世界お遍路 千夜一夜旅日記

2002年12月31日(火) 五木寛之「運命の足音」を読む

年末恒例。仏様にお参りして、家族で膳につき、御神酒を回す、乾杯をして、お年玉やら年末のプレゼント交換という行事を済ませて。
私は年越しの鮭の皮が好きで、「癌の元」とかいわれつつ、ジトリンと脂ののった鮭の皮でビール、毎度のこと。
紅白が始まり、自分の部屋にテレビがあるせいか、それぞれの部屋でごろついてテレビ、居間は弟夫婦のみ。
私は、ハーゲンダッツを食べながらほろ酔い読書である。
至福。
本は、五木寛之「運命の足音」。昔は五木の大ファンだった。人生系エッセーに走り出してからすこし違うかな・・と距離を置くようになったが。
でも、これは、五木が衝撃の告白をしたとかで、夏の頃話題になっていて、アムステルダムできいた本なのだ。
なにが衝撃の告白かというと、引き上げ途中ででなくなったお母さんのこと。
ロシア人兵士が踏み込んできて、体調を崩して寝込んでいたお母さんを布団から引きずり出して踏みつけにしたこと。強姦をするために来たのだが、彼女が病気とわかって、窓の外に放り出したこと、自分とお父さんはそれを見ていながらなにもできなかったこと。特にお父さんはちょうどお風呂にはいっていて、自分の恋女房にロシア人兵士どもが乱暴狼藉を働くをただ見つめていなければならなかったこと。
その後、お母さんは、ほとんど食事を拒否するようにしてなくなったこと。お父さんは、戦後アル中になり、喀血してなくなった。五木はそれが彼なりの責任の取り方だった(優しい・・)と見つめているのだ。
ロシア兵がいなくなった後放り出された母を父と二人で部屋に戻したが、しかし、母は一言も語らなかった。ただ、半眼でふたりを見つめただけだった。そして、いっさい口をきかず、食事もせずに逝った。
その母の声がこのごろ聞こえるのだという。
「いいのよ」
詳しくは書かないが、重い内容である。
書きたい、書かねばと思っていたがかけなかった・・・でも母がいいのよ・・といってくれているような・・・ということらしい。
彼がなぜ親鸞に走ったのか、なぜ子供を作らなかったのか・・・彼を読んでいた頃のなぜ、がみな「ああ、そうだったの」と腑に落ちる内容だった。

さらに彼はこの本の中で「キリスト教的グロバルスタンダード」言い換えると人間至上主義みたいなモノが歴を左右してきた。これが、地球を世界を危うくしていると書いている。今も世界を危うくしているのはモスレム圏×キリスト教圏ということを考えれば、そうかな、と。
少なくとも仏教は十字軍のような己優位のことはしなかった。モスレムのような、剣を持っての布教はしなかった。
神も仏も石も蛇も何でも拝む日本の宗教は野蛮、原始といわれてきたが命を同じ目線で眺める見方・・・がもっと見直されてもいい、といったことも書いている。
これもまた、わかる気がする。

今年も終わる・・こんなふうに読書してすごす幸せかな。





2002年12月30日(月) 忘年会・・

ちらちらと雪が来たり、晴れ間が出たり・・・まあ総体としてはよい天気なのだが、空も忙しそうである。

夕方、父を連れて、お参りにってその後kさんとお忘年会。
Kさんとは、ロシア・モスクワのホテルのエレベーターの中であった。
いろいろと話すうちに、すんでいるところが近所でさらには同じ高校の出身だとわかってびっくり。去年も確か今頃やっぱり忘年会、した。
今回は彼女も「旅行人」の定期購読者だと判明。なんと、「遊星旅社」の頃からの読者とわかって、先輩!!と握手。あの雑誌はマニアックだから、知っていても時々読んでいるとかいう人はいても定期購読している人あったことがなかった。こんな近くにいたんだ・・・と喜んでしまった。
新潟のうまい酒、つまみはさしたることはなかったが・・・・
二人して、どうして?とびっくりしたのは、お座敷、ボックス席、みんな男だけグループ、女だけグループで、混合っていうのがいないのだ。
不思議だよね、だけど、みんな飲みっぷりいわ、と夕方6時から11時半までいて観察してしまった。

そんなこんなで今年も残すところ1日となりました。



2002年12月29日(日) 栄枯盛衰

本家の、幼なじみの奥さんが亡くなった。癌・・・だ。まだ若い。
このごろ、こういうの、多い。

母が、午後から昔からの知り合いのところにお見舞いにいった。
八十代、孫が数年前に自殺してからすっかり弱られたようだ。
寝たきり状態での退院だったとか。
母の話し相手になると、こんな話ばかり聴く。
それぞれの元気な頃を知っているだけに、言葉もない。
栄枯盛衰だと思う、人ってむなしいな・・とも思う。

お正月のあんこ餅の餡を母が作る。
今年は、指のけがの後遺症もあって力が入らないので、私が漉した。
母が練ったうまいあんこ、いつまで食べられるのかな・・と、つまみ食いして絶妙の味に感動しながらふと思った。

今日は、朝からすごい雪降りだった。
四国も寒いだろう。歩いておられる人たち、どうだろうか。
私が四国で越年をしたのは、96年か。あれからずいぶんと時間がたったような・・・気がする・・だんだんと往事茫々になる年の暮れ。



2002年12月28日(土) 車中にて・・・読書

帰りのバスは、15分遅れで着。
しっかり本一冊読んで、おじじからの「森の子供の村便り」も読んで、昼ね?までしてしまった。
本は芥川賞受賞とかの「パークライフ」。軽いので(ぺーじがじゃない、内容が)あっという間に読めた。200円で借り本だからいいけど、コレ1500円で買う気しないなあ.村上春樹をもっと水素化ヘリウムガス(こんなのある?)にした感じだもん。
バスに乗る前に借り本したときにおどろいた。
「包みますか」と聞かれたので、私はてっきり袋に入れるのかと聞かれたと思い「はい」
ところが、店員さん、少し嫌な顔をする【少しお待ちいただきますよ】
どうして?
と思ってみていたら、なんと茶色の紙を出して、カバーにしようとする。
エー何々・・・・そんなことしなくていいですよ、私は単に袋に入れることを聞かれたのかと思った、包まなくていい・・・
どうしてそんなめんどうなことするの?
「お客さんから、嫌だと・・・」
ああ、日本人のばい菌嫌いね・・・困ったもんだ、私、平気よ。
店員、ココで始めて、苦笑した。
要するに、人が触った貸し本をそのまま手にしたくないと言う奴がお客に居るのである、馬鹿野郎。
父ちゃんのパンツ、割り箸でつかんで入れる奴だな、そいつは。
嫌だったら、自分でカバー付けりゃいいんだよ。
菌と仲良くするのも必要なんだよ、必要悪って言葉あるでしょう。
こういう話は、私は、政治家の不正と同じくらい嫌いだ。
困った国になっているよ、日本はと、愕然とする。

ところで車中読書、芥川賞より、おじじのお便り、ぶなの森を旅して森や人を憂う文のほうが読み応えあった。
感動した。
そうそうもう一つ。私が行く貸し本屋、ハリポタに占拠されてた。
私は、出たばかりのころ読んだけど、アレは、不毛の物語だよ。ストーリーしかない、思想が無い。第二ミヒャエル・エンデ、もうでてこないのか。
やっぱり【人類滅亡教】の信者になりそうだ・・・

