さないと、我に返った。 ところが、そこは飛行機の中で、身体が地上に在るはずなのに逆に、 その遥か上を猛スピードで移動している。 そこには、飛行機も、シートも、周囲の人たち消えて、独り宙を移動している」 身体が凍りつくとは、このことだろう。 恐らく、死ぬ瞬間とは、あの感覚になるのでは? 絶叫をしそうになったが、 ギリギリ抑えることができた。人間は大地の上で生きているのである。 死ぬと、大地から離れるのである。 幽体離脱で元の身体に戻ってこれないで、狂ってしまうケースもあるというし、。 自分が外に出ている間に、動物か彷徨っている霊が入り込む場合が往々にあるという。 オウム教が騒がれていた頃、ニュースなどの映像で、ヘッドギアをしている信者の姿を見かけたが、 あれがゴッドヘッドだったのか? 集団維持の手法や、典型的カルトの教えは、否定されるべきだが、 宇宙からの視点とか、こういう幽体離脱の手法は、なるほどと感心する。脳はまだまだ未知の世界である。 脳は3?しか使われておらず、10?も使えば天才になれるという。神様(自然)は何を脳にさせよとしたのだろうか。 我われ凡人は、パソコンなど、道具を有効に使ってせめて5〜6?を使えるようにすればよい筈だが?
・・・・・・・・・・ 2007年09月06日(木) 2347.ベナレス・・・3
出家した兄に対する妹の思いがそのまま伝わってくる。 出家をした目線がなかなか興味をそそられる。 ーーー P-126 兄の品々を懐かしそうに見せてくれるサルラーさんの振る舞いは、 まるで、亡くなってしまった兄弟の遺品を大切に保管する遺族のようであった。 実際、出家遊行僧とはすでに死んだ存在であるとされている。 サンニャーシーとなる際に、ガンジス河の岸辺で白い団子を流すという一つの儀式が行われる。 白い団子は通常、先祖の供養に流すものであるが、それを自らのために流すのである。 つまり、死者となる自分を自分で弔い、世俗の生活に別れを告げるのである。 出家を志した今、スワループさんの生活の場は限られたものになった。 ガンジス河のほとりにある僧院に住み、毎朝五時には屋上で、対岸から昇る太陽に祈りをささげ、瞑想を行っていた。 ガンジス河が見下ろせる二階のバルコニーからは、金網越しに右手には火葬場の茶毘の風景、左手には密集した べナレスの街並みを望むことができる。ここはスワループさんがもっとも好きな場所であるという。 「この景色は美しいだけでなく、輝いています。 果てしなく続く空が眼前にひろがっています。 そしてここからは、生きることと死ぬこと、その両方を目にすることができます。見てください。 こちらの街では、まさに今、幾つかの建物が建てられようとしています。新しい人生の物語が語られようとしているのです。 一方、こちらではまさに今、誰かが茶毘に付されようとしています。一つの人生の物語が終わりを告げようとしているのです。 この街は人間が必ず死ぬということを教えてくれます。欲望を追い求めてばかり生きると、死ぬ存在であることを忘れてしまいます。 私たちのことを世捨て人と言う人もいますが、私は欲望を捨てることで、生と死、その中間の道を進みたいと考えているのです」 ベナレスは不思議な街である。ここでは火葬場がもっとも聖なる場所の一つとされ、 欲望を追い求めるのではなく、欲望を捨て去るという幸せのかたちが、多くの人によって模索されている。 私たちの世界では火葬場は忌むべきものと敬遠され、欲望を追い求める幸せのかたちが模索されているのではないだろうか。 ーーー 解) 死ぬための街は、インドにも他にも幾つかあるようだが、それにしてもヒンズー教以外の人から見たら異様である。 火葬場近くの川の中で、死者が身につけていた金銀などを流された骨の中から拾う人がいるのである。 背筋が凍る思いであった。
