momoparco
  ファレノプシス
2003年02月26日(水)  

和名  : コチョウラン
花言葉 : わたしが楽しくなければ、いや

 日曜日の新聞のコラムに、らん展のことと一緒に載っていた花言葉に惹かれて忙しい最中、代休ゲットで友人と共に『世界らん展』へ行って来ました。
らんの花のことはほとんど何も知らず、コチョウランのように大人しく上品で静かなものと、まるで生き物のような毒々しい色の花と、大雑把に分けるとその二つぐらいしか想像がつかなかったんですが、東京ドームにところ狭しと並ぶらんの数は8万株。
百花繚乱、絢爛豪華な様でありました。

 らんの花は植物の中では最も高等なのだそうで、あの複雑な形は種の保存のためだとか。
洋らんの中でも熱帯地方に咲くらんの花は、花びらも葉も非常に硬く、見た目にはサボテンの葉に色がついたような質感があります。
色も鮮やかで、花びらに細かい線がスッと入ったもの、葉に斑点や縞の入ったもの、虫に食べられないよう身を守るために、まるで昆虫を思わせるような模様のあるものと、隠花を思わせるたたずまい。らんは元々虫媒花なので、虫に花粉をつけさせるために花の作りを進化させてきたそうで、その複雑な形から蜜を出し放香し誘い込んで実を結ぼうとする姿はまるで、誘惑する淫靡。こういった花を目の前で見ていると、まるで花の方もこちらを見ているようで、そこには可憐な花の精がいるというより、妖しい化身がいる感じ。
『本当に花なの?』と聞くと、『違うわよ』とでもいいそうで、花の色が濃くなればなるほど1人の時に同じ部屋にはいたくないような、不気味な気配を感じます。
 葉の中にスッと高く伸びた茎が真っ直ぐで、花びらにある模様が、線や斑点と同じ花なのに違う模様で、そういった模様が細かく複雑なものほど人気があり高価なようです。時価200万円の洋らんもありました。

 日本のらんの場合には、どちらかというと花よりも葉の方が量が多くて、花は葉よりも低い位置に隠れるように咲いているものが多かった気がします。花の大きさも小さ目で、色は淡くて洋らんに比べると繊細でひっそりした形のものが目立ちましたね。今日は残念なことにデジカメを持って行ったのにメモリーカードを忘れるという大失敗をしてしまったので、写真を撮ることが出来ませんでした。ガッカリ。で、気を取り直して、ちょっとお花屋さんからお借りして来ました。(笑)まぁ、こんな感じでしょうか。わたしの好みは断然日本のらんであるということが改めてわかったようなわけでした。
 
 またフレグランス部門というのがあって、ざっと30種類ぐらいでしょうか、香りに自信のあるらんが並び、一つ一つ香りをきいてまいりました。
これはもう、個性がさまざま。鈴蘭を思わせるような爽やかな香りから、まるでお香のようなもの、甘たるく動物性の香りに近いものとさほどきつい香りではないもののらんに香りがつくとそれはまた華やかでもありますね。私は非常に鼻が効くので、かなり楽しませていただきましたが、花に鼻がくっつきそうな距離で匂いをかいでいるうちに、花粉症であることを思い出しました。(笑)といって、らんのアレルギーはなかったようですが。黄色い花に香りがあるものが多かったですね。花びらの色と香りは関係があるんでしょうか。

 とにかく東京ドームは平日なのに人人人でありました。あんなに人気があるんでしょうか。高年齢層の方が多かったですね。

 日曜の新聞には、もう2つ、オドントグロッサムとブラッシアいうらんの花言葉が載っておりまして、前者が『如才なく、おしゃべりなわたし』後者が『ニューモードのきわだち』というのでした。生憎画像が探せなかったので、どんな花なのかわからないんですが。

 それから、ブルームーンというらんもありますね。これは二番目の白い花を青くしたような感じ。可愛いヒヤシンスのような感じの花です。私は青い花が大好きなので、この花とこのネーミングはちょっと嬉しかったかな。
 
 ↑私がとても気に入ったのはこのらんです。色といい、形といい大きさといいとても好きですね。で、なんというのか分からないので勝手に名前をつけました。

 和名  : むーんらんもも
 花言葉 : 綺麗なだけじゃないのよ、わたし

 
 明日からまたしばらく忙しくなります。



  父の言い分
2003年02月23日(日)  

