股・戯れ言


BBS

赤い壁の下のしぶい男(たち)

わしは昔から「片目の男」というものに、もう、自分でもわけわからんほど魅力を感じてしょうがない性分でございます。
このルーツはおそらくフック船長なんだろうなあ。海賊というものに大変弱い。メロメロだ。というわけで伊達政宗がルーツではないのだけど、政宗の眼帯も好きです。
眼帯!そう、眼帯(白い救急用じゃなくて、黒の皮のやつな)が心にズキューンとくるのですよ。
前に「片目で眼帯していて、博多弁喋る男と付き合いたい。できればラテン系海賊がいい」と言ったら「そんな奴いねえよ!」と即座に友人に言われたこともあったな。
まあ、そんなわけで三国志だったら俺は絶対!夏候惇好き!なのですよ。
ってこのPCすげえ!かこうとん、と打ったら一発変換で夏候惇と変換しよった!長年の教育の賜物であるな〜。


で、今話題の「レッドクリフ」は赤壁の戦いなんで、全然夏候惇出てきやしないんだけど、好きな武将は夏候惇だが、好きな国はどこかというと呉(第三の国、というポジション、水に強いという海賊根性、そして何かにつけて「江東の〜」という言葉が頭につくあたりに心惹かれる)なんで見に行ってきました。
あと金城武出てるからね。金城武は「LOVERS」の時に思ったけど、着物というかそういう格好が似合うんだよなー。「LOVERS」には何度も激しく心を揺さぶられてました。CMだけでああッ!と恋に落ちたり、台湾行った時に町中にLOVERSのポスター貼ってあって、それを見ては「金城武と結婚したい」と口走っていたもんだ。
と、こんなに金城武連発しているけど、孔明役はちょっと違うんじゃないかと思っておりましたよ。不信感抱いたりしておりましたよ。


けど、見に行ったら、夏候惇とか金城武の孔明違うんじゃ、なんて言ってる場合ではなかったね。
そんなことどうでもよくなるくらい、全員わし好みのしぶい男だらけ。
まあ、要するに全員ヒゲ面だったのですよ。
ヒゲなのはさておき、関羽と張飛と趙雲が素晴らしすぎた。
関羽と張飛に関しては、ビジュアル重視しすぎていてよかったですわ。
関羽はとにかく登場シーンも決めポーズも敵ガンガン薙ぎ倒していく姿もカックイー。前に三国志好きの友人(女子)が
「あたしも関羽の青龍刀欲しいわー」
と真顔で言ってて、それは思わないだろーと返したことがあったけど、今ならその気持ちがわかるわい。もう10年くらい前の発言だけど、10年経ってやっと気持ちがわかりました。
張飛に関しては、素手でガンガン敵やっつけてたのが、張飛らしくてたまらんかったですわ。張飛=粗暴ってイメージを見事に実写化しておった。
蜀はそんなに好きじゃないんだけど、こうやってみるとやっぱりスター選手だらけであるよ。スター選手だらけだけど、4人しかいない野球部みたいな感じだな。とすると、魏は部員数300人以上の名門野球部ですか。
チャン・チェン演じる孫権の、皇帝姿にもポワーンとしましたよ。あの、帽子についてるすだれみたいなやつはなんて言うんですかね。しかし、チャン・チェンはどんどんピエール瀧に似てきているな。
で、肝心の金城武ですが、意外と孔明マッチしておりました。って、そらそうだよな。金城武がヒゲ面なのだもの。わしのポワーンゾーンどストライクに決まってるじゃないか。
一瞬、血迷って金城孔明のクリアファイル買いそうになっちゃったよ。
汗だくになって正気に戻りましたが。しかしそのおかげでパンフレット買い忘れたけど。しまったな。


と、こんなに絶賛しているのに、トニー・レオンだけは及第点なのであった。
トニー・レオン大好きなんだけどさ。なんというか、ものすごく老けたなあ、と思わされてしまった。そりゃーまー45歳くらいだからしょうがないのだけど、肌の劣化をしみじみと感じてしまいましたよ。
十分かっこいいんですがね。
そういえば今、新宿で中国映画祭やってるのだよね
http://www.ks-cinema.com/schedule.html
なんだかんだとずっと「ラスト・コーション」を見逃しているので、時間が合えば見に行きたいなー。