・・・・・・・ 2006年09月06日(水) 1982, ある首斬り役人の日記 −3 Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning −読書日記 215、1602年9月14日 ゲオルク・ブラウン、マンスフェルト出身。 彼は蜂蜜・胡椒入りケーキ職人で、流れ者の剣客であった。 旅の道連れだった青年から13ターラを盗み、その代わりに石を入れておいた。 その後、コペンハーゲンでも同じ青年からまたしても8グルデンを盗んだ。その他にもある車夫から車を盗んだ。 同人を当地にて処刑した。その後たっぷり7〜8分、彼の首は石の上であちこちを向き、さながら、 四方を見回すように動いた。また、何かをいいたいように、舌を動かし、口をあいた。 私は、今までこのようなことを一度も見たことがなかった。 感想) このような文章を見ていると、時代を超えた何が伝わってくる。 229、1604年10月13日 (+>∀<+)ノ ホンジャ! ・・・・・・・・ 2005年09月06日(火) 1617, 楽しく生きる−2
大不況の中、毎日を楽しく生きることができれば、これにこしたことがない。 図書館で借りた「楽しく生きる」精神科医・高橋和巳著が、なかなか含蓄のある内容であった。 ー概要をまとめてみた。 (時間をかけて書き写すだけの価値は充分にあった) ーー 人の欲求が新たな希望へと向かう心の軌道とは? 欲求の生起ー>否定ー>欲求不満ー>絶望(対象喪失ー>茫然自失ー>否認ー>怒りー>自失−>怒りー>自責) −>抑うつー>悲しみー>孤独の自覚ー>諦めー>新たな希望の獲得ー この過程のどこに「私」はいるのか考えてみようと提起している。望みが叶わないといって絶望や諦めを恐れる必要はない。 人の心は絶望や諦めを超えることで、孤独の中の本当の自分と出合い、自分が何を望んでいたのか、 欲求の全体構造を明らかにする。 そして、その先にある新たな希望へと導く。 挫折から、諦め、そして孤独の底から、新しい自分に出合い、新たな希望を創っていく中から、 真の楽しみ方を見出していくのである。何を考えても埒があかない。どう望んでも解決が見えない。 そんなときには、一度すべての欲求から離れるしかない。自分の心、身体、他人や環境のあらゆるものから離れて、 濁流や、澱みや流れの全体を見渡せる場所に自分を置く。そこで自分を作り直す。そこで、もう一人の自分に自分に出会う。 我われがあらゆる欲求から離れることができるとすれば、それは時間が止まったときだけだ。 時間は二つの場合に止まる。 絶望の中と、満足の中で。欲と向き合う、そして自分を満たして、自分から離れる <諦めて得た楽しみ> 追いつめられて見つけたもの、孤独と正面から向き合って心の安らぎを得ることである。 それは、世間的な色・金・名誉を断念することで初めて可能になった心の安らぎ。その引き換えに諦めを得たのである。 諦めは怒りへの固執を解く。諦めは生まれてから長く慣れ親しんできた自分の外界の世界への固執も解く。 もう、表象の欲に振り回されることもなく、静かに居られる場所を持ったのである。 人の精神が新しい世界に飛躍する時は、静粛に一度立ち戻らなくてはならない。 静粛の中で起こることは、古い欲求構造の破壊と新しい欲求の誕生である。 ー 雅ー欲を楽しむという意味 (以下、字数の関係でカット08年9月6日)
・・・・・・・・ 2004年09月06日(月) 1252, オーストリア旅行記ー3 ーシェーンブルン宮殿
シェーンブルンの意味は「美しい泉」である。 その名を持つこの宮殿は、女帝マリア・テレージアをはじめ、その娘マリ-・アントワネット、 皇帝フランツ・ヨーゼッフ1世、皇女エリザベートなど、パプスブル家の人に愛され、光栄ある時代を今にとどめている。 そのきらびやかな部屋からは、華麗なる彼らの生活が蘇って見えてくる。 その幾つかを書いてみると、 ・ナポレオンの部屋 1805年、1809年の二度、ナポレオンがウィーンを占領した際に居室として使用していた部屋である。 18世紀の軍隊生活を描いたブリュッセルの 写実的なタベストリーが部屋を飾ってあった。 ・マリー・アントワネットの部屋 マリア・テレイジアの娘であるアントワネットが、フランスに輿入れをするまで 殆どをこの宮殿で過ごした。 その後はダイニング・ルームとして使われていた。 ・鏡の間 1762年に、当時から神童として名だかかったモーツァルトが、マリア・テレージアの前で初の御前演奏を行なった場所。 そこで演奏後、けつまずいたモーツァルトを助け起こしたのがマリー・アントワネットであった。 ・漆の間 マリア・テレージアが亡き夫を偲んで改装した部屋は濃茶の漆塗りに金で描かれた花鳥や東洋的な 風景が壁一面に覆っていた。そこにはフランツ1世や、ジョセフ2世などの肖像画が飾られていた。 そこでマリア・テレージアが夫の思い出に浸っていたという。 ー聖シュテファン寺院 Stephansdom 市内中心部にある大きな教会。塔は一部修復中であったが、屋根の模様は見ることが出来た。 エレベーターで、その屋根の上まで昇ってみてウィーンの街を見下ろしてみた。 その後、ケルントナー通りの聖シュテファン寺院から国立オペラ座あたりまでを ぶらぶらと歩いてみた。
