momoparco
  ++ 花粉症 ++
2002年03月29日(金)  

 症状は、鼻や口から花粉が入って来ることを体内で拒もうとするために起こる鼻詰まり、鼻腔内に侵入した花粉を洗い出そうと流れる鼻水、目に入った花粉を流そうとする涙や、アレルギー源に触れたために起こる目鼻の痒み、人によって重度が違うが、これが一度に起こるとそれは不快で辛い。
これが長時間続くと、まず集中力がなくなり、呼吸が苦しくなり、夜中にも熟睡できない。
このための薬は色々ある。目薬や点鼻薬を、目や鼻に直接さすことで痒みや鼻詰まりがかなり緩和されるし、飲み薬によっても大分納まっては来る。

 しかし、アレルギー症状が起こるというのは、本来人の体が持つ自然の成り行きなので、間違ったことでは決してない。むしろ体を守ろうとするために起きているのだ。血液検査をしてすべての項目をチェックすれば、何もアレルギーのない人間はいない。顕著であるかないかの違いだけである。どうすればよいのかといえば、アレルギー減を避けることである。

 薬には作用もあるが副作用もある。花粉が侵入するのを防ぐために、鼻の中で膨張した血管を点鼻薬(血管収縮剤)で細くすると、呼吸は楽になるが物の匂いは全く判らない。目鼻口各器官からの体液の分泌を激減させれば、涙や鼻水は止まるが異常に渇き、口の中の唾液もなくなり、滑舌は非常に悪く、物の味もわからない。そもそも飲み薬は神経に作用するから、個人差はあるもののいつも眠気に襲われる。こうして、体が自然に起こす成り行きを不自然に変えてしまうため、このような薬を数週間使い続けていると、いつも他人の体で生きているような不快感がつきまとい、肉体は疲労する。産み出されるものは何もない。こうして、1ヶ月、長い人では3ヶ月の間、早くこの時期が過ぎないかと待つのである。

 林野庁の調べによれば、全国に約1000万haある人工林のうち、およそ450万haが杉林であり、これは九州全土の面積よりも広い。このうち、花粉を飛ばす樹齢20年から50年に達しているものが約3000万ha。1haあたりに植えられている杉は約3000本で、1本につき3kgの花粉を放出すると言われている。この花粉が一斉に飛来すると、先に書いたような症状が起こる。

 昭和30年代の拡大増林政策によって、この時植えられた杉が同時期に同じ樹齢に達して現在の花粉を飛ばしている。しかし、輸入材との価格競争に敗れ、国産杉は伐れば伐るほど赤字という事になる。手入れをしていれば花は咲かないが、労働力不足から放置された結果昭和50年代から杉花粉が飛び回るようになったということである。

 現在花粉症患者は全国で約2000万人、医療費の総額は年間3000億円に達する。これが国民病と言われる所以である。一般に納められる社会保料や国民健康保険料の各基金からも莫大な金額が花粉症に費やされているわけである。放っておけば、年数分、その合計金額が増すばかりで、これをずっと続けて行く事には何のメリットもない。昨年全国で間伐された30万haの予算が528億円。450万haの全てのスギを伐採すると、7920億円。医療費が毎年使われる金額を考えても、どうするべきかは明らかである。輸入材にたよる製紙を国産スギで賄うと、製紙会社の雇用が増えコストが下がる。国土保全や環境面での機能ということなら、花粉の少ない品種の開発を1日も早く行うしかないだろう。花粉症の蔓延は、国の政策によって行われた結果である。国が責任を取るのは当然のことである。

1人1人が花粉症になるかならないか、理由を考えるのはナンセンスである。アレルギーというのはそういうものである。猫アレルギーや生ゴムアレルギーが何で起こるか明確には誰にも分らないだろう。土が花粉を吸収する地域の方が、土の少ない地域よりは患者数が少ないというのは納得出来るが、いずれはどうなるか。私自身も数年前までは、目の前で花粉症の症状に苦しむ人がいても、何ともなかったのだから。花粉症というと、聞こえて来るのは個人的な対策の智恵ばかりで、高いお金を払ってありたくもないあり方で過ごす、これがいつまで続くのかと思うと全く馬鹿らしい話である。



  ++ 攻略法 ++
2002年03月23日(土)  

 31日に横浜市長選がある。
市選管では、98年の市長選挙での20代から30代の投票率が、全体のそれより下回っていたというので、この年代の夫婦を狙って、18区のうち10区の選管で、子供たちが喜ぶ映画界やぬいぐるみショーを計画しているのだとか。
一つの区では、「ポケモン」映画の映画会を開催して、子供たちに風船を配る。別の区では「千と千尋の神隠し」の歌手を呼び音楽会、またある区では、ハローキティーのショーを開く。
そうして、一つの区で500〜600人の子供が集まっているのだそうだ。
目的は、若い世代の投票率アップ。
啓発活動費として計上された金額は約一億七千万円也。



  ++ 件名なし ++
2002年03月20日(水)  

 いや〜、一週間が無事終りましたね♪
と言いたいところなんですが、明日が休日なだけで、実はまだ今日は水曜日。
今、え?っと思わなかった?(笑)

 すっかり春が来ちゃいました。春めいて、というよりは、例年よりかなり早く春春春。そのせいで、桜もちらほら咲き始めて・・・と思ったら、上野公園では花見の準備を前倒ししているとか。ライトアップやら大きなゴミ箱の設置やら、何やらかにやら大変な様です。

