世界お遍路 千夜一夜旅日記

2002年01月31日(木) 第37夜 ★ハワイ マウイクジラ日記 at リアルタイム ★ 

ハワイ時間 1月30日<日本時間 1/31> 
           ハワイ マウイ島 カアナパリビーチホテル泊
 成田発21時45分。JALのリッゾチャとかって便で、スッチ−がアロハシャツでサービスをしてくれる。リッゾチャカクテルなんてのもあったりして、トライしたが甘かった。「おいしんですか」とおろかなことをいったら、橋爪功顔のスチワードのおじさんが「そのはずなんですが;;;;;」なんてにこやか。安旅行しかしない、マイレージはANAの私にはJALはちょーおひさしぶり。やっぱANAと比べてしまう。ANAの方がスッチ−は若い、英語はJALがうまいとでましたね、私の感想、でありました。
 子供を連れた客も多く満員。私と連れのMさんはそれぞれ前後の通路席をもらったのだが、彼女の隣りの母娘、母は腕に入れ墨の模様。5歳くらいの娘とはほとんどしゃべらずずっと映画を見ていたそうな。対して私の隣の母息子。母は、携帯を切るようにというアナウンスを無視してメールをしていた。着陸間際には、小3くらいの息子にハワイのガイドブックを音読学習させていた。息子、かなり読めたが、。。。学校は休んだのか、不等校なのか・・・どっちでもいいがいい体験をすることを祈る。
  
 6時間あまりでホノルル着。着陸50分ほどまえに飛行機は気流の悪いところに突入。すごく揺れた。何しろ、スッチーもサービスをやめて着席したくらい、すごかった。私は寝ていてもらいそこねた税関申告書を書いていてすっかり気分が悪くなった。あきれて笑ったのは、飛行機の中の入国書類が切れていたこと。そりゃないでしょ、JALさん。おかげで審査の前に書くことになってえらく手間がかかった。

ゲートをでると、手配旅行社の担当さんがアロハ航空のカウンターまで連行?至れり尽くせりなんだわ、とこういう旅行をあまりしない私はびっくり。

アロハのチェックは結構きびしいものがあった。
そうそう、JAlL抜き打ちアトランダム検査にMさんがひっかかり調べたバッグをその後ぐちゃぐちゃで返されて怒っていた。
「調べてもいいけど、こういう返し方はないだろう」

マウイ、またまたお出迎え。ホント至れり尽くせり×2。
その後、ラハイナ方面に向かう途中、ないだ海にクジラ3頭確認。おお、さい先よし。2頭はウオッチ船が追いかけていた。お迎えにきてくれた女性によるとここでクジラがみられることはよくあり「そうすると、みんなみたいからとまったりのろのろ運転になったりして、クジラ渋滞が起きるんです」だとか。
ホテルは、一昨年訪ねたホエラーズビレッジのとなり。うれしい。

3時に部屋にはいってシャワーとごろごろ。夕方、5時過ぎに、シャトルバスでラハイナに向かう。
ちょうど夕暮れタイム、ハーバーの夕景が美しかった。
私が止まりたかった「パイオニアイン」やハワイ王朝発祥の地、真言宗のお寺、等々をMさんにご紹介。日が暮れたのでせめてと「かつてのクジラ捕りどもの香り」でもと、パイオニアインのグリルで夕食。
サラダとパスタ。すごいりょうに負けた。ビールも雰囲気も良かったが。。。味は・・アメリカにうまいものを期待してはいけない。

帰り道にみた満月がきれいだった。
やっぱり、やすいから、ワイキキで我慢ということにしなくてよかった。マウイはいい。

明日は日本語ガイドによるクジラツアーに行く。60ドルは高いと思う。けど、いろいろ乗って比べてみようと、、、。

それにしても、寒い日本から来ると、体がほぐれる、いい気持ちだ。


出費
チップ 1ドル  バス 2ドル 夕食 チップ込み 17,5ドル ビールやつまみ 12,5ドル 
カードヴィザ WW 60ドル  電話 JCB使った分と保険2ドル

日本で 旅行保険 3020円    
夕食 1200円<サンドイッチ、ビール>



2002年01月30日(水) 第36夜  万里の長城をはしごする 北京 日記

一日目から読みたい人は前の日からはいって下さい。

***** 第三日 ***************

 早起きして「遊2」のバスに乗った。
 これは、最近公開された居庸関といわゆる人が万里の長城というバーダーリン長城に行く人民用の観光バス。
 お上りさんの中国人たちは、よく食う、しゃべる、唾を吐く・・隣にいた男は私に話しかけて「私は話せない」と言ったら「話すじゃないか」と、怪訝な顔をしていた。
バカ、「話せない」と言うことが「話せる」だけなんだよ。
 
 高速道路をバリバリ走ってついた居庸関はきれいに修復しすぎ。新しいもの、切りなものが好きな中国人らしい直し方だ。
 バスで、売店で買った絵はがきを見ていたら「いくらだった」と、となりの男。
「8元」と答えたら、肩をすくめていた。
 まずはブツの価格を聞く中国人、健在であった。

 バーダーリンについた時点で団体バスとさよなら。
 ゆっくりと回るつもりだ。
 7年前にはなかったロープウエイにも乗ってみたいし。
 919番公共バスの乗り場をガイドの女は堂々と教えてくれたが、これが大ウソ。知りもしないのにオオウソ教えるなよな。この辺の中国人気質もお変わり無し、だ。
 バス乗り場まで連れていくというタクシーにだまされそうになったが、うんちゃんに「公安に行こう、公安だ、アンタはよくない」<公安・・・警察のこと>
 と連呼したら、金は要らないと言った。
 私は5元投げつけてやって降りた。初め50元といったんだぜ。3分乗るだけなのに。
 
 バーダーリンもきれいになりすぎ。びっくりした。
 小汚い田舎の村だったのに。

 夜は京劇見学。
 長安戯劇院。劇場は立派だがダメ。
 がっかりした。
 ガイジン相手だと思っているのか、芸がだれている。

**** 第四日 **************

 またしても早起きで、あまり修復がされていない長城、司馬台長城へ。
 まず、人がぎしぎしにつまったバスで、密雲へ。一時間半。
 つくと、タクシーにラチされそうになったが、何とかミニバスに乗り込む。司馬台へ。ミニバスはおばちゃんの運転。運転も怒鳴りながらも慎重だった。
 いいおばちゃんだった。
 一応北京なのに、田舎だった。いや、どんどん田舎になった。
 路肩で農家のおねえさんが山盛りの柿を売っていた。
 長城はよかった。
 直してないところが風情で。
 でかすぎて、急すぎて、ロープウエイを有効活用しないといけないが。
 日本人は1団体だけ見た。
 バーダーリンはウジャウジャいるのに。

 帰るのが大変だった。
 ミニバスがないんだわさ。
 やっとつかまえても、100元とか80元。ふっかけてくれるよ。いわく「ガソリンが高いんだ」。これはウソではない。去年からどこの国でもいわれていることだ。
 アラブ産油国の陰謀だね。
 ボロい車の、人のよさそうなおっさんがやっと30元で密雲まで行ってくれることになった。
 田舎村で、日が傾き始めたときはどうしょうかと思ったよ。
 でも、村の人が親切にしてくれたね。ジイちゃんなんて、この村に泊まって明日の朝に戻れ、なんて言ったもんね。そりゃ村に宿屋はあるけど、今や外国人も泊まれるだろうけどあんまり泊まりたくないよ。南京虫がいそう・・・で。
 明日帰るから不可能と断りましたけどさ。
 オッさん、自分のとなりに乗せた私からは30元。後ろの荷台では途中でつかまえたふつうにお客<中国人>を乗せている。だまされた気もせんではないが、しかたない。あの時、貸し切り状態だったんだから。

 司馬台の長城、よかった。明の時代の空気が漂っていた。写真がないのがグヤシイ、またしても (-_-)
 興味のある人は挑戦してみて下され、少し中国語ができないといけんかもだけど。
 中国人のエネルギーにまけなければ大丈夫。危険ではない。

 ホンマモンの京劇が見たくて人民劇場まで行ったのにお休みだった。
 帰り、菊茶、ヒマワリの種(塩辛いヤツ)を買った。
 この日の夕食、露店で買ったでかい焼き芋、同じく露店の焼餅<中国風のパンケーキ>
 本のおやつのつもりだったんだけど、どちらもボリウムがあってお腹いっぱい。総計4元の安さ。いいのか。でも、まあ、ふつうの日本人だったら、屋台の焼餅なんか食ったら、腹こわすだろうなあ。マネせんといてくだされ。
 あ、いつもお世話になっている鍼灸医さんにきいたよく効く下痢止めも買った。これから、奥地に行くという日本人の男の子にもすすめた。
 昨日京劇を見に行って隣りだったんだけど、この子はまともだった。
 
 帰国の朝、同じ部屋にいたガイジン(白人)さん二人と話す。「中国人だと思っていた」といわれた。彼女たちは、オーストラリア人だった。
言動が静かで謙虚だし、アメリカ人じゃないなとは思っていたが。(もっとも、ユーゴ?の中国大使館誤爆事件以来アメリカ人は中国でアメリカ人といえなくなった・・・でもアメリカのこと、美国<メイグオ>というくらいで中国人にとって憧憬の対象であることに変わりはないと思うが)
「本国では、マックはスキだけど、中国のマックはきらい」
 私が通りにあるマックに朝食を食べに行くといったら、彼女たちはそういった。
 うん。
 その日、わたし、マックに行ったら、コーヒーがなくて勝手に紅茶にされそうになった。「私はコーヒーが欲しい、紅茶じゃない」
 とつよよ〜〜く言い張って紅茶を拒否したが、バカ。コーヒーのないマックなんてマックじゃない、ってことがわかっていないのがこわい。
 オージービーフじゃない、オージーガールたちの怒りがわかった。
 やっぱり、中国人は偉大なる田舎モンですわ、いまだに。
 
 北京空港で購入した「長城ワイン」、美味しかった。
 1997年。上海で買ったワインは砂糖が入っていて、飲める代物ではなかった。
 ワインの味は王府井くらいに変わった。
 
 関空から羽田に乗り継いで帰国。
 日本も秋になっていました。

>>>>>1月30日 本日のできごと>>>>>>>>

 午前、旅準備、クジラレター発送。
 愛媛のO氏より伊予柑。手術のあとはいかがなのだろうか・・。気になるが。
 4時すぎにうちをでて、Mさんとハワイへ。 Mさんのご主人が成田まで送って下さる。 感謝。

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2002年01月29日(火) 第35夜  七年ぶり・・・北京 おなつかし日記

 朝11時にでたバンコック、北京にはほとんど夕方着きました。
 乾燥しきった空の色。夕焼けが異様にキレイです、しかし寒い。
「北京的秋天 最好」<北京が秋が一番いい、美しい>と習ったことを思わず考えるなり、北京の夕暮れ、であります。
 
 そう、「北京的秋天 最好」か? をチェックするために来たような北京。4日間の滞在です。
 ホントはスヌちゃんと待ち合わせるはずだったんだけど、お仕事が忙しいらしくてダメになりました。
 趣向を変えて、日記メモふうに記録していきましょう。

 *** 第一日 ****

 空港で「国際飯店」行きのバス<民航班車>をきいたら、英語で答えようとする北京人にびっくり。オリンピックのおかげ?
 無事についたが、私の目指す国際飯店YH(青年旅遊宿舎)は、ゴージャスなホテル裏の寂れた建物。
 まあ、一晩50元だから文句はいえんが。
 受付の若い女はにこりともしない。国際飯店ゴージャスホテルの受付で、ここの場所をきいたんだけど、そのときは愛想良かったのに、えらいちがい。
「アンタは電話で予約したのか?」
 どうやら、私の予約がいないようだ。
 まあ、中国。そんなこともあるでしょう。
「そう。話した人は男だった、約半月前」
 すんなりと通ったが、これが満員だったら、一悶着起きるとこだった。
 同室者は上海から来た親子。
 2週間滞在して北京をしっかりと見物するんだという。
 かつては、中国人と外国人のホテルは厳然と分けられていた、中国人と同室に時の流れをしみじみと感じる。
 記憶の底にこびりついていた微々たる中国語で、上海人親子と話す。
彼ら、フレンドリーで親切だ。
 
 食事をしに北京駅ちかくの食堂に行ったら、私が食べているわきで男が唾と痰を吐いた・・やっぱりやるのね、そのくせ直っていないのね。どれだけきれいなカッコしても・・私は気持ち悪くなって吐きそう・・。
 笑顔のないレセプション、痰・唾・・中国人は変わっていませんでした。
 わすれるとこだった、トイレもくさい。
 れいのごとく、使用済みトイレットペーパーかごがあった。この辺も変わってないわーあ。

***** 第二日 ********

 ホテルを出て、建国街大街通りを歩き始めたとたんに道を訊かれた、それも続けざまに。
「私は知らない、外国人だから」
 というと、初めの女性は「リ−ベンレン マ? ソーリー」ときたもんだ。
 次の男は「ちっ、リーベンレン」という感じで。
 
 とりあえず王府井へ。もう変わりすぎ。ホコテン、けばいビル。こぎれいな土産物屋。
 どうしたの、王府井・・状態。
 マックは言うに及ばす、あらゆるファストフードがある。
 
 ボチボチとなつかしい景色を求めて北へ。
 北馬司<ベービマス>あたりまで行くと完全になつかしい景色あり、だ。
 一ヶ月お世話になった中央戯劇学院がある東綿花胡同はかわっていなかった。ただ、そのころあったお店はきれいになっていたが。
 いつも昼にいっていたきっちゃない水餃子屋はなくなっていた。
 スヌちゃんが、昼飯にレーメンを食べていた学校の門真ん前の店はきれいになっていた。
 1ヶ月滞在の最後の日、ヤマちゃんと、スヌちゃんと三人で昼にいったら「今天算了」<今日は、金、要らない」>とぼそっと言ってくれたおっさんはおらぬかとのぞいたが、いなかった。
 
 今日はセンチメンタリジャニーだった。
 陽が落ちると真冬のように冷えこむ。息がしろい。
 天安門あたり、空気が悪すぎて排気ガスでけむっているよ。北京市民、喘息の人が増えたんじゃないか?
 町中に車椅子の人が目立った。

 
>>>>>>1月29日 本日のできごと>>>>>>>>>
 寒い朝。富士山がくっきりである。
 クジラレターを書く。10号なので、第2部突入で、継続の申し込みお願いのお便りも入れないといかん。忙しい。

10時前、スヌちゃんから、気をつけてね、という電話。ありがとう、です。

 夕方近く、kさんが「明日、気をつけていって」と、かわいいネコのはがきと共に来てくれた。彼女は、Mさん<ハワイに同行>も私も、忘れる、アッというドジを踏むことを心配しているようだが、まあそれはKさんもそんなとこあるしな、同病相哀れむってとこか。
足の踏み場がない状態の我が部屋だったが、あがってもらって、一緒にコーヒータイム。Tさんからもらった横手名物の柿羊羹がうまかったっす。

 新聞社のS氏から、PCの新種ウイルスについてのFAXをいただく。添付を開くと移るというタイプみたい、クワバラクワバラ、だ。

 まだ、やることがいくつも残っている。夕飯食べているヒマもない。カップヌードルだ。今度はわすれんようにしないとな。

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2002年01月28日(月) 第34夜 チェンマイからバンコックで考えた  

 毎日の雨。ほとほといやだね。
 雨が好きって人がいるけど、あたしはぜったい「太陽の子」だと思いますね。
 でも、お日様が好き・・いいけど、これは文学的じゃないなあ。
 
 今度は乾期に来る。そして象トッキングでタイの山ん中を歩くぞ。
 と決心してホテルをチャェクアウトしました。
 エアコンつき、乗ると一番前に黄色い衣を着たお坊さん。私のチケットを取り上げて、ここへ座れと自分の後を指します・・なんなんだあ?でも、みんな彼に従います。
 ヤッパ、タイはお坊さん、エライだわ、切符もふつうのと色がちがっていたし。
 
 チェンマイ着12時30分。
 大降りの雨。
 例のごとくタクシー運転手がわらわらとよってきました。30バーツのところ<ツーリストインフォのおネエさんがそういった>を60とかってふっかけます。
 そんなことで、彼らを蹴散らして、ソンティオに乗車。20バーツのホテルちかくまで行きました。
 ふっかけられなかったのは、ひとえに教養ありそうなタイ人のおじさんが降りるときに運転手に声をかけてくれたおかげ。感謝。

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 ホテルのレセプションのニイさん、メーサイはどうであったか、とききます。
「エブリデイ、レイニイ」
 と私が一言答えると、彼、笑いました。
 雨が、私から「やる気」みたなもんを奪っている・・部屋でしばらくごろごろしてから町にメールチェックに出かけました。
 
 夕方。
今日は祭りなんです。
. 雨期終わる前祝いのような灯籠流し祭りです。
 食事をして、タイ式足マッサージをして気持ちよくなったところで、ピン川の近くに行きました。
 花やヤシの皮を使って実にきれいにデコレートされた灯籠流しの花舟。そこにお線香を立てて川に流すのです。あちこちに売っています。家族や友達、学校仲間がにぎやかに楽しみながら売っているのです。私が話しかけた高校生の男の子たちは、花舟を売るよりも爆竹を飛ばすのを楽しんでいたもんね。
「売れたの?」ときくと笑いながら「売れない」。私もあはっは。
 なんかすてきな祭りです。
 ロウソクの明かりの中で笑顔が揺らめいているのです。

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 ナイトバザールをウロウロしていたら、「日本のエイズ患者とタイのエイズ患者のかいがつくっているお店」というのにぶつかりました。
テディベアやバッグ、藍染めなどを売っています。
テデイベアが売りらしいのですが、私にはここのテディの顔がどうしてもダメで、藍染めやバッグを買いました。
 テディベアはむずかしいですね。生活がでたらダメなんですね・・・夢、売るんですね・・そんなことをかんじました。
ボランティアで店員をやっているという若い女性はすてきな笑顔の方でした。

 お腹具合がよくないのにまたビールを買ってしまいました。
 タイのビールはうますぎる・・・

 ナイトバザールにあやしげなお店もたくさんあります。そこのきれいなおネエさんたちに沈没している欧米系の男の姿が目立つ夜でした。

☆★☆★☆

バンコック。
北より暑い、雨は夕方のみでした。
タイの雨期は去ろうとしていました。
 空港で予約したスクンビット通りの安ホテルに投宿。
 昼寝をしてから、夕方近くエンポリウムにお寿司を食べに出かけました。
 
 北から帰ると、バンコックの町がバブリーに見えます。 
 
 ホテルの受付にいたおばさんは愛想がないけど、悪くはなかった・・しかし、一晩中ひっきりなしにエレベーターが動いていたのがどうにもあやしい・・・。
 おヒマなタイは、若いタイ女性に沈没している男が目立ちます。
 

>>>>>>1月28日 本日のできごと>>>>>>>>>>>
 
 朝、松山のTさんからのメールならぬFAXで、起きる。彼女、ウイルス感染からメール恐怖症。立ち直っていない。ワードだけでいい、もうインターネット止めようか・・なんて。そんな。
 徳島行きのお金の振り込み、校正原稿の発送、などなどしていたらお昼になった。
今日こそシグマリオンを立ち上げると始めたもののアクセスポイントがわからず立ち往生。
 時間切れで夕方渋谷。T出版のY氏に農系の本の提案。
 月がきれいな宵。
「和歌山あたりで見る月とくらべると、この辺でみる月は大きさとか全然違って同じ月とは思えないですよね」
 Y氏の言。
 わかる。私も四国の夕日と、うちの窓からの夕日が同じ太陽とは思えないことがるもんなあ。
シグマリオンの設定するぞい。
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2002年01月27日(日) 第33夜 ゴールデンサークルは健全だった?!    

 昨夜、ビール、トムヤンクンの飲み過ぎ食べ過ぎで、お腹は下痢状態。これ、まずいヨー、でもめげずにゴールデントライアングルに出発です。

 ソンテオのおじさんドライバーと値段交渉していたら、アメリカ人ニイさんがチェンマイへ戻るバスの時間まで10分しかない、とかって割り込んできました。
「いいよ」と一緒に乗ったものの、走りながら交渉すると、おじさんは足元を見て50バーツという「NO!!25バーツ」「NO、30バーツ」これで成立。
 アメリカニイさん、お口あんぐり状態で見ていましたが、わたしが15バーツを出して「半分ずつ」といったら「要らない、交渉してくれた」と言います。
「私もバスステーションにいかねばならない、だから払う」
ニイさんは「ありがとう」と言って受け取りました。

 でも結局、アメリカニイさん間に合わず。着いたらバスは出ていました。アメリカ人ってどうしてこうなんだろね、おばかさん。ゆとりってモンを持てよ、ここは外国なんだからさ。

☆★☆★☆

 また九時発、チェンライ行き。
 昨日のバスでした。
 途中、検問で若い男がひっかりました。ホールドアップをして、身体チェック、荷物調べ、15分近くもストップ。
 車掌のネエさんが険しい顔で見守ります。乗客たちも押し黙り、固まり、じっと嵐が通り過ぎていくのを待つかのようです。
 どうも彼、身分証明を忘れたみたい・・でした。
 国道沿いのチェンセンステーションで降りて、メコン川ぞいの古都チェンセンに行くのローカルバスに乗ります。ここから、ゴールデントライアングルいきの舟やバスが出ているのです。
  田園風景の中を走ること1時間弱。場違いなほどにぎやかな町に着きました。
 博物館を見た後「竹ずつに入ったおこわ飯」を買い<夜、ホテルで食べたらうまかった> それを刀のように持ちながら、船着き場に向かいました。

but  舟はひとりだと500バーツとべらぼうに高いのです。
 交渉してもダメ。
 メコン川は濁流で、雨期で水量が増しているのでしょう、グアングアンと流れています。
 怖いくらいです。よーしやめ。バスじゃ。
 タクシーに乗らないかという声を断って、ソンティオ乗り場に直行。これは5バーツだもんなあ、ヤッパこれだよ。
 
 ☆★☆☆★

 
 さて到着したゴールデンサークル、かつては麻薬取引の中心地、悪の巣窟、みたいにいわれていたが、その面影もありませんでした。健全な観光地。何しろ、高級ホテルがたってんだから。土産物屋が軒を連ねてさ。
 
 **** またまた唐突にゴールデンサークル講座 ****

 ゴールデンサークル、という場所<地面>があるわけではりません。正確にいうと、ビルマから流れてきたルクア川と、ラオス側から流れてきたメコン川がぶつかるところ、川のまん中に国境線の交わるポイントがある。つまり、タイ、ビルマ、ラオスがここでまさに接しているというわけ。
 付近に住むシャン族がアヘン栽培をしていたのだが、今はしていません。「している」状態なのは、ビルマの奥地の村。今も進行形なので、昨日のニイさんが、厳しく調べ上げられたわけです。
 タイはビルマから、アヘンが持ち込まれることに目を光らせているのです。

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 対岸のビルマには大カジノ、もう一方のラオスにはフリーバザール・・で、まさに国際的観光地となりつつある、というのが今のゴールデントライアングルの姿です。

 ひとつだけ記念碑的にあるのは「オピニュウム博物館」。
 オピニウムとはケシです。
この花の実にキズを入れて白い液を取り、それを樹脂に加工するアヘンの出来上がり、なんですね。この博物館にはそんなことがわかるようんな展示、アヘン吸引の道具のコレクション・・などが並べてありました。
 吸引の道具はホントに凝っていて、手垢にまみれていて、なんか不気味であやしくて・・行く人は見るべきでしょう、なんて観光案内までしてしまう私なのです。

 メコン川では、村の女たちが大きな網に入る小魚を捕っていました。食べるには小さすぎる・・と見ていたのですが、もしかしたら「魚醤」みたいなものをつくるのかも知れません。

 外国人観光客が来ると、華やかな民族衣装を着た小学生くらいのグループがまとわりつきます。一緒に写真を撮ってお金をもらうのです。
 そのお金を仕切っているのは高学年の男の子。ひとまず集めて、また分配しているのです。北に来るほど貧しい印象を受けるのですが、子どもは逞しく明るいのです。
 ひまな私はその子たちをしっかりと半日も観察して、冷やかしてしまいました。
 
 おかげで最終らしい?<気まぐれなんだわ> ソンティオに乗り遅れて350バーツもはらってメーサイのホテルまで帰ってきたのでした。
 
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 ゴールデントライアングル付近、今は平和です。
 やがて、源流である中国から、川の流れのままにラオス、タイ、カンボジア、ベトナム、へと船で旅することができる時がくるかも知れないと思いました。やっぱり平和が大事、ですね。
 
 
 >>>>>>1月27日 本日のできごと>>>>>>>>>>>
 
 昼から、晴れた。
 夜のお月様はまるで春先が近いような・・いいのか、まだ寒のうちだぞ。
 昼近く、kさんより「ハワイ、気をつけてね」のTEL。Iさんからも「気をつけて行ってらっしゃい」メール。愛知のM氏からも昨日「気をつけて楽しんできて」のはがき来信。みなさん、はい、どうもありがとね。
 校正と挿入の原稿書き、けっこう手間取って、いつの間にか日が暮れた。トホ、です。
 コピーを取りに行ったセブンイレブンでお豆腐焼きプリンという新商品を買う。
 新商品を見ると試食したくなるのは私の病気です、ね。
田舎にもハワイとその後のお遍路のこと。FAXで知らせた。
 
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2002年01月26日(土) 第32夜 国境の町 メーサイ 国境って、なんだろか?     