・・・・・・・ 2003年09月06日(土) 885, 遥かなるアルゼンチンタンゴ
先日、NHKのBSTVで「遥かなるアルゼンチンタンゴ」の2時間番組を放送していた。 昨年末にアルゼンチンに行って、本場のアルゼンチンタンゴのショーに感激した余韻が残っており 丁度よいタイミングであった。 (感想文は後にコピー) 番組はアルゼンチンタンゴの歴史や由来、超一流のタンゴの踊りを交えた内容の濃いものであった。 アルゼンチンタンゴは踊りだけでなく、歌も庶民の悲哀と愛を歌い続けてきた。 バンドネオンといわれるアコーデオンやバイオリンなど中心としたタンゴオーケストラもある。 ー以下はその放送に流れるナレーションを纏めたものである。 禁断の踊りの魅力に満ちた哀愁の漂う街ブエノスアイレス。その隅々までタンゴの一部になっているようである。 パリの街の売春宿の踊りとして有名になった時、時の法王が、そのあまりの過激さに、「タンゴ禁止令」をだした。 その時パリにやってきていたカシミール・アイーンが、法王に直訴をした。そして法王の眼のまで実際におどって見せた。 それをみた法王が感動して、禁止令を撤回したという逸話がある。 この世界中を魅了している踊りの歴史は深くはない。 南米のアルゼンチンのブエノスアイレスに世界中の踊りや歌を携えて船乗りたちがながれてきた。 そしてそこの男女が互いを誘惑しあった踊りである。キューバのタバネロや、スペインのフラメンコが混ざり合い 出来上がっていった。執拗に互いの身体を密着しあった踊り、それをアルゼンチンタンゴというようになった。 男女が誘惑しあうタンゴの原点はいつの世にも変わることはない。 変な気取りを全て捨てて鳥のように誘惑しあう姿が美しい。男女が身体を離して踊るのではない。 二人は密着しあって一つになる踊りである。 彼らはタンゴから人生そのものを学んだ。 ブエノスアイレスは犯罪が少ないという。男女の欲望はタンゴをとおして発散できるし、出会いの場が多い。 ダンス場が街のあちこちにあり、入場料はマンドリン(飲み物付き)で200円ばかり、眼が合えば一時の恋人になる。 音楽の続く3分間はお互いに相手にゆだねる。全く知らない人でも、ダンデーな男と艶やかな女になれる、 それがアルゼンチンタンゴである。 ー以上であるが、何よりも男女の誘惑しあう踊りがイヤラシクも何もない。スペインのフラメンコは一人踊りか、 集団で踊るかだ。それに対して、男女二人が体を密着して誘惑しあう。 ・・・・・・・・・・・・・ ータンゴの歴史 (以下、字数の関係でカット08年9月6日)
・・・・・・・ 2002年09月06日(金) 511,こころの添削
「文章を添削することは心を添削することだ。 その人の心が添削されないかぎりはその人の文章も添削されようがない」 ー藤村藤村の「初学者のために」より なにか毎日[[随想テーマ日記」を書き続けていて、一番勉強になるのが自分自身である。 思っていることを書き出して、添削を続けていると心を書き出し、こころを添削しているような気になる。 小さな、ネジ曲がった自分がまず浮き彫りになる。そして、他人に見られていることを意識して書き直す。 その作業を通して、自分の心が添削されていくのが実感で解る。文章の上達は「量を書くことと添削しかない」 と立花隆が書いていたが、そのとおりである!添削は誤字や文の脈絡の捩れを直すだけでなく、その前提に なっている自分の視線・視点を治す事だ。言葉が汚い自分はこころも汚い事と反省しなくてはならないが! ・・・・・・・・・ 人生は「自分が真にしたいことを見つけ、面白く生きること」これが秘訣だと両親の生き方より若いときから学んだ。 ものを書くことも然りと、田辺聖子の「いい文章を書くために」という随想に書いてあった。 