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2001年08月22日(水) 自分をもてあます。

●劇場からの帰路、プロデューサーの車に便乗する。BGMは彼女の娘が編集したベストのカセット。アユとかモー娘とか、その手がずっと続いて流れる。どうも落ち着かない。さんざんその系統を聞いたあと、「あ、あれもあった!」と出てきたカセットがビートルズ。別にわたしはビートルズにいれこんできたわけではないが、いきなり気分がよくなる。いれこんでなくっても、英語である程度は口ずさめる程度に覚えている曲が多い。実に落ち着く。
 仕事場で常に若いやつらと接しているので自分もいつまでも若いつもりでいたが、やっぱり歳は歳なのだな。

●明日に初日を控えて、落ち着かない。眠りにつくまで、これからビールをさんざん飲んでしまうのだろうな。出演者でもないのに、この興奮症、どうにかならないものか。それでなくても、このところ何やらエネルギーがありあまっていて、どんなに働いても何やら元気で、酒量が増えている。行き場を失った余剰のエネルギーを、お酒で発散するものだから、ついつい飲み過ぎて、先日とんでもない失敗もやらかした。はしゃぎすぎて記憶を失い、トラになってしまったらしい。自分のしでかしたことを翌朝聞いて、赤面することしきり。
 この余剰エネルギーは、自分で腰を据えて何かを創るためのものと知りながら、なかなか腰をあげない自分に苛立っている。
 
●かつては、いつも一人になりたいと思っていた。自分は一人で過ごすのが上手だと思っていた。でも今は。
 なぜ一人があんなに好きだったのか思い出せない。一人の時間が苦しくって仕方ない。本を読んでいる時以外は、どうにもこうにもぼうっとしてしまう。かつてはそれが好きだったような気もするが、今はその時間が息苦しい。
 このところ、余りにも働きすぎていたからかもしれない。それとも、かようにして、一人の人間は変容していくものなのか? 遅蒔きながら、成長し損ねていたわたしの青春期が終わろうとしているのか? おいおい、もう10月には40歳だぜ。いったい何を寝ぼけているのやら。


2001年08月21日(火) 夜のひとりごと。

●仕事は楽しい。辛くって、いつも「行きたくない」と駄々をこねたくなるけれど、やっぱり楽しい。人々は楽しい。面倒くさくって、いつも「一人でいたい!」と外界に背を向けたくなるけれど、こうして頑張って人にもまれて過ごしていると、面倒の中からじんわり喜びが滲みでてくる。ささやかな交わりでも、時間がたつと熟成して、とっても美味しい刹那を呼んでくることがある。

●特に今日がいい1日だったわけじゃない。「ああしてりゃよかった」と後悔することもあるし、悔しいこともあるし、腹立たしいことだって、まあ、そりゃあ色々。ただ、この日を終えた体と精神の火照りが、そんな感慨を呼んでくるのだ。こうして夜の時間に一人過ごしていると、昼間喧騒の中にいた自分を他人のように遠く感じて、そう思ったりするのだ。

●一昨日も書いたが、母はわたしからのメールを何より楽しみにしていて、これまで送ったものを、毎日全部読み返しているらしい。子供が宝物をためてウキウキするように、「早く百通くらい貯まらないかなあ」などと言っている。でも、携帯って、そんなにたくさん保存できたっけ? 

●台風である。久しぶりの大地のお湿りなのである。渇きすぎるのも困る、溢れすぎるのも困る。あまり被害が出ぬとよいが。
まったく、「いつも中庸で」なんて風に自然はふるまってくれない。山道を走ってて、「落石注意」なんて文字を見ると、「注意したって、落ちてくる時は落ちてくるんでしょ? だいたい、どう注意しろって言うの?」と疑問に思う。
こうして生きておるのは、まったく博打みたいなものだな。いつも「ともすれば明日ひょんなことで死ぬかもしれないのだしなあ」と思いながら暮らしてきて、こうして今も生きている。博打、博打、毎日が博打。だったら、せいぜい潔く臨みたいじゃないの。


