股・戯れ言


BBS

おまえのつまらない人生は順調か

あちゃこちゃ忙しくやっている間に2月が終わろうとしている!

いや、忙しいといっても「24時間勤務」「一週間出張」とかはないんですけどね。どうやら考える時間に異常なエネルギーを使っているらしい。って、それは会社員だった時とあまり変わらないんだけど。


話はいきなり変わりますが、先日、二村さんが出演なすったTBSラジオの「ライフ」という番組を聴きました。
http://www.tbsradio.jp/life/2009/02/2009222part_1.html
↑ここからポッドキャストで聴けます。いや、是非聴いてください!頼むから!

わしの家は都内なのになぜか雑音ザーザーで、かなり聴き辛かったがなんとか最後まで聴きましたよ。
テーマは「草食系男子」。要するにおしゃれで内向的ギターバンドなんかが好きで、それなりにモテそうなのに、あくまで「無害」のスタンスに留まり続ける男性について、男性の方々がいろいろ討論されてました。
「自分からは女性を誘わない」「常に受身の姿勢」という点に、女性たちが怒っている!、肉食系男子(ガンガン女誘ってヤリまくる男たち)は女という「肉」を自分から狩りに行き、食っているわけだが、草食系男子たちの食う「草」って何?という話題が中心で、
最後の最後、どなたかが

「草とは、自己愛だと思います。草食系男子は傷つくことが怖いのです」

と言っておりました。


二村さんが

「セックスや恋というのは、自分じゃない誰か、他者と関わることであって、他者と関わることで自分というのは変容していくものなのだ」

と言ってて、それはまさにその通りだと思います。
私がセックスや恋をして傷ついたりするのは、「自分じゃない誰かから変容をもたらされる」ことにまつわる痛みなのですから。
で、傷つく、痛む、というと、じゃあそんな行為するなよ、という意見があるわけだけど、それでもするのは何故か。
その人になら、傷つけられてもいい、という思いがあるからだ。
あと、傷ついても、得られるもの(それは経験でもあり、愛おしさでもあり、己の弱さや脆さを知ることでもあり、結果的には強さだったりもする)があるからだ。変化を恐れていては、前に進むことができないからだ。
だから、痛みなんて受けて当たり前、と思っている。
苦しむこともしょうがないのだ。


とは言ったものの、私がかつて恋愛の渦中にあったとき、「なんで私ばかりこんなに苦しい思いをするのか」「なんで私はこんなにやきもきさせられたりするのに、あなたは涼しい顔をしているのか。ひょうひょうとしているのか」と、恋愛の対象の方につらさをぶちまけた事がありました。
そしたらその人はひょうひょうと「俺のことが好きだからじゃないの」と言ったわけで、ああ、その通りだよ、そんなことわかってらあ!となったわけですが、
その後どうなったかというと「あんたのせいで自分が自分じゃなくなるのが辛い」と言われ(ああ!その時わしも「好きだからでしょ」と軽く言えるスキルがあればよかったのに!)、最後は切り捨てられました。
理由はいろいろ思いつくし、それは自分のためだったのか、私のためだったのか、そんなことはもうわからない。
前まではホワイ何故に!?と四六時中考え続けて、頭も身も押しつぶされてましたが(未だに一日二時間くらい考えてるが)、おそらく「他者による変容」にまつわることが、この出来事の中心にあると思っています。

もちろんスタンスによって、その変容をどう捉えるか、というのがあるので、断定はできないのだけど、「こいつのせいで」というのもあるだろうし「自分のせいで」というのもあることだろう。それは対象者だけでなく、私にもある。当時、私は己の実像をちゃんと見つめていなかった。自分なんてどうでもいい、と思っている部分が大いにあった。
そんな私が頼りなく、また、痛々しく見えたことだろう。また、こんな痛々しい女に変容させられる自分がみじめにも思えたことだろう。そして、この女を変容することが自分にはできないとも思ったのだろう。すべて推測だけど。もっとほかにもあるだろうけど。
とにかく、「このままでは何もない」「ノーフューチャー」という烙印だけが、残った。
そして私は文字通り、未来のないどん底に落ちた。


が、どんなに未来がない、という場所に残されても、朝は来るし夜も来るわけで、来る日も来る日も自分に対する失望と疑問、悲しみ、後悔に明け暮れておっても腹は減るし眠くなったりするのである。
その場に留まり続けているわけにはいかないのであった。というわけで、私は己を見つめた。穿り返せるだけ穿り返した。そして脆弱な自分と、自分にないがしろにされていた自分を発見した。(じゃなくて、今まで見ないようにしていたけれど、やっと直視したのだった)
で、会社を辞めた。文章を書き始めた。雇われながらバーのママをやっている、現在に至る。
当たり前だけど、未来はあった。
自分を真正面から見つめるという行為、そして、相手を責めたり、切り捨てることなく想うという行為を通して、少しだけ寛容な自分に変容したと自負しております。少なくとも当時の私とは違う。


変わったのは自分だが、変わることのきっかけとなったのは恋愛対象という「他者」のおかげだ。感謝の念が絶えません。
かつての私であれば、憎んだり切り捨てることで、その負のパワーを燃料とし、前に進んでいたことだろう。(もっと正確に言うと、負のパワーを持つことで、前に進んだのではなくその場に留まり続けたのだけど)
いや、それまでの恋愛は、他者なき恋愛だったのかもしれん。肉体では関わっていたし、精神的にもちょっとは関わっていたかもしれないが、心の内側に他者を取り込んでいなかったのだろう。
そういえば昔「俺の体を使ってオナニーしないでくれ!」と怒られたことがあったが、まさにそういう感じだった気がする。恋ではなく自己愛オナニーだったのだろう。そして、それがセックスに変わることを恐れて、自分から取りやめたりしていたのだろう。