「書きたいことを、面白がって」そうすれば、読む方もその人の本当に言いたいことに注目をするし、 面白がって読むだろう。文章も躍動感に満ちたものになるだろう。 ・・・・・・・・・ 「随想はつまるところ自慢話」と井上ひさしがいっていたと、林真理子が書いていた。 なるほど、そのとおりである。 毎日書き続けていてそう実感する。「こんなことを知っているぞ」とか 「こんな経験したことがあるぞ」 とかだ。それでは外に何を書けといえばいいのか? やはりその類のことしか実際のところない。勝手に書いて、公開しているんだからと開き直るしかない。 何か書いている原動力が自慢話とは、それも面白いものだ。「毎回見ていただいてありがとうございます!」 いや「毎回自慢話を聞いていただき有難うございます!」
・・・・・・・・ 2001年09月06日(木) [135] 熊
「熊に追われ逃げてきた、そこに大きい池がある、その横に木が立っている、その向こうに家がある」 さあ貴方はどうする。「木に登るか、池に飛び込むか、家に逃げ込むか?」 木は理想。 池はセックス。 家は-実家ー昔の思い出ー ー木に登りしがみつき、池に飛び込み溺れ、家に飛び込み熟睡,でもすぐ飽きてしまう。 これが人間の姿だ。熊は何かーもちろん現実そのものだが、自分の影か父親か。 この質問を第三者にしてみると本当に面白い。そのものずばりだからだ。 この喩えを知っているためか、よく熊に追われる夢を見る。 「何処かの家の外に熊がいる、 いつのまにか家の一階にいる、そのうちドアの外まで来ている、どうしよう」というところで目が覚める。 どういう訳か熊に襲われる前に目が覚める。
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2009年09月05日(土)
* 民主308議席の衝撃 ー朝日新聞ーオピニオン高橋源一郎 9月4日
朝日新聞のオピニオンのコーナーの高橋源一郎の「父は疲れてしまった」の例えが言い得て妙。 ー概略とは 《 今回の政権交代は、自民党が古いタイプの家父長で、国民がその「妻」、民主党が自民党から生まれた「子」 と考えとわかりやすい。 要するに「熟年離婚」なんですね。「妻」である国民は、「夫」の自民党に何度も裏切られても、 なかなか別れることができない。 離婚など出来ないと思い込んでいたからです。「夫」も、浮気をしても喧嘩をしても 「妻」は自分のいうことを聞く、過半数は取れると思い込んでいた。両者とも「離婚」という発想がなかった。 でも、05年の選挙で、投票で政治が変えられると気づいてしまった。それなのに定年に近づいた「夫」がまだ威張っている。 そこで「妻」は離婚届を突きつけた。 一方で自民党も、実は離婚を無意識で望んでいた?。 一種の自殺願望。 小泉が自民をぶっ壊すといい、安部、福田の二代の総理が政権を投げ出した。 もう死にたいという自殺願望である。 半世紀以上も政権にいたことで金属疲労を起こし、当人たちは、もうやめたいと思うようになった。 国民は「戦後」的な関心を失っているのに、自民党だけが旧言語で話している。 彼等はそのことを体感としてわかっていても、あまりにずれていて、自分ではどうしようもない。 「子」である民主党は、自民党から脱皮した形で生まれた政党。だから、いち早く「戦後」から脱皮できたのです。 自民党の大物議員に「小沢チルドレン」の女性をぶつけたのは、「家父長的な老人と若い自立した女性の戦い」 という構図を見せつけたかったからです。 民主党は、この選挙が過去と現在の戦いということを知っていた。 「いま」や「変化」を掲げて、「現在」という時空間に適応したからこそ、大勝できたのです。 自民と民主党は、いわば違う時空間に存在している、だから、「現在」の中での価値の争いとはなりにくい。 恐らく、自民はこのまま自壊していくんじゃないか。 民主党は、自民党という「父」を敵にすることで結束してきた。 一度「父殺し」が成功してしまえば、兄弟げんかが始まり、分裂しかけない。それをどう防ぐかが大きな課題になる。》 = 作家とはいえ、全く上手い例えを思いつくもの。ギリシャ神話のオディプスの父殺しを、持ち出すとは。 このように一度、殺されてしまえば、父への思いは何だったのか?、ということになる。 森、安部、福田、山崎拓などの権威が元に戻ることは無い。 「自民党パージ」である。 社会党の残党が隠れ住んでいるが、これらも森、山崎拓と同じ穴の狢。 一度、分裂した後に再編成のプロセスが必定だが、少し勝ちすぎたのが時期を遅らせてしまう。 自民党という父は疲れただけでない、殺されてしまったのである。困ったのは、本人たちが解ってないこと。