 またまた雨。
 チェンライのホテルはタイの伝統建築が売り、とういうふれこみ。確かに凝った彫りや造りだったのですが、レセプションのおじさんの感じよったのですが、なんかベッドに虫クンがいたような・・・。お尻のあたりの「柔肌」がかゆい・・前に中国で南京虫に食われたときと感じがにています。

 オープンカフェふうの食堂でご飯を食べていたら、近くにいたタイ人の奥さんが話しかけてきました。
「日本人? ひとりなの? タイを楽しんでいってね」
 きけばバンコックの人。簡単英語だけど私にはちょうどいい。ヤッパ、バンコックの人はちがう・・ねえ。
 お給仕してくれた少年、多分中学生くらい。学校はどうしているのか、と気になるよ。

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 9時のメーサイ行きバスに乗るためにタクシーを頼むと来たのは民営のりあい小型バス。<ソンティオ>「降りるとき、20バーツを払うように」とホテルのおじさんはいいます。
 町にはいると、なんと、ひとりのおじいさんが乗ってきました。貸し切り状態なんだから、これはルール違反。
 このじいさん、そんなことはおかまいなく運転手にあっちに止まれこっちに止まれと指示します。あげくに朝食のマントウ見たいなヤツを買うので待てと・・。
 おいおい、やめてくれよ。遅れるジャン。
 私が運転手の後の窓をたたくと、運転手はうなずいてじいさんをおいて走り出しました。
 町は泥だらけ。連日の雨のせいです。
 バスステーションで、引きずりザックも泥だらけになりつつあります。
 
 バスに乗り込んだものの時間になってもでません。
 客があつまらないので、バスの運転手も、車掌のネエさんも「メーサイ、メーサイ」と客を呼び込んでいます。このあたり、中国のシャオゴン<小型民営バス>なんかとにています。
 時刻なんて関係ない、バスをいっぱいにしてでることが大切なんだよね。
 待つうちに、あの、私が置き去りにしてきたじいさんがやってきました。
 のったよ、じいさん。
 なんとじいさん、ドアの入り口で、客を仕切り、走り出すと車掌のネエさんを差し置いて、入り口で方向指示を出しています。おもしろーい。なんなんだ、あのじいさん・・車掌のネエさんは、勝ち気そうな人ですが、じいさんに任せて、自分っはゆったりと座っています。バスの車掌やりたい常連客・・なんだね、きっと。
 
 田園風景の中をバスは走ること1時間半。途中に検問があったが、バスは無事に国境の町、メーサイに着きました。

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 私の泊まるワングタングホテルはなんと☆が五つ。デラックスです。7階の部屋からは雨にけむった町や山、国境を越えようとする人々ののにぎわいが見えます。

 少し休んで午後1時、いよいよビルマへ入ります。
 パスポートコピー2枚と50バーツでハンコをもらって、パスポートをあずける。ゲートをくぐり、橋を渡ってビルマ側の検問所で、5ドルとパスポートコピーをあずけてさらに紙をもらう。これで国境越え終了。
 地元民らしき人々は緑色の通い帳のようなものを持って入っているようです。

 それにしても、手続きも含めて立った15分で文字がビルマ語になり、町並みが汚くなり、貧しくなり・・人々の衣装が少し変わり・・・国境ッテなんだろうと、あらてめて考えさせられます。

 またまた客ひきを蹴散らして、町の通りをうろつきました。
 突然、黄金の塔が見えてきました。
 いってみよう。
 レストラン、と英語で書いてる店で焼きめしとスープ、ビルマビールを飲んで腹ごしらえをして出発です。チャーハンはうまかったです。ビールを含めて60バーツ。安くはないけど高くもないか・・・。<タイバーツが使える>

 黄金寺院で出会った少女たち、何とも素朴でかわいかった・・おねだりをしにきたのだが断ると無邪気におはじきみたいな遊びを始めたモンね。
 彼女たちもそうだが、大人の女たちも顔にシロや黄色の粉をぬっていて異様・・タイの女はしてないのにどうしてビルマ側だけなんだ・・売っていた店のおばさんにきくと「顔の栄養」なんだそうな。
 
 国境の町は要するに安物市場。
 時計や電化製品、衣類が安い。しかしたいてい中国製。見るからにクオリティは低いって感じのもので。
 後は、金と玉。これは、中国人が好きそう。
 実際、町にはタイ語ビルマ語と並んで中国語も通じる世界でした。中国語で「ヤオマ?」<要らない?>と話しかけられて「ブヤオラ」<要らない>とかって言ったら完全に中国人だと思われていたみたいで・・・。
 けっこう混沌としたあやしい世界です。
 国境って、なくてもいいじゃないの、ここにいるとなんかおかしい感じがします。
 街角で売っていた甘栗を買いました。これはうまかったです。

 泥だらけのビルマの町で光り輝くのはカラオケの店です。
 一歩路地を入ると、鶏や豚みたいなヤツが散歩している村風景になるのに、そんなところにキラキラとカラオーケ。これはチョー異様でした。
「日本の悪しき空気」が流れていた・・。

☆★☆★☆

 国境は5時になると閉じられます。
 とたんに町は深閑として、そのうちに国境に通じるメーサイの大通りには屋台が軒を並べ始めます。そしてにぎやかさ復活。
 メーサイは一日中、お祭りしているような町でした。
 


>>>>>>>>>1月26日 本日のできごと>>>>>>>>>

 夕方から雪か雨らしいけど、めげずに洗濯をしてしまった。昨夜?深夜2時にイブリガッコ(秋田名物・これ、うまいんだわ)でお茶づけを食べたら、今朝は胃が気持ち悪い。
昨夜はお腹空いて家の中で行き倒れそうで・・つい食べて・・。これは反省。
 書き出してみたらハワイに行くまでに片づけないといけないこと、16ヶもある。
 やばいよな。
 ンでも、昼から「インドネシアのなんとか・・」っていう区の行事に行く私。

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 「魅惑の国インドネシア」っていうの、楽しかった。
 日本人と結婚したインドネシア人妻たちの明るいこと。南人<ミナミビト、と読む>だなあと思った。カレーがうまかった。ちょっと、タイ料理とにている。
 それにしても彼女たち、みんなインドネシア舞踊が踊れたのにはびっくり。あれは日本でいえばお茶にお琴の世界かねえ。芸がひとつあると、言葉が通じなくても交流ができる・・私もなんか「日本的」なものを身につけんとならぬぞ。津軽三味線、やりたいねえ。 夕方、激しい雨。
 授賞式用のお洋服を買った。「大きなサイズのバーゲン」で・・・。やせたら、昔のが腐るほどあるのに。トホ・・。

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2002年01月25日(金) 第31夜  タイランド 雨ばっかじゃ・・チェンマイ・チェンライ    

 フランクフルトから、バンコック行きのルフトに乗り換え。空港のチェックマンに「アンタはどこ行くの?」ときかれてしまい。
 「タイランド!!」と元気に答えたら通してもらったが、フランクからタイってのは、あんまりない行き方かもしれんなあ。ふつう、直行便だよねえ。
 
 おかげさんで、何時間か計算できないくらい飛行機に乗って、飛行機をバスかなんか乗り換えるように乗り換えて・・っていうのがうまくなったわいさ、ふう。

★ ☆★☆☆ 

 イスタンブル、フランクフルト、バンコック、チェンマイ・・一気に移動した私は体力あるよって自分ぼめしたことでした。
 飛行機は二回乗り換えました。
 バンコックについてとたんのむっとする熱気、おだやか系の人の顔。なんか自分のルーツの近縁に戻ってきたの観はあります。
 何しろ、チェンマイ行きのタイ航空には「読売新聞 衛星版」があってほお〜〜〜日本語だあ〜〜と、むさぼり読んでしまいました。

☆ ★ ☆ ★ ☆ 

 さてチェンマイ。
 ホテルは、オランダをでる前にインターネットで取っておきました。
 何しろ、急に来たのでガイド書無し、全くの不案内。
 ホテルにあったシテイマップやフリーのガイドブックで大研究。
 しかし、大した観光地はなさそうで・・・何しろ雨、雨にはまいった・・・です。そう、タイは今雨期なんです。

ホントは山岳民族地域に行きたいけど、この雨ではねえ・・国境方面に向かってみるか、あのゴールデントライアングル・・だあ。
 きまりました。

 ホテルにはいっていた旅行社でチェンライとメーサイのホテルの予約、チェンライまでの飛行機チケットを手にいれました。
 タン女史という抜け目なさそうな中国系の女性交通社、けっこしぶくてまけない。(後で知ったんだけど、市内の旅行社が断然やすかった、クヤシイ)
 
 一週間もいるわりにはどうも気合いの入らない気分です。
 やっぱり、ジョグジャガとバリに行きたかったよ。
 
 お山の上のドイステープ寺院に行って来ました。以前バンコックで見たきらめく星座じゃない・・お寺に比べてらあまりに素朴な・・でもチェンマイの通天閣のような・・とインターネットで調べたらでてきた観光地・・いかねば、でした。
 でもよく降るわ、雨が。

 境内にあった売店でヒスイの小さな仏さまを買いました。ひとつ250B.2ヶで400と値切りにかかるが尼さんの売り子さんは微笑みながらがんとしてまけない・・。
 仏さまだしな・・と結局尼さんの笑顔にまけて言い値で買いました。
 後でわかったが、この言い値は決して高くなかった・・これはお買い得でした。
 チェンマイの女は強いわ・・。
 柔らかい笑顔を見ていると、トルコやエジプトのような闘志がわかない、これが困る、ホント。
 街角の店でインターネットで遊びました。

★☆★☆☆☆

 朝早い町で、少年僧が黄色い衣、裸足で托鉢に歩いていました。しみじみとホッコリする・・私、日本人だわああ・・ 
 チェンライも雨。
 チェンマイよりさらにひなびましたね。

 レストランで夕食時、注文を間違えて、さらに会計も間違えたウエイトレスのネエさんに「あなたはオーダーを間違えた、会計も間違えた、ソーリーをいわない、よってチップはあげない」といったら、ソーリーといった後に「コックンカー」(ありがとうございました)と、しかっと合掌を返されて、その素直さというか、いやな顔ひとつしない女の子の態度に感動しました。
 日本じゃない、なあ、いまどきは。
 
  雨期は果物の宝庫になる、といいますが確かに市場はそうでした。いろいろな色や甘い香りに活気づいていました。

 フツーの町でしたが、なんかまた行きたい懐かしさが夕方の町の空気にありました。
 

 >>>>>>>>1月25日 本日のできごと>>>>>>>>>>
 
 今日もいい天気。
 昨日ついに入れられなかった「あしなが育英会」の募金の振り替え手続きしに郵便局まで行った。
 26000円。微々たる金額だが、私の友人たちと私の何人かの浄財・・役立つといい。

 鹿児島の鯨は一頭だけは海に帰したそうな。
 シャチにくわれんといいが・・。いずれにしても長生きはすまい。
 
 賞の授賞式の案内が来た。
 フランス料理のお店であるようだし、親戚のママに一緒にでてもらうことにした。

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2002年01月24日(木) 第30夜  イスタンブル  ビンボープライス

 イスタンブル最後の一日。
 飛行機がでる時間まで考古学博物館と、トルコ風音楽のCD、お金が残ったら、バザールでトルコ旅遊記念のシルバーリング購入、と、予定を決めました。
 博物館はペンションから5分。
 例のごとく朝食を用意してもらって出かけました。
 ああ、その前にチエコさんにお礼を言いました。「夕方は会えないだろう」ということだったので・・・。おひとりでしたら、いいですよ・・なんて朝食代金はサービスして下さった・・ありがたいやら気の毒やら・・危険度2のせいでお客さんが来ないのに。

★ ☆ ★ ☆☆
 
さて博物館。ここもお宝の宝庫であったが、ひとつを選ぶとすればやはり「アレクサンダー大王の石棺」だろう。
 シリア領シドンで、1887年に見つかった石棺は紀元前4cくらいのもので長さ3メートル、高さ2メートルくらいの大理石製。ギリシャとペルシャの闘い、虎狩りりや鹿狩りをするアレクサンダー大王のようすがリアルに生き生きとレリーフされています。保存状態がすばらしい、その見事さに引き込まれました。

 まあ、実はこれ、アレクサンダー大王のものではなくてアレクサンダー大王に使えた当時のセレウコス朝の王のものだったらしいのですが、大王の姿があまりに見事なので「アレクサンダー大王の・・」になったのだとか。

 博物館のガーデンカフェは遺跡の遺物をイスにしたりテーブルにしたり・・びっくりしました。私が座った椅子とテーブル、どう見てもどっかの遺跡から発掘してきた紀元前後のものであるような・・・。
 日本人には考えられないおおらかで大胆な再利用です。さすが世界遺産を12ヶも持つトルコ・・太っ腹です? ね。
 
★☆☆ ★ ★★ 
 
 CDを手に入れて、それでもまだ10ミリオン残ったのでいよいよバザールに繰り出します。
 シルバーの売場が並ぶ一角でしかたなしにつかまったふりして、実は欲しいの気持ちを隠して・・声をかけたニイさんに乗ります。
「お母さん日本人、だからサービスするよ」
 日本語と英語チャンポンのニイさん。
 ウソをいえウソを・・どう見てもトルコ人じゃ。
「いくらなの、このアナトリア文字のヤツ」
「50ドル」
 バカいうじゃない。アンタ、クレージーよ。いらない・・
「じゃ、いくらだったら買う?」
「5ミリオン」
「アンタがクレージーだ、30ドルだ」
「要らない、」
 ここからが勝負です。
「私は今日去ります、ドイツに行って、タイと中国へ旅します。、そんなに高くては買えない」
「日本人は金持ちだろ」
「貧乏な日本人もいるよ、さようなら」
「わかった、ビンボー(これ、日本語・・誰だ、こんなけっこうな日本語を教えたのは)プライスにしよう」
「10ドル」
「私は10ミリオンしか持っていないのよ、帰る前にサンドイッチとシャーイを飲みたい、3ミリオンか4ミリオンは必要だ、わかるでしょ。私は6ミリオンしか使えない」
「わかった・・6ミリオン、ビンボープライス」
 50ドルが6ミリオン(5,6ドル)になってしまいました。作戦大成功。
 交渉の途中、やたらさわろうとするので「そういうのはセクシャルハラスメントで、日本や欧米では犯罪だ」といったら、「ビンボープライス」ニイさん、「セクシャルハラスメント」の意味が分からなかったらしい・・前の店のおにいさんにきいてと「ホント?」なんて大笑いしてました。
 でも、その後は少し距離をおいたとこを見ると、そう悪いヤツではないような。

 とにかく私は「ビンボープライス」でアナトリア文字デザインのリングを作戦勝ちして買ったのでした。
 売ったということは彼も損はしていないわけで・・・あー、面白かった。!(^^)!
 
 ビンボープライス、という言葉、すごく気に入って今もたびたび使っています。 
 
★ ☆☆ ★★ 

 バザールの出口にあるダイヤやサファイヤ、ルビーなどの高そうなものを売る店の前で日本語のうまいニイさんに声をかけられました。
「あなた、4日まえにもここを通ったでしょ、見ていきませんか」
「今日、帰ります、お金もない、時間もない」
 私が笑うと相手も「今日帰りますか、トルコは楽しみましたか」と笑います。
「もちろん。ところで、今有り金全部でこのシルバーリングを6ミリオンで買ったんだけど高い?安い?」
「6ミリオン、高くも安くもない、いい値段です、安いくらいですね」
 その男は私の指のリングを見ていいました。
 そうですか・・何回かだまされたトルコだけど、これでヨシ!!としよう。
「また来て下さいね」
「今度来たら、あなたの店に寄りましょう。さようなら」
「そうして下さい、さようなら」
 
★ ☆ ★ ☆ ★ 

 残った4ミリオンは結局サンドを食べているヒマがなくて、飛行場でミネラルウオーターを買って残りは募金箱に入れました。
 まだ度数があったテレカで、オランダの三枝子さんに電話しました。
 これも使い切って、さっぱりすっきりトルコ・・。 
 夕方のルフトハンザで「さらばじゃトルコ」でした。
 お名残おしやのトルコでゴザール。
 
 エジプト・トルコでイスラム圏のおもしろさににゴジラのように完全に目覚めてしまった私でした。
 モロッコ、イラン、パキスタンなんかにも猛烈に行きたい・・。


>>>>>>1月24日 本日のできごと>>>>>>>>>>>>

 1時にスヌちゃんとランチの約束なので、12時15分にでようとしたらOさんのお母さんより電話。帰りに寄ることを約束。
 あわてててでるも、急行に乗り遅れる。あれれ・・・
 途中でとなりに座った腰の曲がったおばあちゃん、力一杯私に寄りかかって眠ってくれた、オババさんでも100%よりかかられると重たい。
 
 渋谷の米のうまい店に行くも「1時半までですから」と袖にされた・・しかたなしにラケルで卵料理。チョー久しぶりだけど、野菜に「有機」とか書いてあって、時代に合わせて変わっていた。
 スヌちゃんに昨夜制作のヘマタイトブレスとストラップをプレゼント。「お金、溜まるといいなあ」。貧乏人がつくったからそれはなんとも・・・_(._.)_
 鯨原稿を届ける。「トラベルライターになりたいんだったら、もっといい写真をとったほうがいいですよ、というきつくて的確なアドバイスをいただいてしまった。はい。
 
 この後「ふるさとぷらざ東京」と八重洲ブックセンターによって帰る。2万円近く本買う。送ってもらうようにした。
 もちろん9時ころだったけど、Oさん宅にも寄った。
 つかれた。
 夜食に近い夕食、昼に作ったほうれん草入り薬膳カレー、うまし。Yさんから送ってもらった北海道のオジャガがうまいんだねえ。

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2002年01月23日(水) 第29夜 ベンチシート型トイレのある エフェス遺跡  

 朝。六時ころ、明るくなりかけに、鶏がでっかい声で「コケッコッココウ」と、トキの声を上げたのにはびっくり、そして笑いました。また寝ましたけど、コーランより早かったですね、鶏の方が。

 昨夜は「ここはぼくたちが冬を過ごす居間なんだ」と説明があった室内のテーブルでディナーをいただきました。
 朝食はお庭のテーブルです。パン、チーズにオリーブ、卵料理、コーヒー。トルコ人にとって、オリーブは日本人の梅干しみたいなモンなんでしょうね。どんなときにも出てきます。

★☆★☆☆

 ドルムシュに乗ろうと、乗り場に行ったら「トルコジーン」て感じのお腹のでた威厳ありそうなおじさん<おじいさんに近いか?な>に、日本からか?と声をかけられました。
 ごくごくチョウ簡単な英語、後はトルコ語。そして私の勘、でわかったことは、若いときに船に乗っていて日本に行ったことがある、東京、銀座、横浜に行った、日本はなつかしい、日本好き・・ということみたいなのです。
 
 この町に住んでいて、お店をしている・・私について来い、ついて来い・・としきりに誘うので行くと、ブドウ棚の下のお茶屋でシャーイをごちそうしてくれました。
 もっと話したいけど、私はトルコ語はまったくわからず。彼、英語はほとんど話せず、こういうとき現地の言葉が話せたらな、とくやしく思います。
 
 ごちそうになった礼を言って、ドルムシュでセルチュクにでました。
 今日は飛行機の時間まで「観光、観光」です。
 
*** ここで唐突にまたまたエフェス講座 *****

 紀元前10世紀ころからの都市国家遺跡。アレクサンダー大王だの、ローマ帝国の勃興だの、の時代を生きた都市。最盛期は紀元前133年にローマ帝国の支配になってからで、一時は人口25万人を数えたこともあるとか。<これって、もしかして今のセルチュク市街より大きい人口だったりして>

教会堂、初期キリスト教の遺跡や、大きな図書館、劇場、大理石通り、娼婦の館、公衆トイレ、公衆お風呂まで残っているトルコのみならず世界でも指折りの大きな遺跡である。
 
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 寄ってきた客ひきニイさんをぶっちぎってまず向かったのは、エフェス博物館。
 クジラ好きとしては、イルカに乗ったエロスの像とか体中に卵みたいなヤツをくっつけたアルテミス像が見たい・・のでした。
 
 イルカに・・は小さな作品でしたが、ここエフェスが海の文化の地だったことを改めて意識させられました。イルカは、今も時々気まぐれか、イルカニズム<イルカ的ヒューマニズム・・あたしの造語>かで、海でおぼれかけたニンゲンを助けたりするけど、この時代にもあったのか・・なんてことを想像しました、ね。
 
 さて奇怪なアルテミス像、おもしろかったです、ホント。エジプトの神を連想させる立ち姿、でも、胸にはぎっしりと卵のようなモノをつけて・・白い大理石だから、「タマゴ」の感じはとても強い。
さらには腰から、脚にかけて、神や動物の彫像をこれまたぎっりちとレリーフしてある・・なんか不思議というか奇怪というか、生命を司る、という説明に何となく「そっかー」でした。

 エフェスの遺跡までの道、久しぶりに歩くぞ的にボチボチ。しかし、のってけの車がうるさい・・頼むからほっておいてよね・・。

 遺跡近くのレストラン前、なんと昨日の女の子と一緒だったおじさんがいるではないか。
「昨日会っただろ、案内するよ」
「いくらなの?」
「50ドル」、といってから、おっさん、片目ウインクしました。
 ヤッパな。
 
 昨日の子はお金、最後に取られたんだろか。それともあの子は若い女の子だったから、オッさん無償奉仕? ンなことないよなあ・・・わからんなあ???
 オッさんの誘いをきっちりと断ってまたまた歩きました。

 そして、遺跡。今度は「ガバメントエージェンシー」なる男が、タクシーのお誘い。ここは入り口ではない、入り口は反対側だ・・ここからタクシーで反対に出てここまで歩く方がいい・・。ウソを言え、ウソを。
 私が怒ると、
「ここから行くのはノーマルではないという意味だ、ここからは登り道できつい、反対に出ると、またここに帰らねばならない」
 この言い分は多分、そうまちがっていません。さっきの50ドルオジも、途中であったお巡りさんもそういってた。さ
 さいしょからそういえよ。
 夕方5時半くらいには空港に行かなくてはならない私には、時間のゆとりがありません。
 この道を往復するのは時間的にきついかも・・ということで、この客引きの話にのって10ミリオンのところ、結局7ミリオンでタクシーに乗りました。
 <この7ミリオンも乗って降りてまだ異様に高い、と気がついたがあとの祭り・・ぐやしい>
 