 
 父の言い分


 父は心臓の手術を受けるとは頑として言わない。もともと別の病気でかかっていたかかりつけの医師から、一度精密検査を受けるようにと紹介された病院で心臓カテーテル検査を受けたのは去年の11月、まだ母が手術をして間もない時であった。
それまで父には全く自覚症状はなく、家族を含めて関わる者の誰もが大したことはないだろうとタカをくくっていたのに対し、検査の結果は非常に深刻で出来る限り早急に手術をした方が良いというものであった。
パソコンの画面上にCD−ROMによって映し出される父の心臓は、医師の言う通り確かに収縮する動きは悪く、細かい血管は途中で詰まったり途切れたりして画面上では消えてしまっているものもある。そういった箇所が数箇所もあるので、手術も非常に難しいものであるとも言った。
 父はその時、思いもよらない診断に答えは少し待って欲しいと言ったが、医師のくれた猶予は一週間だけであった。
母は術後間もなく、一週間後に自分の手術の日取りを決めるのは父の胸中を察すれば難しいことだと思ったが、そのことは母には知らせないようにといい、父の胸中ですでに答えは出ていた。

 父の言い分はこうである。
もともとどこも痛くもないし苦しくもない。何の不自由も感じないのに、何故わざわざ痛い思いをして危険な手術をしなくてはならないのか。仮に手術をしたとして、自分の年齢から言えば回復には時間がかかるし、全く今と同じ状態に戻れるという保障はない。それまでには他の病気で死ぬかも知れない。わざわざ不自由な思いをして数年過ごすなら、同じ年月を今の状態で過ごしたい。心臓だけが元気になったところでありがたいとは言いがたい。いずれにしたってそう長くはない。

 父方の祖父は50代で亡くなっている。おじいさんの時代にはそれはそれほど珍しいことではなく、人が倒れるイコール死というように、医学の力では分からない事が山ほどあり、何が原因か分からないまま大抵は肺炎や心不全だので亡くなりそれが当たり前でもあったという。
今、何の不自由もないのに心臓の血管の果てまで調べられた挙句に、やれ手術だ、それに伴うリスクがどうだといちいち取り沙汰されるのは迷惑以外の何でもない。誰だって体中のそこかしこを精密に調べ上げれば欠陥の一つや二つはあるだろう。自分はよく生きてきた、今更そんなものでアタフタし周囲に迷惑をかけてまで生きて行くのはまっぴら御免だというわけである。
医学が死なさないから死なせてもらえない老人が増え、医療費は嵩み医療従事者はいつも人手不足にあえいでいるのじゃないかとも。

 父の言い分は一理ある。我が家には父方の遠縁に当たる叔母がいて、この人は生涯独身であったために身寄りがない。山梨県に暮らすこの人を、一度は呼び寄せようとしたが、彼女は土地を離れることは厭い、葬儀のこととお墓のことだけを父に託して施設にいる。この数年すっかり痴呆が進み、今では父のことも誰のことも分からず心臓だけは元気でいるが、もうすぐ100歳になる。そういうことや、周囲での老人介護の話などを見聞きしての父の胸中であると思う。私の年代より、父たちの年代の方がそういった問題は身近で深刻なのである。

 母は退院してからその話を聞いてうろたえ、何とか父に手術を受けるように頼んでみるが、父は頑としていうことを聞かない。夫として、父親としての威厳が彼をますます頑固にしているようにも思える。私はどうかと言われると、父の言い分、母の言い分、それぞれがよく分かるので正直に言うと何とも言えない。何かの保障をすることが出来ないからである。

 人は生まれた途端に約束されていることが一つだけある。死ぬことである。誰も彼もが同じ約束をされて、そのためには試験もなければ資格もいらない。その時期が早くても遅くても必ずやってくる。生と死の間にどう生きるか、それが人生なのだとも思う。父のこれからの日々も、どの道を選んだとしても父の生き方である。痛んだり苦しんだりしているなら即刻手術を勧めるが、日々元気に過ごせている。それを見ていると、父の気の済むようにしてもらうしかないのではないかと思うのだ。

