世界お遍路 千夜一夜旅日記

2002年10月31日(木) 今日は、チーズフォンデュー

学生時代の友人が愛知から来る。
明日、横浜の学校で研究授業をみるらしい。
来月の同窓会で会うんだけど、その前に、だ。彼女とは20年前に、インドへいっしょに行った。
私が誘ったのだが、何しろ、彼女の初めての海外体験がザック背負って、異様に小汚いインドだったもんなあ。
あの時は、インデアンエア、操縦席のフロントガラスにひびが入ったとかで、バンコックで立ち往生。バンコックで一晩泊まった。
旅の最中もいろいろなことがあった。
じこくひょうにある電車が来なくて待合室(女性用)に泊まったら、イスの下をネズミがかけずり回ったとか。
バラナシでは、たくさんいる野良牛に背中どつかれたとか、路上で私の足の上をネズミが歩いていったとか。
怪しい、大きな声でいえない体験とか。
カルカッタに出る夜行列車では、強盗が来て、必死にドアを押さえたとか。
もう20年も前のことなのに、いろいろなこと、しっかり鮮明に覚えている。
なつかしい・・・

そういうわけで、オランダチーズがまだ少しあるのでやっぱりチーズフォンデュ。
この前sakurannkoさんが来たときは、どうもチーズが溶けなくて困ったので、本日はネットで正しい料理法を調べた。
この前のうまくいかなかったところ解明。
ワインをしっかりと沸騰させてからチーズをいれんと いけんのだ。
この前はこの辺が問題あったと思う。暖かくなったと頃で投入したもんな。

**** 作りたいという人のためのチーズフォンデュ講座 ****
材料 
グリエールチーズ  400g
エメンタールチーズ 200g
にんにく     ひとかけ 
コーンスターチ  大1
白ワイン(辛口) 300cc
こしょう、ナツメグ 少々
リキュール(キルシュ)大2

*私の場合はチーズをオランダ産を使っている。
日本のチーズはまずい。匂い(くさい!って感じで)がないとうまくないのだ。
 
作り方
チーズは、おろすか、小さくきる。
(私は、オランダで買ってきたチーズ削りを使っている。日本でも大きなデパートの台所用品売場にあると思う。)

にんにくは、半分に切り、切り口を鍋の内側全体にこすりつける。鍋にワインを入れ、煮立たせチーズを加える。

強めの火で絶えずかき混ぜながら溶かし、キルシュで溶いたコーンスターチを加 える。

こしょう、ナツメグを加える。

パンをからめて召し上がってください。チーズが焦げ付かないように鍋の底からまぜるようにしてください。

  ******************************
とまあ、今回はキルシュまで買ってきてスタンバッテやろうとしていたら、電話。「まだ名古屋」。6時っていうし、そんなにお早くおいそがしい学校の先生がこれんの?と思っていたんだけど、やっぱりね。早くて8時半だね。
そんなわけで日記を書いているところです。
まだ一仕事できそう。やるか、旅原稿。



2002年10月30日(水) エスキモードレスは元気が出るぞ?!

このところ、朝起きると、トレーナーにオズボン、その上から黄色い花柄のエスキモードレスを着てばたばたしている。
たかがコットン一枚だが、なかなかにあたたかい。
そんで、着るたびに作ってくれたビュラーさんを思い出す。
黄色という色のせいか、気分も明るくなる。
アラスカ日記、カナダヨーロッパ日記、何だかこいそがしくて、更新してないのだが、かつては 月に1度出していたクジラレターも出してないのだが、(これは切手代をいただいているので出さないとまずいよなあ・・)、とにかくさしたることもしてないのに夕方が来る。
困ったもんだ。
昼から、図書館へ頼んであった本、松岡正剛「空海の夢」立松和平「道元」を取りに行く。
やっぱり、この辺を拝読するのは礼儀かと思うので・・・・
帰ってきて、ベランダで干した布団を入れて、その上でねっころがって「空海の夢」を読んでいたら、本当に「夢」のかなただった・・松岡さんの文て、けっこう微に入り細に入りなんで・・・ついつい寝てしまった。気がついたら5時過ぎ。やれやれ。昨夜2時過ぎに布団に入って7時おきだったし。
子どもの頃、干した布団を取り込んでその上でごろごろ遊んでいたら(気持ちよくて好きだった)よく叱られたっけ。
今や、誰にも叱られないのでよいなあ(笑)

バリ、ロシア、に続いて、ベトナムでもビル火災。テロの気配はない、漏電というが、どうだか・・・そうであって欲しい。
テロというと、身がすくむ。来年行こうかと思っているのにさ。

2000年12月に起きた子どもを餓死させた事件。
親に7年の実刑判決だ。当然だろうなあ・・個人的には、たったの7年?と思ったりもする。ただ、自分の子どもを殺した(育児遺棄した)つらい思いを背負うということを考えれば、刑期が終わっても「牢獄」かも知れないが・・・

なんてウダウダと書いているが・・・
今夜はも少し読書します、です。
これも、仕事のうちです、阿波公方さま。 



2002年10月29日(火) 大慌て・・あれこれ

イヤーびっくりした。
朝から、ネットで11/16日の晩のホテルを大阪駅から徒歩5分以内で探していたのだが、ない。第一ホテル、新阪急、イルモンテ、グランピア、梅田OS、モントレ、全日空・・・・すべて満室。びっくりだ。
そりゃ、土曜だし、わからんわけじゃないがね・・日本てほんとに不景気? という感じだった。
しかたないので、阿波公方さまにお願いメールした。忙しい方なので申し訳ないと思ったのだが・・・

読売のY氏より「faxの返事が欲しい・・・」と電話。
そう、昨日しようとおもってさっさとねてしまったから。
大慌てで、これまたお返事を書く。

へんじょうの原稿締切、31日だと思っていたのに、確かめたら何と30日。
どひゃー。
これまたあわてふためく。
半分ほどは書いてあったんだけど・・・なんかつまって仕上げてなかった。
今回のテーマは「中務茂兵衛さん」春先の大島行きのことを書いた。
何とかできたのは夕方4時近く。

郵便局にいったら、友人と会った。
20分ほど立ち話。
「疲れているんじゃない、顔色がよくないよ」
といわれた。
単に薄着で寒かっただけなんだけど。
この頃、日が沈みかけるとアッという間に寒くなるよ。

朝早く携帯がなるのでなんだ?と思ったら、松山のヒサコさん。
「このところ、日記が更新されていないので心配になって・・・」
とのこと。
そう、土曜、日曜、月曜に更新したから。
心配をしていただいた。
嬉しい、ありがたい。
ありがとうございました。

新聞の夕刊に今日見つけた言葉。
「Your pleasure is my pleasure」
これがサービスの神髄。
サービスだけじゃない、あらゆる点で「かくあるべし」だろう。
ところで、私、この台詞、確かこの夏にトロントのヴィクトリア大学のアコモデーションで言われた。
学生が実地にホテル研修をする場として、夏だけ大学寮を開放している。
安い。
そこのレセプションで、ケベックシティから、タドウザック行きのバスの時間を調べてもらった。
そのとき私がお礼を言ったら調べてくれた女の子(20歳くらい)がにっこり笑って「どういたしまして」といった後に上記の一言をいったけ。
かっこいいと思っていたんだけど・・。どうやらホテルマンの「格言」だったようだ。でも、格言を実行するって難しい。
思わず思い出してしまったこの夏の思い出。
ああ、1年が過ぎる乗って早い・・・・。










2002年10月28日(月) 新潟はみぞれみたい・・・

朝から、みぞれのような寒い雨が降っている。
私は、11時近くの新幹線で帰宅。
トンネルを抜けたら、群馬は青空。
信じられないような新潟の天気だ。

帰宅して洗濯。
ハガキ、手紙、等々の処理。
アッという間に夕方になった。

夕刊でロシアのテロ制圧で人質の117人の死亡を読む。
ひどい話だ。
ミュージカルを見に行って死んでしまうなんて悲しすぎる話じゃないか。



2002年10月27日(日) たまちゃんとランドマーク

10時、桜木町でたまちゃんとたまちゃんママ、パパと待ち合わせをした。
愚さん、きょんちゃん、そうぞうくん いっしょに行く。
よい天気だ。
人出もまた、すごし。
まずは、ランドマークに行こうと言うことになった。
高所恐怖症の私は、前にも一度上に行くチャンスがあったのだが、今日のように並んでいたので「やめようよ」。
ということで今回初めてだ。
たまちゃんと動く歩道に行く。
「お先ぃ」とか、たまちゃんは、実に楽しそう。
昨日遅かったから疲れていると思うんだけど、ニコニコ笑顔にはそんな様子はみじんもない。
並んで入り口を入り、エスカレーターで下に降りてエレベーターへ。
アッという間に69階に着いたが、やっぱり急激な上昇で耳がいたい。何と、分速750メートルで、約40秒で273メートルの上に到着したらしい。
周囲の見晴らしはすごい。残念だったのは、富士山が見えなかったことだ。
ここまであがってしまうと、、下があんまり遠すぎて恐怖しなくてすむ、ヤレヤレ。
一角で「ももちゃん」というお猿さんの芸を見た。なかなかの芸達者。
面白かった。
たまちゃんは座り込んで楽しんでいた。
カフェでお茶を飲んで休んで下へ。

時間が12時過ぎたので、たまちゃんや皆さんと別れを惜しんで帰宅した。
選挙。
2時過ぎにうちを出て、メガネが来たという電話が入っていたので受け取り、即、新しいメガネにしてから東京駅に。
4時40分のマックスあさひに飛び乗り。
爆睡。
トンネルを抜けたら、大雨。
それも、みぞれになりそうな冷たい感じの雨だ。

母は、最悪、まだ車椅子か(10月10日はそうだった)、まあよくなっても歩行器ではと思っていたのだが、何と杖になっていた。
がんばってリハビリをしたのだわ。
根性あるぜ、だった。
まだ、けっこう腫れているしまだまだだと思うが、ヤレヤレだ。

昨日から今日と疲れたが、すごく楽しい時間だった。
みなさん、ありがとうございました。



2002年10月26日(土) 愚観音様・お不動さま参拝の会

午後高野山大学秋季公開講座で、新宿へ行く。
ぜんかいのチベット仏教史の続き。しかし、前回が歴史中心だったのに対して今回は、思想の内容にまで言及しておられる。難しい。おまけに時間がないのでものすごくスピードが速い。ただ、空海の仏教がほとんど、当時のインドからの直行便だったことがよくわかった。
実に当時にしてインターナショナルだったことがよく理解できました。
(私感)
インド僧たちの「旅する姿勢」は布教のためか?遺伝子か?と思ってしまった。
結構、インデイアンタウンて世界のどこにいってもあるんだよね。
何しろ、あのヨーロッパの厄介者ジプシーたちの源流も、インドだ。

講義の後半は、般若心経瞑想法。
難しかったが、興味深かった。講義の後に質問が出たが、この瞑想法は、インドのサンスクリットの原典にも書いてあるという。

前回同様、越智先生の講義の歯切れスピード実によく、ときどき、冗談もおもしろい。阿波公方さんはこういう講義を週に一回、受けておられる訳なんですねえ。いいですねえ。ホントに近かったら、わたしも行くなあ。

終わって、横浜の愚観音様、お不動さまの会へ
すでに、すでに何人かお揃い。遠くは、岡山より。
先日たまちゃんを訪ねられた石山さんも見えておられてご挨拶をした。
10時半過ぎに参会予定者が全員そろったところで、厳粛に観音様、お不動さまお参り。
会、深更に及んでおもしろく、たのしかりし。
考えてみれば不思議なご縁の皆様方です・・・・。



2002年10月25日(金) なんだか、1日が終わったよ・・・

朝から、11月中旬の姫路だの京都だの宿をネットで取る。
京都は、1度泊まりたいと思っていた東山YH。YHで★4ヶのとこはやっぱりとりあえず訪ねてみたいよね。
んなことをしていたら、昼で、大急ぎでご飯を食べて美容院へ。鬼太郎ヘアを何とかしないとね。

2時半、久しぶりに友人のMdaさんとKnoさんに会った。
「この前、いつあったけ」「いつだった?」
つまり忘れるほど会っていないのだよね。というところで話が落ち着いた。
ただ、Kさんは時々この日記と新聞の連載を読んでいてくれるらしくて、私の消息はご存じ。「元気よね」「好きなことしかしてなくて、疲れていたら罰当たるじゃん」と私。
Mさんからは、東欧のおみやげをいただいた。Kさんからは、美味しい私の好物のパンベルジュのパン。ありがとう。
私もささやかながらおみやげをあげた。
9月にあったKさんのお嬢さんの結婚式の写真を見せていただく。
花婿さんの写真は、Kさんのご主人の顔に似ていてベース型。
「にているよね、やっぱり」と私とMさん。
幸せそうであった。遅ればせながら、幸多かれ!!