・・・・・・・・・・ 2710, 今東光の話題 2008年09月05日(金)
以前に、今東光の毒舌の味と凄みについて書いてある本を紹介したが、インターネット上の検索で見つけた 「極道辻説法」の一部抜粋してみる。自分の年齢が、この人物の年齢に近づき、若い人に対する視点が似てきたのに 驚いているが、今東光の足元すら届いていない己との距離も見えてくる。 今の時代が、この馬鹿な質問者よりもレベルが下になっているのか?。 彼が現代の日本に対して曰うとしたら、こんなものだろう! 「この馬鹿野郎!手前ら、ここまで成り下がったのか、エエ〜! アメ公の毒饅頭をまだ食べてんのかよ〜! ブチ殺すぞ、この野郎。 頭と尻尾から腐るというが、あのパンダのようなキャスター上がりのようなオナゴが 次の首相に立候補だと、何をぬかしあがるか。馬鹿野郎! 面を見な、面構えがなってないじゃねえかよ、わかんねえのか! 程度の低い二代目が続けて首相だと、あいつらに国家が任せるしかない、日本がよ哀れでしか思えね〜よ。たくも〜! どれもこれも腑抜けた奴ばかりじゃねえかよ、あの中曽根も、まだ生きてやがる!それもしたり顔をしてよう。 今度は、吉田茂の孫かよ、そして何をするかとみたら、またバラマキかよ。なんなもの。 一度な〜、明治維新のことを考えてみなよ。 今の日本の危機は、あんなものじゃねえんだ。解ってんか!」 大体こんなものか。 今度、今東光を私の脳に呼び寄せて娑婆批判をしてみる。「今東光語る」とかいうシリーズで! 〜〜〜 ー「極道辻説法」etc よりー (以下字数の関係で中間カット2009年9月05) (相談者)「親友はどのようにしたら出来ますか?」 (回答) 「そういうことを質問するテメエぐらいバカはいねえんだよ。 なぜテメエがだよ、テメエ自身がいい友達になってやるっていう覚悟をしないんだよ。」 〜〜〜 (相談者)「男の生きがいとはなんですか?」 (回答) 「男の生きがいってもんはな、生きてて満足だっていうのが生きがいだよ。 なにとぼけたこと言ってんだコノヤロウ」 〜〜〜 (相談者)「人間はなぜ人を好きになるんですか?」 (回答) 「じゃあ、なぜ嫌いになるんだい? オレなんかやっぱり人間好きだもんな。 人間が好きだからこう文学も絵も書けるんで、嫌いだったら出来ないよ。しかし、人間には欠点がある。 逆にこの欠点があるからこそ愛せるんだよ。欠点がなかったら神様や仏様みたいなもんで、これは彼岸の人だ」 〜〜〜 (相談者)「人生とは何ですか?」 (回答) 「いい言葉を教えてやろう。それは「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という言葉だ。 遊んで遊んで遊び尽くせば何かに突き当たって掴むものがある。何もやらない戯無よりも、 たとえ失敗しても傷心の方がはるかに貴いものなんだ。空々寂々たる人生なんて糞食らえと思うべし」 〜〜〜 (相談者)「仕事が忙しくて友達ができない」という悩みを抱えた22歳の左官に (回答) 「オレはおめえの言うこと聞いてて、もっとも情けなくなるのは、どうしてそんなに友達が欲しいのかっていうことだ。 友達なんて要りゃあしないよ。自分が立派になりゃあ、向こうが友達になってくれと来るんで、友達なんてものは、 いくらたくさん持っていたところで、いざとなって役に立つっていったら、一人もいないもんだ。 友達なんてものはそんなもんでね。バカこくな! (中略) 何もつまらん女をひっかけたり、友達作ってストリップを見に行ったりせずとも、ひたすら壁を塗りまくれ! 金を使うひまがないんならなお結構な話じゃないか。 塗りまくって金を貯めまくりゃあ、 いくらでもいい嫁をもらえるじゃねえか。 何をぐだぐだ言いやがる。しっかりせえ! 〜〜〜 (女に嫉妬する男に対して) (回答) その女、オレに紹介せい。なかなか面白そうな女じゃないか。 結婚なんてさせちゃあいかん。てめえもヤキモチ焼くようじゃ、そんないい女とする資格なんかありゃあしねえ(中略) 糞ったれ野郎!彼女が美しければ美しいほど、ボーイフレンドはいるだろうし、 てめえなんぞはもう脈ねえよ。
