momoparco
  ワールド・トレード・センター
2006年10月18日(水)  

監督:オリヴァー・ストーン
主演:ニコラス・ケイジ/マイケル・ペーニャ/2006年
 その日の朝も、二人の港湾警察官は、いつもと同じように仕事に出て、そしてあの場面に遭遇し、ハイジャックされた旅客機が追突したビルの中に、生存者の救出のために入りこんで行くが、途中で更にビルが崩壊、生きて瓦礫の中に埋もれてしまう。

 数人の仲間の居所はわからず、目の前で一人の仲間は死ぬ。二人は、お互いの姿も見えずに、かろうじて声だけが聞こえる場所で共に大怪我を負い、肉体的、精神的苦痛、恐怖と絶望を味わいながら、疲労と睡魔と闘いながら、お互いを励まし合い数時間を過ごす。案じる家族も同様に生きた心地のしない時間を過ごしている。

 事件が起きてからそれを知ったそれぞれの家族が不安と焦燥を持ち始める辺りで、だから映画のごくごく前半のところで、すでに何故か涙が止まらなくなる。暗い瓦礫の下で疲れ果てて、まどろみそうになる時、夢なのか邂逅なのかもわからない家族とのシーンと、残酷な暗闇でのシーンが錯綜して、知らず知らずにそれぞれの心の中に入りこんでいく。派手なアクション場面や、胸のすくような場面や、ましてクスリと笑わせる場面など何もないのに、短く短く感じられた映画だった。

 この映画は助かった二人の港湾警察官の実話だ。あの日の出来事は、まだほんの少しばかり前の重たい出来事として記憶にあり、映画の題材として使われる事には戸惑いと、犠牲になった沢山のひとの気持ちを思えば残酷ではないかという気持ちもあり、実は他の題材でも良かったのではないかと思えたのも否めないことではある。

 向こう側にあるものを突き詰めれば反テロという事になるのだろうが、私が受けとめたものは、もっと別な、家族とは何か、生きるとは何か、そんなものたちだった。絶望的な状況の中で、最後まで生きる望みを失わなわずにいるということが、果たして自分には出来るだろうか。極限の時、思い出すのは一体何で、誰で、どんな事なのか。

 反対に、誰かが同じあの状況に陥ったとき、私は別な場所にいて、誰かに生きる力を与えることが出来る存在なのか。誰かの記憶や心の中にしっかりとした力で強いメッセージを送ることが出来るのか。そんな風に、実際の自分の生活や回りとの関わりが、果たしてどのようなものであるのか、彼らが見せている姿と嫌でも比較をしてしまう。

 今の今、私は何で生きているのか。生きるということが何のためで、そうして本当に生きていたいと思うのか、そのような事を考えた時、今の私の中には実に沢山のものが欠けていて、自分が投げやりであったり、卑小であったりすることをまざまざと思い知らされてしまった。だからといって、何が変わったというのでもなく・・・。

 それなのに、涙はずっと流れ続けていて、途中で気を抜いたとき、ひっくという大きな声まで漏れてしまうという恥ずかしさだった。  目の前の世界を感受している自分と、それを反映する心の中にひどく隔たりがあって、なんだかとても疲れた。ただ、終始、何ものかに冒涜されているという気持ちが払えなかったのは確かである。

 実話に基づいた映画なので、良し悪しはともかく、伝わるものは何かしらあったのだろう。大切な誰かと観るのも良いかも知れないと思う。




  
2006年10月15日(日)  

 夢をよく見るようになった。もともと、あまり夢は見ないか憶えていなかったのに、目覚めの時が強烈なほど印象に残る夢をみるようになった。

 ある日、私は福島県に住んでいた。まだ移り住んでから日数が経っていないらしく、回りのことが一切わからない。地理もおぼつかない。何故福島県なのかは解らない。以前住んでいたところに福島出身の友人がいたという理由以外には。

 ある時、意を決して家の周りを探索することにした。自転車に乗って。現実の私は自転車に乗る事が出来ない。子どもの頃、自転車で転んで顔に傷の残るような怪我でもしたら大変だと、母は自転車はおろか三輪車にも乗せたりはしなかった。さて、夢の中では私は比較的すいすいと乗りこなしている。軽井沢で初めてサイクリングをした時くらいの乗りこなし方である。

 家の回り、隣の家までも距離があり、左右には畑があったりのっぱらがあったり、何しろどこからどこまでが広くて長くて、目的の場所というのが定まらず、ただ町の中心地はこちらの辺りだろうと進んでいくだけである。夢の中では自転車の惰性に任せて足を広げてみたり、かなり上手に自転車を操り少しばかり上機嫌だ。