農協で野菜を買って、4時過ぎにうちに帰ってきたら、公方さまより「十巻章」お歩き遍路仲間のKさんよりお遍路の本(温もりいっぱい 同行二人)が届いていた。
お遍路の本は、kさんがYHの新聞に載っていた読者プレゼントの本をいただいてその方におたよりをかいて、その手紙の中に私のことを書いたら、是非私に自分の本を送って欲しいと言うことで・・とややこしいのだ。
お腹はいっぱいなので、ご飯の用意もせずに公方さまからいただいた本をまず、少し。ツン読状態だった「弘法大師著作集」も出して照らして。
本を開いたときふっと「気」を感じたんだけど・・気のせいか?
次、Knoさんからもらったパンを切って、お皿にいれて、つまみながら「温もりいっぱい・・」を読む。新潟の数学の先生で、50歳の記念に発心。乗り物と歩きでまわっておられる。ものすごく几帳面な人みたいで、いろいろなことが実に細かく記録してある。半分ほど読んだ。

なんてことをしていたら、10時を回った。

民主党の石井議員が殺された。
これは、かなりショック。
政治家が殺される時代って、やっぱり不穏。わかっちゃいたけど、念押しされた気がする。
あの政策を無理押しすると次は、竹中さん、だよ・・・

ロシアのテロ、マイトを身体に巻き付けた自爆覚悟の女性テロリストがいるというのもショック。そこまでしないといけない状況。リトアニアでソビエトロシアが何をしたかを見ているので、チェチェンがどなんことになっているのか想像がつく。
あれ(リトアニア)以上ってことだ。それもそれも、元を辿ればブッシュがまいた種だ。ブッシュは地獄に行くね。彼のせいで、どれだけたくさん人が死んだだろうか。父ブッシュのときもそうだしさ。

明日は雨らしい。
愚観音さま、今夜まで。なみだ雨か?
愚さま、ご苦労様でした。



2002年10月24日(木) スヌちゃんと会う

今日は、朝からいい知らせがあった。
たまちゃんがお先達になれるのだ。
嬉しいねえ。
彼女のがんばりや優しさ、人を惹きつける笑顔は、まさに先達にふさわしいと思うし、霊場会の決定 very good!!
たまちゃん、おめでとうございます。

午後から、スヌちゃんにあって、食事。
松茸ご飯だ。
「これ、あの北朝鮮からのヤツの横流し?エヘヘへ」
なんて言いながら食す。
香りがあってうまかった。
その後、プリンがうまいと評判のパステルでお茶。
最近の北京事情を聞いた。
彼女は2年ほど北京に住んでいて、今回も、去る大学の老師のご家族の方と交流してきたので、ヘエという話を聞かせてくれる。
北京市民、みんな食生活の衛生に気をつけているらしい。何と、有機野菜がブームで、高くてもそういうものを買うのだとか。よく日本でもあるけど、「○○さんちのほうれん草」みたいな感じで売っているらしい。
「日本には、残留の農薬入りを売って自分たちは有機かいな」
クーラー、車、これはもう北京市民にとって当たり前になりつつあるらしい。
香港とか韓国とかに海外旅行しているしね、どんどん豊かになっているよ、ということ。
確かに、欧米なんかでも今や団体さん、中国本土からの人けっこういるもんね。
「まだまだ豊かになる、右上がりだ、という明るさと元気がある人たち間にいるとこっちも気持ちがいい」
とはスヌちゃんの弁。
確かにそういう一面もあるが、人権の面ではまだまだ遅れているし、北京や上海の豊かさとはかけ離れた地域だってたくさんある。その辺の格差や問題がまだみえないが、裏でどんどん矛盾を孕んでいるように思う。
いずれ、民族の問題(チベット、ウイグルあたり)として爆発するのではなかろうか。いまだって、ウイグルでは独立運動の気運があって弾圧しているわけだし。
もしかして、中国、いまが行きどき、旬かも知れない。
天安門当たりで修学旅行に来た中高生が携帯ででチャカチャカしているらしい。
「日本と同じだよ」
だって。
日本の悪しき空気(日本のヤツはアメリカから来たのだ)が充満している気がしたなあ。
スヌちゃんから、面白いおみやげをもらった。
コーランの言葉がアラビア語で書かれた茶杯(チャーベイ)。一見何の変哲もない中国でよく売っている茶杯なんだけど、ね。
明日から、この器で中国風にお茶っぱをいれて湯を入れて、葉が開いたらふたで、はをよけながら中国風に飲むかな。

あちこちでテロ、アメリカの連続射殺事件・・世界はだんだん怪しい。
次はハワイじゃない?しばらく、行かない方がいいね、と私。
イヤ、バミューダとかあっちじゃないの?欧米人しかいない国際観光地はアメリカ近辺にまだたくさんあるよ、とはスヌちゃん。
ハワイ行きの航空券は、安くなっているという。バリの事件の後で。
中国、タイ、カンボジア、ベトナム、なあんにもないバングラデッシュ、ビルマ当たりは安全だよ、と私。
こういうのって悪魔の会話?
でも、普通の私たちが考えることだから、他の人だって当然考えているよね。
トルコだの、イラン、エジプト、モロッコ当たりに旅するのがつまりは一番安全?
こんなことをしゃべくっていたら、4時になった。

天気のせいか、今日はなんか眠い。
何にもしないうちに10月が終わる・・少々あせる。



2002年10月23日(水) そうじ・愚観音さま参拝

9月に挫折した水回り近辺のそうじをした。
やっぱり天気がいい日はそんな気分になる。

午後、というより夕方、例の問題(著作権)の問題で、弁護士さんに会って、いろいろと話を聞いた。
相手方が自分にものすごく都合いいように文書を作っているとは感じていたが、説明をお聞きして・・エーみたいな感じで眼からうろこがおちた。今後はこういうことをしっかりとしないといけないと反省した。

その後、愚観音様のところが近いのでうかがった。
カボスとスダチのカクテルをいただいた。すごく美味しかった。
名残を惜しむお客様がたくさん見えていた。
居心地がいいあのお店がなくなると、困る方も多いと思う。
きょんちゃんの風邪の具合はだいぶよさそう。
すごく使い心地のよいグラスを追加2個いただいてしまった。
ありがとうございました。
午前様でした。

横浜で、道を歩きながら、弟よりの電話。
母の退院が26日に決まった。
帰ってこい、というが、先約ありで、次の日とした。
まあよかったわいさ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

行き、帰り藤原新也氏の「空から恥が降る」をよみながら。

*愛媛丸事件で、日本は、ハワイオアフ沖といい、アメリカはパールハーバー沖といい・・という指摘。この表現の違い。アメリカのずるこさ。ンだから、アメリカ嫌いなんだよ。だけど、旅で会うアメリカ人で、あんまりお利口じゃなくて、陽気でってやつおおいんだよな。

*セッテンバー・イレブンの後に、貿易センタービルの崩落を喜ぶ人の映像がCNNで世界を駆けめぐったけど、どうやらあれは、1991年の湾岸戦争の時のものだとか。英国のBBCなどは悲しむ映像を流していたらしい。アメリカの露骨な情報操作。
だけど、オランダでは、事実、喜ぶ人(モスレム)がいて、オランダ政府が厳しく指弾していたよな。
CNNのやり方(アメリカのやり方)は、露骨だが、でも喜ぶやつがいたこともまた事実なんだ。それって、宗教の違いとかより、想像力と魂の品位の問題だと思う。



2002年10月22日(火) ADSL、OK!祝!!開通

9時前に、這うように起き出して、また、イーアクセスに電話。
メールのことを聞いたら「設定を変えないと・・ADSL用に」といわれた。言われてみればそうなんだが、い、いろいろやってもでそれができなかったんだよ。
「それはプロバイダさんです、それは常識です」と言われてしまった。
そうかいそうかい、偶然なのか、ひとりで一気にやっているのかしらんが、きのうとおんなじ男の声だった。
昨日より、元気そうな、やる気が若干感じられる声だが、常識といわれてもな。
49点。
ファイアーウオールは、モデムの中に「そんなヤツ」が入っているからいいのだそうだ。
よかった、メンドクなくて。

すぐにニフティに電話。
待たせるね、またしても・・・しかし、何と、音楽はバイオリンの曲になっていたぞ。エリーゼのためにじゃなかった。昨日の私のブーイングのせい?単なる偶然?聞いたことあるよな・・と思ったが曲名不明。
つながって、てきぱきした女性の声で設定完了。
バイオリンの曲に免じて60点。
待たせなかったら、もう20点は上乗せできるのにね。

日本のこういった、ブツにならないサービスは良くない。待たせる。電話の番号が変わる。最低だよ。オランダで、この話をしたら、やっぱり同様だという。
アメリカは、応対をモニターしているのでまだましかな。
夏にUAに電話したときにそう思ったもん。