2001年08月20日(月) 真っ直ぐな人と。

●真っ直ぐな人に出会うと、わたしのように屈折した嘘つき人間は、皮をはがれた赤剥けのウサギのようになってしまう。目に留まらないくらい小刻みにぶるぶる震えて、逃げられないくらいに怯えてしまう。そして、仮死状態を経た後で、あらん限りの力を振り絞り、その真っ直ぐさから一目散に逃げていく。脱兎の如く。

●今、わたしを大事に思ってくれている男性は、とにかく真っ直ぐな人だ。真っ直ぐに見られるだけで、わたしを覆い尽くしていた体のよい皮はずるずると剥けていく。それでも愛されると、このようなわたしの中に、何かわたしの中に美しいものが潜んでいたのかもしれない、と、怯えの中から淡い希望さえ湧いてくる。

●歳をとってから恋をするということは、自分と出会う作業であるらしい。落胆したり、見いだしたり、大いなる精神の冒険が始まっている。

●新聞を見ても、旅をしても、他者と知り合っても、この今にどれだけの人生が蠢き哀しみ喜んでいるかを知ることはできる。知って、それらのの人生に「感じる」から、このような表現の仕事を選んでいる。

●忌まわしい戦争でもなく、死に至る病でもなく、絶望的な飢えや貧困でもなく、不慮の事故でもなく、恋で自分と向き合おうとするわたしは、甘いのか? 世に言う不倫で苦しみを知るわたしは甘いのか?

●忙しく仕事を続けながらも、そんなこんなの心の動きを抱えている。人生を2倍3倍にも生きているような気がする。


2001年08月19日(日) 母と娘の幸福感。

●母がiMODEの携帯を買った。わたしからのメールを受け取るためだ。先日帰省した時に、受信メールの読み方を教えてあげて、ここのところ毎日1〜2通は必ず送信している。母はまだ入力送信ができないので、受け取ると必ず留守電が入っている。「メールありがとう!」の留守電。
 たったこれだけのことが、病気で弱っていた母の、随分な元気の素になっているらしい。これからは「親孝行」を趣味にしようかと思うくらい、母の喜び方はストレートで、わたしにも幸福感を運んでくる。むろん、こういう幸福感は、嫁にもいけない出来損ないの親不孝娘ならではのものだろう。

●大阪の仕事先から帰省した後、電話で母は名言を吐いた。
「ママ(わたしは今でも母をママと呼んでいる)は、歳とって、病気やけど、パパがおるから幸せ。あんたは、若うて、元気いっぱいやけど、一人っきりやからかわいそう。おあいこやから、お互い頑張ろな」
 うーん、うーん、と、電話を切ってから一人唸るわたしであった。
 そうね、頑張りましょ。現在の幸も不幸も、わたし自身が招き、築いたもの。そしてこれから、何を選んで何を得ていくかも、きっちり自分の歩き方自分の生き方に委ねられている。それって、けっこう幸福なことじゃないか。
 母の幸福感は、やっぱり娘に伝染する。


2001年08月18日(土) わたしの足場。

●ほんの少し休んだだけで、心と体が気負わない自分に戻っている。だからこそ、何かを書き始める気になったり、自分のやるべき仕事の青写真について考えられたりするわけだが、こうして仕事が始まると、カンパニーの中で必要とされることのみを追っている。根本的に、やっていること、やろうとしていることが、違うのだ。

●どこか「生(ナマ)」な自分でないと、書き始められない。語り始めることができない。そして、現在の仕事場にいるのは、かなり去勢された自分なのかもしれない。それは決して悪い意味ではなく、集団の中にあって、自分が求められていることを最大限にこなすために懸命にこしらえてきた自分なのであるが。

●昨日、わたしが「弱い」人を解さないということを書いたが、そういう意味では断然弱い自分なのである。だって、その時々、足場が違っているのだから。
 求められる自分と、自然な自分(それはもしかしたら「こうありたい」自分)の間で、始終揺れている。これを「弱い」と言わずしてなんと言おう?
 現代を生きる中、誰もが負っていることを、わたしもこうして負っている。
 自分探しをしないと息ができない、そんな時代の中で。