 昨夕、一本の電話が訃報を知らせた。職場の先輩で病気の為に退職された方で、前回の日記に書いた方とはまた別の方である。名前を春子さんという。春子さんは身長が170cm近くの大柄な人で、いつもお洒落に手を抜いている姿を見たことがなかった。二年前の健康診断で大腸ガンが見つかり、入院と手術を繰り返されていたが、あまり思わしくないと聞いたのは一昨日の朝。そうして昨日早朝に亡くなったという知らせである。まだ50代の中ばであった。これは絶対に彼女の意思や選択とは別な出来事であるはずだ。
お洒落な分、人に見舞われると元気がなくなってしまうと聞いていたので、お見舞いは控えていたが、見るからに健康そうな彼女の面影と昨日の知らせとは結びつかず、まだ現実を受け入れられていない。明日の夜、彼女に会いに行く。



  手紙 
2003年02月22日(土)  

 今週は何故か集中してあまりよろしくない知らせや相談事が続き、普段あまり使わない頭をフルに使ったせいか、非常に疲れておりました。
仕事の方はそれほど忙しくなかったのに、夜になるともう早くから睡魔と闘っておりました。
せっかくご訪問いただいたのに、ナンにも変化がなくてごめんなさい。



  +++

 水曜日、病気入院の為に退職された方のお見舞いに行って来た。
そして、その報告や母のこと、私自身の近況などを昨年末に定年退職された方に知らせたくて手紙を書く。
ご夫婦ともに横浜育ちのその方は、ご主人の趣味の狩猟で何度か長野県に通ううちに、長野の気候風土や何より人情をいたく気に入られ、定年と同時にこちらの一切合財を全て畳んで長野に住居を移されたのだ。
お孫さんたちに田舎があった方が良いだろうとも考えられたようであった。

 とにかく、夜になって落ち着いてから手紙をしたためる。
以前はよく手紙を書いたりいただいたりしていたのに、パソコンを使うようになってからはとんとその機会が減り、年賀状を省けば最後に便箋に手紙を書いたのは一体いつのことだったろうかと思ったりする。

 キーボードの操作になれてしまうと、物を書くのにどれほど長い文章でも苦にはならないし、漢字変換もやってくれるし、長い文章でもマウスの操作一つであっちにこっちに動かしたりする事も出来るし、何よりEメールの送受信の速さは類を見ず、その便利さにかけては今となっては必要不可欠な物になっているとも思う。
まぁ、パソコンがなくても電話があるさ、というワケで、手紙をしたためるというのがとんと久しぶりであったのだ。

 手紙を書くのは非常に手間ひまのかかることである。文字は間違えられないし、勿論文章の移動も出来ないし、考え考え丁寧に書こうとすると、とても心が落ち着いた状態でないと難しい。少なくとも私は。
そうして便箋2枚ほどの手紙をしたためた後、何だかとてもとても素敵な時間を持てたような気持ちになる。
自分で言うのもナンだが、かつてこんなに心のこもった手紙はあっただろうか、と思えるほどの感動と(ホントに自分で言うのもナンです)新鮮な気持ちの良さを味わい、その余韻が今まだ残っている。
過去は美化すると言うが、その時間、その心持ちは今となっては『静謐』にまで高まり、まるで麻薬のように私の心にとり憑いている。


  +++

 今日はあまり良いお天気でもないですが、数年ぶりにお雛様など出そうかと思っております。
お天気やお日柄の良い日にするのが良いのでしょうが、思い立ったら吉日とか言いますし、延ばしているとまた今年も出さずじまいになってしまいそうなので・・・



  忙しいせいかしら?
2003年02月20日(木)  

 とってもガマン出来なくて・・・
 ぴったりくっついていたい
 無常な朝に引き離されるまで
 ずっと重なり合っていたい
 昨日も一昨日も
 あんなにくっついていたのに
 今夜も もうダメ
 あ〜ん 
 もうダメ・・・




 みなさんおやすみなさい
 そしてごめんなさい・・・
 掲示板のレスは週末まで待っててね

 

 上まぶたと下まぶたより   




  蓼食う虫も好き好き
2003年02月15日(土)  