恋やセックスで得られるのは、快楽だけじゃない。むしろ、快楽の後にやってくるこういう苦しみというか試練のほうが、ずっと多い気がする。
それを「自分を阻害する害悪」として、切り捨てるのもよかろう。つらかったら止めてもいいのだ。誰もそれは責めやしないよ。あなた自身が決めることだから。あなたが決めてもいいんだよ。他人に決めてもらうことなんかない。

でも恋やセックスをして、それに伴う苦しみや試練も受けた後に、得られるものも必ずある。たぶん、そこで得られるのが「愛」なんじゃなかろうか。
そうか、愛というのは他者からもたらされるものなのね。そして愛は脱皮をするものなのだ。(最初は親から、そして次に他者から)
だから愛というものは「見返りを求めないもの」と言ったりするのでしょう。

快楽や気持ちよさだけでも生きていける。他者と関わらなくても生きていける。
でも、その先をどれほど身をもって知っているかが、人間のおもしろさや、奥深さにつながっていくのじゃないのかな。そこに留まるのか、傷ついてでもその先に向かうのか、それを決めるのもあなた次第だ。
何を選んだって構わない。愛を知る相手が、誰だって構わないのだ。
あなたの人生が、あなたの思うとおり順調に進むことだけを切に祈る。心から祈る。


ただ、私には、自分で決めた以上はその道をちゃんと進めよ、誰のせいにもするんじゃねえぞう、引き返したりするんじゃねえぞう、と思ってしまう部分がまだあるのだった。そこはまだ、心が寛容ではないところだよなー。
引き返してもいいとも思うけどね。ほんと、何やってもいいんだよ。私の思うことは私という「他者」のものであって、あなたが思うことが、あなた自身の人生の指標なのだから。こんな意見、聞かんでもいい。(でもラジオは是非聴いてくれ)


2009年02月27日(金)

跳んだあとと見るまえの手紙

2週間くらい日記を書いておりませんでしたが、ぼちぼち生きております。
何やってたのかというと、まあ、相も変わらずちまちま文章書いたり、バイトしたりで、「交通事故に遭った!」とか「大恋愛していた!」とか「日記に絶望した!」とかいうような充実した日々を送っていたわけではございません。
空虚っちゃあ空虚だけど、それなりに前進しつつもありますよ。

と、呑気に書いておりますが、
今、テレビでディスコ番組(DA PUMPの番組だけど)がやっててそっちに釘付けでございます。
この2週間は岡林信康とディスコ音楽ばかり聴いておりました。どんな振れ幅だ。岡林信康は後述するとして、ディスコ音楽ってどのあたりかというと、いわゆるディスコクラシックばっかです。アースでシェリルリンでヒートウェーブでエモーションズだよ。あ、あとアイズレーブラザーズ!去年の年の瀬に新宿コマ劇内にあった「ニューヨークニューヨーク」の跡地で飲んだのだけど、この二週間の間にこそあそこに行きたかったわ。そして映画「DISCO」もちゃんと見に行っておけばよかったわー。悔やまれる!
http://www.disco-movie.jp/

まあ、実際んとこはディスコ定番よりもケニー・ドープのディスコ音楽mix盤とかケニー・ドープ選出ディスコ音楽集ばかり聴いておるのだがな。


と、まあ、ディスコ音楽のことばかり最初に書いたけど
重要なのは岡林信康だ!
2年ほど前、岡林信康が笑っていいとものテレホンショッキングに登場する!というのを会社の休憩室で知り、ものすごくショッキング
でございました。(実際にテレホンショッキング出演したのを見たのか見てないのかは、なぜか覚えていない)
当時は当時でいろんなモヤモヤうじうじ抱えていて、考えに考えて、ある日
「考えたり恐れていてもしょうがねえ!見る前に跳べ!だ!」
と腹を決めた時に偶然、岡林信康がテレビに出るのを知ったのだった。
んで、わしも見るまえに跳んだ。
跳んだことにより1年数ヶ月の未来が開けたのだった。



で、また、行き詰まった時。私自身は愚かなことにその行き詰まりに気付いていなくて(いや、気付いていたのかもしれん。目を向けないようにしていたのだ)、私自身のことを私以上に考えてくれている人がぼーんと放り投げてくれた。飛ばされたというわけだ。
その人の放り投げというか足蹴(それは恨みでもなんでもなく、愛のある足蹴だったと思っております)があって、わしはまた跳んだ。
跳んだことで、また未来が開けた。
今もその未来は続行中だ。それがかけがえのない現在だ。



その新しい踏ん切り(ようするに決意ですね、自分で跳ぶということは)からまだ7ヶ月くらいか。
今、私は別に行き詰まっているわけではない。自分で選んだ道を歩んでいるからな。その責任もすべて引き受ける覚悟もある。実際引き受けておるし。
でも気持ち的には行き詰まることが何度もあった。いや、ずっと気持ちは行き詰まっているのかもしれないな。行き詰まってもしょうがない道を選んだのだから、いいのだよ。気持ちだけでは前に進めない状況だって自覚しているしな。
でも、気持ちの行き詰まりが苦しかったりもする。あまりの苦しさゆえに、こんな気持ちはすっぱり投げ捨ててしまったほうがいいのかもしれない、とも思う。自分ではない人間のことを勝手に考えて恐れて気を遣って、あきらめます、なんて言ったこともあったが、全然投げ出せなかった。
友人に「それはあなたが、すべてを自分で決めないと気が済まないからじゃないの」と指摘された。きっとその通りなのだろう。だったらさっさと自分で投げ捨てると決めちまえ。そんな気持ち殺しちまえ。
何度も何度もそれは考えた。
でもな。「でも」なんて言葉使いたくないけど。
私の望むものは、「自分で決めること」ではないのだ。
私の望むことは、私を超えたところにあるものに近づくことだ。寄り添うことだ。私の体、意識の外にある世界というか人と、触れ合うことなんだよ。
あ、こうやって書くとやっぱり行き詰まっているね。