一応、完了。祝!!開通。
12メガ、早い。
重たそうなHPが、アッという間に開くのがすごい。

ひさぶりのいい天気だ。
秋深しだね、気持ちいい。



2002年10月21日(月) ADSLにしたのはいいが・・・

金曜から来ていたADSLセット、今日こそは、と取り組んだ。
9時ソーテックに電話して、ランボードのことをきいた。後で買いに行ってわかったのだが動作確認ができていると紹介してくれたタイプはもう型番が代わっていて、やくたたず。さらにダイオーの店員さんが調べてくれたところによると、それは高価だし、ほとんど業務用よ、ということだった。
ソーテック、女の子の声、愛想良かったけど、内容なかったよ、45点。
次に、セットを送ってきた、イーアクセスという会社のサポートに、手引きの紙を見てワカランかったところを質問。
昨日の休み疲れが残っているような気のない声の男が対応してくれた。
わかっている人が話すよくワカラン回答もあって、閉口したが、まあまあ全くの役立たずじゃなかったな。52点。
気のない男に、それはプロバイダ、といわれた質問をニフティに聴こうと電話。
つながんない・・・つながんない・・・
待たせる間、ずっと「エリーゼのために」
こういうときにピアノ曲っていらつくんだよ。
バイオリンあたりだよねえ。
「たいへんお待たせしました」とでた子に、「ホント、お待ちしました。ずーっとエリーゼのために。いらつくよ、人を待たせるのにピアノ曲はダメよね、バイオリンか、パイプオルガン」と文句を言ってやった。
ニフティ40点。
苦情といえば、イーアクセスのパンフの文字が小さい。これも中高年のことを考えた活字じゃないといった。

一応電話が終了したので、まず、雨の中、ランボードをかいに。
買ってはきたが、パソコンのふたをはずすなんていう大事業をせねばならぬ。
そ、そんなこと、私にできるの?いざとなって、怖じけて、こういう時私がすることは昼寝だ。
2時間、布団でぐずぐずして、しかたなしに起きておそるおそる、ふたはずし。
オオ、開けてびっくり!!ほとんど空っぽじゃないのよ。
この程度の中身のモノに私は時々バカにされてんのね。
人間の脳みそのほうが、やっぱり、りっぱかも・・・悟り、だわ。
なかに、かなり埃が入っていたので掃除もした。
PCを買ったときの、マニュアルブックを出して、やるも、買ってきたランボードがはいらん。
あんまり無理にして、壊したらどうしょう、ともおもうし。

ダイオーの親切な店員さんに電話して、「入らないんだけど」と言ったら、かなり力がいるよ、まあ遠慮せずにもっとぐっと押してみて、タオルかなんか使って。と助言をもらう。
再トライ。成功。ヤレヤレ。
ふたをしてまたねじで止めて完了しかけたら、ここで、仕事の電話。
中断。
すぐにご飯。
NHKでアイスランドをやっていたので、TV視聴。で、ズルズルと、ニュースを見てドラマを見て・・・
11時半過ぎにまた作業開始。
簡単に成功・・・ネットのつながりはすごくはやい・・と喜んだ、が、どっこい、メールがとれないことが判明。
何故だ、と再度いろいろやるがダメ。
1時過ぎ、今は2時前。疲れました。明日です。

昔から、弟が器用だったので、こういうことって弟の仕事だった。
箱を開けて(それもPCの)部品をつけてまたとじるなんてこと、この年にして初めてだ。
よくやりました。
メールがとれないのは明日の課題にして、今日はとりあえず★三つ。

常時につながるようになると、ファイアーウオールとかも考えないといけない、とスヌチャンは言うのだが?ああ、時代についていくのってむずかしいわ・・ため息
とりあえず、お休みなさい。



2002年10月20日(日) 風邪気味か?な・・「木喰」読了

昨日からボヤンだったけど、ほんの少し風邪気味みたいだ。
三斗小屋でミツエさんが風邪を引いていたし、うつっていたのかも知れない。
葛根湯を飲んで、ビタミンCを飲んで、ユンケルを飲むほどでないのでこれは略して。さっさと昨日借りてきた「木喰」を片手にお布団の中へ。
読むうちに身体が熱くなって眠くなって、ぐっすり眠って起きたら、汗だらけで身体が軽くなってシャキ。元気になっていた。
で、着替えて、そのまま、布団の中で読書続行。
夕方読了。
木喰の衣にたかっているノミとシラミに「同行3人?」させている設定で、ノミシラミの語り、木喰上人の旅の客観描写が交互に入ってなかなかに面白かった。
こういう、木喰仏という「足跡」はあっても、歴史的に認められるような発言のない遊行の僧を自在に語るには、ノミ・シラミの設定はいいと思った。
ただ、内容的な深みは??? ノミシラミのおかげで、面白くは読んだんだけどね・・まあ、しかたないか・・・

夕方、元気になったので、PCで「三斗小屋温泉 大黒屋」でグーグルで検索をかけた。何と、たちどころに202件もでてきた。
褒めたり、けなしたり・・といろいろのページがあった。けなしは、部屋の隣がうるさいとか、風呂が1時間ごとに男女交代で落ち着かないとか・・そんな感じ。
食事が前よりましになった、なんて言うのもあって、それは、前より泊まり客の人数が少ないときにあたったんだ、きっと・・なんて楽しんで読んでしまった。
ダイちゃんを「寡黙」と表現している人がいて、私は「ゲゲゲ」と笑ったが、まあ客観的にはそうかも知れぬ。
「淡々と語る言葉に人を魅了する温もりを感じるのは私だけであろうか」なんて言うのもあって、これは、本人にプリントアウトして送ることにした。
笑うだろうなあ。イヤ喜ぶか?
HPは黒磯や那須の観光以外には、秘湯の会・山の会みたいな人が多くて中によく効く温泉について書いている人がいた。
「湧いたままを流したまま」みたいな温泉がもっともいいらしい。
循環とか、加熱はダメ。
上記の条件で言えば、三斗小屋は、はなまるgood!!
湧いてでている谷からそのままホースで引いて湯船に入れて、それを流し放しにしているのだから。
来年は1週間ぐらい行きたいもんだ。
20番の常連客Oさんは茨城の元漁師さん、アリューシャンまで鮭を捕りにいったなんて話をしてくれるんだけど、「来年、また来いよ、オレが来ている夏によ。アンタは、さべっていると楽しいからよ」と頼まれてしまったし、いいかも。(笑)
今晩は、ニッテレの「ドキュメント2002」を見るつもり。
深夜なんだよね。こういういい番組が深夜なのが何とも残念だが。
それまで仕事をしようっと。
ファドでも聴いて・・・



2002年10月19日(土) 「百年前の20世紀」を読む

私の頭がボヤンとしているのか、お天気なのか・・選挙の車が時々外を通る。うるさい、うるさい人に入れない。名前だけ連呼するあれって、不毛だと思う。
この前、駅前に菅直人さんが来て、握手攻勢をしてたけど、あれも何だかな?握手してそれで?という感じ。

今日は、ご飯を食べたあと、7通ばかりメールにお返事をして、新聞に読みふけって、午後から図書館。
立松和平さんの「木喰」藤原新也さんの「空から恥が降る」「100年前の20世紀」という本を借りてきた。
藤原さんの本はいつもチェックが入って要るんだけど、これははずしていたね。
「100年前の20世紀」は子ども向けの本棚で見つけた。
明治期の著名人が100年後を予測していたのだが、それについて書いてある。
少し抜粋。
「浮き世のおもしろきに皆が浮かれ出す世になるかも知れません」(正宗白鳥)
「人間がこれからだんだん幸福になっていくかどうか、大いに疑問だろうと思います。人間の真の幸福というものは、社会改造論者のなどの手でヒヨイヒョイと生まれるものでしょうか。」(菊池寛)
「相当に民主的な国民になり、女子も参政権をにぎり、・・略・・大学が999できて子どもはみな大学まで通学する。貧民窟はない。日本語の歌が世界に流行する。日本が元軍国主義の国であったと歴史で笑うであろう」(賀川豊彦)

ウーン、よく当たっているよ、感心。
想像力と時代を見通す眼の問題だろうけど、びっくりする。

新聞では、田辺聖子さんが自分を「女のオッさん」と位置づけている文を読んで笑った。お聖さん、むかし、美味しいお菓子を食べるように読みふけった。今も好きだけど。
私も女のオッさんを目指したい。
「人生を長く生き、そこばくの信条を懐抱しなければ、女のオッさんにはなれない」そうだから。



2002年10月18日(金) 大谷観音さんによって帰宅

今日もいい天気だ。
私はメガネが飛んだところで、長い間ありがとう、とお経でも読んで帰ろうと思っていたんだけど、ダイちゃんが宿からの買い物の車に乗っていくか、といってくれたので便乗することにした。
20番のお客のOさんご夫婦とその友人さん、私で、みんなにまた来いよ!!と送られて下山。
「お、二日酔いでラクチンな道か」なんて、働いているTさんに笑われたけど、二日酔いの「よ」の字もないよ、とアカンベエをしてやったあ。

宿は昭和40年代まで、集落があった所、三斗小屋から下ること1時間弱だ。
期待していなかったのだが、すばらしい紅葉の道を歩いた。この2日でずいぶんと色がついたのだ。
途中、すごくでかい野猿が三匹うろついていた。こちらをじっとうかがっていたのは、食べ物でも持っていたら、盗るつもりでもあったのか。

下に買い出しにおりるwさんの車で黒磯の町へ。
wさんは歩きお遍路体験者。けっこう話が弾んだ。

黒磯から宇都宮へ。下車。
バスで大谷観音様へ。今日は観音様の日だし、思い立ったのだ。板東はご開帳だし。
見事な磨崖仏。千手観音様。
伝弘法大師作だが、弘仁年間みやこで忙しかったお大師さんがここまでおいでになったとは思えないし(新幹線でもあれば別だが)まあ、このあたりの石を彫った石工の作と見るのが妥当だろう。(そんな話を昨日していた)
大谷石記念館を見るといいよといわれていたので、そっちに廻る。
すごい、巨大地下工場のよう。でも、説明によるとホントに戦時中に中島飛行機の工場があったのだという。
今はシェルターになる、というとリアリティがあるよ。
今のこの地下記念館の下40メートルで石の採掘が続けられているとか。

夕方、5時半うち着。
洗濯をして、イワキメガネに飛んでいって、前と同じメガネの注文。
飛んだ、といったら信じられん・・といわれたが、風速50メートル近い風よ、と説明したら納得してくれた。ちなみに私がしていたメガネ、重さ16グラムほどだという。
今しているヤツ、重いし(38グラム)度が強くて疲れるんだよね。
10日はできるまでかかる。
ヤレヤレだ。