 遺跡は・・。うん、確かに見応えのある遺跡でしたよ。
私には、ものすごく壮麗な図書館のすぐ近くに公衆浴場や、公衆トイレ、娼婦の館があるのがおもしろかった。

 なじみの娼婦とこによって、公衆トイレで用をたし、その後お風呂。さいごに図書館で本を読む、借りる<貸し出しが今のようにあれば・・ですけど、なかっただろうな・・>
なんてことができちゃう距離。おまけにトイレはベンチシートのしきり無しがから、用足しながら知り合いと話したり、やあやあ、アンタもここへ、なんて空いてるとなりの「穴」をすすめたり・・・。

 写真、たくさん取ったのに・・ああ〜〜〜〜全滅なのがマジにクヤシイ。(=_=)
 リベンジしにトルコに再度行くのはいつのことやら・・・。トルコ行きの旅があたる懸賞でも出すか・・。

 ★☆★☆☆★

 夕方、ホテルの方からイズミール空港まで有料で送ってもらいました。
 けっこうな高速道路でした。
 飛行機のお客もバスの客層とはまったくちがっていました。
 
 イスタンブルのケマルアタチュルク空港。
 タクシーのお誘いを蹴散らしてバスに乗りました。
 バスの中で、おもしろい華僑系のインドネシア人に会いました。
 会話再録
「****」<中国語>
「私は中国語はわからない、英語で話してくれる?」<チョーつたない中国語>
「アンタ日本人?」<英語・・以下英語>
「そう」
「旅行か?ひとりか」<ニコニコしながら>
「そう」
「私はひとりで旅行なんてできないよ、えらいな」
「あなたは今ひとりでしょう?」
「仕事、ところでアンタは今夜どこに泊まる、そこはいくらだ?」
「ペンション。25ドル」
「そうか・・」<携帯を取りだし、ホテルの交渉をはじめる、どうやら私からホテルの相場を聞いてぼられないようにしたかったらしい>

会話再録中止・・めんどうじゃ・・すまぬ 

おデブで、いかにも抜け目のない華僑のおっさん、仕事は輸入の絨毯や家具のトレード。北海道や大阪、東京にも行ったことがある。トルコ語も日本語もできないけど、どちらもお金の単位だけがいえるのがご立派でした。

 私はインドネシアに行きたかったけど、戦争で危険になったからキャンセルした、といったら、バリは平気だったのにと。
「アンタは1000円でとてもいいホテルの泊まれる、インドネシアじゃ」
 1000円、のところは「センエン」とおおさんはいいました。
 商売人だと脱帽

 こうして私は無事にひとりでジョシュクンペンションに帰ったのでした。
 


>>>>>>>>>1月23日 本日のできごと>>>>>>>>

 クジラウオッチ原稿を書いた。書きたいことがたくさんあって、3枚に入れるのに苦慮。
でも好きなこと、書けるって幸せだなあ。(^^)
 
 あんパン半分<後半分は昨夜お腹空きすぎで眠れないので食べた>と豆乳、カップ麺<それも、つくったことを忘れていたんで伸びたヤツ・・お腹が空いていないと食えない代物>、コンビニで買ったバターロールのツナサンド、ドトールのアイス、リンゴ一個、と言うわたしの食生活はなんだ? 冷蔵庫のモノが腐っている・・・。
 
夜、Mさんと食事。美味しいイタリアンで「貧困な食事」の恨みを晴らした。
 
 TVで久米さんと筑紫さんを見ながら、ヘマタイトの携帯ストラップと、ブレスをつくる。スヌちゃんへのプレゼント。ヘマだけではなんとも色気がないので、ローズクオーツを入れた。TVに集中すると、玉が滑って抜けたり、数を違えたりと悲惨。

鹿児島のクジラさん、どうなったかなあ。助けるだのなんだのいっているけど、無駄な抵抗だよねえ。弱肉強食の海の世界、あんな状態で海に戻っても所詮死ぬ。ニンゲンの安っぽいヒューマニズムだよね。
 それよか、あの漂着した町の予算であのたくさんのクジラを始末<焼却のはず>することに同情してします。
 私は、冷たいのでしょうか。

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2002年01月22日(火) 第28夜 野越え、山越え シリンジェ村へ  

 セルチュクはエーゲ海に面した古い町です。
 ギョレメでは夜になると冷え込んで皮コートでも寒い・・息が白い・・でしたが、一転して爽やかな初夏の日差し、半袖Tシャツ一枚でもいい温度となりました。

☆★☆★★

 セルチュクのオトガルでバスを降りたとたんに、ホテルの客ひきニイさんの登場です。
「私はシリンジェまで行くから、ここには泊まらない」
「ホテルは予約しているのか、」
 マッチョな感じのニイさんは詰め寄ります。
 まだ、とか言おうもんなら、この町に泊まって日帰りで行けとか、おれんとこは安いぞう、とか引っぱられそうな気配。
 「もちろん」と私は、メモを見ながら「エルデム・エヴェリ」というチエコさんが予約してくれたホテルの名前を言いました。
男はうなずくと「そうか、アンタは今晩あそこのうまいワインを山ほど飲むんだ」
「シリンジェは、ワインがうまいの?」
「ああ。それで、アンタ、明日はどこに泊まるんだ?」
「明日はイスタンブルに帰る」
「忙しいんだな」
 うん。客引きにしてはあっさりしているこのニイさん、好印象でした。
「トルコはいい国よ、またきたら、アンタのとこに泊まるから」
「OK、またこいよ」
 ニイさんは自分のホテルのパンフレットをくれました、「一晩朝食付きで20ドルだ」と言いながら。
 インフレの激しいトルコですから、次はもっと高いだろうな。
 
★☆★☆★

 客引きニイさんが教えてくれたシリンジェ行きのドルムシュ乗り場、バスは30分おきにあります。
 Tシャツ一枚まで着ているモノを脱いで、近くの食堂で買ったトルコサンドをかじりながら、バスの出発時間までひなたぼっこです。
 今度は近くの旅行社のニイちゃんが私を見つけてやって来ました。
「あなたはどこに行きますか」
「シリンジェ、ホテルは持っている」
「明日の観光はどうしますか」
「決めていない、明日はイスタンブルに飛行機で帰る」
「では、去るまでエフェスの観光はどうですか」
「考えておく、もし行くんだっったら、あんたにたのむ」
 男はうなずいてもっと話を詰めたそうにしましたが「私は今日ギョレメから着いてつかれている、今は決めたくない」といったら、OK、といなくなりました。

この町の人、みんな「すな〜お」だわ。
 
★☆★☆★ 

 小型マイクロバス的ドルムシュはトルコの公共的乗り物のひとつといっていいでしょう。
 シリンジェまで、バスはの越え、山越え、ひなびた道を進みます。真っ白なほこりが舞い上がって乾ききった大地をいやでも印象づけます。
 木はオリ−ブだけ、って感じ。時々、道を羊が横切ります。
 田舎です。トルコの古い田舎の村のたたずまいを残している、というのがシリンジェ村のウリなのです。
 
 と、ここまではよかったのですが、30分後、着いたシリンジェ村はなんと大混雑。
 やっぱりトルコの田舎を味わいたい日帰りの外国人客、都会系のトルコ人客で村の狭い道は人であふれかえっていました。日曜日のせいもあるのでしょう。
 
 ついたホテルも大繁盛。伝統的トルコの家をホテルにしたというのがウリなのですが、「12時にチェックアウトしたお客の部屋がまだ掃除できていない、お茶でも飲んで少し待って欲しい」といわれてしまいました。
 30分ほど、といわれたのに1時間待っても部屋の用意ができた、というお呼びはかかりません。寝不足とギョレメとのあまりの温度の違いに頭痛がしてきていました。すこし昼寝でもしたいと思っていたのにこれは少し・・なあ。
「部屋にまだは入れないのか、私は頭が痛い、チエコさんはよいホテルだといっていた、しかし、30分といってもう1時間が過ぎた、私は少し休みたい」
 オーナーである男性に言いました。彼はお母さんがトルコ人、お父さんがドイツ人とかで、流ちょうなドイツ語、英語を繰る人です。
「チエコさんは、あなたが夕方につくといった」
「パムカッレはつまらなかった、だから早く来た、それに頭も痛かった、私は少し眠りたい」
 しばらくして、部屋に入れてもらえました。
 日本と同じように靴を脱いであがります。部屋にいるとトルコのお母さん・・という感じの人が頭痛に効くからと部屋までハーブティーを運んできてくれました。
 ジンジャーのような香りがするホットなお茶でした。 
 ベッドに入ろうとカバーをめくると、なんとシルクのシーツとシルクのお布団がかかっています。
おお、こんなんの初めて!!
まるで中国の「太太」<お金持ち奥様のこと 確かこの字だったと思うなあ?> 
じゃないか。肌触り、いい・・いいい・(~o~)・・。すぐに眠りに落ちました。

★★☆★☆ 

 夕方。あたりはすっかり暗くなっていました。
 窓から下を覗くと、静かです。昼の「ホコテン」は消えてなくなっていました。
 時計を見ると6時です。みんな、町に帰ったンですね、それにしてもウソみたいだわ・・。
 
 階段を下りていくと、ハーブティーを持ってきてくれたお母さんみたいな人が「どう?」という顔できました。
「よくなった」
 そう、アタマ、すっきりとしています。
「私は少し散歩に行ってくる」
 石畳の道、古い木造の家、ウロウロする犬、明かりをつけてハンドメイドのレースを売るおばさんたち。寄って行けと微笑みます。
 いい感じ、なつかしい気さえします。
 村はずれまで来て戻ろうとしたら「日本人ですか」と日本語で声がかかりました。
 見ると、髪の長い若い女の子がトルコ人の車にいます。
「そうですが・・」
「泊まるんですか、いいですね」
「そう、あなたは?」
「私、今夜の夜行バスでイスタンブルに戻るんです、それで案内してもらっているんです」
「お知り合いがいていいですね」
「いえ、今日セルチュクの街で声をかけられて・・案内してやるからって・・」
「ええ?危なくないの」、と言いながら、私は思わずとなりでに立ついているトルコ人のおじさんを見ました。
「今んとこ、安全ですよ」
「あとでお金を払うとか・・」
「いえ、何も請求されませんよ」
 ひゃー、危ないわ。
 チエコさんがいっていたあきれた若い日本人の女の子ってこういう感じの子をいうんだろうか。
 でも、ごくふつう、むしろ顔つきなんてしっかり系だけどなあ。外国では、ただほど危ないモノはないんだけどなあ。
「くれぐれも気をつけてね」
 そういって別れました。
 
★☆★☆★

 ホテルに戻って、オーナーの彼に昼間の不機嫌を詫びました。
 私、頭が痛かったこともあってぷりぷりしていたからね。
「気にしなくていい、今日は忙しくて早く部屋の準備ができなかったぼくらもいけない」
 といってくれました。
 彼が用意した前菜のサラダ、きのこのホットプレート、チーズ料理、みんな美味しいモノでした。ワインも2杯。お代わりしてしまいました。
 ドイツ人ってどちらかというとうまいモノ音痴だけど、彼、舌はトルコ人のお母さんの血を受け継いでいますねえ。
「今どこの国も経済がよくない、だけどぼくは自分の小さなパラダイスを作り始めてかなり成功しはじめている・・」
 彼は、お茶を飲んでいる私のそばのテーブルにパソコンを出してレストランのメニューを手作りしながら、このトルコの古い家を利用したホテルが軌道に乗りかけていることをそんな表現で話しました。  

 またまたシルクの夜具の中。バスの疲れで少し腰が痛いのが心配ではりましたが・・・私ももう若くない・・とため息をつきましたが、こういうため息ってシルクの夜具になぜか似合う・・・(^_-)

 静かな、すてきな夜でありました。
 
>>>>>>>>>>1月22日 本日の出来事>>>>>>>>>>
 
昨日とうって変わったよい天気。
 午前中、善通寺の「へんじょう」をいろいろな方に、ノルウェーに荷物を送る。
 パンベルジュでくるみ入りのうまいオフランスパンを買おうといったら、お休み。残念。突然、ランチは寿司にするか、と東急へ。生湯葉の握りなんていうめずらしそうなのがあったので、ネギトロと共に購入。散財でした。
味は、といえばものすごくうまいモノではありませんでした。評価「3の上」くらい、かな。
 仕事が思うように進まない。
 ハワイへ行く前にかたずけておかないといけないこと、いっぱいあるのにな。
 1/8日にあげた原稿の校正が入ってきた。
オオ、そういえば、昨日、スポーツ用品バーゲンで、水着<スポルティ?2900円>お遍路用雨具<イビザ3900円 リーボック3900円>を買ってしまったんだった。
イヨーに安かった。でも、これも散財だ。いかんよなあ。反省(-_-)

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2002年01月21日(月) 第27夜  だまされ パムッカレ

 二日目の夜<つまり最後の夜>9時過ぎ、ヤマツアーのオフィスを訪ねました。
 オオサカニイさんや若年寄ふう26歳ニイさん、そのお友達が犬のカラハシと共にくつろいでいました。
 カラハシはビクターマークの犬種、少々汚いのですがヤマツアー犬なんです。利口でおだやかないいヤツです。

・・・独り言  人間の名前を忘れて、犬の名前を覚えている
             私ッてっば? なんなんでしょう・・・・・  

「オオ、どうしました」「明日の夕方、私は去るから」
「ギョレメは楽しかったですか」「ええ」
 なんて話しをしているうちに、危険度2をトルコに出した日本政府、アフガニスタンを空爆するアメリカの話になりました。

「でも、アメリカはアフガニスタンに援助もしているでしょう」
 彼らがどんな反応を見せるか、わざと水をむけてみました。
「何をいってんだい、アメリカのやっていることはこうだよ!!」
 オオサカニイさん、突然立ち上がるとテーブルの上にあったパンを取って、カラハシに見せびらかしはじめました。カラハシは、「食いたいよう」って感じで舌を出してパンに飛びつこうとします。
 ニイさん、パンを見せびらかしながら、カラハシが絶対に届かない位置まであげて、カラハシのアタマがんがんと、たたきます。
「そうだ、」
 後の二人も手をたたいて同調。
 カラハシは、たたかれてもパンが欲しいのでクイーンクイーンと鳴きながら、舌を出しています。
「わかるだろ、アメリカのやっていることはこれだよ」
 アメリカはあめとむちどころか、絵にかいた餅をアフガニスタンに提示して、鞭<空爆>していると彼らは主張しているのです。

「アメリカや、あなたの国<日本>では貧しい国の人の一年分の収入を一日で消費する、そういうことが問題なんだ」
 そう、それはその通り。どうやっても埋めきれないほど世界の貧富格差は広がっている、旅をしていると、それは肌で感じます。確かにその絶対的貧困の問題が今度のテロや戦争の根本的問題のひとつだと、私も思います。
「アメリカもアメリカ人もセルフィッシュだ、この頃日本人もそうだ、昔はそうではなかったのに」
「税金を払わずにごまかすあなたちはセルフィッシュではないのですか」
 彼らは、税をうまいこと逃れているという話を少ししてくれたのです。
「オレたちは貧しいから、お役所も目をつぶってくれるんだよ」
 そういうの、自己チュウだって・・だから国が貧しいままだって事も少し考えろよな・・アメリカについてそれだけシャープな論理を展開するんだったら、です。
 こんな話をつたないワタシメの英語でしているうちに夜は更けました。
 彼らは、英語でガイドをしているしうまいんです・・・こういうとき、まじめに英語をお勉強しなかった自分の若いころを深く反省します。

「次は、ひとりじゃなくて、ハネームーンで来いよ」
 私が「お休み」と帰るとき、オオサカニイさんがにやりと笑って言いました。
 ったく。ありがとうよ。
 
 でも、私はまた小宇宙にいる感じの村、ギョレメにまたいつか戻りたいと切に思います。ほのぼのと温かい人たちもいるし・・

★☆★★☆

 またまた夜行バス。
 少し厳しい日程です。
 夜にギョレメを出て朝方に、世界遺産になっているパムッカレ。昼からのバスでセルチュクに行く・・・そこからさらにドルムシュ<小型バス>にのりかえてシリンジェ村へ。

 パムッカレに泊まりたい、といったらチエコさんがよくガイドブイックに載っているパムッカレの石灰棚を流れる温泉はもう枯渇しているし、石灰棚だって壊れていて泊まるだけの価値はない、とアドバイスして下さったのです。それだったら、がんばってシリンジェあたりまで行ってはどうかと・・。
 はい。

 ギョレメのオトガル。バスを待っていた私にオフィスにいたおニイさんはパッムカレからどこに行くんだ、とききます。
「パムカッレを見てから、セルチュク、それからリシンジェ村、ホテルはとっている。心配なのは、パムッカレに早朝着くことだ」
「セルチュクまでのバスチケットを今予約してくれたら、パムッカレは心配することはない、ぼくのバス会社があなたの荷物を管理する」
 この一言に乗りました。
 12ミリオン、といわれて出しました。
 
 パッムカレ行きバスで隣り合った21歳の女子学生は「どうしてあなたはひとりで旅行をしているの?」ときいてくれました。「私の国では女性もひとりで旅をする」
 
 さて朝方。
 バスは、パッムカレのオトガルに着きました。
 これが予約チケット、ギョレメでもらったバスの券を見せたら、こっちに来いと日本語で連れていってくれるおじさんが現れました。
「いいです、」
あやしそうな顔をしていたので断ると「オレはあやしくない、日本人と結婚していた」と怒ります。そして私の荷物を勝手にひっぱていきます。
 なんなんだあ? 
 なんだかしらんけど、ついていくことにしました。オトガルには人がたくさんいるし、ものすごくやばいことにはならんでしょう。
 バスのオフィスについたら、今度はわきからピンクのワイシャツの男が現れてわたしの持っていたバスチケットを取ろうとします。
「NO !! 」
「大丈夫だ、そのチケットはバス券と交換する、心配しないように」
 なんだかわからんうちに、私の荷物、今度はピンクシャツの車に積み込まれてしまいました。
 車には、金髪の女性がひとり乗っていました。
「あなたはどこからきたの」
 走る車の中で、その女性は訊きます。
「日本」
「私はイスタンブルに19年間住んで先生をしているの」
「旅行ですか」
「そう」
 なんかへんな感じです。
 ピンクシャツのニイさん、ホントにバス会社の人?って感じですが、先客の女性のおかげで「どっかにつれて行かれる不安」<もうアラブの石油商人のハーレムに売られるほど若くないから、どっかの農場でオリーブもぎかなんかの奴隷かなあ?>はなくなりました。
 
 夜が明けて私が連れて行かれたところは、パッムカッレのホテルのロビーです。
「ここに荷物をおいて見学に行くといい、食事ももうすぐサービスできる、もしガイドが必要ならいってくれ」
 はああ、なんかおかしい。
 この人の言っていることは、バス会社ではなくて旅行エージェンシーだよ。
 食事なんて待っていられないので、バックに持っていたバナナとパンを食べて出発しました。
 山に近づくにつれて白い景色が広がります。石灰棚です。
 しかし、お金を払ってはいれば、チエコさんが言うとおり、温泉水はショボショボ、温度も温泉というより水です。
 ここは古代からの温泉保養地だったはずなのですが、昨今の乱開発がたたったのです。

★☆★☆★
 
 さて、石灰棚の上にある古代遺跡を見て、約束の11時半に戻って、ピンクニイさんの不可思議な行動の謎は解けました。
 バスまで送ってくれることになって、送りにきた少年が手にしていたバス交換チケットのお値段を見てびっくり。そこには5ミリオン、と書かれていたのです。
 ギョレメのバス待合所のニイサンとピンクニイさんはぐるだったんですね。
 
 7ミリオンを上乗せしてバスチケットを売っていた、まるでピンクニイさんが人に見られると困るという感じで私からバス予約券をもぎ取ったのはそういうことだったです。
 ラチするように私を連れだしたのはそういうことだったんです。 
 
 私は、まあ「ぼられた」わけです。
 2倍以上のお金を取られてしまったのです。
 ヤラレタゼ・・・ですが、7ミリオンのためにご苦労なことです。
 バスのニイさん、こんなだます手口じゃなくて「フェア」にいってくれればいいんだよ。
「バスチケットは5ミリオンだ、しかし、あなたが早朝着いてからの安全を確保するために7ミリオンだせばガイドを世話する」
わたしは、7ミリオンで安全が確保されるんだったら出すよ。
 ピンクニイさんもそう。あなたが出した12ミリオンの内訳はバス代5ミリオンとガイド料7ミリオンだ、と。
 
★☆

 私の怒りのとばっちりを受けたのは、送りにきたピンクニイさんの部下?の少年です。彼は当然チップをもらえると思って、私のまわりうをウロウロするのですが、無視。この子に罪はない、とアタマではわかるんですが、やっぱり財布を開ける気になれませんでしたな。

 またまた、トルコ人のだましの手口について考えました。
 イスタンブルの「ホジャ」は親切な人を装っていました。今度も、あのニイさん、親切をするようにだましました。
 手が込んでいるんですね。
 例えば、私がバスチケット交換券をのぞき込まなくて、正しい値段を知らなかったらばれなかったはずです。私は、なんかおかしい、と思いながら、ぼられたことに気がつかなかったはずです。
 ストレートにだまさないところが、この国の文化の奥深さか??
  
  だまされ パッムカレ。
  今回のお題は我ながらゴロがいい・・・


>>>>>>1月21日 本日のできごと>>>>>>>>>>>>>
 
 初大師。雨の中、川崎大師にお参り。悪天候にもかかわらず混んでいた。
 
 その後、親戚によって昼ご飯をごちそうになった。
 大伯母の仏前にカサブランカとソルボンヌというでかい百合を持っていった。
 百合の分際でまるでフランス映画みたいじゃないか・・・
 
 ママやパパ<若いころに居候をさせてもらっていたのでそう呼んでいる>、Mちゃんやkちゃんとも久しぶりで、いろいろ話が弾んで、3時過ぎに辞す。
 外は大荒れ。なま暖かい風が気持ち悪い・・なんか変だよね。ホントは大寒のはずだろ。
 
 パパが、踏み切り飛び込みと焼身自殺と2回立て続けに見たとママが気にしていた。
 夢なんかだと、葬式の夢はいいというけどねえ。
 漁師さんなんかも不幸事で大漁の縁起担ぎをするというからそう悪い事じゃないと思うけどなあ・・。でも、世の中、みんな「うつ」なんだと思った、ふう。

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2002年01月20日(日) 第26夜 ギョレメ ほのぼの・・・ 

 ギョレメ2日目。
 
 デリンクユ地下都市とウフララ渓谷をまわる一日ツアーに参加しました。ガイドは昨日のおニイさん。小型マイクロバスががいっぱいになる人が参加しています。
 
 デリンクユとは「深い井戸」の意味で、地下7階の町になんと井戸が見つかったことからこの名前がついたのだそうです。
 地下85メートルにある町は実によくできていましたが、外に出て、やっぱり私は陽の光の下でくらしたい・・と思いました。その感想を、キリスト胃弱ニイさんにいったら、「オレもそうだね」とにやりとしました。
 その前、地下都市の階段で、彼と階段駆け登り競争をしたばかり<もちろん負けた、だって脚の長さがちがうモン>だったので、やっと親しくなれたと少しばかりうれしかったです、はい。

★☆★☆★  

 このツアーにはひとりの日本人の男の子が参加していました。やはり、アジアを横切って旅してきた子です。
 しかし、悲しいほど英語を解さん。私だって、ささやかなモンですが、それより悲惨・・で、よくここまできたと感心しました。やっぱり旅に語学はいらんようです。旅したいという情熱と、健康と少しばかりのお金。
 この男の子、Aクンとしときましょう。

 ウフララ渓谷を見てから昼食になったとき。
 デザートにマンダリンーみかんが出たのです。1テーブルに4か5個、ひとり1個って感じです。出てくるのが遅かったので、われらがテーブルにいた後の二人は席を立ってしまっていました。
 Aクン、彼らの分までくっちまったのです。
「彼ら、戻ってくるかも知れないし、人の分まで食べるのは遠慮した方がいいよ」
「いいですよ、だって席立ったんだし、もうきませんよ」
 厚かましいヤツじゃ。
 「食わせてない子みたいな食い方」という言い方がありますが、私はその卑しさに目をそむけました。
 たとえテーブルを立っていても人の分まで食うのは・・・自己チュウじゃろが。
 私の予感は当たりました。彼らは帰ってきたのです。
 ミカンの皮を積み上げている彼をを軽く見ました。「オレたちの分くったの?」って感じで。
「あやまりなよね・・あなたが食べたんだから」
「だって、いなかったんだから」
 彼、そういって知らん顔。

「Sorry, He thought you finshed your lunch and he ate your mandarin, your dessert,so sorry.