トンネルをこえたら【雪国】でした。
今年は沢山雪、降ってます。
県境の民宿はほっと一息でしょう。



2002年12月27日(金) 寒い・・・で、無資格牧師さま問題

何だか、人並みに忙しい。
余録人生を生き抜いているのにこれはどうも不本意。

で、話題は無資格牧師問題・・どう関係あるねん・・ぶつぶつ
無資格の外国人が牧師と偽って、都内をはじめとする結婚式場で式の司会している。(ちなみに報酬 一組1万3千円から1万5千円)その数首都圏だけで500人あまり。
牧師として働くには「宗教ビザ」なるものもいるらしいが、もちろん持っていない。無資格・無ビザでやると、これ「詐欺罪」に当たるらしい。
しかし、クリスチャン、みんな自分の身の回りにどれくらいいる?
そういないでしょ、はっきり言って。なのにどうして結婚式になるとクリスチャンになるんだあ?
関東キリスト教ブライダル協議会(こ、こんな組織がある!!)によると、結婚式のお仕事は「布教と伝道」ということでおやりになっているらしい。(経済的な理由とは書いてなかった・・まあそうでしょう・・)
これまたへエエ。
でも、しかしだ、私が知る範囲でいうが、一番宗教心とか信仰心に無関係なヤツが節操なく「ウエデイングドレスの結婚式」とか「教会ブライダル」にこだわっているね。ちゃらちゃら・・と。
見てくれだけ。そんな人たちに「布教と伝道?」はああん。と鼻で笑う私なのである。まったく不毛なことしてると思う。
信仰心がなかったのに結婚式の牧師さまのお話に感動してクリスチャンになったなんて人きいたことないもん。(どっかにあることを祈る、関東キリスト教ブライダル協議会のために。私は仏教徒であるが、クリスチャンの人たち、好きなのである)
無資格で、単なるバイト感覚で牧師のお仕事する外国人の宗教レベルも低い。これまた、ちゃらちゃら日本人の上を行く不毛荒廃といってしまおう。
多分、瞬間クリスチャン(結婚式の時のみ)になってしまう日本人をハナからバカにしてんだとおもう。(無意識で、だろ、もちろん)
クリスチャンじゃないのに、結婚式だけ教会はねえ・・とかって思える(恥を知る)人たちのほうが実は「宗教的レベル」は高い。可能性はある。
この世の人は、霊的に信仰とか宗教に惹かれるか、まったく興味と関心なしかのどちらかに別れる。あいだはない。
後者がにわかクリスチャンになることを選びがちだと思う。
関東キリスト教ブライダル協議会は不毛なことをしておられると思うねえ。
残念だが・・

今日は少しきつい日記でした。
こいそがしくて ストレス、溜まっている?





2002年12月26日(木) 断食・・しようか・・

メッキ、メッキと肥満している。
こまった。
新聞に「断食効果」のことがのっていた。
14日間の断食で必ず直るものとして「蓄膿症、胃病、関節の痛み、ニキビ、ノイローゼ、痔病、肥満」があるという。

むかし、といっても1998年の春かな、5日間したことがある。
交通事故後に出た鬱症状に苦しんでいたとき、針灸の師に勧められて敢行した。
「断食は心身のカンフル剤なんだよ、食べないとからだが生命の危機だと感じて、今まで怠けていた全機能を奮い立たせる、だから、体だけじゃなくて心の不調もウソみたいに治るんだ、」ということで師にお教えねがってやった。
つらいのは、2日から3日辺り、それが過ぎるとどうってことない。
水は存分に飲んでよいと言うことで、何よりきついのは、テレビをつけるとやたらに食べ物のコマーシャルが多いことだった。あれが一番いらついた。
難しいのは、元に食事を戻すことだった。
重湯から初めて10日くらいかけてやらないといけないのだが、少し過ぎると猛烈に食欲が湧いてきて困った。
鬱症状? 消えた。何だかすごくさわやかな気持ちになって力が湧いてきたのにはびっくりした。
またやりたい・・痩せたい・・リフレッシュしたい・・
しかし、家の中の食べ物を整理して、仕事なんてできないから、本を山ほどつんで、テレビは見たらいらつくので・・・用意が大変だ。
それと、14日って、未知の体験だよなあ。
ちょっと、恐いかな・・・
それと、体が冷えるので冬は向かないしなあ。
こ〜んなことを悩むのは、飽食の国だから・・・
歩きお遍路に行けば、そこそこ、痩せるとは思うんだけどな・・・と思う年の瀬の夕方でした。



2002年12月25日(水) 年賀状作成、クジラレター作成・・

まずはしばらく休んでいたクジラレターを作った。
読んで下さっている方からは切手代を頂いているので、このたびは5月からお休み状態で休みすぎと反省している。
ごめんなさい。
カナダ・タドウザックのベルーガとミンククジラの話を書いた。
タドウザックは、カナダの端のはしっこ。
この辺り、年輩者に英語が通じない。ここはフランスか、じょうたいだった。若者も、英語より、フランス語で話したがっていた。
ケベックシチィにも一泊したのだが、事情は同じ。
ケベックシティ、まるでフランスの町にいるような雰囲気だった。
ちょうど夏祭りで、町中の人が中世のカッコであるいてんだよね、まるでルイ王朝
か・・みたいなコスプレ遊び。家族で貴族の一族になったり、粉屋の娘や、中世のお坊さんや・・・とにかく事情をしらないと「どないなっとんじゃ」みたいな感じだった。
ケベック独立論、うなずけるなあ。
トロント辺りとまったく違った。トロントは根無し草の町だった。あんまりおもろくなかった、というより、興味が持てない町だった。
そこから行くナイヤガラフォールズも、ワタシ的には那智滝の方が絶対いい、好き。ナイヤガラ近辺もばくち場、ゲーセン、土産物屋、等々・・俗悪しごく。
カナダはトロントはつまりません、ケベック辺りがおすすめだ。
住むのはトロント、いいかも・・です。治安はよさそうだった。

年賀状は、今年の成果、熊野中辺路と世界一周3週目達成、それに小辺路越えを入れてみた。少しにぎやかになり過ぎだが、まあよし。

ベトナム行き、帰り便2/15日が相変わらす取れず。
しきちゃんの楽団のベトナム公演に合わせて3月に行こうかと持ったら、3月はもっとチケットが取れないと、絶望的なことをいわれたよん。
どうしょかな・・・



2002年12月24日(火) クリスマス・イブ

今日はクリスマス・イブである。一応、キリスト教の開祖(っていうのか?^^;)のイエス・キリスト誕生前夜の前祝いで、明日がお誕生日らしい。
ホントか?
キリストが誕生したときに突然明るい星が出現して、三人の博士をベツレヘムに導いたという話はあまりにも有名だ。
この星、ほらあの、クリスマスツリーの一番上についているでっかい星。

でもって、私は不審に思うのは、どうして大昔のことなのにはっきりと12月25日に生まれたってわかるの?
ってことだ。
前から何となく気になっていた。で、少しばかりネットで調べてみた。

(キリスト誕生時のあの辺の世界状況)
ローマ帝国支配下にあった。
★紀元前37年、ローマ派のヘロデ王がイスラエル王になる。

★紀元前8年、ローマの税制のための国勢調査

★財産の申告のため、身重のマリアとヨセフは、故郷ベツレヘムに帰省。
イエス誕生。

で、なんとまあ、
「12月25日というクリスマスの日付は、キリスト教以前にローマの中心宗教であったミトラ教のミトラ神の誕生日をそのまま受け継いだだけ。別にキリスト誕生の日ではない。」
とあちこちに書いてあるではないか。
そうだったのか。
日本のクリスマスイブは、クリスマスイブという歳末行事だし、うまいこと商売に使われている。だから、「うちはキリストの誕生日なんて関係ない、でもクリスマス、しますわよ、ケーキたべますわよ」なのだろうが、おいおい、ローマ帝国のカミさんのお誕生日なんだぞい、といいたいよ。

こんなおもしろい説もあった。
「当時のエルサレム付近は12月は雨季だったそうです。ベツレヘムの星は数日は見えていたような記述になっているので、12月にイエスが生まれたとすると ちょっとおかしいそうです。」
フーン。

★それで、では、ベツレヘムの星の正体は?だが、さまざまな説な説があるらしい。
●惑星の会合説
◎紀元前7年、木星と土星が会合、数ヶ月並んで見えていた。
◎紀元前3年金星、木星の連続会合

●彗星説
◎紀元前4年の彗星(尾がない)
◎紀元前5年の彗星(70日みえた大彗星)
◎紀元前10年の彗星
◎紀元前12年にハレー彗星

あちこちのHPを見たら、なんとなく惑星会合説が有力らしい。

ということで本日は、クリスマス・イブ講座でした。
あと今年も1週間しかないのがあせるよなあ・・・



2002年12月23日(月) 殺気の出るATM

また、神奈川県寒川町でATMが根こそぎやられた。
今年、神奈川だけで27件、総額一億四千万円とか。
今回は実行時間「約5分」だったらしい。
思うに、この27件、ほぼ同じグループだ。
だって、数分でショベルカー使ってATMをほじくりだす技術とか、出てきた金庫をはこびだして持ち去る手際とか、そういくつもの窃盗・強盗グループができるとは思えない。
また、運んでそれを空ける場所やその技術スタッフ(といっていのか)のことを考えると、なおさら。
人里離れたとこになんだかわから無い怪しげな作業小屋みたいなヤツ、西国巡礼をしているときにあったよ。
すごく立派なでもほとんど車の通らないような道筋に・・・警察は神奈川のそういう地域を虱潰しにあらった方がいいのでは?都会が一番かくれいい、といったって、金庫を夜中に持ち込むのは目立つんじゃないか。