・・・・・・・・・・ 2007年09月05日(水) 2346.エーゲ 永遠回帰の海ー2
この本を読むまでエーゲ海の周辺に無数の遺跡があることを全く知らなかった。 ギリシャ本土はもとより、エーゲ海に点在する島々に、そして対岸のトルコのアナトリア地方に数知れないほどの遺跡がある。 素晴らしい神殿があっても、その由来が全く解らないために、神殿A,B,C,Dなど記号で呼ばれているものもある。 序章の中で、シチリアのセリヌンテ神殿群を訪れた時のことを、以下のように書いている。「なぜそんなにまでして 遺跡を見て歩いたのかと問われると答えるのは簡単でない。ほんものの遺跡と自分自身で出会った事のない人に その理由を説明するのは、ほとんど不可能に近い。」 「遺跡=滅びた跡。そこに必ず、繁栄と栄華ののち、その時代の大戦に敗北して破壊され滅亡した都市の歴史が刻まれてる」 「知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。 歴史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料の中に遺されている歴史。 それらはすべてフェイクである。最も正統な歴史は、記録されざる歴史、 語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか。」 「いま自分の前にあるこれらの神殿。これだけの見事な神殿が、これだけ立派に保存されているのに、 この神殿がいかなる神殿であったか、誰も知らないのだ。記録された歴史などというものは、記録されなかった 現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。 宇宙の大部分が虚無の中に呑みこまれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑みこまれてある。」 「時間は一つの方向に不可逆的に流れるものではない。円環をなしているのだ。 時が円環であるなら、初めもなければ終わりもない。過去は同時に未来で、未来は同時に過去である。 現在は永遠に過ぎ去りゆく一瞬ではなく、永遠そのものである。 現在はすでに過去に無限回くり返されたことがあり、未来においても無限回くり返される。 人はまさにこの現在の一瞬において、過ぎ去りゆく時を生きているのではなく、永遠を生きている。」 人気(ひとけ)のない海岸にある遺跡で、黙ってしばらく海を眺めていると、 これが永遠なのだということが疑問の余地なく見えてくるような気がするという。 他にも、シチリアのセリアンテ神殿群、トルコのペルガモンの大劇場、ディディマのアポロン神殿、 エフェソスの大劇場・アルテミス像、聖山アトス、リキアのサルコファガス、ヒエラポリスのネクロポスなどがある。
・・・・・・・ 2006年09月05日(火) 1981, 歩行とダンスー2
「歩行とダンス」というて、テーマで文章を書いて、はや12年も経つ。12年ぶりに引き継いでの文章化も面白い! と思い立ち書いている。 当時、転勤で大手商社の新潟支店に来ていた大学時代の友人と、この話を酒のツマミにして 酒を飲んだことを思い出す。 その友人が、ダンスをフォーク・ダンスと喩えたのは面白かった。 その後「一人踊りでドアに行くとしたら何だろう?」と誰かにいったら、「鼻歌を歌いながらスキップすることじゃないか」 と答えた。なるほど、そのとおりである。 この話、よく酒のツマミにするが、けっこう受ける。 「ドアはドアでも、どの部屋のドア?まさかベッドルームじゃ、話が落ちるか?」と、言った人もいた。 ダンスの相手も色いろ考えられる。「困難」と考えると面白い。困難を嫌がらず、むしろ踊りの相手として一緒に楽しむ? まあ、かなり難しいが、それがゲーム化ということになる。事業の立ち上げも、ダンスの相手と思うとよい。 人生の全てを賭けてのダンスだからスリルとサスペンスがあり命がけである。