合っているかどうかしらんが、わたし、とっさに我慢できなくていいました。
 とりあえずこれで「ごめん」の気持ちは相手に伝わったと思う、「気にしなくていいよ」といってくれたモンね。
 あたしがくったんじゃないのに・・ではあるが、おばさん気質というか、またまた愛国心というか・・ですね。
 あたし、「愛国おばさん党」とかっていう右翼の結社でもつくろうかしらん。そんで、若い男共、だめなオッさんたちを鍛え直す・・とかって。^^;
 でもね、とりあえず「ソーリー」って、中一英語だよ、気は心・・エジプトで会ったTクンといい、このAクンといい日本の若い男、魅力ないぞ。

★☆★☆★☆

 ギョレメの町に帰ってきて、胃弱ニイさん、私だけをヤマツアーの前に下ろしました。バスで眠りこけていた私、下ろされても何が何だかわからない・・「昨日行ったところに行くからアンタは行かなくていい」といっているようです。
 ああそうなの。
 
 ここで、やっと今日のお題「ギョレメほのぼの」に入ります。
 
 ギョレメほのぼの・・は私が出会ったギョレメの心優しき人、オモロイ人などを紹介しよう、なんです。

 ★ その1 ヤマツアーの面々

 バスを下ろされた私が入った先はヤマツアーのオフィスです。
「疲れたよう、お茶のませて」
「はいよ」
 若い給仕の男の子が「シャイか、アップルティーか」と聞きに来ます。
「アップルティー」
「アイツ、コピーーしてきてと言うとかならず、なんかわすれるンだ、おもしろいヤツなんだ」
 デスクにいた少しデブのオッさんが給仕の子をあごでさしていいます。
「不注意な人はどこにでもいる」
「アンタ、この人、いくつだと思う?」
 大阪ニイさんです。
「35歳」
 彼、大笑い。
「26歳だよ」
 あれ失礼・・。
 こんな感じでで実に楽しいオフィスなんです。
 2泊3日滞在中、何回も行ってフリーのお茶をごちそうになりました。
 大阪ニイちゃんは、昔、大阪からきた女の子と恋仲になって、大阪弁を覚えたらしい。
「オレが26でさ、彼女は31歳で、歳がちがったからねえ」としみじみ言ってました。

★ その2 SOSレストランのおじちゃん

 ギョレメ村は、オトガル<バスステーション>を中心した地域にレストランや土産物屋が集まっています。
 その一軒がSOSレストラント。
 前に紹介したカッパドキアの郷土料理である壷料理を食べさせてくれる店です。
 第1日目、何を食べようか、とウロウロしていたとき店先でおじさんに壷料理の話を聞きました。しかし、疲れていて胃がどうも不調、ボリウムのある料理はもう一つでした。
「今日は胃の調子が悪い。明日よくなったらくるであろう」
 私は、そう、約束しました。

 次の日の夕方。
「オオ、アンタは本当にきた、約束を守った」
 おじさんは大喜び。
 壷を火にかけたままでしてくるわ、デザートのフルーツをてんこ盛りでフリーサービスしてくれるは、最後のシャーイもフリーサービス、でした。
 彼は私が約束を守ったということに感動してくれたみたいで・・・。日本人の若い男共より、言葉はカタコト英語でも、このオッさんの感覚の方が私にはよくわかる、近い、と思ったことでした。
「ギョレメにまたおいで、またうちの店にきてくれ。トルコを楽しんでいってくれ」
 トルコを楽しめ、とはトルコ人がよく言うことです。
 このオッさんの素朴なウエルカム精神は、ホントにうれしく楽しませてもらいました。

 ★ リリー
 
 夕方、食事から帰る途中にのぞいた店にリリーはいました。
 コーヒー、紅茶、オリーブ石けん、お香、スカーフ、ポプリ、指輪などのアクセサリーなど、女の子が喜びそうな細々した物をうっている店。彼女はそこのオーナーでした。
「あなたは日本人?寄っていって。私は日本人が大好き。友達がたくさんいるの。ほら、今日も手紙が来た」
 通常はこういう手合いは警戒するのですが、聡明でまじめそうな目つきをした彼女の口から言われると、「そおうー」となってしまいます。
 そばにいた彼女の夫も感じのいい人でした。
「彼、去年手術をしてそのときに仕事を失ったの、先生だったんだけど。彼、とても惨めな気持ちだと思う。この国の経済は破綻しているの、みんな仕事がない」
「今日本もそうよ」
「そうなの、日本人はお金持ちでしょ」
「そんなことはない」
 リリーは聡明で誠実な女性です。
 リリー語録を少し紹介しましょう。
「この国の冨は少しの人はにぎっている、一部の人だけが富んでいるのはまちがっている」
「もうけているのはこの辺では絨毯商人。でも、織り手や下で働いている人は貧しいのよ」
「モスレムで、何回もお祈りするからって、それがいいわけじゃない。何回お参りしても、心が汚かったり、悪い人はダメ。神様はよい臭いをさせている人とと悪い臭いをさせている人をすぐに感じるから」
 リリーは次の日、石が好きな私のためにオニキス屋のおじさんの作業場に連れていってくれました。 

★☆★☆★ 

 この日も夕日がとても美しくて、山の上のブドウ畑で、もう干しぶどうになりかけているチョウ甘いヤツをとって食べながら<盗み食い>ここは小宇宙、母胎の中のような場所、を堪能しました。
 この場所を教えてくれたのは、ホテルのオーナーでドイツ人のジェニファーです。彼女もフレンドリーでさっぱりとした人でした。


>>>>>>1月20日 本日の出来事>>>>>>>>>>
 窓から見える近所の白梅が満開だ。
 おだやかな日和なので布団を干した。
 上のフィリピンおネエさんたちは帰宅のしかたも静かになったし、洗濯も昼間するようになった。どうやら不動産屋さんがちゃんといってくれたらしい。ヤレヤレだ。
 
 夕方、三枝子の夫サン、テクラブ氏のお兄さんのところに、美容タオルを送る箱をヨーカ堂にもらいにいった。
 ノルウエーのオスロまで100円のナイロンタオルを35本も送るんだい。あの、日本では皮膚によくないと廃れ気味のタオル、彼らはお気に入りらしい。
 お兄さんのアスカダムのところには、ずっと前、ムンクの美術館が見たいので行って泊めてもらったことがある。なつかしい。
 @niftyのホームページ上にあるフリーの自動翻訳で簡単な添え英文を作成した。便利になったもんだ。

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2002年01月19日(土) 第25夜 カッパドキア ギョレメ村 ヤマツアーズ

 9時40分。ほっとする間もなくヤマツアーという現地の旅行社の車がお迎えです。
 見学の車には、二人の先客。
「私はバスが遅れたのでさっきイスタンブルからついたばかりで食事どころかお茶も飲んでない、せめてお茶の一杯くらいは飲ませろ」
 私はゴネゴネしました。
「わかった、じゃお茶はうちの事務所で飲め、とにかく乗れ」
 運転手はいいます。
 そんなわけで、私は二人の先客を車に待たせてヤマツアーのオフィスで「アップルシャーイ」をごちそうになりました。
 事務所にいたひとりのニイさんは少しだけ日本語、それも関西弁がはいった、を話すんです、びっくり。(この「大阪ニイさん」とは、この後も関わります)
  
 ★☆★☆★


 二人の先客はオランダ人でした。ひとりの人はどう見ても日本人か中国人か・・でしたから「ふーん、きみもオランダ人」とは思いましたが、オランダとはそういう国です。
 
 最初にいったのは「ギヨレメ野外博物館」。
 ここは、修道士たちの隠れ家だったので教会がたくさん残っていて、奇岩をくりぬいた修道士のための学校までありました。
 ここでは主にその見学となります。

 ガイドのおニイさんは、熱心なモスレムらしくて、手にしたモスレム数珠を常にくっていますが、顔は胃弱のキリストみたいであまり笑いません。(名前は忘れちまいました・・メモしてなかった <(_ _)> この胃弱キリストニイさんに2回連続で案内してもらったのに・・困ったモノです)
 とてもゆっくりした、簡単英語で話してくれるのでわかりやすいのですが、でも、アタマがしょっちゅう翻訳状態というのは思考回路がショートしそうになる・・疲れます。
 以下にお兄さんから聞いたお話を箇条書き。
※ 4世紀頃からキリスト教徒が住み始めたが、6世紀頃から迫害の逃れたキリスト教徒たちが多くこの地に流入。修道院や教会、隠れ家をつくった。
 
※ 1000くらい、今もいろいろな施設が残っている。
  
※ いくつかのフレスコ画が描かれた岩窟教会に入ったが、美しさ、大きさで群を抜いていたのは「トカルキリセ」。バングル教会<止め金具教会>とも言われているのは、内部の装飾に「止め金具」のような模様を使っているから。
  
※ 内部の装飾が時代が下るに従って、偶像崇拝を禁じているイスラム教の影響で抽象的になった。
 
※ 渓谷の向こうに鳩の巣穴が無数に開いていた。胃弱キリストニイさんが「どうして彼らは鳩を飼ったのか?」と、我々3人に質問を出したので、私は、即、「食べるため」と私が答えたらニイさん、いやな顔をした。
「エジプトでは食べる」<エジプトでは鳩料理は高級料理。貧乏旅人の私は食べんかったが>とさらにいったら、ここはトルコだ、我々は食べない、とにこりともせずにいわはりましたわ、フン。
   
正解は、渓谷で畑や果樹園をやっていたので、それらへの肥料。鳩の落とすフンで土に栄養をつけていたんですね。いわゆる「有機農業」していたというわけなんですってさ。なーるほど。

★☆★☆★★

 昼になってレストランへ。
 我らがお客三人の話題はなんとローカルにもアムステルダムでした。
 
 昼からは、アワノスという手作り陶器の名産地、ワイナリー、最後にあのきのこ岩が林立するパシャバー地区。
 昼からの日差しは強く、空はあくまで青く・・・いい写真が撮れていたのに・・しょぼん。

★☆★☆☆
 
 ツアーが終わってホテルに帰るとすぐさまベッドに入りました。
 夕方近く起きて、ホテルから歩いてすぐの山に登りました。
 夕日を眺めるために・・すごい夕日でした。奇岩が林立して、そこにところどころ明かりがともりはじめるのは不思議な景色でした。カッパドキアは小宇宙を創出している、太古から・・・そんな気がしました。
 この夕日を見ただけでも、この世界遺産の地に来たかいあったというモノです。
 
 陽が落ちると一気に冷えます。
 ホテルへの帰り道、女の人たちが木につきながら、乾燥のために天然干しぶどうとなったブドウを木からもいでいました。
 挨拶をしました。
 夕方のギョレメは明かりが温かくて、何だか人恋しくなって、だれかと声を交わしたくなるんです。
 レストランで、中国からはるばるアジアを横断してきた大阪のご夫婦に会いました。
 お話ししました。二人とも心が開いたすてきなお顔で、きっといい旅しているんだろうなって感じでした。

 ホテルの建物は石、暖房は温かいし、何よりはいると音がしない。しーんとして静かです。入り口は二重でした。冬は寒いんでしょう。
 
>>>>>>>>1月19日 本日のできごと>>>>>>>>>>>

 夜中にヨドバシで買った「英語耳タコ大作戦」というソフトをPCにインストールして遊んでいたら深夜3時。起きられなくて布団から出たら11時を過ぎていた。
 こういうのはよくない・・反省。
 新聞連載の校正、メールの返事、FAX、電話等々をしていたら夕方。
 昨日Tサンからもらった「イブリガッコ」<スモークしたたくわん漬け 秋田名物>でご飯を食べる。うまい、ホント。わたしの好物だ。
 田舎から、お米、おもち、そばが宅急便で届く。ありがとうさんでした。
 忘れてきたトルコの旅メモもはいっていた。よかった、更新ができる。

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2002年01月18日(金) 第24夜 トルコ あこがれのカッパドキアへ

 カッパドキア。行きたいと思いはじめてから、もう15年は過ぎているかなあ。
 奇岩はつらなる風景、地下都市、きのこのような岩の住居。写真で見てからいつか絶対行くぞ、と思っていました。
 トルコは大きい国で、エーゲ海沿岸、地中海沿岸、東部地域、中央地域、と分かれているのですが、カッパドキアは中央地域の標高700メートルの地帯にあります。
 世界史で、最初に鉄器をつかったのはヒッタイトとかって覚えましたが、そのヒッタイトが住んだ地域でもあるのです。

☆★☆★★

 夜九時発のカッパドキア行きバスで、イスタンブルから出発です。
 バス・ホテル、みんなチエコさんが手配して下さったので、またまたラクチンできたのでした。何しろ、イスタンブル3日、カッパドキア2日って感じで、ワタシ的には駆け足旅なので、人に手配が頼めるのはありがたいことなのです

 7時に長距離バスステーション行きの迎えの車が来る、といわれて何で2時間も前に・・まるで飛行機じゃないかと思ったのですが、1時間かかって到着、納得でした。
 車には同じくカッパドキアに行くオーストラリアからの女の子、日本人の女の子2人がいました。オーストラリアの子は、日本にいたことがあるとかで、ごく少々の日本語できるお人でした。
 日本人の女の子2人はイギリスでボランティアをした帰りで、帰国の前に旅をという若いお方。
「今日土産物屋のおじさんと話していたら、日本人はもっと英語を話したほうがいいといわれたんですよ、そう思いませんか。話しかけても、話せないから無視した利するんで感じが悪いとかいわれました」
「それで、あななたちはどういったの?」
「賛成だっていいました」
「そう? わたしは、そんなよけいなお世話をする前に正価がないこの国の販売方法を改めた方がいいといいたいわね。オスマン時代からの、物売りじゃ怖いよね、口ききたくても、だまされたくないから、さわらぬ神にたたりなしで無視の人もいると思うから。私なんてやたらに話しかけてくるトルコ人と口きくなっていわれたから」
 二人、シラーとして「そうなんですか・・」
 そうなんだよ。
 英語を話す方がいいっったって、かれらだって商売のための簡単な英語のみだろ、必要に迫られて話している訳よ、お嬢ちゃん。トルコ人でも日本人でも、一生英語を話す必要のないないお人もいるわけでね、お嬢ちゃん。そういう人は話す事なんてないんだよね、人生の大事な時間を無駄なことに使うことはないんだから。必要に迫られれば、日本人だってそれなりにやるよ、お嬢ちゃん。
 とは言いませんでしたが、まずは日本語でどれだけモノが考えられるか、から始まるんではないでしょうかね。

 バスは日本でいえば、中距離を走る感じのモノで座席のすわりごごちはあまりよくない、何しろ、となりにおデブのトルコ人のおばさんがきたから、窮屈です。
 でもまあ、モスレムのバスは、女性の隣は女性・・はきまりなので、夜行でも安心は安心です。
 走り出したとたんに前についていたテレビで映画が入り、若いバスの助手クンが、例のレモンコロンふりかけと、ミネラルウオーターのサービスを開始します。
 競争が激しいトルコのバス会社はこのサービスで差をつけようと躍起とかいいますが、それよか、バスの車両の仕様を日本のようにもう少しフラットになるデラックスなやつを導入した方がいいんじゃないの、といいたいですねえ。

★☆★☆★

 夜中、バスは高速道路をひた走ります。(そのせいかどうかトルコのバスは事故が多いらしい・・・)
 夜が明けかけると、イスタンブルとはまったくちがった景色が広がっていました。
 茶色の台地、草木のない岩山、荒涼とした景色。アイスランドで見た月世界のような景観とよく似ています。
 
やがてバスは止まりました。何人かの人がおりていきます。その後何カ所かに止まったバスは、そのたびに人を下ろし、終点のギョレメまで行く人は、旅人だけです。
 やがて、あの独特の、写真で見たことのある岩が見えてきました。
 ついたああ!!!
バスは小さなバスターミナルに止まりました。

 ギョレメは一番カッパドキアらしい景観の村です。
 予約してあるホテルから迎えがきているはずなのですが、誰もいません。 
 ウロウロしていると、「ホテルは?」の男がちかずいてきました。
 「予約を持っている、ギョレメハウス」
 といったら、あっちだと指していなくなりました。
 それにしてもニョキニョキの岩、そこにドアがついて住んでいる人までいます。
 おとぎの村に迷い込んだみたいです。
 
指さされた方にいったもののわからん。鶏が遊んでる土の家の前にいた女性に訊きました。
彼女はあわててうちの中へ。あれ?と思っているとすぐに男<多分だんな>が出てきて、道案内に立ってくれました。親切!ですねえ。
 いいとこみたいだぞ・・四国みたいだぞ・・・あこがれの地は・・。

 
>>>>>1月18日 本日のできごと>>>>>>>>>>>>>>

 洗濯、掃除。3日間に溜まったメールに返事を書いていたら昼を過ぎた。
午後、ヨドバシカメラでシグマリオン2の携帯ケーブル、PCケーブル、メモリカード、
などを購入。その後原宿にある「ふるさとプラザ」に新規就農の資料探しにいったら移転したようでなくなっていた。
 しかたないので「石」<パワーストーンショップ>で昨日の賞の記念に水晶の腕輪を作ってもらった。<2300円>「砂漠のバラ」も2ヶ<1000円>買った。

 夕方、Tサンと会って食事。ささやかにビールでお祝いしてもらった。
 教員の職場環境の悪化を彼女は嘆いていた。

 帰ってきたら、スヌちゃんから留守電が入っていたので電話。賞の報告をして、来週に食事をする約束をした。いつも忙しそうだ・・体をこわさないといいが・・・。

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2002年01月17日(木) 第23夜 トルコは デリシャス カントリィ

 トプカプ宮殿前にそびえるアヤ・ソフィヤは、赤い外壁で覆われた大聖堂です。元々は、ギリシャ正教の総本山だったらしいが、モスレムの国になってからはモスクに大改修。モスクにはつきもののミナレット<尖塔>や、聖地メッカの方向を示すミフラーブがつけらて、偶像崇拝が禁じられているためにキリスト教系の壁画が塗り込められたり・・。でも今は博物館としてギリシャ正教時代の姿を見せています。
 修復中だったので、ばか高い天井の美しい形や模様の全貌を見ることができなかったのが残念でした。
 北の回廊に「湿った柱」というのがあって昔からそれにさわると「目が治る」とか「子宝に恵まれる」といわれているらしくて、人が集まっていました。
 キリスト教の聖堂の時も、モスクになってからもこの「ご利益」は変わらないらしくて、人の願いは宗教関係なくにたようなものなんだということなんでしょう。
 もちろん私もさわりました。今さら「子宝」じゃ困るけどね。ジトっとした感触で、今ひとつ気持ちよくありませんでしたな。

★★☆★☆
 
 アヤソフィアから百メートルも行かないところに向かい合って立っているのが「ブルーモスク」。正しくはスルタンアフメット・ジャミーイ・・・建てたスルタンの名前がそのまま正式名になっています
 ミナレットは6本あります。ブルーモスクといわれるようになったのは、内部が青色のイズミックタイルで飾られているからです。
 確かに入ったら、その繊細な美しさは「ほーほほううう」でありました。
 入り口で靴を脱ぎ、持っていたスカーフをかぶり、もちろんお祈りの時間は信者以外はダメ・・といろいろと手続きがありますが、一見の価値ありです。

★☆★☆☆

 見学すると空いてくるのはお腹、であります。
 トルコはその辺でたべるのものがうまい・・のです。エジプトで壊したお腹を抱えていましたので、かなり注意深くはしていましたが、いくつか美味しいものを紹介しましょう。
 貧乏旅行者ですから大したものは食いませんが、ね。
 
◎トルコピザ
 細長いパン生地の上にチーズがたっぷりとのる。のるというより、えぐったパン生地の中にチーズがはまっているという感じ。とにかくチーズが独特の味の濃さでうまいんだわ。

◎トルコサンドイッチ
 トルコファストフード。エジプトのシャワルマふうだが、トルコのほうが野菜がたくさん挟まっていて日本人の口には合う・・・と思う。これ、しょっちゅう食べていた。安いしボリュウムがあるし・・。
 
◎魚、貝、イカの料理
 魚介類がぎょっと<サブイシャレですまぬ>するくらいにうまい。それから、港で売っている鯖サンド。
 一度、宿のチエコさんにおし得ていただいたレストランでちゃんとしたコースで魚料理を食べたが、ソースもかなりいけていました。トルコワインも美味でした。

◎焼き栗・焼きとうもろこし
 焼き栗をたべました。まん中に筋を入れてわってから焼く。栗ウリのオッさん、こじゃれたお洋服をきていて、これがまたいい。栗は時期モノみたいです。

◎カッパドキアで食べた壺料理
 郷土料理でありました。
 素焼きの壺に肉や野菜を入れて焼く。それをふうふう状態で客の前に運び、目の前で割ってくれる。アッヒ!アチチ!とかいいながらワインなんかと食す。陽が落ちると一気に寒くなるカッパドキアにはぴったりの一品だった。

 お菓子・パンもみんなうまかったです。
 
 トルコは正しい食文化の国です。
 トルコ料理を食べるために、あのワインを飲むためにまたトルコに行きたいくらいじゃ。
 

>>>>>>>>> 1月17日 本日のできごと >>>>>>>>

 16時47分発の電車で、帰浜。
 県境では雪が降っていた。スキー場も営業中。
 深夜?11時、帰宅。トルコの旅メモを甥のPC側に置いてきたので電話。ところがない・・・困った旅日記の更新ができない・・・。
 
電話のルス録がいくつもちかちかしているので再生したら、「あなたの作品が優秀賞に選ばれました」とうれしい留守電が入っていた。
 昨年9月、旅に出る前に出していった「交通事故を闘う」というヤツ。そもそも2000年にシベリア鉄道を旅に行くきっかけになった大事故の体験を書いたものだ。
 なにより、賞金がけっこうでることがうれしいです、はい。
  ヘビ皮・黄色財布の効果が出たのか?!
 永年失業者、で、職業「旅人」なんて書いているわたしとしては望外の「喜び的新春」となりました。ありがとうございました。

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2002年01月16日(水) 第22夜  ボルポラスクルーズ  君は黒海を見たか 



またもコーランで目がさめました。
モスレムの国に来ている感じするよねえ、旅の味わいだよ、旅情だよね、と思ってももう少し寝かしての感は否めません。
また、毛布かぶって二度寝体制にはいりました。

2時間後.きりっとした深い青空がひろがってます。良い天気.ボルポラスクルーズ日和です。定期観光船の出航時間は、10時30分です。
トラムで港の近くエニュミニュ駅まで行きます。5万リラ<10円くらい>、ジェトンをかって駅の入り口でいれて乗ります。
市内の乗り物としては一番利用しやすいですね。

☆☆☆

前日に乗り場はチェックしてあります。
迷っていたりするとすぐに客引きに捕まりますから。
チケット売り場に並んでいたらわたしの前にいたフランス人カップルに客引きが「ボルポラスクルーズはどうだ」と声をかけました。
「NON!!!」
 ものすごい顔をして、女のほうが怒鳴りました.
ドヒャア。わたしはびっくりです。
そりゃ、解るよ、だってボルポラスの定期観光船の切符売り場に居るんだよ、意志が決まっている人にばかな客引きですよ、でもねえ、おフランスのおネエさん、怖すぎました。
日本人にはできんわあ、あれ。
もちろん、客引きは居なくなりました。

予定通りに出た船には、アメリカ人、ドイツ人、フランス人、イタリア人・・欧米系のお客でけっこう満員状態でした。
さもサービスというように、ジュースやお茶を入れたカップを持ってウエーターたちが客の間を回っています。あれ、ただじゃないんだよなあ。
見ているとアメリカ人らしい男が、ひょいとジュースのグラスを持ち上げました。飲み干すのを待っていたウエーター君、お金を請求しています。「え?フリーじゃないの?」って感じのアメリカ人のおっさんの間抜けなお顔・・・。あのエジプトのカフェと同じですね。確かインドネシアのガイドブックで注文しない料理まで出てきてサービスと思って食べたら金取られた、というトラブルを見たし、原理的には同じですね。

 さて、ボルポラス、外の船べりにいると風が冷たいのですが、絵になるイスタンブルの風景が来ては、去ります。
建国の父アタチュルクの住まいとなった宮殿、昔牢獄、今、フォーシーズンズホテルの立派な建物。フォーシーズンは立派なホテルですけどさ、でも、昔の牢屋なんて私は泊まりたくないね、悪い夢、みそうだもん・・そして、ブリッジ。
 わたしはクラゲさんと鯨くんを愛すものですが、そんなわたしメの目に飛びこんできて、景色以上に気を引くのは深いヒスイ色の海に浮かぶクラゲさんたちです。
 ふねが寄港する波止場近くにはミズクラゲ、水深のありそうなところに行くとヒゼンクラゲ系のでかいやつヤツがうろうろしているんです。
景色と共にクラゲも美しいん・・・であります。

クラゲは自分の力で泳がんのですね。潮の流れにのって風任せ、潮まかせ.
水温25度以上にななると発生し、その命は一年ない.このはかなさ、地球を傷つけない生き方が好きです。とにかく美しい・・次回はクラゲに生まれ変わりたい私です。ニンゲン、もういいですわ。鯨でもいいけど.
おっと、また話が横道にそれました、モトイ!!