いやしかし、かっこいい男の映画ってよいですね。
心洗われました。ああ、やっぱ強い男っていいよなあ!
やっぱし、海賊(博多弁喋る、というのが条件)にさらわれるしか、わしが思い描く幸せはないような気がする。
(そしてまた、友人の「そんな奴いねえよ!」というツッコミが飛んでくる気がする)


映画といえば、この映画の存在も今日知りました。

http://www.thewho-movie.com/

わしは今でも部屋にどでかいザ・フーのポスターを貼っているのだけれど、
高校の時は「フーズ・ベター、フーズ・ベスト」というビデオを買ってきて何度も何度も飽きることなく見ておりました。
わしはハッピージャックのビデオが大好きだったなあ。
キース・ムーンがとぼけた感じで好きだった。
よくこの日記にもピート・タウンゼンドのおことばを引用したりしておりますが(最近とんとご無沙汰だったが)、ロッキンオンに載ってたインタビューはほとんど暗記しておりましたよ。
「生まれた時から黒人であるとか白人であるとかと一緒で、自分が生まれ持ったものは何も変えられないんだ。自分と闘っちゃだめだ、仲良くしろよ」
という言葉に、高校の時もものすごく感銘を受けていたけれど(あとババ・オライリィの「十代は不毛の時代。何もかもが無駄なんだ!」ってのにも共感だらけの毎日だったなあ。わしにとっては学生時代はすべてが自分で選択できない、行動できない時代であった。早く歳を取りたかったナー)
不思議なことに、今でもこの言葉に感銘を受けるのであった。
高校の時よりも何百倍も骨身に染みる言葉となって。
それこそ今、ほんとうにこの言葉通り、自分と仲良くしようと決めて、その通りに進んでいるしね。

で、もうザ・フーの来日公演は終わったものだと思っていたのですが
来週月曜日と水曜日なのだね。
ワオ!
このタイミングで映画の存在も知ったのだし、
またピートのおことばに導かれたのだから、これは行け!とにかく行け!という導きなのかね。
もう20代、というかもうすぐ30代でとっくに不毛の10代脱出しているしなー。金も時間も自分の意志で使えるからな。
まあ、今は今でいろいろ不毛だけどさ。20代最後だけ見ると会社辞めたりして、無謀の時代って感じですがね。
2008年11月15日(土)

ウォーク・オン・バイバーイ

夏あたりにも風邪引いて倒れておりましたが、また風邪引いて倒れたりしておりました。意外と脆くできているナー。会社辞めて1ヶ月半が結構激動の日々だったので(精神的にも、肉体的にも)、急に疲れが出たのでしょうか。
って、おかしいな。わしは会社辞めてしばらく休むはずだったのだが?
気がつけば週6くらいで働いておりますが。あれ?どうなってんだ?

ま、そんなわけで久々に38度の熱出しましたよ。
寝込んでもいたのですが、大人になると一日中寝込むと言うことができないのね。さる公共機関から、この日は這ってでも、血を吐いてでも、とにかく来いよ!来ないと大変なことになんぞ!との脅しがあったので体引きずりながら出向いたりしましたわい。
ひっさびさ、歩いていて地に足が付いてないような浮遊感感じました。
熱で脳がいかれていたのだろう。いや、実際いかれていたのは関節だけど。


今も風邪が治りきっていないのですが、涙流しながら痰吐いたり全身びっしょり汗噴き出したりしていたら、なんというか、憑き物が落ちたかのようにここ半年くらいえんえんと考えていたことがどうでもよくなりました。
もうええわ、という5文字がクッキリ浮かぶほど。
ここ数ヶ月、特に自分の女としてのアイデンティティとは、というか自分とは一体なんなのだ!と自分をえぐりにえぐり続けておりましたが、
そんなにすぐ答えの出るものではない、という事実を
受け入れてもいいや、と思ったのです。
今答え出さなくても生きていけるだろう。
ゆっくり時間かけて出していこうかなと。
あと、答えが知りたい、どうしても知りたいなどと思っていたけれど
そんなことわからんでも、自分の人生は進んでいくのだ、と思った。
そんなことには構っちゃいられねえ。
生きてくだけでいっぱいいっぱいだ。
熱に魘されながらそう思った。
ま、その時は本当に全生命力使って立ち直るのに必死だったからね。


