サミー前田 ●心の窓に灯火を●

2007年08月29日(水) 3/3がCDになる

 近年のCD再発、特に紙ジャケのリリースがすごいね。ラッシュだね。もう紙ジャケということがありがたいんだかなんだかわからないものもいっぱい出てる。
 9月には、「じゃがたら」のほとんどの作品も紙で出るけど、後期の元々CDでしか発売されなかった作品まで紙になるのはどうなんだ? メジャーデビューアルバム『それから』はひっそりとアナログがリリースされていたけどね。実は何枚かジャケットを提供したんだけど、いつまでたっても自社製品を保存しないようなメーカーが多い。9月発売のニューロック系再発もジャケをいくつか提供した。出来れば、スーナーズ/テレサ、トメ北川とかCDにしてほしいものだが。
 
 そんな再発の中でもこれは凄いニュース。なんと「3/3(さんぶんのさん)」が遂にCDに!
ボーナスでライブ音源も付いている。3/3については細かく説明しないが、アルバムは10枚プレスという幻のレコードで、中古市場に出る事はほとんどなかったが、昨年には海賊盤が出てしまっていた。
 84年のことだったと思うけど、友人が高円寺北口のアパートに住んでいて、駅から近いのでしょっちゅう遊びに行っていた。ある日、アパート前の道路のゴミ捨て場で拾ってきたばかりというレコードを聴かせてもらった。「なんだこれ?かっこいいじゃん」とか言って、いかにも手作りの自主製作っぽいジャケットを眺めていたが、それが3/3だったのだ。「フリクションのレックとヒゲ、ミラーズのヒゴが70年代半ばにやっていたバンドだよな」「やっぱりジミヘンっぽい」なんて会話をしたが、それが大変なことだとは思わなかった。その頃はリアルタイムでおもしろいバンドがいっぱい近くにいたし、古い音楽に親しんでいても希少価値で必要以上にありがたがることはなかったのだ。
 それから10数年後、お金に困った友人はそれをユニオンに売りにいったら買い取り価格「10万円」だったという。それが安いか高いかなんともいえないが、とにかく世の中に10枚しかないレコードだったのだ。それを高円寺のガード下の今はたこ焼き屋とか路面の飲み屋があるあたりの、北口側の道路に捨てた人物とは誰だったのだろう?



2007年08月20日(月) 熱狂!GS図鑑 〜黒沢進に捧ぐ〜 大成功!!

 
 『熱狂!GS図鑑 〜黒沢進に捧ぐ〜』8月19日@下北沢 CLUB Que
 本当にたくさんの人が来てくれました。
 今回は出演者それぞれと事前に打ち合せをしリハーサルに立ち会わせてもらい、さらにいろんな偶然も重なり、今宵限りの特別な構成で大成功に終わった。これはもう黒沢さんが天から演出していたのだと思う。

 それでは当日の模様を簡単にレポート。敬称略。

 トップバッターは、この日のためにお願いして、再編成されたザ・ガリバーズ。山形からオリジナルボーカルの多勢正隆が参加する予定だったのが、ご家族の病気のため、急遽キャンセル。ベースの北久保誠がボーカルをとったが、これはこれで凄くよかったのだ。「パープルヘイズ」からはじまり、「ダークな瞳」「赤毛のメリー」も披露。元祖和製ガレージパンクに相応しい60'S 感覚の強いライブだった。この第3期ザ・ガリバーズはまた続けて行きたいとのこと。

 2番手は、田渕純、バックは元はちみつぱいの渡辺勝ほかによるムード・アンサンブル東京(←命名者は俺)。黒沢さんとは縁が深かった勝さんは、この日はピアノではなく全編サイケなギターを弾いてくれた。田渕が歌ったのは、黒沢さんからアドバイスを受けた選曲「あなたに抱かれて死にたい」(ルビーズ)「哀愁のシルバーレイン」(レオビーツ)というムードGS曲に続き、ほとんど発狂状態の「お前のすべてを」(モップス)、黒沢フェイヴァリット曲「シェビデビでいこう」(プレイボーイ)。
 続いて田渕に替わって渚ようこが登場。「新宿マドモアゼル」(チコとビーグルス)「朝まで待てない」(モップス)「アリゲーターブーガルー」をムードアンサンブルをバックに歌った。終演後、俺は渚に「一人GSをコンセプトにしたアルバムを作るべきだ」としつこく言い寄ったほど、この日の渚はハマっていた。

 そして、元ザ・ダイナマイツの瀬川洋が、森園勝敏、金子マリ、湊雅史らとともに演奏。「ウォーキング・ザ・ドッグ」や「ムスタング・サリー」などをやったあと、客席にいたダイナマイツのベーシスト吉田博を呼び、コーラス担当にして、「恋はもうたくさん」「トンネル天国」をやったのだ。これには一段と盛り上がった。

 そしてラストはザ・ファントムギフトの3人。チャーリー森田をリードボーカルにして「離したくない」(ヤンガーズ)「いい娘だね」(ジャックス)「テルミーモア」(テンプターズ)の後は、ゲストボーカルで田渕純がミリタリールックにサングラスで登場。「海と女の子」(早川義夫作品)を歌ったあと、ローリングストーンズというかオックスの「テルミー」。最後はやっぱり感極まって失神してしまった(笑)。田渕が関係者に運ばれていくのを無視するかのように、「お前の夢中さ」(カーナビーツ)をやって終了。アンコールは、スペンサーデイビスをインストにした「アイム・ア・マン」、「夜明けに消えた恋」(ブルーインパルス)で大団円。

 約4時間という長丁場で、それぞれがまったくダレルところのない緊張感のあるステージだった。懐かしいだけではなく、いつでも熱狂できるカッコイイ音楽、そしてちょっぴりくだらない、それがカルトGSの真骨頂なのだと思う。この日、会場にいた150人以上の全員が黒沢さんに感謝していたに違いない。
 