 
☆☆☆☆☆

 一時間半ほどの乗船でクルーズの終点アナドル・カワウにつきました。
 この船は、3時にまた戻ります。それまで自由時間というわけです。
 イスタンブルとはえらく違う田舎的たずまいの村中を通って、目指すは山の上。黒海が眺望できるポイントです。
 わたしだけではありません。降りた客たちは皆同じことを考えています。急坂を登り始めます。
「ネエ、あなた、コレを上ると、どこに行くか知っているの?」
 後から歩いてきた、金髪のやや小太り気味の女性がわたしに話しかけます。
「もちろん、あなたは知らないの?」
「みんなが行くから来たのよ」
 彼女の連れ、ひげの穏やかな顔立ち男性が道路の反対側からこちらを見ながら歩いています。
「これを登ると、私達は黒海を見ることが出来る」
「そうなの、きれい?」
「たぶん」 
「私は下のレストランで魚が食べたいわ」
「あなたはどこから来たの?」
 彼女が答えました。でもききとれません。
「ごめんなさい」
「イスラエル・・・」
 イスラエル・・ユダヤ人、今回のテロの元凶ともいえるお国のひとでしたか。
「あなたは? 中国?」
「いいえ、日本」
「彼は日本にいったことがあるわ」
 話をしながら、何時の間にか、トップオブザマウンテン。
 はるかに黒海です。
黒潮が黒いうみの潮の流れであるように、黒海も黒々とした色をしています。まさに「ブラックシー」
頂上には、オスマン時代の要塞の名残りがありました。
そこをさわやかな風が渡っています。
空気に透明感があります。
直下のボスポラスを船がしげく通います.今も大事な通商のみちなんだとわかります。
歴史の交叉点でもあった場所に立っている・・・風に吹かれて・・っていいねえ。

イスラエルの人達は何時の間にか居なくなりました.
みなと近くにあったお魚レストランへ行ったのでしょう。

下って、わたしもレストランでランチセットを食べました。
ビール、サラダ、パン、ムール貝の串揚げ、イカのリング揚げ、あじのムニエル一皿になったセット.5ミリオン。
リング揚げがおいしかったです。


帰りの船はビールが効いて、お昼寝タイムとなりました。


>>>>>>>1月16日本日のできごと>>>>>>>>>>>>

新潟は終日雨。雪がどんどんと溶ける。

昼はカレー、夕方にはカキフライとかぼちゃコロッケを作った.
揚げ物を自分でするなんてホントに久しぶり.
 メンドちかったが、あげたてはうまかった.かぼちゃは特に自家製で、甘味がちがう.やっぱり、てまひまかけたのものはうまいっす.

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2002年01月15日(火) 第21夜 イスタンブル ホジャに会う? ナンパか??

朝。
あ〜あ〜ウ〜ア〜〜〜とかなんとか、けたたましい声で目がさめました。
「なん、なんなんだ???」
時計を見ると、6時前だよ。
どうやら、朝のお祈りの時間らしい、コーランのようですね。
エジプトにいる時も、遠くからそれらしきモノが聞こえてくるときがありました。夕方、5時40分過ぎ、レストランで、ボーイさんが物陰でお祈りしている姿を見ました。
しかし、こんなにけたたましく起こされたことは初めて。
まあ、このペンションはトプカプ、アヤソフィヤ、ブルーモスクなどなどのトルコが世界に誇る観光地が歩いて5分といういうイスタンブルのハート見たいなところにある訳だし・・・こういうのもあり、だな、とまた毛布をかぶって寝ました。
 結構、朝は冷えているイスタンブル。

☆☆☆☆☆

昨夜、このペンションの主人のジョシュクン氏とおくさんのチエコさんから、トルコの莫大な単位のお金、アヤシイ人々について講義を受けました。
何しろ、トルコリラは1万リラが約2円。人々がよく使うのは、100万リラ=ワンミリオン、とういう、とか、500万リラと50万リラの色が似ているから間違えないように、とか。なにしろ、お札の顔はみんな建国の父「ケマル・アタチュルク」で変わり映えがしないから、わたしのような数字に弱い人は、よほど気をつけないと・・・。不安だ。

トルコとエジプトのお金、比べれば<どっちの国のお人にも怒られそうだけど・・比べるな〜とかって・仲は良くない>
エジプトの紙幣は汗と油と手垢?で・・キチャナカッタけど、トルコはとても綺麗だッてこと。
お金のテアカ度ってその国の経済状態というか、国力というかその他もろもろ・・ついている匂いで食生活までわかるんだよね。
中国なんて、その昔ちぎれたお金にテープ張って使ってて、そのババみたいな金を他の人に回す・・・発見されると拒否あり、なんてこと、あちこちで見かけましたっけ。

おお、話がそれた・・・

アヤシイい人々については、またしても「日本語使いに気を付けろ」。
「話しかけられても無視してください、ジョシュクンの友達だといって話し掛けてきますから。そういう友達、私にはいません」
ミスタージョシュクン。
「日本人で、日本人をだます人もいますから、悲しいですけど」
 それはこのごろスペインなんかでもあるんだよね。
「昨日来て、一日観光して、トルコ人と友達になった、そこに泊めてもらう、それも男だったりして、とか信じられない話は沢山あリます」
「一日で、男、ですか?」
「もともとそういう人はそれを求めてきているんでしょうけど」
 チエコさんは厳しいです。
 わかいママだけど、きりりとしたしっかりモンのお人です。

☆☆☆☆☆

9時。昨日の若いニイさんが用意してくれたトルコ朝ご飯をたべて、取り合えずトプカプだ〜い。
 話はまたそれるが、フランスパンをデブにして少しきめを荒くして表面をカリカリに焼いたトルコのパンはうまい、白い塩っぱいチーズも、なれるとおいしい。トマトとあわせると絶妙です.
もっともこれらは、アムステルダムでもよく食べていた、近くのトルコ人のお店で売っていたからね。アムスにはトルコの人、沢山います。

トプカプは入場料、7ミリオン。トルコのほかの物価に比べるとお高いです。宝物室やハーレムにはいるのにもお金がかかるし、エジプトと同じく、その辺が観光で国がなっている印象よね。
建物はもちろんスゴイ・・でもなんといっても宝物館のお宝の凄さでしょう。てのひらにのるほどのエメラルド、金の飾り、ダイヤ、真珠・・・トプカプの短剣なんて、でかいエメラルド3個もつけて・・それはそれは。
 これだけの富を持ったオスマントルコのスルタンってお人は・・と思わず想像しました。
 でも、あれだけお宝をつけた衣装、王冠、首飾り、剣、みんな着けるとスゴイ重量だろうねえ.スルタンも「体力勝負」の家業だなと思ったことでした。

ハーレムは、スルタンの「大奥」です。
入り口には、エジプトから献上されたヌビア人の宦官が番人としていたとかで、ろう人形のごときがありました.
エジプトで「ヌビアンごひいき」となったわたしには「かんがあん?アレ、きられっちゃったってか?」とお下品に複雑でした。
中には大理石のハマム<トルコ風呂ってヤツ・・蒸し風呂>とか、果物の間、なんていうのがあって、果物を食べるだけの部屋なんてまあ豪華・・ため息の出る繊細な装飾の広間でした。

別の部屋にはエジプトから奪取したマホメットの聖遺物、軍旗、サーベル、聖なるマントもありました.
エジプトと仲が悪いわけだなあ.

☆☆☆☆☆

スルタンアフメットという観光客のメッカ、に出たらやっぱりスゴイ声かけ攻撃でした。
危険度2、テロの影響で観光客が減っていて、こういうアヤシイ人達も大変だろうと・・
でも、チエコサンとジョシュクン氏の忠告通りに知らん顔してましたが、何で話しているのに応答しないんだ・・とおこって挑発するヤツまでおって・・困った。あたしとしては、エジプトのように気軽にやりたいんだけど、でもトルコ人ってエジプト人のようにやたら明るい・・というか能天気な感じがしなくて・・それもできん・・・

友人の淳ちゃんがメールまでよこして見て来いといった「地下宮殿メドウサ」を眺めてから、ふらふらと坂を下ってボルポラス、アジアとヨーロッパのさかいといわれている海を見に行くことにしました。

☆☆☆☆☆

港はついた船から下りる人、乗る人、物売り、露店、客引き、眼の見えない人が歌を歌って投げ銭待ったいたり・・とにかく活気と喧騒で溢れかえっていました.
金角湾にかかるガラタ橋を歩いていたら、橋の歩道に人を集める露店がありました。
見れば、日本製電脳ゲーム売りです.円盤に鉛筆を突っ込んで回すと楕円形がいくつも書けるシロモノで、「電脳?」かの素朴さ。更にはゲーム「ー」のしるしが「|」になっている日本製の海賊版で、お里が知れていてご愛嬌、で、思わず笑いました。
「コレ、あなたの国のものですか?」
 スーツを着たモスレムひげのある人なつこそうな目をしたおっさんです。
「いいえ、アンダーグランドバージョンです」
「どうして解るのですか」
「書き方が違います」

 橋の上で話が始まりました。
 おっさん、普段はドイツで先生だけど、今は休暇だ、というのです.
 今の時期に休暇?ねえ。そんなこともあるのかねえ.
 ドイツにもオランダと同じくトルコ人は多いよな・・。
「いま私は時間がある、あなたをガイドしてあげよう.7年前にわたしはこの町で観光ガイドをしていた」
 うーーーん。
 トルコでの、日本人の被害は誘われてついていくことから始まる、とガイドブックには書いてありました。
止めたほうがよいでしょう・・・・.
「私はもう宿に帰らねばならない、だからけっこうです」
「宿はどこか?」
「アヤソフィアのそば」
「私もそちらに行く、ようがある、では帰りながら案内してあげよう」
 コレは、断りきれん・・なあ・・困った。
 結局、スルタンアフメットまで、言うことで彼と共に歩くことになりました。
「トルコでは、先生を ホジャ という、私をそう呼んで良いよ」 
 ホジャねえ.ほんじゃ、そうしますわ<サブーイ?かな>

イエニジャーミイ、エジプシャンバザール、中央郵便局前を通って、スルタンアフメットが近くなったころ「私の友人はブルーモスクの近くでカーペットショップをしている.私はそこに行く、あなたも来ないか」
そうか、やっぱり、この人も客引きねえ・・非常に巧妙な・・。
「私はきのう来たばかり、買わない、じゅうたんには興味が無い」
「もちろん買わなくていい、見るだけでいいんだよ、いやだったら見なくてもいい、お茶だけ飲んで帰っていい」
 決まり、ホジャ君は、客引きさんでした。
 まあ、5時半までには宿に帰る約束をしている、帰らないと日本人の奥さんが心配して探しに来るだろうと話して防波堤を作ってから、こういう手のこんだ客引きをする店ってどんなところか見てやれ、と付いていくことにしました。

 ブルーモスク前を横切っていくお店、たしかに、立派なお店でした。
わたしの前に日本語はとても上手いハンサムなお兄さんが広げたじゅうたんは数万くらいが最低プライス、上は天井知らず.
 日本のガイドブックにも載っている信用のある店、が「売り」でした。
調べたら、確かにのってたけど、そこには40ドルくらいからと嘘?がかいてあったですよ。
日本語がばかうまくて、神奈川県三浦にじゅうたんの取引先があるとか・・流暢に話して、怪しいところがなさ過ぎるのが逆にアヤし過ぎてヤバイ、というか.ですね。
断れなくて、あるいは信用して買う人、居るだろうな・・と思いましたわ.
わたし、お茶だけ頂いて、綺麗なじゅうたんを褒めあげて帰ってきました。

☆☆☆

 ことの次第を、帰ってチエコさんに話したら
「気を付けてくださいよ、話しかける人に乗ったらだめだといったでしょ」
 としかられました。

 エジプト人は、あからさまでした。
 ホジャ、のような手の込んだやつは居なかった、アヤシイ人々も「だますかもよ」状態で解りやすかったし.
 文化、歴史、風土の違いでしょうか.

 「だまし」のバックグラウンドについて「哲学」した夕べでした。


>>>>>>1月15日 本日のできごと>>>>>>>>>

マウイ行きの予約金を払い、その他色々とヤボ用で街中をうろうろ。
3連休の後で、銀行・郵便局などは人で溢れていた。
バーゲンで、蛇皮で黄色のお財布を買う.蛇は嫌いだけど、お金はたまるんだとか?一万位したぞ、高かった。ご利益あれよ.蛇君。
でも夕方、18切符で、田舎に帰ろうと思ったら、電車乗り遅れ、結局新幹線で帰るはめ。お金さんは出ていった・・・いいのかねえ。

正月には雪に埋もれていた新潟、このところの温かさで雪が解けて12月初めのような・・。雨が降ってました。
東京は18度、変だよね.地震とかないといいんだが、心配。

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2002年01月14日(月) 第20夜 トルコじゃ トルコじゃ イスタンブール  


 疲れを癒す間もなく<いえ、下痢を治す間もなく・・といった方がいいかも>2001年10月14日、戦争真っ最中にわたしはアムステルダムから、世界一周チケットを手にしてトルコへ旅立ったのでした。
 
 三枝子さんとテクラブ氏が空港まで送ってくれました。
 いつも、この別れの瞬間がつらい・・・。 

 ★☆★☆★ 

 ところでこのアラウンド・ザ・ワールドチケットは、トルコ、タイ、北京、東京、2002年夏アラスカ、カナダ、オーストリア、アムステルダムのチケットです。約30万円であります。

 シンガポール・エアなんてソウルに行くと12,3万くらいでアラウンド・ザ・ワールドチケットがあるらしいし、単に価格だけ比べたらこのお値段は高いです。
 しかし、一年オープン、スターアライアンス<日本だとANAが入っている。他にタイ、ルフト、UA、エアカナダ、オーストリア、シンガポールなどが加盟>は世界に一番ネットワークを持っていて、ほとんどどこにも行ける、ということを考えればお安いです。おまけにANAのマイレージはつくしで。
 アムスのクリエイティテブツアーで発券。JAL系で、日本語OK。戦争の状況を見ながらとことん発券を待ってもらいましたし<発券すると変更するのに60ドルだったか70ドルかかる>、よかったです。
 当初の予定では、タイではなくて、インドネシアだったのですが、かの国のモスレム過激派が観光客をターゲットにするという情報が入り、さすがに土壇場で変更、やめました、そんで急遽タイ。ガイドブックがないぞうさん!!

☆ ★ ☆ ★ ☆

 エアは、ルフトハンザ。アムス10時45分、例のごとく厳しい検査。フランクフルト経由で、夕方5時45分にはトルコの首都イスタンブル着。フライトタイムは4時間ほど。近いのです。
 トルコは「わしゃヨーロッパじゃ、EUに入れい!!」と主張しているようですが、距離的にはよくわかります・・・ね。

 またしても25ドルなりで、宿から車が来るお迎えつき。
 ガイドブックを見ていたら奥さんが日本人、空港お迎え25ドル、というペンションを見つけてFAXを入れました。
「うちを予約しておきながら、空港で客引きにつかまりついにたどり着けずにキャンセルもせずに他の宿にいってしまう人がいます。空港へのお迎えリクエストがない場合は予約金をいただきます」
 というすごいメッセージがきて三枝子と、おお、トルコって・・やっぱりあやしいのか、と笑ったんですが、まあそんな事もあってお迎え予約を入れました。
我ながらヤワになったと思いますが、ラクチンなことは確かであります。
 
☆★☆★☆

 イスタンブルの、ケマル・アタチュルク空港、きれいでした。
 ただ、トイレのドアに「トイレット・フリー」とことさらに書いてあって「先が思いやられるよ」と笑ってしまいましたが。
 
 50ドルばかり両替をして<しかしここのコミッションが一番高かった、やられた>、ほとんど、スリスルーと入国しまって出たとたん、優しそうな顔のニイさんがペンションの名前を書いた看板を少しあげてにこりとしました。
 彼は、ペンション・ジョシュクンのご主人ミスタージョシュクンの従兄弟だと自己紹介をし、その後、運転をしながらタバコをすすめてくれました。なんだか、エジプトとちがうぞ・・。
 次に「リフレッシュに」とレモンのコロンのようなものを振りかけてくれようとしましす。
 イヤ、けっこう。
 お断りしましたが、その後バスに乗ってこのコロンサービス、乗り物でのトルコの定番サービスなんだと知ったことでした。

 車の窓から見える風景は雰囲気としてはヨーロッパ、昨年行ったロシアにもにているような・・・。みんなコートを着てお散歩しています。海はボルポラスでしょうか。 
 車もエジプトのように信号無視したり、ブーブー騒がしくありません。
 同じモスレムの国ですが、まったく違いますなあ。
 30分ばかりで旧市街にある、あのトプカプ宮殿まで歩いて5分というすごいロケーションの宿に着きました。
 
 宿の居間には、某大新聞社のテヘラン支局からきたという記者さんが先客でいました。
「テヘランは危険じゃないんですか」
「全然大丈夫ですよ、トルコも大丈夫なのに、危険度2なんて出して困りますねえ」
「まったく。旅行の人が来なくなると、観光立国の国は大変ですよね、エジプトも困っていました」
「ここも、みんなキャンセルで大変みたいです」
「あの、話は違いますが、テヘランて、女ひとりでも旅ができますか」
「できますよ、ただスカーフをかぶらないと。法律があるんですよ」
 
 そうかあ。
 もしかしてサウジアラビアのように男同伴じゃないと入国できないんじゃないかと思っていたんだけど。今度行くぞ。
 どこより、何より、モスレム系の国はおもしろそうだモン。
  
>>>>>1月14日 本日のできごと>>>>>>>>>>>>>>
 
 上に住んでいるフィリピン人のおネエさんたち、朝の4時半に帰ってきて、4時50分から掃除、洗濯をCDかけながらしてくれたのには参った。大声で話すし。
 この頃しょっちゅう、なんだよね。深夜1時に寝たのに起こされて、バカやろう、と思った、しかし、彼女たちの後には「ヤーサン」系の人がついていそうだしなあ。どう「ご迷惑」の気持ちを伝えるものかなあ。 

 上の階の騒ぎで寝不足。少しのつもりが、横になったら、昼寝を3時間もしてしまった。結局、不動産屋のおじさんに訳を話して注意してもらうことにした。

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2002年01月13日(日) 第19夜 さらばじゃ カイロ、そしてエジプト

 またまた、おっとどっこい、アリタリア・・・で、フライト変更があったのです。昼2時過ぎだったはずのフライトがなんと朝4時、ですよ。そらないでしょ、ですが、何しろ安チケットですけん。
 2時間前チェックイン、と考えるとホテル出発は遅くとも深夜1時過ぎ、となります。
 
☆★☆★☆

 ホテルのフロントで「フライトタイムが早朝4時に変わったので、わたしは深夜に出なければならない、タクシーの手配を頼む」と言ったらフロントおじさんはにっこりとしていいました。
「我々は、深夜12時30分にモーニングコールをしましょう。そして、12時45分に朝食を運びましょう。そしてタクシーは1時に手配します」
「モウニングコール? ブレクファスト? リアリイ? 」
「そうです」
 そして、その通りになりました。モウニングコールなんて12時20分でした。
 何事もおくれるエジプトという印象でしたが、びっくり。コスモポリタンホテル、場所はいいんですけど、エントランスもそれなりに豪華なんですけど、部屋はボロでした。「うらぶれた国営」をもろしてましたが、最後に「国営ホテル」の意地というか、サービス根性を見た気がしました。
 でも、夜中にルームサービスで「朝食」というのはねえ・・。
 
 ちなみにこの帰国<オランダへ>の日、ホテルで1回、ミラノまでの飛行機で1回、オランダまでの飛行機で1回、つごう3回の「朝食」を食べました。ゲップ。

☆★☆★☆

 深夜、タクシーの窓から見るカイロの町は、さすがに昼間の喧騒もなく涼しい気配まで漂っていました。
 しかし、我らツーリストの安全を守ってくれる「ツーリストポリス」のお兄さんは銃を持って数百メートルおきに立っていました。
 トラベルエージェンシーのナイルストーリーからのメールで「エジプトは危なくない、ポリスの数がすごいですから」というのがありましたが、そのとおりでした。逆に、これだけポリスがいないと安全じゃない・・ということでもあるわけですが。しかし、観光しかめぼしい産業がない感じのエジプトで、この「ツーリストポリス」というお仕事、若者の有力な仕事先になっていると思いました。
 
 タクシーは30分もかからずに空港に着きました。
 料金はホテルで前払いしてあったの、チップのために残してあった2エジプシャンポンドを好印象の若い運転手に渡しました。もっとあげてもいい感じだけどない、エジプシャンポンド、スッカラカン。
 みんな「エル・アブド」というエジプト人にも人気のケーキ屋でチョコだのクッキーにしてしまったのです。ルームサービスや、荷物持ちのボーイさん、タクシーへのチップをのけた残りの24エジプシャンポンドをエル・アブドの店員に見せて「わたしは今夜帰国する、このエジプシャンポンドををみんな菓子にかえたい、旨そうなものを選んで欲しい」と頼んだのです。ずっしりとした量がきましたよ。 
 オランダの三枝子さん家族へのおみやげです。
 この方法、わたしはよく使います。
「だまされるんじゃない? 」という人もいますが、手の内を見せている人を、ニンゲン、そそうだませないモンです。
 