っても前回の日記に書いたような、人を信じる心とか、寛容になることは続行中です。忍耐力だって、ちゃんと今も使っておりますよ。
信じておりますとも。
誰も責めるつもりはありません。
誰も責めないように、自分をコントロールしております。(ここが忍耐力使っているポイント)
それはこれからも、ずっと続けていきますよ。
長い長い時間になっても大丈夫。という自信がある。
ただ、私の中で「この先行き止まり」を受け入れたってだけの話。
私は私を責めることもやめたってのこと。


まーこの先どうなるのかはわからないけれど、
そういうわけだ。
忘れるわけでもない。憎悪に変えるわけでもない。
どうでもいいというわけでもない。
まあ、これからはそのことについて考えなくなるってだけのこと。
何かをしなきゃと焦ることもなくなるってだけのこと。
そうやって毎日生きていくってだけの話だ。


ああ、楽しいことはどこにあるのかね。
バッドブレインズが12月に来日するって話を聞いたなそういや。
行きてえ!
あと最近は「ルイール」読んで服のコーディネートのことばかり考えておるな。
派手な格好がしたい!いい歳こいて、と言われようがなんだろうが。
って、今テレビで流れているディオンヌ・ワーウィックの衣装がギンギラギンで全然さりげなくなくて素晴らしい。ミラーボールみたいだ。
こういう派手さが欲しい!今、ものすごく欲しい!
んなわけで本気でアフロにすることも考える今日この頃であった。
2008年11月14日(金)

この世でいちばん欲しいもの

神社やお寺、道端のお稲荷さんとかお地蔵さんを見ると、極力手を合わせてお参りするように心がけておるのですが、
ここ最近は
「神様!わしに自信をください!」とか
「わしが自信を持てるように見守っていてください!」とか
を念じております。
自信というのは内側からあふれてくるものなので、神頼みしたところで出てくるわけじゃないのだけど、とにもかくにも自信が欲しい。
何回か前の日記に「自分は何が欲しいかわからない」と書いたばかりだけど、
欲しいものをちゃんとわかってるんだな。
自分に対する信頼。信用。そいつが喉から手が出るほど欲しい。
半年前に比べて、自分に対する信用はだいぶ持てたと自負できるのだけど、それでも「何かをした時、きっと自分は思い通りの結果を得られなくてがっかりしてしまうだろう→だから行動しないで我慢だ我慢」なんてのを思ってしまうということは、やっぱり自信が足りないのだと思う。

いや、でもそれって本当に自信の問題なのだろうか?
がっかりしてしまうことに耐えうる精神力って、自信とは違う気がする。
私が欲しいのは自信じゃなくて、何事にも動じない精神力なのか。

いやいや、がっかりしてもいいのだ。
胸をギュウっと締め付けられてもいい。
ハラハラしてもいい。あまりの辛さに涙を流してもいい。
そんな私も受け入れる覚悟はあるから。
思いっきり自分を解放してあげることはちゃんとできるから。


そうではなくて、私が今一番欲しいのは、人を信用する心なのだと思う。
前回の日記でどうせどうでもいい人間って思われてるしねー、まーいいけどねー、などと書きましたが、本当はそう思われていたくないと思っていますよ。
私が好いた人はそんなことを思う人じゃない、と信じたい気持ちでいっぱいだ。相手はそんな風に他人を思う人じゃないって、わかっているよ。
誰よりもよーくよーくわかっている。

でも、わからなくなってきてるのだ。
じゃあ今なんでこうなっているの?って思ってしまう。
そしてそれは、もう、一生わからないまんまなのだ。
あまりにも遠い隔たりができてしまったがゆえに、もしかしたら私は、相手のことは何もわかっていなかったのかな、と不安に駆られてしまうのだ。(と、いうことはやっぱり自信がないということか)