 桜は綺麗、夜桜も綺麗。昼間の桜の木からは今までの記憶とない交ぜになって、入学式とかスタートとか新しい何かがまた巡ってきたというような、前向きな新鮮さを感じるし、夜桜からは桜の精霊のような、妖艶で美しく、粋で気高い優美を感じ、街を歩いていてもそちこちにある桜の木を見ては、昼間は昼間で、夜は夜でとても静かな気持ちにさせてくれると思います。

 だけどね・・・、もういい加減あの花見の宴会ってやつは、やめてくれませんかね。何だかさー、汚い。桜の美しさを味わいたいという気持ちは私だって充分理解出来ますよ。でも何で、美しい桜の木の下で、地べたに座って飲み食いしなくちゃならないのよと思うのよ。昼といい、夜といい、あの宴会集団を見ると桜の美しさが半減する。半減どことかぶち壊し。桜はそっちのけで、どんちゃん騒ぎでしょ、そっちこっちに食い散らかしが散乱してるでしょ、カラオケのセットまで持ち込んでがなる始末でしょ。

 私は、美しい桜を見るのはやぶさかじゃないんだけど、醜い物は見たくないんだわ。浮かれ気分になってるなよ、と思うしね。そういう事をしたいなら、ちゃんとショバ代払って飲み屋へ行けと。それにまた、後がすごい。ゴミを持ち帰りましょうなんて言ったってね、しらふのくせに、枝を折って持ち帰るなんて不届きな人種もいるぐらいだから、きちがい水を飲んで出来上がっちゃった人間にモラルを問うというのは所詮無理な話でしょ。たった一人じゃしないくせに、寄ると集まると見境がなくなる集団心理の醜さも不快だし。いっそのことニッポン国中桜の木のあるところでの飲食を禁止して欲しいと思うわけ。桜の木の下での宴会はナシナシ!

 年に一度この季節だけ、綺麗な桜が見られればそれで充分じゃないですかね?


 ところで、3年前に山口県光市で起きた母子2人が殺害された事件での判決が出ましたね。被害者の夫が犯人に対して極刑を望みながら、無期懲役との一審判決を不服として、遺族の意見陳述権を行使して控訴審の法廷に立ち、死刑判決を求めたんですが棄却され、再度無期懲役の判決が支持されました。

 少年犯罪や、精神的に病んだ人間の犯罪が起きた時、被疑者のプライバシーは人権を守るという名目で公開されず、これは、かつて14才の自称、酒鬼薔薇が起こした殺人事件の被害者淳くんのお父さんの書かれた物にも大きく取り上げられていましたが、今回も同様、殺害された被害者が強姦されていた事を含めて、プライバシーというものが全面的に表に出るのに、犯人についてはオブラートで包まれたように守られています。

 夫は、人を殺して強姦するのに未成年も何もないじゃないかと、妻と娘の命は判決のように軽いものじゃないと、二人の尊厳はもっと雄大であると言い、今後は妻子の死を無駄にしないために、犯罪被害者、遺族の権利確立へ命をかける覚悟だそうです。

 この裁判で注目されたのは、当時18才の少年に対し死刑を適用するかどうかでしたが、最大の争点だった更生可能性が認められたことと、、内面が未熟で前科がなく、顕著な犯罪的傾向がないことや家庭環境が不遇である事などが、判断の大きな基準になったようです。

 さて、更正とは一体なんでしょうね。
更正の余地があるとの判断は、一体どういう基準で決められるのでしょうか。何才であろうと、どのような理由があろうと、被害者が奪われたものが変わるわけじゃあるまいし、殺人、強姦、これ死刑でしょ。強姦だけでも死刑。更正の余地を問う必要なんてないと思うんだけど。この頃の少年犯罪というのは、非常に被害の大きなものが多く、その前に法はあまりにも時代錯誤じゃないかと思っていたんですが、少年犯罪やら強姦やら、どう思いますか?甘くはないんですかね。

 アメリカのある洲では、強姦を犯した者は去勢されるんですが、日本は何でそういう事はしないんでしょうか。せめてそのくらいしてもいい。その事によって、更に精神的に不都合が生じて犯罪に繋がるのでしょうか。その辺り、宮崎勤が思い浮かんじゃうんですけど、それによって同じ犯罪は起こせなくなるでしょう。その昔、宦官という、去勢された男子で貴族や宮廷に使えてしばしば権力を握った者がいたんだけれども、何かしらのその使い方というか、置き所はあるんじゃないかと思ったりします。

 話がばんばん飛びますが。
何でかっていうと、さっきから gaiax が重くて自分のページに入れないからなのよ。(笑)この日記はジオで作っているんだけど、そっから自分のページに飛ぶのが飛べない。待ちながら、まぁ時間があるから続いて書こうと思っていたら、こんなにダラダラ書いてます。(笑)

 あーそうそう、野村沙知代、実刑2年だそうですね。この人、実際の収入を、経費を水増しして半分に申告して、源泉徴収されていた税額が確定申告した所得税額を上回っていたってんで、還付金まで貰っちゃってたんですね〜!。いつかここで、たいしたタマだと書きましたが、いやホント、徹底した脱税ぶり、やるだけやったのねって感じ。