●レベッカ・ブラウン「体の贈り物」は多くの人にお勧めしたい文章だ。エイズのホームケア・ワーカーが、共に時間を過ごした患者のことを淡々と語っていくのだが、その淡々ぶりが素晴らしい。足場がしっかりしている。だから「このように書こう、書きたい」というような邪念で文章が揺らがない。ただ、健康な自分がいて、病に冒され死に向かう人がいる。それだけが描かれる。もちろん、生きている以上、心の揺らぎがないはずがない。文章が揺らがないのは、見る対象語る対象に対しての自分の足場がしっかりしているからなのだと、そう思えてくる。それはまた、揺らぎを許さない「死」と「生」の強さに人間らしく立ち向かっているからこそだ。

●生き方はそのまま文章に現れる。


2001年08月17日(金) それなりに美しい夏の一日。

●暑さと眩しさで、7時に目覚めてしまう。お休みだから精一杯寝坊をしたいところななのに。
 二度寝を決め込もうとして、エアコンがある部屋のソファーに布団を運ぼうとしたが、カーテンの外の夏があまりに美しい朝を見せてくれているので、予定変更。起床。
 本当なら海を見る散歩にでも出かけたかったが、家にいてFAXを待つ仕事あり。朝ご飯にたっぷりのサラダをコーヒーを用意して、お気に入りの8畳ベランダで本を読み始める。田口ランディ「モザイク」。午前中に読了。川で日焼けの下地ができているので、肌の褐色が日陰でも濃さを増していく。わたしの肌は赤焼け知らず。お陽様をすぐに吸収して褐色になる。

●「モザイク」、「コンセント」よりずっと面白い。彼女自身の記憶から、より遠いものを材に取っているから、その距離感が読みやすいのかもしれない。ただ、作者の言いたいことを登場人物が喋り続けて小説になっている感じ。人と人が本質的に出会うことを、前世的な宿命的な描き方だけでフォローして、その先がない、というのは実につまらないところ。「共鳴」がテーマの物語のはずなのに、人々はそれぞれに傷みそれぞれに喜び、人と人の間に描かれるものが希薄。

●そう言えば、この間、恋人に、「あなたは分かってないことがたくさんある」と言われた。「その理由はとっても簡単、それがあなたのいいところでもあるし」とも。
「理由」というやつを問いただすと、「あなたがとっても強いから」と言う。
 体力があって、常に前進する精神力があるから、弱い人のことが分からないのだそうだ。まあ、彼に言わせると、ということだけれど。
 すぐさま「そんなことない!」と言いそうになったが、言葉を引っ込めた。確かに、仕事で他人を教えたり導いたり、「弱さ」を知らなければ成立しないことを続ける中で、「分かろう」とすることで、そのことを「知って」きたつもりでいる。が、わたしがのほほんとわたしでいると、やっぱり「分からない」ことに変わりないのかもしれない。
 自分のことを強いと思ったことなど「ほぼ、ない」と言い切れるわたしだが、比較論で言ったら間違いない。田口氏の小説をそれほど面白くないと思うのは、その辺りに理由があるのか? と、読み終わってふと思う。考えすぎ?

●午後。仕事のFAXを無事受け取り、マックに入力してさらにFAX送信。仕事を終える。と、恋人が外回りのついでに10分だけ部屋を訪ねてくれる。彼がこれから新宿に出るというので、新宿に用事などなかったわたしだが、「わたしも新宿に行こうと思ってたところ!」と、共に家を出る。なんのことはない。快晴の美しい夏の空の下、彼のバイクの後ろに乗りたかったのだ。

●新宿で買い物。
紀伊国屋でレベッカ・ブラウン「体の贈り物」中島義道「生きにくい・・・」
伊勢丹にて。アニエスでTシャツ3枚。エスプレッソメーカー、サンダル1足。オリジンズでフットケア、ヘアケア製品。
買い物は楽しい。ヘルメットもあったので帰りは大荷物だったが、気分がハレているので苦にならない。

●早速エスプレッソメーカーでカフェオレをいれてみる。実に美味しい。買ったばかりの本を読みながら、「たまにはマニキュアとかしてみる?」と、元宝塚トップがくれたネイルを塗る。指先がラメでキラキラしてるのなんて、何年ぶり?