あと、信じてしまうと、期待してしまうのだよな。
信じることと期待することがセットになってしまっている。
これは長い間の習性だろう。信じているけど、期待しない、という作業は本当に難しい。エレクトーンで右手と左手と足を同時に動かすくらい難しい。(エレクトーン実は15年くらい習ってました)
難しいけど、練習すればできることだから(このわしにもエレクトーン弾けたくらいだからな!)、期待しないで信じるということを続けてみようかと。
今はそう思っております。
とてつもなく広い心を持つことが大事なのでしょうけれど。
想像を超える忍耐力を要求されるのでしょうけれど。
そして、途方もなく長い時間が待ち構えているのでしょうけれど。
神様、どうか見守っててくださいまし!


2008年11月04日(火)

未練がましいろくでなし

三連休(無職だからエブリデイ・イズ・ライク・サンデーだろ、と思われがちだが、バイトしたりなんか書いたりといちおう労働しているのですよ)は、おもしろおかしい結婚パーティーのスタッフやったり、スナックというかカウンターバーというかな店のカウンターん中入って切り盛りしてみたり、おなご3人で飛騨高山まで行ったりしておりました。
結婚パーティーはおもしろ夫婦の人柄を反映したような、2時間みっちりショータイムでありました。裏方であれこれやってたけど、それでも楽しめた。末永くお幸せに!ずっとおもしろくやってって欲しいッス!
で、女3人飛騨高山の旅は、とんでもない渋滞に巻き込まれましたが(行楽シーズンだからな)、紅葉見たり山寺の一大イベント鑑賞したり、温泉浸かったりSAや道の駅に停まってはあれこれ買い食いしたり(体重間違いなく増えておるな。ダイエットはどこ行ったんだ!?)、大満足でありました。
秋満喫でございます。
まあ、飛騨高山はすでに秋って気温じゃなかったがね。寒くてたまらんかった。


と、近況はさておき。(ここからいつものモードへ突入)
こないだ寝る前に、ふと
「好きの反対は嫌い、じゃなくて、好きじゃないだよな」
「嫌いの反対も好き、ではなくて、嫌いじゃないだわ」
ということに気付いてしまいました。
好きじゃない、嫌いじゃない、って書くと曖昧ですが
要するに「なんとも思わない」「どうでもいい」ってのが、好き/嫌いの反対語だということです。
逆に書くと、好きだ、とか、嫌いだ、というのは同じカテゴリーの言葉なのだよな。対象に対して常に自分が何かを感じているという意味において。
何かを感じている、ということを通して、対象のことを常に意識の中においている、ということを表す言葉だと思うのですよ。
「好き/嫌い」ってのは強い感情ですから。
だから男女の別れにおいては「(相手が)嫌いになった」というのはあまりない。「なんとも思わなくなった」「どうでもよくなった」てのが一番多い気がする。まあ、なんとも思わなくなっても、普通は別れないものなんだがね。
だって、なんとも思わないから。自分には利益にもならんけど、害にもならないわけで。
だから、一番普遍的によくある別れの理由ってのは
「相手がどうでもよくなった→そのまま時が流れる→そのうちに好きな人が出来た→別れる」
「相手がどうでもよくなった→そのまま時が流れる→このままの状態だと自分が先に進めない(次に行きたい)気がする→別れる」
(「→そのまま時が流れる→どうでもいい人間と一緒にいると自分も惨めだし、相手も痛々しくてかわいそう→別れる」でも可)
なんか最近冷静になっておりますが、わしの場合は後者のようなことを抱かれたのだと思います。答え解らないから知らないけど。まあわからんから前者かもしれないけどね。


どうでもいい人間か〜。
憎しみを抱かれているよりはマシかな、と思ったけど、憎しみ抱かれているほうがマシなような気もします。そっちのほうが意識されてるってことだからね。動向なんかもある程度は気にしてもらえるだろうしね。「愛と憎しみは紙一重」とはよく言うが、そういう意味か。
でもまあ、そんなことに期待してもどうにもならないしね。
事実は事実(知らないけど)として受け入れるしかないのでしょう。