 好みの男性を有名人に例えるなら?聞かれた時に、すんなり答えられたことがない。
洋画が好きだし、音楽の好みも洋曲ばかりだから、ガイジンが好きなのだと思われていたりするが、確かに映画の中でのトム・クルーズやブラッド・ピッドは格好いいと思うし、映画を観ている時には感情移入するきらいはあるけれどだからといって心がときめいたりはしないし、映画が終われば記憶の中には映画の中での彼らしかない。
この人素敵、なんて見ているのは大抵役者としてだから、それ以外の感情は持てないのだ。
じゃあ、有名人を抜きにしてどんな人が好きかと聞かれても、これもまた返答に困る。
これ、という定義が私の中にない。目の前にいて、いいと思えば何でもいいのだ。
この時必要なのはただ一つの惚れめがねだけで、一度それがかかってしまえばああだこうだというのはないのではないだろうか。
「私の彼は芸能人の誰それにそっくりなの」
という場合、会ってみたら顔の一部がそう言われてみればそう見えなくもないという、全体から見ればおよそ似ても似つかない場合だったりすることがある。これだって惚れめがねなんだろうと思う。

 嫌いなものには理由があるが、好きなものには理由はいらない。生理的に嫌いだったりすると、嫌いなものにも理由はいらない気がする。
私は辰巳琢郎が好きである。だからあの人には弱かったりする。
どこに弱いのかというと、あの少し鼻をつまんで話しているようなちょっと高めの声である。
勿論、話し方や考えや人当たりといったものが大きく影響しているだろうし、風貌だって素敵だと思う。
目を瞑っていなくても、心地よくて癒しと諭しが混じっているような安心感がある。
でもそれは理屈であって単純にいいものはいい。似ているのがいいのではなくて、あの声そのものがいいのだ。

 余談だが、残念なことにこの人は俳優としてあまりTVでみることが出来ない。
ずっと前にTVドラマで「もう誰も愛せない」というのをやっていたが、記憶にあるのはそれくらい。これは山口智子、佐藤栄作、田中美奈子との四つ巴の愛憎劇であった。
裏切りや嫉妬、純真な人間が悪に染まり、攻防と愛情と憎しみの間で仕事に絡めて目には目をの、普段綺麗どころの男女が純情で無情な悪人をやっていて、その悪人ぶりが他のトレンディードラマに大きく水を開けていた。
しかしそれ以降、彼を見るのは「食いしん坊ばんざい」だけであった。

 私の周りに辰巳琢郎とそっくりな声の人がいた。仕事の関係で時々出入りするその人は、風貌は全く辰巳琢郎ではないが、電話で話すとまるで本人と話しているようなほど話し方や声がよく似ていた。
ある時たまたまこちらの職場に訪ねていた彼と帰り道が一緒になることがあった。話をしながら並んで歩いていると、まるで辰巳琢郎と話しているような気になった。
その時、後ろから一台の車が通り過ぎようとしていたのに、彼は夢中で話をしていてそのことに気がつかない。道はさほど広くないので少しよけないと車が行き過ぎれないのだ。
思わず「危ないわよ」と言って彼の二の腕を掴んだら・・・
私の指は彼の肉に食い込んだ。それはあまりにも柔らかくてつかみ所がないという、私の苦手な肉感であった。これは生理的にダメなのだ。

 10代の終わり頃、これと全く同じ状態の場面があった。相手は普段はさほど親しくはないが、どこかでばったり行き会えば話ぐらいはするというクラスの女友達であった。「危ないわよ」と言って掴んだ彼女の二の腕が、マシュマロのようにふんわりと柔らかくて骨すら感じないどころか、私の指がどこまでも食い込んで行きそうなふにゃ〜っとした感覚。彼女はまるで罪の無い笑顔で「ありがとう」と言ったが、私は触ってはいけないものを触ってしまったような後味の悪さを味わっていた。こういう柔らかい感触は男性にはモテるのではないかなどと思ったりしつつ、それ以来あの感触だけは苦手である。お腹がすこしぐらい出ていても気にならないが、つかみ所のない腕はダメなのだ。勿論、それはお互いに罪なことではない。

 声は最高の好みなのに、腕が生理的に嫌悪感。
こういうことがあるから、どんなタイプが好みだなんて言えないのだ。



  Valentine
2003年02月14日(金)  

