大学教員の日記

2000年11月04日(土)  遺品整理

 父母の住んでいた山梨の家に行き、遺品の整理。数多くの遺品。とっておけるものはすべてとっておくという母の生活ぶりが伺える。

 中には、自分が父母あてにあてた手紙、孫にあたる我が家の娘達の小さい頃の絵もあった。この家で、この絵をみながら、父母で孫の成長を話していたに違いない。

 しかし、そのような生活はもう戻ってこないのである。寂寥感に襲われる。



2000年11月03日(金)  残務整理・上野へ

 午前中は残務整理。午後になって少し気分転換ということで上野へ。埼玉からだと近いものだと実感。



2000年11月02日(木)  告別式

 告別式。厳粛にそして淡々と式は進む。
 父も自分の思いをぐっと胸にしまっている。
 しかし、最後のお礼の挨拶で、その思いが一気に出る。「妻は、『人生はドラマだ』と常々言っていました。でも、こんなことになってしまった。人生ははかない・・・」 
 最後は声が詰まってしまった。周囲も思わずもらい泣きをする。父の思い、何よりも深かったのだ。

 告別式のあと火葬。小さな骨になってしまった母。そして、お墓への埋葬。ずっと雨だった。

 帰ってからの精進落ち。参列した全ての人の感謝しつつ、自分も痛飲。母は黄泉の地に旅立ったのだ。形としての肉体がなくなったしまうと、改めてそう思う。



2000年11月01日(水)  県家庭科教育研究大会

 睡眠不足の中、大会の授業を行う。でも気力は充実していた。母親がきっと後押ししてくれたのだろう。「何かがのりうつった」というのが本当にあるんだと感じた。

 それにしても、やはり家庭科である。参観者は女性が圧倒的であった。20から30人ぐらいは常時いたであろう。しかも会場は別の小学校ということで、子供たちがどうなるか少し心配であった。
 でもさすがに研究授業になれてしまった(?)子供たちである。特別固くなることもなく時間通り授業は終えた。「よく、他の学校に来て、あれくらいリラックスしてできるものだと感心した」と研究会で感想が出たほどである。

 助言者からは次の点で有り難いコメントをいただいた。

1 お互いの学び合いで子供どうしが高まっていっていること
2 教師の仕掛けがよかったこと
3 自分流を意識することの大切さが見えていたこと
4 チャレンジタイムという試し作りの活動の意義が証明されたこと

 さすがにこちらの意図したことを読みとっているなあと感心してしまった。(助言者は授業を参観した時間は10分程度なのに)

 私にとっては家庭科は未知の世界であったが、今まで研究してきていた社会に
大いに通じる部分があって、勉強させてもらうのが実に楽しかった。
 今回の大会に至るまでも、多くの文献を購入し、いろいろな実践に触れることにより、「全国でやはりいろいろと家庭科の研究をされている先生方がいるんだ」と改めて感じた。
 ただ、実践者は多くても、「歴史的なもの」「体系的なもの」の研究や個人での著書が少ないことが他教科とは違う感じがした。
 これからの時代、新しい家庭科の背負う役割は大きい。そのような点で先のような点がカバーされるのなら、ますます家庭科は発展していくと思うのだが・・・。

 大会終了後、すぐに埼玉へ。11時ごろ通夜終了後の中へ。
 母の兄弟6人がいた。母は7人兄弟の3番目。ただ一人の娘だ。その7人の中で一番早く逝ってしまった。兄弟も無念であろう。通夜会場にそのままいて朝を迎える。



2000年10月31日(火)  もろもろ打ち合わせ

 通夜、告別式、火葬等、もろもろのことの打ち合わせを兄、父と共に行う。やや早めだったが、3時半ごろ失礼させてもらい、一路宮古へ。新幹線で少しは授業の準備をしようと思ったが、とてもそんな気になれなかった。

 宮古についたのは11時ごろ。これから、前時の反省、そして本時の細案を練り直す。布団についたのは1時ごろ。



2000年10月30日(月)  突然の連絡

 県家庭科教育研究大会を翌々日に控えた日である。
 1時間目終了直後、とうとう携帯電話が鳴った。「母が危篤」と兄からである。授業中に連絡があるのはこの場合のみなのだ。

 「すぐに行くから」と連絡をとる。しかし、1日の授業の前時は終えなければいけない。算数の授業をしながら、混乱する頭の中で今後のことを判断する。5時間目の予定だった家庭科を、急遽3時間目に行う。子供たちにも事情を話し、2時間目のうちに大会までの連絡を済ます。

 3時間目の家庭科の授業を終えて、すぐに母のもとに行きたかったが、大会当日の準備物を済ませなければいけない。他校に行っての授業なのだ。仕方がない。子供たちにも大いに手伝ってもらう。「先生、残りはやりますよ」とM。子供心に担任の窮状を気にかけてくれているのだ。心の中で涙である。

 その準備の最中だった。11時40分ごろ。兄から2度目の電話。「亡くなった」と。すぐに移動。

 埼玉の母のもとについたのは11時近くであった。傍らには父。すっかり憔悴しきっていた。私を見ると、深々と礼をして、母親の耳元で「母さん、正寿がきたよ」と涙声で叫ぶ。むろん答えるはずもない。「お嫁さんに来た顔のまんまだ」とも言った。

 46年という生活。常に一緒だっただけに痛いほど父の気持ちがわかった。その夜はろうそくと線香の火を消さずに見守る。県家庭科研究大会で睡眠不足の自分のことも頭をよぎるがそんなこと、言っていられない。


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