人生、ストリッパーの裸踊りのようなもの と言うと、例えが悪いか? 隠すべきところは隠しておかなくては、色気も面白みも無いところが同じ。 手段の目的化と、目的の手段化、そしてその融合化と言ってしまえば話はつまらなくなる。 たまたま去年の同月同日に『楽しく生きる』というテーマが書いてあった。この文章を引き継ぐのに丁度よいテーマである。 12年前の文章である。 ーー H0609 歩行とダンス-1 丸山圭一郎と黒鉄ひろしの対談集で“歩行とダンス”という二人の対話が面白かった。 “ドアにむかって歩いていくのが歩行、これは手段である。ダンスはドアに向かわないし、その行為そのものが目的である。 それではドアに向かってダンスをおどって行く事はありうるか! ありうる!”という。 非常に含蓄のある面白い内容である。 人生、仕事、学問すべてにあてはまる内容である。今回の仕事(第二新館増築)の最中にこれをよみ、 “よしこの仕事とチーク・ダンスをして、ドアまでいってやれ”と、一人笑った。 私の学生時代の大手商社に勤めている友人と、酒をのみながら右の話をした。 本人いわく “私はさしずめ、それはホーク・ダンスだな!。好きな奴もいやな奴も次々と仕事仲間でまわってくる。 それも楽しそうな顔をしながら手に手をとっておどる妙味!” 当意即妙であった。 ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、それをダンスとしてリズムをとりながらパターンをマスターし、 かつ楽しみまで高めてドアに向かう事となると誰にでもできない。ついついドアを忘れたり、ダンスを忘れてしまう。 ダンスを忘れある年令に達して愚痴を言っている人が何と多い事か。 そしてその反対に逆の人も。
・・・・・・・ 2005年09月05日(月) 1616, 楽しく生きる−1
「楽しく生きる」を、私流に「面白おかしく生きる」というコンセプトにして自分に課してきた。 それも20歳代の頃からである。むしろ「楽しみを見つけだす」という生き方であった。 私の行蔵の中の「楽しい時間」の中には、溢れんばかりの行蔵が詰まっている。 (他人からみたらガラクタだろうが、私にとってお宝である) 楽しいときは、どういうときであろうか。 ・自分のしたいことをしているとき ・何かを期待してワクワクしているとき ・感動をしているとき ・自分の望んでいたことが実現しているとき ・人に褒めてもらえたとき ・自分の生き方に自信を持ってるとき等々、上げられる。 いずれも肯定的な感情に包まれ、自分の欲求が満たされたときである。 一度だけの人生、肯定的な感情で、かつ自分の欲求を満たさなかったら、人生を浪費していることになる。 特に人生の後半は前半ほど単純ではない。多くの過去を背負っているからである。 ならばこそ、その中で「楽しく生きる」喜びも深くなる。 文筆家(哲学者)池田晶子 の 「楽しく生きるためにどうすべきか」という文章がよい。彼女は、哲学することの意味を平易な言葉で語ることに定評がある。 ーまずは、彼女の文章をそのまま書き写してみる。 人生は短い。と、どうしてもやはり思いますよね。 平均寿命は80とは言われますが、歳をとってからできることは 当然若い頃より制限されますし、ましてやその歳まで生きるかどうかの保証はどこにもないわけです。 ひょっとしたら、明日、心臓発作で死ぬかもしれない。縁起でもないと、普通はやはり思いますよね。 しかし、よく考えてみると、いやよく考えるなどしなくても、生きている限り人が死ぬのは当たり前で、この当たり前を 当たり前として認識しているかどうかで、人の人生観は全然違ったものになるようです。 今のここに死はあるからこそ今のここの生はあるのだと思えば、人生は長いとか短いとか言いようもなくなるはずだからです。 (以下字数の関係でカット2008年9月05日) ーつづく −−−− 2004年09月05日(日) 1251, オーストリア旅行記 −2 ーウィーンー
