腰越は古くから鎌倉への入り口(宿駅)、そして漁業の村として栄えてきた。義経が鎌倉入りを止められた際に頼朝に書いた腰越状は満福寺に展示されています。その他にも義経や弁慶のゆかりの品も色々とあります。 腰越状とは、一一八五年五月二十四日、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを止められて腰越に留まっていた時、満福寺で心情を綴った手紙です。 一一八四年、源義経は後白河法皇から平氏追討の功績から左衛門少尉に任じられ検非違使となりました。しかし、この任命は源頼朝の許可がなく行われたもので、一の谷、屋島、壇ノ浦と次々と平氏を打ち破ってきた名将義経に対して、「武士による政権」を作りたい頼朝は義経の無頓着な行動や政治方針等の違いで、頼朝は義経へ不満持っていました。頼朝は、この任命にたいして強く不満を持ち、以来頼朝と義経の仲は悪化していきます。一一八五年五月七日、義経は頼朝の怒りを解こうと鎌倉に向かいましたが鎌倉に入ることが許されず、義経は、腰越の満幅寺(腰越)に逗留し、五月二十七日一通の嘆願状を書いて、頼朝の信望が厚かった公文書別当大江広元に差し出しました。これが腰越状です。 この書状には読む人の心に切々と響いてきます。兄の心はどう変わろうとも、兄への服従する気持ちは絶対に変わらないことを述べています。しかし頼朝の怒りを解くことが出来ず、重い足取りで京へ戻っていきました。
七里ガ浜() 「鎌倉志」によれば、名の起こりは関東道の七里による。海水浴には不向きだが海はサーフィンを楽しむ若者であふれています。景勝地としても知られ、手前に江の島、奥に富士から箱根、伊豆までの連山が見渡せます。江戸期には多くの浮世絵に描かれました。近辺は昭和中頃から開発が進み、人口が急増しました。
2007年12月09日(日) |
ゆのこの生まれた日。 |
誕生日です。 おめでとう私。 メールくれたのんとくんくんとガコの皆ありがとう。 ゆのは嬉しいです。 でも本当は直接言って欲しかったのです。。 ちなみに言ってくれたのはのんのおばちゃんだけです。 のんは仕事やから仕方ない><
欲しいものは色々ありますが、誕生日で欲しいものがないのが難点。 ゆのはゆのの好きな人たちが元気でいるのが何よりです。 誕生日プレゼントはいらぬがクリスマスプレゼントは欲しいと思う。
ちなみに今日はゆっくりひっきーしたかったのに起こされて不機嫌でした。 そっとしといて欲しかった。 くそぅ。
|