と、冷静に分析し、気丈に書いてみたけれど、やっぱどうでもいいって思われているのはこたえるねー。軽へこみ。
だって、あちらはもうどうでもいいんだろうけど、わしは未だどうでもよくないわけですから。未だ嫌いになろうとしても嫌いになれず、こんなにわしを苦しめるなんて!憎い!と思っても全然憎むこともできず、なのですもの。ろくでなし、ろくでなし(越智吹雪)、憎みきれないろくでなし(ジュリー)だよいやまったく。
「未練がましいなあ」「いつまでウジウジしとるんだ」「イテエ女!」と自分でも思うが、別に誰に対しても迷惑をかけているわけでもないので謝りはしないわい。なんとでも思われて結構。事実だし。

まあ、誰にでもどうでもいい人間っているしね。でもよりによってそれが私なのか!と思うと、ね。
あーやっぱ嫌われたり憎まれているほうがナンボかマシだわ。
(と、こんなところで落胆していても、知ったこっちゃなかろうけどさ)


そういやふぁるさんにろくでなし、覚えたほうがいいわよ、と言われてたんだった。最近、この声の太さ/低さをどうにか活かせないものか、と思ってゴスペルを習おうとしていたのだけど、あんたシャンソンでもいいんじゃないの、と勧められたのです。
って、ろくでなし、の歌詞はまさに今のわしじゃないか。
パパーラパラパーラパラ・・・!
2008年11月03日(月)

フール・フォー・ユー、フール・フォー・ミー

先日、女子たちで「ファミレスdeドリンクバー飲み放題フリートーク大会」(結構しょっちゅうやってるから大会ってほどでもないが)していたときに、「自分が男に求めるものは何か」という話題となり、
わしが
「性的な部分。私が欲情し、私に欲情してくれること。」
と言ったら、「ちょっと!シノさん、それって薄っぺらくないですか〜?」と非難されてしまったよ。
なんでよ!?
俺はただおまえと、やりたいだけ!っていいじゃないか!
それでキャアキャア言ってた女子が男に求めるのは「やさしさ」なんだそうだ。薄っぺら具合だったらどっちもどっちだと思うのだけど、皆様いかがでしょうか。

まあ、やさしさを求める気持ちもわかる。
「やさしさなんて持ってて当たり前じゃーん」という意見もあるけれど、意外とやさしくない男って多いからね。暴力振るうやつとかさー。貢がれたり、おだててもらえるのが当たり前だと思ってるやつとかさー。

でもお金のことに関しては自分で稼ぐから男をアテにはしないし、
楽しかったり、深い部分の話ができたり、自分をわかってくれたりするのって、友達じゃないかと思ってしまう今日この頃。
自分が傷ついたり凹んだりしたときに、男は決して手を差し伸べてくれない。それどころか邪険に振り払われたり、傷ついていることに気がつかない場合もあるくらいだ。
本当に助けてくれるのは友達だけだ。
助けないまでも、絶対に見捨てないでいてくれるのは友達だけだ。


で、まあ、私は男とは欲情を求め合う関係でありたいのだけど、
その欲情を求め合う男と、友情も持ちたいのですよ。
欲張りでしょうか。
ちなみに、友情を持っている男には欲情は求めません。
だって欲情を求め合う男とはカテゴリーが違うから。別の生き物だから。
って書くと大きく矛盾していることがよくわかるなー。
つまり、欲情を求め合うことと友情を持つことは、両立しないということか。ううむ。へんなことに気がついちゃったな。
ちなみに、
欲情を求め合う→友情に変わるというのがないのだとしても、
欲情を求め合う→家族になるというのはあるのだろうけどね。

私は、友情を持っている→欲情を求め合うというのは実際にあることだと思うのですけれど。逆はないものなのかなー。
欲情を求め合ってしまうと、ダメージや失うものがあまりにも多すぎて、友情はもてないものなのかなー。
まあ、それくらい欲情ってあやういものだからなあ。ダイレクトに肌をさらす分。内側を見せ合い、触れ合い、溶け合わす分。ハイリスク・ハイリターン。