 イタリアでのバレンタインデーは、男の人が愛する女の人に花を贈る日なんですね。
薔薇の花が多かったみたい。
愛する人だけに贈るから、義理花なんかないんだけど。
お昼休みや仕事帰りに、お花屋さんに寄ってお花を選ぶ。
他にプレゼントはなくて、お花だけが贈り物。
お花の数も決まっていなくて、たった一本でもいいの。
愛を告白する日というのじゃないから、「チャオ」の挨拶の後に無言で差し出すわけです。
すると女の人は「ありがと ちゅ★」
こんな感じ。
この時のちゅ★は楽しいちゅ★ですね。
深刻じゃないし、おふざけでもない。

 男の人がお花屋さんでお花を選ぶ姿って素敵です。
粋な感じすらします。
ホワイトデーというのや、それに匹敵する日はありません。
勿論、『お返し』なんて無粋な言葉は使っちゃいけません。


 で、今日はバレンタインデー。
チョコレートが溶けませんように。





愛をこめて・・・
こもっているはず・・・
顔は笑っているんだけど・・・


何をやってるんだかね。(笑)



  CD
2003年02月11日(火)  

ふらっと立ち寄ったフレグランスのお店で初めて聞いた曲。
R&Bのリズムに引きちぎるような声。
誰だろう。
耳を澄ませて聴いてみたが誰の曲だかわからないので
1人で店番をするそのお店の女の子に聞いてみた。
「今かかっている曲は誰の曲?」
「カーナです」
「カーナ?」
彼女は嬉しそうにCDケースの中から一枚のCDを取り出して見せてくれた。
黒地のジャケットにはロングヘアーで気だるそうなカーナがいた。
ふんふん やっぱりブラックかな。
しかし、曲のタイトルを目で追うと、日本語が混じっている。
「この子日本人?」
「はい、そうです」
赤毛のアンみたいな女の子は目を輝かせてそう言った。
彼女にお礼を言ってお店を出たが、その日はCDショップへ行くことが出来なかった。
帰ってからネットに繋いで探してみたら、今日見たアルバムが1stアルバムと書いてある。
1曲だけ視聴出来たので聴いてみたら・・・なんとなく・・・?
それから別のサイトを探したら、レゲエ出身と書いてある。
やっぱり。
小柳ゆきがドナ・サマーばりで出てきた時には感動して、これからを大いに期待していたりするけれど、
KAANA 今は純粋にR&Bだけ歌っているというので、ちょっと気になっていたりする。

更に、小室ファミリーの曲はあまり好みではないが、安室チャンのR&Bはちょっと好きだったりする。
最近、ZEEBRAと組んでラップを出した(出す?)らしいので、これも気になっていたりする。



  年賀状
2003年02月10日(月)  

 毎年欠かさず年賀状を差し上げる方の中に、中学1年生の時のクラスの担任の先生がいる。専門は化学の先生であった。先生と私は名前が同じで、偶然にも高校3年生の時にもクラス担任を受け持っていただいたので、特別に印象が深い。
 大変に小柄な先生で、身長は150cmよりかなり低かったと思う。この学校の女教師は年齢不詳が多く、いつまで経っても年を取らない不思議な人たちばかりであったので、この先生の年齢もよく知らない。私が中学1年の頃は、多分父兄と同じかそれより少し上ぐらいではなかったか。その時代の人にしては彫りの深い顔立ちで、エキゾチックな美人であった。
 年賀状を差し上げると、毎年必ず松の内にはお返しをいただいた。先生の年賀状は中学時代から全く変わらず、お年玉つきの年賀葉書に手書きで宛名が書かれている。この数年は近況と差出人住所氏名はワープロに変わっていたが、直筆のコメントがひと言書き添えられて上にかかるスタンプはいつも同じ、朱色の丸い円に賀正のスタンプと元旦のスタンプ、このスタンプを見るとひと目で先生からのものだと分かる年賀状であった。
 現役の頃は妹さん夫婦が営む施設で一緒に暮らされていたが、後年退職された頃には妹さん夫婦も施設を畳み、今度はご自身たちが施設へ入られていた。だから先生へのあて先にはいつも施設の名前を書いていた。
 去年のお正月、先生からの賀状はそれまでよりも遅い成人式の頃にいただいた。今年もお返事がいただけるようにと願っていたが、今になってもまだ届かない。クリスマスの頃に届く同窓会誌には何も書かれていなかったし、周囲からも何も聞かない。
 現役の頃は何度か施設に電話をかけた事があったが、こちらの施設に移られてからは、電話をするのも控えてしまっている。
先生からの年賀状を今年もずっと待っているのだが、何だか気になってしょうがない。