この際、ATM金庫からも「殺気」を出すような工夫をせんといかんねえ。
これは平和ボケした人間のトレーニングより簡単なんじゃないか。
パワーショベルのような力が加わったとたん、周囲2キロくらいに鳴り渡るサイレンとか、同時に写メールのような機械がカシャンと連続シャッター押すとか。もっと過激に力が加わったとたん催涙ガスが吹き出るとか・・・こいうのは意外とすぐにできる気がするんだが。
少し原始的だけど、よく訓練されたドーベルマン見たいな犬たちをつけておくのもいいか。あ、でも、そうすると犬好きしかお金をおろせないね。

もちろん、これくらい私が考えるくらいだから、みんなが考えると思うのだが。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日の新聞に「トマトフョンヂュ」というのがのっていた。
つぶしたにんにく2個をオリーブオイルで炒めて、そこにトマトの水煮缶を入れる。よく煮て、塩で味を調える。
鍋を電気コンロなどにかけて、そこに、チーズフョンヂュと同じように魚介や野菜、ウインナを串に刺して入れる。温まったら食す。
最後、ゆでたマカロニを入れて煮込んでその上にピザ用チーズを入れてとろとろになったら、こしょうなどをかけていただきます。
美味しそうだ、手間もかからなそうだし。
ワインと合いそ。
ところで、これって、イタリア料理なのかな?
こんな料理、イタメシクックブックで見たことないねえ。

★★ところで、本日はこの日記の1周年記念です。★★
「おめでとうう!!!よく頑張ったねえ、今日はビールいこうねえ」
と、自画自賛。我が身褒め。(笑)
この1年、多分、300日以上書いています。
こんなにまじめに日記を書いたのは生まれて初めてです。これまでの人生で「継続は力なり」ができなかった私なのでした。
1年間、時々あるいは毎日、たまあに、読んで下さっていた方々、ありがとうございました。 m(_ _)m
明日からも、びちぼちやりまーす。
ところで、今日はいい天気。冬至が過ぎたとたんに、これって、天体はなんて正直なんだろう。
それで、今日は、大伯母の命日だ。あの日から五年が過ぎた。大好きだったおばあちゃん、合掌。




2002年12月22日(日) ケーキと羊羹

朝からご飯より先に異様にケーキが食べたい。
外は雨だし、寒いし、買いに行きたくない。
代用に羊羹を食べてみた。
ちがう・・・なあ。
基本的に私の甘味指向は羊羹、大福系なのだ。
どうしたのだろうか?
蜜柑も食べた・・美味しいけど、全然違う、求める甘味ではない。
欲求はちっとも満たされない。
でも、外に行きたくないよな・・・

昼からになって晴れた。
行った。
いつも行くケーキ屋さんは、行列だった。
どうなってんだあ・・・・
もしかして、昨夜夜中に「ケーキ食べたいウイルス」が宇宙から降ってきたんじゃないか。
待つのがウザイので、さらに5分歩いてデパ地下まで行った。
モンブランとブルーベリーチーズケーキ購入。
帰宅後、マグカップにコーヒーを2杯入れて、一気に食べた、2個とも・・・
満足しごく。

感想
ケーキも羊羹も砂糖を使っているのに、どうして羊羹の甘味ではダメだったのか。
私の脳ミソはケーキの何を求めていたのだろうか。
どうみても、ケーキの方が太るんだよう・・・と理性ではわかっているのに・・
雑想
塩味についてもあるよね、時々。
ゆかりおにぎりではない、明太子が入ったヤツでないとダメ、とか。
塩ではなくて、味噌味でないと譲れないとか。
魚ではなくて、ステーキのタンパク質がとりたいとか・・

こういうときに頭の経路はどう働いているのだろうか。(陰の声・・なあんにも考えていないって・・そうかなあ?)
すごく不思議だ。

旅に関係ない話題にて失礼。
今晩の「宇宙船地球号」はパリだ。世界遺産は「ガラパゴス」だ。
オッと、今日は冬至だ。
明日から、またお日様が元気になる。
太陽電池で動いている私は、うれしい。




2002年12月21日(土) やっぱり起きたか、銀行強盗

20日、午後1時45分、銀座の路上で、銀行強盗が発生した。
やっぱり起きたか・・・である。
いろいろと事件が起きているにもかかわらず、銀行の現金運びは私から見て実に危なっかしい。(保険かけているから盗られてもいたくない?)
実はうちの近所にある三井住友銀行もやばいと、私はにらんでいる。
毎朝、堂々と銀行の前に車が停車して現金の袋をガードマンが荷台車に乗せて運んでいる。はっきり、あれは現金とわかるのに、けっこうのんびり、のどかに(私から見ると)やっているのだ。
もちろん、警備の男もついているがまったく殺気というか、警備しているという迫力がない。銀行強盗して金儲けができないか、とたくらんでいるヤツには「これはやれる」と感じさせる存在感のなさぶり・安全な顔つきなのだ。
時々通りかかる私にさえ「仕事だから、まあついてるけどさ、強盗なんてこんでしょうよ」という平和ボケが見て取れる。
あれではやられるよ。
銀座の事件もそうだったのではないか。
やっぱり、現金ガードマンたるもの、殺気が出せないとダメだ。
ギリリ、寄ると切るぞ、投げるぞ、危ないぞという気配を漂わせないと、ねえ。
殺気はどうやって出すか。
車の窓を5センチ開けていただけで、そこから拳銃の銃口を差し込まれて「金をおいてけ、車をおいてけ、さもないと命をもらう」見たいな国(ケニア・ナイロビであった話)で鍛えないと・・・
シリアスなサバイバルゲームのような訓練をつんで、お飾りの平和ボケした守衛さんではなくて本格的ガードマン養成を、この国はもっとしないといけない状況に今あるのではないだろうか。実に残念なことだが。

銀座の事件は、7500万円の強奪。
宝くじを買って果報を寝て待つより、現金輸送の隙をついて強盗した方がいい、と思うヤツは、こんなご時世、いるよ。
ああ、とため息。
でも、そんな気にさせる銀行の警備も、日本社会のあまりののんびりぶりもよくない、と私は思う。
    ・・・・・・・・・・・・・・・
きついことを書いたついでに、もう一言、今朝来たメールから
「屋久島のひとが、「山が好きだ、自然が好きだと言う人が、結局山をあらし、自然を壊している。口ではいいことを言うが、金も払わずに、只でいい思いをしようとしている。日本人のマナーの悪さに閉口だ。」と言っていたのを思い出しました」

このメールをくれた彼は、先日屋久島にいってきたのだ。

素直で優しい彼は「私も反省しなきゃ、と思いました。いい想いをさせてもらったら、それはどういう形にしろ、その分返すのが当たり前なのですもんね。と言いながら、自分に何が出来るのか思案しています。」と書いているが。
屋久島にやがて行きたいとおもっている私には、彼が教えてくれた「屋久島の人」の一言にグアーーンときた。

今日は、暗くて一日雨が降っていた。朝もいつまでもくらい。
一陽来復・・・速く冬至が過ぎてほしい。



2002年12月20日(金) アラブ、という言葉 

今朝は6時起き。
うちのオランダおじょうさん、新潟のおばあちゃんのおうちに行く日である。
はやいし食欲もないだろうと、おにぎり弁当をつくって持たせ、彼女の大荷物を一つ背負って池袋まで送っていった。
荷物が大きいので、満員の電車ではきつい、ということで各駅停車に乗った。
結構すいていた。びっくりしたのは、8時少し前、山手線がすいていたことだ。つくづくと不況なんだな、と思う。政治家たちよ、本当はラッシュにならないといけない電車にのって日本の危機を感じろよ、見ろよ、といいたい。
「昔は、学生のアルバイトに満員電車の客を押して入れる仕事というのがあったんだよ、でも今は景気が悪くてそんなに混まないからそれが無くなった」
とおじょうさんに話したら、「知ってるよ、それ英語のガイドブックに載っていたよ」。日本のそういうとこって、ガイドブックに載っているんだわね。
彼女によると、英語ガイドブックには日本で経済的に暮らす方法は、デパートやスーパーが閉まる前にいって「2割引」「大安売り」という字の食品を買うとよいということまで書いてあるそうな。それでこの漢字を覚えろと「割引」とか「大安売り」がそこだけ日本語で書かれているらしい。
ほうほう、ハハハ。