 テレビでちらっと姿が見えましたが、かつてのこってこてに塗りたくられた厚メークで、虚飾にまみれて世間を舐めきっていた時のような陰はありませんでしたね。かと言って、尾羽打ち枯らしてしょぼくれたってんでもなく、反省の色を感じない。しかも、今後はタレント活動はしないが、私小説を出すなどと、この期に及んでまだ儲ける事を考えているあたり、金の亡者は金太郎飴のように、どこを切っても金儲けなんですね。

 そこへ行くと、眞紀子さん未だ吼えてるのなんか、なかなか可愛いもんでしょ?ホントおもろい。(笑)といったら、辻本清美、他人を糾弾する事により、自らがスッパ抜きの憂き目にあう。政界は跳梁跋扈の世界なりね。




  ++ 縛られる話 2 ++
2002年03月16日(土)  

 数年経った夏の昼間、私はトリノのアパートのベッドの上で午睡をしていた。トリノはイタリアの北部、日本の北海道と同じ緯度の上にあり、冬はとても寒かった。夏は暑く、サマータイムになるせいもあって、遅い時の日没が夜10時頃というとても昼間の長い日々。早い時でも午後8時にならないと日が暮れ始めないので一日がとても長く、時間というものが、これ以上ないというほど贅沢に、そしてゆったりと過ぎていた。

 午後から数時間の昼寝をして起きても、表はまだまだ明るくて、夕暮れ時に目を覚ました時のようなもの悲しいような心細いような気持ちになる事もなく、明るい窓の外から入って来る少しの風でカーテンがゆらゆら揺れているような日々であった。

 その時は緩やかに流れる時間の中で、学生の私は友人から船便で届いた文庫本を読みながら、うとうとしては本を読み、少し読んではうとうとし、などととても優雅な時を過ごしていた。少しして眠り込んでいたようで、とても恐ろしい夢を見て気がつくと、体が重く動かなくなっていた。

 すぐに金縛りだとは思ったが、頭の中では昼間なのに?日本じゃないのに?などなど、今起きている事がありえない事のようで、夢を見ているのじゃないかと思ったりした。体に受ける感触はいつも味わっていたものなので、非常に不思議な感じであった。手はやはり体の上に乗っている。怖い夢も見た。初めて金縛りの経験をしてから、寝る時には必ず横向きになり、体の上に手や腕が乗らないようにというのは私の中では絶対の決まりだったが、眠ってしまってからの寝相まではどうにも仕方がない。

 金縛りに遇っても、体はまるきり動かないが目だけは自由に開いてしまうので、怖い物を見てしまうという人もいたが、私の場合にはどんな事をしても絶対に目が開かないので、何を見る事もないが、何故かそのような時に見える物のイメージが、日本的な髪の長い白い着物といったものがあったので、どうしてもその場にはふさわしくはなかった。

 それから、いつもするように思い切り全身で、これ以上の力は出ないというまでの力を込めて体を動かすと、ふっと体が軽くなり目が開く。辺りは静かで目に入るのは風にそよぐカーテンで、どこもかしこも変わったことは何もない。あまり歓迎すべき状況ではなかったが、明るい昼間の時間にも、こんな事が起こるのだというのは驚きだった。

 それは一度起こると癖になるらしく、それから毎日のように同じ事が起こった。こんな怠惰な過ごし方をしていたので、体が疲れているというのは絶対にない。多い時には、同じ日の同じ午睡の間に数回も起こるのだ。あまりに頻繁になると、この部屋には何かがあるのかと、怖いような気持ちにもなったが、頭がしっかり覚めきっていないのに体中に力を入れて動くというのはたいそうエネルギーのいることなので、だんだんその事が疎ましくなって来た。

 その頃の周囲の誰彼に聞いても、そんな話は聞いた事がないと言う。夢の中の夢じゃないかと。

 お経を唱えないと連れて行かれるというのも想い出したが、お経というのはどれもこれも、知っているとは言えないくらい、ほんのは出だしの部分しか知らないし、とにかく動いて呪縛を解けばいいと思っていた。そのままにしておくのはいけないような気がしていたのだ。出来れば力いっぱい動くのは疲れるので避けたかったが、お経を唱えると動かなくてもいなくなるなら、少し覚えておけば良かったなどと思った。しかし西洋の場合にそれが通用するかどうかはわからない。あれこれ取り混ぜて念じてみたが、金縛りはいっこうに収まらない。そのうち、「あっちへ行け」と言ってみた。何しろ動くのがおっくうなのだ。

  結局その時は、何を思ってもどうにもならないので、やっとの思いで指を動かし体の自由を取り戻した。このようにして、せっかくののどかな昼寝を邪魔されるのがとても気に入らなかった。それから、またうとうとすると、しばらくしてまた同じ事が起こる。こういう事が何度となく繰り返されて、次第にどうでも良くなってしまった。ある時、同じように金縛りがやって来たが、あまりにも睡魔が強くて、とうとう頭がはっきりしないまま、好きにすればいいや、と思いつつ再び眠りに戻っていた。しばらくして目を覚ますと、金縛りは解けていて、なんという事もない。それから、というものは、何べん同じ事が起きてもいつもの事だと受け取るようになり、まるで無視を決め込んだ。どういう訳か、秋が来て日暮れが早くなり出すと、全く同じ事が起こらなくなっていた。

 今でも怖い夢を見て目を覚ますと、必ず手が胸の上やお腹の上に乗っている。その時に金縛りにあう事もあれば無い事もある。これはちっとも怖くない。ただ、『寝る時に、胸やお腹の上に手や腕を乗せるていると怖い夢を見ます』というのが本当の事だというのと、私の場合は、怖い夢と金縛りがセットになってやって来るという事だけである。