  未知
2003年02月09日(日)  

 10月に手術をした母は定期的に検査を受けるために病院へ行く。ガンが転移をしていないかどうかを確かめるためである。先週、退院してから2度目の検診に連れて行った。前回が12月の初めだったから約2ヶ月ぶりである。
正直に言うと病院へ行くのは気が重い。1週間後に結果が出るまでの間の不安もあるが、それだけでなしにあの場所へ行きたくないと思うのはガンセンターの空気が重いからである。
病院はエントランスを入ると右側に総合の受付があり、初めて訪れた人は反対側のソファーで待つようになっていて、その長い廊下を奥まで進むと病室へ向かうエレベーターホールがある。
エレベーターは2基あるが、入院患者さんが使うし、お見舞いの時間は比較的鷹揚なので混んでいる。母の病室は7階だったが、2基のエレベーターがほとんど同時に昇っていってしまった時など、私は戻って来るのを待たずに階段を使った。どこにいても私はこんな時には階段を使う。そのような時には何故か駆け足になってしまう癖がある。しかしこの病院の階段は駆け昇ろうとすると足が重くて持ち上がらない。膝から上が鉛を乗せたように重くなる。その時は自分が疲れているのだと思ったが、他の場所ではそうではなかった。
数日経って落ち着くと、エントランスを入ってから、この長い廊下を歩くうちに両方の肩に何かがズシリと乗っかるような重みで徐々に体が重くなるのを感じた。

 この病院に来る人は紛れもなく同じ病気の人たちで、ここは告知が前提である。1人1人には家族があり人生がある。お年寄りもいれば現役世代もいるし、若者もいれば妊婦さんもいる。本人とその家族の苦しみや悲しみの気持ちが一つの塊になって澱んでいるような感じ。後ろ向きの「気」のようなものが全体の空気の密度を濃くしたようで、体が重くなってしまうのだ。入院する人は全ての人が初めてというわけではなく、一度は退院したものの別の場所に転移して病状はどんどん悪化していくというような、「良くなる」とか「快方に向かう」というのとはおよそ逆の方向にいる。産院での生まれたての赤ちゃんや、誰も彼もが明るい表情とは大違いで、それぞれの人の顔を見るのも辛い。
入院、治療に際してかかる費用も馬鹿にはならない。入院早々、病気のことはそっちのけでガン保険がおりるかどうかで頭を悩ます自営業の夫婦もいた。

 母の病室の向い側のベッドには、乳ガンの手術の後に再び入院生活を送る人がいた。慣れない私たちに何かと親切に色々教えてくれて、笑顔を絶やさず優しい人であった。抗癌剤のせいで髪はほとんど抜け落ち気分の良い時には毛糸の帽子を被っていた。たまに入浴をした後は、タオルのガウンを羽織り、頭に白いタオルを乗せてベッドの脇の鏡の前でしばらく座っている。その後姿はとても病気とは思えないくらいに艶めいていた。
退院の日に母を迎えに行くと、彼女は目が充血したので黒い眼帯を頭から斜めにつけてとても痛々しい姿で横になっていた。
それでもベッドの脇まで挨拶に行くと、起き上がって涙ぐみながら笑顔で見送ってくれた。

 会計を済ませて病院を出てから、初めてあの人はどこが悪いのかと母に聞いてみた。ガンが脳に転移しているのだという。それを本人も知っているのだと。年は50歳と言っていた。ハタチぐらいの娘さんが2人いた。それを聞いた途端に涙が止まらなくなってしまい、車を運転するのに困った。

 この病院で目に入ったあらゆる物が、知らぬ間に私の心の中に溜まっていたらしく、ひとまず落ち着いてみれば色々な場面の色々な人たちの姿が後から後から出てきて、その夜は居ても立ってもいられないくらいに胃が痛くなってしまった。胃が痛いというのは、最後に経験したのがいつのことだか思い出せないくらいで、胃だけは自信があったのに。
それから翌日もその翌日も、夜になると何故かあの人が思い出されて声をあげてわんわんと泣いてしまった。
今、その人がどうしているのか、病室でまだ同じようにタオルを被って鏡に見入っている姿ばかり想い出される。