無事に9時5分発のバスで送り出して、私は少しホッ。
話し相手がいなくなって、少し寂しくなるけど・・・・。
単におにぎりをにぎって、冷凍の肉団子とおつけものを入れただけのお弁当に「わざわざ作ってくれたんだね、ありがとう」といわれてうれしかった。
こちらこそ、ありがとう。
午後2時過ぎに「ついたよ」と元気な電話があった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アラブという言葉について
アラブ語講座、どんどんと難しくなっている。
語学音痴の私にはいくつ覚えられるかはなはだ疑問だが、話はおもしろい。
それと、文法や、語順に言葉のバックグラウンドが見えたりするし。
で、今日はアラブという言葉。
アラブ・・・狭義にはアラビア半島に住むベドウイン(遊牧民)をさす。
しかし、一般的には、西はモロッコから東はイラクまでの、いわゆるアラブ諸国民の総称となる。
アラブ=モスレム(イスラム教徒)というのは違う。
アラブはイスラムだけではない。
エジプトのコプト(古いキリスト教)、ユダヤ教徒もいるのだ。
敢えていえば、アラビア語だけがアラブの人々の共通項であるといってもいい。

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今日のアラビア語

アイナ ダラスタ ル・アラビーヤ? どこでアラビヤ語を勉強しましたか。
アイナは「どこ?」
ダラスタ・・・・勉強した(男)
ダラスティ・・・勉強した(女)
私は勉強した・・・・ダラストウ・・なあんと、「トウ」と語尾変化するので自動的に「私」が主語とわかるので「I」的な単語は不要なんだとさ。
だから、「私はアラビヤ語を勉強した」・・・・ダラストウ ル・アラビーヤ

こういう語尾変化って、もう若くない石頭には むんずかしいよね。
せめて、アラビア数字だけでも、いうのと書くのをマスターしたいと切に思うのである。
とりあえず、ひとり旅には、挨拶、お礼、数字のいい方、これ生き延びるために必須である。

 



2002年12月19日(木) じきに冬至

このところ、朝が暗いと思う。
だから、つい寝坊する。
今朝も目覚ましを止めて寝なおしてしまった。
まあ、考えてみれば、じきに冬至(確か22日)である。
この時期、いつも異様に眠いし、しかたないのか。

昨日のアラビア語講座のコラムは「ベドウインの人をもてなす心」
この講座の先生である本田孝一さんというのはアラビア語書家として有名な方。以前から、お名前だけは知っていた。
彼、昔サウジアラビアの砂漠に滞在したとき
「アハラン ワ サハラン」(こんにちは)または「マルハバン」(おなじく、こんにちは)といって、何度か砂漠の遊牧民ベドウインを訊ねたという。
そうすると「アハラン ワ サハラン」といってテントの中に招き入れてくれて、水やミルクやアラビアコーヒー、甘い紅茶を立て続けに振る舞ってくれる。
あるところでは、羊1匹をつぶして羊肉のピラフのようなものまで出してくれた。
もちろん、彼らは、それに対する見返りを求めることもなく、また私たちを送り出してくれた。
きびしい風土の中、縁あって自分たちのテントにきてくれた人を最大限にもてなす。
その心を、アラブ人はみんな持っているのではないかと思う。
と、いった内容。
確かに、私はエジプトはカイロのホテルで、ロビーで隣り合ってすわったエジプトのお嬢さんと少し話したらコーヒーをごちそうになった。
彼女は、わざわざボーイを呼んで言いつけたのだ・・・
私が遠慮すると彼女は「これが私たちのもてなしの心、だからどうか受けて下さい」といった。
確かに、アラブのもてなしの心は、都会のカイロにだってあったよな・・・

先日の日記に「アラビア語はエチオピア語に似ているみたい」と書いたらアムステルダムから「エチオピア語より、エリトリア語似にているんだよ」というメールが来た。発信元はうちのオランダお嬢さんのママである。エリトリアはお嬢さんのパパの国、93年にエチオピアから独立したばかりの若い国である。
皆さん、そういうことだそうです。

うちのお嬢さんは、今日は、知人に連れられて鎌倉だ。
「お昼ご飯をごちそうになりに行く」というので送り出したら「今、鎌倉、夕ご飯まで一緒なので帰りは遅いけど」とのtel。
私も彼女、鎌倉・江ノ島に連れていきたい、と思っていたのでよかった、連れていってもらって。
あいにくのお天気だが、楽しんできてほしい。
昨日は、お友達と浅草見物で、ちょうど観音様のご縁日、混んでいたらしい。
帰ってきておもしろいおみやげがあったよと、ウンチ型のグミ(お菓子)を見せてくれた。
「あ、モリアへのおみやげだ」
と、いったら、そうそう、と二人して大笑い。
モリアは彼女の一番下の可愛い弟である。
一昨日は、ちょこっと中華街に行ったようだし、これで、一応、この近辺の観光地は網羅したことになる。よかった、よかった。






2002年12月18日(水) アラビア語講座 復習

アラビア語で「こんにちは」・・・・・アッ・サラーム アライクム
ハル アンタ ヤーバニー ・・・・ 「あなたは日本の方ですか」
ナアム アナー ヤーバニー・・・・ハイ、日本人です。
ナ、ナンと、アンタはアラビア語で「あなた」なんですねえ・・オオびっくり!!
ハルは「?」の意味・・・・ハルをつけると文が疑問文になるらしい。
中国語も「マ?」とつけるだけで、疑問になる、その辺は似ているかな?いややっぱり似ていないよね。
日本語も、○○ですか?で、「か?」だけで疑問になるもんね。

アラビア語のアルファベットは30音。
3ツの母音(a・i・u)をそれにつけて表記する。

「マー イスムカ?」・・・・あなたのお名前はなんですか。
イスムは名前 カは、あなたのという所有格・・これは名詞の後ろにつける決まりだ。
 イスム・・名前
 イスムカ・・・あなたの名前
 イスミー・・・私の名前

「イスミー ○○○」・・・・私は○○○です。
「ワ アンタ マー イスムカ?」・・・そして、あなたのお名前は?
「イスミー ○○○」・・・・・・○○○といいます。

さてここで、難問。当然のごとく(何しろモスレムの言葉だ)「男性形」と「女性形」がある。
ハル アンタ ヤーバーニー(これ男に尋ねる場合)
ハル アンティ ヤーバニーヤ?(これ、女に尋ねる場合)
ナアム アナー ヤーバニーヤ(女性が答える場合)

マー イスムキ?(女性にあなたのお名前は?と訊ねる場合)
私、耳でうろ覚えたアラビア語をいうと「それは男のだよ」とエジプトにいるときによくいわれた、笑いながら。はあ?・・だったのだが、そりゃそうだ、私は旅の途中に話すのってやっぱり男性が圧倒的に多いもんね。耳で覚えたらそうなるよね。
英語で、複数形のときに「S」をつけるのがなかなかできないけれど(私の場合・日本語にないもん)、男性形・女性形をとっさに使い分けるのも大変そうだ、子供の頃からの慣れしかないのだろうなあ。
アラビア文字を書く練習はミステリアスでっせ。
ちなみに右から左に書くのです。
とまあ、復習完了。


 


 



2002年12月17日(火) アラビア語講座始まる

昨日の失敗。
実は昨日から、NHKラジオのアラビア語講座が開講されたのであった。
うっかり忘れていて(飲んだくれていて)今朝思い出した。
すでに一日終わってしまった・・・・
今夜は聞くぞ、と気合いを入れた。
夜9時より9時30分。
日本で初めてのアラビア語の公共講座である。
テキストを買ってあの文字をみたときはなつかしかった。
ナオミちゃんに、やるの?と言われたけど、やるの・・ほどまで行かない、親しむという感じ。
アムステルダムからエジプトに行くときは、彼女のお父さん、テクラブ氏に数字の言い方、数え方を習った。
エチオピアの言葉と少し似ているらしい。
エジプト滞在10日間で数字だけは書けるようになって言えるようになったのに、すでに忘却のかなた。
トリアタマの自分が恨めしい。

今朝は、FDSの集会で朝から江東区のメンバーのマンションへ。
彼女の腰の具合がよくないのをみんなで心配していたのだが、歩けるようになっていてよかった。
風が強い日。
富士山と夕日がとてもきれいだった。

帰りの電車で「旅行人」を読んでいたら、覚えのある文に遭遇。
な、なんと自分がエストニアのタリンからハガキ投稿した一文であった。
バカ、カバ・・なんとか・・・
すっかり忘れていた、またまた自分のトリアタマが悲しくなった。
私の投稿文末尾に
「エストニア行きのナイトバスはどうでしたか? ぼくはベルリンからアムステルダムまでナイトバスでしたが、けっこう荒れていて・・」というご下問があった。
あれーーー蔵前編集長様ご直々のお声がかりかえ?!
お答えせねば、と電車の中でにんまりしてしまった、年の瀬の夕暮れかな。