●明日から仕事。先ず5日は仕事のことしか考えない日々が続く。


2001年08月16日(木) 本日は純情なり。

●昨日より今日にかけて。家中の布という布を洗濯する。旅先から宅急便で送った衣服や下着、ソファーカバー、シーツ、布団カバー、枕カバー、足拭きマット、フェイスタオルにバスタオル、トイレマットに便座カバー。それだけでは飽きたらずに、1畳のラグカーペットだの、最近使ってない乾燥度に欠けるリネン類。
 時々狂ったように何もかも洗ってしまいたくなる、というのは、わたしにおいてはままあることだが、この度の気狂い洗濯は、新しい恋心によるものか?

●旅に出る前のこと。どういうわけか、先ず、衛星アンテナの調子が悪くなって突然BS受信不可能となり、地上波TVを見ていたら、突然「ブチン」という音と共にTVが消え、再び電源の入ることはなかった。
 かねてより余りTVを見ない人ではあったが、一人で食事をとる時は大体つけていた。一人で黙々と食べるのはなかなかに寂しいものであるから。
 このところ、食事の時は読まないまでも、本を皿の横に広げて食べる。これは心情的にも絵的にもかなり寂しい。まあ、そのことを抜きにすれば、TVがないというのは悪くない。こういう商売をしていたら大事な情報源のはずだから、あったに越したことはないのだが、それにしても、静かでよろしい。
 仕事でビデオを観るというのは必須なので、いずれ買うことになるだろうが、今しばらくTVのない生活を楽しもう。
 それにしても、まったく見ないのに、WOWWOWの視聴料やNHKの受信料を払っているというのは、なんとまあ馬鹿馬鹿しいことだ。この間、集金に来たNHKのおじさんに「TVが壊れているので・・・」と言ったら信じて貰えず、「国民の義務ですから」なんて言われてしまって、殴りそうになったので扉を閉めた。殴って面倒なことになるくらいなら、無駄に払った方がましだ。こういうわたしみたいな人間が政治をダメにするのか? と、ふと問題意識を持ったが、これまた馬鹿馬鹿しいのでやめた。
 それでなくても、わたしは忙しいのだ。

●そう、わたしは忙しい。昨夜、久しぶりに、何でもいいから「書き続けたい」という思いに襲われ、書き殴る内に、ちょっと落ち着いて書きたい素材を見つけ、ここのところなかった心の作用に気もそぞろ。眠って、目覚めて、書く気満々だったところに、本日仕事がお休みになった恋人が訪ねてくる。書くことなんて当然のように放り出して、幸福な1日を過ごした。いかんせん、帰るところのある人なので、こうしてまた一人、キーボードに向かっている。
 わたしは忙しいんだ。体ひとつでは足りない、やりたいことが大過ぎる、と、心の中で喚き立てることで、我が人生の不足をごまかしている。
 二人足して87歳の恋は、いまだかつてない純情さで進行している。
 人生は、前もって予測想像できないことだらけ。そんなことを今更のように驚いてみせる本日のわたくしではある。ああ。