 人は経験で物事を想像する。経験がなくても見たり聞いたり、何かの取っかかりで物事を想像出来るのではないだろうか。知らないことは沢山ある。知らないことは無いのと同じ。何も知らないことを想像するのは、言葉を使わずに物を考えるのと同じぐらい不可能に近い気がする。生きて少しずつ何がしかの経験を積んだとしても、それは世の中にあることのほんのちっぽけな一つにしか過ぎない。わかったようなつもりでいても、わからないことの方がはるかに多い。ほとんどのことは知らないまま、知らないということも知らないで過ぎて行くのだろう。ただ目の前に見える些細なことで、喜んだり悲しんだり、何かを感じて過ごして行くのだろう。それがいいとか悪いとかじゃなく。



  おんなのたのしみ
2003年02月08日(土)  

 楽しみは色々あるが、下着を買うのもその一つだと思う。買う行為そのものよりその前の選ぶ段階が楽しいと少なくとも私は思う。女の下着といえばまず、ブラジャーとショーツ、次にキャミソールだのスリップだのそれからパンティーホースにフレアーパンツ。
最も緻密にサイズを検討しなくてはならないものがブラジャーだから、先ず初めにブラを選ぶ。お店には多種多様なブラがある。しかしこの中から自分に合ったサイズやら機能やらデザインやら素材やら何もかもが気に入って これが私のブラというものを探し出すのは時間がかかる。直に身につけるものだから試着をするのも何だか疲れる。これはいいと思っても、実際に身につけてみると綺麗なラインが出なかったり、ワイアーが当たって痛かったり、気に入ることの方が少なかったりする。
だからこういったものは、急いで買いに行くものではない。日頃何気なくお店を覗いていないとなかなか気に入る物が見つからない。
そうして、お気に入りが見つかるとご褒美を貰ったようにとっても嬉しい。それからやっとショーツに気が行く。間違ってもデパートの下着売り場なんかでワコールやトリンプのブラとショーツとキャミソールの同じ柄の3点セットなんぞ買ってはいけない。やはり下着は専門店であれこれ手にとりコーディネートするのが楽しい。セットで売られているものはコーディネートとは言わないのだ。そういった他人に選ばれたお仕着せの品物は、一度で飽きるし楽しくない。

 昨日覗いたお店にとても素敵な人がいた。年齢は多分50代の前半ぐらいだと思う。オーソドックスな黒いタートルにスラックス、ハーフコートを羽織っていた。紫苑から滅紫、更に枡花色へと変わる淡い色のグラデーションのかかった綺麗なブラを片手に似合うショーツを探していた。50代の前半だと思ったのは、肌の感じ、目の回りのシワやらたるみ具合とか全体のハリがそう思わせたから。もしかしたらもっと上かも知れない。年齢相応のさり気ない宝飾品のいくつかは指にはまっていたが、見るからに堅気の奥さん風で、選んだブラも華美じゃない。それがとても素敵に見えたのは、私にはまだあんな色は似合わないと思えたせいかも知れない。
なかなかその色のブラに合うショーツが見つからないらしく、お店の人も一緒になって探している。私は思わずさっき手に取って戻した藤色のショーツを左手に掴んで彼女に差し出した。それは全体がレースでしっくりと柔らかく目にも肌にも優しそうなものであった。彼女が手にとっていたものより、似合うと思った。
「こっちの方が素敵」
同時に声が出る。
彼女は私の手からショーツを受け取る。
それから目が合い、今度は彼女の目が私の右手に持ったショーツに目が行く。私が手にしていたものはマル秘だが、なかなかの掘り出しものであると思っていた。
「あなたのそれは、あなたにピッタリ」
「ありがとう」
それで会話は終わり。
あのくらいの年齢の女はたいていあまり目に光がない。力がない。それは肌の老化とは別に、内面だろうと私は思う。
彼女の瞳は黒く輝き力があった。それがとても美しいと思った。生き生きした人を見るのは気持ちがいい。

 一体どんな用途で使われる下着なのか知らないが、想像力を働かせれば色々な場面が出来上がる。とても素敵なご主人がいて、いつも綺麗にしていたいのかも知れないし、もしかしたら年下の恋人がいるのかも知れない。そう思うとだんだん森瑶子の描いたいくつもの同じような小説の同じような場面が出てきてしまうので、想像するのはやめにする。