2002年12月16日(月) ナオミちゃんと居酒屋見学

夕方、sakurannkoさんと待ち合わせて、ナオミちゃんを連れて居酒屋へ繰り出した。
父さんも母さんも、きっちりとしたクリスチャンなので居酒屋だころか、酒屋にさえ縁がないと思うので・・
おまえが飲みたいのだろう、といわれると、ハイ、返す言葉はありません。
でもまあ、私としては、彼女に居酒屋に存在する豊かな酒の肴、食材を賞味させたかったから。
一人で飲むのも何だかオモロクナイので、sakurannkoさんを誘ったというわけ。
・・・今日の肴・・・
突き出し(キクラゲの酢の物)鯨の竜田揚げ 焼き鳥お任せ6点盛り お刺身お任せ6点盛り マイタケの天ぷら コマイの焼き物 焼きそば 焼きナス 餃子 白子のポン酢 お新香
ナオミちゃんはウーロン茶だが、私とsakurannkoさんはビール、濁り酒、うめチューハイ、私はさらに「酔鯨」を冷やで。
四国の味がしてややや・・感無量!であった。
風邪気味かな・・と思っていたのだが、お酒のおかげで吹っ飛んでいった感じだ。
「酒は百薬の長なり」
これ、わかる?ナオミちゃん?
と帰りの電車でえへへと、やや絡んだmohejiでした。
酔っぱらいも日本の特徴かな。

ナオミちゃん居酒屋の感想 
「いろんなものがでてきて楽しかった、鯨の竜田揚げは初めて食べた、一番好きだったのはエビの刺身、焼きそばも美味しかった」
居酒屋は初めての感想 
「オランダにはない・・オランダで言えば、カフェかな。
(ちなみにコーヒーショップはオランダではヤク屋サン)女の人が少ない、でも雰囲気はイヤじゃなかった」
ということで楽しい昨夜であったのでした。

日本の居酒屋、ワタシ的にはお酒を飲む場としてはつまみにおいてすごくゴージャス、すてきな場、世界一ではないかと密かに思う。
なんでも食えるし、何処でもなじむ私だが、うまい酒、うまいつまみで飲もう思ったら、日本が一番じゃよ。と愛国者になってしまうのである。

sakurannkoさん、おつき合いありがとうございました。
ナオミちゃん、楽しかったようですよ。



2002年12月15日(日) 久しぶりに文楽へ

今朝方、上にすむフィリピン人のおネエさんが大暴れ(多分酒乱?)で、きっちりと目が覚めて眠れず。まいったね。ナオミちゃんも寝不足の眼をしていた。

でも、9時にはご飯で、教会へ。
12時半近くに帰ってきて、ホットカーペットの上でごろ寝。すうすうと寝息で熟睡していた。まったく今朝は災難でした。またあったら、やっぱり大家さんに言わずばなるまいな・・・。迷惑だもん。

3時前、半蔵門へ。
12月になるとやる「文楽鑑賞教室」の当日チケットがあったら、それをみることに。
無かったら、銀座にでて歌舞伎座の天井桟敷席へ、という予定ででた。ほっといたら、夕方まで寝ていそうだった。
幸い、チケット、補助席だがあった。
私は「あぜくら会」の会員なのだが、このところ使っていなかったので、カードが見あたらない。その旨を話して、でも、会員番号はわかる、といったのがダメ。
そうか、融通がきかないのう、国立劇場は・・もうあぜくら会、やめよう。と決めた。2000円近い会費の無駄払いはばからしいよ、こんな融通もきかないのじゃ。
と、ぶりぶりしながら、トイレに行きたいという、ナオミちゃんを連れて楽屋の方へ。そしたら、受付にいたガードマン、彼女を「男性」とまちがえて「男性用トイレは・・・」とやってくれた。
私、厳重注意。「若い女の子ですよ、日本語も分かるし、きずつきます」
「いや、外国の方はわかんないですよ、悪気があった訳じゃ・・」
ふん、あほ。
確かに、黒い服きているし、スカートじゃないし・・肌の色も違うし、大柄だが・・でも失礼だぞ。「外国の人」だからこそ、早とちりで勝手に判断してはいけないのではないか、まったく。
会場が開くまで、皇居の堀端を散歩。
「コウキョ・・?」
とナオミちゃんはナニ状態だったが。

文楽の演目は「伊達娘恋緋鹿子」その後義太夫節や人形の使い方についてのレクチャー。
最後は「仮名手本忠臣蔵」の一力茶屋の段。
最後の演目は、前後左右のストーリーがわかんないと、わかりづらいと思うが、私は久しぶりの文楽、楽しんだ。
「忠臣蔵」のおかるの身をよじるような哀しみ、ああ、女じゃのう・・と思った。
昔、私がみていた頃、わきをやっていた人たちは中心の人形を使ったり、語りをしたり・・で、変遷を感じた。
でも、伊達娘のお七の「うしろぶり」の美しさは、簑助さんの右に出る人はいないし、大星蔵之助は玉男さんあたりのがみたいよ。
文楽も世代代わりをしつつある。
ナオミちゃんの感想「世話物と時代物で声のだし方がずいぶん違う、人形がよくできていると思った」

ネットでいろいろと調べたのだが、今月は、歌舞伎座、玉三郎様。夜の部がおもしろそう。
ヒマがあったら、行きたいな。
タマ様、命だった頃がありました・・久しぶりの文楽で、昔定期を買って芝居狂いをしていた頃の血がうずいた夕方でありました。






2002年12月14日(土) 南無 富士山大権現

このところの冷え込み、冬型安定気圧配置で朝は富士山がきれいに見える。
美しい山。登ろうとは思わない、眺めているだけでよし。
でも、そのうちに浅間神社だけは行きたいとは思うが・・・
眺めつつ、ミッチー先生が教えて下さった「南無富士山大権現」と唱える。

聞くところによると「正月初め」(お正月準備)というのは、12月13日なのだという。
まあ、大急ぎで準備するより早め早めで・・一夜飾りはよくないよ、ということらしいのだが、アッという間にその13日を過ぎ越してしまった。
「正月や 冥土の旅への一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(一茶)
を、若い時より、生意気にも愛唱してきたわたしだが、何だか1年1年リアリティが増す。

今晩は、おでん。
材料の買い物にいったら、中学生がアフガン募金をしている。
いいんだけど、駅の周辺6グループもいて、どうも通行しずらい。
もう入れたよ、といちいち断るわけにもいかないしねえ。
大根、ユズ、白菜、ほうれん草・・冬到来だよね。



2002年12月13日(金) 冬眠から目覚めて、はい

冬眠から目覚めたら、美味しい愛媛のみかんが届いた。
身体がきいろくなるほど、蜜柑食いの私としてはうれしか。
甘くて、何しろうまいわ。

ドイツで、ネットサイトで知り合った男を殺してくっちまった事件があった。なんと、「食人の犠牲者」を募集したところ応募した男がいたのだな・・・ローテンブルグでの事件。ドイツロマンチック街道沿いにある、中世そのものの町並みが自慢の街、喰った男は古城に住むコンピュター技師とか。
ローテンブルグは、大昔いったが、石畳の道、城壁に囲まれた街は時間が止まっていた。
古城の悪霊にでもつかれんたんじゃないのか?恐い事件だ。
先日、練馬で起きた、自殺願望サイトで知り合い心中した男女もエエ?!と絶句したが、これは、それに輪をかける。
今や世界に10億以上のサイトがあるという。
「よく探したら、もしかして、火星人とか金星人とか宇宙人のサイトも見つかるんじゃないの」とPcオタクの甥と笑いながら話すのだが、「被食人」に応募したり、そんなこととが書き込めるサイトがあること自体が宇宙人サイト以上の異常さだと思う。

このところの寒さは近年にない。異常だ。デレデレと秋がずれ込むようなぬくさが続いて、いつの間にか冬という感じの年が続いていたのだが、なんだか身が引き締まる感じだ。






2002年12月09日(月) 雪だ(*_*)

朝、外がイヨーに明るい。
窓を開けると、おお!!あれー、雪だ。
なってこったい。
あたしゃ お日さまが好きなのに・・・。
よかった、小辺路を歩いているときでなくて・・・・。
雪、嫌い。
だから、生まれ故郷の新潟から逃げ出したのさ。
でもって、しばらく、冬眠します。
この雪がきっちりとけるまで。


*眠る前の独り言*
今日から少しお休み、と思っていたのだが、関東初雪で、おもわず書いてしまった。
皆さん、風邪には要注意、ですよ。
では、
Good night and daytime.
See again!!