でも帰宅できてよかった、よかった。



2002年10月17日(木) お風呂に7回・・温泉三昧

昨日の風がウソのような快晴。
山屋さん女性こと、wさんは8時過ぎに出ていった。
上の展望台まで送る。すばらしい眺めだ。今日くればよかった・・という後悔は先に立たず、だね。
Wさん、彼女はいい人だった。昨日の強風越えの時、ふつう自分だけで精一杯の時、人の心配までしてたものな。
連泊は、私と、20番のお客さん。彼らは山歩きに行くという。どこも行かないのか、といわれたが、私は行かない。ここでぶらぶらしてるのがいい。
ご飯の後、お風呂、その後、食器ふきの手伝いをして、屋根に干した布団の上で山を眺めた。
ほんとにいい気持ちだ。
その気になって眺めると、遙か、尾瀬のひうち岳まで見える。
ここまで快晴は、そんなにないよね。
10時半お茶だぞう、とよばれて、帳場のこたつにいく。
今回びっくりしたのは、このところこのお山にいなかったw怪老人が私の予定に合わせるように見えたこと。
彼は、今年85歳なんだけど、私と仲良しなのだ。「わー、wさん、私のにおいかぎつけてきたの?」といったら、偶然だった。
まあ、こういうのをご縁というのだろう。
私はずっと、怪老人はどうしているか気にはなっていたし今回会えてよかった、と思う。
茶碗拭きをしながら、きいたら、90歳まではここに登って来たいのだ、という。
少し腰が曲がったけど、顔の色つやはいいし、頭はぼけのボの字もないし、雑巾掛けはも昔のままにするし、90どころか、その先までこれそうだよ、といったら、それはわからんんなあ、・・だって。
このの人たちは、怪老人以外でも、みんなお変わりなく、お肌つやつや、若々しい。A君なんて、この数年見ないうちにたくましくなったもんね。そんで、ダイちゃんが私に「なんだか、その髪型、ゲゲゲの鬼太郎ににてんな、Aくん」といったらそうですねえ・・・なんてにこにこ。
昔はこんな感じじゃなかったよ。
いい変化だ。
お茶の時間、私がこのシグマリオンでぼちぼち日記サイトにアップするために昨日の強風体験を書いていたら(携帯はやっぱりはいらないので帰ってからアップ)、寂しい、とか、呆けるとか、惚れるとか、入れてみろなどと機械の賢さを確かめようとする、みんなしてさ。
ダイちゃんなんて、さびしいは、あの淋病のの字あんかなどとお下品な・・
ここの毎度おなじみ、楽しいお茶の時間である。
このこと書くからね、といったら、ノウバイの宿だな、といわれんか?とまたまたまたあほな発言。
ダイちゃんには、花の名前からはじまって山歩きのイロハ、自然の怖さ、いろいろなことを教わったが、このあほさも好きだな。
冬になると「俺は葉が落ちた冬の木が一番好きだ、葉があるとうるさいな」という彼の言葉を思い出す。
ミツエさんがお茶の時間姿なし。昨日から風邪気味で具合がよくなかったんだけど、どうも悪化したみたい。心配だ。

午後、お客到着まで、お風呂に2回も入る。
最初の客は、神戸から夜行できて、強朝早く登ってきたというおばさんおじさんグループだ。
皆さん元気。
昔は、いくらモミジの季節でも、ウィークディは満員なんてことはなかったのに、この頃は客が絶えることがなくて休めないのがつらいという。(ダイちゃんは、お客の多いの嫌いだし)わかるよね、こういう元気な中高年が増えたせいだ。
3時過ぎにシーツたたみをしていたら、美味しし酒あんぞ、と料理場に呼ばれて大酒盛り大会しながらご飯つくりのてつだいを少々。
いつもここに来るとホントにうまい酒がでるんだけど、今回のも、造り酒屋のお客さん持ってきてくれたという3年古酒の大吟醸。
お酒を飲んでは、大丈夫か?といわれながらお風呂に入って、また飲んで、またはいって・・おほほほほ。
ついに、ご飯もここでいいよ、と調理場でみんなといっしょでした。
ここんちのご飯は楽しんだよね、みんなで馬鹿な話に大笑いしながら、ぐんぐんばりばり食べるんだもん。

ミツエさんが発熱状態なので、片づけのお手伝いをして今日最後のお風呂。
外には13夜の月?多分。
青白くてもう晩秋どころか冬に近い色だ。
木枯らし一番が来たら、間違いなく初雪が来る。
夜中、目が覚めると、外からの青白い光がすごかった。




2002年10月16日(水) 強風で、命からがら・・・メガネが飛んだ!

朝5時42分の電車、上野で6時51分の快速に乗れた。好きなことをする朝はどうしてこんなに早起きができるんでしょうね。
電車の中で爆睡。はっと気がつくと、宇都宮の一つ手前だった。宇都宮で乗り換えると、なんだか気配が変わる。ひなびて、田舎びて、のどやかになるのだ。好きだね。
黒磯でパンだのおにぎりだのを買って、ロープウエイ行きのバスへ。ほぼ満員である。黒磯の町中は変わっていないのだが、街道筋が変わった。怪しげな、お店、新興宗教の本部などが次々にできている。
ロープウエイ手前なかなかの紅葉。バスの中から、きれいだね、という声が挙がる。しかし、なんかくすんでいる。葉も落ちているし。
なにより心配になったのは、風だ。風が強い。もともと、このへんは風があるのだけれど、私の予想以上。何しろ、三斗小屋への峠、峰の茶屋、場合によっては、人が飛んで谷底にたたきつけるほどの風がくるところだ。死んだ人が何人かいる。日本一強風が吹くところとして、山登りをする人の間では有名だ。

バスを降りて歩き始める。まだ、ロープウエイは動いているし大丈夫かと、横目を使いながら登るが、これが止まったら、やばいんだよねえ。

できるだけ、早く峰の茶屋を越したいと急ぐが、途中で、ふっと見ると、ロープウエイがこない。まずい、まずい。
案の定、ブッシュの先のガレ場、石つぶてが飛んでくる。ときどき身体がうくほどのすごい風。どうする?でもな、せっかく来たのだから、強行。
しかし、な、なんと、その直後の風で、眼鏡、眼鏡が飛んでいった。
どひゃー。すぐに、近間の岩影で身をひそめてザックをあけてスペアを出して、飛んだ眼鏡を探すが、なし。どうやら、谷底だろう。なんてこったい、チタンのフレーム、プラスッチクレンズ。で、お金のことはいいたくないが、10万近いんだったぞい。すごくショック、しばし呆然、岩影で力が抜けた。
私がショックでうごけないでいたら、そこに風があんまりすごいんで、もどってきたというご夫婦が駆け込んできた。
う〜む、どうする?
夫婦者さんは、結局戻っていった、今日はあきらめると・・・。
そうだよね、賢明は判断だと思う。
十数年前にやっぱり台風の後風ですごいところをあるいたが、あのときよりひどい。 
もどるか・・
体が飛んでけがをしたり、人様にご迷惑をかけたり・・・・最悪命を落としたり・・・・この山で風で死んでいる人が何人もいることを思うと勇気ある撤退がいいか?
し、しかし、お遍路の本能が進みたいと・・・・この本能で、昔死にかけた・・
で、で、やっぱり前進してしまった私であった。
どんどん、ばりばり強くなる風の中、石つぶてが顔に当たっていたくて痛くてのじょうたいのなか、風の呼吸にあわせて、ほとんどほふく前進状態で進む。
持って行かれるほどの風が来たら、そばの石にしがみついて石になるのみ。

またまた眼鏡が飛びかけたので思い切って取ってウエストポーチにしまった。
スペアまでなくすと、金銭的損害も多大だが、生活に困る。
眼鏡がなくて危ういが、まあ勝手知ったる道、何とか、峰の茶屋の避難小屋に飛び込む。
すでに何人かの人がたまっている。
今日は1時過ぎには着きそう・・ゆっくり風呂はいって・・・なんてるんるんできたのにマジに信じられない展開になった。
横浜はぴたりと風が止まっていたし、低気圧は去ったと考えていたのが甘かった。
おまけに私はかって知ったるお山、ハイキング気分の装備で、手袋まで忘れている、山を甘くみるな、と天から眼鏡のことといい、鉄槌を食らった気がする。やっぱり、準冬山的装備をすべきでした。ものすごく反省。
しかし、私が反省しても風が弱くなるわけではない。どんどん強くなるばかり。
ごうおん、ぷううん・・・とにかく音もすさまじい。
この峰の茶屋を20メートル下れば風はびっくりするほど弱まるので何とか・・と思うがとにかくすごい。
たまっている人一人が、風速50メートル近いんないかといっているが、あながち大げさではない。
さてどうする、しかし、ここまでくると、三斗小屋までの中間地点、戻るのも地獄・・だとしたら進む地獄をとるしかないよな。
このままだと、気温も下がるし、体もどんどん冷える。
で、一緒に行きましょう、と声をかけてきた女性と、年配のご夫婦ものとともに、そとへ行く。
ロープウエイも今日はもう営業しないということだ、という情報をくれた人があって、ということは風は止まないということで・・・だとしたら、風の呼吸を読んで進むしかないのだ。
山屋さん的ふうぼうの女性に先頭に立ってもらって、私が呼吸を読んで今!!!と指示を出した。
この風はすごく呼吸が速い。ふーーと弱くなるときが、短いのだ。読み間違えると、一瞬で飛ぶ。鎖まで手を伸ばすその時間、とにかく弱くなってくれれば、なのだ。
3年前まで鎖はなかった。
4年前だったかの春先、この地点で飛んで下の沢に落ちて亡くなった人が出た・・・もちろんその前にもそういった事故があった・・ので、まあこの鎖は「犠牲者の鎖」といってもいい。鎖がなければ、今日の風は越えられない。前にもここをほふく前進ではいずって飛びかけながら越えたことがあったが今日は、あの時の風より強力だ。
鎖につかまったとたん、来た、グイイインという突風なんてもんじゃない、とばすという悪意さえ感じる風が。
しっかりとつかまってよけるが、息ができない。
次の瞬間少しゆるむ。
年輩ご夫婦の夫さんの手を、鎖まで引っ張る。彼の後ろにやっぱり手をつないだ、奥さん。彼が鎖につかまる。また息ができない、少しつかまる手を休めたら飛ぶぞ、という風がくる。
山屋さん的な女性は待っていてくれる。
行って、と合図。
一応、みんな鎖をつかんだ。
この後は・・・とにかくつかまりながら自分の身を自分で守るしかない。
そして風の弱くなるところまでなんとしてでも、進むしかない。
風の呼吸にあわせながらどのくらいの時間かかったのだろう。たかだか数百メートルを進むのに・・・・
ものすごく長い時間だった気がする。

やがて下のブッシュへ。
ダケカンバを揺らす風の勢いはすごいが、これで安心だ。
本当はここからの紅葉もすごいのだが、眼鏡を出してみれば、なんかやけたような・・さしたることはなし。
私がそういったら山屋さんの女性「でも、あの風の後だと、何でも美しく見えます、私にはすごくきれいに見える」と感動していった。
うむ、うむ、それはそうだなあ・・・・
でも、本当に飛ばなくてよかった。
命があってよかった。

下の避難小屋から、年輩のご夫婦を捜す。
見えた、まだ斜面の中腹だが、あそこまで来てしまえば、大丈夫、もう飛ばない。
観察してると、ちゃんと動いて進んでいるし、一安心だ。
下から手を振って「おさきしますよおお」と叫んで(聞こえないとは思うが、私の服は黄色いので姿は認めているはずだし、)出た。

いつもなら、下のダケカンバの道にはいったら、風のかの字もないのに今日は大揺れ。並大抵の風ではなかったと、改めて飛ばなかったことに感謝。眼鏡が身代わりだった。
「あまりに強いひと吹きが来たとき私は思わず「南無大師遍照金剛、お大師さん、お守りください」と唱えてました。
ホントに、お大師さんのお陰さまでした。

3時半過ぎ、20年来の宿、大黒屋着。
3年ぶり、時々旅先からはがきを出してはいたのだが、おお元気だったか、みんなから大歓迎してもらった。

かわんないんだよね。
ダイちゃんもミツエさんも宿のたたずまいも、働いている人も・・・・なみだが出るほど懐かしかった。
みんな、今日はこないな(風が強い)と思っていたよ、といわれた。そうでしょう、そうでしょう。