 なんて事はないお話。










  ++ 縛られる話 ++
2002年03月13日(水)  

 小学生の頃、風邪を引いて熱を出し、学校を数日休むような時には月刊少女漫画を買って貰って読んでいた。
週間少女漫画もあったが、これは毎週の連載だし、一つ一つの漫画のページ数が短いし、何より毎週買っては貰えなかった。むしろ、連載物を隣家の二才年上のお姉さんに貸して貰って読むのもまどろっこしいので、たまに買って貰える月刊誌はちょっと楽しみで、それは一つ一つの漫画のページが長く、そして何より全て読み切りの一話完結だったので次の事が気にならなくて良いのである。

 この月刊雑誌のもう一つの楽しみは、左側のページの欄外の2cmにも満たないスペースに、ちょっとしたマメ知識のような物が載っていた事である。読んだマメ記事は沢山あったが、その中でたった一つだけ覚えているのが、『寝る時に、胸やお腹の上に手や腕を乗せていると怖い夢を見ます』というもので、これだけは何故か頭の片隅にしっかり記憶されていた。

 私は、怖い夢を見て目が覚めたり、金縛りに遇った時には、必ず自分の手が体の上に乗っている。これはいつでもどこでも、十中八九どころか、百回絶対そうである。 生まれて初めて金縛りに遇ったのは、中学2年生の時で、夏の暑い夜だったが、その頃は夜中の気温はそれなりに下がり、夜風が吹くと涼しさも感じるような、地球が温暖化などと言われる以前だったので、2階の部屋の窓を開けて寝ていた。

 目が覚めた時、体の上に自分と同じような大きさの何かが乗っかり、それはとてつもなく重く、体中が動かなくなっていた。その時目が覚めたのは、何か怖い夢を見たからなのか、急に体が重くなったからなのか定かではないが、蛇が出て来る怖い夢を見たのは確かであった。体中が痺れたような感覚と、いつもなら簡単に動く体のどの部分も、自分の意志ではピクリとも動かず、何かに固められてしまったような感覚である。

 目を開けようと瞼に力を入れるが、最後の最後の所で上下の瞼はくっ付けられたように離れず、声を出して母を呼ぼうとするが、「お母さん」と大きな声で呼んでいるのに、耳に聞こえて来るのはただ、かすかな自分自身のうなり声ばかり。やっとやっとこれ以上出ないような満身の力を込めて、お腹の上に乗った手の指を動かすと、それはほんの少し動いただけに過ぎないが、呪縛が解けたように簡単に目が開く。

 この時は顔を右側に向けていたが、私の顔のすぐ目の前に、同じくらいの大きさの白い顔が薄ぼんやりと見え、急に体が軽くなるのを感じながら、同時に何かが体の上からスルーっと引きずられるように離れて行ったかと思うと、それは窓の外へと出て行った。体が軽くなるのも目が開くのも、何かを見たのもほとんど同時で、記憶は鮮明だが、それは多分、時間にすればほんの一瞬の事だろう。私は横になっていたが、仮面のようなその顔は横にはなっていなかった。

 それからは、恐怖心が募るだけ募り、窓を閉め、電気を煌煌とつけたまま、夏だというのにタオルケットだけでは物足りずに、夏がけの布団までを頭からすっぽり被って、眠れるまでの長い時間、蒸し風呂のような空間の中で汗だくになって過ごしていた。恐怖漫画やお話の場面では、このような時に頭からすっぽりと布団を被ってガタガタ震えていたりするが、それだから真似をしたのではなくて、例え指一本でも布団の外に出ているのは本当に怖い事であると身を持って味わった。そして、漫画のマメ知識の事をはっきりと思い出したのだ。

 翌朝母に、両手の親指と人差し指で輪を作り「このくらいの顔」と昨夜の事を詳しく話すと、あっさり
「あら、そーう、面白い」と言った。それは金縛りと言うものだとも、母には金縛りの経験はないとも教えてくれた。それから
「そう言えば、今年はお盆の時に、おじいさんが来なかったから気になっていたのよ」と言う。話を聞くと、母の父である祖父は、毎年毎年お盆やお彼岸の時期になると、必ず母に会いに来るのだという。それは寝ている母の枕もとに立って母を見て手を振る祖父であったり、廊下に出ると出会い頭に笑っている祖父がいるというのだったり、何かしら必ずおじいさんが会いに来るのだと。

 「じゃあ、今年は○○子(私)の所へ行ったのかしらね」

 私の母方の祖父は、私が生まれた時には既に他界していて、祖父の顔はアルバムの中の写真でしか知らないが、昨夜のあの白い顔はどうも写真の祖父の顔ではなかった。

 この時、この母の話を根堀り葉堀り詳しく聞き出さなかったのは、それが現実に起きた事でも、それとも母の心の中だけでの出来事でもどちらでもいいような気がしたからである。母に見えるというのだから、幽霊でも気のせいでも良いじゃないかと言う気持ち。母は嬉しいに違いない。初めて聞くその話は、私にとって新鮮であった。

 そして何より、私は小さい頃は怖がりで、1人で誰もいない部屋には行かれなかったし、夢を見てなのか夜中に夢遊病者のように歩き回って(とてつもなく早いらしい)気が付くとかかり付けの内科の先生の所にいるなどという、後々兄たちの語り草になるような出来事が数回あったりしたから、昨夜の事を「可笑しな夢でも見た」ぐらいで片付けられなかったのが嬉しかった。