2002年12月08日(日) どうも、お天気が・・・よくない

今日も朝から陰気である。
ナオミちゃんは、昨夜ネットで探した家の近所の教会へバイブルを持ってでかけて行った。歩いて15分の所に教会があったとは知らなかったが、あってよかった。なんだか、義務を果たした気がする。
朝ごはんを、お饅頭だの羊羹ですませて、ろくに食べない私であるが、彼女が来て以来、ご飯、みそ汁、おかず2,3品としっかりつくってたべている。食前言葉はナオミちゃんのオランダ語のお祈りだ。
彼女はなんでも、おいしいね、と食べてくれるので助かる、うれしい。残さないし、いい子である。
しきちゃんのルーマニア便りによると、ロールキャベツってルーマニア料理なんだと言う。そうか・・・しらんかった・・・今晩はロールキャベツにするか。
いや、ロールキャベツはオランダでも食べられるし、やっぱり日本の料理かな。
焼き鳥に興味を持っていたし、今晩は焼き鳥を買ってきてそれにするか。
昼は、加ト吉の冷凍うどんで、狐うどんと決めている。
冷凍でも四国のうどんは抜群にうまい。
彼女にそれを味あわせてやりたい。
大阪風の甘いあぶらげよりより、京都風の「刻み」が私の好みなので、刻みで、最後に仕上げで山椒をちらりんとふって。そういえば、私もこのところおうどん食べてないなあ。

なんて、食べることだけ考えている私である。

明日夕から少しお出かけ。
数日、日記を休みます。



2002年12月07日(土) 雨降り・・・

冷たい雨が降る。
私は仕事の関係のお人と駅で会い、ナオミちゃんは上野の東博へ。

ファミリーマートで、ナオミちゃんが田舎へ行くバスの自動発券をする。
ものすごく時間がかかった。お店の人によると、今は繁忙期でしかたないのだという。
これで出すと、手数料がかからない。便利である。しかし、もっと、サクサクいって欲しいよ。

外が暗いせいか、なんだか眠い。





2002年12月06日(金) こんにゃろ!携帯ちゃん

昨夜は、JALで4時頃アムステルダムから着いたはずのナオミちゃん、8時頃まで我が町に現れず。心配した。
それでも8時半過ぎにいっしょにご飯を食べることができた。
やはり、切符の発券機などでムムムだったらしい。
ようきた、きた、である。
アムスの母にはメールで知らせたのだが、12時頃に電話が来た。

今朝、私もさすがに昨日はバスで寝たきりだったのですこしゆっくり。
起きて枕元にあった携帯をテレビの上、定位置に戻すときに手が滑ってストン。落としてしまった。電池がはずれて、電池を元に戻しても画面が復活せず。何故だ、と充電などするもダメ。NTTにtelしたら、ドコモショップに持っていけという。
しかたないので、電車に乗って3駅のショップへ。
行って見せたら、回線が切れているのではないかという。
そんなあ・・・ほんのちょっと落としただけよ。
でも、落とし具合が悪いとこうなるのだと・・修理に出したら、2週間、料金阿7000円、買い換えなら6000円からといわれた。
うーーーん。買えかえか・・・と説明を受けていたら、なんとその係りのお人(ノザキさんという男性)「あれ、画面が復活しましたよ」
えええ???どうして??携帯、ドコモショップにいるってわかるんですかね?ドコモの人がさわると直るの???
ノザキさん、笑って、「ちょんちょんと、たたいただけなんですがね」
「そんなの、わたしもしましたよ」
「加減というかちょっとした具合というか・・・」
なんか、携帯にバカにされた気がする、こんやろめ。なんのために電車賃使ってここまで来たんだよう。
このノザキさん、なかなか親切なお人で、もしかのために電話番号のコピーだけでもして行けと言って下さり、設置の機械でした。簡単、無料。ありがたや。
フォーマと携帯の違いも教えてもらい、シグマリオンを使うのだったら、次の買い換えはフォーマの方がいいかも、といわれた。なるほどね。
さらに山歩きをするときは携帯をタオルに包む。小雨の時はさらにそれをジップロックにするなど、いろいろと教えてくれた。
自分も山をやるのだという。ご親切様でした。

ナオミちゃんは、今朝から疲れなのか具合悪し。咳が出て鼻水が出る。
ひゃーうすさんといてよ、ばりばりと漢方薬を飲ませて監禁状態。(本人も出たくないらしい)
困ったね。来る直前まで試験勉強していたらしい。
まあ、1日ゆっくりしていたら直るでしょう。
西の方には行かないようなのでゆっくりするといい。
おみやげのオランダのチーズがうれしい。
ありがとう。




2002年12月05日(木) 帰宅 ナオミちゃんが来るよ

池袋着6時少し前。
私は爆睡していたが、愚さんは眠れなくて、休憩のたび、降りていたという。
ええ、そんなの全然、しらんかった。
そもそも夜行バスで途中休憩で降りるなんていうの、ないよ。
この路線、もう10年くらい前に友人と乗ったことがあるけど、そのときは休憩で降りるなんてなかったよ。
さらに私は眠って無意識にイスを倒して愚さんの足をしこたま挟んだらしい。あれ・・・すんません、お許しを、ぺこり。
とにかくビール力も手伝って熟睡、すっきりとした朝を迎えたのであった。
「あのくらいよく、どこでも寝ないと旅はできないのね」
と愚さんい言われたことでありました。

渋谷で、コーヒーをということで探したが、まだどこも準備中。
「ありがとうございました」
と愚さんとお別れして帰宅。
11月28日にでて、今日は12月5日というのが信じられない、本当に熊野山中を歩いたのが夢幻のような。
でも、元気である。

メール、掲示板カキコ、うちのお大師さんにお茶、コーヒーとサンドイッチで朝ご飯。昨日の日記。でほぼお昼である。
これから、洗濯掃除、ナオミちゃんが来るので寝具の用意、買い物。
迎えに行くつもりだったのだが、彼女の母ミエコさんから、一人で行くから、迎え無用、若いのだからそれの方がいい・・ということなのでうちで待つ。

中辺路、小辺路と今年は本宮に2回もお参りができました。
これも何かのご縁であるのでしょう・・・
これを読みながら、小辺路越えの応援を下さった方々、ありがとうございました。
おかげさまで、愚観音様というご同行を得て、予想以上の難路であった熊野古道小辺路を満行することができました。

また日常に戻る。
粗日記になりそう。お許しを。



2002年12月04日(水) 熊野古道小辺路越え 最終日

5時45分おき。
雨である。
音を立てて降っている。
本当は7時過ぎにはでるつもりだったのだが、あまりに強い雨足に様子をみる。
外も明るくなった7時20分過ぎにしたに降りてでる支度をした。
旅館の主人が玄関先で心配しながら見送って下さった。

柳本橋を渡り、右折、しばらくの林道。
やがて「熊野古道小辺路越え」の立派な標識が出てきた。
もはや「毎度おなじみ」状態の急坂である。
古道入り口7時50分発。
石畳があるが、雨で濡れていると滑りやすい、気をつけながら登る。
今日の道は大正年間に据えつけられた西国33ケ所の観音像が道中にある。
それにしても毎日よく登らされて下さることである。
雨で湿気を含んで身体が重い。とにかく最初の20分ばかりがつらい、どうしてこんなことやってんだろだろ?の気分になる。
ぐさんは、今日の道が「果無越え」というので、おびえていらっしゃる。
「果てがないの?」ということで。
イヤ果てはありますよ、でも伯母子が一番きついのですから、あれにくらべれば・・といってはあるのだが、さてさて、である。
よれよれどっここいと40分、果無集落という家が数軒固まっている景色のよいところへ。一軒の家からおじさんが出てきて「今日はじきに雨が上がるで、がんばり」と励まして下さった。
8時半。
朝、ちゃんとトイレに行って来たにも関わらず、お腹の具合がおかしい。
愚さんにお話ししてお休みで待っていてもらって藪に。(トホホ)
下痢でした。
愚さん「温泉で一時的にそうなるよ、キョウコさんなんかもそうみたいよ」
なるほど。宿の温泉は流し湯、正しい温泉だと思ったのだが、効いたのだ。
その後どうなるか、心配だったのだが、以後は大丈夫でした、やれやれ、ほっ。

雑木の気持ちよい林や杉林が入り交じる中を登る。
雑木林は、私の好きな朽葉色の葉を落としていて気持ちいい。
時々西国の石仏が静かに微笑んでいる。
足を止めて拝むとまた足に力が戻るから不思議なものである。
途中の休憩で愚さんに熊の足跡が、それも通ったばかりのものがあったから気をつけて、といわれた、恐か!
観音堂着9時45分。お参り、小休憩。
ああよかったと思うまもなくまた急坂が続く。
マジにすごい坂。
上がまだ見えない、参ったね。
「果無」とは誰がつけたか知らないが、その通り、すごいネーミングである。
よれよれ状態で10時半、果無峠着。
観音堂からの40分、本当にきつかった。登り切ったとき、身体が燃えるように熱かった。
雨は上がっているが滴はおちるし、ぬれているので今度は下りですべらないように気をつけねばならない。
この坂もすごい下りであった。
果無越え、脱帽。
途中でシバちゃんからの電話。
あら、迎えに来てくっるの・と愚さんに言われて彼はハイ・・でも時間が・・状態。いいよ、お迎えいりません、ご心配ありがとうといって電話を切った。
本当に心配をしてくれてありがとうでした。