そんな矢先の岡林信康、ミュージックフェア出演(1月31日OA)。
仕事の関係で「チューリップのアップリケ」しか聴けなかったのだけど、このタイミングで岡林信康を見たことに何かの意味を感じる。全然なんでもないかもしれないけど。信じたり、見るまえに跳んだ者にしか奇跡は起こらんからね。
そうだ、このミュージックフェア見る前に、ちょうど「ラブソング」「セレナーデ」の紙ジャケ買ったのにも何か意味があるんだきっと!
しかし「セレナーデ」はシティポップスでいいアルバムだよ。当時はいろいろ叩かれたアルバムらしいですけどね。



テレホンショッキングに岡林信康が出た頃、わしは手紙に「私はあきらめません」という決意を書いた。
その手紙のことをふと思い出す。あの時の、眩しいくらいの自分の決意を思い出す。
それを思い出せたことだけでも、いいのだ。そんな小さなことだけでも岡林信康を今見た意味はあるよ。
ああ、そうだ。あれはバレンタインくらいの出来事だった。そうか、今年もバレンタインがやってくるのだなあ。ああ、カウンターバー用のチョコというか焼き菓子というかを作らんと!


2009年02月13日(金)

きみと歩いた青春、あんたと歩く性春

昨晩NHKでやってた「NHKスペシャル 女と男」を途中から見ていたのだけど、今、男性というのは滅亡の危機にさらされているらしいね。
正確に言うと男性ではなく、精子の生命力が低下しているらしい。人間の精子は他者の精子と競争したりすることがないのが原因だそうです。
えーそれ人間の精子だけ?他のほ乳類はどうよ?というと、
たとえばチンパンジーだと「乱婚」といって、複数のオスがメスに射精し、一番強い精子が卵子に届く、というのが当たり前なんで、精子の生命力がグングン進化していくのだそうだ。

なんかチンパンジーってAVみたいな生殖行為なんだな。
精子滅亡の危機は由々しき事態だが、人間にそのような生殖行為形態がなくてよかったわい。連続中出し当たり前!みたいな世の中はつらすぎる。子孫を残す、種としての進化を優先する、という意味ではいいのかもしれないが、精神がガンガン傷つきそう。
先日、二村ヒトシ監督が、自身の新作「ギブス」を説明する時に
「これはまあ、ヤツザキのようなセックスをすることで傷つく女性のAVですよ!」
と言っておって、即座に「そんなことないよ!」と反論したけれど、セックスが自分にとって悦びと哀しみが背中合わせの行為であるという事実は否めない。ううむ。ひとりの人間とセックスしていても心を痛めたり、どうしようもなさやむなしさに苦しんだりするのだから、不特定多数と「自分のため以外に」(ここがいちばん重要)しなければいけなくなったら、どうなってしまうんでしょ。わからんのー。
「ギブス」についてはまた別の機会に書くとして。

そういえば、セックスという言葉は知らないうちに市民権を得たよなー。
テレビで普通に聞くようになった単語だけど、わしがハタチになる前まではそんなことなかったと思う。「セックス・アンド・ザ・シティ」の威力はすげえなあ。子供がいる人たちはこのタイトルについて尋ねられた時、なんて答えているんでしょうか。


話が二重に逸れた。
そんでまあ、前回の日記に続いて太田裕美ベストアルバムの話になるんですが、その中に「きみと歩いた青春」が入っておりました。
これもふぁるさんからイイ曲と教えられた曲なのだけど
この曲の一番最後の言葉にグサグサやられる。

「君はなぜ、男に生まれてこなかったのか」

これはわしが28年間思っていたことですよ。
なんで私は男に生まれてこなかったのかなあー、女なんていいことひとつもありゃしない。と、思ってました。特に仕事していた時はこう思うことばかりだった。あと、前述のような、セックスをして哀しい気分になったりする時に、こんな風に精神が弱い(すがりたい、次もあるという確証が欲しい、など)のは、自分が女であるからなのだ!と思っておりました。
まあ、それは性別とは関係ないことだと今はわかりましたけどね。
去年の11月終わりくらいにビヨンセの「IF I WERE A BOY」について書きましたが、その時はもう、この「ああ、男に生まれてたらよかったのに!」というのを超えた時だから、もうそういうことも書いていないのだけど。


しかし、最近思うのだけど、「さみしい」「ひとりつらい」という感情に耐えられない精神というのは、実は男性的な精神なんじゃないかなー。
女性的な精神は、実は「ひとりにも耐えられる」精神なのだと思う。べつにひとりであることだけが問題なのではなく、たとえば「貧乏に耐えられない」でも「寒さに耐えられない」でも構わない。逆境に立たされた時に、不安に押しつぶされてしまうのは、男性的な精神。命さえあればどこからでも這い上がってってやるぜえ!自分でなんでも産み出してやるぜええ!ってのは女性的な精神だと思うのですよ。
別に「女性的な精神」「男性的な精神」てのは、精神の性別であって、男性にも女性にも宿るものだと思うのですけどね。
だから、女性でも耐えられなくて死んでしまう人もいるし、男性でも耐えられる人もおると思う。