大好きなお風呂、夕御飯。
お風呂で、あのご夫婦の奥さんの方にあった。ああよかった、ご無事でしたね。
一緒に越えてきた一人旅の山屋さん女性と一緒に食べた。
お酒もビールもうまし。
常連のお客さんが持ってきたおいしいサンマやつみれスープの差し入れもあって、大満足。
眼鏡のご成仏は重ね重ね残念だが、すごい満足感である。

夜、9時、発動機でついてる電気が消える前に眠ってしまった。

全く命からがら、語りぐさになる今日の風体験でした。




2002年10月15日(火) 病を癒しに

ついに、三斗小屋に予約の電話した。
そしたら何と何と、明日は満員?!!ウソウソ、である。
そこを何とか、明日はいったら茶碗洗いでも何でしますから・・と拝み倒しで潜り込めることになった。大事にすべきは、昔のよしみ・・・やれやれ。
ウィークディなのに、さすがに紅葉の季節、ではある。
大黒屋の主人ダイちゃんは、宿屋の主人にも関わらず、大勢の客が来て満員御礼になるのが嫌いである。
「こないのはこまる」「ほどほどがいい」(4,50人まで・・実際にはその倍は泊まれる)のである。
80人、90人の客が入る日は、機嫌がわるいもん。
二十年来、私の心の癒し場所であるこの宿は少し風変わりなのだ。
手が足りないと「オーイ、茶碗洗うぞ」と声がかかる。
要するに、茶碗拭きまたは茶碗洗いに来いってこと。
建物だって、100年来、そのまま建っている。
建て直すよりも維持する方がお金がかかるのだが、ねえ。
電気はないので、、数時間の発電、消灯の9時には原始の闇、で、ランプがつく。
携帯は通じない、今も多分。(99年はそうだった)

明日は歩いて2時間、紅葉を堪能しながら行く。
嬉しいね。
元気出たね。

ということで、もしもアップできたらしますが、多分ダメでしょう。
2泊3日の予定です。
ホントはすることいっぱい、旅から帰って来たばかりでビンボー、等々。
「おまえはアホか!!」と自分を痛罵する内なる声は聞こえている。
でも行くもん。
明日7時上野から宇都宮行きに乗る。



2002年10月14日(月) 毎日新聞の講演会へ

14時より毎日ホールでの講演会へ行く。
へんろ館の館主さまにお会いする。 

1 ひろさちや師
さすがプロ、という感じで時に笑わせながら聴衆を飽きさせない。
「諸法実相」(法華経)の言葉をわかりやすく。私流に言えば「みんな違ってみんないい」(おっと、これ、金子みすずだわ)
年とっているより若い方がいい、病気より健康がいい、死ぬより生きている方がいい、という価値観は違う・・みんないい・・わかる・・身体で実感するのは、とても難しいけど・・でも、私は事故にあったとき、事故にあったけど、その中で得るものがあった・・と思った、それに感じとしては近いかな、と思った。

2 鈴鹿芳康氏
写真美術館で見た彼の写真はおもしろかったけど、話はイマイチだった。へんろ館の館主さまと5時になって抜け出した。(だって、5時閉会なのに終わりそうもないのだ・・鈴鹿氏は3時間は欲しい・・なんて言ってたよな・・でも、聴く方はすでに、1時間半聴いているんだから・・そういう思いやりないんだよな・・こういうの、なんだかな)

その後、お茶でもと館主さまをお誘いしたが、外が夕闇「ビールですね、やっぱり」となった。
ビールとかぼすチューで、2時間近くお話しした。
私の旅のはじめ(ヨーロッパ初体験は友だちの新婚旅行についていった、20年前中国の旅)を、お話。館主さま、きき上手である。

「へんろ館 館主さま、たのしい時間をありがとうございました。心より御礼申し上げます」

帰り、丸の内線に乗って、銀座線に乗って、表参道で乗り換えの所、「熊野古道」の本に夢中になっていて乗りはずす、はっと気がつくと、銀座線は渋谷でした。(トホ、またやったわ)
何に夢中になっていたのかと言えば、「熊野古道小辺路越え」高野山から3泊4日の道のり。荒れてはいるが、むかしの面影をよく残すという・・。
お大師さんも、歩かれたのではないか、と思う。
イヤ・・歩きたいわ・・どなかた行きませんかい。
峠を3つ越える・・熊野への道では一番きつい(が、早い)道だという。

電車の乗り換えに東急の中を通ったら、お刺身半額セール。ひらまさを購入。
またまたうちでビール少々。
で、日記のアップは、翌日となったのでした。
 



2002年10月13日(日) どっかに行きたいよ(持病が出た・・)

朝、出かけようとしていたら、たまちゃんからの電話。うれしかったね。
だって、何とも気の重いお出かけだったから、でもお四国からの電話で、これはいけるかな・・だった。たまちゃん、ありがとう。

で、気の重い話。
著作権譲渡の話。
一応、「やらない」、そちらがどうしてもというんだったら争うというこちらの断固たる主張は通ったようだ。
が、まあ当然、細部は会社に都合のいいように書いてはある。
交渉に来ている彼は33歳だが、肩書きは「部長」さん。
それだけに、そつがない。
会社の上部を説得するのが大変だったからよろしく・という話。
弁護士さんに相談してから、と返事をした。

どっかに行きたいよう・・・ということで来週もこんな天気だったら、三斗小屋に行くことにしたい。(予定)予定通りだったら、男が見つかっていたら、今頃、サウジアラビアから帰ってくる頃なんだよね。那須くらい、行ってもいいよね。紅葉見物、数日いいよね。
と、どこまでも自分に甘い私なのでした。
またまた、アラスカ旅日記、お休み。
今日は昨日の高野山大学の講座の復習をアップしたら疲れましたわ。



2002年10月12日(土) 高野山大学 公開講座

午後2時 新宿の工学院大学にて

テーマ 「チベットへの仏教移入と密教」講師 越智淳仁先生

1 国家統一以前
 チベット最初の王は、争いによって天上に帰る綱を切断されたディクム王。
その前の時代は、王たちは天上から降りてきて、また帰ったのだという。頭の百会(ひゃくえ)から青い細いヒモがでて、それが天上とつながっていた。用が済むとそれが上に引き上げられて天へ戻った。
ちなみにチベット人最初の夫婦は猿と岩の仙女だという。
(独り言・・・青いヒモで天へ戻るって、確かチベット死者の書にも似たような描写があったような・・・。最初の夫婦の女性は岩のせいってところにこの地域のすごさを感じるねえ・・)
この時代のチベット宗教は(つまり仏教が入る以前はポン(またはボン)教。
しかし、仏教移入後、かなり形を変えたので、原始ポン教についてはわからない。

2 国家統一
ソンツェンガンポ王によった。(581年から649年)この王は、観音の化身といわれ、描かれたり、作られたりする姿にも頭に観音さまがのっている。
この王の勢力はすごく、一時は中国の西安近くまでを支配した。
王には、やりての大臣ガル・トンツェンユルスンがいたのだが、彼の交渉によって唐の太宗の娘文成公主の降嫁(ソンツェンガンポ王の息子グンソングンチェンの花嫁として)に成功。
この交渉時にチベットにも文字が必要ということで、トンミサンボーダによって初めてチベット文字が編まれた。
そして、文成公主によって、チベットに初めて12歳の姿をした釈迦牟尼仏がもちこまれた。(チベットに仏教が持ち込まれた初め)
文成公主と結婚した王子は3年後23歳でなくなり、彼女は、3年喪に服し(チベットの決まり)今度は父であるソンチェンガンポ王と結婚した。(独り言・・まるでシェークスピア劇ような)
しかし、その王も、また3年後になくなった。(越智先生・・この文成公主という人はホンマ男運のない人なんですわ)
彼女は、その後、最初の結婚で皇子との間に生まれたマンソンマンツェン(王の死後、跡を継いだ)の生長を楽しみに生きたとさ。(独り言・・・唐に帰りたいとはいわんかったところが根性と気合いがあると思った・・越智先生によれば実際そういう気丈系タイプだったらしいが)
この文成公主が後に建てたお寺が、小昭寺(ラモチェ)。彼女と共にソンチェンガンポ王の后になったティツン(インドから来た人?)は建てたお寺が大昭寺(ツルナン)。
その後、則天武后の娘である金城公主も降嫁してそのおりにお寺がたくさん造られる。

3 仏教の正式移入と仏典の翻訳
正式移入はチソンデチェン王(742年から804年)の時
サムエ寺を建立して、仏典を翻訳
仏教の正式移入ともに政権の奥深くに入り込んでいたポン教との争い。
シャンタラクーシタ(インド人)が連れてきたパドマサンバアバというマジックに長けていた密教僧(どくろを持って描かれている)によって仏教勝利。
その後、シャーンタラクシタを戒師として7人のチベット人が出家。
7人は、インドの当時の仏教の中心のひとつであるナーランダにお勉強に行く。
その当時のナーランダには、般若三蔵(空海の唐におけるサンスクリットの師といわれている)などやがて中国で活躍する僧たちが学んでいた。

4 その後
中国系の仏教を導入するべきか、インド系にすべきか、王は苦慮した。
インド系密教の問題は、呪殺。この時期たくさんの人、王も呪殺によって殺されている。(ドヒャー、マジ!!!??・・でも先生は大まじめでいっていたよ、そういうお経があるという・・確かに四国65番の三角寺の三角の護摩壇は降伏だというし・・)呪殺をしたと判明した人は、一族郎党、殺されたという。
こんなことで、一時、インド仏典の翻訳が禁止されたという。
とは言いながら、当時もっともuptodateで、完成度が高かったのはインドよりの金剛頂経で、チベットでも受け入れていった。

(おもしろ話メモ)
*ラ(神々)サ(土地)
*チベットのお酒の話
 ネー(麦)チャン(酒)はうまい。米の酒もあるが、麦が何といってもうまい、特にまだ発酵しているようなヤツがうまい。わかる・・ウィーンで飲んだシュトルムという半発酵のワインはうまかった。今関さんちで頂いたどぶろく発酵中もすごくうまかった。(と、よだれを垂らしたmohejiであった。)
(おもしろくはないが・・・)
*チベットの現況・・前よりも、チベットの言語は大切にされている。チベット語を学校で教えている。しかし、経済、お金はみんな中国人(漢民族)の方に流れるようなシステムができている・・チベット人は貧しい。
また、賢い人はチベットをにげだした。
今、老僧たちが法を伝えるべき人がそだっていない。

感想
★越智先生は春先の講座より、言語明快でわき筋の話がおもしろくてアッというまの2時間だった。
★チベットの仏教って、もっと古くから伝播されたのかと思ったのだが、(インド、近いもんねえ)意外や、日本より遅いではないか!
★ラサ・チベットって、わたしが行きたいとこのひとつ。
でも、講義を聴いて、チベット仏教を少し学んでいった方がもっと奥が深くなると思った。
★映画の「7イヤーズインチベット」(ディカプリオさまだった?)のラスト、中国共産党がのりこんできたときチベットの最高の歓迎である色砂で描いた曼陀羅をふみじったシーンを思い出した。あれ以来チベットは暗黒の中にいる・・・チベットの現況を効いたときにあたしの脳裏をよぎったことだ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
帰り、小腹が空いたので、なんか・・と思っていたら人だかりのカレー屋。
見たら、15時から17時、カレー280円だとさ。Aコロッケカレ−、B唐揚げカレー。大丈夫かと思ったが、そこそこの味。あたり。デフレ、だよね。えらい人とお金持ちは困っているようだが、庶民には嬉しきかなデフレじゃ。

なんか疲れを感じる、どっか行きたいよう。私の場合、それで元気になるのだ。
アラスカ旅日記休みます。




2002年10月11日(金) 今日もいい天気

このところ、どうもしっくりとこないのは祝日の変更だ。
例えば、15日の敬老の日、昔は10日だった体育の日・・それなりにいわれがあって(10日の体育の日は、東京オリンピックの会開式の日ではなかったか)の設定だろうに、単に3連休を作るために、勝手に変更している。
というようなことをいっている私は、老人か現象だろうか・・ねえ。

朝早く起きて、といっても7時少し前だが、洗濯だ。
よく乾きそうだ。
休んでいたアラスカ日記のアップ。
8/2日分、読んでみて下さい!ね。

夕方は、愚観音様の参拝に行く。

独り言・・まだ午前中なのに、日記のアップ何ぞをしていていいのか?