2001年08月15日(水) 書かなかった日々のこと。今のこと。

●今の仕事は、あと1カ所、さいたまで開けて、終わりになる。旅と旅の間の、3日ほどのお休みを過ごしている。

●書かない間、ずっと読み続けていた。面白いものも、面白くないものも、とりあえず通読して、ページをめくり続けていた。
 川上弘美の「センセイのかばん」が素晴らしい。彼女の最高傑作ではないかと思う。行間から立ち上る人間の哀しみ(一人の哀しみ、他者と出会った哀しみ)で、何度もわたしは足下がゆらゆら揺れた。最後に、主人公と一緒に、いなくなったセンセイのかばんをわたしものぞき込んでしまい、ホテルの喫茶室で涙が止まらずになり、困った。
 山田詠美「姫君」も、彼女らしく、川上さんと同じようなことを書いているのだが、使い古されたことばに、もう何も感じない。自己模倣により生まれた作品。
 ジョゼ・サラマーゴ「白の闇」も読み応えのある作品だった。突然、目が見えなくなり、それも真っ白い明かりに包まれた闇に陥るという病気が、国民的に伝染し始める。ほぼカフカ的な始まりをみせるこの作品で読めるのは、「そういうことが起これば、どういうことが起こるのか」という、徹底的な検証だ。
 どんな設定、どんな仮定から始まろうと、「人間を描く」「世界を描く」ための意志さえあれば、作品は文学として成立すると思わせる、力強い作品。

●仕事に疲れては観客に励まされ、無力感に苛まれては人間の持つ無限の可能性に支えられ、かろうじて自分を保ち、働いている。たぶん、回りから見ると、とってもしっかり働いている。しかし、本質的にちっとも満足していないのが、現在のわたし。

●休演日に仲間と連れだって、川遊びに行く。朝がきて、冷え冷えとした谷間に陽が射して、地面に光と影のくっきりした線が浮かび上がると、心も体も一挙に暖まり、温もり、踊り出してしまった。わたしは踊れないので、不器用に地面の上をバタバタと走り回ったに過ぎないが、気分は赤い靴を履いてしまった少女だった。
 太陽が真上を目指すと、暖かさは暑さに変わったけれど、目の前には透き通った水が跳ね上がり、うごめき、流れていたので、そこに飛び込みさえすればよかった。今度は心地よい冷たさに、水中で踊り出した。と言っても、わたしは泳ぎが上手ではないので、バタバタと四肢を動かし、しぶきをたてていたに過ぎないのだが。
 そんな誰もが日常的に感じている幸福からとっても遠い生活をしている。でも、そうして幸福を味わうと、どんなところでどんな風に苦しんでいても、別の場所にはこうした幸福が待っているのだと思い出すことができる。そうした思い出す力を取り戻すことができる。

●また、一人の他者を、特別に思うようになってしまった。従属したかったり、支配したかったり、独占したかったり、解放されたかったり、勝ち取りたかったり、沈潜したかったり。そして、あらゆる恐怖。
 こんな面倒な感情の渦にまたしても嬉々としてつかっている自分を疎ましく思う。もちろん、会っている時、愛し合っている時、わたしたちの間にあるものはこの上なく幸せなものだ。しかし、個人的な作業としての恋愛は、いつもいつもこの上なく辛い。

●大阪公演の間、母が喘息と高血圧で危ないとの知らせを受ける。2度、短い時間ながら帰省。
 母が、戻ったわたしを見たときの顔。それは、言ってみれば、「世界で最も愛している人に、会いたくて会いたくて、探して探して、どうしても見つからなくって、あきらめた時に振り返ったら、その人がいた」時のような顔。
 わたしが、母にいつまでも生きていてほしいと願う以上に、母は、「いつかこの世から自分がなくなって、娘を会うことができなくなるのだ」と体で知っている。
 いつも「忙しい」という言い訳のもとに滅多に帰らないわたしの2度の帰省は、母に力を与えたらしい。そんなことぐらいで元気になってしまう母の姿に、わたしへの愛情の強さを感じる。
 もう、言い訳はすまい、と心に誓う。

●今春からずっと大陸を旅している友人から、時折思いだしたように絵はがきが届く。ポストから絵はがきを取り出すたびに、余りに違う時間の流れから、おこぼれの滴が飛んできたみたいで、しばし立ちすくむ。仕事をせず自由に歩く人への嫉妬とかではない。どうしたって、ひとつの人生しか生きられないっていう、ちょっとした諦めのようなもの。


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