☆ ★ ☆ ★ ☆

 一年前、テロの前の年です、ワシントンDCに1週間滞在しました。あこがれのスミソニアンに通うためです。でも、誰かと口をきいたのは、帰りに食事に寄るチャイニーズやイタリアンのお店の店員だけです。
 イタリアンのお店では、お金を間違えて出したらヒスパニックのお兄さんが「気をつけろ」と注意してくれました。DCの自由な、どう過ごしてもいい空気もスキでしたが、エジプトの、人臭さむんむんのエネルギーはもっと好き、です。
 毎日見知らぬ誰かと友達のようにお茶を飲んで話すのは楽しかったです。

「さらばじゃ、エジプト」
 離陸する飛行機からカイロも夜景を見ながらわたしはつぶやきました。
 オモロイ旅でした。
 名残惜しい、あと1ヶ月くらいいてもいいよ。
 あこがれのオピラ、アブ・シンベル、王家の谷・・みんなよかったけど、何といってもエジプト人がよかった、楽しかった、おもしろかった、あやしかった、温かかった・・。
みんな危険じゃ・・?と心配してくれたけど、そんなことはまったくない旅でした。
またくる、ぞうさん。

PS
 ハーンハリーリで食べたチョコアイス、エル・アブドで食べたマンゴーアイスのせいかアムステルダムに帰ってから下痢に悩んだわたしでした。
 もう帰るんだから、と一日に一気に2ヶもアイスをがっついたわたしが悪いのです。
 以上、旅のおまけでした。


>>>>>>1月13日 本日のできごと>>>>>>>>>

 今日もおだやかに晴れた。窓から富士山が見える。だけど、朝起きたら、昨年もらったシンビジウムがつぼみをぼろぼろと落としていた。
「わたしの愛が足りないせいか?」と悩んだ。
 新聞原稿2本下書き。大昔の同僚、Sサンからの相談電話で1時間あまり話す。
「まあ、この際おどすんだね、ちゃんととやってくれないと、ふっと自殺するときアンタのせいだ、とその人の名前を遺書に書くって、こういう非合法の手段しかのこってない」というすごいアドバイスをしてしまった。
 いいのか?
 スヌちゃんとも電話で話す。
「風水によると金運にはヘマタイトがいい」
 と言うので、今度うちにあるヘマタイトで携帯のストラップをつくってプレゼントする約束をした。

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2002年01月12日(土) 第18夜 再びカイロ  ハーンハリーリで遊ぶ

 
ルクソールからカイロまでは飛行機で約一時間。
 ナイル西岸のすごいほどの赤茶けた岩山を空から見ながらルクソールにさよならしました。
 
 さてカイロ。今度はお迎えがありません。自力で市内のホテルまで行かねばなりません。空港の建物を出たとたん、タクシードライバーに囲まれます。
「要らない、わたしはバスで行く」
 通りかかったツーリストポリスのおじさんにバス乗り場を訊くと「ほら、あの木の下」
 あーりがとう。
 バスに向かったわたしに声をかけてくる運転手はもういません。このあっさりあきらめ加減、エジプト人、スキよ、インドだとこうはいかないと思う。
 クーラーつきバスは市の中心、タフリール広場まで2エジプシャンポンド。となりにものすごくおでぶなエジプト人の女性が座ったので若干席が窮屈ではありましたが、快適でした。次回行くことがあったら、絶対バスですね。
 
☆ ★ ☆ ★ ☆

 ところがタフリール広場から、徒歩でホテルに向かったワタクシメ、何をトチちがったか道を間違ってしまいました。きょろきょろしていると「あなたはどこに行くんですか」
「わたしのホテルです、でも道がわからなくなって」
「コスモポリタンホテル、連れていってあげましょう」
 男はわたしが渡したホテルのアドレスカードを見ていいました。
 ふだんだと、そう簡単についていかないわたしですが、この人は大丈夫そうと、即座に判断。素直に「ありがとう」と彼に従いました。
 この人、オーストラリアのシドニーで仕事をしているエジプト人、今は休暇で実家のあるカイロに家族で帰ってきているのだそうです。
 例の定番質問のいくつかー「エジプトは初めてですか」「エジプトはスキですか」「エジプトのどこに行きましたか」に答えている間に見慣れたホテル前に到着しました。
「では、カイロ滞在を楽しんで下さい」
 彼はにこやかにそういうと帰っていきました。ありがとーーーう。
 ホテルの前では、銃を持ったガードマンが「おう、帰ってきたか」という顔で微笑んでくれました。

 そうそう、カイロについてすぐにこの旅の汽車や飛行機、ホテルを手配して下さった「ナイルストーリー」カイロオフィスの和田さんに「無事に戻りました」とお電話をしました。
「日本政府は戦争が始またのでエジプト全域に危険度2を出しました。日本で家族の方が心配しておられるでしょうから電話を入れて下さい。でも、この危険度2は現状とは違いますねえ」
「ホントです、どこも危険じゃなかった」
 危険度2が出ると、団体旅行がキャンセルになるのでお仕事あがったりなのだそうです。
「日本も、自己責任において旅を自由にできるようにすべきですよ」
 いや、まったく。
 ほとんど危険ではないエジプトやトルコに危険度2を出しながら、現実的には一番危険なアメリカやイギリス、アルカイダ組織があった欧州の国々には何も出さない・・危険度1も出さない日本の外務省のやり方はおかしい、とわたしも思います。
 日本国民の安全をホントに心配するんだったら、「テロの後には炭素菌」のアメリカには危険度3くらい出すべきでしょ、フン。(=_=)

☆ ★ ☆ ★ ☆

 エジプトの日々は残すところ半日。
 カイロ大土産物センター「ハーン・ハリーリ」はぜひ行かなくてはなりません。
 「歩き方本」によれば、14世紀、市場ができたのをきっかけに発展し、今や土産物屋が軒を連ねるバザールとして旅人が必ず<ホントか? >立ち寄るところだといいます。
さぞ、あやしいエジプト人がたくさんいるだろうなあ。

     お・も・し・そ・ろ・そう、フフフ。 

 ホテルの外でタクシーを止めます。場所柄長く車がとめておけないので、「乗れ」というので、乗ってから料金交渉が始まります。
「ハーン・ハリーリ、いくら」
「10エジプシャンポンド」
「高い、5」
「ダメだ、」
 信号待ちの交差点で言い争っていたら、隣りに停車していたトヨタから顔を出したマッチョでリッチそうな男が「なにを争っている?おまえはどこに行くんだ」
「ハーン・ハリーリ」
「? 地図をみせろ」
 走っている窓越しにわたしは「歩き方本」を彼に渡しました。
 次の信号。
 彼はなんとトヨタから降りてくると、運転手にきつい顔で何か言いました。
「7エジプシャンポンドだ、いいだろ。アンタが行くところは遠い、彼はアンタをちがうとこに連れていくとこだった、今度は大丈夫だ、オレがちゃんと言っておいた」
 彼によれば「ハーン・ハリーリ」という交差点? が近くにあるんだそうです。
 マッチョサンは「エジプトを楽しんでくれ」というと、歩き方本を返して車に戻っていきました。
 ヒエエ、カッコよかばい。日本の男にゃできんマネだわね。
 我がドライバークンは不服そうでしたが、無事にハーン・ハリーリに連れていってくれました。そして7エジプシャンポンドでいなくなりました。
 運転手クンはあのマッチョ男サンに「位負け」ですね。アイツがいなくなったから、約束を反故にする、ということをしないのがまた素直というか、ワルじゃない・・よね。
 
☆★☆★☆

 さてハーン・ハリーリ。
 周囲に、ガーミア・アズハル<イスラム世界の東大、アズハル大学>、ガーミア・ホセイン、ガーミア・アズル・ダハルなど天を指すミナレットを持つモスクが建ち並ぶもっともカイロらしいところでもありました。
 ガーミア・ホセインは巡礼地としても知られているところなんだそうです。

バザールの中は、同じ品物が軒を並べるようにつくられています。
 香辛料屋、生地屋、宝石屋、ガラペーヤ屋、などなど・・それぞれに臭いがちがって人のにぎわいがちがっておもしろいのです。
 わたしはあちこちでただ値切る・・を楽しんで、結局買ったモンは、しおりに干しナツメヤシの菓子・・という感じで。もしかしたら、値切り倒したまま買わんかった店では恨み? <(_ _)> かったかもです。

 時々、客引きしているニイちゃんに「わたし、明日の早朝帰るからお金がないの、バクシーシちょうだい」なんて言ってました。オニイも大笑いして「1ペセタ硬貨」<一円玉みたいなモン>をポケットから出して「ほら、あげる」ときましたモンね。
 いや、わたし、エジプト人のこういうとこ、好きですわ。

 干しナツメヤシ屋の前で休んでいたら、エジプト人女性が美味しそうにアイスを食べています。わたしも食べたい・・・。
 彼女と同じチョコのヤツを食べていたら、近くの土産屋の男が寄ってきて「どこからきたの」「日本」「おお、ヨシの国だ、彼はいいね、日本いいね」
 ヨシとは、あの「吉村作治先生」です。彼の名前はあちこちでききました。有名人でした、エジプトでも。
 そして毎度おなじみ「年はいくつ? 結婚している? 」
 「年齢はトップシークレット」といったら、また大受け。彼は「オレはマフィアさ、これ、トップシークレット」ときました。大笑いしました。
 
 遊んでいるうちに夕方です。薄暗くなってきました。
 ガーミアホセインの裏通りにある「シャワルマ屋」で、サンドイッチを食べて帰りました。
 
 シャワルマ食えば お名残おしや カイロの夕暮れ
 
         と一句詠みました。

☆★ メモ ★☆  

* シャワルマ でかい羊肉が太い金棒に巻き付けられて店先であぶれられてまわっている。それをこそげ落としてパンにはさんでサンドイッチにする。
 エジプシャンファストフードといっていい。

* コシャリもエジプト独特のファストフード  なんと米とスパゲッティが混ざって上に辛いソースや酢をかける、まずくはない、何回か食べた。
 シャワルマもコシャリも安い、店も多い。3から5エジプシャンポンドで食える。



>>>>>>>>1月12日本日のできごと>>>>>>>>>>>

 8日出した原稿の直しが昨日FAXで入った。それをした。
 イヤになるほど色気のない生活だ。
 あたしって旅の時しか輝けない??(-_-;) はああ(=_=)とため息。
 夕日がきれいでした。
 
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2002年01月11日(金) 第17夜 ルクソールのあやしい人々 2 


 前回に続いてルクソールでお会いした「あやしい人たち編 2」です。

★☆★☆★   

ハマダくん

 ルクソール市内のユーセフ・ハサン通りの一応イタリアンのレストラン。店の入り口にいた子ネコをからかっていたら、ニイさんがでてきて「入れ、日本人でしょ」といいます。店の中は、ほこりっぽい感じだし迷ったのですがネコのかわいらしさに誘われて、そこで夕飯を食べることにしました。
「ぼくの名前はハマダというんだ、ぼくのニイさんは日本にいる、もう五年間働いている」
 ほうほう。ハマダ、とはめずらしい・・。「日本人の名前みたいですね」
「そうです、ぼくの名前は、父と親しかった日本人の名前をもらいました」
 ヘエエエ。
「あなたにお願いがあります、わたしの手紙を日本に持って帰っておニイさんに出してくれますか」
「いいですが、わたしが日本に帰るのは1ヶ月後ですよ。あなたのお兄さんはどこに住んでいますか」
「今はわかりません、住所を見ないと・・」
 ムムム。そう?、東京とか、大阪とかくらいはワカランのかねえ。
「わたしの仕事は夜11時に終わります。その後に時間があります、そのときに他の店でぼくと会ってくれませんか・・。そのときに住所を持っていきます」
 これはあやしい感じ・・かなあ・・・顔はまじめそうなよさげな青年だが・・・。
「わたしは疲れていますから、それはできません」といってから「わたしは結婚しています」<また閻魔さんに舌を抜かれることいっちまったよん>
 彼は、さっと顔色を変えました。自尊心を傷つけたああ? ありりゃ。
「明日、わたしはこの店にあなたの手紙を取りに来ましょう。そして確かにそれを日本で出しましょう、約束します」
 彼は渋々ふうにうなずきました。

   ☆★ 翌日の夕方 ★☆

 ネコレストランにまた行きました。
 「ハマダはいないのか?」
 わたしは注文を取りに来た別のニイさんにいました。
「今日は、休みだ」
「わたしは、ハマダの日本にる彼の兄に手紙を預かっていくと約束した、だから今日は取りに来た、なぜ彼は休みなのだ?」
「病気だ」
 はああ。
 わたしは注文したまずいピザを食べた後に彼を呼んでいいました。
「彼との約束を守って私は手紙を取りに来ました、そのことを彼にきちんと伝えなさい」
 毅然とはっきり言いました。
 こういうとき「日本人の名誉」みたいなこと考えるわたしって、「愛国者」かねえ。いやらしかあ・・ねえ。と屈折するわたしです。
 
 男は、そんなわたし心のうち関係なく「わかった」と大きくうなずきました。
 
 ハマダくんは、本当に兄ちゃん、日本にいるんだろか。それとも、日本人をだまそうと・・したのか・・スケコマシ・・ってヤツ・・それともあの露天のオッちゃんみたいにただ日本人のひとり旅の女と話してみたかったんだろか・・ムスレムの国じゃ女はひとり旅せんもんな・・。
 これを読んで下さっている方、彼の正体、どう思われまするか。まじめでよさそうに見えたんだけどねえ。(?_?) もしかして、モスレムの純な青年を傷つけた???
 わたしにはいまだに「ナゾ」であります。

☆★☆★☆

本屋のオヤジさん

 やっぱり、ユーセフ・ハサン通り近くの「本屋」という日本語の看板がでている店先。ひげオヤジがでてきてわたしを「ちょっと、来い」と呼びます。
 なあんだあ? 昨日、この店で切手を買ったんで、まあ、そんなにあやしくないことは判明してますが、呼び止められるほど親しくはないぞ。
 オヤジは紙を出してきて「はがきが一枚20セント」だと日本語で書けと迫ります。
「どうして?」
「日本人はこの通りをよく通るが、はがきを買ってくれない、日本人は英語が読めないからだ、だからおまえが日本語で書けば、買ってくれる」
 そうかな。かえってあやしくなって寄りつかないかも、と思うがねえ。
 でもわたしは書いてやりました。
 このオヤジさんの店で初めて切手を原価で買ったからです。日本までエアメールではがき一枚1.25エジプシャンポンド、しかし、かってにじぶんの値段でうっているんですね、この国は。
 カイロのナイルヒルトンのブックショップでさえ1.25と印刷してあるものを1.5で売っていた。べつのとこなんて1.8だった。信じられんけど・・まあ交通ルールがないのがルールの国だし、これもありかな・・とは思ったけど。
 しかし、このオヤジはちゃんと1.25で売っていた、わたしは正直者のオヤジが書けということをでかい紙をもってこいといって、でかでか書いてやりました。そのわきに「この店では、切手が1.25ポンドで買えます」と付け加えました。
「ここにはなんと書いたんだ」
「この店には切手もある、1.25だと書いた」
「オオ、それはいい」
「じゃ、バクシーシちょーだい」
 わたしは手を出しました。
 オヤジ、真剣に机のなかなかマリアサンがついた絵はがきとお金を出しかけました。
「ジョーク、」
 オヤジはにやりと笑いました。「お茶、飲むか」
 時計は十時をまわっています。「いや、もうホテルに戻って寝る、わたしは明日、カイロに戻るから」
「またエジプトに、ルクソールにきなさい」
 うん (^o^) そうしたい。

 ルクソールに旅される方、「切手が1.25ポンドで買えます」の紙がはってある本屋を見たら寄ってやって下さい。

☆★☆★☆

 人ではありませんが、ホテルの部屋がかなりあやしかったです。
 一晩目、クラーがきかない。
 二晩目は部屋をかえてもらって、今度は効きすぎ。
 三晩目、夜中の3時、突如ボタンボタンという音で目が覚めました。なんと、クーラーからお水がたれて絨毯がぐじょぐじょ。とめて事なきを得ましたが・・一応屋上にプールまでついてる★★★くらいのホテルなんですけど。

 チェックアウトの時に、トラブルを話してあれはわたしのせいじゃない、クーラーのトラブルだ、修理した方がいいといってやりました。

 こうして、わたしのルクソール第三夜は終わりました。
    

>>>>>>>1月11日 本日のできごと >>>>>>>>>

 MさんとKさんと昼ご飯。
 我が町のデパートははバーゲンで人であふれていた。
 またしても、どこが不景気? しかし、バブルのころに比べたら恒例のバーゲンだけど、人出は半分ってとこか。

 ハワイ行き、1月末のエアチケット、ツアー、安いものはもう満員御礼。日本てホントに不景気?とまたしても思う。
 この円安の時にさあ。と言いつつわたしも行くんだけど。結局、6泊で10万円近いツアーにしてしまった。これしかないんだもん。貧乏なのに・・・もう清水の舞台から飛び降りる感じであった。
 旅事にかまけていたら、新聞連載の校正が後手になった・・電話をもらってしまった、すみません。

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2002年01月10日(木) 第16夜 ルクソールのあやしい人々 1 


 3泊4日いたルクソールでは実にいろいろなお人とふれあいました。あやしい人、いまだにナゾの人、オモロイ人・・二回にわたってそんな話を書きましょう。

★☆★☆★

その一  王家の谷のヤク売り人

 王家の谷。セティ1世のお墓の前でのこと。
「ヘイ、ジャパニーズ? 」
 灰色のガラペーヤを着た若いエジプト人が山から降りてきました。
「そこは開いてないよ、もっときれいなところにいこう」
 よけいなお世話ジャ、と無視していると彼は近づいていて、
「日本人? 中国人? それともアメリカ人??」
「アメリカン? あなたはわたしがアメリカ人に見えるの?」
「わかってるさ、アンタは日本人だよ、エジプト人は日本人が大好きさ」
「あなたに、わたしは用がありません」
「これ要らない?」
 彼はガラペーヤの袖の下から黒いスマートなネコの神様の置物<多分アラバスターというんだ>を取り出しました。「80エジプシャンポンドでどう? この辺からでたんだ」
 ウソばっかり。「いくらだったら、買う?」「要らない」
「ジャ、これは」今度は懐から、やはり置物・・アタマに冠のようなものがある神様を取り出しました。「要らない」「ジャ、これは?」今度は左の袖の下から新聞紙に来るんだレリーフのようなものが出てきました。いったいガラペーヤのなか、どうなってんだあ?

「エジプト人は好き?」「きらいよ、ウソつくし、うるさし。ヌビアンが好き」
「ジャ、オレはヌビアンだ」とニタついた後で「ドラッグは要らない?」
ハアアーーー。いらんわい。「アンタ、ドラッグ、やるの?」わたしは訊いて見ました。
「やるよ、酒も飲む、なんでもやるさ」
「ほんと???アンタ、モスレムでしょ、お酒は禁止でしょ」
「ああ、モスレムだ、でもやるさ」
「アンタ、明日、アッラーの神様の罰があたって死ぬわ、きっと」
 男はげらげら笑いました。
「ホントに何も要らない?」「要らない、わたしの国では、ドラッグは罪になる」「エジプトもそうだよ」「バイ、バイ」
 男は「OK、バイバイ」と笑いながら離れ行きました。
 王家の谷でこんな商売?があることにもびっくりだけど、乗る人・買う人、いるんだろうなあ。ちなみにエジプトのアヘンの生産高は世界のビッグ5に入っています。
 でも、アイツ、NO!といわれることを楽しんでいたよね。なんか、天真爛漫系で日本のヤク売人<会ったことないけど>とはちがうねえ、きっと。

☆★☆★☆   

 その二 貴族の墓<谷>近くの不法占拠の町の道案内人
 
 貴族の墓は団体ツアー客の来ない、まあ、穴場です。ブドウの壁画で有名なセンネフェルのお墓に行こうと駐車場で車を降りたとたん、若い男ががとびでてきました。 
「この辺に貴族の墓は2000はある、行きたいところがどこだ、案内する」
「案内は要らない」
「道がわからないと、あなたはいけない、自分は近道を知っている」
 そういいながら男はわたしの先に立って歩きます。いらんのじゃ。やがて鶏がウロウロする汚い人気のない露地にはいったとたん「道案内料、5ドル」「NO」
「自分は学校に行っているんだけれど、お金がなくて困っている」ー声の調子をかえて、肩を落として泣き落としできました。これ、エジプト人、けっこう得意みたいです。アスワンでも同じ手口でTシャツを売りつける男がいましたから。
「1ドル」「それだと、片道だ、3ドル」「NO」「OK、じゃ片道の案内をする」
 交渉成立です。そして歩くこと数分、ついちゃいました。
 1ドルを渡すと男は「ありがとう」も言わすに消えました。
 帰り道、なんと駐車場から一本道でした。アイツが飛び出てきた方へ思わずついて行ってしまったからわからなかったのです。あの飛び出すタイミングがアイツの勝負!!なんだろうネエ、と感心したことでした。
 センネフェルのお墓はきれいでした・・がねえ。ったく、やられたね。

★☆★☆★

 その三

 露天の店のオッさん

 夕方昼寝から覚めると、町にご飯を食べに出かけます。
 3日間同じ道を行ったり着たり・・時には2回とか3回も行ったりきたり・・・。同じところに同じオッさんが店を出しています。通るたびにあちこちの店から声がかかります。
店を見ていけ、お茶飲んでけ、と。
 みんな気がいい感じで、無視もいけないと思ったので「ノウサンキュウ」とか「ご飯を食べに」「疲れているから」「土産は要らない」とか、いろいろと理由を並べてお断りしながらホテルまで帰ります。
 そんな露天の洋服売りの店でのこと。
「今日、オレの妻と子もいるから寄って話していけ、お茶を飲んで行け」
 ふっと見ると、そばの椅子にスカーフをかぶった女性がわたしを見て微笑んでいます。
おしめをつけたようなかわいい女の子もいます。
 まあ、女の人がいるんだったら今日は座ってみるか・・と彼女に笑いかけて握手をしてから勧められた椅子に腰を下ろしました。
「やっと寄ってくれたな、この三日間ずっと声をかけていたんだ」
 どうも。
 後は例の定番質問。やがて「妻」が立ち上がりました。彼女は英語が分からない、ということで何も話していませんが、終始物静かな笑みを浮かべていました。
「マッサラーム」
「マッサラーム」。彼女は子どもを連れて帰りました。
 その後です。男曰く「 あれは実はオレの妻じゃない」
 はあ??
「そばに女がいるとアンタが寄ると思ったから、友達の妻がきたから頼んでいてもらったのさ」
なんとまあ・・。
 別に言う必要もないのに話すところがまたワカランというか。
 彼、自分は学校は2年しか行っていないからあまり字は書けない、8歳の時からは働いていた、英語は仕事のなかで覚えた、といっていました。
 それから、あのハトシェプストのテロ事件の後、観光客が来なくて困ったでしょ、といったら、「いや、個人の旅人はきていたよ」と涼しい顔。
 さらには「タリバンはバカだ、大仏を壊したらお金が入らなくなる。平和になって、あの大仏が残っていたら、大勢の観光客が来る、金儲けができるのに」
 いや、逞しいご意見です、ホントにその通りではあるよねえ。
 ヒトサマの妻まで使って引き留めて何が目的さ、といいたくなりますが、彼はホントにわたしと立ち止まらせたかったみたいです。そして話がしたかったみたいです。
 変なヤツ、とういうかひまなお人というか。
 でもわたし、もし、また、ルクソールに行ったらあのオッさんの露天店に行ってみるだろうなあ。
 なかなか楽しい時間でしたからねえ。オッさん、陽気なんだよね。