で、最近の女性(自分含む)には、さみしさやつらさに耐えきれない、男性的な精神が宿っていることが多い気がする。


わしは、幼少の頃から母親に「自分で生活できるようにならないといけない。そのためには勉強して、良い学校に入らないとダメ」というようなことを言われてきました。きっと、このように言われてきた女性はいっぱいいると思うよ。良い学校に行け、とは言われないまでも、「自分で生きていく力をつけなさい」とか「手に職を持ちなさい」とか。
オスカルではないが、ある意味、「男(と同等)になるように」育てられているわけですよ。学校行っても特に男女の差はない教育受けて、男になるように、女性は育てられていくのだよな。家庭科と技術くらいの差はあるけどさ。
で、そうやって育っていくうちに、男性的な精神性も勝手に身に付けてしまうのだと思う。いや、実際わしはそんな感じでした。
でも、完全な男性にはなれないのだよな。
なる必要もないし、当たり前のことなのだけど、「完全な男性ではない」ということでいつまでたっても劣等感持ってしまったり。
「男のようになりなさい」「ならなければいけない」って呪いをかけられるのは簡単だけど、解くのはなかなか難しいことだ。王子様のキスなんかじゃ解けやしない。それがきっかけになるかもしれないが、結局は自分で自分を解放しないと解けないのだ。


私が会社辞めて一番よかったことは、「男性にならなきゃいけない」「私はいつまでも足りない/およばない存在だ」という考えから自分を解放できたことだと思っております。
だから、今つらいとか、さみしいとかに、なんとか耐えられているのだと思う。まだまだ訓練不足で発狂しそうになることもあるけれど。この先いいことなんかなんもないのかもしれない、と思うこともあるけれど。
でも、大丈夫だ。
今は男に生まれてこなくてよかった!と思っているくらいだよ。
太田裕美の「きみと歩いた青春」歌詞最後の一行に対するアンサーとして、やしきたかじんの「あんた」歌詞最後の一行

「女でよかった あんたに出逢えたからね」

を腹にしっかり抱えているからね。


なんか私は、29歳にして女になったような気がしますよ。
今まではどっちでもなかった気がする。どっかの哲学者が「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったらしいが、それホントなんだよ、という感じ。
自分で自分の中の男性を滅亡させたのだな。いや、男性的な部分もまだ十分あるけれどさ。あー、もともとあった女性的な部分に主権を移したって事か。

ちなみに前述のNHKスペシャルの中で、「クマノミはオスがメスに性転換し、メスがオスに性転換したりする」というのも言ってたのだけど、私は28まで、クマノミのようなもんだったのかもしれないね。あんなに可愛らしいもんではないけれど。
まあ、声の低さゆえ、未だに「オカマ?」「男ですか?」などと間違われたりしてますけどね。
生粋の女でございます。むしろ、女盛りだっつうの。
2009年01月22日(木)

不幸以上しあわせ未満

前にわたくしのカラオケ講師・ふぁる姐さんから太田裕美の「しあわせ未満」という曲を教えて頂いたことがあったのだけど、
最近、太田裕美ベストアルバムを入手したので改めて聴いてみましたわ。

!!!

「ハタチ前」という歌い出しですが、三十路前のわたくしの心臓を全面的にえぐる曲でした。前にふぁるちゃんがカラオケで歌っているのをきいた時もそう思ったのだけど。
まあ、前に聴いた時よりも冷静だし客観性獲得しておるので、歌詞の男の独白には何度か「異議あり!」と思ってしまうのですけどね。
僕に逢わなきゃ、君だって違った人生、とありますが、まあ、この女の子(おそらく20代前半か)は自分でその人生を選んだのだよ、あなたのせいではないのよ、とかな。しあわせにはなれない道を選んだことが、彼女のしあわせなのよー、とかな。
いや、ちょっと違うか。しあわせになれない道を選んだことは、彼女のしあわせではないな。満足というか、納得いく答えというか。そんなとこか。
一般に言われるような幸せ(金持ち、愛される、喧嘩なし、など)は得られないかもしれないけれど、不幸ではないのだからそういう選択をしてもかまわないと思うのだった。


で、まあ三十路前のわたくしにとっての「しあわせ」について考えてみる。
三十路前の一般女性にとって「しあわせ」とは、イコール結婚である。
結婚は幸せの象徴だ。結婚する女性は幸せの絶頂だ。幸せな恋愛をして、幸せな結婚をするものだ。王子様のような旦那様に愛されて、これ以上の幸せはない。


というようなことは、

現実には存在しない!