2002年10月10日(木) 姫路Dサンより トムクルーズ情報

バスで帰ってきた。
県境は、ススキが銀の穂並みを風に揺らしていた。
山の色も変わり始めていたし。
何より、空気の透明感が増していた。
バスだと、車窓から今の季節のよさが楽しめる。

2時半、うちに帰った。
昨夜、遅くまで起きていたせいか、眠い。
バスでも本を読んできて睡眠しなかったし、お昼寝を決め込む。
ホントは夕方、スヌちゃんとご飯の約束だったんだけど、風邪を引いた、最悪というメールが入っていた。そんで、キャンセル。「筋肉がいたいなら葛根湯、さらに熱があるなら麻黄湯、咳と鼻水は小青竜湯、さらに風門というツボに三点灸をするといい、お大事に」とメールした。
おまけ、長期に空咳が止まらない時は麦門冬湯、体の弱い人の治らない風邪は桂枝湯か紫蘇散・・とまあ、私は漢方大好きの人で。
風邪かなという節々痛みと微熱が始まったら、私の場合は、大量のビタミンC、ユンケル皇帝液1500円くらいのヤツ、葛根湯の3点セットを飲んで蒲団かぶって寝る、ぐっすり眠って起きると大量の汗がでてすっきり、治る。これでもだめなときは鍼灸の師のところで3点灸をしてもらう。これは即効性がある。少々の熱は下がる、鼻水は止まる。麻黄湯のお世話になるくらいの熱が来たときはあきらめて3、4日寝ているしかない。身体が休めといっているのだから・・・。

いい天気なのに寝ていて洗濯もしないのは如何なものか・・と思いつつもぐっすりと寝て夕方。こういうときは、疲れている身体のままにするのがよいのだろうよ。

昨日の我が日記を読んで下さった姫路のDさんよりメール。

『「トム・クルーズの乗っていたワゴン車の写真」ではなく、
トム・クルーズの乗っていた、「ワゴン車の写真」なのです!!
確かに中にはトムさんが乗っていらっしゃるのですが、きっと
写真ではトムさんのお顔は確認できないはず・・・・・・・・・。
まだ、現像していませんが、確かです。
ごめんなさーい!!
明日、再チャレンジしてきます。』
という文面で・・・・どうも、トムさまは写っていないらしい。
でもまあ、書写山は大騒ぎみたいで。
ちなみにトムさまの予定は、にわかファンになったDさんによると以下のようになっているらしい。

『姫路での撮影は、9・10.11・12・14日。
つまり、13日はお休みです。
その後、21日頃まで京都で撮影。
毎日、神戸のホテル(名前はわからない)から、ヘリで「書写ゴルフ場」へ。
(京都のホテルはグランビアです。)
今朝は6時45分到着予定。
ロープ−ウェイで上がり、撮影場所まで車で移動。
撮影場所は、厳重な警備で全く覗けません。
昼食の時には出てくるので、チャンスかも。
昨日見たのは、このときです。
今日以降、ロープ-ウェイの規制も考慮するらしいです。

以前(9月30日)登った時は準備中で、撮影現場も入れました。
親切なスタッフの方の話では、
書写では、フォーシーズンを撮るらしくて、桜や紅葉の作り物の木が用意されていました。』

Dさんは、冬の場面で雪のシートを敷き詰める、それが見たかった、ということでした。

Dさん、以上、勝手に引用お許しあれや。m(_ _)m

私はトムクルーズさまに興味を持つのは、彼が失読症(LD)というハンディを持ちながら、なおかつハリウッドのスーパースターだということだ。
最近この失読症でつらい思いをしたということでスエーデンの王女さまのことが話題になったが。
トムの場合は読めないので、台詞は全部テープ録音で音声から覚えたという話だ。
その子にあった教育をして(LDの場合は、ゆっくり、その子のスピードで)才能を開花させるシステムがあるアメリカ、好きではない国だが、この辺はやっぱり「アメリカの底力」だと思う。
レインマンで、ダステンホフマンの弟をやった彼、光っていた。
彼をスターにした「トップガン」も見たよ。

今日の夕刊の新聞で笑ったこと
特派員便り、at中国シンヨウ。
中国のゴールデンウイークの国慶節<10/1>の連休中。シンヨウからの北京の便のエコノミーが満員なのでビジネスに席を取ったら、何とビジネスは家族連れでいっぱい。隣りのお父さんは席に着くなりタンを吐くし、前の男はジュースを2回もこぼす。子どもは通路を走り回る・・・
これを読んで、中国人よ、あんたら、ビジネスに座っても痰を吐くのか?!
そう、昨年の今頃、北京で駅前の食堂でご飯食べていたら、そばの男が痰をグエってやるんだよね。もう、箸をおいた。もう私まで吐きそうだった・・気持ち悪くて、さ。でも駅前の庶民的な食堂とビジネスシートじゃ、場所が違うよね。
記者氏は書く。
「男性は40歳前後で外国製の高級時計をしている。女性は20代後半と若く化粧ばっちり、子どもは妙に着飾ってこと。ニューリッチファミリーとでもいおうか、
今中国の地方都市でこういう人たちが台頭しつつある」
見出しにマナーもリッチに、とあったけど、まあ、最低10年は無理だろうね。
だって、私が初めて中国に行った1983年からこの痰吐きに関してはかわっとらんもんね。
何でも我さきで、並べなかった中国人が飛行機のチェックインなんかでは渋々並ぶようになったし・・まあ痰吐きも終息する可能性はあるが・・・でも痰吐きって「中国人の遺伝子」に組み込まれているような気もするんだわよね。
まあ、「メイヨウ」(ない)をいわなくなった中国人に一抹の寂しさ、石炭の燃える匂いのしなくなった北京にこれまた寂しさを感じた私、もし、中国人が痰を吐かなくなったら、一抹の寂しさ、あるかもだ。
こんな屈折した愛を中国に懐く私である。
今日はスヌちゃんと、北京の話をするはずだったんだけど。

さて今日は、これから昼寝をし分を取り返す。
ということで、今日もアラスカ旅日記お休みです。
明日はアップしますね。












2002年10月09日(水) そこはかとなく初冬の足音が・・・

今朝は寒かった。
外に出ると、やっぱり寒い。
なんだか、「目にはさやかにみえねども・・」冬がさりげにすこしづつ・・。

父の本格的秋着を出した。
薬のせいか、とにかく寒がり。

母は今日初めてお風呂だ。
入りたいといって待っているのに1時間もナースがこない・・とぶつくさ言っているので、私が介助しますから、ということで入れた。
手がないことはわかるけど、これ、私にいわせれば、B級病院だよね。
患者にとってお風呂がどれだけうれしくありがたく、気持ちよくということを考えれば、もっとずっと前に入れてやるべきなのに。清拭とお風呂って全然違うんだよね。すごく喜んでいた。

トム・クルーズが関空に来た。
テレビで見て、ひゃーかっこいい、と思って姫路の方にメール。彼女はなんと書写山で遭遇したという。いいな、いいな。
メールの返信に写真あり、と書いてあった。今度見せてもらおう。
トム・クルーズさま、書写山でロケだという。

病院からの帰り、駅前で新潟日報は号外を配っていた。
内容は、拉致被害者の15日帰国決定のこと。
5人のうち3人が新潟県人なのだから、この号外は当然といえば当然ではある。
県内にまだ、絶対そうだよ、といわれている人が6,7人いるようだ。
そういう人たち、この先どうなるんだろうか。
もしかして、生きている人を帰国させることで、幕引きをねらっているんじゃなかろうかと思うが。
今からに十数年前、私たちも寺泊のあたりの人気のない浜を歩いていたら拉致されたかもしれないんだよね。
などと、家族で話している。
人事ではないのだ。

話は変わって。
数日前、姪の大学の友だち(同じく教育実習にきている、新潟大は県内の指定の学校に配分されるシステム)がうちに遊びに来たとき親たち(弟夫婦)が、ガールフレンドのいない甥に「カナちゃんのお友達が2人来ているから、食べられる白いモノ買ってきて」と携帯に電話を入れた。
甥「はいよ」
彼が買ってきたモノは、なんと牛乳、でした。
親たちはあきれて「女の子が二人来ているんだから、白いモノといったら、ショートケーキかなんかに決まっているでしょ、たまには妹の友だちに兄らしくしてさあ・・」(親心・・あわよくば、ガールフレンドゲットにならんかと・・)
甥「僕にとって、白いモノといったら牛乳しかない」だとさ。
その話を姪の友だちがきいて「うちの兄だったら、豆腐を買ってくるかもしれません、うちの兄とカナちゃんのお兄さん、なんかにているんですよ、その牛乳、飲みますよ」だって。
やっぱ、女が上だわ。
新潟の男がだめだわ、さ。
新潟に松と男は育たんのよなあ。

旅から帰っていつのまにか1ヶ月すぎた。
考えてみれば、私は2000年の10月はアメリカ、メキシコにいた。昨年はエジプトと、トルコ、タイ、北京とうろついて帰った。
10月に日本にいるって、そんなわけでおひさしだ。
昨年はエジプトのルクソールで、アメリカのアフガン攻撃をきいた。あれ、ショックだった。エジプト人たちと、アメリカは間違っている、という話をした。
今また、アメリカ、イラク攻撃の強行、それをアメリカの過半数が支持するのが信じられん。
ビンラデンじゃなくても、んじゃ、こっちもやりますわ、売り言葉に買い言葉状態になるわな。でもそれでまた、また人が死ぬ、子どもが傷つく、貧富はさらに拡大する。

また話は変わって、横道ですが・・・
私、あの、竹中金融、経済大臣って大、大嫌いなんだけど。
あの人、オーム真理教の麻原と同じに大嫌い。
あんな人が大臣やっていると、マジにもっともっと大変なことになるおもうけど。
だって、口先だけ、ころころ変わる、信念なしって感じがすごくする。
私の本能の言葉でした。
ブッシュとこの竹中さん、いま一番にやーなお人。
もちろん、小泉もき〜らい。なんもできんお人。

ちっと今日はビールを飲み過ぎたかんしらん。

明日朝、帰る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日も、アラスカ旅日記お休みです。
実は日記ノート忘れたんです。トホホ。