 いずれにしてもあんな風に年齢は重ねたい。
1日2日でどうなるものではないのだと思う。下着に限ったことではないが、綺麗に年を取るのはやはり常日頃の心がけでしかないだろう。
おんなのたのしみ=おんなのたしなみ
かもね。



  検索
2003年02月07日(金)  

 このダイアリーはレンタルの日記帳をお借りしているが、レンタル元のページへ行くと私のダイアリーへの昨日と今日のアクセス件数やリンク元が分かるようになっている。
リンク元のほとんどはページのメニューなので、このHPのゲストの方がメニューからいらしてくださったということになる。たまに他の場所から直接このダイアリーにいらっしゃる方がある。たいていはレンタル元で作っている新着日記のページからだが、ごくごく稀にGoogleの検索ページからというのがある。
先日何気なくこの表示を見ていたら、そのリンク元の url が残っていたので、どんな言葉が引っかかったのかたどって行くと、それは昨年12月に書いた「初セイコー」というタイトルのダイアリーにある「初エッチ」という言葉であった。これは母が初めてガンセンターで受診する際に渡された問診票の中にあった「初交はいつですか?」という質問の為の母との会話に出てきた言葉である。なんとまぁ、そんなものが引っかかるとは。ちなみにこの言葉だけで検索されたものの表示は15ページ以上もあり(全部で何ページかまで見ていない)ほとんどがカレシとカノジョのおもひでやら今後の期待について書かれていた。そんな中で私の書いたものは色気も素っ気もなくて、来てくださった方には申し訳ない限りである。大いに期待をそがれたに違いない。

 この Google の検索エンジンは実に多くのサイトが引っかかり驚くことがある。それから私のサイト名の momomoon などを入れて検索するとなんと5ページ分もの量があり、そのほとんどが私の部屋のどこかの何かだったり、どなたかのリンクのお部屋だったり、もうすっかり以前の掲示板でのことであったりする。Yahoo や MSNでも出ないことはないがこれほどの量ではない。以前はもう1人 momomoon さんという方のお部屋があったが、今はなくなってしまっていた。同じ人間の作るものをいくつも引っ張って来ても仕方ないだろう。実際に何かを調べようとすると期待はずれなことが多くてがっかりする。というわけで私は Google での検索はアテにしていない。

 明日はやっと2週間ぶりに朝寝坊が出来ます。
皆さま よい週末を・・・。




  さようなら
2003年02月05日(水)  

先生さようなら みなさんさようなら
教室さようなら らったらったら〜

小学1年生の一年間、学校の教室で1日の終わりに歌った歌。
先生さようなら で生徒全員が前に立つ先生におじぎ
みなさんさようなら で隣同士向かい合っておじぎ
−−−小学1年生の時のクラスの机は2人で一つ、男女が隣同士に座っていた−−−
それから みなさんさようなら で教室の後方の壁にある黒板に向かっておじぎ
そうして前を向いて らったらったら〜

この時以後、どんな時にも さようなら という言葉を口から出したことがない。




  月初めのツキ
2003年02月04日(火)  

行きつけのクリーニング屋さんでは、毎回会計の後でこのお店だけの宝くじをくれる。
チェーン店なので全店共通かも知れない。
5桁の数字が書かれたもので、月が替わると抽選があるらしく、店内に当選番号が書かれている。
1等は1組で賞金が5000円。
2等は2組で賞金が3000円。
3等は10組で賞金が1000円。
この2等の当たり番号と私の持っていた番号が1番違いだった。しかも2枚。前後の1番違いではない。
2つの2等の番号はかなりかけ離れていて、私が持っていたのは、そのどちらにも1番違いなのだった。
もし当たってれば、合わせて6000円、1等より高いのだ。

私   「きゃー、1番違いだわ〜」
スタッフ「へぇ〜見せて見せて!本当だ〜」
私「ひゃ〜、こっちも1番違い!」
ス「うっそ〜、見せて! あ、本当だ、2つとも1番違いなんて珍しい」
私「喜んでいいんだか、悲しんでいいんだか」
ス「大丈夫ですよ、こんなことめったにないんだから、今度は当たりますよ、絶対に」
私「どうもありがとう」


何だか、上がり牌を待っていて、出たと思ったら上家にやっす〜い手で持っていかれた時のような気分。しかも2回続けて・・・。



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