ということを三十路前の女性はわかっておるのだけど。
幸せな恋愛と幸せな結婚は地続きではない。
恋愛で得られる幸福感と結婚で得られる幸福感は、ごはんとおやつくらい別物だ。アメリカ西海岸と東海岸くらいの別物だ。朝青龍と白鵬くらい別物だ。
と、それがイコールなわけないことをわかっているのに
それでも「恋愛の延長線上の結婚」というものを追い求めちゃうんだよな。
追い求めさせられるというか。
実在しない生き物を狩りに行くようなむなしさ満点である。
ツチノコなんかいねーよ、と思いながらも、「でも同級生の○○は見つけたらしい」「両親は見つけたらしい」という情報を得て、「あれ、もしかしたら私にも見つかるのかしら」などと思ってしまってるだけだよなー。離婚した人からの情報で「ほら、やっぱいねえじゃん」とわかるのに。
ああ、「恋愛の延長線上の結婚」て裸のツチノコだよな〜。
幻だとわかってても「私も見つけた!」って言いたいんだよな。くそー。


去年、鈴木亜紀さんのライブを見た時に、なんという曲なのかわからないのだけど
「恋は生きるためにするというけれど 私は恋で死にたい」
というようなことを歌っておられました。死ぬ気で恋してるだったかな。どちらか忘れてしまったが、これを聴いてハッとしたものだ。そうだよ!その通りですよ!と思ったのです。
恋愛は、死ぬくらいの覚悟でするものなんだよなー。
それに対して、結婚というのは、それこそ生きる、いや、生活していくためにするものなのだと思う。


で、ハタチ前、「しあわせ未満」の中に出てくるヒロインにとっては、死ぬ気でやってる恋愛こそが満足感の得られるもの=しあわせ(便宜上こう言わせて頂く)なのだけど、
三十路前、わしのような女性にとっては、生活していくためにする結婚こそが、安定感を得られるもの=しあわせなのだろう。一般には。
満足感よりも安定感。
年齢と共にしあわせ価値観が変わっていくものなのだろう。
けど。
けども!
おれ、全然価値観スライドしねえ。
安定よりも、生きるためよりも、恋愛で死ぬのは本望だといまだ思っているよ。TOO HEART、恋して死にたい続行中だ。いまだ「時枝ユウジ!」だ。


こんな調子だから、私はチャンスを自分で潰しているのだろう。
友人が「恋と陰毛はどこにでも落ちているもんだ」と言っていたが、そういうのに目を向けてねえしな。その中には結婚に繋がる恋というのも落ちているかもしれないけれど、そんなものはどうでもよい。
いや、言い方違うな。目を向けられなかった。
いらんぜよ、と自分で拒否した。


でもそれも自分の選択なのだ。
たくさんたくさん考えて考え抜いた末の、選択なのだ。
いわゆる「しあわせ」にはならなくたって構わない。
私は、自分で選べたことが幸せというか、自分が納得いくことなのだと引き受けているしね。
なによりも、私は、自分の選択で自分は不幸にはならないとわかっているのだ。
まあ、そういうわけでこれからもしあわせ未満な人生は続いていく・・・


友人に
「お前、女なのに移行期間つーか予備品配備とかしないのか。自分で自分を窮地に追いつめてくのかーアホだなー」
と感心されましたわ。
アホで結構。それも自分で選んだ道!





2009年01月21日(水)

客観視獲得訓練日記 その1

ちょっと前の日記に「M-1見てて、私の守備範囲GUY(ダジャレ)なのにモンスターエンジンの片割れの人が気になってしょーがない」というようなことを書きましたが、
先日、カウンターバー切り盛り時に「いやーホントは笑い飯西田が大好きなんですが、最近モンスターエンジンの人に自分でも思いがけず動揺しちゃってるんですよ。好きな系統が変わってきたみたいなんですよ。はっはー」という話をしたら、
女性のお客さんに
「どっちも系統一緒じゃないですか。ああいうタイプが好きなんですね」
と指摘されました。
えええ!?
一緒のタイプか!?
その方曰く、「なんか変わってるというか、暗いというか。雰囲気が一緒ですよ」とのこと。
わしは一見無口っぽい人のほうに惹かれがちだが、そこなの?


また、別の友人に「ヤツザキの好きになる男は系統がすべて一緒」と言われたのだけど、わしはそれは「顔が濃い」という共通点だけだと思ってました。
え!違ったの?
「変わってる」「暗い」「何考えてるんだかよくわからない」(自分で付け加えてみた)ってのが共通項だったの?


いや、思い返してみるとそうだったりする部分もあるのだった。
全部ではないけれど。


で、その後たまたま、モンスターエンジンのこのyoutube見た。

http://jp.youtube.com/watch?v=6bF5t3LjrxY
http://jp.youtube.com/watch?v=_NSNKpES4-4&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=9uRbTGWXu6Y&feature=related

いや、わしは手を上げられたりしたことないけどね。


これ見てて思ったけど、ちょっと見方を変えてみると
モンスターエンジンの彼女の人とわしが、同じ系統なのかもしれん、と思いましたよ。
男を怒鳴らせる女。
「帰れ!」と言わしめる女。
あーなんか遠い遠い昔、「こんなに俺を怒らせたのはお前が初めてだ」と鬼の形相で言われたのを思い出した。
・・・・。
何も言えなくて・・・2009冬。


「何考えてるんだかわからない」ってのもあれですが、「考えてることがわかりすぎてイライラさせられる」ってのもよくないのだな。
今年はほどよくミステリアスな女になりたいと思います。



2009年01月19日(月)

初ライブは、ジャクチョンなのだ!