2002年10月08日(火) 新潟にて

FDSの会に出て、12時の新幹線で新潟へ。
自由席だったが、すいていた。でも、大急ぎではしっているうちに、腕にしていたリトアニア土産の琥珀を落としちゃった。ぐすん・・・だね。プラスチックと思われて捨てられると思う。

母はリハビリを始めていた。
足の腫れもずいぶんと引いた気がする。もちろん、まだ痛いようだが・・・
退院のめどは今月の終わりだと思う。
母の事故の日は28日。お不動さまの日だ。毎年春には必ず成田山新勝寺までお参りに来るし、きんじょの成田別院にも毎日のようにお参りしている。
私は、事故の日がお不動さまの日だから助かったね、といったら「いつも遠回りだけど、お不動さんお参りしているのにあの日はいそいでいたんでいかなかった、お参りしていたら、こんなことにならなかったかもしれない」といっていた。
後悔先に立たずだよね。

うちで驚愕的話を聞く。
母のところには毎日お見舞いの人がおいでになるのだが、病院の近所の人は毎日おかずを持ってきてくださるという。
家族で夕食の後に、退院が見えてきたね、お見舞い返しのことを考えないと・・という話になってたくさんあるから大変だね、送る紙を書く手伝いするよ、といったらとんでもない、このへんはもってお礼にいく、送ったりしたら後でいろいろいわれて大変なんだという。もって・・・てそうなの。そりゃ、それが正しいよ。でもものすごく大変だああ。「私がおばあちゃん乗せて、何日かまわらんとおわらんわね」とは、義妹の言葉。どひゃ、だ。知らなかった。私も一応自分が退院した後に特にお世話になった人のところにはいった記憶があるが・・・。母の場合、すごい数だよ。
ご苦労様です。
自分がいかに「新潟の世界とその事情」に疎くなっているのか思い知った。
故郷は遠くなりにけり。

深夜、教育実習で母校(中学)に行って姪と話した。
彼女は研究授業の細案づくりで苦しんでいる。
太閤検地と刀狩りのあたりを研究授業でするようだ。
考えさせる授業をするというので「なにを考えさせるの」ときいたら、農民が刀狩りに来た武士を相手に困った思案の顔をしているイラストも見せて「どうしてこんな顔をしているのか」
「はあ、それって小学生じゃんよ、たとえば、この資料の文で升の大きさを統一したってこと一つ考えさせても、秀吉の考えていたやねらっていたことってわかるんじゃないの、ちょっと、その吹き出し埋めじゃ幼稚だよ」
「でも、そんなに考える授業ってしてないんだよ、だからこのくらいがせいぜいだよ」
「スヨシ(姪の母校で、わたしの母校)って賢い中学だったんだけど」
「今はそうでもないよ、ちょっと荒れている感じだよ、私とか実習背には協力してくれるけど、先生だと、センセーわかんな〜いとか平気で授業中にいうもん」
「資料集をクラスの半分忘れて、使って授業とかできないんだよ、となりから借りてこいよって思うよ、だから、研究授業、資料使うのやめたんだ」
「教科書とか資料を見てやってもいい、すごく簡単な穴埋め5問、私は5分でできると思ったのにさ、10分かかるんだよ」
「今の資料集ってすごいよ、全部ふりがなつきだよ」
と、姪はぐちりまくり。
「それは、簡単、難しいの問題ではなくて、いうこときいてやってやるかというところまでテンションがあがるまで5分、やるのに5分、そう考えないと・・・5分でテンション上がれがいいほうだね」
と私。
「外国では、学校に行けるというだけで目を輝かす子がいる、教科書が無償だったら行けるのに、と思っている子もいるのに・・ねえ、この国はやっぱり早晩ほろびるのかねえ」
これも私。

姪の用意した資料には、升、なで切り、かすがい・・など、説明なしでは今の中学生には理解しがたい単語があるよ、と彼女に助言した。

半袖を着てきた私だったが、新潟は大雨、寒い。

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本日は、アラスカ日記、お休みです。



2002年10月07日(月) 蒸し暑い・・ねえ

朝からすごい風で目が覚めた。
蒸し暑いし。

昨夜は、sakurannkoさんから「ゲイとレズビアンのためのパレード」の話を聞いた。友人に誘われて出たのだという。
なかなかおもしろかったよ、ということでいろいろきいた。
夏の頃、TVで性同一障害で手術をして「自分の心で思う性」になっても、戸籍の問題があって大変だ。保険証、パスポート、就職等々。という話を知っていたので、彼女の話はなかなか興味深かった。
神様は何故人間たちが異性だけを好きになるようにお造りにならなかったのか・・そういうふうに人は進化しなかったのか。私の独断と偏見だが、人類の歴史のほとんどを飢えていた我々人間たち、人が増えすぎてさらなる飢餓が蔓延して滅亡するということではなかったのか。あるいはまた、同じになることの危険を遺伝子は考えたのではないか・・。
また、彼女がたずねて話を聞いたうちの近所の区の介護ボランテアの話もおもしろかった。
「でもさ、私が年とってそこで行われていたような介護とか講座とか受けたいか、といったらそうじゃないの、それほど魅力のあるものはなかった」
なーるほどね。
おもしろい、というのは自力で見つけないと、さがさないとダメなんだろうね。

ニフティから電話が来た。切り替えたいと思っていたADSLの勧誘電話。渡りに船で申し込んだ。しばらく長期に出かけることはなさそうだし。

夕方、ミエコの所にクリスマス箱を送るにあったて詰めるものを買ってきた。
内訳。
お煎餅3袋、カリント、羊羹、ラーメン、ふりかけ2種、ノリ、お茶漬け2袋、ラーメン茶漬け2袋、オタフクお好みソース、乾燥湯葉、お茶、生ワサビチューブ、
簡単卯の花、ミソ料理用和食の達人、平戸煮干しパック、越後そば2袋、コシヒカリ2キロパック、モリアの作文用参考書、三角定規セット

ホントは何か日本語のビデオ、といわれていたのだが、みているヒマがなかった。
彼女のうちはクリスチャンだし、不浄なものは見せないおうちなので選択がむずかしい。そのうちに。

今週中には船便で送りたい。

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8/1日の旅日記アップ。
8月のインデックスからお入り下さい。




2002年10月06日(日) 今だからいえますが・・・

お遍路シンポの社告が出たようだ。
ああ、プレッシャーだ。
もともと人前は苦手なのだ。(というと、みんなウソ、という、信じてもらえぬ、そりゃ、おもてだけ見ていたらウソ、かも知れない・・でもね・・そうじゃないのよね)
小1の時、リレーの選手で丸く走るところをストレートに走ってチ−ムをビリに追い込んだり、小3の時劇に出て台詞を間違えたり(以来、できるだけ目立つところは避けてきたが・・)
 先生になった最初の年、運動会の綱引きの審判で式台上で勝敗を間違えて大慌てで訂正した。
 ラジオ体操、先生って、台の上でするときは、子どもと反対動きをしないといけないんだけど(右から動く)いつも必ず間違える・・とかって私は実にブキなヤツなんだよね。
だから、マジにすみでニコニコしているのがホッとする。

こんなことを今朝は、愚さまのメールにグチってしまった・・・

でもまあ来ていただいた方が満足していただける会になればと思うし、微力だが、努力は惜しまない。がんばる、応援の言葉ももらっているし。
ああ、でもなあ・・・

午前、旅原稿を書いていたらたまちゃんから電話。11番さんだという。
美容院に行って来てご機嫌さんだった。すごく元気な声で「愛しているよ」といってもらった。ありがとうね。たまちゃん。

旅の話は、2000年にいったナンタケットのこと。紅葉がキレイだったこと等々。
昨年のあのセッテンバーエレブン前。ワシントンにもいったけど、今思えばいいときに幸せなときにいったものだと思う。

今日は夕方、sakurannkoさんが来る。
オランダから、彼女に送って保管してもらっていたブツ(大好きなブリューゲルのカレンダー)を届けてもらう。
オランダのチーズで、チーズホンヂューをする。
お酒は新潟の酒。彼女の来る今日まで封を切るまいと思ったんだけど、一昨日、少しなめてしまった。朝日山千手盃。うまかった。
許されよ、sakurannko殿

さて今日はこれから買い物だ。
彼女はいつも刺激的な話題を提供してくれるので楽しみ。
それどころじゃない、と飲み会自粛だったんだけど、今日は日曜だし。
そんなわけで、すみません、アラスカ日記、今日はお休みです。<(_ _)>





2002年10月05日(土) 友人のおうちの災難

昼頃、昔の同僚で友人、から電話。
別の人から空き巣にやられたと聞いていたのでお見舞いのハガキを書いたら、それに答えてだった。
1泊、家族で温泉。留守にして、ガラスを切られて侵入。
金庫ごと持っていかれたらしい。
ため息が出るような大金が口座からおろされて、土地の権利証等々もとられたんだという。
聞けば聞くほど、ひどい話で、恐い話で。
かなりでかい組織が動いている感じだ。
TVで見たんだけど、ねらいを定めると、その家の人の行動を監視、ゴミまでチェックするという。
それをやられたのだ。
私もピッキングにやられたので、彼女の気持ちわるさ、いかりわかる。
彼女は声に元気がなかった。
ホントにかわいそうだ。

しばらくしたら、30日に北京から帰ってきたスヌちゃんから電話。
すごく晴れ晴れした声だ。
パワーもらってきたんだね、と私も喜んだ。
北京とスヌーピーは、彼女の栄養剤なのだ。

今日も暑い。
思わず、お昼寝。
夢をみたが、覚えていない。
昨夜は遍路道を歩く夢だったんだけどな。

陽が短くなった。
5時には暗いもの。

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7/31日の旅日記、アップ。
インデックスの7月からお入り下さい。




2002年10月04日(金) 今日は、暑い

扇風機をしまったのに、今日の暑さは何だ?

午前は、写真の整理。
午後は、少しややこしい問題(著作権譲渡)で人にあった。
おもしろいお兄さんがやってきて、まあまあと話を聞いた。
私は勿論「死んでも譲らない」と主張。
今後あちらのだす条件を飲めるかどうかはしらんが、いろいろと話してとりあえず、少しよい方向へ向きそうなのでほんの少しホッコリ。
帰ってメール。
愚さまより「よかったね」のお電話を頂く。
いろいろなお話もお聞きした。
お忙しそうのピークがこの先いくつかありそう。大変だ。

おもしろいお兄さんがくれたシュークリームをおやつにコーヒー。でかい。お腹一杯になった。とりあえず食べないと、「美味しゅうございました」とお礼のメールがかけないし、だった。でも太りそうではある。

新聞よりおもしろい話。
イスラエルとガザ地区の検問で。
イスラエルの兵士が、日本の特派員の荷物をチェック。
中には小さなノートパソコン。
イスラエルにはないサイズ。
兵士「動かして見ろ」
うごかすと、ガザの方の見張り兵士(モスレムですな)が寄ってきて「オレたちが戦争している間に、日本はこうやってこんな小さなパソコン作るくらい進歩してんだ、おれたちもはやく戦争やめんとな」
双方うなずく。
うん、正しい。早くやめろ!!
でもどうして、みんな平和がいいといいながらおわんないんだ?
ところで、このパソコン、ソニーのバイオのちっこいヤツかしら?
アタシがほしがっていたヤツかな?