 そして当日、黒沢さんの妹の恵子さんからメッセージをいただいた。それを以下にアップしておきます。

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 早いもので今日19日は兄の4回目の月命日です。この日に『〜黒沢進に捧ぐ〜』ライブイベントを行なっていただき本当に嬉しく思っております。
 兄を亡くして辛く悲しい毎日ですが、その中においても、いろいろな方々の兄に関する記事やブログを拝見して、この4ヶ月間どんなに心をなぐさめられたか知れません。兄がこれほどまでに皆様から惜しまれる存在に思われていたとは、正直、考えてもおりませんでした。
 兄が亡くなってからGSを何十年かぶりで聞きました。私自身、思いもよらずいろいろな曲を知ってたので、泣けて泣けてしょうがありませんでした。子供の頃、知らず知らずのうちに色々なGS(それもB級どころ)を聴かされていたんだと思うと可笑しいです。
 兄は亡くなるのは早すぎましたが、それでもいろいろな方たちと知り合い、そして支えられ、好きなことが出来て、(辛くとも)楽しい人生を過ごせたと思います。
 皆様、生前は本当にお世話になりありがとうございました。そして今日このようなライブイベントを開いてくださいまして本当に感謝しております。ありがとうございました。     
                                    黒沢恵子






2007年08月13日(月) NO MORE HEROES

 夜、新宿タワーレコードに行ってぶらぶらしていた。書籍売り場に行き、最近出ている「ローリングストーン日本版」、一応手に取ってめくってみたりするのだが、70年代に一時期出版されたそれと違って非常につまらない。まだ月刊プレイボーイの方がマシ。今月号の「日本のロックベスト100」みたいな特集なんか、音楽誌とは思えないほどどうしようもなさすぎて絶望的・・・
 とか思いつつフロアを移ったら「まもなくストラングラーズのジャン・ジャック・バーネルのインストアライブが開催されます」とのアナウンスが聞こえてきた。なんという偶然と幸運。 
 以下、回想。

 ストラングラーズといえば、初期パンク・バンドの中でも当時の日本では人気が高く、15歳の時に来日公演を観に行って大いに影響を受けたものである。アルバム「ノーモアヒーローズ」とか「ブラック&ホワイト」あたりはほんとよく聴いた。
 79年2月、後楽園ホールでの初の来日公演。当時の外タレは座席指定のホールコンサートというものが通常であった。この時にストラングラーズは、大人しく座って鑑賞している煮え切らない日本の観客を煽動し、コンサートではなくギグっていうものを教えてくれたと思う。ギグって言葉が日本に入って来たのもこの頃だろう。「サムシングベターチェンジ」を3回やったり、ジャンが客席に降りて来てもシラケテ座ってるカップルを帰したりした。因にそのカップルの男は今井アレキサンドルっていう、ロンドン帰りが自慢のハーフで、今はなんかオブジェとかを作ってるアーティストになった奴だった。確か今井俊満画伯の息子だっだよな。(画伯は5年前に亡くなったがキャンティの最も古い常連だったという)
 2回目の来日公演は同年の12月に行われ、後楽園球場に設置した特設テントで、当時では珍しい座席が無いスタンディング公演であった。これはメンバーの強い要望であったと聞くが、それまでは座席から離れてはいけないなどという非常に規制の厳しい外タレの来日コンサートの在り方を大きく変えた画期的な公演だった。俺は一番前で観ていたのだが、ラスト近くに観客が興奮して前に押し寄せ、次々とステージに上がってしまった。俺も客に押しつぶされないようにと、ステージの端に登った時に、スタッフに突き飛ばされて、すぐに客席に落ちてしまった。その時に、ジャンが叫んだのが聴こえた。
   
 「WE ARE NOT BAY CITY ROLLERS!!」

 初来日ではなかなか椅子から立てなかったのに、10ヶ月後の公演では椅子をとってスタンディングにしたとたんステージにあがってしまう日本の観客。まだパンクのライブ、あ、ギグの楽しみ方を知らなかったのだ。現代みたいにスポーツ感覚で楽しむだけみたいな、モッシュとかダイブなんてのもなかったし、ストラングラーズも「俺たちのギグを体験して何か考えて欲しい」的なポリティカルな姿勢が常にあった。とにかく、当時のストラングラーズには人生が変わってしまうほどショックを受けた日本人は多かったんじゃないかな。なのに近年の評価が低いのも変な話だよなあ。
 以上、回想終わり。

 まあそんなことを断片的に思い出しながら、初来日からは別人のように太ってしまったジャンを見つめていた。空手の型を披露してくれたり、2曲下手なギター弾き語りをしてくれて、やっぱり本物のジャンがいるんだなあ、と思いつつ、そういや、初代ギター&ボーカルのヒュー・コーンウェルってどうしてるんだっけ?。結局、プロモーションで来日して、インストアまでやっているのに新作は買わずに帰ってしまった。あんなに好きだったのに、もうしわけない。



2007年08月08日(水) 追悼 阿久悠さん

阿久悠が亡くなった。
訃報を知る約1時間前、俺は劇画「悪魔のようなあいつ」の単行本を購入したのだ・・・これはいったいどういうことなんだろう?と自問自答してしまう。
数回、阿久先生とはお会いする機会があった。一度だけ食事にも同行させていただいた。
緊張のあまり、何を話したのかほとんど記憶にないのだが、モップスの「ベラよ急げ」は気に入っていると言うので、「海外のブート盤では「ハイク」というタイトルなんですよ」と言ったら、吃驚して「もう少し早くそのことを知っていれば本に書いたのになあ」とおっしゃっていたことを思いだす。合掌。



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