下の七色集落が見えてきたところ、5番の観音様の目で12時45分、昼食。
1時30分八木尾バス停、国道168号着。
愚さん、ここで、自販機からホットココアを買って飲んでご機嫌である。
よかったです。

途中真新しい「熊野古道道 道の駅」でトイレ休。
2時半過ぎにまた林道へ。
林道を登り切ったところに見覚えがあった。
なんと5月の古道の中辺路歩きの時に歩いたところだ。あの時は九鬼の関所をでて伏拝に向かったのだが、今回は逆に本宮、払所王子に向かう。
1年のうちに2回もこの道を歩くことになるとは思わなかった。
少し感慨、そしてびっくり。
土道になると足が俄然元気になる。
愚さんに途中で「急いでいるね」といわれたが、足が勝手に動くのだ。
本宮に着く手前で、愚さんを待っていたら、泣いて見えた。
「初めなんだけど、前にこの道、歩いたことがある、なつかしい」という気がして泣けて仕方なかったのだという。
「前世で歩いてお参りされたのでしょう」
と私。
3時30分。本宮着。
お参りをして御朱印をいただく。
帰りの電車の時間を聞きに社務所に行ったら、もう今日は横浜には帰れないと言う。ええ??まだ4時ですよ。
「この辺、不便なんや、とまったらいいやろ」
「明日、アムステルダムから人が来るので帰らないといけないんです」
と私。
ほうか。
ということで、社務所にいた宮司さん、時刻表やら、バス表やら総動員。
なんと、ついに夜行バスの予約がとれるかまで電話して下さった。
2人、池袋までOK。予約した。
ありがとうございました。
ご親切に深々と御礼申し上げて辞した。
すぐに、大斎原(おおゆがはら)へ。
「すごい気だね」
「でしょ」とわたし。
「ここに来ないと、熊野の本宮に来た意味がないんですよ」

その後、4時半バス停へ。
大急ぎで支度を変えて、バスに乗る。新宮へ。
新宮で、銭湯を聞いてお風呂で体を温めて汗を流し、お寿司ヤサンへ。
愚さんと熊野までの歩行(ほぎょう)満願おめでとうの乾杯をした。
私はずっと飲みたかったビールを我慢していたのでビールの大ジョッキを2ヶプハー、してしまった。
美味しかったです。甘露、でした。
8時バス乗車、私は、即、爆睡。


コースタイム
宿発7時25分 古道入り口 7時50分 果無集落過ぎこし8時30分 観音堂9時45分 果無峠10時30分 八木尾バス停1時30分 熊野本宮3時30分




2002年12月03日(火) あこがれの玉置神社まで

7時ご飯。
今日は玉置神社である。ずっと以前から行きたいと思っていたところだ。お天気は上々。宿の主人から、玉置山の登り口まで送ってもらった。
登りはじめは8時20分。
毎度おなじみで、登りからゲーッといいたい急坂である。始めの15分がつらい。20分をすぎると、身体がなれるのかぐっと楽になる。そしてぐんぐんと登れる。愚さんには悪いが、距離があく。すみません。
しかし、杉林なので上から見える。
とにかくオオと見上げるほどの山道を登ること2時間弱、10時玉置神社駐車場着。駐車場からは、見事に山峰が見える。越えてきた伯母子岳が遙かに見える。遠くまで来たもんだ。
玉置神社までの道を歩く。道筋は、注連縄で結界が張られてすがすがしくて、気持ちいい。
こんな山上なのに枕状溶岩がある。でかい。気がくる。
しばらくいくと、3000年という神代杉が見えてきた。威厳があって、堂々としている。
すごい。
本殿にお参りして、古代杉を見て、周囲に祭ってある神様にもお参りして本殿の前でひなたぼっこしていたら、お堂の中からおじいさんが出てきてとことこと通る。
お堂の中でなにしてらしたんですか。
から始まって、話してわかったこと・・おじいさんは、なんと大峰順峰18回のすごい方で「ええ、私の行きたいなあ」といったら、行きましょ、今度、と、いと簡単にいわれてしまった。
はい・・・でもできるかな・・・
おじいさんは、行けるで、四国を歩いたのなら・・と愚さんと私を誘う。
そうかな・・・愚さんは、もへじさんは行けるよ、とそそのかす。
うーん、行きたいのは行きたいが・・ねえ。高所恐怖症の私はやっぱり道中が心配なのだ。
おじいさんに帰りがけに名刺をいただいてもしか行くことになったら、ご連絡をということにしてしまった。すごいご縁だもんね。
今日は、神社の方で何か取り込みがあったようで窓口には宮司さん一人。
いろいろお話ししたかったのだが、失礼した。
神社の上、ご神体の石が埋まっているところにお参りして玉置山頂上へ。
暖かいし、空は晴れているし、遙か熊野灘まで見える。
いい日である。
とにかくすがすがしい気があって気持ちがいいのだ。

お弁当を食べて、ゆっくり休んで出たのが2時すぎ。
後は、十津川温泉川に降りる山手谷方面の山道に入って2時間ほどで帰るはずだったのだが・・・・なんと道が崩落している。そして無くなっていた・・・仕方ないので泣く泣くまた戻った。
「よっぽど、玉置神社に気に入られたようね、また戻されちゃったね」
と愚さん。
そうはいってもねえ・・ありがたいけどねえ・・あこがれていた神社だからね。
時間は4時、少し前。
携帯は入らないので駐車場まで戻ってとりあえず宿に電話した。
迎えに来て欲しかったのだが、あいにくご飯の支度だめだったようだ。仕方ないのでタクシーなので、と思ったのだが・・・タクシーもなかなかこないらしい。
そこにお参りの車が・・・そこにすかさず、愚さんが飛び出して、帰りに乗せてくれないか、と頼む。
いいよ的な話になったときに、参道に人の姿。お帰りになる男女連れ。
愚さんまたまた頼む。
しかし、彼らは十津川には行かないのだ。大阪方面だ。
じゃ、下の国道に出たところでいいからということで乗せてもらった。
中で話が弾んで、結局泊まっている宿のすぐ近くまでいってもらえて、ラッキー。
宿に入ったら5時すぎ。
ということで今日も一日終わった。
よかった、よかった。
宿の玄関を入ったらたまちゃんから、電話。「贈先達」が無事にすんだらしい。
声が弾んでいた。たまちゃん、お父さん、お母さん、へのお大師さんのご褒美である。みんなから祝ってもらって、よかった、よかった。

明日は、小辺路越え最後である。
雨らしい。やれやれだが、がんばろう。













2002年12月02日(月) 熊野古道 小辺路越え三日目

朝6時おき。今日はおかげさまで天気がいい。よかった。しかし、昨日洗った洗濯物が乾いていない。これだけが困る。
6時半食事。7時半、おばちゃんに車でまた五百瀬(いもせ)の三浦峠登山口につれていってもらった。
しっかりとお礼を言ってお別れする。
神納川の十津川名物のつり橋をわたり、今日もまた一気の距離を上げる急坂の山道だ。
しかしでも、今日は1000メートルほど。昨日の伯母子岳より楽な、はずなんだが・・・どうなりますことか。
歩き始めて10分ほどでカシミアセーターが暑くなり脱ぐ。
Tシャツの上に白衣でちょうどいい。背中はすでに汗である。
登り始めて30分ほどで、すごい杉の古木がゲートを作っているところに出た。
一気登りではあるが、こんな木を見るとホッとする。
いくつ、つづら折りをのぼったか・・でも杉の木立で眺望は開けない。
途中に25丁石とか30丁の水とかがあった。
やはりそれなりに歴史の道ではあるのだ。
びっくりするのは、かなりの高度のあるところに住居跡があることだ。昔の人のくらしを想う。
10時20分、三浦峠着。
汗びっしょりだが、気持ちいい。つくづく、登りが強くなったと思う。西国・熊野を歩くうちに登りが強いというご褒美をいただいたように感じる。愚さんは、足のまめの調子がよくなさそうで心配だ。が、根性ある方だからまあ、なんとかなるのではないか・・と思うが。