日が沈んで涼しくなった。
写真整理(何と西国だよ)の続きをしようっと。

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7月30日の旅日記(アラスカ)アップ。
2002年7月をクリックして下さいね。








2002年10月03日(木) 住基ネット、って困る・・いまさら・・?

遅ればせながら、今日、「住基ネットの本人確認情報「非通知」の文書を郵送した。
先日あった友人から「あなたがいないうちに日本は大変なことになっているのよ」と岩波の「世界」のコピーなどドカンと資料を渡された。ついでに、申請をした?と聞かれて、おおそうだ、ということだった。
岡山市で市議をする先輩からも「住基ネット・・私たちを番号で呼ばないで」というお便りがきていたし。
とりあえず、「いやよ」の申請はして、またお勉強しないと。
なんか、私の住む横浜ではすでに40万人以上の人が申請しているらしい。
「住基ネット」基本は「個人情報保護法案」で、それが暗礁に乗り上げている。(・・・これが成立すると「マスコミなどは政治家の悪事などを暴けない」という。だから、私の愛読する噂の真相なんかは、お仕事上がったりで、あの有名な岡留編集長は、そしたら即廃刊、と言っていた、しかし、いずれにしろ、岡留編集長は2年後をメドに廃刊を決めているようだが・・残念だ!)

何だか、日本、だんだん怪しいお国になって行きつつある。
強面の中国や北朝鮮にも、完全に食われているし・・・
独断と偏見でいうと、日本列島て、もともと大陸で生き延びることができなかった穏やかで軟弱な人間どもが住み着いて国の形になったとおもう。
中国人の遺伝子は我らがヤマトンチュウなんかに比べると中国4000年の歴史を生き延びた人のものだからそもそもが猛々しく強靱だ。(中国に8回バックパッカーした体験で感じること)
乱暴にいえば、朝鮮、然り、である。
日本政府の弱腰をののしる人もいるが、そもそも我らは「軟弱・弱腰遺伝子」の持ち主なのだ。(つまりさ、平和好き・・私は悪いことではないと思うのだ)
株価の動きといい、この国の没落はすぐそこだあ・・と思う。
(株価低迷や消費の冷え込みはこの国の福祉政策がダメだからだと私は思う、老後はダイジョブよという堅固な政策ができればみんな持っているお金をボチボチ使うよ、だって貯蓄高はすごいんだから、世界一?よ。確か)
でも、まあ「無常」の世であるから・・ねえ。

午後から、毎日の講演会で瀬戸内寂聴さんをききにいった。
彼女の話は漫談のようにおもしろくて鋭くて明るくて私は大好きなのだが、本日も開口一番「こんなに少ないみなさんの前でお話ししたのははじめてです、宣伝がよくないんだわねえ」
そのとおり。
200人弱の会場はあちこちに空きがある。わたしはもしかして立ち見かもと思っていったのに、ね。
毎日の不行き届きだろう。
もったいない話である。
今年80歳だという。
若々しい、お元気。
頭もしっかり。
いちいち書かないが以下の話をごしょうかいしよう。
質問時間に「生前戒名」の是非がでた。
まず、「お寺がダメになったのは、信仰より経営の場になったから、学校がダメになったのは教育ではなくてやっぱり経営の場所になったから」という鋭いご指摘。
本来戒名でお金をお寺がたくさんとるのは自分もおかしいと思う。自分は頂いていない。が、それは、小説で稼いでいるからで・・
そもそも仏教で戒名を頂くというのは得度式なのだ。
仏教で葬式をしたかったら得度はしなければならない。だから、戒名をつけてから葬式をするのだ。
戒名がいらないという人は、仏教で葬式をしなければいいのだ。
生前戒名はもらった戒名がイヤなら、気に入らないから・・とかお金が高すぎたら、もうすこしお安く・・とかお願いできるし納得できる形でつけることができるのでいいと思う。
こんな話を「私が住職の天台寺の檀家はやっぱり小説家だから戒名の付け方はうまいわ、と褒めます。でもお経は下手だあ、あんなお経であっちいへいけるんか心配になる、などと言うんですよ」
などと、と笑わせながらの話だった。

渋谷で本屋に寄って阿波公方さまおすすめの「空海入門」(ちくま新書)を入手。
写真美術館のブックショップで川端龍子の「四国遍路」(小学館文庫)を入手。お参りしながら彼が書いたスケッチだ。なかなかよい。

帰宅して、今朝の残りのウインナソーセージを肴にビールで喉を潤したら、もう眠くて目が開かない。爆睡。
10時過ぎに起きて、遅い夕食・TVとこの日記のアップ。
ヤレヤレ、太るよなあ、こんな時間にご飯食べていたらさ。
ではまたお休みなさい。



2002年10月02日(水) 台風一過

昨日とうって変わったよい天気だ。
まずは洗濯だ。
その後、溜まっていた手紙の返事などの処理をした。
旅の写真をやっと出した。

帰りがけ、農協の販売所で美味しいキムチ、パンベルジュで大好きなフランスパンを買った。

こんなことをしていると、アッという間に一日が過ぎる。

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7月79日の旅日記(アラスカ)アップ。
インデックスから、2002年7月をクリックして下さい。



2002年10月01日(火) じんときた・・・

雨だ。台風がきている。
しかし「遍路と遍路文化展」の座談会の聴講券がきているので、いかねば。
出がけに電車で読もうと、昨日郵便受けにあった「あしながファミリー」を持った。

あしなが育英会と私の関わりは、年末に自分も含めて周囲の人に呼びかけてする募金をお送りしている(名無し会)だけなのだが、あしなが育英会の会報が数ヶ月に1回のワリで届く。
今回のニュースは「ニューヨークとアフガンが友だちになった・・日本の夏に集った世界の遺児91人」。NYのウオルター(10歳)のお父さんは昨年の9/11日、貿易センタービルで働いていて亡くなった。彼はショックで目が見えなくなった。お母さんは、かすかにでも見えるうちに世界を見せたい、国遺連(国際遺児連合)の集いで何かが変われば・・と来日した。だが、彼は当初誰とも話さず、一人きり。
そんな彼に「ハロー、トモダチ」とアフガンの少年サルダール(13歳)が声をかけた。彼はおさない頃に両親を内戦でなくし、自分も1年半前に左足を地雷でふきとばされた。出生証明書がないので、日本に来るに当たってパスポート取得が大変だった。
そんなサルダールに声をかけられてからウオルターは、少しずつ人の輪にはいるようになった。二人は「トモダチ」になった・・・
そして、ウオルターはあんなにいやがっていた父の話を、自分史発表の時間に話した。
サルダールは「戦争の結果は、これ」と義足をみんなの前で見せたという。
読んでいて、眼がウルウルしてきた・・
しかし、アフガンの子のの絵には「米軍機」「燃える爆心地」「お父さんの死体」の絵が必ずあり、NYのこの絵には「崩れるツインタワー」が必ずあるという。
ブッシュは、今イラク攻撃を強行しようとしている。
また、こういう不幸な子どもたち、どうしょうもない心の傷を持った子どもたちをつくりだそうとしている・・許せないよな・・旅をしていると冨が偏在していることを身にしみて感じる。太って、部屋から出られないくらい食べることができるアメリカ、一方で栄養が足りなくて路傍で息絶える人もいるアフリカの国・・・。
アメリカはこれ以上、罪を重ねない方がいい。
戦争の傷、いつも、子ども、女、老人、に来る。
ブッシュは悪魔よ、と私は思ってしまう。

もうひとつ、うるうるしたのは(いや、この新聞っていつもどこかでウルウルさせられるのだ)、ウガンダの子どもたちのこと。
かの国の遺児たちはエイズで両親を亡くしている子だ。
3人の子どもたち、帰国前におみやげを買うように支給されたおこずかいを、帰ったら学校の授業料にするから使わなかったのだという。
こんなにも学校に行きたい子がいる・・かたや、不登校数十万の国がある・・・
これも世界の不平等、偏在だ。

 ***あしなが育英会ミニ知識***
親を自死、事故、病気災害でなくした子どもたちを経済的、精神的にバックアップする会。経済的に困っている遺児たちに奨学金を出している。(日本育英会とは違う)
神戸のレインボーハウスは、遺児のための心のケアハウス。神戸の震災遺児から始まった「心のケア」が、今回のような集まりに発展した。
私は年に1回だが、継続的にする500円玉募金などというのもある。
バブルがはじめて以来、失業率が高まるにつれていつも資金的にはピンチ状態がつづいている。
自分もやろう、という人は以下が連絡先です。

  *あしなが育英会 TEL(03)3221−0888 
 
  *****************************

★・・・・・ここでおねがい!!!・・・・・・・・★

これを読んで下さっている我が友人、知人の方々よ、
今日から、恒例のあしなが育英会にお送りする「名無し会募金」始めます。
今後、バックに袋(「名無し会袋」)をもっています。
お志がおありになるようでしたら、私と会う節はご喜捨をよろしくお願いし致します。「大河の一滴」ですが、でもそれが集まれば・・・すごいですよね。

 ★・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★


さて今日の「癒しの空間・・四国」の座談会
 *ご出席者 善通寺管長さん、霊場会理事74番のご住職さん、徳島立江寺のご住職(午後からは地蔵寺のご住職)土佐金剛頂寺のご住職、愛媛大山寺のご住職、大正大学の加藤精一教授 司会は6番のご住職
すごい顔ぶれだが、席は空席が目立つ。
台風接近の雨のせいもあろうが、宣伝不足とのご住職だけではやや地味かな。
四国四県の説明から始まってやや凡庸。でも、ご住職さんたちのお四国のなまりというか雰囲気がなんかなつかしくて嬉しかった。
休憩時間、管長さんや74番さんのご住職さんなど存じ上げている方々にご挨拶したら、あなたも控え室にきなさいよって気安くつれていって下さった。
聞けば、昨日からおいでになっていたのだという。
ご苦労さまでした。
大正大の加藤教授の「十住心論」の話はおもしろかった。
質問時間に「何故、霊場会は境内の托鉢禁止を張り出したのか、本来托鉢は尊重されるものではないのか」という質問が飛び出した。
「金札で、お金を無心する人がいるので、托鉢というより、利用する人がおるんですよ」という話を理事の74番さんがなさった。室戸の金剛頂寺さんは「托鉢をします、と許可をとってすることにしているところもありますよ、それに托鉢というのは門前に座って、手を出すのではなくて家々を回って経を読んでそれでお受けするものではないですか」
それ、正しいと思う。
これに手をたたいてそうだ、と賛同するおじさんがいた。
このおじさん、会が終わって出るときに質問した人に「アンタ、どこの回しもんだ?」とわめいた。
質問した人は、私の後ろの席ににいたので、私は一瞬びっくり。
振り返ったら、質問した方は苦笑いしていた。

展覧会も見た。
内容的には、1999年に四国であった「空海の何とか展覧会」の方がはるかに立派。見応えがあったと思う。
善通寺さんからは、かの寺の国宝2点が出ていた。
写真はおもしろかった。
ワタシ的にいうと、これが一番の見所かな。

外に出たら、すごい風、雨。
大型台風の接近だ。
早く帰ろう、だった。


 






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