などと言っておりますが、先日、昔ご縁のあった男性から電話がかかってきて、久方ぶりに話をしたのでありました。
以前のわしなら話するのも遠慮していたところだが、時の流れって優秀だね、ああ、元気にしてた?という感覚で話ができた。
それは自分の軸が絶対にブレない、という自信があったからなのだよね。
私は以前の私ではないということを心の底から自信が持てている今だからこそ、話ができたのだろう。臆することなく自分の状況を話せた次第であった。この人に気持ちは持ってかれない、ってわかってたからな。
友情を確立している男にも、同様で、こいつと話をしていても自分の軸は絶対にブレない、気持ちを持ってかれることはない、ってのがあるから友情があるのでありまして。
しかし、欲情を求めあう男には、もう、最初から気持ちを持ってかれているのである。自分の軸なんてブレてもいい、あんたが求めてくれるならば、という心持ちになってしまうのである。
まさにフール・フォー・ユーの世界。
おいらを愛してくれるなら、なんでもおまえの意のままに!だ。


まー、だけどもうここには帰ってこないー(新型セドリック)なんだけどさ。やっぱり、おいら、ひとりじゃだめなんだ。(あ、曲が変わってもうた)


と、最近はルースターズ1stばかりを聞いていたのでルースターズだらけの日記になってしまいましたが、わしは女なのに大江慎也の歌詞に同調ばかりしておるのであった。思春期かよ!
で、「恋をしようよ」を聞いては、ああ、このやりたいって気持ちを皆、いやしいもんだと思ったり惨めなものだと思ったり(かつてのわしも肉体だけ求められるのは自分が惨め、と思ってましたが)して、肉体の関係ってのは人に言うのも憚られる、最低の関係だと思いがちだけれど、
この「やりたい」という気持ちはとてもとても大切なものだと思うのであった。

セックスなんて誰とでもできるけど、誰とでもやりたいわけじゃない。
そこには意志が存在する。この人、と思った人と「やりたい」のだ。
そして、この人にだけ、やられたいのだ。
さらに言うと、この人、というのはこの世でたったひとりしかいないのだよ。

それは全然薄っぺらなことじゃない。罪悪感を感じることでもない。
「わたし」が選ぶことなんだから、全然恥じることじゃない。
と、私は思ってます。
わしは自分のことには自信のない女だけど、この部分に関しては自信を持っているなあ。性的な部分に関して、私は主体的選択をしているからだろう。
いやー単に私に「やりたい」というお誘いがないから、主体的選択するしか
なかったからなのだがね。ザッツ処世術。
2008年10月31日(金)

自己スパルタ愛の幻滅

人間っていうのはもともと
「人をなでなでして、自分をなでなでされるもの」だと思うの。
そんなやさしさのやりとりから、自分も元気をもらう。
だから、人を慰めたら自分も元気出る。
「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」という感じね。
でも、こんなこと言うて、何ともならへんかったらどないしましょ。
そんなこともあるしねぇ。
まあ、神サンいてはるわ、どこかに。



前の日記には瀬戸内寂聴先生のお言葉に胸打たれて涙がビャーっと出たこと書いたけど、今日は朝日新聞の夕刊に載っていた田辺聖子先生の「恋の究極の姿とは?」との問いに対するお言葉。
ええ、また読んだ途端に泣きましたとも。最近、涙腺がバカになってきとるな。
毎日泣いて笑ってと感情がフル回転であるよ。

わしが精神的に一番しんどかった時期に読んでいた本が「愛の幻滅」であった。20代終わり近くのOLが40代半ばのおっさんと恋愛する日々(ちなみに不倫)。わずかな時間しか会えなくても、会うことが楽しみで、嬉しくてという恋することの喜びが余すことなく書かれてておるのだが、同時に時の流れや主人公自身の成長というか生まれ変わりがあったりして、「離れていかなければならない→んなこと考えんでも自然と自立していく」ということについても余すことなく書かれておった。
今、手元にないんで読み返せないんだけど。もしかしたらちょっと違ったかも。
で、この小説の後半〜最後にかけてはまさに「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」という感じなのだよね。

この小説の主な舞台が神戸でありまして。
わしの最後の出張地がその、神戸でございました。
神戸ときいてすぐに思い浮かんだのがクールファイブでも大震災でもなく、この「愛の幻滅」だったのだよなー。
まあ、小説に出てくるようなドライブコースなんかは行けず、市街地から地下鉄で30分くらい離れた山ん中のスーパーでの仕事だったんだけど。(むろん上下作業着)
ちなみに神戸が最後の出張地じゃーと思ってたら、結局最後にもう一丁出張できて最後じゃなくなってしまったんだがね。