>>>>>1月10日本日のできごと>>>>>>>>>>>

 縦原稿に直しを入れて送付。
 Mさんと明日昼ご飯を食べる約束、ハワイ・マウイに行く相談。わたしはクジラが見たいんだい。早速インターネットで安いチケットまたはツアーを探す。

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2002年01月09日(水) 第15夜 ルクソール 王家の谷

 エジプトといえば、オピラ、次にツタンカーメンのお墓が見つかった王家の谷、ちょっと前にあそこの大きな神殿で大勢の観光客が過激派に殺されたでしょとなる、んですね。
 王家の谷と悲劇的な事件があったハトシェプスト葬祭殿はルクソールのナイル川西岸にあります。カイロから飛行機で一時間、アスワンからは30分のナイル中流域です。
 暑いです。それから、意外なのですが、モスレムよりもコプト教というキリスト教の信者が町の55パーセントを占めるということで、町中には教会が目立ちます。
 観光地のわりには、ほこりっぽくて田舎臭くて人はクセがあってあからさまで・・また行きたいですね。バザールのオヤジと日がな一日しゃべっていても、おもしろそうだもん。

★ ☆ ★ ☆ ★

 でもって、王家の谷。
 西岸はドカンと赤茶けた岩山がそびえ立ってあの山麓や山陰にお墓があるということで、朝が勝負。何でかといえば、暑い、昼からは昼寝タイムにしないとやっておられんというのが「歩き方本」の教えでした。
 朝7時、ホテルのカウンターに行って「王家の谷に行きたい、タクシーをチャーターしたい、よきドライバーを紹介せよ、そして、値はいかほどなるや」と交渉をしました。
 すぐにカウンターにいた男が外に行ってガタイのあるエジプト人顔、人がよさが表情にでているヤツを連れてきました。名前はナス。タクシー代は男が午後1時まで60エジプシャンポンドと決めてくれました。めぼしいところをまわって80とか、レンタルバイクで90とかと「歩き方本」にはあったので、「60」は安い。「即OK」です。
 ナスくんは不満そうで、カウンターの男に何か言っていましたが、彼が厳しい声で何か言い返したらシュンとして「ホンじゃ行くよ」となりました。
 ホテルのカウンターでここまでしてくれるとは思わんかった、ありがとう、でした。
 
 まず目指すは、あのラムセス2世のお后さんネフェルタリの墓入場券ゲットです。
 ネフェルタリの墓は入場料100エジプシャンポンド<3000円だよ、世界一高い入場料だろう>なのですが、内部の美しさは折り紙付きとかで、野次馬根性で見たい!!でも、保存状態を悪化させないために一日の入場150人。早い者勝ちというわけです。英語があまり通じないナスに「ネフェルタリ!!」を連呼したら、大きくうなずて車をとばししてくれます。例のごとくのボロですがよく走る。朝の道路はまだ空気もきれいで、ひんやりとした風が入ってきます。道沿いには、学校に行く子どもたちが制服姿でパンをかじりながら歩いていたりしてのどか。

☆★☆★☆

「あなたのために特別にチケットを用意しましょう」
 ネフェルタリは専用のチケット売り場で買うのですが、窓口のオッさんはニヤニヤしながら言うことはなかなか。でもチケットを出しません。あなたをわたしが案内しましょうとか言ってさあ。
「今日のチケットは終わったの? だったら、わたしはもう行く」
「ある、でもまだ時間が早い。ここで話して行きなさい」
「タクシーが待っている」
 要するにひまなもんで、からかう相手がオッさん、欲しかったんだよね。

 ネフェルタリの墓は王妃の谷にあります。王家の谷は要するに王様専用。お后は一緒じゃないんですね。
 入場は8時から。行くとすでに数人が待っていましたが、じきに入れてもらえました。
白茶けた木も草も見あたらない山に地味な入り口があります。ホントにここに3000円も出してみる価値のあるお墓があるのかい? です。

 狭い階段をしずしず。すると、鮮やかな赤や黄色、緑の色が目に飛び込んできました。オオ。思わす立ち止まって見上げ見回し、オオ・・こりゃすごい・・さして大きくない部屋ですが、白い壁いっぱいに満艦飾状態でヒエログリフ、神々、ネフェルタリその人やラムセス2世が描かれているのです。とにかく色彩が美しい、絵があやしく華やか、確かにネフェルタリはきれいな女性だったんだろうな、多分とても賢こい人でもあったと感じます。「歩き方本」にかなり修正が入っているんじゃないかあまりに鮮明すぎるといういけんがありました。確かにそんな気配もなきにしもあらず、です。しかし、修正する人もしがいのあるお墓です。意欲もわく?でしょう、これは。
 ラムセス2世が指揮したといいますから、やっぱり愛していたんだねえ。でも同じお墓に入りたいっていうのはなかったのかねえ・・・。
 判定 100エジプシャンポンドの価値あーり、いただきましたあ。

★☆★☆★

 しかし、ネフェルタリを最初に見たのは失敗だったかもしれん・・と王家の谷で思いました。だって王様のお墓に入ってもでかいだけジャンという感じで感動が薄いんですよね。うまいものは早く、といってもこの場合は失敗でしたね。
 
 ツタンカーメンの墓でおもしろいことがありました。
 なかで見ていたら突然電気が消えたんです。停電。墓のなかですから、真っ暗。数人の修復士みたいなお人たちが絵筆を動かして仕事に励んでいたんですが、当然仕事になりません。
 わたしが冗談で「メイ アイ ヘルプ ユウ?」といいながら首にかけていた懐中電灯をつけて照らしてやったら、大受けでした。かなり光源の強いものでしたから「ベリーグッド」なんていわれて。(^_-)
 でも電気がないと暮内はマジ真っ暗なんです。では、この暮内の装飾は誰のため? 見る人はいない・・とするとやっぱり死後の生活、よみがえり?ですかねえ。ツタンカーメンのお墓はまだこの墓内にあるんですね。いいのかなあ、これだけ人の出入りがあると、ミイラがダメになるんじゃないのかな。

★☆★☆☆
 
 いったとこ一言メモ
    ハトシェプスト葬祭殿  入るまで3回くらいにもつとか調べられた、、
    ラムセウム    あのラムセス2世の葬祭殿 例のごとくデカイ・・ 
貴族の墓    センネフェルのブドウの描かれた墓内がきれい
    ラムセス3世葬祭殿  もう暑くて溶けそうで、早く帰りたかった・・

 貴族の墓<谷>の近くには村があった。昔からの村らしいけど、まるまる遺跡の上にあるんだよね。エジプト政府は退去させたいらしい、どっこい、で、不法占拠・・・   

 ナスクンも1時を少し過ぎたら不機嫌になったね。あのオピラのタクシードライバーアブドラ氏と同じでした。やっぱり「あなたがよい働きをすればチップを上げるであろう」でおだてて何とかしましたけど。エジプト人の労働意欲って午後1時なんだ、とわかりました。
 ンで、60エジプシャンポンドと2USドルをチップとしてあげたらえらく喜んで明日も自分を使えと・・。考えておくといいました。それにしてもあの強面のアブドラ氏も3USドルをチップとしてあげたら怖そうな顔くずすほど喜んでいた・・なんか・・そうなのか、君たちも・・と複雑でした。この人たちはドルが好きなのよ、エジプシャンポンドじゃなくてさあ。

ハードな一日<午後1時半でその日の予定終了>でした。昼寝をしました。
 夕方ホテルの屋上から見た西岸に落ちる夕日がすごくて息をのみました。陽が落ちる西は「彼岸」で「仏教」みたいです。というか、日没に対する人類共通の感覚なんだろうなあ。


>>>>>>1月7,8、9日 本日のできごと>>>>>>

7日
 気を取り直して5日に消した原稿を思い出しながら「復活」させました。
疲れた・・。
8日
 午前、FDSの会合。終わった後昨年暮れに見つけた渋谷の「みちのく」でお昼ご飯。鯖のミソに定食。うまかったわん。何しろ、米が魚沼コシヒカリだモンね。
今度はこの店で、夜、お酒がのみたい。酒のラインナップ、久保田、八海山、をはじめとしてすごいんだもん。
 午後、出来あがった原稿を持っていったら、担当の人に「わたしは横原稿、嫌いです」と厳しくいわれた。今ドキは、直しやすいし、横と思って横形式の紙原稿とFDを持っていったんだけど・・ショボ。日本人は「縦」ですよ、アメリカに毒されたらいけません、といわれて・・はあ。2日後に「縦原」を送る約束をした。

9日
掃除、洗濯をした。近所の梅がほころんでいるのを発見。春か・・もう。年末に買ったシグマリオン2で遊んだ。約束の縦原稿をPCから出して直しを入れた。

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2002年01月06日(日) ★ 第14夜 リアルタイム旅ノート 明日香、京都 ★

1/6日、青春18切符で関西方面日帰り旅に行って来ました。
  旅のテーマ<大げさな・・>
    観音さまに今年の平安をお願いすること。
    西国33ヶ所観音霊場の岡寺と長谷寺参り  
  旅程   横浜発 深夜0時11分 ムーンライトながら乗車 
       大垣乗り換え
       京都着 朝8時45分 
       同日 京都を午後2時か3時の電車に乗って深夜12時までに帰宅
       
 ◎●◎●◎●
 「ながら」は例のごとく混んでいました。指定席券は売り切れ。わかるよ、安いモンねえ。
通路を隔てた隣にはアメリカからきたという学生クンが座っています。広島に行くんだそうです。「広島はきれいな町か」と訊くので「原子爆弾が落とされた悲しい町だ」といったら「知っている」<きみの国がしたんだよ、なんていうのはいいませんでしたが>「今はきれいな都市だ」といったら、彼うなずきました。

 岐阜あたりで夜が明け始めたらあたりは雪景色。このところの寒波のせいでしょう。
 関ヶ原あたりでは「わんわん」と降ってここは青森か・・という感じでしたが京都に着いたらお陽さんがでてきてホオーッと。
 18切符をうまく使うんだったら、奈良線乗り換えとなるわけですが、こちとら時間がない。近鉄でカシワラ神宮行きに乗りました。10時半過ぎ、見事明日香に到着。
 明日香村は静かで冬ざれていて田舎でした、相変わらず。でも、初めて訪ねた高校の修学旅行で「ここにわたしはいたことがある・・」というデジャブー感を持ったころとはずいぶん変わりました。<飛鳥時代、《わたし》はここでなにしてたんでしょうね>
 あのころ、石舞台は、ただ田んぼのなかにごろんとことがっていたし、酒船石はぬかるんだ竹藪の道をあがって唐突にでかい石がおいてある、という感じだったのに今や整備されて、ありがたそうになって文化財保護とかの名目でお金までとるもんね。文化財保護・・税金でしろよ、アメリカ軍に思いやり金とかアフガンの自衛隊派遣に使うンならならさ、と言いたいでんな。
 ところで、酒船石は、竹藪の下に新しい石組みが発見されて、竹やぶの中と一連のつながりがあることが1999年判明、昨年からその新遺跡が公開されていました。一応、これの制作指導者は斉明天皇という女帝らしいんだけど、やっぱりずいぶんと変わったお方だったようですねえ。
 岡寺は厄よけ祈願の寺で、けっこうにぎわっていました。白塗りの大きな観音様がなつかしくてお久しぶりね・・状態でした。ワタシ的には、裏手にある胎内仏である小さな観音さんの半伽思惟像ほうがスキなんですが。

 意外だったのは、このシンシンとさむい明日香村で遺跡巡りをしている中高年が多いということでした。背中にザックつけていい靴はいて・・やっぱり「大人」の方が元気だねえ。

●○●○●

さて、長谷寺は突然キャンセル。
近鉄の窓から東寺の塔が見えたら突然無性に東寺でお大師さん、お参りしたくなったんだよね。
特急に乗って戻りました。特急席は快適で爆睡していたらついて・・。

東寺はにぎわっていました。そしてなんと、五重塔の内部公開をしていたのです。心柱を中心に仏が4体設置され、壁は真言7祖が描かれて・・。以前見た醍醐寺の塔内部と荘厳のしかたは、理屈的にはほぼ同じでしたが「見させてもらい!」でした。
 訊けば6日は最終日。なんかお大師さんが呼んで下さったのかな。しっかりと御影堂で、お参りして帰りました。「身は高野、心はここにとどめおく」<空海>ですから。

帰宅はほぼ予定通り。深夜12時過ぎでした。
柿の葉寿司、ビールでカンパイしました。
   
 
 ☆☆ お知らせ ☆☆

 次夜はまたエジプトに戻ります。お楽しみに。
 
 PS ごらんになられた方は、「投票」プチしてね。m(_ _)m
   遊びだけけど、けっこう励みになったりしている、はい。(^^;)



2002年01月05日(土) 第13夜 アスワントランジット  ルクソールへ

 かの王家の谷で有名なルクソールはアスワンから飛行機を乗り継いでいきます。
経済的な方法は、アスワン市内からバスか鉄道なんだけど、この陸路は外務省が「危険度2」に指定している地域なので、飛行機がまあ一番安全で簡単、というわけです。
 朝にアブ・シンベルを発つ飛行機は、アスワンで6時間以上も待ち時間があります。
どうすっかな、何すっかな。

★ ☆ ★ ☆ ★

 アブシンベルからの飛行機、日本人の団体と一緒になりました。おじじさん、おばさんのグループなんだけど、わたしが日本人でひとり旅してると知ったら、突如、気味悪そうな視線を向けた、あれってなんなの。ったく。わたしから見れば、団体旅行のなにおもしろい・・だけど、人それぞれだから、な。でもあの、人を値踏みするというか、じろじろと眺めるというかの視線は今思い出しても腹立つぞい。
 そんなんで、日本人からお化けを見るように見られたわたしがヒコーキの中でおしゃべりしたのは、アメリカ人団体客のなかにいた日系人タミコさんでした。
新宿うまれで今はネブラスカ、というタミコさんは陽気な人で「アスワンではどこに行くの」と聞いたら「知らない、わたしは聞いてもすぐ忘れるの」と笑います。
 そして、通路を隔てていたブラックのお友達に英語で「わたしたちのスケジュールはどうなっているの」と訊いています。しかし「わたしもよく知らない」と彼女は大口を開けて笑う・・・アメリカ人だよなあ。
 ネブラスカ牛<あ、まちがい!!>にゃ、テロはあんまり関係ないんかねえ。ただ、わかったことは、あの状況、つまりまた飛行機テロがあるかもしれない、戦争を起こしてる最中、でも、彼らは旅をしているということ。二ユースなんか見るとアメリカ人はみんな逼塞しているように報道していたけど、あれは間違い。だって、タミコさんのグループ以外にもあちこちでアメリカ人ツアー客を見かけたもんね。みんなバカ陽気で、モスレムの国で肌あらわで、さ。

 唐突ですがひとつの真理
 人は戦争であろうが、非常時であろうが旅する存在である。
 それは、アフリカやシベリヤから延々と旅をしてニンゲン分布を世界に広げたヒト遺伝子のしわざであろう。      おわり<(_ _)>

☆ ★ ☆ ★ ☆ 

ということで、アスワンに着いたらバスのおじさんも空港のセキュリティのニイさんもわたしのことを覚えていてくれました。<まあ、昨日の今日だしね>そして「今日はどこに行くんだ」と訊きます。
「ルクソール、しかし、わたしはたくさんの時間を持っている。荷物をあずけて観光したい」
 ハイよ、ってなもんで、セキュリティのニイさん、カウンターに連れていってくれて荷物キープを頼んでくれました。昨日「ともだち」になっといてよかったわ。
 そこに、東洋系の男の子ひとり。ザックひとつで途方に暮れたような顔。
「あなた、どこからきたの」
「日本から」
「エー日本人」とわたし、日本語になります。
 その彼、は日本から昨夜着いて、カイロ空港で夜明かし、朝イチのアブ・シンベル行きに乗り、アブ・シンベル神殿を見て今帰ったところといいます。つまりわたしと同じヒコーキに乗っていたんだね。綱渡りのような旅だねといったら、明日はルクソールを見てカイロに帰り、カイロでオピラを見たらトルコにはいるという・・・わたしは目が点になりました。若いねえ、体力あるねえ。でも、だから、日本の若いモンは旅先で病気になったりするんだよな。
 結局、そのTくんと一緒に車をチャーターしてオベリクスクの石切場やアスワンハイダム、イシス神殿を見て回ることにしました。
 例のごとくタクシーを値切り倒すことにしてわたしが仕切ったら、彼「オレが出なくてもいいかっておもったんで」だって。「ありがとう」いえんかよ。かわいくなかった。
 極めつけは、わたしはラムセス駅のカフェで2ポンドと20ポンドを間違えて出したら「ちがう」と教えてくれた・・という話しをしたときでした。
「オレはそのウエイターだったら、そういうとき、黙っているな、だますわけじゃないし、もらっておく」
 当たり前の声と顔で静かに淡々と言われたとき、わたしは「この子イヤだー」と思いました。ちがうだろ、です。もちろん「エーあなたねえ、そりゃよくないよ!!」とわたしは叫びましたが。「わたしもそのウエーターさんと同じことするよ、商売の、ヒトの倫理でしょ」
「そうですか」。しれっとした声。したたかというか、荒廃というか・・。 
 幼い顔していたんで20代初めかと思ったら、27歳、確か?でした。

 また突然、唐突に愛国者になってすまぬが、
       日本の未来はくらい。この国はやがて滅ぶ。

 独り言 まじにいい旅してたら、あーいう発言はしないよな・・・金と時間つかって、Tくんはなにしてんだ・・・この場合、人それぞれだから・・なんて心境にはなれんなあ・・・ 

☆ ★ ☆ ★ ☆

 オベリスクの石切場は圧巻でした。切り出しを放棄されたオベリスクの固まりのでかいこと、石を断ち切るのに、木片<くさび>と水を使ったという知恵にも感動でした。ブルトーザーも大型トラックもない時代にさ、と思ったらこれもエジプト文明の神秘だな。
っま、オピラ、作りとか、こういうでかいもの運びのお仕事は、農民のナイル川氾濫期の出稼ぎ現金稼ぎしごと?<というのかどうかしらんが>だったとなんかで読んだことがあったからかなり現実的なお仕事ではあったんだろうなあ・。
 
 ルクソール行きの飛行機の窓から見えた夕日の美しさ。この日はアブ・シンベルの朝日からルクソールの日没まで・・何だか「エジプトした一日」でした。



>>>>>>>1月5日 本日のできごと>>>>>>>>>

 仕事しました。しかし、うっかり「保存」すべき原稿をしないで消した。立ち直れなかった・・・。「魔」がさしたんだよねえ。

 夜10時40分「ムーンライトながら」に乗るために家を出る。紅茶、おにぎり2個、バナナ2本、ミカン3個、ミントキャンデー1袋、本二冊、手袋、西国観音霊場の納経帳、カメラをザックに入れる。カメラは、リコーから修理が終わって戻ってきたあの「GR1」だ。
 なんか「エルマーの冒険」のエルマーの荷物みたいにになった。
 

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2002年01月04日(金) 第12夜  アブ・シンベルの日の出

 アブ・シンベルのでかい、すごいを少し説明をしましょう。

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 約3300年前に砂漠のまん中<当時は砂漠じゃなかったと思う>につくられた岩窟大神殿。つくった人はあのラムセス2世のミイラじゃない、生きているその人。大神殿前にはラムセス2世その人の巨像がドーンと4体。なんと20メートルもある。
 岩山をうがった神殿の中に入ると大列柱室には、彼の生前の戦う姿が生き生きとレリーフされて、その躍動感は時空を越えて迫ってくる。<これはすごかったです、引き込まれました>
 前室をどんどん進むと一番奥には至聖所がある。ここには、ラーホルアクティ神、神格化したラムセス2世、アモンラー神、プタハ神の座像が並ぶ。年に二回<確か、2月22日と10月22日>この至聖所へまっすぐに朝の光が届く。左端のプタハさんは冥王<地獄の閻魔さんと思って下されば>とかで、そのときも絶対に朝日は当たらない。
 隣りにはラムセス2世がもっとも愛した奥さんのネフェルタリの小神殿がある。ラムセス2世と彼女の巨像、足下にはその子どもたちが、これもまたドンと。
 それぞれのお部屋のレリーフ、壁画、等々語るべきはたくさんあるのですが、後は省略。

★☆★☆ 

 制作者ラムセス2世についても少々の説明を・・

古代エジプト新王朝時代第19王朝の王。在位BC1304〜1237。在位67年の間、奥さん4人、側室さん200人以上、子ども200人以上。すごいよね。
 あちこちの神殿に犬のマーキングのように自分の巨像をどかどかと立てたお方。
 10日もエジプトにいて遺跡巡りをすると「ああ、またおるんかいな。ラムセス2世はん」と声をかけたくなるくらい、その像になじんでしまう。
 モーセの出エジプト記は彼の治世時ですから、異教徒の迫害もやったんですねえ。あのミイラ室で見た我の強そうな骨相を思えばまあ、これは妥当ではあります。
 新王朝の王は「神様」ではなくて「ヒーロー」の位置付け、王はみんなの先頭に立ってかっこよく戦い、「オレすごいだろう。従えよ」と。日本でいえば戦国大名かなあ・・。自分を神格化して神殿の奥に祭り上げる根性の人なんだから、まああぶくのような戦国大名と比べるのは失礼かも・・なんですが。

☆ ★ ☆ ★ ☆
 
 わたしは最終便で観光客が帰ったあと、誰もいない<ホントに>アブ・シンベルを堪能しました。さらに夜の「音と光のショウ」を楽しもうと始まりを待っていたのですが、お客が来ない。わたしと、フランス人のカップルだけなのです。
「10人いないとショウはできないんだよ、もう少し、待って。よし、ホテルにお客探しに行ってくるよ」
 ショウ担当のおじさんがいいます。
 その間、売店のヌビア人のお兄さんが我ら三人の待ち客の相手になってくれます。
 ヌビア人は肌色ブラック、髪はちぢれ。いわゆるわたしたちが「黒人」というとイメージする人たちです。アスワンからこっち、ヌビア人が多くなります。性格的には、おだやかでややシャイ、エジプト人ほどせこくない印象を受けました。わたしは、ヌビアの人、けっこうスキでした。
 ヌビアの兄さん、本来は土産物売りなのですが「わたしはまだ旅をするから、今、土産は必要ない」といったら、あっさりと商売を引っ込めて例の定番質問をした後に「日本語を教えてくれ」ときました。
「どうして?」「ここは日本人がよく来る、話したい」
 彼が知っていた日本語は例の「バザールデゴザール、サラバジャ」で、他の言葉が覚えたいのだそうです。
 彼は、おだやかで素朴な話しぶり、賢そうで感じがよい人です。教授するのにやぶさかではないのですが、「日本語を話す現地人・エジプト人には気をつけろ」が、旅人の合い言葉だし・・果たしてホントに教えていいものか・・・。彼が期待するような経済効果はないと思うのですが。
 こんにちは、安い、ありがとう、と教えている間におじさんが戻ってきました。
「ダメだ、ホテルの客はきてくれなかった、すまないが今日は中止だ」
 本当にすまない、とおじさんは何度もソーリーを繰り返し「ホテルまで送るから」とわたしとフランス人カップルにいいました。
 わたしのホテルは神殿から歩いて10分、ヌビアンのお兄さんに「さようなら」をして、なま暖かい風が吹いて砂埃が舞う中を歩いて帰りました。
「ライゲルク」ーヌビアンのこんにちは。彼がわたしに教えてくれました。