 母の話を聞いてから、恐怖心というものはすっかり無くなり、それなら昨夜来たあの顔は一体誰だったのかと思ったりした。何かが私にだけ会いに来たなら、理由があるのかも知れない。もう一度来ないかと思ったりして心の片隅で待つような気持ちで過ごしたが、それ以来そのような物を見た事がない。

 しかし、金縛りにはそれからもよく遇うようになった。幼なじみの友人に話すと、彼女はほとんど毎晩のように金縛りに遇うと言った。彼女の部屋も2階だが、金縛りのある夜は夕飯時ぐらいになると「今日は来るな」と分るそうで、夜中に皆が寝静まり自分も一度は眠っていると、階段の下から人が登ってくる足音のような音が聞こえて来るという。「ほら来た」と思っていると、襖の開く音がして、彼女の所まで近づくと、途端に体が動かなくなる、というのである。気配は枕もとにいる時もあれば、足許にいる時もあるという。怖いには怖いが、比較的淡々と語るところを見ると、何かしら彼女もこの現象を受け入れているような気がした。

 金縛りを一度も経験のない人も沢山いるが、何かでこの話題になると、中には1人ぐらい同じような経験をした人がいる。それぞれの解釈は様々で、それは疲れている時に起こるのだという人や、霊が迎えに来たのだから、そんな時には頭の中ですぐにお経を唱えないと連れて行かれてしまう、というのや、枕もとに刃物を置いておくと良い、というので、やはりどちらかというと皆、霊的な物を想像するようではあった。

 色んな事を想い出していたら、この話が意外にも長くなりそうなので。・・・つづく。





  ++ マメじゃないから? ++
2002年03月11日(月)  

 このページの事をさる方より、「初めの頃は、天体半分映画半分のページだったのに(そのくらいしかなかったとも言える)、今や映画なんて刺身のツマになっている」と言われてしまいました。(笑)
だから、というわけではありませんが、映画の所に2つばかり加えてみました。
理由はありませんが、更新するというと何故か、チョコチョコでなくてまとめて一気にという気持ちが働いてしまい、結局なかなか新しいものが加わらないといったクセがあります。
映画の事も、5本ぐらいずつまとまったら載せていたのですが、そうじゃなくても良いのでしょうね。

 メモパッドには色々な物がメモられているのに、なかなか整理しないから、ページに反映して来ない。それも気が乗らないといつまで経ってもそのまま。
頭の中にあるものを、そのまま念写出来たら、楽でしょうにねぇ。



  ++ 春ですね ++
2002年03月10日(日)  

 新しいメニューを増やしてみました。
Moonlit のページに1日一つずつ書いていたら、量が多くて気が遠くなりそうになってしまったので(違うな、まどろっこしくて面倒っちくなっちゃったの方が近いかな・笑)一気にまとめてしまいました。
それから、こんなページ も作っておきました。これをメニューのどこに入れようかと思案中です。
一つ何かをすると、あちこちいじらなくてはならないので、大変ですね。って、私だけか(笑)

 ページの中でやる事は、他に色々ありそうなものなんですが、何故かこんな事ばかりしています。
これは一重に性格の現れでしょうか。大雑把と、几帳面と同居しています。非常に矛盾しています。(自他共に認めます)人から見ると、ワケわかんない〜♪みたいな。徹底的にマイペースです。ある種のムラ気でしょうか。ちなみに血液型はB型です。どなた様も、この件に関しての反論は受け付けます。(笑)

 矛盾といえば、このページにいらっしゃる方からも、そのような書き込みを頂戴する事があります。月なんかのページを創っていて、雰囲気がとても優しいイメージがあるようなのに、プロフィールやダイアリーを見るとどうもそうでない、というようなご意見を何度かいただきました。

 プロフィールや映画の趣味なんかを見ると、男みたいなのに月なんか好きで女っぽいじゃないですか、なんていうのもいただきました。プロフィールに嘘はいけない、なーんてね。(笑)まぁ、男性だって月に魅せられた方は沢山いらっしゃるし、プロフィールにあるように、枠とか型とかを決めてしまうのは好みではないので、男だ女だとかナニ人だとか、どこの地域の人間だからとか、あまりこだわっていません。もっと大陸的です。

 メニューの中にしっとりせつないポエムなんかがあるとサマになるらしいのですが、そういう物は確かにこのページのどこを探してもありませんね。
私、つくづく思うんですが、日記といっても、ここは人に見られる場所ですよね。全く誰の目にも触れない日記が、本来の日記というものだと思うんですが、こうしてWeb上に配信する以上は、人の目に触れるという事はどなたも意識して書いていらっしゃるのではないでしょうか?少なくとも、私の場合はそうです。誰にも見られたくないものは、ページにだって載せません。
そうではない、私が思う本来の日記がどこかのページにはあるのでしょうか?本当にそのような物を書ける人っているのかな?いや、書けることは出来ても、それを配信する事が出来るのかな、と思います。