その後、神戸には実はもう一度降り立ったのですよ。
沖縄から帰る前に神戸に立ち寄ったのです。
晴天の那覇から一転して、曇天模様の神戸。天気は最悪だったが、この神戸に降り立ったこと自体が、自分にとって
「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」
と言われたよな経験であった。それこそ誰かに慰められて元気が出た感じ。頭をなでなでされたような感じ。
いや、実際にわしに元気を与えてくれたのは友人なんだけど。阪神電鉄乗ってワーワーとテンション上げまくったぜい。
まあ神サン、ホントどこかにいてはった、という感じだ。大変すばらしいなでなでプレゼントでした。



しかし依然としてわしの中にいる神様はオマエはアホだもっと耐えろ強くなれ、まだまだダメだ、このままじゃもっとダメだ、どーすんのオマエ、とわしを厳しく責めたてておる。
ああ、わしは「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」と言ってくれる人が欲しいのに、そばにいて欲しいのに、まだまだ厳しい神様とか、厳しく突き放した人に惹かれている。
そっちを全然手放せないでいる。
そういう人がいないと自分が今よりもっと醜く、汚らわしい人間になってしまうとばかり思ってしまう。


結局、自分をなでなでできない/したくない(自分はなでなでされるに値しない人間だという自己認識がある)からなのだよね。。


そら恋愛できん人間なわけだよ。自分に対してやさしさがないんだもの。
やさしくなりたいなあ。
自分を嫌いになること辞めたはずなんだけどなあ、ちっとも変わんないや。
時間って全然経たないもんだね。もどかしいのー。
2008年10月28日(火)

ひとりでも生きられることなんか、わかってらあ!

こないだ古本屋でなんとなく買った瀬戸内晴美先生の「ひとりでも生きられる」という本が!ものすごーく心打たれました。
もう、しょっぱなから涙ダーダー。

「私は少なくともこれまでの生涯、自分の情熱だけはいつわらず正直に生きてきたといえる」

うわああああ!
わしの中で断固として消えようとしないものも、これなのだよな。
情熱に突き動かされてバカが見るーとか、わざわざそんなことをしなくても、とかばかりが多いわけだが、もうイタイ女になりたくない、傷つきたくない、などと思っていても情熱を消すことが出来ない。というか、全然消えてくれない。最近のわしはその情熱の存在を、もう見て見ぬふりしたほうがいいんだろうな、などと思っておりました。
でも見ないふり出来ないんだよ。
見ないふりしようとすればするほど、それがくっきり見えてくるという始末。
自分の心の思うことがわかってしまうという体たらく。


しかし!しかーし!
自分の情熱に正直になろうとも、
どうしようもないことが世の中には存在するのだ。


情熱みたいなのがなかったら、ものすごく楽になるのだろうけど、
(なぜならば相手を求めないで済むから)
果たして、その状態にはよろこびやかなしみは存在するのかな。
わしは、傷ついてでも、苦しんででも、悲しみに明け暮れてでも、
相手を求めて、ほんの僅かでも悦びを得たいんではないのか。
そういう風に、相手と関わりたかったんではないのか。


でも所詮、そう思っているのは自分だけなのよね。
ひとりよがりというやつですな。
自分はそう思ってても、相手はそんな波瀾万丈を必ずしも望んでいるわけではない。てか、むしろ嫌だろ。平穏が一瞬くらいしかないなんて。
相手に膨大な不安や苦しみを与えられるくらいなら、
ひとりの平穏がいいのだろう。
わしはそれくらい相手を傷つけ、苦しめてきたのだ。そういうことだ。


結局、わたしはひとり。
でもそれはしゃあない。ひとりで生きていくしかない。
それは全然不幸な事じゃない。
情熱を自分で消さなきゃいけなかったことに比べたら、ずっとマシだぜ。

2008年10月26日(日)

字読みづらい!けどメッセージフォームです


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