 石畳に草むら、砂利道やアスファルト、色々なものの上を走りに走ると、ようやく見えて来るのは、福島の駅らしい。隣にショッピングセンターらしきものがあって、今までの風景よりわずかばかりだが建物が多いからそう思うのだ。そこまで来る事が出来たという事で満足して私は特別何をするでもなく家に帰ろうとするが、帰り道が解らない。どのようにしてやって来たのか、何も考えずに方向を目指していただけなのだから、正確な道など覚えてはいないのである。

 だから、私はそのまま高速道路に乗ってしまう。進むべき方向はこの辺りと決めて乗れば、下りる場所はわかるだろうという考えである。いかに日頃車人間か解る。目が醒めて想像力の乏しさを知るのはそんな時で、夢の中でも想像の足りない分は現実で補おうとしているのだろう。

 そこが夢の夢たる所以だろう。自転車でも高速に乗ることが出来た。のみならず、高速で走る私はいつの間にか自転車ではなくて一輪車を漕いでいる。有り得ない話である。もっと有り得ないのは、その時の私は高校生の制服を着ていてそれはとても短いスカートなのである。

 しかし、その短いスカートが風ではためくのもものともせずに私は漕ぐ。高速道路とはいえ、田舎の道は車両が少なくて、一輪車のミニスカートがはためこうと何も問題はないのである。さすがに一輪車は怖いから、惰性で走るのはやめようという少しの分別もある。

 私は自分が一輪車に乗れることに感心している。女子高生の制服は違和感があったが、気分は壮大で開放感たっぷり。目の上に更に壮大な空が後ろへ後ろへと飛んでいて心まで飛びそうになっているのである。


 次に憶えている夢は・・・

 ある日私は、出かけた途中でそのまま旅に出ようと思い立ち、有楽町の駅の新幹線のホームに立っている。【有楽町に新幹線は通りません】
さすがに新幹線のホームは、山手線のそれとは違い閑静な中に旅装のひとが多い。

 扉が開く目印の前に並ぶと、少し前の方に知った顔が数人見えた。彼女たちは連れ立ってどこかへ行く様子で浮かれているが、私はせっかくの一人旅を邪魔されたくはないので、後ろめたいことをしている時のように下を向いて視線を合わせないようにじっとしている。場所を変えればかえって感心を呼んでしまいそうな気がしたのである。

 間もなくホームに電車が滑り込み、彼女達が一斉に前を向いた。少し安心をする。そんな時、ひとは滅多に後ろを振りかえったりはしないものだ。

 何年も前にしか見ていないが、新幹線は、相変わらず他の電車とは比べ物にならないくらいの静かさと重みで、しずしずと入りこんで来た。先端の丸みを帯びた鋭さは、さながら走るコンコルドのようで、電車という気がしない。

 ドアが開き、彼女達が乗り込んで左側に進むのを見届けてから、私は右側の車両の中へ進んで行く。車内は空いていて、窓側の座席にするか通路側にするか迷うほどである。せっかくの旅なので、景色の良く見える窓側に座ろうと決めるのに少し時間がかかった。

 静かに動き出す。景色は有楽町のホームなのに、ホームの端が終わった途端、唐突に瀬戸内海が開けている。その唐突さは、右目の端にまだホームがあるのに、左の目の端にはもう瀬戸内海が入りこんでいるというくらいだ。有楽町は瀬戸内海面していたのかと思えるほどだが、そうではなくて街は街として視界の隅に消えて行く。

 視界にいきなり飛びこんで来た海は【実は見た事はないのだ】、夕陽を浴びて染まった海の色がショッキングピンク、陽の当たらない海そのものの色はショッキングブルー。鮮やかな二色の海には風の起こす小さな無数の漣が、陽の光をはじき返すようにたたえてキラキラと光っていた。

 突然に遮るもののない風景が開け、それまで胸の中にあった様々な思いが一瞬にしてすっかりとなくなるほどの底知れぬ開放感を味わうと、いち早くそれを誰かに伝えたいという思いが過ぎる。

 そこで携帯のメールの着信音が鳴り、目が醒めてしまう・・・。
いくら目を瞑っても夢の続きは二度と見られず、マナーモードにしていなかったことをどれほど悔やんでも、今さっきのすっかり空っぽになった胸の中が、また少しずつ澱みはじめているのを感じて、なんと寝覚めの良い、あるいは悪い夢だったのだろうと思うが、鮮やかなあのピンクだけはいつまでも残っている。