オーストリアといえば、ウィーンである。ウィーナーワルツ、ウィーンナーコーヒー等の軽やかなイメージがわいてくる。 飛行場から街に入るまでの道路で、何か変った感じがした。広告看板が一切無いのだ。街に入っても、広告看板が小さく 殆ど目立たない。郊外は一切広告看板が禁止されており、街中でもかなりの規制があるという。 ウィーンはハプスブルク王朝の帝都として発展してきた。17世紀以来、中欧都市として多くの文化の集積地として 東西南北・欧州の核ー交差点となっていた。音楽やワルツ、食に建築、多大な富、優れた人材が流入し混在していった。 そこにはゲルマン、スラブ、ラテン、ユダヤのどれでもない独特の国際性豊かな文化があった。 その結果として、国民の民度は最高度のようだ。一見華やかに見えるが、生活は質素で堅実な国民性である。 さほど大きくないないこの街に、一ヶ月間いても飽きることがないほど多くの見所が詰まっている。 たった数日の滞在でそれを感じさせる何かがある。学生時代、私の寮の隣室の河路という先輩と、 一年後輩の南波嬢がこのウィーンに留学したのだ。彼らは三十数年前に、この街に数年住んでいたのだ。 この街にいるだけで、いやこの国にいるだけで、多くのことが学べそうな雰囲気が満ちていた。 ウィーンでは、まずは「王宮」である。ハプスブルク家が640年間、帝都として代々の皇帝が住居としてきた。 13〜19世紀の間、増築を繰り返し、現在みられるような壮大かつ華麗な建物になった。 皇室の22室の部屋と、家具などが展示されていた。旧王宮内にある「王宮銀食器等コレクション展示室」には ヨーゼフ?世夫妻が使用した銀食器をはじめ、多くの陶器などが展示されていたが、その豪華さに驚いてしまった。 次に[[美術史博物館]である。世界の博物館でも所蔵する絵画及び美術工芸品のコレクションは最大級である。 1857年にハプスブル家の美術品を収蔵するために建てられたものでリング状に部屋が創られ、 多くの作家ごとに部屋が割り当てられており、ブリューゲルの[青い花瓶の花束]や、ルーベンスの[古代の四大河川」や、 ベラスケスの「バラ色のドレスの王女マルガリータ]などが、所狭しと展示されていた。 「シェーンブル宮殿と庭園群」の美しさも見ごたえがあった。 つづく ・・・・・・・・ 2003年09月05日 (金) 884, マンション事情
先日、新潟市内のマンションを見てまわった。 モデルルームを見るかぎり、 マンションはなるほどすばらしい。ここで住んでもよいかな〜というのが幾つかあった。 マンションは宝石を買うのと同じで、買った時が一番の高値のとき。買った後は、急カーブで価値が限りなく落ちていく。 一戸建て住宅にもいえるが、デフレの時代は更にこれが加速される。純朴な庶民に夢を売っているのだということが、 よーく解った。結婚に似ているが、全てにいえることだ。マンションの売れ行きを見ているかぎり、恐慌の世界とは 程遠いようだ。新潟市内に、いつの間にか多くのマンションが建っていた。そして殆どのマンションの完売には驚いた。 一戸建てなら、数十?の頭金が必要だが、マンションならそれが必要がない。 ローンで三十数年の延払いが可能で、アパートの家賃を考えれば目先安く感じる。 売る方からみれば、最高の営業ネタになる。払う方は30年以上縛られてしまうことになる。 以前はやったジュエリーの世界に似ている。売りつけてしまえば、10年・20年以上経った時の商品価値に責任ない。 20年以上経ったマンションを見れば、それが良くわかる。マンションも毎年のように、ドンドン進化していくのだ。 しかし、マンションの良さもある。一戸建住宅のメンテや町内の付き合いやゴミ掃除などから開放される。 また比較的良い立地に住むことが可能になる。 何事も 一長一短である。 結婚相手と同じで、そう簡単に変えられないから事前調査が十分に必要だ。実際住んでみないと解らないことが多い。 しかし、私みたいなマンション嫌いでも、実際住んでみたいと思うのだから若い人にとっては魅力があるのだろう。
・・・・・・・ 2002年09月05日(木) 510, イルカの話
最近癒しという面でイルカが話題になっている。先日NHKでブラジルの漁村で野生のイルカと漁民の共同のボラの漁を ドキュメントで放送していた。湾の浅瀬でイルカが追い込んだボラを漁民が投げ網でとる。 (以下字数の関係でカット2008年9月05) [イルカは病人を特別扱いする ][イルカの不思議な力]
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