前回の日記で宣言したとおり、今度は2009年初ライブに行った感想を書きたいと思います。
ライブ!と言っても、実はロックでもジャズでも無論ヒップホップでもなく

説法ライブ

なのですよ。
そうです、私が2009年の最初に行ったライブは、瀬戸内寂聴さんのライブでございました。


まーわしが瀬戸内寂聴さんの本読むようになったのは、ここでも書いたとおり、11月になんとなく古本屋で買った「ひとりでも生きられる」という本を買ったのがきっかけでございました。
過去ログ読み返したらそれ以上のことを何も書いていないが、実はこの本を買ったのはハローワーク出頭の日だったのだよな。ハローワークの近くにブックオフがありまして、ハローワーク帰りになんとなく立ち寄ったのですよ。
で、100円コーナーをただだらだら見ていたときに、この本が目に付いて即購入したのだった。そのときは、まさかこのように寂聴ライブに足を運ぶことになるなんて、思いもよらなかった。
でも、今思い返せば、本に呼ばれたのだと思うのですよ。
そのときの私は、自分の意志で仕事をやめたものの、これからどうなるんだ、ホントにこれでよかったのか、という不安でいっぱいだったし(ハローワークに行かなければならない、というのも気が重い事柄であった)、今よりももっとずっと「私の何がいけなかったのか」「何でこんな風になってしまったんだ」と毎日毎日四六時中考えていて、考えすぎて頭や心が押しつぶされそうになっていたのだよな。ま、そのへんは過去ログにいやというほど書いてありますが。(今でも読み返すが、このへんのことをちゃんと書いておいてよかったなあ、と思える)
そんなときにこの本に出会い、「自分の思うことはなんでもやっていいのだ」という言葉にどれだけ励まされたことか。「期待なんかしなくていい、自分が思うことが大事なのだ」ということにどれだけ自分の非を気づかされたことか。救われたのかどうかは、わからない。でも、確実に、寂聴先生の言葉に、私の心のある部分は支えてもらったのだった。


その後、私が、自分の思いをどのように受け入れたかについては、これまた過去ログに書いてあるわけですが。
あまりにも感銘を受けて、「寂聴さんに会いたい!」と友人に話したりもしていたなー。京都まで行かないとダメよ、と言われて京都かー、と考えたりもしたもんだ。


そんな調子であったところに、説法ライブである。
11月に初めて本読んで、1月はじめにライブがあることを知るとは!
前からそうだが、私にはこういう「タイミングいいな!」ということがよくある。それを私は、単に運がいいと思っていたのだけど、寂聴さんがおっしゃるには、それは、
「自分では決められない、おおいなる力のおかげ」
なんだそうだ。
それを、キリスト教だったらキリスト様の思し召しというし、仏教だったら仏の思し召しというわけである。
石垣島のナミィおばあが「ウティングトゥ、カミングトゥ(天の引き合わせ、神の引き合わせ)」という言葉を使っていましたが、それもきっと一緒だね。
もちろん、ただの偶然、神だの仏だのは存在しねえよ!と思うことも可能だし、神とか仏とか気持ち悪い、と嫌悪感を感じる人も多いだろうけど、
私はなんとなく、信じてみるのも悪くないな、と思っております。
自分の力が及ばない、宇宙の神秘とか、そういうものに導かれるというのが、あってもいいと思うのだよね。自分がそういう風に思うのなら、それでいいのだ。ただ、勧誘とか押し付けとかしなければいいだけの話だ。
実際は自分で「この本を買おう」「このライブに行ってみよう」と選んでいるのかもしれないが、私は自分が、ずっと辛抱強く、耐えて耐えて、考えに考え抜いてここまでやってきたことに対するご褒美が、このタイミングでこのライブに来れたということなんじゃないかなーと今は思っているのですよ。



と、先にライブ内容をちらりと書いてしまいましたが、会場の赤坂ブリッツは満員。そして「新しい10代のための説法」というタイトルがついていたにも関わらず、会場の7割以上は50〜70代の女性が占めておりました。
あまりにも10代がいなさすぎて、会場入った途端にちと笑ってしまったわ。
わしも今年三十路であるから、ちょっと肩身狭いなーなどと思っていたけど、心配無用でありましたよ。むしろ堂々とさせてもらっていたわい。
寂聴さんは86歳なのに90分間立ちっぱなし、話しっぱなし。
すばらしいことよのう。
話の内容は、著作品で繰り返し述べられているような、
「期待はしないで、愛を与えてみるといいわ。いつか、予想を超えたところで自分に還ってくるもんだから」
とか
「幸せというのは、自分が満たされるだけのことではないの。自分が存在することで、誰かが助かってる、ということでもあるのよ」
とか
「私は人に教えられたことを疑いもせずに信じてたけど、戦争があって、ああ、こういうこともあるんだから自分が触れたものだけを信じていこうと決めたのよ。だから、自分がしたいと思ったことは全部やるの。あなたたちも誰にどう思われるかなんて気にしなくていいから、本当にしたいことをどんどんやっていきなさい」
とか
「他人を変えることはできないの。でも自分は変えられるのよ」
とかの話が多かったですが、声でこの言葉を聴くのは、また全然違うのだね。改めて、ああ、そうか!やっぱりそうなんだ!という気持ちにさせられる。
ライブという形式であれど、相手の声を聞く、というのは双方通行のコミュニケーションだからなのだろうね。
人間は誰かと関わりたいものだけれど、「話をする(話を聞く、喋る)」ということが、一番、人と繋がっているという安心感を得られるコミュニケーションなのだと思った。
事実、質疑応答で感極まって泣いてしまう女の子多数。わしも思わず貰い泣きすること多数。
みんな、会話がしたいのだな、と思う。
聞いてもらいたいのだ。声をかけてもらいたいのだ。
ただ、それだけのことをしたいだけなのに、私たちはなんでこんなにも相手が思うことを気にしたりするのだろう。嫌われるかもしれない、拒絶されるかもしれない、ということばかりに気をかけて、何も言えなくなってしまったりするのだろう。