 後日・・・

 私は病院で受診する。どういう理由かはわからないが、診察を終えて廊下に出ると、小学校の時の同級生のK君が検査室に入って行くところであった。
 
 小学校は2クラスしかなかったので、K君とは3年〜6年の間は同じクラスだった記憶がある。彼も私も小柄な方だったから、並び順はいつも近くて、当事二人一組の机はたいていいつも隣同士だった。特別仲が良かったというわけではないが、他の机の男女が喧嘩ばかりしている中で、私たちは喧嘩はしたことがなかった。回りからは夫婦と呼ばれていたから、気が合っていたのかも知れない。ベタベタした感じより、気に障らない感じだったような気がする。あっさりとした優しさのある男の子だった。

 K君の父上が亡くなられたのは、確か5年生の時だったと思う。私達にとって急なお知らせだったが、K君はそうなる事を早くから知っていたのではないだろうか。子どもたちは多くのことを知らされないが、クラスの母親たちは、通夜、告別式に参加したようだ。当事は子どもにはあまり大人の話はしない社会だったから、私も母から詳しいことは聞いていないが、休み明けで登校したK君の顔が蒼白で、何も言葉をかけられなかったことを憶えている。

 次第にK君は、日頃の明るいK君に戻って行き、私たちも同じように日々を過ごしていた。ただ、時々見かける母上とK君の買い物姿は、以前にはない淋しさがあり、私は、3人兄弟の真ん中で唯一男であるK君が、何らかの強さをもたなければならないといった覚悟のようなものを持ちはじめたような気がした。

 小学校を卒業すると私はK君とは別の学校へ進んだので、しばらく会うこともなかったが、高校生になった頃には時々帰りのバスで一緒になった。彼は年頃になっても以前と変わらない気さくさで私の隣に座り、懐かしそうにしてくれる。そういえば、小学生の頃は私を○○と、苗字の呼び捨てで呼んでいたのに、高校生になってから私を見かけると、○○ちゃんと他の女の子たちが呼ぶような愛称で呼ぶようになっていた。

 彼は働きながら定時制の高校へ進んだと言った。定時制の高校は4年間だから、みんなより一年卒業が遅くなるけど頑張っていると、いつもの笑顔で話していた。何とはなしに昼間社会人の中にいる彼は、ちび太と呼ばれていたのが嘘のように背が伸びて、私などよりずっと大人びていて、あの頃に感じた内側に秘めた思いはしっかりと彼の中に根づいて、そのまま成長したように思えた。

 私は彼を心から偉いと尊敬して、それでも以前と同じ気さくさでいてくれることに心を許している自分を感じたが、もともと毎日顔を合わせていたクラスメートは、いつでもそこにいる、いつでも会えるという安心感があって、今のようにメールアドレスなど交換することもなく、短いバスの中での会話が最後でそれきり会うこともなかった。

 
 夢の中でK君は、とても苦しそうに体を二つ折りにしながら歩いていて、つい私は検査室の中に押しかけてしまう。彼は心電図を取るような装置を体に装着して横たわり、私が声をかけると嬉しそうに破顔して「おお」と言った。
「一体どうしたの?」
「ちょっと具合が悪くてさ、苦しいからタクシーに乗って来てみたんだ」
「どうしてた?お子さんは?」
「うん。男の子と女の子の双子。」
少しぶっきらぼうに、照れくさそうに彼は言った。
そして、充分に幸せそうな顔をしているのを見て、私はとても嬉しくなり、彼の幸せを分けてもらったような気がして、思わず頬を撫でていた。

 待合室に出て名前を呼ばれるのを待つ間に、診察を終えたK君も出てきた。相変わらず痛みがあるようで、体を曲げて歩いているので、私は車で来ているから送ってあげる。乗って行きなさい。【何故か命令形】

 それじゃ悪いな、と言いながら以前の気さくさで彼も私の後について来る。そして私が、彼が乗りやすいように車を動かし、彼がドアに手をかけたところで夢から醒めた。


 たった今の夢の余韻と、まどろみの中で、つきあげるような懐かしさに胸が一杯になって、どうする事も出来なかった。涙が出そうなほどの邂逅があふれて、しばらくは何も考えることができない。

 K君は今どうしているだろうか。本当に、男の子と女の子の双子の子どもさんがいるのだろうか。
 幸せを遠く祈ることは出来ても、そのひとと語り合うことは出来ないのが、とても残念で悲しい気持ちがした。



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