 せつないとか辛いとか悲しいとか、もしもそんな気持ちで過ごしていて、だからと言ってそれをページに公開する事が出来るのは、私にとっては凄いことだと思いますよ。勿論、私も人間ですから、色んな気持ちになる事はあるし(当たり前ですね)でも、それをそのまま表面に出せる、前面に出せるというのは、むしろ逆にとても神経の太さを感じます。他人の目に触れると知っている、Webに乗っける、画像を使い音楽を流す、それは計算というもので、その時点で作り手は覚めているんじゃないでしょうか。
だから、読んだ時に、書いた人が透けて見えてしまうようなしっとり系のポエムもある。すると、単に言葉の羅列にしか見えなくなる。勿論、素敵なものもある事は付け加えておきますが、基本的に口に出して言える悩みなんて、大した悩みじゃないと思っている部分は多いにありますから。書物でも、感動は決して計算から得られないと思います。

 優しい言葉使いをしていない、と言うのも言われますが・・・。こういう言い方は非常に語弊があるかも知れませんが、優しい言葉で書いているから、その人が優しい人だとは限らない。残念ながらね。(笑)その辺りはリアル社会と一緒でしょう。

 こう書いていると、まるで私は実はとても優しくて繊細な人間です、と言いたいみたいですね。ついでに、剥きになってるみたい。(笑)そうではなくて、実は何が言いたいのかというと、少なくとも私が人さまのお部屋にお邪魔して、書いてある物を読ませていただく時には、表面上の形だけではその方を感じていないという事です。どのような書き方をされようと、書かれた物をじっくり読んで、それでその方の人となりを想像いたします。人は決して単色ではないですからね、優しいばかりじゃないし、強さも弱さも、時には修羅のような気持ちを持つ事だってあるでしょう。せっかくのページなら、型にはまらない方がいいんじゃない?書いた物を読まれて、どのように思われるかは思われる方の決めることで、こちらで決めることではありません。なんて事を書いちゃう私です。(笑)

 あくまでも、私見ですが。



  ++ 天下のご老公様 ++
2002年03月06日(水)  

 この間、たまたまテレビのチャンネルを回したら、水戸黄門をやっていたのを見て、驚いた。
水戸のご老公様をやっている俳優が、石坂浩二だったのだ。それまで、水戸黄門というとどちらかと言えばもう少し年齢の上の役者さんが演じていたような気がするのだが、石坂浩二はその辺りを比べるとまだ若いのではないだろうか。ドラマではあまり見かけないが、クイズ番組などで見るととても若くて、かつて二枚目スターと呼ばれていたと聞いても納得出来る人だったので、びっくりした。あの人はそんな年齢なのだろうか。

 あの番組の寿命はとても長い。いつ始まったのかも知らないくらい、ずぅ〜っとやっているような気がする。あれは変身モノの元祖ではないかと思う。ヒーロー物の変身場面は、ある所で主人公が「へんし〜ん」みたいな、お決まりのセリフとポーズを決めると、その場でナントカマンになったりして、それまで弱かった腕力が異常に強くなり、敵をやっつける。

 それが水戸黄門の場合には、越後の縮緬問屋のご隠居さんが、ある所で、印籠を見せた途端に腕力は変わらないが、絶対的な権力を誇示して、戦わずして悪人に勝つ。「控えおろう〜」という言葉から始まって、印籠を突き出し「頭が高い〜」と決めると、その場に居合わせた全ての人物が、うろたえ驚き、ははーっと平伏す。そこで、テレビを見ている人の溜飲が下がる。それまで、ただのご隠居さんなのに、悪人サイドから見れば、ただのじいさんなのに、印籠を見せた時点で不戦勝である。

 聞く所によると、この場面を流す時間はとても大切で、話が始まってから47分後だか48分後だかにこの変身が起こらないと、遅いとか早いとか苦情の電話が来るそうであった。だから大抵は同じ時間にその場面に行きつくように創られているそうである。という事は、毎週毎週、同じ曜日の夜の8時47分だか48分には、同じ場面が放送されているのである。

 そう言えば、この頃のテレビには、時代劇というものが少なくなったような気がする。子供の頃は、毎日夜8時のゴールデンタイムというと、必ずどこかの局で時代劇をやっていて、何となく主題歌など聞くともなく聞いているうちにちょっと覚えていたりして、遠足のバスの中などで誰かが歌い出すとみんなで合唱になり、日頃はとんと話題に出ないのに、なんだ知ってるのね、みたいな照れ混じりの親近感があったものである。しかし、最近はあまりないようである。視聴率が取れないという事なのだろうか。

 時代劇というと、どちらかというとお年寄りが見る物であった。この頃のお年寄りはあまりご覧にならないのだろうか。何故、時代劇がいいのかというと、サスペンスと違い、初めから善玉、悪玉がはっきりしている、肩が凝らず、とてつもない殺人も起こらず、おどろおどろしい場面が少ない上に、必ずその日の内に解決し、しかも正義が勝つから、気楽に楽しめるというのである。

 しかし、良く飽きないね、と思うが、これが飽きないそうである。「遠山の金さん」の桜吹雪もこの印籠に匹敵するが、この番組は長きに渡って続いていないところを見ると、「水戸黄門」だけに、なにがしかの魅力があるのかも知れない。

 しかし、テレビで長寿番組だからといって、劇場用には作られないようである。映画の「水戸黄門」ってないもんね。(あったのかな?)やはり、お年寄は映画館で映画をご覧になる事はあまりないのだろうか。この頃は、とっくに定年退職をしたからといって、どこから見ても現役バリバリにしか見えない男性や、お洒落をしてあちこちお出かけになるが、実は曾孫がいるといった女の人もいて、老人とはとても言えないようなお年寄りがとても多い。お年寄りの見るテレビの趣向も変わって来ているのだろうか。テレビの夜8時台というと、バラエティー番組ばかりのような気がするが、お年寄りは一体どんな番組をご覧になっているのだろう。