寂聴さんに「私の話を聞いてほしい」と手を上げる女の子たちがたくさんいたのは(いや、質問した/しないに関わらず、あの会場にいたすべての人間がそうだったと思う)、この人は私を受け入れてくれる、という信頼があったからだ。それは、寂聴さんがまず最初に、自分のすべてを話していたからこそ持てた信頼なのだろう。
そういう信頼を、どうしてより近い人間と結べないのだろうか。
私などは、自分に欠陥があるからそうなんではないかとばかり思っていたのだけど、欠陥があろうとなかろうと、そんなことは関係ないのだと思う。
肝心なことは、「どんな欠陥があろうとも、あなたそのものすべてを受け入れる」という姿勢だろう。
その姿勢があったからこそ、みな、安心して自分を委ねられたのだ。
寂聴さんはそれをまず、最初に示されていた。
自分がどんな人間であるかわかっており、その自分をすべて受け入れている、という形で。


私が一番欲しいのは、「人を信じる心」なのだけど、
やはり、自分がどういう人間なのか理解し、その自分をすべて受け入れているということができていないと、そこにはきっとたどり着かないのだろうなあ。
そのうえで、他人を断罪しないこと。否定しないこと。
それは、今日明日で獲得できるものではない。
時間はかかるが、じっくりゆっくりやっていくしかないんだなー。
まあ、それはもうしょうがないけどね。
じっくり耐えて、ゆっくり実践できていけば(ただし、決して逃げないこと。あきらめないこと)、いつかまた、神様か仏様から、ボーナスポイントがもらえたりするのだろう。


ちなみに一番印象深かった言葉は、
「あなたの運命は、あなたが決めるのよ!」
という言葉でした。
会社辞めたり、苦難の時間を送ることになったりしたけど、私はそれを自分で決めたのだ。自分がそうしたかったから、そっちを選んだのだ。
これでいいのだ。



あ、最後だけなぜか赤塚不二男ちっくになってしまったなー。

2009年01月16日(金)

ラースとその彼女と「関わっていく」ということについて

新年ご挨拶日記からしばらくご無沙汰しておりました。
その間に「2009初映画」「2009初ライブ」などを経験してきたので、それについて書こうかと思いますわ。


さて、2009年初映画(映画館でちゃんと見た映画)は「ラースとその彼女」でした。
http://lars-movie.com/
まあ、この前にテレビで見た「ゴシカ」がホントは2009初映画なんですけどね。これはいいとして。


雪深いアメリカ中西部の小さな町に住む、ラースという27歳の青年が主人公。人の良さそうな顔をしているし、信仰心は厚いし、老人に親切であるのだけど、血の繋がっている家族(兄)や席が近い同僚以外にはあまり心を開いていない青年で、特に兄の嫁(つまり義姉)や職場のアシスタント女子の親切や厚意(好意含む)は一切拒絶。
この拒絶の仕方が、「ラース、元気?」「ごはん食べましょ」なんて誘っても無言で無視、のような調子で、このシーン見てちょっと切なくなってしまいましたわ。
「親切や厚意が迷惑」「自分のテリトリーに入ってこようとされているようで、苦手」というラースの思うこともわからんではないのだが、無視されたあとに義姉さんやアシスタント女子が見せる、ちょっと傷ついたような表情にああー、わしも身に覚えがあるわー、と思ってしまうのだった。
彼はナイーブだからしょうがない、とか、まあ、今は気分が乗らないのね、などと解釈して、彼女たちはすぐに表情や感情を切り換えていくのだけど、それでもやっぱり無視されることは傷つくことなのである。悲しいことなのである。
でも、傷ついても、また別の機会に「ラース、晩ご飯うちで食べてって!」などと誘い続ける義姉さんの姿を見ると、愛情を注ぎ続ける=慈悲の心を感じますけどね。これが女の強みだよなあ!ちなみに義姉さんは妊娠中という設定。
無視されてもラースを心配し続ける彼女に、兄(夫)は「母性が強くなってるんじゃないか?ほっとけよ」などと言うのですが、これはまあ、母性うんぬんあんまり関係ないと思うのですけどね。


そんな心を閉ざしているラースが、ある日、兄さんと義姉さんに「彼女ができたんだ!家に遊びに来ているから紹介するよ!」と意気揚々と紹介してきたのが、リアルドールのビアンカ。要するにセックス人形ですよ。
あっけに取られた2人は、心理カウンセラーの先生に「弟は頭がおかしくなってしまった!どうすれば治るんですか?」と聞きに行くのだけど、心理カウンセラーの先生は
「彼は病気ではないわ。現象が現れた、ということは原因があるということなのよ。ラースがビアンカを必要としたことには、必ず原因があるの。治すのではなく、彼と同じようにビアンカを受け入れていきなさい」
というアドバイスをする。
というわけで、2人はなんとかまあ、それに付き合っていくのであった。
小さな町なので、リアルドールを恋人にしていることはあっという間に広がり(本人がいろんなとこに連れてくのもあるが、兄や義姉が友人や職場の人々、教会なんかで話題にするのも手伝って)、皆最初はとまどうが、みんなも「まあ!なんて美人なの!」などと相手にしていくという具合。