☆ ★ ☆ ★ ☆
 
 翌朝。日の出5時50分、というので5時半にホテルを出ました。周囲になーんにもないホテルですが、この近さは「買い」です。
 一番乗りだったらしくて、窓口のおじさんは、大急ぎで門を開けてくれました。チケットは昨日買ったものが有効です。
 神殿前に行くと、ナセル湖からさわやかな風が吹いてきます。さざ波が立って、岸ではチャプチャプと波が寄せる音がします。
 湖の向こうが日の色に染まって、少しずつ濃さを増し、見上げると空も、藍に近い深い色から濃いスカイブルーへと変化しつつありました。刻々と変わる色に胸がドキドキします。やがて、燃え上がる太陽がゆらゆらと顔をのぞかせはじめました。深紅のまんまるいお日さま、です。とたんに鳥が鳴きはじまめす。陽はすごい勢いでどんどんと上がってついにはその姿をすべて湖上に出しました。
 太古から変わらない日の出。荘厳、命、勢い、エネルギー。何だかわからないけれど、胸がいっぱいになって感謝、の気持ちになりました。あのお陽サンがなければ、わたしたちは存在できない・・のだから。古来エジプトの民がなぜ太陽神を信仰したのかわかる気がしました。
 わたしは、光の先を追いました。何しろ10/7日ですから・・・。
 番人が神殿の扉を開いてくれていました。
 陽の先は、確かに至聖所の右の三神の膝あたりまで届いていました。そして、左の冥王プタハ神にはまったく当たっていませんでした。3300年前にここまで計算して神殿を造ったエジプト文明にも神秘を感じました。
 
 陽の先を確かめてまた外ですわっていると、番人さん、神殿入り口に水をまいてお掃除を始めました。エジプト人はきれい好きとは聞いてましたが、でもさあ、湿気を嫌う神殿遺跡、水まいて掃除は止めた方がいいじゃないだろうか。それにラムセス大巨像に張り付いて遊んでる小鳥の多さよ。もしかしてラムセスさん、「うるせえ」と追い払いたいんじゃなかろうか、と思いました。当然フンはあちこちにこびりついています。あれも、よくないと思う。一番よくないのはナセル湖だろうね。湿気の多い風がラムセス像を変形・くずすことは必定だ、と思います。
 「形あるものはやがて滅ぶ」かな・・・。この状況をつくったのはニンゲンですから。ユネスコの努力には敬意を払いますが。
 7時近くになって、飛行機始発できた団体客が姿を見せました。そんなわけで、日の出から、の時間まで、ヌビア人のおじさん番人と警備のかっこいいソルジャー、わたしだけ。またまた贅沢な時間でした。

☆★☆★☆
 
 わたしが、アブ・シンベルの太古の日の出に感動していたとき、アメリカはあの報復攻撃を始めようとしていたのですね。あの太陽の前に正義も不正義もない。愚かなことです。
 時々アメリカについてエジプト人と話しました。
「彼らは勝手すぎる、イスラエルの横暴を何とかしろ」
 こんな感じでしたね。
アメリカを好きな人ってあんまりいない・・ですね。<わたしも「アメリカ」は好きではありません。ただ、時々旅で出会うアメリカ人、いい人がいるんですよね、去年、アメリカに行った時はいろいろと親切にもされたし、ウーン>


>>>>>>>>1月4日 本日のできごと>>>>>>>>>

今日も黙々と仕事。ただ、銀行とイトーヨーカ堂には行きました。

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2002年01月03日(木) 第11夜 アブ・シンベル行き 女王様フライト

 アブ・シンベルの位置についてまず説明しましょう。縦軸はナイル川、横軸はエジプトとスーダンの国境ライン、この二本線が交わったあたりに見つけることができます。
 なにしに行くのか、といえば砂漠まっただ中のアブ・シンベル宮殿見物。この宮殿、1970年に完成したアスワンハイダムとナセル胡の湖底に沈む運命にあったのですが、ユネスコが国際キャンペーンによって救ったのです。
 四年をかけて、とてつもなくでかい2つの宮殿をブロックに分けて元の位置より60メートル上、ナセル胡のほとりに移築したのです。こんなドラマを持った宮殿ですから、やっぱり行ってみたい、と思うわけです。
 
☆ ★ ☆ ★ ☆
 
 アスワン→アブ・シンベルのフライトは、12時10分。
 2時間前にホテルでタクシーを頼んだら「30エジプシャンポンド」高いぞな。
「我が、日本のガイドブックには、15ポンドと書いてあるが」
「それは安すぎますが、あなたは安く乗りたかったら、駅に行って交渉しなさい」
 OK。ホテルを出ようとすると、レセプションにいた男は追いかけてきて「だいたい22ポンド、これより安くはなりません」と教えてくれました。
 オオ、ありがたい、だいたいの目安がわかったぞ。
 荷物をズリズリして駅近くに行くと、建国記念イヴェントの旗や飾り。そして、わたしには、「おまえはどこに行く?」「ランチははどうですか?」「タクシーは要らないか?」「観光をしないか?」「ホテルは必要ないか?」。あやしい男たち<あやしくはないのだが、わたしにはそう 見えてしまう >が群がってきます。
「わたしは空港まで行く。タクシーが必要である」
「30エジプシャンポンド」「ノウ、20」タクシードライバーらしい若い男へ、即座に言い返すと男、しばらく考えて「OK、しかし、空港まで通行料が必要だ、22」「2はチップとしてつける、それでどうか?」男は渋々顔でうなずきます。「空港まで20エジプシャンポンド,プラスチップ2、イッツOK?」とみんなの見ている前で念押し。
 例ごとくのボロ車ですが、メンテナンスがいいのでしょう。よく走ります。市街を抜けて、アスワンダムの土手ロードを走りながら「エルボルト、エルボルトロード」と若いドライバー氏は口走ります。
「エルボルト? はあ? アイ ウオント トウ ゴウ トウ エアポート!ユー アンダスタンド?」とんでもないとこに連れて行かれたら大変です。
「オフコウース、トウ エルボルト」。ひらめきました。エジプシャン英語ではエルボルト=エアポートなんだワ、きっと。
 確かめました。そうでした・・ああ、疲れるわ。

★ ☆★ ☆ ★

 こうして10時30分空港着。大きくて、立派な施設ですが、人影まばらです。なんと、磨かれた床では、雀たちが落ちているパンくずをついばんでいます。まさか、雀に床掃除を頼んでテマ省いてンじゃないよね。
 チェックイン。そして待合室へ。ここにも数人のビジネスマンふうのエジプト顔の男以外には観光客らしい姿なし。どうなってんの? まさか飛ばない? 
 心配になって、荷物チェックエリアにいた男たちに「アブ・シンベル行きフライトはあるのか」と訊いてみました。
「あるよ、」「でも、誰も乗る人がいない」「今に来るよ、心配ない」
 やがて、ヒマしていた男たちと空港内をパトロールしているソルジャーたちがわたしのところに集まってきました。「どこから来たの?」「名前は?」「結婚しているの?」「歳は?」「子どもはいないの?」「エジプトは初めて?」・・とまあ、定番の質問責めです。
 彼らと楽しく過ごしているうちに時間は過ぎて12時になってしまいました。しかし、他のお客は来ませんし、雀は遊んでいますし、出発の案内もありません。
 のどかすぎる・・いいのか。
「時間になったのに飛行機はでないの?」
「大丈夫だよ、問題ない」
 男たちは明るくいいます。でもなあ・・・。
 12時50分、やっと案内が入りました。しかし、お客は誰もいない・・もしかしてわたしひとりなの???
「ショクラン、マッサラーム」<ありがとう、さようなら>
 セキュリティエリアにもどったかれらに、今習ったばかりのアラビア語で挨拶すると「乗客はきみひとりだね」とニコニコ。やっぱり・・の・・女王様フライト。テロの影響かねえ。

☆★☆★☆

タラップの前で、厳しい目視荷物検査を受けて機内に入って見渡してもわたしひとり・・このアブ・シンベルフライト、一生の語りぐさ、老後の話の種。ワッハッハ。
 スチワーデスさんも笑いながら空席に向かって緊急時の案内をします。
「わたしは知っているし、必要ない」といったら、彼女、笑って首を振ります。まあ、規定なんでしょう。
 それが終わったら、スチュワードくんもやって来て「今日はあなたひとりのためのスペシャルフライトです、あなたはどこの席に座ってもいいです」。
「ありがとう、わたしはアブシンベル宮殿が空から見える左側、がいいです」
 彼は「どうぞ」と笑いながらシートを示します。
 と、ここまでよかったのですが、いつまで立っても出ない、飛び立たない・・のです。
「この飛行機はトラブルがある、降りて下さい」
 ついにまた下ろされることになりました。
 待合室に戻ると、「マッサラーム」と別れたばかりの男たちが「どうしたんだ?」と寄ってきます。「エンジンの技術的なトラブル・・・」と、エジプトエアの職員が言ったように彼らに伝えるとみんなうなずいて「大丈夫、飛ぶよ」といって慰めてくれました。
 そう、飛ぶことは確かなのです。エジプトエアのお人は、謝った後にいたのです。
「フライトはキャンセルにならない。なぜなら、この飛行機はアブ・シンベルにアスワンに帰ってくる100人のお客を待たせている。心配するな」。
 待つこと30分あまり。2時になってやっとまた跳べることになりました。ヤレヤレ。乗ってしまえば40分ほどのフライトですから、飛べばこっちのモン、です。
 高度を上げる飛行機の窓からは、白というより赤い色をした砂漠、砂というより岩山だらけの不毛の大地、時々ナセル湖の水と、オアシスのような緑の固まりが蜃気楼の見えます。圧巻は、着陸間際、ナセル湖のほとりに見えたアブ・シンベル宮殿の姿でした。  
  

>>>>>>>>>>1月3日 本日のできごと>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

ただ黙々と仕事しました。

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2002年01月02日(水) 第十夜 アスワンウオッチング  

むらがる客引きをけちらして予約のホテルに入ったら、フロントのおじさんが「明日はわたし達の国の記念日なんです」といいました。
「何の記念日なるや」
「建国記念日である」
ほう、ほう、ほう。
トイレ、シャワーを浴びて朝食兼昼食代わりにバナナとパンを食べてミネラルウオーターを飲んだらモーレツに眠くなりました。でも、眠ったら、いけんのです。明日のアブシンベル行きの飛行機の予約確認をしにエジプト航空にいかねば・・。お客が少ないと突然飛ばすのを中止したりするから、気をつけてくれと言われているのです、ハイ。
 そんで、ナイル川に浮かぶエレファンチネ島に行きたい・・何しろ明日はアブシンベルなんだから、。突然団体旅行みたいに張り切るわたしでありました。

 ☆★☆★☆

 ホテルの中はクーラーが聞いて涼しいのですが、外に出たとたんに真昼の太陽、タクシー運転手、何だかよくワカラン男、すぐ近くの水タバコ屋の店先のオッさんたちの「おいで、おいで」。とさまざまな攻撃<アプローチと言い直しても、同じか?>が、襲ってきます。
「アイ ドント ニード ユー」「アイ ウオント ウオーキング」「ジャスト ナウ、アイム ビズイ」等々と、攻撃をかわし・・・エジプトエアに向かうべくナイル川沿いの通りを南下します。今度は、馬車タクシー、ナイル川をセーリングしないかと帆掛け船<フルーカといいます>の船長が言い寄ってきます。「アイ ウオント ウオーキング」「ジャスト ナウ、アイム ビズイ」。
頼むから、わたしの行く手にたちふさがらんといて。

☆ ★ ☆ ★ ☆
 
宝石屋の店先では小僧さんが声をかけてきました。
「アイム ビズイ」
「ホワイ アー ユー ビズイ?」
「アイ マスト ゴツー エジプトエアオフィス」
 そしたら、小僧さん、「やっていないよ」
「はあ? どうして」わたしは、思わず足を止めてしまったのでした。こういう人たちの情報はあなどれないのです。
「今日は金曜だし、午前はやっていた」
 そうか・・。モスレムの金曜礼拝は、キリスト教の「日曜に教会へ行く」と同じ意味を持つと、本で読んだことがあります。
「だから、うちの店でシャーイを飲んでいけ」
 もしかして、それがやっぱりそれが目的、きみも客引きか・・むむむ。
「行ってみる、もし、やってなかったら戻るであろう」
 わたしは、水がほしい犬のように、暑さでハアハアいいながら、再びエジプトエアに急いだのでした。
 途中のモスクの前では、大勢の白や水色のガラペーヤの男たちが例の五体倒地的姿勢で今しもお祈りのまっ最中。女の姿が見えないのは、何とも異様でした。
 さてエジプトエアは・・やっていました。
「我々のスケジュールに変更はない」
 窓口にいたチョウがつくほどハンサムな男は、断言しました。こんだけいい男のいうことは、思わず信じます、です。
 小僧のいうこと聞いてエライめにあうとこでした。

☆ ★ ☆ ★ ☆

トーマスクックで、TCを現金化してお次はエレファンチネ島です。
「トーマスクックのオフィスのお兄さんたちが教えてくれたローカルフェリー<公共のボートバス>乗り場の階段を降りるところで、フルーカ船長共にまたしても囲まれてしまいました。
 市中を歩いた感じでは観光客は少ないし、お客をゲットせんとする情熱はわかるけど、囲んでと通せんぼするヤツの船なんかには怖くて乗れんぜよ。
 船上はいわば密室ですし、わたしは今回はフルーカには乗るまいと決めていましたから、敵陣突破をしなくては・・とそこに欧米系のおじさんが「エレファンチネ島に行くのですか。わたしが送りましょう」と助け船。<サブーイシャレのつもりはありません>
 フルーカの船長たちも突然現れたおじさんの言葉にひきました。
 アメリカ人おじさんは「イシスアイランド」という中州の島にある高級ホテルのお客。ホテル専用ボートを寄り道で、エレファンチネ島につけてくれるというのです。
「今度のテロ事件であなたのお国は大変でしたね」
「いえ、あなたの国の人も亡くなったでしょう。いろいろの国の人が亡くなりました、本当に悲しいことです」
 そんな言葉を交わししているうちに着ました。
エレファンチネ島ではアスワン博物館とナイロメーターを見ました。
 博物館の裏にある「クヌム宮殿」遺跡も回りました。修復していない遺跡はほとんどがれきの山、でありました。
 帰り、今度こそローカルボートです。乗ったとたんに1エジプシャンポンド、の声。とりあえす、1を渡して「歩き方」を見れば「だまされないで、50です」とかいてあります。ここで大ゲンカ。
「50ペセタでしょう。50返して下さい。うそを言うのは悪い」
「それはエジプシャンプライスだ」
「でも、日本人も50ペセタでのったと書いている」
「ねあがりした」
「川岸に着いたらツーリストポリスにいう」
 わたしはそっぽを向いて怒った顔をして黙っていました。 
 川岸近くなって、男は険しい顔をして煮染めたような50ペセタを返してきました。
 勝った!!
 ローカルボートに外国人プライスはないのです。たとえ、50ペセタであろうとこういうやり方はすごくいやなのです、わたしは。許したくないのです。

☆ ★ ☆ ★ ☆

 真昼の太陽は容赦なく照りつけます。あ、アツウイ・・昼寝だ・・スーク<市場>を歩きながらアタマがもうろうとしてきます。
 危ないか・・腹にくるかも・・と思いながら「サトウキビジュース」を飲みます。我慢できないモン・・うままい・。
 香辛料<複雑怪奇な香り>、ガラペーヤ屋、ジュース屋、食い物屋、果物屋、野菜屋、土産物屋、パピルス屋、肉屋<つるしてあるので臭いがすごい>等々。とにかくスークにはなんでもあります。
 客引きたちがたむろして通る人を引き留めます。
「ニホンジン? バザールデゴザール、ミテイッテネ」
 バザール デ ゴザール・・ねえ。
 小柄な男の子がそういって色とりどりの香辛料屋の店先から飛び出してきます。
「ヤスイヨ、ヤスイヨ」
 うまいジャン。
 要らないというとその子は「サラバジャ」。
 アハハハ、誰だ、こんなへんな日本語をエジプト人に教えこんだのは。

 その後わたしはひとつの値切り買い物合戦を展開しました。エジプト綿の涼しい上着とズボンセットを購入することにしたのです。草色のそれは、袖はひじのところまであってゆるく、風が通ります。首もしまっていなくて涼しそうで、Tシャツよりすごしよさそうなのでした。スークのテントのお店にかかっていました。
初めの言い値は「60エジプシャンポンド」
「高いねえ・・ジャいらない」
「いくらだったら、買うんだ」
「20エジプシャンポンド」
「安すぎる、50」
「要らない」<店をでる 彼、追いかけてくる>
「ジャ、40」<帰りかける>
「25」
「30」
「さようなら」
「わかった、25」
 やったね。でもまあ、売るということは彼も損はしていないはず。わたしも最初の言い値の半分にするというテーマは達成できたし、大成功。
 このお洋服セットは重宝しました、その後。何しろ涼しいし、洗面所で洗濯しても一晩で乾くのです。毎日着ていました。

☆ ★ ☆ ★ ☆
 3時半、ホテルの部屋は涼しくて、たっぷりと寝ました。
 エジプトの昼下がりは「やっぱり昼寝が一番ゴージャス」でしょう。




>>>>>>>>>1月2日 本日のできごと>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
 
10時40分発の各駅停車で帰浜。水上、高崎と乗り継いで上野着15時36分。本が2冊読めた。昼寝もした。上越県境の美しい冬景色も楽しめた。大福も食べた。こういう旅が好きだ。青春18切符に感謝。

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2002年01月01日(火) 第九夜 アスワン行き夜行列車

 はじめ、アスワン行き列車、夜八時という連絡をもらっていたのに、後で10時に時間変更。心配だったので、八時でも間に合うように駅に行きました。突如変更、ありそう・・・な感じの国ですから。
中国やインドで、何回もソレで茫然自失したもんね。

 ラムセス駅までは地下鉄です。
 アラビア語酔いしそうなほどあのミミズ文字に悩まされるエジプトですが、地下鉄の駅名は英語表記で利用しやすいのです。
 のり方は簡単。自分の行く駅の料金を払って窓口で切符を買います。発券機はありません。
 地下鉄のラムセス駅に着いたものの、出口がいくつもあって駅への道が分からないと男性にきいたら、周囲に人垣.結局英語の出来る人がその「人垣山」から出てきてくれて無事にたどり着くことが出来たという次第。エジプト人さん、親切です。

☆☆☆☆☆

とりあえず駅インフォメーションでチケットを見せて時間確認。
「9時30分になったら、あのゲートにいけ」
 インフォメーションのおじさんは、ニコリともしないで八番口を指していいます。どうやら、10時発は確定みたいです。となると、待ち時間2時間あまりをどうすごすか・・・だよねえ。
 インフォメーションは駅のコンコースの真ん中にあります.あんまりすみに行くとかえって危ない気もするので、荷物と一緒に立ちんぼう。すると、何やら騒がしい声.駅の到着ホームのほうから男達がダッダダッダとスクラム組んで怒涛のように押し寄せてくるじゃありませんか。ポリスが付き添っていますが、男達の流れは怖いような勢いがあって、わたし私は暴動でも起きたのかと・・思わず、インフォメーションを囲う柵の中に逃げ込みました。それを目ざとく見つけた流れの男達の列がまがります。男たちの顔は笑っているのですが、何なの、これ.
 そのときやっぱりわたしの近くで人待ち顔で立っていた若いエジプト人の女の子が「大丈夫、怖くないわ」
「この騒ぎは何なの?」
「知らない、でも心配ないわ」
「あなたは、誰かを待っているの?」
 わかいきれいな彼女が一人で立っている姿はとても目立ちました.それもジーンズにシャツのカジュアルな格好で。あの長い衣装を着ていないのです。
「ええ、夫。わたし、結婚しているの」
また、男達のウワー、ギャワーと言う声がしてきました。
「また、もどってきた、あの男性たちは何をしているの」
「大丈夫、彼等は何もしないわ」
 やってきた男たちは1回目より増えていました.数百人はいるでしょう。集団は勢いがつくといつ暴走するかわからんよ・・と思うわたしは彼女のように「大丈夫」と無邪気にいえません。そういう時、旅人は絶対にターゲットになりますから。
「あなたはどこから来たんですか、この国は好きですか」
 また、また。この騒ぎの最中に。
「日本から。この国は、好き・・よ。みんな親切です」
 彼女の夫はソルジャーで今日は帰ってくる日なので迎えに来たこと、じぶんはまだ学生で将来は先生になりたいことなどを話してくれましたが、あの男集団がまた人数を増やして戻ってきたので気が気ではありません。
やがて白い軍服に身を包んだ彼女の夫がやってきました。りりしい若い人です。彼女とはお似合いのカップルです。
「あなたは、ここにいないほうが良いわ」
「ではカフェテリアに行きます」
 夫さんが、わたしの荷物を引っ張ってカフェまで連れていってくれました。やれやれ、です。
 でも、もうあの男集団は戻って来ませんでした。「おわった」ようです。
 あれって、何だったんでしょう。
 力があまっている若い男達のガス・パワー抜きをオマワリ付きで毎晩しているとか。駅構内三周マラソンとかって・・・。あの晩の、ラムセス駅男デモの意味or正体を知っている人は教えてください。

カフェテリアではシャイをオーダーしたのにお茶に加えて、ケーキとテッシュ、ミネラルウオーターが一緒についてきました。
「これは頼んでいません」
「ノウ プロブレン」
はあーー、アンタはそうでも、わたしには大ありだよ。きっと使ったり食ったりしたら課金するんだろうな・・・。まあ、一種の押し売り。
<他の人を観察していたら、そうでした>
 お茶一杯でねばった一時間半。
 感動したのは、わたしが2エジプシャンポンドと20エジプシャンポンドのお札を間違えて渡したら、ウエイターのおじさんが「間違っているよ」と、お金の説明をしてくれたこと。更には「間違えないように、気をつけて」と、注意までしてくれたことです。 
 観光客をだまさない誇り高いおっさんに出会いました。

☆☆☆☆☆

アスワン行き夜行特急一等車は横三人がけ。2つはつながっていて、1つが独立した一人がけ席になります。わたしのような一人旅には最適のシートです。外国人観光客が大方の車内は、戦争の影響で観光客激減の時期、空いていました。
クーラーがききすぎて寒かった・・・この電車を利用しようという人は寒さ対策を、と言っておきましょう。
乗り心地は可もなく不可もなく。トイレは汚いという噂でしたら、行きませんでした。
赤道前後十五度の国々と中国でトイレに期待をしちゃいけないというもんです・・。

朝、外を見るとまさにに田園風景でした。
土で作った家、日干しれんがを積み上げた建物、窓にガラスはありません。牛で耕作をしたり、らくだに荷をつけて運んでいます。ゴマの収穫期のようで刈り入れをしていました。
エジプト人がパンにつけるタヒーナという酸っぱいペースト状のジャム?はゴマで作ります。わたしはこれ、好物でした。

ナイル川が列車のすぐ脇を流れ、人が水浴をしています。
たか、ナイルは寄生虫がいるから水泳厳禁、足をつけるのもだめとガイドブックに書いてありました。友人の三枝子さんからもそういういわれたのですが・・現地人は泳いでた・・体にナイル抗体でもあるのかしらん。あれも不思議でしたなあ。

車窓から見えるカイロと全く違う生活ぶりにしばし見とれました。

途中ルクソールで大勢降りました。
アスワン11時半過ぎ到着。
もちろん遅れてつきました。
外は熱い、カイロよりもはるかにドアッと熱い空気が電車を降りたとたん、客引きのお兄さんと共に襲ってきました。



>>>>1月1日 本日のできごと>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
 
今年も平和に郷里新潟での正月。早坂暁氏脚本の「夢千代日記」をビデオで見る。
昼から雪だ。
甥のPCで遊ぶ。オタク系な甥のPCにはあやしげなソフトがたくさんはいっていておもしろい。

2002年から、こういう感じで「本日・リアルタイム版」も入れることにした。
「一年の計は元旦にあり」
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