  ++ もしもし、本日は休業でございます ++
2002年03月04日(月)  

 本日はおやすみ。
昨日一昨日は仕事をしたので、今日はゆっくり。窓の外には気持ちの良い青空が広がり、気温もそれほど低くないので絶好の外出日和ではあるが、花粉の襲撃にあう事は間違いないので、残念ながら、家に閉じこもって過ごしている。ネットで麻雀をしたり、洗濯をしたり、ネットで麻雀をしたり、掃除をしたり、ネットで麻雀をしたりして忙しく半日過ぎてしまった。(笑)

 ところで、午前中だけで3回もセールスの電話がかかって来た。各家庭にインターフォンのない時代には、セールスは個別に訪問し、玄関先で何かを売りつけるやり方だったので、ドアを開けさせればまずそれが成功の第一歩だとされていたとか。最近は大抵の家にインターフォンがあるので、ドアを開けてもらえる事はほとんどなくなったようで、いきなり「ピンポーン」と来る事はない。と、思っていたら、ピンポーンと来た。(笑)

 勿論インターフォン越しに、「はい」と答えると
「突然ですが、家族というものの在り方について、ご一緒に考えたいと思いますが」とおっしゃる。これはどこかの新興宗教の”布教活動”なので、インターフォンを黙って切ってしまった。私はセールスの電話は、黙って切ってしまうので、ついついその癖が出たようだ。あらら、と思ったが、その後その人は何も言って来ないので、かような事など慣れているのかも知れない。中には、小さい子供を背負ったり、手を引いてやって来る人もいるらしいので、教育上よろしくないかと思ったが、そこまで気を使う事もないか、などと思ったりする。

 営利目的で、このような事をしていると、多いに人件費の無駄だろうが、宗教団体の場合にはこのような行為は無償のご奉仕だろうから、ご自身はきっと満足されているだろうと、思ってみたりする。子供連れの人は、子供たちに何かしらの説明をしている事だろう。

 セールスの電話に関しては、本当に色々なやり方をしてみた。 子供の振りをして「お母さんは今いません」とか、老人の真似をして「若いひとがいないから私にはわからない」とか家政婦の振りをして「奥様はお留守でございます」なーんてね、嘘八百もいいところである。しかし、このように実在しない人物に成りすまして、お尋ねの者はいないというような事を言うと、必ず時間をおいてかかって来ることもわかったのでこのやり方は却下した。

 相手の「○○さんですね?」なんていうのに、ついうっかり「はい」などと返事をすると、言葉を挟む余地もないくらいにペラペラ話が始まり、いくら話しに乗らないと思っていても、いちいち何かを言わなくてはならないのも億劫なので、黙って切ってしまったら、その後同じ所からはかかって来ないようである。

 セールス電話の場合、一声「もしもし」と聞けば、男性も女性もセールスである事はすぐにわかる。何かこう、普段より高い声を出していそうな発声と、腰の落ち着かない軽軽しい雰囲気である。たまに、低い声の人もいるが、大抵落ち着いたナレーションのような語りっぷりなのでこれも同じ。同じ事を日に何度も繰り返して話しているので、慣れきった、ソツのない喋りなのだ。大変に荒っぽいやり方だが、このごろは、相手の第一声を聞いただけで、切ってしまう。これが一番不快な思いをせずに済むからであり、無駄な時間を使わないからでもある。

 ところで、私の家の電話はナンバーディスプレイである。以前の電話機が壊れてしまい、不自由になったので昨年買い換えたのだが、その時売り場に並んでいた電話機は全てこのナンバーディスプレイ対応になっていた。他に選びようもないので、このタイプの電話機にしたら、これはなかなか良かったかも知れない。

 ナンバーディスプレイの機能は、ほぼ携帯電話と同じである。登録してある電話番号から電話がかかれば、誰からかかって来たのかが分るという仕組み。番号非通知でかかってくる時には、「番号非通知」と出るが、これだと非常にセールスの電話が多くて、余りの多さに「番号通知」に設定を変えると、相手が番号を通知しない場合には「頭に186をつけて掛けなおしてください」などというアナウンスが流れるようになっていて、こちらにはかからない。一時は、これでセールスの電話はピタリとかかって来なくなった。しかし、敵もさるもの、この頃はしっかり番号を通知してかかってくる。この時は番号だけが表示されるので、この番号を見ただけで知らない相手からの電話に出ない。このような電話は留守番電話にメッセージを入れる事はまずないので、数回の呼び出し音で諦めてくれるのだ。

 番号を通知しないと受けないというのは、いたずら電話にはとても有効である。出鱈目な番号にかけてのいたずら電話は、一切出来なくなるというわけで、人にいたずら電話をかけるのに、わざわざ自分の電話番号を知らせてくる人はいないだろうから、これは大変にありがたい機能なのだ。もし、うっかり相手が番号を通知していたら、ついでにこの番号をブラックリストなるものに登録すると、その番号から電話をかけても「この電話はお受け出来ません」というアナウンスが相手側に流れるだけで、こちらにはなんの変化もない。