なぜ、ラースがビアンカというリアルドールを必要としたのか、などの原因は映画を観て頂きたいのですが、20代後半で彼女がいて結婚を考えていて、みたいなのが普通だとすると、ラースのようにリアルドールを彼女とするのは不自然なことですわな。
でも、ラースにとってはリアルドールと一緒にいることが自分にとって必要な過程だったわけで。同僚や周りの町の人が「何も言わない女なんて最高だよなー」などと言うのだけど、その「何も言わずに側にいてくれる」「何も言わずに自分の全てを受け入れてくれる」存在というのが、ラースには必要だったのかと思う。
当たり前のように自分を受け入れてくれる存在。環境。当たり前のように自分をぶつけられる存在。環境。つまりは、それは親と子、もっと正確に言うと母親と子供ですわ。
まあ、赤ん坊のうちは何をしてもお母さんはかわいがってくれるし、周りの人々もかわいがってくれるわけであるが、だんだんと母親の「他者」という側面を受け入れなければならなくなってくる。100%自分の思い通りにいくわけではないということ。


町の人々に受け入れられたビアンカを、「病院のパーティーに連れて行くわ!ドレスアップさせたのよ」と老女が連れて行った時に、ラースがビアンカに向かって「君は僕の彼女なのに、なんで勝手な行動をするんだ!僕だけを見てろよ!」などと叫び、「ビアンカは自分勝手だ!町の人々も僕とビアンカを引き離しやがって!僕はないがしろにされているんだ!くそー!」といじけるシーンがあるのだけど、
その時に誰よりもビアンカの面倒を見ていた義姉さんが

「ふざけないでよ!誰がないがしろにされてるって!?
 みんな、貴方のことが好きだからビアンカを受け入れてるんでしょ!
 貴方を受け入れたいから、リアルドールを人間として相手してるんじゃない!?
 なのになんなのよ、その言い方は!自分のことばかり考えてないでよ!」

と泣きながら叫ぶのですよ。
このシーンでわしは泣いてしまったなー。義姉さんの気持ちがわかる。ああ、ものすごくよくわかる。別に、義姉さんは私の苦労を解って欲しい、ということが言いたいわけではない。彼女がないがしろにされてるからそう叫んだわけでもない。
こんなに受け入れているのに、なんでそんなこと言うのよ、とただ悲しかっただけなのだ。悲しくて、悔しくて、やりきれなくて、いや、そういうすべての感情が一気に爆発してしまったのだ。


なぜ受け入れるのか。
受け入れることに対して、見返りが欲しいわけではない。
それは、ひとえに「好きだから」だ。恋愛感情でなくて、家族として、友人として、隣人として、愛があるから、理不尽なことであろうと受け入れようと努めるのだ。無視されて、ちょっと傷ついても、それが関係すべてを絶つほどのことには値しない=ちょっと傷つくくらいで嫌いになるような関係ではないと自負しているから、「晩ご飯食べに来てよ」と誘ったり、リアルドールをお風呂に入れたりするのだよ。
それでも頑なに「ないがしろにされている」「みんなわかってない」みたいなことを言われたら、つらいよ。かなしいよ。


義姉さんはこのように感情を爆発させるのだけど、その後は前と変わらずビアンカの世話を見ていく。そして、そんな義姉さんの様子を受けて、ラースも自然に仲直りしていくのだ。
許す、許されると言うことを、この過程で覚えていくのも目頭が熱くなりましたわ。許すということを自然にできないがゆえに、あるいは、許されないかもしれない、というおそれが大きすぎるがゆえに、人間との関わりそのものを絶っていく人も多いからね。
かくいう私も、許されていないのかもしれない、という恐怖故に連絡を取ることをためらったりしちゃうことが多々あるからなー。


前に「スティービー」という傑作ドキュメンタリー映画で、このスティービーがまさにラースのような「自分は皆にないがしろにされてるぜ」と思いこんでいる自分勝手人間なのだけど、妹や友人、町の人々はそんな彼から絶対逃げない(どうしようもないとは思いつつも)、というような関係性が築かれているのを見たのだけど、
「ラースとその彼女」のラースと彼の回りの人々の関係性もそれに近い。
何があっても、ずっと関わり続けていくのだ。
誰も無理矢理ラースを矯正しようとしない。ラース自身が選択していくものを、自然に、あるがままに受け入れていく。
教会の牧師さんが「神はいつでも、試練を与える。我々はそれをあるがままに受け入れていくのみです」というようなことを言っていたけど、その、あるがままを受け入れる、という精神はキリスト教に基づいているのかもしれませんね。今まであまりキリスト教的精神てものについて考えたことなかったけど。


あ、そういえば心理カウンセラーの先生が
「ラースはすべて自分で選んで、自分で決めているの。」
と、いうことを言うのだけど、自分の力ではどうにもならないことが「神からの試練/神から与えられるもの」であり、それに対して自分のことは自分で選んで、自分で決めることができるというものがあるのかな。
コレに関しては、次の日記(初ライブ感想文)にて続きを書くとしよう。


リアルドールとの恋愛の話、という部分がクローズアップされているので、エロ話なのか、とか、切ない恋愛の話なのか、とか思いがちですが、
これは、個人と、社会(コミュニティー)との関係性の話なような気がしました。
個人の成長、という部分に注目して見るのもおもしろいけれど、周りの人間が個人を受け入れていくということについて、という視点で見てもおもしろいと思います。
わし個人的には、自分が関わりたい/関わって行き続けたいと思っている人間に対しては、すべてを受け入れ、恐怖におびえることなく、行動し続けるべきなのだなーと思いましたよ。
て、いつもと同じ結論に落ち着いてんじゃねーか。


というわけで、皆さん観て下さいマシ。
次の日記(今日は更新しないかもだけど)は2009年初ライブの感想ですよ。
この日記とだいぶ内容がリンクするはず。


2009年01月15日(木)

字読みづらい!けどメッセージフォームです


股・戯れ言 / ヤツザキホームページ

My追加

人気サイト