下り道、けものよけのゲートを開けて入って進む。
なんだかこちらが動物になったような気持ちである。
しばらくいって、また出口でゲートを開けてでた。景色はよい。行仙岳が見える。昨日ほどではないが、道が時々崩落気味のところがある。
下りの道は、そんなわけで時間がかかる。
雑木林と杉・桧の植林が入り交じるが、落ち葉を踏みしめて歩くのは気持ちいい。この森も「動物度」が高い。リス、猿、大きな鳥を見た。イノシシ、熊もいるようだし。愚さんは、熊は曲がり角の出会い頭が多いというし、気をつけて、イノシシもいるよ、という。彼女のつけている遍路の持鈴はいい音をさせていて熊はこないらしいので、ペース的に私は先行するのだが、歩く熊よけの音を聞きながら行くことにして。
山中標識が混乱しているところがあって、道はいつの間にか新道へ?
いくらいってもあるはずの観音堂や道標がない。
どうしたんだあ?
というところで猟師さんにであった。
きいたら、今歩いている道は明治はじめにできた新道だという、古道はこの上や。
ええ・・・・そうなの?
この道より少し狭いで、でもな、この道ももうわすれられたような道やし似たようなもんや・・・。
でも、なあ。
またきたらええ。
そんな、と笑ってしまった。
「左 旧道 連絡道 右 奥大谷・西中へ」とあったので西中のほうに出るので右を取ったのだが、旧道というのが熊野古道だったとは、迂闊でした。
猟師さんはいのしし狩り、やたらに犬が吠えていたところがあったが、どうやらイノシシを追いかけていたようだ。
この猟師さん、すごく優しい目をして、細長い貴族系の上品な顔立ちだった。
林道の日当たりのいいところで食事をしながら「あんな優しい目をして、鉄砲を撃つんですかね」といったら「デリケートじゃなかったら狙い澄まして、鉄砲打って命中できないでしょ」と愚さん。
そうだね。
あの優しい目をした猟師さん、昨日ぼたん鍋を食べたといったら、歩きかけていたのに振り返って「おいしかったか?」ときいた。おいしかったです、といったらうれしそうにまた鉄砲担いでいった。
それがとても印象的だった。
その後に芝取りに、というおばさん。
新道を来たおかげでなんだかいい出会いがったのだが、でもなあ。でもでも愚さんもよかった、この道は藪こぎがなかったと喜んでいるし良しとするか。

西中に出て後は延々の歩道歩きだ。
つまんない。歩道の堅さで足は痛くなるし。
山でもらった気が一気に減少する気がした。
大津越えというところで大師堂がある。
それをお参りするまでがんばりましょう、と愚さんに声をかけつつ進むが、足は痛そうである。
大津越え、着いたが、さらに山の上まで登らないと行けない、と石段そばでミカン売りをしていたおばさんにきいて、愚さんはパス。私がお賽銭を預かって代参となった。
荷物をおくと体が羽が生えたように軽い。
どんどん登って、お経1巻。しっかりとお参り。
ありがたいことに、ミカン売りのおばさんの旦那さんが今夜の宿「松乃家」までお送りくださることになった。愚さんの足のためにはとてもよい。
愚さん、宿について「やせ我慢しなくてよかった」。だって、やっぱりまだ3キロはたっぷりあったからねえ。

宿は屋上に露天風呂のある温泉。星を見ながらのお風呂は気持ちよかった。
たまちゃんのことが新聞に出ているとのメールがあったので、宿の奥さんに頼んで新聞をい見せていただいた。大きい記事ではないが、目立っていた。よかったね。

明日は玉置神社参拝。

今日のコースタイム
8時20分三浦峠登山口 三浦峠 10時20分 古矢倉跡11時
西中大橋2時(途中昼食タイム30分)大津越え4時
宿着4時50分 

今日もいい一日でした。



2002年12月01日(日) 熊野古道 小辺路越え第二日目

宿発7時30分。朝から雨である。
今日の大変は伯母子峠越え1300メートルである。
そして3泊4日の今回の道のりで、高度としては一番ハードである。
出たとたんに胸突き八丁の急坂。登ったと思ったら、また次の坂が、これが延々と続く。一気に高度を上げる道だと知っていたが、結構大変でしたね、約1時間。やっと萱小屋跡。ここで、少し平らになった。
愚さんと、雨でしっかりと休めないのがつらいね、と話す。
次は桧峠だ。さっきほど急ではないが、やっぱりアップダウンがある。時々ほううと声が出るほどの美しい景色があらわれる。
ブナカエデ、の美しい自然林が続く。
9時25分桧峠着。ここで雨が一度あがった。よし晴れる、と思ったのだがこれが大誤算・・結局一日降っていた。
10時10分、伯母子岳への登坂口。荷物を木下においてのぼり始めた。約15分、頂上に着いたのだが、ガスってなにも見えない。360度パノラマなのだが・・・・残念。戻って、伯母子山の家へ。11時、小屋の中で宿で頂いたお弁当をあけた。なんとおにぎり6個におかずがぎっちり。多いとびっくりだが、でも食べ始めたら入ってしまった。そこに宿で一緒だった8人グループが到着。で、いろいろとお話しして、コーヒーまでいただいた。山頂付近は雪が残っているので、寒い。おにぎりを食べたら一気に汗が引いて寒気までしてきたので、このコーヒーのぬくもりで生き返った。
伯母子山の家発12時。1時間休憩をしてしまった。
いよいよ三田谷への12キロコースに入る。
道幅は一気に狭くなり、木の葉に埋もれている。美しい道である。沢水もおいしい。いいですねえ、むかしの古道そのままなんでしょうねえ・・・などと愚さんと感動する事40分。感動は、しかし、ここで終わった。なんと、道に大木が2本も倒れている・・・。
くぐり、乗り越えてやっと通過。
その後またまた大変な困難が・・・
なんと道が崩落してるようで迂回路ができているではないか。その迂回路というのがすごい道で、見上げるような絶壁の上を藪こぎで迂回する道ともいえぬ道なのだ。
どうするか・・・見えている沢を進めたとしてもその次の沢が崩落していたらまた戻りになる、それは怖い。高所恐怖症の私はそれだけでビビる。
迂回することにした。
もう大変だった。
藪こぎ、つかまるところがないところはおしり滑り・・とまあ40分ほどを格闘した。あちこちがどろどろの泥だらけ。(宿で見たら、雨ズボンのお尻も木にひっかけたのか、かぎ裂きのようなものができていた)
愚さんも白いお洋服や白衣がどろどろである。
このロスタイムが後半どうなるのか心配になった。
だって雨で暗くなるのも早いし・・・
しかし、悪路はこれで終わらなかった。次々と崩落気味の道や滑って落ちそうな丸太橋が出現するのだ。
参ったね。杉林の中に入ると道がしっかりする。それは杉が道をサポートするから。杉が昔からの街道筋に植えられたわけがわかった気がした。
途中植林の沢で20匹ほどの猿の群を見た。杉の柔らかい芽を食べに来たらしい。
愚さんがくる前に、ワオーワオーと叫んだら、蜘蛛の子をちらすようになくなってしまった。
いやはや。
いよいよ道はかなり急な下り道、じきに里が・・という気配がしてきた。
お大師さんの像があってお参り。
4時過ぎ里へ。
携帯が入らない。
橋を渡って、大股の津田旅館の宿できいた池尾さんというお宅を探しに行った。
池尾さんいうとこで頼んで電話を貸してもらって、宿まで電話をして迎えに来てもらえといわれていたのだ。
ちょうど飛び込んだ池がなんと池尾さん、訳を話したら「しっているし、したげる」と電話を気安くしてくださった。
すぐに愚さんを迎えにいったら、ちょうど山から下りて橋を渡ってきたとこだった。
電話しましたから、ご苦労様でした、といって戻ってきたら、池尾さんの奥さんがなんと紅茶とお菓子を持ってきてくださった。
あつい甘い紅茶のおいしいこと!!いきかえった。
池尾さんのご主人は、やっぱり猟したり、村の仕事で古道をなおしたり、のお仕事をしているらしい。26日も行って来たところとか。
迂回路は、わたれるはずやけどな・・といわれたがさてそうだったのか???
いま上西家跡からの道(廃道化している)を復活させているらしい。
4時40分過ぎ、宿「津川」の車到着。
5時半過ぎに着。
お風呂と暖かい部屋でほっこりしたらせんたく・持ち物の汚れが大変だった。

夕食は宿のおじさんが捕ってきたイノシシのボタン鍋、おいしかった。
熊の油も売っていたので買った。やけどにすごくきくらしい。
 
天気予報大はずれで大変な日でしたが、まあ無事にすんでよかった、よかった。

コースタイム
7時30分宿発 桧峠9時25分 伯母子岳登頂口 10時10分 伯母子山の家 11時 伯母子山のいえ発12時 今西家跡1時25分 下山4時
 



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