 実はこの電話を「番号通知」に設定する前に、この手を使った事がある。深夜に一本のいたずら電話がかかって来た。たまたま番号を非通知にしていなかったようで番号が表示されていた。そうとは知らず、電話の向こうで男の人の鼻息が荒く、卑猥な事を言ったりしている。下手な鉄砲も数打ちゃ当たるというばかりに、あちこちにかけてみたら、たまたま女の声で返答があったのがいけなかったようである。いや、あちらにすれば良かったのだ。すかさず切っても、リダイアルでかけて来る。出ないでいると、ずっと呼び出し音を鳴らし続けているのである。

 この日はたまたま、前夜に友人から電話があり、お互いの共通の友人が病に倒れたという知らせを受けたばかりであった。彼女の状態はとても悪く、現在昏睡状態にあり、目が覚めるか覚めないかも分らないというので、この電話を貰った時は、まだ夜の11時頃だったが、何か分ったらすぐに教えて欲しいと言って電話を切った時には、深夜に及んでいた。その知らせはとてもショックな事で、その事がずっと頭にあったので、てっきり何かを知らせる電話だと思ったのだ。

 しかし、出てみた電話の内容はしつこい悪質な電話であったため、さすがに怒った。なので・・・、
この時は呼び出し音が途切れた後で、こちらからかけて差し上げた。
「もし・・もし・・・」相手はさっきの電話と同じ人間とは思えないようなうろたえた声を出している。自分が一方的にかけてばかりの電話が、いきなりかかって来たので驚いたのだろうか。黙っていると、もう一度「もしもし」という。
私の声は普段から低い。ゆっくり「△×◇÷※♯▽□」相手の謝る声を聞いて一方的に電話を切ったが、勿論この番号はブラックリストに入れたので、二度とかけては来られない。相手からはかけられないが、この時点でこちらには、自分の電話番号が分ってしまったと悟っただろう。なるほど、この電話の利点はこれだとは思った。その後、この相手が懲りたとは思わないが、少なくとも私の所には以後、同じような電話はかかって来ない。

 話を戻すと、一般電話に限らず、携帯電話にしても、便利だとされるものは、必ず何かのウィークポイントがある。いたずら電話というのは、大変にタチが悪いが、営利を目的としたものも必ずどこかから発展する。どんな物にも何かしらの弱点があり、それがスキとなって、儲けを企む側にとっては、仕掛けやすい罠となる。ちょっとぐらいの迷惑などお構いなしな事だろう。そのような事が積み重なると、大きな社会問題となり、仕組みが暴かれ、防御の方法が考え出される。しかし、人間はお金儲けをしないと生活に支障があるので、これはイタチごっこである。

 少し前には、携帯に迷惑メールというのがあった。これはメールのアドレスをなるべく複雑にする事で避ける事が出来る。つい最近話題になったのは、携帯電話に知らない相手からかかって来た時に、着信履歴に残る相手の番号にかけ直してしまうと、ダイアルQ2などに繋がり、法外な通話料を請求されるというものである。一度だけ電話がなる、ワンギリというやり方で私の携帯も日に何度かこれが鳴ったりする。もしかしたら、間違い電話かも知れないが、相手の分らない電話に何でわざわざかけ直してみるのか、私にとっては不思議な事だが、かけてしまう人が意外と多いらしい。仕事の関係で、かけてみないとならないのだろうか。しかし、これは物欲しげな行為だと思う。スキがある。(笑)

 時代と共に物は進歩し、人の生活は便利になり、便利になった分だけなにかしらの不都合があるという事である。 私はおよそ保守的な人間ではないので、古い機械の単純さをあれこれを懐かしむより、便利な物はその利点は多いに利用したい方である。使い方を正しく把握すれば、便利な物はやはり便利なのだ。このPCがいい例である。良くも悪くも人間の考える事なのだ。

 話がそれたり戻ったりしているが、最近私の周囲でも、電話をかけた時の反応がとても悪い。かつては、余所行きの声で「はい、○○です」などと言っていて、相手が私だと分かると普段の声に戻っていた友人も、この頃電話に出る時には、不機嫌な低い声でただ一度「はい」である。そうして相手が私と分ると、声が高くなったりしている。(笑)
段々、ナンバーディスプレイの電話機が広まっているようで、186をつけないと繋がってくれない友人宅もある。それぞれ不愉快な思いをしている証拠である。こうなると、セールスは次には一体どんな方法でやって来るのかと思ったりする今日この頃です。



  ++ うさぎ ++
2002年03月01日(金)  

 今夜はあいにく雨で見えないが、昨夜と一昨夜の月にはうさぎがいた。
昨日は満月だから、大きな月の左側に外向きのうさぎが両手をそろえ、ピョコンと座っていた。尻尾は丸く、耳は大きく後ろになびいて、お餠つきはしていなかったが、確かにうさぎそのものであった。

 夕方6時頃の月なので、まだ登りきってはおらず、大きくてとても赤い。なにやら不気味な赤い月だが、月の中のうさぎのおかげで月は大人しくしているようであった。

 うさぎ うさぎ なに見てはねる
 十五夜お月さん 見てはねる 

 満月の夜にうさぎが跳ねるのは、月に照らされた自分の影を見て、怖くておびえてはねているのだとか。

 明日からもう3月ですね。沈丁花の香りはもう聞きましたか?あの香りは春が近いしるしですね。
 天候が不安定で、まだまだ風邪の季節かと思えば、花粉も沢山飛んでいます。いずれにせよ、もうすぐ春ですね。



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